2010.08.22.
■[RPGs]会話型RPG(TRPG)における〈プレイング〉の内実(改訂版)
はじめに――会話型RPGという手続きの基礎
会話型RPGというゲームを、純粋に「手続き・やりとり」の観点から眺めた時、それは
- ゲームマスターからの(架空の)状況提示
- プレーヤーからの(架空のキャラクターの)応答提示
この2つの情報提示のサイクルによって進行するもの、と見なすことができます。
そして、会話型ロールプレイング・ゲームにおける「プレイング」とは、ゲームマスターから提示される状況提示と、状況の描写のために運用されるゲームメカニズム(以下、単に「メカニズム」)を参照情報(references)としながら、プレーヤー自身(以下、単に「PL」)がプレーヤーキャラクター(以下、単に「PC」)の行動を逐次決定してゆくことです(=本記事における「プレイングの定義」)。
このことを確認した上で、会話型RPGにおいて扱われる情報と「プレイング」の関係について、詳しく論じます。
架空の状況についてコミュニケーションするのは、日常生活を送る私たちにとって、通常、大きな情報負荷を与えます。したがって、会話型RPGというゲームは、「架空の状況について想いを馳せることを楽しむ遊び」ではありません。もちろん、その要素はありますが、それだけでは、会話型RPGを特徴づける条件が足りていないことになります(「架空の状況について想いを馳せることを楽しむ遊び」というのは、会話型RPGの必要条件ではあるかもしれませんが、十分条件ではありません)。
では、会話型RPGを会話型RPG足らしめている要素は、ほかになにがあるのでしょうか。
ホビーの一種として定着したものとしての会話型RPGは、それがつらい作業ではなく、一時の娯楽(エンターテイメント)として成立するように、日常会話から抽出しうる二種類の情報を“抽象化”しています。それは、
- 量的情報(quantitative information,あるいは「定量的情報」)
- 質的情報(qualitative information,あるいは「定性的情報」)
です。
量的情報とその設計――変数定義と行為判定
〈量的情報〉とは、ある架空の状況に、数値化可能な尺度を与えることによって、その世界に所属する要素の一部を「変数(parameter)」として扱えるよう抽象化した設定情報のことです。(=〈量的情報〉の定義)
たとえば、世界でもっともメジャーな会話型RPGとされる『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)では、「筋力」「敏捷」「回避」「武器の強さ」といった、ファンタジー的世界の戦闘において考えうる要素を抽象化し、パラメータ化しています。D&Dでは「筋力:18」のキャラクターは、筋骨隆々とした剛腕の持ち主であり、「敏捷:07」の魔法使いはすばやさの点において劣っており、「武器の強さ:3d6」を持つキャラクターは、期待値10.5以上のダメージを敵に対して与えられる潜在能力(potential)を持っている、という風に解釈されます。
しかし、なんとなく状況にありそうな要素を数値に置き換えたからといって、ゲームとして遊べるわけではありません。会話型RPGにおける数値付与が、単なる数字の羅列で終わらない為には、一貫した乱数処理のメカニズムが必要になります。D&Dでは、正20面体のサイコロ(ゲームデザイン用語で、「d20」と表記する)と、能力や技能に応じた修正値を足し合わせて、「必要な難易度以上の数値が出る」と、PCの行為は成功となります(これを「1d20による上方ロール」と言います)。その基準を満たさなければ、失敗です。こうした乱数処理をPCに対して与えるようなルールを実装すること・またはそのルールを、慣例で「(一般)行為判定」と呼びます(=〈行為判定〉の定義)。
つまり、会話型RPGにおける情報を抽象化する際、〈量的情報〉にするということは、
- 「再現したい架空の状況の各要素を、有限個のパラメータ(変数)に置き換えられるよう、個々の変数を定義すること」(変数定義)
- 「その定義された変数の組み合せによって、何らかの一般行為判定(=乱数処理の基本的な指針)ができるようなルールを提案すること」(行為判定)
