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2010年8月9日(月曜日)

被爆65周年の長崎で、田口長次郎先生のお墓に参る

夏の午後、強い日差しに、赤いカンナの花が燃えるようだ。濃い緑色のカンナの大きな葉がかすかに風に揺れている。
長崎市内桜馬場の春徳寺、カンナの花の側をそっと抜けて田口長次郎先生のお墓まで歩く。
長女の昌子さんの話では、田口先生も亡くなられて、すでに31年を過ぎたそうだ。
なんと30年ぶりの墓参になった。
たしか、先生は明治27年生まれなので亡くなられたとき86歳だった。
矢の平のご自宅で電話をかけながら、そのまま倒れられ息を引き取られた。
当時、若かった私も奥様からすぐ連絡を受けて駆けつけた。
その夜、先生の死に顔の髭を私は剃らせていただいた。余談だが亡くなっても髭は伸びるものだと驚いた記憶がある。
私にとって、当時の先生はかけがえのない存在だった。
先生は衆議院議員7期、参議院議員1期を勤められ、当時長崎では誰一人知らない人はいないほどの政治家だったが、温厚な優しい慈愛溢れる人柄だった。
今も長崎の立山の知事公舎の前に田口長次郎先生の「水産に生涯を捧げた人」としての等身大の顕彰碑が残されている。
そこには次のような次のような一節が刻まれている。
「・・・氏の政治活動は常に清廉にして潔白、しかも誠実を信条として終始した。特にわが国水産行政に対する氏の信念と情熱は、何人といえども追随を許さざる確固不動のものであり、複雑困難な国際問題の解決は勿論、国内的には各種水産に関する法律を制定して、水産振興の基礎を築いた。その功績は偉大であり、その足跡は不滅である・・・・」
私が政治家を志したのも、先生に勧められてからのことだった。

 

何食わぬ顔で、「東京に行こう、君もついて来たまえ」と言われて上京していきなり連れて行かれたのが竹下登(元総理)さんのTBRの事務所だった。
驚いた。田中角栄さんの全盛時代に「・・・・・・10年たったら竹下さん・・」と自ら唄っていた将来日本のリーダーとしての最も勢いのいいときの竹下さんだ。
なんとも一青年の私にはまばゆかった。
「いい青年がいる。将来政治家にしたいと思うが、君のところに連れてきた」と田口先生が切り出される。
何の打ち合わせも無く、突然の話に私は慌てた。
そのあと、竹下事務所を辞して、田口先生が私に次のように語られたのを今でも鮮明に覚えている。
「・・・・・私は政治家としてこの地球上に小さな痕跡を残したい。そういう思いで政治をこの年まで頑張ってきた」と淡々と語って私に政治家への道を説かれた。
人として生まれ人生を生き抜くに当たって、それがかなえられれば本望である。
当時37歳だった私は感動して舞い昇った。
私にはもう一つの事情があった。
五島で牧場を開いて牛を400頭ほど豚も年間8000匹から出荷して畜産経営と悪戦苦闘の連続だった。
生産者がコストを決められない、相場に依存しているのはなんとも納得できずに、とうとう自ら牧場直営の肉屋6店舗、長崎県庁前で牛丼屋さんまで開いたが、うまく行かない。
このままでは、日本の農業は潰えてしまう。
農政をやってみたい。
私にとって例えどんな小さなものであっても、この地球上に痕跡を残すことができたら、生きていく証としてこんな嬉しいことはない。
強い気持ちが湧き上がってきた。

それから一月もたたない、昭和54年(1979年)5月4日、突然田口先生が亡くなられた。
普通であれば、この話もそのままで終わるところだろうが、田口先生の死を境に私自身の中では、政治家として次の総選挙に挑戦したいといった気持ちが次第に醸成されていった。勿論、迷いもある。なにせ地盤も看板もお金も無く相談する人もいない。
親にも、兄弟に話しても反対されるに決まっている。ましてや家内は幼い子供たちを抱えて絶対に許すはずが無い。
ところが、ロッキード事件に端を発して政局も混迷を深め、大平内閣が消費税導入を唱えたことで急展開して9月7日には解散に至った。
私は意を決した。
家内が次男勝彦の出産で入院している最中の7月、家内にもお袋、姉弟にも一言も相談することなく、記者会見して衆議院に長崎から出馬することを表明したのだ。
徒手空拳の戦い。それからがさらに大変なドラマが展開することになる。
1993年に4回目にしてようやく当選を果たし、5期目のこの6月に私は念願の農林水産大臣に就任できた。
田口長次郎先生に勧められて、いつしか31年の歳月を経ていた。
今日、長崎の被爆65周年平和記念式典に参加して、そのまま田口先生のお墓におまいりすることができた。
感無量。私にとってこの31年、廣野を駆け巡る夢のような歳月であった。
・・・・・・そして、この1月、散々苦労をかけた家内の幸子も亡くなった。

クマゼミだろうか。ひときわ蝉がやかましく泣きたてている。境内には赤いカンナの花の横に、黄色いカンナの花が、ひっそりと咲いている。


2010年7月26日(月曜日)

広島県、庄原の豪雨被害に衝撃を受ける

昨日の夜半、広島に着いた。車中、新幹線の中でも窓からむらくもひとつない満月を眺めることができた。梅雨も明けて夜空も澄み渡っている。
私の心の中にいろいろな想いがよぎった。
来る日も、来る日も激しい雨が降り続く中での口蹄疫での殺処分・・・・、雨との戦いで恨めしかった。
今夏の梅雨、異常ともいえる豪雨はいつになく激しく農林関係の被害額でも400億円を超えることがわかってきた。
私も農林水産大臣として、今回の豪雨被害で農地山林が最も激しかった広島県の庄原市を訪ねることにした。
現地は中国山脈の山腹、島根県との県境に近いところで、行くまでにかなりの時間を要した。
早速案内していただいたが、庄原は亀井静香先生の実家のあるところで、奥様にも迎えていただいた。
亀井先生の実家のあるあたりまでは、何処とも変わらないのどかな里山の田園風景が続いていたが、一つ谷を越すと状況は一変した。
山肌は赤茶色に幾筋も引き裂かれ、田んぼは折れた木々土砂で埋まっている。集落の家々も土石流に押しつぶされて見るも無惨な状況だ。
被災にあって10日もたつのに、まだ手をつけられないような惨状にある。
「あの屋根だけ残った家があるでしょう、あの屋根の三角形になったところに、逃げていて家族3人は助かったのです・・・・・。行方不明者の一人は、あの家の方に電話で助けを求めたそうですが、自分も危なくてどうしようもなかったそうです」
話を聞いているうちに、私はかつての長崎大水害のことをまざまざと思い起こした。
あの時も凄かった。
当時、私の家は長崎市の中島川の上流にあって庇が川に突き出していた。そこに1時間に180ミリと言う記録的な集中豪雨で、どっと濁流が流れ込んできたのだ。
私自身は長崎市の繁華街にある中華料理店で宴会中だったが、あまりに雨が激しいので不安になり帰ることにした。路上に出るが、そこも叩きつけるような雨で歩くともできない。
ようやくタクシーを見つけて自宅のある「蛍茶屋まで行ってくれ」と頼んだが「あそこは大変です、とてもいけない」と断られる。
たまらなく不安になる。
歩くうちにみるみる水かさが増してきて、私も近くのホテルに飛び込んだ。
当時は携帯電話などない。
赤電話から自宅に電話を入れる。家内が電話をとる。
「大水で危ない、すぐ子供を連れて逃げろ」と叫ぶ。
「何を慌てているの・・・・・あっ大変」それで電話は切れてしまった。
濁流は勢いを増して水かさがあっという間に、私のいるホテルの一階部分はあふれてしまい私たちも2階へと逃れる。
子供たちのことが不安でならない。
荒れ狂う濁流を見ながらまんじりともしない一夜を明かした。
・・・・・・あとで聞いた話だが、家内はその直後、濁流が家の中に流れ込んできたので、慌てて生まれて間もない子供を背負って、3人の子供の手を引いて家を出たそうだ。
近所の人に誘導していただいて、高台に避難することができた。
災害は本当に怖い。
庄原の皆さんも恐怖の一夜を明かしたに違いない。
集まった部落の人達は深刻な表情で土砂に埋まった田畑を指し示して、私に語る。
「このままではここに住めません。もう一度、この集落で農業をやれるようにしてください。そうでないと、私も子供も路頭に迷うのです。ここを出て行かなければならないのです」
年のころ50代半ばだろうか、集落の農業の担い手に違いない。このような方に日本の山村で農地を集落を守っていただいている。
私は農林水産大臣として、復旧工事を急いで、このような僻地の農業を守らなければならない。


2010年7月18日(日曜日)

