2007年10月09日
らでぃっしゅぼーやの強みとは何か?
この問いかけは、沖縄教育出版でのインターンシップ中に、僕に課せられた課題の一つだ。
『らでぃっしゅぼーや』の強みとは何か?
就職活動で、「最初にエントリーして最初に落ちた会社」の強みを、内定をいただいた会社で発表することになったというのは、個人的なドラマでもあった。
一日かけてまとめ、翌日に発表したものの、今でもこの問いかけは僕の中でくすぶっている。僕が『らでぃっしゅぼーや』のお野菜を取っているということもあるし、バイトで農産部門の店舗作業をしていることも影響していると思う。
商品の野菜を並べながら、ふと考えたことがあり、備忘録としてここに残しておこうと思う。
僕たち、朝の品出し隊は、とにかく商品を並べるのが仕事だ。開店に間に合うように野菜を棚に並べていく。そのとき同時に、僕たちは検品もしなくちゃいけない。そして、この検品こそがスーパーにおいて重要な役割を果たしている。
野菜には(明確な)消費期限がない。目で見て、手で触って、お野菜がまだ食べれそうか確かめなくちゃいけない。また、商品を誰が買うのか分からない。お客さんは、スーパーにとって、不特定多数の誰かということになる。
そこで僕たちとしては、検品の「いける」「いけない」の基準を、『最も厳しい目をもった消費者』に合わせることになる。誰が買うのか分からないので、リスク管理としては、最も安全と思われる基準を採用するしかないのだ。
だからたとえ、「自分だったら、これ買ってもいいけどな」と思うような商品でも、『見切り』もしくは『廃棄』を選ぶことになる。朝の品だしが終わると、結構『見切り』の商品が積み上げられている。
スーパーは、そういう状況でも利益を出さなくてはいけない。だから、『廃棄されるであろう野菜』のコストは、商品の値段にかぶせられることになる。
なんだかもったいないなと思う。スーパーに買い物に来る人たちはもちろん、本物の人間だけれども、僕が仕事をしながら相手にしているのは、実体のない『消費者の総体』であり、『最も厳格な消費者の影』である。
『消費者は買いたいものを買うことができる』という消費者ベースのシステムの中では、このコストは避けることは出来ない。消費者には選択の自由があり、その『自由』ためには豊富な選択肢が必要である。そして、選択されなかったモノたちは、ディスカウントされ、リサイクルされ、あるいは廃棄される。
そして、この選択されなかったモノたちに、人々はあまり目を向けようとしなかった。廃棄物問題の根本的な原因の一つはこのあたりにあると思うが、ここでは置いておこう。
では、『らでぃっしゅぼーや』はどうだろう。
基本となる商品『ぱれっと』は、野菜(と果物)の詰め合わせだ。中身はこちらから指定することはできない。消費者には選択の自由がない。
生産者の方が作ってくれたものを、消費者はそのまま買わせてもらう。生産者ベースのシステムがそこにはある。これは注目すべき点だと思う。
選択肢がないだけ、無駄がない。もちろんカタログで野菜の個別販売もしているが注文制なので、必要なだけ収穫すればいい。生産‐消費関係で発生するコストは低く抑えられてるはずだ。
そして(これが最も重要な点だと思うのだけど)、安定的な消費者が生まれることで、生産者の生活も安定する。既存の生産‐消費関係では、過剰な生産が、我儘な消費を支えてきた。しかし、生産者ベースのシステムの中では、生産と消費がバランスされ、生産者は過剰な生産競争から脱出することができる。
手間ひまかけて有機野菜を育てても、高い値段で市場に出せば売れるか分からない。しかし、高い値段をつけなければ元が取れない。そんな悩みを持った農家にとって、「作ってくれれば買いますよ」という消費者がいてくれるというのは、素晴らしいことだと思う。
もちろん、「どうせ買ってくれるなら、テキトーに作ってもいいや」と考える農家の出現の可能性など、心配なこともあるかもしれないが、ここでは触れないでおく。また別の機会に考えてみたい。
今回は、このようなシステムが消費者に及ぼす影響について考えてみる。
消費者は、選択の自由をなくし、たとえ好きな野菜を注文しても1週間後に届けられるという不便さを甘受しなくてはいけない。(お金さえあれば)何でも自分の好きなものを、好きなときに購入できる時代にあって、この不便さはもどかしいものがある。
