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[21043] エデュティロス(ゼロの使い魔×メタモルファンタジー)
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/19 18:23
 投稿サイト『NightTalker』より移転してきました、しゅれでぃんがーと申します。
 途中で引っ越してきたこの板では新参者ですが、どうかよろしくお願いします。

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□お知らせ

 七章一話投稿しました。
 このエピソードはこれ単体では伏線ばかりで正直意味が分からないかも知れません。
 しかし、この後空白の四ヶ月を埋める章内短編の乱射態勢に入ります。
 それらを全部読んだとき、全ての伏線が回収されてしっくりくる、という設計を予定しています。

 なにぶん読者の皆様には読みにくい構成かも知れませんが、作者スキルアップ及び単純にやってみたかったという理由で押し通します(ぉ
 どうか、作者の実験につきあってやってください。

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□注意書き

・独自解釈多し
・クロスキャラがちょこまかします
・独自路線にロケットダッシュ

 とはいえ、私は誰が読んでも楽しめるように書いてるつもりです。どっちかの原作を、むしろ両方知らなくても大丈夫です。
 なので何も考えず、とりあえず読んでみてくれることを願います。
 そしてよければ書きこんでいってください。

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□メタモルファンタジーとは?

 株式会社エレメント、ブランド名エスクードから2002年11月22日に発売された成人向けゲームです。ハードはPC。
 主人公は全長60cmのぬいぐるみという珍妙な生物。変身魔法『メタモル魔法』を操る一族の末裔です。
 そいつが色々あって魔王へ挑むという壮大なんだか不条理なんだか分からない、なんとも不思議な学園物ゲームでした。

 とにかく主人公のキャラが立っており、それに惚れこんでパロディ小説を書きたい! と思い立ったのが書き始めた切っ掛けです。
 現在はリメイクで『メタモルファンタジーSP』というバージョンが発売されています。DL販売にて簡単に手に入りますので、興味がある方、当作品で興味を持たれた方は、ぜひとも買ってプレイしてみてください。

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□宣伝

・私しゅれでぃんがーが運営するwebサイト『しゅれページ』
 上にある名前の横のリンクからも飛べます。
――http://shurecreator.nobody.jp/

・私のサイトでは、毎週金曜日と土曜日にチャット会を開いております。
 色々な方がいらっしゃるので、作者、読者問わず一度覗いてみてください。
 もちろん参加も大歓迎です。
 雰囲気はチャットログを流し見てもらえれば大体分かるかと。

・ツイッターやってます。
 フォロー返しのみのフォローはしませんが、よく交流する方はフォローします。
 よければ作品のみならず、文章全般についてお話ししませんか。
――http://twitter.com/shuredo


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□更新履歴

2010/8/11
テスト板にて移行準備をもにょもにょ。
思いつきで目次をつけてみる。

2010/8/14
六章小物話更新。
六章までが完全に完成。

2010/8/15
Arcadiaのゼロ魔板に移転。
心機一転の再スタートです。

2010/8/19
七章一話投稿。



[21043] 目次
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/19 18:27
 目次

□一章

・一章前編 『珍獣来訪』
 春の使い魔召喚の儀。
 しかし、何故か二匹出ました。

・一章後編 『使い魔番長』
 ふらふらと学内をうろつく珍獣。
 どうやら厄介ごとに巻きこまれたようです。

・一章幕間『ハタヤマの記憶・1』 
 遠き日の思い出。
 一つ目の欠片です。


□二章

・二章前編 『タバサと珍獣?』
 雪風の少女に連れ出してもらえました。
 なにやら不穏な妖気漂う村を、お手伝いとして任務に同行します。

・二章後編 『サビエラ村の吸血鬼』
 屍人鬼(グール)の正体が判明。
 最善の結末を追い求め、ハタヤマは誰にでも牙を剥きます。

・二章幕間 『焼け野原の向こう側』
 ようやく吸血鬼とご対面。
 きっちりとお仕置きをして、吸血鬼生相談にのります。


□三章

・三章 『魅惑の妖精亭』
 トリステイン領まで戻ってきたハタヤマ。
 妖精の宿屋で大立ち回り。

・三章幕間 『ハタヤマの記憶・2』
 二つ目の欠片。
 ここまでは平穏な毎日でした。


□四章

・四章前半 『ついに来た出番・主人公ようやくスポットライト』
 いよいよ主人公が動き出します。
 王都の大通りでばったり再会。

・四章中編 『エンジョイ・トレジャーライフ』
 働かざる者食うべからず。
 みんな頑張ってます。

・四章後編 『土塊大戦争/それぞれの行動指針』
 第一次土塊大戦争勃発。
 このときは、また登場するなんて誰も思いもしていませんでした。

・四章幕間 『双月の舞踏会』
 ハタヤマがシルフィードをエスコートします。
 フレイムとヴェルダンデが草葉の陰から見守っています。(死んでない)


□五章

・五章前編 『使い魔品評会』
 ハタヤマは妙な剣を拾いました。
 サイトはぽっとでた問題に、頭を悩ませているようです。

・五章中編 『特訓』
 貧弱な坊やを脱出するため、サイトは一念発起します。
 でも、ちょっと調子に乗りすぎてしまいます。

・五章後編 『記憶の残光/土塊大戦争 AGAIN』
 ついに明かされたハタヤマのトラウマに、サイトはつい激昂してしまいます。
 第二次土塊大戦争開戦、土くれのお姉さんは使いやすいです。

・五章内短編 『牛鬼と珍獣』
 最近神隠しが増えているらしい。
 ハタヤマは調査に乗り出します。

・五章幕間 『博愛とは悪なのか?』
 はっきりしないハタヤマは、知り合いに怒られてしまいます。
 でも、言われたところで治らないので、月夜にぐねぐね悩みます。


□六章

・六章Side:S 一日目 『姫さまの依頼』
 ひょんなことから密命を受けることになったサイト。
 流されるままについていきます。

・六章Side:S 二日目 『敵襲』
 お髭のおじさまと決闘します。
 そりゃやりすぎだ、とギーシュに諭されます。

・六章Side:S 三日目 『再会』
 ようやくアルビオンへ辿り着きました。
 その夜、侵入者と戦います。

・六章Side:H 一日目 『何もない国/美女の味方』
 港町ラ・ロシェールに、一人の男が現れました。
 雲の海へダイブして、一路アルビオンを目指します。

・六章Side:H 二日目 『何でもない日/土塊大戦争 SATISFACTION』
 第三次土塊大戦争開演。
 ひゃっはぁ、満足しようぜ!

・六章Side:H 三日目 『雲の向こうに/再会』
 昔話を聞いて、聞かせます。
 盗みに入ったら見つかってしまいました。

・六章Side:S&H 六章三日目夜~四日目早朝 『暗躍/決戦前夜』
 おや、お髭のおじさまのようすが……?
 サイトは東奔西走します。

・六章Side:H 四日目 『願いの果てに』
 衝撃の事実を知らされます。
 ハタヤマはたった一つの信念のために、全てを賭けて戦います。

・六章Side:S 四日目 『想いの刃』
 どんどん追いつめられていき、仲間がどんどん倒れていきます。
 彼の冒険はいよいよクライマックスです。

・六章Side:S After 『帰るまでが任務です』
 長い戦いもついに終わりました。
 彼らは無事帰れるんでしょうか。

・六章Side:H After 『煉獄直行便』
 妖しいお姉さんの乱入があり、なにやらのっぴきならない状況。
 ああ、いったいどうなってしまうのか――!

・六章エピローグ 『そして』
 アルビオン王国の崩壊は様々な国へ波紋を広げます。
 そしてなんと、おそらくメタモルファンタジーユーザーの読者すらも予想だにしなかったであろう、あのお方が動きだします……。

・六章小物話 『イーグルフェザー団』
 ヤムチャ視点エピソード。
 ハタヤマに関わってしまったばっかりに、色々酷い目に遭うモブキャラが主役です。


・七章一話 『ハタヤマファミリー』
 激戦から四ヶ月が経ちました。
 彼らに何があったのかは、今後の物語で垣間見ることができるでしょう。



[21043] 物語開始 一章前編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 18:04
【 一章前編 『珍獣来訪』 】



 ここは異界の地ハルケギニア。
 我々の世界を中心とすればどこだろうと異界になるのだが、それは主題ではないので脇に置いておこう。
 抜けるような青空から降り注ぐ、陽光に照らされし石造りの建物。
 それはまるで中世の城の如き大きさで、巨大な建物を中心にして四隅に細長い(といっても結構大きい)塔が四つ立っている。
 四つの塔はそれぞれ赤、青、茶、緑にうっすらと色づけられており、何らかのシンボルを表しているらしい。
 他に何か変わったところはないか見下ろした状態で探してみると、中庭らしき屋外のスペースに黒いローブをまとった集団が見える。
 男女比率はまんべんなく、どいつもこいつもかなり若い。年の頃は16、7、8歳くらいだろうか。
 わいわいがやがやと騒がしく、この弛み具合はまるで中学校のようだ。

 読者諸君はそろそろ描写に飽きてきただろう。
 これは失礼、お待たせした。それでは、始めようか。


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              エデュティロス

                         著:しゅれでぃんがー

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 桃色の髪を風になびかせ、少女はギュッと杖を握る。
 いよいよ自分の番が来た。
 サモン・サーヴァント――使い魔召喚の儀――の順番が。
 彼女のその傍目から見ても気負いまくっている様子に、周囲の生徒達がヤジを飛ばす。
「ルイズ! 『ゼロ』のルイズ! そんなに集中しても結果は同じさ!」
 飛び出した一言に、集団から笑いが起こった。
 ルイズと呼ばれた少女は、そのヤジに顔を真っ赤にして怒鳴り返す。
 振り向いた拍子にマントが風を泳ぎ、グレーのプリーツスカートがなびいた。
 それでも中身が見えないのは、絶対領域というやつか。
「うるさいわね! わたしだって、いつも失敗するわけじゃないわ!」
「いいや、いつもさ! 以前成功したのがいつだったか、君は思い出せるのかい?」
 跳ね返るような生徒達の返答に、またも嘲笑が巻き起こった。
 ルイズは自身がさらし者にされているようなこの状況に、ローブの下で固く握った拳をワナワナと振るわせる。
 しかし、激情をグッとこらえ、鋭い眼差しで前を見据えた。
 この不届き者どもを黙らせるには、結果を叩きつけるしかない。
 彼女はそれを分かっているのだ。
 この日のために予習もした。召喚の呪文も考えた。

 大丈夫。私は、ゼロじゃない――――

 彼女は大きく息を吸い込んだ。
「宇宙の果ての何処かにいる、わたしの僕よ! 神聖で、美しく、強力な使い魔よ!」
 その謳い文句に生徒達は呆れたどよめきを上げたが、彼女は気にしない。
 いや、もう集中に入っており気づかないのか。
 彼女は続ける。
「わたしは心より求め、訴えるわ!」
 この空間の空気が変わる。
 言いしれぬ不安をかき立てる雰囲気に、周りの者達は今度は動揺し始めた。
 リンと響く耳鳴り、そして地を揺らす地響きが、徐々に強くなっていく。
 そして、それが臨界に達するとき……
「我が導きに、応えなさい!」
 皆が息を呑む中。詠唱は、完成した。

 ズドンッ!!

 唐突に轟音が響き渡った。
 周囲には衝撃波が乱れ飛び、ねずみ色の爆風が突風に孕まれ広がる。
 隅に植えられた眼に映える花壇の花は、風に煽られ花弁を儚く散らせ、野原で地面を啄んでいたスズメらしき鳥は逃げるように一斉に飛び立つ。
 生徒達は予想だにしない詠唱の結果に、悲鳴を上げて伏せたり倒れたと逃げまどい、学院の広場は一瞬にして混沌と狂乱に包まれた。
 もうもうと立ちこめる砂煙の中。
 やがて誰かが我に返り、声を上げる。
「やっぱりだ! やっぱり失敗したぞ!」
「さすがはゼロのルイズだ!」
 口々に囃し立てる野次馬達は、来るであろう彼女の反論を期待した。
 彼等にしてみれば爆発こそ日常だ。かつて無い規模の出来事に若干狼狽えてしまったが、ある意味これも予定調和と言える。
 しかし、今回は流れが違ったようだ。
 狼狽えて激昂すべき彼女はなんの返答も返さず、呆然と土煙の中心を見つめている。
 生徒達は皆不思議に思い、誰かが彼女の視線の先を追っていく。
 するとその視線の先に、驚くべき事を見つけた。
「う――――――――ぇ」
 先ほどまで何もいなかった中庭の中心に、なんと人間が大の字になって気絶していたのだ。
 この学院の者には分からない服装だったが、どう見ても高貴な身なりではない。
 ローブも着ておらず杖もないので、見た者は皆平民だろうと当たりを付けた。
 ルイズは、己が呼び出してしまった使い魔が平民だと言うことにいち早く気づき、愕然としているようだ。
 それを見逃す生徒達ではない。
「おい、見ろみんな! ゼロのルイズがやってくれたぞ!
 サモン・サーヴァントで平民を呼び出すなんてな!」
「ちょ、ちょっと間違えただけよ!」
 その声に我を取り戻したルイズは、歯を剥いて怒声を返す。
 しかし、それは生徒達を調子づかせるだけだった。
「まあ待て! 一応は成功だろう?」
「あの子にはこれがお似合いよ!」
「くっ……ミスタ・コルベール!」
 何を言っても無駄と悟ったルイズは、少し離れたところに立っている頭の禿上がった中年男性に呼びかけた。
 その男は海平ヘアーで頭頂部にはなにも生えておらず、かけられた黒縁の眼鏡だけが唯一の自己主張をしているようだ。
 いや、頭頂部に関して言えば嫌と言うほどに自己主張しているのだが。
 この場で一番年上らしい彼はコルベールと言い、服装こそ茶色のローブという生徒達と似たようなものであるが、どうやらこの集団の教育係らしい。
 コルベールは流石に看過できないと見たか、生徒達を強めに一瞥する。
 それだけで広場のざわめきは消え失せ、飛ぶ鳥の声が響くだけになった。
 その様子を確認して、コルベールは後ろ手に腕を組みながらルイズに向き直った。
「なにかね、ミス・ヴァリエール?」
「サモン・サーヴァントのやり直しを願います!
 次は、次は成功させますから!」
 ルイズは150cmもなさそうな低い背を精一杯伸ばし、必死にコルベールへ懇願した。
 しかし、彼の返答は無情なるものだった。
「認められない」
 ゆっくりと目をつむって、首を横に振るコルベール。
 それを聞き、彼の様子を見て、ルイズはこの世の終わりの刻を聴いてしまったかのような表情になる。
 状況改善の希望どころか、挽回の機会すら絶たれたのだ。
 その現実は、彼女にはいささか酷すぎた。
 ルイズはどうしても諦めきれず、コルベールにくってかかる。
「何故ですか!? 次は、次はもう失敗しませ「ミス・ヴァリエール。
 サモン・サーヴァントとは神聖なる儀式。
 失敗したからと言ってもう一回、などということは許されないんだよ」」
 コルベールの言葉に、ルイズはうっと息を呑んだ。
 サモン・サーヴァントは魔法使い(メイジ)にとって、一生に一度の誓言なる儀式。
 そのことは彼女自身、痛いほど分かっている。
 だからこそ己の汚名を返上できるはずと、今日、この日を一日千秋の想いで待っていたのだ。
 その、名誉挽回の結果が、わたしの唯一の希望が――平民の使い魔なんて。
 ルイズはがっくりと肩を落とした。
「納得したかね?
 では、コンタクト・サーヴァント(使い魔契約の儀)に移りたまえ」
 ルイズは一つ大きなため息を吐いた後、意を決して現実に向き直る。
 彼女は一度腹を決めたらもう迷わない。
 何を言っても仕方ないからだ。
 しかし、彼女が視線をやった先では、ちょっとした異常が起こっていた。
「おい、あれ――なんか動いてるぞ」
「小刻みに震えて……」
 眼を回してぶっ倒れている少年の身体が、プルプルと不自然に震えている。
 それは痙攣と言うよりは、侍女にマッサージを受けているときのような様子だ。
 しかし、そこには寝っ転がっている少年一人しかいないので、周囲の者達は不思議に思っていると。
 その答えはすぐに現れた。
「――――っ! ――――――らぁ!!」
 ドゲシッ! と蹴飛ばされるように、少年の身体が吹き飛ばされる。
 なんと平民の寝ていた位置に、さらになにかが来ていたのだ。
 「なにか」は息が苦しかったようで、我慢できず少年をけっ飛ばしたようだ。
 少年は蹴られた勢いもそのままに、野っ原をごろごろと転がされる。
「つ、使い魔が……二匹!?」
「ありえん」
 周りにいた生徒達は、口々に驚きを露わにする。
 爆発、平民、しかも二匹? 通常では到底ありえないことの連続。
 意味の分からないこと続きで、生徒達は改めてルイズの規格外さに驚愕した。
 二匹目の使い魔は、なんというかぬいぐるみのようであった。
 それはきょろきょろと興味深げに周囲を見回しており、まんまるで黒炭のように黒い瞳をそこかしこに向けている。
 オレンジ色の体毛、体長60cm程度の小さい身体、大きな耳に背筋も無さそうなずんぐりむっくりの姿は、まるでネズミのようである。
 それ自体はまあこの世界でそう珍しいものでもないが、特筆すべき部分として尻尾つけられた鋼色のリング、そして背中にチャックがあった。
「――ッ!? ×××○?!」
「――×△、□☆■」
「――、……――ぁッッッ?!!!」
 意識の戻った少年の方は、取り乱したように奇声を上げ始めた。
 それを見たネズミもどきは、何か言葉を投げかけている。
 平民はそれに気づき視線を下げた瞬間、さらにおっ魂消(たまげ)て腰を抜かした。
 なにやら会話しているようだが、しかしその言葉はハルケギニア、少なくともトリステインの言葉ではないらしく、学生達には何を言っているのか理解できない。
 というか人間とネズミもどきが意思疎通をしている光景は、一般人にはどうしようもなくシュールである。
 ハルケギニアでは割りかし普通のことらしいが。
 ルイズは一人と一匹のやり取りをしばし呆然と観察していたが、このままでは埒があかないと強攻策に出る。
 とりあえず二匹出たということは、どちらを選んでも支障はないはず。
 これで一応、平民は免れられる。みてくれは悪いが高位の幻獣かも知れないし、恥を雪ぐには十分だ。
 ルイズは我知らず笑みを浮かべた。
「×△、ディ○●――ッ!」
「×△、□ニ■ロ◆ッ!」
 未だ顔を突き合わせ、言い争いを続ける少年とネズミもどき。
 ルイズはおもむろにネズミもどきの身体をむんずと掴み上げた。
「このわたしの使い魔と成れることを、光栄に思いなさいよね」
 そういってゆっくりと目を閉じるルイズ。
 ネズミもどきはこれから起こることを察したらしく、だらしなくデローンと鼻の下を伸ばした。
 しかし、徐々に顔が近づくに連れて、素に戻りその顔色を蒼く変えていく。
 なにかを感じているらしい。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール……」
 祝福の言葉を紡ぐルイズ。その祝言は緩やかに、厳かに形成されていく。
 それを聞いたネズミもどきはさらに恐れおののくように震える。
 そして唇が触れそうになった瞬間、ネズミもどきは両前足を前に突き出し、猛烈に抵抗し始めた。
「――! ――――!!」
「ちょ、動物の分際で、わたしとの契約を拒むつもり!?」
 ルイズはまさか抵抗されるとは思ってもいなかったので、思わぬ侮辱に色を成して怒った。
 とにかく、祝福の言葉は完成している。後は強引にでも唇を重ねれば――
 ルイズは腕の力を強めた。
 抵抗といっても所詮は体長60cm弱、人間の筋力に対抗できるはずはない。
 あらがいきれなくなったネズミもどきは、やむなく最終手段の発動を決心した。
 その時に発せられた叫びは、言葉が通じずとも皆に伝わったという。
「味方バリアー!!」
「◆わっ?!」
 ネズミもどきは尻尾を伸ばし少年の首に引っかけて、力一杯に引き寄せた。
 引き寄せられた先には、当然少女の柔らかな蕾があるわけで。
 ガチンッ!
「んむっ!?」
 ルイズと少年は引っ張られた勢いそのままに顔をぶつけ合い、歯と歯が打ち合わされる音が響いた。
 それを見た生徒達のうち女性の数人は、痛そうに口元へ手をやる。
 その拍子にルイズの手が外れたので、ネズミもどきは一目散にその場から逃走した。
 それはまさに脱兎の如く、スタタタと小気味よい音を残して。
「な、なにすんだよ!?」
 平民は唐突な状況変化に、顔を赤らめて抗議する。
 なにがなんだか分からないが、言語が通じるようになったらしい。
「くっ……あんのちんちくりん、今度見つけたら毛をむしってやるわ!」
「無視すんじゃねーよ! いったい何がどうなって……」
 まるで存在していないかのような扱いに少年は怒りを覚えたが、その勢いはそう続かなかった。
「う、ぐあ、ぐああぁぁぁぁぁ?!!!」
 少年は唐突に走った左腕の激痛に、断末魔の如き悲鳴を上げた。
 比喩ではなく、本当に死にそうなぐらい痛いのだ。
 苦痛に左腕を押さえのたうち回る少年を一瞥して、ルイズはふんと息を吐く。
「珍しい! ルイズが一発で魔法を成功させるなんてさ!」
「いや、サモン・サーヴァントに関しては、成功と言えるのかい?」
「しかも平民だしな! 高位の幻獣なら、きっと失敗していたさ!」
「幻獣の方は逃げ出したしね! きっと主人が『ゼロ』だと気づいたんでしょうよ!」
 言いたい放題なことをさえずる生徒達。
 ルイズはなにか言い返してやりたいが、唇を噛みしめ拳を握りしめながらわなわなと立ちつくす。
 彼女は今、言い返すカードを持たないのだ。
 コルベールはそんな一連の流れにため息を吐き、生徒達に号令を掛けた。
「こらこら、貴族は認め合うものだ。次の授業が始まるから、他の者達は教室に戻りなさい」
 生徒達はコルベールの指示に従い、ふわふわと空中に浮かび始めた。
 地べたを悶絶する少年は、不幸にもその後ろ姿を見てしまっていた。
「なん、なんだよ、これは…………」
 痛みに朦朧とする意識の中、受け入れがたい光景が広がっている。
 それをまざまざと見せつけられた少年はそんな呟きを残し、がくりと意識を闇に手放した。

「ミス・ヴァリエール」
 コルベールはうつむくルイズの背中に声をかける。
「他の者を見下すのは、貴族の悪しき風習だ。
 君が気にすることは何もない」
 少年の左手に刻まれたルーンを検分し、少しだけ難しそうに眉根を寄せる。
「始祖ブリミル様は努力する者をあまねく見て、全ての者に祝福を与えてくださる。
 頑張っていれば、夢は必ず叶うさ」
 ルイズはコルベールの言葉に、思わず激昂しそうになった。
 あなたにわたしのなにが分かるのか、と。
 しかしその言葉は、己の内に残った僅かな自制心と、屈託無く柔らかいコルベールの笑顔の前に霧散した。
 振り返って口を開けた状態のまま立ちつくすルイズ。
「さあ、教室に戻りなさい。
 今日を頑張った者に、明日が祝福をくれるんだよ」
 そう言ってコルベールはルイズと少年にレビテーションをかけ、自身も本塔へ消えていった。
「……になったら」
 自分は努力しているのに。
 今までも、ずっと頑張ってきたのに。
「いつになったら、『ゼロ』と呼ばれなくなるの?」
 誰もいない広場に響いた、彼女の心から溢れた本音。
 それに応える者は誰も居らず、呟きは空へと融けていった。

     ○

 高校生。
 青年になりかけな少年、という中途半端な年齢。
 そんな平賀才人(ひらがさいと)はウキウキ気分で秋葉原をうろついていた。
 何故かというと、遂にノートパソコンの修理が完了したからだ。
 これで、ゲームの続きができる。
 彼は友達につい最近、『泣きゲー』と称されるゲームディスクを借してもらった。始めは「たかがゲームだろ」と思っていた彼だったが、いざ始めるとみるみるうちにのめり込む。よくある、友達に勧められて系の人ドンピシャリに当てはまってしまったのだ。
 今はシナリオ終盤。聖夜、目の不自由な彼女との二人だけのクリスマスパーティー。
 そしていよいよ山場というところで――パソコンが落ちてしまったのだ。これで気にならない方がどうかしている。事実、サイトもノーパソをばんばん叩くほどに動揺した。
 彼はそのゲームが1○禁ということすら知らされずに渡された。若き少年のその猛るリビドーは、迸る直前にお預けを喰らってしまったのだ。そういった知識が乏しいとはいえ、シナリオ文の雰囲気で分かる。いよいよその場面だと、もうちょっとだったのだと。
 彼はその日の晩、悔しさで眠れなかった。
「へへへ、これでいよいよ続きが……むふふ」
 彼は結構単純で、物事をあまり深く考えない節がある。
 この前出会い系で痛い目にあったというのに、そのこともすでに忘却の彼方であった。
 健康な思考回路をしているとも言える。
 とても幸せな顔をして歩く彼に、道行く人は皆振り返る。それは微笑ましいとかではなく、怪しさ全開という意味で。彼はやり始め特有の、いわゆる『続きが気になって何日も徹夜できちゃうゼ☆』状態という、ちょっと気持ち悪い状態であった。
 その友達というのもひどい奴である。分かっていて貸したのだから。

 閑話休題。

 彼にとって秋葉原は、今まではちょっぴり「うわぁ……」と思ってしまう場所だった。だが、未知なる物に触れた彼に、もう色眼鏡はかかっていない。故に、帰る前に少し散策して帰ろうと思い立った。人が軽視する物は、やってみれば楽しい物なのだと気づいたから。
 とはいえ、こういったところは初心者には難しい場所。どこが近づいてよくて、どこが避けるべき場所なのかいまいち分からない。そんなこんなで、彼はとりあえず分からんなりにぶらぶらしていた。
 そんな彼の眼前に、唐突にヘンナモノが出現した。

     ○

 ――ブォン
 きょろきょろと注意力散漫だった彼も、流石にこの変化は気づいた。新しくできたメイド喫茶の店頭を横目に見ながら、視線を前に戻せば目と鼻先に満面の緑色。サイトはあまりにも驚きすぎて、ひきつった呼吸で後ずさる。
「な、なんだこれ?」
 秋葉原の真ん中に出現した、よく分からない緑色の楕円形。面積は薄っぺらいが、縦の長さはサイトの身長くらいある。だいたい170~80cmくらいだろうか。
 その雰囲気は、昔やったRPGの異世界の扉を彷彿とさせた。ファイナルクエストだかドラゴンファンタジーだか忘れたが、鏡の世界や闇の世界へ行くときの、紫っぽい渦巻きなアレだ。
 だが、そんなもの現実にあるわけ無いので、彼の好奇心はすでにマカビンビン。赤ビキニもびっくり状態である。
 とりあえず、持っていたコーラの缶を投げる。中身が若干残っていたが、彼はそんなことよりも目の前への興味を優先した。
 腕を離れた赤いジュース缶は投げられた勢いそのままに、緑色の縦長楕円の中へ音もなく消えていく。
 サイトは反対側の地面を見た。なにも落ちていない。ということは、どこか別の場所へ繋がっているようだ。
 次に、周囲を見回す。
 道行く人々は、足は止めないが、奇妙な目でこちらを見ながら通りすぎていく。その視線が向いているのは自分。緑の楕円の方ではない。どうやら目の前のコレは、他の人に見えていないようだ。だって、もし見えていたら、この場はとんでもない大騒ぎが起こっているだろうから。
 その事実は同時に、自身の姿が周りの人には「奇怪な行動をする少年」という風に映っているとも言えるのだが、サイトはそこまで思い到らなかった。彼は良くも悪くも熱中するタチで、これと決めたら人目すら気にしない。とても熱しやすく冷めにくいのだ。
 さらに、今度は触れてみる。
 普通に考えたら危なすぎるので触らぬ神に祟りなしだが、今の彼の辞書にはそんな言葉存在しない。面白そうなもんがある→行け行けゴーゴー、ジャンプなのだ。どこまでも後先を考えない少年である。
 まず、人差し指を一本。熱くは――無い。冷たくもない、というか温度を感じない。突き抜ける感覚もなく、触覚にもなにも引っかからない。鼻を寄せて臭いを嗅いでも耳をよせすましてみても、なんの臭いも音もなかった。
 サイトはアゴに手を当てて考える。
(なんなんだろうな、これ)
 人差し指だけなら大丈夫だった。なら、腕を通せば、身体でまたげばどうなるだろうか。首を突っ込んだら、向こう側にある世界が見えるのだろうか。彼の好奇心は加速度的に膨張していく。
 見たい。向こうにある物が、面白い物があるかも知れない場所が、見てみたい。
 彼の未知なるものへの欲求は、もう止められないところまで来ていた。
 しかし、取り返しの付かないことになったら――
 彼の奥底に眠る理性くんが、日常を失うことのリスクも囁いている。
 ゲームでもあったじゃないか。主人公の悲しみとやるせなさが。
 そのつい最近仕入れた知識が、彼の暴走をすんでの所で食い止めていた。
 だが、このままその場を立ち去るには、あまりにも魅力的すぎる暇つぶしのツマミ。サイトは緑色の楕円の前で、腕を組んでむむむと唸る。
 その彼の後ろから、
「やっほー、平賀君!」
 唐突に背中を叩かれた。急なドン、という強い衝撃に、サイトはとてもびっくらこいた。その拍子に。
 彼は、飛び退いてしまった。
 穴のある方向へ。
「おわってちょまっ! ひ、引っ張られる?!」
 振り返りながら飛び退くと、何故かいきなり背中の方向から引っ張られるようなGを感じた。サイトは腕をグルグルと振り回し、なんとか引力から離脱しようともがく。たたらを踏んで焦っていると、今度は逆側(サイトから見て正面)から腕を掴まれた。
「ど、どうしたの平賀君?」
 途惑いつつも腕を掴んだ人物は、続いて感じた強い力に目を丸くする。彼女は……サイトはあまりよろしくない記憶力を総動員して、目の前の女の子のことを検索した。
 程なくして思い出す。彼女はクラスでも評判の元気娘、名前は――思い出せない。「彼女いない歴:生まれた年」の彼は、女子は縁遠い物として、あんまり話したりしなかったからだ。
 ショートヘアーをピンクのリボンでまとめ、スニーカーにジャージの姿はどう見ても陸上系ファッショナブルセンス。のっぴきならない状況だが、秋葉原でそんな格好という彼女のことが、サイトは場違いに気になった。
「く、は――君は、」
「ひ、平賀君! なに、なんで身体消えてるの!?」
 サイトの両足と左手はすでに緑の楕円へ呑み込まれており、外に出ているのは股から上の胴体と右手、顔だけ。それがどうやら自分以外には、それらの部位が消滅しているように見えるらしい。
 パソコンは左手に持っていたので、離さないように必死に握りしめている。パソコンどころの状況ではないが、切迫していてそこまで頭が廻らない。
 引っ張る力が強くなった。彼女もそれは感じたようだが、懸命に腕を放すまいとさらに踏ん張ってくれる。
 このままでは、彼女まで巻き込んで吸い込まれてしまう。
「――ごめんっ!!」
 そんな考えが頭をよぎった瞬間、サイトは彼女の手を振り払っていた。パシン、と乾いた音を立て手が離れる。見えていない娘を一緒に連れて行ってしまうのは、あんまりにも可哀想な気がしたのだ。
 そして、サイトはその日、秋葉原(この世界)から消えた。
「え……な、なに……」
 事情を呑み込めぬ同級生と、一連の騒動を目撃した通行人を残して。

     ○

 彼の朝は水汲みから始まる。
 三階にある彼の主の眠る宿舎の部屋から駆け下り、井戸までひとっ走りする。その際、部屋にある水桶を忘れてはならない。初日はそれをやってしまって、取りに戻らねばならなくなったからだ。ルイズは起きたとき完全に準備が整ってないと、「遅いっ!」といってぶってくる。そしてそれに抵抗できないことを、彼はこの数日で嫌と言うほど思い知らされていた。
 現代っ子のサイトには、今の境遇はなかなか耐えづらいものがあった。なので目が覚めて初日の朝、現状を打破し好転するために、彼の麗しの『御主人様』に待遇改善を申し出てみた。
 それに対する御主人様の返答は。

 誰がおまえに餌をやっているの? 
 誰があんたに寝床を用意しているのかしら?
 あんたを養っているのは誰?

 ……うん、そうだね、言い返せないね。ごめんなさい。
 彼は一も二もなく謝った。言ってることは正論だからだ。こんな状況に追い込んだ張本人は、目の前の主様だとしても。
 だがただ主導権を握られるのも癪なので、ぶたれるのだけは避けている。ルイズは避けるな! と怒るが、そんなもの避けられる方が悪い。彼はあんなちみっ子に殴られるほど、やわなもやしっ子ではない。魔法使い(メイジ)を自称しているだけに、彼女は身体の鍛え方が足りていなかった。
 そしてひとしきりおちょくった後、憤慨した彼女に飯抜きを言い渡されるのが毎日の日課だ。話の流れがおかしいが、彼女は毎日なんかしら文句を付けてきて、自分もまたそれに便乗して彼女をおちょくるので、なにか恒例行事のようになってきている。
 今日は、パンツのヒモが切れたので怒られた。流石にこれはこっちが悪いので、大人しく殴られておいた。
「いっちちち……」
 殴られた頬がおたふく風邪のように腫れている。コレは酷い、半端ない。御主人様は手加減という物を知らないのだろうか。サイトは『アルヴィースの食堂』への道を歩きながら、そう独り呟いた。
 例によって「ご飯、抜き!!」だそうだ。御主人様の怒鳴り声の幻聴が聞こえた。末期である。
 でも、彼はちっとも痛くない。
 何故なら。
「美味しいですか?」
 ご飯をくれる人がいるからだ。

     ○

 彼女はシエスタ。ここ『アルヴィースの食堂』でメイドとして働いている女の子だ。故郷から出稼ぎのため奉公に出てきているらしい。黒髪おかっぱというこの世界では珍しい和風ヘアーにヘッドドレスを付けており、そしてこてこてのメイド服が似合う同い年くらいの少女である。彼女のいろんなところが故郷の秋葉原を彷彿とさせるので、サイトは彼女が気に入っていた。……いや、故郷が秋葉原というわけではないが。
 そしてなんと言っても彼女の、御主人様とは比べものにならないくらい健康的な肉付きが、彼の心をとても癒してくれる。主に胸が。
「うん、うん、美味いよシエスタ!」
 飯の美味さへの喜び以外なにも考えていない笑顔。シエスタはそれを見て嬉しそうに笑った。ほおづえをついてのそんな笑顔に、サイトはさらにメロメロになる。誰がどう見ても餌付けされているようにしか見えないだろう。お尻にぱたぱた動く尻尾が幻視できそうだ。
 とはいえ、異世界に来て初めて優しくしてくれた相手。始めの例えは冗談にしても、本当にシエスタのことは好きだ。彼女は理不尽なことを言わないし、不条理に人を蔑んだりしない。この世界の人間――サイトはこの学院しか知らない――にしては、珍しい女の子だ。食堂のおっさんもいい人だし、ここにいる時間は彼にとって一種のオアシスとなっていた。
 初めてここを訪れたとき、嬉しすぎて泣いてしまったほどである。この調理場に来る前の彼の心のすさみようは計りしれない。
 シエスタとの楽しい談笑のひととき、話題の種に今日は一日飯抜きとのことを上げる。むかついたので今日はずっと顔を見せてやらないんだ、仕事はするけど、と、冗談めかしてシエスタに話す。シエスタはそんなサイトのおどけ話に、まあ、と心配したり、くすくすと笑みを溢したり。
 そうやって少しだけお喋りした後、サイトは洗濯へ、シエスタも食器下げに立ち上がる。これが彼等の日常になりかけていた。

 今日、この日。シエスタへの恩返しに給仕の手伝いを申し出たサイト。
 彼の身に大変な災難が降りかかるのだが、そんなこと誰も知るよしもなかった。

     ○

 『アルヴィースの食堂』。知る人ぞ知る一級の働き口である。魔法学院属の公務福利施設なここは、入ることが出来れば食うに困らない平民夢の職場。その厨房のシェフ(料理長)ともなると、その年俸はちょっとした貴族よりも多いとの噂だ。 そんな地位を手に入れたのにちっともそれを誇らないシェフ・マルトーは、今日もぼんやりと雑務をこなしていた。しかし、急に遠い目をすると、その厳つい顔をさらにしかめてこめかみに手を当てる。
 職場の待遇に不満はない。……いや、あるがどうにもならない。彼は大の貴族嫌いで、話す機会のない学院の生徒すら毛嫌いしていた。そんな彼がこんなところでこんな役職に就いているのはわけがある。己の信じる、理想を実現するためだ。だが、いくら願い、求めても、その糸口にすらたどり着けない。彼はそんな日々に摩耗し始めていた。
 毎日変わらない、規定量の料理を作り続ける日々。シェフ(料理長)であるが故に仕事は誰よりもこなさねばならず、彼自身の性質もあり、手を抜くことなど決してできない。しようとも思わない。それは学院長から贈り賜った、『アルウィースの食堂』のシェフの証明である赤いタイを裏切ることだから。
 なので規定の作業を終えてから頑張ろうと思っているのだが、仕事だけはここにはいつでも、腐るほどある。だから別のことをする時間がとれない。結果、忙殺の日々だけが過ぎていく。
 もうこのまま、ここで料理長として一生を終えるか。
 そんな受動的な考えすら浮かんでくる。
 しかし、今日は一つだけ違うことが起こった。
 ギィー……
 料理長室の戸が独りでに開く。その音に訝しげな視線を向けたが、そこには誰の姿もない。不思議に思ったマルトーは、作成中だった明日の仕入れ発注伝票を机に置いて立ち上がった。
「なんだ、誰か来たのか!」
 マルトーは扉の方に大きな声を飛ばした。しかし、返事は返ってこない。いよいよもっておかしな話。彼は姿を見せない来客に鼻息を荒くする。短気なのだ。
「失礼な奴だ! 用があるなら姿を見せろ!」
 マルトーはドシドシと地面を踏みならし、部屋の入り口へ向かっていく。不作法な侵入者を、なんとしても見つけだしてやろうと思ったのだ。そう広くないあてがわれた部屋、しかものしのしと大股で歩くので、まもなく扉の目の前まで辿り着く。彼はドアノブを引っつかむと、おもむろに扉をガチャリと開け放った。
 しかし。
「ブギュウっ!」
「む、いない」
 扉の外にも誰もいない。自分の部下であるコック達はちゃんとしつけてあるので、こんなことはしないはずなのだが。マルトーはまるで狐にでも化かされたような気分になり、アゴに手を当て考え込んだ。
 そのとき、不意に調理師用白ズボンの裾を引っ張られた気がした。
 クイクイ
「ん?」
 マルトーはズボンのすそを刺激する謎の感覚に、不思議そうな顔で足下を見下ろすと――なんと、茶色いなにかが倒れ伏している。というか、思いっきり踏みつぶしていた。
 その茶色いなにかが、彼の足を引っ張っていたのだ。
「おぉっと、すまねぇ!」
 マルトーは反射的に謝って足を退けた。彼はぶっきらぼうだが優しい男なので、動物や草花にもつい謝罪してしまうことが多い。それも彼の美徳なのだ。
 茶色いなにかは精も根も尽き果てたように、ぴくりとも動かない。ネズミのような大きな耳に、先の方が三本に別れた尻尾、そしてなんといっても背中にチャック。マルトーはこんな生物など今まで見たことがなかったので、どうしていいかとまどった。
 どこかの貴族のせがれの使い魔なら、自分は酷い目に遭わされるかも知れない。
 誰の目にも触れないうちに、たたき出したほうがいいのではないか。
 一瞬そんなことが頭をよぎったが、すぐに頭を振って打ち消した。
 自分のことは後でいい、今は目の前の弱った幻獣が先だ。
「どうしたい! 踏んだのが痛かったのか!」
 マルトーはしゃがみ込み、ぐったりしているネズミもどきを抱え上げる。その手つきは壊れ物を扱うように優しく、がっしりとした腕で厚い胸板の方へ持ち上げた。彼は料理人なのに、何故かガタイがかなりいい。
 間近でネズミもどきの顔を覗き込むと、それはしわがれたじーさんのような、または街角の浮浪者の如きくたびれた顔をしていた。どうやらよほど衰弱しているらしい。
 マルトーはその様子にさらに慌て、色々と言葉を投げかける。だが、ネズミもどきは何の反応も返さない。
 ネズミもどきのあまりにも衰弱した様子に、マルトーはいよいよせっぱ詰まってきて、学院の医務室まで走ろうかと思案し始めたとき。ネズミもどきは、ぷるぷると右前足を上げた。
「――ん?」
 マルトーはそれを注意深く観察する。震えながらも精一杯口を開け、右前足で口内をちょいちょい指さす。パクパクと口を開けたり閉じたりする様は、なにかを頬張っているようだった。
「腹、空いてんのか?」
 マルトーは察した答えを投げかけた。しかし、弱り切ったネズミもどきは同じ動作を繰り返すだけ。やはり、言葉が通じていないらしい。だが、マルトーは自分の予想が間違いなく正解であるように思えた。
 正解が出たなら、後は簡単だ。
「ちょっと待ってろよ! 今、このマルトー特製のシチューを食わせてやるからな!」
 マルトーはやんわりとネズミもどきを机の上に横たえると、一目散に厨房へと走った。彼の頭の中は今、この腹ペコな不思議生物を腹一杯にしてやること以外なかった。

     ○

 ガツガツグチャグチャラッモグモッグモ!!

「………………」
 マルトーは眼前の信じられない光景に、あんぐりと口を開け放心していた。
 話は数分前にさかのぼる。
 小さき動物の命の危機に、息せき切って厨房に駆け込んだマルトー。彼は驚いたコックたちの反応も気にせず「料理長室への立ち入り禁止!」と言い残し、手近ななべを引っつかむとすごい勢いできびすを返した。
 そのまま厨房の扉を叩きつけるのように閉め、料理長室の扉を蹴破るように飛び込んだところで我に返る。
(なんてこった、スプーンを忘れた!)
 相手は衰弱した半病人(?)である。そんな状態の相手に鍋から直食べを強要するのは、酷な仕打ちではないだろうか。困ったことに食器は洗浄中だったらしく、おたますら刺さっていなかった。これではこのネズミもどきに食べさせてやれないではないか。
 マルトーは部屋の扉のふちに片足を乗せた状態で、思考停止したように固まった。
 食器を取りに戻ろうか。
 硬直から復帰したマルトーは、そう思い回れ右をしようとする。だが、その足元で、ギラリと眼光が煌いた気がした。
「ぬぉう!?」
 手に持った鍋を突き上げるような鋭い衝撃。マルトーは急な衝撃に、おもわず鍋を手離してしまう。しかし、鍋は重力に従わず、テーブルの上に『着地』した。
 びっくりして目をむいたマルトーは、テーブルの上へ視線を追ってさらに驚きに後ずさる。
 鍋に、足が生えている?
 いや、目を凝らせば違うことが分かった。例のネズミもどきが、鍋を掲げ持っていたのだ。
 ネズミもどきは鍋を見上げながら瞳を爛々と輝かせ、おもむろに鍋を傾け始めた。
「お、おい! あぶねぇぞ――……!」
 火から離したとはいえ今朝の朝食のシチュー、余熱で中身はまだほんのり熱を持っている。しかもこの鍋は生徒や教師全員分を用意するために特注した、巨大な寸胴鍋の三つのうちの一つで、その大きさはガタイのいいマルトーの胴体くらいある。その丸太のような質量は目の前のネズミもどきより何倍も大きいし、熱で喉を大火傷するのも免れなさそうな残念未来が予想される。
 マルトーは予想される悲惨な結末に、ネズミもどきを止めようと手を伸ばした。
 だが。

 ガツガツグチャグチャラッモグモッグモ!!

 ――と、いったところで冒頭に戻る。
 かぱり、と音が聞こえてきそうな調子でネズミもどきの口が、『寸胴鍋の口よりも大きく』開かれた。珍獣はそのまま寸胴鍋を傾け、中身を口内にぶちまける。そして自分の体より大きな鍋に入っていた満杯のシチューを口いっぱいにほおばり、ぐちゅぐちゅと汚い音を立てて咀嚼し飲み込んだ。
(これはねぇんじゃねえか?)
 マルトーは開いた口がふさがらなかった。
 質量保存の法則はどーしたい? やつの胃袋は宇宙なのか? 彼は混乱しすぎて、頭の中は意味のない考えでとっちらかってしまった。
 目の前の珍獣はそんな彼の様子を気にした風もなく、口の周りについたシチューを長い舌でべろりと舐めとる。そして満足そうに膨れたおなかをぽんと撫でるように叩き、三本しかない前足の黒い爪で、器用にもビシッとサムズアップの形を作った。どうやら美味くてご満悦らしい。
「おぉ! そうか、美味かったか! よしよし、おまえは味のわかる奴だな!!」
 好意的らしき反応を示した珍獣に、マルトーは先ほどまでの混乱などすっかり忘れたように喜ぶ。彼は基本的に料理をほめられたら、他はどうでもよかったりする。丹精こめて作った料理を美味いといってくれるなら、そいつはみんな仲間なのだ。貴族連中は美味いものが出てくることを当たり前と考えているから好かない。
 珍獣はガッハッハと豪快に笑うマルトーを見上げるとしばし考えこんだように顔を伏せ、少しして寸胴鍋を持って料理長室を飛び出した。
「お、おい! そりゃうちの鍋だぞ!?」
 鍋がなくなると困るマルトーは慌てて珍獣の後を追う。まさか、持ち逃げするつもりではなかろうか。珍獣の真意がわからないマルトーは、とりあえず後を追うしかなかった。
 やがてそいつはキッチン(調理室)に入っていった。
 バタン!
「――おい! 誰かそいつを」
 と、マルトーは怒鳴ろうとして、止めた。なんと珍獣は、
 ゴシゴシジャーゴシッ
 持っていた鍋を水に浸け、スポンジで洗っていたのだから。
 周りにいたコックたちは突然の意味不明な展開に面食らっており、その行為を止めようとさえしない。これが誰かの使い魔だったりしたら、ばれた瞬間大変なことになるというのに。
 やがて珍獣が鍋を逆さにして何度か振り、水気を切ってマルトーに差し出した。マルトーが寸胴鍋の中を覗き込むと、中はぴかぴかに磨き上げられている。
「ほお、やるじゃねぇか! 最近の若い奴は、初めだと手抜きしやがるのに!」
 そういってマルトー、厨房の隅でよく分からない野菜の皮むきをしている集団を見やった。シェフににやりと笑みを飛ばされた新人コック集団は、微妙な笑顔を浮かべて居心地悪そうに顔を伏せる。
 マルトーの笑顔に珍獣は満足すると、今度は大きく口を開けて口内を指差した。
「ん? なんだってんだ?」
 マルトーが頭に疑問符を浮かべると、珍獣はさらに洗い物をする真似事をし、そして改めて口を指差す。
 それはまるで、ボクを雇ってくれと言わんばかりに。
「なんだ、働くから飯を食わせろってか! 人間じゃねえのに見上げた奴だ!」
 義理を理解する動物など、みたことも聞いたこともない。自身も貸し借りに関してはきっちりしているマルトーは、目の前にいるわきまえた幻想種(らしき生物)をこれでたいそう気に入った。
「居たいというならいくらでも居ると良い!  好きなだけ休んでいきな!」
「りょ、料理長。流石にそれはまずいんじゃ……」
「うるせぇ! ダメだったときは俺がどやされりゃあいいんだよ!」
 おずおずと投げかけられたコック達のたしなめも、マルトーはがっはっはと笑い飛ばす。
 豪快な男である。
「よし、今日からお前はこの『アルヴィースの食堂』の一員だ! その記念に……」
 まさに光り輝き出しそうな満面の笑顔でマルトーは珍獣を見下ろした。
 彼は記念に……と呟きながらきょろきょろと厨房内を見回すと、ちょうどよく干してあった純白のナプキンに焦点を合わせる。
「よし、これをやろう!」
 丁寧に洗われた清潔なナプキン。マルトーは中腰になって流し台に乗る珍獣と目を合わせると、つまんだナプキンを受け取らせた。
「厨房ではタイをしなければならん。純白はまだなにも知らないヒヨッ子の色、新入りの証明だ!」
 マルトーは己の首に巻く赤いタイを見せつつ、そう言葉をかけた。通じていないことは分かっているはずなのに。
 しかし、その不思議な新入りはにこっと笑って迷い無くタイを三角に折り、三角の頂点が背中にくるようナプキンを巻き付けた。
 それは、ちょうど――チャックが上手く隠れるように。
「おお、おお! お前も嬉しいか! 俺も嬉しいぞ!」
 マルトーは珍獣の行為に感極まったようで、ばんばんと彼の背中を叩く。
 珍獣は背中が痛そうだったが、そんなマルトーを照れたように、しかし心地よさそうに見上げていた。

     ○

 切欠はささいな事。
 ちっぽけな貴族のちっぽけな虚栄心(プライド)。彼はそれに火をつけてしまった。女の子の前というのもあったが、もう悔やんでも手遅れである。

 ヴェストリの広場。
 そこはもはや憩いの場ではなく、熱気渦巻く決闘の舞台と変貌していた。……が。
 この辺りはばっさり端折る。サイトくんは頑張りました。まる。
 同じところを同じように書いても、楽しくないし意味もないのだ。

 話はサイトが目覚めて数日のところまですっ飛ばされる。

     ○

「いつつ……」
 歩くたび体の節々が痛んだ。例のスカした薔薇貴族野郎との傷はかなりの部分がふさがったが、打ち身や打撲みたいなものは完治まで至っていないらしい。肩や首などをしかめっ面で押さえながら、サイトは中庭の広場の片隅を目指して廊下を歩いていた。いつぞや設置した五右衛門風呂の様子が気になっていたからだ。
 この世界に来てすぐのとき、どうしてもこの世界の風呂のサウナっぽさが合わず、食堂のおっさんに無理言って廃棄予定だった巨大鍋を譲ってもらっていた。巨大というのは読んで字のごとく、どっかの魔女が怪しげな薬品を調合するのに使いそうな、両側にとってのついた馬鹿みたいにデカい鍋だ。ここまででかかったらとっての意味なんてあるのだろうか。彼はそう疑問に思わずにはいられない。
 疑問といえば、なにかご主人様の様子も変だ。なんというか、風当たりが穏やかになったような気がする。あくまで申し訳程度だが。なにか思うところでもできたのだろうか。起きた後すぐにシエスタに会いに行ったときも、何故か厨房のみんなが彼を英雄のように迎え入れてくれた。なんでも『我らの剣』だそうだ。なんのこっちゃ。
 しかし褒められて悪い気はしないのも事実。サイトは食堂でちやほやされ、若干天狗になっていた。単純な男である。
 なので、何故自分が勝てたのか。何による要因があったのかは深く考えない。まあ奇跡的なヒーローをリアルに演じられちゃったのだから、テンションがあがってしまうのも無理はないかもしれない。

「――ん?」
 不意に足を止める。窓から見下ろした目的地の方角から、ほこほこと湯気が上がっていたのだ。あんな場所に好き好んで赴く貴族などいないはず、サイトはだからこそ不審に思った。いったいなんなのだろうか、まさか俺のお風呂ちゃんを狙う何者かの襲撃か。サイトはまさかの五右衛門風呂の危機に焦り、弾かれたように走り出した。
 階段を一段飛ばしで駆け下り、踊り場を手すりにつかまりながら急カーブ。中庭への出口を抜け、一目散にひた走る。
 そして彼は見つけた。ほっこりと沸いた自分のお風呂と、それに浸かる見覚えのない男を。
「♪――♪~~♪~」
 見知らぬ男が鼻歌を歌いながら、のほほんと風呂に浸かっていた。たっぷりと水分を含んだ髪をおもむろにかき上げ、細身ながらもがっちりとついた筋肉に水を滴らせている後姿。鍋のふちに両肘をかけてゆったりしているその様は、まさにリラックスという言葉を体現しているようだ。サイトは予想外過ぎる珍入者と、その珍入者の湯気でかすんだ無駄にセクシーなシルエットに、しばし言葉を忘れた。
 だが、そんなものも長く続くはずはなく。数瞬してはっと再起動するサイト。これは奴の風呂ではない、俺の風呂だ。
「おい!」
「ん?」
 サイトの声に男が振り向いた。男は端正な顔立ちだが印象が薄く、そこら辺にいるホストのような軽い雰囲気をまとっている。髪が濡れてぼさぼさに乱れているので実際のところは分からないが、そこそこ美形な顔立ちのようだ。
 若干モミアゲがロン毛気味で、本人も大事そうにそれを手串で梳かしているあたり、そこにかなり気を使っているようだ。
「おまえ何やってんだ!? それ俺の風呂だぞ!!」
 むきーっと怒りを全面に帯び、苦情をたたきつけるサイト。まず突っ込むところはそれか。
 サイトの怒声に振り返る男。
「ん? これはキミのだったのかい。あんまりにも丁度よさそうだったんで、ちょっと使わせてもらってるよ」
 男は悪びれた風もなく、ひらひらと手を振って答えた。風呂桶の代わりに巨大鍋を使う発想は自分でもそこそこ異常だと思っていたが、まさか同じことを考える人間がいたとは。サイトはこの事態にどういう反応をすればいいか分からず、あうあうと口を開閉している。
 男はここではっと口元を押さえて不思議そうな顔をしたが、数瞬して表情を戻した。
「……キミが、多分噂になってる人間くんだよね? どうだい、この世界楽しんでるかい?」
 男はそう言ってニヤリと笑う。その笑顔にサイトはここ数日の怒涛の日々をあざ笑われたような気がして、さらに怒りのボルテージを上げた。
「ッ、楽しめるわけねーだろーが! こっちはお前らに奴隷みたいな扱いされてんだぞ!!」
「おや、ボクは関係ないよ。ここじゃどうやら底辺以下っぽいし」
「はあ? どういう意味だよ」
「言葉どおりさ」
 男は鍋のふちに両手をかけ、まじまじとサイトを観察している。サイトはその視線になんとも言えない得体の知れなさを感じ、少し気味が悪くなった。
 男はさらに質問してくる。「ひとつ聞きたいんだけど」
「な、なんだよ」
「あの時、キスしてたよね。あれはどういう意味があるんだい?」
 男はなんの含みもなく真顔でそう聞いてきた。サイトは一瞬なんのことか分からなかったが、キスというキーワードに思い当たり、顔を真っ赤にする。
「あ、あれは『使い魔の契約』とやらだ! 別にやましい事じゃない、てか俺の意思じゃなかったし、むしろ無理やり奪われたというか……」
 サイトは声を乱したと思ったら、今度は尻すぼみにごにょごにょと呟く。怒ったり照れたり忙しい少年である。
 だが、男はそんなサイトの様子など視界の外で、納得したようにあごへ手を当てている。
「そっか……やっぱりか。だとすると、結構危なかったな」
「へ? なに?」
「いやこっちの話」
 男はフルフルと首を振った。
 サイトはここでふと我に返った。つい相手のペースに飲まれて会話を続けていたが、よく考えたら自分はこの風呂釜のためにここまで降りてきたのだった。とりあえず目の前の男は自分を不当に扱ったり端なさそうだが、未だに見ず知らずなことに変わりはない。サイトはとりあえず、警戒心を解いて口を開いた。
「とにかく、それ俺のだから。使い終わったら元の場所に戻しといてくれよな。ちゃんと掃除もしとけよ。俺は『平賀才人』。あんたは?」
「ボクはハ……いや、『聖京介』だ」
「え?」
 男の名前――聖京介――を聞き、頭で理解した瞬間、思わず声が漏れた。

 聖京介?
 ヒジリキョウスケ?
 それは、俺の世界の名前に似ている――

「――おいッ!! その名前は本名なのか!?」
「うぉう!?  いや、まあ、そう呼んでほしいなぁ~って」
「本名か本名なんだな?!」
「い、いや、あう」
「あんた、この世界の人間じゃないんだろ!? 俺と同じなんじゃないのか! 俺は日本から来たんだ! あんたはどこから来たんだ!?」
「ちょ、ちょ、ま……」
 サイトの今にも掴みかからん剣幕に、しどろもどろに湯船をあとじさる聖という男。突然のサイトの豹変に度肝を抜かれたようだ。
 しかしそんな聖も、ふと自分の腕を見下ろし急にあわて始める。
「! やば、もうなの!?」
 その声にサイトも視線をたどると、なにか聖の腕に毛深いもじゃもじゃがまとわりついているのが見えた。湯船の中でよく見えないが、彼の右手はまるでオレンジ色の体毛をしたイエティのようになっている。
「あれ? なんか湯船に変な」
「ちょっと急いでるからごめん! ボクもう行くね!!」
 聖はばしゃあ、とお湯をまきちらしながら立ち上がり、一目散に芝生の上を駆けてゆく。全裸で。
「お風呂ご馳走様――っ!!」
「おい! 待て!!」
 しゅたたたた、と遠ざかる足音を聞きながらその場に立ち尽くすサイト。彼はまだまだ聞きたいことがあったが、フルチンで全力疾走するモミアゲ変質者を目撃してしまったショックで、とっさに後を追うことができなかった。

     ○

 ごっしゅごっしゅと布を皿にこすり付ける音が響き、世界は泡に淡々と包まれる。『アルヴィースの食堂』厨房セクションは、今日も今日とて大忙しだ。貴族たちは毎日飽きもせず贅沢な料理を食し、しかも毎回半分くらいは残して残飯に返してくる。マルトーはいつもそんな料理(我が子)たちを見ては、切なさに胸を痛めていた。ごつい男がそんな乙女チックに胸を抱く姿でも、何故か絵になるから不思議だ。
 初見はあまりの気持ち悪さにぶっ倒れたネズミもどきだが、数日慣れた。なにより、純粋に嘆き、悲しんでいるのがひしひしと伝わってきたからだ。彼は何事であろうとも、本気で取り組んでいる人を笑ったりはしない。
 そんなネズミもどき――書きにくな、キーボードの配置的な意味で。特にZが。やっぱりハムもどきにしようか。むしろハムスターに似ていることだし。
 彼は今厨房での業務を終わらせ、ナプキンの洗濯に取り組んでいた。仕込みや調理なんかは技術的にも物理的にも手伝えないので、それならば、とマルトーに桶ごと手渡されたのだ。ちなみに、未だにコミュニケーションはジェスチャーで行っている。彼はこの世界の人間が言っていることを理解できないし、マルトーも彼の言葉が分からないからだ。そもそもマルトーは、彼が喋れるとすら思っていない。見た目ハムもどきだし。
 洗濯と言っても、文明の利器『洗濯機』などはこの世界にはなかった。なのでどうするのかをどうにかこうにか手近な下っ端風コックにジェスチャーで伝え、連れて来てもらった先で愕然と目を疑った。
 井戸ですよ井戸。いつの時代ですかいったい。
 傍に生えるちょっと愛らしい薄紅色の植物が、いやに井戸とコラボレーションを演出していてむなしかった。
 なんだかんだで激動の数日間を乗り越え、どうにか飯の種と寝床は見つけたが……胸中に時折ふっと湧く、孤独感だけはどうにもならない。彼はいつの間にか、空を見上げることが癖になっていた。そしてそこに浮かぶ、昼間でもうっすらと見える赤と青の月を見るたび、ここが知らない世界であることを無慈悲にも突きつけられるのだ。なかなかに切ないコンボである。
 言葉さえ通じれば、新たに友達も作れるのだろうが。ジェスチャーではなかなかに上手くいかないものである。
「………………」
 ともすればポロリとこぼれそうになる涙をくっとこらえ、彼は洗濯を再開した。考えても仕方ないことは、あえて考えないにかぎる。鬱になっちゃうから。
 ――ゴォウ
 唐突に、影。真上を飛行する巨大な何かが見えた。しかし影は一瞬で通り過ぎ、何だったのかは分からない。飛行機か何かだろう、と考えて、この世界に飛行機ってのも、と首をひねる。どう見てもこの世界は近代的ではない。なにせ電気も水道もないのだ。
 首をかしげていると、また影。今度はなんだか範囲が広くなった気がする。だがやはりまた通り過ぎる。いよいよもって興味が湧いてきた。この世界に存在する、大きくて空を飛ぶものとはなんなのだろうか。
 そしてまた、影。今度は地面がはっきりと見て取れるほど暗い。しかも影は移動せず、真後ろには強い気配を感じる。後ろに立っているようだ。
 興味があるのは本当だが、いきなり後ろに立たれると怖い。俺の後ろに立つんじゃねぇ、と誰かも言っていただろう。殴られてしまうぞ。
 しかし、こんな状況であっては振り向かないわけにはいかない。緊張に身をこわばらせつつ腹をくくったハムもどきは、恐る恐る体をよじって――
「キャ――――――ッ!?」
 絶叫を上げざるを得なかった。なんと真後ろにズズン、と演出音がつきそうな圧倒的迫力を持って、蒼天色のドラゴンが立っていたからだ。体長は5メートル以上ありそうで二足歩行もできる体格、全体的にシャープな体型で、どことなくは虫類を彷彿とさせる。そんな肉体の巨大な生物が、それに似合わぬアクアマリンのようなつぶらな瞳で、こちらをまじまじと見下ろしていたのだ。
「やめて食べないでボク美味しくないよ――――ッ!!!?」
 ハムもどきはどうせ伝わらないと分かっていたが、つい全力で命乞いをしてしまう。彼我の体長差は約8、9倍で、ヘタすりゃ一息で踏みつぶされそうなぐらいある。故に感じる無言のプレッシャーは半端無かった。とはいえ、ちゃっかり頭を抱えて身をちぢこませるというあざといリアクションも組み込んでいる辺り、基本的に打算バンザイな心意気をしているようだが。
 だが、次の展開は彼の予想をあさっての方向へ吹っ飛ばすものだった。
「大丈夫なの! 食べたりしないの! きゅいきゅい!」
「はぁ?」
 丸めた尻尾を解きほぐし、眉間にしわを寄せておそるおそる振り返るハムもどき。この世界に来て数日ぶりに、意味のある音の羅列を聴いた気がする。きょろきょろと周囲を見回してみるが、他に生物の姿はない。どうやら目の前のドラゴンは、言語を介し操れるらしい。
「お前、昨日の夜人間だった獣ね。わたし『シルフィード』! お姉さまの使い魔なの!」
「っ! ……シ、シルフィ? お姉さま?」
 いきなり出てきてなにを言ってるんだこのドラゴンは。というか何故言葉が通じる? 今まで誰とも話せなかったのに。次々と疑問が頭の中をぐるぐると廻り、ハムもどきはそれを処理しきれず、どうするべきか困ってしまった。
 そんなハムもどきのことなど気にせずに、シルフィードは嬉々として言葉を続ける。
「人間になれるのは珍しいの! シルフィも人間になれるのよ?」
「え?」
 流されっぱなしなハムもどきの前で、シルフィードは「我をまといし風よ……」とか、うんたらかんたら呟いている。すると周囲を凪いでいた風が止み、シルフィードの方へ集まってきた。ハムもどきはそんな自然現象の変化に少しだけ驚いたが、すぐに気を静めまん丸の眼をさらに丸くして、ことの推移を見守っている。
 やがて風の奔流が消えると、そこにはなんとスレンダーで爆乳、蒼髪で18歳くらいらしき女性が、ドラゴンの代わりに出現した。全裸の。 
「むは――――!! ここは現代の失楽園か?! けしからん、これはけしからんですよッ!!!!」
 はじけるような美しき女体に珍獣は俄然ヒートアップし、鼻血を吹きつつ大暴走し始める。テンションMAX、今なら神ですら倒せそうな勢いである。しかしはっと我に返ると、耳の中からミニチュアサイズの白いワイシャツを取りだし、それを『大きく』してシルフィードに投げ渡した。
「は、早くこれ着て!」
「えー、服はごわごわするからやなの!」
「全ての女体はボクによって保護されなくちゃいけないんだよ!!」
 他の男になんて絶対に見せん! とハムもどきは絶叫した。聞いているだけではまるで電波である。だがシルフィードはその内容に特には反応せず、ぷーっとふくれながらしぶしぶワイシャツを羽織った。
 シルフィード(裸ワイシャツ装備)、出現。
「ちょ!!!! さらに破壊力倍増!? 戦闘力80……90万、化け物か!!?」
 むひょ――――ッ!! と奇声を発しながら、芝生を転げ回る珍獣。シルフィード(人間形態)は、そんな彼を不思議そうに見下ろしている。
「ボクは『ハタヤマヨシノリ』と言います!! 生まれる前から愛してました――ッ!!」
 もう辛抱たまらん、と、珍獣は身体能力を極限まで解放し、光の速さでルパンダイブをかました。もちろん常に全裸なので、脱ぎ捨てる衣服などありはしないが。
 しかしシルフィードは女性特有の恥じらいをあまり持っていないので、素直にぽふん、と受け止める。
(きたキタキタキタ――ッ!! 久しぶりのダイブ成功!! これはひょっとして――)
「ハタヤマって言うのね! よろしくなのね! きゅいきゅい!」
 ギュゥゥゥゥゥゥゥ
 シルフィードはハタヤマの行動を彼なりの親愛の証と判断し、力一杯のハグで応えた。文字通り、全力で。
 ギリギリギリギリギリギリ
「ちょ、これは新しい反応――てかく、苦し、実が出、が、は……」
 ハタヤマは彼女の細腕から発せられた万力のような剛力に、かつて無い命の危機を感じた。全力でタップをしてみるが、豊かな胸がぽよぽよして嬉しいだけだった。こんな状況でもどうしようもないエロ珍獣である。
「ひゃん、胸元がくすぐったいのね! ハタヤマはいたずらっ子だわ」
 嬉しそうにシルフィードはきゅいきゅいと鳴き、苦しそうにハタヤマはゴヒュー、ゴヒュー、と息を吐く。端から見れば、彼等はとんでもないカオス関係に見えることだろう。
「わ、わが……しょうがいに……いっぺんの――ガクッ」
 そしてハムもどき――ハタヤマヨシノリの意識は、ここで闇に包まれた。
 合掌。

     ○

「――で、ここはハルケギニアのトリステイン王国にある、トリステイン魔法学院なのよ!」
「ふむふむ、なるほど」

     ○

 幸せな眠りから目覚めたら、知らない天井だった。と、お約束のボケをかましながら、ハタヤマはソファーの上で目を覚ました。
 現状を確認しようと周囲を見回せば、まずは壁の一角を隙間無く埋め尽くす本の一杯詰まった本棚が目に飛び込む。しかもどれもこれもかなり分厚く、おそらくはお堅い学術書っぽい。ハタヤマはその光景だけで、知恵熱が起きるような気がした。しかしその本棚とは対照的に、タンスやテーブルはこじんまりとしている。特に鏡台が存在せず、壁掛け式の大きな鏡が一枚かかっているだけというのがハタヤマは妙に気になった。
 印象としては、無駄な物が一切ない部屋。チリ一つ落ちていない清潔な様子も相まって、ハタヤマは酷く空虚な感覚に襲われた。
「おはようなのね! やっとおきたのね!」
 ハタヤマは突然の挨拶にビクッと身体を硬直させる。声のする方向を見やると、蒼天色のうろこに覆われた竜が窓の外からこちらを覗き込んでいた。ハタヤマは一瞬毛を逆立てるが、すぐに気絶直前のやり取りを思い出す。
 彼女は確か、シルフィードと名乗っていた。
「あぁ、おはようシルフィードちゃん。で、いきなり悪いんだけど」
 ハタヤマは改めて室内を見渡す。
「ここ、どこなのかな?」
 シルフィードは窓枠をまたぐように、のしのしと部屋へ上がってきた。彼女の身体は大きいので、窓の傍にあるベッドも含めると実に部屋半分が占領される形になる。ソファーの上ですら持てあますハタヤマのちんまさとは比べものにならない。
「ここはお姉さまの部屋なのよ。ハタヤマねちゃったから、シルフィが連れてきたの」
 おちびさんおねむ、るーるるー、とシルフィードは歌い出す。さっきから思っていたが、彼女はかなり自由な性格をしているらしい。
 ハタヤマはそんなシルフィードを見て微笑ましそうに苦笑する。
「――それで、ボクになんの用なのかな?」
「きゅい?  別になにもないの。 退屈だったから話しかけただけなのよ?」
 シルフィードのきょとんとした声色に、ハタヤマはぽかんとアゴが外れた。開いた口がふさがらないとは、こういう気分を言うのだろうか。いや、ちょっと違うかも知れないが。彼女の純粋な行動原理は、癖のあるやつとばかり付き合ってきたハタヤマには予想外すぎた。
 シルフィードはそれで思い出したのか、興奮したように言葉を続ける。
「お姉さまったら、『許可したとき以外は喋っちゃ駄目』、なんて言うのよ。
 つまんない! しゃべれないのはつまんない! きゅいきゅい!」
「いや、それじゃあボクと会話するのもダメなんじゃないの?」
「いいの! お前は誰の使い魔でもないみたいだもの! 野ネズミくらいなら、きっとお姉さまも許してくれるわ!」
「の、野ネズミって……」
 シルフィードは竜の顔のままぷぅ、とふくれる。ハタヤマはあんまりな言われように、若干テンションが下がり気味だ。確かに野良だけども。
「この世界でしゃべる魔法生物ってのは珍しいの?」
「……? 普通にんげん語は聞くこともしゃべることもできないのよ?
 幻獣でも高位のものにならないと、理解することすらできないわ」
 わたしは韻竜だからしゃべれるけど、とシルフィードは付け加える。ハタヤマはその付け加えた方に興味を持ち彼女に聞いてみると、なんでも彼女は古代風竜の中でも特に珍しい『風韻竜』(ふういんりゅう)という種族らしい。ハタヤマにはよく分からなかったが、とても珍しい部類のようだ。
「でも、例外がある」
「そう。『契約』した生物はどんなものであろうとも、一定の知性をあたえられるの」
「やっぱりね」
 ハタヤマは独り納得した。どうやらどこの世界でも、使い魔契約にそうそう違いはないようだ。と言ってもハタヤマが暮らしていた世界『アンゴルノア』では、いちいち儀式なんてしなかったが。
「なにかへん。お前、本当に野良なの?
 わたし、お前みたいな種族みたことないわ」
「う~ん……なんというか、ね」
 韻竜の知識を持ってしても、目の前の野良ネズミに関する情報は皆無。シルフィードはハタヤマの言動の微妙な不自然さも相まって、不審そうに首をかしげた。
 ハタヤマはどうしたもんかとアゴに前足を当て、少しだけ考え込んだ。だが、数瞬して腹を決め、彼女に己の秘密を打ち明けることにした。
「まあ、隠すような事じゃないから言うけど、ボクこの世界の生物じゃないんだよ」
「世界? 世界って、ハルケギニアのこと?」
「そう」
 あっけらかんと重大事実を言い放つハタヤマ。ハタヤマの身も蓋もない言い方に、シルフィードはまたもきょとん目を丸くしてしまった。くりくりとしたアクエリアス色の瞳をまん丸くして、ハタヤマをじっと見下ろしている。
 こういう設定はもったいつけて何話か引っ張った方が文字数を稼げるのだが、ハタヤマにとってはわりかしどうでもいいことだったりする。隠したところで益も無し、信じてもらえなければ冗談で茶化せばオールオッケー。どちらにしても痛くない。
 シルフィードはどちらだったかというと、信じてくれる方だった。
「すごいの! だからこんなにへんてこなのね!」
「いや、ヘンテコって」
 えらい言われようである。確かに存在自体が変ではあるが。
 ハタヤマは眼をキラキラさせて見つめてくるシルフィードを見つめ返し、呆れたように質問を返す。
「普通『異世界から来た』なんて言ったら、正気を疑う方が先じゃないの?」
「わたしはお前みたいな生き物をみたことないし、にんげんになる魔法だってわたしの以外はしらないわ。
 お前が別の世界から来たっていうのなら、これが信じる理由になるの」
 シルフィードは言い淀むことも逆上することもなく、きっぱりとそう言い切った。
「韻竜だからって、この世界のことなんでもしってるなんて思ってないの」
 シルフィードの思った以上の聡明さに、ハタヤマは絶句した。振る舞いや喋り方から幼い少女をイメージしていたのだが、どうやら少々みくびっていたようだ。ハタヤマは彼女を見た目で判断してしまった自分を内心で恥じた。普段は女性を美醜で判断しているくせに、変なところでこだわる男である。
「……なるほど、悪かったよ。ごめん」
 ハタヤマはぺこりと頭を下げた。シルフィードはそんなハタヤマに、にっこりと笑顔を返すことで応えた。

     ○

 ――てなわけで先の冒頭に戻り、ハタヤマはシルフィードにこの世界のことをリサーチ中である。とにもかくにも情報がなければ、この先の身の振り方も考えることができない。いつまでもアルヴィースの食堂(あそこ)で世話になりっぱなしというわけにもいかないし、そろそろ帰るための指針を立てたいと思っていたところ。そう考えれば、シルフィードと知り合えたことは僥倖とも言えるタイミングだ。彼は今はまだ日々を生きるのに必死で手が回らないが、決して故郷への帰還を諦めるつもりはない。この世界に骨を埋める気など、微塵も、これっぽっちも、さらさらまったくありはしないのだ。いや、綺麗なねーちゃんとよろしくできるなら、多少は悩むかも知れないが。
 彼女から話を聞いてみると、驚くべき事がでるわでるわ。大して違いはないだろうと踏んでいたが、その予想はあながち間違ってはいなかったようだ。
 この世界の文化レベルはハタヤマが住んでいた世界の、生きていた時代から数百年くらい前と似ている。ちなみに彼が住んでいた時代は、コンビニもあり電気、水道も通っている近代だ。まんま現実世界を想像すれば分かりやすいだろう。そこに魔法とか人外の生物が闊歩していたりする、よくある感じの似非ファンタジー世界である。
 彼は歴史の勉強をあんまりしてないので詳しくは知らないが、彼の世界でも各王国、勢力が世界の覇権を賭けて小競り合いをしていた時代があった。その最たる物は『魔王大戦』だろうか。白き魔女セリアが黒き魔女リスティンを封印したとかいうアレだ。あの戦いが終わった後から科学が発展を始めたので、言うなればこの世界はまだ科学革命が生じていない世界なのかもしれない。
 トリステイン、ガリア、その他幾つかの王国、それに魔法や幻獣のこと。シルフィードは元来お喋り好きなのもあるだろうが、嬉々としてそれらを説明してくれた。ハタヤマはそれら全てが己の常識外な情報なので、彼女の言葉に新鮮な反応を返す。彼女はそれが嬉しいのか、さらに興奮して気分良く話続けるのだ。おかげでこの世界の常識、そしてエルフやら幻獣などの魔法生物のことも知識を得ることができた。
 どうやらハタヤマの世界で『幻想種』、『魔法生物』と呼ばれる類は、この世界で『幻獣』と呼ばれているらしい。そしてそれらの種類、種族は、ハタヤマが住んでいた世界とそう大差ないようだ。ハタヤマ自身全てを把握していたわけではないが、彼の世界にはガイコツやスライム、巨大カマキリから妖精など、それこそ探せばなんでもいた。
 そして『魔女っ娘』と『メイジ』、これが最たる違いだろう。この世界では男も魔法使いになれるようだが、ハタヤマの世界では、魔法使いは人間の女性しかなれない。人間の男が魔法使いになりたければ、使い魔として協会に登録されるしか道がなかった。魔法生物などもってのほかだ。元々魔法生物の社会的立場が弱かったということもあるが。

     ○

「――で、シルフィードちゃん」
「『シルフィ』でいいの! お姉さまは呼んでくれないから、お前はわたしをそう呼ぶの!」
「あぁ、じゃあシルフィちゃん」
 ハタヤマはそう言い直して、一瞬だけ顔をほころばせる。
 故郷に、この呼び方とよく似た名前の友達がいる。彼女は元気にしているだろうか。胸にほんのりと広がった懐かしさが、彼の心に温もりを灯した。
 突然黙って遠い目をするハタヤマに、シルフィードは怪訝そうな目を向ける。
「どーしたの?」
「っ! いや、なんでもないよ」
 とっさに故郷の友達については伏せた。今は関係ないことだし、女性の前でほかの女性の話をするのはタブーである。
 ハタヤマはこほん、と咳払いをして仕切りなおす。
「それでさ、何度も訊いて悪いんだけど、『世界をまたぐ扉』みたいなもんはこの世界に無いのかな?」
 ハタヤマは強い意思を込めて、シルフィードの顔を見上げた。彼にとって最大の関心事、それは言わずもがな『元の世界へ帰る方法』である。この世界で生きるうえでの最低限の知識は収集できた。ならば、次の段階へ移行するべき。
 しかし、シルフィードはハタヤマのシリアスな雰囲気に、困ったような表情を返す。
「う~ん……ごめんなの。それはわたしもしらないの」
 シルフィードは本当に申し訳なさそうに謝る。その答えにハタヤマは「そっか……」と呟き、気にしなくて言いと言い添えた。彼も心の中では、良い返事を期待していなかったからだ。
 そもそもハタヤマの世界でも、世界間移動の手段など失われて久しい知識、実在するかも怪しい魔法と噂されていた。奇しくもそんな魔法をモロに食らってしまった自分は、ある意味相当に強運と呼ばれるだろう。嬉しくない方向に。
「でも、『聖地』へいけば、なにかわかるかもしれないの」
「聖地?」
 頭を床につけんばかりに下げて、うんうん考え込んでいたシルフィードだが、はっと思い出したように言葉をつむいだ。ハタヤマは興味を惹かれ、オウム返しに語尾を上げる。
「『聖地』っていうのは、約六千年前、始祖ブリミルがこの地に初めて降り立った場所と言われてるの。もし始祖ブリミルが別の世界から来たとしたら、そこにはおそらくなにかがあるはずなのよ」
 シルフィードは思い出せたことが嬉しいのか、大きく一つ鳴き声をあげた。その空気に影響されたのか、ハタヤマの表情も明るくなる。
「よし! じゃあ、その『聖地』ってところに行ってみようかな!」
「たぶん無理なの」
 ずっしゃー! と盛大にずっこけるハタヤマ。その表紙にソファーから地面へ顔面でダイブしてしまった。よろよろと持ち上げられた顔には、「持ち上げといてそれは無いよ」と書かれているような悲壮っぷりである。
「聖地への道はエルフによってとざされているの。ちかづいたら攻撃されちゃうのよ」
 エルフ怖い! きゅいきゅい! とシルフィードは大きくこぼす。竜の肺活量は相当多いので、独り言でも人間が叫ぶくらいの声量がある。はるか足元に立つミニマムサイズのハタヤマには、耳毛が震えるほどに盛大に響く。
「でも、可能性はゼロじゃない」
 ハタヤマは耳をつんざく大音量に両耳を押さえながらも、確固たる決意を秘めて呟く。こんなところで諦めていては、いずれ日常に埋もれてしまう。そして日常は不変となり、いずれ思考を停止してしまうのだ。「こんなのも、悪くない」、と。ハタヤマはそれが嫌だった。
 たとえ半ばで倒れてもいい。砕け散ったって構わない。だが、なにもしないで絶望するということだけはしたくない。歩みを止めるなら歩みを止めるで、納得できる理由が欲しい。たとえあんな世界であっても、絆を結んだ人たちがいるから。きっと待っていてくれる人がいるから。そのために――
「ボクは帰りたいんだ。そのためなら、なんだってする」
 凛とした覇気をまとうハタヤマ。その真っ直ぐな眼差しに、シルフィードは気圧されるように気を呑んだ。
 ハタヤマは重大すぎる事実を口にするかのように影を背負い、重々しく口を開く。
「だって、だって……でないとボクのお気に入りエロ画像を詰め込んだハードディスク、5GBが白日の下にさらされてしまうじゃないかぁっ!!」
 メーデー、メーデー、エマージェンシーとハタヤマは大いに取り乱す。シルフィードは彼の言っている意味が分からなかったが、流れ的にずっこけてしまった。
「ボクのあられもない趣味趣向がみんなにバレちゃう……ボクの、ボクの社会的立場がピンチ!!!?
 てか今もリアルにピンチ?! こっちに倒れてこないでよ!!」
 床が抜けそうなほどの地響きを立て転けるシルフィード、その軌道上にはハタヤマが立っている。必然的に押しつぶされそうになってしまい、必死にベッドへよじ登り身をかわすハタヤマ。
「お前が変なこというから、力がぬけちゃったの!
 格好がつけられないやつね! きゅいきゅい!」
 ここはビシッと決めるところだったが、彼は基本二枚目半なので無茶というものだろう。こういうところを隠すことを覚えれば、もう少し世渡りも上手くなるだろうに。勿体ない男である。
「まあ、冗談はさておき。 多分大丈夫だと思うよ」
「あらま、ずいぶんな自信ね。そんなちっこいなりしちゃってるのに」
 ハタヤマはにやりと口の端を上げる。