この2つの条件を同時に満たすような加工を行う、ということを意味します。
素朴な自然言語によって記述できる物語的描写を、“量的情報化”(それは同時に、“量化=抽象化”*1を意味します)することによって、会話型RPGは、遊び手にとって適度な知的刺激を提供する、テーブルゲームの一種として扱えるようになります。実際、会話型RPGと称して売られているルールブックの大半は、再現したい架空の状況に応じて、適切かつ構造的欠陥の少ない*2“量化=抽象化”を与え、それによってよりシンプルに「(物語的)状況の描写とその感覚の共有」を体験させることができるわけです。
質的情報とその設計――ギミック・マニュアルと、そのための世界記述の集まり
しかし、会話型RPGのメカニズムは、量的情報だけで成り立つものというわけでもありません。一方で、〈質的情報〉というものがありうることも説明しましょう。
会話型RPGには、「キャンペーン(campaign)」という言葉があります。これは、「同一のキャラクターや背景世界を用いて、会話型RPGを連続してプレイすること」というくらいの意味で使われています。そして、そのセッション(=会話型RPGにおいて、ひとまとまりのゲームを成立させること)の中で採用されるひとまとまりの世界とその設定のことを、「キャンペーン設定(campaign setting)」とか「背景世界(campaign world)」などと呼びます。そして、会話型RPGの書籍は、先ほど述べた〈量的情報〉とは別に、ほとんど自然言語(つまり散文)による記述が続く「キャンペーン・ガイド」「ワールド・ガイド」という種類の書籍が販売されます。時には、ゲームと関係なく“架空世界の博物誌”として読めてしまうような出来のものも、多く出版されてきました。
こうしたキャンペーン・ワールドについての情報は、先ほど述べた量的情報ほどには、それほど“抽象化”とは関係ないように思われます。むしろ、考えずに済ませたい情報をむやみに増やしているのではないかとすら思われかねないところもあります。
ところが会話型RPGでは、こうしたキャンペーン・セッティングについての情報を提供することも、情報処理の負荷を軽減する訳に立つのです。より精確に言えば、キャンペーン・セッティングは、現場のゲームデザインを担うゲームマスターにとっての情報処理を劇的に改善してくれるのです。
会話型RPGにおけるゲームデザインの花形は、ゲームマスターが駆動・管理する「シナリオ」にあります。シナリオとは、プレーヤーの繰るPCたちが、おおむねどのような状況に置かれており、どのような人・モノ・事件とめぐりあい、どのような課題を解決するのか……といった、一連のゲーム的仕掛けを記した手続き書のことです(=「シナリオ」の定義)。なお、このシナリオのゲームデザイン的加工の面を強調する為、筆者は〈ギミック・マニュアル〉と呼んでいます(以後は「シナリオ」を指し示す語として、「ギミック・マニュアル」を用いることにします)。
このギミック・マニュアルを設計するにあたって、先ほど述べた量的情報は、実のところ、それほど決定的な役割を持ちません。確かに量的情報は、特定の物語的状況で活躍するPCの行為を判定できる基準を提供してくれます。ところが、その基準だけでは、具体的な状況の描写には至りません。会話型RPGのギミック・マニュアルには、データだけでなく、パラメータの後ろの側で無数に動いている(と仮定される)、「自然言語によって表現可能な出来事の継起」もまた、沢山必要なのです。
ファンタジー世界においてある課題が焦点化され、プレーヤーたちにその解決を求める時も、プレーヤーの繰るPCたちの回りには、“その世界における生活”が蠢いています(少なくとも、そのように仮定することが可能です)。現代のコンピュータAIであっても、その全てをそれらしくシミュレートすることはまだまだ困難であるとされています。ましてや、テーブルゲームの審判の一人でしかないゲームマスターに、その厳密な処理を委ねるのは、一種の拷問ですらあります。
そんな要らぬ苦労をゲームマスターに負わせることがないよう、特定のゲームメカニズムで遊ばれる世界には、特定の(その判定系を適用することが想定された)キャンペーン・セッティングが商品として提供されていることが多いのです。
- 「街aの人口は10000人余りである」