薦田さんの種牛6頭の殺処分に、心から感謝。

今朝、午前零時、児湯地区、川南町での口蹄疫での移動制限がすべて解除された。
ほっとする。
口蹄疫もここにきて、ようやく終息を迎えようとしている。
思うに、いろいろなことがあった。先のブログでも殺処分の現場を書いたが、家族同然の健康な牛、豚を13万頭もワクチンを接種して殺さなければならなかった。
まさに殺す方も、殺される家族も地獄絵そのものだった。
多くの犠牲を払って今日に至ったのだ。
最後に残された種牛6頭、この薦田さんの種牛を東国原宮崎県知事は、分厚い嘆願書を手にして私に迫った。
「大臣、薦田さんが無償で宮崎県に譲渡すると言っているので、殺処分の例外を認めて欲しい。宮崎県にとっても種牛の資源が欲しい・・・・・」
「知事さん、話が違う。先日私が宮崎を訪れたときも特措法にもとづいて、早く薦田さんの6頭の種牛を処分して欲しいとお願いした。何をぐずぐずしているのですか。貴方もきちんとやるので、このことはマスメディアには内緒にして欲しいと言った。
今になって何を言い出すのですか」
私は怒った。
「・・・・・これ以上殺処分を強行したら薦田さんが自殺する。私にはできない」
「知事さん、貴方は特措法にもとづいて、すでに殺処分の勧告をしている。このまま放置すれば違法な状態になる。それは許されない」
「国は、周囲に家畜がいない現在では特例を認めるべきで、そうしないのはおかしい」
東国原知事は開き直っている。
私もリングワクチンを決断した政治家として、日本が国際的にも口蹄疫清浄国と言える責任がある。
そうでなければ、牛肉の輸出もいつまでもできないことになり、さらに現在進行中の南米諸国とのEPAの交渉でもは貴国は口蹄疫汚染国だから、貴国からは生肉の輸入はできないといえなくなってしまう。
さらに東アジアで口蹄疫が猛威を振るっていてウイルスそのものが絶えず進化している。さらに強い伝播力をもつウイルスが、近い将来日本に入ってくることは避けられない。
そのような時、例外を認めていては再びワクチン接種しなければならない場合に応じる人がいなくなるおそれがある。
ここは譲れない。
法令上もワクチン接種地区の偶蹄類はすべて殺処分することになっている。
「・・・・・どうしてもやれないなら、国としては地方自治法のもとづいて代執行も辞さない」
「・・・・・・・」
東国原知事との会談は物別れに終わった。

もともと、このことは当初から心配されていた。
薦田さんは、熱心に種牛の育成に取り組んだ地元でかなり知られた方で、民間でも品評会で優勝するなどの実績を上げていた。
ところが宮崎県は薦田さんの種牛をこれまで宮崎牛のブランドとすることも認めず、精液の扱いも差別されて県とも裁判をするなど複雑な状況にあった。
当時、現地対策本部長として、燃え盛る口蹄疫を封じ込めるにはワクチン接種するしか他に方法がないと決断したときに、私が一番気になったのが薦田さんの種牛だった。
果たして薦田さんは、県の説得に応じてワクチンの接種に応じて殺処分してくれるだろうか。
そのためにも、必要がないという赤松農水大臣に、薦田さんの種牛6頭の話を持ち出して、強制殺処分ができる法案「口蹄疫対策特別措置法」を急遽、先の国会で成立させたいきさつがあった。
知事との会談のあと、私は自分の中で、ひそかに決意した。
薦田さんの気持ちは、かつて牛を飼っていた私にも痛いほどわかる。西都市の橋田市長が私に吐いたように「・・・・・そうなったら大臣の手で殺してください」、私が大臣としてやらなければならない。
やる前には薦田さんと、時間をかけて話し合ってみたい。・・・・きっと分かってくれるはずだ。

その2日後、東国原知事が薦田さんを訪れて殺処分をお願いして、薦田さんも苦渋の決断をしていただいた。
ありがたい。
神に感謝。
これで胸を張って日本は口蹄疫清浄国だとOIEに主張できる。


2010年7月5日(月曜日)

口蹄疫での27万頭の牛、豚の殺処分、埋却が終わる

7月1日

 


あの時は大変だった。
6月9日、農水大臣に就任して間もない翌日の午後、大臣室に平尾消費安全局長が飛び込んできた。

「大臣、大変です。ついに都城で牛236頭に口蹄疫が発生したようです」
「写真判定では・・・」
「今やっているところでは、クロのようです」

今まで事前の写真判定で狂ったことはない。ついに一番恐れていたことが生じた。
私はすぐに受話器をとって、都城市の永峯市長の携帯に電話を入れた。

「・・・今動物衛生研究所に検体を送って、PCRの検査を待つところです」
「写真判定では口蹄疫に間違いない。すぐに殺処分を始めてくれ。埋却地はあるだろうか」
「本当ですか、・・・・・・埋却地はあるはずです」

市長も、私からの突然の電話に驚いた風だ。私は副大臣時代の先月、都城市を訪ねて、この勢いの口蹄疫の広がりは畜産県、宮崎の本丸都城まで行くのは時間の問題なので埋却地を探しておいて欲しいと頼んでおいた。
永峯市長の対応も早かった。すぐに200人からの職員に動員をかけて動き出した。
「宮崎市でもワクチン接種の外側での発生が写真では判定できます」
再び平尾局長から、今度は電話だ。
私はすぐさま宮崎市の戸敷市長の携帯に電話を入れた。

「・・・・・間違いない。すぐさま殺処分に入って欲しい。投光機は用意する。

今晩中に埋めてもらえないだろうか」
「・・・・・・わかりました」

何回か現地でお逢いしたが真面目な市長さんだ。必ずやってくれる。
そうこうしているうちに、また電話が入る。

「西都市でもワクチンの外側ではその発生が写真でわかりました」
「牛か、豚か」「牛です」
「何頭だ」「580頭です」

私も慌てた。西都市の橋田市長の携帯に電話を入れる。

「すぐ、殺処分して明日までに埋めてくれないか、すぐに獣医も手配する」
「大臣、580頭の牛を一晩で殺処分して埋めてくれなんて、とんでもない話です」

電話の向こうで、市長が血相を変えて噛み付いているのがよくわかる。
私も一昨日まで現地にいて、一つの殺処分現場で朝から夜までで、牛で最高200頭までしかできないことは、よくわかっている。

「無理を承知でお願いしているんだ。何とかやってくれ、ここがヤマだ。君なら必ずできる・・・・」
「・・・・・・わかった。私も宮崎大の畜産の出身だ。やってみます」

元気のいい市長さんだ。市長はすぐさま飛び出して現地に向かった。
ほどなく、現場から重機を入れて穴を掘り始めたと市長からの連絡があった。
また、平尾局長が飛び込んでくる。

「日向市でも牛に口蹄疫が見られます」

ワクチンを接種して児湯郡で何とか口蹄疫を封じ込めようとしているのに、次から次にワクチンの外側で発生している。
これは大変な事態になった。このままクラッシュするのではないだろうか。
私も緊張する。
もう午後6時を回っている。遅いが、日向市長の携帯に電話を入れる。自宅に帰られていたのだろうか。

「明日、殺処分にかかります」

と黒木市長は電話で答える。

「市長、一刻を争う緊急事態だ。何とか今晩から殺処分にかかってくれないか」

私も強引だ。

「・・・・・・・・・」

日向市長はその夜10時には職員を集めて、現場に急行してくれた。

翌日、新たに発生した口蹄疫の患畜、擬似患畜の殺処分、埋却をすべて完了した。
なんとも、奇跡に近い離れ業だったと言える。
私も、副大臣時代に現地の口蹄疫対策本部長として3週間、宮崎で市長さん方とも何回かお逢いしているうちに、お互いに信頼しえる仲になり、直接携帯電話の交換もできていた。それで、無理をお願いできたのだろうか。
有難かった。
その後、新たに国富町、西都市でワクチン接種の外側での発生があったが、すべてすぐに殺処分、埋却した。
13万頭に及んだワクチン接種家畜の殺処分、埋却も6月30日をもってすべて完了した。
現地では激しい豪雨の間を縫っての作業で、ユンボが転んだり、土砂が崩れてきて、人が生き埋めになりそうになったり、骨折などの負傷事故も続出した。牛に蹴られて片目失明の獣医師さんも。大変な作業だった。
なかでも、ワクチン接種の獣医師さんのひとりは、睨みつけられるだけでなく、奥さんから茶碗を投げつけられたと言う。
私も殺処分に立ち会ったが、日頃家畜の病気を治していく獣医師が、自ら健康な牛豚を殺処分するのは、たまらない思いをしたであろう。
激しい雨の中、穴を重機で掘って、殺処分した牛を積み重ねているところに年配の女性が飛び込んで「私も一緒に埋めてくれ」と叫んだと言う。
大きな犠牲を払った。

