【その時の今日】永遠に癒やされない傷、庚戌国辱
  



   1910年8月29日。 徳川幕府末期にすでに芽生えていた征韓論が物語っているように、明治維新(1867年)以後に近代帝国主義国家に生まれ変わる前から、この地をのみ込もうした侵略者は宿願を果たした。 半面、私たちは35年後の8月15日、光復(解放)のその日が来るまで、有史以来初めて国土と民族が、従来一枚下だと見下げていた文化的劣等者に踏みにじられる痛恨の歴史を刻んでしまった。

  「合併後の日本の朝鮮統治政策を見ると、合併時の宣言に反して、吾族の幸福と利益を無視し、征服者が被征服者に対する古代の非人道的政策を襲用し、吾族に参政権、集会結社の自由、言論・出版の自由などを許さなかった。 さらに信教の自由、志業の自由までも少なからず拘束し、行政・司法・警察などの諸機関が朝鮮民族の私権までも侵害し、吾族には永遠に国家生活に必要な知能と経験を得る機会を与えず、吾人は決してこうした武断専制と不正・不公平な政治下で生存と発展を享有できない」。1919年、自らを「2000万の民族の代表」とした東京留学生たちの「独立宣言書」は、日帝が私たちから何を奪っていったのかを一つひとつ語っている。

  当時、植民地朝鮮の政治が近代的に発展したように宣伝したが、ある程度の基本人権と参政権を保障した明治憲法ではなく、総督の制令を適用し、言論・結社・集会・出版の自由を完全に踏みにじったのがこの地の実像だった。 3・1運動後、「文化政治」を掲げた日帝が一抹の基本権を許したが、出版や集会がある度に義務化された事前検閲と警察臨検が示しているように、これは政治ショーにすぎなかった。 1925年に治安維持法が施行されると、この制限された自由までが蜃気楼になってしまう。

  この地の人々が民族を単位とした国民国家の主人になることを熱望したその時。 日帝は私たちの政治的権利と自由をはく奪し、自主的民主政治に必要な経験を積むことを防いだ。 それだけでなく、今日の私たち市民社会の慢性病である亀裂の二分法も、指導者と民衆の間の相互不信と反目を助長した日帝分裂支配(divide and rule)政策の遺産であり、南北分断も、日帝が背負うべき侵略戦争の罪を私たちが代わりに抱えているのだ。 一度かすめて通り過ぎる痛みではなく、今でも私たちを苦しめている、癒やされない傷を残した強制併合100年を迎える今日。 不幸な過去の歴史を越えて、韓日両国の人々が共存の道に進んでいくための最初の踏み石となる、日本人の心からの謝罪と省察を、私たちの市民社会は今も渇望している。

  許東賢(ホ・ドンヒョン)慶煕(キョンヒ)大学学部大学長・韓国近現代史


この記事を読んで…
関連ニュース

    新着ニュース