- 「地域bの植生は以下のようである」
- 「種族cのデータは、概ね以下のように数値化することがこの世界では一般的であるが、例外もある。部族単位で行動する場合の傾向は……」
- 「魔法的次元dにおける魔力の移ろいはルールでも規定されているが、我々の住む世界における現象に引きつけて考えるなら、電話のアナロジーで理解するとよい:すなわち……」
- 「悪らつな宗教カルトeと魔女狩り集団fは、どちらもその地域の住人からは嫌われているが、同時に反目しあってもいる。二組織の活動範囲は……」
……こうした情報のいずれかを、ギミックマニュアル設計時に適宜参照できるように編纂されていれば、ゲームマスターは毎週末までに安心してプレーヤー達にゲームを提供することができるようになります。処理すべき自然言語のデータ量が増えているように一見みえますが、実のところ、「ゲームマスターが自力で考え出さなければならない自然言語処理の量は劇的に減っている」のです。
このようなわけで、会話型RPGにおけるゲームマスターとプレーヤーは、ゲームのプレイを通じて〈質的情報〉をも共有することになります。改めて質的情報とは何かを定義すれば、それは架空の状況・世界についての整合性の高い記述の束でありながら、同時にいつでも、その背景世界のために設計された特定の会話型RPGの変数定義・行為判定によってある程度まで表現・処理が可能なよう記述が工夫された、主に自然言語によって提供される情報のことになるでしょう(=〈質的情報〉の定義)。
改めて、〈ロールプレイング〉とは何か?
ここまで、会話型RPGの手続きと、それを観察する際のおおまかな道具立てについて説明してきました。
まず、会話型RPGは、ゲームマスターと呼ばれるホスト役(アマチュアのゲームデザイナー兼審判役,GM)が、架空の状況で行動する人格(=プレーヤーキャラクター,PC)をそれぞれ管理するプレーヤーたちと質疑応答を重ねながら、ある特定の状況を共有・体験していく営みであることを述べました。
そして、そうしたGMとPL間のやりとりは、「素朴な日常言語によって営まれる空想遊び」と規定するだけでは、(決して誤りとは言いきれないものの)かなりの不備があることを述べました。むしろ会話型RPGは、〈量的情報〉〈質的情報〉と僕が述べた“情報の抽象化”アプローチを利用することによって、架空の状況を処理する際の負荷を下げ、それによってより自発的・制度的に営める遊びであるということを確認してきました*3。
さて、会話型RPGにおいて、量的情報と質的情報の2つの抽象化手段があることによって何が嬉しいのでしょうか。筆者は、こうした基本的な理解が、会話型RPGにおけるベスト・プレイングを目指すための基本的な視座(=パースペクティヴ)として有効に機能すると考えています。
筆者は、幾つかの先行するTRPG批評の見地を踏まえて、会話型RPGにおけるプレイングを、以下のように規定しています。
■会話型RPGにおける「プレイング」の四大目標
- ギミック・マニュアルにおいて明示/暗示された課題・目標の解決に、少しでも近づくこと。(課題の解決)
- 量的情報から考えられる最善の指し手を、プレーヤーたち全員で協力し、資源管理し、意思決定すること。(量的ロールプレイング)
- 「課題の解決」や「量的ロールプレイング」と矛盾しない範囲で、キャンペーン・セッティングと矛盾しない「それらしい」行動基準を各々の担当PCに付与し、破綻のない華麗な行動をその都度公案すること。(質的ロールプレイング)
- 以上三点の、しばしば矛盾しそうな課題を突破することによって、そのメカニズムデザイナー、ゲームマスター、プレーヤーたちが持ち寄った「ゲームの狙い」を、“ゲームデザイン”の観点から味わい、出来るだけ多くの楽しみを獲得・共有・拡張しようとすること。(共同ゲームデザイン)
この4点のうち、2つめと3つめに掲げられた目標が、どちらも「ロールプレイング」と呼ばれていることに留意してください。会話型RPGにおいて、「役割を分担しつつ目標をよりよく達成すること」(役割分担)と、「散文的記述によってあらかじめ定められた条件から逸脱せず、それらしい行動をPCにさせること」(キャラクターの行為描写)とは、どちらも平等に「プレイング」の課題であり、「ロールプレイング・ゲーム」の肝にあたる部分なのです。この“二重のロールプレイング”をバランスよく軽やかにこなす、ということがわかれば、実のところ会話型RPGは、ゲーム的にとても挑戦しがいのある要素を多く含んでいることが、よくみえてきます。
