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唐刀的渡日
2010-05-24 10:33
我が国の武芸起源はとても早かった。其の内容と形は時期によって変わり、時代によって、その特徴が違う。同時に、武芸の形成したと発展した過程中、軍旅武芸と民間武芸の分野も生じ、また技術衝撃原因と健康原因がお互いに依存し合い消耗する矛盾があった。一言で言えば、武芸と言う特殊な文化形は、その発展史も同様に相当複雑だった。しかし、一点が明確である。古代で、冷兵器が戦争中主な位置を占めていた歴史の条件下、武芸の社会価値はまずそれが戦争中と各種の社会衝突中における護身殺敵の効果にある。そこで、その内容は出陣実用の兵器技術を主体にしなければならない。その発展変化もかならず兵器の形状の発展変化と相互補完で、密接関連しなければならない。そこで考えれば、どんな形の武書でもその伝播と交流は、必ず兵器の伝播と交流を以って一体とする。 一般の考えでは、周、秦の時代にも、我が国の剣刀などの兵器制作は既に日本に伝えられていた。その伝えたルートは主に朝鮮半島であった。日本の古文献と大量の考古資料より、日本と古代韓国の間には所謂「海北道中」と言う交通ルートが存在していたと証明されている。暦年来、日本の北九州で大量の先秦銅剣と剣を作る鋳型が発見された。北九州で発見されたのは、たくさん「刃は鋭利で、完全な特色をもっている中国製品」である(3)。そして同様の兵器は韓国の弁間韓、辰韓の慶尚南北道でも発見されている。 何年か前、日本の有名な学者木宮泰彦先生がこのように言った「これらの事実から、中国文化製品の銅剣、銅鐸は二千何百年前の古代に、弁韓、辰韓、対馬などを経て、まず博多湾沿岸に伝わって来て、それから筑後、豊後方面に伝わっていったと証明できる。そこで、このルートが当時の主なもので、ちょうど『書記』のなかに言われた海北道中と一緒だったと推断できる」(4)。他は江向栄先生の話によって、日本列島は弥生時代に、その青銅文化が二つの文化圏に分けられる。一つは銅鐸文化圏、もう一つは銅利文化圏である。 所謂、銅利文化圏は、北九州地区で発見された大量の「銅利器」を指して、主に銅剣などの兵器だった。佐賀県の食棺土葬の原始古墳と怜土郡の支石墓の中には、当時の支配者と一緒に埋められた銅剣などの兵器が発見されている。それは大体紀元前一世紀から紀元一世紀までのものである。「これら副葬品の中の極少数は当地のものを模造したものだと思われたが、大部分は中国大陸或は朝鮮半島からの舶来品である」。銅利器が伝わったと同時に、制作技術も同時に伝えわっていった、これは鋳型の発見から証明された(5)。朝鮮半島の多くの場所で、中国先秦時代の銅剣が発掘された。これらのことは、中・日・朝三国人民の早期交流中、剣は既に文化を伝播と感情の交流の媒介をするものの一つになっていたことを証明している(6)。 漢代になってから、中国製の各種類の短兵器、特に鉄製環首大刀がたくさん日本に入って、日本の短兵器の形成と制作に深い影響を与えた。環首大刀は西湊時代に盛んになって、剣、特に長剣に築いて、新しい兵器に進展変化した。漢代の鉄製環首大刀が軽くて、製造精良で、戦陣実用効果がとても良いから、日本の武士に好まれていた。 1962年、日本の奈良天理市榎本古墳の古基から一本の東漢中平年間(184~189)の中国製の鉄製漢首刀が発見された。その刀身には「百煉清剛、上応星宿、下避不祥」(百回以上も鋳造されて、上は星宿に応じて、下は不吉祥を避ける)という銘文が刻まれている(7)。この刀の形、製造、鋸文の格式及び刀の生地は1974年我が国山東蒼山から出土した東漢永初六年(112)の鉄製漢首刀と大体同じだ。皆何回も加熱して、多層し重ねて打たれて、表面は炭化した制作方法の優質な含鋼鉄刀である(8)。 中平刀は副葬品として日本の古基から出土して、その主の在世中の大変な好みを証明しており、また漢刀は日本にまで伝えられた物証にもなっている。『日本武器概説』の作者未久雅堆先生の説によると、日本各地から、多くの漢刀とその模製品が出土した。彼は、当時日本武士が所用した兵器は「特に朝鮮半島と大陸から入ってきた」と考えている(9)。漢刀が大量に日本に入って日本の刀製に大きな影響を与えた。