そしてあれ以来、都城市では新たな発生はなく、周囲3キロの畜産農家96戸の牛、豚の抗体検査をしたが、結果としてすべて陰性だった。
今朝、零時には清浄化できたとして、周囲10キロの移動制限、20キロの搬出制限区域の解除ができた。その他の地域でもほぼ2週間、新たな発生の報告は聞かない。
それにしても、ほっとする。
今回、いろいろなことを学んだ。
口蹄疫は恐ろしい病気だが、家畜に異常を見つけてデジタル写真をインターネットで送ってもらえれば、すぐにPCRの検査をするまでもなく判定できる。そして24時間以内に殺処分、埋却できれば大丈夫だ。
しかし、まだ油断はできない。
川南地区には大変な量の糞尿の中には、生きた口蹄疫ウイルスが活発にうごめいている。
いつなんどき、何処に飛び火するかわからない危険な状態にあることには変わりない。
ここで、気を緩めずに、もう一度しっかりと消毒をして、児湯地区の清浄化に向けて頑張らねばならない。
私は急遽、都城市そして隣接する鹿児島、南九州の大畜産地帯に赴くことにした。
都城の永峯市長さんと先ずは、都城市で清浄化したことの喜びを分かち合った。
そして今後も、気を抜かないで、対策に取り組むことを、しっかりと話し合った。
帰り際に、永峯市長かはれやかに私に語った。
「大臣、あの日は都合8回も殺処分はまだできないかと催促の電話が携帯にありましたよ・・・」
確かに、あのときがヤマだった。


2010年6月25日(金曜日)

学生時代の青春に戻る

学生時代、・・・・・皆それぞれに青春の思い出がある。
私は蕎麦屋の2階で「早稲田キャンパス新聞」を創刊した。20数年続いたがそのときの後輩の一人、村山創太郎君が今度、日本放送の社長に就任した。
嬉しいものである。東洋経済の社長を最近までやっていた同じ後輩の高橋宏君の紹介だろうか、東洋経済ビルのホールで、私の大臣就任祝いも兼ねてかつての悪童どもが30人ほど集まった。
それぞれに齢は重ねてきて、髪も白くなってきたが多士済々の面々だ。
日経新聞の局長まで勤めて、今では企業格つけ会社の社長もいれば、慶応大学の教授もいる。
品川の商店街の事務局長もいる。
なんとも懐かしい。
卒業して30数年は経ているのに、よく顔を見るとちっとも変わっていない。
近況よりも、学生時代の話に戻った。酒も久しぶりに弾む。
それぞれに勝手なことを語り始めた。
「バンチョウ、おめでとう・・・・・・・・」皆が喜んでくれている。
ちなみに私は学生時代皆にバンチョウと呼ばれていた。番長と野蛮人の長とをもじったものらしい。
後輩の植松百合子が立ち上がった。
「バンチョウに昔、百合っぺ、人生で何が一番大切であるかわかるかと聞かれたことがあった。何ですかと聞いたら、それは誠実に生きることだと言われた。
今でも忘れられない。あのころのバンチョウは美しかった。テレビで見ても、今も変わらず誠実で美しいと思う」
他人に、美しいと言われたのは初めてで驚いたが、私自身そのようなことを言ったことなどすっかり忘れていた。
当時は学生運動が華やかなころで、マルクスレーニン、サルトルの実存主義など談論風発の時代だった。その大学の新聞会で大真面目に「誠実」なんて言葉をのたまわったのだろうか。
気恥ずかしい思いがする。それにしても未だ、学生時代とそう変わらずに生きてこれたと褒められたようで嬉しかった。
宴はいよいよ弾んで、たけなわになった。
「オイ、青成,おいどんがどんな気持ちかわかるか、わが胸の燃ゆる思いに比べれば、煙は薄し桜島山・・・・・・・・・・・」
と森川君が立ち上がり腕を組んで、尾崎士郎の「人生劇場」の前口上を大声でうなり始めた。
あとは、あらんばかりの声を皆で振り上げて、早稲田大学第二校歌、人生劇場歌いだした。
昔、「コンパ」と称して安い酒、焼酎などで酔いつぶれるまで唄い踊っていたが、ちっとも変わらない。
最後だ。
山根君が立ち上がって、両手を大きく開いて前後左右に振り上げ「フレーフレー早稲田」を始める。
「・・・都の西北早稲田の杜に集まり散じて、人は変われど、仰ぐは同じき理想の光り・・」
肩を組んで左右に揺れながら、静かに皆で唄う。
楽しかった。


2010年6月10日(木曜日)

農林水産大臣を拝命して

宮崎にトンボ帰りして、間もなく菅総理から直接電話をいただいた。
「山田さん、農水大臣を、引き受けて欲しい・・・・」
一瞬、私の気持ちは大きく揺れた。正直、事前にも新聞記者、テレビ局から電話の問い合わせが殺到していたので、もしかしたらといった気持ちもあった。
しかし、何しろ口蹄疫感染が猛威を振るっている最中だ。
赤松大臣も、結果としての口蹄疫感染拡大の責任を取って、自ら大臣再任を辞退した。
ましては畜産問題の専門家だと自負していた私の責任は赤松大臣以上に重い。
今回は私も辞任しなければならないところだろう・・・そう覚悟していた矢先の話だった。
私の心中は、できれば現地対策本部長として、引き続き副大臣を続けさせてもらえれば有難い。
いろいろな思いはあったが、
「・・・・・・・・ハイ、引き受けさせていただきます」
と返事した。
考えれば、大変なことになった。念願の農水大臣ではあるが、前政権時代から鬼門の農水大臣のポストでもある。難問が山積している。
先ずは口蹄疫の終息を急がねばならない。IWCでの捕鯨の問題、戸別所得補償も本格実施に向けてこれからだ。
ずっしりとその責任は重い。身の引き締まる緊張を覚える。


2010年6月8日(火曜日)

雨上がり。悲しい現実を前に

雨上がり。日向市の山の奥は、林の木漏れ日の間には鮮やかに草木が濡れて輝いている。
どこからともなく小鳥のさえずりも聞こえてくる。
そのようなのどかな山里に、時ならぬざわめきが始まっている。
白い防護服をすっぽりと被り、目はゴーグルで覆って3,40人の人が数台の重機を操作しながら忙しく立ち働いている。
ブルーシートに囲まれた中央部には、牛が繋ぎこまれている。
牛は、目を白くむいて恐怖に震えている。生まれてさほど経たない子牛も落ち着かない風情でその側に離れようとしない。その周りにはすでに、鎮静剤を打たれて、薬殺された牛数頭がコロリと横たわっている。
音もなく殺処分は続けられていく。
まだ暖かいであろう遺骸は一体ずつ手を紐で縛られて、重機で丁寧に、すでに掘られている土中に、置かれていく。
思わず手を合わせる。
日向市で始まったワクチン接種牛の共同埋却が、いよいよ始まったのだ。
私が農林水産副大臣として、ワクチン接種に反対する市町村長さんたちを説得してワクチンによる口蹄疫ウイルスを封じ込める責任者だ。
13万頭を超えるワクチン接種牛豚の殺処分の責任者なのだ。
しっかりとこの現実を見据えておかなければならない。
荷台付の軽トラが上がってきた。親子の牛が繋がれている。
その場の雰囲気に押されたのか、子牛は小便を垂れ流し始めた。
たまらない。昨日木城町の田口町長が「私を殺してから埋めてくれ」と言われるのだと話していたのを思い出す。
・・・・・・やむを得ない決断だった。
私が宮崎の現地に赴いたとき、埋却地がないために、川南町で感染のクラッシュが起こり、そのまま放置された口蹄疫患畜、擬似患畜だけで8万頭(一頭の豚で半日で1万頭の豚に感染する強い感染力のウイルスを発散し続ける)に及んでいた。
600人からの作業員で一日に殺処分、埋却できるのは、せいぜい2,3千頭、新たな発生数にはるかに及ばない。
英国ではついに650万頭の牛豚羊を殺処分して1兆2千億円の損害を与えたと言われている。
このままでは、次第にウイルスは南下して新富町でも発生、このまま都城、鹿児島とその感染の勢いは激しくなっていくのでは。
現実は道路の消毒すら本気でなされているとは思えなかった。
恐ろしい状況下でのワクチン接種、殺処分の決断だった。
東国原知事、各市町村長さんたちは当初反対したが、小川総理補佐官と一緒になって押し切った。
それから3週間、私は東京に衆議院農水委員会で東京に行くことはあってもトンボ返りで、宮崎で陣頭指揮を取りながら今日に至った。
「本日の患畜、擬似患畜の発生数は1例、26頭です・・・・・」
ようやく、ワクチンの接種効果が現れてきたのだろうか。埋却も少しずつ軌道に乗ってきたが依然として3万頭からの牛豚が患畜、擬似患畜として、今もウイルスを発散し続けている。恐ろしいことだ。
急がねばならない。
一方、埋却地も2,3日でガスが噴出し匂いが充満してくる。環境対策、そして何よりも生産農家の心理的なケア、また殺処分に当たる人達のやりどころのない心情に対するケア・・・・・・など。
現地では解決しなければならない問題が山積している。

