日韓併合100年:金鐘泌氏が語る「対日請求権談判」秘話(下)
韓日強制併合100年、あすを語る
さらに、「当時、“国を売り渡した売国奴・李完用(イ・ワンヨン)”と罵倒(ばとう)される覚悟で交渉に臨んだ。その後、8億ドルの請求権資金で浦項製鉄(現ポスコ)を立ち上げ、高速道路を建設したのを機に、大韓民国の経済開発が始まった」と語った。
李元徳(イ・ウォンドク)国民大教授は、「当時の韓国は、アフガニスタンと同レベルの絶対貧困国だった上に、すべてが北朝鮮に遅れをとっていた状況だった。国民の反対にもかかわらず、政権の運命をかけて日本の資金を引き出し、経済正常化を試みたのは、韓国現代史で評価されるべき選択だ」と評価した。
金鐘泌元首相は「1961年、国家再建最高会議が韓日国交正常化会談を始める1年前の政府予算は400億ウォン、北朝鮮の一人当たり国民所得は124ドル、韓国は84ドルだった。世界最貧国の韓国には、当時、資源や資本はもとより、技術も経験もなかった。当然、貧しい韓国に金を貸してくれる国もなかった」と語った。
紆余(うよ)曲折の末、金元首相が「6億ドルプラスアルファ」という「金・大平メモ」の合意を引き出し、韓日国交正常化交渉の糸口を見出した。しかし、政府間での公式交渉が妥結の局面に入った1964年6月、ソウルでは連日「韓日協定反対デモ」が起こり、「朴政権は下野せよ」との反発の声が上がり、やがて6・3事態(朴正熙政権が非常戒厳令を発布し、デモを鎮圧した事件)へと発展した。
金元首相は、1960年5月16日にクーデタを起こした朴正熙勢力が国交正常化に取り組んだ背景について、「第1次経済開発の元金を用意し、日本列島を経て太平洋と大西洋に進出するための戦略的判断だった」と語った。また、「当時、朴正熙議長が“8億ドルカード”を訓令として指示するなど(二人の間で)緊密な協議が行われた」とも話した。
金元首相に、韓日国交正常化交渉を担当することで「親日派」と責められる懸念はなかったのかと尋ねると、「そのせいで2回も追放された。1963年に追い出された後、再び若者ら(大学生)が騒いだため追い出された。当時の障害物は請求権だったが、革命を起こした人でも“俺がやる”という人物がいなければ、朴議長に“わたしがやる”と伝え、結局、わたしが担当することになった」と話した。
韓国では、朴議長が最高会議を通じて「金・大平メモ」をすぐに承認した。しかし、欧州歴訪を終えて日本に帰国した池田首相は激怒した。大平外相は当時、「お前が首相か」という暴言まで浴びせられた。同年12月25日、ようやく池田首相はこれを受け入れたが、大平外相はクビにはならなかった。
金民培(キム・ミンベ)記者
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