量的ロールプレイングを理解する為には、ゲームメカニズムによって指示されたさまざまなルール、データへの理解と、仲間であるプレーヤー達の持ち寄る管理資源(resources)に対する知見や配慮が必要不可欠です。こうした情報は筆者が本論の前半で述べた〈量的情報〉そのものです。
ゲームマスターのギミック・マニュアル設計のために必要な〈質的情報〉もまた、プレーヤーたちが自分のキャラクターをより魅力的な「行為の人」として構築してゆくために、役に立つものが多いでしょう。ゲームマスター独自の情報を咀嚼して、新しい設定を逆に提示してみせるというような行いは、そのキャンペーンでの楽しみをより増させるものとなるでしょう。
事例:『ウォーハンマーFRP』におけるプレイング・ワークフロー
これまでの話を、筆者が参加した『ウォーハンマーFRP(第二版)』リプレイの第二回(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)を事例に、ワークフローの例を紹介します。
実際には、これを数秒から数分の間考えて、どういう風にゲームマスターや他プレーヤーに伝えていくかを考えてゆきます。ですが、大事なのは順番に行うことではなく、先ほど述べた4つの目標を無理なく満たした発言ができているかということです。
魔術師エックハルトが、家庭教師先の屋敷で標的を尾行しようとする際のプレイングです。この部分では“演技”(後述)も最後に付け加わっていますが、特に思いつかない場合は省いても何の問題もありません。
■TRPGにおける〈プレイング〉の認知的プロセス─高橋によるエックハルトの〈意志決定〉事例(改訂版)
- 当座の目標を考える:「よし、エックハルトには、黄金の学府の連中を屋敷の中から探し出してもらおう。」
- 〈課題の解決〉:「坊ちゃんをどうにか遠ざけて、なるべく隠密に情報を集める必要がある。」
- 〈量的ロールプレイング〉:「エックハルトは〈姿隠し〉が得意だ。これを使って穏便に済ませよう。」
- 〈質的ロールプレイング〉:「よし、お馬鹿な坊ちゃんをしごき倒して、自発的に部屋から逃がしてしまえば設定とも整合してなかなか面白い。我ながら酷いね。うんうん」
- 『ウォーハンマー』世界の狙いの再現:「ふだん貴族に言いように使われている魔術師が、ここぞとばかりにこそこそ屋敷の中を嗅ぎまわる。『オールドワールド』の世界らしい振る舞いだ」
- 上記4点を考慮した〈意志決定〉の吟味
- 〈行動申請〉(必須):『エックハルトは坊ちゃんをしごき倒して、彼が逃げた隙に呪文を発動。屋敷の中にいるはずの黄金学府の者を探そうとするよ』
- 口頭によるエックハルトの台詞描写(optional。効果的でない場合は特に必要ない):〈行動申請〉を終えた後、以下のような台詞をもっともらしく喋り、GMの反応を待つ。「エーデルライヒ坊ちゃま、唐突ですが今日は積分のお勉強を始めましょう」*4
- 〈ゲームマスター〉による裁定→「げー、幸運点を使ってもバレてしまった!(笑)」
- 〈結果に対する責任〉:「パーティに巧く情報を伝えたいし、死にたくもない。ここは社交判定でとぼけるしかないぞ!」
- (はじめに戻る)
補:なりきり(immersion)について――一般的な説明と、「没入……の達成評価」をめぐる困難
会話型RPGを紹介する際に大多数の方々に誤解されるのが、「でも、会話型RPGに参加するということは、(あまりやりたくない)演技をしなければならないのではないか?」ということです。
実のところ、国産TRPGシステムを含めても、(それを禁止してはいないものの)「必ず(私たちが考えるような)演技・芝居をしなければならない」というようなメカニズムは、随分少なくなっています(少なくとも、ゲーム的な工夫もなく演技を“強要する”メカニズムは、市場からほぼ自然淘汰されたかたちです)。