午後、再び細かい雨は降り始めた。のどかな田園風景は何事もなかったかのように薄靄に包まれていく。
今日で、私の農林水産副大臣としての現地口蹄疫対策本部長の任務は終わった。


宮崎から東京にトンボ帰りして間もなく、菅総理から電話をいただいた。

 


2010年6月3日(木曜日)

鳩山総理の突然の退陣に絶句

赤松大臣から電話があった。
「山田さん、2日、3日と衆議院農水委員会が開かれそうなので、東京に戻って欲しい」
おそらく口蹄疫のことが質問され、現地の責任者である私が答弁しなければならない。
上京すると突然、臨時の衆参両議員総会が2日の午前10時から開かれ、農水委員会も吹っ飛んでしまった。
もしかしたら・・・・と不吉な予感がした。
臨時の両議院総会で、聞き耳を立てていた私達民主党の衆参両議員にとって、鳩山総理の淡々としたいつもの語り口は、その一言、一言が深い感動をよんだ。
ことに私はその前日、宮崎県庁に鳩山総理をお迎えして、口蹄疫対策での激励を受けたばかりだった。
「・・・・・・・・・残念なことに政治とカネの問題、普天間の問題いずれも国民の理解を得ることができなかった。私も総理を辞め、小沢さんも幹事長を辞めていただく。
どうか皆さんでもう一度私達民主党が政権交代で目指した、官僚主導でなく政治家主導で国民の暮らし向きを大切にしていただきたい。そうして再びクリーンな民主党政権として新しくスタートして欲しい」
鳩山総理の誠実な人柄そのもの言葉・・・・・・・・・、さぞかし胸中はと察しても余りある。
さぞかし、残念な思いだったろうな・・・・。
私にとっても昨年9月に政権発足して以来、農水副大臣として、ひたすらに走り続けてきたが、ここでその任務は終わる。
私自身、仕事半ばで残念な気もするが、しかし赤松大臣のもとで存分にやらせていただいた。
農業戸別所得補償、平成22年度の予算、税調・・・・・、そして最後の最後まで口蹄疫対策と。
農水省の面々にも随分と怒鳴り散らしたが、皆一生懸命にやっていただいた。
考えれば実にありがたい。男冥利に尽きる8ヶ月だった。
感謝。


2010年6月1日(火曜日)

目に見えない敵との戦争は続く

細かい雨が降り続く。時折激しい風も伴って。
私は川南町の体育館で素裸になりパンツから用意された下着にはき替え、髪もタオルでしっかりと包み、防護服をすっぽりと頭から2重に着込んで、殺処分の現場にやってきた。
大変な作業だ。
現場では、今日も獣医さんが牛に蹴られて病院に担ぎ込まれている。
骨折など怪我も絶え間ない。
これまでに牛だけで1万3000頭、豚でも10万7000頭が殺処分されている。
それでも、新たに発生する患畜、擬似患畜が増えている。さらに殺処分を続けなければならない。
豚1頭の患畜で半日で豚1万頭を感染させるウイルスを発散し続けている。
恐ろしい目に見えない敵との戦争だ。
このままでは日本の畜産の深刻な危機を目の前に迎えている。
この地域にウイルスを完全に封じ込めなければならない。
私は赤松大臣とも相談してワクチン使用もやむを得ないと決断した。
そうなると、今回10キロ圏内の牛、豚にまで、すべてワクチンを接種して殺処分しなければならない。

私の家では、生まれた時から牛が家族の一員として飼われていて、物心ついたころから牛に馴染んできた。
かつて若い頃牛を400頭から飼い、豚だけでも年間8000頭から出荷した私にとっては、まさに苦渋の選択だった。
宮崎の農家にとっても、子牛を小さい頃から育てて、母牛(繁殖牝牛)は家族の一員として大切に育てている。
ことに年配の夫婦にとって生きがいなのだ。私が昨年12月30日に書いたブログ、韓国のドキュメンタリ映画「牛の鈴音」を読んでいただきたい。
映像であの牛の泪をみていただきたい。
これから、ワクチンを接種した10万頭の牛豚を、新たにすべて殺さなければならない。
「私の牛を殺すなら、私から先に埋めて欲しい」
そのような悲痛な叫びもすでに伝わっている。

殺処分の現場で、飼育の担当者から深刻な話を聞いた。
何でも感染した母豚から生まれた子豚16匹は2,3日もせずにすべて死んでしまったそうだ。横たわった豚のヒズメ(爪)が剥がれて赤く血に染まっている。発症しているのだ。

私も見せていただいたが、獣医さんたちが5,6人で子豚を両腕に抱きかかえながら、注射を打つ。子豚は瞬間足と股間をヒクヒクさせてそのまま息絶える。
息絶えた子豚を丁寧にボックスに重ねて置く。
たまらない風景だ。
・・・・・・・・・・・・・・
これ以上書くことはできない。
わかっていただきたい。
宮崎の児湯郡の畜産農家は大変な犠牲を払っている。
なんとしても、この地域だけで口蹄疫ウイルスを封じ込めねばならない。

埋却現場はぬかるんで作業中止との連絡が入った。
雨は一段と激しくなった。


2010年5月9日(日曜日)

口蹄疫が依然として猛威をふるっている。

 

このところ、口蹄疫のことに一喜一憂を繰り返している。ゴールデンウィークもほとんどを東京で過ごした。

農水省、消費安全局(動物衛生課)の面々もそうである。

宮崎から夕方航空便で口蹄疫感染の疑いのある牛、豚の検体が送られてくる。それを動物衛生研究所に届けて、すぐにPCRの検査を始める。

10年前に口蹄疫が日本に発生したときには、検査に4,5日はかかったそうだが、今では5時間ほどで口蹄疫に感染しているか、そうではないかの検査結果がわかる。

 

5日の子供の日は大変だった。

検体が、思いがけず宮崎以外の他県から持ち込まれる。

畜産農家は九州は勿論、北海道まで皆が口蹄疫に恐れおののいて、固唾を呑んで見守っている状況にある。

かつて私も牛、豚を飼っていた経験があるだけに痛いほどわかる。

集会は勿論、畜産農家は結婚式にも参加を控えているほどに神経質になっている。

 

口蹄疫は恐ろしい病気だ。

空気でも感染するウイルス、牛、豚の伝染病で発症すると牛は涎を垂らし、口に水泡ができて餌を食べることができなくなる。豚は足のひずめが割れて立てなくなってしまう。

英国ではかつて400万頭の牛豚を殺処分して、2兆円の国費を投じたと言われている。

 

幸い、今朝までの検体の検査結果は、当初発生した川南町とえびの市の20キロの移動制限範囲内に口蹄疫の発症はとどまっている。

封じ込めの対策は一定の効果を上げていると言える。

それでも牛の殺処分だけで4488頭、豚だけで5万7638匹と大変な数に昇る。

それを石灰でまぶして土中に埋めてしまう。獣医さん60人に自衛隊100人の応援も得て大車輪で作業は進めているものの、埋設場所の確保にも支障をきたしてきている。

現場の混乱は避けられないものの、それでも、さすがに畜産関係者は総力をあげて必死で頑張っている。

 

昨日あたりから検体の持ち込みも封じ込めの制限地区からがほとんどで、その結果も川南町でも陰性の反応がボツボツでてきた。

このまま川南町など封じ込めの地域だけの発症に終わって欲しい。

祈るような気持ちだ。

 

韓国の農水省のミン第一次官(日本では副大臣)から電話をいただいた。

「山田さん、日本も口蹄疫が発症して大変ですね。韓国もそうです。日韓で協力して感染経路、対策などについて検証、検討を始めましょう」

「望むところです。今は日本では感染を抑えることに総力を挙げていますが、必ずお互いに一緒にこの問題はとりくみましょう」

ミン次官とは先般クロマグロの交渉で訪韓した際に、ご招待を受けて意気投合した間柄である。

韓国も、制限地域内3キロの牛豚はすべて殺処分にするなど封じ込め作戦を展開しているがうまく封じ込まれていない。

中国もそうである。

 

一昨日、鳩山総理にも私から現状を報告させていただいた。

「・・・・このまま封じ込めればいいのですが、畜産農家も大変でしょう。私から財務大臣、総務大臣にも特別交付金も含めて、畜産農家が再び再開できるように十分な支援をするように話しておきます」

ありがたい指示をいただいた。

 

明日、赤松農水大臣が宮崎県庁を訪ねる。

農水省も畜産農家が安心できるような万全の対策を打って行く。

 

 

 


2010年4月16日(金曜日)