日本古代兵器史本に見える日本古刀の多くが明らかに漢刀の特徴を持っている。『中国兵器史稀』の作者周維先生が、漢刀の模製品は日本の至る所で見えて、「いつも十数本を所有する人がいる」とおしゃっている。 古代中国の剣刀は主に民間のルートで日本に入ったことが肯定できる。しかし、両国の正式外交で日本に入ったのもあった。もっとも有名な例は、三国時代日本邪馬台と曹魏の往来である。『三国志・魏志・倭人伝』に」よって、日本邪馬台国の女王卑弥呼は魏明帝曹容景初二年(238)六月に大夫難昇米などを派遣して、中国と友好関係を結んで来た。魏明帝が情熱的にこれらの使者をもてなして、珍寄のお土産も贈った。その中には、「五尺刀二口」が含まれていた。それから、両国がお互いに使者を派遣して、よく往来があったが、魏国から日本にお土産を贈る時は毎回必ず刀が含まれていた。 三国時代になっても、中国製の刀は日本人民に珍しく見えた。日本の九州熊本県玉名郡菊水町の江田船山古基から、漢字銘文を刻まれている日本大刀を発見した。日本の学者によると、これは五世紀中期の遺物で、だいたい中国の南北朝時代にあたる(10)。この剣の発見によって、中国剣刀の日本への影響はずっと三国以降に続いたと証明されている。日本の考古家小野勝年先生が、有名な日本正倉院には、今現在も多くの古代中国剣刀を保存されてあって、「献物帳」には「唐式大刀」、「唐刀」などの名目が記入してあるとおっしゃっている(11)。所謂「唐式大刀」は唐代軍隊中で盛んに用いられていた刀を指すはずだ。この刀の様式は中国ではもう実物を見ることはできないが、日本の正倉院だけには何本か唐代の実物が保存されている(12)。 これらが歴史上、中国剣刀は日本への影響が長い期間であったことを証明している。少なくとも、唐代までにも中国剣刀は続いて日本に伝わった。秦、漢時代にも多くの中国人が朝鮮半島を経由して日本へ移民したが、彼らは日本民族の一部分に融合して、日本文化の発展に多く貢献した。日本古文献『堆略紀』、『書記』などによると、漢代の大陸移民がその手作業技術によって「部民」に分けられた。例えば、手人部、衣縫部、鞍部、画部、錦部、陶部などだった。これらの「部民」が日本に各種類の手作業技術をもたらして、日本朝廷の重視を受けた。金属鋳造工匠は日本に移民した記録がないが、弓作り、矢作りなどの兵器製作者がいた。中国の剣刀鋳造工芸も必ず日本に伝わっている。魏晋南北朝時代、北方中国戦事が多く、また各民族政権がその武力でお互いに侵略掠奪して人民に残酷な支配をして、たくさんの中国人が海を渡って日本に移民した。これらの移民も同様にその技芸で部民に分けられた。 この時期に、伝統の朝鮮半島ルートが中断されて、日本と中国の往来は主に南朝に向いたから、南朝文化が日本に大きな影響を与えた。春秋戦国以来、我が国の南方、特に呉越地区は、その精良な剣刀鋳造工芸で天下有名であり、同時に楚も長剣武芸で中国で有名だが、ずっと漢代までも「奇材剣客」の発源地であった。これらは日本と南朝の関係によって発展して日本に入ったと信じられる(13)。 隋唐二代の遣随使と遣唐使は、中日文化交流の高潮であった。その時、日本から毎回派遣してきた遣唐使団のメンバーは、各級の官員の他に、各種の専門家がいて、そのなかにはいつも総人数の半分に近く「射手」がいて、実際は、使節団の護衛武士であった。または「幡生」と「鋳生」がいた。これらの人がそろったのは、主に船が漂流する時危険を防ぐためだが、唐に入ってから必ず自分の専攻に関係あることをたくさん習って、日本まで持って帰る(14)。入唐の日本官員と留学生のなかに兵法武器に興味を持っている人もいた。例えば有名な遣唐副使「吉備真備」が大唐兵法兵器の愛好者であった。ただし、彼が毎回日本に持ち帰った中国兵器は、馬歩漆角弓、平射矢、射甲矢などいろんな弓矢だけであり、剣刀はなかった(15)。これはこの時日本地元産の剣刀はもう相当精良になって、唐朝から入ってもらう必要がないという証明であろう。日本人民は外来文化をよく吸収できることを称される優秀な民族であり、長期的に中国の経験を借りて、自分達の労働創造力と結び合わせて日本の剣刀鋳造工芸を飛潅的に進歩発展させた。そしてやっと後のものが先のものを追い越した。 