「ボクには奥の手があるのさ」



[21043] 一章後編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:41
【 一章後編 『使い魔番長』 】



「はぁ~、エラい目にあった」
 太陽が頂点よりやや降りた時間帯。ハタヤマは学院の広場にて、空を見上げながらため息を吐いた。先ほどまでシルフィードと遊んでいたが、今は別れて、食堂での業務に戻っている。
 シルフィードはこれまで会話を制限されてきた反動からか、話し始めればいつまでもどこまでも止まらなかった。もう時間だから、と帰ろうとするハタヤマを、あとちょっと、あと少しだけと何度も引き留め、計一時間半以上も自分だけしゃべり続けたのだ。ハタヤマも最後の方は若干うんざりしていたが、自身も他者と会話できないことのストレスをこの世界に来てから嫌と言うほど味わっているので、時間が許す限り彼女とのおしゃべりに付き合った。なによりも、華やぐような笑顔で熱中している彼女を無下に突き放すのは、とても悪いことのような気がしたのだ。
 ハタヤマは現在、始めて来た広場(この学院には広場がいくつもある)にて、使い魔へ食事の配給という作業を行っている。これも『アルヴィースの食堂』が担っている仕事らしく、ハタヤマの視線の先では新人らしきコック達が忙しそうに駆け回っていた。どうやらこれも、新人が行う仕事のようだ。
 あっちではローストビーフが山と積まれた木の箱を数人がかりで運び、こっちではパンやサラダをぶちまけたボウルをこれまた数人で広場へ設置している。それらが地面に置かれた瞬間、周囲で待機していた使い魔達が我先にと殺到した。トカゲや猛獣など肉食の者はローストビーフやチキンの皿へ。兎や猫、その他よく分からん一つ目のやつやスライムっぽいものなど、草食や雑食な者はパンや野菜の皿へ走る。その中でもニワトリやオウムなど、鳥類はパンをほぐしパン粉状にした皿を好んでいるようだ。改めてみても、この世界の生物は様々な種族がいる。
「しっかし、こりゃあれだね」
 ハタヤマは独りごつ。魔法生物が、今にも咬み合いを始めん勢いで食料争奪戦を行っている様は、通常の感性の者から見れば地獄絵図に他ならない。現に何人かのコック達は、青い顔をして肩を震わせている。堪えようとしているようだが、恐ろしさを隠しきれないようだ。そんな彼等を、その集団のチーフらしきコックが気遣っている。彼はオレンジのタイをしていた。
 ハタヤマはそんな彼らを横目に、数多の使い魔達をジッ、と『観察』する。彼の種族だけが持つ、唯一にして神秘の技。その力は、常日頃からの『観察』によって育まれる。
 そういうわけでハタヤマはしばし、眼を皿のように開いて沈黙していた。
(『バグベアー』……『サラマンダー』、『グレイマン』に『ビーストラット』――――)
「てめぇ!」「なんだよ?!」
「――?」
 集中するハタヤマの耳に、それを裂くような怒声が入り込む。一度意味のある音の羅列を聞いたかと思えば、急に世界が開けたものだ。もう次の事例に行き当たった。
 声の方角に視線を向けると、そこではサルとカニが顔を突き合わせののしりあっていた。
「てめぇ、こりゃ反則だろ! 反則勝ちで俺の負けだ!!」
「知能負けと言って欲しいな! 馬鹿なお前が悪いんだ!!」
 ニホンザルのようなまことに動物らしいサルと、これまた生々しい甲羅のテカリが眼に映えるカニが、一触即発の雰囲気の中言い争いをしている。その光景は、まさに猿蟹合戦直前のようである。
 これに気づいたとき、ハタヤマはさらに重要なことを理解した。彼は周囲にいる使い魔達の『声』が、何故か母語で理解できるのだ。

「まーたやってら」
             「テペルのとこの使い魔か」

    「いつもいつも、飽きないわねぇ」
              「そのハシバミ草、食べないでよね」

  「オレ、オマエクウ」
         「ひいぃ、僕は食べ物じゃないですよぉ?!」

 犬と虎が噂話をしている。マダム口調のウグイスが、兎の背に止まりながら仲良く葉っぱをつついている。へびがネズミを食べようと追い回し、ネズミは必死に泣きながら逃げまどっている。こんなにも世界には、『言葉』が溢れていたのか。ハタヤマはこれまで周囲に見えないもやがかかっているような感覚がしていたが、一気に霧散し世界が広がった気がした。
 しかし、それとこれとは別である。ハタヤマはともかく思考を整理するのは後回しにして、食堂に身を置く者として、彼らの仲裁にはいるべきか悩んでいると。横合いから急に声を掛けられた。
「ありゃあ、気にしなくていいでゲスよ。いつものことでゲスから」
 ハタヤマが声の方へ首を向けると、そこにはデカいサラマンダーがいた。平たく言えば尻尾に火が灯っている真っ赤なトカゲである。体長はシルフィードほどではないが大きく、五メートルか六メートルくらい。四つんばいで顔もなかなかに大きいので、間近でしゃべられると結構迫力がある。
 ハタヤマは怪訝な顔をする。
「いつもの?」
「あいつら、いっつも暇さえあればジャンケンで勝負してるんでゲスよ。
 そんで、シザースは――あぁ、蟹のことでゲス――毎回、直前にテペルんとこの使い魔――猿でゲスね――に物を渡すんでさ。
 んで……」
「猿は物をはなさないから、いつもグーを出すってことかい?」
「ご名答でゲス」
 サラマンダーは表情の乏しい顔で、流れを読んだハタヤマに賛辞を送る。
「でも、それだと蟹が負けるんじゃないの?」
「そこなんでゲスが、蟹は頭が良いでゲス。
 周りのやつに『あいつは俺にどうやっても負けられない』って、吹聴して周ったんでゲス」
「は?」
「それで、猿は単純だから『負けるくらいわけねーよ!』と意気込むんでゲス。
 でも絶対勝っちまうから……」
 猿の面目が潰れてしまう、と。
「はぁ……勝手に自滅してるだけじゃないか」
 ハタヤマは呆れて眉間にしわを寄せ、唇を尖らせた。なんとアホらしい理由だろうか。
「一日に三回は喧嘩してるでゲスな」
 サラマンダーはゲスゲスゲスと笑った。妙な笑い方である。
「で、キミは誰だい? ボクになんの用?」
 ハタヤマにぶしつけな視線を向けられ、サラマンダーはこりゃ失礼、と細い眼を開ける。
「あっしはサラマンダーの『フレイム』。『微熱のキュルケ』の使い魔でゲス」
「あ、あぁ、ボクはハタヤマヨシノリだよ」
 トカゲ面なので、声色は得意そうなのだが実際のところは表情になんの変化もない。いや、あるのだろうが分からない。
 ハタヤマはキュルケとかいう人物が誰かも知らないので、頭に大量の疑問符を浮かべた。
「おや、知らないんでゲスか? 結構名の通ったお方なんでゲスがね」
「ふん、野郎に興味なんて」
「女でゲスよ「美人か!? 麗しの女性なのかい?!!」」
 女という単語を聞いたとたん、掌を返したようにヒートアップするハタヤマ。どこまでも本能に忠実な男である。
 フレイムは、ハタヤマの反応に満足そうに頷く。
「ぐふふ、マジヤバいでゲス。しかも巨乳」
「うほ、なんたることか!」 
「「おっぱいは宇宙さ(でゲス)ッ!!」」
 眼と眼で通じ合い、がしりと握手を交わす二匹。どうやら魂が惹かれ合っているらしい。
「やっぱりハタヤマさんは分かってくれるでゲスか~。 他のやつらは人間の女の良さが分からんやつばっかりなんで、寂しかったんでゲスよね」
 フレイムは本当に嬉しそうに笑顔を浮かべる。変化に乏しいはずの顔面なのに、ハタヤマはフレイムの笑みが見て取れた。
 ハタヤマは思った。この趣向、気配、どこかで感じたことがある。どこだったろうか……
「へぇ、キミなかなか見る眼あるね。ボクの故郷でもそうだったよ。人間の女性は人気がなかった」
「そうなんでゲスよねぇ。あっしに言わせれば、あんなに良い物は他にないと思うんでゲスが」
「同感」
 フレイムのカミングアウトに、うんうんと頷いて同意するハタヤマ。人外たちにとって、人間はあまり人気のある種族ではない。と言うか通常同族以外に恋愛感情を抱くことなどあり得ない。何故なら、人外が人間に懸想するというのは人間が動物や昆虫に恋愛感情を抱くのと一緒で、キワモノ嗜好のアブノーマル趣味扱いされているからだ。
 同志ができて嬉しかったのか、フレイムはさらに暴露を続けていく。
「プリーツスカートから覗くあのすらりとした足、ふともも。見上げれば顔が隠れるほどの乳、そして下乳! ほっそりとした腰にあっしの身体をなでるあの細く柔らかな指先。 そしてそして、しゃがみ込んだときに見えるあの神聖領域……! もう、もうたまらんでゲスよぉッ!!!!」
 同好の士と巡り会った喜びに吼えるフレイム。ハタヤマは彼のリビドー全開なシャウトに、少し素で引いてしまった。自分で暴走するのはいいが、他人を見るのは嫌なのだ。そして奇しくも、そんなフレイムの叫びが、ハタヤマの記憶の隅で埃を被っていた姿を呼び起こした。このトカゲは、あれだ。

 まさに伊藤。

 目の前のサラマンダーは、魔法学院で同期だった(自分は編入生だったけど)伊藤くんにそっくりなのだ。変なところで故郷のことを連想し、またも遠い目をするハタヤマ。あぁ、あいつは元気……じゃなくてもいいや。うん。
「どうしたでゲスか?」
 唐突に黙ったハタヤマに、フレイムは爬虫類特有のギョロ眼を向ける。彼に不思議そうな声を掛けられ、ハタヤマははっと意識を呼び戻した。
「い……いやいや、なんでもないよ」
 最近、誰かと話している途中でも物思いにふけることが多くなった気がする。これもホームシックの一種だろうか、とハタヤマは内心でごちた。
 なおも己の性癖を熱々と語るフレイムだが、ハタヤマは若干会話に飽きてきていた。基本的に野郎との交流に価値を見いださない男なので、それも必然であろう。ハタヤマは彼の熱弁を話半分に受け流し、なんの気なしに余所へ目線を巡らせていると……
「――っ! 堀田くん!?」
「へ?」
 使い魔の群れの向こう側に、妙に記憶に残る姿を認めた気がした。ハタヤマは目を疑い、ごしごしと眼もとを擦る。そしてもう一度その場所を確認すると、そこには誰もいなかった。
 『堀田くん』とは、彼もハタヤマと同じ魔法学院のクラスに通っていた同級生である。気づけばいつのまにかどこにでも現れ、無言なのに会話を成立させるという圧倒的存在感の持ち主だ。ハタヤマにはどう見ても出来損ないのぬいぐるみ(自分も人のことを言えない種族だが)にしか見えなかったのだが、周囲の者達は違って見えていたようで、当時を思い出すといつも困惑する。
 ハタヤマは魔法学院を卒業してしばらくたった今でも、時々堀田くんに見られているような気分になることがある。というか実際に姿を見ることが多々ある。それをとても不気味に感じていた。
「どうしたんでゲス?」
「いや、いやいや、流石に異世界までついてはこないよね……気のせい気のせい」
「?」
 ハタヤマは自身に言い聞かせるように、何事か呟いている。そんなハタヤマの様子を、フレイムは不思議そうに見ていた。

     ○

「――――!」
「――――! ――――ッ!」
 特に仕事も無さそうなのでフレイムと談笑していると、広場の隅の方から怒声と悲鳴らしき声が聞こえてきた。通常なら聞こえるはずもない、かぼそく小さな叫びなのだが、超感覚を持つハタヤマの聴覚には十分すぎる声量である。
「ん? なんだいあれ?」
 未だ食事に興じている使い魔達の間を縫い、視力を高め出所を確かめると、なにやらモグラが誰かに怒鳴られているらしい。詳しくは分からないが、モグラは怯えているようだ。
「あー、今日はヴェルダンデでゲスか。あいつもついてないでゲスな」
「ヴェルダンデ?」
「からまれてるモグラの名前でゲス。
 ガルガンドのとこの『アル・ヴォルガ』に目をつけられたんでゲスよ」
「アル(暴れん坊)?」
 フレイムの解説に、ハタヤマはアゴに手を当てふむ、と唸る。彼の話とモグラの様子から察するに、どうやらいじめの現場、しかも真っ最中らしい。
 『食堂』に身を置く者として、この事態は見て見ぬふりはできそうにない。
「……やれやれ、しょーがないな」
「へ? ハタヤマさん、ほうっといた方が利口でゲスよ」
 言外に「あんたのキャラじゃないでしょう?」、という意志がありありと出ていた。大変むかつくが、ハタヤマという生物をこの短時間でよく捉えている。本当のところ、ハタヤマもフレイムの意見に内心は大賛成だ。しかし。
「給料分は働かないとね」
 どことなく嫌そうな雰囲気は隠せないが、ハタヤマはそう言ってニヤリと笑った。

     ○

 その日のことを後に、『アルヴィースの食堂』のチーフを勤めるテルマ・ガッタカリはこう語る。
「『双頭犬がネズミに飛び掛ったと思ったらいつのまにか吹っ飛ばされていた』
 な……何を言ってるかわからねーと思うが俺も何が起こっているのかわからなかった……」
 この日、使い魔たちの間に新たな伝説が生まれた。

     ○

「や、やめてモグ……」
 ウェルダンデは顔を伏せながら、弱々しく呟いた。彼は広場の隅で周囲を三匹の幻獣に囲まれ、威圧的な視線を一身に浴びせかけられている。
「あ~ん? 聞こえんキー」
「何か言いましたですわ~ん?」
 取り囲んでいるメンバーの二匹である、巨大コウモリと巨大アナコンダが面白そうにげたげた笑った。立場の弱いものを嘲るような、嫌に耳にかかる笑い声である。ヴェルダンデはその声調子にぷるぷると肩を震わせ、つぶらな瞳を涙ににじませ怯える。
 その様子にこの三匹のリーダー格である、双つ首の巨大な犬――オルトロス――が満足そうに口の端をつり上げ、ヴェルダンデへ顔を近づけた。
「ロビンちゃんと仲良くすんなっつっただろうがよ?」
 オルトロスの右の首が、ヴェルダンデに声を投げる。『ロビン』とは、『香水のモンモランシー』の使い魔の名前であり、女性の手のひらにも満たないほどの小さなカエルである。ヴェルダンデの主人は香水のモンモランシーと恋仲にあり、それ繋がりでロビンとはそこそこ仲がいい。しかし、それは使い魔同士の付き合い程度であって、決して友達を超えた関係というわけではなかった。
 だが、目の前で双頭の牙を剥き出しにして凄んでくるオルトロスは、それすらも気に入らないらしい。
「そ、それはギーシュがモンモランシー様と……」
「――うるせぇんだよッ!!
 だいたい、何故あんな優男があのモンモランシー様に目をかけて頂けているんだよ!
 女と見れば誰彼かまわず粉をかける無節操な野郎……あのお方とは不釣合いだ!」
 ヴェルダンデの呟きを怒鳴りで黙らせ、オルトロスの右の首は苛立ちをあらわにする。それを受けて取り巻きの二匹は、そうだそうだとはやし立てた。
 こいつらはオルトロスの『アル・ヴォルガ』をリーダーとした、平たく言えば不良集団である。本名(主人につけられた名前)は『ヴォルガンド』というのだが、彼は自身が高位の幻獣であることを笠に着て、以前より周囲に幅を利かせ跳ね回っていた。そのうち彼に取り巻きの二匹がひっつきよりいっそう手がつけられなくなったので、いつからか『アル』(無法者)をつけられ恐れられるようになったのだ。
「そうだキ! あの透き通るような静寂の泉に咲く、一輪の水仙のように可憐なお方には、ヴォルガのご主人様であるガルガンド様の方がふさわしいキー!」
「ついでにモンモランシー様の使い魔であるロビンちゃんも、ヴォルガの物になるべきなのね~ん」
「そうだろうよそうだろうよ、グワハハハハハハハッ!!」
 ヴォルガは子分たちのはやし立てるような持ち上げに、首を上げ大口を開け悦に入った。彼らはその思い込みに、一片の曇りも無いようだ。ヴォルガの笑い声に子分たちの太鼓も加わって、広場の一角はそこだけ一際やかましい嘲笑に塗りつぶされる。
「……がうモグ」
「あぁん?」
「違うモグ! ギーシュは無節操なんかじゃないモグっ!!」
 ヴェルダンデは、喉につかえた空気を押し出すように、己の主人への罵倒を怒った。彼はギーシュの使い魔だから、誰よりも傍にいるからこそ分かる。彼の主人、『青銅のギーシュ』の真の心のうちが。
 確かにギーシュは美しい女性と見るや声をかけずにはいられない性格だ。だが、そのどれもが決して遊びではない。彼の主人は花畑を舞い飛ぶミツバチ。麗しき華であれば、誰であろうと分け隔てなく愛を囁く。それこそが己の矜持であり、信念だと信じている人間である。ようするに全ての女性に全力全開なのだ。
 ……それこそが性質の悪い部分でもあるのだが。しかも妙にピュアだし。
 だが、そんなヴェルダンデの反抗が、ヴォルガには気に入らない。
「生意気な野郎だ! 噛み砕いてやろうか!」
「弱いくせにフいてんじゃねーキ!」
「罰としてリンチ? リンチなのね~ん?」
 凄みを利かせた顔でにじり寄ってくるヴォルガたち。ヴェルダンデはひっ、と引きつった声を上げ、助けを求めるように周囲を見回した。しかし、彼のいる位置は壁を背にした広場の隅っこ、加えて前をヴォルガたちにふさがれているので地面に半分体を埋めているヴェルダンデの姿は周囲から見えない。……いや、見えているらしき数匹の使い魔たちも、見てみぬ振りをして食事を続けているようだ。
 迫る危機、そして誰も助けてくれない恐怖。ヴェルダンデの顔色は絶望感に染め上げられ、体毛に覆われているにもかかわらず真っ青なように見て取れた。それが面白いのか、ヴォルガたちは口の端をいやらしく吊り上げる。
(……助けてモグ、誰か助けてモグ!!)
 ヴェルダンデは心から祈った。自分を助けてくれる英雄を、そしていつも裏切られるはかない願いを。
 しかし、今日は結果が違った。

     ○

 ドバッシャァッ!!
「うお゛あ゛じゃあ゛ぁ゛ぁ゛?!」
「キ!?」「ヴォルガ!?」
 突如中空から飛来した巨大鍋が、すっぽりとヴォルガの双頭を覆い隠した。中身は出汁の効いたオニオンスープだったようで、ぐらぐらと煮えたぎった熱湯スープがヴォルガの全身をなめ尽くす。ヴォルガは声にならぬ絶叫を上げ、悶絶して地面を転げまわった。
 コウモリは思考停止状態で、のた打ち回るヴォルガの頭上を旋回し、アナコンダは大慌てで水汲み場のほうへにょろにょろと走っていく中。この事態を引き起こした張本人が、のほほんとした様子で現れる。
「いやー、悪いね。手が滑っちゃって」
 ぽりぽりと頭をかきながら、悪びれることなくそいつは右前足をぷらぷらさせている。誰かというともちろん、ハタヤマヨシノリその人であった。人じゃないけど。
 全身火傷に息も絶え絶えになりながら、ヴォルガはふらふらと起き上がった。
「ふ…ざけ、んな……どう、手が…すべれば……こう……」
「手ごろな鉄鍋があったから、ちょっと『熱湯キャッチボール』で遊んでてね。
 でもやっぱ鍋が大きすぎたのかなー、力加減を間違えちゃったよ」
 てへー、とお茶目に小首をかしげるハタヤマ。ちろりと舌まで出したその姿は、間違いなく世の女子高生くらいなら悩殺するくらい愛らしい。しかしヴォルガは女子高生ではないので、火に油を注ぐ結果となった。
「てめぇ、どこのモンだ! この俺様をヴェリンデール公爵家が長男、ガルガンド・ヴェリンデール様の使い魔、ヴォルガング・ヴェリンデールと知ってのことかよ!?」
「おぉう、回復早いね」
 ドスンと足を踏みならし、威勢よく啖呵を切るヴォルガ。だが、水を腹一杯に含んで戻ってきたアナコンダに、噴水の如く水を浴びせてもらっている状態では効果がなかった。
「ヴォルガ、大丈夫なのねん?」
「もっと、もっとだ! 尻にもかけろ!」
「ぷっ、ダサ」
「――――今なんと言ったぁッ!!!!」
 尻からしゅうしゅうと煙をたてながら、不敬に激昂するヴォルガ。ハタヤマからしてみれば、おちょくってくれと言わんばかりの体勢である。
「いやいや、ボクはなにも言ってないよ? ほら、そこのコウモリが」
「本当かッ!」
「うぅうぅぅえ?! ち、違うキ! 俺はなにも言ってないキ!!」
 ヴォルガの真っ赤に血走った眼をぎょろりと向けられ、コウモリは肝を縮上がらせる。しかし、ハタヤマは聞いていた。先ほどの呟きは、このコウモリの嘲笑だと。どうやらこの双頭犬、部下の人望も無いようだ。
「で、そこのキミ」
「え?」
「見たとこ、こいつらと明らかにノリが違うけど。
 なんでそんなとこにいんの?」
 ヴェルダンデはハタヤマに水を向けられ、つぶらな瞳をぱちくりさせた。目の前で起こっている寸劇が現実に思えなくて、若干放心していたようだ。
「なんもないなら帰るけどね」
 なんの含みもなく、真顔で言い切るハタヤマ。彼はヴェルダンデへの興味など微塵もなく、ヴェルダンデが何も言わないなら放置して戻るつもり満々だ。もとより美人以外には関心など無いし、それが雄だといえばなおさらである。
 ヴェルダンデははっと息を吸い込み、しかし声を出すことはできなかった。ドスの利いた声と顔が、眼前に突きつけられたからだ。
「俺様たちはいつもどおり仲良く遊んでただけだよなぁ、ヴェルダンデ?」
「そうだキ! 俺たちマブダチだキ! キキキキキキキっ!」
「そうよね~ん」
 ヴォルガたちがヴェルダンデを取り囲むように並び、ヴォルガはヴェルダンデの頭をがしがしと前足で撫ぜあげる。ヴェルダンデは顔面を蒼白にし、顔を地面に半分隠してしまった。
「………………」
 ハタヤマはその様子を薄目で睨む。しかし、何も言わない。
「俺様になんか文句あるのかよ?」
「友達なんだから、なんにも問題ないはずだキー!」
「なのね~ん」
 ヴェルダンデはぱくぱくと口を開閉させた。しかし、言葉にはならない。そうしているうちに、この状況を見て何もしないハタヤマへ苛立ちすら感じ始める。どう見ても自分はいじめられているじゃないか、ここまで来ておいて何故助けてくれない。むしろ助けるべきだろう。困っている相手には、救いの手を差し伸べるべきだろう。ヴェルダンデの心の中に、己の気持ちを察してくれないハタヤマへの罵詈雑言が渦巻いていく。
 そんなヴェルダンデの心情を透視したかのように、ハタヤマはこの場から背を向けた。
「キミが何を考えてるか分からないけど……大まかな想像はつくよ。だから、この言葉を送っとく」
 ハタヤマは振り返らずに続ける。
「『いつか誰かが助けてくれる』なんて、甘えた坊やの戯言だよ。キミが『いつか』を待ち続ける限り、『いつか』なんて一生来ない。今を変えられるのは自分だけさ」
 ヴェルダンデはハタヤマの言葉に、胸をえぐられるような痛みを感じた。そして痛みは一瞬で消え、その次に時が止まったかのような衝撃を受ける。まるで全身の血液が動きを止め、心臓が止まったようだった。

『誰かが助けてくれる』

 それはまさに彼が今までよりどころにしていた希望だった。ギーシュがモンモランシーと恋仲になって、数日してヴォルガに絡まれるようになって……その日からヴォルガたちのいじめの対象は、ヴェルダンデに固定された。影で、そして公衆の面前で。彼らの執拗ないじめは終わらなかった。そんなときいつも周囲に視線を送ったが、誰も助けてはくれなかった。それどころか面白そうに見物しているやつもいた。
 そう――自分でも分かっているのだ。待っていても、誰も助けてはくれないことを。『正義のヒーロー』なんていないということを。
 ハタヤマのタイを巻いた背中が遠ざかる。彼はこの場から離れ始めたのだ。今まで現れてくれなかった変化、もたらされた一本のクモの糸。ダメかもしれない、でも、助けてくれるかもしれない。現状を変えるには、今遠ざかっていくオレンジ色した背中を呼び止めるには。自分を助けようと思わせるにはどうすればいい。
「――けて、助けてモグッ!!」
 ヴェルダンデは、ほとんど無我夢中だった。直前に響いた、裏がえり気味の必死な声が、自分が出したものなのだということに一瞬気づかないくらい。ヴェルダンデの周りを囲むヴォルガたちは、ありえない彼の行動にぽかんとあっけにとられていた。
(――あ)
 首だけで振り向いているオレンジ色した背中の持ち主。その横顔が、少しだけ笑っているように見えた。

     ○

「……おやおやぁ? これはおかしいね。
 お友達だって言ってたのに、当の本人は助けてって言ってるよ?」
 ハタヤマは振り返り、ヴォルガたちの前へ戻ってきた。その顔面に笑顔を貼り付け、いじめっこ集団をなめるように見回す。
「……俺様の気のせいだよなぁ。聞き間違いだよなぁ、ヴェルダンデ!?」
 ヴェルダンデの頭においていた右前足を、叩きつけるように彼の眼前へ振り下ろすヴォルガ。ヴォルガは鬼のような形相をヴェルダンデへ突きつけ、暗に先の言葉の撤回を求める。ヴェルダンデはあまりの恐ろしさに、寒冷地へ裸で放り出されたチワワのように震え上がった。
(や、やっぱりダメだ……怖いよ)
 心はすでにヒビだらけで、両目からは涙があふれそうだ。だが、そんな空気の中ででも、目の前のオレンジ色のネズミは、ぱちりとウィンクしてくれた。それが『自分は独りではない』という錯覚を引き起こし、ヴェルダンデの心はギリギリのラインで落ち着いていく。
「ま……前からずっと言ってるモグ! ロビンちゃんとはただの友達だって!
 それに、何も知らないくせに、ギーシュのことを悪く言って欲しくないモグ!
 それから、それから――――」
 ヴェルダンデは目をつむり、大きく息を吸い込む。そして一呼吸おいて、カッと眼を見開いた。
「――――僕をいじめるのも、もうやめて欲しいモグッ!!!!」
 いじめられっこの、心からの絶叫。その声量は普段の彼の姿からは想像もできないほど大きく、そして広場全体に響き渡った。
 辺りはシン、と静まり返る。
「こ、この糞モグラがぁ!」
「ヒッ――――!」
 ヴォルガの右前足が大きく振りかぶられる。ヴェルダンデは迫りくる痛みの予感に、身を抱えて目をきつく閉じた。だが、その右前足が彼に降り注ぐことはなかった。
「っく?!」
 ヴォルガの左の顔になにかが飛んできた。驚いて顔を猫洗いしてみると、その正体は一切れのローストビーフ。ヴォルガはそれを認識した瞬間、顔を真紅に染め上げた。
「誰だッ! これを投げたのはどいつだぁッ!!」
 ヴォルガはその双頭を怒りに染めて、ぎょろぎょろと周りを見回した。そこには、いつの間に集まってきたのやら、広場の一角を埋め尽くすほどの使い魔たちが密集してきていた。皆種族は違えども、その表情には一様に――同じ色が浮かんでいる。
「な、なんだよお前ら」
 ヴォルガたちは集まってきた使い魔たちの異様な雰囲気に気おされ、たじろいでいる。それを受け、周囲の視線はいっそう厳しくなった。
「お前ら、調子乗りすぎでゲス!」
 突然、聞き覚えのある声が張りあがった。それが口火を切ったのか、ヴォルガたちへの批判が嵐のごとく吹き乱れる。

「そうだそうだ! ちょっとばかり高位だからって調子に乗るなよ!」

           「徒党を組んで幅を利かせるなど、なんと品のないことか!」

   「メイジの使い魔として恥ずかしくないピー!」

                    「使い魔の面汚しですわ!」

 周囲の使い魔たちはよほど不満をためていたのか、ヴォルガたちにせきを切ったように言葉の洪水を浴びせかける。徒党を組んでいるのは現在の状況的に見れば自分たちも同じはずなのだが、なんとも調子のいいことである。しかしいつの間にか、場の流れは完全にヴォルガたちを封じ込める形になっていた。
「くっ……」
「ヴォ、ヴォルガ……」「アニキ……」
「う、うるせぇ! びびってんじゃねぇお前ら!」
 ヴェルダンデは、目の前の光景が信じられず、呆然と世界を眺めていた。つい先ほどまでは、自分はいつものように悪夢のような時を耐え忍んでいたはずである。それがどうだ。オレンジ色したネズミが鉄鍋と共に現れ、その日常を一息にぶっ壊してしまった。
 この光景を作り出した当のハタヤマはというと、ケケケケとイイ笑顔でヴォルガたちを哂っていた。そのすがすがしい哂い顔を眼に映して、ヴェルダンデは急に背筋が冷たくなった。彼はこの結果をすべて想定していたのか。本当は自分を助けるためじゃなく、ヴォルガたちが気に食わなくて、それだけで彼らを攻撃しただけなのではないか。ハタヤマの行動が良心により自分を救おうとしたものなのか、それとも別のなにかなのか。ヴェルダンデは双方に確信がもてずに、魂が抜けた視線をハタヤマに向ける。
「ふふ――」
 そんなヴェルダンデの胸のうちすら読めているのかだろうか。ハタヤマは邪気のない笑顔を、呆然としているヴェルダンデへ返した。その笑みには、少なくとも自分への害意はない。
 ヴェルダンデはひとまず、その笑顔を信じようと決めた。たとえどんな相手だとはいえ、助けられたのには違いないから。
「ちぃ、てめぇなんて名前だ! いったい何処の使い魔だよ!」
「野郎に名乗る名前なんてないね、と言いたいところだけど。特別にお情けで教えてあげるよ。
 ボクはハタヤマヨシノリ、現在フリーで恋人募集中のナイスガイさ」
「……くッ! どこまでも舐め腐りやがって……」
「あ、アニキ、まずいですキ!」
「うるせぇッ!!」
 ヴォルガはおびえるコウモリを押しのけ、ハタヤマに憤怒の顔を突きつける。
「今日、この場は引いてやるよ。だがてめぇだけは許さねぇ。
 『ヴェストリの広場』に来い。白黒はっきりつけてやるからよ」
 ヴォルガはそう言い残し、子分を引き連れこの場を後にした。ヴォルガの口から出た単語に、ギャラリーはどよどよとざわめいている。しかし、ハタヤマは意味が分からず、疑問に満ちた顔をヴェルダンデに向けた。
「なに? どういう意味なのモグラくん?」
「ヴェルダンデだモグ! ってああ、まずいモグよハタヤマ……さん?」
「うん、あってる」
「そうですかモグ……じゃなくて! 『ヴェストリの広場』って言えば、ここの学生たちが決闘場として使ってる場所だモグ! ハタヤマさん、決闘を申し込まれてるモグよ?!」
「あー、そうなの」
 ふーん、とまったく気のない様子で聞き流しているハタヤマ。今にも鼻くそをほじりそうな勢いである。ヴェルダンデは、それを彼が決闘の恐ろしさを知らないからだと受け取り、我がことのように取り乱す。
「そうなの、って――分かってるモグか! 相手は双頭犬(オルトロス)モグよ!? あいつの性格は、決して伊達なんかじゃないモグ!! 正面から本気で戦ったら、ハタヤマさん本当に殺されちゃうかもしれないモグよ?!」
 たとえ性格は最悪とはいえ、ヴォルガはこの世界でも名の知れた幻獣。その双頭は相手を咬みちぎり、鋭い爪で獲物を引き裂くといわれている、獰猛な狼なのだ。見た目六十センチ弱のネズミでは、誰がどう見ても勝てそうにない。
 しかし、ハタヤマは余裕な態度を崩さない。それがさらにヴェルダンデの不安をかき立てる。
「しかも、ヴォルガは相当怒ってたモグ……ああなると誰も手がつけられ――」
「あの程度のやつなら、怒ったところで大して変わんないよ」
「へ?」
「本当に恐いやつってのは、笑顔で迫ってくるやつさ。いっぺん笑顔の女性四人に囲まれてみなよ? もう恐ろしいなんてもんじゃ済まないから」
 あれはやばかった……と、ハタヤマは思い出したのか身震いする。心底怖い目にあったらしい。ハタヤマのことをよく知らないヴェルダンデだが、目の前の男がこれほどまでに怯える状況とはどんなものだろうと不思議に思った。
 だが、そんなことを考えている場合でもない。ヴェルダンデは気をとりなおし、ハタヤマに希望の目を向ける。
「じゃ、じゃあヴォルガとの決闘を受けるモグね!」
「やだよ、めんどくさい」
「ほぇ?」
 ヴェルダンデは予想を三百六十度回転し、さらに三回転ひねりを加えたようなハタヤマの答えに目を丸くした。今、今こいつはなんと言った?
「だから行かないって。なんで好き好んで野郎とくんずほぐれずしなきゃならないんだよ。そういうのは夕日の河原か、戦闘民族同士でやってよ」
 余所の作品でやりなさい、と言わんばかりのハタヤマのやる気の無さ。ヴェルダンデはハタヤマのあまりの言い切りっぷりに、二の句を告げずに絶句した。
 そこへ、ざわざわ喧しい観衆を押しのけ、フレイムが姿をあらわした。
「まあまあ、そう言わずに。ここで行かなかったら、ハタヤマさんは『逃げた臆病者』扱いされちまうでゲスよ?」
「すればいいじゃないか。ボクには関係ないし」
 とりつく島もないハタヤマ。フレイムはぬぬぬ、と眉間(らしきところ)にしわを寄せ、考えながら言葉を紡ぐ。
「……そんなことになれば、あいつらはもっとつけあがっちまうでゲス。それに決闘から逃げるってことは、敵前逃亡と同じくらい情けないやつという評価を下されるでゲス。学院の使い魔たちの中で、ハタヤマさんはヒエラルキーの最下層に追いやられちまうんでゲスよ? 具体的に言うと、さっきのヴェルダンデみたいな扱いにされちまうでゲス」
 それを横で聞いて表情を曇らせるヴェルダンデ。まだ思うところがありすぎるのだろう。しかし、ハタヤマは折れない。
「だからすればいいじゃんか。 もっともそんな素振りを見せたやつは、誰であろうと一匹ずつ粛正してやるけどね」
 強い自我を持つハタヤマには、他人の評価などのれんに腕押しである。彼にとって世の風評など、取るに足らないものなのだ。
 ガチガチに重いハタヤマの腰に、フレイムとヴェルダンデは顔を見合わせため息を吐く。この二匹はハタヤマという存在を介して、いつの間にか仲良くなっていた。本来自分と、そして主人がいれば、その他の繋がりを積極的に持とうとしない野性の者たちだというのに。

     ○

 そこへ、新たに空から大きな影が降りてくる。
「きゅいきゅい! 見てたのね!」
「シルフィちゃん?」
 着陸の風圧に耳毛を揺らし、土煙を巻き起こす。現れたのは風韻竜にしてハタヤマのこの世界初めてのお友達、シルフィードである。
「ほあー、たまげた!  『雪風のタバサ』の使い魔、シルフィードじゃないでゲスか!」
「滅多に姿を見せないのに、珍しいモグね!」
 シルフィードの登場に使い魔二匹は、まるで当たりくじを引いたように盛り上がる。彼女は他の使い魔との交流も制限されているし、餌も普段から自分で調達するように命じられているので、この学院の使い魔たちですら間近で見るのは初めてなのだ。
「あいつ、ガルガンドのとこの使い魔ね。ハタヤマ、決闘を申し込まれたの?」
「あぁ、まあね。でも行く気無いから……」
「きゅい、あいつ嫌い! 高慢ちきでえらそうなんだもの! あいつのマスターのガルガンドも嫌いだわ! 去年の『フリッグの舞踏会』でお姉さまがダンスの誘いを断ったからって、『無愛想な鉄仮面女』だなんて言ってたのよあいつ! きゅいきゅい! ハタヤマ、あいつらをお仕置きしてくれるのよね?」
「いや、シルフィードさん。ハタヤマさんは行かないらしいモグ「もちろんさぁっ!!」モグ?」
 言葉を途中で遮られ、ヴェルダンデは舌を噛みそうになった。このネズミ、さっきと言っていることが違う。
「やつらには教育的指導が必要だよね、うん。
 この(美人限定の)スーパーヒーローハタヤマヨシノリ様が、あの勘違いした子犬ちゃんに『お手』を仕込んできてあげるよ!」
「頑張るの、ハタヤマ! きゅいきゅい!」
「もちろんさ、ガハハハハハハハッ!」
「……………………」
「まあ、あのヒトはああいうヒトでゲスから」
 開いた口がふさがらないヴェルダンデの背を、フレイムはぽんぽんと尻尾でなぶる。おそらく知っていると思うが、フレイムの尻尾の先には小さな炎が煌々と灯っている。なので、その炎は当然の如く、ヴェルダンデの茶色い体毛をこがす。
「ほぁ、あち、あちちっ!?」
(しかし……)
 フレイムの見立てでは、ハタヤマは人間の女性以外は眼中にないはずである。事実、本人も言っていた。ならば、何故シルフィードの前であんなにもやる気を出しているのだろうか。彼女はただの風竜のはずなのに。
(……なにやら、秘密の臭いがするでゲスなぁ)
「熱いよ~、痛いよ~」
 自分の知らない美味しい臭い。痛みに地中へ潜ってしまったヴェルダンデの臭いを嗅ぎながら、フレイムはゲスゲスとほくそ笑むのだった。

     ○

「逃げずにきたようだな! その度胸だけは褒めてやるぜ!」
 『ヴェストリの広場』の中央で子分たちを背に仁王立ちしていたヴォルガは、シルフィードたちを引き連れたハタヤマの姿が視界に移ると、ひときわ大きな遠吠えをあげた。その闘気に満ちた遠吠えに、先に集まっていた観衆たち(もちろん使い魔である)はにわかに湧き立つ。野次馬、というやつである。
 ハタヤマはそんな見物幻獣たちに、一瞬眉をひそめた。しかしすぐに表情を戻すと、舞台の中央へ進み出る。
 各広場の中でもひときわ日陰に位置する『ヴェストリの広場』。このだだっ広くなにもない場所はすでに好奇心に満ちた使い魔たちで超満員、まさに満員御礼状態であった。彼らはヴォルガとハタヤマを中心に人垣で円状の空白スペースを作り出し、それがまさに擬似コロッセオのような世界を作りだしている。王者(チャンピオン)は双つ首のオルトロス、対する挑戦者は新星のごとく現れた小さなネズミもどき。体格からしてすでに差がありすぎるこのシチュエーションが、観客たちの興奮をさらに煽っているらしい。
 流れでハタヤマついてきたヴェルダンデが、衆目の雨のような視線に晒されブルブルと震える。
「う、うぅ、怖いモグ……」
「こりゃちょっと異常な雰囲気でゲスね。
 たぶん謝っても許してもらえないでゲスよ」
「なにか、心がこもってないように聞こえるねぇ」
「実際、戦うのはあっしじゃないでゲスから」
「はは、違いない」
 怯えるヴェルダンデに、他人事のようなフレイム。ハタヤマはフレイムの軽口に興がのり喉をふるわせた。彼はうわっつらばかりではない、正直な生物が好きなのだ。まあ、彼のように正直すぎるのも問題なのではあるが。
 そんなやりとりをしている横を一歩、シルフィードがドシンと進み出る。
「お前の天下も今日で終わりなのよ! ハタヤマがあんたをけちょんけちょんにしてくれるんだから!」
 シルフィードは当の本人を置き去りにして、威勢のいい啖呵を切る。シルフィードの自信あふれる後姿に、ハタヤマは後ろで思わず苦笑いだ。だが、それを浴びせられたヴォルガたちは、大仰に芝居がかった動作で笑い飛ばした。
「そいつが? 俺様を? 倒すってか? グワハハハハ! これは傑作だぜ! あんな小せぇネズ公になにができるってんだよ!」
「謝るんなら今のうちだキ! もっとも、泣いて頭を地面に擦り付けても許してやらないけどなキ! キキキキキキ!」
「お前はもうおしまいおしまいなのね~ん!」
 ヴォルガたちの嘲笑に、ギャラリーも呼応したようにドッと盛り上がる。先ほどまで彼らを悪者と認識していたようだが、決闘というある種非日常的な催し物が持つ暴力的な雰囲気に流されているようだ。背景と化した野次馬たちはすでに事の善悪など関係なく、どちらが勝つかしか興味がないようである。
「おっと忘れるとこだったぜ。ヴェルダンデ、この見世物(ショー)が終わったら覚えとけよ?」
 ギラギラと怪しく光る眼光をまっすぐに叩きつけ、ヴォルガはまたグワハハハハと笑いながら空を仰いだ。
 ヴォルガからの呪いの言葉、そして場に満ちた異様な空気に、ヴェルダンデはガタガタと怯え始め、消え入りそうな声で呟く。
「は、ハタヤマさん……い、今でも遅くないモグ、あ、謝って許してもらうモモモ、モググゥ……」
「なんで? こっちは別に悪いことしてないでしょ。あいつが責められたのは、日ごろの行いとあいつ自身の持つ業の問題さ」
「ハタヤマさん、鍋投げてたでゲスけどね」
「うっ」
 己の正当性を主張するハタヤマ。そこにフレイムから、からかうようなつっこみが入った。あくまで冷静なその横やりに、ハタヤマは痛いところを突かれたと口を尖らせる。
「ま、まぁそれはそれ、これはこれさ」
 ハタヤマはたらりと汗を一筋かきながら、置いといて、の動作する。誰がどう聞いても言い訳にしか聞こえない。そんな彼をフレイムはいやらしくも面白そうに、ヴェルダンデは怯えながらも汗マークを浮かべて、独り理解していないシルフィードは不思議なものを見るような眼でハタヤマに注目していた。ハタヤマはメンバーの視線を一身に浴びて、流れる冷や汗はさらに増えていく。
「――はっ!? で、でも、ハタヤマさんは僕を助けようとしてあんなことをしたんだモグ! ハタヤマさんは悪くないモグ、それでいうならむしろ悪いのは僕なんだモグ!」
 ハタヤマの行動に救われたヴェルダンデは、我に返り必死に彼を弁護する。彼の、言葉だけからでも感じ取れるくらいの強い熱意。そんなヴェルダンデに一同は意外そうな視線を向ける。特にハタヤマは、キョトンと眼を丸くしていた。
「………………」
「ど、どうしたモグか?」
「いや、キミはいいやつだねぇ」
 ハタヤマは放心状態から立ち直ると優しげに目じりを落とし、しみじみとかみ締めるように頷いた。ヴェルダンデはなんのことか分からずに、頭に疑問符を浮かべている。そのやりとりをフレイムはニヤニヤと、シルフィードはニコニコと見守っていた。
「お友達ごっこは終わったか? さあさっさとそこへ立ちな!
 特別にあつらえた『処刑場』だぜ!」
 人垣の中心へ進み出るよう煽るヴォルガ。その姿は自信に満ち溢れ、己の勝利を微塵も疑っていないようだ。
「さて、そろそろ行こうかな」
「ハタヤマ、絶対に勝つのね! なんたってシルフィがついてるんだから!」
「ハタヤマさん……」
「じゃ、お手並み拝見、でゲスな」
 三者は三様にハタヤマを見送る。それを背に数歩歩み出たハタヤマだが、ふとその場で立ち止まった。
「う~ん……行ってもいいけど、ちょっと気に食わないなぁ」
 ハタヤマの独り言に、シルフィードたちは顔を見合わせる。ハタヤマは周囲に視線を走らせる。そこには、フライパンの上のトウモロコシのように、無責任にも騒ぎ立てている使い魔たちがいる。そんな傍観者たちのことがハタヤマは心底不快なようで、不満げに顔をしかめ後ろ頭をガリガリ掻いた。
 数舜立ち止まり考え込むハタヤマ。そして彼はなにか素晴らしいイタズラでもひらめいたように、口の端をまがまがしく吊り上げた。彼はたたずまいを直すと大きく腹に息を吸い込み、そしてカッと瞳を見開く。
「――聴け! 広場に集まったこの決闘の立会人たちよ! キミたちにこれまで、そしてこれからも観ることのできないような素晴らしい闘いを魅せてあげよう!」
 その小さな身体のどこから発したのかと思うほどの声量。
 その場にいる生物たちは、まるで水を打ったようにシン、と静まり返る。
「そして最後は――ボクが勝つッ!!」
 ハタヤマはずびしっ、と右前足をヴォルガへ突きつける。その姿はまるで強大な敵に立ち向かう英雄のごとき風格であり、猛々しく強靭な意志がその背中に透けて見えた。
「……て、てめぇ――」
 ヴォルガは、ハタヤマの朗々たる演技の衝撃で虚空に飛んでいた意識を戻し、負けじと覇気をぶつけようとしたが、それはにわかに湧いた歓声であえなくかき消されてしまった。

 「ヤれー! ヤっちまえー!」「格好いいですわー!」
             「早く始めろー!」    「コロセー!」

 ヴォルガの煽りに便乗した、ハタヤマ渾身の名演技。場を見るに、その効果は絶大であった。今、『ヴェストリの広場』は煮えたぎった鍋のように様々な感情がとろけあい、混沌とした様相を織り成している。ただ単に熱気に乗っている者から、熱病に浮かされたようにボルテージを振り切っている者。またはヴォルガに恨みを持っていて、彼に天誅を望んでいた暗い願いを持つものや、さらにはハタヤマが無惨にも引き裂かれ、極彩の花弁を咲かせることを心から楽しみにしている者もいる。

 もう、この決闘は勝っても負けても、何がおきるか分からない。ただひとつ分かっていることは、もう、後には引けないということだけだ。

「くぅ~、きんもちいいねぇ! 一度でいいからやってみたかったんだよこんなの!」
 この舞台を仕掛けた張本人は、やりきった快感に打ち震えていた。その満足げな彼の表情は、いつも快活であるシルフィードまで無意識に恐れを抱くほどに禍々しくも神々しい。この異様な空間で無邪気にもケタケタ笑う彼の姿は、まるですべてを導く神のようにも、すべてを滅ぼす悪魔のようにも見えた。
「――――――――」
 ハタヤマはすれ違いざまに、フレイムへ何事か耳打ちする。フレイムは一驚したようにハタヤマを見返したが、ハタヤマはにこりと笑みを返すだけ。そして彼はフレイムの背を尻尾でぽんとうつと、改めて決戦場へと赴いていった。
 それを見上げていたヴェルダンデは、フレイムに問いかける。
「ハタヤマさん、なにか言ってたモグか?」
「ゲス? ……まぁ、あっしらは離れておくでゲスよ」
 ヴェルダンデの問いかけに、明快には答えないフレイム。
 ヴェルダンデはハタヤマがなにを言い残したのか気になったが、人垣へ下がっていくフレイムたちに置いていかれぬよう、慌てて自分もついていった。

     ○

「オールド・オスマン」
 緑の髪を後ろでまとめポニーテールにしている女性が、机の上にトランプタワーを作成中の老人を冷ややかに見つめている。ここはトリステイン魔法学院の学長室である。
 オールド・オスマンと言われた老人は、トランプタワーから視線を外さずに答える。
「ミス・ロングビル。儂は今忙しい。話ならあとにしておくれ」
 この老人はオールド・オスマン。見た目こそ山にこもった仙人の如き白髪白髭の黒ローブだが、彼はトリステイン魔法学院の学長であり、同時にこの国の魔法使いの頂点に立っていたりする。だが、普段は仕事をさぼって遊んでいたり、若い女性教師にセクハラしていたりと、威厳の欠片も見えないじーさんである。
「トランプで塔を作るのに、ですか」
「儂は今これを通して、森羅万象の謎を解き明かそうとしておるのじゃ。決して遊んでいるわけではないぞ、決して」
 フサフサの髭でふがふがと息を吐きながらも、その表情は真剣である。吐く吐息が紙札の山にかからないように細心の注意を払い、指先は緊張でブルブルと震えを発している。だが、その様は誰がどう見ても遊んでいるようにしか見えない。
「オールド・オスマン。暇だからといって手遊びをするのはやめてください。他の者に示しがつきません」
 ロングビルと呼ばれた女はそう言いながら、タワーを取り上げようと指先を近づけた。
 彼女の名はロングビル。オールド・オスマンがどこからか連れてきた秘書である。ローブ越しにも分かる女性的な肢体に若干ツリ目がちな琥珀色の瞳が美しく、その魅力がちょっと野暮ったい眼鏡の補正をも打ち消している。そんな彼女の若々しい美貌は、学院内でも男性教師たちに闇で人気があったりするのだ。
 ロングビルの指がタワーの頂点に触れる寸前、オスマンは裂帛の声を上げた。
「カ――――ッッッ! 触れるでない触れるでなぁい!! 儂の数時間の努力を無に帰するつもりかぁッ!!!!」
 まるで罪人を裁く閻魔のような激しい怒声。しかしその理由が、おもちゃを取り上げられそうだったからというのだからどうしようもない。
 オスマンの大声にトランプタワーはカタカタと震え、今にも崩れそうになる。
「ぬおぉ!? いかん、頑張れ! 負けるな!」
 オスマンは大慌てで手をかざし、タワーが崩れぬように念を送る。その祈りが届いたのか、タワーはギリギリのラインを保ち徐々に平静に戻りかけた。だが。
「お遊びはこれまでです」
 ぴしっ。バラバラバラッ。
「ッア――――――ッ!!!!」
 襲撃者の無慈悲な一撃(デコピン)をうけ、紙の牙城は儚くも崩れ去った。オスマンはこの世の終わりのような顔で、無惨な塔のなれの果てを見つめる。
「おぉ……おぉぉ……儂の、儂のシュレイド城が……」
 だが、ロングビルは無情にもその上に書類の山をデンと乗せた。その拍子に塔の残骸が数枚、パラパラと床へ舞い落ちる。そこに屹立していた面影はすでに無く、見る者の胸をどうしようもなく切なさで溢れさせる。哀れ、オスマンには感傷に浸る暇も与えられなかった。
「馬鹿なことを言ってないで、こちらの書類全てに捺印をお願いします」
 書類仕事に関しては、秘書であるロングビルがほぼ全てを処理しきっている。だが、秘書権限では決められないような大切な案件は、学院長であるオスマンの許可がなければ処理できない。他に残っている仕事もまだまだある。故に、彼女は早く判が貰いたかったのだ。ちなみに本来の書類量はこれの五倍はあった。彼女はとても有能である。
 オスマンが悲しみに肩を震わせ俯いていると、机の下から小さいハツカネズミが顔を出す。
「お~いおいおい……やはり、儂が気を許せるのはお前だけじゃ、モートソグニル」
 このネズミはモートソグニル。見たまんま、真っ白なハツカネズミである。他に描写しようがない。ちなみにメスだ。
 オスマンはモートソグニルに、ポケットから取りだしたナッツを与えた。モートソグニルはそれを小さな両前足で受け取り、カカカカッと前歯を突き立てる。
「美味いかの? よしよし、もう一つやろう。じゃが、その前に報告じゃ」
 ひくひく、ひくひくひく。
 モートソグニルはオスマンを見上げ、鼻を高速でヒクつかせる。その仕草に顔をほころばせていたオスマンは、彼女の報告に驚愕した。
「――なにぃ、赤じゃと?! ミス・ロングビルよ、いったいなにがあったんじゃ!?」
「ふんっ!」
「ぐごぉ?!」

 みす・ろんぐびるのかいしんのいちげき。おーるど・おすまんに200のだめーじ。

 ロングビルは固く握りしめた拳を、オスマンの鼻っ柱にたたき込んだ。その鉄拳は彼の顔面にめり込み、オスマンは鼻血を吹きつつ背もたれに大きく仰け反らされる。お子様や心臓の弱い方にはお見せできない光景である。
「おいたはよしてくださいね」
「き、君……こりゃ、ちょっと、ひどいんじゃ……」
「足りませんか?」
「いやいやそんなことはないぞい!」
 白いハンカチで鼻血を拭うオスマンに、ロングビルは真っ赤な返り血がべっとりついた手を、わきわきとオスマンにちらつかせた。オスマンは恐怖に恐れおののき、身体を縮みあがらせる。だが、ロングビル笑顔を崩さず、じりじりとにじり寄ってくる。まだまだ彼女の怒りは晴れていないようだ。
 追いつめられたオスマン。そんな彼の絶体絶命的状況を救ったのは、額がまぶしい眼鏡っ子だった。
「オールド・オスマン!」
 ドバン、と扉を蹴破らん勢いで室内に飛び込んでくる男。彼の名はコルベールという。そう、『春の使い魔召喚の儀』でルイズたちに立ち会っていた教師である。彼はよほど急いできたのか、頬を上気させ肩で息をしていた。
 コルベールは室内を見回し、妙な空気とオスマンの顔面に眉をひそめる。
「……? なにかありましたかな? それにオールド・オスマン。その鼻血は」
「なんでもないぞい」
 オスマンは鼻血をダラダラと流しながらも、いたって真面目な体を装う。でもやっぱり鼻血が止まらないので、その威厳も半減している。
「あの、ミス……」
「問題ありません」
 困ってロングビルに水を向けるが、彼女の取り付く島がなかった。彼女はいつの間にか本棚の傍の秘書机に座っている。いや、どう見ても問題があるから事情を聞きたいのだけれど、とコルベールは言いたかったが、ちらりと見えた右手の甲が血塗れだったのを見て彼は言葉を呑みこんでしまう。結局、コルベールの疑問はただただ深まるばかりで、深く追及はしなかった。
「して、なに用かな? ノックもせずに入ってくるとは、よほどの大事な用なんじゃろ?」
 若干裏に皮肉を込め、オスマンはコルベールに報告をうながす。コルベールははっと思い出したように眼を見開くと、学長机に手を突いて詰め寄った。
「そう、そうですぞオールド・オスマン! 『ヴェストリの広場』に、使い魔が集結しているのです!」
 コルベールは興奮に口から泡を飛ばしながら、身振り手振りで説明した。どうやら皮肉には気づかなかったようだ。
「なんじゃい、またあそこか」
 オスマンは壁に掛けられた『遠見の鏡』へ向け杖を振る。するとその鏡は一瞬揺らめいたかと思うと、その鏡面に彼方の世界を映し出す。そこには先日の決闘のような状況が、使い魔たちで再現されていた。
「む? あれはどういうことなんじゃ?」
「それがよく分からないのです。始めに他の者が気づいたのですが、なにぶん状況が掴めないので……」
 オスマンの疑問に、コルベールも困惑を返す。使い魔たちが組織だってなにかをするなど、この学院開校以来初めてのことである。もともと使い魔とは従順であり、主以外の者には一定以上の関心を持たないというのがこの世界の定説だ。同種族の者や気があった数匹が交流している姿はたまに見られるものの、それだってそう見られるものでもない。それが今回は、百に届こうかという数の使い魔たちが一ヶ所に集結しているのだ。これははっきり言って異常事態である。
 オスマンは鏡の中央に映る二匹の使い魔に注目する。
「この二匹は誰の使い魔じゃ?」
「オルトロスは、二年生のガルガンド公爵家の長男の使い魔ですね。もう一匹は……誰のでしょうか」
「わからんのか? 君、今年の例の日の担当じゃったじゃろう?」
「いえ、生徒たちがコンタクト・サーヴァントした中にあのような生き物は……あっ」
 コルベールは口に手を当てる。なにかを思い出したようだ。
「なんじゃ?」
「いえ、もしかしたら思い違いかも」
「いいから話してみい。去年まではあんな使い魔はこの学院にいなかった。ならばおそらく、あの儀式でこの学院に現れたはずじゃからな」
 オスマンにうながされ、コルベールはこほんと咳払いをした。
「では……ミス・ヴァリエールのサモン・サーヴァントの際、人間の他にもう一匹なにか出ていたという噂を聞きました」
「なにか、とな?」
「契約を拒否し逃げたらしいのですが、もしかしたらあの生き物がそうなのかもしれません」
 鏡にその生物が拡大して表示される。だいたい60cmくらいのずんぐりむっくりした、首があるのかないのか分からないオレンジ色の毛皮に包まれた身体。リングを通した尻尾と、大きくて丸っこい耳。なんとも形容しがたい容姿をしている。
 オスマンは鏡に映るその生物をひとしきり観察したあと、コルベールに向き直った。
「ううむ、そのヴァリエールという生徒も、色んな意味でよく分からんな」
 『サモン・サーヴァント』は基本的に失敗がない。呼び出されるのはほぼ間違いなく相性の良い相手なので、毎年生徒たちの悲喜こもごもはあるものの、最終的には全員契約を成功させる。だが、二匹(一人と一匹)召喚しただけでも意味が分からないのに、片方が契約拒否? オスマンは相次ぐ新情報に、どう判断したものかこめかみを軽く揉んだ。
「じゃが、それなら何故報告しなかったんじゃ。二体召喚なぞ本来ありえないことじゃろう」
「それが……」
 コルベールは言いづらそうに顔を伏せる。
「私自身はそれを確認できなかったもので」
 コルベールはルイズが召喚した人間―サイト―の姿を確認したあと全員の使い魔の最終確認を行っていたので、そのあとのやり取りを見ていなかったのだ。聞けば二体でたという話も生徒から聞いた話だったので、どうしても信憑性に欠けた。なにより、現れたという生物がどこにもいない。ルイズにはかねてから色々な噂がつきまとっていたので、コルベールもそんな根も葉もない噂の類なのだろうと高をくくっていたのだ。
 オスマンは、コルベールがルイズの噂のことを気に掛けているのを知っていた。コルベールは貴族には珍しく、他者を思いやる心を強く持っている。なのでルイズの名誉を傷つけるような噂を、あまり心良く思わなかったのだろう。
「ですがミスタ・コルベール。たとえ噂であれ、それは報告すべきことのはずです」
「うっ……」
 ロングビルはいつの間にかコルベールの隣に立ち、彼を冷ややかに見つめていた。彼女の目は彼に、『怠慢である』ということをありありと告げている。
 言葉に詰まったコルベールを見かね、オスマンは助け船を出した。
「まあ、それはもういいじゃろう。
 それより、今はこっちのことを――」
 ドガン、と岩を砕くような破壊音にオスマンは鏡へ視線を戻す。
 そこには、舞い飛ぶ砂煙に埋もれる寸前、茶色い生き物もろとも地面を踏み砕こうと地を蹴ったオルトロスが映っていた。

     ○

 ヴェストリの広場中央で対峙する二匹。
 かたや五メートルはあろうかという双頭の狼オルトロス、かたや一メートルもない小さなネズミのぬいぐるみもどき。熱に浮かされたように騒ぎ立てる衆人たちを背に、彼らはにらみ合っている。
 いや、実際睨みつけているのはヴォルガだけであって、ハタヤマは特に気負いはなかったりするが。
「一撃で仕留めてやるよッ!」
 ヴォルガはハタヤマが位置につくやいなや、弾かれたように突進した。初撃で一発ぶちかまし、動けなくなったところをいたぶるつもりなのだ。ヴォルガは距離にして四、五メートルをたったの二駆けで潰し、ハタヤマを喰い殺さんばかりの勢いで飛びかかった。その威力は地面に亀裂を刻みつけるほどに強烈で、ヴォルガは大地をハタヤマごと踏み砕いた。
 メキリ、と広場に鈍い音が響き、土煙が彼らを覆う。観客たちはハタヤマの無惨な姿を想像し、広場は歓声と悲鳴に埋め尽くされた。これで勝負はついたか、とその場にいる誰もが思ったのだ。
 だが、一陣の風が砂煙をはらすと、そこには予想外の光景が広がっていた。
「ぐっ、ガッッッ……!」
 なんとヴォルガが地面にうずくまり、苦しみに地面をかきむしっていたのだ。対するハタヤマは、何事もなかったかのようにピンピンしている。観客たちはこの予想を裏切る展開に、驚嘆を隠せないようだ。

     ○

「な、なにが起こったモグ?」
 周りにいる使い魔たちも何事か理解できないようで、ざわざわと囁きあっている。ハタヤマ死亡かと顔を真っ青にしていたヴェルダンデは、彼が無事だった喜びと、何故無事なのかという驚きで目を白黒させていた。その中で一匹、シルフィードだけはハタヤマの行動を理解していた。
「ハタヤマ、魔法を使ってたの」
「へ? 魔法、って……えぇ?!」
 シルフィードがポツリと呟いた一言に、ヴェルダンデは二重に驚いた。幻獣も火を吐いたり秘薬を見つけたり出来るが、それは種族が持つ固有の技能によるところが多い。魔法のようなことは出来るのだが、それは実は魔法ではなく、れっきとした特技なのである。魔法とは主に人間が生み出したものであり、それすらもエルフから伝わったという説がある。なので、幻獣で魔法が使える種族など、探しても滅多にいないのだ。それをハタヤマは使ったとシルフィードは言う。ヴェルダンデはあまりの驚きに、思わず声が裏返った。
「確かに、あれは不可視の壁みたいなものだったでゲスね」
「え、ええ? フレイムも見えてたの? ていうか見えてなかったの僕だけ?」
 横で頷くフレイムに、軽く疎外感を感じるヴェルダンデ。というか彼はハタヤマが襲われたとき、頭を抱えて目をつぶっていたので当然である。
「でも、ハタヤマさん明らかに詠唱してなかったでゲス。どんなに短い小節だとしても、口を動かしてすらいなかった……」
 フレイムは常識に外れるハタヤマの魔法に小首をかしげた。この世界の魔法は音声魔法が主流である、というか音声魔法しかない。人間幻獣問わず、魔法を操るには皆決められた言霊を紡がなければ魔法が発現しないのだ。それを知っているフレイムは、だからこそハタヤマの行ったことの異常さに気づいた。詠唱無しで魔法を操るなど、どれほど高位のメイジでも不可能なのだから。唯一考えられるのは、ヴォルガの行動を読んで事前に詠唱を仕込んでいた、というところだが、フレイムは今ひとつ納得できない。もし仕込んでいたとしても、ならば何故ヴォルガは悶絶しているのか。フレイムはますます疑問が深まっていくのを感じた。
「おかしいでゲスな……ねぇ、シルフィードさん」
「えっ……んと、そうなのね、私のことは呼び捨てでいいのね」
「あぁ、じゃあシルフィードって呼ぶでゲスね」
 シルフィードはフレイムに呼び名の訂正をしながら、どう答えようか迷っていた。彼女はハタヤマが外世界からやってきたことを知っている。おそらくハタヤマが使っている魔法も、その外世界の理論を骨子にした法則により制御されているのだろう。だが、本人がまだ他者に話していないことを、自分が喋ってしまっていいものだろうか。普段から、自分が人間の言葉を喋られることを隠すようタバサに厳格に躾けられているシルフィードは、他者の秘密に関して深く考えるようになっていた。
 話して良いことと悪いこと。これは、話してはいけないことのような気がする。もしかしたら、嫌われてしまうかも知れないほど重要なことかも知れない。嫌われる――
「――そんなの、嫌なのっ!!」
「ひえっ! し、シルフィード、どうしたでゲス?」
「なにが嫌なんだモグ?」
 突然叫んだシルフィードに、フレイムたちは心配気な顔を向ける。シルフィードはつい声に出してしまったことを反省し、大慌てで取り繕った。
「な、なんでもないの! うん、おかしいのね、きっと先住魔法かなにかなの!」
 るーるるー、とそっぽを向いて歌うシルフィード。その姿は誰がどう見ても怪しかった。しかし有事ということでフレイムたちもそれ以上は追求せず、ハタヤマの方へ視線を戻した。シルフィードはそんな彼らに、ほっと胸をなで下ろしたのだった。

     ○

「大見得切っていたわりに、あんま大したこと無いねぇ。
 達者なのは口先だけだったかな?」
 ハタヤマはヴォルガの眼前に歩み寄り、いやらしい笑みを浮かべた。その表情とヴォルガの状態を比較すると、どう見ても悪役はハタヤマにしか見えなかったりする。どこまでも正義が似合わない男である。
 ヴォルガはそんなハタヤマに噛みつこうと首を伸ばすが、それも軽くバックステップでかわされた。ハタヤマの歩幅10cmも無いような足では、通常あり得ない動きである。
「て、てめぇ……いったい、なに、しやがった……」
「別にぃ? ちょっと小突いただけさ」
 ハタヤマは邪気のない顔で首をすくめた。もっとも、『小突いた』、の前に『魔力を付加して』、という言葉がつくのだが。
 実はハタヤマは別に大したことはしていない。ただ、ヴォルガの攻撃が直撃する瞬間に『ハイシールド』を展開し、土煙にまかれ油断したヴォルガの土手っ腹に、右前足でのストレートパンチ――『H・F・B』(ハタヤマ・フィニッシュ・ブロー)――をたたき込んだだけである。
 ハタヤマは肉体構造的に、俊敏な動作を苦手としているが、それを自身の身体に魔力を流すことで解決していた。彼の長い人生の、さらに後期における日常は、悲しいことに他者との闘争で塗りつぶされていた。そんな世界で生き残るためには、並の能力ではいられなかったのである。
 ハタヤマは、ヴォルガの抱いていた格下相手という油断、開幕突撃という圧倒的な暴力、そしてなによりも攻撃が成功したという一種の安心感。その、『勝った』という気になっているヴォルガの精神の隙間を突き、ハタヤマは己の持つ最速の攻撃を放ったのだ。
 ハタヤマは先ほどの昼食時間での観察で、この世界の殆どの幻獣が魔力を意のままに操ることが出来ないことを看破していた。あの広場にいた中で唯一魔法を使えそうな生物といえば、おそらくシルフィードぐらいであろう。それほどまでに、ハルケギニアの幻獣たちの魔力文化は未発達なのだ。ヴォルガは確かに力が強く、身体能力も高かった。だが、それも所詮はただの力任せでしかない。故に、その魔力を伴わない攻撃は魔力障壁の前では殆ど意味を成さないし、彼は魔法を使えないので、魔力を伴った攻撃を防御する術も持たない。
 ようするに、ヴォルガは自分から仕掛けたことが、彼自身の首を絞める結果となってしまったのだ。
「ちぃっ、舐め、やがって……」
 ヴォルガは内蔵を直接蹴り飛ばされたような痛みに、顔をしかめながらも立ち上がる。たった一発のボディブローで足腰をいわされてしまった。これは彼にとって想定外のことである。彼の脳内プランでは、先の一撃でハタヤマは戦闘不能、血塗れでぼろぼろになったハタヤマを見せしめにし、さらなる地位の強化を図る算段だった。だが現実はどうだ。逆に自分が地に倒れ伏し、反対にハタヤマが自分を見下している。自尊心で凝り固まっているヴォルガの魂が、この状況を許せなかった。
 その不満とハタヤマへの憎しみが、彼の心にかけられたタガを外す。
「なら、こっちも――本気を出させてもらうぜぇッ!」
 ヴォルガは両前足で大地を踏みしめ、背を極限まで低く構える。猛獣が獲物を仕留める際にとる、飛びかかる寸前の戦闘態勢。同時にヴォルガの発するただならぬ雰囲気に、ハタヤマはおちゃらけた笑みを消した。
 果たしてなにをしてくるのか。その一挙手一投足を決して見逃さぬように、ハタヤマは感覚を研ぎ澄ませる。
 だが、そんなヴォルガの攻め仕掛けは、ハタヤマの裏を掻くものであった。
「――やれ!!」
「了解だキ! 喰らえ、『超破壊高音波』(ウルトラソニック)ッ!!」
 ヴォルガは大声を張り上げる。するとコウモリが命令に応じ、なんと攻撃に参加したのだ。予想だにしない新手の参戦にハタヤマは対応できず、コウモリの技能をモロに喰らってしまう。
 ――――――ィィイイインッ!!!!
「ぐ、ぐがあぁあぁぁぁッ!?」
 コウモリの口から放たれる不可視の音撃。その波紋状の高周波は、ハタヤマの鼓膜に突き刺さるような耳鳴りと、脳を直にこね回されたかの如き強烈な痛みをもたらした。
 ハタヤマは両耳を千切りとらん勢いで庇い、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 ハタヤマには種族として、『超感覚』という特殊技能が備わっている。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚、場合によっては第六感までの感覚器官に超常の強化をもたらす技能だ。ハタヤマは油断していたが、手は抜いていなかった。たとえ何が起ころうとも対応できるよう、超感覚のチャンネルの『視覚』と『聴覚』を開いていた。
 鋭敏すぎる五感。それゆえ、彼は『音』や『光』といった、単純な感覚に作用する魔法にすこぶる弱い。ちょっとの音波や閃光だけでも、耳がイカれ、眼がやられてしまうのだ。
「ぐわははははっ! 良い様だな!」
「て、手下を、使うとか――」
「――勝てばいい、それが全てだッ!!」
 うずくまるハタヤマに、ヴォルガのかぎ爪パンチが迫る。しかし三半規管をやられているハタヤマに、その一撃を避ける術はない。天高く振り上げた右前足がハタヤマの小さな身体を捉え、ドバシ、という鈍い音と共に彼は左方へ派手に吹っ飛ばされた。
「ゴヘェッッッ!!」
 ハタヤマは大きく土煙を舞い上げながら、ゴロゴロと土を転がっていく。その見ているだけでも激痛を覚えるような凄絶な光景に、観客たちはにわかに湧き立った。

     ○

「ひっ……!」
 ヴェルダンデは思わず地面に潜った。目の前の刺激的すぎる光景を、これ以上見ていられなかったからだ。
「は、ハタヤマさんが殺されちゃうモグ!」
「これは……ヤバいかもしれんでゲス」
 ヴェルダンデの意見にフレイムも同意する。ハタヤマが如何なる力を隠していようとも、この状況を覆せるとは思えない。魔法を使えるとはいえ多勢に無勢、このままでは数に押し切られてしまうだろう。
 渋い顔したフレイムの横を、シルフィードがたまらず飛び出していこうとする。そのシルフィードの進路を、炎の灯った尻尾で遮るフレイム。シルフィードはフレイムの行動に、目を剥いて彼を睨みつけた。
「シルフィード、よすでゲス」
「なんでなの!? あいつズルいの、卑怯なの!
 向こうがみんなで来るなら、こっちもみんなで行くの!」
 シルフィードの言い分は間違ってはいない。目には目を、歯には歯を。向こうが先にその手段をとったのだから、こちらが同じ手段を講じても全く問題はないはずである。
 だが、フレイムは首を横に振った。「ダメでゲス」
「だから、なんでダメなの!?」
「ハタヤマさんが、『何があっても手を出すな』、と言っていたからでゲス」
 フレイムはハタヤマから、唯一耳打ちされていた。「万が一の場合は逃げてくれ」、と。シルフィードはそれを聞き、癇癪を起こしたかのように叫ぶ。
「な――なんでハタヤマはそんなこと言うの!! 友達が酷い目にあってるのに、黙ってみてろって言うの!?」
 シルフィードは憤慨した。せっかく仲良くなったというのに、友達になれたと思っていたのに、そんな冷たいことを言いおいていったハタヤマに。だが、そんなシルフィードをフレイムはやんわりとたしなめる。
「たぶん、友達だからこそでゲスよ」
「だからなん――「そうか」ッ?」
 フレイムはそうぽつり、と呟く。その声は喧騒に包まれた広場でも、何故かはっきりと聞き取られた。感情の高ぶったシルフィードはどういうことか問い詰めようと口を開きかけたが、いつの間にか地中から出てきたヴェルダンデの言葉に遮られた。
「たぶん、もし負けても僕らに迷惑がかからないように、ってことなんだと思うモグ」
「他人の迷惑顧みなさそうだと思ってたでゲスけど、以外に思いやりのあるヒトみたいでゲスね」
 先ほど大見得を切ったのも、注目を一身に集めるため。ハタヤマは傍目にはどこまでも破天荒そのものなのに、近しい者には端々で細やかな気遣いを残す。彼は敵と見なした者には容赦しないし、特に関わりのない者にはまったく関心を示さない。だがひとたび交流を結んだものには、なんだかんだで深い情を示す。ある意味彼は、超がつくほどのお人よしなのだ。
 このハタヤマの残した言葉に、三者は三様の想いを抱く。
 ヴェルダンデはハタヤマを助けたいと思った。自身を救ってくれた恩を、今度は自分が返す番だと。しかし、悲しいかな彼はいじめられっこ、今までの人生で形成された性格はそうそう変えられるものでもない。助けたい気持ちは確かにある。しかし、その気持ちとは裏腹に、震える体は前に出ることを拒んだ。
 フレイムは一見冷めた様子だが、そこまで薄情なわけでもなかった。決闘の最後の最後、ハタヤマが殺される寸前に止めに入り、場を鎮圧させるつもりである。故に、見捨てる気はないが、今すぐ止めに入る気もなかった。
 シルフィードはハタヤマの想いがまったく納得できなかった。自分を救おうとするものが傷つく事を恐れ、冷たい言葉で遠ざける。それはまるで、彼女の主人の姿に似ていて――
 動けないヴェルダンデの脇をすり抜け、改めて踏み出そうとするシルフィード。今度はもうフレイムも止めない。
「――ぎぃやああぁあぁぁッッッ!!??」
 だが、そんな彼女の踏みしめた足は、聞こえてきた悲鳴によって止められた。

     ○

「――大見得切っていた割には、案外大したことねぇなぁ?」
 さっきの意向返しのように、ヴォルガは粘っこくうそぶいた。その表情は加虐の喜びに彩られ、気のせいか輝いているように見える。
 ギリギリギリ……
「ぐ、がっ――」
 ハタヤマはヴォルガの手下であるアナコンダに巻きつかれ、濡れた真綿をしぼるかのごとく締め上げられていた。あの後も二、三度殴り飛ばされ、彼の自慢の毛皮はすでに土で薄汚れている。ヴォルガは手下たちの加勢により一気に勢いを取り戻し、形勢は逆転されていた。
 ヴォルガはハタヤマの眼前に顔を近づけ、唇を三日月のようににたりと吊り上げる。
「これで、俺様の名はこの学院内をさらに轟く。逆らう者は皆お前のようにぼろぼろにされると、奴らは恐れおののくんだ。もう俺様に逆らう者はいない、俺様の時代の始まりだ!」
 ヴォルガはむき出しになった牙を隠そうともせず、ギョロギョロと周囲の観客を見回す。すると目が合いそうになった者は皆、俯きがちに目を逸らす。関わり合いになりたくないのだ。ヴォルガはその反応にさらに気をよくして、抑えきれぬように高笑いを始める。それを手下たちも囃し立て、ヴォルガの勝ち鬨は広場に響き渡った。

 ――それはどうかな?

