FIELD EYE 青木 佳孝(#47 DB)
信頼の最終防衛線
ディフェンスラインが相手の勢いを止める最前線、ラインバッカーがそれを突破してきた敵を向かえ撃つ遊撃軍とすると、DB(ディフェンスバック)は最後の砦とでも言うべき存在だ。DBの後ろに味方はいない。つまりDBが相手のランニングバックやワイドレシーバーを止められなかった時、それは得点を許すことを意味する。そのDBのポジションにコーチ兼任のベテランがいる。名前は青木佳孝、背番号47。サイズは178cm・71kg。取り立てて大きい訳でも、身体能力に優れている訳でもないが、鋭い読みと的確なポジショニングでチームからの信頼は非常に厚い。
青木は大阪府池田市出身。子どもの頃は野球少年だった。中学の頃の打順は9番で、ポジションはライト。「その頃から身体能力がある訳でもなかった」という青木は、野球に見切りをつける。そして高校進学の際にNFLの中継を見て、かっこよかったからという理由で、アメリカンフットボールをやろうと決意する。「やるなら試合にも出たいし、日本一にもなりたいと思っていた。それでアメリカンフットボール部のある関西大倉高校にしました」。
青木のポジションは高校時代からずっとDB。入部した時も「希望ポジションはDBでお願いしますと言ったそうだ。「本屋さんでルールブックを見て、『あ、ここがいい』と思ったのがDBでした」。しかし、なぜDBだったのか。普通はボールを持つ機会の多い、攻撃的なポジションを希望するはずでは?と聞くと「ネガティブな子だったみたいで(笑)、野球を経験していると花形のポジションは選ぶものではないと。ライバルが少なくて、とにかく試合に出てレギュラーで日本一を経験したいという考えだったので、ディフェンスならば人数が多くないだろうと考えました(笑)」
青木の読み(?)は当たり、DBは先輩が少なかったこともあり、高校2年生から試合に出られるようになる。しかし、試合に出られて嬉しいと言うよりも、アメリカンフットボールがどういうものかよくわからずプレーしていたと言う。「面白さよりも、先輩たちが恐いので、ミスしないように必死にやっていた感じでした」という青木だが、忘れられない苦い記憶がある。高校2年の大阪大会。この試合、4thダウン25ヤードの場面で、青木はマンツーマンでカバーしていた相手にパスを通されてしまう。結局これが響き、関西大倉高校は大阪大会で敗退となった。
「アメリカンフットボール人生の中で、あれが一番ショックな出来事でした。それが非常に悔しくて頑張ろうと思った」という青木。その後、3年生になると春の関西大会で関西学院高等部に負けたものの準優勝。秋は決勝でその関学に試合終了直前で逆転してのリベンジ。「春の決勝でボコボコにやられた関学に勝てたことが、ものすごく嬉しかった。自分も最初のシリーズでインターセプトもしましたし」。そして関西大会の優勝校と関東大会の優勝校が対戦するクリスマスボウルに進んだ。日大三高に負けたが、青木は関西の強豪、立命館大学から誘いを受けることになった。
立命館に進んだ青木は大学2年から試合に出場するようになる。2年の時には学生日本一になるが、ライスボウルでリクルートシーガルズ(現オービックシーガルズ)に敗戦。3年生では関西学生リーグで負けて2位。4年でも関西3位に終わる。大学卒業後、「父がパイロットだったので、自分も航空関係の仕事に就きたかった」という青木。アメリカンフットボールをやめるつもりだったが、富士通からの誘いがあり、社会人で続けることを選択する。フロンティアーズでは、1年目から試合に出場できた青木だが、ケガもあり徐々に出場機会が減っていった。
「モチベーションも下がって、自分はもう必要とされてないと感じたというか、ちょっと精神的に弱っていた」という青木は2005年シーズンを最後に引退してしまう。2006年はフロンティアーズでコーチをしながら、航空関係の仕事に就く夢を忘れられず、専門学校にも通った。しかし、国家試験には不合格。これで「スッキリした」という青木は現役復帰を考え始める。そして、「コーチをしていると『自分だったらこうするのに』という想いが強かった。それなら、自分でやろうと決めました」。2007年シーズン、28歳でフィールドに戻る決断をする。
