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2010年8月22日(日)付

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猛暑の列島―緑と水の町へかじを切れ

残暑というにはあまりにも厳しい暑さが日本列島を襲っている。太平洋高気圧ががんばっているため、この暑さはまだ当分続くだろうという。熱中症で病院に運ばれたり亡くなったりした[記事全文]

興南春夏連覇―沖縄が風を巻き起こした

甲子園に、新たな歴史が刻まれた。全国高校野球選手権大会で、興南が沖縄勢として初優勝を飾り、史上6校目の春夏連覇を果たした。参加4028校の頂点に立[記事全文]

猛暑の列島―緑と水の町へかじを切れ

 残暑というにはあまりにも厳しい暑さが日本列島を襲っている。太平洋高気圧ががんばっているため、この暑さはまだ当分続くだろうという。

 熱中症で病院に運ばれたり亡くなったりした人は記録的な数にのぼりそうだ。生命を脅かす猛暑である。

 哺乳(ほにゅう)類としての人類は、高温に弱いのが宿命といっていい。

 体温を保つために体内で熱を生み出し、脂肪の層でそれを保つことにはたけている。逆に高温になると、汗をかいたり血管を拡張させたりして熱を発散させるしかない。体にこもると、熱にあたってさまざまな症状が現れる。

 とりわけ、渇きへの感覚が鈍くなっている高齢者は、早めに水分をとるなど注意が必要だ。

 異常な暑さは高気圧のせいばかりではない。私たちの生活が、それを助長していることも見逃せない。

 ビルなどで冷房を利かせれば、その排熱によって都市は暖まる。いわゆるヒートアイランド現象である。東京の平均気温はこの100年で約3度上がった。

 気温が上がればさらに冷房を強める。それによってまた気温が上がる。そんな悪循環に歯止めをかけることを考えたい。

 思い出してみよう。公園などの緑地帯で、街路樹で覆われた歩道で、心なしかひんやりとした空気に、思わず一息ついたことはないだろうか。あるいは川などの水面を渡ってくるさわやかな風に、生き返ったような気がしたことはないだろうか。

 そうした自然が身のまわりにたくさんあれば、もっとすごしやすいはずと思う人は多いに違いない。

 地球は温暖化しつつある。今年のような猛暑は、今後も続くと考えなければならない。とすれば、緑地や水辺など自然をうまく取り込んで、熱をためにくい町へと思い切って大きくかじを切るしかない。

 緑地の力は大きい。20ヘクタール以上の緑地は、約2度の温度差をつくるとされる。それほどまとまった緑地でなくても、街路樹があれば日中でも快適に歩ける環境ができる。水を引き、緑陰をつくってベンチでも置けば、絶好の休息場所になる。さまざまな形で緑や水を増やすことを考えたい。

 かつての日本には、自然をうまく取り入れた町と暮らし方とがあった。

 しかし近代化の過程で効率を優先するあまり、樹木を切り倒し、川を埋めた。野放図に立ち上がったビル群は、風の通り道をふさいだ。暑苦しく、うるおいを失った町並み。そんな都市のあり方を見直すべきときだ。

 緑や水は心を和ませてくれる。熱を和らげることは、命を守るだけでなく、快適で魅力的な町づくりにもつながるだろう。

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興南春夏連覇―沖縄が風を巻き起こした

 甲子園に、新たな歴史が刻まれた。

 全国高校野球選手権大会で、興南が沖縄勢として初優勝を飾り、史上6校目の春夏連覇を果たした。

 参加4028校の頂点に立つまでの、はるかな道程を思う。深紅の大旗を手にした選手たちに、心からおめでとうと言いたい。

 積極的な打撃は決勝でも変わらなかった。4回に東海大相模から7点を奪った攻撃は圧巻だった。ウチナーンチュ(沖縄人)らしい伸びやかさと、はじけるような強さがあった。

 沖縄の人々は、米国統治下の時代から何かにつけて「本土に追いつけ」と自分たちを奮いたたせてきた。高校野球も、そんな意味でスポーツを超えた存在だ。時にみずからの人生を重ね合わせ、見守ってきた。

 興南の我喜屋優監督は1968年夏、同校が沖縄勢としてはじめて準決勝に進出した時の主将である。本土復帰の4年前。パスポートにあたる身分証明書を手に、甲子園に向かった。

 この時の快進撃は「興南旋風」と呼ばれ、沖縄が、日本中が熱狂する。

 「勝つたびに復帰が近くなるように感じられます」。琉球政府の行政主席は、そんな電報を打ったという。

 夏の甲子園が復活した46年、沖縄では、第1回全島高校野球大会が開かれた。20万人余の犠牲を出した沖縄戦の傷跡が残る島に、硬球はなかった。米軍が持ち込んだソフトボールを流用し、塁間をちぢめて試合をした。

 58年、40回記念大会に特別枠で首里高が出場、沖縄勢がはじめて甲子園の土を踏む。平均身長163センチの小柄なチームは初戦で敗れたが、観衆からは大きな拍手が送られた。地元紙は「アルプススタンドで一日日本復帰」と、その様子を伝えた。

 72年の復帰後、沖縄の野球はだんだんと力をつける。一年中練習に打ち込める温暖な気候。地元選手が本土の大学などで学んだ野球を、指導者となって持ち帰る好循環。それらが沖縄の高校野球を底上げしていった。

 沖縄水産が90、91年の夏、2年連続で準優勝し、本土を追う時代から、追われる時代になる。99年の選抜大会で沖縄尚学が県勢初優勝。本土からも練習試合におとずれる学校が増え、島のハンディは小さくなっていった。

 「沖縄の復興は、まず高校野球から」。沖縄高野連の生みの親で日本高野連の元会長、故・佐伯達夫氏はかつてこう語ったことがある。その頂を、いま沖縄はきわめた。

 昨年来、沖縄は米海兵隊普天間飛行場の移設問題で揺れている。

 長い過酷な道のりを歩んできた沖縄の人々の心に、興南の偉業は何を刻むだろうか。

 「旋風」から42年。さらに大きな風が、猛暑の夏に巻き起こった。

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