「あん?」
 突如、その声は聞こえた。微かに、だが確かにヴォルガの耳には届いた。その声の主はすでにボロボロ、だが――その瞳の奥底には、獰猛な輝きを未だ失なっていない。
「ここからは、本気(マジ)だからね」
 その呟きが終わるやいなや、ハタヤマの気配が変化した。まるで高位の幻獣がまとうような、総毛立つほどの魔力を放ち始める。
 ヴォルガはただ一つ大きな間違いを犯した。彼、ハタヤマヨシノリに――敵と見なされてしまったのだ。
「“エレキバースト”ッ!!」
「ぎぃやああぁあぁぁッッッ!!??」
 ハタヤマの肉体から、高圧電流が発された。巻き付いていたアナコンダは、無論それを避けようが無く、不幸にも直撃浴びてしまう。バリバリと全身を高圧電流が駆けめぐり、ハタヤマが魔術を解いた頃には、アナコンダは全身真っ黒焦げで口からしゅうしゅうと白い煙を吐きながら、白目を剥いて倒れ伏した。
 『エレキバースト』とは己自身を導体として、強力な電気を発生させる魔法である。しかしそれは対象と同時に自身にも電流が流れてしまうため、ある種捨て身の必殺魔法であった。
「まず、一匹」
 電流のダメージにふらつく身体を無理矢理起こし、宙を舞うコウモリを睨みつけるハタヤマ。自身も身体から煙を吹き、見た目にも少なくないダメージを感じさせる。しかし、彼に倒れる気配は全くない。
 ヴォルガはハタヤマの思わぬ反撃に一瞬度肝を抜かれたが、すぐに我に返りトドメを刺すべくハタヤマへ飛びかかった。だが、その突撃に合わせてハタヤマはなにかをヴォルガに投げつけていた。
「ぶわっ?! な、なん――ッッックシュンッ!!」
 投げられた物はヴォルガの顔面にぶち当たると破け、中身を空中に噴霧する。それを直に吸い込んだヴォルガは、何故かくしゃみが止まらなくなった。
「ボクがなんの準備もせずに、ここに来るとでも思ったのかい!」
 だめ押しに四、五個ほど追加でぶつけつつ、ハタヤマはヴォルガに吠えつけた。これは彼が密かに作成した、『コショウっぽいもの爆弾』である。彼はアルヴィースの食堂で働くかたわら、武器に使えそうな物を少し拝借していたのだ。
 犬の嗅覚は人間の1億倍、ましてや幻獣ともなれば、ハタヤマの超感覚でも及びつかないほどの高性能なことは、想像に難くない。そんな嗅覚で辛い粉末を思いっきり吸い込んでしまったヴォルガは、鼻を押さえてもくしゃみが止まらない。ヴォルガチームの総大将であるヴォルガは、今この瞬間を持って、一時的な戦闘不能に陥ってしまった。
「さて」
「ひぃっ?!」
 改めてコウモリに向き直るハタヤマ。次は己の番だと悟ったコウモリは、恐怖に背筋を震わせた。いつもヴォルガという権力を笠に着ていたコウモリは、未だかつて無い危機を肌で感じていた。そういったいざこざは、今までヴォルガがなんとかしてくれた。故に、それに抗う術を、彼自身は思いつくことが出来ない。
 どうしようもなくなったコウモリは、破れかぶれに技を放つ。
「く、くそぉッ! 『超破壊――」
「二度も喰らうか!」
「キぃッ?!」
 戦い慣れているハタヤマには、残念ながら同じ手札は通用しない。ハタヤマは首元のナプキンを剥ぎ取り、コウモリに投げつけた。ナプキンは見事コウモリに覆い被さり、バランスを崩したコウモリは飛行を維持できず脳天から墜落する。ごちん、という固い音が響き、コウモリは気絶したようだ。
「これで二匹!」
「余所見してんじゃねぇよッ!!」
 墜落を確認していたハタヤマは、真後ろからの殺気に振り返る。そこには今まさに右前足を振り下ろさんとするヴォルガの姿があった。ハタヤマは振り向き様に腕を振りかぶり、膝と腰の回転を加えたアッパーでヴォルガの攻撃に応戦する。
「「うぉおおおぉおおッ!!!!」」
 ヴォルガの『打ち下ろしの右』(チョッピングライト)、そしてハタヤマの『ガゼル・H・F・B』。二つは両者の間でぶつかり合い、鉄を打ち合わせたような鈍い音が響く。威力は魔力を付加したハタヤマに軍配が上がる。だが、ヴォルガも打ち下ろした勢いを殺さぬよう、牙を噛み合わせ必死に痛みを堪えている。
 両者は拳を合わせたままの姿勢で拮抗し、勝負は潰し合いへと移行した。
「ぐ、ぐぐぐ……」
 ハタヤマの苦悶の声が上がった。一撃の威力ならば、確かにハタヤマの方が強い。だが、持続的な筋力勝負では、圧倒的にヴォルガに分があった。ヴォルガの上からのし掛かるような体勢も彼に味方しているが、なにより身体の造りが根本的に違う。ここにきて彼我の体長差が、致命的な不利を生んでしまったのだ。
「お、れ様の――勝ちだぁッ!!」
 ヴォルガは地を足で掴み、ハタヤマを押し潰そうと全体重を右足に乗せた。ハタヤマは全身に魔力を張り巡らせなんとか踏ん張るが、彼の立つ地面の方が耐えきれずにめりめりとめり込み始める。もはや、勝負あったかと思われたが――
「――悪いね、君の負けだ!」
 瞬間、ハタヤマの身体から眩い蒼い光が放たれた。その眩しさに、その場にいた者は皆目蓋で目を覆う。続いて大砲が撃ち出されたような轟音が鳴り響き、同時にヴォルガの絶叫が響き渡った。

     ○

 強烈な閃光に目を閉じたヴェルダンデ。彼が眼を開けて初めに視界に入ったのは、クレーターのように野草が吹き飛んだ大地の中心で、右前足を高々と突きあげているハタヤマの姿だった。
「だっしゃーッ!」
 俺の勝ちだ、と言わんばかりに、満足そうに勝ち鬨を上げるハタヤマ。それでようやく勝者が誰かなのかを観客は理解し、広場は興奮の絶頂を迎えた。

「勝った! あのチビすけ勝ちやがったぞ!」     「よくやった!」
    「よく見ると結構格好いいわね!」   「バンザーイ、バンザーイ!」

 黒こげで目を回しているアナコンダ。目を覚まし、ナプキンから逃れたものの、総大将であるヴォルガが倒され狼狽えているコウモリ。そして、全身を蒼い魔力で帯電しつつ、ぴくりとも動かないヴォルガング。無法者たちが打倒されたことに、他の使い魔たちは歓喜していた。奴らはこれでもう、傍若無人には振る舞えない。何故なら決闘での敗北は、敗北者のメンツの崩壊を意味するからである。敗者には誰も畏怖を抱かないのだ。
「な、なにが……起こったモグ?」
 決闘中は殆ど目をつむりっぱなしだったヴェルダンデは、状況が掴めずに放心している。しかし、ヴェルダンデ以外の他の二匹は、事の成り行きを完璧に見届けていた。
「魔力の奔流を――」
「――噴きだした、の……?」
 フレイムとシルフィードは、まるで夢現のように呆気にとられていた。ハタヤマはなんと全身から魔力の奔流を噴きだし、それをヴォルガへぶつけたのだ。ハタヤマを押し潰すことに全神経を集中していたヴォルガは、その一撃を避けられず直撃。そのまま奔流に押さ飛ばされるように、観客を飛び越えて7メート以上も吹き飛ばされたのだ。あり得なさすぎることの連続に、実際に見たにもかかわらず否定したくなってくる。
 とにかくどういうことなのか尋ねようとフレイムたちは、ご満悦に観客たちへ両前足をバンザイして手を振っているハタヤマの後ろ姿へと歩み寄った。
「ありがとー、ありがとー!」
「ハタヤマさん、今のはなんだったんでゲス?」
「おぉ、みんな! 逃げなかったんだね! ねぇねぇシルフィちゃん見てくれた!? このボクのカッコいい勇姿!」
 問いかけたフレイムを完全に無視し、いちもくさんにシルフィードへ駆け寄るハタヤマ。だが、その麗しのシルフィードは、彼を褒めてはくれなかった。
「――バカッ! ハタヤマのバカ! バカバカバカ!!」
「ぶへうっ!?」
 シルフィードは尻尾でハタヤマをビンタした。そのかなりの本気っぷりに、ハタヤマは盛大にぶっ飛ばされる。
「な、シルフィちゃん、なにを」
「いっぱいいっぱい心配したの! もしかしたら、ハタヤマ死んじゃうかも、って……」
 両眼に涙を一杯に溜めて、シルフィードは心底安堵していた。もしかしたらハタヤマはあんまり強くなくて、ひょっとして自分のせいで見栄を張ってしまったのか。実は本当に強いんだけど、なにかの事故で引き裂かれてしまうのではないか。無邪気な気持ちでハタヤマの背を押したが、まさか彼がこんなにも痛めつけられるなんて思っていなかった。彼女は、『戦闘』というものを、本当の意味で分かっていなかったのだ。まあ彼女はまだ若く、使い魔になる前も風韻竜の里でずっと守られて生きてきたから、仕方のないことでもあるのだが。
 ハタヤマはシルフィードの瞳から溢れた大粒の涙に、かつて無いほど取り乱した。
「ぬわぁ?! ご、ごめん、ごめんなさい!! 何だか分かんないけどボクが悪かったから、お願いだから泣かないでよぉ~!!」
 必死にシルフィードをなだめようとするハタヤマに、フレイムとヴェルダンデは顔を見合わせて笑った。なにが起こったのだろうが、ハタヤマがどんな存在なのであろうがどうでもいい。今は、彼の無事を素直に喜ぼう、と。
 だが、その空気も長くは続かなかった。

「――おい、人間が来たぞ!」

 校舎を窺っていたゴリラ型幻獣――ビッグゴリラ――が注意をうながした。見れば、学院本塔から、数名の教師らしきメイジが飛んできているのだ。それを見たフレイムは、顔色を豹変させハタヤマに詰め寄った。
「ハタヤマさん、逃げるでゲス!」
「え、え? なんで?」
「おそらく学院の人間たちはこの決闘を見ていたはずでゲス。なら、一番危険なのはヴォルガと――もう一人の中心生物である、ハタヤマさんでゲス」
 本当はハタヤマこそが一番危ないのだとフレイムは言外に言っていた。この世界のコトワリに当てはまらぬ魔術を行使するハタヤマ。捕まれば、下手をすれば命すら危ういかも知れない。貴族の愛玩動物として常に乱獲の危機にさらされていたフレイムは、人間の恐ろしさを嫌というほどに知っている。
 ハタヤマもなんとなく察したのか、浮かれ気分を胸にしまい込み真面目な表情になった。
「じゃあみんな、ちょっとごめんね。ボクもう行くよ!」
 ハタヤマは皆の顔を見回すと、脱兎の如く駆けだした。少なくとも暗くなる夜までは、身を隠していなければならない。
「あ、ハタヤマさん! 本当に、本当にありがとうございましたでモグ!!」
「絶対に捕まっちゃダメでゲスよー!!」
「ハタヤマ、今夜風の塔へ来るの! 忘れちゃダメなのよ!!」
 口々に彼への言葉を紡ぎ、離れゆく姿を見送る彼女ら。ハタヤマは右前足をぶんぶんと振りつつも、決して振り返らなかった。
 広場にいた使い魔たちは、我先にと逃げ出し始めている。
「あっしらも逃げるでゲス!」
「あ、ちょっと待ってモグぅ!」
 高速で地を這っていくフレイムに、地中深くへ潜るヴェルダンデ。そして最後に、シルフィードだけが取り残される。
「……変なやつだったの」
 ハタヤマと知り合ってから、数時間で彼女の世界は大きく変化した。新しい友達二匹できて、今まで感じたことのない感情がいくつも胸に湧き起こる。それら全てが彼女にとって新鮮で、その心に様々な波紋を投げかけた。だが、嫌な波紋ではない。
「私も逃げるの! きゅいきゅい!」
 彼女は大空へ翼を広げ、陽光の中へ消えていく。そして広場には誰もいなくなった。

 ただ一つ、オレンジ色したぬいぐるみの伝説を残して。



[21043] 一章幕間
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:42
【 一章幕間 『ハタヤマの記憶・1』 】



 学院の北に位置する風の塔。西の火の塔、東の水の塔、そして南の土の塔とともに、学院の四方に配置されている四属性の塔である。各塔はそれぞれ赤、青、緑、茶と属性により色分けされており、その内部はそれぞれの属性の者にとって修行しやすい環境に調整されている。この中では魔法の影響が外部に及ばないようになっているので、勉強熱心な生徒は放課後こぞって集まり、よく自主錬する姿が見ることができた。だが、今は誰もいない。
 現在は夜も深け、日付も変わろうかという時間。夜空に煌々と輝く赤と青の月の下で、シルフィードは独りうずくまっていた。そこへ昇降口の扉が開く、キィという音が鳴り響く。
 現れたのはとても小さな影。それは静かに屋上へ入り込むと、注意深く周囲を窺った。
「おそかったのね」
 シルフィードは頭をもたげた。彼女はすでに影の正体を分かっているようで、ちょっと不満げに目を細めている。
「ごめんごめん、ちょっとやることがあってね」
 影の主は建物の影を抜け、月明かりの中へ進み出た。月光に照らされ出現したのは、オレンジ色したネズミっぽいぬいぐるみ。もちろんハタヤマヨシノリである。
 彼はシルフィードのそばまで歩み寄ると、彼女の横に腰をおろす。
「それで、ボクになんの用なんだい? さすがに今度はなにかあるんでしょ?」
 いまいち場所が分からなかったが、大体風といえば緑色のシンボル。それでおそらくここだろうとアタリをつけ、迷いながらもやってきたのだ。だが、彼女が自分を呼んだ理由が思い当たらず、来る途中ずっと疑問だった。捕まる危険を押してまで自分を呼んだのだ、よほど重要な用に違いない。
 だが、シルフィードはハタヤマの純粋な疑問に、困ったように声を曇らせた。
「んと……分かんないの」
 実はシルフィード自身、何故あんなことを言ったのか分からなかった。ただ、あそこで次に会う約束をしなければ、もう二度と会えなくなる気がした。彼女はそのなんとなくの予感に従い、ハタヤマをここへ呼び寄せたのだ。
 だが、何故自分はハタヤマと会えなくなることが嫌だったのか。それがいくら考えても分からないので、彼女は待っている間中、胸がずっともやもやしていた。ハタヤマが来ればもやが晴れるかと思ったが、彼の声を聞くとさらにもやもやが強くなった。シルフィードはこのなんだかよく分からない胸の違和感に、自然と顔をしかめていく。
「……? どうしたの? もしかして本当は調子が悪いんじゃ」
「な、なんでもないの! きゅいきゅい!」
 胸に立ち込めるもやを吹き飛ばすように、シルフィードは強く一声鳴いた。ハタヤマは彼女の真意が分からず困り顔だ。
「そっか、それなら別にいいけど。
 ところで、実はボクもキミに会いたかったんだよね」
「えっ?」
 ハタヤマからの思わぬ告白に、シルフィードは目をぱちくりさせる。ハタヤマも、自分に会いたがっていた。彼のその言葉は、彼女の心に波紋を広げた。
「な、なな、なんなのよう」
「実は、キミにさ――」
 頬に手を添え恥ずかしそうに、もじもじ言い淀んでいるハタヤマ。その頬は若干朱に染まっており、思わず抱きしめたくなるような可愛さを放っている。シルフィードは予想だにしない展開とハタヤマの態度に動揺する。なにか心臓がドキドキしておちつかない。何故、何故こんな気分になるのだろう。
 ハタヤマは上目遣いにシルフィードを見上げ、口を開く。その彼の唇の動きに、不意に彼女の心臓は跳ね上がったが、
「――文字を、教えて欲しいんだ」
「……きゅい?」
 自分を見上げるハタヤマの無垢な瞳。シルフィードはその発された内容に、まん丸な瞳をパチクリとさせた。そして、やや遅れ言葉の意味を理解すると、力が抜けてずるっとずっこけるシルフィード。彼女は拍子抜けしたような、残念なような気分に襲われた。だが、次に何故そう感じたのかという疑問が湧き起こったが、考えてもよく分からなかった。
「本当にどうしたんだい?
 ――はっ!? もしかしてボクに会えて嬉しいんだね?!
 ということはボクに惚れた!!? シルフィちゃーんっ!!!!」
 己の心を振り回す珍獣は、見下ろした先にキョトンとして小首をかしげる。そして突然電波を受信したかと思うと、辛抱たまらん感じでルパンダイブを敢行した。シルフィードはそんなハタヤマのおちゃらけた動きに、全力の尻尾で迎え撃つ。
「このおバカ――――ッ!!」
 ドベシッ!
「マジですか~ッ!?」
 シルフィードの無心のテイルソバットは、宙を舞うハタヤマにクリーンヒット。見事それに命中したハタヤマは、ホームランボールのように夜空へ飛んでいき、キラリと輝く星となった。シルフィードの視線はその軌跡を追わず、風船のように頬を膨らませむくれてしまう。
 「珍獣、夜空に舞う」の巻、であった。

     ○

「ハタヤマは何処から来たの?」
 切っ掛けは、シルフィードだった。
「え?」
 持ってきた数枚の紙を地面に散らかし、はいつくばってその裏にぐりぐりと文字を殴り書いているハタヤマ。そんな彼の頭上から、彼女の言葉が振ってきた。シルフィードはハタヤマたっての希望で人型に変身し、裸Yシャツに黒い革パンバージョンである。余談だが、その姿をハタヤマが感涙にむせび泣いたのは言うまでもない。
 ハタヤマは慣れない羽ペンとインクに悪戦苦闘するのを止め、顔だけを上げてシルフィードを仰ぎ見る。
「何処って、異世界だけど」
「あっ――えっと、うんと、そうじゃなくて」
「――あぁ、どういう所かってことね」
 表現が見つからず語彙を探るシルフィードの様子に、逡巡して合点するハタヤマ。彼女はハタヤマの事情を知っているので、聞きたがるとすればこの辺りであろう。
 シルフィードはその言葉にぱっと顔を輝かせ、こくこくと首を何度も振った。
「う~ん……鉄の塊が道を走って、空まで飛んじゃうような世界だよ」
「へ? 鉄の塊って、あの黒くて固いの?」
「うん? ……あ。ま、まぁ、その認識も間違いではないけどさ」
 シルフィードのきょとんとした答えに、手の平サイズの鉄鉱石が高速で地面を走る画が浮かぶハタヤマ。事実、シルフィードは唇に指を当て、頭には大量の疑問符が浮かんでおり、どうやらうまく想像できないようである。彼はそのなんとも微妙な映像に目を細めて汗を浮かべたが、まあいいか、と訂正をしなかった。説明がめんどくさいし。
「そんで、二十四時間開いてるコンビニがあって、全ての家に水道やガスや電気が通ってる」
「コンビニ? デンキ、スイドー?」
「――あーっと、なんつーかね」
 意味不明な単語の連続に、さらに疑問が増えるシルフィード。ハタヤマは彼女との文化の違いを、改めて思い知らされた。彼はどう説明したものか、頭を抱えてうんうん唸る。
「『コンビニ』ってのは、朝も夜も閉まらずに営業してるお店。
 『電気』は明かり、『水道』は水、『ガス』は火のことだよ」
「……? コンビニは無いけど、そのデンキとかスイドーとかは、ハルケギニアにもあるものよ?」
「それ、魔法によるものとか、井戸とかたき火のたぐいでしょ?
 ボクの世界では、取っ手を回したりボタンを押せば、魔法を使えない人でも水を出したり火をつけたりできるんだよ」
「えぇ?! すごいの!!」
 シルフィードは、そのデンキやスイドーがどんなものなのか、明確に想像できなかった。しかし、ハタヤマから与えられた情報が本当であれば、それはこの世界ではあり得ないことであり、それは彼女にとってとても不思議な事象であった。押せばなんでも出来るボタン。それは、この世界の魔法なんかより、何倍も魔法らしいものである。
 対して、そういった文化圏に住んでいたハタヤマには、そう凄い物とも思えなかったのだが、目をキラキラさせたシルフィードに水を差すのも野暮な気がして、心の内は秘めておくことにした。

「それで、ハタヤマはそういう世界で、どんな風に生きていたの?」
 ひとしきり珍しがった後、シルフィードは話題をさらに変えた。ハタヤマは彼女の問いに、一瞬だけこめかみをひくつかせる。しかし次の瞬間にはもう表情を戻し、いつものおちゃらけた笑顔を作った。
「――むむ。ボクの過去バナをご所望かい? いやぁ、ちょっと恥ずかしいなぁ」
 後ろ頭に手をやり、ぽりぽりと掻くハタヤマ。まるで、子どもに昔話をせがまれて、困ってしまったお兄さんのようだ。だが、シルフィードは彼の様子にも退かず、さらにずいっと近づいた。
「ききたいのききたいの! ハタヤマ、昔はどんな子だったの?
 シルフィだけ話したのは不公平なの!」
 シルフィードは午前の談笑の折、自身の身の上をマシンガンの如く語っていた。曰く、風韻龍の里で暮らしていたが、『お姉さま』に呼ばれて使い魔になったと。
 正直、ハタヤマにしてみれば勝手に話されただけなのだが、彼自身、彼女を憎らしく思っていない、むしろ愛らしく感じていたので、なんとなく話していいかとも思う。あまり自分のことを語るのは好きではないが、少しだけならいいだろう。彼はそう思った。
「そうだね――じゃあ、少しだけお話ししようか」
 ハタヤマは静かに、昔を思い出すように目を閉じた。 

     ○

「もうすぐ卒業だね! ハタヤマくん!」
 そう言ったのは、目の前で空中を舞うように飛び回る、ドールサイズの小さな妖精の少女。水色がかった長い青髪は、彼女の天真爛漫な性格を表すように、櫛を通すだけで流されている。昆虫のような、しかし宝石のように透き通る羽は陽光を反射し輝いていた。彼女はボクの通う魔法学院の同じクラスの生徒で名前を『シルフェ』といい、現在では絶滅危惧種である「妖精族」の少女だった。彼女は快活でいかにも運動が好きそうであったが、実は自分にあうサイズの制服がないから、と制服を自作するほど器用であり、縫い物が得意という意外に女の子らしい一面を持っていたりする。
 彼女の言葉に、隣の席に座る兎型のぬいぐるみも同意する。
「そうだねぇ、この学院に通うのも、後もうちょっとでお終いかぁ。
 時間が経つのは早いね、ハタヤマさん」
 彼は『伊藤くん』。自分と同じ(厳密には違うが)ぬいぐるみ族であり、彼は兎を巨大化させ、二足歩行で歩かせたような姿をしていた。ぱっと見ればまるで兎のお化けのようで、常識の固まった大人がみると、一瞬ビビッてしまうような外見だった。
 ボクは彼女らの視線を感じ、手元の手帳から顔を上げた。
「うん、早いね。転入してきたのが、まるで昨日のことのように思っちゃうよ」
 ボクは教室の入り口付近に吊り下げられたカレンダーを確認する。ボクがこの「私立聖泉エンゲル学院」に転入してきたのは、去年の火竜の月だった。そして今は聖母の月だから、もうかれこれ五ヶ月も経ったことになる。この先は年が明けてすぐ国家試験が行われるので、生徒の数もまばらになる。授業も任意になるので、みんなと顔を合わせる機会も減ってしまうだろう。
 毎日が密度の濃い日々だったので、時間の感覚を忘れていた。
 シルフェちゃんはボクのそんな一言に苦笑した。
「やだ、ハタヤマくん。そんなこと言うと、まるでおじいちゃんみたいだよ」
「ぷっ。老けたね、ハタヤマさん」
 シルフェちゃんと伊藤くんは、顔を見合わせて大笑いする。そんな日常に平和を感じながら、ボクは伊藤くんの背中に笑顔で爪を突き刺した。
 ブスッ
「ぎゃん?!」
「ははは、酷いなぁ伊藤くんは。友達にそんなこと言うなんてさ」
「ご、ごめんなさいハタヤマさん! もう言わないから怒らないでよぉ!」
「ふふ、おかしなヒトだね。ボクは怒ってなんかいないよ」
 ザクザクッ!
「ぎゃーっ!!」
 尻尾で軽くつついてやると、伊藤くんは絹を裂くような悲鳴を上げた。今日の伊藤くんは良い声で鳴く。さらにその怯えた瞳が、ボクの加虐心をそそらせた。
「そ、その辺で許してあげなよ」
 ボクの瞳の怪しい輝きになにか感じたのか、シルフェちゃんが汗マークを浮かべながら、引きつった笑顔でボクを止めた。ボクはもう少し伊藤くんをいじめたかったのだが、野郎の悲鳴を聞いてもちっとも楽しくないと思い直し、シルフェちゃんの諫めに応じることにした。
「う、うぅ、毛皮が真っ赤だよ……」
 伊藤くんがなにか言っているが、気にしない。伊藤くんだし。
「ハタヤマくんは、進路もう決めた?」
 シルフェちゃんは、自分の身体ほどもある進路志望記入用紙を、重たそうにしながらボクの目の前にかざした。見れば、今はHRの時間で、他の魔法生物たちもこれに書くことで悩んでいるようだ。ツンツン頭の人間(雄)マイケルも、桃色タマゴ鳥の真理亜も、巨大ミジンコも、ガイコツ(雌)まで、実に様々な生物が、この問題に取り組んでいるようだ。
 ボクはシルフェちゃんに聞いた。
「シルフェちゃんは、もう決まってるの?」
「私? 私はねぇ~……やっぱり使い魔試験受けて、誰かの使い魔になろうかな」
 シルフェちゃんは逡巡して、やはりそう答えた。ここは魔法学院であり、この学科は使い魔学科。となれば皆、ある程度はこの答えになるだろう。その予想を裏付けるように、伊藤くんもシルフェちゃんに同調する。
「僕も、使い魔になるつもりだよ」
「――キミは、どちらかというと『魔女っ娘』目当てなんでしょ」
「そうそう、使い魔になったら同棲して、エロエロライフを――って、なに言わせるんだよハタヤマさん。
 僕は純粋に、社会に蔓延る悪を断罪したいから使い魔を志望してるんだよ」
 正義感だよ、HAHAHA、と伊藤くんはわざとらしく笑った。だが、日頃から盗撮やらエロサイトを毎日更新してる奴がこんな事を言っても、全く説得力がなかったりする。ボクは、彼が悪を断罪するならば、まず自分自身を断罪してからにしろと言いたかった。
 シルフェちゃんが、改めてボクに問う。
「それで、ハタヤマくんはどうするの?」
「え? う~ん……」
 ボクは言葉に詰まった。自身も使い魔学科に所属している以上、使い魔を目指せばいいのだというのは分かる。だが、ボクの中の奥底に潜む『懐疑的なボク』が、その選択に待ったをかけた。
(本当に、いいのか?)
 パートナーの魔女っ娘候補は何人かいる。彼女たちもボクのことを憎からず思ってくれている筈なので、彼女たちと共に生きていけばいい。そのはずなんだ。
(本当に、いいのか?)
 なんだ。『懐疑的なボク』は、いったいなにを恐れている。
(本当に――)
「……タヤマくん、ハタヤマくん!」
 シルフェの呼びかけに目が覚めた。どうやら考え事をしていたらしい。彼女はボクの顔に手を置き、心配そうに瞳を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとぼーっとしてただけさ。
 気にしなくていいよ」
 ボクは彼女に笑いかけながら、進路志望用紙に目を落とした。そう、問題はないはずだ。なにも。
 春の足音は、もう、すぐそこまで来ていた。

     ◆

「篠原さん」
 ボクは放課後になると、そのまま『実特』へ足を向けた。『実特』とは、正式名称は『実践魔法特別教室』――まあ、普段呼ぶには長いので、生徒達が勝手に付けた略称らしい。今では講師たちもその略称を使っているので、事実上の通称になっている――一般人にはガラクタにしか見えないような、わけの分からないものが教室隅に山積みにされ、教室の真ん中には大きな魔法陣が描かれている。なんでもその魔法陣は、魔法の影響を外部に漏らさないためのものらしい。だからこその演習室なのだろう。
 ボクは魔法陣の中心で何事かしている、ペンギン型のぬいぐるみに言葉を投げた。
「ん? なんじゃ、ハタヤマか」
 ペンギン型のぬいぐるみは振り返った。このじーさんは『篠原さん』である。彼もまたぬいぐるみ族(こっちは自分と同種)であり、とある縁で自分は彼に弟子入りした。
 自分と同じ、背中にチャックのあるぬいぐるみ族は『チャック族』と呼ばれており、現在では自分と篠原さんぐらいしか生き残っていないらしい。自分も本当の意味での同族は初めて出会ったので、今ではなんとなく交流を続けている仲だ。
「どうした? まだ日は落ちておらんぞ」
 篠原さんは被っていたとんがり帽子から金色の懐中時計をとりだし、時間を見て髭をいじった。ボクはいつも日が落ちてから、彼に魔術の稽古をつけてもらっている。だが、今日はまだ五時を過ぎたあたりなので、夕焼けがまだ沈んではいない。篠原さんはボクがここへ来る理由に思い当たらず、いぶかしがっているようだ。
「いや、今日は相談があってさ」
 ボクは顔を逸らし、言いづらそうに言葉を切った。正直言って、他人に頼るのは嫌だ。だが、ボクにとって頼れる相手は、もうこの老ペンギンぐらいしかいない。帰る場所も、かろうじて親と言えた存在も、もう失ってしまったから。
 ボクの様子になにか感じ取ったのか、篠原さんは手を止めて振り返った。
「――なんじゃい、どうかしたか?」
 ボクは口を開きかけ、そしてまた閉じ、しばらく口ごもった。だが、篠原さんは急かすようなことはせず、黙ってボクの言葉を待ってくれていた。ボクは、それがとてもありがたかった。
「……今日、進路志望用紙の提出があったんだ」
「ほう、もうそんな時期か」
「それで、みんなは『使い魔』を第一志望にしてるらしいんだ」
「じゃろうな」
「でも、ボクは――」
 ボクは言葉に詰まる。
「……『ボク』は?」
「――ボクは、第一志望に――書けなかったんだ」
「なにを?」
 ボクは意を決す。
「――『使い魔志望』って」
 ボクは顔を伏せた。自分でも何故書けなかったのか分からない。でも、なんとなく――書いてはいけないような気がした。この先、どうしようもない問題にぶち当たりそうで。
 篠原さんはボクの姿に、なにかを理解したらしい。ボクのことを懐かしそうに、そして痛ましそうに見やり、ボクに背を向けた。
「お主は、おそらく分かっておるのじゃろう」
「分かってる?」
「『使い魔』とは――『人間と共に生きる』とは、いったいどういうことなのか。
 それを頭ではなく、心の奥のさらに奥で」
 篠原さんは言葉を切る。その背中からは、憂い以外の感情を読み取れず。
「お前さんは、まだ心配せんでいい。
 それはおそらく、時間が解決してくれる事じゃろう。
 たしかにそれは、共に歩んでいく過程で、自ずと決着を着けるべきことじゃ。
 じゃが、少なくとも――」
 今は、そんなことは考えるな。篠原さんはそう言って振り返った。
 その振り返った表情は、とても優しかった。

     ◆

 ハタヤマが去った『実特』。その中心で、篠原は考える。
 ただ一匹、現代に残された若きチャック族の末裔。だからこそ、一族の最後の希望であるハタヤマには、幸せになって欲しい。もう未来のない自分の分まで、死んでいった者達全てのために。篠原は、そう思っていた。
 ハタヤマにはそんな素振りを見せないが、最初で最後の弟子であり、目に入れても痛くないほどに可愛い後身である彼の幸福を、篠原はこの世界の誰よりも願っているのだ。
 だが、篠原には、たった一つ心配していることがあった。
「『使い魔ライセンス』、か……」
 使い魔として活動するには、協会で認定試験と適正審査を受け、それをパスしなければならない。おそらく、筆記と実技は問題ないだろう。自身はハタヤマに、それで困ることがないような教えを授けてきたと自負している。だが、適正審査は――
「……無事に通過してくれればいいんじゃがな」

 取り越し苦労であって欲しい。
 篠原は天井で見えない夜空を見上げ、なにかに祈らずにはいられなかった。

     ○

「それで、魔法学院の卒業が間近になって――ん?」
 ハタヤマはふと隣を見る。
「ぐぴ~……ぷしゅるるるるぅ~……」
 そこには、シルフィードが寝息を立てていた。齢200年を越えるとはいえ、風韻竜としてはまだまだ子ども。夜更かしはまだ苦手のようだ。意識が途切れた拍子に変身も解けてしまったようで、藍色の巨体が地面に丸まっている。
「ふふ、寝ちゃったみたいだね。ボクの昔話は退屈だったかな?」
 ハタヤマは苦笑して、尻をはたき立ち上がった。その両足は長く、黒い皮のロングパンツを履いている。伸びる影は闇に消え、影法師の背は高い。
「さて――じゃ、いくか」
 足下に転がった羽ペンとインク瓶、そして一枚の紙を取り上げ、ハタヤマは屋上の淵へ足をかけた。風になびく黒髪がうっとうしいのか白いナプキンを三角巾のように頭に巻き、白いワイシャツは風にたなびいている。
 そこへ、背後から声がかかった。ハタヤマは振り返る。
「むにゅ~……ハタ、ヤマ……だみぇ、なのぉ……」
 シルフィードは眠い目を擦りながら、首だけをハタヤマに向けていた。
「つづきを……はなしゅの~……」
「――今夜のお話はもうお終いさ。機会があれば、また話してあげるよ」
 ハタヤマはシルフィードの傍に歩み寄り、優しく彼女の頭を撫でた。シルフィードはその温もりに安心したのか、ゆるゆるとまた両目蓋を閉じた。

 ハタヤマはそれを確認すると、屋上から飛び降り、夜の闇へと消えていった。
 そこにはもう、誰もいない。



[21043] 二章前編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:44
【 二章前編 『タバサと珍獣?』 】



 何故こんなことになったのか。シルフィードは理解できなかった。
 周囲の森林はまるで真っ赤なヴェールを着せられたように燃え盛り、バキバキという木々の倒れる音が断続的に響いてくる。まるで森が焼けつく痛みに悲鳴を上げているようだった。
「なんで――なんでなのっ!!」
 シルフィードの悲痛な叫び。その声が聞こえていないかのように、雪風のメイジは杖を構える。シルフィードは己が主に、必死の思いで訴えかけた。
「待って、待ってお姉さま! きっとなにかの間違いなの! あいつも、なにか事情があって――」
「シルフィちゃん」
 シルフィードは、はっと口を止める。呼びかけたのは、対峙する人間。白いYシャツに黒い皮のロングパンツをはいた、もみあげの長い優男。
「ごめんねシルフィちゃん。ボクにも――どうしても、譲れないものがあるんだ」
 男は、背中の腰辺りから二本のナイフを取り出した。それは刃渡り10cmほどの、まるでおもちゃのような果物ナイフ。しかし、その刃は遠目に見てもよく砥がれているのが分かり、刀身は炎に照らされてギラリと輝いていた。それは、たとえ短くとも、殺傷能力を持つ得物。男はそのナイフを両手に握り、腰を落とし、左半身を引いて右腕を心臓のあたりに静止させた。
 その構えに呼応し、水色髪のメイジの眼光がきつくなった。シルフィードは、その光景が堪えられなくて。
「お姉さまッ! ――どうして」
 シルフィードは、男と視線を合わせた。
「どうしてそんなことするの」
 男は、こんな状況だというのに。

「――ハタヤマッ!!」

 いつも見せる優しい笑顔で、シルフィードに微笑みかけていた。

     ○

 アルヴィースの食堂の朝は早い。
 貴族達の朝食は、現代でいう八時くらいとなっているので、それまでにはものを用意しなければならない。しかもそれに朝の仕入れや下ごしらえ、加えて調理場の掃除もこなすので、コックとメイド達は朝五時には起きて仕事を始めなければならなかった。
 しかし、その日は少し違った。
 眠い目を擦りながらも朝一番に調理場に現れたテルマは、扉を開くなり目を丸くした。

「シェフ! シェフ――ッ!!」
 駆けてきた勢いをそのままに、料理長室へがなりこんだテルマ。その拍子に、ドアの蝶番が耳障りな軋み音をあげる。そろそろ寿命のようだ。
「やかましいッ! そう怒鳴らんでも聞こえとるわ!」
 マルトーは不機嫌そうに一瞥を返し、テルマからすぐに視線を外した。
 彼は探していた。数日前からこの部屋に住み込んでいる、幻獣の姿が見えないのだ。奴はいつも夜中に何処かへ出かけているようだったが、夜が明ける前には必ず帰ってきた。そして少し仮眠をとってから朝の仕事を手伝った後、昼過ぎまでだらしなく寝転けているのだ。
 二週間も経っていないが、マルトーはなんとなく奴を分かってきていたつもりだった。奴は独自に一日のスケジュールを組んでおり、それに反することはあまりしない。自由時間を多くとっていたようだが、絶対に外せない『仕事』だけはこなしていた。おそらく奴は、やるべき事はちゃんとやる。中途半端なことはしない性格をしている、とマルトーは感じていた。
 奴にとって『朝の仕事』は絶対に外せない予定のはず。なのに姿が見えないのでマルトーは不安になり、今朝から部屋をひっくり返していたのだ。

「厨房が、厨房が――」
「厨房がどうした! 今俺は忙しいから、後に「――ピッカピカなんです!!!!」」
「……はぁ?」
 マルトーはかくんとアゴをおとした。いったいなに言ってるんだこのチーフは。マルトーは部下の人選を間違えたかと、半ば本気で頭を抱えようとした。
「あぁっ、なに頭痛そうに顔に手ぇ当ててんすか! とにかく見た方が早いです! こっちゃ来てくださいよ!」
 マルトーは部下に手を引かれ、室内から連れ出された。マルトーは意味が分からずとまどったが、とりあえず引っ張られるままに廊下をついていく。そして厨房を覗き込んで息を呑んだ。

「こ、こりゃあ」

 ――輝いている。
 比喩ではなく、物理的に。床石はまるで磨き上げられた大理石のように光を反射し、流しも壁面も同じように輝きを称えている。
 調理器具もそうだ。包丁、お玉、スプーン一本にいたるまで丹念に磨き上げられており、マルトーは心なしか、食器たちが本当に喜んでいるように見えた。
「いったい誰の仕事だい? うちにゃあ、ここまでの働きモンはいなかった覚えがあるが」
「はい、おいが起きたとき、他の奴らはみーんな寝てました。だから、下の奴らがやったんじゃないと思いますけんど」
 訛りの強い言葉で、テルマはアゴに手を当て考え込んだ。マルトーは傍にあった食器用の銀のナイフを一本手に取り、刃を覗き込む。よく見ると刃先が研ぎ直されており、小さく刻まれていた刃こぼれが無くなっていた。
 これだけの作業量、そして仕事のクオリティ。マルトーは己の下積み時代ですら、ここまでのことはこなせなかった。故に思う。これは、これは――人間業ではない。
 ふらり、と身体が泳ぎ、マルトーは調理テーブルに片手をつく。すると、カサリ、と紙の擦れる音が鳴った。
「ありゃ? こんたらとこに紙っきれが落ちてんね」
 テルマはマルトーが紙に触れるより早く、それを拾い上げた。そのままゴミ箱へ振り返り、進み出そうとして足を止めた。
「――こりゃあ」
 テルマは紙面を覗き込み、言葉を失った。すぐに踵を返し、マルトーへ紙を差し出した。
「シェフ、読んでくだせぇ」
「? なんだ?」
「たぶん、これをやった奴が書いたもんでさぁ」
 マルトーは手渡された紙――木の皮か何かで出来た、少し茶色がかった紙――に書かれたものを見て、言葉を失った。そこに書かれていた文は一つ。


 ――ありがとう


 町の小さな子どもが書いたような、よれよれで読みにくい筆跡。おそらく、慣れないながらも一生懸命書いたのであろう。後一歩で解読できないまでに汚い文字だというのに。瞳に映る瞬間、それからは書いたものの想いが伝わってくるようだった。
 そして、その横には小さな三本指の手形。黒いインクに右前足を漬けて、判子代わりに押したのだろう。用紙の右端から手形の辺りまでの間に、黒い一筋の、インクの垂れた跡が残っている。
 そこに、名前はないけれど。マルトーにはわかった。
 この全てが、あの小さな幻獣の残した、精一杯の感謝の気持ちなのだと。そしてもう、いなくなったのだということを。
「馬鹿、野郎が」
 こんなことなどしなくても、十分に義理は果たしていたというのに。
 マルトーはなにも伝えずに去ったあの小さな幻獣を思い返し、声を殺して肩を震わせた。

     ○

「うっひょ――――っ!」
 無垢で、まるで子どものように無邪気な歓声。ハタヤマは地上三千メートルの大空を、竜に乗って飛行真っ最中である。ハタヤマは眼下を流れる豆粒ほどに小さくなった地上を、飽きることなく眺めながら、耳毛を揺らす強風に目を細めた。街道を進む、矮小な馬車を見下ろす感覚など、まるでムスカ大佐になった気分である。
「見よ、人がゴミのようだ! がはははははっ!!」
「きゅいきゅい! すごいでしょう! もっとシルフィに感謝するのね!」
 乗り物役である竜――シルフィード――は、ハタヤマの悦に入った高笑いに、満足げな一声で返した。
「するよするよ! シルフィちゃんは可愛いし風韻竜だし最高さ!」
「きゅい~!」
 テンション最高潮の二匹。彼らはまるで旅行気分である。しかし、それに反比例するように、もう一人の乗客は口を閉ざしている。
「もう、お姉さま! 本ばっかり読んでないで、お姉さまも会話にくわるの!」
 シルフィードの言葉にも、青髪の少女は眉一つ動かさない。
 彼女はシルフィードの『お姉さま』で、名をタバサと言う。〈雪風〉の二つ名を持つ、トリステイン魔法学院の二年生である。小さい、もしかするとルイズよりも低いかも知れない背丈。ルイズとタメを張る貧乳。しかし、魔法の腕前はルイズ以上。まあ、ルイズを基準に説明してしまうのはいささか酷かも知れないが、体格が似てるんだから仕方がない。
 この作品に登場したまともな人間の女性は、それこそまだルイズぐらいしかいないのだ。比較対象に困るというものである。かといってシエスタを引き合いにだすのはそれこそ酷すぎるというものだろう。
「………………」
 タバサはシルフィードの背ビレを背もたれに座り込んだ状態から、本より目を外し、ハタヤマに視点を合わせた。対するハタヤマはタバサを見上げ、くいっと小首をかしげてみせる。これは彼が長年生きてきた中で編み出した、「女殺し悩殺ショット」である。これを喰らった若い女性はほぼ確実に堕ちる。ハタヤマ経験上、この技の効果に完全なる信頼を置いていた。
 しかし。
「………………」(ぷいっ)
「ぬなっ!?」
 残念ながら、タバサには効果がないようだ。ハタヤマは己の愛らしさを全否定された気がして、両前足をついてうちひしがれてしまった。
「ま、負けた」
 コミカルに肩を落としながらも、その実ハタヤマは冷めた目線でタバサのことを観察していた。なんというか、彼女は絡みづらいのだ。
 彼女は、自分がこれだけシルフィードと騒いでいるのにもかかわらず、一瞥すら視線をよこさない。それどころ、視線を落としている本ですら、本当に読んでいるのか怪しいほど、その瞳にはなにも映っていない。ハタヤマは彼女のそんな姿が、魔法学院時代に出会った、狐の少女とダブって見えた。
 こういったたぐいは、下手に押しつけると逃げてしまう。かといって放っておけば、どんどん遠くへ離れてしまう。はっきり言って、非常に扱いが難しいキャラクターである。
 ハタヤマはどうせ言葉も通じないし、とタバサに絡むのはひとまず止めることにした。火傷はしてからでは遅いのだ。
「それにしても、助かったよ」
 ハタヤマはシルフィードに感謝の言葉を贈った。彼は今朝の日が昇る直前シルフィードに迎えに来られ、学院を発つことを決めたのだ。彼女によると、彼女の御主人様の『お仕事』で遠くへ行くから、好きなところで降ろしてやる、とのことだ。ハタヤマはいい加減行動を起こしたかったところなので、その話に一も二もなく飛びついた。ハタヤマも、ちょうど恩返しを終わらせて出発しようとしていたので、シルフィードの申し出はタイミングが良かった。
 かくして、彼らは一路、ガリアへと移動中である。
「別にかまわないの! ハタヤマ、あのままじゃ学院にはいられなかったでしょ?」
 確かに食堂に身を隠していたとはいえ、あそこに留まっていれば、遅かれ早かれ居場所を突き止められていただろう。あそこはある種魔法使いの檻。なにが致命傷になっても不思議ではない。
「こまったときは助けあうの!」
「シルフィちゃん……ほんまええ子や、キミは」
 ハタヤマは滝の涙を流し、感涙にむせび泣いた。いちいちリアクションがオーバーなやつである。
「ところで、『お仕事』ってなんなの?」
 タバサは魔法学院の二年生、すなわち学生の身分にある。学生に学院を抜け出すほどの重要な仕事があるとは考えにくく、ハタヤマは疑問に思っていた。
「お姉さまは騎士様(シュヴァリエ)なのよ! ノールパル……きゃんっ!」
 シルフィードはポカリ、とタバサに杖で頭を叩かれた。むくれてタバサを睨みつけようと振り返ると、タバサは無表情ながら、若干目を細め。
「……みだりに話さない」
 シルフィードに釘を刺した。それには喋ることと、秘密を話すことについての二重の意味が含まれている。
「痛い、痛いよう」
 シルフィードはシュンと消沈し、黙り込んでしまった。
「ま、まあ、そういう仕事を頼まれる身分なんだね」
 ハタヤマは不安定な背中を這って移動し、シルフィードの頭を撫でた。確かに今、彼女が口を滑らせたのは失言であった。タバサの言葉は理解できないが、窘めるようなたぐいのことを言ったんだろう。しかし、ハタヤマはシルフィードに悪意がないことが分かっているので、なんとなく放っておけなかった。
 シルフィードはハタヤマの頭ナデナデで機嫌を取り戻し、また陽気に歌いだした。

     ○

「それでお姉さま、今回はどんな相手なんですの? シルフィ、怖いのはやーよ」
 タバサは読んでいた本を、シルフィードの眼前に突きつけた。ハタヤマもつられて本の表紙に目を走らせたが、当然の事ながら、なにが書いてあるのか分からない。彼が昨夜学んだ文字は、自分の名前ととある定型文をひとつだけだったからだ。
「『ハルケギニアの多種多様な吸血鬼について』? まあ怖い、まさか今度の相手は吸血鬼なんですの!? 」
 シルフィードはタイトルを読み上げ、恐れおののいた。どうやらハルケギニアでは、吸血鬼は畏怖の対象らしい。
「ふーん。なんか、魔女っ娘みたいなことしてるんだね」
 これまでの情報と照らし合わせ、大体の想像がついたハタヤマ。ようするに危ない生き物がいるから、駆除しに行くということだろう、とハタヤマはあたりをつけた。彼の世界でもそういったことをこなす国家機関がある。といっても、現代になって魔法生物は年々数を減らしているし、やや市民権も保証されてきているので、そういった事件はそうそう起こらなくなっているのだが。
 ちなみに、『魔女っ娘』とは魔女の総称であり、それ以外の者は全て『使い魔』と呼ばれている。ようするに、ハタヤマの世界では、魔法使いは「魔女っ娘」と「使い魔」。この二つにざっくり分けられていた。
「『魔女っ娘』?」
「いや、こっちの話。
 で、こっちの世界の吸血鬼ってのは、いったいどんなやつなんだい?」
 シルフィードは彼に、吸血鬼の恐ろしさを語って聞かせた。なんでも、太陽の光に弱く、血を吸って下僕を増やすらしい。ハタヤマはそのありがちな吸血鬼の設定に、やはりこういったメジャーな生物は、どこの世界でも同じなのだろうと再認識した。
「ふーん」
「……? ハタヤマ、怖くないの?」
「そりゃあ、ね。ボクの故郷じゃ、それこそなんだっていたからさ」
 学院を卒業して五年の歳月が経ったが、その間、本当に色々な相手と戦った。大部分の相手は密猟目的の人間達だったが、ごく僅かに、悪意に目覚めたり迫害に耐えきれなくなって暴走してしまった魔法生物もいた。その魔法生物の中には、吸血鬼なんぞ裸足で逃げ出すほどヤバい奴もいたのだ。だからハタヤマは、今更吸血鬼になど驚かない。
「ほんと、何度死ぬような目にあったか……」
「きゅい? ハタヤマも、幻獣討伐の仕事をしていたの?」
 ハタヤマは彼女の言葉に顔を強ばらせた。その表情には「しまった」という文字がありありと浮かんでおり、彼にとってあまり口にしたくないことであったらしい。
「ねえねえ、ハタヤマ」
「――ま、まあいいじゃないかそんなことは! ボクのことなんで、どうだってさ」
「そんなこと――」
「機会があれば、話してあげるよ」
 ハタヤマはそう言って黙ってしまった。シルフィードも仕方なくその話題を終わらせたが、続く話題を思いつくことが出来ず。この後、ガリアまでの中継地点にある村に着くまで、無言のフライトが続けられた。
 何故ハタヤマは話したがらないのか。そして話してくれる刻はくるのか。シルフィードは村に着くまで、そのことばかり考えていた。

     ○

 ガリアの首都、リュティスまでの航路を行く一行。途中、シルフィードを休ませるために一晩宿をとり、その次の日にガリアでタバサは王女と謁見した。何故王都へ立ち寄ったかというと、今回の仕事内容の確認と、命令を綴った王女直筆署名入り書簡を受けとるためだったらしい。どうやら王女の勅命を受けるというプロセスを踏まなければ、仕事に取りかかれないらしい。
 それに、どうやらタバサと王女の関係は良好ではないようで、始終タバサは王女にいびられているようだった。謁見の間の脇に取り付けられた窓からハタヤマはシルフィードとその様子を窺っていたが、シルフィードはそれを憤然やるかたない思いで見ていた。というか、実際に文句を言いまくっていたが、ハタヤマは敢えて彼女を慰めなかった。

     ○

「まったく、お姉さまにあんな無礼を働くなんて失礼しちゃうわ!」
 シルフィ、あいつきらい! とプンスカプンと湯気を立てるシルフィード。己の主人がコケにされたことを自分のことのように怒り、腹の虫が治まらないようだ。ハタヤマはそんなシルフィードを横目にしつつ、背ビレを背もたれにして座り込んだタバサを見上げた。
 彼女はなんとなく、現状を受け入れているような気がする。あの目つきがキツいおねーちゃんにいびられているときも、まるで気にした様子がなかった。というか、彼女の意識自体があの時、あそこには無く、怒りも憎しみも不満も、はたまた悲しみすらなにもない。あのおねーちゃんが人形(ガーゴイル)、と彼女を形容したことをハタヤマはあながち理解できなくもなかった。
「どう思う、ハタヤマ!? あんな高慢ちきな小娘より、お姉さまの方が何倍も王に――きゃんっ!」
「……うるさい」
 タバサはなんの気配もなく杖を振り下ろした。いきなり頭を叩かれて、シルフィードは痛みにきゃんきゃんと不平を唱えた。
「痛い、痛いよう。ひどいのひどいのー!」
 ぶーぶーと抗議するシルフィード。タバサはそんなシルフィードを静かに見やり、今度口輪でも買おうか、と物騒なことを考えていた。
 タバサの眼の怪しい輝きを察したのか、シルフィードはぶるりと背筋を震わせて黙った。
「ははは……」
 ハタヤマは乾いた笑いを浮かべ、そんなやり取りを眺めていた。下手に口出しして、巻き込まれでもしたら目も当てられない。
「でも」
「きゅい?」
「今のままじゃ、あのおねーちゃんを咎めることは誰にもできないだろうね」
 ハタヤマはぽつりと、しかしキッパリと言い切った。シルフィードはなんてことをいうの! と言わんばかりにハタヤマへ食ってかかる。
「なんで!? ハタヤマはあの小娘が、王にふさわしいと思ってるの?!」
「そんなことは知らないよ。でも、あの子は自分の権威を振りかざすことに屈託がない。無邪気だ。恥もなく、それが当然だという価値観ができあがっているから、省みることがない」
 反省せず、それを正そうとする者もいない。そんな障害の皆無な状況が続く限り、あの王女に転機が訪れることは決してないだろう。それがハタヤマの見立てである。
「あの王女を止められるのは、同じだけの権威を持つ存在か……それか、死を賭しての暗殺を企てられる平民だけじゃないかな」
 要するに殺すか、成り代わるかのどちらかである。とりあえず玉座から引きずり降ろさないと話は始まらない。
 それに、とハタヤマは付け加える。
「同じ権威を持つ者であっても、玉座を奪われている以上は相応の覚悟がないと難しいね」
「?」
「隠し子だろうが先王からの大臣だろうが、立場としては王女には敵わない。反乱を企てたとしても、失敗したらそれはそいつの死に直結するんだ」
 向こうを潰しきるか、こっちが潰されるか。そんな決死の決断が求められる。
「本当に大切なのは、己の正義を疑わずに自我を通しきれるヒト――相手よりも、我が侭でなくちゃいけない」
 そうでなければ、攘夷など決して敵わないだろう。自分を信じて付いてくるヒトの屍を踏み越えて、あの王女を奴隷に没落させようとも、この状況を変えようとする意志を持つヒト。月並みな言い方をすれば、歴史を変えるのはいつだってそういう気概を持ったヒトである。
 シルフィードは首を曲げ、タバサを見つめた。
 タバサはその視線に気付いているのかいないのか、ただただ本を読み耽るのだった。

 ハタヤマは遠くに見え始めた村を見つけ、そしてそのさらに後方に白く染まった地形を見つけた。
(……花?)
 真っ白な花が咲き乱れた平原が、森の中にぽっかりと空いた空間に広がっている。
 ハタヤマはなんとなく、その花畑が妙に気になった。

     ○

 タバサは不機嫌だった。
 己の使い魔が唐突に、何処の馬の骨とも知れぬ幻獣を連れてきて、「一緒に連れて行ってやって欲しい」と言い出したからだ。
 「禁止……」と目を細めれば「こいつは使い魔じゃないの!」と反論し、「任務……」と言葉の温度を下げれば「途中まででいいから、お願い!」と必死に懇願してくる始末。いったいこの風韻竜はどうしたというのだろうか。これまで、シルフィードがここまで熱心になにかを願ってきたことはなかった。なのでタバサは困惑した。
 その困っている幻獣というのが、これまた珍奇な姿をしていた。大きくて背中に変なものがついているネズミ。見たこともない幻獣に、タバサは二重に困惑した。
 だが、己の使い魔は、水を得た魚のように生き生きと、「それ」とお喋りに興じている。それはいつもタバサと会話している時とは違った、別の種類の笑顔と調子。タバサはなんとなく、それが気に入らなかった。
「きゅい~♪」
「それ」は両前足を精一杯上に伸ばし、しゃがみ込んだシルフィードの指先の動きに合わせて前や後ろへ伸びをしている。時折聞こえる「ヌハ、ヌハ」というわけの分からない鳴き声はなんなのだろうか。存在自体意味が分からないのも、また気に入らない。
 だが。
「うりうり」
 シルフィードは指先で「それ」の鼻の頭をつついている。その表情はとても幸せそうだ。自分では彼女を、あんな風にはしてあげられない。なにより、彼女が自発的に行動するのは、おそらくいい影響だろう。
 タバサは、自分の言葉をなんでも鵜呑みにしてしまうシルフィードに、一抹の不安を感じていた。あの珍奇な生物は、彼女のそんな危うい部分を、もしかしたら変えてくれるかも知れない。それは、自分には出来ないこと。
 だからタバサは、若干の不満を持ちつつも。「それ」の同行を拒まなかった。

「なになに? ……すとれっちぱわー!」
 ――若干、不満なのだが。

 視線を移すと、シルフィードが「それ」と同じポーズをとって、意味不明なフレーズを叫んでいた。その背筋を伸ばし大きく伸びをした姿勢は、人間の姿である彼女の巨乳をこれでもかと引き立たせる。その「ぶるんっ!」とでも聞こえてきそうな大迫力の光景を「それ」は下からを見上げ、興奮したように鼻血を吹き出して転げ回っていた。
 タバサはその光景にやや目尻を険しくし、手にした杖を無言で振り下ろした。

「ぎゃふんっ!?」

     ○

 サビエラの村。
 この王都からやや離れた寒村は、現在怪異に見舞われていた。
 吸血鬼。
 二ヶ月ほど前から、血を吸われ干涸らびた死体が発見されるようになったのだ。 犠牲者は元・村人達。生きて、息をしていた頃は、村民として皆と笑い合っていた仲間である。それ故に、身近な者が少しずつ死んでいくという恐怖が、この村を暗い空気で覆っていた。
 村長はこの怪奇事件の解決を王都に訴えたところ、二週間前に騎士が派遣されてきた。
 村人達は喜んだ。如何な吸血鬼といえど、王都から派遣された騎士にかかればひとたまりもないはず。派遣された騎士が屈強な男だったこともあり、村はつかの間の安堵に包まれた。
 だが、その希望はすぐさま砕かれた。
 王都から遣わされし騎士は、三日と持たず同じ末路を遂げてしまったからである。

     ○

「今度の騎士様は大丈夫かねぇ」
 村人A(三十代おばちゃん)が、井戸の傍で洗濯物をしつつため息をついた。それを聞いて、同じく洗濯中であった女性たちが同意するように、暗い顔して息を吐く。王都へ嘆願にも似た陳情を行い、もう二ヶ月以上も過ぎてしまった。なのに王都はすぐには対応を行わず、やっと二週間前に騎士がやってきたと思えば、なんとその騎士は吸血鬼に殺されてしまった。ようやく、この胸を覆いつくす暗雲を取り払ってくれる使者(騎士さま)が遣わされた。そう思っていた村人たちにとって、この出来事は彼らをまたしても不安のどん底へ突き落とすこととなった。
 今度の騎士は、前の騎士が亡くなってからほどなく遣わされてきた。これまでの王都の対応と比べれば、迅速な部類に入るであろう。しかし、すでに希望を打ち砕かれた経験を持つ彼らは、以前ほどの安心を得ることはできなくなっていた。どうしても心の奥底で、「その騎士も倒されてしまったらどうしよう」、と考えてしまうのだ。その空気は一人から二人、三人へとまたたく間に村中へ伝染し、村内はお通夜のような重々しい空気に包まれていた。
「あれ、誰か来るよ?」
 遠くから少年たちの大きな声が聞こえた。
「杖だ! でっかい杖を持ってる!」「騎士さまだ! きっと騎士さまだよ!」
 その声は百人も住んでいない小さな村に響き渡り、村の広場はそれを聞きつけた村人たちで瞬く間に埋め尽くされた。騎士の姿はまだ遠く離れていたが、近づくにつれ徐々に風貌が明らかになっていく。
 土で汚れた農作業着の男が呟いた。「……女?」
 地平線から徐々に現れる人影は二つ。まず目を惹くのは女性には珍しいほどの長身、そして遠目に見ても分かるほどのスレンダーな体型で、王宮騎士の正装である軍服(女性用なのでスカート)に身を包んだ深い蒼髪を持つ女である。自分の背丈ほどもある長大な杖を背負っており、メイジの証であるマントも羽織っていることから、おそらくメイジであろうことが予想された。その側にはメイジ(らしき人物)の半分の背丈にも満たない眼鏡を掛けた水色がかった青髪の女の子が付き従っており、ワイシャツに紺のプリーツスカートだけのその姿は、おそらく従者だろうということが見て取れた。
 派遣された騎士が女だった。そのことだけでも言いしれぬ不安をかき立てられるというのに、さらにその一行が村へ近づくにつれ、村人たちは驚きとも呆れともつかないような表情に塗りつぶされていく。何故なら、背の高い女騎士の方が、その肩書きに不釣り合いな物を胸に抱えていたからだ。
「ママー、あの騎士さま、おにんぎょさん持ってるよ?」
 騎士がその豊満な胸に抱いていた物。それはネズミともハムスターともつかないような、奇妙なぬいぐるみであった。以前から散々描写しているのでいい加減省くが、いつも通りの外見である。いつもと少し違うのは、頭にデカいたんこぶが膨れあがっており、見るからにぐったりしているという部分だけである。気のせいか、口から魂のような白い物が抜けかけているように見える……ような気がする。
 女の騎士、子どもの従者、そして人形? 前の騎士はやられたとはいえ、そこそこ強面の屈強な男だった。村人たちは期待と現実の落差、その落胆が心に無自覚の疑いを芽吹かせる。大部分の村人は、その負の感情に抗うことができなかった。
 女騎士は見目良い容姿と豊艶な身体を弾ませ、快活な足取りで、従者はそれと正反対に物静かに最小限の身体の動きで村まで歩いてやってきた。

     ○

「おっす、おらシルフィードなの!」
「………………」
 ぎゅー
「きゃん、いたいいたい!」
 シュタッと右手を挙げ、開口一番の悟空発言。タバサは間髪入れず、村人には見えない角度でシルフィードのお尻をつねり、無言の苦言を行った。その顔面には、「どこで習ったのかしら」という不満に充ち満ちている。主に眉間辺りに。
 もちろん発信源はハタヤマだ。後でさらなるひどいお仕置きを受けること間違いなしだろう。
「あ、あの……騎士さま?」
「え? あ、ごめんなの! 王都から……えっと、え~っと」
「派遣された」
「そう、派遣された! 派遣された騎士さまなの! シルフィードなの、よろしくなのね!」
 身分の差を感じさせない天真爛漫な立ち振る舞い。意外に活発な騎士さまに、村の衆は面食らっていた。前に来た騎士はそりゃもう身分を笠に着たうっとおしいやつだったので、村人たちの心が少しだけ晴れる。
 しかし、それとこれとは別なので、この騎士が吸血鬼を斃せそうに見えるかと言われれば、微妙と言わざるを得なかった。
「こんな『騎士さま』が吸血鬼に勝てんのか?」
 心に思うだけでなく、口に出した者がいた。その男は胡乱な目つきに歪んだ口元、ボロの布きれのようになった服を着ている、みずぼらしい男だった。村内でもあまり評判の良くない、粗野で横柄な男である。
「オマケにこんな人形なんて、大事そうに抱きやがって。こっちゃ、遊びで呼んだんじゃ……」
 男は前に出ると、シルフィードの胸に抱かれたハタヤマに触れようとした。その瞳は野卑た気配を隠しもせず、シルフィードはそれに当てられて、一瞬だけ怯えに肩を震わせた。
 ノビていたハタヤマの眉が上がった。
 がぶぅッ!
「うぎゃ! いて、いてててててッ!!」
 突如ハタヤマは口を大きく開け、伸ばされた男の手に噛みついた。男は驚いてとっさに手を引くが、ハタヤマは肘の手前ぐらいまで食らいついまま離さない。男は悲鳴を上げて手をやったらめたらに振り回すが、それでもハタヤマは喰らいついて離さない。それを見た村人たちは、てっきり人形だと思いこんでいた物体が急に動き出したものだから、驚きに恐慌状態へ陥った。
「うわああぁぁぁぁっ! モンスターだ、モンスターを連れとるぞぉ!」
「腕が、腕が喰われてるよッ! おぉ命は、命ばかりはお助けをぉ!」
「あんた早く謝りなさいよ! あぁ、騎士さまの逆鱗に触れちまった! あたしらもうお終いだよぉ!!」
「ま、まって、まって  落ちついて欲しいの! この子はあぶない子じゃないの!」
 シルフィードは、恐怖に我を忘れた村人たちへ必死に呼びかけた。しかし、彼らは聞こえていないようで、全く収まる気配がない。
「いったいどうしたんじゃ!」
 しわがれた、しかし不思議とよくとおる声が響く。混乱状態に村人たちは、まるで夢から覚めたかのように落ち着きを取り戻し、声のした方へ振り返った。そこにはやせこけた、しかしそれなりに身なりのしっかりした優しげな老人が立っていた。
「皆の衆、いったいどうなされた? 騎士さまがいらしたのじゃろう? 見苦しいところを見せてはいかんぞ」
「そ、村長! 腕が、奴の腕が!」
 村人が、腕を噛みつかれた男を指さす。しかし。
「……? どうもなっておらんではないか。いったいどうしたのじゃ」
 腕はなくなっておらず、五体満足の男がいた。ハタヤマはすでに村長が現れた時点で腕を口から吐き出しており、ちゃっかりシルフィードの足下に控えていた。純粋無垢な笑顔を張り付け、己の無害さをアピールしている。
「村長、騙されちゃいけやせん! こいつぁ、俺の腕に噛みつきやがったんだ!」
 目を怒らせ、男はビシッとハタヤマを指さす。村長はまじまじとハタヤマを見た。
「……?」
 ハタヤマは真っ黒な瞳をキラキラと輝かせ、へけっと小首をかしげた。何処をどう見ても、可愛らしい幻獣である。
「夢でもみとったんじゃないかのう?」
「村長!」
 その時、男は見た。振り返った村長の肩越しに、うにゃりと歪んだ笑みを浮かべたぬいぐるみを。男は酸素を求める金魚のように口をぱくぱくさせ、必死に指を指した。村長は男の様子に気づき、振り返る。
「……?」
 へけっ
「……お主、疲れておるのじゃな。もう戻っておきなさい」
 男はなおも食い下がろうとしたが、両手両肩を掴まれ連行されていった。憎々しげな眼差しをハタヤマへ残して。
「騎士さま、ようこそおいでくださいました。 
 なにもない村でございますが、まずはわしの家へお越し下さい」
 村長はそう言って柔和に笑った。
「長旅でお疲れでしょう。まずは疲れを癒してくださいませ」
 村長は歩き出そうとしたが、ふと動きが止まる。村長が見下ろしている先には、同じく村長を見上げているハタヤマの姿があった。
「失礼ながら、このモンスターはどういった……」
 村の代表である手前、安易に脅威を招くわけにはいかないのだろう。ただでさえ過敏になっている村人たちをおもんばかり、村長はハタヤマの正体を知りたいようだった。
 かといって、正直に話しても大したアドバンテージにはならない。シルフィードは、あらかじめハタヤマとタバサが相談し、決めておいた口上を述べる。
「村長さん、この子はわたしがつくったガーゴイルなの!」
 シルフィードは腰に手を当て、えっへんと胸を張る。真っ赤な嘘であるとはいえ、やはり自慢するのは気持ちいいらしい。村長は目を丸くした。
 相談は困難を極めたが、シルフィードが通訳として尽力した末に、こういう案で行こうということになったのだ。
「ガーゴイル?」
「魔力で動く人形のことだよ」
 村人たちはヒソヒソと噂している。よく分かっていない羊飼いの男に、薬屋のレオンは説明した。
 魔力を原動力とする人形。メイジにより仮初めの命を与えられた、主に仕える忠実な僕。そういった魔道具(マジックアイテム)を駆使するメイジがいることは、このへんぴな村にも伝わっていた。
 手札はできるだけ伏せておくもの。タバサは前任の騎士が死亡した件を鑑み、まずはシルフィードを身代わりに立てることを考えた。そして実際、着替えさせるところまでは滞りなく済ませた。しかしそのとき、どうせならハタヤマも連れて行こう、とシルフィードが提案したのだ。これには流石にタバサも、そしてハタヤマも難色を示したのだが、シルフィードがあんまりにも押すので、結局双方折れる結果となった。
 その時にハタヤマから提案したのが、前述の「ガーゴイル」である。
「この子は私が全身全霊をこめてつくりあげたガーゴイル、『ヤマハタ』!! 私が危ない目にあいそうなときは、自動的に動いて助けてくれるのよ!」
 シルフィードはさらに仰け反った。楽しくてたまらないようだ。村長はハタヤマに改めて視線を戻すと、ハタヤマはしゅたっと右前足を上げた。
 自分は生き物ではないこと、そして常にメイジの影響下にあることを信じ込ませることで、村人たち、さらには吸血鬼の視界からもハタヤマを消す。そうすれば、いざというときの切り札としての効果が増す、というのがハタヤマの主張だった。タバサは、ハタヤマが自分自身を切り札として売り込んでくるのを胡散臭く感じていたが、存在を消すこと自体は悪い案だとは感じなかった。むしろ、連れて行って常に監視や護衛の目を光らせておく手間を考えると、知能のない魔法人形として放置しておく方がなにかと楽でいい気がした。もし、ハタヤマが独断で行動した結果、彼に何が起こっても――最悪、死んだとしても。自分はなにも困らない。シルフィードは悲しむかも知れないが、それはハタヤマが勝手に動いて勝手に死んだだけ。タバサは不測の事態が起こったとき、ハタヤマを切り捨てる方向で考えを固めていた。だから、その案に同意した。
 村長はその自動魔導人形という概念がいまいちよく分からなかったのだが、とりあえず凶暴そうには見えないこと、そしてシルフィードが認めているということで、とりあえず信用することにした。
「動力は魔力、一時間充電で七十二時間動く……」
「分かりました、それではご案内しましょう」
 村長はにこりと微笑んで歩き出す。それに続くように、それまで欠片も無表情を崩さず無関心だったタバサも歩き出し、さらにハタヤマもてふてふとそれに続いた。
「あ、え? ちょ、ちょっと待つのー! 騎士さま置いてっちゃダメなのよー!」
 村に着くまでにこにこ笑顔で黙っていたシルフィードだが、どうやら脳内で「自動魔導人形ヤマハタ」の脳内設定を考えていたらしい。彼女はそれを語りきれなかったことにむくれながらも、小走りに彼らの後を追った。

     ○

 村長宅で話を聞いた後、タバサたちはまず民家を一軒ずつ訪問した。
 人口も少なく、そう広くない村だ。現場検証を兼ねてまずはしらみつぶしにする、というのがタバサの下した判断だった。
「騎士さま、吸血鬼はコウモリに化けるといいますが、これは本当なんでございましょうか?」
 タンスの隙間や鍋の中などをじろじろと覗きまわっているタバサを見て、くたびれた表情の中年女性が呟いた。その表情には、抑えきれぬ不安がありありと浮かんでいる。
 シルフィードは唇を尖らせ、指を当てた。
「んー、それは嘘なのね。あいつらはそんな高度な魔法、つかえないもの」
 風韻竜の知識では、吸血鬼は変化の魔法を操るなど聞いたことが無かった。せいぜい眠りの先住魔法を使う程度である。吸血鬼のまことに恐ろしいところは、血を吸った生物を一体だけ不死者(グール)として僕にできることなのである。
 この能力は、特に群れて生活する種族にてき面の効果を発揮し、吸血鬼によって滅ぼされた村や群れなどの伝説がハルケギニアには多数残されている。
「眠りの先住魔法も、血を吸ってグールにしちゃうのも、それ自体がそうすごい能力ではないの。吸血鬼(あいつら)の本当に怖いところはね、それらを生かす高度な知能をもってるということなのよ」
 死者が出て、さらにどこかに吸血鬼の僕が潜んでいるとなっては、その集団はまたたくまに疑心暗鬼の坩堝に落ちる。そうなれば、もう九分九厘吸血鬼の術中にはまっているといっていい。恐れ、怯え、逃げ惑い、そして最後には自ら崩壊していく。それが、吸血鬼に狙われた集団の末路であった。
 シルフィードの講釈で余計に恐怖をかき立てられ、村人は顔を引きつらせた。
「は、はぁ――騎士さま、この村は本当に大丈夫で……」
『――ッ! ブ、ブゲッ、ブシュンブシュンッ!!』
 村人の救いを求めるような言葉は、突如煙突内部から響いた怪音に遮られた。
「……暴れない」
『キイィ! キイイイィィィッッッ!!』
 錯乱したチンパンジーのような金切り声が室内に響き渡る。シルフィードが何事かと奇声の発信源へ首を向けると、タバサがハタヤマの尻を掴み、煙突へぐいぐいと押し込んでいた。
 ハタヤマは必死に抵抗しているが、タバサは無慈悲にも彼の尻を鷲掴んで離さない。それでも逃れようとハタヤマが暴れるたびに、溜まった灰が宙を舞い、暖炉周辺はもくもくとした灰色の煙に包まれる。シルフィードはその光景に、目をむいて驚きをあらわにした。
「お、お姉さ――じゃなかった、おまえ! なにしてるの?!」
「……調査」
 タバサはシルフィードの剣幕にも何処吹く風。振り返ることすらしない。煤だらけの顔もそのままに、まったく悪びれた様子がない。いつもどおりのぬぼーっとした無表情である。
 彼女の背後の暖炉からはしばらくがさごそと生き物がうごめく音と、灰の嵐が排出されていたが、しばらくしてそれは止まった。
 ギィ――……
 一拍子おいて、ノックもなく独りでにドアが開く。一同はそれを不思議に思ったが、タバサだけは目線をドアの足元に注いでいる。シルフィードがその視線の先を辿っていくと、ドアが開かれた理由が判明した。
 そこには、胡乱な目をした灰まみれの珍獣がたたずんでいたのだ。
「お、お帰りなの」
「……結果は?」
 彼女らは二者二様の反応を示した。片や、煙突の先から外へ脱出して戻ってきた彼へのねぎらいを。片や、ただ調査結果の報告だけを求めて。
 ハタヤマは、タバサの言葉が分からずとも察せられるのだろう。言葉を発さぬまま両前足をゆっくりと動かし――
 ビシィッ!
 頭上ででかでかとバッテンマークを作った。どうやら、なんの成果も上がらなかったようだ。
 まあ、この家の煙突はタバサでも通れるか怪しいほどに細く、狭い形状なので、初めから望み薄ではあったのだが。
「……次」
 タバサはそれを感情のない眼で確認すると、もう此処には用はない、と言わんばかりに歩き始めた。彼女は振り返りもせずハタヤマの横を通り過ぎ、小さな民家を後にした。
「あ、ちょ、ちょっと待つの! 待ちなさいなのよー!」
「………………」
 シルフィードは遠ざかるタバサの後姿を大慌てで追いかけるように駆け出した。どうやら彼女も、ハタヤマの存在を忘れているようだ。
 ハタヤマは彼女らのあまりにもあんまりな扱いに、身も震えるほどの怒りを噛み潰した。うつむいた顔は憤怒に彩られ、噛み千切らんばかりにかみ締められた唇からは、殺意すら感じられそうだ。彼の心はこう語っている。『ブッ殺すぞてめぇ』、と。
 くたびれた表情の中年女性は、そんなハタヤマの発する空気にガタガタと肩を震わせた。

     ○

「アレキサンドル! お前たちが一番怪しいんだよ!」
 ハタヤマがタバサたちの後を追うと、なにやら騒ぎが起こっていた。
 森に面した村はずれのあばら家を、村人たちがたいまつを持って、物々しい様子で取り囲んでいる。そして口々に騒ぎ立て、雑言をがなりたてているようだった。
 ハタヤマは人々の足の間を縫い、シルフィードの足元までやってきた。
 クイクイッ
「あっ! ハタヤ……じゃなくてヤマハタ! どこ行ってたの!」
 ハタヤマはローブの裾を引っ張った。シルフィードは、どことなく頼りになりそうな友達の登場に喜色を走らせた。自分ではお手上げだと言わんばかりに、ハタヤマを抱き上げ、彼の耳元で事の顛末を囁いた。
 なんでも、この家の老婆が吸血鬼じゃないか、という憶測をボロの男(ハタヤマに噛まれた男)が村内で吹聴して周り、それに同調した者たちが老婆の家へ押し寄せてきていたらしい。そこをタバサたちが通りかかり、止めに入ったところのようだ。ボロの男は証拠のない憶測を老婆の一人息子であるアレキサンドルに浴びせかけ、アレキサンドルはあらぬ疑いだと怒鳴り返す。お互いに火に油を注ぐが如き応酬に、場は一触即発の状態となっていた。
 疑心暗鬼が村を覆いつくした結果の一つが、今まさに具現してしまったのである。
 しかし、ハタヤマはそれを聞いても、興味なさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「は、いや、ヤマハタぁ~」
 泣きそうなシルフィードを見上げ、ハタヤマは首を振り、タバサを指差した。見ると、彼女はいつものようなぬぼーっとした半眼で、事態の静観を決め込んでいる。どうやら止める気はないようである。
 シルフィードはきゅぃ~、と涙目で小さく鳴いた。
 その後、シルフィードたちをも巻き込み言い争いは続けられたが、ハタヤマはそれをしりめにシルフィードの腕から飛び降りた。村に入る前、タバサたちの行動に指図しないことを約束していたので、彼は本当に危険が迫らない限りは我関せずにしようと決めていた。ボロの男に何事か言い寄られ、シルフィードがさらにきゅいきゅい鳴いていたのは可哀想だったが……タバサが黙認している以上、彼女なりの作戦があるのだろう。無駄に横槍を入れて、邪魔をする結果になってしまってはいけない。
 それよりも、ハタヤマには気になることがあった。
 渦中の人間、老婆の息子。彼から、なんともいえぬ違和感を感じたのだ。
 見た目……ではない。何処からどう見ても人間、筋肉の発達した四十代の男臭いおっさんである。しかし、なにかおかしい。目の前の健康的なおっちゃんから、彼とは結び付けづらいなにかが発せられているのを感じた。
 ――フワッ
(……! これは)
 口論を続ける男の足元に近づき、舐めるように全身を見つめ、鼻を引くつかせたところで理解した。
 鼻腔をくすぐるこの香り。この、柔らかな花の匂いは――
「だから病気だって――うわっ!?」
 ボロの男しか眼に映っていなかったアレキサンドルは、足を登り来る違和感に、素っ頓狂な声を上げた。見下げれば、メイジの魔法人形・ヤマハタ――ハタヤマ――が足をよじ登ってきていたのだ。
 ハタヤマは楽々と腰までのクライムを成功させると、執拗にアレキサンドルの身体を嗅ぎ廻った。
「ちょ、やめろ! くすぐったいぞ!」
 アレキサンドルは身を捩ってハタヤマを振り落とそうとするが、ハタヤマは服に爪をたて、さらに上へとよじ登っていく。そして胸元でその進行を止め、鼻の頭をひときわひくひくとひくつかせた。
「こ、この――」
「待って」
 忍耐の限界に達したアレキサンドルが、ハタヤマを引っぺがそうと彼の首元のナプキンをわしづかんだ。しかし、それをタバサが制す。今まで全くの無関心、人形のようであった従者が発した一言。それは何故か、場をシンと静まらせた。
 やがて、ハタヤマはアレキサンドルのチョッキの裏にある胸ポケットから、小さな袋をとりだした。
「なんだ、こりゃ?」ボロの男はきょとんとした。
「匂い袋……みたいだね。そういえば、お前は最近いつも良い匂いをさせていたな」
 薬草師のレオンはすんすんとその袋の匂いを嗅ぎ、断定した。それを聞き、ボロの男はいっそうはぁ? とアゴをおとす。屈強な体躯のアレキサンドルがそんな可愛らしい物を持っているなど、想像だにしていなかったからだ。
「わぁ、かぐわしい鈴蘭の香り! ねぇねぇ、これあなたが作ったの?」
 シルフィードは興味津々でアレキサンドルを見上げた。彼女は齢二百歳を越えているが、中身はほぼ十代の少女と変わらない。なので年相応に、可愛い物が大好きなのだ。
 アレキサンドルは匂い袋を見つめ、不思議そうに首をかしげた。まるで、初めて見たとでもいうように。
「いや……? そんな物を作った覚えはねぇ」
「きゅい? でも、あなたのポケットから出てきたのよ?」
「俺も初めて見た……ような、気がする。いや、でも、確かに見覚えがあるような……気が、する」
「んだ、はっきりしねぇなぁ。てめぇ顔に似合わず、少女趣味だったんだなぁ」
 ボロの男は口の端を嫌らしく吊り上げ、野卑た笑いを上げた。しかし、アレキサンドルは混乱したように頭を抱えるだけで、ボロの男の言葉など聞こえていないようだった。彼は手首にまとわりついたハタヤマのことも気づかないようで、しきりに視線を彷徨わせていた。
 ボロの男はつまらなそうにツバを吐いた。

 その後、村長がこの場に現れ、アレキサンドルの母・マゼンダを取り調べた。
 しかし、結局マゼンダを吸血鬼だと決定づける証拠は出てこなかった。

     ○

 村長宅への帰り道。ハタヤマはぽつりと呟いた。
「あのおっさん……」
「きゅい? どうかしたの?」
 胸に抱いていたので、シルフィードはハタヤマの呟きが聞こえていた。
「……たぶん、もう助からないね」
「きゅい? 『助からない』?」
 表情も険しく前を見据えたままのハタヤマ。その横では、タバサも目つきを鋭く、マゼンダ婆さんの家の方向を見据えていた。

     ○

「飲むの、飲むの、ぐいぐいいくのっ♪」
「ゲベ、ゴブブ、ゴブゴブゥッ!?」
 月光の降り注ぐ村長邸庭。そこではちょっとした宴会が催されていた。といっても、参加者は騎士さまと珍獣だけという、こじんまりとしたものである。
「ちょ、や、やめて! 丸々一瓶は悪魔の所業……むぐっ!」
「シルフィの酒が飲めないのかー♪」
 庭に設置された机の周囲には、琥珀色の空瓶が所狭しと散乱していた。
 卓上にはチーズの塊と、切り分けられたチーズの切れ端、そして一本のナイフが塊の横に添えられている。
 何故こんな状況になっているのかを知るには、やや時間を遡らねばならない。

     ○

 きっかけは、タバサの一言であった。
「飲んで」
 彼女の後ろには、木製のケースがうず高く積まれていた。その中には何処から買ってきたのか、大量の瓶が詰めこまれていた。
「?」
「すごーい、ワインがこんなに! でも、お姉さま? こんなときになにをおっしゃるの? いつ、どこから吸血鬼が襲ってくるかもわからないのに……」
 シルフィードの顔には、不安がありありと浮かんでいた。相手は知能が高く狡猾な吸血鬼であり、犠牲者は既に二桁に達そうかという凶悪な相手である。しかもその犠牲者の中には、前任だったメイジも含まれているのだ。そんな相手にわざわざ隙をさらすような真似を何故するのか、シルフィードには理解できなかった。
 それに対するタバサの返答は、至極単純明快であった。
「おびきだす」
「へ?」
 シルフィードは眼を丸くした。