届いた野菜でやりくりしなくてはいけないし、野菜によってはすぐに傷んでしまうものもある。腐らせずに使うということも考えなくてはいけない。僕も当初は(そして今でも時々)、お野菜を駄目にしてしまうことがあった。ナスを冷蔵庫に入れてしまったり、葉ものをすぐに使わなかったり、野菜のことを知らなかった。
でも、段々とお野菜が届くのが楽しみになってきたのを感じる。
届いた野菜に合わせて料理していくことが苦ではなくなってきた。「今週は何が来るかな?」と心待ちにするようになってきたのだ。
沖縄教育出版のオフィスの壁には、いろんな格言が貼ってある。その中に『幸いなことに私たちには乗り越えるべき課題がある』みたいな言葉があった。
そういうことだと思う。不便なことは決して悪いことじゃない。そういう課題があるからこそ、人間は成長できる。応用力もつく。人は「自分の力ではいかんともしがたい状況(ここでは、野菜を選べないこと)」の中で、自分を変化させること(成長すること)を学ぶんだろう。
選択の自由があり、自分の好きなものを選べるというのは素晴らしいことのように見えるし、実際すごいのだけど、そこに学びの機会はない。
『らでぃっしゅぼーや』のすごいところは、『人間は変化する(成長する)』ということを前提にしていることだろう。会員制だからできることかもしれないが、顧客の成長を促す商品・サービスというものは現代において新鮮に映る。
その意味で、『らでぃっしゅぼーや』のサービスは、既存のサービスの概念を覆すといってもいいだろう。利便性ではなく、不便性をサービスに仕立て上げてしまったのだから。そして、それこそ現代の僕たちに足りないものなのかもしれない。
世の中がもう少し不便になれば、学びの機会も増え、社会は全体的に健全さを取り戻していくだろう。お金をかければ何でもできる社会よりも、手間をかけなければやっていけない社会の方が、全体として安定するんじゃないだろうか。
話がちょっとそれてきたけど、『らでぃっしゅぼーや』の強みとは、人間の成長を促していること、と言えるのではないかと思う。ちょっと安易な結論かな。
でも、これからのサービスのあり方として参考になるところがたくさんある。
もう少し考えてみたい。
『らでぃっしゅぼーや』の強みとは何か?
就職活動で、「最初にエントリーして最初に落ちた会社」の強みを、内定をいただいた会社で発表することになったというのは、個人的なドラマでもあった。
一日かけてまとめ、翌日に発表したものの、今でもこの問いかけは僕の中でくすぶっている。僕が『らでぃっしゅぼーや』のお野菜を取っているということもあるし、バイトで農産部門の店舗作業をしていることも影響していると思う。
商品の野菜を並べながら、ふと考えたことがあり、備忘録としてここに残しておこうと思う。
僕たち、朝の品出し隊は、とにかく商品を並べるのが仕事だ。開店に間に合うように野菜を棚に並べていく。そのとき同時に、僕たちは検品もしなくちゃいけない。そして、この検品こそがスーパーにおいて重要な役割を果たしている。
野菜には(明確な)消費期限がない。目で見て、手で触って、お野菜がまだ食べれそうか確かめなくちゃいけない。また、商品を誰が買うのか分からない。お客さんは、スーパーにとって、不特定多数の誰かということになる。
そこで僕たちとしては、検品の「いける」「いけない」の基準を、『最も厳しい目をもった消費者』に合わせることになる。誰が買うのか分からないので、リスク管理としては、最も安全と思われる基準を採用するしかないのだ。
だからたとえ、「自分だったら、これ買ってもいいけどな」と思うような商品でも、『見切り』もしくは『廃棄』を選ぶことになる。朝の品だしが終わると、結構『見切り』の商品が積み上げられている。
スーパーは、そういう状況でも利益を出さなくてはいけない。だから、『廃棄されるであろう野菜』のコストは、商品の値段にかぶせられることになる。
なんだかもったいないなと思う。スーパーに買い物に来る人たちはもちろん、本物の人間だけれども、僕が仕事をしながら相手にしているのは、実体のない『消費者の総体』であり、『最も厳格な消費者の影』である。