コーチ兼任で復帰した青木だったが、逆に出場機会は増えた。サイズもなく、特別な武器を持っていないが、「DBとしての感覚、フィーリングはそれなりのものを持っていると思う。ここに来そうだとか雰囲気を感じることがある。あとタックルは自信があったので、そういうところが評価されているのでは」と青木。インタビューに同席したマネージャーも「派手なイメージはないですが、『そこで誰か止めて!』と思うところに青木さんがいる」と語る。青木自身も、「もともとクイックネスもないので、あまりボールに絡めない。だからインターセプトとかではなく、危険なところを止めるというのが、僕の中で凄く満足できるプレーです」。
最後にDBコーチの立場から聞くと、「フロンティアーズのDBは凄く主体性を持っているし、チームのことを考えて引っ張ってくれるメンバーが多い」と評価する一方で、試合に出ているメンバーがここ数年固定されており、若いメンバーの育て方が難しいと言う。現在、DBは14名だが、レギュラーは4名。「DBの特徴ですが、1つのミスが失点に直結してしまうポジションなので、なかなか『ミスしてもいいから行ってこい!』という使い方がしにくい。そこは非常に危惧しています」と青木。
青木はさらに続ける。「DBのメンバーに上手くなってもらいたい。僕はもう先長くないアメリカンフットボール人生なので(笑)、試合には出なくてもチームが優勝できればいいと思っている」。青木はプレーヤーとしてより、コーチとしての役割を強く意識している。「これからのフロンティアーズを背負っていく若いDBのメンバーが上手くなってくれること。それが僕の一番の役目であり、僕自身の目標です」。と言う青木だが、これから強豪との対戦が続くシーズン終盤、誰もが悲鳴をあげそうなチームのピンチを背番号47が飄々と救う、そんなシーンが見られるはずだ。
- 青木 佳孝
- (あおき・よしたか)
- DB(ディフェンスバック)
- 47
- 背番号は高校時代から47番の青木だが、途中で違う番号も付けていた。「大学3・4年では上手い先輩の番号21を付けていましたが、似合わないと思っていました。フロンティアーズに入った時は47番を付けたかったのですが、嶋さん(現フロンティアーズGM)が47番だったので43番。引退されてから47番を付けるようになりました」」
- 現役復帰した2007年、チームは社会人日本一を決める「JAPAN X BOWL」に出場するが、残念ながら青木はインフルエンザで欠場。「ビシッっとしないんです。僕のアメリカンフットボール人生(笑)」
- マネージャーいわく、「あまり怒っているところは見ない。練習中も試合中も」。コーチなのに怒らなくていいのですかと聞くと、「いあやー、怒るようになるのが、僕の課題かもしれないですね(笑)」
- 2歳と0歳の2人の男の子の父親である青木選手。「上の子は僕に似たのか、後ろへ、後ろへ。人がいると一切騒がない。人見知りですね。公園とかに連れて行っても、人がいるからって言って遊ばず、人がいなくなったら騒ぎ出す感じで、あぁ〜似たなと(笑)」
- 片づけが下手で、料理も全くできず、家事をほとんど手伝えないと言う青木選手。「そのへんは凄く感謝しているので、なるべく子どもを散歩に連れていって、嫁が楽できるようにしています」
- 奥さんは料理上手。「例えば本を見て『これを作って』と言うと美味しく作ってくれるので、良いセンスしているなと思います」。ちなみに青木選手も本を見て料理に挑戦したが、美味しくなかったそう。「だから改めてセンスあるなというのは感じましたね(笑)」
- シーズンに入ると時間はいくらあっても足りないと言う。「特に練習の準備で夜11時、12時まで作業があり、次の日の寝不足感はものすごいです(笑)」。なかなか体調万全で練習に望むことができないのが大変そうだ。頑張れコーチ!
取材・文/NANO Association