     ○

「――ほんと、今回のお姉さまは竜使いが荒いわ! 私をなんだと思ってるのかしら!」
 シルフィードはグラスをあおり、赤黒い液体を飲み干した。ゴトン、と勢いよく机に叩きつけられた空のグラスは、月光を反射し空しく輝いている。
 タバサの筋書きはこうだ。
 相手は警戒心が非常に強く、ただ探すだけでは尻尾をつかめない。だから、こちらから隙を見せることで相手のミスを誘発しよう、という作戦らしい。
 昼間のうちに種は蒔いた。後は、相手がかかりやすい状況を作り出すだけ。
 というわけで、タバサ発案の「私、ちょっと酔っちゃったみたい……」作戦が決行されたのだった。(命名:ハタヤマ)
「私は風竜、そう、ドラゴンなのよ! しかもそんじょそこらの風竜じゃない。古の古代種、風韻竜さまなのよ! なのにこの扱いはなに? なんなの? なんなのよー!!」
「ちょ、声が大きいよ」
 夜空の満月にシャウトするシルフィード。まだ一杯目だというのに、既に酔っ払いのようである。ハタヤマはそんな彼女を、ドウドウと困ったように小声で窘めた。
 ここに到るまで大変だった。ハタヤマは吸血鬼の恐怖に怯えるシルフィードをなだめ、淡々と強制するタバサを止めるなど、様々に苦心せねばならなかったからだ。
 確かにタバサの考えは悪くない。おそらく、向こうが致命的なヘマをする可能性は限りなく低い。ゆえに、相手のエラーを誘うこの囮作戦は、おそらく有効な手段だろう。
 しかし、タバサは頼み方が非常にまずく、シルフィードがあんまりにも怖がっていたので、ハタヤマは割って入らずにいられなかった。
「あっ、そっか……んもう、これは飲むしかないわ! ヤケ酒ってやつなのよ! はた――ヤマハタ、お前も飲みなさい!」
 シルフィードは二つあるグラスのもう片方に、なみなみとワインを注いだ。勢い余ってあふれてしまい、赤紫の染みが机に広がった。
 ハタヤマは表情を曇らせる。
「ん? どうしたの?」
「いや、ボクお酒好きじゃないんだよね」
 くんくんと酒気を嗅いで、鼻を刺すアルコール臭に顔をしかめる。ハタヤマはグラスとシルフィードの顔を見比べて、ぬぬぬとうめき声をもらした。どうやらシルフィードが飲んでいる手前、飲むべきか飲まざるべきかを悩んでいるようだ。
「飲めないから嫌いなの? それとも、すぐ酔っ払っちゃうから?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。飲もうと思えばそこそこ飲める。ただ、さ」
 ハタヤマは顔を伏せた。
「好き好んで、飲む必要があるのかな、とは思う」
 彼の言葉の意味が、シルフィードには分からなかった。彼女にとって、お酒は美味しい飲み物。ただ、それだけの物でしかない。
 なので、ハタヤマがどういった風にお酒という飲み物を捉えているのか、彼女には想像がつかなかった。
「お酒はおいしいのよ?」
「あぁ、いや、そういうのじゃなくてさ。
 祝い事があったりとか誰かと騒いだりとかするとき、よくお酒飲むでしょ?」
「うん、飲むの!」
「でもさ、お酒を飲まなきゃ騒げないなんてどーなの? ってボクは思うんだよね」
 祝いの席では乾杯したり、飲み会では決まって飲み屋が選ばれたりする。しかし、そこでは「酒を飲む」ということが暗黙の前提として横たわっていて、それを飲まない者は空気が読めない者としてからかわれたりする。ハタヤマはそんな世の風潮を、常に疑問に感じていた。
「本当に仲がよかったりしたら、別にそんなの無くても楽しめるじゃん。だから、ボクはあんまり好きじゃないんだよ」
 ハタヤマはワインを一口含んだ。あまり美味しくなさそうに微妙な表情を浮かべ、口内の液体を喉へ押し込む。
「ん~……よく分かんないの。シルフィはおいしいから飲むの。ほかに理由なんかないの」
「いや、それはそれでいいんだよ。ボクにはボクの、シルフィちゃんにはシルフィちゃんの考え方があるんだから」
 シルフィードはまた自分のグラスにワインを注ぎ、きゅーっと飲み干した。ぷはぁ、と酒臭い息が吐き出され、至福の表情で笑っている。彼女はお酒が大好きなのだ。
 ハタヤマはそんな彼女を好ましく見上げていた。

     ○

 タバサは木の上に身を隠し、ハタヤマたちを観察していた。本来はシルフィードを独りにしておびき出す予定だったが、ハタヤマが猛烈に反対したのである。シルフィードもハタヤマに同調してしまい、彼女の計画は狂ってしまった。
 だがしかし、ハタヤマも脊髄反射でシルフィードを擁護したわけではない。きちんとそうすることの理由と、それに代わる代案を示してきたのだ。ハタヤマの提示したそれらの説明は、彼女も納得せざるを得ない説得力を持っていた。なので、しぶしぶながら彼の意見を採用したのだ。
 ハタヤマの作戦では、彼女の持ち場はここではない。しかし彼女は、なんとなく動けなかった。
 どうしても、彼らから視線を外すことができない。
 どう見ても馬鹿にしか見えない珍獣。そんなやつに、見たこともない笑顔を向ける己の使い魔の姿が、彼女の心をどうしようもなく揺さぶってやまない。心はまさに嵐吹きすさぶ海のように乱れ狂っている。どうしようもなく、気になる。
 何故彼らが気になるのか、なにが自分の心をこんなにも乱しているのか――何故、こんなにもあの光景が気になってしまうのか。
 彼女は、いくら考えても分からない。
 やがて、彼女は目を背けた。これ以上アレを見続けていては、なにかが溢れ出してしまいそうで。それに、自分の持ち場はここではない。あの珍獣がもたらした情報、それが示したある一つの『答え』。それを確かめに行かねばならない。
 タバサはその『答え』の真偽を確かめるために、静かにこの場を後にした。

     ○

「や、止めてよぉ! ボクお酒嫌いって言ったでしょ!?」
 シルフィードの攻勢を逃れ、這々の体で逃げ延びるハタヤマ。彼も既にそうとう飲まされたのか、若干頬に朱を帯びていた。
「んー? 言ってたのー♪」
 シルフィードは顔を真っ赤にしながらケタケタ笑う。彼女はあれからハイペースで酒を飲み進め、かぱかぱとザルのように琥珀色の瓶を空にしていった。途中からグラスに注ぐのも億劫になったのか、既にラッパ飲みも解禁されている。常人ならアル中一直線、とても危険な飲み方である。それでも顔を赤らめる程度の状態であるのは、流石竜と言ったところか。
 彼女はハタヤマの言葉につかの間、微量の理解を示したように見えたが――しかし。
「でも飲むのー☆」
「ぎゃああぁ絡み酒ぇっ!? この娘タチ悪い!!」
 にぱー☆を踏襲するかの如き満面の笑み。両手をわきわきと妖しく微笑む風韻竜のお嬢さんは、酔うと大胆になるらしい。ハタヤマはその酒気に当てられぬようじりじりと後退したが、無慈悲にも机の淵という魔物に退路をふさがれてしまう。
 追いつめられたハタヤマは、抵抗虚しくシルフィードの手房に絡め取られてしまった。
「可愛いの~可愛いの~食べちゃいたいくらい可愛いの~♪」
「う、ちょ、冗談に聞こえないから止めて!?」
 にんまりとした微笑の隙間に、ギラリと光る鋭い犬歯。肉食動物特有の本能を刺激する恐怖に当てられ、ガタガタと震え出すハタヤマ。
 シルフィードの口の端からぽたりと一筋よだれが垂れ、ハタヤマの頬の毛を濡らした。
「美味しそうなの~。一口だけ食べちゃおっかなぁ……」
「ヒイイィィィ」
「――ちょっとだけ、味見しちゃうの」
「……い?」
 目を伏せ身をちぢこませていたハタヤマは、接近する気配に目蓋を開いた。そして絶句した。
 ――目をつむったシルフィードが、徐々に顔を近づけてきていたのだ。
「ん――……♪」
「ここにきてキス魔ですかああぁぁぁ!!? ぐは、ぐはは確かに嬉しいけど、嬉しいんだけどおおぉぉぉ!!!!」
 迫り来る甘い誘惑に、秒速で流されそうなハタヤマ。このままでは、彼のサクランボ男が美味しくいただかれてしまう。
 事実、ハタヤマも一度は瞳を閉じた。
「い、や、やめ――」
 眼前に迫った彼女の唇を、振り払おうとして。
 ――――きぃやああああああ
 絹を裂くような悲鳴に遮られた。次いで、ガラスが砕ける甲高い音が、闇夜に広がる沈黙を割く。ハタヤマは一瞬で正気に戻り、シルフィードもハタヤマを掴んだ腕はそのままに、狂騒のした方角へ顔を向けた。
「悲鳴が聞こえたね」
「エルザの声なの! たしゅけにいくにょっ!」
 至極真面目な表情をしているが、呂律が回っていないシルフィード。頬もりんごのように真っ赤に染まっており、お世辞にも戦えそうには見えない。
 案の定、一歩踏み出すだけでへろへろと座り込んでしまった。
「あ、あにゃにゃ~、しぇかいがまわってりゅのぉ~」
「千鳥足って、おい……ガチで酔っぱらってどうすんだよ」
「ら、らいじょーぶ! シルフィ、よってないにょ!」
「酔ってるやつはみんなそう言うの」
 ハタヤマのせっかく作った鋭い視線も、シルフィードの千鳥足に破顔されてしまった。
 シリアスが台無しである。

 結局、ハタヤマがシルフィードの手を引いて現場に駆けつけた頃には全て終わっていた。
 毛布にくるまり怯えきったエルザと、彼女の肩を抱き連れ添って座り込むタバサ。シルフィードはこれほど小さな女の子をも襲う吸血鬼の冷血さに憤り、酔いもすっかり冷めたようだった。

     ○

 一夜明けた昼過ぎの村。のどかなあぜ道を歩きながら、ハタヤマはタバサの足をつついた。
「『どうだった?』って聞いてるの」
 シルフィードがすかさず通訳する。もう言わなくても伝わる辺り、この数日間で慣れたものである。
 タバサはこくん、と頷いた。
「……“屍人鬼”は、アレキサンドル」
 シルフィードは、鳩が豆鉄砲を食ったように沈黙した。一拍して、言葉の意味を理解したようで。
「ええええぇぇぇっ!!!?」
 素っ頓狂に仰け反った。そんなにも驚いたのだろうか。
 ハタヤマは彼女の反応からなんとなく察しはついていたが、一応シルフィードに翻訳を求めるようにローブの裾を引っ張る。
 だが、シルフィードはそれどころではない。
「ほんとにほんとなの!? あの人がグー――」
「……声が大きい」
 タバサは眼力でシルフィードを制した。シルフィードは口を手で覆い、キョロキョロと周囲の様子を窺う。
 幸い、どこにも人影は無かった。みんな昼食の時間であるし、吸血鬼騒動で出歩こうとする人間がいないのだ。
「ご、ごめんなの。でも、なんで分かったの?」
「……昨夜、見た」
「『見た』? 見たって……」
「たぶん、言葉通りだよ」
 シルフィードの言葉を拾い、ハタヤマが補足した。
「昨日の夜、あのおっさんがエルザちゃんを襲うのを見たんじゃないかな」
「っ! 本当? お姉さま、本当に姿を見たの?」
 タバサはまたもこくん、と頷いた。彼女は冗談を言う質ではないので、そういうことなら真実なのであろう。
 シルフィードは、興奮を抑えきれず息を弾ませた。
「じゃあ、じゃあじゃあ、あの人を捕まえれば事件解決ね! でも、なんであの人がグールだって分かったの? 昨夜はお姉さま、姿が見えなかったし……」
「それについては、ボクが説明するよ」
 ハタヤマは口べたなタバサではいつまでかかるか分からないので、解説をかってでた。
「昨日の聞き込みである程度アタリは付いたからさ、タバサちゃんにあのおっさんを監視するよう頼んでおいたんだよ」
「監視?」
「そう、監視。シルフィちゃんを囮にすれば、向こうはなにかしらアクションを起こすはずだからね。だからといって、これほどまで尻尾を掴ませない相手だから、自分から動くことは考えにくい。だから、なんらかの反応があるとしたら、手下の方じゃないかと思ってさ」
 タバサちゃんに張り込んでもらってたんだよ、とハタヤマは締めくくった。シルフィードは感心して手を打った。
「おぉー、凄いの! ……でも、それだと、あの人が“屍人鬼”だってことが、始めから分かってたの? なんで分かったの?」
「それは――」
 ハタヤマは言葉に詰まった。言って良いものか、悪いものか。迷うように視線を彷徨わせる。
「……それより、これからの方が大切」
 タバサが割り込んで、話題を切った。シルフィードに話す必要はないと判断したのだろう。ひょっとしたら、シルフィードは知るべきではないと考えているのかも知れない。
 シルフィードは仲間外れなのー、と言ってむくれた。
「じゃあ、話を進めようか。さっきシルフィちゃんはあのおっさんを捕まえれば解決って言ってたけど、実際はそれじゃ終わらないんだ」
「きゅい? 分かってるのに、捕まえちゃダメなの?」
「うん。むしろ、捕まえたら振り出しに戻っちゃう」
 ハタヤマは足を止め、シルフィードを見上げた。
「向こうはその気になれば、グールを量産することだってできるんだ。複数のグールを持てるのかどうかは知らないから、『いなくなればまた作れる』と仮定しよう。そしたら、あのおっさんを捕まえちゃうと、向こうはまた新しいグールを用意してくる。それじゃあトカゲの尻尾切り、根本的な解決にならない。最悪の場合、危機を察知して姿をくらましちゃうかもしれない」
 そうなったらもうお手上げだよ、とハタヤマはジェスチャーで示した。『アレキサンドルは屍人鬼』という情報は、間違いなくこちらの切り札となるカードである。できれば、最大限の効果を発揮する状況で使用したい。
 シルフィードはむむむ、と唸った。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「う~ん……こっちがとれる手段は少ないね。グールが分かっても、肝心の吸血鬼の正体が分からなけりゃ動きようがない」
 それに用心深い吸血鬼のことだ、下手を打てばその時点で、解決の目が無くなってしまうだろう。分かっているのに身動きが取れない、歯がゆい状況である。
 ハタヤマはため息を吐いた。
「まあ、表面上は今まで通り囮作戦を続けるしかないね」
「やっぱりそうなるのね~……」
 シルフィードはがっくり肩を落とした。囮作戦ということは、やはり最も危険なのは自分。シルフィードは恐がりなので、現在の状態ですら生きた心地がしていなかった。なにしろ、人間に変身している間は、他の全ての魔法を封じられているといっても過言ではない状態なのだ。襲われても抵抗できないというプレッシャーは、彼女を常に苛んでいた。
「まあ、危なくなったら助けるから、そんなに落ち込んだりしないで。見てるボクの方がいたたまれなくなっちゃうよ」
 ハタヤマはそう言っておどけた。その気づかいがシルフィードは嬉しく、自然と顔をほころばせた。
 タバサは無言でそのやり取りを見ている。
「とにかく、ひとまずおっさんは放っといて、今は吸血鬼を探す方が先決だよ」
 ハタヤマはタバサを見上げ、彼女の足をペシペシと尻尾で叩いた。
 無表情で視線を落としたタバサに、シルフィードはハタヤマの言葉を翻訳する。
「『犯人の目星はついてるのか?』って言ってるの」
 タバサはふるふると首を振った。彼女の返答をハタヤマは半ば予想していたようで、口をとがらせ唸った。
「うーん……容疑者が多すぎて、正攻法で探すのは正直無理があると思うねボクは」
 ただでさえ見た目では判別がつかないのだ。容疑者は人間型の生物――ある意味、村人全員である。その上こうも用心深く息を潜められては、どうにもこうにも手の出しようがない。
「いっそのこと、村人全員にニンニクでも食わせてみればいいんじゃないの?」
「きゅい。吸血鬼がニンニク嫌いなんて迷信なの。というかそんなのが効くならとっくの昔にやってるのね」
「ぐはっ!?」
 この中で一番天然であろう、シルフィードにつっこまれてしまったハタヤマ。ショックでがくりと膝をつき、プルプルと悲しみに身を震わせた。

     ○

「ところでさ。タバサちゃんは、吸血鬼を捕まえたらどうするつもりなんだい?」
 どうにも進まない作戦会議の途中、唐突にそうハタヤマが切りだした。シルフィード経由でそれを伝えられたタバサは、立ち止まって数舜黙り込んだ。
「……倒す」
 タバサは淡々と呟いた。その声からは、何の感情も感じられない。
「ふーん……なんで?」
 ハタヤマは、至極不思議そうに首をかしげた。その念はシルフィードに頼むまでもなく、雰囲気でタバサに伝わったようだ。
「だって吸血鬼って、文字通り血を吸って生命を維持する生き物でしょ? 確かに殺すほど吸うのはよくないことだけど、やってること自体は別におかしくないじゃん」
 ハタヤマは、殺人などさして重要なことではないと思っているのか、吸血鬼の肩を持つ。それどころか、厳重注意でいいじゃない、とタバサへ意見までし始めた。
「ちょ、ちょっと、ハタヤマっ!?」
「いいから、伝えて」
 シルフィードはおどおどしながら、主に彼の意見を告げた。彼女の主はそれを聞き、やや表情を険しくしたような気がした。
「……人間の敵は倒す。そのために、私が派遣された」
「それがキミの答えなのかい?」
「………………」
 ハタヤマの問いに、タバサは答えを返さない。彼女も、己がやろうとしていることに思うところはあるらしい。だが、それを彼女が跳ね除けることはできない。でなければ、彼女の○○が○されてしまうから。
 しかし、ハタヤマはそんな事情など知らない。彼は闇色の瞳を一層澱ませて、冷めた視線をタバサに向けた。
「相手の事情なんて知らない、話し合う余地も無い。『人を殺した』から即死刑、ってことかい?」
「………………」
 シルフィードはおろおろと、目に涙を溜めながら通訳する。タバサは何も言い返さず、しかし強烈な意思のこもった眼差しを静かにハタヤマへ浴びせかける。
 ハタヤマは、なにも言い返さない彼女に興味が失せた。
「あっそ。そういうことなら、これ以上はもう手伝えないな」
 ハタヤマは歩調を速め、タバサたちから距離をとった。
「は、ハタヤマ? どこ行くの?」
「成り行きで付き合ってきたけど、それももうここまでだ。そういうの、あんまり好きじゃないんだよ」
 ハタヤマはなおも止まらず、距離はどんどん離れていく。シルフィードは開きゆく距離が、まるで彼との心の距離のように感じられた。
 このままでは、行ってしまう。そう思ってしまった時、彼女は無意識に叫んでいた。
「ま、待つの! お姉さまだって本当はこんなことしたくないの! でも、でもでも――お仕事だから! 任務だから仕方がないのッ!!」
 ああ、こんなことはただの言い訳。言ってはいけないと分かっているのに。しかし、激情の氾濫は止まらない。それが彼との溝をさらに深めることになるというのに。
「お姉さまは優しい方なの、この任務だってきっと心を痛めて――「キミは、どう思うんだい?」っ、え……?」
 彼女の言葉は、彼の一瞥に遮られた。いつのまにかハタヤマは足を止め、振り返ってシルフィードを見上げている。
「キミは吸血鬼を殺すことを、どう思っているんだい?」
 全てを飲み込むような漆黒の瞳。シルフィードはそんな眼でハタヤマに覗き込まれ、言葉を失った。
 良いか、悪いか。そんなこと、考えたことも無い。何故なら、お姉さまは絶対だから。私は、お姉さまの味方だから。
「わ、わた、私、わ――」
「キミは?」
「私は――」
 酸素を求めるように二、三度口を開閉し、彼女は目を伏せた。
「――分かん、ないの」
「………………」
 ハタヤマは、一瞬意外そうに目を丸くした。しかし、すぐに表情を消し、彼女たちに背を向ける。
「……心配しなくても、キミたちの邪魔をする気は無いよ。犯人、見つかるといいね」
 てふてふとファンシーな足音を響かせ、ハタヤマは脇の茂みに消えていった。
 シルフィードは彼を呼び止めようと、手を伸ばしたが。その手が、彼に届くことは無かった。
 タバサは、ハタヤマがいた位置を、穴が開かん程に見つめていた。





「へ、へへ。凄ぇこと聞いちまったぜ。
 やっぱり、あいつが屍人鬼だったんだ……!」



[21043] 二章後編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:47
【 二章後編 『サビエラ村の吸血鬼』 】



「ちょっともったいなかったかな」
 ハタヤマは民家の裏に座り込みながら、さっきのことを思い返していた。
「シルフィちゃんは文句なしの特Aクラスに可愛かったし、タバサちゃんもあと二、三年すればクラスチェンジしそうな感じだったんだけどなー」
 彼女らのことを頭に思い描きながら、ほんわかと鼻の穴を広げているハタヤマ。彼は先ほどあんな毒を吐いた直後だが、既にそんなことは記憶の彼方に捨て去っていた。三歩歩けばなんとやら、彼は嫌なことは瞬時に忘れることにしている。
「上手くいけばシルフィちゃんとタバサちゃんの主従丼……あぁ、いや待て、元の世界ではフィリアちゃんたちが、ボクの帰りを待ちわびているというのに」
 ……訂正。鳥頭で馬鹿でエロく、そしてさらに自意識過剰であった。
 ハタヤマはげへへへ、と身体をくねらせ悶えている。その姿に普段の愛らしさは欠片も感じられず、ただひたすらに禍々しかった。
「待てよ? こっちの世界にみんなを呼ぶか、シルフィちゃんたちを向こうに連れて行けば、ボクのうはうはハーレムが作れるんじゃないか? ふ、ふふふ、なんて素晴らしい発想なんだ。時々自分の頭脳が恐ろしくなってくる……」
 ハタヤマはガハハ、と高笑いを飛ばした。もう救いようがないかもしれない。
 ぐうぅ~
「おっと、みっともない」
 ハタヤマの腹の音が盛大に鳴り響いた。目が覚めたのが、太陽が頂点よりやや過ぎた頃合だったので昼飯を村長に振る舞って貰ったのだが、残念なことに量がとてつもなく少なかった。こんな寂れた寒村では、村長といえど余裕のある暮らしは送れないようだ。
 ハタヤマは食事の席でつい「しょぼいなー」と呟いてしまって、シルフィードに踏みつけられたことを思い出した。そしてその時見えた縞パンを思いだして鼻血が出た。
「お腹空いたなぁ」
 村内には昼餉の名残である、暖かいスープの残香で満ちていた。いつもは腹いっぱいまで食べ、やろうと思えば体重の四倍までなら食いきることのできるハタヤマには、本日の昼ご飯は腹五分目にも満たない満足感。
 ゆえに、この匂いは彼の物足りなさを際限なく助長させていく。
「みんな、いまごろなに食ってんだろーな」
 胃袋にぽっかりと開いた空虚なスペースを匂いだけで満たさんと、嗅覚をフル稼働させるハタヤマ。しかし、当然の事ながら、どれだけ匂いを吸いこんでも、残念ながら腹はふくれなかった。
「あぁ、食卓で飯を貪ってる奴らが妬ましい……ん?」
 ハタヤマの、超感覚で強化された嗅覚。普通の犬程度なら軽く凌駕できるその嗅神経細胞が、それとは別の『いい匂い』を感じ取った。
「この薫りは……っ!」
 記憶を探るように空を見上げ、瞬時に思い出し表情を強ばらせるハタヤマ。中空に微かに漂うその薫りを鼻孔に集め、それが勘違いであることを願った。
 だが、何度嗅ぎなおしても、その結果は変わらない。
「――やられた」
 後手に廻ってしまったことを理解したハタヤマ。まさか自分たちが眠っている隙に、こんな奇策を用いてくるとは。想定外の状況の変化に、彼の顔から余裕の影が消えた。
 しかし、彼のそんな気づきなど関係なく、今日も村の煙突からは、のどかな黒煙が吐き出されていた。

     ○

 タバサたちは昨日と変わらず、囮作戦を続行していた。
「お姉さま、落ち込んじゃダメなのよ。ハタヤマはあんなこと言ってたけど、お姉さまにだってやらなきゃいけない事情があるの。お姉さまは間違ってないのよ!」
 シルフィードはタバサに笑いかけた。見るからに空元気で無理やりな笑顔だったが、彼女が必死にタバサを気遣っているのは誰の眼にも明らかだ。
 タバサはシルフィードを見上げた。
「……あなたは、どう思うの?」
 タバサは何処も見ていないような空虚な瞳で、シルフィードと眼を合わせた。シルフィードはその瞳に、自分自身の映る自分の姿を見た。
 そこに映る自分の表情は、まるで怯えたように引きつっていた。
「――えっ、あう、私、は」
 答えを返すことができないシルフィード。タバサはそんな己の使い魔を、ただじっと見つめている。
 シルフィードはタバサの事情を少なからず理解しているので、ハタヤマの指摘を全面的には受け入れられなかった。己の主人は、その境遇により様々な不幸に縛られており、今はそれをどうすることもできない。主には主の事情があるのだ。
 しかし、彼女はハタヤマの言葉に、彼の言うことにも一理あると思ってしまった。人間の世界の法がどうなっているのかは彼女もよく分からないけれど、まさか裁判もなしに即刻死刑になることはないだろう。ハタヤマの言っていることはある意味ではまっとう、一般的な意見なのである。
 タバサの事情か、ハタヤマの一般論か。シルフィードは私情の板ばさみに苦しむ。
 主には主の事情があり、なによりもシルフィードは彼女が大好きだ。だから、彼女をないがしろにするようなことは言いたくない。だが、ハタヤマも友達だし、なにより彼の意見には同意できる点がいくつもある。たとえ殺人を犯したとしても、問答無用で死刑が執行されるなどあってはならないはずなのだ。
 それらの事柄はシルフィードの頭の中をぐるぐると回っている。考えても考えても答えは出てこない、なにより正解などあるのかも分からない。
「あ、あ、あ……」
 シルフィードはしどろもどろで、口から意味のない単語を漏らすだけだった。
 タバサは瞬きをするとともに眼を伏せ、シルフィードを置いて歩き出す。
「………………」
「ま、待って、待ってなのよ~!」
 たとえ疑問を持ったとしても、シルフィードはタバサの傍を離れない。それは使い魔の契約を交わしたからなのか、それとも――
 タバサはその思考を振り払うかのように首を振り、小さくため息をついた。

     ○

 村内を回り、シルフィードに演技をさせて回るタバサ。吸血鬼を炙り出す材料がない今、タバサにとれる策はそれぐらいしかなかった。
「きゅい……お姉さま、今夜こそ吸血鬼をつきとめられるのかしら」
 シルフィードは不安げに呟いた。空はもう日が傾き始め、茜色に染まっている。彼女らは一応、今夜のために布石をまきつつも調査を続けていた。聞き込み、現場検証などをするため、各家々へ訪ねて回った。しかし、残念なことに芳しい成果は上がらない。
 シルフィードはあまりの手ごたえの無さに、作戦の成功を怪しんでいるようだ。
「………………」
 シルフィードの問いを黙殺するタバサ。彼女も表情には出さないが、内心穏やかではない。これだけ探し回ったというのに、決定的な証拠の一つも見つかっていないのだ。策を打っているといえど、それが成功する可能性も100%ではない。彼女も不安なのである。
「あ、お姉さまみて!」
 夕焼けに照らされ長い影をひきながら歩く二人。肩を落としながら歩くシルフィードは、前方に見える広場で子どもたちが遊んでいるのを見つけた。
「この村で子どもが遊んでるのは始めてみたの! 楽しそうなの~。シルフィも混ざりたいなぁ」
 三人の子どもたちが、なにかを投げ合って遊んでいる。聞こえてくる歓声にシルフィードは顔をほころばせ、混ざりたそうに指をくわえた。
 タバサは興味なさ気にそれを見て――大きく眼を見開いた。
「っちょ、ちょっとお姉さま!?」
 唐突に駆け出したタバサの後をシルフィードはあわてて追う。子どもたちはいきなり近寄ってきたタバサに驚き逃げ出そうとしたが、一人の少年が彼女に腕を掴まれ捕まってしまう。
「うわぁ! な、なにすんだよ!」
「従者のお姉ちゃんがー!」
「うわーん!」
「だ、大丈夫なのよ、シルフィたちは怖くないのよー!」
 鬼気迫る、しかし無表情のタバサに、子どもたちは怯えて泣き叫んだ。シルフィードはそんな彼らを必死になだめようとした。しかし、タバサはそんなことはお構いなしに、掴んだ少年の手に持ったある物を凝視している。
「……それを、何処で拾ったの?」
「ひっく、っえ?」
「え、えっと、坊や、なに持ってるのかな……ってえぇ!?」
 シルフィードは今にも泣き出しそうな少年の気をそらそうと声をかけつつ、タバサの視線を辿り絶句した。なんとその少年の手には、昨日見た匂い袋が握られていたのだ。
「そ、それどうしたの? 誰かにもらったの?」
「え……いや、今朝起きたときポッケに入ってたんだ」
「私もー」
「僕もー」
 少年の言葉に、他の二人も呼応する。彼らはごそごそとポケットを探り、同じような匂い袋をそれぞれ取り出した。
 もうシルフィードはわけが分からない。
「え、ええ!? なんで、なんでなんでぇ?!」
「………………」
 タバサは苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んだ。子どもたちはその怖さに小さく悲鳴を上げた。
「……あなたたちのご両親も、同じものを持ってた?」
「い、いや、知らない。父さんたちはいつもどおりだったから……」
「でも丘の上のおじさんは持ってたよ。僕見たもん」
「私のお母さんも持ってたなぁ。村の人も、何人か袋を手に持ってるの見たよ」
 次々と湧き出る目撃証言。タバサはそれを聞き、どんどん表情が険しくなっていく。シルフィードは演技も忘れてタバサに詰め寄った。
「お姉さま、いったいどういうことなの!?」
「……先手を打たれた」
 悔しそうに眼を細めるタバサ。彼女がここまで感情を表に出すなど滅多にない。シルフィードはタバサの様子に、これがただ事ではないのだと無意識に感じ取った。
 タバサは淡々と説明する。
「……たぶん、村人全員に匂い袋が行き渡ってる」
「え? だって、昨日はアレキサンドル以外、誰も持ってなかったはずなのに?」
「……私たちが眠ってる間に、誰かが仕込んだ。おそらく、服かなにかに忍ばせて」
 タバサは歯噛みした。これはまさに、吸血鬼からの挑戦状である。アレキサンドルの匂い袋を発見したことを逆手に取り、捜査をかく乱するつもりなのだ。彼女らがこれに対しどう反応するのか、影でほくそえんでいるのである。
 タバサの顔からぬぼーっとした気配が消えていた。吸血鬼が自分たちの囮作戦以上の妙策を講じてきたことで、若干の焦燥に駆られているようだ。
「で、でも、全員が匂い袋を持っているなら、それはそれで放っておいても……」
「……何人か、意図的に持たされていない者がいるかもしれない。もしそうならあと数日もすれば、その人たちに疑惑が向くようになる」
 全員持っているのか、はたまた持っていないのか。それは一人か、それとも複数か。可能性を吟味し始めればキリがない。吸血鬼は疑念渦巻く寒村に、とんでもない爆弾を仕掛けてきたのである。
「そ、それはまずいのっ! ど、どうしたら」
「……今日はもう日が暮れる。明日朝一番から、まずは匂い袋の所持者をリスト化する」
 タバサがそう言い終わる寸前、何処からか怒声が聞こえてきた。続いて狂乱の声が上がり、にわかに騒がしい声が響いてくる。
「な、なに? 今度はなんなの?」
「……!」
 うろたえるシルフィードと、周囲に眼を配るタバサ。そしてタバサはある一点を見て動きを止め、目つき鋭く凝視した。
「どうしたのお姉さま?」
 シルフィードもつられてその方角を見据えると、村はずれから黒煙が立ち上っていた。その黒煙は、煙突から立ち上っているにしては明らかに不自然なほど勢いが強い。どうやら騒乱の中心も、そちらの方角にあるようだ。

「この吸血鬼が――」
       「滅びよ――」

「――っ! お、お姉さま、これって」
「急いで!」
 かすかに響いてくる、呪詛のような恨みの言葉。立ち上る黒煙は、どんどんと勢いを増していく。タバサは血相を変えて地を蹴った。
「あなたたちは寄り道せずにお家に帰るのね! 絶対家の外に出ちゃダメよ!」
 シルフィードはキョトンとした子どもたちにそう言い残し、タバサの後を追うためあわててきびすを返した。

     ○

「死ね、焼け死んでしまえ!」
「私の娘を返して!」
 タバサたちがたどり着いた先には、地獄絵図が広がっていた。真っ赤に燃えるマゼンダ邸と、それを取り巻く大勢の村人たち。彼らは一様に熱に浮かされたような狂気を顔に貼り付け、松明をもって取り囲んでいる。
 シルフィードはそのあまりに衝撃的な光景に絶句した。
「ざまあみさらせ、この吸血鬼がぁ!」
 ひときわ声の大きい男が、集団の前に立っている。どうやらこの男が、村民たちを先導しているようだ。その男は、シルフィードたちが村へ来た初日、いきなり絡んできたボロの男であった。
「あ、あなたッ! いったいなにをしてるのね!!」
「おぉ、騎士さま! おいでくださったんですなぁ! 吸血鬼とその屍人鬼は、この私めが成敗いたしましたよ!」
 ボロの男は狂ったように笑い声を撒き散らし、この異常な雰囲気に酔っているようだった。タバサは唇を噛み、シルフィードから杖をひったくるように奪おうとした。
 だが、ボロの男が一足早くシルフィードの手から杖を掠め取る。
「おぉっと! 吸血鬼に情けをかけるような真似ゃよしてくだせぇ!」
「……返しなさい」
「やつらは血も涙もねぇ化け物なんだ、死んで当然なんでさぁ!! げひゃひゃひゃひゃ!」
「証拠がない」
「証拠なら、あったぜ」
 薬草師のレオンが集団から進み出て、タバサに布切れを投げてよこした。
「そいつが犠牲者の家の煙突から出てきたんだ。そんな派手な染物、この村のやつらは着ない」
「これでやつらが吸血鬼なのは決定!! ひゃははははっ!」
「………………」
 タバサは口をつぐんだ。煙突を調べたのは自分ではなく、ハタヤマだ。自分自身でその事実を確認していない限り、強く否定することができない。この場にハタヤマがいない以上、本当になにも無かったのか、それとも切れ端を見落としたのかが断言できないからである。
 半ば八つ当たりのようにハタヤマへ厄介ごとを押し付けたことが、ここに来て裏目に出てしまった。
「それに、騎士さま言ってらしたじゃあないですか! 『屍人鬼は、アレキサンドル』ってねぇ?」
「……っ!(きゅぃい!?)」
 タバサは絶句し、シルフィードは顔を引きつらせた。あの会話が、この男には聞かれていたのだ。タバサは反応を最小限に抑えたが、シルフィードの大きすぎる驚愕具合にごまかしきれない。
「ほれみろ、ほれみろ! 俺の言ったことは嘘じゃなかったろーがッ!」
「騎士さまも認めてらっしゃる……やっぱり、あいつらが吸血鬼だったの?」
「まあ、確かによそ者だし、怪しかったけどな……」
 ボロの男は集団をあおり、さらに先導しようとする。タバサたちは彼の暴走を止めるすべを持たない。場の混沌はまるで眼前に燃え盛る炎のように、加速度的にすべてを飲み込んでいく。
「ひひ、あのガキの言うとおりにしてよかったぜぇ」
「……? ガキって誰の」

「――ウゥガアアアァァァァッ!!!!」

 火の家と化したマゼンダ邸から、獣のような咆哮が上がった。同時に玄関口が蹴破られ、人型のなにかが火の玉のように飛び出してくる。それはボロの男を引っつかみ、肩に抱えて森へ飛び込んでいった。
「ひぃい、お助けえぇぇ?!」
「ありゃアレキサンドル!? やばい、あいつさらわれたぞ!」
 薬草師のレオンが、アレキサンドルの消えた方角を指差す。森にはマゼンダ邸から飛び火した火の粉が降り注ぎ、連鎖火災が起きかけている。このままでは森に炎が燃え移り、大惨事となってしまうだろう。だが、タバサには今、それに対処する術がない。タバサの杖はボロの男が握り締めたままなので、彼女は魔法が使えないのだ。
 タバサは逡巡した。この火災をすぐに鎮火させれば、炎の森への浸蝕を阻止できるだろう。限りなく望みは薄いが、もしかするとマゼンダ婆さんも助けることが出来るかも知れない。それには、シルフィードの変化を解かせてアイスブレスを吐かせればいい。だが、その選択肢をとるとこの場に自分たちは縫いつけられることになり、アレキサンドルを追うことが出来なくなる。そうなれば、あのボロの男は決して助からないだろう。それにアレキサンドルの正体はもう村中に知れ渡っている。そしてそのことは、この騒ぎで吸血鬼にもきっと伝わっているに違いない。ならば、吸血鬼はもうアレキサンドルを無理に生かす必要が無く、最悪の場合村で無秩序に暴走させ、徒に死者を増やそうとするかもしれない。
 助かるかどうか分からない目の前の老婆の命か、後に散らされるであろう大勢の命か。タバサは決断を迫られた。
「………………」
「お、お姉さま……」
 タバサは唇を裂かんばかりにきつく噛みしめた。眉は八の字を描き、目尻には苦悶の皺が刻まれている。
 そして、彼女は苦渋の決断をした。
「屍人鬼の後を追う」
「え、じゃあ、お婆さんは?」
「仕方ない」
 吸血鬼が自棄になった屍人鬼を暴れさせると、無駄な被害が増えてしまう。そうなると、報告の時どれほどの悪印象となるか分からない。あの性悪王女のことだ。どんな些末な失敗でも、その加虐心を際限なく増大させ喜んで追求してくるだろう。あの女は私がなにをされれば苦しむか識っている。自分が虐げられるのはいい。だが、母に矛先を向けられては――
 それに。
「……杖を奪われると、困る」
 メイジにとって杖は命の次に大事な物。これが吸血鬼の手中に渡ってしまっては、自身に待つのは死か、敗走のみ。それは、事実上の任務失敗を意味する。
 これは仕方ないのだ。私には失敗など、許されていないのだから。
 タバサはそう自分に言い聞かせ、シルフィードと共に薄暗い森林へと足を踏み入れていった。

     ○

「ぐえぼっ!」
 ボロの男は地面に投げ出された。その拍子に握りしめていた杖と松明が転がり落ちる。うっそうと茂る森の木々から、鳥たちがギャアギャアと鳴きながらいっせいに飛び立った。
「グルルルゥゥゥゥ」
 彼の前には、口からスチームのような白い煙を吐き出しながら、腹の底から響く唸り声を上げる男がいた。その男の眼からは理性の輝きが失われており、血走った瞳でボロの男を見下ろしている。彼は、火を放たれた家の住人の一人。名をアレキサンドルと言った。
「や、やめろぉ!! この化け物野郎がぁ!」
 ボロの男は必死に後ずさりながら、手に触れる石や小枝などをやったらめたらに投げつける。だが、それらはアレキサンドルに傷一つ負わせられず、片手で払いのけられるだけだった。
 アレキサンドルはのしのしと歩み寄ると、ボロの男に裏拳を見舞った。ただ腕を払うだけの、技術もなにもない一撃。しかしボロの男は、カエルのひしゃげるような悲鳴ともとれぬ奇声を漏らし、二メートルほど吹っ飛んで木に叩きつけられた。
「あ、あが、あがああぁぁぁ」
 口内が盛大に切れ、奥歯がへし折れて満足に言葉も紡げない。口に溜まった血を吐き出すと、血だまりの中に白い固形物が見えた。砕けた奥歯の破片である。
 口元を押さえ、はいつくばるボロの男。アレキサンドルはその光景を、まるで現実感無く見下ろしていた。
(俺は、なにをやってるんだ?)
 彼が最後に覚えているのは二ヶ月前。あの日、彼は鈴蘭の花畑で花を摘んでいた。自分でも似合わないとは思ったのだが、日中は外を出歩けないほど身体の弱ってしまった母に、せめて少しだけでも美しいものを見せたかったのである。何処をどう歩いたのかは覚えていない。ただ、いつの間にかそこに辿り着いていた。
 そこで、急に眠気を感じて意識を失った。それからは殆ど記憶がない。ただ、自分は起きているはずなのに、常に意識が霞がかったようにはっきりしない。眼に映る毎日の映像全てが、夢か幻のように思えた。それはまるで、他人の生涯を観ているかのようだった。
「ひ、ひぃ、ひひひいいぃぃぃ」
 意識が途絶える最後の瞬間。小さな、真っ赤な靴が見えたような気がした。あの靴は、あんな靴を履いているのは、たしか――村でも一人だけだったはず――
 アレキサンドルはボロの男の首に手を掛けた。そのまま右腕一本で、ボロの男を宙づりにする。
「ぐええぇぇぇ」
 徐々に真綿を絞めるように握力を強めると、ボロの男はまたおかしな奇声をあげた。これはとても、面白い。
 アレキサンドルはさらに力を強めていく。
「――……!」
「お姉さま、いたの!」
 後方から誰かが駆けてきた。背の高くローブを羽織った女と、背が低くプリーツスカートの少女。タバサたちである。
 あの娘たちは確か――王都から派遣された騎士だったか。アレキサンドルは動きを止めた。
「その男を離すの! むやみに殺しちゃダメなのよ!」
 背の高い女が叫ぶように言った。無闇に殺すな? なにを言う、この男はおっかあを――
 アレキサンドルの胸中に、抑えがたい衝動が鎌首をもたげ始める。
 おっかあは俺を女手一つでここまで育ててくれた偉い人だ。そんなおっかあをこの男は吸血鬼呼ばわりして、あまつさえ――
 視界が真紅に染まっていく。荒れ狂う『ある衝動』が抑えきれない。あぁ、胸が張り裂けそうだ。
 アレキサンドルの手の力が不意に緩んだ。タバサたちは相対しつつも、距離をとって様子を窺っている。タバサの杖の在りかがアレキサンドルの足下なので、下手に手出しできないのだ。
 永遠とも思える、濃密な沈黙。パチパチと、空気の爆ぜる音のみが響く。その沈黙は、最悪の形で破られた。
「この化け物野郎がッ!! お前のおっかあ、吸血鬼はもう焼け死んだぞ!」
 もたらされた若干の余裕。肺に補給されたごく僅かな酸素が、ボロの男の口を飛び出していく。憎しみをこめた罵詈雑言として。
 タバサは顔をしかめ、シルフィードは喉を引きつらせた。
「だ、ダメ、刺激しちゃ――」

「――お前も後を追って、さっさと死にやがれぇ!!!」

 ボキッ
「げきゅっ」
 空間が凍った。続いて、ボロの男の全身から糸が切れたように、筋肉の緊張が弛緩したのが分かった。
「あ、ぁ……」
 シルフィードは思わず目を背けた。タバサはアレキサンドルを、眼光きつく睨みつけている。
 アレキサンドルは無造作にボロの男を放り捨てた。まるで、壊れた玩具のように。ボロの男は燃え広がり始めた炎の中に投げ込まれ、そのまま業火の中に消えた。
 タバサは頭を高速回転させていた。もう、目の前にいる男はアレキサンドルではない。吸血鬼の手にかかり下僕と化した、人間のなれの果て(屍人鬼)である。今ここですぐに彼を倒してしまわなければ、間もなくサビエラの村は阿鼻叫喚に包まれるだろう。それだけは避けねばならない。だが、杖は彼の足下、5cmも離れていないところに依然転がったままである。不用意に近づけば危険なので、回収は容易ではない。
「竜化……」
 とシルフィードに命じようとして、止めた。一瞬でも不自然な挙動を見せれば、屍人鬼はすぐさま襲いかかってくるだろう。その時、シルフィードだけで応戦しきれるかどうかは微妙だ。
 タバサは手詰まりだった。そうやって思考を深める間にも、屍人鬼はのしのしと熊のように彼我の隙間を詰めてくる。タバサの頬から、汗が一粒流れた。
「きゅ、きゅい――きゅいいぃぃぃっ!!?」
 緊張を切り裂く悲鳴。張りつめた空気に耐えきれなくなったシルフィードが、思わず人化の先住魔法を解除してしまったのだ。屍人鬼の瞳がギラリ、と燦めいた気がした。
 飛びかかる屍人鬼。シルフィードの竜化はコンマ数秒で間に合わない。タバサは、思わず目をつむった――

 ――シィインッ

「グォウッ?!」
 空を斬る斬撃。今まさに喰らいつこうと、前傾姿勢で地に足を踏みしめた屍人鬼。その傾斜した胴体を袈裟切るような軌跡が、彼らの間を割って振り抜かれた。その斬撃から逃れるべく、屍人鬼は人外の膂力で飛び退いた。だが、剣閃の主はそれを許さない。振り抜いた腕をそのままに、半ば転がるようにして一歩踏み出す。その足で地面を踏み砕かんばかりに地を蹴り、猿(ましら)のように宙を舞う。
「――ハタヤマ・ファイナル・キィ-ックッ!!!!」
 中空で身を丸め、前転しながら体勢を整え、「それ」は裂帛の気合いとともに屍人鬼へ空中飛び膝蹴りを見舞った。飛び込みの威力を生かし切ったライダーキックは、屍人鬼の頭部に吸い込まれるように直撃する。ゴボキ、と鈍い音を響かせ、屍人鬼はきりもみ回転を刻みながら吹っ飛ばされた。
「す、凄いの……」
 土煙を上げて盛大にぶっ飛ばされていく屍人鬼を呆然と見つめ、シルフィードから感嘆の声が漏れる。斬撃が現れた瞬間から、ここまで僅かコンマ5秒の出来事であった。
 屍人鬼を一発で黙らせた「それ」は、すぐさま放置されている杖に駆け寄り、拾い上げてタバサに投げてよこす。そこで、「それ」の正体が分かった。
「あ、ハタヤマ!」
「や」
 男ははしゅたっと右手を挙げて応じた。目の前には屍人鬼、森は徐々に大火事の様相をていしてきているというのに、そのノリはいたって軽い。彼女らの窮地に駆けつけたのは、おなじみ白いワイシャツに黒いロングパンツ、もみあげの長い優男。ハタヤマヨシノリであった。

     ○

「い、今までどこいってたの?! シルフィたち大変だったんだから!」
「ごめんごめん、どうしても調べておきたいことがあったからさ」
「……?」
「あ、お姉さま! あいつはハタヤマなの! あのちっこいお人形さんだったやつよ!」
 視線で説明を求めたタバサは、シルフィードの言葉にさらに疑問を深めた。あのぬいぐるみと今目の前でへらへらと笑っている男は、どうにも結びつけづらい。確かに、このちゃらんぽらんな雰囲気は似ている、もしかするとシルフィードと同系統の先住魔法を扱えるのかも知れない。だが、タバサは普段のハタヤマを短期間ながらも見知っていたので、あの珍獣にそんな高度な魔法が使えるということをどうにも認めたくなかった。だが、このシルフィードの懐きよう。そして自分たちを助け、杖まで取り返したという行動。シルフィードが自分に嘘を吐くというのも考えづらいので、おそらく本当なのかもしれない。
 納得は出来ないが信じるしかない。油断だけはしないように、とタバサはハタヤマ(とタバサは認めていないが)を睨みつけた。
「怖いなぁ……っと」
 ハタヤマがタバサの目つきに苦笑いを返した。そして不意に、なにかに気づいたように振り返った。タバサたちもそれに習い、目を向けると、アレキサンドル――屍人鬼(グール)――が立ち上がろうとしているのが見えた。
「……!」
「きゅい! 終わってなかったの!」
「さすがにタフだねぇ」
 ハタヤマは頭を掻いた。首をへし折るつもりで放ったH・F・K(ハタヤマ・ファイナル・キック)だったのに、なんとアレキサンドルは何事も無かったかのように立ち上がってきたのだ。あまり期待していなかったとはいえ、やはりがっかりするものである。
 タバサは間髪いれず杖を構え、呪文の詠唱を始める。相手が体勢を立て直す前に、問答無用でケリをつけるつもりなのだ。
 ハタヤマは、おもむろにタバサを手で制した。
「ハタヤマ?」
「下がってて。ここは、任せて欲しいんだ」
 シルフィードのいる位置から、ハタヤマの表情は窺えない。ただ、彼の遊びのない声色から、普段の姿からは想像もつかない、真剣な気配を感じ取った。彼になにか策があるようだ。シルフィードはタバサに、ハタヤマの言葉を伝えた。
 だが、タバサは首を縦に振らない。

「……なにをする気?」
「まあ、ありていに言えば説得かな」
「……結局は倒す」
「そりゃそうだけどさ」

「……それに、応じるとは思えない」
「――さあ、それはどうだろうね?」

 ハタヤマは、一歩前に進み出る。
「確かに、あのおっさんはもう生きてすらいない。このまま放っておいても勝手に朽ち果てちゃうくらい、哀れで儚い存在さ。でも――」
 ハタヤマは言葉を切った。
「だからって、最後まで『化物』扱いされたままじゃ可哀想でしょ。元は人間だったんだから」
 振り返り、ハタヤマは微笑んだ。たとえ吸血鬼の僕と成り果ててしまったとしても、それが本人にとって望まぬことであったなら、最善の努力はしてあげるべきだ。
「結局は同じ結末になるとしてもさ。それなら――幸せなほうがいいでしょ?」
 シルフィードから翻訳を聞き、タバサはますます戸惑いを深めた。これが、あの奇妙な珍獣? 目の前の男からは、自分たちといたとき常に発していた邪気がない。ただ純粋で、嘘が無く、当たり前のように理想論を述べる。こいつと別れたとき、おそらく口だけだろうと思っていた。世にはびこる偽善者たちのように、上辺だけ取り繕って実行しない金メッキ。ひとたびその状況にさらされれば、簡単に剥がれて地が見える。
 きっとこの男もそうに違いない。そう思い、タバサは彼を試すことにした。
「……三分」
「ん?」
「三分だけあげる。ただし――」
 タバサはハタヤマの瞳を、射抜かんばかりに覗き込んだ。その奥にある心まで見透かさんと、彼女は彼に誓約を課す。
「――それを過ぎたら、あなたごと滅する」
「きゅいぃっ!? お、お姉さま!」
「いいから、伝えて」
 信じられない、という表情でタバサを見下ろすシルフィードに、タバサは通訳することを迫った。その見上げているだけなのに心を責め立てるような眼力に、シルフィードは声を震わせながらハタヤマへ伝える。ハタヤマはその内容を受け取り、きょとんと目を丸くした。
「………………」
 ぼかんと口を開けて固まるハタヤマ。タバサは彼のその様子を冷めた目で観察する。
 この男が他の者たちと同じ、口先だけで行動の伴わぬ愚者ならば、この時点で自論を撤回するはずである。きっとこの男も、顔を引きつらせながら自分に許しを請うはずだ。きっとそうに違いない。タバサはそう内心で断じた。
 ハタヤマが無様に言い訳する姿を思い浮かべ、無表情でそれを待つタバサ。だが、対するハタヤマの反応は、彼女の予想を大きく裏切るものであった。
「ま、仕方ないね。待ってくれるだけありがたい、か」
 そう言って肩をすくめ、タバサたちに背を向け歩き出すハタヤマ。その進行方向には、こちらを窺うアレキサンドルの姿がある。
「ちょ、ハタヤマ?!」
「まあ見ててよ。ボクの見立てではたぶん、“まだ”間に合うはずだからさ」
「あ、あぁ、ハタヤマ、お姉さま……きゅいぃ~」
 きゅいきゅいと慌てふためくシルフィード。まったく逃げ出す気配のないハタヤマ。

 タバサは心中で驚愕しつつ、ハタヤマの遠ざかる背中を凝視していた。

     ○

 身体が痒い。ばりばりと皮膚を裂いてしまいたいくらいの痒みが、全身を包むように苛んでいる。
 それは意識を取り戻そうとすればするほど強くなるように感じられ、同時にどうしようもないほどに不安な気持ちを呼び起こしてくる。正体の分からない、得体の知れない不安。ただ、それを分かってしまうのが怖い。
 逆に、その痒みは意識を混濁させることにより薄れていった。滝の内側から外を眺めるように不鮮明な視界になってしまうが、こっちのほうがなにも考えなくてすむので都合が良い。
 なので、俺は身を任せていた。甘美なる胡蝶の微睡みの世界へ。
「――! ――――!」
 ――うるさい。さっきからなんなんだ。
 先ほどから俺に対して、執拗に怒鳴り声をぶつけてくるやつがいる。そいつは風体こそ若さを残すものの十代を越えた雰囲気を感じさせた、何処にでもいそうな二十代前半の若者。あんまりにもうるさいので、さっきから黙らせようとしているのだが、そいつは何故か立ち向かってきた。今までの夢に出てきたやつらは、一発殴るだけで腰を抜かすかなりふり構わず逃げだそうとするかのどっちかだったのに、この男はどちらにも当てはまらない。不思議だ。先日の『騎士さま』など、頬を一発張ってやるだけでションベンを漏らして命乞いをし出したというのに。とても不思議だ。
 こいつは――俺が、恐くないのだろうか?
「きこえ――か、おっ――ん! しっか――!」
 何度と無く殴られ、蹴られ、大木に背を叩きつけられ、炎の中に張り飛ばされても、目の前の男は立ち上がってくる。その瞳は俺の瞳を射抜くように見つめていて、強い輝きを失わない。何故、なんのためにこの男は。
「おっさん、おっさ――!」
 次第に声が鮮明になってくる。止めてくれ、痒くなるから。もうなにも考えたくないんだ。
 それなのに。
「――しっかりしろ、おっさんッ!!」
 シャツが焼け、ボロボロになってなお。男は、呼びかけを諦めてくれなかった。

     ○

 ハタヤマは満身創痍であった。服はこげて破れ、顔は腫れと青あざだらけ。当人は痛みに歯を噛みしめ、じわりと汗を浮かべながらも不敵な笑みを崩そうとしないが、見ている者にはやせ我慢にしか見えなかった。
「きゅぃいっ……!」
 シルフィードが思わず目を覆い、顔を背ける。ハタヤマがまたも屍人鬼の拳を受けて吹き飛ばされ、木に身体を打ち付けたのだ。ハタヤマは肺から苦悶を絞り出したような、悲鳴ともつかない音を口から漏らしうずくまった。
 シルフィードは、今すぐにでも助けに行きたい思いだった。彼になにか勝算でもあるのかとその背中を見送ったのに、彼は延々とアレキサンドルに呼びかけながら無謀にしか見えない突撃を繰り返すばかり。まだ一分も経っていないのに、すでに彼は満身創痍である。シルフィードは、友達が痛めつけられて黙ってみていられるほど大人ではなかった。
 しかし、それはタバサが許さない。タバサはシルフィードの手首を掴み、並んでハタヤマの行動を静観していた。そしてシルフィードが飛び出そうとすると、強く腕を引いて睨みつけるのだ。
「お姉さま、ハタヤマが、ハタヤマが死んじゃう!」
「……まだ待つ」
「でも!」
「……『三分』は、待つ」
 ハタヤマは大見得を切ってでていった。ならば、それはおそらく彼なりに勝算があってのことなのだろう。彼は村での調査でもこちらの邪魔をしなかったので、その点は考慮せねばならないとタバサは思っている。故に、制限時間を設け、あちらがそれに同意した以上、それを過ぎるまでは手出ししてはいけない。約束を破るのはよくないことである。
 しかし、タバサはこうも思っていた。
(……泣いて謝るまで、助けない)
 タバサの中で、ハタヤマの印象はお世辞にもあまり良いとは言えない。むしろ最悪の部類であった。その私怨にも似た、胸の奥に溜まったどす黒い感情が、普段は冷静な彼女の心を支配していた。
 彼女は、その小さな胸に立ちこめる暗雲の正体に気づいていない。いや、意識して気づかないふりをしているのか。

     ○

「ぐ、ふ……つつっ、痛いな、おっさん」
 口の端に赤い筋を描きながら、ハタヤマは立ち上がった。その顔は右のまぶたが腫れ上がり鼻血をだらだらたらしているという酷い状態で、普段の見かけだけは色男という容姿の面影もない。既に彼からはいつもの飄々とした雰囲気は消え、真摯な瞳で屍人鬼を見つめている。
 屍人鬼は、そばに生える大木により掛かりつつも起きあがったハタヤマを視認し、ゆっくりと距離を詰めてくる。ハタヤマがもう満足に動けないことを分かっているのだ。
「おっさん つぃて なか ったねぇ。こんな 事件の被害者に なっちゃう、なんて さ」
 ハタヤマは弾む呼吸に胸を押さえつけながら、なおも屍人鬼に語りかける。その声はまるで旧来の知人と語り合うかの如く穏やかで、敵意も畏怖も感じさせない。そこには、自身へ迫り来る死の影への恐怖も、暴力を振るわれた事への憎しみもない。ただただ、人間と接するように、ハタヤマはアレキサンドルへ笑いかけた。
 アレキサンドルはそれに答えない。
「……もう、わかってんでしょ? 自分が、死んだんだってこと。あんたはそれを認めたくないから、吸血鬼の意志に流されてる『ふり』をしてる。ただ、生き続けるためだけに、屍人鬼(グール)に『成りきってる』んだ」
 アレキサンドルの身体がびくりと震えた。赤く充血した眼球が、ゆらゆらと戸惑いに揺れている。そこには、わずかながら理性の色が見え隠れしていた。
「あんたは、たぶん良いやつなんだろう。年をとって動けないおばあさんの為に、かいがいしく世話を焼いてた。ゾンビ化しちゃった生き物は殆どの場合、精神に何らかの破綻をきたすのに。あんたはそれでも、おばあちゃんを大切にしてた。あんたは死んだ後も、おばあちゃんへの想いを忘れなかったんだ」
 アレキサンドルはついに足を止めた。その眼は見開かれているが、そこにはなにも映っていない。
 ハタヤマはズボンの後ろポケットから、折りたたんだ布をとりだした。その布は村では珍しい赤い染めで、破れた服の一部なのかところどころほつれている。
「――!」
 アレキサンドルの目の色が変わった。
「そんな大切なヒトが殺されかけたとあっちゃ、怒るのも仕方ない。殺したくもなるでしょ」
 ほんとに殺るのはどうかとおもうけどね、とハタヤマは苦笑した。その言葉には、まったく悪びれた様子がない。
「思いだして。あんたは『化け物』なんかじゃない。化け物は自分以外を大切に出来ないし、涙だって流さない」
 ハタヤマは己の頬を撫で、アレキサンドルにうながした。自身の頬に触れたアレキサンドルの指に、一筋の熱い滴が触れた。
「あんたは『吸血鬼の僕』じゃなくて――『マゼンダ婆さんの一人息子』、アレキサンドルなんだ!」
 ハタヤマは声を荒げ、魂に訴えかけるように叫んだ。もうその瞳に狂気はなく、ただただ涙を流しながら崩れ落ちる。そこにはもう、屍人鬼はいなかった。
「俺は――俺は、死ねなかった。俺がいなくなると、おっかあが独りになっちまう。……ただ、そばにいてやりたかっただけなんだ」
「……あんたは悪くないよ。ただ、運が悪かったんだ」
 ただただ涙を流すアレキサンドルを、ハタヤマは沈痛な面持ちで見下ろした。吸血鬼は血を吸うことが『食事』であり、目の前の男は運悪く捕食されてしまっただけ。ただ、それだけだと分かっているのに、ハタヤマはとてもやるせない気持ちに襲われた。そんな感傷は、ライオンがシカを補食することに憤りを覚えるような、的はずれなものであると分かっているのに。
 ハタヤマは、誰かが背後に立つ気配を感じた。振り返り確認すると、タバサがこちらを見上げていた。
「あぁ、待たせたね。んで、待たせついでにもうちょっと待って欲しいんだけど……」
 ハタヤマはそれを言い終えることができなかった。タバサが、アレキサンドルに向けて杖を構えたのだ。ハタヤマはにこやかな表情を豹変させ、迷わず斜線上に割り込んだ。
 ハタヤマに胡乱な目を向けるタバサ。
「ちょっと待ってよ! この人はもう危なくないよ!」
「………………」
「ま、『待って欲しい』って言ってるの。まだなにか考えがあるみたいなのよ」
「……もう待った。それに」
 タバサは冷ややかに告げた。

「どれだけ待っても、結末は一緒」

 タバサにとって、アレキサンドルは倒すべき敵の僕でしかない。一度死んだ人間は生き返らない。故に、これ以上先延ばしにしても意味はない。
 それに――戦意を無くしたアレキサンドルを見て、シルフィードがハタヤマへ歓声を投げかけた。それが気に入らない。このままでは自分の使い魔が、自分を置いてどこかへいってしまいそうで。
 タバサは一刻も早くこの件を片づけ、シルフィードをハタヤマから遠ざけたかった。
 絶句したシルフィード。主のあんまりといえばあんまりな断言に、翻訳するのがはばかられたのだ。
 だが、ハタヤマには、その必要はなかった。
「――もういいよ。話し合っても無駄みたいだ」
 ハタヤマは、背中の腰辺りから二本のナイフを取り出した。それは刃渡り10cmほどの、まるでおもちゃのような果物ナイフ。しかし、その刃は遠目に見てもよく砥がれているのが分かり、刀身は炎に照らされてギラリと輝いていた。それは、たとえ短くとも、殺傷能力を持つ得物。ハタヤマはそのナイフを両手に握り、腰を落とし、左半身を引いて右腕を心臓のあたりに静止させた。
 シルフィードはハタヤマの行動に、彼の正気を疑った。
「は。は、ハタヤマ? なな、なにしてるのッ!?」
「詳しく説明しようにも、肝心の言葉が通じない。それにタバサちゃんも、もう聞く耳持たないんでしょ? なら、もうやるしかないじゃないか。趣味じゃないけど、力ずくで黙ってもらおうか」
「ま、待つのっ! シルフィが、シルフィがお姉さまに掛け合うから!」
「タバサちゃんも、準備万端みたいだけどね」
 肩をすくめたハタヤマ。シルフィードが振り返ると、タバサは割り込んだハタヤマへ変わらず杖を向けていた。いや、いっそう眼光厳しくハタヤマを睨みつけている。ハタヤマはその挑戦状を受け取るかのように、黄金色の瞳で彼女を見つめ返した。
 人間に変身しても、唯一変化させきれぬ身体のパーツ。その獅子のような金色の瞳は、彼の心情を如実に表すように、黒目が縦長になっていた。
「こっちの世界じゃどうか知らないけど、魔法使いが杖を突きつけるってのは冗談や遊びで済まされないことなんだ。ここまで来ると、お互いにもう退けない」
「そんな!」
 もし、シルフィードがもっと円滑に通訳をこなせていれば。もし、ハタヤマとタバサの言葉が問題なく通じていれば。こんなことにはならなかったのかもしれない。だが――

「ごめんねシルフィちゃん。ボクにも――どうしても、譲れないものがあるんだ」

 賽は、投げられた。

     ○

「“デル・ウィンデ”」
 先手はタバサだった。目に見えぬ風の刃が、空を裂きハタヤマに向けて放たれる。
 高密度に圧縮された空気がハタヤマの首を凪がんとしたが、ハタヤマは魔法の発動と同時に倒れ込むように地面へ両手両足をつけ、はいつくばってそれを避けた。文字通り空を切った風系統魔法『エア・カッター』は、後方の燃えさかる樹木を何本か断ち切り、周囲にはベキベキと木繊維の引きちぎれる音が鳴り響いた。
 その音が鳴り始める前には、ハタヤマは地を蹴りタバサへ向けて弾丸のように疾走していた。全身に魔力を張り巡らせ強化された身体能力は、常人には目にもとまらぬ『速度』を与える。数メートルの距離を瞬きの間に潰し、ハタヤマはタバサを気絶させんと、猛獣のように飛びかかった。
(……速い)
 タバサはハタヤマがナイフの柄を振り上げ、こちらの首筋へ振り下ろそうとしている姿をスローモーションのように見ていた。瞬きの間にハタヤマは視界から消え、あわてて杖を構えなおした時には既に眼前まで肉薄されていた。人間にはあるまじき移動速度である。なんの小細工もなく、ただただ真直ぐに駆けることのなんと素早いことか。ハタヤマは考える暇すら与えず、一撃で終わらせるつもりのようだった。
 だが、タバサも負けてはいない。慌てず事前に詠唱しておいた魔法を発現させる。
「“エア・シールド”」
「――うへぶっ!?」
 呪文とともに、タバサの周囲に風の壁が築きあげられる。眼に見えぬ防壁の出現によってハタヤマは寸でのところで押し戻され、突撃の中止を余儀なくされた。
 たたらを踏んだハタヤマの体へ向け、タバサは数本の『エア・カッター』を放つ。しかし、これまた仰け反った不条理な体勢から横っ飛びしたハタヤマには避けられてしまう。ハタヤマは着地に失敗し地面を数度転がったが、その勢いのまま元の構えに戻り、すぐさま持ち直す。
「「………………」」
 ハタヤマは一息で踏み込める距離を保ちながら、構えを解かずタバサの様子を窺っている。タバサは油断なくハタヤマと対峙しながら、その能力を分析していた。
 まず、特筆すべきはその俊敏さだ。どういうわけか知らないが、魔法を目視して避けているような気配がある。その避け方も人間というより獣じみていて、隙を狙うことも出来ない。
 何故、そんな動きができるのか。それは動作に関していえば、どうやら魔力で無理矢理動かしているようである。人体では不可能、もしくはかなり負荷がかかる体勢をとろうとする際、肉体から微弱な蒼い魔力が漏れ出ていたのを確認した。おそらく、端々にどうしても現れてしまう行動不能な瞬間を、すべて魔力でキャンセルしているのだ。ハルケギニアにはそういった魔法の使い方をする人間がいないので確証はないが、タバサはそう結論づけた。
 そして遠距離ではなにもしてこない所を見ると、遠距離攻撃手段を持っていないようである。シルフィードと同じような幻獣であるはずなので、なんらかの攻撃魔法くらいは使えるはずなのに。タバサは魔法を使わないハタヤマに懸念を抱いた。ただ単に出し惜しみしているだけなのか、それとも本当に使えないのか。後者なら問題ないが、前者の場合土壇場で不覚をとる可能性がある。人ならざるものと戦う場合、その一撃が致命傷になりかねないので、早々に断定できる問題ではない。
 もしかすると、人間状態では強い魔法が使用できないのかも知れない。
 タバサは油断無くハタヤマを見据えながら、接近させないことを第一に戦うことを決めた。

     ○

 ハタヤマは油断無くタバサを見据えながら、内心震え上がっていた。
(この世界の魔法、威力がおかしい)
 呟き一つで発動させていたからおそらく初級の魔法なのだろうが、その威力は間違いなく初級ではない。ハタヤマの世界の初級魔法といえば『ブリッツショット』や『ソニックインパクト』だが、それだってせいぜいパンチングマシンで七十か八十くらいの威力である。当たったら確かに痛いが、それだけで死ぬことは殆ど無い。だが、今タバサが使った魔法はどうだ。ちょっと太い木が真っ二つになった。なにそれ。あり得ない。ハタヤマの世界であの威力を出そうと思ったら、『アイスバインド』くらいは撃たなければいけない。しかし、『アイスバインド』は中級魔法なので、消費魔力が多くやや燃費が悪い。なので後のことを考えれば、そうそう連射は効かないはずなのだ。
 なのに。
 ドシュンドシュンドシュンッ!!
「よっ! はっ! ほわっ!?」
 タバサはそんなの関係ない、とでも言わんばかりに絶え間なく魔法を連射してきていた。基本『エア・カッター』、時々『エア・ハンマー』と、直線攻撃魔法と範囲攻撃魔法を緩急織り交ぜて放ってくるので、ハタヤマはもう避けるだけで手一杯。ハッキリいって必死であった。
 当たったら痛いじゃ済まない、下手すると首がもげるかもしれん。それ故、ハタヤマの表情もかつて無いほどに真剣である。
(だいたい、この世界の魔法使いはみんなおかしいんだよ)
 ハタヤマはハルケギニアの常識を学ぶために魔法学院を見学(と称した散策)したときも思っていたが、この世界の魔法使いたちは、魔力を補充できないのにみんな日常的に魔法を使いすぎである。何処からそんなにMPを持ってきているんだとハタヤマが目を疑うほど、魔力消費に頓着しない。ハタヤマが「この世界で」彼らと同じような魔力の使い方をすれば、一時間と持たずグロッキーだ。一歩間違えれば命に関わるかもしれない。なのでハタヤマは魔法学院の日常風景を見たとき、「なにしてんだこいつら、自殺願望でもあるのか」と正気を疑ったのだった。
 この認識の違和は、ハタヤマが魔力を常時循環させる世界で生きていたことに起因する。ハタヤマの世界では、魔力は魔法で消費するたびに毎秒大気中から不足分を肉体に取り込むことで補う。それに対し、ハルケギニアの魔法使いは魔力回復の機会が基本的に『睡眠』しかない。大気中には殆ど魔力が舞っていないので、取り込むことが出来ないのだ。故に、ハルケギニアの魔法使いは精神力の限界値が異常に発達しており、タバサのような魔法の使い方ができるのである。比べるなら、ハタヤマとタバサの精神力の限界量には、コップと貯水槽くらいの差があるのだ。このあたりは、進化の傾向の違いかもしれない。
(……ただ)
 ハタヤマは迫り来る『エア・ハンマー』を、大木を盾にしてやりすごしながら目を細める。やはり、騎士と呼ばれていても、タバサは所詮学生だった。操る魔法はいっぱしだが、全体的に雑である。これまで相手にしてきた魔法生物たちと比べると、どうしても見劣りしてしまう。魔法の威力に頼っていて、細部の戦略や技術がおざなりなのだ。知能の低い相手や戦闘を専門にしない相手ならまだ通用するだろうが、一級レベルの相手には通用しないだろう。
 大体の力量は分かった。大木に背を預け空を見上げると、まるで炎のカツラを被せられたようにその木の枝と葉を燃やす大木の頭と、空へ続く隙間を遮断する、もうもうとした黒煙しか見えない。
 大気中の魔力が薄いこの世界ではあまり魔力を無駄に消費したくないし、これ以上長引かせるのははどちらにとっても良い結末をもたらさないだろう。ハタヤマは胸中でため息を吐き、そろそろ決着をつけることに決めた。
(――魔法の威力の違いが、戦力の決定的差ではないことを教えてあげよう)
 吹き付ける熱風に灰と火の粉が踊っている。火勢はますます勢いを増し、森は既に赤い世界へと変わり果てていた。

     ○

 シルフィードは立ちすくんでいた。己の御主人様と友達が争っている。それも、魔法を使って。
 昨日まではとても楽しかった。彼女はタバサと一緒にいるだけで幸せだったし、ハタヤマも剽軽で面白かった。不謹慎であったが、ずっとみんなでいられたらいいと思った。それなのに、一晩経って、突然終わりを告げられてしまった。
 ハタヤマは去り、事件は急転し、そして現在に至った。シルフィードの幼い脳みそでは、目の前で起こっていることをにわかには受け入れることができない。大好きな御主人様と、大切な友達が、暴力をぶつけ合っているのだ。
「おね――」
 とめたかった。すぐにでも杖を降ろして欲しかった。だが、そのための言葉が出てこない。タバサは自身に課せられた任務を遂行しようとしているだけであるし、ハタヤマもよく分からないが、なんとなく理由があって反抗している様子である。それ故に、シルフィードは迷う。
 どちらが正しいのか。どちらが間違っているのか。自分は――どちらに味方すればいいのか。彼女は決められない。
 とにかくやめてもらおう。そう思い、シルフィードはタバサの肩に手を伸ばした。
「お姉さま――」
「“ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ”」
 だが、彼女の右手は届かなかった。放つ魔法が全て避けられ、焦れたタバサが中級呪文の封を解いたのだ。彼女の紡いだ魔法は『氷の矢』。周辺一帯を覆いつくした熱により大気中の水分は殆ど失われていたが、それでも矢は五本精製された。それらはハタヤマが身を隠す一際大きな大木へ向けて、それごと命も奪いつくさんと一斉に殺到する。

 一の矢、大木に突き刺さる。
 二の矢、大木に亀裂を入れる。
 三の矢、大木の幹が大きく抉れ、みしみしと軋む音を立て始めた。
 四の矢、大木の幹の破片が吹き飛び、今にも倒れそうになる。
 五の矢――が、目標に到達することはなかった。

「――せええぇぇいッ!」
 五の矢が命中する寸前、大木の後ろから裂帛の気合いが響いた。同時に木繊維の引きちぎれる音と、大木の悲鳴が木霊する。
 ハタヤマが大木の『裏側』から、大木をタバサの方に蹴り折ったのである。
「……っ!?」
 流石のタバサもこれは読めない。迫り来る巨木の影に一瞬思考停止状態に陥り、目をまん丸とさせ放心した。
 その視線の先、燃えさかる緑の茂みの中が、がさり、と耳障りな音色を奏でた。
(……来る!)
 タバサは反射的に林道のある右へ移動しつつ、音の発生源に向け杖を振りかざし、高速で呪文を詠唱した。おそらくハタヤマは大木の背を駆け、空中よりの強襲を試みたのだろう。だがその目論見は、一手早く迎撃姿勢を整えた自分には通じない。
 勝った。タバサは確信した。
 だが――
「違う!?」
 焔の茂みより現れたのは、木の枝を寄せ集め縛った束であった。ならば、ハタヤマはどこへ行ったのか。
 答えは、大木の下にあった。
「……っ!」
 倒れゆく大木と地面が交わるすれすれの僅かな隙間。強烈な悪寒を感じ、目線を下げたタバサの瞳に、大木をくぐるなにかの姿が映った。ハタヤマである。
 ハタヤマはタバサが林道の方へ逃れることを予見し、猛火渦巻く森、すなわち左側へ飛び込んでいた。そこからおそらく直線上にいるであろうタバサの位置にあたりをつけ、交差する大木をくぐって、猛火の中を突っ切ったのである。無論、ハタヤマは魔法に対する防御魔法は使えるが、熱や水など、自然現象の影響を遮断するような魔法は使えない。身を焼き、それでもなお息を潜め、必殺の好機に賭けたのだ。
 それゆえ、その捨て身の特攻じみた攻めは読みづらく、看破されにくい。タバサは、ハタヤマの能力と、戦闘に対する気概を見誤ってしまった。
「――……くっ!」
 しかしタバサも然る者、さすがは爵位を授けられし騎士であった。苦し紛れに杖を振り下ろし、ハタヤマと軸があった瞬間に詠唱した『エア・カッター』を発動させる。上空のデコイへ魔法を発動させず、ギリギリで踏みとどまった粘りは驚異的である。しかし、ハタヤマはそれすらも予想していたのか、やや前傾に身を捻るだけでそれを避けてしまった。
「殺(と)ったぁッ!!」
 必中を確信し、逆手に持ったナイフで杖を弾こうと、懐へ飛び込み逆袈裟斬りを繰り出すハタヤマ。その軌跡はタバサの握りしめた、身の丈もあるワンドを確実に捉えていた。
「ダメぇえっ!!」
 だが、その攻撃はシルフィードがタバサを庇ったことで、杖を奪うことはなかった。明らかに動揺し、顔をしかめて距離をとるハタヤマ。どうやら今の今まで、シルフィードの存在を忘れ去っていたようだ。
 シルフィードは、無意識に動いてしまった自分の身体にとまどっていた。ただ、タバサに危険が迫った。そう認識したとき、自身の意志とは別に、シルフィードはタバサを抱きかかえるようにして逃れていたのだ。シルフィードはタバサの頭を胸に抱きながら、状況が呑み込めず目をパチクリさせている。
「あ、え? わたし、なんでなの?」
「………………」
 ハタヤマは渋い顔で様子を見ている。渾身の策が空振りに終わったので、どしたものかと攻めあぐねているようだ。
 タバサはそれを確認し、視線はハタヤマを外さずに呟いた。
「ブレス」
「え?」
「おそらく私だけじゃ捉えきれない。今から隙を作る。だから、アイスブレスを」
「きゅ、きゅい?!」
 シルフィードは耳を疑った。主は、御主人様は、自分にハタヤマを攻撃しろと命じている。それも、命に関わるような。シルフィードの胸中に暴風雨が吹き荒れた。
「な……なにをいってるのね!? そんなの当てちゃったら、へたしたら死んじゃうのね!! お姉さまはわたしに、ハタヤマを殺せというの!!!?」
「そう」
 タバサは無感情に頷く。シルフィードはタバサの答えに驚愕し、全身の血の気が引いていくのを感じた。
 友達を、初めて出来たドラゴン族以外の友達を、この手で失えというのか。シルフィードは全身の震えが止まらなかった。自分を自分で抱きしめても、心をわし掴むような圧迫感が消えない。
 タバサはシルフィードを横目で見て、小さくため息を吐いた。
「……別に殺さなくてもいい。ただ、あいつに向けてアイスブレスを撃つだけでいい」
 それならば、できるだろう? タバサの細められたまぶたは、言外にそういっていた。ようするに、自分に協力しろといっているのだ。シルフィードはその言葉に抵抗感こそ薄まったが、承諾しようとは思えなかった。
「で、でも……でもでも。ハタヤマは……たしかにバカでスケベで自分勝手で、いつもどうしようもないことばっかり言ってるけど……でも、悪いやつじゃないの。こんなことするのもきっと理由があるの。だから話し合えば、こんなことしなくてもきっと……」
 話すたびにどんどんうつむき、声も小さくなっていくが、シルフィードは必死に自らの想いを言葉にする。きっと分かり合える。そう、心に信じて。
 だが、シルフィードのその様子が、タバサには気に入らなかった。

「……あなたは、どっちの味方なの?」

 空気が凍った。その一言にシルフィードは絶句し、タバサもしまったというように口をつぐんだ。
 ついに口に出してしまった、決して言ってはいけない呟き。だが、それはタバサが初めて見せた、心の奥底からの本音であった。
 タバサはシルフィードがハタヤマを初めて紹介したとき、言いしれぬ違和感のようなものを感じていた。それは行動を共にする内にどんどんとその影を濃くし、無視できぬのほどに増大する。そして、その違和感の正体は、皮肉にも昨夜の囮作戦の時、ハタヤマとシルフィードの二人きりのやり取りを見せられることで判明した。
 シルフィードの心の中から、自分の姿が消え去っている。タバサは、それを気のせいだと、ただの思いこみだと切り捨てようとした。だが、自分には見せたこともない表情をいくつも、自分以外のものに向けるシルフィード。そして、それをいとも簡単に引き出してみせるハタヤマ。無視できない。なにもかもが気に入らない。もし、シルフィードが自分を忘れてしまったら――そんな考えが頭をよぎると、もう心中穏やかではいられなくなった。今のところ、契約を結んだという決して断ち切れることのない絆がシルフィードと自分にはある。故に、シルフィードが自分を嫌うことはあり得ない。何故なら、彼女は自分の使い魔だから。しかし、それがもし万が一、覆されてしまったとしたら? 目の前の珍獣がシルフィードの心の中に入り込み、この手の中から連れ去ってしまったら。私には、いったい誰がいる?
 母がいる。薬により心を病み、床に伏せってしまっているが、血の繋がった家族がいる。だが、もし母が治らなかったら? 私には、いったい何が残る――?
 タバサは怯えていた。使い魔召喚の儀式の日から久しく忘れていた孤独への恐怖に、その再来に心の底から怯えていた。それ故に、ハタヤマの存在を許すわけにはいかなかった。たとえこのような状況にならずとも、いずれはこうなっていただろう。今最も自分に近しい位置にいるシルフィードを、この手から奪うかもしれぬ彼の存在を、彼女は決して認められないのだから。
 シルフィードは、追いつめられたような形相のタバサの思考が理解できなかった。彼女にとっての一番はタバサであるし、今後それが覆ることはよほどのことがない限りあり得ない。シルフィードはタバサが大好きなのだから。それが、ルーンによるものなのかどうかはさておいて。
 とにかく、断ろう。そしてこの悲しい出来事を止めるんだ。シルフィードはそう決意し、口を開こうとした。しかし。
「……分かったの。でも、一回だけなの」
 自身の口から出た言葉は、その意志を伝えてはくれなかった。言い終わって、思わず手で口をふさぐシルフィード。違う、わたしはこんなことを言いたかったんじゃない。
 じゃあなにを言いたかったのか。シルフィードは、額に手を当て思い出そうとしたが、それを記憶から探り出すことはできなかった。

