■白衣の百六十名 ばいかる丸で凱旋 南京攻略戦に輝かしき武勲樹て傷ついた勇士○○部隊藤原武騎兵少佐以下以下百六十名は二十七日午前九時、陽光うらゝかな芝浦岸壁に病院船ばいかる丸で白衣の凱旋をした、或は松葉杖、或は腕を吊つての不自由の身体ではあるが、久し振りに故国の土を踏んで兵士等の目は輝き、出迎えの郷軍、愛婦、国◎◎会員等に元気な微笑みを返す 病兵一人もなく、全部名誉の戦傷兵であるだけに出迎人に答へるありがとう、元気です≠フ感動の言葉からは明朗な空気さへ流れる、一同は直ちに三十余台の大型自動車に分乗、十五台の警官オートバイに護られて牛込陸軍病院に向つたが市内の辻々ではこの白衣のパレードに心からの敬意を表する美はしい場面を随所に展開した 十二月十日午後二時南京牛◎◎の闘ひに左手貫通銃創を受けた藤原少佐は常に豪快な笑ひを忘れずに日本軍よくやつたといふより僕は先ず日本兵よくやつたち云ひたい、僕個人の手柄話はないすべては兵の手柄だ、三日間の船中で盲管のタマを抜いたのが山をなした程だつたが痛いと云つたものが一人も無かつた、痛さを知らぬ日本兵−再び戦線に立ちたい兵ばかりだ≠ニ語つた(写真は芝浦に着いたばいかる丸、下は藤原少佐) 東京朝日新聞昭和十三年一月二十八日 (左の記事の下段) ■病院船凱旋百六十二勇士東京港へ 江南戦線で名誉の戦傷を負つた藤原少佐以下陸軍の白衣の勇士百六十二名を乗せた病院船ばいかる丸は廿七日朝東京港に帰港、八時卅分芝浦岸壁に横づけにされた. 冬晴れのこの朝、岸壁には陸海軍関係者をはじめ在郷軍人会、国防婦人会など多数関係者の出迎へがあり、白衣の勇士たちは懐かしの祖国の大地に輝かしい第一歩を印して感慨無量の面持ちだった、一同は同十時牛込の第一陸軍病院の衛生兵にいたはられつゝ同病院へ向つた(写真は東京湾についたばいかる丸の勇士) 読売新聞昭和十三年一月二十八日 ■病院船で凱旋した 白衣誉れの半島勇士 陸軍病院に初の入院 廿七日東京港に凱旋した病院船船ばいかる丸で懐かしい故国の土を踏んだ藤原騎兵少佐以下百六十二名勇士の中に、左手を包帯で吊した痛々しい一青年の姿が人目を惹いた、河本部隊付の通訳として従軍、江南戦線で傷ついた半島生れの鄭達去(25)君である.朝鮮に多年待望の志願兵制度が布かれて半島同胞が日本国民の喚起にわきかえつてゐるとき、血に滲む左手に武勲を物語る半島人通訳鄭君は、戦友とゝもに牛込の東京第一陸軍病院に入つた、陸軍病院に入院を許された最初の半島人として―― 鄭君は平安北道事辺群に生れ、満州国間島省汪清県春明郷水南洞の甲長(町長)をしてゐる長兄鄭達承君の許で汪清県高等学校に通つてゐたが、中退して天津へ行き土木建設業を営んでゐた.そこへ支那事変の勃発となり祖国日本のために起つた鄭君は兄にも無断で日本軍の通訳を志願、昨夏八月廿一日河本部隊付となつて以来同部隊の進撃するところいつも第一線に立つて活躍をつゞけ同部隊が予想以上の戦果を収めたのは鄭君の流暢な支那語に負ふところが多いとまでいはれた.続いて部隊に従つて江南に進撃、十一月廿二日浙江省八里店付近で敵情偵察の決死尖兵隊に加はり鹵獲した敵の小銃と抱えて勇躍出動、敵前百メートル余のところで大胆にも隊長から借りた双眼鏡で偵察をつゞけるうち左手と下腹部に敵弾を浴びて倒れたのだ。永い間辛苦を共にした部隊と別れて鄭君が泣いて後退するとき河本部隊長以下将兵も涙なしにはゐられなかつたといふ(写真は鄭達去君) 読売新聞昭和十三年一月二十八日 ◎◎は判読できなかった文字、○はもとの新聞で秘匿のために使っていたものです. (この項おわり) |
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