Ange-Coco
2010-08-19 21:12:28

真の解放

テーマ:ブログ

束縛から自由になることを「解放」と言います。


解放されることを望まない人はおそらくいないでしょう。


私たちのまわりはだらけです。



たばこ・酒・麻薬・賭博・その他…。



餌に目を奪われて仕掛けに気づかない。



それで意外に簡単に罠にかかってしまうのです。




「たった一回だけ!」「すぐに止めるから!」というのですが、結局は一生涯その奴隷にされてしまいます。



『罪を犯す者は罪の奴隷なり』ヨハネ伝8:34




悪魔の罠は巧妙です。



知らず知らずのうちに入り込んで、気づいた時にはもうやめられなくなっているのです。


「やめたい」と思っても習慣性・中毒症状に引きづられてやめられない。



「やめたい」「やめられない」のジレンマで精神を病み、自殺に追い込まれた人も多いのです。



被害は本人だけでなく周囲をも巻き込みます。



「酒乱、暴力、家庭崩壊」「賭け事、借金、一家離散」「麻薬、逮捕、名誉・地位喪失」。



見るも無残な姿ですね。



「どうせやめられないから、このままでいい」などと思ってはいけません。



実は、死んだ後が大変なのです。




死後の世界では続いて欲望があるのに、一滴の酒も、一服のたばこも得られないのです。



そこでは罪の刑罰を永遠に味わい続けなければなりません。



「これらの者は去りて永遠の刑罰にはいり」マタイ伝25:46





私たちは生きてこの世にいる間に永遠の準備をしなければなりません。




刹那の楽しみのために永遠の刑罰に入ることのないように、今、罪の力からの解放をお求めになりませんか?




解放は救い主の働きによって与えられます。



罪と罰から私たちを解放してくださる救い主は主イエス・キリスト様です。




真の神様の御独子である主イエス・キリスト様は私たちを愛し、私たちの罪に対する罰を御身に受けて十字架で死んでくださいました。



「キリスト聖書に応じて我らの罪のために死に…聖書に応じて三日目に甦へり」コリント前書15:3-4



私たちに代わって死んでくださった主イエス・キリスト様は三日目に墓より復活され、後に天へ昇られ、今も父なる神様の右において私たちのために執成しをしていてくださいます。



「死にて甦へり給ひしキリスト・イエスは神の右に在して、我らのために執成し給ふなり」ロマ書8:34



今、主イエス・キリスト様はいかなる罪をも赦すことができます。



いかなる癖からでも解放してくださいます。



ただ、私たちが主イエス・キリスト様を「私の救い主」と信ずることだけが条件です。




「彼は己に頼りて神様にきたる者…を全く救ふことを得給ふなり」へブル7:25




どうぞ、救い主におすがりして真の解放を体得してください。


そうしなければ、永遠に悔やむときが必ず来ると聖書は教えています。




「キリストは自由を得させんために我らを解き放ちたまへり。然れば堅く立ちて再び奴隷のくびきに繋がるな」ガラテヤ書5:1



コメント

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1 ■無題

げっ…

とらちタバコ吸う…

゚゚゚゚゚-y(^。^)。o0○

ねーねー
裁かれる?
o(・_・= ・_・)o

2 ■とら隊長さん

コメントありがとうございます。

地獄は燃える火の中ですから、たばこに付ける火は事欠かないと思いますよ( ̄▽ ̄)

>ねーねー
裁かれる?
o(・_・= ・_・)o


とらさんのような人のために、まだ猶予はあるよ(o^-')b

3 ■無題

酒を飲む → 習慣になる → 中毒になる → 酒乱になる というのはあまりにも偏り過ぎてませんか?

麻薬は論外として、酒もたばこもギャンブルも適度に楽しめばいい気晴らしになりますし、世の中の殆どの人はそうだと思います。ごく一部の自分をコントロールできない人がいるというだけではないでしょうか?

