2010-08-27
無駄を削減しようと思えば必要なものから削減される訳
無駄を削減することが善のように叫ばれています。しかし、一向に無駄が無くなる気配はありません。なぜ無駄はなくならないのでしょうか。それは『誰に』とって無駄なのか、そして『どのくらい』無駄なのかが明確な線引きが出来ないところにあるのです。どのようなものでも誰かにとっては有用で、どのくらいという範囲や程度も、それぞれ受け取る人によって異なるからです。容赦なく『誰か』を減らし、『どのくらい』という範囲や程度を絞っていけば確かに削減できます。しかし、必要な人にとって無駄であると断言されることは、切り捨てられることと同義です。反発して然るべきです。
一人一人にとって無駄は異なる、だから無駄は絶対になくならない。
視点を変えてみて無駄でないものとは何でしょうか。『有用なもの』、『必要なもの』、『価値のあるもの』など共通した認識があるものがそれに該当します。つまり、共通の価値として存在するモノは無駄ではないということになります。つまり極論を言えば自分だけ無駄でないものは、その他の人にとっては無駄なのです。どんなに有用であっても周囲の理解が得られないものは無駄というレッテルが貼られるのです。
無駄は自分の取り分が少ないときに起こる。
無駄でないものを無駄でないことを力説することも大切ですが、その有用性を共有することの方が大切です。取り分が少なければ相手の利益が疎ましくなるのが人間の性です。本当に無駄なものを共有して貪っているところはバッシングされて然るべきですが、まずは無駄と思っているものを知る必要があります。なぜ無駄と思うのかを検証することなしに、無駄と決め付けているものは以外と多いものです。無駄の削減に躍起になって考えること無しに、生み出す力を支える源泉を失ってしまっては元も子もありません。
そもそも完全に無駄が無い効率的な世界は絶対に存在しない。
一概に無駄とは言えない、必要性を理解できていないものはこの世の中に沢山あります。不勉強であったり、思い込みであったり、本当に必要なものを見極められる眼力が自分にあると思っている人が、無駄を許容しない態度に徹すれば知識不足や偏見によって有用なものを無駄と判定してしまう恐れがあるのです。そうならないためにも、ある程度、『自分が考えている』無駄でも許容することが必要なのです。
環境は常に変化しています。既存の手法で最適と思われていることも、環境が変われば不適になることもあります。効率を追い求めるあまり無駄を省いたつもりでも、逆に無駄を生んでしまったということもあります。無駄を切り捨て、個々がその時代のその環境にのみ適応した「贅肉のない筋肉質」を目指せば、実は「飢餓に耐えられない」脆弱な体を作り上げてしまうことになりかねません。バランスを失った天秤は倒れます。『ゆとり』がある状況を許容すること。そちらの方が結局、長生きすることができることだけは間違いありません。
無駄と一緒に捨てるのは、未来への可能性でもあることを忘れてはならない。
参考文献
世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく
- 作者: 渡辺健介,matsu(マツモト ナオコ)
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