『消費者は買いたいものを買うことができる』という消費者ベースのシステムの中では、このコストは避けることは出来ない。消費者には選択の自由があり、その『自由』ためには豊富な選択肢が必要である。そして、選択されなかったモノたちは、ディスカウントされ、リサイクルされ、あるいは廃棄される。
そして、この選択されなかったモノたちに、人々はあまり目を向けようとしなかった。廃棄物問題の根本的な原因の一つはこのあたりにあると思うが、ここでは置いておこう。
では、『らでぃっしゅぼーや』はどうだろう。
基本となる商品『ぱれっと』は、野菜(と果物)の詰め合わせだ。中身はこちらから指定することはできない。消費者には選択の自由がない。
生産者の方が作ってくれたものを、消費者はそのまま買わせてもらう。生産者ベースのシステムがそこにはある。これは注目すべき点だと思う。
選択肢がないだけ、無駄がない。もちろんカタログで野菜の個別販売もしているが注文制なので、必要なだけ収穫すればいい。生産‐消費関係で発生するコストは低く抑えられてるはずだ。
そして(これが最も重要な点だと思うのだけど)、安定的な消費者が生まれることで、生産者の生活も安定する。既存の生産‐消費関係では、過剰な生産が、我儘な消費を支えてきた。しかし、生産者ベースのシステムの中では、生産と消費がバランスされ、生産者は過剰な生産競争から脱出することができる。
手間ひまかけて有機野菜を育てても、高い値段で市場に出せば売れるか分からない。しかし、高い値段をつけなければ元が取れない。そんな悩みを持った農家にとって、「作ってくれれば買いますよ」という消費者がいてくれるというのは、素晴らしいことだと思う。
もちろん、「どうせ買ってくれるなら、テキトーに作ってもいいや」と考える農家の出現の可能性など、心配なこともあるかもしれないが、ここでは触れないでおく。また別の機会に考えてみたい。
今回は、このようなシステムが消費者に及ぼす影響について考えてみる。
消費者は、選択の自由をなくし、たとえ好きな野菜を注文しても1週間後に届けられるという不便さを甘受しなくてはいけない。(お金さえあれば)何でも自分の好きなものを、好きなときに購入できる時代にあって、この不便さはもどかしいものがある。
届いた野菜でやりくりしなくてはいけないし、野菜によってはすぐに傷んでしまうものもある。腐らせずに使うということも考えなくてはいけない。僕も当初は(そして今でも時々)、お野菜を駄目にしてしまうことがあった。ナスを冷蔵庫に入れてしまったり、葉ものをすぐに使わなかったり、野菜のことを知らなかった。
でも、段々とお野菜が届くのが楽しみになってきたのを感じる。
届いた野菜に合わせて料理していくことが苦ではなくなってきた。「今週は何が来るかな?」と心待ちにするようになってきたのだ。
沖縄教育出版のオフィスの壁には、いろんな格言が貼ってある。その中に『幸いなことに私たちには乗り越えるべき課題がある』みたいな言葉があった。
そういうことだと思う。不便なことは決して悪いことじゃない。そういう課題があるからこそ、人間は成長できる。応用力もつく。人は「自分の力ではいかんともしがたい状況(ここでは、野菜を選べないこと)」の中で、自分を変化させること(成長すること)を学ぶんだろう。
選択の自由があり、自分の好きなものを選べるというのは素晴らしいことのように見えるし、実際すごいのだけど、そこに学びの機会はない。
『らでぃっしゅぼーや』のすごいところは、『人間は変化する(成長する)』ということを前提にしていることだろう。会員制だからできることかもしれないが、顧客の成長を促す商品・サービスというものは現代において新鮮に映る。
その意味で、『らでぃっしゅぼーや』のサービスは、既存のサービスの概念を覆すといってもいいだろう。利便性ではなく、不便性をサービスに仕立て上げてしまったのだから。そして、それこそ現代の僕たちに足りないものなのかもしれない。
世の中がもう少し不便になれば、学びの機会も増え、社会は全体的に健全さを取り戻していくだろう。お金をかければ何でもできる社会よりも、手間をかけなければやっていけない社会の方が、全体として安定するんじゃないだろうか。
話がちょっとそれてきたけど、『らでぃっしゅぼーや』の強みとは、人間の成長を促していること、と言えるのではないかと思う。ちょっと安易な結論かな。
でも、これからのサービスのあり方として参考になるところがたくさんある。
もう少し考えてみたい。