2010-08-27 09:42:01
グルーヴ・メロス・ミューズは愛です。【折田真樹連載 Vol.2】
テーマ:ブログ
その一 「メロスと九鬼周造」
今回は、「メロス」について書きます。
太宰治生誕101年。「走れメロス」のメロスという言葉が、太郎や次郎などの固有名詞ではなく、古代ギリシャから近代にまで至る重要な音楽美学用語であったことをご存知の方はどれほどいらっしゃるでしょうか。中学高校で太宰にはまりほとんどの作品は渉猟した斯く言う私も、一昨年(2008年)の5月までは全くの固有名詞だと思っていました。
一昨年の4月、私は文字通り脳みそから血が出る思いで、雑誌『ユリイカ』(青土社)に載せる原稿を書きました。ポイントは、ロシア聖歌の特徴である保続音の役割が、詩の脚韻のそれと似ている、ということでした。
「脚韻は残響、残像とともに時間の逆行感を示し、いわば時空を歪めながら『意味として把握できる領域』と『意味として把握できない領域』との架け橋となる」
ついでに申し上げると、頭韻より脚韻の方が、文の最後にあることで時間の逆行感がより強いのです。
そしてこの拙文を、活字として雑誌の中で読んだ時に、一度投げ出したある本(実際にはコピー、絶版で早稲田大学の図書館から借りてコピーしたもの)をもう一度開く気持ちになったのです。投げ出した、というよりは、期待はずれで最後まで読まなかった、というのが正しいのですが…。
その本は昭和6年に出された九鬼周造の『日本詩の押韻』(岩波書店、絶版)でした。再び読み始めたとたん、以前の私が少々誤解していたことがわかりました。その誤解の詳細については割愛しますが、要はこの論稿が、日本詩に脚韻を導入することへの全面的な肯定論であることを知ったのです。
実際彼の主張は福永武彦、加藤周一らの詩人によるマチネポエティカ(詩の夜明け)運動となり、当時の詩壇文壇に小さからぬ影響を与えました。この小誌は理論編と作品編に分かれ、理論編の締めくくりにこのような文章が現われます。
「この使命が果されたときに、すなはち λόγος が μέλος として目覚めたときに、初めて『言霊のさきはふ国』といふことが聊かの欺瞞なく云われ得るのである。」
ギリシャ文字に振り仮名も説明もなく、唐突の感は否めません。他の文章で説明しているのかとも思いましたが、どうもそうでも無さそうなのです。実際説明が極めて困難で、誤解を招くよりは一層唐突感で強調することを狙った、謂わばひとつのレトリックであると考える方が良さそうなのです。ギリシャ文字に不案内なものの聖書に親しんでいる私には、最初のギリシャ語が「ヨハネ福音書」の冒頭、「最初に言葉があった。」の「言葉」の原典である「ロゴス」であることは判りました。しかし、二つ目は判りませんでした。
すると、隣にいた盟友林正人(私とモスクワから聖歌譜を持ち帰り出版した典礼研究家)がすかさず叫びました。
「メロス!」
(つづく)
折田真樹
今回は、「メロス」について書きます。
太宰治生誕101年。「走れメロス」のメロスという言葉が、太郎や次郎などの固有名詞ではなく、古代ギリシャから近代にまで至る重要な音楽美学用語であったことをご存知の方はどれほどいらっしゃるでしょうか。中学高校で太宰にはまりほとんどの作品は渉猟した斯く言う私も、一昨年(2008年)の5月までは全くの固有名詞だと思っていました。
一昨年の4月、私は文字通り脳みそから血が出る思いで、雑誌『ユリイカ』(青土社)に載せる原稿を書きました。ポイントは、ロシア聖歌の特徴である保続音の役割が、詩の脚韻のそれと似ている、ということでした。
「脚韻は残響、残像とともに時間の逆行感を示し、いわば時空を歪めながら『意味として把握できる領域』と『意味として把握できない領域』との架け橋となる」
ついでに申し上げると、頭韻より脚韻の方が、文の最後にあることで時間の逆行感がより強いのです。
そしてこの拙文を、活字として雑誌の中で読んだ時に、一度投げ出したある本(実際にはコピー、絶版で早稲田大学の図書館から借りてコピーしたもの)をもう一度開く気持ちになったのです。投げ出した、というよりは、期待はずれで最後まで読まなかった、というのが正しいのですが…。
その本は昭和6年に出された九鬼周造の『日本詩の押韻』(岩波書店、絶版)でした。再び読み始めたとたん、以前の私が少々誤解していたことがわかりました。その誤解の詳細については割愛しますが、要はこの論稿が、日本詩に脚韻を導入することへの全面的な肯定論であることを知ったのです。
実際彼の主張は福永武彦、加藤周一らの詩人によるマチネポエティカ(詩の夜明け)運動となり、当時の詩壇文壇に小さからぬ影響を与えました。この小誌は理論編と作品編に分かれ、理論編の締めくくりにこのような文章が現われます。
「この使命が果されたときに、すなはち λόγος が μέλος として目覚めたときに、初めて『言霊のさきはふ国』といふことが聊かの欺瞞なく云われ得るのである。」
ギリシャ文字に振り仮名も説明もなく、唐突の感は否めません。他の文章で説明しているのかとも思いましたが、どうもそうでも無さそうなのです。実際説明が極めて困難で、誤解を招くよりは一層唐突感で強調することを狙った、謂わばひとつのレトリックであると考える方が良さそうなのです。ギリシャ文字に不案内なものの聖書に親しんでいる私には、最初のギリシャ語が「ヨハネ福音書」の冒頭、「最初に言葉があった。」の「言葉」の原典である「ロゴス」であることは判りました。しかし、二つ目は判りませんでした。
すると、隣にいた盟友林正人(私とモスクワから聖歌譜を持ち帰り出版した典礼研究家)がすかさず叫びました。
「メロス!」
(つづく)
折田真樹