 彼女は気づくことができない。使い魔のルーンが、主の意に沿わぬ思考を塗りつぶしているのだから。

     ○

 ハタヤマは、対峙するタバサが杖を構え直す姿を確認した。なにやらシルフィードと言い争っていたようだが、空気の爆ぜる音や風の乱れる音が酷くて会話の内容は聞き取れなかった。超感覚も、万能というわけではないのだ。ただ、こちらにとって都合の良さそうな話ではないことだけは察せられたが。
 ハタヤマは首筋を断続的に刺されるような『予感』を感じていた。自身の持つ、虫の知らせにもにた第六感、危機察知センサーが警鐘を鳴らしている。これ以上の戦闘続行は危険である、と。本来は、先の一撃で勝負は結しているはずだったのだ。杖を弾き、猶予を得て、それで話は終わりの筈だったのだ。しかし、千載一遇のチャンスを逃し、そして形勢は刻一刻と悪化の一途を辿っている気配がする。正直言って、もう逃げ出したい。機をものにできなかった時点で、勝負事とは敗北が決定するのである。
 だが、それは出来ない。今ここで自分が退けば、物語は最悪の結末を迎えてしまうだろう。それは村人やタバサたちにとってではなく――彼らに排除された者達にとって、救いもなにもない最後が。
 そんなことは認められない。それを認めて引いてしまったら、ボクはボクでなくなってしまう。だからこそ、ここは絶対に退けないんだ。
「……?」
 タバサがこちらに向けて、無造作に呪文を詠唱している。何の策もない単純な動作。そんなもの、通用しないのは先ほどまでで嫌というほど味わったはずなのに。ハタヤマは怪訝そうに眉をひそめた。
 だが、その表情は次の瞬間凍り付く。
「……――っ!」
 タバサが、杖をずらした。ハタヤマの方向にではなく、へたり込むアレキサンドルの方へ。自然に、無表情で、その瞳はまったくの虚無。刹那にかいま見えた彼女の瞳は、物を見るように無機質だった。
 ハタヤマは弓から弾かれた矢のように駆け出す。射線に割り込んでは不利、手負いでどうにかできる相手ではない。ならば、魔法の発動者を叩く。ハタヤマは極限まで前傾に身体を倒し、獅子のように地を駆ける。
 案の定、タバサは杖の向きを戻した。タバサの目的は事件の解決であり、屍人鬼を斃すことではない。無駄な障害やダメージを覚悟で、攻撃を続行するわけがない。ここまではハタヤマの読み通りであった。
 距離はあと三メートル、タバサはまだ詠唱している。ナイフの射程内まであと一歩、一秒もかからない。もらった、と、ハタヤマは確信した。
 ゆえに、彼は見落としていた。彼女に付き従う使い魔、風韻竜の存在を。
「……今ッ!」
「――グオオォォォッ!!!!」
「なぁっ!?」
 タバサの背後に控えていたシルフィードが、突如猛々しい咆哮を上げた。人化の魔法を解いたその姿はまさに伝説に謳われるドラゴン、如何なる種族をも並び立てぬ荘厳さを感じさせる。シルフィードは変身解除後、間髪入れず前足で地面を踏みしめ、『アイスブレス』をハタヤマに放った。踏みしめた地面はひび割れ、砕け散った破片が宙に舞う。
「ぐ、うぅ――」
 ただただ速度だけを追求した、特攻の構えで突っ込んでいたハタヤマは、その冷砲を避けられなかった。すんでの所で右足の負荷を魔力で無理矢理打ち消し、そのベクトルを右方向へ折り曲げ、直角に身を投げるハタヤマ。だが、無理な姿勢制御に右半身の筋肉が悲鳴を上げ、逃れきれなかった左足が無惨にも凍結してしまう。凍り付いた左足では地面を踏みしめることが出来ず、ハタヤマは無様に地を転がった。
「……ちぃ」
 油断だった。ハタヤマは、まだ心の何処かでシルフィードのことを信じていた。あの娘は話が分かる娘だから、あまりむちゃくちゃな命令には従わないだろうと。だが、その認識が甘かったことをハタヤマは思い知らされた。『使い魔の契約』とは、そんな生やさしい物ではないのだ。必要であれば精神すらねじ曲げる、一級の精神操作魔法なのだから。
 これがシルフィードの本当の意志なのか。それは、今のハタヤマには知るよしもない。
「“ラグーズ・ウォータル・デル・ウィンデ”」
 タバサの詠唱は最終段階に入った。正気に戻ったシルフィードが慌てて止めようとしているが、それももう間に合わない。後は、放たれるだけ。
 ハタヤマは魔力に満ちたタバサの姿に、明確な死の気配を嗅いだ。その瞬間、走馬燈のような記憶の渦が脳裏をよぎり、世界がスローモーションのように見えた。

 どうする。
 迎撃しよう。
 ダメだ、威力が違いすぎる。
 おそらく相殺できない。

 なら避けるか。
 無理だ。
 足が死んでる。
 治してる暇がない。

 じゃあどうする。
 防御しよう。
 それだけじゃダメだ。
 たとえ受け切れても、その後が続かない。

 ならばどうするか――……

 この間、約ゼロコンマ一秒。死を拒む彼の思考回路は、高速で状況を分析していく。ここまでで攻撃と回避は破綻した。防御もただ守るだけでは不十分。やや大きめな隙を作るか、思い切ってタバサを打倒するような魔法が求められるだろう。
 ハタヤマは、この条件を満たす魔法に、候補が二つだけあった。
 『アンチマジック』。
 全ての攻撃魔法を無効化し、霧散させるという最強の魔法干渉魔法。普段は努力することが大嫌いなので、必要なこと以外は覚えないハタヤマだが、この魔法だけは必要になりそうだと習得していた。これならば、もしかするとタバサの攻撃を防ぎ、次の呪文詠唱までの隙も確保してくれるかも知れない。
 だが。
(……ダメだ)
 『アンチマジック』は確かに強力だ。だが、それ故魔力消費も尋常ではなく、その量は任意で魔力を補給できないこの世界では無視できない消耗となる。無駄撃ちひとつで致命傷となるこのような状況では、容易に選択できる魔法ではない。それに、『アンチマジック』が、この世界の魔法をも無効化してくれるかどうかは確証がない。ひょっとすると、何の効果もなく不発の可能性も無くはないのだ。そんな不確かな選択に、命は預けられない。
 ならば、もう一つの手段。だが、それもハタヤマには選びづらい魔法であった。
 しかし、タバサは待ってくれそうにない。ハタヤマは腹をくくった。
(――死んでも恨まないでくれよ!)
 ハタヤマは心の中で叫んだ。




「『アイス・ストーム――」
「『リフレクション――」





「待ってくだせぇ!」
 殺伐とした空間に響く、身を裂くような悲痛な叫び。その想いのこもった叫び声にハタヤマとタバサは集中が乱され、魔法の発動を中止した。その声がした方角に、一同の視線が集まる。そこに立っていたのは、村では珍しい赤い染めの着物を着た老婆だった。
「……!?」
「きゅい、あの人……」
「――お、おっかあ?」
 アレキサンドルの放心したような呟き。彼の瞳からは、その瞬間狂気の色が完全に消え失せた。吸血鬼の呪縛を破り、人の心を取り戻したのだ。
 現れたのは、アレキサンドルが言うようにマゼンダ婆さんである。彼女はアレキサンドルと視線をあわせ、感極まったように涙を一滴こぼした。
「なんできたんだばーさん?! ここは危ない、はやく下がって!!」
 ハタヤマは狼狽して注意を喚起する。言葉が通じないのは分かっているはずなのに。彼はマゼンダ婆さんが生きていることを知っていたようだ。
 タバサは目を丸くしてハタヤマを見つめた。
「――あー。 なんか、夕食の準備にしては異様な焦げ臭さを感じて、匂いの先を辿ってみたらさ。もの凄く燃えてたから、よく分からないけどとにかく逃がしておいたんだよ」
 当然の事ながら意味が分からず、タバサはシルフィードを見上げた。そして彼女から翻訳を受け、その驚き顔を一層強くした。ハタヤマは、自分たちが諦めた老婆の救出を行っていたのだ。
「その方は、動けないわたすをおぶって、あの火事から救い出してくれたんでさぁ。窓を蹴破って、村の衆を蹴散らして、わたすを護ってくださった」
 時間軸的に考察すれば、タバサたちがアレキサンドルの後を追って森にはいってすぐ、ハタヤマが窓を破壊して脱出してきた。そして「魔女を殺せ!」という呪詛じみたかけ声と共に群がってくる村人たちを蹴倒し、ハタヤマも森へ突入していたのだ。ハタヤマは身振りでその場から逃げるようにマゼンダ婆さんを説得したつもりだったが、彼女は逃げずにここへやってきてしまったようだ。
 マゼンダ婆さんは、ゆっくりとアレキサンドルに歩み寄った。
「お、おっかあ……俺、おれ……」
「なにもいわんでえぇ。つらかったなぁ、苦しかったなぁ。――おまえは、どんなになっても、わたすの自慢の息子だよ」
 マゼンダ婆さんはアレキサンドルを優しく抱きしめる。アレキサンドルは嗚咽を隠すことも忘れ、母の胸の中で子どものように泣いた。
「ハタヤマ、どうして? どうして助けたの? ハタヤマは、吸血鬼の味方だと言ってたのに……」
「別にそんなこと言っちゃいないよ。助けたのだって、濡れ衣で殺されるなんてことは間違ってるって思っただけ」
 ハタヤマはいつの間にか、タバサの横に立っていた。凍結した足は内側から魔力を噴出したことにより氷を膨張させ、既に砕き払われている。
「ボクは誰の味方でもない。ボクは、ボクだけの味方さ」
 ゆえに、己が正しいと思ったことには全身全霊を賭ける。自分自身の考えに味方し、全力で自分に助力する。それこそが、彼のいう『自分だけの味方』なのだ。
「でも、じゃああの人を庇ったのはなんで? おばあさんを助けただけでも充分じゃなかったのね?」
 シルフィードの疑問に、ハタヤマは渋い顔を作った。言いづらそうに二、三度口を開閉させ、観念したように目を細めた。
「……よく知らないけどさ。親ってのは、何があっても子どもを心配するものなんでしょ? 子どもがあんなことになって、自分は全てを失ってひとりぼっち。そのうえ、お別れの挨拶も出来ないなんて……可哀想じゃないか」
 ハタヤマは母子の最後の別れを、穴が開きそうなほど見つめている。その黄金色の瞳は、心なしか輝きに陰りがあり、その表情も薄暗い。シルフィードはハタヤマの眼に、目の前の光景への純粋な羨望をかいま見た気がした。

     ○

 ややあって、落ち着いたアレキサンドルは、母から離れ立ち上がった。そのまなこは涙でややはれぼったくなっており、真っ赤だった。
「……ありがとう、ありがとう。兄(あに)さん、この恩は死んでも忘れねぇよ」
「そりゃどうも。というか、キミはもう死んでるんだけどね」
 そう言ってハタヤマはからからと笑った。シルフィードはそのブラックなジョークにはらはらしたが、アレキサンドルは気にしていないようである。悪気無くこんな冗談が出てしまうから、ハタヤマは時々危ういのである。
「だからこそ、この恩はここで返す。吸血鬼の正体は――が、ァ……ッッッ!」
「アレクや!」
 続きを話そうと息を吐いた瞬間、アレキサンドルは苦悶の表情で崩れ落ちた。マゼンダ婆さんが駆け寄ると、彼の顔に無数の亀裂が刻まれていた。吸血鬼を裏切ろうとすると自壊するように、僕にはみな呪いが掛けられているのだ。アレキサンドルはそれでもなお、認めぬ主の名を口にしようとする。
「ぐ、が……吸血鬼は、吸血鬼の正体は……ッ」
「止めるの  これ以上無理したら、魂まで崩壊させられちゃうの! そうなったら、あの世にも行けなくなっちゃう!」
「だが……犠牲者を、俺みたいな奴を……出さないためにも……!」
「大丈夫だよ」
 ハタヤマはポンとアレキサンドルの肩に手を置いた。まるで、全て分かっている、とでも言うように。
「実は、もう犯人は突き止めてあるんだよ」
「う、へ?」
「犯人は――『よそ者』、だよね?」
 ハタヤマはパチリとウィンクし、悪戯っぽく笑った。それで通じると確信しているかのように。アレキサンドルは、ハタヤマの言葉に安心したように微笑んだ。
「――あぁ」
 ――ピシッ
 乾いた音が響いた。アレキサンドルの身体に、致命的な亀裂が入った音である。ハタヤマの言葉に頷いた瞬間、吸血鬼にとって彼の裏切りは確定してしまった。彼の命の火と器は、後はもう朽ち果てるだけ。
「兄さん、おっかあを、おっかあを頼む。俺は、もう支えてあげられないから――」
 彼の瞳にはもう輝きはなく、おそらくもうなにも見えていないのだろう。焦点も定まらず、視線は虚空を見つめている。ハタヤマは、足が砕け散り倒れ込みそうになったアレキサンドルの肩を、対面から両手で支えた。
「アレクや……」
「おっかあ……親不孝で……ごめんな……先に行って……待ってるから……」
「アレクや……ッ!」
 マゼンダ婆さんはアレキサンドルを抱きしめた。だが、アレキサンドルの胴体はそれと同時にぼろぼろと壊れ、彼女の両手をすり抜けていく。
「頼む……おっかあを……おっかあを……」
 壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返しながら、アレキサンドルの最後に残った首から上は灰になった。もうそこには、人間の存在した証拠は残っていない。
「………………」
「マゼンダさん……」
 シルフィードはかける言葉が見つからなかった。子を目の前で、しかもこんな失い方をした相手に、なんという言葉をかければよいのか。精神の幼い彼女には、ただ黙ることしかできない。
 だが、マゼンダ婆さんは強かった。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 マゼンダ婆さんはハタヤマの手を両手で包み込むように握り、感謝の言葉を繰り返した。息子が最後、人間として逝くことができた。それだけが、彼女は嬉しかった。そしてそうなるように尽力してくれた目の前の若い男に、心の底から感謝した。
 ハタヤマは困ったように笑ったが、マゼンダ婆さんの肩を優しく押して身を離し、シルフィードに向き直った。
「シルフィちゃん」
「きゅい?」
 ハタヤマは頭を下げた。「このばーさんを頼むよ」
「きゅいぃ!?」
「ボクはあのおっさんから託された。遺言は守らないといけない。でも、ボクはこの世界では、この約束を守る力がない。だから、ボクの代わりに、約束を果たして欲しいんだ」
「そ、そんなこと言ったって」
「この通りだ」
 ハタヤマは懇願の姿勢を崩さない。自分にはなんの力もないことを分かっているのだ。だからこそ、力のある者に願いを託す。
 必要とあらば、頭を下げることを決していとわない。それが、彼の矜恃なのだ。
「お、お姉さま……」
 自分では決められないと判断したシルフィードは、タバサに助け船を期待する。アレキサンドルの言葉はタバサにも通じているので、彼女も話の流れは分かっていた。
 だが。
「……あなたは、どうしたい?」
「きゅいいぃぃー!?」
 タバサは答えをくれなかった。予想外の展開に軽くテンパるシルフィード。なんとタバサが、自分に選択権を譲ってきたのだ。これはかつて無い大事件である。
 シルフィードは顔を真っ赤にして悩んだ。その様子をハタヤマは真摯に、タバサは無表情で見つめている。
「……分かったの。シルフィたちに任せるの! おばあさんは、責任を持ってなんとかするの!」
 シルフィードは顔を上げ、立派な胸をドンと叩いた。その拍子にやはりぷるぷる震えたので、ハタヤマは顔面崩壊を起こす。 
「うほっ、ありがとうシルフィちゃ「ゴスッ!」ウボァ!!」
 どさくさに紛れて抱きつきざまに、胸に顔を埋めようとしたハタヤマ。その邪な行為は、タバサの杖による顔面突きにより未遂に終わらされることとなった。
「こ、これはひどいんじゃないかなぁ……」
 顔面を抑えながら、鼻血をぼたぼた流して抗議するハタヤマ。タバサはそれを無表情に見下ろしている。だが、見る人が見れば彼女の表情から、とある感情を読み取ることができただろう。“侮蔑”という感情を。
 ハタヤマはさて、と立ち上がって太股の砂を払い、タバサたちに背を向けた。
「どこ行くの?」
 シルフィードはその背に声を掛ける。ハタヤマは首だけ振り返った。
「吸血鬼さんの顔を拝みにね」
「きゅいぃ!? じゃあ、わたしたちも行くの! 悪い吸血鬼を成敗しに……」
「だから、『あの子』が一方的に悪いんじゃないんだって。
 ただ、やり方を間違えてるだけでさ」
 ハタヤマは肩をすくめる。なんとなく、吸血鬼を信じているような口ぶりである。シルフィードは食ってかかった。
「わたしたちも吸血鬼を倒さないとおこられちゃうの! なんにもせずには帰れないのよ!」
「それは分かってるさ。だから、交換条件といこう」
「へ?」
「ボクはキミたちにばーさんのことを頼んだ。そしてそれをキミは受けいれてくれた。だから今度はボクが返す番。ボクが吸血鬼に話をつけてくる」
「そんな――」
「ボクはキミたちを信じる。だから、キミたちもボクを信じて欲しい」
 勝手な言い分だけどね、とハタヤマは自嘲気味に笑った。彼もこの取り引きの滅茶苦茶さは自覚しているのだろう。シルフィードは自分では決断できないので、タバサに事情を説明した。
「………………」
「お姉さま、どうしましょう?」
 タバサはハタヤマの瞳を見透かすように覗き込む。ハタヤマはその眼光を真正面から受け止めた。
「……本当に、なんとかできる?」
「少なくとも、この件の吸血鬼が殺人事件を二度と起こさないようにはさせるよ。どうしようもないときは、ちゃんとトドメも刺す」
「……分かった」
 シルフィードからハタヤマの言葉を受け取り、タバサは首を縦に振った。ここまでの命を賭けた対話で、ハタヤマがどの程度信頼できるかは分かってきたのだろう。タバサは彼を信じられるとし、今回は折れることに決めたようだ。個人的な心境はどうあれ、ここまで身を削ったハタヤマの行動は評価しなくてはならない。タバサは私念でハタヤマを攻撃するほどまだまだ幼くはあったが、感情にまかせて判断を誤るほど愚かでもなかった。
 ただし、とタバサは付け加える。
「その吸血鬼がまた事件を起こしたとき。その時はあなたを滅しに行く」
「おぉ、恐いねぇ。そうならないよう頑張ってくるよ」
 ハタヤマはシルフィードからタバサの言葉を聞き、ぶるりと肩を震わせた。
「タバサちゃん。ボクはキミのこと、嫌いじゃなかったよ」
「きゅいぃ!???」
「はは、じゃあね、シルフィちゃん」
 ハタヤマは今度こそ本当に背を向けると、燃えさかる火の海と化した森のさらなる奥へ消えていった。シルフィードはハタヤマの残した爆弾発言に顔が真っ赤になり、頭が噴火状態である。
「……最後、なんて言ったの?」
 タバサはシルフィードを見上げた。
「きゅ、きゅい……ま、『またね』って言ってたの!」
 シルフィードは主の問いに、正直な答えを返せなかった。タバサは不思議そうに首を捻った。
 シルフィードは言い終えてから、何故嘘をついてしまったのか悩んだ。だが、その疑問の回答は、今はまだ彼女の中にはない。

     ○

 この日、村の火災はその村に派遣されていた騎士によって消し止められ、吸血鬼事件にも終止符が打たれた。
 村からは占い師の一家とボロの男という被害者が出たが、村人たちにはそれよりも事件が解決したことの方が喜ばしいことであった。
 それと同時に、村長の家の娘が忽然と姿を消したのだが、その行方を知るものは誰もいなかった。

 ただ、その後。
 吸血鬼による被害が出ることは、もう二度と無かったという。



[21043] 二章幕間
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:52
【 二章幕間 『焼け野原の向こう側』 】



 騎士殺害は失敗に終わった。
 わたしは鈴蘭の花畑で、虚空の月を仰ぎ見る。炎の赤、夜空を照らす赤と青の月光、そして足下には青紫がかった白色の、一面の鈴蘭畑。
 ああ、とても綺麗。こんな夜にすするメイジの血液は、きっと格別に美味だったんでしょうね。この世界に血の朱が加われば、どれほど幻想的な装飾をこの花畑に添えられたのでしょう?そう考えると残念でならず、わたしは口惜しさに爪を噛んだ。
 忌々しいメイジ。奴らはわたしの両親を目の前で殺した。わたしたちはただ、家族みんなで食事に出かけていただけなのに。わたしはあの日、初めての狩りの仕方をパパに教わっていた。人通りの少ない通りで息を潜めて待ちかまえて、眠りの魔法で眠らせる。そして獲物の意識を奪ったら、ゆっくりとその首筋から真紅の液体を吸い出すの。初めて飲んだ、自分で捕らえた人間の血液の味は今でも覚えてるわ。筆舌に尽くせないくらいおいしかった。
 そんなとき、奴らは現れたの。その日は運悪く、夜警の巡回強化期間と重なってしまってたのね。ママはわたしに「逃げなさい」と言い残して、パパと共にメイジの小隊へと立ち向かっていったわ。わたしは、物陰で隠れていることしかできなかった。
 パパとママは善戦したけれど、やはり多勢に無勢だった。徒党を組んだ、訓練された五人のメイジたちには敵わなかった。父は全身を炎になぶられ跡形もなく焼死、そして母は四肢を切断され、薔薇よりも赤い血しぶきをまき散らして、頭蓋骨を踏み砕かれちゃった。あの時、頭を踏みつけられた母と眼があったの。
 今でも時々夢に見る。あの表情をわたしはどうしても忘れられない。ママは、わたしになにを言いたかったんだろう――?
 もうこの村での狩りも潮時でしょうね。また、新しい餌場を探さなくちゃ。次はどこへ行こうかなぁ――

「やあ、良い夜だね。こんな夜更けに何処へ行くんだい?」

 唐突に声。気配が無くて気づかなかった。吸血鬼であるわたしに気取られず背後を取るなんて、そんな人間は今まで一人もいなかった。だから、とってもびっくりしちゃった。
 振り返ると、そこには若い男の人が立ってた。白いシャツに黒いズボン、そしてもみあげが長い。それ以外には取り立てて特徴のない男。でも、闇夜に浮かび上がる金色の瞳が、炎の輝きを受けて爛々と輝く眼球が、とても印象的な男。覗いているだけで魅せられてしまいそうな、美しい瞳。
 あぁ、くりぬきたい。くりぬいて、口に含んで、思うさま転がして食べてしまいたいわ。剥製にして飾るのも良いかも。耳飾りなんかにすると、きっとおしゃれに違いない。
「一人歩きは危ないよ、お兄さんが送ってあげよう――ねぇ、エルザちゃん」
 その『お兄さん』は気さくに右手を挙げ、わたしに笑いかけてきた。誰だろう、この人。あの村には、あんな人いなかったはずだわ。通りがかりの旅人かな。
 わたしはお兄さんの申し出に遠慮しようとして、はっと思い出し口をつぐんだ。現在のわたしは対人恐怖症という設定だったわね。それなのに、初対面の相手とすんなり会話してはいけないわ。
「………………」
 わたしは怯えたふりをして後ずさった。お兄さんが近寄るごとに、同じだけ遠ざかる。お兄さんは二、三歩歩いて、一向に縮まらない距離に困ったみたい。お兄さんは、お兄さんの歩幅で大股で三歩辺りで立ち止まって頭を掻いた。
「困ったなぁ……ボクはキミに話があるんだけど」
 お兄さんはあんな事を言ってるけど、わたしには話す事なんて無い。だから、別に仲良くする必要もないの。てへ、ごめんねお兄さん。
 そのとき、わたしに妙案が舞い降りた。そうだ、せっかくだし、このお兄さんを最後の晩餐に招待しようかな。といっても、食べるのはわたしで食べられるのはお兄さんだけど。お姉ちゃんを食べ逃しちゃったし、いいよね? 答えは聞いてない。
 わたしはお兄さんに向けて、『眠りの先住魔法』を唱える。“枝”を使って縛るのも楽しいけど、このお兄さんはメイジっぽくないし、あまりひどいことはしないであげよう。うん、わたしって優しいね。
 そしてお兄さんの血の味を想像しながら、わくわくをおさえて呪文を紡いで――
 ――――ヒュンッ
「え?」
 耳元を、なにかかすめた。なにこれ、熱い。耳を触る。ぬちゃっとした。手をかざしてみた。赤かった。
 これ、は――血? 脳髄が紅くとろけていくのを感じる。血、ち、チ、なんで――?
「おいたはダメさ。大人しくしてね」
 塗れた手から顔を上げると、お兄さんが左手で耳を澄ましながら、右手を真っ直ぐに振り抜いていた。その指先を辿って振り返ると、遥か後方の燃えさかる森、その中の木の一本に無機物の輝きをかいまみた。
 ――あれは、刃物?
「当てる気はなかったんだけどさ。手元が狂っちゃったみたい、ゴメンね」
 お兄さんが右手にナイフを弄んでいる。さっき投げたらしいのは、あれの片割れらしい。らしい。
 なに? お兄さんが投げたの? わたしに傷を? 人間が? 吸血鬼に? 吸血鬼のわたしに、ただの人間が? おかしい。そんなこと、あっちゃだめなのに。

「次においたしたら眉間に穴があいちゃうから、気をつけてね」
 なにを言ってるの? 人間が、人間風情が、わたしを――
 わたしはかぶりを振った。いけないいけない、感情に身を任せちゃだめ。知性の低い幻獣は、そうやって滅んできた。わたしは同じ轍は踏まない。冷静に、冷静に対処する。
 ここでとるべき行動は一つだけ。
「――キャアアアァァァッッッ!!!!」
 わたしは恐慌に陥ったような悲鳴を上げ、顔を蒼白にして尻もちをつく。うふふ、今までの人間は、みんなこれに引っかかってくれたわ。そして慌てて駆け寄ってきて、わたしを人の多いところまで送り届けようとするの。そうやって油断したところを、魔法で動きを止めて血を吸うの。どんなに血も涙もない冷血な人間でも、この技は絶対に隙を見せるわ。
「あれ、そんな反応?」
 でも、お兄さんの様子は、今までの人間たちとは少し違った。肩透かしみたいに眼を丸くして、ひょいと肩をすくめているの。
 あれ、おかしいな? わたしのこと、心配してない。じゃあ、もっと揺さぶってあげる。
「いやああぁぁぁああぁ――――!!!!」
 髪を振り乱して、その場から逃げ出してみせる。どう、この迫真の演技。こうすると、人間は何故か罪の意識みたいなのを感じて狼狽えだすの。変なの。
「えいっ」
 さくっ、とわたしの右足になにか刺さる。同時に焼けるような熱さと、猛烈な痛みがわたしを襲った。
 え、な、に? これ――足に、ナイフ?
「――ああああぁぁぁあっ!???」
「悪いけど、鬼ごっこに付き合う気はないんだよ」
 いたい、痛いイタイ――――
 驚愕(おどろ)いて見上げたお兄さんの金色の瞳には――罪悪など微塵もなく。
 ただ、冷たくわたしを見下ろしていた。

     ○

 夜空を支配する月光への反逆の意を唱えるかのように、煌々と燃えさかる森の赤。そこにぽっかりと穴が開いたように、鈴蘭の草原が広がっている。
 藤色の花びらと炎の燐光が乱れ舞うその草原の中心に、足から紅い血を流す少女と、それを無表情に見下ろす金眼の男がいた。
「だれ? ……だれおにいちゃん? いったいなんなのよ!?」
 少女は大粒の涙を落としながら、半狂乱のように叫んだ。その姿はどう見ても年相応の少女のそれであり、不自然さを微塵も感じさせない。だが、ハタヤマは少女の反応が、さらに期待はずれだったようだ。うんざりしたように首を振り、大きく肩を落としため息を吐く。
「ボクが誰かなんてどうでもいいよ――と言いたいところだけど。まあ、話しづらいからばらしとこう。『ヤマハタ』、っていえば分かるかな?」
 ヤマハタ。エルザはその単語がすぐにはイメージと直結せず、頭に疑問符を浮かべた。だが、ややあって記憶に思い当たるものを見つける。あの騎士が持っていた人形の名前。自分を追ってきたのだろうか。
 何故人間になっているのかは分からないが、あの騎士と繋がりがある以上自分にとって友好的な相手ではないだろうとエルザは判断した。エルザは怯えた表情でハタヤマの顔を見つめ直す。
「ひどい……わたし、吸血鬼じゃないもん! わたしじゃない、かんちがいよ!」
「この期に及んで、まだそんなことを言うのかい? 往生際が悪いなぁ」
「しょうこ、そう、証拠! わたしだっていう根拠はあるの!?」
 エルザはハタヤマに証拠の提示を求めた。彼女を吸血鬼だと決定づける、確たる証拠を持っているのか。そうでなければえん罪である、と言わんばかりの語調である。
 ハタヤマは彼女の態度にため息を吐き、後ろ頭を軽く掻いた。
「証拠――か。まあ、それもそうだね。ならば納得いくように、一つ一つ片づけていこうか」
 ハタヤマはあくまでも警戒を解かず、静かにエルザを見下ろしている。
 数日に渡ったサビエラの村の吸血鬼騒動も、いよいよ最終局面(クライマックス)を迎える。最後の舞台である『鈴蘭の草原』で、結末は語られようとしていた。

     ○

「まず、初日の村の見回り。あの時ボクは煙突の中で、布の切れ端を見つけていたんだ」
 ハタヤマは赤い染めの布の切れ端をとりだした。それは言わずもがなマゼンダ婆さんの着物の切れ端で、無理に破られたのか所々ほつれている。
「まあ、これはタバサちゃんに黙ってたんだけど……何故かっていうと、どうみても陽動だったからね。後で出会ったアレキサンドルのお母さんも、比較的怪しいところは見られなかった。断言はできなかったけど、あのばーさんは殆どシロだとボクは思ってた」
「なんで? おばあさんだから? そんなの理由にならない」
 すかさず食い付いてきたエルザに、ハタヤマはもっともだと頷いた。見た目云々の話では、明確な論拠にはならないからだ。
「あのばーさんが吸血鬼じゃないと判断した理由は二つある。一つが、吸血鬼はとてもプライドが高い生き物だということ。高度な知能を持っている魔法生物……と、こっちの世界では幻獣か。幻獣は、見栄を張りたがるものなんだ。ましてや、魔力もそこそこにあれば、あんな風に村人から嫌疑を掛けられて、黙って我慢してるはずがない」
 力もあり、賢いやつってのは、えてして傲慢なものなんだ、と言ってハタヤマは言葉を切った。タバサによると吸血鬼は変身魔法を使えないらしいので、わざと老人に化けているという線もない。それならば、賢いんだから『これほどまでに分かりやすい証拠』を残すなんてことも絶対無い。何故なら、賢いんだから。
「そして、もう一つの理由は……息子が、『屍人鬼』だったからさ」
「……? 屍人鬼だったから?」
「そう。ばーさんが吸血鬼だってんなら、息子も吸血鬼じゃないとおかしい。余所から連れてきたにしても、あのおっさんはばーさんを大事にしすぎてた。あれは、生半可な精神操作じゃ作り出せない関係だよ」
 あの親子の絆は、どうしても他者を信じられないハタヤマでさえも、本物なんじゃないかと思わざるを得ないほどに深かった。おそらく、あれは意図的に作られたものではない。ならば、なおさらマゼンダ婆さんが吸血鬼である可能性は低くなる。
「ちょっとまっておにいさん。肝心なところがわからないわ」
「ん?」
「おにいさんはなぜ、あの男が屍人鬼だってわかったの?」
 ハタヤマの言い方では、まるであらかじめアレキサンドルが屍人鬼であることを看破していたように聞こえる。屍人鬼は元々人間だったものを使って生み出すので、見た目では判別はほぼ不可能なはずなのに。
 ハタヤマはエルザの言葉で、合点がいったように手を打った。
「あぁ、なるほど。まずそこが問題だったね。でも、ボクは初めてあの人の匂いを嗅いだ瞬間から、あの人が『生きてない』ことを分かっちゃってたんだよ」
「……なぜ?」
 ハタヤマは息を切る。
「……あのおっさんから、『死臭』が香っていたからさ」
「………………」
 エルザはじっとハタヤマを見上げた。少なからず、彼に驚愕を感じながら。それにハタヤマも気づいているようで、不敵に口の端をにやりと上げた。
「始めはおっさんらしからぬフローラルな薫りを発してたから、何事かと思って調べただけなんだけどさ。匂い袋を見つけたとき、まさかとは思ったんだよ。でも、取り上げて改めて匂いを嗅ぎ直して確信した。この人から――肉の腐った匂いがする、ってね」
 屍人鬼は、その本質に『死人』という属性を持っている。いわゆるゾンビであり、その根本は死体なのである。故に、息をして喋り、日中に活動しようとも、心臓が動いていないので、その肉体は徐々に腐っていく。たとえ如何なる魔法でも、肉体の腐敗は防げない。それをするならばその肉体の時間を止める――絶対零度による凍結か、時間停止魔法でしか為しえない。だからこそ、アレキサンドルはあのような似合わないアイテムを持っていたのである。
「おにいさん、ここまでの話は分かったわ。けれど、それとわたしが吸血鬼だって事はどうやってつながるのかしら?」
「慌てないでくれ。ボクの推理にはまだ続きがあるからさ」
 ハタヤマはまぁ待て、とでもたしなめるようにエルザの言葉を遮った。だんだんと興が乗ってきたようだ。
「初日の調査で分かったのは、結局のところ『屍人鬼の正体』だけ。煙突に布の切れ端があろうと、そんなもん足さえ動けば誰だって仕掛けられるんだから、そこまで有益な情報は得られなかった」
 ハタヤマはため息をつく。
「吸血鬼は用心深いって聞くし、滅多な事じゃ尻尾を見せないだろうと思ってた。だから、どうしようか考えてたんだけど……」
 ハタヤマに笑みが浮かぶ。
「あの晩、やらかしてくれたね」
「『あの晩』?」
「そう。あの晩、君が屍人鬼に『襲われた』。あれは決定的だった」
「――?」
 ハタヤマはエルザを見つめた。
「分からないのかい? これほど慎重で鳴らしている吸血鬼が、こんな大胆な行動に出る理由なんてそういくつもない。そして、ただ単に捜査を攪乱したいが為だけに、こんな危ない橋を渡るはずがない。ならば、考えられるのは二つだけだ」
 ハタヤマは指を立てる。
「ひとつは、騎士のそばで犠牲者を出して、村人たちを恐慌に陥れるため。もし成功していれば、おそらくあの時の状況では、不信が爆発してマゼンダさんが魔女狩りされてただろうね。もう一つは偽装工作。ようするに、注意をある特定のなにかにそらすための陽動さ」
 だが、ハタヤマはかぶりを振る。
「でも、前者にはある前提がつく。すなわち、『必ず犠牲者が出なければならない』ということ。つまり、実際にキミが死んで、騎士の信頼性に傷がつかなければ、村人たちという爆弾に火がつかない」
 ハタヤマはにこりと笑みを作る。 
「でも、こんな土壇場で『用心深い』吸血鬼さんがしくじるとは思えないから、ボクはこの仮説はハズレだと思った。――だから。必然的に、正解は後者しかありえないんだよね」
 ハタヤマは彫像のような笑顔で笑っている。情報を集め、整理し、導き出された回答に基づき、淡々と彼は推理を進める。そこには憶測も妄想もなく、理論と必然のみが至上とされていた。エルザは眼前にたたずむ素性不明の男が、まるで魔王のようだと錯覚し、冷たい汗を一筋流した。
「後者であるなら、あの出来事にはなにか重要なヒントが隠されているはずだ。なにせ『用心深い』吸血鬼さんが危険を冒してまで起こした行動なんだから」
 ハタヤマはあごを揉みながら、わざとらしく唸る。
「たぶん、向こうさんはなかなか騎士が隙を見せないから、いいかげん焦れてきちゃったんだろうね。そこで彼女らに揺さぶりを掛けて、なおかつ自分への注意を最大限逸らす作戦を思いついた。『自分を襲わせて、騎士の反応を見よう』、ってね。――もとより、始めから疑われてなんかいなかったのに」
 やれやれとハタヤマは手を広げ、首を振った。浅はかである、と言わんばかりである。エルザは頬に朱を走らせ、ハタヤマに敵意の視線を向けた。
「あれで九割方決まっちゃったね。たとえタバサちゃんが張っていたとしても、あの場面で屍人鬼がキミを殺さない理由がない。だとすれば、理由がないところに、秘密が隠されている筈だからね」
 微細な不自然や違和感は、別の角度から覗き込めば真実を映し出すという。ハタヤマの感じた違和感は、吸血鬼にとっての真意に結びついた。
「もっとも、その次の『匂い袋乱射』には面食らったけどね。おかげでとんだ無駄足を食ったよ。効果抜群さ。なんのために忍ばされたのか分からないから誰が持ってるか確認して廻らないといけないし、もしかしたらこれも死臭を隠すためのものかもしれない。万が一、屍人鬼が複数作れるなんてことになってんなら、なおさら不味いことになる。色々な可能性を考慮して、ボクはこの匂い袋の裏付けをとるために、村中を奔走しなければならなくなったのさ」
 おかげで魔女狩りを止められなかった、とハタヤマは皮肉気にため息をつく。たとえなんの意味もなかったとしても、動きがあった以上無視はできない。結果、ハタヤマは貴重な半日を調査に割かざるを得なくなり、一部の村人の愚行への対応が遅れてしまったのである。
 この捜査も、通常であれば数日はかかってしまっただろう。小規模な村とはいえ、人工は一応百近くある。村長に依頼して皆を集めさせたとしても、一人一人診察するのでは埒があかない。だが、ハタヤマには他の何者にもない突出した才能、『超感覚』があった。それで強化された嗅覚にさらに魔力による補正を掛け、村内を駆けめぐることでやりきったのである。ハタヤマの『超感覚』をもってすれば、すれ違うだけで懐に忍ばせた恋文の場所を言い当てることすら可能である。
「そして、とにもかくにもマゼンダ邸へ突入して、森へ入って今に至る……ってわけさ」
 ハタヤマはこれで演目はお終い、とでもいうように、慇懃なお辞儀を披露した。エルザはそんな彼を、不愉快そうに見上げる。彼女はまだ、納得がいっていない。
「いじがわるいわね。きのうの晩に答えがでていたのなら、そのばでわたしをとらえてしまえばよかったんじゃない?」
「いやまあ、そうなんだけどね。やっぱり確証がなかったからさ。万が一外れたら一大事だから、滅多なことはできなかったんだよ」
 ハタヤマはエルザの意見に、もっともだと頷いた。失敗が自分だけに降りかかるのであれば、あの場で決めてしまってもよかった。だが、現在、タバサのパーティーに組み込まれている状態では、自身の粗相がリーダーであるタバサへの悪評になってしまう。故に、決断がためらわれた。
 地面にしゃがみ込んだまま、ハタヤマを見上げているエルザの瞳が怪しく光った。
「じゃあ、いまの状況はどうせつめいするの?」
「ん?」
「おにいさんの言っていることは、全部憶測と推測でぬりかためたようなほらばなしよ。全部、おにいさんが調べて、推理しただけ。それを裏付ける根拠のようなものはなにもない」
 ここまでのハタヤマの考察は、全て彼の中だけで組み上げられたもの。確かに、もっともらしくはあるが、それらの内容は全て彼だけが調べ、彼だけしか知らない証拠によって構成されている。故に、それは彼以外にとっては、なんの説得力もない。
「おにいさんはおもいこみだけで、わたしを犯人だと決めつけるの? その論理は――わたしを殺せるの?」
 エルザはハタヤマの瞳を、その裏側にあるなにかを見透かそうというように覗き込んだ。目の前の男は、ただ一人、自分だけが信仰する論理で、彼女を断罪しようとしている。だが、それはある側面ではとても危うい姿を見せる。
 心とは弱いものだ。たとえその持論に確固たる自信があったとしても、他の者に「本当に?」と疑いの眼差しをむけられれば、すぐにひよってしまうほどに。エルザはハタヤマの内に眠っているはずの『弱気』を揺り起こし、骨抜きにしようと毒を撒いた。
 ハタヤマはエルザを見つめ返した。
「……たしかに、今までのは一般向けのでっちあげさ。『超感覚』はボクしか持ってないし、ただボクが語るだけでは説得力なんてない」
 エルザはにやりと口元を歪めた。この男も、少し弱みをを小突いただけでふらついた。これなら、なんとでもなるはず。
 だが、続く彼の言葉に、エルザは面食らった。
「でも、吸血鬼はキミでしかありえないんだよ」
「え?」
 エルザは足の痛みも忘れ、間の抜けた顔でアゴをおとした。ハタヤマは柔らかい微笑を浮かべる。
「言ってなかったけど、ボクには一つ特技があってね。いや、欠点、かな? ボクは『人間じゃない生き物としか』話せないんだよ」
「……???」
 彼の発することの意味が理解できないエルザ。だが、ハタヤマはエルザの様子など気にも留めず続ける。
「困ったもんさ。この世界の人間の言葉は、話すどころか聞くこともできやしない。でも、なぜか幻獣たちの声だけは、聞くこともできるし話すこともできる。――そして、キミの言葉だけは、この村で唯一理解できた」
 ハタヤマはエルザに笑いかけた。
「それだけで、ボクには十分な理由なのさ」
「ま、まっておにいさん? なにを言って」
「もちろん、万に一つの可能性として、キミが『例外』であるかもしれない。でも、ことここに至って、アレキサンドルのおっさんが『死ん』で、そして目の前にキミがいる。もうこれ以上は必要ない」
 ハタヤマはナイフを逆手に持ち直し、ゆっくりとエルザとの距離を詰める。視線は外さない。
「それに、じつは始めからキミは怪しかった」
「え……?」
「キミが初日に服を脱いで、素肌をさらしたとき。――キミから、鈴蘭の香りがした。匂い袋なんて持っていないにもかかわらず、ね」
 激しい横殴りの突風。あおられた鈴蘭は花弁を散らし、白い吹雪きとなり舞った。ハタヤマはそんな幻想的な光景を纏い、花畑を一歩踏み出す。
「ま、まって! そんな、そんな直感でしかないこじつけで……っ!?」
「こじつけで結構。キミが今ここで終わることに変わりはないよ」
「わ、わたしが本当にぬれぎぬだったら――!」
 両手を前に振り乱し、嫌々と首を振るエルザ。そんな彼女に、ハタヤマは言った。

「そん時は地獄で土下座しよう。先に逝って、待っててね」

     ○

 ――この男は本気だ
 エルザは高速で呪文を詠唱し、眼前の脅威へ殺到させた。
「“枝よ。伸びし森の枝よ。彼の身体をからめたまえ”!」
 唐突に花の林から薄黒い触手のようなものが飛び出し、ハタヤマの身体を拘束した。吸血鬼の操る先住の魔法である。ハタヤマは抵抗する間もなく肉体を樹木に絡め取られ、ギリギリと締め上げられる。
「ぐっ、ぐぐ……っ」
「すごい自分への自信ね。誇大妄想といってもいいくらい」
 エルザは宙づりに吊されたハタヤマの足下へ、見上げるように進み出た。
「そうよ。わたしが吸血鬼。この村を騒がせる事件の元凶。おにいさん、思考の過程には難があるけど、正解には辿り着いたみたいね。一応、ほめてあげる」
「そりゃ、どうも」
「ついでだからおしえてくださらない? どうやってこの場所を、そしてわたしがここにいるって気づいたの?」
「ここは、あの村へ来る途中のシルフィちゃんの背中から。かすかに見えてたのを覚えていたのさ。キミがここにいることは……」
 ハタヤマはニヒルに口を歪める。
「タバサちゃんと戦ってるとき、視線を感じていたんでね」
「うふふ。なるほどね、お見通しってわけかぁ」
 エルザは極上の笑みを浮かべる。結局の所、ハタヤマは最初の最初から、ずっとエルザを疑っていたのだ。彼女にはよく分からない理由が大部分の切っ掛けだろうが、結果的にそれは彼を真実へ導いた。
 今まで現れた追っ手たちは、自分のことを疑いすらしなかった。彼女は自分をここまで追いつめた初めての男に、強い興味と好意を感じた。
「ご褒美にわたしの“屍人鬼“(しもべ)にしてあげる。おにいさんぐらい使える人なら、殺すなんてもったいないわ。剥製にしてコレクションしたいところだけど……それは、おねえちゃんたちで我慢してあげる」
 エルザはにぃ、と人差し指で頬肉を引っ張った。さらけ出された歯。その中に、異常に発達した糸切り歯が歯茎から現れた。肌を裂き、肉に食い込ませるための犬歯である。
「よろこんでいいわよ、おにいさん。しばらくはまた放浪することになるだろうから、大事に大事に使ってあげる。身体だって拭いてあげるし、特製のポプリも作ってあげるわ」
「それはそれは、ありがたいね」
「ふふ、つよがっちゃって」
 エルザはゆっくりとした動作で、ツタをよじ登り、ハタヤマの肉体へとしがみつく。狙いは首筋。そこへ己の牙を突き立てる様を想像し、早くも恍惚とした表情でうっとりしている。
 ハタヤマはナイフを握った腕に力をこめ、脱出を試みた。だが、からみついた枝はミシリ、と湿った音を立てるだけでびくともしない。
「むだよ。生きた樹木をひきちぎるなんて、それこそ熊みたいな大男でもないかぎりできないわ。おにいさんはここでわたしに血を吸われて、新しい生き物にうまれかわるの」
「……キャンセルできない?」
「だーめ」
 言葉を交わす間にもエルザはするするとよじ登っていき、ついにハタヤマの首筋に手を掛けた。眼前には困ったように顔を引きつらせたハタヤマ。冷や汗を流している彼の姿は、彼女の加虐心を刺激した。
「ふふ……おにいさん、かわいい」
「あぁ、ダメ! ボクには幼女趣味なんて無いんだ! 離して、離れて、近寄らないでぇー!!」
「だれが幼女よ! レディーにむかってしつれいねっ!!」
「おっふぁッ!」
 ハタヤマは全身を固定された状態で頬を張り倒され、くぐもった悲鳴を上げた。この期に及んでふざけるとは、最後までやりきれない男である。
「これからの御主人様に向かって、なんてことをいうのかしら」
「いつつ……でも、キミがどうしてもっていうんならやぶさかでもない」
 ハタヤマはきりりと表情を引き締める。その黙っていれば平均よりやや上なルックス。唐突なハタヤマのマジ顔に気圧され、エルザは息を呑んだ。
「な、なによ……」
「恥ずかしがらなくてもいいさ。ボクは罪な男だから、出会う女性全てに惚れられてしまう。キミもそのたぐいなんだろう?」
「はぁ?」
「わかってるって! さあ、誓いのベーゼを交わそうじゃないか。んー」
「きもいわぁ――――ッ!!」 ビダダダダダッ!!
「ぐばばばばばばッッッ!???」
 目を閉じ、口をすぼめるハタヤマ。キモさここに極まれり、である。エルザはその姿に全身に鳥肌を立て激昂した。
 樹木による拘束を強められ、往復ビンタを喰らうハタヤマ。子どもの姿に似合わぬその威力に、ハタヤマは悲鳴を上げて顔の形を変えていく。
 彼女の怒りが収まる頃には、林檎のように頬を膨らませたズタボロの男が出来上がっていた。
「はぁ、はぁ……なんなのよこいつ」
「な゛、なぜぇ゛~」
「自分の胸に聞いてみなさいっ!」
 エルザは肩で息をしながら、心中途惑いを隠せなかった。これまで襲ってきた獲物たちは皆、最後には恥も外聞もない命乞いをしてきたというのに。目の前の男は、死を恐れる素振りを見せない。それどころか、ふざけて自分を挑発までしてくる。この男、命は惜しくないのか。エルザは今までの何者にも当てはまらないハタヤマの反応に戸惑い、彼の真意を量れない。
 なにか狙いがあるのか――
「――そうか!」
「っ!?」
「ボクが愛しすぎて気持ちが抑えられないんだね! 可愛いところがあるじゃ「まだいうか――!!!!」」
「おぼぉ゛゛゛ッ!!!!」
 ――ないな。
 エルザは悟った。この男、なにも考えていない。
 ハタヤマはエルザの、美しい軌跡を描いたボディブローが鳩尾にクリーンヒットし、陸の魚のように身体をくの字に曲げ悶絶した。角度が好すぎて息が出来ないらしく、酸素を求めて口をパクパクと開閉している。
「もういいわ。さっさと済ませましょう」
「……い」
「い?」
「痛く、しないでね……」
「………………」
 エルザは失望した。ここまでくると興醒め、わざとにしてもつまらなすぎる。
(さっさと終わらせよう)
 そう思い、彼の成人男性らしい太い首筋に牙を突き立てるため、エルザは大きく口を開けた。
「……悪いね」
 小さく、呟く声が聞こえた。エルザは疑問に感じたが、それを追求する暇もなく。彼女は目を疑った。
「――チェンジッ!!」
 吼えるようにハタヤマは叫び、同時に彼の身体から強烈な『なにか』が吹き出す。この感覚は、先住魔法を操る彼女にも馴染みのあるもの。純粋なる、魔力である。
 続いて、閃光と煙幕。エルザは思わず目をつむり、目を覆った。そのためにハタヤマの身体から手を離してしまい、落ちて地面に尻もちをついた。
「きゃっ?! な、なにこれ!?」
 べしゃり、という音と共に重い粘ついた物体が、彼女の身体に覆い被さった。エルザは予想外の事態にひたすらもがき、呪文を紡ごうとするが、顔どころか全身を呑みこまれているので満足に抵抗をすることも出来ない。
 エルザは必死にもがき、目を見開く。すると目前には、緑色の液体に透過された、緑の視界が広がっていた。
(――スライム?)
 指先に触れるぬるぬるとした感触、全身を濡らすしっとりとした粘液のようなもの。男に噛みつこうとしたら、いつの間にかスライムに組み伏せられていた。その道理に適わぬ不可思議な状況変化に、彼女は冷静さを失って必死にそれから這い逃れる。
「――っぷあ! な、なな……っ?!」
「やっぱり、キミはただの子どもだ」
 四つんばいで目を白黒させるエルザへ、背後から声が掛けられた。振り返れば、そこには先ほどのスライムがぐねぐねと身を揺らしている。このスライムは何処から現れたのか、それより、さっきの男は何処へ行ったのか。エルザは乱れきった思考を懸命にまとめながら、それでもやはりまとめられず、呆然と座り込んだままスライムを見上げるしかなかった。
 スライムは一瞬眩い輝きと煙を放ち、エルザはその眩しさに目をつむった。そして彼女が恐る恐る眼を開けると、そこには先ほどの金目の男が、悠然とエルザを見下ろしていた。
 エルザは目を疑う。直前まであの男は、私が仕掛けた枝でがんじがらめに縛られていたはずだ。それが、スライムが現れて、今度はあの男が現れて? しかもスライムも消えた? いったいなにが起こっている?
「始めは憎しみかなにかで人を襲っていたんだろうけど、いつからか獲物をいたぶる愉悦……己のサディズムを満たすためだけに、殺しに溺れるようになった。復讐を果たすための手段が、別の目的を満たすためのものに成り下がってしまったんだ」
 ハタヤマは、エルザをまるで哀れむかのように目を細めた。だが、エルザはもう、ハタヤマがなにを言っているのかなどどうでもよかった。
 恐い。得体が知れない。
 ただ、ただ目の前に佇む、漆黒の闇を全身に纏ったかのような男が――恐ろしい。
「ひ……っひ……っ……ひ……っ!!」
「あ」
 エルザは悲鳴を漏らしながら、なりふり構わず、未だ火勢衰えぬ森へ駆けだした。最初に傷つけられた足は、もう治り始めていた。
 ハタヤマは、痛む足を引きずるようによろよろと走るエルザに、間の抜けた声を上げ手を伸ばした。しかし、すぐに思い出したように手を引っ込め、口中に呪い(まじない)の言葉を紡ぐ。
「“枝よ。伸びし森の枝よ。彼女の身体をからめたまえ”」
「っ゛、ッッ!!?」
 シュルシュルとなにかが擦れる音。同時に、エルザは全身を樹木に絡め取られ、身動きを封じられてしまう。
 エルザは絶句した。これは、自分がもっとも得意とする先住魔法――
「――だった、かな?」
 ――それを、この男が操った?
 エルザの視界にはいるようにハタヤマは移動した。彼は悪戯っぽく笑みを浮かべながら頭を掻いている。もう、エルザはなにがなんだか理解できなかった。
「キミは三つの失敗をした。最初の失敗は、下手な小細工を仕掛けたこと」
 ハタヤマは、そう言ってひらひらと服の切れ端を見せつける。
「次の失敗は、おっさんを囮にしたとき、すぐにこの村を離れなかったこと」
 ハタヤマは布きれから手を離した。それは炎によって乱れた風に乗り、遥か彼方へ消えていく。
「そして、最後の失敗は――」
 ハタヤマは歩を進める。
「ボクの能力を、『人化』のみだとあなどったこと」
 ハタヤマは枝を操り、エルザを自分と目の合う高さへ降ろした。そして、自分の口の端に指を引っかけ、右の糸切り歯を見せつけた。
「――ッ!???」
「そう」
 ハタヤマは嗤った。

「ボクが”メタモル“できるのはね。

               ――人間だけじゃないんだよ」

 ハタヤマの口中に、ギラリと燦めく鋭い牙。そう、ハタヤマは、“吸血鬼”にメタモルしたのである。
 彼が操りし魔法は“メタモル魔法”。生きとし生けるもの、その全てに『変身』できるという、ある種巫山戯たような大魔法。それは、たとえ絶滅寸前の高位幻獣であろうが例外ではない。
「さて、ここで質問だ」
 ハタヤマは人差し指を立てた。
「キミが人間の血を吸って腹を満たすのと、ボクがキミの血を吸って腹を満たすこと。これに、なにか違いはあるかな?」
 ハタヤマはニコリと嗤った。エルザは彼のその邪笑に、ガタガタブンブンと首を振る。呼吸は喉が引きつって上手く出来ず、かすれた音が鳴っていた。
「キミはやりすぎた。でも、だからといって問答無用で駆除されるのは間違ってる。かといって、無罪放免で見逃してもらえるほど、世界ってのは優しくないものさ」
 ということで、と、ハタヤマはエルザの肩に手を掛ける。
「キミには『誓約』を掛けさせてもらおう」
 その言葉に、エルザは怯えながらも首をかしげる。ハタヤマはエルザが意味を理解していないと見て、一応説明しておくことにした。
「“吸血鬼”という種族は、別の吸血鬼に血を吸われると、血を吸われた吸血鬼は吸った吸血鬼に決して逆らえなくなるらしい。絶対服従、ってやつさ」
 タバサちゃんの受け売りだけどね、とハタヤマは場違いに笑った。しかし、それを聞かされたエルザの方は心中穏やかではいられない。
「ボクは約束した。あのおっさんと、そしてシルフィちゃんと、タバサちゃんとも。でも、キミを殺したくないというのも本当のところさ。だから、キミを野放しにはできない」
 故に、キミに罰を与える。そう言って、ハタヤマはエルザの頭を撫でた。エルザはハタヤマのことが恐ろしかった。だが、彼の手のその温もりに、彼女が久しく感じたことの無かった、『なにか』を感じたような気がした。
「それでは、“いただきます”」
 エルザは首筋にちくりとした痛みを感じ目をつむる。同時に、これまで休まることの無かった、緊張の糸が切れたような気がした。
 そして、彼女の薄れゆく意識の中で、亡き父と母の夢を見た。



 戻りたい。でも、もう二人ともいない。



 こぼれ落ちる一筋の涙。
 その涙を、誰かが拭ってくれた気がした。

     ○

 夜が明けた。
 混乱を極めた闇夜が去り、村には平穏が戻ってきた。しかし、日常のすべてが戻ってきたわけではない。失われたものは多い。
 まず、森が焼け果てた。日々の糧を得るための場、木の実に山菜、そして動物。それらの恵みを生み出す大切な場所は、一夜にして死に絶えた。植物は消し炭と化し、また、大きな傷を負い、そこを住処としていたものたちは、危機から逃れるように姿を消した。
 そして、犠牲者。幸い、山火事による被害は無く、数名が軽症を受けただけですんだ。しかし、この事件による被害は多く、吸血鬼による死者、ボロの男、そしてアレキサンドルとマゼンダ。そして――

     ○

「きゅい! やっとおわったのね!」
 シルフィードは開放感あふれる声を上げ、背に座り本を読みふけるタバサへ笑いかけた。タバサはシルフィードに一瞥もくれず、お弁当として渡されたハシバミ草のサラダをもさもさと頬張っている。シルフィードはそんな主のいつもどおりな姿に、無視されたことも気にせず鼻歌を歌いだした。
「かえったらお肉、おなかいっぱいお肉~♪ るる、るーるる」
「………………」
 サビエラの村ははるか遠くに消え、眼下の景色も青々とした草が茂りだした。シルフィードは、未だ煙を上げる消し炭の森の上を飛んでいたころより、ずいぶん楽しそうである。まあ、誰だって痛々しい爪跡の残る光景など、好んで見たくはないだろう。やっと事件が片付いたこともあり、心は晴れ渡っているようだ。
「…………ねえ」
「きゅい?」
 珍しく、タバサが話しかけてきた。タバサが自分からボールを投げてくることなど、ルイズが魔法を成功させること以上に貴重な……いや、そっちのほうが確率は低いかもしれないが。とにかく、それぐらい稀有なことであるから、シルフィードは不思議に思い、心の中で喜びながら振り返った。
「なんなの? なんでも聞くの!」
「………………」
 タバサはシルフィードの瞳をじっ、と見つめ、口を開いた。
「……どう、思う?」
「ハタヤマのこと? 大丈夫なの! あいつはいいかげんだけど約束はまもる……」
「違う」
「きゅい?」
 タバサはいつものぬぼーっとした表情を崩さず、シルフィードの眼を覗き込んでいる。ハタヤマのことではない、ならばなんのことだろう、とシルフィードは首をかしげた。マゼンダは必要な路銀を渡し、途中の村でガリア王都行きの馬車へ乗せた。長時間の竜の旅は、老体にはかなりの負担になることが予想されたからだ。マゼンダとは現地で落ち合う約束なので、そちらの方も心配はないはずである。
「……私が」
「お姉さまが?」
「……私が、間違ってたと思う?」
 タバサの問いかけは無感情で、精巧な人形を想起させた。だが、シルフィードは己が主人の瞳に、確かに不安の影を感じ取った。
「なんのことなの?」
「……あいつは私のことを間違っていると言った。あなたも、そう思う?」
 シルフィードは、タバサの眉間にわずかながらの皺を発見した。それはともすれば気がつかないほどのわずかな変化だが、彼女と常にともにあるシルフィードは見逃さない。これほどに思い悩むタバサを見るのは、シルフィードも初めてであった。
 シルフィードはなんだ、そんなことかといわんばかりに明るく答える。
「大丈夫なの! お姉さまはわるくないの。お仕事だからしかたのないことなのよ」
「……だめ」
 迷いのないシルフィードの返答。しかし、タバサはそれをポツリと否定した。予想外の主の否定に、シルフィードは一瞬時が止まった。
「きゅい? だ、だめって……なにがだめなの? シルフィ、嘘ついてないよ?
お姉さまはお姉さまの事情があるし、事件の解決する方法としても間違ってなかったのよ?」
「……じゃあ、私がやろうとしていたことを、見ず知らずの誰かがやろうとしていたら。あなたは、どうする?」
「うっ!? うにゅ……」
 タバサの急所を突く切り返しに、シルフィードは言葉に詰まってしまった。どうやらあのおかしな珍獣の行動は、タバサの胸にも巨大な波紋を残したようだ。
 タバサはさらに続ける。
「……あなたは私の使い魔だから、私の行うことに疑問を持たない。だけど、それは危険なこと」
「危険?」
「……私が本当に間違えたとき、あなたは巻き込まれてしまう」
「そんなことあるわけないの! お姉さまはお優しい人だから、悪いことなんて絶対しないの! シルフィはお姉さまとずっと一緒なのよ!」
 タバサの言葉を、シルフィードは間髪いれずさえぎった。そんなシルフィードの姿に、不意にタバサは表情を和らげる。それはシルフィードが今まで見たこともないほど穏やかで、彼女はしばし見惚れた。
「……あなたは、あなただけの意志を持たなければならない」
「意志?」
「……他の誰にも左右されない、決して揺るがない大切なもの」
 タバサは本から視線を上げず淡々とシルフィードに語る。タバサは、結果とはいえ自分が選ぼうとした道以外の結末を見せつけられ、色々と考えさせられたようだ。以前のタバサならば、使い魔とはいえ自分以外の誰かに干渉するようなことはしなかっただろう。だが、彼女は今、シルフィードの行く末を憂い、それを正そうと働きかけている。これは彼女にとって大きな進歩……なのかもしれない。
「??? なぁに、それ? シルフィ、分かんないの!」
 シルフィードは若干秒うんうんうなり、そして思考を放り出した。彼女にはまだ難しすぎたのだろうか。
「……じゃあ、宿題」
 タバサはクスリと笑みを溢した。それをめざとく見つけたシルフィードは、少し喜色ばみながらも抗議する。
「あー、なにそれ! お姉さまいぢわる! ヒントちょーだいヒント!」
「……解けるまで、お肉無し」
「きゅいいぃ!!!? それはひどいのー!」
 お姉さまが冗談を言った。今日は槍が降るかも知れない。
 タバサのジョークに大部分本気でショックを受けながら、シルフィードは嬉しくてたまらなかった。

     ○

 禿げ上がった森を抜けると、眼前にはどこまでも続く地平線が広がった。炭を踏み越え、ようやく街道に辿り着いたらしい。ハタヤマはやっと辛気くさい光景を抜け出したと、満足げに息を吐いた。
「いやー、結構歩いたね。あの森がこんなに茂ってたとは思わなかったよ」
「………………」
 ねぇ、と言わんばかりに微笑みかけるが、残念なことに返事はない。日中でも人間状態を保っているハタヤマの見下ろした先には、うす灰色のフードをかぶった少女がいた。
「そんなむくれてないでさー、こっち向いてよエルザちゃーん」
「うるさいっ!」
 怒鳴った拍子にフードがめくれ、紅い瞳と牙が露わになる。その少女はやはりというか、吸血鬼のエルザであった。彼女は今にも飛びかからんばかりの憤怒をまき散らし、ハタヤマの黄金の瞳を睨みつける。だが、ハタヤマはそんな彼女の殺意もどこ吹く風。鼻で笑って一蹴した。
「殺しもせず、かといって逃がしもせず……屈辱の極みよっ!」
「おーよしよし、怒った顔もかわいいねー」
「頭をなでるなぁっ!」
 なでなでする手を払いのけるエルザ。わなわなと肩を震わせ、噛みしめた歯からはギリギリと歯軋りが聞こえてきそうである。ハタヤマははたかれた右手をさすりながら、おお恐い、と肩をすくめた。
 ハタヤマは吸血鬼にメタモルしエルザの血を吸った後、彼女にある『暗示』をかけた。それは彼女にとって生ぬるくもあり、同時に耐え難いほど禁欲的なものだった。
「『致死量の血を吸うことを禁ずる』なんて、やっかいな誓約をかけてくれたものね」
「ははは、『血を吸うな』よりは良心的だろ?」
「ふざけないで! いったいなんのつもりなのよ!? こんなまどろっこしいことをするくらいなら、さっさとわたしを殺せばいい! それですむ話でしょうっ!」
「ダメだよ」
「なにが――!」
 エルザは荒々しく詰め寄った。ハタヤマはその肩に手を掛け、しゃがみ込んで目線を合わせる。エルザは両手をハタヤマの頬にあて、掴みかかろうとした。しかし、それはできなかった。何故なら。
 ――覗き込んだハタヤマの瞳が、全く笑っていなかったからである。
「キミは悪いことをしたんだ。なら、相応の報いを受けなければならない」
 ハタヤマはエルザの頭にポンと手を置く。
「死ねば済む? はは、寝言は寝てから言ってくれよ。――キミには、生き地獄というやつを味わってもらう。這い蹲ってでも生きてもらうよ」
 エルザは絶句していた。ハタヤマの瞳は金色の筈なのに、その奥底には闇よりも深い黒を内包している。彼が言っていることは善なのに、やっていることは善ではない。エルザはハタヤマの言動に、二重人格の如き乖離を感じとり、得も言われぬ恐怖に身を竦ませた。
「ただ『生きる』のは簡単だけど、『世界の中で生きる』ってのは難しいんだ。自分だけじゃなく、他のことにも気を割かなくちゃいけない。自分の都合だけで振る舞ってちゃ、『生きている』とは言えないんだ」
 ハタヤマは立ち上がり、遠くを見つめながら呟く。なにかを思い出すような、懐かしむような横顔。エルザはそこに、何故か自嘲のような雰囲気を感じ取った。
「キミは必要のない殺生をした。それは、『世界』にとってよくないことだ」
「ふんっ! じゃあ、わたしのパパとママを殺したことは、幻獣を『危険だから』って理由で殺すのはいいの? 害を為すから、殺戮してもいいって言うの?」
「だから、キミも殺すのかい? 殺されたから、殺し返すと?」
「そうよっ! あんな野蛮で低脳なやつら、みんな死んでしまえばいい! 自分たち以外の生き物を殺して、世界を壊して、汚して、そのくせなにも生み出しやしない! 作る物といえば、壊す物や殺す物ばかり! 人間なんて、この世界には必要ない害獣なのよ!」
 エルザは激情に流され捲し立てる。ハタヤマのズボンの裾を握りしめる手は、引きちぎらんばかりに力がこめられていた。
 ハタヤマはエルザの言葉に、大きく一度頷いた。
「確かに一理ある。――でも、それでも、殺しちゃあダメだ」
「なんで――なんで……っ!」
「何故なら、『数が多いから』さ」
「……っ!?」
 エルザは絶句した。まさかそんなことを理由にされるなど、考えもしなかったからだ。ハタヤマは続ける。
「『世界』ってのは良くも悪くも、数が多い奴が主導権を握ってる。残念なことに、数が少ない生き物たちはその他大勢でしかないのさ」
「そんな、そんなこと――納得できるわけ……っ!」
「しかし事実さ。現に、キミたちは絶滅しかけている。キミたちの数が人間より多ければ、こんなことにはならなかったはずだ。『多い』ってことは、正義なんだよ」
「じゃあ、奴らをわたしたちより減らせば!」
「そのために殺し続けるのかい? 見たところ、残ってんのキミ一人だけだろう? 一人で、何時終わるとも知れない狩りを始めるつもりかい?」
「さ、探したら、きっと仲間がいるはず……」
「いたとしても数十人くらいだろう? そんなんで数億もかくやとうじゃうじゃしている生き物を相手にやりあうつもりなのかい? 殺して、殺して、殺し続けて――どちらかが絶滅するまで殺りあうのかい? ――正気の沙汰とは思えないね」
 エルザは憤り、両手のひらに爪が食い込み、血が滲むほど握り締めた。しかし、言い返す言葉がでてこない。一人では、非力で矮小な独りぼっちの自分では、そんなことができるはずないことを分かっているのだ。
 ハタヤマはうつむいたエルザの頭を撫でた。
「――まあ、今言ったことは極端な話だけど。それでも、万に一つに賭けるような生き方は賢くない」
「………………」
「『生きる』ことは闘いさ。でも、それは殺し殺されるような形しかないわけじゃないんだ」
「――……?」
 エルザは疑問符を浮かべた。ハタヤマはやわらかく笑みを浮かべた。
「これが、僕がキミに与える罰。今までとは違う、新しい生き方を探すこと。『生きる』とはどういうことなのか、キミだけの答えを探すんだ」
「……謎かけのつもり? くだらないわ」
「たしかにそうさ。至極くだらない、禅門答というやつだよ。――でも、これは大切なことなんだ」
 エルザは復讐のために人を狩り、そして怪物となってしまった。しかし、その生き方では『生きる』ことができないとハタヤマは断じる。ならば、彼の『生きる』という事柄は何を指すのか。エルザは、一瞬だけそのことについて逡巡し――ドブに捨てた。
「そんなものを解かなくても――おまえを殺せば、それで元通りよ」
「うん? やってみるかい?」
 ハタヤマの口元がつりあがると同時に、強烈な威圧感が噴出した。エルザはその圧倒的な重圧に、背筋を冷たい汗で濡らす。
 勝てない。彼女は本能的に悟った。しかし、精一杯の虚勢を張り、体を震わせながらも高飛車な態度を崩さない。
「いまは敵わないけど……いつかきっと、あなたの息の根を止めてあげる」
「ほう、面白いね。楽しみに待ってるよ」
 ハタヤマはニコリと微笑み、ズボンのポケットをまさぐった。そして円形のなにかを取り出し、エルザの手に握らせる。
「……?」
「これはボクの故郷のマジックアイテムでね。魔力を込めた相手の位置を、指し示してくれるんだよ」
 中心に小さな魔石がはまったコンパス。ハタヤマの世界では、未開の地や遺跡探索へ赴く魔女っ娘たちのために利用されるものである。探索中の不慮の事故により行方不明になったとき、このコンパスを頼りに捜索隊が組まれるのだ。エルザに手渡されたコンパスにはハタヤマの魔力が注入されており、中心の魔石が仄かな蒼い輝きを放っている。
「ボクが『この世界にいる限り』は、そのコンパスが道しるべになるはずさ。助けが必要なときは、気軽に訪ねてくると良いよ」
「……バカじゃないの? 命を狙うといってる相手に、そんなものを持たせるなんて」
「キミ如きには負けやしないよ。それに……」
 ハタヤマは立ち上がり、地平線の彼方を見据える。そこには、豆粒ほどの大きさだが、馬車の姿があった。
「――何も持たせずに放り出すのも、心配だしね」
「……?」
「悪いけど、ボクにもボクの都合があってね。キミとはここでさよならだ」
 ハタヤマは馬車に向かって大きく手を振りながら答えた。エルザはハタヤマの返答に、驚いて彼のズボンの裾を掴む。
「な……っ! 冗談じゃないわ! わたしは力を封じられてるのよ!? 僕(グール)も作れない状態で、それなのに独りで行けっていうの?!」
「すまないね。 でも――ボクは『この世界』では、誰とも一緒にいられない。いずれ必ず別れるなら、今ここで別れようじゃないか」
「はぁっ!? なに言って――……!」
 馬車は緩やかに速度を上げ、ハタヤマたちの目に大きく映るようになる。あのペースならば、あと数分で声の届く位置へくるだろう。エルザは焦燥に駆られ、必死にハタヤマへ食い下がる
「ちょ、ちょっと……本気? じゃ、じゃあ、制約だけでも解除してよ。もう死んじゃうくらい血は吸わないから。大丈夫、もう悪いことしない。本当よ」
「……残念ながらそれはできない。ボクはキミと近しい間柄でもないし、なによりタバサちゃんたちと約束しちゃったからね。半端なことはできないのさ」
「こんなの、わたしに死ねと言っているようなものだわ! おちおち血液を味わうこともできない!」
「なら、ゆっくり味わえるような狩りの仕方を考えればいいじゃないか。『致死量を吸い取る』ことを禁じただけで、キミの魔力は封印してないよ」
「無理よ! 今更、変われない!」
「――変われるさ」
 ハタヤマはぽつりと呟いた。エルザは彼のその呟きが妙に耳に残り、まくし立てる言葉をとめる。

「魔法生物の寿命は長い。生きていれば、いつでもやり直せる」

 ハタヤマは遠い眼をしてエルザに語りかける。だが、眼と眼を合わせているはずなのに。ハタヤマの瞳には、エルザの姿が映っていないようであった。
「君は賢い。グールなんか作れなくたって、達者に生き抜いていけるさ」
「……ふん。人間を殺せないなんて、つまらない一生になりそうだわ」
「はは、別の楽しみを見つけるのも一興だよ。――お、これは」
 ハタヤマはひょうきんに肩を震わせた。そして耳を澄まし、なにかに気がついたのか笑みをこぼした。
「時間は飽きるほどにあるさ。ゆっくり探すといいよ」
 ちょっと待ってて、とエルザを片手で制し、いつのまにか巨大になった、と錯覚するほどに接近した馬車へと駆け寄っていくハタヤマ。彼はそのまま御者と二言三言会話を交わし、満面の笑みでエルザへ手招きした。
「近くの村まで乗せてくれるってさ! 途中までだけど一緒に行こう!」
 ハタヤマがエルザへ向ける表情には、含む思いがまったくない。今晩殺しあった仲とは考えられないほどにさっぱりしている。過ぎたことをどうこう言わない、それも彼の持つ性質であった。
 エルザはハタヤマの能天気なアホ面に顔をしかめつつも、導かれるように歩み始める。
(……『新しい生き方』を探せ?)
 馬鹿馬鹿しい、ロマンチストをきどるつもりだろうか。世には未だ人間がはびこり、自分たち幻獣の居場所など皆無だというのに。こんな世界で、何を探せというのだろうか。エルザは心の中でそう唾棄した。殺されたのに殺し返してはいけないなど、正気の沙汰とは思えない。迫害されて喜ぶなど、相当なマゾヒストでもない限りありえないことだ。ただ、彼女もハタヤマの言葉に、一つだけ肯けることがあった。
(殺し、殺され、滅ぶまで)
 ハタヤマはそれを正気ではない、狂気の沙汰だと断言した。彼女も、そう諭され初めて己がやっていたことの危うさに振り返らされた。このまま同じ生き方をしていれば、自分はいつかどこかで命を落としていただろうとも。
 エルザはハタヤマを見つめる。
「………………」
「? どしたの、早くきなってばー!」
 ブンブンと手を振り促すハタヤマ。やはり、その様子に影はない。

 まあ、いいか。
 抱きしめてくれたことに免じて、しばらく猶予をつけてやろう。

 エルザはすべての不安を胸の小箱に仕舞いこみ、駆け寄ってハタヤマの手を握った。ハタヤマはそんな彼女の行動に薄く微笑み、小さな手を包み込むように握り返した。



[21043] 三章
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 02:55
【 三章 『魅惑の妖精亭』 】



 からりと晴れた雲一つ無い空の下、ジェイコブは上機嫌に手綱を繰った。尻に刺激を受けた馬は高らかにいななき、歩調を早める。
 彼はガリアに本拠地を置く商家所属の人間であった。人の世は何時の時代も、物を作ることと運ぶことで生計を立てる人間が多数を占める。彼はその中でも運輸業に属する人間――商品を街から街へ運ぶ――である。彼は今回、ガリアからトリステインへ農作物の出荷を命じられていた。
 食料品は足が速い。メイジが腐敗を遅らせる魔法を掛けているらしいが、それだって永続というわけではないだろう。時間をかけていい事なんて何一つない。
 彼は毎度暇なので、なんと毎回の移動にかかる時間を事細かに帳面に記帳していた。この仕事を始めてもう数十年も経つので、いい加減どこかに楽しみを見つけないとやってられないのである。
 今回は新記録を打ち立てられそうだ。これほどのレコードは、仲間内でも早々に塗り替えられないだろう。
 彼は内心でそう小さくほくそ笑み、はやる気持ちを抑えながら、トリステイン城下町への街道を進む。
 積み荷の木箱内で、妙な音がしていることに気づかずに。

     ○

「はぁ、はぁ、はぁ……」
 ハタヤマは追われていた。追っ手は地獄の番犬もかくやという凶暴な相手。命からがら路地裏へと逃げ込んだが、ここもいつまで安全が続くか。
「ふぅ」
 ハタヤマは周囲を見回し、誰もいないことを確認してぺたりと座り込んだ。遠くの方で、街の雑踏と微かな怒声が聞こえてくる。
「何処行きやがった――!!」
「……うぅ、まだ探してるよ」
 ハタヤマは怒鳴り声を耳で拾い、ぶるりと肩を震わせた。まあ、人間状態ではないので、肩かどうかは分からない微妙な部分であるが。
 ハタヤマはサビエラの村での一件以来、この世界の言葉が理解できるようになった。吸血鬼の血を吸ったことで、その知識の一端を学びとったからである。これは、『血を吸った相手の記憶も吸い取る』という吸血鬼の能力によるものだろう。だからといって幻獣の言葉も忘れたわけではなく、彼は現在、軽いバイリンガル状態になっていた。
「どうしてこんなことになったんだか」
 ハタヤマは疲れ切ったようにため息をついた。かれこれ一時間程度追いかけ回され、すっかり疲弊したようだ。
 何故こんな状態になったのか。それはその一時間前を思い起こさねばならない。

     ○

「いよう、ジェイコブ! また会ったな!」
「ははは、ジョン。先月もそれを聞いた気がするよ」
 トリステインに着いたジェイコブを迎え入れる人物がいた。彼はジョン、荷受けの業者であり、ジェイコブが仕事を始めたときからの付き合いである。月に一度しか会わないが、お互いに親友と認め合うほどの深い仲であった。
「今日の荷はガリア特産の果物だよ。ガリア農畜産協会のお墨付きさ」
「おぉ! それは楽しみだな!」
 早く開けよう、とジョンは積み荷をテキパキと降ろし始めた。この辺は流石本職、動きに無駄がなくスムーズである。
 ものの数分で、荷馬車一杯に積まれていた木箱が台車に小分けされていた。これらはそのまま各小売店へ卸されたり、市場へ出荷される。
 しかし、一つだけ台車に積まれていない木箱があった。
「へへへ……ジェイコブ、今日の分はこれか?」
「くく……そうだよ、ジョン」
 黒い笑いで顔を見合わせる二人。彼らには、一つ悪い癖があった。毎回、商品を少しちょろまかしてしまうのである。
 といっても、こういったことををやっているのは彼らに限ったことではない。彼らのような下っ端の業者は荷をかすめとるなんて日常的に行っているし、出荷元もある意味納得ずくである。出荷元は『目減りすることを前提』に、少し多めに出荷するのである。
 農家の人たちにも不満はあるが、ハルケギニア全土に蔓延る悪の根は深い。なので、言っても仕方ない。それよりも、チクリが祟って出荷を受けてもらえなくなる方が困る。故に、農家は泣き寝入りするしかないのである。
 もちろん、貴金属のような高価なものを輸送するときは輸送団(キャラバン)が組まれるし、護送隊がつけられるのでこういった行為はできない。これができるのは、あくまで立場の弱い出荷元相手だけである。
「果物なんざ欲しかないが、こんなもんでも闇市に流せば二束三文になるからなぁ! がっはっは!」
「しっ、声が大きいよ」
 そうたしなめつつも、自分も笑みを隠せないジェイコブ。彼らも、若かりし頃はこのような不正など自分たちはしない、と決意を固めていた。しかし、単調で代わり映えのない毎日の仕事、そして他の者達が日常的に行っている様を時々見かける。そのうち、彼らの決意は溶け、積み荷に手を伸ばしたある日、砕け散った。
 これは彼らが悪いのか、それとも時代が悪いのか。答えの見えぬ問題である。
「これだけはやめられんなぁ!」
「そうだねぇ、くくく」
 ジョンは詰め所からバールを持ってきて、木箱の蓋に差し込んだ。続いて、バキバキという木繊維の引きちぎられる音が響く。今日の荷受け当番はジョンで、今ここには彼ら以外の職員は誰もいない。やりたい放題である。
 そして、木箱の蓋が外された。
「さぁて、ごたいめ~……ん?」
 ジョンはまるで宝石でも詰まっているかのように木箱を覗き込み、そして表情が固まった。不思議に思ったジェイコブが、彼に習い木箱を覗く。そこには――
「――げぇぷ」
 爪楊枝で歯を掃除する、腹をふくらした珍獣がいた。

