日本列島の南側の鹿児島県。 明治維新を率いた西郷隆盛(1827-1877)が生まれ、成長し、死亡したところだ。 私たちには1873年の征韓論の首唱者として記憶されている。 韓国侵略の基礎を築いた元凶の一人に挙げられるが、日本での評価は全く違う。 まさに英雄だ。 鹿児島市内の中央路の銅像をはじめ、出生地・墓地・神社など遺跡があちこちに保存されている。 西郷が生まれた場所にはこう書かれている。 「大きな目で変化の風を見た」。
風は西洋から吹いてきた。 西欧式近代化が変化の実体だった。 西郷の肖像画(西郷の写真は伝えられていない)を見ると、豪放な印象を与える顔に大きな目が印象的だ。 その大きな目で激しく押し寄せてくる西洋文明の力を見て、その力がもたらす変化を感じたということだ。
19世紀半ば、変化の風を感じたのは西郷だけではなかったはずだ。 にもかかわらず西郷の人気は特別だ。 最近もそうだ。 歴史人物の人気度で坂本龍馬(1835-1867)と1、2位を争う。 人気のある人物は総じて明治維新初期にドラマのような人生を送った人たちだ。
人気の秘訣はなにか。 「無私無欲で、勇敢で、豪放だったと考えられる」。鹿児島で会った黒瀬郁二教授(鹿児島国際大学・経済史)の言葉だ。 ‘最後の侍’の姿を西郷と重ね合わせるケースが多いという。 福岡で会った金鳳珍(キム・ボンジン)教授(北九州大学・国際関係学)はやや違う考えだ。 「改革を主張しながら、比較的早く死亡したため」と語った。 明治維新が侵略主義戦争につながる時まで生きていれば評価を違ったり、いっそのこと注目されなかったかもしれない、ということだ。 例えば伊藤博文(1841-1909)のように評価材料が増えれば、評価を避けたり人気が落ちたりするということだ。
当時、朝鮮でも変化の風を感じた人が少なくなかった。 開化派の朴珪寿(パク・ギュス、1807-1876)をはじめ、金允植(キム・ユンシク)、魚允中(オ・ユンジュン)に続き、甲申政変を起こした金玉均(キム・オッキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、徐載弼(ソ・ジェピル)らだ。 改革の方向は正しかった。 生煮えの変革が問題だった。 1884年の甲申政変失敗後、改革の動力をほとんど喪失した。 『西遊見聞』を書いた兪吉濬(ユ・ギルジュン)のように日本や西欧に留学した人材が正しく使われなかった。 西洋に留学した日本の開化派が近代的制度改革に続々と投入されたのとは対照的だ。
こうした日本を私たちは憎悪しながら羨望した。 私たちの目は複合的だった。 侵略には抵抗したが、それを可能にした近代化の力は羨んだのだ。 抵抗と羨望の二重奏、その下には亡国の恨が流れる。 庚戌国辱100年を迎える時点で、これ以上の亡国の恨をかみ締める必要はなさそうだ。 他国を侵略する帝国主義を経ずに私たちは近代化を成し遂げた。 日本が通っていない道だ。 過去60余年間の私たちの成就は韓国発の新しい風を起こせるはずだ。 侵略と戦争ではなく、共存と協力を基盤とした近代化の新しい風を。
(鹿児島で)裵泳大(ぺ・ヨンデ)文化スポーツ部門次長
風は西洋から吹いてきた。 西欧式近代化が変化の実体だった。 西郷の肖像画(西郷の写真は伝えられていない)を見ると、豪放な印象を与える顔に大きな目が印象的だ。 その大きな目で激しく押し寄せてくる西洋文明の力を見て、その力がもたらす変化を感じたということだ。
19世紀半ば、変化の風を感じたのは西郷だけではなかったはずだ。 にもかかわらず西郷の人気は特別だ。 最近もそうだ。 歴史人物の人気度で坂本龍馬(1835-1867)と1、2位を争う。 人気のある人物は総じて明治維新初期にドラマのような人生を送った人たちだ。
人気の秘訣はなにか。 「無私無欲で、勇敢で、豪放だったと考えられる」。鹿児島で会った黒瀬郁二教授(鹿児島国際大学・経済史)の言葉だ。 ‘最後の侍’の姿を西郷と重ね合わせるケースが多いという。 福岡で会った金鳳珍(キム・ボンジン)教授(北九州大学・国際関係学)はやや違う考えだ。 「改革を主張しながら、比較的早く死亡したため」と語った。 明治維新が侵略主義戦争につながる時まで生きていれば評価を違ったり、いっそのこと注目されなかったかもしれない、ということだ。 例えば伊藤博文(1841-1909)のように評価材料が増えれば、評価を避けたり人気が落ちたりするということだ。
当時、朝鮮でも変化の風を感じた人が少なくなかった。 開化派の朴珪寿(パク・ギュス、1807-1876)をはじめ、金允植(キム・ユンシク)、魚允中(オ・ユンジュン)に続き、甲申政変を起こした金玉均(キム・オッキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、徐載弼(ソ・ジェピル)らだ。 改革の方向は正しかった。 生煮えの変革が問題だった。 1884年の甲申政変失敗後、改革の動力をほとんど喪失した。 『西遊見聞』を書いた兪吉濬(ユ・ギルジュン)のように日本や西欧に留学した人材が正しく使われなかった。 西洋に留学した日本の開化派が近代的制度改革に続々と投入されたのとは対照的だ。
こうした日本を私たちは憎悪しながら羨望した。 私たちの目は複合的だった。 侵略には抵抗したが、それを可能にした近代化の力は羨んだのだ。 抵抗と羨望の二重奏、その下には亡国の恨が流れる。 庚戌国辱100年を迎える時点で、これ以上の亡国の恨をかみ締める必要はなさそうだ。 他国を侵略する帝国主義を経ずに私たちは近代化を成し遂げた。 日本が通っていない道だ。 過去60余年間の私たちの成就は韓国発の新しい風を起こせるはずだ。 侵略と戦争ではなく、共存と協力を基盤とした近代化の新しい風を。
(鹿児島で)裵泳大(ぺ・ヨンデ)文化スポーツ部門次長