中国春秋戦国時代の青銅花紋剣、特に春秋末期に興って、両漢に盛んになった鋼鉄花紋剣刀は、その比べるものがない鋭利さと精緻さでは世界で第一だった。考古発掘から得て、深く地下に千百年に埋められても、その刃はまるで新しく、輝いて奇麗で、国内外の人に奇観と感嘆された。だが歴代の支配者に無視されたり、踏みにじられたためにこの先進的な工芸は唐宋以降になるとだんだん衰えていった。これと同時に日本の花紋剣刀は素晴らしくて有名になって、「数百年以来、遠東で第一だ」(16)。大体宋代から、日本剣刀は中国に輸入し始められて、時の経過に従い、輸入量がだんだん多くなり、中国剣刀への影響もだんだん大きくなった。 『宋史・日本伝』の記載によって、宋太宗薙無二年(985)、宋に入って求法した日本名僧奝然が宋朝の自分への礼遇を報いるために、弟子喜因を派遣して、お礼を言いに来させた。喜因から宋室へのお土産の中には、日本製の「鉄刀」があった。実際は、宋代に日本剣刀はもう民間貿易によって止まることなく中国に入ってきて、中国で「宝刀」と誉められていた。 どうぞ北宋有名な文学家欧陽修が書いた『日本刀歌』を読んでください。 邑夷造透不麦通、世借切玉破線労? 宝刀近出日本国、負皮装貼香木報、 越雫得え治海東、黄白向森鶴軋 古金偉人好事手、侃服可以址妖凶。 詩人が、中国古代伝説中「玉を混おように切る」の昆吾の剣は、もうなかなか見つかり難いと言った(17)。だが一衣帯水の東隣の日本には本当の宝刀を造られた。詩人の歌から見えるが、日本刀は鋳造精良だけではなく、飾りがとても上品だから、それが好きな人は大金で買ってきて、ぶら提げて利器を誇っていた。「百金」は虚語ではない。日本『宇治拾遺物語』によって、「太刀十腰を質として、唐人(末代中国人を指す)から六、七千匹を借りられる」(18)。当時の日本刀がすごく値打ちが高いと見える。そこで、日本剣刀が中国貿易において主な輸出商品の一つになった。宋代だけじゃなくて、元代になっても、そうだった(19)。明代になったら、日本刀の制作は極めて精良になって、もっと名高くなって、非常に誉めたたえられた。 文献の記載と本日まで保存してある実物から見れば、明代の日本刀は一般的にその身は長く、刃は紙のように薄くて、すごく鋭利で、振り上げると、非常に振り心地がよくて、確かに固いものを切れる効果があった。刀の形から観察すると、日本刀が湊代衆首大刀の長所を継承し、発展させたのが良く伺える。そのサイズと重さはもっと戦いに有利な技術まで発揮された。唐宋以来の複雑で、刀体が重い中国短兵器と比べれば、日本刀はいずれに外観上と実用価値にしても、確実にはるかに高明だった。明代に日本剣刀が大量に中国に入ったのは、主に以下の三つのルートを通じてである。 第一は、日本皇室と商人の明朝廷への献物だった。このような献物に対して、明朝から一般的にもっと値打ちがある答礼があった。これは、本質的に朝貢貿易だった。明初、明太祖が倭寇の侵入と胡唯庸が日本のスパイになった故、日本からの献物はすべて断って、そして、海禁政策を実行した。日本古書『善隣国宝記』の記載によって、日本は中日貿易を回復するために、明建文帝三年(1401)使者を派遣して、友好を表わしに来て、それに「献方物」をした。其の中には「剣十腰、刀一本」を含んでいた。明朝の詔書が特別にこの「宝刀」を書いてあった。そのすぐ後、永楽元年(1403)に、日本の二回目「献方物」の時、刀の数は数本になった。それからの献物には刀がほぼ最も重要なものの一つで、種類も増えた。記録がある宣徳九年(1434)を例として、一回だけて、撤金鞘太刀二本、黒漆鞘太刀百本、長刀百本、総計二百二本がおった。保存してある二部の記録によって、景泰十年と成化十九年に献物した数が宣徳九年と同じで、二百二は定数であると証明した(20)。(20)文献記載が不完全のため、日本から朝貢の名義で中国に贈った刀がいったいどれぐらいあるかと分からない。ある人からの統計によると日本足利王室だけから明朝英宗以前の皇帝への刀は、千二百余りがあった。これらの優良な日本兵器は主に明朝廷の「御林軍」に使われて、、今になっても残された一部分も見える(21)。もちろん、実際の数ははるかに千二百本を超えていると思う。 第二は貿易を利用する。明初、日本商人は「朝貢」を名乗って、私物を携帯して貿易をした。持参した「私物には剣刀の方が多かった。