真冬、寒の戻りに野菜もお茶も深刻に

霞ヶ関、官庁街の銀杏の大木、ごつごつとした黒い幹から、天空に刺さるような小枝、そこにも、かすかに新芽が吹き出した。
排気ガスにも汚れてない鮮やかな緑色の新芽は、私たちの心を癒して、いよいよ本格的な春の訪れを感じさせてくれる。
日毎に新芽は広がって、色も濃くなっていく。

ところが、東京はまた真冬にかけ戻った。寒い。
4月の半ばだと言うのに、冷たい雨が降り続き、先ほどは雪まで降り積もってきた。
このところの天候不順は異常だ。
街では、キャベツが1個580円、ネギが1本で200円、比較的安いモヤシ、タマネギがスーパーから姿を消した。
農家も大変だ。この寒さに葉物(野菜)は先が茶褐色に霜枯れして、出荷したくても商品にならなくて、お金にならない。
野菜の生産農家も深刻な状態に陥っている。
気象庁の予測ではこの寒さは4月一杯続きそうだ。
農水省も、この16日には霜よけの被膜など防御措置を呼びかけるとともに、キャベツなど小玉の早出しを督促する呼びかけを行った。
どこまで、効果があるか心配している。

現在、野菜農家には、野菜が売り物にならなくて甚大な被害を受けたような場合、よくあることだが天候に恵まれ豊作で価格が暴落したときには、価格下落分の一定額を補填して経営を続けられるようにしてある。
国が指定したキャベツ、白菜、大根、ネギなど14種類の野菜には、生産者と県、国がそれぞれ出資して基金を積み立てて、そこから価格が暴落した場合には、その額の9割相当分を補填しているのだ。
実際の支払いは、ALIC(エーリック)と称して農畜産機構が野菜の生産農家に直接支払いをしている。
専業の野菜農家には便利な制度だ。
このALICがいよいよ仕分けにかかる。
心配である。

もう一つ心配なことがある。
今回の冷害ではお茶農家が深刻な冷害被害を受けた。
これまでは、私にとって地元長崎の東彼杵町の茶畑はいつも心が癒される、のどかな安らぎの場だった。

大村湾に面した山肌に日本の「棚田百選」のように、芸術的ともいえる、見事に刈り込まれた茶の樹の緑色絨毯の棚畑が広がる。
ことに満月の夜など、遠く大村湾の海を背景に月明かりに茶畑を眺めていると別世界に迷い込んだような幻想にとらわれる。
その茶畑が霜害で、新芽の部分が縮れて枯れている。場所によっては鮮やかな緑の新芽が赤茶けて見える無惨な状況に陥っている。

いずれお茶、果物にも収入共済のような制度が必要ではないだろうか。


2010年4月12日(月曜日)

電動の漁船で燃費、8割削減も夢ではない

冬の山並みはいつ見ても、薄く透けてきた初老の男のザンギリ頭に見えるのは、私だけだろうか。
単調な茶褐色の山肌に、ところどころ山桜の白い花が浮き立って見える。
四国、愛媛県の宇和島に向かう高速道路の山中。
よく見ると、山々の木々が、かすかに色ついてきている。
新芽のうすい黄緑色、まだ赤紫の蕾、微妙な色彩を織り成して、いかにも山々が微笑みを始めたようだ。
早春。
今年は、まだ朝夕の寒さには厳しいものがあるが確実に春はやってきた。
今回、私は宇和島に重油やガソリンに頼らない電動漁船があるのを聞いて、なんとしてもこの目で確かめたくてやってきたのだった。
自動車はCO2を排出しないエコ・カーと称して電気自動車の時代を迎えつつある。
かねてから、私はひそかに漁船にも燃費を大幅に節減できるエコ・シップがあっていいのではないかと考え、水産庁に電動船の資料を求めていた。
最近のリチウム電池をなど蓄電池技術の進歩には目を見張るものがあって、必ず近い将来、進化した蓄電池による電動漁船の時代が来ると、私には確信に近いものがあった。
なんとなく、私には幼児のころの思い出、よくオモチャのボートを風呂に浮かべて遊んでいたことが鮮明に蘇ったのだ。当時は単電池、一個でボートは水中でプロペラを回しながら、面白いように走りまわる。
そのようなことが、私には簡単にできそうな予感があった。

なんと宇和島では、愛媛県がEVプロジェクトをたちあげて、すでに船外機で漁船の電動化が実現していたのだ。
驚いた。
養殖などに使われる船長7メートルほどのFRPの漁船に、よく見慣れた船外機がつけられている。
異なるのは船外機の上部の部分エンジン部分が取り外されて、そこにコイルを巻いたモーターが取り付けられているだけだ。
モーターも中学時代理科の実験室で、自分たちで作ったモーターを大きくしたものに過ぎないのでは。
愛媛県の部長さんが私に自慢げに語った。
「発想の転換ですよね。エンジンのような故障もないのでメンテナンスフリーです」
さらに、このFRP漁船には燃料タンクが外されてそこにはバッテリーが組み込まれている。
このバッテリー(蓄電池)に8時間(300ボルト充電で4時間)充電すれば4時間は作業に使えるそうだ。

早速、電動漁船に試乗させてもらった。

湾内を音もなく滑り出す。ブワッとエンジンを始動するときの騒音も、煙も一切出ない。
排ガス特有の匂いも一切ない。
船は波をけたたて、かなりのスピードで走り出す。
快適だ。時速も15ノットのスピードだから素晴らしい。
私は開発したアイティーオー株式会社の伊藤社長に心底感謝して次のように語った。
「是非、4,5トンの小型の漁船もモーターとバッテリーで置き替えられるようにしてほしい。地球環境に優しい漁船ができていけば、農水省としても助成を検討したい」
そうなれば、現在養殖などに使用されている船外機付のFRB漁船だけでも、燃費が年間45万円はかかるところが、8万円ですませることができ、CO2も80%削減できる。
国内10万隻の船外機付FRP漁船だけでも、モーターとバッテリーに替えたら、それだけで19万トンのCO2の排出ができる。それを取引の対象にして売却することもできるのではないだろうか。
「今年は、船外機だけでなく沿岸の小型漁船でも試作を始めます」
夢は広がる。アイティーオー会社も愛媛県も張り切っている。
是非夢を実現したい。


2010年4月6日(火曜日)

106歳の母が風姿抄を読んでいた

五島に一人で暮らしいている母が、先月の10日で106歳を迎えた。
明治37年3月10日生まれだから、NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」の日露戦争のときに生まれたことになる。
元気なことはありがたい。
久しぶりに、先日五島の実家に戻った。
母は玄関横の廊下から安楽椅子に寄り添って庭の花を眺めていた。
やっと暖かくなって、春の日差しを身体一杯に浴びている。いかにも満足そうに目を細めている。
庭にはフリージアの黄色い花が咲き乱れている。強烈な、なんともいえない匂いが漂ってくる。
遅咲きの水仙、石段のパンジーも、植え込みのチューリップも色とりどりで鮮やかだ。
春、満開。
いつものことだが、五月の連休になると芍薬、牡丹が見事に咲き競って賑やかになる。
昔から母は花が好きだった。
今では弟が庭の花の世話をしている。
弟の話だと、母は今でも口だけはうるさいらしい。冬、廊下から弟に「寒肥」をどこに、どれだけやれと細かい指図して、思い通りにならないと悔しがるらしい。
いつまでも勝気な性格は変わらない。

ありがたいことに、最近も よく本を読んでいる。
今回、私も驚いたが、白洲正子の「風姿抄」がベッドの横に置いてあった。
白洲正子といえば、白洲次郎の妻であって、それこそ日本の古典美についてはカリスマ的な存在である。
最近日本経済聞に掲載された、細川護煕元総理「私の履歴書」のなかにも、細川さんは「私の陶磁器に対する思いは白洲正子さんから教わった」と述べている。
白洲正子さんは明治43年1月7日生まれだから、私の母のほうが6歳年長になる。
同じ時代に生きてきたものとして、感ずるものがあるのだろうか。
「どうして、白洲正子を読んでいるのか」と聞いた。聞くと言っても母は、さすがに耳は遠くなっているので、側にホワイトボードとペンが用意されている。そのようにボードに書いて渡した。
「則子(私の姉)が、長崎から買ってきてくれたから・・・」と言って、ただ笑っている。
いずれにしても、106歳になる母がメガネもかけずに、朝日新聞と長崎新聞、日本農業新聞3紙を毎日、丁寧に読んでいることは嬉しい。
近頃では、活字離れがひどくなった。
新聞も小説も雑誌も売れなくなって、廃刊が続く。なんでも学生の2割しか新聞を読まなくなったと言われている。
一方的な受身のビジュアルなテレビだけのメデアでは、人は次第に考える力が失われていく。
テレビだけ見ている老人は痴呆症になりやすいと言われている。
かつて、私の学生時代、大宅壮一が新しいテレビ時代の到来に「一億総白痴化」と警鐘を鳴らした。
私の母が106歳になっても、なおボケないのは、活字を大切にしているからではないだろうか。


2010年3月30日(火曜日)

