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“鬼軍曹”山本小鉄さん急死
1998年1月4日、長州力引退試合の対藤田和之戦でレフリーを努める山本小鉄さん
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元プロレスラーで新日本プロレスの顧問を務める山本小鉄(本名・山本勝)さんが28日午前6時42分、低酸素性脳症により長野県軽井沢近郊の病院で急死した。68歳。現役時代は小柄ながらパワーあふれるファイトで人気を集めた。引退後は“鬼軍曹”として若手を厳しく指導する一方、テレビ解説などでも活躍した。通夜、告別式は近親者のみで行われる。
昨年の三沢光晴さん、今年5月のラッシャー木村さんに続きまたもプロレス界を悲報が襲った。
所属の新日本関係者によると、山本さんは家族と出掛けた軽井沢で28日早朝に体調を崩し、搬送先の病院で亡くなった。14日のG1クライマックス(両国)ではテレビ解説を務めていたが、関係者は「最近はあまり体の調子が良くなさそうだった。食べ物がのどにつかえる感じがすると言っていた」と話した。
山本さんは1963年1月に日本プロレス入り。67年1月に星野勘太郎(66)とともに米国に遠征した際には、当時現地で小型でパワフルと評判になっていたヤマハの自動二輪にあやかり「ヤマハブラザーズ」としてタッグで売り出した。
72年にはアントニオ猪木(67)らと新日本プロレスを旗揚げ。1メートル70、100キロの小型タンクのような体から繰り出すパワーファイトで人気を博し“和製(ディック・ザ・)ブルーザー”の異名を取った。80年の引退後はレフェリー、コーチを務め「鬼軍曹」として若手を熱血指導した。
山本さんの訃報を受け、この日全日本の両国大会のリングでは追悼の10カウントが行われた。新日本時代に指導を受けた武藤は「練習が厳しくて1週間してやめますと言ったら“もう少し待て”と言われた。自分の存在を認めてくれた人。あの一言がなかったら自分は存在しなかった」と故人をしのんだ。
なお新日本では9月3日の後楽園大会で追悼の10カウントを鳴らす。
◆山本 小鉄(やまもと・こてつ)本名・山本勝。1941年(昭16)10月30日、横浜市出身。横浜商卒業後、日本プロレスに入門し力道山の最後の弟子となる。同7月19日に北沢幹之戦でデビュー。71年12月、アントニオ猪木が日本プロレスを追放されると猪木に協力し、新日本プロレスを旗揚げ。80年4月4日に現役引退。
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