僕はタバコは全く吸いませんが、酒は飲みます。でも、別に飲まなくても良いので、今週は全然飲んでないです。

それらを罠だと言って避ける生活をする人を否定はしませんが、だからと言って酒やタバコを嗜む人のことを罪だと言ったり、サタンの罠にかかってると思うのは極端に走り過ぎじゃないかなあって思いました。

4 ■無題

ぢごくの火より、タバコの値上げのがこあいもん

(ノω・、)

5 ■まいけるさん

コメントありがとうございます。

ご指摘ありがとうございます。

確かに読み方によっては偏りすぎるという印象を受けるでしょうね。

酒を飲んでも、ギャンブルしても、女性ならショッピングなど、どんな事があってもその欲に溺れない、自分をコントロールできる人って、本当に凄い精神力だと思います。

注意しているぶんにはいいですが、やはり人間は弱いものだと思いませんか?

注意しないといつの間にかその罠に陥ってしまう可能性はないでしょうか?
もちろん私を含めて、誰でもその欲に対する弱さは持っていると思います。

その事を伝えたかったのですが、言葉が足りませんでしたね。ごめんなさい。m(_ _ )m

あ、それから、まいけるさんは、「ごく一部の自分をコントロールできない人がいるというだけではないでしょうか?」と話してくれましたが、私が感じた事は、まいけるさんのように自分をコントロールできる方が世の中少数ではないかなぁと思います。

もし、自分をコントロールできない人がごく一部であるなら、夜の繁華街やパチンコ、競馬、競輪がなぜそんなに繁盛しているんだろうって思うんですよ。

その考えもちょっと偏っていますかね?(^▽^;)

6 ■とら隊長さん

>ぢごくの火より、タバコの値上げのがこあいもん


そうか…とらさん…わかったよ。

愛煙家にとっては死活問題だよね。

日本たばこ産業JTに値上げ反対のプラカードでも持って訴えようか(*^▽^*)

あっ、ずっと聞きたかったんですが、プラカードと言えば、数年前カルトの世界大会で「マインドコントロールによる世界一致の兄弟愛」みたいな文句が書かれたプラカード持った人を見かけたけど、どうもとらさんに似ていたような気がするんだけど、気のせいかな?(^▽^;)

7 ■無題

僕の勉強不足かもしれませんが、聖書中に飲酒を禁じる箇所はありましたっけ? 泥酔や深酒を禁じる部分はあっても飲酒そのものをとがめる部分は無いですよね?  普通に生活してる人なら飲酒はコントロール出来るものという前提が昔からあるからではないでしょうか?

酒場やパチンコや公共ギャンブルが繁盛してることが弱い人の証拠というのは論理の飛躍でしょう。各自、自分の収入内で遊ぶ分にはその人の自由ではないでしょうか? 一部、コントロールできなくなった人が借金苦になっちゃうようですけど、全員が全員そうだとしたら日本は破滅してますよ。

angeさんのその理屈だとJW信者も原則深酒禁止ですし、タバコもギャンブルも麻薬も禁止ですから、JW信者でもOKってことになりかねません。他人の言動をみて「自分はああなりたくないものだ」と考えてしまうその思考はイエスキリストの教えとはそぐわない気がするのですが、いかがでしょう? 目の中の藁を取らせてください~~って聖句もありましたよね。

要は何事もほどほどがいい、ってことだと僕は思います。あまり酒を悪者視すしてしまうと、婚礼の折に最高級のぶどう酒を奇跡を使ってまで差し入れたイエスの行動や、少しのぶどう酒は胃のためにいいと書いたパウロさんの立場がなくなっちゃいますよ(笑)

8 ■無題

とらちはそーいうプラカードみたいなコトはあんまり好きぢゃないよー
ヽ(;´ω`)ノ

基本ガチンコがいいでつ。

Angeさんの記事は深くて興味深いんだけど、とらちみたいな凡人の極みみたいなんは、時々読んでて苦しくなるにょー
あー、結局は裁かれる身で、Angeさんも、とらちは裁かれちゃうからねー。って思ってんのかなー?って。
とらちのようなヒトのために猶予があるってコトは、それを無視すればやはりとらちは裁かれるって解釈にもなり得るしょ?
そんな神様はいやーん。
せっかくならとらちのいいとこを表現してるような聖書の言葉とかを深く掘り下げてくれたら、とらちも嬉しくなるにょー。
(* ̄Oノ ̄*)
とらち楽しいコト好き♪

