東京五輪柔道無差別級の表彰式。金メダルを獲得したヘーシンクさん(中央)は、銀メダルの神永昭夫さんと握手で健闘をたたえ合った
東京五輪前に天理大で最終調整するヘーシンクさん=1964年9月
東京五輪の柔道無差別級決勝でヘーシンクさん(上)は神永昭夫さんをけさ固めで下し、金メダルを獲得した
アントン・ヘーシンクさんと妻ヨハンナさん=2006年4月、オランダ・ユトレヒト市
嘉納治五郎師範が「柔道の生みの親」ならば、アントン・ヘーシンクさんは「JUDOの育ての親」だった。
1964年東京五輪の無差別級決勝で、神永昭夫さんをけさ固めで抑え込み、優勝した。直後、喜んだオランダの役員が畳の上に靴のまま上がってくるのを右手で制した。
その時の思いを、こう語っている。「相手を尊敬していたからです。神永さんは敵ではなく仲間なのです。その前で喜ぶのは失礼でした。金メダルは(恩師の)松本安市先生、神永さん、私の3人で一緒に取ったメダルです」
創始者の嘉納の教え、「自他共栄」の精神を受け継いでいた。
34年、オランダ・ユトレヒト市生まれ。14歳で柔道の試合を見て、投げ技や礼儀に魅力を感じた。「やせていて、強くなりたかったのです」。戦後は建設現場で働きながら、練習に励んだ。
初来日は56年。松本さんが指導する奈良・天理大で修行し、61年パリ世界選手権の無差別級を制した。お家芸を脅かす「オランダの巨人」と言われたが、日本を第二の故郷と慕っていた。歌の十八番は美空ひばりの「柔(やわら)」や、フランク永井の「有楽町で逢(あ)いましょう」。知っている地名の一つは「仙台」。神永さんの出身地だからだ。
87年から国際オリンピック委員会(IOC)委員を務め、青いカラー柔道着を提唱した。日本からは反対されたが、見栄えと分かりやすさを考慮したアイデアは先見の明があった。「柔道はすばらしい。しかし発展のためにはスポーツと伝統の両方を受け入れていくべきだ」と訴え、世界の柔道界を引っ張った。
2006年春、故郷ユトレヒト市での取材で、質問したことがある。「もし天国で嘉納治五郎に会えたら、何を話したいですか」。ヘーシンクさんは、にっこり笑って答えた。「柔道を世界的なスポーツにすることが、嘉納先生の願いでした。私はそのお手伝いができたと思います」(渡部耕平)
アサヒ・コム連載コラムを通じて、釜本邦茂さんが訴えてきたメッセージが新書になりました。組織を有効に機能させるのは、最後は個の力である。その個をあえて「蛮族」と呼ぶ。サッカーを通してみた日本、そして日本人論が詰め込まれています。
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