会話型RPGの基礎は、本論の前半部でも述べた通り、本来ことばや絵、映像などでも表現可能かもしれないものを、あえて「ゲームデザイン」という表現形式(art form)によって表現し、より簡単に複数人間で共同管理できるようにするという点にあります。そしてその中に、“演技”という評価基準の曖昧なものを数値化する要素は希薄です(どうしても人間のナマの思考が要ります)。なお、ここで言う“演技”とは、口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、というものです。会話型RPGにおいて、そうしたパフォーマンスは(演劇を知る者同士にとってさえも)必須のものとは思われてはいません。
ただし、プレイの最中に、「直接話法で話した方が効率的である・感情移入を促進する・プレイの味付けとなる」というような理由で、台詞を代弁するということは、慣れたプレーヤーなら誰でもある程度は行います*5。しかしそれは、「身体的パフォーマンスを観客に見られている俳優」ほどには緊張感をもったものではありませんし、どちらかといえば“新作映画の企画会議における、脚本家チームの台詞提案”に近いものがあります。それくらいのフラットな感覚でなら、つい台詞っぽく提案することも、不自然ではありませんし、異性キャラクターの発言を代弁することもさほど問題ありません。「演技支援型のTRPG」と呼ばれるメカニズムも、どちらかといえばこの“提案”の妙味を中軸に据えていると考えた方が遊びやすいものが多いと思います。
と、ここまで言ってしまえば、「会話型RPGにおける、巷説としての演技派」へのコメントは終わってしまいます。要するに、「会話型RPGの担い手は別に演技を取り立てて推奨することはないし、そのように見える商品も、実のところは狭義の“演技”的志向を持たずとも問題なく遊ぶことができる」。つまり、ゲーム文化としての“演技”は選択的(optional)であり、後はプレイグループの希望によってフィーチャーしてもいいし、しなくてもいい(そして大多数はそれを中核には据えなくなっている)、という言い方になります。
(さらに言えば、“演技”というものをかなり意図的に排除したゲームにおいてもなお、前節で述べた“二重のロールプレイング”は重要な位置を占めます。身体的テクニックによって表現される“演技”と、質的ロールプレイングとはまったく重ならない概念であり、そして“演技”の非・選択(not否定)が質的ロールプレイングの重要性に何ら影響を及ぼさないことは、強調してもしすぎるということはありません。)
ところが一方、学術的につっこんでいくと、そう単純な話でもないよ、ということも言えます。以下はその話もしておきましょう。
「会話型を含めたRPGの本質は、自分ではないだれかになりきること、ひたすら対象に没入する(immersion)ことだ」という立場は、RPG成立移行、多くの場所で繰り返し主張されてきた立場のひとつです。それは会話型RPGに限った話だけでなく、コンピュータRPG、MMORPG、さらにはライヴRPGといったあらゆるRPG文化の中で何度も採り上げられてきました*6。
海外のライヴRPGを論じたものの中に、「GNS理論」というものがあります。これは、海外のインディーズRPGデザイナーのRon Edwardsが論じたRPGゲーマーの分類論で、それぞれGamism, Narrativism, Situationismの頭文字を採ったものです。
詳しい解説については、ひとまず英語版WikipediaのGNS理論(http://en.wikipedia.org/wiki/GNS_Theory)を見て戴くとして、なりきりというのは、実のところ「その世界の再現性・疑似体験性」をRPGにおいて追求しようとする、S=Situationismからも離れた、特に先鋭的な立場ではないかと思います。GNS理論それ自体は、これらのうちどれが最も正しいといった結論ありきの分類ではないのですが、「なりきり」という立場をはぴったりとどの派に属するということは言いきれません。
ただ、ゲーム文化の全体から排除するような言説は、さすがに採れなくなっています*7。その事例として、日本ではあまり知られていないRPG研究の潮流を挙げておきましょう。ヨーロッパや北欧では、ライヴTRPGのホビー化が進んでおり、毎年欧州のどこかでライヴTRPGについての研究大会*8が開かれるほど、学術研究も盛んになっているそうです。その中で、immersionを至高とする学派が一時期「“なりきり派”宣言」とでも言うべき論文を提出し、一時期大きな勢力を保っていたそうです。ところが、最近は当初の過激路線を諦めてしまったようです。*9