9 ■まいけるさん

コメントありがとうございます。

聖書には大酒飲みは戒められていますが、イエス様が水をぶとう酒に変えられた最初の奇跡や胃のために少しのぶどう酒を勧めた記録から、酒を飲むことを聖書は否定していないという意見も確かにあります。

ただ、当時のぶどう酒は今のようにアルコール度は高くなく、当時は水も衛生的ではなかったので、抵抗力の弱った者には水よりぶどう酒をと勧めたのではないかとも言われているようです。

確かに、まいけるさんのおっしゃるように、何事もほどほど、適度にというスタンスが保てるなら、素晴らしいと思います。それができるなら何の問題も生じないと思いますよ。

しかし、人間はいつも変化がない生活をしているのではないと思うんです。
この先ずっと自分を崩さず、酒を飲んでも失敗せず、ずっとその姿勢を保っていられるだろうかと思いました。

それは、私がかなり酩酊して失敗した経験があるから言ってるだけですけど。

私の記事から、他人の言動を見て「自分はああなりたくないものだ」とさばいているように感じさせてしまったのなら、本当に申し訳けありません。

ぜんぜんそんな気持ちはなく、「どんなに強固な人間でも、弱さは持っている。なぜなら人は生まれながらにして罪人だから。罪を犯して当たり前、でもその罪を犯す可能性から遠ざかって身を守ろう」という事を伝えたかったのです。m(_ _ )m

10 ■無題

アルコール度数が低かったのでは?、とのことですが、今のワインは14%ほどありますけど、低けりゃOKっていうんでしたら5%前後のビールならばOKってことになります。衛生上の問題であるのならばイエスが奇跡を起こす必要は無かったはずです。しかも宴会が盛り上がってみんな飲みまくってる時に最上級の物だとすぐに分かるほどのシロモノを作り出す必要もなく、綺麗な水を差し入れすればもっと喜ばれたことでしょう。聖書に書いてあることに意味があるのならば、深読みする必要もないと思いますよ。

でね、angeさんのおっしゃりたいことを平たく通訳すると「今はまいけるさんは自分をコントロール出来てるけど、これから先は分からんよ。いつアル中になるかもしれんから、酒自体から離れた方がいい」と聞こえるんですけど、合ってます? 正直、失礼な話だと思いました。

酩酊して失敗したとしても、それ以降はコントロールした飲み方をすればいいだけではないでしょうか? 失敗から学ぶって大切なことだと思います。コントロールできないから、そのものから離れて関わらないようにする、というのは消極的な解決法だと僕は思いますね。

目上の人に向かって失礼な物の言い方になってしまってすみません。

11 ■まいけるさん

>目上の人に向かって失礼な物の言い方になってしまってすみません。

いえいえ、とんでもありません。
むしろ、そのような意見を率直に話してくださってありがとうございます。m(_ _ )m

どのように話せば、まいけるさんに理解していただけるのだろうと思うのですが、決して私はまいけるさんを否定して「まいけるさんは今はそう言ってるけど、後は分からんよ」という視線で見ているのではありません。

誰しも、失敗する可能性は持っているんじゃないかなと思うのです。

人は失敗したり、痛い思いしたり、後悔したりします。
もちろん、まいけるさんもおっしゃっているように、人は温室育ちでは成長しないので、失敗から学ぶ大切さもあると思います。
その失敗が笑い話しで終わったり、失敗を経験して成長するという良い結果ならいいですよね。

でも、取り返しのつかない失敗もあるのではないでしょうか。

たとえば、また「極端」だと捉えられるかもしれませんが、飲酒を一例に挙げると、少しお酒が入って、いつもより気が大きくなってしまって、他の人を傷つけてしまう発言をしてしまったり、酒の勢いを借りて口論になり相手を怪我させたり、飲酒運転から人の命を奪う結果になったりという問題も実際世の中では見られますよね。酒を飲んだ事が原因で。

