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1週間前の終戦の日、戦火に散った一兵卒の詩人竹内浩三について書いた。三重県伊勢市にある浩三の墓を10年ほど前に訪ねたことがある。手を合わせていると、近くに野球のボールをかたどった墓標があった。やはり戦死した伝説の名投手、沢村栄治が眠る墓だと教えられた▼沢村は浩三と同じ宇治山田市(現伊勢市)の生まれ。京都商業から春夏3度、甲子園に出場する。草創期のプロで活躍したが、時代は野球を許さなかった。召集をうけて南方に向かう途上、船が沈められて27年の生涯を閉じた▼きのうの高校野球決勝を見ながら、その墓標がふと胸をよぎった。二つの原爆忌のはざまに開幕した甲子園は、終戦の日を過ぎて、沖縄・興南の春夏連覇で幕を閉じた。若い白球の宴が、平和を祈る季節と重なるのは、毎年ながら天の配剤のように思われる▼沖縄勢の出場は1958(昭和33)年の首里高に始まる。米軍占領下からの出場は大きな拍手で迎えられた。だが沖縄は「外国」だった。持ち帰った甲子園の土は植物防疫法に触れるとして那覇港に捨てられる▼後日、同情した航空会社の客室乗務員たちが消毒した甲子園の小石を学校に贈った。美談はいつも悲話と裏表だ。それから半世紀と2年が流れ、土ではなく優勝旗が沖縄へ渡る▼〈それは単なる野球場の名称ではない。こんな叙情的なひろがりをもったスタジアムが世界じゅうにあるだろうか〉と詩人の谷川俊太郎さんは甲子園を言う。平和に抱かれてこその叙情であろう。思いを新たに、白球の夏を見送る。