「なりきり派」がなぜ転向してしまったのかについては、まだ英語論文*10を追跡していないのでわからないのですが、筆者が思うに、「何をもってうまくimmaseできたか」という判断基準が、この世には存在しないからじゃないか、と予測しています。「ここではないどこかの世界の誰かとどれだけ一体化できるか」という問いは、この世界にいる誰かが判定してもしょうがない。自分の感覚でわかっていくしかない。どこかで“合一体験”というか、世界各地の宗教に見られる神秘主義の一現象に思わぬところから踏み出しているという面があるかなとは思います。もちろん、そういう点で、なりきり、immersionを追求することは、文化的に深遠な側面があり、そこで(ライヴRPG含む)RPGゲーマーを惹きつけてやまないのかもしれません。
ともあれ、「没入する」という形而上学的な目標に較べて、「面白いゲームデザインを目指す」や「みんなで面白い物語を構築・共有する」という課題は、まだしも議論として標準化しやすい部分があり、議論が進みやすいのも事実です。GNS理論の分類に優劣はないものの、「まあ、この辺は押さえといてもいいよね」的な、ポジティヴな議論の積み重ねは、ゲームデザイン論やプロット設計技術の応用がある程度先行していくというのが、順当な見方になると思います。世界をまるごと体験する・没入するという表現は、理論化するとしても、もっとその先の長期課題として検討されるべきなのでしょう。
筆者が先ほど述べた「プレイング」の四大目標は、まだまだ議論の蓄積が必要なRPGデザイン論において、現時点での無難な落ち着きどころをさがしたものにもなっています。
補その2:ライヴRPG(LARP)について
Live Action Role-Playing(LARP)というジャンルが、北欧で学問的に研究されていたりするほどメジャーな娯楽として浸透しているという話があります。
LARPは、会話型ロールプレイングゲームと基本的な部分で似通っているものの、「実際の身体を用いて歩き回ったり、まるでその世界の人物であるかのようになりきったりする」という部分をフィーチャーしているという点で、卓上ゲームとしてのTRPGとは異なる環境の前提があります。デジタルゲーム論の文脈でも、日常生活の空間にゲームを設計するAlternative Reality Game(ARG)、また拡張現実技術を利用したAugmented Reality Game(ARG)への注目が集まっています。LARPは、こうした点で、会話型RPGより強く「物理的空間において遊戯の場を設計すること」を志向しているジャンルのゲームと言えます。
LARPのようなゲーム環境がもし整っているのであれば、先に述べたような「なりきり」の話は、まったく異なる意味を帯びてくるでしょう。実際、WoDはLARPのシステムとして用いられている例も少なくないようですし、また全身でコミュニケーションが十分に取れる(仮装も可能)な状況で、卓上ゲームの延長のような会話をするのは、メディアとしての身体を有効活用できていないということにもなるでしょう。
惜しむらくは、LARPのような形式でのRPG受容が、(土地の制約か、演劇文化に対する見解のためか)未だに日本ではメジャーではないということです。LARPから「なりきり」の技法や運営論が語られる立場もあれば、今の「RPGにおける“演技”と、そのための精神的-身体的技巧」は、大きく変更を迫られることになるでしょう。そうした見地からのimmersionの展開は、僕のようなどちらかといえば保守的なゲーム論者にとっても、きわめて刺激的な議論になると思います。そうした論を持続的に展開させられる方が今後日本にも登場することを望みます。
*1:何らかのありのままの情報を量的表現に移し替えるということは、それがどれだけ科学的な知見に基づいていたとしても、知識の加工・抽象化になる、と筆者は考えています。「ゲームデザインとは、畢竟抽象化である」という格言を目にしたこともありますが、これは現象の量化を考える際に、とても興味深いフレーズです。