もちろん酒を飲まなくてもそのような事件は起こりますが、お酒を飲んでいるほうが、その状況になる可能性は高いと考えられないだろうかと思うのです。

失敗から学ぶのも大切ですが、転ばぬ先の杖も必要だと思うのです。

>コントロールできないから、そのものから離れて関わらないようにする、というのは消極的な解決法だと僕は思いますね。

実は、私も以前はまいけるさんと全く同じ意見でした。

神様が、ここまで柵を設けて許容範囲を広げているのに、なぜ柵ギリギリまで行ってはいけないの?どうして中心へ中心へと身を置くことを勧めるの?これじゃ中心の世界しか見れず、視野が広がらないとずっと思っていました。

でも、自分の罪深さや弱さを身に染みて実感したとき、罪を犯す可能性から離れるという事は消極的だという考え方は、自分に対する過信かなと思ったんです。

続きます。

12 ■まいけるさん

続きです

もちろん同じクリスチャンでも「酒を飲まないなら『付き合いが悪い』と批判され、かえってそれが人をキリスト教に対してよけい抵抗を感じさせる。逆に良い証しにならない」という事から会社の同僚や上司とお酒の付き合いをなさるクリスチャンもいます。

その人の良心で決定すればいい事で、それを私がその人の事を「聖書的ではない、間違いだ」とさばいたりできません。

その人の責任で行えばいい事だと思います。
ただ、ただそこで大切な事は、人は弱いという事、気をつけていても十分ではない事、失敗する可能性や危険もはらんでいるという事を忘れてはいけないと思うのです。

それから水とぶどう酒の件ですが、パウロが胃のためにぶどう酒を勧めたのは、日常の常識は、人は水を飲む生活だけど、胃が弱っているなら少しのぶどう酒を用いなさいと言っており、決してそれはぶどう酒を奨励していることではないと思うのです。

また、イエス様の最初の奇跡の水をぶどう酒に変えたことも意味があったので、それもまた機会がありましたら書いてみたいと思います。

13 ■無題

うーん。理解できないのはたぶんangeさんの思考がかなり極端だからだと思います。

罪を犯さないような生活をするためには、というところが土台にあるのだと思いますが、僕の思考にはそんな考えは全くないですから。

僕がangeさんと同じ考え方になったら、多分無人島で暮らすと思いますよ。他の人を傷付けたり苦しめたりする可能性がほぼゼロになりますから。でも、それは現実的ではありませんし、後ろ向きすぎる解決策だと思いますよね。

パウロはぶどう酒を用いることを奨励していたのではないとは僕も思いますが、angeさんのおっしゃるような思考だと、胃が弱ってるからぶどう酒を飲むことで気が大きくなって罪を犯すことになりかねないのなら、そこはぶどう酒なんぞ使わずに「気合いで乗りきれ!」的な文面になるんじゃないかと思うんですよ。少しでも可能性のあることを排除するようこの聖句が言ってるようには思えません。

聖書が飲酒を罪の入り口にあるものとして避けるよう指示しているのならば、聖書自体に酒を飲むシーンの記述があるのはおかしいですよ、というシンプルな問いです。


自らの弱さを認めることや己を過信しないことなどは宗教の有無に関係なく大切なことだと思いますが、あやまちを犯すことを過度に恐れるあまり行動や言動を極端に縛るのはどうなんでしょうね? 素敵でスマートな生き方をしてないと聖書にもクリスチャンにも魅力を感じないですよ。

14 ■ヘビースモーカー?


何時か?ネコミさんのブログの中でたばこの記事で Angeさんがヘビースモーカーだとコメントしていますよね。 あれは過去の話でしょうか?
それとも今も続けているんでしょうか?
もしそうならチョッと今回の記事は…

15 ■yukiさん

コメントありがとうございます。

ネコミさんさんの記事で、私がヘビースモーカーとコメントしたのはもちろん聖書の教えを知らなかった過去の事です。

私が現在クリスチャンである事は自分の記事でも公表してるので、ヘビースモーカーは過去の事とご理解頂けると思ったのですが、確かに知らない人が読むと今でも吸ってるのだろうか?と誤解を招きますね。

そこは私の言葉足らず、配慮に欠けてました。申し訳けございません。

クリスチャンになって、今はたばこは吸っていませんよ(^_^)