「――NOOOOOOoooooo!!!!」

     ○

「たく、あのヤクザもんどもめ。自分たちで撥ねるなら、ボクが食べたって一緒じゃないか」
 心の狭い奴らめ、とハタヤマは怒りをあらわにする。もしここにジェイコブたちがいれば、間違いなく「どの口でほざきやがる」とつっこんでいたことだろう。
 ハタヤマは、建物に遮られて薄暗く狭い空を見上げ、大きくため息をついた。
「これから、どうしようかな……」
 サビエラの村でタバサに置いていかれ一週間、なんとかここまで戻ってきた。風の噂でトリステイン魔法学院のことを聞き、おそらくシルフィードたちはそこにいるだろうと考え、必死にの思いで旅を続けてきたのだ。
 とりあえずトリステインには入国した。だから、魔法学院まではあと少しの筈だ。だが、ハタヤマはなんとなく踏み切れないでいた。
 何故なら……
「見つけたぞおらぁッッッ!!!!」
「ギャ――! しつこいぃ!?」
 唐突に路地裏に現れた追っ手(ジェイコブ)。暑い中走り回ったせいかその顔は真っ赤に染まっており、汗だくで目は充血している。その鬼のような形相にハタヤマは飛び上がってビビリ、一目散に逃げ出した。

     ○

「ぜぇ、ぜへぇ……」
 あかね色に染まる空。カラス(らしき鳥)の声が響き、世界は昼と夜の隙間の時間になる。
 ハタヤマは噴水広場の中央に据えられた噴水に腰掛け、ぐったりとしていた。広場には夕暮れ時だからか、誰もいない。
「あ~、あいつら、しつこいよ」
 ハタヤマはそう独りごちる。ひたすら街中を逃げ回っていたら、いつの間にか追っ手はいなくなっていた。
 ふっ、勝った。そう呟き、またもくだらなそうにため息を吐いた。勝利とはいつだってむなしい。
「ボク、なにやってんだろ……」
 ようやくトリステインに戻ってきたのに。シルフィードや食堂のおっさんたちがいる場所は目と鼻の先なのに。どうしても、足が動き出さない。
 彼は、その理由が分かっていた。自分が動き出せない理由。それは、彼自身が、『行ってどうなる?』と思ってしまっているから。
 そんなものは考えても仕方ない。行ってから考えることだ。普段の彼はそう断言しているだろう。事実、彼も、その心中の言葉に同意している。
 だが、彼の心の中に住むもうひとりの彼が――囁くのだ。
『今更戻ってどうするんだい』
                 「しょ、食堂のおっさんにまた世話にでも……」

『また迷惑を掛けるつもりかい』
                 「い、いや、ちゃんと仕事はしてたし……」

『お前をずっと抱え込む面倒と、あの程度の仕事が釣り合うと?』
                 「……なら、シルフィちゃんのところに」

『今更、どの面下げて会いに行くつもりだい』
                 「うっ」

『あれだけ面倒を掛けて、さらに面倒を見てもらうのかい』
                 「………………」

『今更あそこへ戻っても、誰からも歓迎されないよ』

『歓迎されない』
『迷惑』
 どれだけ脳みそをこねくり回しても、ハタヤマの思考は最終的にその結論へ行き着いてしまう。学院で出会った彼らは、あのときは善意で相手をしてくれたかも知れない。だが、もう一度頼らせてくれるほど、自分は彼らと仲良くなれたのか。自分に、そんな価値はあるのか。そんなことばかりが頭によぎる。いや、そもそも、価値云々など関係ないのだ。自分の帰ってもいい場所は、あそこではないのだから。自分の居場所など、あそこにはないのだから。
 じゃあ、どこへ行けばいい? 自分は、どこを目指せばいいのだ? 自分の進むべき道、それすらも定かではないし、その前に、自分の足下もおぼつかない。そんな状態で、明日の事なんて考えられない。ハタヤマは不意に、自分の中身がすっからかんになったような気持ちに襲われた。

 それならば。その程度の思いこみで、頼ることをためらうならば。何故、『トリステイン魔法学院』を目的地として行動したのか。
 その疑問に、彼自身は辿り着かなかった。

「………………」
 ハタヤマは噴水に満ちた水の水面を見つめた。
 そこに映る自分の姿は、どことなくちっぽけに見えた。
「………………」
「…………? ――っ!?」
 いつの間にか、水面に人影が映っていた。ハタヤマの真後ろに立つ巨体、筋肉ムキムキのキモイ青ヒゲが目立つ男。振り返ると、ピンクのタンクトップにぴっちりしたスパッツ、そしてくねくねするその腰つきが気持ち悪かった。
「あらん、可愛い! あなたどこの子? ひょっとして、飼い主はいないの?」
「…………キィ」
 流石に人語を話しては不味いかもしれないので、一応なにかの鳴き真似をするハタヤマ。チュウ、ではなんとなく嫌だったので、とりあえずキィを採用している。
「ふぅん……」
 オカマっぽい男は腕を組み、ハタヤマの顔をじろじろと観察した。ハタヤマはその視線に、居心地が悪そうに顔をしかめ身を捩る。
 唐突に、オカマっぽい男はハタヤマを胸に抱きしめた。
「キィッ!??」
「うふ、ご・う・か・く♪ あなた、ウチに来なさい! 妖精さんたちが待ってるわよ」
 剃られているのになお青い髭でじょりじょり頬ずりされ、全身にサブイボをたてるハタヤマ。普段のハタヤマなら難なく避けられたはずだったが、長旅により溜まった疲れと、昼間の逃走劇により消耗した体力では、この程度のことも避けられなかった。
「キ――キ――ィッッッ?!!!」
「うふん、暴れないの。さあ行きましょうねぇ~♪」
 今にもハートマークが幻視できそうなオカマ男の声色に、危機を感じ逃れようとするハタヤマ。だが、オカマ男の腕力は、万力のように強かった。

「ママー、なにあれ?」
「しっ、見ちゃいけません!」
 ちらほらいる通行人たち。彼らは皆、オカマ男とハタヤマに対して、見ないふりを決め込んでいた。

     ○

「いいこと! 妖精さんたち!」
「はい! スカロン店長!」
「ちがうでしょおおおおおお! 店内では『ミ・マドモワゼル』と呼びなさいって言ってるでしょーお!」
「はい! ミ・マドモワゼル!」
 などというやり取りが目の前で繰り広げられている。どうやら朝礼のようなものらしい。ハタヤマはそれを影で悶絶しながら見ていた。
 ここは中世を舞台にしたファンタジーに出てくる、『冒険者の宿』のような建物である。ホールには丸テーブルが五つ、六つ以上所狭しと並べられ、どのテーブルもぴっかぴかに磨き上げられている。そのホールの隣、建物でいえば左上に位置する小さなスペースに厨房が備えられており、そこは吹き抜けになっている。二階にはいくつか部屋があり、お泊まりスペースとなっているようだ。
 どうやらこの『スカロン』というおっさんは、この宿屋らしき建物のオーナーらしい。 
(きもい……あのおっさんキモイ……ッ!!)
 拾ってもらっておいてひどい言い草である。だが、それをハタヤマ本人に言えば、
「キモイものをキモイと言ってなにが悪い!」
 と、ノータイムで威勢良くのたまうだろう。こいつはそういう男なのだ。
「――さて、妖精さんたちに素敵なお知らせ。今日はなんと新しいお仲間ができます。こっちへいらっしゃい!」
 そうこうしているうちに、ホールにいるスカロンから声がかかった。呼ばれて無視するのもなんなので、吹き抜けの窓枠部分に飛び乗り姿を現すハタヤマ。すると、とたんに、
「きゃーかわいいー!」
「お人形さんみたーい!」
 という声が上がった。見ると、ホールの前半部分、舞台の手前辺りに、赤やら青やらの派手できわどいドレスで着飾った女性たちがこちらに注目していた。その数、ざっと十数人。三十以上の瞳に一斉に見つめられ、ハタヤマは軽くビビった。
(またかよ……)
 ハタヤマは声には出さず、表情も変えずに悪態をつく。やはり、何処の世界でも自分を初めて見るものたちの反応は一緒。どいつもこいつも「かわいい」だの「抱っこしたい」だの、つまらんことを言ってくる。ハタヤマはいい加減、そんな形容詞を向けられることにあきあきしていた。
 だが、それはおそらく率直な感想であり、彼女らに悪意はないのであろう。ハタヤマもそれは分かっているので、不必要に不愉快を表すことはなかった。
「あの子は広場にいたのを拾ってきたの。きっと悪い飼い主に見世物小屋へ売り飛ばされて、そこでの毎日に絶望して命からがら逃げてきたんだわ」
 スカロンは同情を誘うように、よよよと目元の涙を拭う真似をする。なんとなく庇ってくれようとしてくれているのはありがたいのだが、ハタヤマはやはり気持ち悪かった。
 どうやらこの男、自分をここへ置いてくれるらしい。ハタヤマはまず、スカロンの真意を疑った。この男はなんのつもりで、自分などを店に入れるのだろうか。
 ――見世物?
 ――――気まぐれ?
 ――――――別のなにか?
 ハタヤマの頭の中で、色々な憶測がグルグル回る。しかし、昨日今日あったばかりで、スカロンに対するなにかが分かるわけもない。
(――まあ、悪意は感じなかった……かな?)
 考えても仕方ない。ハタヤマは胸中で呟き、とりあえず数日はここに滞在することを決めた。ハタヤマはぺこりと頭を下げ、ぴょこりと小首をかしげて見せた。同時に、『きゃー、かわいいーっ!!』という歓声が沸き起こった。
 ハタヤマは、狙い通りの大衆の反応に、冷めたように鼻で笑い、口の端を小さく吊り上げた。複雑そうに、眉間にしわを寄せながら。

     ○

「三番テーブル、料理上がりましたーッ!」
「五番テーブル、ワイン入りまーすーッ!」
 日も暮れ落ちた城下町。その片隅にある酒場『魅惑の妖精亭』。厨房の外では華やかなおねーちゃんが、仕事に疲れたおっさんや金持ってるおにーちゃんに酌をするという夢の溢れる光景が繰り広げられている。しかし、中……厨房の内部では、まさに戦争が繰り広げられていた。
「二番テーブルまだですかーッ!」
「あと40……25秒ッ!」
 数人のコックが狭い厨房内を自由奔放に駆け回っている。しかも熱いフライパンや色々な調理器具を持って、だ。それでいてお互いがお互いの邪魔をしないよう絶妙に避け合っているその様は、まさに芸術的ですらあった。
 だが、配属初日の珍獣が、いきなり慣れるわけもなく。
「お皿追加ね!」
(おいいぃぃぃぃぃ!?)がしゃん!
 厨房で皿洗いを命じられたハタヤマは、新たに積まれた食器の山に脳内で盛大に文句を言った。つい先ほど自分の体長の三倍はあるであろうディッシュタワーを片づけたばかりだというのに、間髪入れずそれ以上の敵が増援を引き連れて現れた。これには流石のハタヤマも不平たらたらである。
 この世界に来てから厨房に縁のあるハタヤマ。だが、それは必然なのかも知れない。見知らぬところで生き抜くには、なにはなくとも食料だけは必要だ。なにも食べなければ餓死してしまう。その点、こういった『食』に関する場所で、住み込みで働けば、『食』と『住』は簡単に片付いてしまう。着る物に頓着しないハタヤマには、給金なども必要ない。彼は元々、ギャルゲーや趣味に金銭を使うことはあったが、それ以外の嗜好品や私物は殆ど買わないたちだった。そのギャルゲーや趣味も、とある出来事で全て処分せねばならなくなり、それ以来、特定の貴重品以外、一切の『金で買える』私物を持たなくなった。そしてこの世界では、そういった『特定の貴重品』は、今のところ見かけたことはない。なのである意味、一石二鳥、三鳥の選択肢なのである。
(壮絶すぎるだろこれ……)
 ハタヤマは眼前のうずたかく積まれた皿の山に、しばし放心せざるを得なかった。もうこんなパターンが三回も続いている。始業から何時間経ったのか、既に時間の感覚が曖昧だった。
 だが、伊達にアルヴィースの食堂で鍛えられたわけではない。ハタヤマはすぐに気を取り直し、猛然と戦いを再開した。
(ぬおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!)わしゃわしゃわしゃわしゃっ!!
「追加お願いねー♪」がちゃん!
(ぉぉぉぉぉ…………)わしゃわしゃわしゃ……↓
 どうやらこの戦いは、かなり長引きそうである。
 ハタヤマはさらに積まれた皿と追加のワイングラスに、がっくりと肩を落とすのであった。

     ○

 日もとっぷり暮れた深夜。ハタヤマはふらふらとはしごを登り、屋根裏部屋のベッドへ倒れ込んだ。
 天窓から差し込む月明かりで、室内はロウソクがなくても薄明るい。
「つ、疲れた……」
 結局営業は深夜二時辺りまで続き、その間中ハタヤマは皿を洗い続けた。その後にホールの清掃があり、残った食器も全て磨き、全てが終わったのは三時過ぎ頃だった。
 時間が曖昧なのは、この世界には時計がないのでハタヤマの大体の体内時計を物差しとしているからである。
 スカロンはハタヤマのことをえらく気に入ったようで、色々と仕事を任せてきた。ハタヤマはどう見ても幻獣なのに、言えば大抵のことは理解してこなしてくれる(言葉を理解しているので当たり前だが)ので、至極使いやすいのであろう。しかも、ハタヤマもいやに手際がよく、妙な優秀さを見せつけているのも一因と言えるだろう。
 ハタヤマも働かされるのが嫌なら、ただの幻獣らしく声を無視してふらふらしていればいいのだが、それだけはどうしてもしたくなかった。一応好意で置いて貰ってるのかも知れないのだから、それを無下にすることはできなかったのだ。その結果、こんな時間までこき使われたのだから、本当にご愁傷様だ。
「はぁ……」
 物置化していて埃だらけの部屋は、ベッドにも蜘蛛の巣が張っている。だが、ハタヤマはそれをはらうことすら億劫なのか、適当に尻尾で布団を叩き、うっすら綺麗になった部分に小さく丸まって寝ころんだ。ベッドはハタヤマの身体には大きすぎるもので、彼がのびのびと両方の足を伸ばしても九割以上の面積が余ってしまうほどだ。
 スカロンはハタヤマを自室のベッドで寝かせようとしたのだが、ハタヤマはオカマはまだしも、男と同じベッドで寝るなど死んでも嫌だったので全力で拒否した。可愛ければオカマでも……いや、やはりオカマは嫌だ。
 本当に疲れた。サビエラから今日までずっと布団で寝られなかったハタヤマは、背中が柔らかいことのありがたみを精一杯噛みしめる。本当に、この世界に飛ばされてからろくな事がない。
 だが、ハタヤマは、心の何処かで安心している自分がいることに気づいていた。住むところが、一時的であれ帰る場所ができた。それは、彼の心に少量だが、余裕を与えた。
 もしこのまま置いてもらえるなら、ここを拠点に活動するのもいいかもしれない。落ち着いたら、シルフィードや食堂のおっさんへ挨拶にでも――
 そこまで考えて、自嘲気味に笑い、頭を振ってそれをかき消した。
 どうせ数日しか関わらなかった仲だ。もう、向こうも覚えていないかも知れない。
「まあ、会いに来られても困るだろうし……ね」
 無駄に途惑わせるくらいなら、始めから会わない方がいい。
 ハタヤマはそれきり、思考を閉じるように目を閉じた。

 天窓から見える赤と青の月は、いつもと変わらずにハタヤマを照らしていた。

     ○

 ハタヤマが『魅惑の妖精亭』に来て早三日。
 月日が経つのは早いもので、生物が環境に適応するのはもっと早かったりする。なので、ハタヤマもすっかり魅惑の妖精亭に慣れ
「エリザベスー! こっちおいでー!」
「キィー!」
 慣れ…… 
「ケーキ買ってきたのよ。エリーも食べる?」
「キキキィー!」
 なれ……
「きゃ! もう、ベスちゃんったらエッチなんだからぁ」
「ぐへへへぇ~~~」すりすりすりすり
 ……死ねばいいと思うよ。
 のっけからお見苦しい場面を繰り広げた珍獣。だれかこいつをしばき倒してくれないだろうか。
 ハタヤマは『エリザベス』と名付けられ、昼に起き、夜働くという生活サイクルを営んでいた。店の妖精さんたちは皆彼を猫かわいがりし、見かけるたびにちやほやと愛でる。なので、ハタヤマはそれに乗っかり、桃源郷を満喫しているというわけである。
 彼は愛玩動物扱いされることを毛嫌いするふしがあるが、それで得られる利点を全て投げ捨てるほど自尊心も高くなかった。使えるもの、利用できるものはなんでも利用する主義である。なので、こんな美味しい状況を無駄に拒むわけもなく、心の底から満喫しているのだった。

     ○

 閉店時間を迎えた魅惑の妖精亭。ハタヤマは本日も無事に業務をこなし、仕上げとしてテーブル拭きを行っていた。流石にモップがけは体格的にできないので、それならば、と彼なりに出来そうな仕事を模索した結果、最終的にこれしか思いつかなかったのだ。
 妖精さんたちは全員部屋に引き上げている。夜更かしはお肌の大敵だから、というのもあるが、実際の理由は少し違う。
 じつは、閉店後の清掃作業は、スカロンと当番の妖精さんの二人の、当番制だったのである。そこへハタヤマがやってきて、しかも意外に働き者なのでお鉢が回ってきてしまったのだ。
(ふぃ~、やぁーっと終わったよ)
 ハタヤマは最後のテーブルを磨き終え、達成感にあるのかないのか分からない背筋を大きく伸ばした。
 充実している。ハタヤマは思った。先日までの、暗闇を彷徨うような気分は彼の中から消え去っていた。何故なら、目下のやるべきことが目の前に存在しているからである。今後なにをするにしても、拠点となる場所が必要となる。故に、ここに止まり木を形成するためにも、ここで頑張ることは無駄ではない。彼はそこまで考え、また自嘲気味に笑った。
 どうして自分はこう、損得でしか物事を見られないのだろうか。誰かによくしてもらっても、心中では借金をしたような重苦しさに襲われる。たとえすれ違うだけの他人にすら、決して借りを作りたくない。楽に考えられない。
(……このままじゃ、ダメだよね)
 今はまだ手伝うだけで返しきれているかもしれないが、長居すればそれだけかける迷惑も増える。そうなる前に、別の場所へ移動しなければならない。ハタヤマはそう思い、心の中で決意を固めた。できるだけ早く、ここを出ると。
 そのとき、背後でことりと物の落ちる音が聞こえた。振り向くと、でこの広い女が机の下に手を伸ばし、羽根ペンを拾っているところだった。
(うほ、眼福!)
 屈みこんだ姿勢で胸が寄せ上げられており、まるで胸が狭い、狭いと解放運動を起こしているかのようなけしからん乳である。ハタヤマはその弾圧に苦しんでいる(ように見える)男のロマンを救うため、一も二も無く中空へダイブ。悪しき衣を引き裂いて、自由への道を開いてやる算段なのだ。
 だが、女は頭に眼でもついているのか、流れるような動きで木の盆を間に構え、飛び掛るハタヤマをガードした。
「げべぎゅっ!」
「おいたはだめよ」
 カエルがひしゃげるような声を上げ、ハタヤマはズルズルと墜落した。そんなハタヤマを見下ろして、女は鈴の音のように笑った。ハタヤマは彼女の顔を見て、すぐに誰か思い当たった。この娘は、確かスカロンの娘のジェシカだったはずである。ハタヤマはこの事実を、彼女があの店長の娘だということを、あの店長の血縁だと知ったとき、人間という種族の、いや、自然界の神秘に心の底から感動し、感謝した。ビバ、美人。
 彼女は妖精さんたち(この店は従業員の女の子をそう呼ぶ)と同じように、胸元のきわどい緑色のワンピースを身にまとっており、強調されたことでやんちゃに主張している豊満な胸が特徴的だった。髪は長く美しい漆黒色。この世界では赤やら金髪の人間が多いので、それだけでも大きな特徴である。ごてごてとしない垢抜けた化粧は、彼女のやや太目の眉毛すらチャームポイントに昇華させていた。
 従業員は皆休んだというのに、彼女はいったい何をしているのだろうか。ハタヤマは普段は他者、特に美しい女性に欲望は抱くが、基本的に他者に関心を持たない。しかし、このときはなんとなく彼女のことが気になった。
 ハタヤマはテーブルの足をよじ登った。そのままテーブルの上まで登りきり、彼女の手元を興味深く覗き込むと、そこには妙な文字がびっしりと書き込まれた、よれよれのノートがあった。
「こりゃこりゃ、イタズラするない。……そろそろ〆日だから、売り上げの計算しなくちゃいけないんだよ。めんどくさいんだよねぇこれ。って、あんたに言っても仕方ないか」
 ジェシカは横に積んだ伝票の山を一瞥し、うんざりしたため息をついた。見ているこっちもつかれてきそうである。ハタヤマは滝のような涙が幻視できそうな彼女の様子に、苦笑いで返した。
 ハタヤマは、しばらくジェシカの仕事振りを観察することにした。大量の伝票に悪戦苦闘しながら、懸命に記帳し続けるジェシカ。だが、彼女の頑張りも虚しく、残りは一向に減る気配がない。というか、減らない。何故なら、ジェシカの仕事速度があまりにも遅々としたものだったからである。
 注文の量が少ない伝票は数秒で書き込み終わるのだが、量が五品以上のものや、扱う金額が大きいものになるととたんに彼女は手を止めてしまう。そして十数秒、長いときは一分以上悩み、首をひねりながら記帳するのだ。
(あ、間違った)
 ジェシカが誤った値を記帳した。扱う金額はやや少ないが、品数の多い伝票だった。それに、後からオーダーしたのか、同じ商品が間を空けていくつも記入されている。あまり慣れていない者が書き留めた伝票のようだった。
 気付いたのに黙ってるのもなぁ、とハタヤマは思い、次に取り掛かろうとするジェシカを遮った。
「ん、なんかな? 今忙しいから後でね」
 ジェシカは急に帳面の上に座り込んだハタヤマを、掴みあげて脇へどけた。そして続きに取り掛かろうとすると、ハタヤマはまた帳面の上に戻ってくる。そんなやり取りが数回続き、ジェシカも少々イラッときたようだ。
「あのねえ、邪魔するならあっちいっててくれない?」
「………………」
 睨みつけるジェシカ。ハタヤマは無言で帳面の一点をつついた。ジェシカが疑問符を浮かべると、ハタヤマはついさっき終わった方の山に加えた伝票を拾ってきた。
「なんだい、そんなもの持ってきて?」
 ハタヤマは無言で、その伝票に書かれた金額を、別の伝票の裏に筆算していく。そして計算し終わった値に丸をつけ、ジェシカが記帳したほうの数字を横に並べて書き、そちらにはバッテンをつけた。
 ここまでして、ジェシカも理解したように手を打った。
「あぁ、なるほどー! 間違ってるって言いたかったのね」
 あんたあたまいいねー、とジェシカはしきりに感心しハタヤマの頭を撫でまわした。その前に動物がペン操って計算式使いこなしてることにつっこめよ、とハタヤマは思わないでもなかった。でも、しゃべりたくないので黙っておいた。
「あたし、物心ついた頃からこの店手伝ってたからさ。あんま頭良くないんだよね。読み書きは一通りパパが教えてくれたけど、計算がてんでダメ。足し算や引き算はなんとかなるんだけどさ、かけ算になってくるととたんに分かんなくなっちゃう。足し算だって、数が大きくなるとあやふやだし」
 ジェシカはいじいじと指先を組み合わせながら、、恥じるように頬を赤く染めうつむいた。だが、その表情の陰に隠れた、悲しみの匂いをハタヤマは逃さなかった。
 ハタヤマはジェシカの手から羽根ペンを奪い、猛然と紙に走らせ始める。
「ちょ、あんた、ダメよっ!」
 ジェシカは慌てて止めようとしたが、書き込まれる内容が眼に映り、その伸ばした手を途中で降ろした。出納台帳が、みるみるうちにできあがっていくのだ。しかもその速度は尋常ではないほどに素早く、少なくともジェシカではこうは進められない。深夜のホールにペンの滑る小気味よい音を響かせながら、ハタヤマは黙々と仕事を終わらせていく。それはさながら、一種の魔法であった。
  何故ハタヤマがこんなことをできるのかというと、答えは単純、学校でやったからである。彼は見た目は珍獣だが、その脳みそを舐めてはいけない。腐っても魔法学院に在籍し、半年間の教育課程を修めた魔法学士なのだ。なのでもちろん、基礎学力も履修済みである。彼の世界では魔法を使用するとき、魔法陣を描かなくてはならない場合がある。そんなとき、円の直径やら紋様の配分計算などができなければ話にならない。ハタヤマはこう見えて、高校までの数学ならば完璧に習得していたりする。
 ハタヤマは、ジェシカの暗くかげった顔を見ていられなかった。できなくてなにが悪い、何故恥じる必要がある。それが怠慢による理由ならば、汚点にもなるだろう。だが、彼女は勉強『できなかった』。こうならざるを得なかったのである。分からないのは、できないことはどうしようもないことだ。何故なら、教えられていないのだから。
 ハタヤマは無性に腹が立った。
 その苛立ちに任せて手を動かし、伝票の山を雷光のように切り崩していく。ジェシカはみるみる積み上げられていく記帳済みの伝票の山に、呆気にとられ言葉も出なかった。
 いつの間にか蒼い魔力がもやのように立ち上り始めていた。ハタヤマは全身に張り巡らせ、自らの肉体を強化する。秒ごとに彼の行動速度は加速度的に高まっていき、ついには眼で追えないほどとなった。普段は命に関わるからと魔力をケチっているくせに、こういったことで惜しみなく魔力をつぎ込んでしまうあたり、微妙にアホな男である。
 三十分後。そこには、綺麗さっぱり片付けられたテーブルがあった。
「すごいね、もう終わっちゃったよ! あたしがやったら、いつも後一時間くらいはかかるのに!」
 ジェシカは向日葵のような笑顔で微笑んだ。その笑顔は、もう久しく会っていない友達の妹を連想させた。彼女も、こんな風に太陽のような笑顔で笑いかけてくれていた。あの娘は元気にしているだろうか。
「どーしたの?」
 ハタヤマが声に視線を上げると、ジェシカが不思議そうに見下ろしていた。そして、ハタヤマは気付いた。華開くような彼女の笑顔に、数舜見惚れていたらしい。
「エリーのおかげで早く終わったよ! ありがと!」
 エリー。
 誰だそれは、と自問し、自分の名前かと自答した。それは、ここでは自分は『ハタヤマヨシノリ』ではなく、『エリザベス』なのだということを嫌でも自覚させられる言葉だった。
 そしてその感覚は、ハタヤマの中にあるこの世界との溝をさらに深くしていく。
 不意に、ハタヤマは持ち上げられた。続いて、唇に触れるやわらかい感触。ゆっくりと眼を開くと、目の前にジェシカの笑顔があった。
「手伝ってくれたお礼。 それじゃ、あたしもう休むね!」
 また頼むねー、と手をひらひらさせ階段を登っていくジェシカ。ホールには、ハタヤマ一匹だけが残される。ハタヤマはジェシカが去った階段をしばし見つめ、動かない。
「……ちょっとだけ修行してから寝るか」
 なんとなく、今すぐに部屋へ戻りたくなかった。何かして気を紛らわしたい。なので、ここに来てからは忙しくてご無沙汰だった『日課』を再開することにした。
 いつもは嫌で嫌でしかたない闇魔法の練習。だが、今日初めて、教えてくれた篠原に少しだけ感謝した。

     ○

 夜が明け、また日が落ちる。
 すると店は眠りから覚め、妖精たちが踊りだす。
 ハタヤマが住みこんで一週間。今日も今日とて魅惑の妖精亭は大繁盛である。
 皆が月末のチップレースに向けて、土台作りに余念がない。ある者は「絶対来てね」と男に念を押し、ある者は「来てほしくないんだから」とツンデレ戦法を開眼し、またあるものは「………………」と不思議っ子スペシャルで男の気を引く。
 妖精たちが舞うホール。そこはさながら、欲望渦巻く混沌の坩堝と化していた。
(うへー、こえー)
 皿洗い第一の山場を抜け、流し台の上で小休止をとっていたハタヤマ。やることもないのでぼけっとホールを眺めていると、ちょうど三番テーブルで指名争いが起きていた。お世辞にもかっこいいとはいえない太目のおっさんを挟み、右に赤のドレスの女、左に青のドレスの女がお酌合戦を繰り広げていた。客を取り合っているのである。
 二人とも顔は笑っているが、眼がぜんぜん笑っていない。しかも机の下で足を踏みあって見るからに痛そうである。そんなことは露知らず、男は自分がモテていると勘違いして見当違いにデレデレしている。一歩はなれたところで観ているハタヤマには、その光景がカオス過ぎた。
 見目麗しい女ばかりで、ここは桃源郷かと喜んだのもつかの間。実際には血で血を洗わんばかりのどろどろした暗黒面しかありゃしない。ハタヤマは理想と現実のギャップに、深い悲しみに包まれた。
 脇へ視線を移すと、一番テーブルについたジェシカが見えた。
(へぇ……)
 彼女は店内ナンバーワンの業績を上げているらしく、そのせいか仕事振りも他とは違っていた。彼女は行く先々で細かくチップを集めており、同じ卓に長く居座らない。全員を平等に愛し、そして愛されるサービス。それが彼女のやり方らしい。
 そこまで眺めていたところで、ホールから大量の使用済み皿が送られてきた。ハタヤマもこのところすっかり仕事に慣れ、百枚程度なら五分でこなせるようになった。もう少しで皿洗いマスターの称号がいただけるかもしれない。ハタヤマはピカピカになった皿を蝋燭の明かりにかざし、満足げに頷いた。
 この店の日常に馴染み始めたハタヤマ。彼は徐々に、ここでもうしばらく過ごすのもいいかも、と思い始めていた。
 ――彼は、彼がもっとも忌み、嫌っていた『妥協』という泥土に片足まではまってしまっていた。だが、それも仕方がないかもしれない。彼はこれまで、気の休まらぬ毎日を送らされていた。いくら能天気でふざけた風を装ったとしても、ぬぐいきれぬほどの不安を抱えていた。その無言の重圧は、何時どこでなにをしていても彼の心に常にのし掛かる。彼は、全てを捨てて思考放棄できるほどに愚かでも賢くもなかったのだ。結果、このままこの世界に骨を埋める決意もできず、何も考えずその日ぐらしにも振舞えず、頭をよぎるのは『帰れないかもしれない』という漠然とした焦燥だけ。そんなものに四六時中苛まされていれば、そりゃあ擦り切れもするというものだ。
 もう、なにも考えたくない。ハタヤマは今、現在(いま)だけを生きていた。

     ○

 来客を告げるカウベルが鳴り、戸口が乱暴に跳ね開いた。。
「いらっしゃー……うっ」
 ジェシカがにこやかに振り向いたが、そのまま表情を強ばらせた。彼女の反応に呼応するかのように、店内の空気も一変する。まるで、招かざる客が現れたかのように。
 そして一瞬だけ静まりかえった魅惑の妖精亭に、耳障りな高笑いが響き渡った。
「――んなーっはっはっは!! 来てやったぞ下々の者どもよ! さあ、我(おれ)の席は何処にある?」
 ミディアムフェザーの金髪に青い目をしたスマートなシルエット。背は高いが、身体は若干華奢な印象がある。そして大きな特徴として、紺色のマントを羽織っていた。マント、それはメイジの代名詞のような物。マントの影からも金色の細い棒が覗いており、この男がメイジであることを疑いようもなくしている。
 男は何処にある、と言いながらも、露骨にジェシカがついているテーブルを睨みつけた。すると、そこに座っていた客と妖精さんたちは一斉に立ち上がりその場を離れる。それを確認した男は満足げに鼻で笑い、ジェシカの真隣に腰を下ろした。
「注げ」
「……久しぶりじゃないの、ガルガンド」
 ガルガンドと呼ばれた男はどかりとテーブルの上に足を投げ出し、持ってこさせた新しいグラスをずいとジェシカの眼前に突きつけた。ジェシカは、そのまま二度と来なければ良かったのに、という幻聴が聞こえてきそうなほどトゲのある声色で呟く。
 ハタヤマは一連の騒ぎを目撃していたが、いまいち事情が呑み込めず疑問符を浮かべた。
「きやがったぜ、『坊ちゃん』が……」
「ちっ、酒が不味くなりやがる」
 ハタヤマが耳を澄ますと、ホールから客たちの声が聞こえてくる。通常は騒がしいホールなので音を聞き分けることができないのだが、ガルガンドの登場に賑わいが耐えた今の状況ならば、ハタヤマの超感覚で容易にそれを拾うことができた。
 集めた情報によるとガルガンドはヴェリンデール家の長男坊で、典型的なこの世界のお貴族様らしい。親の威光と身分を笠に着た、傍若無人でひどい我が儘坊や。この店のナンバーワンで店長の娘であるジェシカに入れ込んでおり、なにかにつけてここへ足を運んでくるようだ。
(はて、ガルガンド……?)
 ハタヤマは何処かで聞いたことがあるような気がしたが、思い出せないので数秒で忘れた。男の名前なんざ覚えなくていいのである。
 店内の空気は一気に最悪まで落ち込み、依然ガルガンドの横暴は続く。ジェシカだけでなく数名の妖精さんたちを自らのテーブルに呼び寄せて、妖精さんの独占を始めたのだ。
 魅惑の妖精亭としては由々しき事態、解決すべき問題――しかし、ハタヤマは動かない。ちらりと一瞥しただけでつまらなさそうに皿洗いに戻った。
 理由は二つある。一つは、この世界の常識として『貴族の優位』があるということ。下手に逆らえば命をも奪われるほど、逆らうことは重罪である。そこには正しい正しくないなど関係なく、力がある方が偉いのだ。そこへ自分が横やりを入れて、無駄にこの店の立場を悪くするのもよろしくないだろう。二つ目は、スカロンが黙認しているということだ。店の主が歯を食いしばって堪えているのだから、水を差すのは無粋である。
 いくらハタヤマが力でガルガンドをはね除けられたとしても、権力を背景に逆襲されればひとたまりもない。だからこそ軽々しく手出しできないのである。
 そう理由を脳内で並べ立てたハタヤマ。しかし、そちらへ向かう意識だけは断ち切れない。
 ハタヤマが煮え切らず悶々としている間にも、事態はどんどん悪化の一途を辿っていた。
「ほれ、今日は首飾りを持ってきてやったぞ。見ろこの純金の細工を、美しいだろう」
「あんた、それどっから盗ってきたのよ。この前は腕輪、その前は耳飾りだったじゃない。よくお金が続くものね」
「ご挨拶だな。勘ぐらずとも、これは我が家の衣装室にあったものだ。出所は知れている」
「それじゃああんたのものじゃないじゃないの。勝手に持ち出していいの?」
「ふん、金など持てあますほどに持っている。金や銀の一つや二つ安いものだ」
 これまた金ぴかの櫛で髪を梳きながら、ガルガンドは愉快気に笑った。しかし、ジェシカはそんなガルガンドを軽蔑するかのように、顔をしかめて睨みつけた。働くことの苦労を知り、お金の大切さを身に染みて学んでいるジェシカには、ガルガンドのような男は受け入れられないのだ。
 ガルガンドはジェシカの眼光にくだらんといわんばかりの失笑を浮かべ、ワイングラスの縁を指で弾いた。
「相変わらずつれないな。この我が目を掛けてやっているというのに、何故そう邪険にするのだ」
「お生憎様。あたしはあんただけの妖精じゃないの。お相手しなきゃいけない人が他にもたくさんいるんだから」
「だから連れ出してやるといっているだろう。我に付いてこい。お前が首を縦に振れば、こんな場末の酒場で砂粒のような銭をかき集める日々などその場で終わるのだ」
「お断りよ! 砂粒で結構、あたしはこれで満足してるんだ」
 ジェシカはべーっと舌を出して反論した。普段の営業モードとは違う、完全なる拒絶の構え。ガルガンドはジェシカの反応に、心底理解できないと目を丸くした。
「何故だ? 豪華な食事と召使いもある、優雅な暮らしに憧れはしないのか?」
「そりゃ、あたしだってできればそんな暮らしをしてみたいと思うこともあるさ。でもね、そのために誰かのものにならなくちゃいけないってんなら、そんなもんこっちから願い下げよ」
 ジェシカは首飾りを突き返した。
「あんたから与えられて得た上流の暮らしなんて、あたしの幸せにはならないよ。だから何度口説かれても答えは同じよ」
「……くく」
 ジェシカの強い意志を秘めた眼差しがガルガンドを貫く。ガルガンドは、湧き上がる愉快を抑えられず、腹の底から笑い声を上げた。
「――んなーっはっはっは!! いいぞ、やはりいい。実に我好みだ、ますます気に入った」
「きゃっ!?」
 ジェシカの脇に手を回し、豊満な乳房をわしづかむガルガンド。ジェシカは吃驚し振り解こうとするが、魔法使いとはいえ男の腕力、抵抗しても解くことができない。
 騒然とする店内。ここで、ついに静観していられなくなったのか、スカロンがガルガンドの暴挙を止めにはいった。
「ガルガンド様ぁ、申し訳ないけどー、当店ではおさわりは禁止してるの」
「分かっている」
 ガルガンドはマントの懐から布袋を掴みだし、どかっとテーブルに放り投げた。布袋はずしん、と重い音を立てて落ちる。袋の口からは、煌びやかな黄金色が覗いていた。
「エキュー金貨五千枚だ。これだけあれば充分だろう?」
「――なっ!!!?」
 我が娘に金貨五千枚。スカロンは絶句し、わなわなと肩を震わせた。ガルガンドはそれを法外すぎる値段に感極まっているのだと受け取り、さっとジェシカを連れ去ろうとする。しかし、その足はすぐに止めさせられる。
 スカロンがガルガンドの肩をがしりと掴んだのだ。
「……なんだその手は」
「馬鹿言わないで欲しいですわ。わたくしの手塩にかけて育てた一人娘が、たったの金貨五千枚? 一万枚積まれたとしても、そんなものは御免被りますわ」
「ほう?」
 スカロンの控えめだが、頑とした拒否の言葉。ガルガンドは片眉を上げ、口の端を吊り上げ答える。ガルガンドは腰に差したホルダーから黄金色の杖を取りだし、その切っ先をスカロンに向けた。
 周囲はガルガンドの行動に騒然となる。
「知っているか? 貴族に逆らった平民の末路を。金を払うと言っているだけ、我は善人だと思うがな」
「もちろんですとも。ですが、愛娘を何処の馬の骨とも分からぬ盆暗貴族へやるわけにはまいりません」
「言ってくれる――」
 お互いに視線を外さず相対する。今にも暴発しそうなガルガンドに毅然と対峙するスカロン。一触即発の危険な状況。あわや惨時かと思われたとき、悲鳴のような悲痛な叫びが沈黙を切り裂いた。
「――やめて! パパ、あたし行くから、だからもう止めて!!」
「ジェシカ!? 何言ってるの?! 駄目、絶対に駄目よん!!」
「いいの……このままじゃお店が潰されちゃうわ。あたし一人のために、みんなを巻き込んだりできない」
 ジェシカは顔を伏せ、喉から押し出すようにかすれた声で呟く。その目尻に、キラリと光る一筋の線が見えた。
 周囲の客たちは誰も制止に入ろうとしない。誰だって自分から渦中に飛び込もうとは考えない。皆、顔を伏せ、嵐が過ぎ去るのを待っているのだ。
 ガルガンドは戸口へと歩み去っていく。ガルガンドに手を繋がれたジェシカは、黙って彼に付いていくしかない。その後ろ姿に、妖精さんたちが立ち上がった。
「ガルガンド様!」
「お願いします、堪忍して下さい!」
「ジェシカを連れて行かないで!」
 赤と青と黄色い髪の色をした、三人の女が声を上げた。彼女らは追いすがるようにガルガンドの後ろ姿へ駆け寄っていく。
 ガルガンドは指を鳴らした。
 ――ズガァンッ!!
「グオオオォォォッッッ!!!!」
「「「ひぃぃっ?!」」」
 入り口が文字通り“爆ぜた”。扉を破壊した巨大な影が、ガルガンドと女たちの間に轟音を立て降り立つ。その影は巨大な犬のような体躯をしていて、頭が二つあった。――ガルガンドの使い魔、オルトロスのヴォルガングである。
「これが最後だ。これ以上の慈悲はないと思え」
「グルルルル……」
 ヴォルガングは歯を剥いて、怯える女たちを威嚇する。割って入ろうとしたスカロンも、現れた幻獣には為す術もない。ただ、皮膚に食い込むほどに手を握りしめ立ちつくすのみ。ジェシカはもう振り返らない。 
 全ての障害を圧殺し、外へ踏み出そうとしたガルガンド。その後頭部に向け、一直線に強襲する物体があった。
 彼の背後にいたヴォルガングがその物体を払い落とし、物体はガラスの破砕音を響かせ砕け散った。
「……ワインの瓶か」
 床に広がった濃い黒の染みと、鼻を突くアルコールの薫り。それらはこの液体の元の姿を明確に物語っていた。
 ガルガンドは、この無礼を働いた者の正体を見極めようと射線を辿った。その先には厨房の吹き抜け。目を向けると、ちょうど厨房のウエスタンドアから無礼の主が出てくるところであった。
「誰だ貴様。自分がなにをしたか自覚しているのか」
 詰問調のガルガンド。だが、そんな威圧も何処吹く風、男は柔和な笑みで答えた。
「お客様。当店の妖精をお持ち帰られては困りますね」
 ワイシャツに黒いロングパンツの一見して優男な風貌。白いナプキンを三角巾の要領で頭に巻き、白い腰巻きのエプロンで濡れた手を拭っている。そして一番の特徴は、黄金色に輝く双眼である。もはや説明も不用だろうが、言わずもがな、ハタヤマそのヒトであった。
 ガルガンドはハタヤマのこれ見よがしに慇懃な態度が気に喰わず、自然と眼差しが険しくなっていく。
「貴様、話を聞いていなかったのか。この女は我が金で買った。だからなにも問題はない」
「お言葉ながら。商談とは『双方の合意』があり、初めて為されるものでございます。……失礼ながら、お客様と店長の間には、そういったものが交わされたとはお世辞にもお見受けできませんでしたね」
 ニコニコと輝くような微笑みのハタヤマ。相手を貴族と欠片も思わぬような物言いである。ガルガンドは沸々と湧き出る苛立ちに、ぎりりと歯軋りを鳴らした。
 なんなんだこいつは。何故我を恐れない。平民如きが舐めた口を聞く。誰に向かってほざきやがる。ガルガンドの脳内に、そういった類の言葉が脳内をグルグルと渦巻き始めた。沸騰した血が頭に上り、目の前が赤く染まるような錯覚に陥る。平民が貴族に逆らうなど、あってはならないことなのだ。
「それに」
「――ん?」
「意中の乙女に落とす値段がたったの五千枚とは、いやはや、想いのたかが知れますな。本当に愛していらっしゃるなら、一千億枚でも足りないでしょうに」
 ハタヤマはやれやれと両手を上げ、呆れかえったというポーズを示した。ガルガンドの堪忍袋は、その瞬間にぶち切れた。
「“デル・ウィンデ”ッ!!」
 問答無用の魔法詠唱。一挙動で構えた杖の先から、風の塊が撃ち出される。だが、ハタヤマは即座に手近なテーブルを蹴り立たせ、狂風への盾とした。
 轟音と崩壊、砕け散ったテーブル。載っていた料理は床にぶちまけられ、盛大な金属音が鳴り響く。その音が鳴りやまぬうちに、店内は阿鼻叫喚と見まごうほどの悲鳴と恐慌に包まれた。
「あなた、早く逃げなさい! どうしてそうまでして――」
「店長、下がっててよ。悪いようにはしないから」
 スカロンはこの人間がエリザベス(ハタヤマ)だということなど分かるわけもないが、それでも彼の身を案じて駆け寄った。そんなスカロンにハタヤマは優しい笑顔で返す。
「微々たるものかも知れないけど、世話になった恩返しさ」
「?」
「早いとこ二階に避難して。もちろんお客さんも連れてってね」
 そう言ってハタヤマは視線を戻した。スカロンはハタヤマの意図が読めず従うことをためらったが、逡巡して妖精さんたちに指示を飛ばす。
「妖精さんたち! 上の階へ避難して!」
「は、はい! ミ・マドモワゼル!」
 こんな時でも呼び名を統一しているのは、日々の訓練のたまものか。妖精さんたちは手際よく分かれ、分担して客を荷がし始めた。
 スカロンも通常はこんな面倒御免であり、見知らぬ男などたたき出すところである。ならば何故今回はしたがったのかというと――なんとなく、感じたのだ。
(あの子なら、なんとかしてくれるわ)
 初めて会ったはずなのに、不思議と初対面の感じがしない。まるで長いこと一緒にいたような気さえする。それに。
(あの子は、ジェシカのために立ち向かってくれている)
 男で一つで育ててきた、目に入れても痛くないほどに可愛い娘。スカロンとて、こんな形で嫁に出すなど本意ではない。それをなんとかしてくれるというハタヤマの申し出は、スカロンにとって願ってもない話だった。
 故に、スカロンはハタヤマに託した。己が娘の幸せを。

     ○

「一抹の希望すら奪うのは酷だろう。特別に、ヴォルガには手出しさせぬようにしてやろう」
「そりゃどーも」
 ガルガンドは自身の勝利を確信しているのか、己の使い魔を下がらせた。有利な提案を拒否する理由も無く、二つ返事で受け入れるハタヤマ。
「祈りは済んだか? この世への別れは? 思い残すことはないか?」
「生憎、天涯孤独でね。残す想いも、相手もいないよ」
 その言葉が火種となり、闘争の火蓋が切って落とされた。ガルガンドは高速詠唱と見まごうほどに速いウィンド・カッターの三連射で弾幕を張り、ハタヤマを斬殺せしめんと攻める。ハタヤマはその口の動きを見るや手近な椅子を手当たり次第に放り投げ、簡易の物質弾幕を展開した。
「はっ、その程度で避けられるか!」
 ガルガンドはハタヤマの雨のような椅子乱射に、ウィンド・カッターをぶつけ相殺する。その間に既に次の魔法の詠唱を開始しており、魔法が途切れる気配はない。
 椅子を投げつくしたハタヤマは、分が悪いと見るや回避戦術に切り替えた。迫り来る風刃をスウェーし、はいつくばり、ターンし、バク転を使って紙一重で避け続ける。目標(ターゲット)に命中せず虚空を奔った風の凶器は床や壁を容赦なく抉り、痛々しい傷跡を刻んでいった。
「キャー!!!! わたくしの店が、ローンがああぁぁぁ!???」
「しっかりして、ミ・マドモワゼル!!」
 スカロンが絶叫し、白目を剥いて卒倒した。妖精さんたちがすかさず支え、気づかいながら床に寝かせる。どうやら自分の店につけられた傷が、見ていられなかったらしい。
 ハタヤマはテーブルの上を食器をはじき飛ばしながら転がり、風の弾幕から逃れきった。落ちたグラスや皿は甲高い破砕音を奏でるが、ハタヤマは全く気にしない。というか、気にしていたらやられてしまう。
 ガルガンドは詠唱を止め、優々と構えながらも隙を見せないハタヤマを睨みつけた。戦闘が始まり数分が過ぎたが、ハタヤマは前に出てこない。避けるだけで精一杯……というわけでもなく、その華麗とも形容できるダンスのような避け方からして、かなりの余力を隠していそうだ。ガルガンドは先ほどからウィンドカッターのみに絞り出方を窺っていたのだが、ハタヤマはそれらを全てギリギリで避わしている。文字通り、『ギリギリ』で。
 一度や二度、悲鳴をあげながらならまだしも、それが三回以上続いたのならガルガンドも認めざるを得ない。ハタヤマは、彼の魔法を完全に見切っているのだ。
「どうした、逃げてばかりでは我に勝てんぞ」
「そっちこそいいのかい。 あんまり長引かせるとまずいんじゃないの?」
「……ちっ」
 ガルガンドは焦りを誘いおびき寄せようという作戦が見事にからぶり、憎々しげに舌打ちした。ハタヤマからは一貫して攻めてこず、勝とうという気迫を感じられない。狙いが読めないのである。ガルガンドはハタヤマの不気味な余裕に、表情を曇らせた。
 一貫して攻め気がない。かといって引くわけでもない。つかず離れず、絶妙な位置取りでこちらを威嚇してくる。
「く……!」
 ガルガンドは顔面に迫り来るナイフを、間一髪エア・シールドを発現させ防ぐ。わずかでも隙をさらせばこのように、いやに精度のいい物投げが飛んでくる。それはナイフであったりフォークであったり、机や椅子、ワインの瓶など、いずれもそこらへんに散らかっているゴミ同然の品ばかりである。しかし、ハタヤマはそれを詠唱の隙に嫌らしく差し込んでくるので、そのためガルガンドは後一歩攻めきれない。
 そうやって反撃してくるものの、ハタヤマは自分から距離をつめようとしない。肉薄し杖を奪うことだけが唯一の勝機なはずなのに、果たして奴はなにを狙っているのか。ガルガンドはわずかに眉をひそめた。
(ふふふ、悩んでるな)
 ハタヤマは内心でほくそ笑む。思い通りに事が運びすぎ、あまりにも愉快だったからだ。
 何故ハタヤマは前へ出ないのか。その理由は、実は至極簡単である。ハタヤマの認識する勝利条件が、『ガルガンドの撃破』ではないからだ。おそらくガルガンドを叩かなくても、放っておけば公僕なりなんなりが駆けつけてくるはずである。そして杖を構えたガルガンドとボロボロの店内を見れば、誰が悪いのかは一目瞭然だろう。ならばわざわざ無理をしてガルガンドを攻撃する必要もなく、ハタヤマは耐えているだけで盤石なのだ。それにこのペースでガルガンドが魔法を使い続ければ、遠からず彼の魔力は枯渇する。そちらの方が速ければ、魔力の無いガルガンドの杖を奪えばいい。どちらに転んでもおいしい展開である。
 非情に消極的ではあるが、その分簡単で安全な二段構えの戦略。勝利への確信があるからこそ、ハタヤマは不敵に笑っているのだ。
「……ふん、平民がいくら策を練ろうが無駄だ。平民は貴族にけして勝てん」
 ガルガンドは、テーブルの影に身を隠したハタヤマへ向けてはき捨てるように言った。こう着状態にじれたのか、声に若干の苛立ちが混じっている。
「へっ、それはどうかな? なにを持って『勝ち』とするかによるさ」
「なんであろうと変わりない。貴族に敗北は許されんのだ」
 ガルガンドの発する気配が、ぴりぴりとした感情を含むものになり、一帯が緊張で張り詰める。続いて薫ってきた魔力の匂いに、ハタヤマの表情から笑みが消えた。これは魔法使いが大きな魔法を発動させる予兆であり、ハタヤマにとって幾度となく向けられてきた危険信号であった。首筋をつつくような嫌な予感は、今まで外れたことがない。
「――我相手にここまで抗った平民は初めてだ。故に貴様に敬意を表し、全力で屠ってやろう」
 ガルガンドの魔法詠唱。それとともに彼は体の周囲に、室内だというに風を帯び始めた。その風はどんどんと強さを増し、あっというまに他を寄せ付けぬほどの強風へと変化する。風の術者か、とハタヤマは予測した。
 しかし続いてハタヤマは、これまでにはなかった現象を目の当たりにする。
 ――パリッ
(『パリッ』?)
 ハタヤマはガルガンドを包む嵐の中に、青白い蛇のような光が舞うのを目撃した。その青白い蛇は徐々に数が増えていき、そして何かがはじけるような音も大きくなる。このような魔法は、タバサも、エルザも使用してこなかった。
「我は『瞬雷』のガルガンド。我が雷光、耐えられるか――?」
 瞬間、光線が走った。
「――!!」
 ハタヤマは条件反射で右方向へ身を投げた。一拍遅れて、直前までハタヤマがいた場所に雷が落ちたような轟音が鳴り響く。身を丸め宙を回転しつつ着地したハタヤマが驚いて振り返ると、彼が身を隠していたテーブルが焼け焦げ、無残にも引き裂かれていた。
「電撃、か……」
「ほう、これすらも避わしてみせるか。もはや認めざるをえん。……貴様、視えているな」
 ハタヤマは表面上不敵な笑みを崩さないが、ひくひくと口の端がひきつるのを隠せなくなってきていた。電流に身をなぶられる痛みは、エレキバーストを操る自身が一番よく知っている。ましてやあそこまでの光景を作り出す雷なんぞ直撃しようものなら、その結果など想像する必要もないだろう。少なくとも痛いではすまないことは確かである。ハタヤマはもうなりふりかまわず逃げだしたい気持ちでいっぱいだった。
 笑っているのに滝のような涙を流し絶叫するハタヤマの異様さに、ガルガンドは若干表情を引きつらせた。しかし、軽く首を振り、油断と慢心をふるい落とす。
「このまま魔法を打ち続けても、貴様は避け続けるのだろうな。ならば、この魔法の封を解かざるを得まい」
 ガルガンドは眼を閉じ、精神を統一させた。すると彼のまとっていた風と雷の衣がほどけ、辺りは水を打ったような静けさとなる。
 ハタヤマはこれを好機と取り、両足に魔力を張り巡らせて弾丸のように飛び出そうとした。
 ――ゾクッ
(っ!!)
 ハタヤマは背中に氷を這わされたような、強烈な悪寒に襲われた。脳が中止の命令を出す前に、直感が彼の肉体を止める。ハタヤマは蹴りだした勢いを殺すために両手を地面に叩きつけ、四つんばいになりながらもなんとか慣性を殺しきった。
「―― ――― ……――」
 ガルガンドの詠唱が完成する直前、彼から雷の奔流が迸った。ハタヤマの第六感が、タバサが『アイス・ストーム』を詠唱した映像を脳に流せと訴える。ガルガンドは単発では埒が明かぬと、一階全体を巻き込むような範囲魔法に切り替えてきたのである。こういったときに限り、ハタヤマの直感は百発百中の冴えを見せる。最悪の予感だけは、一度も外れたことがない。
(いくらなんでも本気出しすぎだろ!? 私闘で殺す気とか頭おかしいんじゃないの?!)
 ハタヤマは心中悪態をつき、床に這いつくばる勢いで低い姿勢になり、両手を頭にして伏せた。こういった魔法は、人間が立ったときでいう上半身の高さに危険が集中する場合が多い。ひたすら低い姿勢でやり過ごせば、案外無傷で済むこともあるのである。
 しかし、ハタヤマは見てしまった。頭を抱え、恐怖に震えながらへたり込むジェシカの姿を。
(――! ちぃッ!!)
 何故そんなところにいるとか、なんで逃げてなかったとか、色々なことが頭によぎった気がした。しかし、それを認識する前に、ハタヤマの体は動いていた。
「伏せろッ!」
「きゃあああぁぁぁ?!」
「『ライトニング・ストーム』」
 ガルガンドが吼え、魅惑の妖精亭一階はまばゆい閃光に包まれた。同時に空気を引き裂くような重たい音と、悲鳴にもならないほどの絶叫が響き渡る。
「ぐがああぁぁあぁぁあああ!???」
 ハタヤマはジェシカを押し倒した姿勢で、苦痛に声を張り上げた。もしわずかでも電流が身にかすれば、肉体を伝ってジェシカにまでダメージが回ってしまう。覆いかぶさってはジェシカに胴体が触れてしまうので、その危険性から自身も伏せることができなかったのだ。
 ハタヤマは全身からぶすぶすと煙をあげながら、ジェシカの上へ糸が切れた人形のように倒れこんだ。
「――ちょっとあんた大丈夫!? ねぇ、しっかりしてよ!!」
 ジェシカはハタヤマの頭を掻き抱き、その豊満な胸にうずめた。自分のせいでハタヤマが大怪我を負ってしまったという罪悪感が彼女を責め立てる。ハタヤマはぐったりと弱りながらも、ジェシカの乳房に手を添えた。 
「……う」
「う?」
「うへへへへへへ」
「きゃ――――――?!」
 ジェシカが胸を守るようにハタヤマを突き飛ばした。この珍獣、なにをするかと思えば、あろうことかジェシカの胸をいやらしく揉みしだきやがったのである。さすがエロ珍獣、どんな状況でもその邪悪さを忘れない。もしかしたら、今際の際でもこいつはこんな感じなのかもしれない。
「死ねぇ女の敵ッ!」
「ぐぼぁ!?」
「ってきゃ――!? ごめーん!!」
 仰向けに転がったハタヤマのみぞおちにジェシカは間髪入れずスタンプをかまし、空気を入れすぎたブーブークッションを踏みつけたときような声であえぐハタヤマ。ジェシカは怒るべきか謝るべきか気遣うべきか分からなくて、軽い錯乱状態に陥っていた。無論、むしろぼこぼこにするべきなのはいうまでもない。
「……ふ、平民にしてはよくやった。我にこの魔法を使わせたことを誇るがいい」
 ガルガンドは目の前のやり取りにやや眼が点になっていたが、かぶりを振って気を取り直した。改めてジェシカを迎えようと、彼女に向けて歩き始める。
「これで我の愛は証明されただろう。この女は貰って行くぞ」
「……いいや。むしろメッキが剥げたさ」
「なに?」
 ガルガンドが足を止める。その視線の先には、よろめきながらも手をついて身を起こしたハタヤマの姿があった。ジェシカは慌ててハタヤマの体を支える。
「本当に愛しているのなら、争いの最中でも彼女の安全を第一に考えるはずさ。ましてや広範囲攻撃魔法なんて、選択肢の一つにも入れないよ。――しょせんキミの愛なんてそんなもの。まったくの無価値なんだよ」
 声を出すのもつらいはずなのに、ハタヤマはガルガンドをあざ笑った。小さく、しかし深く、おかしくてたまらないとでもいうように。
「貴様ァ!!」
 ガルガンドは激昂し、風切り音を立てて杖をハタヤマへ突きつけた。ジェシカはハタヤマを隠すように庇い、ガルガンドへ背を向ける。その様もガルガンドには気に入らない。ガルガンドは怒りにまかせ、ウィンド・カッターを詠唱し――
「――ガッ?!」
 後頭部に強い衝撃を受け、口を閉じざるを得なかった。足元へは割れた白い陶器が散らばり、大量の水が服にかかる。肩に触れたものを手に取ると、薄桃色の花だった。
「誰だ、無礼者が!!」
 血走った眼でガルガンドが階上を見上げると、そこには大量の観戦者たちがいた。皆一様に『ある感情』を含んだ目で、ガルガンドを見下ろしている。妖精さん、店の客、そしてスカロンが一様に、ガルガンドへ視線を注いでいるのである。
「な……なんだその目は! 平民どもが図に乗りおってぇ!!」
 ガルガンドはその異様な圧迫感に気圧され、突き動かされるかのように杖を階上へ向けた。しかし次の瞬間、彼の手から杖が忽然と消えていた。
「――あれ?」
 気付いたときにはもう遅い。ガルガンドは自らの両手を見下ろすと、その視界に誰かの靴を捉えた。シンプルな黒い革靴だが、一見して魔術的な処理を施されているのが見て取れる。ガルガンドは辿るようにゆっくりと顔をあげていくと、そこにはニヤニヤしながら金色の杖を手の中で持て遊んでいるハタヤマの、満面の笑みがあった。
「ぐ、か、返せ下郎!」
「やだよーん」
 ハタヤマは手を伸ばすガルガンドから身をよじり逃れ、あらよっと、と軽い掛け声と裏腹に、全体重をこめて杖を踏み折った。床を支点に手で斜めに支えられていたガルガンドの杖は、上からの圧力にあっけなくぺきんとへし折れる。
「なんだ、純金かと思ったら木の棒にメッキしただけじゃん。キミ、見栄っ張りだねぇ」
 ささくれ立った杖の断面をまじまじと見つめ、しみじみと呟くハタヤマ。これ見よがしなわざとらしさは、事実わざとであることをありありと伝えている。ガルガンドはハタヤマの煽りに、火の出るように顔を赤くした。
「貴様、我の魔法を受けて何故立ち上がれる!? 本来なら即死でもおかしくないんだぞ?!」
「まあそのへんは日ごろの行いってとこかな」
 ハタヤマは自身も『エレキバースト』という自爆技を操るだけあり、電気に対する耐性が普通より高かった。それだけでなく、日ごろの魔法鍛錬により、魔法に対するあらゆる能力を鍛え上げていたのである。学院での勉強と、学院を出てからの篠原の鬼のしごきは、生半可なものでは決して無い。少なくとも常人には致命傷の攻撃を重傷で抑えるくらいなら、今のハタヤマにとって不可能なことではない。常日頃からの(いやいやだが)たゆまぬ努力が、彼の命を救ったのだ。
 やや全身が焦げ気味なことと煙を吹いているのは仕方が無いことだが。
「さて……どうしてくれようか」
 ハタヤマは一歩、歩をつめる。魔法使い、杖が無ければ、ただの人、という諺があるように、魔術師は基本的に、杖が無ければただのゴミ屑であり、そこらへんの一般人と大差ない存在となる。そして貴族が杖を奪われるということは明確な敗北を意味しており、ましてや杖を折られるなど、最大の恥辱以外のなにものでもない。追い詰められたガルガンドは、ためらい無く禁じ手の行使を決めた。
「ヴォ、ヴォルガ! 我が忠実なる使い魔ヴォルガンドよ!! あの生意気な平民を八つ裂きにしろ!!」
「グォウウウゥゥゥッ!!」
 ガルガンドの呼び声に呼応し、双頭のオルトロスが飛び込んできた。第一章でハタヤマにずたずたにやられたあのヴォルガくんである。ヴォルガは人間状態のハタヤマを知らず、荒々しくハタヤマを威嚇する。しかし、動物の世界での力関係がそう簡単には覆らないように、一度刷り込まれた敗北はどんな形であれ拭い去ることはできない。
 ハタヤマはヴォルガの顔を数秒間凝視し、思い出したというように手を打った。
「――かわいいワンちゃんだねー、よしよしよしよし」
「ちょ、ちょっとあんた!?」
 ハタヤマはジェシカの制止など聞こえないフリを決め込んで、ムツゴロウさんよろしくにこやかにヴォルガへにじり寄っていく。始めは威勢良く構えていたヴォルガだが、距離が詰まるにつれ、全身から冷や汗が噴出してくることに気付いた。
(なんだ、この言い表せぬ迫力は!? お、俺様が……俺様が、怯えているというのか?)
 ハタヤマが一歩前に進むごとに、ヴォルガの動悸が加速していく。ハタヤマの表情は柔和な笑顔のはずなのに、何故かまったく笑っている気がしない。ヴォルガはむしろ、抜き身のナイフが足を生やして近寄ってきているかのような錯覚に襲われた。
 ヴォルガはハタヤマと瞳をあわせる。ハタヤマの美しい黄金色の瞳は、彼の中に眠る、封印したはずの忌まわし記憶を想起させた。
 あの、茶色い変な幻獣を――
(ち、違う。あれは、あれは人間なんかじゃない)
 人間の皮をかぶった別の何かだ――
 ヴォルガは己の野生の勘に、忠実に従った。
「キャインキャインキャイン!」
「んなぁ!?」
 ヴォルガは主の期待を裏切り、寝転がり腹を見せる服従のポーズをとった。
 刷り込まれた上下関係は、彼に下克上という考えすら抱かせなかったようである。ハタヤマはヴォルガの腹を撫で、猫かわいがりに愛でている。
「よーしよしよし」
「う、うそ……」
 ジェシカは絶句した。貴族を負かし使い魔を服従させるなど、平民にはほとんど不可能に近いことである。それを見事やってのけた目の前の男に、彼女は強い興味を持った。
「ね、ねえ」
「ん? なに?」
 ジェシカは呼びかけようとして気づく。まだ彼の名前すら聞いていないことを。
「あんた、なんて名前なの?」
「ボクはハタヤマヨシノリさ。気軽に呼び捨てでいいよ」
 ハタヤマヨシノリ。彼女の住む地域では聞きなれない響きである。どこか遠い地方からの旅行者か、と彼女は一人納得した。
「じゃあ、ハタヤマ」
「なんだい?」
「ありがとね」
 ジェシカはそう言って微笑んだ。この世界に飛ばされてから、初めて向けられた人間からの笑顔と感謝。ハタヤマは胸に湧き起こる万感の思いと、その笑顔の眩しさにしばし見惚れた。
 彼らを祝福するかのように、階上からはたくさんの勝どきが響いていた。

     ○

 双月が太陽のまばゆさに隠れ、人々の営みが最も活性化するお昼時。トリステインの隅っこに位置する『元』魅惑の妖精亭があった場所では、沢山の大工たちが仕事に励んでいた。
 昨夜、営業続行不可能なまでに痛めつけられた魅惑の妖精亭は、早くも再起への道を歩み始めていた。あの後、武装した兵士が息を切らして突入してきたが、そのときにはすでにガルガンドは縄でふんじばられ、ヴォルガングは口輪を咬まされた状態であった。おっとりがたなで駆けつけてきたのだろうが、残念なことに遅すぎた。
 ガルガンドの行いはその日のうちに実家へ文書で届けられ、飛んできた彼の父親にこっぴどく絞られたようだ。
 ガルガンドの父親は貴族でも珍しいほどの人格者で、夜が明ける前にスカロンへ詫びを入れにきた。まあ、その詫びの入れ方は残念なことにお貴族様が抜けていなかったが、素直に非を認めただけ悪い相手ではないのだろう。そしてすぐさま魅惑の妖精亭再建費用を全額負担する書面を書き、夜が明けるころには全ての手続きを彼一人で手配して、口止め料として金貨を包み颯爽と帰っていった。なかなかに出来る男である。
 さて、魅惑の妖精亭の脅威は去った。そして、その立て役者となったハタヤマがどうなったかというと。
「………………」
「どういうことか、説明してくれるんでしょうね」
 鏡の前に立たされたカエルのようにだらだらと脂汗をかきながら、極上の笑みを浮かべたジェシカにテーブルの上で追い詰められていた。どうしてこうなったかというと、やや時間を遡らねばならない。

     ○

「宴だ! 今日は全部『坊ちゃん』の奢りだぜ!」
「や、やめろ! 我の金が、小遣いがッ!!」
「金はいくらでもあるんだろう? ケチケチすんじゃねぇよ!」
「いよ、ガルガンド様太っ腹!」
「うわあああぁぁぁぁぁ」
 魅惑の妖精亭では、新年の祭りに勝るとも劣らぬ盛り上がりに満たされていた。ガルガンドの父君が去り際に、
「貴様にはいい薬だ。我輩が仕事を終わらせるまで、ここに残って反省していろ!」
 と言い残し、ガルガンドを置いていったのである。その間、彼になにをしても不問にすると言い置いていったので、居合わせた客たちはやりたい放題であった。もっとも、本気でやりたいほう題しようとする奴にはハタヤマがきつーい追い込みをかけて自重させるので、刃傷沙汰には発展しない。あくまで節度をもってやりたいほう題するのがハタヤマ流である。
「やれやれ……これであの子も懲りてくれるといいんだけどね」
 ハタヤマはワイングラスを揺らし、その中で起こるダークパープルのさざ波を眺めながら呟いた。先ほど受けた傷は幸い軽度で済み、鈍い疲れにテーブルの上で突っ伏していた。
 平民たちはたくましく、この程度の出来事は不運のうちにも入らないらしい。彼らはぼろぼろになった店内をあらかた片付けると、宴会をしようと言い出した。この店の持ち主であるスカロンは二つ返事で了承し、こたびのヒーローであるハタヤマは、拒否権も無く主役として参加させられている。
「無理でしょー? あいつ、腐っても貴族だもん」
 ハタヤマの向かいに座り、一口サイズにカットしたチーズをつまんでいるジェシカ。彼女は沢山の人間と接してきたことで、人間の本質がそうそうには変わらないことを知っている。ガルガンドがぬくぬくと守られた暮らしを続けている限り、彼に転機は訪れないだろう。
「ねえ」
「ん?」
「……あんたどっから来たの? 旅の人?」
 ジェシカはハタヤマを上目遣いに見つめた。彼女が長年の経験から体得した『お願いビーム』である。テーブルに押し付けられてつぶれた胸に、朱を帯びた頬が妖艶さを演出するという彼女の必殺技だ。これをやられて落ちなかった男はいない。
 だが、ハタヤマはうっすらと笑みを浮かべ、軽く受け流した。鼻の下は伸びまくっているが。
「住所不定無職のプータローだよ。旅人なんて上等なもんじゃない」
「ぷーたろー?」
「働かないでふらふらしてるやつのことさ」
 ジェシカは聞きなれない言葉に首をかしげた。どうもハタヤマは先ほどから、よく分からない言葉を多用する。外国人だといえばそれまでだが、彼女はそれが妙に気になった。
「でも、なんかやりたいことはあるんでしょ? なんかないの?」
「………………」
 ハタヤマは見た目態度振る舞い全てにおいていい加減そうな雰囲気を身にまとってはいるが、だからといって理由も無くふらふらするようにも見えない。ジェシカはハタヤマに対する関心を臆面も無くあらわし、彼への興味を隠さない。
 ハタヤマはジェシカの真直ぐで輝く瞳に、気圧されたように二、三度瞬きをした。そして数秒間黙り込んだが、意を決したように深く息を吸い込み、口を開く。
「ボクは――家に帰りたいんだ」
「家?」
 ハタヤマは頷く。
「そう。ボクはある日突然、ここら辺の土地へ飛ばされてきてね。その日からずっと、家に帰る方法を探しているんだ」
「それって、馬車や船ではいけないようなところなの?」
「うん。もっとずっと、遠いところにあるんだ」
 ハタヤマはどこか遠くを見るように目を細めた。懐かしい場所。戻りたい。そんな声が聞こえてきそうな、切なさにあふれた顔。ジェシカはそんな哀愁漂うハタヤマの姿に、胸がきゅんとときめいた気がした。
「どったの?」
「な、なんでもない!」
 ジェシカは吃驚した猫のように至近距離でハタヤマを怒鳴りつけたが、間髪いれず顔を真っ赤にしてそむけた。ハタヤマはそんな彼女の反応に疑問符を浮かべた。
「で、でも災難だね。奴隷商人にでも捕まったの?」
「まあ、そんなようなものだよ」
 ハタヤマはワインに口をつけた。若干の空白の後、不意にお互いの視線が絡み合う。ジェシカはハタヤマの瞳を上目遣いで覗き込み、誘惑するかのようにウィンクした。ハタヤマは彼女のしぐさにややぐらりと揺さぶられ、照れたように愛想笑いを浮かべた。さすがは魅惑の妖精亭ナンバーワン、男の扱いは心得ている。
 見つめあう二人。そんな空気を粉砕するかのように、ハタヤマの背後から声がかかった。
「おい兄ちゃん! 今日の主役がなに隅っこでジェシカちゃんくどいてんだよ、この色男が!」
「こっち来て飲みやがれ! 罰としてビアーと飲み比べ決定だからな!」
「え、ちょ、ボクあんま飲めないんだけど……」
「「問答無用!!」」
 ハタヤマは政府に連行されるグレイのように両脇を固められ、ずるずると引きずられていく。その先には街一番の酒豪であるビアーという男が、樽のような腹をぺしんと叩いて待ち構えていた。
「いやあああぁぁぁお助け―――ぶがっ!!!?」
 泣き叫び逃げ出そうとしたハタヤマの叫びは、無常にもワイン樽でふさがれてしまった。樽いっぱいのワイン一気飲み、飲み比べは既に始まっている。
 傷だらけの店内はにわかにヒートアップし、果てはどちらが勝つかを賭け始める者たちも現れる。そのオッズ表によれば、ハタヤマの倍率は十倍らしい。
「あらあら、彼も災難ねえ」
「パパ」
 ジェシカが頬杖をついて飲み比べ勝負を眺めていると、歩み寄ってきたスカロンに声をかけられた。スカロンの背後に目をやると、真っ白に燃え尽きて床に転がされているガルガンドがいた。どうやら、スカロンに愛で尽くされて灰になってしまったらしい。ガルガンドの使い魔、オルトロスのヴォルガングが悲しそうな哀愁を漂わせてガルガンドの顔を舐めている。
(あんた、やなやつだったけど……ほんのちょっとだけ同情したげるわ)
 ジェシカはガルガンドの冥福を心の中でちょっとだけ祈り、きらりと目じりに涙を光らせた。
「あの子、顔も結構タイプだし……つばつけちゃおうかしら」
「っ! だ、駄目ダメだめよっ!! あれはあたしの――」
 スカロンの聞き捨てならない爆弾発言にジェシカは食って掛かるが、そこまで言ってはっと口を押さえ、言葉を切った。スカロンはくすりと乙女系微笑を浮かべ、ジェシカを微笑ましそうに見つめる。
「分かってるわよん♪ わたくしだって娘の『良い人』にちょっかいだしたりしないわん」
「……っ! パパっ!?」
「うふふふふふ♪」
 ジェシカはぼふんと顔から湯気を噴いた。スカロンは己の娘の初心な反応にニコニコしている。ジェシカはなにを言っても無駄だと悟り、頬を膨らまして頬を染めながらうつむいた。
「あの子、ウチに居ついてくれないかしらねえ」
「え?」
「見た感じこの辺の子じゃなさそうだし、もしかしたら明日にはいなくなってるかも」
「あ……」
 ジェシカはハタヤマの背中に視線を移した。飲み比べ勝負は早くも佳境に入ったようで、ハタヤマが一つ目の樽を空け、二つ目を飲み干そうとしているところであった。明らかに体格は細い部類なのに、いったいどこへその大量の液体を取り込んでいるのだろうか。
「うべれべれべ~☆」
「すげぇ、あいつよろめきながらラッパのみしてるぜ!」
「今にもこけそうな千鳥足なのに、なんてバランス感覚だ!」
 うおおぉぉとテンションフルMAXな観衆に見守られ、へべれけになりながらハタヤマは飲み続ける。もう前後不覚らしい。対戦相手のビアーはなんとか一つ目を飲み干したところだが、見るからに辛そうである。どうやら、期せずして勝ちそうであった。
「あの子、なにしてる人だって言ってたの?」
「……じゅーしょふてーむしょくのぷーたろ、って言ってた」
「じゅ、じゅーしょふてー? なにそれ、なにかの呪文?」
「なんか旅してるんだって」
 スカロンは聞きなれない単語に戸惑ったが、とりあえず旅人なのだろうと受け取った。しかし、スカロンには腑に落ちない点が一つあった。あの青年はジェシカを助けることを、『世話になった恩返し』といったのだ。“旅人”と“恩返し”。関連性の無い二つの要素が、スカロンは妙に引っかかっていた。
「ふぉ―――!!!!」
「勝った! 兄ちゃんが勝った!」
「大穴だー!」
 大樽一つ半で、ビアーは苦悶に顔をゆがめ倒れた。地に落ちた樽は無残にも砕け、中身の赤黒い液体を流出させる。ハタヤマは二つ目の樽を飲み干し、それを頭に乗せてバンザイ。ダブルピースで勝利の咆哮をあげた。
 ハタヤマの顔はのぼせた赤信号のようにまっかっかで、誰が見てもやばい状態なのは疑いようが無い。
「うへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへhhhwwwww」
「やばい、兄ちゃんが壊れた!」
 イっちまった目をぐるぐる回しながら、ハタヤマは壊れたねじ巻き人形のように笑い続け、
「へぅ」バタン
「兄ちゃ―――ん!!!?」
 白目をむいてぶっ倒れた。ブレーカーがショートしてしまったようだ。
 赤い顔で青ざめながら白目をむいて満面の笑みを浮かべたハタヤマ。その姿は、ある種幻想的でもあった。周囲の者たちは感動に胸打ち震わせ、ハタヤマに敬礼を送っていた。
「なにやってんだか……」
「うふふ、やっぱり疲れてるのよ。お部屋に運んであげましょ」
 スカロンは盛大ないびきをかいているハタヤマを担ぎ上げ、ぱんぱんと手を叩いた。
「はいはい、皆さんそこまで! 本日の営業はこれまでよん! 残念だけど改装が終わるまでお店はお休みになっちゃうの。」
「「「えぇ~っ!」」」
「くすん。でも、来週頭には新装開店のイベントを起こすから、皆さん期待して待っててねん♪」
「「「うぉ―っ!」」」
 スカロンの宣言に客の男たちは見事に操縦され、皆ぞろぞろと帰路につき始めた。彼らの顔は満足げで、誰一人不満を抱えているものはいない。
「さあ妖精さんたち! 騒いだ後はお片づけよ!」
「はい、ミ・マドモワゼル!」
 後のことは妖精さんに任せ、スカロンとジェシカはハタヤマを背負って、二階奥のジェシカの部屋へ戻った。スカロンは自分の部屋にハタヤマを連れ込もうとしたのだが、ジェシカがそれに全力で抗議したのでこうなったのだ。ハタヤマは人知れず貞操の危機を脱した。
「それにしても軽いわねぇ。こんな細い体のどこに、あんな力を隠しているんだか」
「パパ」
「なに?」
「さりげなくハタヤマの体をまさぐるのはやめて」
 ハタヤマは悪夢にうなされるように、うんうんうめき声を上げている。スカロンはジェシカの鋭い指摘に、あら嫌だわおほほ、と淑女笑いをした。
 ジェシカの部屋は鏡台があり、衣装棚があり、ベッドがありといたって普通の部屋である。椅子の上にいくつかのぬいぐるみが置かれていたりはするが、それ以外に目立ったものはなにもない。苦労人らしい、趣味の物があまりにも少なすぎる部屋だった。
「さあ、明日から一週間は定休日にするわ。あなたもしばらくは羽を伸ばしなさいな」
「うん、そうする」
 ハタヤマをベッドに寝かせ、スカロンは出て行こうとした。しかし、スカロンが背を向けた直後、ジェシカが驚いた声を上げる。スカロンがその声に振り向くと、ジェシカがぽかんと口を開けてベッドの上を凝視していた。
「どうしたの?」
「あ、あれ、あれ!」
 ジェシカが取り乱し、必死に指を指す。スカロンがその方向へ目を向けると、寝ているハタヤマが目に映った。そして、ジェシカが気を乱した理由を知る。
 ハタヤマの肉体がみるみるオレンジ色の毛に覆われていったからだ。
 ジェシカとスカロンは絶句した。その間にもハタヤマの肉体は変化し続ける。急に白い煙を全身から噴出し、続いてまばゆい光が部屋一杯に広がった。ジェシカとスカロンはあまりの眩しさに眼を多い、煙と光が収まるのを待った。
 ややあって煙が晴れ、光に眩んだ目も治った。そして、彼女らが目を開いた先には――
「「――え?」」
 オレンジ色した珍妙な生物が、アホ面下げていびきをかいていた。