これからの中・低層の公共建物はすべて木材で

眠れないままにテレビを入れたら、法隆寺の御本尊の話から聖徳太子の遺徳をたたえて建てられたいきさつがハイビジョンの映像で流されていた。
伽藍の天井裏から出た当時の板をもとに、その年輪から年代が鑑定されていた。何でも678年というから凄い。
今から1332年も昔に建立されて、いまだに幾多の風雪を経ながらも健在である。
正倉院はもっと古くて、建物そのものが呼吸しているから、梅雨のときなど湿度の高いときには湿気を吸って、冬の乾燥時期には吐き出して、天然の空調設備として古代の宝物を大切に保存してきた。
当時はノコギリもなく、生木を削りながら建てていったとの話には驚いた。
そういえば田舎では、10年ほど前は大工さんが生木の癖をわかって上手に一戸建ての家を建てていた。
「国産材は乾燥、乾燥してなければ使えない」とか、今のようにうるさいことは言ってなかった。

2,3週間前になるが、全国市町村会館で農水省、林野庁主催の「途上国の森林劣化についての対策ゼミナー」の国際会議が催された。
私が副大臣として歓迎の挨拶をすることになった。その控え室での話。
島田泰助林野庁長官が私に語りかけた。
「・・・・・・副大臣から、いきなり公共の建物は、これからはすべて木材で建築しようではないかと言われたときには驚きましたよ。うちの幹部も皆ができるわけがないと言っていたのです。
この国会で中・低層の公共建物はすべて、木造建築にする、しかも国産材を明記することができる法律案を鳩山内閣で閣議決定して、これから法案の審議に入るのだから夢のような話ですね」
「そうだな、言ってみるもんだな。しつこく言っているうちにできたんだから、君たちも偉いよ。国土交通省の営繕をここまで説得できるとは思わなかったな」
「国土交通省、文部科学省も積極的になりました。
なんでもインフルエンザでの休校が、木造の校舎では8割も少なかったそうです。身体にいいんですね」
昔は、小中学校の校舎もすべて木造だった。五島列島の北にある小値賀島では、小中学校を耐震構造に修復するよりも、廉価にできるとして、すべて純木造で、23年度には建てかえることが決まった。
嬉しい話である。

もとはといえば、3年前に菅直人財務大臣が民主党の代表代行時代、林業再生に取り組んで、ドイツの黒い森に、五月の連休の間、1週間も入っていたことがあった。
上り下りの急勾配の山の伐採現場を歩きながら、工務店もいくつか覗くことができた。
それで知ることになったが、ドイツの木造の家は頑丈にできていて200年はゆうに持ち続けるそうだ。
なんと1本のモミの木が製材所に運ばれると、鯨のように皮から芯の部分まで余すところなく利用される。外壁だけで20センチから30センチはあるがほとんどが集成材で作られている。
そのときに聞いた話で、私はひっくり返るくらい驚いたことがあった。
「山田さん、耐火に最も適しているのは実は純木造の建物なのです」
「え、どうしてですか」
「木は1センチメートル燃えるのに1時間かかります。容易に燃え広がりません」
なるほど、昔は火事で家が焼けても人が死ぬことなどめったになかった。
今ではクロスなど石油化学でできたものは、一瞬にして燃え広がり有毒なガスが発生して逃げる間もなく、死者が続出することになってしまった。
帰国して、すぐに国土交通省の建築の担当者に真偽を確かめた。
「そうなんです。日本でも耐火には木造建築は最適です」

それから、私の木造建築に対する信頼は願望から信仰に近くなってしまった。
東京でも5階建ての木造集合住宅の建築の確認申請を手伝い、さらに住宅金融支援機構(旧住宅金融公庫)に、耐久性がないからと中層の木造建築への融資を断るのは理不尽であると異議を唱えたりした。
今も農水省、私の副大臣室に、そのときの木造集合住宅の模型を飾っている。
今回公共建物を木造にする法案を提出するにあたって、いろいろ調べていただいたが、意外なことが分かった。
日本では、昭和30年の閣議で「耐火建築の普及奨励を促進するために、国、地方公共団体は率先して用途規模により建築物の木造禁止の範囲を拡大すること」と決定され、その旨の通達がなされていたのである。
それを受けて、日本建築学界でも34年9月に木造禁止の決議がなされていた。
それゆえだろうか。
3年程前、北海道の富良野に、日本でも有数の混合林を視察したとき、山奥の営林署の建物も鉄筋コンクリートで建てられていてがっかりしたことがある。
(そのときの話はこのブログにも書いている)

いよいよ、来週から日本の中・低層の公共建物はすべて木造で建築する法案が審議に入る。
嬉しい。


2010年3月19日(金曜日)

日本の近海のクロマグロは大丈夫か

子供のころ、3月のはじめごろには五島の富江町で、よくシビ(クロマグロの幼魚、とは言っても60センチから80センチはある)が釣れていただいたものだった。
まだサシが入る前のトロなどとはいえない赤味だったが上品な味で美味かった。
そのクロマグロがワシントン条約でシーラカンスと同様な絶滅危惧種として、大西洋地中海での漁獲、商業取引が禁止される寸前まで来ていた。
危ういところで、発展途上国の欧米諸国の身勝手さに対する反発もあって、リビアからの緊急動議が功を奏した。
18日、反対68票でモナコ提案は否決されたのだ。
よかった。皆がほっとした。
ところで、農水省としては、赤松大臣の意向もあって私がドーハ行き、各国との最後の交渉を25日本会議まで、ぎりぎり詰めることになっていた。
20日には私の主催で現地での各国の代表団を招いて、晩餐会の手筈も整えられていた。

その日の午後3時ごろ、現地から緊急連絡が入った。
何でもリビアからの緊急提案でワーキングチーム、委員会、本会議と言った手続きを踏まずに、会議の入り口でモナコ提案を否決できそうだとの情報だった。
瞬間、省内は沸き立った。
それでも、どのような巻き返しがあるかわからないので、その夜、私は海外旅行用の大きなスーツケースに衣類をつめて準備をしていた。
夜11時過ぎ、赤松大臣から電話がはいった。
「山田さん、うまく行ったよ・・・・・・」声が弾んでいる。
クロマグロが絶滅危惧種を免れた瞬間だった。

その3日前の15日、私は韓国の農林水産食品部(日本での農水省にあたる)で、ハ・ヨンジェ第二次官と向かい合っていた。
「・・・・・・ドーハでクロマグロのことで、日本の立場を支持してくれることでありがたい。ところでもう一つお願いがある。
私たちが漁獲している太平洋、日本海のクロマグロも、次の段階では絶滅危惧種として鯨のような禁止措置にならないとも限らない。
日本は、今この時期にこそ率先してクロマグロの資源管理をはかる覚悟をして、それなりに沿岸、まき網の業者と話し合いを始めている。
ついては、両国の領海内を回遊している同じクロマグロなので、韓国のまき網も日本と同様な規制をして欲しい」
ハ次官も日本の姿勢には十分な理解を示していただいた。

私が韓国にこだわったのはわけがあった。昨年10月、壱岐の勝本から若いマグロ釣り漁師が数人で私の副大臣室まで押しかけてきた。
昨年まであれだけマグロがあがって、沸いていた勝本ではまだ1本のマグロも釣れてないと嘆くのだ。
彼らは、まき網が一網打尽にクロマグロの幼魚を獲ると怒るが、それだけではない。2,3年前から山口県の見島からクロマグロが釣れなくなったように、太平洋、日本海のクロマグロも資源が激減しているのではないだろうか。
対馬でのクロマグロのヒキナワ漁も不振を囲っている。かつての五島沖のシビ(クロマグロ)釣れなくなって久しい。
今回問題になったワシントン条約でのクロマグロの資源管理をしているアイキヤットと呼ばれている太平洋、地中海マグロ類資源管理委員会が太平洋、日本海域でもあって、科学委員会のもとで資源調査が行われている。
そこでもクロマグロの資源の減少は問題になり、とりあえずこれまで以上の漁獲は禁止する旨の合意がなされたが、韓国だけは、反対の立場から留保してきた。
今回は悠長なことを言っておれない。韓国にも協力していただき、更なる日本海、東シナ海のクロマグロの資源管理に積極的に取り組まなければならない。

私は壱岐勝本町の若い漁師さんに言った。
「これからは沖合いのまき網漁も、クロマグロの漁獲については規制せざるを得ないが、沿岸の漁民の皆さんも、これまでのように無制限に獲ってはいけなくなる。
皆で限られた資源をいつまでもクロマグロの漁獲ができるようにしっかり管理しよう」
若い彼らは大きくうなずいてくれた。
秋田で3年間もハタハタの禁漁をして見事に資源を回復できたように、今クロマグロの資源管理を強化しなければならない。
クロマグロだけでなくブリ、その他の魚でもいえることだがその産卵の時期と海域では、そのつど漁獲を規制することも考えねばならないのでは。
いずれにしても、魚類の資源管理と漁業所得補償はセットで考えなければならない。