16 ■無題

横から失礼致します。

イエス様は、この世でで過ごされている間、収税人や罪人たちと食卓を共にしておられました。
その様子を見たパリサイ人が、「あえ見よ。食いしんぼうの大酒飲み」と言って罵倒する記述があります。(マタイ11:19、ルカ7:34)
ですから、私は、イエス様も多少のお酒を嗜まれていたと解釈しています。

イエス様は私達に「自由の律法」を与えて下さいましたよね。
「自由=好き勝手にして良い」ということではありません。人間は自由な時ほど、その心を試されることはないと思うんですね。
規則を守るだけなら、大抵の人が出来るのです。
イエス様が私達を自由にして下さったのは、私達を信じて下さったからですよね。親が子を見守るのと同じように、温かな目で私達を見守って下さっている。だからこそ、私達はイエス様が喜んで下さるような生き方をしたいと思うのではないでしょうか。

「あれはダメ、これもダメ」と律法に縛られるのは人間的な考えに過ぎませんよね。
人間の救いと裁きについては、神様のみがご存知のことで、人間が決めることではないと思うのです。

極端な言い方ですが、私達は罪を犯す自由さえ与えられています。罪を避けるのも、また自由です。自由の下で、神に喜ばれる歩みができることが、理想的な信仰生活ではないかと思うのです。


それから、Angeさん(^^)
今は終わりの時・・・かも知れません。
まだ神を知らない人々に警告を告げることもクリスチャンの大切な働きだと思いますが、もうひとつ、大切なことがあります。

神がソドム、ゴモラの町を滅ぼすと知らせた時、アブラハムは、「全世界をさばくお方は、広義を行うべきではありませんか・・・その中に正しい者があれば赦して下さい」と抗議し、50人から10人にまで引き下げ交渉を成立させましたね。そうやって、少しでも多くの者達を救おうとしました。

今は悪い世の中かも知れません。けれども神様、もう少し辛抱して下さい、もう少し忍耐して下さい、と人類のために祈り続けることも、私達クリスチャンに課せられた仕事であると思っています。

私は決して利口ではないので、上手に伝わらなかったらごめんなさい…。

神の栄光が、ますます輝き増しますように。


17 ■飲酒

横レス失礼します。元JWで現ルーテル教会に通っているAC後屋と申します。いつも拝見して勉強させていただいています。

一連の議論についてですが、Angeさんのように飲酒を完全に避けておられるクリスチャンもいれば、私も含め教会によっては飲酒は節度を守る限り問題はないとされているところもあるというのが実際です。これを律法ととらえてしまうと守る守らないで不一致があることになりますが、信仰生活の実践と考えるとどちらも主に受け入れられることではないかなと思います。

「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」( ローマ14章23節 新改訳)

禁酒によって健全な信仰を保つ方もいれば、お酒の席の交わりを主の与えられた喜びと感謝する人もいて、それぞれが互いの立場を尊重し合うことが主の栄光となるんじゃないでしょうか。

18 ■Re:yukiさん

>Ange-Cocoさん

早速のコメントに感謝します。
誤解が解けて良かったです
興味深い記事も毎回楽しみにしています。
私も少しだけまたコメントしたくなりました。
確かに たばこを私も吸っていた時期がありこれだけは信仰の道を歩んだお陰で断つことができ良かったと思っています。

お酒も好きでしたが、私は幸いお酒での失敗がなくそれと若くして信仰の道を歩んだ為と、週に
2日は、休肝日を設けていたのでそれなりに自制はしていたかなと思っています。

でも イエスも他の色々な親切な方からの食事招待やそこでの飲酒に対して「食い意地の張ったぶどう酒にふける男、収税人や罪人たちの友」マタイ11:19の中で非難されていますよね。


という事は誤解を招く程もしかしてお酒を飲んでいたかもしれません でもイエスの事ですから
確かにセーブしながら自制を働かせてお飲みになっていたのは間違いありませんが、でも完全な体とバランスの取れた精神できっとお酒もお強い方だったろうなと推測できます。

ですから 飲酒の程度は人、様々だと思います
それにこの聖句では、「食い意地の張った」という表現が出て来ていますが、当時多分食べ物だけでなく貪欲の精神が(食・物欲を含め男女間の愛欲等)他の人を躓かせる要因となっていたので
義に過ぎた人達はイエスのちょっとした言動でも躓いたのかなと思います。

