前頭葉

前頭葉に損傷を受けると

 大脳は大きく前頭葉,頭頂葉,側頭葉,後頭葉の4つの領域に分けられます(図1)。その中の前頭葉には前頭連合野,運動野,運動前野があります。運動野,運動前野は運動の遂行や運動の準備に重要な役割を果たす部位です。それに対し前頭連合野は人を人たらしめ,思考や創造性を担う脳の最高中枢であると考えられています。正確にいうと前頭葉には前頭連合野とその他の運動関連部位が含まれますが,一般には前頭葉というと前頭連合野のみを指します。ここでは前頭葉を前頭連合野の意味で用いることとします。前頭葉は系統発生的に人で最も発達した脳部位であるとともに,個体発生的には最も遅く成熟する脳部位です。一方老化に伴って最も早く機能低下が起こる部位の1つでもあります。前頭葉には視,聴,触,味,嗅の各感覚それに体内情報と,ほとんどあらゆる外的,内的情報,しかも高次な処理を受けた情報が入っています。前頭葉はまた,運動系の色々な脳部位,さらに海馬,扁桃核などの大脳辺縁系とも密接に結びついています。前頭葉がどのような働きをしているのかについて説明する上で,始めにこの脳部位に損傷を受けるとどのような障害が起こるのかについて述べることにしましょう。

図1 人の脳を左側から見たもの
図1. 人の脳を左側から見たもの

(1)フィネアス・ゲージの例

 前頭葉に損傷を受けるとどのような障害が現れるのかを示すものとして,最初にアメリカ人,フィネアス・ゲージの有名な例をあげてみましょう。彼は親切かつ有能で責任感が強いと評され,線路工事の現場監督を務めていました。しかし 1848 年のこと,工事用のダイナマイトが誤って爆発し,火薬充填に用いる太さ約3cm,長さ約1mの鉄の棒が頭蓋骨を突き破るという事故に見舞われました。この鉄の棒はゲージの前頭葉を貫通してしまい,その結果,そこに大きな損傷を受けたわけです。このケガから回復した後,彼は全く人が変わってしまいました。

ゲージの主治医であったハーローは後に次のように述べています。「彼の身体的な健康状態は良好であり,彼は治ったと言いたいところである。しかし知性と衝動とのバランスは破壊されてしまったようだ。彼は発作的で,無礼で,以前にはそんなことはなかったのに,ときおりひどくばちあたりな行為に走る。仲間たちにはほとんど敬意を払わず,自分の欲求に相反する束縛や忠告にがまんがならない。ときおりどうしようもないほど頑固になったかと思うと,移り気に戻るし,優柔不断で,将来の行動をあれこれ考えはするが,計画を立ててはすぐにやめてしまう。——ゲージの知的能力は子供並みなのに,大人の男の動物的衝動も併せもっているのである」と。

 また,かつてのゲージは「バランスの取れた心をもち,仕事を極めて精力的かつ粘り強くこなす,敏腕で頭の切れる男として尊敬されていた」のに,事故以降はあまりに変わってしまったことから,彼を知る人たちからは「ゲージはもはやゲージではない He is no longer Gage。」と言われるようになってしまったのです。

このようにゲージは短気でおこりっぽく,頑固で移り気な人間になってしまいました。彼はもはや昔の仕事をする能力がなくなってしまい,自分をそのように変えてしまった鉄の棒と自分の頭蓋骨を見せ物にしてアメリカ中を渡り歩いたと伝えられています。彼の頭蓋骨(図2)と鉄棒(図3)は,現在ハーバード大学医学部の博物館に納められています。

図2 フィネアス・ゲージの頭蓋骨 図3 フィネアス・ゲージにつきささった鉄の棒
図2. 現在も保存されているフィネアス・ゲージの頭蓋骨
(by Webster S. Wyman, 1868)
図3. 現在も保存されているフィネアス・ゲージにつきささった鉄の棒(一緒においてある頭蓋骨は大きさを示すためのレプリカ)
(by Webster S. Wyman, 1868)

