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天声人語

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2010年8月20日(金)付

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 名を成した人の親なら、子育て自慢も許されよう。半世紀も「偉人の母」でありながら、控えめを通したこの人は稀有(けう)な例である。世界のホームラン王、王貞治さん(70)の母登美(とみ)さんが108歳の天寿を全うした▼世界記録を抜く756号が出た試合、グラウンドに招かれた老父母は、孝行息子から記念の花盾を受けた。質素な普段着、慣れぬ場ではにかむ笑顔に、人格者が巣立った家庭をのぞき見た思いだった▼富山市で生まれた登美さんは、10代半ばで東京に奉公に出て、中国出身の王仕福(しふく)さんと出会う。差別の中、どんな仕事もいとわぬ出稼ぎ労働者だった。若夫婦は、屋号ごと継いだ下町の中華そば屋「五十番」に将来を賭けた▼王さん曰(いわ)く「気は強いが、一面では優しく陽気な働き者」は、一途で不器用な夫を支え、小さな店を切り回した。夕飯は登美さんが作る栄養満点のおじやで、ふうふう食べたという。仮死状態で生まれた病弱な子は大きく育ち、球史に太字の名を刻む▼母は、球場に通い詰める〈後楽園の名物ばあさん〉でもあった。現役引退時の思いを、自著に記す。「無学の上に特別な才能も何もない親のもとで、ここまでやってくれて、母さんは幸せです」(『ありがとうの歳月を生きて』勁文社)▼いや、徹夜の看病がなければ、そして大空襲の夜におぶって逃げてくれなければ、868本の本塁打はない。多くの野球少年が「世界」を夢見ることもなかったろう。そうそう、左利きの矯正をあきらめてくれたのも正しかった。「ありがとう」は尽きない。

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