でもイエスの回りには勿論収税人(使徒マタイ)を
始めたくさんの罪人と呼ばれていた売春婦も
近づいて弟子になりました。
勿論それらの人は過去の職業であって悔い改めていますが…

イエスが特に強く教えていたのは、愛のない人達
義に過ぎるゆえにそれらの人達を見下げたり裁いたりする行為では、なかったでしょうか?
そのような人達は一見(外見上)悪いと他の人に映って見える事はしません。 他の人の評価を必要以上に気にします。 でも彼らはイエスが語ったように他の人を裁く癖があります。
でも この心の状態は神しか解からないのです。



19 ■Re:yukiさん

>Ange-Cocoさん

続きです

私たちはこの事からすべての人は、罪深い人げである事を教えられたのではないでしょうか?大切なのは外見よりも 心の中で人は何を考え、生き、人に接しているのかではないかと思います。

どんなに私は立派(これはAngeさんの事を言っているのではありませんからね…特にJWの人に多くいました。笑)と言っても義に過ぎて他の人を裁いたり見下げたりする人から爽やかさは得られませんでした。

もしかして その剣で刺すかのような言葉の一撃から人は心や体の病気になったり自殺したりする
場合もあります。

でも もうJWから離れてしまった私には何も言う資格はありませんので…
と言いながら きついコメントでごめんなさいね(笑)


20 ■初書き込みです

初めて書き込みいたします

Angeさん、いつも記事をありがとうございます。

女性にとって、品格を保ちながらクリスチャンとして生きるのが難しくなっていますし、世の中ではなかなか理解されない事があるかもしれません

Angeさんのうえに、引き続き神様の御加護があるようにお祈りしています。

これからも記事を楽しみにしております

いくらより

21 ■AC後屋さん、アイさん

コメントありがとうございます。

貴重な意見に感謝致します。
また、AC後屋さん、こちらからお礼をお伝えしにお伺いしなければとずっと思っていました。

ある方に、私のブログを紹介してくださってありがとうごさいます。AC後屋さんとは、一度も絡んだことがなかったので、びっくりしましたが、とても嬉しかったです。ほんとうにありがとうございました。m(_ _ )m

アイさん、お久しぶりです。お元気でしたか?
いつもよく聖書を調べていらっしゃるアイさんの姿勢に頭が下がります。エホバの証人の脱会説得にも、アイさんなら大きな働きとして神様に用いられる器だと思います。
ぜひ、彼らが本当の神様と出会えるように助けてください。

お二人にそれぞれ詳しくお返事したかったのですが、お酒に関してお二人とも同じご意見のように思えたので、記事にしてみました。

よかったらぜひ読まれてください。m(_ _ )m

22 ■yukiさん

コメントありがとうございます。

もし、私の記事から人を裁いているように思えたのでしたら申し訳ございません。

私は決して人を裁いて自分が他の人より優位だと思ってなどいません。

ここ最近の記事は、地獄に関する記事でもありましたし、JWが「自分達は楽園行き、あちらは滅び組み」というような思いがあるように、私の記事もそのようなきらいがあると思われたのかもしれませんね。

地獄の教えは決して好まれませんから、多くの教会があまり話したがらない課題のようです。

教会から離れる人もいるそうです。

でも、地獄の教え抜きにしてイエス様の贖いの意味を語れないと思ったので、抵抗はありましたが、皆さんに知っていただきたいという思いで書きました。

人の目から見た善良な人はたくさんいます。
でも、神様の完全なる基準から見た人は、誰一人義なる人はいないという基準を知ったとき、自分がどれだけ毎日神様に対して罪を犯してきたのだろうかと涙が止まりませんでした。

そんな私でさえも、神様は愛して許してくださった、その感謝と、そのような生きている神様がいらっしゃることを皆さんにお伝えしたかったのです。

いつも私の記事を読んでくださって、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

23 ■いくらさん

コメントありがとうございます。

よくコメントしてくださいました。(^∇^)感謝です。
この状況の中で、かなり勇気がいったでしょう(^∇^)

だからこそ感謝です。
ありがとう。
気持ち、伝わってます。(*^▽^*)

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