2010年2月19日(金曜日)

日本の土地改良事業をアフガンに学んではどうか

予算委員会で公共事業予算の箇所付けが事前に与党に報告されていたとして問題になっている。
国土交通省と同様、農水省でも公共事業の予算がある。
農水省では前年比37%と思い切って公共事業(土地改良事業)を減らして、農家の戸別所得補償に5618億円の予算をつけてメリハリをつけた。
現在減額されたとはいえ、農水省でも農山漁村の振興のために地方に交付される予算の配分について、優先順位の基準が政務3役でも検討がなされている。
先ずは灌漑排水が老朽化して、緊急に対策を講じなければならないところから優先すべきだと言った話になってきた。
驚いたことに、灌漑用水の施設は30年も経過すると老朽化して補修を必要とするものらしい。21年度だけでも2000億円を要している。
これからも莫大な予算が必要とされる。

私の地元大村市に、350年前の江戸時代に深沢義太夫という鯨網の親方が、個人の財産を投げ打って完成させた野岳湖(灌漑用水)がある。
ありがたいことに、いまだに200ヘクタールの水田を潤していている。
素晴らしいもので、堤も、石を組み合わせてできた斜樋、底樋は当時のままで使われている。勿論一部は補修されている。
古くからの「水守り」尾上五郎さんの話では、30年ほど前、一度だけ用水池を干したそうだが、底樋の入り口の当時の木材がそのまま残っていたそうで、石と石のつなぎは鉛が使われていたそうだ。
痛く感動した。
私がさらに感心したのは、用水地から田畑に引かれた数10キロに及ぶだろう水路が、石が積まれてできていて、いまだに水がとうとうと流れている。
ときおり、鮒などの泳ぐ姿も見られて嬉しくなってくる。

農水省で施工している現在の灌漑用水の水路は、地中に埋められた黒い鉄のパイプで作られている。バブルを開け閉めするだけで便利にはなったが、30年も経てば耐用年数がきて新たに交換しなければならなくなる。
江戸時代の野岳の用水は350年もの間、ほぼそのままで維持できたのだから凄い。

さらに凄い話がある。
アフガニスタンで、ペシャワール会(国境なき医師団)の中村哲医師がクナール河から24キロの水路を拓いて、不毛のカンべリ砂漠に、なんと3000ヘクタールもの青々とした麦畑を拓いたのだ。
しかも、政府のODA予算での助成金も一切なくて、個人の善意の寄付金を集めて完成させた。
20万人から30万人の難民が、農業で平穏な生活を取り戻すことができる。
中村医師は語る。
「私は医者なので、土木工事は素人です。九州では昔から筑後などさまざまな用水施設が今も残されています。それを見て歩きました。それを参考にコンクリートと鉄柱を使わずに、石と土だけで用水施設を拓くことにしたのです。日本に昔からあった蛇籠をとりいれました・・・・」
蛇籠とは金網に小石を詰め込んで、1立方メートルほどの籠にしたもので、それをツルハシで掘りさげた水路の両側に積み上げていく、気の遠くなるような工法を取り入れたのである。
若い日本の青年たちと延べ80万人もの現地のアフガンの人達が一体となって、黙々と汗を流して働いている様をCDで見ると、目頭がジンと熱くなってくる。
「瀕死の小国に世界中の超大国が束になってかかっている・・・」
と中村医師は嘆く。
治安は日を追うごとに悪くなって、記憶に新しいが、日本から来ていた伊藤和也さんは心無きテロによって殺された。
犠牲になった伊藤さんが現地で、頭をタオルできびって、にっこりとした笑顔は、何度見ても素晴らしい。
伊藤さんはもう日本に帰ってくることはないが、今アフガンではケシの花に変わって
彼が持ち込んだお茶の木が立派に育ち始めている。
さらにアフガンでは、日本から中村さんたちによって持ち込まれたサツマイモの栽培が人気を呼んでいるそうだ。
水路の側には、ガゼの樹の植林も始まった。7万本の植林が計画されている。

日本の農業公共事業のあり方も、ここいらで考え直さなければならないときにきた。


2010年2月12日(金曜日)

日本の酪農はこのままでいいのだろうか

「最近、どうだろう、私には昔と比べて牛乳が不味くなったと思うが・・・・」と、酪農家の集まりで、言い出すと、皆がぎよっとしたような顔をしている。
私にはそう思えてならない。
「・・・そう言っても、副大臣。今ではお店では薄くて安い調整牛乳しか売れなくなっているのです。消費者の思考が変わってきたのです」
と反論する。
本当だろうか。牛乳の消費もどんどん落ち込んでいる。
売れない。経営は厳しくなって酪農を辞める人も後を絶たない。

いよいよ、私達農水省の政務三役も平成22年度の畜産物の価格を2月中に決定しなければならない。
久しぶりに、現場の声をききに、私も長崎の島原半島に酪農家、宮本貞寿さんの牧場にやってきた。
昔の畜産の仲間だ。すでに親父に代わって息子の時代になっている。
昔、私がよく来ていたころの臭くて汚い畜舎はなくなって、近代的な酪農経営に変わっている。畜舎も2億円ほどかかったそうだが、新築されて、給餌も乳搾りもすべて自動化されている。
牛も1頭ずつ繋がれてないので、ストレスがないのか、のんびりとしている。
「おかげで、牛の病気もなくなって、皆1万キロリットルは出せるようになりました」と息子も胸を張っている。
感嘆した。
庭先で久しぶりに絞りたての牛乳をいただいた。
「美味しい」ヤカンで沸かしたそうだが、コクがあって子供のころの牛乳の味だ。
若奥さんが手作りの牛乳豆腐も用意していた。豆腐と代わらない形だが弾力あってなかなかいける。
同じ酪農家の三宅さんの奥さんが作った「生キャラメル」も並べてあった。
食べると口の中で溶けてくる。
「これは北海道産よりもうまいのではないのか」思わず言ってしまった。
布巾で絞ったばかりのふわふわしたチーズもある。
「貞寿、どうして最近の市販している牛乳は不味いのだろうか」
私は思わず尋ねた。
「・・・・・市販の牛乳は、一瞬に100度以上の高温で熱殺菌しているからで、これは昔のように60度で40分間かけて殺菌したものだから、このように上に薄い脂肪の幕が張って、生と変わらない味がするんだよ」
なるほど、そういう事情もあったのか。
私は息子に語った。
「私が昔、君の親父と畜産やっていた時代には、ホルスタインは7000キロも乳を搾れればいいほうだったぞ。
今では1万キロはだせるスーパーカウばかりだと自慢しているが、2産か3産で廃牛にせざるをえないようだが、私の頃は5産か6産まで牛は丈夫で乳が搾れた。(酪農は牛に子供生ませることで乳を搾る)
粗飼料も藁を使っていたが・・・。どちらがコスト的にはいいのか考えてごらん。さらに丈夫で健康な牛こそ、人の身体にも良い乳が出るのではないだろうか」

私にはそう思えてならない。
農水省の酪農行政、これまでのスーパーカウの多頭飼育、大規模化は間違いだったのでは。
多くの農家が億単位の負債を抱えて倒産、自殺するなどを数多くの凄惨な事例をこの目で見て、そして話も聞いてきた。
先日も九州の酪農家の集まりで、牛乳が不味くなった話をしたら
「確かに、牧場で子供たちに、生の乳を沸かして飲ませたら、こんなに牛乳は美味いのかと驚かれる。それなのにお店で買って飲む牛乳は、何かうすい感がして味が違うといわれる・・・・」と語り始めた。
「どうだ。夫婦で50頭も牛を飼っていると早朝から夜遅くまで仕事が大変だろう。思い切って10頭ほどに減らして、低温殺菌できる台所ほどの小さなプラントをこしらえて、学校給食に使ってもらう、昔のように近所の子供のいる家庭に宅配したらどうだろうか。
これこそ農業者が加工して、販売する「6次産業」路線で、私たち新政権では無担保、保証人も要らない無利息の融資ができるよ」と話した。
一瞬ではあったが、酪農家の目が強く輝いた。
私にも苦い経験があるが、億単位の負債を抱えていると、規模を縮小するにしても、支払いを考えるとできない。さらに負債を抱えていく。
考えなければならない。


2010年2月1日(月曜日)