(2)前頭葉ロボトミー

図4 前頭葉ロボトミー手術の仕方
図4. 前頭葉ロボトミー手術の仕方 (Freeman, W. & Watts, J. Psychosurgery 1942, Charles C. Thomasより)。
上の図の頭蓋骨にあけた穴(黒い部分)を通してロイコトームと呼ぶメス状のものを前頭葉に入れ,下の図のように穴を支えにしてそれを上下に動かすことにより前頭葉を脳の他の部位と切り離す。

 ゲージの例で示されるように,前頭葉は人の精神生活にたいへん重要な役割を果たしていると考えられます。ところが,このように重要な働きをする前頭葉を切り取ってしまうという手術が一時期世界中で行われたことがあります。これが前頭葉ロボトミー手術(図4)と呼ばれるものです。現在のような向精神薬がなかった時代には,精神病の治療法として有効なものはほとんどありませんでした。そこで前頭葉を取り去ったチンパンジーがたいへんおとなしくなったという動物実験の報告に基づいて,強度の興奮あるいは不安症状を持つ精神病患者に対してこの手術が試みられたのです。手術により患者の症状が改善したと報告されたことから,1950 年代から十数年の間に世界で約5万人の人に対しこの手術が行われました。しかし,その後この手術を受けた人が,なにごとにもやる気がなくなり,外界に対して無関心,無頓着になること,反応性に乏しく,ものごとに注意を集中したり,状況を深く理解したり,推理したり,計画的に物事を行ったりすることが困難になること,感情が浅薄化し,節操がなくなり,時と場所をわきまえない言動が多くなることが明らかになりました。現在ではこの手術は全く行なわれていませんが,この手術を受けた患者の示す障害から,結果として前頭葉の果たしている役割について多くの情報が得られたわけです。

(3)ペンフィールドのお姉さんの例

図5 ペンフィールドのお姉さんの脳 図5. ペンフィールドのお姉さんの脳。 大脳を上から見たところ。上が前。右側の前頭葉が切除されている。 (Penfield, W. & Evans, J., Brain, 68, 115-133, 1935より)

前頭葉損傷によって生じる障害を説明するために,もう一つ,ペンフィールドという有名な脳科学者のお姉さんの例を紹介することにしましょう。彼のお姉さんは前頭葉に脳腫瘍ができたため,その切除手術を受けています(図5)。ペンフィールドはお姉さんのある日のことを次のように記述しています。

「彼女は私と彼女の4人の家族のために,夕食を用意することになっていました。彼女は食事の用意をとても楽しみにしていました。そのために,1日中かけて準備をしたのです。5人分の夕食を用意するなどということは,10年前の彼女ならたやすいことでした。

 ところが夕食の時間になっても,用意はまるでできていなかったのです。いくつかの鍋はまだ火にかかっていましたし,サラダもできていませんでした。肉料理に至ってはまだ手もつけられていませんでした。彼女は,長い時間ひとりで努力し続けていたのにそんな状態であることで自分自身当惑していました」。 料理は,ヒトがおこなう極めて知的な作業のひとつと言えます。献立を考え,必要な物をリストアップし,買い物をし,調理をするという一連の多彩な能力が要求されます。調理の部分だけとってみても,材料によって違った処理が必要で,個々の材料を処理する方法や,処理する時間,火加減,味付けなど考えながら,しかも,そのいくつかの作業を並行して処理しなければなりません。作った後にはできあがった料理をどのように美しく盛りつけするか,どのような順序で出すのかも考える必要があります。彼女は,このような順序だった行動の組立をする,つまり段取りをうまくとる事ができなくなってしまったのです。

以上,前頭葉に障害が起こるとどのような症状が生じるのかについて,フィネアス・ゲージの例,前頭葉ロボトミー,脳科学者ペンフィールドのお姉さんの例について紹介しました。前頭葉に障害が起こると知性とともに,意欲,パーソナリティーにも問題が生じることが示されました。次にはこうした障害の中でも最も重要な「知的機能」に焦点をあてて前頭葉の働きについて述べることにしましょう。