     ○

 ハタヤマは目を覚ました。
「……知らない天井だ」
 とお約束のボケをかますも、もちろんながら誰も突っ込んでくれない。何故なら周りに誰もいないからだ。誰の部屋だろうと周囲を見回すと、壁に立てかけられた一枚の絵が目に付いた。
 どこかの村だろうか。小麦色の畑をバックに風車や納屋が建った場所で、真ん中に小さな女の子、そしてその後ろに大人の男と女が立っている構図だった。彼らは一様に幸せそうに微笑んでおり、特に小さな女の子の向日葵のような笑顔が印象的な絵である。
「………………」
 ハタヤマはその絵を一瞬凝視し、そして目を背けた。どうしてもその絵を直視し続けることができなかったのだ。
 ハタヤマは歯をかみ締める。その表情はぬいぐるみ状態でも判別できるほどくしゃくしゃにゆがんでおり、なんとも形容しづらいものであった。
 部屋を出て階下に下りる。そこにはウィンド・カッターやライトニング・ボルトの傷跡が生々しく残っていて、なんとも壮絶な場所となっていた。
「うあっちゃ~……」
 ハタヤマはデコ(らしき部分)に手を当て、天井を仰ぎ見る。調子に乗って内装をボロボロにしてしまった。これは修理費を考えると、甚大な被害ではないだろうか。ハタヤマは自責の念に襲われた。
 自分があそこでしゃしゃり出なければ、こんなことにはならなかった。この状態では通常営業など夢のまた夢、仕事がなければここで働く者達はどうやって食べていくというのだ。ジェシカだって案外貴族の暮らしにも馴染んで、幸せに暮らしたかも知れない。
 自分はただいらないちょっかいをかけて無駄に被害を拡大させただけではないのか。ハタヤマは鬱々と思考に耽る。
 これ以上迷惑はかけられない。しかし、ここに留まれば留まるほどに世話をかけてしまう気がする。そうだ、そうなる前にここを出よう。できるだけ早いほうがいい。そうだ、みんなが寝静まった今夜にでも出発しよう。
 ただただ後悔ばかりに襲われ、自虐が加速していく。良かれと思ってやったことなのに、彼はその価値を自分で判断してしまう。故にそれは客観性に欠け、根拠もなにもないというのに、彼はそれを真実だと感じてしまう。要するに、ネガネガしているのだ。
 いっそ、今すぐ出て行こうか――
「おはよう、『ハタヤマ』」
「あぁ、おはよう……えぅ?」
 ハタヤマはポンと頭を撫でられた。反射的に挨拶を返し、ふとおかしいことに気付く。
 なんで名前が呼ばれたんだ? 『この姿では』名乗っていないはずなのに。
 振り返ると、そこには満面の笑みをたたえたジェシカが立っていた。
 どう見てもハタヤマを見下ろしており、同じ名前の違う誰かを呼んだわけではないようである。ハタヤマは心中、パニックに陥っていた。
 なんでバレた? ヤバい。逃げないと。でないとまた――
「来週まで休業だからそれまで自由にしてていいよ。夕飯までには帰ってくんのよ」
「へ……?」
 ハタヤマは耳を疑った。ジェシカは正体を知ってなお、彼への態度を変えなかった。それどころか、前以上に親しげに接してくる。ハタヤマは心臓の奥から冷たいなにかが這い出してくるような感覚に襲われ、突き動かされるように口を開いた。
「ちょ、どういうことだよ! なんでボクの名前を知ってる!? なんでボクが昨日のあいつだって分かったんだよ?!」
「ストーップ! 落ち着きなさいって」
 ジェシカは腰を折り、ハタヤマへめっのポーズをした。
「昨日あんたがしこたま飲んで酔いつぶれたあと、部屋に連れて行ったんだけどね。そのとき、あんたがその姿になるのを見ちゃったのよ」
「……!!」
 迂闊。ハタヤマは己のミスに、自分を殴りつけ、ぼこぼこにしばきあげてやりたい衝動に駆られた。なんということだ、少々飲んだくらいで致命的な隙をさらしてしまうなんて。ハタヤマは、だから酒は嫌いなんだ、と心中で呟いた。
「まあ、ここには色んな事情の奴が集まってるから、別にどーもしない……」
「はは、こりゃあやっちまったね」
「?」
 がっくりと頭を垂れるハタヤマ。そのどんよりとした影をまとった様子に、ジェシカは訝しげに首をひねった。 
「こうなると、もうここにはいられないや。世話になったね」
「あぁ、うん……ってちょちょちょちょ!?」
 ジェシカは、振り返らずに出て行こうとするハタヤマの背中に追いすがった。ジェシカはハタヤマを慌てて拾い上げ、地から足を離させる。
「なにいってんだいあんた! なんでそんな話になるのっ!?」
「いや、だって。こんな都会の真ん中にボクみたいなへんちくりんな生き物がいたら格好の的だし。それに、なんかの拍子に正体が知れ渡ったりしたら、この店にも迷惑がかかっちゃうし」
「そんなもん今更でしょーが! じゃあ今日までここにいたのはなんだったのよ!」
「だから、今夜にでも出て行こうかと思ってたんだよ」
「――え?」
 ジェシカの声色から冗談の色が消えた。ハタヤマは淡々と告げる。
「大体、ボクみたいなのが街に逗留しようなんて、考えること自体間違ってたんだよ。街っていえば人間の巣窟なんだから、素直に山か森にでも拠点を張ればよかった。それが色気を出したばっかりに、人の店を壊したあげくに営業停止にまで追い込んじゃった。大迷惑だよね」
「………………」
「それに人間は珍しいものやことに目が無いから、『人間に化ける化物』なんてお茶の間の話題を掻っ攫うことまちがいなし。そんなボクをここへ置いておくなんて、百害あって一利なしさ。事実、まずは店をぶっ壊しちゃったしね」
 ハタヤマはジェシカと目をあわさず、ぶつぶつと独り言のようにまくし立てる。それはまるで、彼の心の蛇口が不意に開き、中身が垂れ流されているようだった。自分は人間ではない。故に、人間社会で暮らせば、様々な摩擦が起きてしまう。それは自分以外のものにとって、迷惑以外のなにものでもない。だから
「やっぱりボクは、独りのほうがいい――」
「怒るよ」
 ハタヤマの吐露は、怒気を孕んだジェシカに遮られた。ハタヤマはその声で初めてジェシカのことを思い出したかのように顔をあげると、彼女はこわばった表情で彼を見つめていた。
「なんだいさっきから、大の男がみみっちいことでボソボソと。人間じゃない? それがどうした。 迷惑になる? だからなんだい。 この始祖ブリミル様の加護があるこのハルケギニアだって、生き物ってのは生きてるだけで他のなにかに迷惑をかけてるもんなんだよ」
「……?」
「いいかい、人間はご飯を食べるだろう? そうすると、食材になった牛や豚、野菜や魚に迷惑をかけているわけだ。家を建てるには木や石を切り出すわけだから、木や石に迷惑をかけているし、洗物をするために石鹸を使えば水や川、そこに住む生き物たちに迷惑をかけてるんだ。これは他の生き物だって違いは無い。生きとし生けるものは皆、ほかのなにかに干渉せざるを得ないんだよ。そんな中であんたがかけた迷惑なんて、塩粒ほどにちっちゃいもんさ」
 ジェシカは懇々とハタヤマに説教する。別にお前だけが特別迷惑なわけではない、だから深く考えるな、と。しかし、ハタヤマの表情は沈んだままだ。
「でも……」
「ん?」

「ボクは、なにも返せないから」

 ハタヤマは何事も損得で考え、それゆえに借りには何かを返すことが前提となっている。なので、返すアテもないのに迷惑をかけ続けることを、彼自身許容することが出来ない。ジェシカはまたもぐちぐちと後ろ向きなハタヤマに、何事か言ってやろうと口を開きかけて――
「それは違うわ、ハタヤマちゃん」
 ジェシカの背後から声が上がった。同時に、ハタヤマ背筋に撫でるような悪寒が走る。この甘ったるい作り声は、スカロン意外にはいない。
 ジェシカの体越しに覗き込めばやはりスカロンで、彼はくねくねと腰を振りながらふたりに近づいてきていた。
「『貸し』とか『借り』とかっていうのはね、本来はそんなもの存在しないのよ」
「へ?」
 スカロンの論はハタヤマの常識には無いものであった。『貸し』も『借り』もないのならば、いったいなにがあるのだろうか。ハタヤマはいくら考えても、その答えをつかめなかった。
「誰かを助けたとか助けられたとかしたとき、そういったものは確かになにかもらったような気になってしまうわよね。でもそれはね、貸しや借りじゃなくて、ただの『負い目』なの。ただ、助けたとか助けられたという事実から導き出される、引け目のようなものなのよ」
 スカロンは語る。貸しや借りは、それ自体にはなんの効力も無く、それを返すも返さないも当人の心一つだということを。これはハタヤマにとって、かつて無いのほどに革新的な意見だった。
 だが、それが『借りは返さなくていい』ということにはならない。
「………………」
「納得いかないって顔ね。もちろん、借りてばっかりじゃよくないわ。恩を受けたら返したほうがいいに決まってる。けどね、それは決して、なにか形になるものじゃなきゃいけないわけじゃないの」
「形?」
「ただ、皿を洗ってくれたり、掃除をしてくれたり、娘の相手をしてくれるだけでも。あなたは十分に返してくれているのよ」
「っ、ちょっとパパ!!」
 スカロンはハタヤマへウィンクする。ジェシカは顔を真っ赤にしてスカロンに食ってかかるが、スカロンはニコニコと微笑むだけで受け流した。
「でも、それって当たり前のことだし……」
「その『当たり前』のことこそが、なによりの恩返しなのよ」
 そんなことも言われなきゃしない子だっているのに、とスカロンは肩をすくめる。スカロンは不意に立ち姿を正し、ハタヤマの瞳を見つめた。
「あなたは自分を卑下しすぎるところがあるわ。もっと自分を認めてあげなさい。――その優しさは、他の誰にもないものよ」
「……っ」
 ハタヤマは急に湧き上がる何かを感じ、スカロンから顔をそらした。目が痒い。己の頬に触れてみる。乾いている。
 ハタヤマは、ぬいぐるみ族は涙を流さないことに初めて心から感謝した。
「さ、しばらくはお休みよん♪ ハタヤマちゃんこの街来てまだ間もないんでしょ? せっかくだから観光してきなさいな。ジェシカ貸したげるから」
「ちょっとパパ! なに勝手に決めてんのよ!」
「あらん、いかないの?」
「い、いくけどさ!」
 スカロン親子の口喧嘩。しかしそれは険悪なものではなく、見ているものを暖かい気持ちにさせてくれる。ハタヤマはやはり直視できず、そのまま目をそらそうとしたが。
「ハタヤマちゃん、人間にはいつでも変身できるの?」
「え? まあ、出来ないことはないけど……」
「じゃあそっちでお願いね。うふん、久しぶりのデートなんだから、うんとおめかししていきなさいよ♪」
「ちょっとパパ、デートってなによー!」
 くねくねしながら肩を叩くスカロンに、怒鳴りつつも若干夢見心地なジェシカ。デート、という魔性の響きにやや魅了されていて、口の端がにやけている。ハタヤマが彼女ら(?)の勢いに圧倒されていると、スカロンが耳元で囁いた。
〈遠慮しなくて良いのよ。もっと素直に振舞いなさい。わたくしたちは、もう家族なんだから〉
 家族。それはハタヤマにとってもっとも縁遠く、そして決して手に入らないと思っていたものであった。おそらくここに住む妖精さんたちも含めて家族だと言っているのだろうが――ハタヤマは、少しだけ心に渦巻く霧が晴れた気がした。
「――よしジェシカちゃん、そうと決まればさっそくデートしよう! さあしようすぐしよういましよう!」
「ちょっとあんたがっつきすぎよ! 急にアグレッシブになっちゃって!?」
「いかないのかい?」
「いくわよっ!!」
 すぐにでも離れるつもりだったけれど、もう少しここにいてもいいかな。
 ハタヤマはそんなことを思いながら、大きな笑い声を上げた。それはこの世界に来てから始めての、心からの笑顔であった。

     ○

「ところで」
「なんだい?」
「動物の振りしてたのは、正体を隠すためだったのよね」
「そうだけど」
「じゃあ、そのときにみんなの胸やお尻や太ももにじゃれつきまくってたのは、いったいなんだったの?」

「……あ」



[21043] 三章幕間
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 20:12
【 三章幕間 『ハタヤマの記憶・2』 】



 別に、特別大きな何かを為そうなんて思っちゃいない。
 ただ、普通に学院を卒業して、普通に可愛い魔女っ娘の使い魔になって、普通にたらしこんで、普通に横のつながりでハーレムを作ったりしたいと思っていただけだった。
 それなのに。

 どこで間違えたんだろうか――

     ◆

 見上げると、大きく膨らんだ桜の蕾が目に入った。もうすぐ小龍の月も終わり、本格的な桜前線が大攻勢を始める時期である。ボクは別に、特別花が好きというわけではないが、やはり人工っぽくない優しい色や派手な色のそれを見ると目を惹かれてしまう。生き物はすべからく自然にあるものを好むというが、そういう心理が働いているのだろうか。
 ボク――ハタヤマヨシノリ――は、フィリアちゃん家へ続く高級住宅街を歩きながら、そんなセンチメンタルなことを考えていた。
 闇魔法学会総帥が起こした、世界を古代魔法時代へ回帰させようともくろんだ魔王復活事件は、ボクと、ボクとともに戦ってくれた数名の魔女っ娘たちにより無事解決された。今でもあの時のことは、まぶたを閉じればすぐに思い出せる。良くも悪くもイベント目白押しな、波乱だらけの二ヶ月だった。
 あれから。ボクらは魔王討伐の功績を評価され色々ともてはやされたりもしたけど、それも時間とともに落ち着いていった。世のとりざたも七十五日とはよく言ったもので、あれほどうっとうしいほどにまとわりついてきたカメラマンやら雑誌記者たちも、今ではぱったりと姿を現さなくなった。やはり魔法世界、魔王復活という超ド級世界の危機すら色あせるのは一瞬らしい。まあ、ボクとしてはウザい輩が寄ってこなくなるのは大歓迎だけどね。
 フィリアちゃんは順調にその能力を伸ばし、危なっかしくもライセンス試験の一次をパスできたようだ。何故順調なのに危なっかしいのかというと……答えは単純、彼女が「極度のどじっ娘」だからである。とても残念なことではあるが、フィリアちゃんは要所での凡ミス、ポカミスは当たり前。練習ではできたのに本番ではミスちゃった、なんてことはざらだったりする。なので、彼女の合否についてはボクもはらはらしていたが、協会から送られてきた封筒の封を切ったときの笑顔で胸をなでおろしたもんだ。
 ビビアンちゃんはそのあふれんばかりの才能を遺憾なく発揮し、ダントツトップで試験を突破したらしい。百年に一度の天才だ、なんて囁かれてるようなので、彼女の前途は明るいだろう。未だに姉であるフィリアちゃんにべったりなのと、ボクを抱き枕代わりにもふもふするのは相変わらずだけど。
 リンレイは学科にやや苦戦したものの、実技で挽回し見事合格。まったく、試験直前まで睡眠時間三時間で試験勉強に付き合わされた身としては、これで落ちられたらやってらんないよ。いや、見事に落っこちたリンレイの背を抱いて、生傷をえぐるようにおちょくり倒すのも楽しいかもしれないけど。
 ルシフェルちゃんは……事件の後、姿を消してしまった。魔王の支配から救うことはできたが、やはり彼女は『ルシフェル』ではない。その辺を本人も気にして、出て行ってしまったのだろうか。まあ、時々無言電話みたいな感じでボクに連絡をくれるので、元気にはしてるんだろう。
 伊藤くん、シルフェちゃんは揃って使い魔志望。以前勉強を教えた限りでは伊藤君はまあ及第点だったけど、シルフェちゃんはやや厳しい手ごたえだった。ボク繋がりで魔女っ娘たちと合同勉強会を開いたりもしたので、それの効果に期待したいところ。
 そして、ボクは――
「ハタヤマ、おはようアル!」
「……ん? ああリンレイ、おはよう」
 考え事に耽っていたら、注意力が散漫になっていたようだ。こんなにまで肉薄されるまで、接近を察知できなかった。首を目一杯反らせて真横にあるスレンダーな脚線美を辿っていくと、そこにはお団子頭の妖怪洗濯板が「誰が妖怪アルか!」うげぶぅっ!?
「ちょ、ちょっとリンレイ……ヒトのモノローグにつっこまないでよ」
「口に出てたアルよ」
 リンレイはサドっ気満載の笑みで、踏みつけたボクのお腹を足でぐりぐりした。あふん、だめ、やめて、あぁ~。
「相っ変わらず気持ち悪いやつアルなぁ」
 リンレイは顔を引きつらせ、ボクからあからさまに距離をとった。失礼な奴だ。ボクみたいな紳士を捕まえておいて、まるで変態をみるような目つきをしやがって。全国一億六千万のハタヤマくんファンの皆さんに袋叩きにされるぞ。
「そんなにいないアルよ。なに自分をさもワールドワイドみたいに語っちゃってるアルか」
「ほわっ!? また口に出てた?!」
 ボクは大仰に口を押さえ、こりゃいかん、と慌てて見せた。リンレイはそんなボクの滑稽さにからからと笑い声を上げた。
 ボクと彼女はいつもこんな風にじゃれあっては、どつき漫才のようなやりとりで遊ぶ。ボク自身こういったやり取りは嫌いじゃないけど、欲を言えばちと手加減してほしかった。いつもいつも本気でツッコんでくるから痛いったらありゃしない。
「しかし、みんなと顔をあわせるのもずいぶん久しぶりな気がするね。合格発表の時以来かな」
 学院はもう試験が終わったということもあり、自由登校となっている。半月前、封書で合否通知が送られてきたのをみんなで集まって開けたときが最後だから、実に十五日振りである。その間ボクは目下の課題が片づいたこともあり、延々と寮の部屋でダラダラしていた。夜になると篠原さんが「たるんどるわーッ!!」と怒鳴り込んでくるのでしぶしぶ闇魔法の訓練をしているが、それ以外は基本外に出ていない。もっぱら、部屋にこもり寝ているかネットサーフィンしているか、だ。
 それなので、フィリアちゃんたちがどうしていたのかなどは知らない。
「おまえは寮に引きこもってばっかりだからアルね。私は結構二人と会ったりするアル」
「マジで?」
「食材の在庫が切れてスーパーへ買出しに行くときなんかに、仲良く買い物してるフィリアたちとすれ違うアルよ」
 リンレイは中華料理店でバイトしていて、その関係でフィリアちゃんたちと鉢合わせることもあるようだ。というか、引きこもりというのは聞き捨てならないな、インドア派と言って欲しいね。
「ほら、さっさと行かないと。そろそろ約束の時間アル」
「ん? もうそんな時間?」
「ほら……というかおまえ、時計かなにかもって無いアルか?」
「縛られるのは嫌なんだよ」
 リンレイがボクの顔の前にかざした携帯のディスプレイを覗き込むと、なるほど、確かにもうそろそろやばい時間だ。これから一次審査通過おめでとう会がフィリアちゃん家であるのだが、このままでは遅刻ギリギリだな。
「携帯くらい買うアルよ。連絡がとりづらくて困るアル」
「んー? ボクへ頻繁に電話する用事でもあるのかい?」
「………………」
 リンレイは不意に立ち止まって黙り込んだ。ありゃ、ボクなんかマズいこと口走っちゃったかな?
「……用が」
「え?」
「用がなきゃ、電話しちゃいけないアルか」
 顔をあわせぬよう真っ赤な顔で前を見据え、震えるようなか細い声だったが、確かにそんな呟きが聞こえた。くっ……リンレイめ、そんないじらしいこと言われたら――ときめいちゃうだろうが。
「……今度買いに行くよ」
「え?」
「といっても、魔法生物に売ってくれるかどうかは知らないけどね」
「わ、私がついて行ってやるアル! 保証人がいれば大丈夫アルよ!」
 リンレイは俄然乗り気になってボクのぶっきらぼうな言葉に乗ってきた。目に見えて上機嫌になり、今にも鼻歌でも歌いだしそうな浮かれ具合だ。
 やれやれ、こりゃ深夜の長電話で睡眠時間を削られることを覚悟しとかなきゃいけないかな。

     ◆

「祝・一次試験通過おめでとうなのだー☆」
 ビビアンちゃんの音頭と同時に一斉にクラッカーの紐が引き抜かれ、軽い破裂音が室内に響いた。室内には色紙で作ったリングが飾られ、中央のテーブルにはお菓子やクラッカーとジャムにジュース、そして紅茶やコーヒーが並べられている。
 フィリアちゃん家の客間を借りてのささやかなパーティー。金持ちらしく広くてきれいで調度品がちりばめられているが、なんとなく落ち着いた雰囲気を感じさせるのは家主のセンスがよいからだろうか。
「全員受かってよかったですね」
「ほんとなのだ! ビビアン、お姉ちゃんの失格残念会になるんじゃないかととっても心配してたのだぞ!」
「び、ビビアン……」
 ビビアンちゃんのぐさりと心に刺さる一言に、顔を引きつらせ苦笑いを浮かべるフィリアちゃん。ビビアンちゃんさすがにそれは酷いよ……この子結構毒舌だから、意外と気が抜けないんだよね。
 その脇でリンレイは一心不乱に手を動かし、スナック菓子をつまんでいる。おいおい、ちょっとはフォローしてあげてもいいんじゃないの?
「ふぁいふぉーふ、わわふぃはふぃふぃふぁふぁふふぁふっふぇふぃふふぃふぇふぁふぁふ!」
(訳:だいじょーぶ、私はフィリアが受かるって信じてたアル!)
「いや、無理にしゃべらなくていいよ……」
 サムズアップでさわやかにフィリアちゃんへ笑みを贈るリンレイ。というかちゃんと飲み込んでからにしなさい。ほらもう、テーブルの上にスナックが飛んでるでしょーが。
「これでみんな一緒にプロになれるって決まったようなものなのだ!」
「ビビアン、安心するのはまだ早いわよ。二次試験の適正審査がまだ終わってないんだから」
「大丈夫なのだ! 適正審査はあくまで形式的なもので、一次さえ通ればほとんど素通しのようなものだって聞いたのだ  だからお姉ちゃんもよっぽどのヘマをしない限り、ほぼ確実に通るはずなのだぞ?」
「う、うぅ」
 あ、やばい、フィリアちゃんがもう笑えなくなってきてる。目ぇ潤んでるぞあれ。
 ビビアンちゃん手加減してあげてー!
「ま、まあ、フィリアちゃんは学院での成績も優秀だし、普段からちゃんと頑張ってるから平気だよ」
「ハタヤマくん……ごめんね、気を使わせちゃって」
「いやいや、違うって。ボクは学院のときから毎日自主練してるフィリアちゃんを見てきたんだ。そんな頑張りやさんを不合格にするようなところなら、ボクが文句言ってあげるさ!」
「ハタヤマくん」
 フィリアちゃんが顔を赤らめてうつむいてしまった。手元をもじもじしているので、どうやら照れているようだ。うーん、ボクって罪な男。フィリアちゃん、もしキミが落ちちゃったときは、ボクが魔法協会に苦情ハガキ&ダイレクトメールを送りまくって、さらにイタ電かけまくってあげるからね。
 実際のところ、このメンバーなら絶対にフリーパスだと思うけどね。魔王倒したし。
「――ルシフェルさんも、ここへ呼べたらよかったんですけどね」
「どっかいっちゃって分かんないのだ」
「………………」
 フィリアちゃんの、ルシフェルちゃんを案じる一言。それだけで場の空気が少しだけ冷えてしまった。特にリンレイは彼女を一方的にライバル視していたため、複雑な思いなのだろう。リンレイは難しい顔で黙り込んでいる。
「まあ、便りがないのはよい便り、とも言うし。あんまり心配ないんじゃないかな」
 なにか困ったことがあれば必ず連絡するよう言い含めてあるし、なにより彼女は優しい子だ。雰囲気から冷たそうに見られることもあるが、それは彼女自身どうやってヒトと接すればいいか途惑っているだけなのである。あの子は、絶対に自分から悪い道へ落ちない。なんとなく、そんな確信がある。
 ちなみにルシフェルちゃんのことは、みんなには内緒だ。本人たっての希望だからというのと、みんなに話してしまうと連れ戻そうという流れになるかもしれないからだ。ボクは彼女の意志は尊重したいし、一人になることで見えてくることもあると思っている。そんな彼女の自分探しを、ボクは応援したいのだ。ボクに連絡をしてくるということは、離れていてもボクらのことは忘れていないということ。彼女には帰る場所がある。それを彼女自身が理解って(わかって)いれば、きっと、大丈夫。
「そのうちひょっこり戻ってくるんじゃないかな」
「……そうでしょうか?」
「きっとそうだよ。時間はかかるかも知れないけど、気持ちの整理がつけばまた会いにきてくれるさ」
「……そんなことで私たちになにも言わず姿を消すなんて、まったく、めんどくさいやつアル」
 リンレイは目つきもけわしく口を尖らせた。しかし、それは精一杯の虚勢であることはみんな感じている。こんなことを言いつつも、彼女が一番ルシフェルちゃんのことを気にしているのだ。
「はやく戻ってきて欲しいのだ。みんなでまた遊びたいのだ!」
「そうだね。ルシフェルちゃんが戻ってきたとき恥ずかしくないよう、みんなで免許取りたいね」
「お姉ちゃん、もう当日に寝坊したり、受験票忘れたり、実技で爆発させたりしちゃ駄目なのだぞ」
「あの爆発は、一瞬会場が騒然となったアルからなぁ。……しっかりするアルよ、フィリア」
「もう実技ないよぅ……うぇ~ん、みんないじわる~」
 新手のイジメにより半泣きになってしまったフィリアちゃん。うーむ、やはり彼女はいじめられると輝くなぁ。と、不謹慎ながらそう思ってしまった。

     ◆

 二次試験前のお疲れ会。彼女たちと共に過ごした、最後の日。
 こんな日がずっと続けば、ボクは、それだけでよかったのに――



[21043] 四章前半
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:01
【 四章前半 『ついに来た出番・主人公ようやくスポットライト』 】



 怪我が治ってもう一ヶ月が経った。あのグラモンとかいう貴族から報復を受けるかと思ったが、そういったこともなく平和に過ごせている。絶対に何かあると警戒していたので、自分でもびっくりするほどの拍子抜けだ。
 ジャブジャブ
「つめてぇ……」
 現在、日が昇ってすぐの時間。俺は今日も今日とてルイズの洗濯物を、中庭の隅にある洗濯場で洗っていた。くそ、ルイズのやつ。俺を何だと思ってやがる……って犬か。そうですか。一人でツッコんでへこむ俺。なにやってんだか。
 あの決闘の後、変わったことが色々ある。まず、シエスタたちから尊敬の眼差しを送られるようになったこと。特にマルトーのおっさんなんて、俺のことを「我らの剣よ!」とか言ってキスしようとしてきやがる。え、前に言ったって? いーじゃねーか、ちょっとくらい語らせてくれよ。対等な話し相手がいなくて寂しいんだよ。
 って、俺誰に話してんだろ。
 そして、学院の生徒たち……すなわち、貴族たちの俺を見る目が変わったこと。なんていうか、こう、危ないものでもみるような、そう、俺のことを不良生徒みたいな目で遠巻きに観察しやがる。俺は時限爆弾かっつーの。かといってルイズのそばにいると、他の生徒とも口を聞く機会があるわけで。まあ、滅多にないが。そのときはお貴族様らしい尊大な態度をくずさねーんだよな。肩震えてるくせに。わかんねーと思ってんのかなあれ。難儀なこった。
 ごほん、とにかくここ最近の俺の株価は激変の模様をみせていた。
 そういえば。激変っていやぁ、交友関係も大きく変わった。端的に言えば、女が増えた。たしか、ツエルプストー? だったっけ? とかいう女が昨日俺に粉をかけてきた。それにほいほいついてっちゃったもんだからさあ大変、当然のごとくルイズに捕まり大目玉。あのやろうマジで俺のことを家畜かなにかと誤解してやがる。乗馬鞭はねーだろ乗馬鞭は。まだ打たれた背中がひりひりするぞおい。
 まあ、そんなことは置いといて、だ。昨日キュルケの部屋で嫉妬に狂った男どもに襲われたとき痛感した。俺って無力だなって。
 考えてみろよ? 相手は魔法使い、しかも杖持ってんだぜ? いうなれば、やつらは常時安全装置を外した拳銃を携帯しているに等しいんだ。やつらは俺を殺せる。それこそ、ほんの一小節の呟きで。でも、俺はやつらに対抗できない。何故なら武器が無いから。ここで徒手空拳で華麗にあちょー、とかやれたらかっこいーんだけど、悲しいけどそんなもん無理なんだよな。俺部活なんてやってなかったし。体動かすのは好きだけど、ケンカなんてほとんどしなかったし。殴ったり蹴ったりするなら、人間よりもボールのほうが何倍も楽しいだろ。サッカーとかいいよね。
 ……話がそれちまった。とにかく、俺は俺の自衛能力の貧弱さに絶望した。だから俺はルイズに陳情するような勢いで願ったんだ。「武器が欲しい」って。
 そしたら。「なんで?」
「いや、この世界はなにかと物騒だからさ。俺だって身を守るものが欲しいんだ」
「そういえば、ギーシュのヴァルキューレを叩き切ってたけど……あんた、剣術でも修めてたの?」
「んにゃ、全然」
「なにそれ。あんたの故郷では、剣を持てばみんなあんたみたいなことができるようになるとでもいうのかしら」
「そんなことになったら世界中紛争が絶えねーだろうが。でも……なんか、剣を握った瞬間、俺の中のなにかが目覚めたっつーか、スイッチがオンになったっていうか――とにかく、すげぇ力が湧いてきたんだよ」
「ふーん……まあいいわ、買ってあげる」
「へ?」
 てな具合にとんとん拍子で話が進み、なんとルイズはあっさりと承諾してくれた。あんまりにも驚いたんでルイズに「ほんとにいいのか?」と聞き返すと、ルイズはさも当然のようにこう言った。
「使い魔の面倒を見るのは当然でしょ。身の安全に必要なら、それくらいは認めてあげるわ」
 なんの含みも無いその姿を見たとき、正直言ってこいつを見直した。ただ理不尽に俺をいびりちらしてるだけだと思ってたんだけど、こいつは他の貴族とは違う。いや、大部分は同じだが、根っこのところが異なってるっぽい。
 というわけで、今日は待ちに待った虚無の日。俺の世界でいうところの休日だ。街までは歩いていける距離じゃないってんで、ルイズが馬の手綱を繰ってくれるらしい。実をいうとそっちのほうも楽しみだったりする。すげー、乗馬なんて金持ちの楽しみかと思ってた、って、ルイズは金持ちだけどさ。
 だから、さっさと洗濯なんて終わらせて、早いとこ遠乗りの準備をしたい――
 ビリッ
「ありゃ?」
 今変な音なったよな。泡だらけになったショーツを水で洗い、つまみ上げて太陽に透かす。すると端っこが破けていた。
 あちゃー、またやっちまったよ。これで三着目くらいか? やっぱ考え事しながら仕事しちゃダメだな。ろくなことがない。
 ま、いいか。
 俺はささっと最後の一枚を洗い済みのカゴに放り込み、桶の泡を流してきびすを返した。次は洗濯物を干しに行かないと。その後は顔洗い用の水を汲んで、そしてあのねぼすけご主人様を着替えさせないと。やるべき仕事はまだまだある。
 あぁ、初めてのこの学院以外の場所がみられる。
 早くお昼にならないかなー。

     ○

「ひゃっほーいっ!!」 
 俺はまるで、初めてターザンロープで遊んだ子どものようにはしゃいでいた。すげぇ、窓が無いのに風景が後ろへ流れていく。車の中とは違い、全身に風を感じている。原付に乗っている友達がいたが、あれに乗るとこんな感じなんだろうか。いや、違うか。原付はこんなに振動ないし、あのぱすぱす言う安っぽいエンジン音がうるさい。こっちはばからっばからっ! だもんな。
「ルイズ、もっと飛ばせ! 風よりも早く! 今日の俺はウサイン・ボルトだ!!」
「誰よそれ! っていうか暴れないでっ! このバカっ!!」
 俺の上機嫌なネタに、ルイズは乗ってこなかった。んだよー、速いんだぞこいつ、金メダル取りまくってさー……って、俺の世界の人物を知ってるはずないか。残念。
 俺たちは人や馬車が通れるように舗装された街道を、馬に乗って駆けていた。すげえ、馬すげえ。そして尻(けつ)痛ぇ。なんでルイズは平気なんだろうか。
「あとどれくらいで着くんだ?」
「えー! なんですってー!」
 肩を叩いてルイズに訪ねると、そんな言葉が返ってきた。なるほど、俺は後ろに座っているから、空気の流れもあって音が届かないんだな。
 俺は大きく息を吸い込み、精一杯の音量をルイズの耳元で炸裂させた。
「街までどんくらいだーっ!!」
「うるっさいわよこのバカッ!!」
「うごぉっ!?」
 ルイズは俺のわき腹へ、突き穿つようなひじ打ちをお見舞いしてきた。ぐ、ぐふぅ……やりおる。今朝食べたシチューが逆流しそうだぜ。中空にキラキラ輝く白い筋を描きながら走るなんて御免だ。駅のホールにいる酔っ払いかっつーの。
「なにしやがるこのまな板女!!」
「それはこっちの台詞よ! というかなに!? あ、あんた、私をまな板っつったの?!」
 怒髪天をつく勢いでルイズが怒鳴り返してきた。ああ、なんか顔が般若みてぇ。やべ、逆鱗に触れちまった。
 でも引き下がらんぞ俺は。
「いきなりひじ打ちくれやがって、今朝の朝飯が逆流したらどーしてくれんだよ!!」
「うっさいわね、あんたが耳元で怒鳴るからでしょうが!!」
「こうでもしねーと届かねーんだからしょーがねーだろが!」
「それにしたって加減ってもんがあるでしょ!!」
 ルイズは運転があるので手を出せないのがもどかしいのか、凄い形相で睨みつけてくる。へへん、ざまぁみろ……ってやべ、本気で気持ち悪くなってきやがった。
「うっ――」
「どうしたのよ?」
「やばい、吐きそう……うっぷ」
「――はぁぁぁ!!!?」
 ルイズは信じられないというように絶叫した。そりゃそうだろうな。でも、わりーけどこれマジなの。
「あぁ、もうのど元まできてる」
「ちょっと待ちなさい!! 止まるから、今止まるから、お願いだから我慢してッ!!」
 ルイズはもう必死だ。確かに真後ろで胃液ぶちまけられたら嫌だもんな。うぅ、苦しいぜ……

 街に着くまでの間、俺たちはずっとそんな感じだった。
 前までのルイズなら、こんなことになれば問答無用で俺をたたき落としそうなもんだが。なんだか知らねーが、随分と丸くなったような気がするなぁ。

     ○

 関所のそばにある馬小屋のような所に馬を預け、俺たちは街を歩き出した。たしか、トリステインの城下街だとか言ってた気がする。遠くに城が見えるので、あれがトリステイン城なのだろうか。俺はそんなことを考えながら、おのぼりさんのように意識を散らしまくっていた。眼に映るもの全てが新鮮。今俺の目の前には、まんまゲームで見たような風景が広がっている。
 街頭で露天を開いているターバンのおっさん、そこかしこに店らしき家が建ち並び、見慣れない看板が掲げられている。通りは道行く人でごった返し、一般人らしき布の服を着た親子から冒険者っぽい一団など、バリエーションは様々。いくら見ていても飽きない気がする。
 俺は好奇心の赴くままに、ルイズへ質問攻めを行っていた。
「なあルイズ、あれなんだ?」
「え? 宿屋よ」
「じゃああれは?」
「あれは道具屋、ついでにいうとあそこは装飾品専門の店よ」
「専門? そんなもんがあんのか?」
「窓から覗いてごらんなさい」
 言われたとおり中を覗き込んだ。すると、店内には金銀のアクセサリーや色とりどりの宝石が並んでいた。
「おぉ、すげぇ! でもなんであの指輪とか首飾りには、宝石がついてないんだ?」
「こういった店では店主が彫金師を兼ねるの。希望する素材と宝石を伝えれば、その場で作ってもらえるわ」
「マジか!? 店主すげぇ!」
 そうなのかー、俺の世界みたいに出来合いのものが並んでるわけじゃないんだな。ていうか、俺さっきからすげぇ言いすぎだよな。でもそれしか言いようがない。本当にすげぇもん。
 ルイズはガキみたいにはしゃぐ俺を見て、さっきから呆れっぱなしのようだ。それでも、前のように本当に侮蔑するみたいな気配はなく、どちらかというと手間の掛かる弟の面倒をみるような視線である。ちょっとシャクに障る気もするが、今はこの溢れ出る探求心を満たす方が先決だ。
 街は活気に溢れている。貴族による支配などものともせず、この世界の人々は生き抜いているようである。ここにいる人々は金も、余裕も持っていないが、毎日を生きようとする熱があった。
 物足りない。もっとこの世界のことを覗いてみたい。
「なあ、ルイズ。剣を買うのはもうちょっと後にしないか?」
「なんでよ?」
「俺、もっとこの街のことを知りたいんだ。案内してくれよ」
「はぁ? あんたねぇ、私にこんなところまで足を伸ばさせておいて、今度は案内人(ガイド)の真似事をしろっていうの?」
「頼むよ、そんなに時間がないわけじゃないんだろ?」
 俺は手を合わせルイズを拝み倒す。どうせ帰ったってこいつはなんもやることないはずだ。俺の方は、主だった仕事は今朝方終わらせておいた。『仕事しろ』、という文句は効かない。
 ルイズはやや沈黙したが、あいつ自身早く帰っても暇なだけだということに気づいているのか、小さく呟いた。
「……ちょっとだけだからね。一回りしたら、すぐ用事を済ませて帰るわよ」
「さっすが我が御主人様! 懐が深いぜ!」
「調子に乗らないの。ほら、行くわよ」
 ルイズは苦笑して歩き出した。なんか、ここまで俺の願いが聞き入れられるのって初めてじゃね? 嬉しいっちゃ嬉しいが、なんか不安になってきた。
 などとルイズの俺への態度の変わりように気味の悪さを感じながら、俺はその後をついていった。

     ○

「あれ?」
 気が付くとルイズを見失っていた。さっきの狭い大通り(大通りなのに狭いとはこれいかに)ほどではないが、それなりに人でごった返した道。あちゃー、あいつちっこいから、人混みに紛れたら分かんねーんだよな。
 あいつの鮮やかな桃色の髪も、この世界では埋もれてしまう。眼前に広がる人波は、奇抜な色の髪で溢れているから。
「まいったな……早いとこ探さねぇと」
 ルイズにスリが多いから気をつけろと言われたけど、そんなのがいるなら人さらいがいてもおかしくない。あいつが口に出して注意するって事は、そんだけ被害が多い――治安が悪いってことだ。中世は治安が悪かったって歴史の授業でやってた気もするし、この世界もにたようなもんだろう。ルイズが心配だ。
 俺は自然早足になり、きょろきょろと視線を左右に振る。
「ルイズ、どこだ!」
 返事は返ってこない。多少声を張り上げてみるが、雑踏がやかましくて融けてしまった。
 どこだ、どこにいったんだルイズ――
「――っと、失礼」
「あ、すいません!」
 露天を眺めている誰かとぶつかってしまった。いけね、注意力が散漫になってた。道のど真ん中でぶつかるなんて。
 俺は慌てて向き直り、衝突してしまった相手の姿を改めて視界に収めた。
「お、お前は――!」
 俺はそいつの顔を見て息を呑んだ。その男は、以前に一度だけ会ったことがある――
「おや少年、久しぶりだね」
 ――ずっと探していた、黒髪金目の優男だったからだ。
「今日は御主人様と一緒じゃないのかい?」
 その男――たしか、聖 京介だったはず――は、まるで久方振りに知人と再会したみたいに、しゃあしゃあとそうのたまった。
 こいつ、なんでこんなところにいやがる。しかも屈託無く笑いやがって。俺はとても笑えねぇような生活を強いられてきたのに。
 俺の中にどす黒い気持ちが芽生えていく。
「……平和なこったな」
「ん?」
 ヤバい、いらいらが止まらない。胸の奥に溜まりにたまって、コールタールのようにどろどろになった感情が溢れ出す。
 ――俺はこんなにも苦労してるのに、こいつはなんでへらへらしてるんだ? 俺と、『同じ』はずなのに。
「こちとら床で飯食わされたり、毎日掃除洗濯から御主人様の理不尽に付き合わされてるってのに、あんたはいいご身分だな。紙袋一杯に色々詰めて、のんきにお買い物かよ」
 言っちまった。俺がどんな生活を送ってるかなんてこいつには関係ないのに。こいつに苛つくのは筋違いだって分かってんのに。悪態を吐かずにはいられなかった。
 聖はきょとんと俺の顔を見つめ、そして納得したように手を打った。
「へぇ、そこそこ荒波に揉まれてきたようだね。なるほど、そいつは大変だったようだ」
「………………」
「――でも、それをボクにあたるのは筋違いだよね」
「………………」
 謝るべきなのは分かってる。でも、どうしても頭を下げたくない。何故か素直に謝れない。
 聖はそんな俺の心境を見越したように、薄く笑った。
「自分で分かっているなら結構。でも、もうしないようにね」
「……怒らねぇのか?」
「誰だってイライラする時くらいあるでしょ」
 ボクもそんな時期あったよ、と聖は穏やかに話す。こいつは、少なくとも俺よりも大人な気がする。
「そこに顔見知りと出会ったりして、しかもそいつが幸せそうだったら――妬ましいよね」
「いや、そんなこと」
「いやいや、知能がある生き物なら当然の心理だよ。自覚があろうと無かろうと、多かれ少なかれそう感じてるはずさ」
 こいつはなんでそんなに自信ありげに、心の黒い部分のことを語れるんだろうか。誰もが蓋をして取り繕うような、最も醜悪な部分なのに。
 俺は不思議そうな顔でもしていたのだろうか。聖はまた穏やかに笑い、紙袋からリンゴのような果物を取り出して俺に渡した。
「そのムカムカを鎮める方法は簡単さ」
「どうやって?」
「――認めてしまうことだよ」
 俺はその時の聖の表情が、とても印象的に感じた。なんというか、穏やかなのに、どことなく寂寥感を纏っているような、そんな横顔。
「今の状況をそのまま自分の全てだと考えれば、変に不条理な運命への憤りを抱くこともなくなるさ」
「……それって後ろ向きすぎねぇ?」
「心の平穏を保つには有効だよ」
 諦め。そんな言葉が一番しっくりくるような気がした。こいつも色々苦労してきたんだろうか。
「それに、そんなむかつく状況を打破しようという方向に、意識を奮起させることもできるしね」
「………………」
 俺はなにも言えず、手の中のリンゴっぽいものを見つめて黙り込んでしまった。今の俺は聖から見れば、さぞ複雑な表情をしているだろう。
「どうしたんだい?」
「あんたって、前向きなのか後ろ向きなのかよく分かんねーな」
「ははは、そうかな」
 いいから食え、とジェスチャーで示されたので、促されるままにリンゴっぽいものを一口かじる。シャキ、っと瑞々しい音がした。うん、うまい。

     ○

「おや、お迎えが来たようだよ?」
「お迎え?」
 リンゴっぽいものを食べ終わり、芯を投げ捨てたところでそう声を掛けられた。この世界ってゴミ箱あんのかな。ポイ捨てが極刑とかないよな?
 聖の視線を追って振り返ると、遠くの方に手を振りながらこちらへ歩いてくる人影が見えた。その人は誰かと手を繋いでいて、手を引かれているのは――
「ルイズ!?」
 間違いない。あのちっこくてピンク髪のペチャパイ具合はルイズしかいない。あんなロリ体型はそうそういないはずだ。
 ルイズは俺に気付いたようで、繋いだ手を振り払って肩を怒らせながらずんずん近づいてくる。おいおい、それは流石に失礼だろ。置いてかれた爆乳のお姉さん苦笑してるぞ。
「あんたなにやってんのよ、御主人様ほっぽり出して!」
「いや、わりぃ。色々目移りしてたら見失っちまってさ」
「迷子になるとか犬以下よ、犬以下っ! 変なやつらに捕まりでもしたらどうするつもりなのよ!」
「ぐ。。。面目ない」
 くそ、今回ばかりは言い返せねぇ。こいつにとっては勝手知ったる街だもんな。迷子になったのはどう考えても俺の方だ。
 不意に、背後からくすくすと喉を鳴らす音が聞こえた。
「なんだよ、見世モンじゃねーぞ」
「いや、結構上手くやってるみたいじゃないか」
 ……ハイ? いったいどこをどうみればそう見えるんだろうか。本気で疑問だ。
「……? 失礼ですが、どなたかしら?」
「通りすがりの知り合いです」
「知り合い? でも、こいつは確か……」
「つい今しがた知り合いました」
「は?」
 ルイズが唖然としている。開いた口がふさがらないってのはあーいうことなのかな、なんて思っているとルイズが耳打ちしてきた。
(なんなのよこの変なのは。本当にあんたの知り合い?)
(ああ、一応そうだ)
 会話した時間が累計でまだ一時間にも満たないけどな。
 でも、なんか威厳を感じないから砕けて話せるんだよな。向こうもそれを気にする素振りがないし。
「その子があなたの探し人かしら。見つかってよかったわね」
 俺たちがひそひそと顔を寄せ合っていると、下げた視界に立ち止まった足が入った。見上げていくとデカい胸が……ぐはっ! ルイズが足踏みやがった! くそ、なに睨みつけてんだよ……あんだけでかけりゃ嫌でも目ぇ引くだろーが、抗いきれぬ男の性だっての。
「随分仲が良さそうだけど、彼氏かしら?」
「うぃっ?! ち、ちちちがうわ! こいつは犬よ、犬!」
 うわ、こいつ言い切りやがった。事情を知らない一般市民にまでそういう風に説明するってどーよ。聖は今のルイズの一言で腹筋が崩壊したのか、腹を抱えて大笑いしてやがるし。
 それでお姉さんは今気付いた、というように聖に流し目を送り、腰に手を当てて上目遣いにじとっと睨みつけた。
「あ、やっと見つけた。案内役をほったらかしにするなんていい度胸ね」
「勘弁してよジェシカちゃ~ん、数分はぐれただけでしょーが」
 ジェシカと呼ばれた緑色のワンピースを着た黒髪のお姉さんは、腰を曲げて、聖の胸元を人差し指でぐりぐりした。うは、なんつーか絵になるお姉さんだな。一つ一つの仕草がグッとくる。聖は先ほどの格好つけた態度はどこへやら、形無しにジェシカさんをへこへこ拝み倒している。うーん、あれが尻にしかれてるってやつだろうか。
 というか、この人は聖と知り合いなんだろうか。
「あったしー、ジェシカ。ごめんなさいね、こいつが迷惑かけなかった?」
「あ、いえ……」
「こいつ、目を離すとなにするか分かんないんだよね。あっちへふらふらこっちへふらふら、本当に気が多いんだから」
「ははは……面目ない」
 困ったようにぽりぽりと頬を掻く聖。ん、なんかこのやり取りついさっき同じようなものを見たような。デジャブ?
「で、その子だあれ?」
「直前に知りあったんだけど、妙にウマが合ってね。立ち話してたところだよ。で、そっちの子は?」
「なんか、かっかしながら歩いてたからなんとなく声かけたら、人を探してるっていうからさ。一緒に探そうって誘ったのよ」
 すっごくく危なっかしかったからさ、とジェシカさんが俺の方へウィンクを飛ばしてきた。お手数かけてすんません。
 ――ん? なんで聖のやつ、ルイズはともかく俺とも初対面みたいに振る舞ってるんだ? 俺たち、魔法学院で顔あわせたことあんのに。そう思って不信気にやつを見上げていると、あいつは申し訳なさそうに手を胸の前に立て、そしてそのまま口に人差し指を持っていった。
 なんだ、隠す必要でもあるのか? まあ別に構わないけど。
「で、ここで会ったのも何かの縁だし。どっかでお茶でもする?」
 俺ににこりと笑いかけてくるジェシカさん。あぁ、なんか、年上のお姉さんってだけでも癒されるよなぁ。
「いえ、せっかくですけれどご遠慮致しますわ。私たちこれから用があるもので」
 満面の笑みだけど、これは絶対笑ってねーぞ。口引きつってるもん。ルイズこえーよ。
「おや、ダメなのかい?」
「わるい、これから野暮用があってさ」
 時間がないのは本当だ。思いのほか散策に時間を割いてしまったから、帰る時間を考慮すればもうギリギリなんだ。夕食までには帰らないといけないからな。
「ふーん……何処へ行くのか聞いていいかい?」
「武器屋だよ。剣を買いに行くんだ」
「剣? 貴族って剣使うの?」
 ジェシカさんが意外そうに首をかしげた。
「ルイズ用じゃないっすよジェシカさん。俺の分です」
「ジェシカでいいよ。へぇ、あんたが剣をねぇ」
 ジェシカさん……いや、お許しが出たし呼び捨てにさせてもらおうか。ジェシカは人は見かけによらないねぇ、と感心したように頷いた。ですよねー、俺お世辞にもガタイ良くないもん。ほら、見ろよこの細い腕。でも、運動部でもない男子学生ならこんなもんだよな。
 俺が剣を使えるのは、とある理由があるからで――
「それ、ボクもついてっていいかな?」
「え?」
 なんと、聖が同行を申し出てきた。これには俺もビックリした。ルイズなんて目を丸くしてるぞ。そりゃいきなり見ず知らずの男から付いてきたいなんて言われれば驚くよな。
「いや、ボクもそろそろ装備が欲しいなぁって思っててさ」
「お前が? なんで?」
「まあ、あれば便利だし」
 丸腰だとしんどいんだよね、と聖は苦笑した。うーむ、意外や意外。見た感じ俺よりも華奢な体格に見えるのに、そこそこ荒事にも首を突っ込んだりするんだろうか。
 だが、聖の言葉にジェシカが表情を曇らせた。
「……なんでそんなものが欲しいの?」
「え、いや、それは――」
「あんたはずっとウチにいるんでしょ? それならそんな危ないものいらないじゃない」
「いや、ま、護身用! 護身用にってことでさ。なにかあったときの備えだよ」
 聖は必死に、不機嫌になったジェシカをなだめている。どうしたのかなジェシカ、なんか急にぶすっとむくれちまったけど。
 ジェシカはいまいち納得いかないようだったが、聖の熱意に折れたようだ。
「別にいいけど、あたしは行かないよ」
「ありがとう。それじゃ、悪いけどこれ持って先に帰っててくれるかな」
 聖は持っていた紙袋をジェシカに渡した。ジェシカは何か言いたそうに眉間にしわを寄せたが、黙って受け取る。
「夕飯までには帰ってきなさいよ。待ってるからね!」
 ジェシカは聖にそう強く言い聞かせ、人混みに紛れていった。
「……なあ、本当にいいのか?」
「仕方ないよ。ボクにも事情があるのさ」
 聖は難しい表情でため息を吐いた。それを通すためには多少の摩擦も辞さない、ってか。
 それなら、俺にこいつの同行を断る理由はない。
「じゃあ、そろそろ行こうぜ。ところでルイズ、例の武器屋ってのはどこにあるんだ?」
「え? あっちだけど……」
 ルイズが聖をチラリと一瞥した。その眼には、「本当に連れて行くの?」という疑念がありありと浮かんでいる。ルイズは得体の知れないやつを連れ歩くのは抵抗があるみたいだ。
 でも、ここは俺も退けないんだよな。
「連れてくだけだって、妙なことにはならねぇよ」
「そうそう、よろしく頼むよお嬢さん」
 聖の調子のいい合いの手。こいつ、すかさず乗っかってきやがった。へらへらとルイズを拝み倒してるが、抜け目ねぇ性格してやがる。
「……まあ、いいけど」
 未だ抵抗はあるようだが、ルイズは先導するように進み出た。どうやらもう諦めたらしく、極力関わらないようにしようってことらしい。聖は両手を頭の後ろに組んで伸びをしながら、テクテクとルイズの後ろについた。俺もルイズに遅れないよう、聖を追い抜いてルイズの隣で歩調を合わせる。

 ようやく見つけた俺の同類。帰る手段までは知らないまでも、なにか一欠片くらいは情報を持っているかも知れない。とにかく今は顔を繋いで、どうにかして聞き出してやる。聞きたいことは山ほどあるんだ、このチャンス逃してたまるか!
 俺は知らず知らずのうちに、左手を固く握りしめていた。

     ○

「おまえ、今までなにやってたんだよ?」
 武器屋への道すがら、歩調を落としハタヤマに並んで質問を投げかけるサイト。サイトはこれまで学院で生活していたが、あの日以来一度も聖と出くわすことが無かった。あれだけ広い学院なのだからそんなこともあるのかもしれないが、それでも所詮は狭い学院の中である。一ヶ月間一度もすれ違うことすらなかったというのはおかしな話だ。
 ハタヤマはサイトの質問の意図を汲み取り、困ったようにぽりぽりと頬をかいた。
「いやぁ~……使い魔番長になったり、吸血鬼退治したり、無賃乗車で放浪したりしてたかな」
「はぁ?」
「まぁ、色々あったんだよ」
 彼は説明が面倒なので触れてくれるな、とサイトの問いに曖昧な濁し方をした。サイトは彼の言っていることの意味が想像できず、しきりに疑問符を浮かべている。
「それじゃあ、今はどこに住んでるんだ?」
 サイトはひとまず追求をやめ、話題を本題へと移した。
 サイトは実際のところ、ハタヤマがどこでなにをしていたのかなどさして興味が無い。彼にとって一番の関心事は、彼が持っている(であろう)情報である。それを聞き出すためだけに同行を許可したといっても過言ではない。いや、自分とほぼ同じ立場あるであろう人間への親近感を感じている、というのもあるが。
 相手のヤサを突き止めること。これ、捜査の基本である。
「今かい? 『魅惑の妖精亭』っていう、キャバクラみたいなところに置いてもらってるよ」
「きゃ、キャバクラ?」
 また突飛な単語が現れたものだ。予想外すぎるハタヤマの答えに、サイトは目を白黒させた。キャバクラってことは女の人が男を接待する店だから、ボーイみたいなことをやっているんだろうか。まさか彼がが客を接待……止めよう、想像するとカオス過ぎる。
「今日はあんまり時間無いみたいだし、用があるならそこへ来なよ。たぶん大抵はいるはずだから」
「………………」
「んな憮然とした顔しなさんな。しばらくは拠点を移す予定も無いし、ボクは消えも隠れもしないよ」
 本当言うとすぐにでもハタヤマに問い詰めたいくらい、心中穏やかではないサイト。ハタヤマはそんなサイトの気持ちを知ってか知らずか、あっけらかんと彼の肩を叩くのであった。

     ○

「らっしゃい」
 パイプを咥えたしわがれた店主が、めんどくさそうにサイトたちを迎え入れた。ルイズの案内する武器屋は路地裏でもやや奥まった場所にあった。周辺には吐瀉物が散乱していたり浮浪者が寝っころがっていたりと、とてもひどい立地条件である。だが、それでも店が存続しているということは、それだけ需要があるということだろう。
 店内は外と似たり寄ったりな薄暗さで、雰囲気はとてもアングラだった。壁面には豪華な装飾を施された剣や槍が壁に飾られており、やや目線を落とすと乱雑に立てかけられた武器の山がある。値札には「金貨30枚ポッキリ!」と記されているので、おそらく欠陥品の投売りセールみたいなものだろう。扱っている商品以外は普通の店と大差なく、錆の匂いが漂っていることに目をつむればなかなか立派な店構えとも言えなくも無い……のかもしれない。
 サイトは物珍しさに視線をさ迷わせ、ふらふらと投売り棚の方へ吸い寄せられるように近づいていった。
「すげぇ」
 おもむろに手近な一本の剣を掴む。すると、左手のルーンが淡い輝きを放った。同時に彼の中にその武器の使い方から最も力を発揮できる使用方法が浮かび上がり、そして全身が羽のように軽くなる感覚が駆け巡った。
 彼の使い魔として覚醒した能力は、『ガンダールヴ』(神の左手)。あらゆる武器を使いこなす、武器戦闘のエキスパート。彼はルイズと使い魔契約をしたあの日、そんな反則能力に目覚めさせられていた。
 続いて隣の槍を握り締めると、また同じように力と知識が体中を満たす。
 戦いたい。この力を、余すことなく存分に振るってみたい。
 サイトはそんな衝動に駆られ、二、三度槍を素振りせずにはいられなかった。
 そのような危ない思考に囚われたサイトから一歩離れ、聖――ハタヤマ――は別の棚を物色していた。
 彼が眺めているのはナイフの棚。短いもので手のひらサイズから最長でも肘から指の先くらいまでのごつい刃物が、ずらりと並べられている。
 ハタヤマは短い短剣をベルトの裏に合わせてみたり、顔の長さほどのナイフを腰の後ろに差してみたりと色々試している。その刃を選定する目つきは普段の彼からは想像もつかないくらい真剣そのもので、平常時の彼を知るものが見ればきっと目を疑っただろう。
(やっぱり、それなりのものしかないなぁ)
 ハタヤマは内心でため息を吐いた。どうやら彼のめがねにかなう品は見当たらなかったようだ。
 それもそのはず。彼はただのナイフではなく、魔法使い用のナイフを探していたからである。
 魔法使い用のナイフ。それはいったいどういったものを指すのだろうか。
 その答えの一つとして、『刀身や装飾が魔石で作られたもの』という定義が挙げられる。何故そういったものが好まれるかというと、一重にそういったもののほうが魔力を通しやすいからである。
 魔法使いが武器を使えば、その使用法は単純に相手を殴ったり刺したりすることに留まらない。刃先に魔力を流し切れ味の強化、柄の部分に魔力を集中させスタンロッド代わりにするなど、エンチャントの仕方により一本のナイフで多種多様の効果を生み出すことができるのだ。そのため、切れ味云々の前に、『魔力と相性が良いか』どうかが重要なファクターとなってくる。
 しかし、普通の魔法使いはそこまでの使い方をしない。刃物など、せいぜいどうしょうもないほど肉薄されたときに悪あがきとして振り回すくらいである。そもそもそんな回りくどいことをするより魔法でふっ飛ばしたほうが速い。
 では、何故ハタヤマはわざわざナイフの質にこだわるのか。その理由は、彼の戦闘スタイルに起因する。
 ハタヤマはアンゴルノア(彼の世界)では珍しく、単独での活動を行っていた。彼の世界では魔女っ娘とのペアで仕事をするのが普通なので、彼のようなフリーの使い魔はかなり希少な部類に入る。そして仕事柄協会の魔女っ娘と敵対することもあったので、自然と壁にぶち当たった。ハタヤマは基本的にピン、しかし相手はペア、若しくは二組以上のチームで攻めてくる。――一対多数では、どうしても分が悪すぎたのである。
 それにハタヤマ自身、篠原に鍛えられたとはいえまだまだ若輩の新人魔法使い。自分より年長の魔法使いと相対した場合、学んだ技術はなんとかなれども、経験の差だけは到底埋められようもない。魔法だけで戦い続けようにも自分より上の魔法使いがいくらでもいたので、競り負けることが多かったのだ。
 ならば、どうすればいいだろうか。どうすれば、自分より格上の相手に土をつけることができるのか。ハタヤマはその最後の一押しに『近接戦闘』を選んだ。魔法勝負で勝てないのなら、魔法で勝負しなければいいじゃない。それが彼の結論である。
 魔法使いはその名前通り魔法は達者だが、やはり名前通りに接近戦が苦手である。接近戦特化の魔法使いもいるにはいるが、そういった手合いは大抵魔法戦闘に難があるやつらばかり。魔法で太刀打ちできない相手は接近戦に活路を開き、接近戦で勝てない相手は魔法戦闘でやり込める。これが、数年間の単独戦闘で培ったハタヤマの戦術である。
 そしてどっちの分野でも拮抗している、または人海戦術などのどうしようもない手でこられた場合は、最後の切り札『メタモル魔法』で翻弄する。これら三つの要素を組み合わせれば、どんな酷い状況でもそれなりに打破することができた。それは、大部分が『メタモル魔法』の恩恵によるが――接近戦という奇策も、少なからず彼の力の一翼を担っている。
 相手にはどうしようもない、決して克服できぬ欠点や、相手の不得手な分野にこそ引きずり込んで勝負すべし。これが彼の戦闘における基本理念であった。
 ちなみに、彼の師匠である篠原は、『近接戦闘』について肯定も否定もしていない。篠原も近接戦闘の有効性や、人間状態のハタヤマの能力適正を鑑みても、見るべき所があると感じている。しかし、篠原は旧時代の魔法使いなので、伝統ある魔法使いの姿を疑い、否定するかのようなハタヤマの理論を真正面から認めることができなかったのだ。彼の師匠は良くも悪くもステレオタイプの魔法使いなのである。

     ○

 ハタヤマはざっと品定めを済ませ、いくつか目星をつけただけで今回はよしとした。彼の世界では『そういった道具』は魔法道具(マジックアイテム)に分類されており、値段もやたら高かったので、こんな場末の武器屋にそれを期待するのはいささか酷だろうというのが彼の結論だ。
(まあ、今のボクは文無しの素寒貧だから、見つけたところでどーしよーもないんだけどね)
 自分で自分に失笑するハタヤマ。どうせいらないと高をくくっていたが、まさかこんなところで足を引っ張ることになるとは。金に頓着しないというのも考え物である。
 今度給料をねだってみようかな、なんてことを考えながら、ハタヤマは目視できそうなほど大きなため息を吐いて連れの二人に視線を移した。するとどうやら、彼らは商談の真っ最中で、いよいよ終盤に差し掛かろうかというところであった。
「これなんていかがです?」
 店主が持ってきた剣は、キンキラキンに輝く豪華なものだった。刀身が黄金でできており、柄にちりばめられた宝石などもその剣の豪奢さを引き立てている。サイトは花を見つけたミツバチのようにその剣に吸い寄せられ、ルイズは納得したように小さく鼻を鳴らした。どうやらこれくらいのものであれば、彼女のめがねに適うようである。店主はその武器に関する薀蓄を並べ立て、セールストークを展開している。
 しかし、それを脇で眺めるハタヤマは、やや不審気に顔をしかめた。
 なるほど、確かにすごい剣だ。戦場でああまで目立つ剣など、そうそうお目にかかれないだろう。しかし、正直言ってぱっとみただけでも、あの剣には多すぎる欠点が見て取れる。
 まず、『材質が金』であること。金は金属でも比較的軟らかいので、多少強めに打ち合っただけでもすぐに折れてしまう。耐久面の問題から、金は武器の素材には向いていない。次に、『豪華すぎる』こと。日中、この薄暗い店内でもこれだけ目を引くのであれば、野外ではその存在感は尋常では無いだろう。そういった武器は攻撃の軌道が読みやすいので、その豪華さが逆に欠点となっている。そして、最後の問題点は――
(――あの剣を『剣士』が扱うってのは、どうなんだろうね)
 ハタヤマのその呟きは、彼の口からこぼれることは無かった。そう、最後の問題点。あの剣の最大の欠点は、『剣士用ではない』というところにある。
 おそらくあの剣は魔法使いが作ったのだろう。一目見てその魔法的な意匠が目に付いた。だが、それがデザインの部分に留まっていればよかったのだが、残念ながら利用面にも魔法技術が侵食しすぎている。でなければわざわざ材質を金にしたり、装飾に魔石をはめ込んだりしないはずだ。おそらくあの剣は魔力を流したり纏わせることで、その真価を発揮するタイプのものだ。しかし、剣士は基本的に魔力を持っていなかったり、使う術を知らなかったりすることが多いので、本来なら魔力を利用するようなギミックは練りこむ必要がないのである。
 作り手が魔法使い。それ故に、それを本当に振るう剣士の姿が見えていない。だからこそ、あのような利用者像が不在の剣を作ってしまうのである。魔法至上の世界であれば、なおさらそんなこともあるだろう。あれを作った人間の顔を、一度見てみたいものである。
 しばらく静観していると、なんとあのピンク髪のお譲さん(ルイズ)が、それをいただくわなどと口にした。
(おいおい、流石にそりゃダメだよ)
 あの少年とは武器としての相性が噛み合っていないし、なによりあんな剣より安くてマシな物、棚を探せばいくらでも並んでいる。ハタヤマは、あらぬ方向へ飛んでいきそうなルイズを諌めるべく、慌てて静止させようとした。だが。
「エキュー金貨で二千、新金貨なら三千枚でさ」
「足りないわね」
 ずべっとハタヤマは踏み出した足をすべらせすっころんだ。なんじゃそれは。
「なんだよ、買えないのか?」
「そうよ、買えるものにしましょう」
 あっさりと注文を取り下げるルイズ。彼女は剣に対し、まったく執着や興味を抱いていないようである。まあ、変に見栄を張り無茶を言わない辺りは評価すべきところだろう。
 サイトはつまらなそうに口を尖らせ、ルイズに皮肉の一つもこぼそうとしたが、彼女からの一言で即撤回、すっきりと謝罪した。彼らの間に何かあったのだろうか、とハタヤマは首をかしげた。
「でもこれ、気に入ったんだけどな……」
「生意気言うんじゃねえ。坊主」
 名残惜しそうに金の剣を見つめるサイトの背中に、叱りつけるような声がかかった。声の出所は投売りセールの剣の棚。武器屋の旦那はまたか、と額に手を当て天を仰いだ。
 声につられてサイトの背後へ目を移すハタヤマ。しかし、そこには誰もいない。
「なんだよ、誰もいないじゃんか」
 苦言の主の姿が見えず悪態を吐くサイト。誰だって急にけなされればいい気はしない。
「おめえの目は節穴か!」
 続けて威勢のいい声が響く。しかし、やはり誰もいない。サイトは気になって、目をこらし剣の山を見つめ、そして驚いてあとずさった。しゃべっていたのはなんと無機物、剣山に埋もれた剣の一本だったからである。
「剣がしゃべってる!?」
「なんなのかしらこれ?」
「おや、これは……」
 突如登場した妙な剣に、三者は三様の反応を見せた。サイトは純粋なカルチャーショックを受け、ルイズは生意気な剣ね、といわんばかりに目を細め、ハタヤマは興味深げにその剣をしげしげと観察する。その剣は見た目サビサビのみすぼらしい長剣で、なんの装飾も無い無骨な作りをしていた。
「魔導生命を持つ武器(マインドアームズ)とは珍しい。こんなとこにもあるもんなんだねぇ」
「はぁ? なんですって?」
「独立した精神を持つ武器のことだよ」
「それなら、知能を持つ剣(インテリジェンスソード)じゃないの。分かりにくい言い方しないでよ」
「こりゃ失礼」
 呼称の仕方で揉めるハタヤマとルイズ。正直どっちでもいいだろうに。
 サイトはそんな二人のことなどほっといて、自分の好奇心を満たすことに夢中である。
「お前、デル公っていうのか」
「ちがわ! デルフリンガーさまだ! おきやがれ!」
 意思を持つ魔剣、インテリジェンスソード。ハルケギニアではそれなりにポピュラーなマジックアイテムらしく、いつの頃からかひょっこりと歴史上に現れたようだ。サイトはインテリジェンス『ソード』ってのがあるんだから、インテリジェンス『ランス』とかインテリジェンス『ナックル』とかがあるんだろーかとくだらないことを考えたが、どうでもいいことなので数秒で忘れた。
 何故に剣がしゃべる必要があるのか。その理由は、今のところ誰も知らない。
「気に入った。ルイズ、これ買ってくれ」
「これっていうな、小僧!」
「え~~~別のにしなさいよ。そんな汚くてうるさいのじゃなくて」
「汚いってとこには同意だけど、しゃべるのは面白いじゃん」
 心底嫌そうにしかめっ面を作るルイズに、サイトは興味先行で話を進める。まあ、彼のように友達のいない(作りづらい)環境と身分では、話し相手が欲しくなるのだろう。彼自身の好奇心が人並み以上だということもあるが。
 ハタヤマも、そうしなさいと言わんばかりに隣でうんうんと頷いている。剣士が魔法使い用のあの剣を買うよりかは、錆びついていようがそっちのほうがよほどマシだ。それにこういった武器には秘めた力が隠されている場合が多いので、意外と掘り出し物かもしれない。
 ルイズはどかりと金貨袋(サイフ)の中身をレジにぶちまけ、店主がそれを真剣な眼差しで勘定する。一枚、二枚、三枚四枚……一枚足りない、などということになれば事だからだ。紙幣のない文化だと、こういったところで面倒が発生するようだ。
 「……へぇ、確かに」
 店主は支払いに一枚の不足もないことを確認すると、デルフリンガーを鞘に入れてサイトへ差し出した。
「今代の『使い手』はこんな小僧かい。ま、よろしく頼むぜ」
「おう!」
 サイトは欲しかった玩具を与えられた子どものようにはしゃぎながら、デルフリンガーと挨拶を交わした。その様子を脇で微笑ましげに眺めるハタヤマと、興味なさげに視線を外したルイズ。
「まったく、あんなののどこがいいのかしら」
「はは、なんであれ嬉しいだろうさ」
「?」
「少年はキミでいうところの、使い魔を得たようなものだからね。心を許せる相棒ってのは、意外に心強いものさ」
 キミらはそういうのじゃないのかい、とハタヤマが問うと、ルイズはそ、そそそそそんなんじゃないわよ! とあたふたと怒鳴り返した。それなりに仲が良さそうだったが、自分の見立て違いだったかな、とハタヤマは疑問に首をかしげた。こういう娘の心理はよく分からん。
 ハタヤマもただ一度だけ魔女っ娘とのパートナーを組むチャンスがあった。
 だが、彼はそのチャンスを掴むことが出来なかった。
 少しだけ表情が沈みこむハタヤマ。ルイズはそんな彼を見上げ、ただただきょとんとする他なかった。

 用事も済んだ三人はすぐ店を後にした。だから彼らは気が付かなかった。
 そのタイミングを見計らったかのように、“微熱”と“雪風”のメイジが入れ違いで店へ入っていったこと。そしてルイズたちの隣に並ぶハタヤマの姿を、上空から追跡していた風竜がいたことを。

     ○

「くぅ~、うずうずするぜ! 早くこれ使ってみてぇ!」
 サイトは背に背負ったデルフリンガーを撫でながら、悠々と肩で風を切って歩く。彼は一刻も早く学院で試し切りしたいという衝動を必死に抑えているようだ。ルイズはそんなサイトの感情が全く理解できず、やはりあきれ気味に彼の背中をマイペースで追う。放っておくとどんどん早足になるので、時々彼の服の裾を掴みながら。
 そんな彼らのさらに後をなんとなしに続きながら、ハタヤマはぽつりと呟いた。
「ところで少年。キミは何故剣なんて欲しがったんだい?」
「え?」
 立ち止まるサイト。唐突なハタヤマの質問に、サイトは一瞬内容を理解できずに生返事を返した。
 何故、剣が必要なのか。
 そんなこと決まっている。
「自分の身を守るためだよ」
 サイトはハタヤマが隣までくると、また歩き始める。メイジは危ないやつらが多いからな、とサイトは力説した。彼いわく、メイジは花びら一枚から青銅のゴーレムを作り出すとか、杖の先から火の玉を飛ばすなど、彼にとっては非常識極まりない存在らしい。ハタヤマは興奮して鼻息荒くにじり寄ってくるサイトを嫌そうに突き放しながら相づちを打った。
「へぇ……でも、そんなヤバいのが相手じゃ、剣一本なんて焼け石に水じゃないの?」
「………………」
 サイトは意味ありげに、にやりと含み笑いを浮かべる。ハタヤマはそんな彼が不気味で、やや引け腰であとずさった。
 伝説の力ガンダールヴ。これは、本来なら誰にも言ってはいけないほど重大な情報である。昨夜もそのことでルイズに強く釘を刺された。人体実験の被検体になりたくなければ、みだりに言いふらさないことね、と。
 だが――
(……こいつならまあいいか)
 サイトはつかの間逡巡し、彼になら話してもいいかと考えた。知り合いにまで隠すようなことでも無いし、第一この男は自分と同じ異邦人。言いふらす相手もいないだろう。
 それにここまでのやりとりで育まれた親近感やなんとなく感じる無根拠の信頼が、サイトの背中を後押しした。
「へへ、聞いて驚くなよ。俺はルイズの使い魔になってから、すげー力を手に入れたんだからな」
「ん? それって話していいことなの?」
「別にいいよ。減るもんじゃないし」
 キミがいいなら構わないけど、とハタヤマはサイトの告白を止めない。でも、自分の能力をばらすのは止めたほうがいいかなー、と内心思わないではなかったが。
 ルイズはいつの間にか先に行ってしまっていた。
「なんでか分かんねーけど、武器を握るだけですげー強くなれるようになったんだ」
「……は? そんだけ?」
「あ、おまえ今『たいしたことねーな』って思っただろ」
「うん」
「おい、ちっとは否定しろよ」
 自慢気なサイトを白い目で見つめるハタヤマ。その表情はまるで、「しっ、見ちゃいけません!」と子どもに言い聞かせる母親のようで、非常に冷たかった。歯に衣着せぬハタヤマの答えに、いささか血管が浮き出るサイト。もっと砕けた関係だったら問答無用でぶん殴りそうな勢いである。
「だって、多少動けるようになったところで、『剣士』と『魔法使い』じゃあ、ねえ?」
 ハタヤマは火の玉一発で消し炭でしょ、とクククといやらしく笑った。魔法と剣はある意味、戦闘機と竹やり装備の農民が戦うくらいに無謀な勝負といっても過言ではない。ハタヤマはそれをよく知っているので、サイトの能力が大してすごいとは思わなかった。
 しかし、サイトはちっちっち、と人差し指でさえぎった。
「武器を握った俺はやべーくらい強いんだぜ。なんせ、青銅のゴーレムだって叩き斬っちまえるんだから」
 それにめちゃくちゃ速く動けるようになるし、とサイトは得意気に語り続ける。剣を握った俺に敵は無い、だから剣が必要なのだ、と。
 ハタヤマは黙ってそれを聞いていたが、不意に口を開いた。
「しかし、最近の子は物騒だね」
「あん?」
「殺されそうになったからとはいえ、躊躇なく剣を持ち歩けるんだから」
 サイトはハタヤマの言葉の意図が理解できなかった。なんだ、剣を持ち歩いちゃいけないのか。
 ハタヤマは目を白黒させるサイトに、諭すように丁寧に、噛み砕いて説明する。
「剣ってのはようするに人斬り包丁じゃないか。それを買ったってことは、人を斬ることに使うんでしょ? なんか思うところはないのかなって思ってさ」
「な……ッ!? ち、ちげーよ! これは、身を守るために使うんだ!」
「へぇ。参考までに聞くけど、具体的にどうやって使うんだい?」
 サイトは言葉に詰まった。ハタヤマはサイトを真摯に見つめ、彼の答えを待っている。何か言わなければ、言い返さなければとサイトは思考をぐるぐる回転させるが、脳に描かれるイメージは、ギーシュのワルキューレを両断したあの光景や、ギーシュに剣を突きつけたあの瞬間の記憶だけ。殺さずに身を守る。そのための実を持ったイメージが、サイトの中には浮かばなかった。
 ハタヤマは口ごもるサイトに、追い討ちの一言をかける。
「それに、そんな剣や力(もん)持ってたら、望む望まざるに関わらず、災いってのは寄ってくるよ。そうなれば、キミはキミの意思に関係なく、その力を振るわざるを得なくなるだろうね」
 悪いことは言わないから、過ぎた力は持たないほうがいいよ。ハタヤマの様子からは、そんな声が聞こえてきそうだった。それほど、悲しい眼をしていた。まるで、一度同じ経験をしたとでもいうように。
 サイトはそんなハタヤマの瞳が、何故かどうしようもなく苛立った。
「……んだよ。じゃあ、目覚めた力をわざわざ捨てて、がたがた震えてろってことかよ。隅っこで怯えて、膝を抱えてうずくまってろってことなのかよ!」
「――そっちのほうが幸せだった、と思うこともあるかもね」
 サイトはカッと頭に血が上り、目の前が真っ赤に染まったような錯覚を覚えた。
 災いが寄ってくる? たとえそんなもんがまとわりついてこようと、それは力を持ってるやつが悪いんじゃない。寄ってくる災いが悪いのだ。そんなもののために、自分が我慢しなければならないなど、虐げられなければならないなんて間違ってる。
 サイトはそう頭が考える前に吼えていた。
「ざけんなッ!! おまえが言ってることは、ただ単に諦めてるだけじゃねぇか! そんな幸せ願い下げだ!! たとえいつか後悔しようと、下げたくねぇ頭は下げられねぇ!!」
 やらなきゃ生きていけないなら掃除洗濯だってする、着替えだって手伝ってやろう。早起きだって慣れるさ。だが――理不尽に馬鹿にされ、貶められるのは我慢ならねぇ。それは俺だけのことじゃない、俺の御主人様だって同じだ。俺は、俺だけのためじゃなく――ルイズのためにも、剣を持たなきゃならない。魔法の苦手な主人のために、盾になってやらなきゃならねぇんだ。
 サイトが刹那の間にそこまでのことが脳に浮かんだかは定かではない。だが、彼は確かに、自分のため以外のことに剣を握る理由を見出していた。
 ハタヤマはそんな彼の激昂を受け、しばし逡巡の後。
「そうかい。覚悟があるなら止めないよ」
 あっさりとサイトを肯定した。サイトは肩透かしを喰らったように、拍子抜けして牙の行き場をさ迷わせた。
「でも――それなら、少しは現実も知っておいたほうが良いかもね」
「は?」
 ハタヤマは続ける。
「キミのその素晴らしい決意に免じて、ボクが稽古をつけてあげよう」
「え? えぇ?」
「なぁに、心配はいらないさ。ただの模擬戦みたいなもんだよ。一度本物に触れてみるといい」
 ハタヤマはにこにこと晴れやかな笑顔で、サイトの肩をぽんぽんと叩いた。普段面倒なことや痛いこと、疲れることを嫌うハタヤマにしては珍しい。何故ハタヤマが乗り気になったのか。それは、彼がサイトに『可能性』をみたからだ。
 自分では為しえなかった別の選択肢を選ぶ可能性。自分が本当に欲しかった答えに辿り着くかもしれない希望。この少年は、自分にはない別の強さをその若い胸に秘めている。
 自分はこの少年のように、真っ直ぐには生きられなかった。自分自身の臆病さが、魔女っ娘たちとの別れを産んだ。
 杞憂かも知れないが、彼らに自分のような岐路が訪れないとも限らない。だから、一度転んだ先人として、なにかしらできることをしてやりたくなった。
 そんなことを考え、ハタヤマはふと、しんみりと笑う。もう、自分もそんな立場に立つような年になったのか。
 己が篠原に授けられたように、今度は自分が自分の何かを、他の誰かに伝えていく。これが、時の流れなのだろうか。
「な、なんだよ?」
 おもむろにクシャクシャと頭を撫でられ、サイトはうっとうしそうにハタヤマの手を振り払った。しかし、それでもハタヤマは優しげな眼差し自分に向けるので、彼の疑問は深まるばかりであった。