これに対して、明朝政府が何度も厳禁して、毎回「入貢」する時持参する剣刀が「三千本を超えるべからず」と要求した(22)。永楽元年、日本貢史が兵器を持参して民間で販売した時、礼部尚書李至剛がそれの禁止を要求して、そして刀を没収した。初めて皇帝になった名成祖が「中国に憧れる」外国人に「朝廷がやさしい」ことを表わすために、政府から市販値段で買うことを主張した(23)。そこで、中日貿易に制限をするために、または倭寇の船と貿易船を区別するために、明成租永楽二年(1404)、日本と正式に貿易条約をサインして、これから、日本のすべての商船が中国に入る時、かならず明朝から発行した「勘合」を持参して、朝貢の名義で貿易を行うようになった。十年間一回献物して、人二百人、船二艘と規定した。これははるかに両国の貿易需要を満足できなかったが、特に日本側に。宣徳初、明がすこし調整して、人が三百人、船が三艘まで増えたが、やはり十年一回献物とあくまで主張した。実際は人と船の制限が厳しく実行し難いが、勘合貿易の規模、頻度は明の定額より大きかった。日本商船が規定通り明朝に献物した刀剣は上に述べた二百二本だった。このほかには、「国王付帯品」と使者と船にのっていた僧人或は俗人などの「自進物」、実際は商品だった。明朝が民間に個人で兵器売買を許さなかったから、日本剣刀は一般的に政府から統一で購入する。値段がとてもよくて、「刀一本が日本で八百文及び千文だが、明朝が五千文払う。当時の利益は四、五倍まで至った」(24)。その後輸入量が、大分増えたが、その質も落ちていて、値段も安くなったが、やはり利益があった。ですから日本船から持参した「国王付帯品」と「自進物」のなかに、ずっと剣刀を主として、槍入量もずっと上がっていた。木宮泰彦氏から提供されている数によると、第一、二次勘合は持参した剣刀は三千本あまりしかなかったが、第三次が九千九百六十本に上がって、第四次が三万本、第五次七千本あまり、第六次が三万七千本あまりだった!第七次、八次はそれぞれ七千本で、第十次は二万四千百五十二本だった。これはただ所謂「国王付帯品」の数で、使者の「自進物」を含まれてない。もし「自進物」の数を入れて、十一回勘合船から明朝まで輸入した剣刀は二十万本に少なくない(25)。 第三は密輸である。剣刀の厚い利益は勘合貿易を刺激しただけでなく、密輸を刺激するのは自明の理である。明代に中日の間は政府がコントロールした勘合貿易の他に、沿海にはずっと大規模な密輸貿易があった。これは間違いない事実だと思われる。明代には兵器は禁止されていたが、民間で兵器を隠している人が多かった。特に日本剣刀は、その質の精良で「中国人がたくさんそれを隠してある」(26)。人々の好む収蔵品になったのが、明人の詩から見れば分かる。日本剣刀が密輸貿易の商品の一になったのは信じられる。日本寛永十一年(1634、明巣禎七年)五月以降、兵器輸出は厳禁された(27)。だが、密輸活動は禁じられ難い。明未清初の広東で、「紅毛鬼子」が日本刀を販売していた。マカオと言う特殊な開港湯があったから、日本刀がマカオのいたるところで見えてから、もちろんマカオから内陸に入れる(28)。一言で言えば、密韓で中国に入った日本刀剣は絶対少なくなかったが、我々がその数を調べることはできない。明代に国家兵器政策機関が日本剣刀を模造した。これは太祖洪武年間にも始まった。清修『続文献通考』巻131『兵器』記載によって、洪武十三年(1380)「軍器局」を設置して、造られた各種類の刀には「倭漆刀」があった。明武宗正徳年間、軒臣江杉が権力を握った時、「兵伎局」に命じて、「倭腰刀一万二千本、長柄倭漆刀二千本」を製作してもらった。嘉靖年間、倭寇がよく侵略しにきた。兪大酋、戚継光等の抗倭名将から積極的な推薦によって、日本式の長刀、腰刀が中国軍隊の主な装備の一つになった。それから、北方辺境の軍隊にもたらした。このように大量に日本刀を使用させたため、その全部を日本からの輸入に頼れなかったから、自分で製造しなければならない。そこで、兵器家周緯がこのように言った。中国兵器史上、明代短兵が日本刀を使用したのと模造したのは一代の特徴になった。この結論は歴史に照らし合わせると間違いない(29)。 |
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