東條英機に逆らった大審院判事、吉田さんの「気骨の判決」

相変わらず、新聞テレビで小沢一郎幹事長の問題で、ゼネコンからいかにも裏献金を受けていたかのような報道が続いた。
誰が考えても、検察からのリークとしか考えられない。これは、検察官、公務員のまさに守秘義務違反になるのではないだろうか。
あれだけ騒がれて小沢一郎が党の代表を辞任せざるを得なかった、大久保秘書の西松建設の迂回献金事件にしても、裁判での証人調べでも西松の政治団体の事務所があり、事務員もいて実態があったことが明らかになってきた。
前回の起訴だけでは無罪になる公算が大きい。
事実、今回小沢一郎幹事長は不起訴になった。
土地購入の資金にしても、小沢一郎は、個人のお金だと述べて個人の預金口座も、妻の個人口座も明らかにしている。
小沢一郎の父が所有していた湯島の土地の売却代金を本人らの口座に入れていたものと聞いている。
そうであれば、石川衆議員ら3人が逮捕されて起訴されたのは、単なる政治資金の届出の記載のミス、政治資金規正法違反の虚偽記載に過ぎない。
私もそうだが、政治家は政治資金の申告の書類にまで目を通すことはない。間違っていて修正申告したが、誰でも1、2度は経験しているはずだ。
形式犯なので修正申告で終わるべきところを逮捕され、しかも起訴されて民主党を離党せざるを得なくなった。
それでいて新聞、テレビの世論調査では、82%の国民が小沢一郎は説明責任を果たしていない、さらに70%の国民が幹事長を辞任すべきだと考えているという。
国民の世論はどうしてこうなったのだろうか。
私はマスコミの報道の姿勢に問題があると思う。
大手新聞社のかつての編集長が私に語ったことがある。
「検察の批判記事を書くと、その社は翌日から1月間は記者会見から外されるのです。それでは報道の公正が担保されないと、抗議しようということになったら、現場のデスクからの猛反対で、結局できなかった。
うちだけ特種を落としたらどうなりますか」といわれてしまった。
検察が正義としてマスコミが報道して、国民世論をリードする。
残念である。

私の農水省の副大臣室に、精糖業界の久野修慈会長が尋ねてきた。サトウキビの話だったが、その2,3日後、清永聡さん著の「気骨の判決」の新書と一本の映画ビデを届けてくれた。
私は早速ビデオ映画を見せていただいて、とめどもなく涙が溢れてきた。
昭和17年、私が生まれた年である。
大審院の判事(今で言うところの最高裁判所の裁判官)吉田久さんは、その年に行われた衆議院の選挙が無効である判決を下したのである。
当時は太平洋戦争の真っ只中、新聞、ラジオを始めほとんどの国民が「鬼畜米英」のもとに、高揚していた。
その年、東條英機元帥が首相として、大政翼賛会による総選挙がなされた。
選挙は、大政翼賛会の推薦候補だけを、知事も教育委員会、警察も一緒になっての組織ぐるみで行う、今では考えられない選挙が繰り広げられたのだ。
吉田大審院判事は、警視総監、司法大臣などから筆舌に尽くしがたい脅迫を受けながら命がけで、法に従い、選挙が無効である旨の正しい判決を下したのである。
体制の流れに、屈することなく法の正義のために命をかけての気骨の判決だった。

かつて吉田さんの秘書をしていた久野氏が、吉田さんに聞かれたそうだ。
「正義とは何ですか」
久野さんの期待に反して
「正義とは、正義とは倒れているおばあさんがいれば、背負って病院に連れて行ってあげることだ」と応えたそうだ。


2010年1月16日(土曜日)

石川議員逮捕に絡んで、今こそ、「可視化法案」の審議を

石川知裕衆議院議員がいきなり逮捕された。
政治資金規正法虚偽記載の疑いだが、一般に考えれば、これだけの嫌疑で3人も逮捕することなどありえないことである。
私も10年ほど前に、政治資金規正法虚偽記載があったとして、当時の朝日新聞に写真入で報道されたことがあった。
単なる過ちだったので、すぐに修正申告をしてことなきを得た。
誰でも政治家であれば、1,2度は経験しているのではないだろうか。
石川君の場合、金額が大きいから逮捕したのだとすれば、鳩山総理の献金問題はそれ以上に金額は大きい。
もともと政治資金規正法は、政治家、立法府の金の流れの透明化を図る自浄努力を政治家立法府が法律にしたものである。
検察と小沢の対決の因縁があったとしても、司法がそこまで立法府に、あからさまに、そこまで介入するのは問題ではないだろうか。
民主党大会での鈴木宗男代議士の訴えは、自らの体験をもとにしたもので、心に迫るものがあり、弁護士である私にとっては深く刺さった。
私も若いころに苦い思い出がある。
弁護士を始めて間もないころ、刑事事件の弁護が楽しくて冤罪事件を扱いたかった。
ある県庁職員の贈収賄事件を奥様から依頼受け、毎日のように拘置所まで接見(面会)に行った。
本人が事実を強く否認するので、何とか無罪であることを明らかにしたかった。
あまりにも頻繁な私の接見を、押しとどめようとする刑事たちを振り払って接見した。
ところが、突然被疑者が、「先生、犬小屋に200万円を置いてあるので、そのお金を部屋の鏡台の下、さらに畳を剥いでその下に隠してくれと家内に言ってくれ」と言い出したのです。
私は、やはり業者からお金をいただいていたのだと無罪だと信じ込んで頑張っていたのにがっくりしました。
警察署の前で、不安そうに私の報告を待っている奥さんに、私はありのままにその事実を告げたのです。
最後に一言「そのようなことをしたら、証拠隠滅罪になりかねませんから注意してください」と付け加えておきました。
その翌日、いきなり刑事が5,6人で被疑者の自宅にきて、カメラで写真撮影しながら鏡台の畳を剥いで現場検証したのです。
奥さんは前夜、よほど主人の言う通りにしようかと考えたら眠れなかったそうです。
それでも最後の私の一言が気になって、そうしなかったのです。
その場で、鏡台の下から何も出てこなかったので、刑事は奥さんに「山田先生から何も聞かなかったか」とたずねたそうです。
すでに私(弁護士)の証拠隠滅罪での逮捕令状も用意していたそうで、後でそれを聞いて、ぞっとしました。
もしも、奥さんが犬小屋から200万円を鏡台の下に移していたら、私は逮捕されて、いくら争っても、証拠が明白だとして弁護士の資格を剥奪されていたことでしょう。
鈴木宗男が行った「警察、検察は怖いところで、狙ったらなんでもできる・・・」と話したのは本当のことなのです。
小沢一郎幹事長も、その官憲と戦うのですから大変です。
昨年17年間も無実の罪で拘留されていた菅家さんの話は記憶に新しいと思います。
刑事弁護に当たっていると捜査での菅家さんが述べているようなことは、よく聞くことなのです。
取調べの調書も私が刑事弁護をしているころは、手書きでしたが、今はワープロで署名もコピーで貼り付けも書き換えも簡単にできます。
これは恐ろしいことです。
私たち民主党は野党時代に、すべての検察、警察の取調べをビデオで記録してなければ、刑事裁判上では証拠として認められない趣旨の「取調べ可視化法案」を国会に提出しました。
今、コンビニでも、どこでも監視用のビデオが回っています。
先進国では、取調べのすべてをビデオで明らかにすることは、すでに常識です。
今回の小沢一郎の不動産購入資金に関する疑惑も、検察と小沢の対決としてマスコミは面白く例えているが、今こそ「可視化法案」を真剣に討議すべきときです。


2010年1月13日(水曜日)

家内が亡くなった

夜8時、羽田に着いた。
滑走路は雨に濡れ、静かに光っている。
冷たい雨が降っている。
羽田から赤坂の宿舎へ向かう車窓から、ぼんやりと外を見る。
冷たい雨の中、高速道路は、赤と黄色の光の波が走る。
暗い夜の闇の中、次第にビルの赤や青のネオンが鮮やかになってきた。
冷たい雨が降り続いている。路面も濡れて光っている。
・・・・・・家内が亡くなったのだ。
昨日の葬式のことが走馬灯のように、私の頭の中をめぐり始める。
幸子。
本当に亡くなってしまったのだ。
もう2度と話しすることも、喧嘩して言い合うこともなくなったのだ。
・・・・・・これまでに、いろいろとあった。
すまなかった。
私には君を思いやる優しさがなかった。
ただ、がむしゃらに自分のやりたいことだけをやり通した。
君のこと、子供たちのこと一切を顧みることがなかった。
君は私の非情を恨んで亡くなったのだろうか。
・・・・・それでも君は、4人の子供をそれなりに立派に育ててくれた。
ありがとう。
心から感謝する。

君は救急車で病院に運ばれ、そのままもう意識を回復することはなかった。すでに体温も測れないくらい低くなっていた。
私は冷たくなっている、右腕をさすった。少しでも体温が上がってくれればと、さすり続けた。・・・・・・孫たちも。
「こら、幸子、しっかりしろ」激しく身体をゆすった。三途の川から引き戻したかった。
君は呼吸器をつけて、顔を高潮させ必死でゼーゼー激しい息使いをしながら、最後まで生きる闘いを続けていた。
健気だった。
それでも家内は天国に旅立った。これまでにないような、多くの人達の盛大なお見送りを受けて。

冷たい雨が、今も降り続いている。


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