*2:後述する質的情報の扱いづらさにより、多くのルールブックは、それが傑作か駄作かという評価を超えて、「完璧な状況描写」というものが難しくなっている。会話型RPGのメカニズム面での不足を埋めるのは、常にテーブル(=GMとPLによって構築される共同討議の場)である。そこまで加味すれば、「あらゆるルールブックには欠陥などありえない」という過激な主張も可能だろう。
*3:筆者は、会話型RPGのこうした営みの特徴を示すものとして「共同ゲームデザイン」や「イマジナリィ・ボードゲーム」と言った呼称を何度か提案してきた。さらには、Vampire.S氏によるポリシー/メカニズムの区別から、本論で述べた量的情報化と質的情報化、この2つの処理を施した架空のキャンペーン・セッティングに対する表現系のことを(ポリシーの期待する応答を実現するものとしての)「メカニズム」とも呼んでいる。メカニズムは、自然言語と形式言語のどちらか一方で記述されるわけではなく、その雑駁な総合によって、会話型RPGにおける応答性を発揮している。
*4:リプレイには収録されていないが、このような発言をした。ちなみにエーデルライヒ坊ちゃんはとてつもなくおバカさんという設定。
*5:先に述べた4条件のどれも考慮に入れたプレイングを過不足なく満たして、初めて演技的な描写の挿入「味付け」として機能する。そして、そうした工夫は参加者全員を楽しませるだろう。過去の議論では“演技”は筋の悪いプレイと呼ぶものもあったが、それは誤りである。本当に筋の悪いプレイというのは、本論で述べた4条件や会話型RPGの仕組みを考えに入れず、ただ“演技”だけが会話型RPGの楽しさのうち至高のものであると決めつけてしまったプレイングのみである。本当に巧いプレイヤーほど、味付けとしての“演技”と、ゲームデザイン・物語的一貫性の両立とを過不足無くこなし、参加者を愉快にさせるものである。
*6:岩田宗之,2009,「MMORPGにおけるなりきり」http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/charaplay/charaplay/index.html,2009.09.26.),同「ロールプレイとなりきり」(http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/narikiri/narikiri/index.html,2009.09.26)
*7:90年代後半から00年代前半にかけてTRPG批評文を著した馬場秀和は、疑似体験の面白さを自らのRPG理論中に含みながらも、その一部の発言が、明らかにゆきすぎたなりきり派だけでなく、キャラクターの疑似体験感覚を楽しみとして見いだすnarrativist, situationistすらもまとめて排除する言説として取られてしまったことにより、多くの批判を受けた。こうした誤解の根本原因は、馬場が「遊び/ゲーム」二分論という、なおゲーム論全体で試行錯誤の続く二分論を素朴に展開してしまったこと、そのことによって「遊び」の多様性とボーダーラインケースをうまくRPG論に取り込むことができなかったこと、そして「そもそもゲームデザインという表現は、どのような表現を可能にしているのか」という議論を、コスティキャン由来のdecision-making以外の論において徹底して行わなかった事……などが原因として考えられるだろう。しかしいずれにせよ、現時点からフラットに読む限り、もはや議論の俎上に挙げるべき内容は(彼のリベラルな議論の作法についての提案以外では)多くの他著者の論文・考察によって代替できるようになっており、学説史的な扱い以外で言及することは少なくなっていると思われる。それでもなお採り上げるとすれば、彼がゲームマスターの作業において述べた三区分「システム選択/シナリオ作成/セッション運営」は、自律性を重んじる多くのゲームマスターたちにとって、未だなお論じるに足るアジェンダだろうか。
*8:Knudepunkt conferenceと言う。http://en.wikipedia.org/wiki/Knutepunkt 参照。
*9:このスカンジナビアでのライヴRPGについての情勢は、日本に調査滞在中のライプツィヒ大学院生であるBjoern-Ole Kammから示唆を受けた。