     ○

 ――なーんていうことがあり、彼らは現在路地裏で絶賛対峙中である。
 ハタヤマは言い出しっぺのくせに、既にめんどくさくなっていた。
 あれは一時の気の迷いだね。
 感傷に流されちゃいかんよ、うん。
 そんな台詞を先ほどから十回以上脳内で繰り返し再生し、そのたびに深く頷いている。その場のノリでかってでたものの、移動する途中で既に冷めた。冬場の吹きざらしに置いておいたおでんみたいなやつである。
 サイトはハタヤマがいつまでたっても構えないので、痺れを切らして声を上げた。
「おい! 本当に本気でやってもいいんだな!」
「あー、いいよいいよ。好きなようにどうぞ」
 気力充実、気合十分のサイトに、ひらひらと手を振り、投げやりとも取れる返事を返すハタヤマ。両者の対決へ望む姿勢は、とても対照的であった。
 サイトは昔見た剣道の構えを真似、右足を半歩前に出して腰をやや落とした姿勢をとった。呼び名は流派により色々あるようだが、いわゆる『正眼の構え』である。対するハタヤマは背筋こそ伸ばしているものの、これといってなにかに備えるような素振りもなく、ぼりぼりと頭を掻いている。
 サイトはハタヤマの身を案じ声を掛けたというのに、返ってきたのがこれである。サイトは沸々と血液が煮えたぎるのを感じた。
「マジに真面目にやれよ! でねーと怪我すんぞ!!」
「だいじょぶだいじょぶ、気をつけるから。それに――」
 ハタヤマはやる気ゼロな態度を崩さぬまま、サイトの眼を真正面から見据えて――鼻で笑った。
「キミ程度じゃ、ボクにかすらせもできないだろうからね」
「――ッ!!!!」
 サイトは、堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。誰のだろう、と疑問に思ったが、次の瞬間にはすぐ察する。
 あぁ、これは――
「――――後悔すんなよッッッ!!!!」
 ――俺の怒りがブチ切れたんだった。
 サイトは裂帛の気合いとともに、地を滑るように駆ける。その速度はまるで弾丸のように速く、そして荒猪のように力強い。ハタヤマはサイトの踏み込む速度に、一瞬だけ目を剥いた。こりゃ、もしかするとハタヤマよりも素早いかも知れない。
 しかし、ハタヤマが眉を上げたのも一瞬。ハタヤマはサイトが神速で剣を振り上げる『軌跡を読んで』、合わせるように『半歩』進み出た。
「――ッ!?」
「はい、一回」
 ハタヤマは悪戯者を叱るかのように、サイトのデコへ左手でデコピンを一発。
 半歩。たったの半歩前に出て、腕を上げただけでハタヤマはサイトの攻撃を潰してしまった。
 サイトが、踏み込む速度もそのままに最上段から剣を振り下ろそうとしたその軌道に、ハタヤマは自分の右手を大きく開いて割り込ませ、振り下ろす手首を掴み止めたのである。遠心力が乗りすぎると片手では止めきれなくなるので、振り下ろしが開始される頂点より直前、下。ハタヤマはその半歩と右手だけで、サイトの攻撃を封殺したのだ。
 もし、ハタヤマが左手にナイフを持っていれば。その時点でサイトの額か心臓には、大きな穴が開けられていたことだろう。
「え、ぇ?」
「――まだ早いっ!」
「ごふッ!?」
 ハタヤマは理解が追いつかずに呆然としているサイトの腹へ、前蹴りを叩き込んで活を入れた。脇腹へモロに喰らったサイトは、しわがれたうめき声を上げて吹っ飛ばされる。
「が、は……っ」
「なるほど、キミの言ってたことは本当のようだ。確かにその身体能力は常人離れしてる」
 ハタヤマはサイトを優々と見下ろしなにやら呟いているが、サイトはそれどころではなかった。
 息が吸えない。酸素が足りない。苦しい。
「せりあい中に気を抜くのはよくないね。目突きに金的、なんでも飛んでくるからさ」
 蹴りなんて可愛いもんだよ、とハタヤマは肩をすくめるが、サイトにはそれを見上げる余裕もない。未だかつて味わったことのない腹の痛みと強烈な窒息感に、サイトは空気を求めてぜいぜいとあえいだ。その姿は四つんばいで右手を首に当ており、まるで熱さに喘ぐ犬のような状態にも見える。
 ハタヤマは一定の距離を開けたまま、心配そうにサイトへ声をかけた。
「その様子だと相当辛そうだね。もうやめとくかい?」
「ふざ、けろ……ッ!」
 サイトは剣を支え棒にして起きあがった。慣れない痛みに起きあがるのもやっとな状態のはずだが、その瞳はまだ気力に満ちている。ハタヤマは彼のその姿に、ほうと感心して息を吐いた。
「よし、特別サービスだ。どっからでも打ってきな!」
 ハタヤマはパンと手を打ち鳴らし、両手を誘うように大きく反した。完全なる挑発である。
 その挑発は見事本来の効果を発揮し、サイトは盛大に憤った。
「く、そぉ……ッッッ!」
(相棒、待て! 頭を冷や――)
「うるせぇ黙゛ってろ゛ッ!!!」
 サイトが振るう剣であり、相棒となった知能を持つ剣(インテリジェンスソード)のデルフが注意を喚起する。しかし、サイトは目の前の軽薄野郎をぶっ飛ばすことで頭がいっぱいになっており、デルフの声は届かなかった。
(ちくしょうめ、この糞餓鬼が!)
 サイトはデルフの悪態など取り合わず、再度構え、遮二無二ハタヤマへ突貫した。その勢いは衰えることを知らず、先ほど蹴りをかまされたとは思えないほど俊敏である。しかし、ハタヤマは残念だと言わんばかりにため息を吐き、今度は『一歩』前に出た。
「――グガッ?!」
 ハタヤマはサイトに引けを取らぬ速度で彼との距離を縮め、今度はサイトが『振り下ろす前に』彼の目前へ躍り出た。目の前が真っ赤になっているサイトは、ハタヤマの急な動作に対応できない。ハタヤマは踏み込む運動エネルギーをフルに乗せ、右肘をサイトの喉に叩きつけ――る直前に勢いを殺しきった。寸止めである。
 ハタヤマは肘を曲げサイトの喉にあてがい、身動きできぬよう、身体を回転させながら近場の壁へ身体ごと押しつけた。
「二回」
「………………」
 押し当てた肘はそのまま力を加えれば、サイトの喉を押し潰すだろう。その前に押し当てる段階で肘の勢いを殺さなければ、サイトはその時点で喉を失っていた。今こうやって息を吸い込む余裕があるのは、ハタヤマに殺意がなかったからというだけの理由である。
「降参かな?」
「ほざくな゛ぁッッッ!!」
「――っ!」
 サイトはハタヤマの右脇腹にヤクザキックを決め、彼我の距離をなんとか離した。つい先ほどのハタヤマの技を盗み、自分のものとしたのだ。
 ハタヤマは息を詰まらせ腹をくの字に丸め庇いつつ、サイトへニヤリと笑みを返した。
「今のは いぃ ね。悪くな い」
「そりゃどーも!!」
 ハタヤマは表面上余裕を保っているが、明らかに顔が歪んでいる。ダメージは浅くないようだ。
 サイトはやつにトドメを刺さんと、再三ハタヤマへ猛然と突進する。身動きが取れない今こそ好機、ここで一気に勝負を決める! そんな意志をこめて剣を腰だめに構えた、渾身のアタックだったのだが。
(止まれ相棒、罠だ――!)
「――え?」
 不意に足首を刈り取られるような強い衝撃。そしてふわり、と全身を襲う浮遊感。反転する世界。自分の周囲を取り巻く世界が、不意にスローモーションのように流れていく。そして、なんとなく気付いた。
 あぁ、俺が宙を舞ってるだけなんだな――
「――うげゥ゛ッ!!」
 サイトの身体は空中で綺麗な弧を描き、そして背中から地面に激突して、ひしゃげたカエルのような絶叫をあげた。
 まただ。また呼吸ができない。サイトは声にならない悲鳴を上げ、ぱくぱくと口を開閉する。
 サイトはいったい自分の身になにが起こったのか、自分では把握できなかった。

     ○

「三回」
 降りかかる声に目を開くと、ハタヤマがこちらを見下ろしていた。首元に違和感があり、顎を引いてみる。すると、顎に当たる固い感触と、ハタヤマの長い足が見えた。そして彼は理解した。ハタヤマの足の裏が、己の首に添えられているのだということを。
 彼が躊躇無く足を踏みおろせば、サイトの延髄はあっけなくへし折れてしまうことだろう。
「ふぅ」
 ハタヤマは額に流れた汗を拭った。彼はサイトの思わぬ健闘に、それなりに驚いていた。まさかあんなおもむろに放った技を即効でパクって、しかもバッチリなタイミングでやり返してくるとは想定していなかったのだ。この少年、なかなかどうして筋がいい。
 仰向けに倒れたサイトを見やれば、彼は身動きができず歯噛みしながら、眼球だけハタヤマをにらみつけている。
「現実(リアル)はアクションゲームじゃないんだから、残機もコンティニューも効かないんだよ? もうちっと大事に攻めたほうが良いね」
「く、そ……」
 サイトの瞳の色が萎えた。この瞬間、今の彼ではハタヤマに勝てないことが決まる。一度認めてしまった敗北は、よほど大きな心境の変化が無ければ覆せない。ハタヤマはその様子を確認して、ひょいと乗っけた足をどけた。
「……?」
「はい、お仕舞い。今日の稽古はこれまで」
「ま、まだ俺は――」
「ボクが仕舞いっつったらしまいなの。諦めな」
 サイトはしつこく食い下がろうとしたが、溜飲を無理やり飲み込んで耐えた。ハタヤマはそんなサイトの小さな表情の変化さえ見取り、静かに彼を見つめている。ここでつっかかっていかないのも、サイトの心が折れかかっている証拠である。サイトの性格からして、こんな決着では納得いかないはずだからだ。
 おそらく本調子のサイトなら、どちらかが立てなくなるまで立会いを続けていただろう。
「それじゃあ反省会だ。キミは、キミ自身のなにが拙くて負けたんだと思う?」
「は? い、いきなり自分の欠点の話になんの?」
「当たり前だろ。よっぽどの実力差が無い限りは、自分のミスが敗北につながるもんなんだから」
 そうハタヤマは至極当然のように語った。この際、ハタヤマとサイトの地力の差には目をつぶったとしても、サイトには色々と拙いところがありすぎる。ここはやや強引にでも、その点を認識させておいたほうがいいだろうとハタヤマは判断した。
 サイトは眉間を揉んで唸った。
「え~っと……避けられすぎ?」
「えらくアバウトだね。しかもいきなり相手のせいにしてきたか」
「いや、そんなつもりは」
「違わないさ。だが、目の付け所は悪くない」
 自分のミスを指摘しろっつってんのに開口一番相手の行動をあげてきたサイトに、ハタヤマは目を覆ってやれやれと首を振った。だが、なにも言わないで口ごもるようなやつよりはよっぽどマシだろう、とハタヤマは好意的に解釈することにした。
「『ボクがキミの攻撃を避けすぎだった』。キミはこれが問題だって思ったんだね?」
「……あぁ」
「でも、これを逆に考えてみよう」
「あ?」
「『避けすぎ』。これを逆の言葉で言い表すと?」
 サイトはハタヤマのとんちのような問いに、意味が分からずうー、あーとドモりまくる。そんな彼を見かねたのか、彼の相棒が口を挟んだ。いや、口無いけど。
「避けられるような攻撃をしすぎ』、ってやつだぁね」
「御名答! さすがは戦闘特化魔導生命体(マインドアームズ)だねぇ。肝心なところは抑えてる」
「あたぼうよ! こちとら六千年も剣やってやがんでぃ」
 得意げに胸をそらしたような男の姿が見えそうな調子だ。ハタヤマは心の中の交遊録のデルフリンガーの特徴欄に、《意外と調子乗り》と書き加えた。
「『避けられるような攻撃』?」
「そう。キミはこの模擬戦で三回中三回とも、真正面から突撃してきただろう? あれ一番ダメだよ」
「ダメなのか?」
「あたりめぇだろが。真ん前から馬鹿正直に突っ込んでくるやろうなんて、格好の的じゃねぇか」
 正面からではいけない。サイトは理屈の上ではわかるような気がしたが、いまいち納得できなかった。ギーシュとの一戦では、それこそ突撃しただけで終わらせることができたのに。
 ハタヤマはサイトの口を尖らせた不満顔に、人差し指を立てて注意を促す。
「キミは自分の能力を過信しすぎだよ。ボクがキミの動きを、目で捉えられていなかったとでも思っているのかい」
「ああ。普通のやつじゃ、俺の動きは絶対に見切れない」
「やれやれ、重症だね」
 とはいえ、そこそこの中堅レベルまでなら、キミの言うこともあながち間違いじゃないんだけど、とハタヤマは胸中で呟く。口に出すとつけあがりそうなので言わないが。
「まあ、確かに『視え』はしないだろう。でも、『読め』はするだろうね」
「え……?」
「たとえば、だ」
 ハタヤマはポケットをまさぐり、道端で拾った銅貨を一枚取り出した。それを指先でつまみ、胸の辺りに持ってくる。
「この銅貨から手を離したとする。そうすると、どうなると思う?
「そりゃ、落ちるに決まってんだろ」
 ニュートンが発見した万有引力の法則だ。サイトとて現役高校生、それぐらいは学校で習っている。バカにしてんのか、とサイトは目で訴えた。
「どの辺に?」
 ハタヤマはどうどう、とサイトをなだめつつ質問を続ける。サイトはハタヤマが手に持った銅貨の位置と地面を見比べ、しゃがみこんで見当をつけた。
「大体この辺だろうな」
「本当に?」
「本当だっての! ならやってみろよ!」
「冗談だよ」
 ハタヤマは銅貨を離した。するとそれはみるみる地上に吸い寄せられ、サイトが指を刺した地点に寸分たがわず落下し、鈴のような金属音を奏でた。
「じゃあ、質問を変えてみよう。あの辺からキミがボクへ突進してくるとして、キミはそのときどの辺りで剣を振りかぶるかな?」
「……あ」
「もっと言えば、どの辺で足を踏み込むかい?」
 サイトはハタヤマのその謎掛けで、唐突に理解した。自分がハタヤマへ踏み込む間合い、それは――
「キミのリーチは、キミの構えとその剣の長さで、大体察しはつくんだよ」
「あとはタイミングの問題だな」
「それだって、あらかじめ予想した間隔に間に合うよう、軌道上へ手を割り込ませておけば済む話だよね」
 ハタヤマはサイトの速さを、ただ単に眼で追っていたわけではなかったのだ。ハタヤマの語る理論はまるで知恵の輪のように入り組んではいるが、確実に理に適っている。サイトがそこで踏み込むならここで割り込もう、振りかぶるならこうしよう、刺突ならこう避けようなど、一つ一つの行動への対策で彼の理論は形作られていた。
「ある意味、キミがどんだけ速く動こうが、見切れようが見切れまいが、大して関係ないんだよ。あの地点からこの勢いで走ってきたなら、たぶん何秒後にこの辺で剣を振りかぶる。それさえ読めたら後は簡単なんだ」
 当然、それには事前にサイトの行動速度を把握していることと、相手がその行動を必ず取るという確信が大前提となる。それすらも挑発によりハタヤマはサイトの思考を誘導した。彼から冷静な判断力を奪い、無意識化の選択肢を削ぎ取ったのである。
 さらにハタヤマは人外であり、他のあらゆる生物にも勝る『超感覚』も持っている。だからギリギリ音速くらいまでなら目視で視認が可能だったのだ。言ってしまえば、ハタヤマもチート能力を持っているからできた、とも言える。
 サイトはあらゆる面での戦略、戦術レベルで後れを取っていたのだった。
「それにキミは、相手を見た目で判断しすぎるね。ボクが人間だと思って打ってきてたでしょ」
「……? 人間だろ?」
「………………」
 言ってからどうしようもないことに気付いたハタヤマ。確かに、この見た目を疑えというほうが酷かもしれない。
 しかし、それでも。こういった世界でそういう道に進もうと考えるのならば、必要な要素である。
「ボクが人間の皮を被った化物かもしれないでしょ? 人の形をしているからって、人間だとは限らない」
「……?」
「とにかく、『相手は自分と同等、それ以上の力を持っているかもしれない』。この意識は、いつでも持っていたほうがいい」
 相手を舐めるな、ということである。ひいてはそれが己の身を守ることにつながる。サイトはもうハタヤマの言葉を疑わず、素直にこくりとうなずいた。
 ハタヤマはそれにも難しい顔をする。
「……キミの最大の弱点は、その素直すぎるところだね」
「へ?」
「なんでキミ、しっかり話したのは今日が始めてってやつの言葉を素直に聞いてんだよ」
 怪しいだろ、とハタヤマは難色を示した。どうも自分が信用されていることに、思うところがあるようだ。
 だが、サイトはきょとんと眼を丸くするばかりだ。
「お前、悪いやつなの?」
「違うよ!」
「じゃあいいじゃん」
「悪いやつはみんなそういうんだよ!」
「んだよ、じゃあお前悪いやつなのかよ」
「いや、だーかーらー……」
 ハタヤマはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。どう説明すればいいのだろうか。
 ハタヤマはとにかく、と前置きし、サイトに言い聞かせるように両肩を抱いた。
「そんなにすぐに相手を信用しちゃダメだよ。まずは疑ってかからなくちゃ」
「疑う? なんでだよ」
「嘘を吐いてるかもしれないし、何時裏切るか分からないからさ」
「――……なぁ」
 サイトは、ハタヤマの黄金の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「なんでお前、そんなにビビってんだよ」
 ハタヤマはサイトの素朴な指摘に、言葉を失った。恐がっている。自分は恐がっている。
 ――なにを? 誰を?
「……なんだよ藪から棒に。ボクがなにを恐がってるっていうんだい」
「端っから相手を疑わなくてもいいじゃねぇか。なんで初めから裏切られること前提に構えてんだよ」
 サイトは、ハタヤマが自分で気付かないようにしていた部分に、無邪気にぐいぐい切り込んでくる。ハタヤマはサイトに気圧されるように、半歩後ろに下がった。
「違う。ボクは裏切られたときのことを考えて、そのための対策として疑ってるだけだ」
「そりゃ、そういうことも必要だと思うけどさ。お前、誰彼構わず疑ってるじゃねぇか。じゃあ、お前は俺が悪いやつに見えんのかよ」
 サイトは自分を指さして胸を叩いた。ハタヤマは口ごもる。
「……さあね。そんなことは分からないよ」
「ほらみろ。お前は俺を疑ってない。そのくせ、どっかで俺を信じ切れてない。だから腰が退けてる」
 これを恐がってると言わずしてどうするんだ。サイトはづかづかとハタヤマとの距離を詰める。ハタヤマはサイトが近づくたび、じりじりと後ろへ追いつめられていった。
「なんか変だと思ってたけど、やっと分かった。お前は人を疑えと言いつつ人との関わりを断とうとしないし、だからといって自分から距離を縮めようともしない。中途半端なんだよ」
 ハタヤマは背中に固い感触を感じた。背後には壁。もう下がれない。
「……自分以外の全てを疑う。それが、長生きする秘訣だよ」
「違うな。自分の認めた相手を全力で信じなきゃ。お互いに信じあわなけりゃ、なにをやってもつまんねえ。俺はお前を信じる。だからお前も俺を信じろ」
 この餓鬼、生意気言いやがる。ハタヤマは天を仰いだ。しかし、路地裏からは太陽など見えるはずもなく、眼前に広がるのはただただ深い闇ばかり。
「最後の助言。その剣の言うことはよく聞いときな」
「え?」
「その剣はキミよりも長生きしてる。年長者は敬うもんだ」
 ハタヤマは振り返らず、右手小指と薬指を曲げた手を振ることでさよならを告げた。
 その場に一人、取り残されるサイト。
 あの男は不思議な男だ。自分から寄ってくるくせに、こちらから近づこうとすれば逃げていく。それはまるで実態を持たない幻覚のような存在で、砂漠の蜃気楼のようだ。
 何故、あの男は頑なに相手を信じようとしないのだろうか。何故、あの男はあんなにも――寂しそうなのだろうか。

「――すっきりしねぇなぁ」
(ま、あの男も色々あったんだろな)
 サイトはデルフリンガーを鞘に収め、自身もその場から歩み去った。
 おそらくカンカンに怒りながら自分を待つ、御主人様の元へ。

     ○

「――なにしてたのよあんたはぁーーーッッッ!!!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいー!!!!」
 空も暗くなり始める頃に関所前の馬小屋へ着いたサイトは、そこで仁王立ちしていたルイズにこっぴどく叱られた。その日の馬小屋では、毛を逆立たせて怒り狂うピンク髪の女と盛大に土下座を決める黒髪の男という光景が見られたという。
 サイトは、あの時のルイズの頭には間違いなく角が生えていた、と後日語っている。
 もちろん夕食には間に合わず、空きっ腹で明日の飯抜きを言い渡されたことは言うまでもない。



[21043] 四章中編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:03
【 四章中編 『エンジョイ・トレジャーライフ』 】



 てーててってー てーててー

 ごろごろごろごろ
「うぉわあああぁぁぁ――ッ!!!!」
 歴史を感じさせる崩れかけた遺跡。そんなヒビだらけで苔むした急斜面を、全速力で駆け下りる人影があった。白いワイシャツに黒いロングパンツの……割愛、ハタヤマである。
 彼はかれこれ十数分ほど、延々と続く坂道を転げ落ちるように突っ走っていた。
「なんなんだこの漫画みたいなトラップは!? きょうびB級映画でもやらないよ!!」
 背後から迫りくる、巨大な岩へ向かって悪態を吐くハタヤマ。そんな罠に引っかかった彼は、負けず劣らずそうとうなまぬけ野郎だろう。
 この罠にかかる直前までは、目立った脅威も無い平穏な探索だったのだ。しかし、それに気が緩んでちょいと開けた場所にあったでっぱりに腰掛けたのが運の尽き。
 ガコン、というなにかがはまる音と、彼の足元が急に傾斜したのはほぼ同時であった。
 てーててってー てーててーてーてー
「やかましいわこのBGMッ!!!」
 先ほどから何処からか、何故か聞こえてくるレイダーズマーチにブチ切れるハタヤマ。なんで異世界にインディージョーンズのテーマが存在しているのだろうか。まあ、人間はどの世界でも似たようなことを考えるということかもしれない。
 ハタヤマはこんな状況でしかもずっと全力疾走を続けているにもかかわらず、息一つ乱れていない。流石はカテゴリ:魔獣といったところか。
 しかし、ハタヤマもいい加減この状況に危機感を感じ始めていた。映画や漫画で見た知識を参考にするならば、長い傾斜や深い穴の先には針の山が待ち受けているのが定番だが。
 そう思い、ハタヤマははるか彼方の闇の向こうを見通すために、超感覚を発動させ――
「――やっぱりかーッ!」
 暗闇なのに暗視鏡(ナイトスコープ)のように明るく、双眼鏡のように遠くが見えるようになった彼の視界が、ギラギラと凶暴な輝きを放つ槍ぶすまを捉えた。つい最近も誰かがそれに掛かったのか、赤黒くこびりついた血液と腐乱死体、さらにはご丁寧に白骨死体までもがぐっさりと突き刺さっている。その様はトラップに掛かった者を快く迎えたがっている亡者の手招きのようにも見えた。
 このままではやばい。ハタヤマは全身を余すところ無く刺し貫かれ、奇妙なポーズで地を噴出す自分の姿を想像し、背筋をゾクゾクとさせた。
 そんなことを考えている間にも、死は刻一刻と迫ってくる。立ち止まれば背後の岩の餌食、止まらなければ前方の剣山にぐっさりである。前門の虎後門の狼、絶体絶命の窮地。
「仕方ない!」
 ハタヤマは精神を集中し、全身を魔力で包むイメージで脳を満たす。その瞬間だけ彼は周囲の全てと感覚を断絶し、自分だけの世界を作り出す。
 イメージは――なにをされても死なない生物。
「――チェンジッ!!」
 ハタヤマは裂帛の声とともに、まばゆい光に包まれた。同時に多量の煙が彼を取り巻き、その周辺を覆い隠す。一拍してその煙を突き抜けるようにその場所を大岩が転がり抜け、ガギリッ、と嫌な音が響いた。剣山と大岩が激突したのだ。しかし、直撃を喰らったはずのハタヤマの姿は何処にも無く、肉片や血痕もどこにもない。しばし動く物も、者も無く、場は静寂に包まれた。
 不意に大岩の下の床が抜け、大岩はその穴に飲み込まれた。ややあってゆっくりと床石が戻り、そこにはまるで何事も無かったかのような光景が戻ってきた。
 ハタヤマは、どうなってしまったのか――
「ふぃー、危ない危ない」
 どこか間の抜けた調子で、心底安心したという声が響いた。それと同時に床に広がった『染み』のようなものがうぞうぞと一点に集まり始める。それはやがて水溜りのような大きさになり、そしてサッカーボールほどの大きさになり――終には、人間の子どもほどの、ぶよぶよした物体となった。
 それはオレンジ色の半透明な液体で、中心には蒼色の核らしき球体が浮かんでいた。
「どういう仕掛けかは知らないけど、あの岩はまた元の地点に戻ってんのかな」
 一瞬だけ目映い閃光が奔り、オレンジ色の液体はハタヤマへと変身した。ハタヤマは奥の手、『メタモル魔法』でスライムへと変身して難を逃れたのである。
 スライムになれば弱点は核のみになるので、肉体を極限まで薄く伸ばして核を通路の角っこへ避難させればそれで終了。核以外の部分は岩に轢かれようと槍が刺さろうと平気なので、咄嗟にしてはまあまあ優秀な対応だったとハタヤマは自身に及第点をつけた。まあ、スライムは物理攻撃に強いものの、それ以外の弱点が多いのでそうそう使えるものでもないが。
 ハタヤマは壁面まで近づき、壁から突き出したおびただしい数の針を調べた。遺跡はこれほどまでに風化が進んでいるというのに、突き出した針はまったく傷んだ様子が無い。誰かが定期的に手入れしているのか、とハタヤマは最初推測したが、いやしかしそれだったら床にこびりついてるこの紅い染みとか、針に付着した脂肪分や血液はどういうことなんだろうかと首をかしげた。針を入れ替えるくらいだったら、それなりに掃除くらいはしていきそうなものである。
 ハタヤマが迷うのもある意味当然、彼の推測は実は間違っていたりする。ハルケギニア(この世界)には『固定化』の魔法という、とんでもなく便利な魔法があるのだ。
 続いて左右の壁へちらりと視線を送り、そしておもむろに天井を見上げる。
「……なるほど」
 針山直前の天井部分だけぽっかりと穴が開いており、人間が二、三人くらいなら逃げ込めそうなスペースが広がっていた。そしてその穴の突きあたりには、別の道へ続く横穴が設置されている。おそらくこのトラップから生還する道(ルート)は、唯一これだけなのだろう。
 だが、天井はハタヤマの身長より二倍くらいの距離にあり、しかも穴は縦穴である。あまりにも厳しすぎる設計者の温情に、気付けたとしても助かれたやついんのか? とハタヤマは胡散臭く思った。
「しかし、困ったな」
 ハタヤマは空を飛べないので、あそこまで行く手段が無い。魔法使いといえば箒で空を飛ぶ姿がわりと簡単に想起されやすいが、残念なことに彼はそんなものを持っていなかった。空を飛べない、それが彼の最大の弱点である。
 別のルートがないかと両脇の壁を調べてみるも、さしたる成果は見出せなかった。やや途方に暮れ気味でもう一度穴を見上げると――
「お」
 ハタヤマが間の抜けた声を上げた。横穴へ続く縦の壁面に、わずかなでっぱりを見つけたからである。
 よく視ればそれは等間隔に、下の地面に接するまで配置されている。
「これが釈迦の蜘蛛の糸……ってやつかな」
 この遺跡を造ったやつは、間違いなく性格が悪い。ハタヤマは一つため息を吐き、ロッククライミングへと洒落込んだ。

     ○

 断崖を登りきった先は、何も無かった。
 ……というわけではなく、何も無い部屋に出た。中央部に座ってくれと言わんばかりの石がおいてあるだけで、それ以外に何も無い。部屋内に充満するカビの匂いと積った埃が、長い間使われていないことをありありと主張している。ハタヤマはとりあえず脇にあった燭台へ火をつけ、一息ついた。
 またなんか仕掛けがあるのかなー、めんどくさいなー、など、彼の脳内では不満がぐるぐる渦巻いている。それゆえに、注意が散漫になっていた。
 なにかに魅入られたように、部屋の中央部へ歩を進め――どっかりと、石に腰を落とした。
「……ん?」
 なんか、さっきもこんなことがあったような――
 と、思い返す暇も与えられなかった。

 部屋全体の床板が、バクン、と真っ二つに開いたのだ。

「やっぱりかああああああぁぁぁ―――わかってたけどぉぉぉぉッ!!!?」
 尾を引くような絶叫を残して暗黒へ消えていくハタヤマ。懸命に宙で足掻いてみても、残念ながら空を泳ぐことはできない。というか、分かっていたなら少しは学べ。
 床石はハタヤマを呑み込むと、何事も無かったかのように元へ戻った。しかし、ハタヤマの足跡だけは埃の上にくっきりと残っており、ヒトがいた形跡だけはそこに残されていた。
 何故彼が遺跡探索などを行っているのか。
 それを知るためには、少し時間を遡らねばならない。

     ○

 その日、『魅惑の妖精亭』はリニューアルオープン初日を迎えていた。
 新築同然の輝きを放つ美しい店内に、備品も全て新品に入れ替えられてピカピカ。それでいてお高く留まったイメージもなく、親しみやすい良い雰囲気に満たされている。
 スカロンはそんな己の店に惚れ惚れと身を打ち震わせ、終始笑顔で店内を見回していた。
「さあ、新生『魅惑の妖精亭』の記念すべき第一日目が始まったわ! 妖精さんたち、気を引き締めてじゃんじゃんチップをいただくのよ!!」
「はい、スカロン店長!」
「ちぃがうでしょ~うっ!!」
「はい、ミ・マドモワゼル!」
 くねくねと妖精さんたちに檄を飛ばすスカロンだが、その表情は満面の笑みである。ローン返済から一気に建て替えまで叶い、スカロンは喜びで笑いが止まらない。思わぬところで貴族とのパイプができ、なんと出資までしてもらえたのである。利息なしに金を借りられ、しかも返済は無期限待つと言ってもらえた。これまでも黒字を確保してきた剛の者である彼は、この借金も決して返しきれない額ではないと、静かに炎を燃やしていた。
 娘も助かり、ブラックリストの客を黙らせ、さらにケツモチまで巡り合わせてもらった。まさにハタヤマ様々である。
「――さて、妖精さんたちに素敵なお知らせ。今日のこの記念すべき日に、なんと新しいお仲間もできます。さあ、自己紹介して」
 スカロンは隣に立つ男に笑いかける。水を向けられたその男は、白いワイシャツに黒いロングパンツ、黒髪金眼の優男。
「ご紹介いただきました、ハタヤマヨシノリです。どうぞよろしく」
 ハタヤマは三角巾を巻いた頭をぺこりと下げた。珍しい男の新人に妖精さんたちはにわかにざわめく。
(ねぇねぇ、ちょっとかっこよくない?)
(えー、でもお金持ってなさそう)
(幸薄い顔してるよねー)
 聞こえてるぞこの雌どもが。と言ってやりたい衝動を抑え、ハタヤマはにこにこと貼り付けた笑みを絶やさない。人間なんてどれもこんなものなので、この程度で苛ついていては身が持たん。
 スカロンの後ろに立っていたジェシカがいつの間にかハタヤマの背後に回り、ぽんと両肩に手を乗せた。
「彼には皿洗い兼ウェイターをしてもらうから、みんな仲良くしてあげてね」
 そう言って彼女はにこりとハタヤマを見上げた。人間状態の彼を店員として迎えるのは、彼女が提案したことである。そのほうがなにかと出来る事も増えるし用心棒としてもハタヤマは優秀なので、正式に皆に顔を通しておいたほうがいいと勧めたのだ。
 ハタヤマはその申し出に始めは難色を示したのだが、あまりにも熱心なジェシカに、最終的には折れた。押しに弱い男である。
「雇った以上は給金も出すけど、その分働いてもらうからね」
「はいはい、分かってるよ」
 目下の目標として武器を揃えるため、ハタヤマは勤労に従事せざるを得ない。
 世間は冷たい、とハタヤマはため息を吐かずにはいられなかった。

     ○

 開店時間の一時間前だというのに、店の前には多数の人だかり。扉が開くのを今か今かと待ち構える客たちは、若いから老い、根暗そうな青年から油ギッシュなおっさんまでよりどりみどりの男たちである。彼らは各々給料袋を握り締め、今日のこの日に備えていた。オープン初日→サービス豊富→誰よりも貢ぎまくる→とてつもない好印象→お店にはナイショよ♪ というむふふなアフターサービスがあると信じているのだ。非常に残念な男どもである。
 そんなやつらが営業開始と同時に怒涛の勢いで流れ込んできたので、新生『魅惑の妖精亭』は大盛況。店内は嬉しい悲鳴に包まれる。そう、本当に『嬉しい』悲鳴に。
「5番テーブルお願いしまーす!」
「ぬぉうっ!?」
 ズドン、とカウンターに置かれた料理を見て言葉を失うハタヤマ。豚一頭まるまるなんていったい誰が頼んだんだよ。
「はやく持ってってー!」
「次はこっちー!」
「ちょ、ちょ、ちょ」
 次から次へ料理はあがってくるので、放心している時間は無い。
「ふんぬ! ……お、おも」
 よたよたとよろけながらも必死に料理を運ぶハタヤマ。彼の体ほどもある巨大な器に盛られた料理をたった一人で運ぶ辺り、さすがは魔法使いであった。
 ……若干、魔力の使い方を間違えている気がしなくもないが。
 そんな風にホールを駆けずり回ることもあれば。
「食材が足りませーん!」
「おい新人! 買出し行ってこいやぁ!」
「は?」
 おもむろにメモ書きを押し付けられるハタヤマ。渡されたそれを改めて確認して、その内容に眼ん玉が飛び出した。
「ちょっと! ハシバミ草十束はまだ分かるとして、豚牛二頭分ずつとか意味が分かんないんだけど!?」
「見たまんまに決まってんだろ! 分かったらさっさといってこいやぁ!」
「一人で持って帰れるか!」
「引きずってでも帰ってこいやぁ!」
 やぁやぁうるさい料理長が、ハタヤマの尻を叩いて追い出した。どうやら本気で一人で行かなければならないらしい。
「く、そ……やってられるか!」
 ハタヤマは思い切り小石を蹴り上げ、踵を返して匙を投げようとした。いくら糧を得るためとはいえ、こんな無理難題を押し付けられるのは面倒極まりない。これまでもなんとかなっていたし、どうせ独りでもやっていける――
 ――もう家族なんだから
「………………」
 踏み出した足が止まる。このまま街の門をくぐれば、確かに目の前の面倒からは逃れられるだろう。だが、それをやり過ごしたとして、その先にはいったいなにが待っているのだろうか。それに、ここで自分が勤めを果たさなければ、恩を仇で返すことになってしまう。それだけは、なにがあろうともやってはいけないことだ。
 それに。
「……誰が逃げてるってんだよ」 
 このままでは、あの生意気な少年が言ったようなヒトになってしまう。ハタヤマは、それがなんとなく癪に障った。
「分かった、分かったよやってやるよ!」
 チャック族舐めんなうおおおぉぉぉッッッ!! と、奇声を発しながら駆け出すハタヤマ。普段の彼ならば着の身着のままで、ふらりと姿を消していたかもしれない。しかしそれをしなかった。
 ハタヤマの中で、少しずつなにかが変わり始めていた。

     ○

「うべぇ~……」
 精根尽き果てたようにカウンターでノビているハタヤマ。荷車で大量の肉塊を持ち帰り、その後もボーイとして店内を駆けずりまわさせられたのである。補助に回した魔力も空欠で、ハタヤマはもう指一本も動かしたくないくらい疲れきっていた。
 それを見つけたジェシカがどこからか擦り寄ってきて、テーブルの上に腰掛けた。
「ごめんねぇ。パパが今後のためだ、とか言って丸焼きバイキングをみんなに振舞っちゃったのよね」
「んなことするから足りなくなるんだよ……」
 商魂たくましいのは尊敬に値するが、それでとばっちりを受ける身にもなって欲しい。今日の分の魔力消費は殆どがあれ絡みだぞ、とハタヤマは内心で毒づいた。
 ハタヤマは生物学上で魔獣に属してはいるが、元々筋力は貧弱な方である。それなのに自分の体重の何倍もあるものを持ち上げたり、人知を超えた行動速度を発揮できるのは、魔力による底上げがあってこそなのだ。しかし、魔力消費の少ない肉体強化の魔法しか使っていないにもかかわらずこれほどまでに疲れきっているのは、彼にしてみれば相当に異常な状態である。やはり、この世界の魔力事情は、彼にとってかなり厳しいようだ。
 ちなみに、身体強化の利便性が高すぎるので近頃ハタヤマはそればかりに傾倒しており、それが篠原の頭痛の種になっていたりするのは余談である。篠原はハタヤマに、純然たる魔法使いとして育って欲しいのだ。
「お疲れ様」
 ジェシカはそう言ってグラスにワインを注ぎ、ハタヤマの目の前にコトリと置いた。しかし、幾度と無く繰り返すが、ハタヤマはお酒が苦手である。なので一瞬だけ顔をゆがめたが、他ならぬジェシカの注いでくれたワイン、これを断れば男が捨たるというもの。
 ハタヤマはワイングラスを手に取り、静かに一口すすった。
(……やっぱり美味しくない)
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
 表面上取り繕いながら、ハタヤマは内心に困った顔を隠した。大人になれば分かるかと思ったが、未だに酒の良さが理解できない。これは自分がまだ子どもなのか、それとも酒にそんな価値などないからだろうか、とハタヤマ思い悩んだ。酒の味が分からない彼にとって、これは永遠の命題である。
 そんなやり取りを交わしていると、放れたテーブルがにわかに騒がしくなった。
「ん? どうしたのかしら」
「こんな閉店間際に面倒を起こさないで欲しいね」
 頭に疑問符を上げるジェシカ。ハタヤマは雇われ用心棒も兼ねているので、こういった事態には腰を上げざるを得ない。
 ハタヤマはめんどくさそうにボリボリと頭を掻き、騒ぎの元へ向かった。
「だーあらー、ねぇもんはねぇってーの! もんくあんのかー!」
「困ったわねぇ……」
 酔いつぶれた男が、周りの迷惑顧みずくだを巻いている。スカロンは開き直ったその男をどうしたものかとくねくねしていた。
「どうかしたのかい?」
「あらん、ハタヤマちゃん。いやねえ? このお客様、ラストオーダーも終わって会計ってとこで、お金がないーなんていいだしちゃったのよん」
 スカロンの話を聞き、ハタヤマは男を観察した。伸びるに任せた長髪を後ろで尻尾のようにくくっており、身なりはお世辞にもいいとは言えない。革のジャケットに茶色のズボン、ウエスタンハットに片眼鏡(モノクル)がキラリ。見た感じ、冒険者っぽいう服装である。しかし、赤ら顔で妖精さんたちに絡むそいつの姿は、間違いなく迷惑な酔っぱらいであった。
「こういう場合どうするんの?」
「そうねぇ、問答無用でたたき出すか、さもなきゃ屯所に突き出すしかないわねぇ」
「……つ、突き出す!? お、おいおいそれだけは勘弁してくれよ!! ほんの出来心じゃねえか!!」
「その出来心が、どれだけ店を圧迫するか分かっているのかしらねぇ」
 スカロンは額に井筒を浮かべながら、満面の笑みで男を見下ろした。男はスカロンの言いしれぬ凄みに圧倒され、押し黙って消沈する。
「ねえあんた」
「あん?」
「本当に金持ってないのかい?」
 ハタヤマはまじまじと男の眼を覗き込むと、男は逃れるように目を伏せた。ハタヤマは男のその仕草でなんとなく察してしまった。まったく、何故金がないと分かっているのに酒場なんぞに足を運んだのか。
 ハタヤマは唇をとがらせ、眉間にしわを寄せ男を睨む。
「それじゃ、金目の物だけ剥がせてもらうよ。それで足りなきゃ豚箱行きだ」
「……ちっ」
 ハタヤマはさらに顔を険しくした。こっちは当然のことをしているまでなのに、舌打ちするとは何事だ。礼儀のなってないやつめ。
 表だって現しはしないが、ハタヤマ怒り心頭だった。
 男の持ち物を検めていく。銅貨が数枚入った革袋(サイフ)、粗末な短刀に丸めた紙の束が数枚、そして――
「お。良いもん持ってんじゃん。こいつをもらっとくよ」
 男の首に掛かった革ひもをたぐると、そこには金のロケットが身につけられていた。ハタヤマの鑑定眼でもそれは紛い物ではない純金という結果が出て、間違いなく男の持ち物の中では最高額の品だった。多少貰いすぎかも知れないが、それは代金が払えなかったこの男の落ち度である。
 ハタヤマは革ひもを引きちぎり、ロケットを取り上げた。
「! ま、待ってくれ! それだけは止めてくれ!」
「なんだよ。これしかないんだから仕方ないじゃん」
「本当に大切な物なんだ! それ以外ならなんでも……ッ!」
「諦めてよ」
 奪ったロケットをスカロンに渡そうとするハタヤマ。男はそれに、自分の半身を取り上げられたように取り乱し、ハタヤマへ掴みかかる。横合いからタックル紛いの突進を喰らい、ハタヤマはバランスを崩して倒された。
「っ、往生際が悪いぞ! 自業自得でしょうが!」
「頼む、頼むッ! それだけは……それだけは……ッ!」
 ハタヤマが右手に握ったロケットを取り返そうと、男はハタヤマの右手に縋り付く。ハタヤマは男が腕にまとわりついた衝撃で、手の中からロケットをこぼしてしまう。
 落ちた拍子にロケットが開く。そこには、可愛らしいピンクのドレスを着た女の子が、椅子に腰掛け微笑んでいる絵がはめ込まれていた。
 男はそのロケットを掻き抱くように飛びついた。
「……あんたの家族かい?」
「………………」
 男は答えない。ただただ、跪いて祈りを捧げるように、ロケットを抱いて座り込んでいる。ハタヤマはその姿に、なんとなく正体が分からない想いを抱いた。
 感傷? 罪悪感? それとも別のなにか?
 ただ、分かることは。
 もうちょっと待ってやってもいいかもしれない、というささやかな予感だけだ。
「もう一度よく考えてみな。本当に、金目の物は持っていないのかい?」
「……?」
「もしかしたら金になるかも知れない物でもいい。それに換わる対価(もの)を持っていないかい?」
 男は逡巡し、口を開いた。
「……その紙を見てくれ」
 男はテーブルの上に転がった紙の束を指さした。ハタヤマはその束の糸を解き、丸められた一枚を手に取る。
「『小人の靴』? なんだいこりゃ?」
 他の羊皮紙を手に取ると、『火竜の火袋』や『星くずの欠片』など、なんともおファンタジーな文字列が踊っている。なんじゃこりゃなんじゃこりゃ、とハタヤマは身を乗り出して机にかじりつき、興味深げに首をかしげた。
「あんた、盗掘屋(トレジャーハンター)なのね」
「探検家(トレジャーハンター)だ!」
 ジェシカの言葉に間髪入れず反論する男。そこら辺はこだわりがあるようだ。
「自慢じゃないが、そいつは確かな筋から引っ張ってきた上物だ。ハズレはまったく少ねぇはずだ」
「どんな単位だよ」
 ハタヤマはしげしげと地図を眺める。しかし、この世界の地理に詳しくないのでちんぷんかんぷんだった。
「あ、これ近いわね」
「その五枚はトリステイン城下町を中心にして、一日で回れる距離の物を集めた」
 ハタヤマの背中越しに地図を覗き込み、バツ印を指さすジェシカ。のし掛かった体勢は胸が当たってとても気持ちいい。ハタヤマは猿のように鼻の下を伸ばし、だらしなく破顔した。
 そんなハタヤマの顔を見上げながら、これでも選りすぐったんだぜ? と男は不敵に笑みを浮かべる。ハタヤマは、そんな余裕見せられる身分か、と男の頭をはたいた。
「んで、キミはこれが必ず金に化けると思っているのかい?」
 気を取り直し、ハタヤマは男に真面目な視線を向けた。普通に考えて、こういった類は紛い物が殆どである。よしんば本物だったとしても、既に他の遺跡荒らしに盗り尽くされている場合もあり、宝を得られる可能性は限りなく低い。この男はそれを承知で、こんな紙切れに希望を見いだしているのか。ハタヤマはそれが気になった。
「ああ、まったく絶対に化ける」
「……どうしてそう思うんだい?」
「それは――俺が集めた地図だからだ」
 男はきっぱりと言い切った。確かに力がこもった男の瞳。
 面白い、とハタヤマは逡巡して頷いた。
「よし、それなら賭けてみようか」
「?」
「その地図の場所を調べてみて、宝が見つかればキミは無罪放免。晴れて自由の身だ。でも、見つからなければキミの負け。臭い飯を食べてもらうよ」
「ちょっと待て。誰が調べに行くんだ」
「ボクだよ」
 親指を立て胸をドンと叩くハタヤマ。ボクに任せろ、と言わんばかりの自信満々なポーズである。しかし、それに待ったをかけたのは、意外にも目の前の困窮しているはずの男であった。
「待てよ。……あんた、本当に信用できんのか?」
「どういう意味だい?」
「あんたが調査するって事は、あんた以外に証人はいないってわけだ。……あんたが、宝をちょろまかさないって可能性は、まったくないとは言い切れない」
 男は、苦虫を噛み潰したように呟く。ハタヤマに地図を渡すということはある意味、彼の生殺与奪権をハタヤマに委ねることと同義である。それ故に、男はハタヤマがどういう性質の人間なのか、値踏みするように睨みつけた。
「あんた失礼ね。自分の立場分かってんの?」
「いいから、ジェシカちゃん」
 ハタヤマは疑われているというのに、愉快気に小さく微笑んだ。
 いいじゃないか。
 甘い話に飛びつかず、まずは疑い距離を取る。こういうやつは嫌いじゃない。
「安心してよ。道中で見つけた物は、全てキミに検めさせてあげる。その上で必要な分だけこっちで引き取って、あとはキミの総取りにしようじゃないか」
「……そんなことをして、あんたになんのメリットがある?」
「さあね? 別に信じなくてもいいよ。ただ、その時はキミが右から左へ連行されて、豚箱に叩き込まれるだけさ」
 暗に「ボクはどっちでもいいんだけど」、という意志を仄めかすハタヤマ。どうせ気まぐれの申し出である。そもそもこれ自体が気まぐれによる思いつきなのだ。通ろうが通るまいがどっちでもいい。
 男は、しばしハタヤマの瞳を射抜くように見つめ――頷いた。
「分かった、あんたに俺の命運を託そう。その代わり、しっかり仕事してくれよ?」
「ふてぶてしいねぇ。ま、いいけど」
「ちょ、ちょっとちょっとハタヤマちゃん?」
 どんどん勝手に話を進めるハタヤマに、慌ててスカロンが割って入る。いつの間にか、男に猶予を与える流れとなっていた。
「というわけで店長。早速だけど有給使います」
「へ?」
「この男はボクの部屋に監禁しといて。明日中にはケリをつけるよ」
「おいおい、確かに一日で回れる距離っつったが、それはあくまでも一日に一ヶ所って意味だ。流石に一日で全部は無理……」
「だーいじょうぶだって」
 ハタヤマは不敵に笑い、男の言葉を遮る。
「大船に乗ったつもりで、このハタヤマ様に任せなさい!」
 がっはっはっと豪快に笑い飛ばし、ばしばしと男の背を叩くハタヤマ。
 男は、泥船にしか見えねぇ……と心中で嘆きながら、少しだけハタヤマに任せたことを後悔した。

     ○

 延々と変わらない森林風景を見つめて、俺は荷台のふちでたれパンダの如くべろーんとたれている。
 俺たちは荷馬車に揺られ、一路フーケの隠れ家へと向かっていた。
 時々大きな石に乗り上げるのか、荷台が強い衝撃に襲われて尻が痛い。
 ……なんか俺、この世界に来てから尻が痛いばっかり言ってる気がする。
 そのうち痔になるんじゃねーか?
「まったく、めんどくさいわねぇ……なんで泥棒退治なんて」
「嫌なら来なければいいじゃないの」
「あなた一人に行かせたらサイトが危ないじゃないの。ケチな盗賊とはいえ、魔法を使うようだしね」
 ねぇサイト? と言いながらキュルケがしなだれかかってきた。
 んなことされてもあの事は絶対忘れてやんねーぞ……あ、やべ、頬が、頬がとける。
 耐えろ俺。
 で、いきなりだと分かんねーだろうから、順を追ってこれまでのことを整理してみよう。
 まず、フーケっつーのが誰かというと、最近巷を騒がせている盗賊のことだ。
 通り名は『土くれ』(つちくれ)。どうやら土の魔法を得意とするところからそう呼ばれているらしい。
 ん? なんで俺たちがそんなやつの隠れ家に向かってるんだって?
 それはな色々理由があるんだが――まあ、もう少し待ってくれよ。
 事件が起こったのは昨日の晩だ。
 ルイズとキュルケ――乳がでかくて背が高い、赤髪ロン毛で褐色肌の女だ。たしかげるまにあ人? ってルイズが言ってた――がくだらないことで喧嘩して、なんと決闘にまで発展した。
 え? なんのためにだって? 決まってんだろ、俺を取り合ってだよ。
 おねがい、俺のために争わないでっ!
 ……わりぃ、調子に乗った。
 許してくれ。
 ともかく、それで何故か俺を逆さ吊りにしてシューティングゲームが始まる→ルイズのターン→俺爆死危機一髪→キュルケのターン→やつのファイアーボールで俺の足紐焼けてフリーフォール→タバサがなんか魔法かけてくれて助かる(レビテーション)→タバサGJ……って話が終わっちまった。これじゃ駄目じゃねーか。
 ちゃんと言い直すと、きっかけは俺がどっちの剣を使うかっていう些細なことだった。
 なんか一昨日俺たちが剣を買いにいった時、キュルケたちは俺たちの後をつけてきてたらしい。
 で、ルイズが金なくて買えなかったあの剣を買ってきて、俺にプレゼントしてくれたんだ。
 俺は目を輝かせて喜んだ。あぁ、喜んださ。
 だって考えてみろよ?
 欲しかったけど泣く泣く諦めたものをプレゼントしてくれたんだぜ?
 そりゃ誰だって嬉しいだろ。
 少なくても俺はすげー嬉しかった。
 リアルに小踊りしたくなるくらい。
 でも、なんか知らねーけどルイズがそれに逆上しちまってさ。
 なんでも、「ツェルプストー家の者には、藁一本だろうと施しは受けられない」だとよ。
 ヴァリエール家に古くから伝わるしきたりなんだそうだ。
 俺には理解できなかったけど。
 もらえるもんはなんでももらっちまえばいいのに。
 その結果、俺は魔法学院本塔の壁に逆さまに吊るされて、ゲームの的役にされちまったってわけ。
 魔法で糸を切ったほうが勝ちだとさ。
 マジひでぇ。
 俺はクロヒゲ危機一髪の中央に刺さってるおっさんの人形かよ。
 なんかだるくなってきたな。
 よし、端折ろう。
 すぐ後にどでかい(マジでガンダムくらいでかかった!)ゴーレムが出てきて本塔の壁を粉砕。
 さらに黒いフードの女がどっからか現れ、その穴から本塔に進入。
 その女は本塔からなにかを持ち出して逃走。
 翌日、宝物庫からお宝が盗み出されたことが発覚。
 俺たちは目撃者として呼び出される。
 討伐隊として進軍中←今ここ
 ぜぇ、ぜぇ……あ゛ー、一息で言い切ったから疲れた。
 とにかく、俺たちは不届き者のフーケを捕まえるため、やつの隠れ家とやらを調べに行くわけだ。
 え、なんで学生なのにそんなあぶねー事させられてるんだって?
 それはな――
「おいルイズ」
「なによ?」
「なんでこんなあぶねーことに志願したんだ?」
 俺の御主人様が、あろうことか自分から志願しちまったんだよ。
 まったく、俺にはこいつの考えてることがまったくわからねぇ。
 魔法も使えねぇのに賊の討伐?
 無理だっつの。
「………………」
 ルイズはうつむいて答えないので、俺はますます分からなくなった。
 ま、こうなった以上はどうこう言ってもしかたねーんだけどさ。
 やっぱ気になるよな。
「ねぇダーリン? そんなことより」
 キュルケが甘ったるい声でまとわりついてきて、俺に剣を押しつけた。
「これ使ってね?」
 赤や青の宝石が柄に嵌められた、仰々しい金ぴかの剣だ。
 そういやそんな賭けしたような。
 んで、ルイズが負けた。
 てことは、俺はこの剣をつかわなくちゃならねーんだけど……
「わりぃ、キュルケ。遠慮しとくよ」
「じゃあはい、大事に使って――え?」
 キュルケは信じられないって字が張り付いたように顔面をひきつらせた。
 すげ、美人だと思ってたのに、こんなやつでもこんな顔するんだな。
 ちょっとこえー。
「な、なんで!? なんであたしの贈り物を受け取らないわけ?!」
 キュルケは今まで自分がしてやったことが全て、素直に受け取られて当然だったんだろうな。
 そりゃ、こんだけ美人なら当然か。
 男の方がほっとかねーわな。
 でも、わりーけどダメなんだ。
「わりぃなキュルケ。俺、しばらくはこいつを使うって決めてるんだ」
「いい心がけだぜ、相棒」
 柄に手をやって少しだけ鯉口を切ると、脳に響くような音が聞こえてくる。
 どういう原理でこいつの声は俺たちに届いてんだろーな?
「な゛……っ! なに!? ヴァリエールへの義理立てのつもり!? そんな物のほうが、あたしの贈り物(プレゼント)よりいいっていうの!? それに賭けに勝ったのはあたしよ!!」
 キュルケは般若みてーに怒ってる。
 赤い髪も相まって、燃えさかる火炎を背負ってるみてーだ。
 こえーなおい。
「それでもだよ。なんだかんだでこいつには世話になってるし、温情を無下にすることはできねぇ。それに、俺はまだまだ未熟だからさ。動きを見てくれるやつが必要なんだ」
 昨日、空きっ腹を押さえながら考えた。
 どうすればもっと強くなれるんだろうって。
 あいつと戦り合った日、俺はあいつにこっぴどく負けた。
 俺は『本気だった』にも関わらず、だ。
 正直、俺は最初の一撃で終わるとタカをくくってた。
 だって、俺はメイジにも勝った剣士だぜ?
 青銅のゴーレムを紙切れのようにたたっ斬り、数メートルの距離を一瞬で詰める力がある。
 この呪印(ルーン)があれば、誰にも負けないって信じてたんだ。
 それがどうだ?
 三分も経たないうちに三回もやられちまった。
 これは由々しき問題だぜ。
 あいつは、「その剣(デルフ)の言うことをよく聞いておけ」と言った。
 たぶん、そうした方が早く強くなれるってことだろう。
 なら、いつでも声が聞けるところにこいつを持っておいた方がいい。
「だからそいつは受け取れねーんだ」
 キュルケには悪いけどな、と俺はニカッと笑う。
 正直、悪いとは思う。
 でも、先のことを考えれば、今デルフを手放すわけにはいかねーんだ。
 もっと強くなるために。
 俺自身を、そして――を護れる男になるために。
「ふざけないで! あたしのプレゼントを断るなんてどういうつもりなの!? なんて礼儀知らずな平民なのかしら!! いいからあんたは黙ってこれつかっとけば――!」
 なおも激昂して俺に掴みかかろうとするキュルケ。
 うへー、美人が怒るとこえーよー。でも、意に沿わないからって無駄に平民扱いを振りかざしてくるやつとはお近づきになりたくねえなあ。
「………………」 
 だが、キュルケが後ろに引っ張られてよろける。
 見ると、荷台の後ろの方で本を読んでたはずのタバサが、キュルケの背中をつまんでた。
「なによ、タバサ」
「……無理強いはよくない」
 今までまったく会話に入ってこなかったのに、何故か俺を助けてくれるタバサ。
 なんか、昨日も真っ逆さまに落とされたのを浮かせる魔法で助けてもらったし、借り作ってばっかだな。
 情けねぇや。
「ふん、いい気味よ! よくやったわサイト!」
「ヴァリエール!」
「わたしの使い魔に振られるツェルプストー……あぁ、気分が良いわ!」
「く……っ、あんたねぇ!」
 ルイズとキュルケが、なんか今にもキャットファイトが始まりそうな勢いでにらみ合い始めた。
 やべぇ、巻き込まれたらただじゃ済まなそう。
 俺はくわばらくわばら、と両手を合わせながら、荷台の後ろに陣取ったタバサの隣へ避難した。
「ありがとなタバサ」
「………………」
 俺の感謝を聞いてんのかいないのか、タバサはぬぼーっとした目で本を読み耽っている。
 あれ、これって無視?
 俺、嫌われてんだろーか?
 そんなことを考えながらも、馬車はどんどんと進んでいく。
 言い争いを続けるルイズたちに我関せずのタバサ、そしてそれを全く気にせず手綱を握り続けるロングビルさん。
 ほんと、チームワークのチの字も見あたらねーな。
 俺は頭を掻きながら、ほんとにこのメンバーで大丈夫なんだろうか、と一抹の不安を抱くのだった。

     ○

 ところかわって、深い森の中を歩く人影が一つ。
 白いワイシャツに黒いロングパン(ry、ハタヤマである。
「ちぇっ、三ヶ所廻って全部不発とはどういうことだよ」
 ハタヤマは口をとがらせぶーたれている。
 それもそのはず、巡った宝の地図全てが残念な結果に終わったからである。
 一枚目は深い湖の底。
 学院で見かけた半魚人(マーマン)にメタモルし水底を探索してみた結果、見つかったのは錆び付いた剣や槍の山だった。
 どうやら刀狩りかなにかが起こった折、そこが廃棄場として使われていたらしい。
 それらが当時の姿を保っていればまだ二束三文にはなったかも知れないが、触っただけで崩れてしまうほどに痛んでいてはどうにもならない。
 なので、ハタヤマは泣く泣く諦めた。
 二枚目は山の麓の洞窟。
 そこは亜人(オーク)の住処となっており、一筋縄ではいかなかった。
 幸い、相手があまり賢くなかったので、遠くに離れ巨猿(キングコング)にメタモル。
 ドラミングでおびき出して、もぬけの殻になったところを人間状態で強襲した。
 しかし、そこは既に他の冒険者により荒らし尽くされており、手に入ったのは僅かな小粒の宝石のみ。
 どうやら先を越されたらしい。
 三枚目は森深くの遺跡。
 手の込んだ罠で武装されていたので、期待を持って挑んだが――
「『子安貝の心臓』が、こんなもんとはねぇ」
 ハタヤマが手の中の黒い物体を、片手でお手玉のようにもてあそぶ。
 遺跡の最深部に安置されていた物。
 それは、おおよそ『この世界』には似つかわしくない物であった。
 ハタヤマは『それ』を太陽に透かすように、指先でつまんで掲げる。
 大きさは手の平より小さく、長方形で色は鋼色。
 その材質は、なんだったかハタヤマは忘れてしまったが、おそらく絶対にこの世界ではまだ開発されていない物だ。
 そう、『それ』の名前は――
「なーんでこんなもんが大事に保管されてたんだろうね」
 ハタヤマはため息を吐き、おもむろに『それ』を仕舞って歩き出す。
 価値の分からんやつらにとっちゃ浮かばれないだろうねぇ、と冥福の言葉を紡ぎながら。
 そもそも、これだけではなにもできないし。
 太陽は頂点からやや下りはじめ、そろそろ午後のティータイムになろうかという時間である。
 夜明け前から活動を始めたが、三つ目の遺跡に若干手間取りこんな時間になってしまった。
 もう、しばらくは探検物の映画は見たくない。
 もちろん自分が演じるのもまっぴらだが。
 さて、彼はもう三ヶ所を廻り終えているわけだが、時間はまだ半日しか経っていない。
 馬でも使っているのかと思えば、彼は身一つで何も持たない軽装で、もちろんのことなにも連れていなかった。
 ならば、どうやってこれほどの強行軍をこなしているのか。
 それは、やはり彼の持つメタモル魔法によるものであった。
 ハタヤマはこれまでの移動を、オルトロスに変身して行っている。
 双頭犬(オルトロス)の驚異的な体力と速度を駆使して、この無謀とも言える日程を消化しているのだ。
 人間状態で突っ走ってもいいが、それだとやはり魔力のロスが多く、最終的にはガス欠で息切れしてしまう。
 その点、端から特化した能力を持つ生物へメタモルすれば、身体強化へ廻す魔力を節約できるのだ。
 メタモル魔法で消費される魔力は、発動させる際の微量だけ。
 その分、発動させるたびにコストを払う必要性があるという欠点もあるが、それは身体強化を長時間持続させるよりも遥かに安い出費であった。
 これが『アンゴルノア』(彼の世界)であれば、魔力は消費するたびに空気中から補充できるので、ある種永続魔法のようにして使用することも可能なのだが、この世界には残念なことに大気中の魔力が皆無と言っていいほど少ない。
 なので、消費した分の魔力を補充できず、結果として早く魔力が枯渇してしまうのだ。
「それにしても、久しぶりにこんだけ魔力使ったなー」
 若干目眩がするような気もするが、ハタヤマは気のせいだとねじ伏せた。
 本来あるべき魔力(もの)がごっそり抜け落ちてくらくらする。
 ハタヤマがそんな風になるのは、篠原にしこたましごかれてズタボロになり布団に倒れ込んだ夜明け以来、かなり久しぶりのことだった。
 それは彼にとってとても懐かしい感覚を呼び起こすと同時に、強い不安も感じさせていた。
 彼は魔力を循環させる世界で生きていた生物。
 魔力を取り込もうと思えば、いつでもどこでもお手軽にできた。
 しかし、この世界ではそれができない。
 減ったら減ったままで寝て起きるまでそのまま。
 それは、彼にとって凄まじいストレスとなる。
 彼の世界の魔法生物は魔力がなければ生きられない。
 魔力を失えばどうなるかというと、全身がしわくちゃに干涸らび、全体毛が真っ白になって絶命する。
 彼にとって魔力の枯渇は、死に直結する重大事なのだ。
「まあ、あと二枚だけだし。もう一頑張りしますか」
 ハタヤマは頭を振って思考をリセットし、気を取り直して前を向いた。
 今回の宝探しは、自身のこの世界での限界を試す試金石も兼ねている。
 自己の身を案じて手を抜いては意味がないのだ。
 しかし、進み出した彼の足は、すぐさま止まることとなった。
「ん?」
 急に森が騒がしくなった。
 木々の間から一斉に鳥が飛び立ち、ギャアギャアとけたたましい泣き声が響く。
 ハタヤマは不審に思い、視線を斜め四十五度上に向け――絶句した。
「――な、なんじゃありゃーーー!!!?」
 遠くのほうでいきなりモリモリと地面が盛り上がったかと思えば、それがあっというまに人型の泥人形となった。
 それを呆然と見つめるハタヤマの気分は、ゴジラを発見した少年のようであった。
 ゴーレム?
 何故こんなところに?
 降って湧くようなもんじゃない。
 近くに魔法使いがいる。
 だが、なんのためにゴーレムなんかを……
 ハタヤマの脳内で様々な可能性が、洗濯機に掛けられた洗濯物のようにかき混ぜられ、飛び交っていた。
 手近にある背の高い木に登り、ゴーレムの様子を窺うハタヤマ。
 大きさは十八~二十メートルほどで、材質はみたまんまの土と砂利、石などの混成。
 肩や頭には術者の姿はなく、術者はそう遠く離れていない位置でゴーレムを使役しているようだった。
「どうすっかなぁ……」
 ハタヤマは困ったように頭を掻いた。
 ゴーレムがいるということは、そこには襲われている人間もおそらくはいるわけで。
 見つけてしまった手前、このまま去っては見殺しにしたようで寝覚めが悪い気がする。
 しかし。
「ま、いっか」
 ハタヤマは三秒でその胸くそ悪さを追い出し、あっさりと逃亡を選択した。
 所詮は見ず知らずの赤の他人、死のうが生きようがどうでもいいことである。
 ハタヤマはそう自身の中で自己完結し、きびすを返して枝から飛び降りようとした。
「っ!」
 ハタヤマは背を向ける直前、空を舞うなにかを視界の隅に捉える。
 振り返り改めてその正体を確認すると、それは青色の鱗に覆われた竜――
「――シルフィちゃん?」
 そこには以前不本意な別れをしてしまった、風韻竜の少女がいた。
 見間違いかと目を擦ると、その背に乗るタバサの姿も目に入ってしまう。
 どうやら、間違いなくあの竜はシルフィードのようだ。
「………………」
 事情が変わった。
 ハタヤマは数舜息を止め熟考する。
 襲われているのは見ず知らずの相手ではない。
 どういう任務かは知らないが、どうやら苦戦しているようだ。
 彼女らがそうそう後れを取るとは思えないが、万が一ということもあり得る。
 この場合、取るべき選択肢は――
「ま、やるしかないよね」
 もとより撤退の二文字など消滅した。
 全世界の美少女の味方ハタヤマ、その『全世界の美少女』という単語には、森羅万象全てが例外なく含まれる。
 それには、異世界という垣根など存在しない。
 自身の知る全ての見目麗しい女性のためならば、彼はいつ何時何処からでも立ち上がるのだ。
 ハタヤマはおもむろにポケットを探り、黄金色の飴玉を取りだした。
「三つしかないから、無駄遣いはしたくないんだけどな……」
 今こそが非常事態、今使わずして何時使う。
 ハタヤマはそう自身に言い聞かせ、躊躇いなく飴玉を呑み込んだ。
 呑み込むと同時に、全身に魔力が漲る感覚が満ちてゆく。
 彼の世界の魔力増幅(ドーピング)アイテム、月光糖(げっこうとう)である。
 視線に戦意を、全身に魔力を迸らせ、ハタヤマは眼前のゴーレムを見据えた。
「生きてるかどうか微妙だけど――まあ、なんとかなるでしょ」
 イメージは目の前にある。
 脳に描く必要すらない。
「――チェンジッ!!」
 裂帛の気合いをこめて、ハタヤマは魔力を解放する。
 その闘気に呼応するかのようにまたも鳥たちが一斉に羽ばたき、森は騒がしさを深めていった。



[21043] 四章後編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 18:19
【 四章後編 『土塊大戦争/それぞれの行動指針』 】



「敵に後ろを見せない者を、貴族と呼ぶのよ!」
 ルイズの魔法の発動。しかし、それは土壇場で都合よく成功するはずも無く、ゴーレムの肩をわずかに削り取る爆発だけで終わる。ゴーレムはその刺激でルイズを標的と定めたのか、その巨腕を大きく振りかざした。
「――危ねぇッ!!」
 ゴーレムへ杖をかざしながらも恐怖で身動きが取れないのか、ルイズはその場で身を震わせて立ちすくんでしまっている。俺はペシャンコヘの恐怖をかなぐり捨て、ルイズに覆いかぶさるように身を投げた。
 俺たちが地面にもつれ合って倒れこむと同時に、背後でズズン……という重々しい地響きが響いた。
「なに考えてやがる! 死にてぇのかっ!!」
 俺たちはフーケの隠れ家に辿り着き、無事に破壊の杖を取り戻した。しかし、それはフーケの罠で、隠れ家から出るなり目の前のゴーレムに襲われちまった。ゴーレムの一撃を命からがら逃れたのはいいがキュルケたちとはその時に分断されてしまい、破壊の杖があった掘っ立て小屋は無惨にも木片の山へと変わっちまった。
 ルイズは俺の切羽詰った勢いに気圧されたのか一瞬息を呑み、そしてうりゅうりゅと瞳を歪ませた。
「だって……だって、わたし……」
「だってもくそもあるか! 死んだらだってすら言えなくなるんだぞ!」
 俺は背後に迫るゴーレムの存在も忘れ、ルイズの両肩を引っつかんで怒鳴る。
 こいつが色々コンプレックスを持ってるのは知ってる。そして今回のこれは、それを返上するいいチャンスだってことも分かってる。でも、だからって命まで賭けなくても――
 ルイズの瞳から、大粒のしずくが毀れた。
「もっう(ひっく)や、なんだ もん(うっ)がんばって も、がんばって もできなくて(ぐすっ)わたし(うっく)がんばってるのに(ぐすっ)それなのに(うぅ)ばかに されて」
 それでもできなくて、わたしがんばってるのに、とルイズは泣きじゃくりながら同じようなことを吐露し続ける。それはさながら彼女の心の最後の防波堤が決壊し、溜まりに溜まった濁りが噴出しているかのようだった。
 その姿をまざまざと直視して――俺は、自分をぶん殴りたくなった。   (呪印[ルーン]が妖しく鼓動する)
 こいつの心に巣くう闇は、思った以上に根が深い。
 なにが知ってるだ、なにが分かってるだ。
 結局俺は、ルイズのことをなにも分かっちゃいなかった。
 俺はこいつが、自分ができないことをどれだけ思いつめているのか、全然分かろうともしてなかったんだ。
 それなのに、死ねば終わり?
 こいつは、死を賭してでもいいと考えるほど、今の自分に、そして自分を取り囲む全てに絶望していたというのに。
 俺は、なんてことをほざいちまったんだ――   
 ゴーレムが腕を振り下ろす風切り音が聞こえる。
 俺は自分でも意識しないうちに背のデルフを握り締め、ルイズを抱えて身を流していた。
 地面を砕くゴーレムの狂腕。しかし、やつが腕をどけてできた穴の中には、俺たちの姿は無い。
 ゴーレムは俺たちを見失い、不思議そうに辺りを見回していた。
「……わりぃ」
 俺はルイズの頬を伝う涙を右手の指でなぞるように拭い、自然に謝っていた。
 知ったような口聞いて御免な。俺、お前がそこまで悩んでるなんて思ってなかったんだ。普段は平気な風で高飛車に振舞ってるから、気にして無いんだと誤解してたんだ。でも、違うんだな。いつものお前は気丈に振舞ってただけ。『ゼロのルイズ』という仮面を被ってただけだったんだ。お前はその仮面の裏で、ずっと涙を堪えていたんだな。
 お前はいつも馬鹿にされてた。やつらは何気なくからかってるだけのつもりなんだろう。でも、お前はやつらの無責任なからかいに、こんなにも苦しんでいたんだな。   (鼓動が緩やかに止まった)
 ――よし、決めたよ。
「……乗って」
 頭上から風を感じる。顔を上げると、タバサの風竜が俺たちのそばに着陸してきていた。タバサたちは上手くシルフィードと合流して難を逃れていたんだろう。
 俺はルイズの肩を抱いて、タバサの隣に座っているキュルケに視線を送った。キュルケは俺の意を汲んでくれたのか、何も言わずルイズを任されてくれた。
 タバサは俺を無言で見下ろしている。お前も早く乗れ、と言いたいんだろう。
 ――でも、俺はもう決めたんだ。
「わりぃ、俺に構わず行ってくれ!」
「……?」
 俺はタバサの瞳を見つめ返し、誓いの言葉を紡ぎだす。
 もう決してひよらぬように、内に留めて迷わぬように。
「主人の恥は使い魔の恥だ。あいつの汚名は俺が雪ぐ」
 待ってろよルイズ。俺がすげー武勲を立てて、お前の涙を止めてやる。お前の『ゼロ』が霞むくらい、物凄い賞賛をお前に集めてやる。これは、絶対だ。
「無茶は駄目よダーリン! 相手はトライアングルクラスのメイジのゴーレムなのよ!」
「俺は」
「え?」
「俺は、あいつの使い魔だ。俺はあいつの盾なんだよ」
 だから俺は、あいつを脅かすあらゆる敵を打倒してやらなきゃならない。それができなきゃ、剣を取った意味がないんだ。
 正直、剣を買ったときはただ単に浮かれてただけだった。身を守るとかいう建前はあったけど、実際のところどうしようなんてなにも考えていなかった。だから、俺はあいつに訪ねられたとき、明確な答えを返せなかった。『握った剣を何に使うのか』、って。
 でも、今なら答えられる。俺は、こいつを。ルイズを守るために使う。剣は『斬るため』だけの道具じゃない。『守るため』の剣ってやつを、俺の手で証明してみせてやる。
 ――俺の剣であいつの涙を、あいつの悲しみを叩き斬る!
「……分かった」
「ちょっと、タバサ!?」
 タバサはいつものぬぼーっとした表情で俺を見つめていたが、ややあって納得してくれた。
 本当、タバサには世話になりっぱなしだ。学院に帰ったらお礼をしねーとな。
「俺の御主人様にゃ、泣き顔は似合わねぇ」
 タバサの風竜は空へ舞い戻り、俺は背中のデルフを鞘から抜き放つ。すると左手のルーンが光を放ち、続いて全身が力に漲ってくるのを感じる。脳内にはこいつ(デルフ)の使い方、体の動かし方、その他様々な情報が湧き水の如く溢れてくる。
 俺は巨大なゴーレムが相手だというのに、何故か負ける気がしなかった。
「わりぃがあいつのためだ――まずは、てめぇをぶった斬るッ!!」
 俺は左手に握った剣を突きつけ、開戦の狼煙を上げた。

     ○

「デルフ!」
「あいよ!」
「どうしよう?」
「……っておいっ!? 考えなしかよ相棒!?」
 俺は剣を正眼に構え、デルフに早速教えを請う。……そこ、格好悪いって言うな!
「人生はやり直しきかねえんだろ? 俺ってまだまだ素人だし、ミスって死にたくねーんだよ」
 先日あそこまでこてんぱんにやられた手前、学習せずに突貫することはしたくない。それで瞬殺されたら、それこそお笑いぐさってもんだ。
 片手を立てて拝み倒す俺に、デルフはあきれたような思念波を飛ばしてくる。くそ……悔しいが、ここは我慢だ。
「しゃあねぇな……今代の『使い手』は餓鬼な上にバカときた」
「ほっとけ!」
「そんじゃ、オレがおめぇに指示を出すから、おめぇはその通りに動いてみな。残念ながら今は非常事態だ。懇切丁寧に手ほどきしてる時間(ひま)はねぇ――飛べッ!」
「うおぅ!?」
 声の通りに身を投げた。すると寸前まで俺が居た位置に、頑強な岩拳が打ち下ろされる。その衝撃で地面は砕け、衝撃波が俺の身を撫でた。
 俺が胸をなで下ろしていると、間髪入れずデルフから檄が飛ぶ。
「動きを止めるな! とにかく走れ!」
「どっちへ!?」
「どっちでもいい、さっさとしろっ!!」
 言われた通りに駆け出そうとすると、左手のルーンが輝きを深めた。瞬間、俺の体はまるで音速を超えたように爆走する。――うぉい!? やべぇ、はえぇー!!!?
「なにこれ瞬間移動!? もしかして俺ってサイヤ人だった!?」
「『使い手』の力の一つだ! 馬鹿言ってねぇで集中しろ!」
 一秒も経たぬ間に、俺は五メートルほど離れた距離に一飛びで降り立っていた。振り返れば、俺が居た場所は既にゴーレムの拳により陥没させられていた。間一髪だ。
 デルフから落ち着いた思念波が響く。
「相棒、まずは力の使い方を学べ。話はそれからだ」
「使い方?」
「おめぇだって『使い手』ならわかんだろぃ。頭ン中に浮かんできてるはずだぜ」
 デルフはそれきり黙ってしまう。力の使い方――正直、なんのことを言ってるのか全然分かんねぇ。
 だが、一つだけ思い当たることもあった。
(さっきから頭に浮かんでくる映像――ひょっとして、これのことか?)
 剣を握った瞬間から、俺は断続的なフラッシュバックのような感覚に襲われていた。それは拳を振りかざされたときや、ゴーレムの立ち姿を見たとき――どう動けば効率よく避けられるのか、また反撃できるかの映像が自分を主体にして浮かび上がってくる。また、こいつ(デルフ)はなにができるのか、なにができないのか、そしてどうすれば最大限に力を引き出すことができるのかが、なんとなく、実像を持って感じられるのだ。まあ、実像なのになんとなくって、変な感じなんだけどさ。
 例えば――
「相棒、上!」
 今、ゴーレムが俺へ駆け寄りざまにチョッピングライトをかまそうとしている。やつの足の位置はあそこ、そして肩と拳の位置があそこだから……
 俺は感覚に従い、やや大きめに左へ飛んだ。
「からくる、ぞ?」
 デルフの驚いた思念波。ゴーレムの攻撃はけたたましい轟音を響かせたが、俺にかすることもなく失敗に終わった。やつの右腕が、俺の眼前十センチくらいの距離でよく観察できる。衝撃波に体をあおられたが、肉体への影響は無い。
「こういうことか? デルフ」
「――まいったね。この分じゃ、オレの仕事はあんまりねぇみてーだ」
 なんか感心された。よく分からん。
「だが、まだまだあめぇぜ相棒。今のは反撃できたはずだ」
「反撃? ……あぁ、そうだな」
 確かに、間髪入れず右上から斬り下ろしてりゃ、確定でやつの右腕を両断できただろう。しかし……
「まあ、幸い相手は木偶人形だ。斬っても血はでねぇし、痛がりもしねぇ。練習ってことで遠慮無くいけ」
「でもなぁ~」
 言い淀む俺。目の前では体勢を立て直したゴーレムが、改めて俺を見据えている。
 うーん、人の形をしているせいか、やっぱ斬るのは抵抗あるなぁ。
「峰打ちとかじゃダメ?」
「アホ! あいつに脳みそがあると思ってんのか! こればっかりは慣れるしかねぇが、やるからにはためらうな! でねえと――」
 ゴーレムがゆっくりと歩いてくる。あ、やべ、このままじゃ。
「――やられっちまうぞッ!!」
 大きく足を振り上げて、俺を踏みつぶそうとしてくるゴーレム。くそ、やりたかねぇけどやるしかねぇか!
 俺は逃れる意味で体を流しながら、左手のデルフを握りしめる。
 すると俺の決意に呼応するように、手の甲のルーンが輝きを増した。

     ○

 『土塊』のフーケは、サイトとゴーレムが対峙する地点からそう遠くない場所で情勢を見守っていた。
 彼女は予想外のサイトの奮闘に舌を巻く。伝説のルーンを刻まれた使い魔であろうとも所詮は平民、すぐに勝負が付くと思っていたからだ。
「まいったね……」
 ゴーレムは破壊力こそ一級品だが、その反面機動力に欠ける。それがサイトの能力との相性もあり、かなりの苦戦を強いられていた。
 サイトは直情的に攻撃してくることをせずに、まずは森へと姿をとけ込ませ、こちらの隙を窺ってきた。そして焦れたこちらが隙を晒せば、死角からの強襲をかけてくる。そのうざったい攻めを咎めようにも、サイトはゴーレムの股の下を中心にちょこまかと逃げ回り的を絞らせず、捕まえようとすればすぐにまた森へ飛び込まれてしまう。どうやら、巨体故のゼロ距離の不利を見抜かれてしまったようだ。
 そして極めつけは。
「なんなんだい、あのデタラメな斬れ味は」
 迂闊な踏みつぶし攻撃の隙を咎められ、ゴーレムはサイトの一閃を左足に喰らった。すると、その左足はまるでゼリーのようにすんなりと斬り取られてしまう。通常の剣士如きでは、あんな事象絶対にありえない。
「さすがは『ガンダールヴ』(神の左手)だね……」
 フーケは茂みに身を隠しながら、悔しげに爪をかんだ。
 『ガンダールヴ』とは、始祖ブリミルを護ったと謳われる使い魔四体、その中の一匹に刻まれていたと言われているルーンの名前である。『神の左手』とも呼ばれるその効果は、伝承によれば、刻まれた者に数多の武器を使いこなせる力を与えてくれるらしい。『ガンダールヴ』はその力で、始祖ブリミルの呪文詠唱の隙を守ったとされていた。
「『役目』を果たしてくれるだけでよかったんだけど、気が変わったよ」
 フーケは抜き気味にしていた気を引き締め直し、少し本気を出すことにした。もとより目的を果たすためには、あの坊やを手中に収めねばならない。
 それに。
「没落したとはいえ私も元貴族――『剣士』なんかに、舐められるわけにはいかないねぇ」
 フーケは新たな呪文を呟き、手中の杖を振りかざした。

     ○

「くそ、斬っても斬ってもキリがねぇ!」
 俺はゴーレムを憎々しげに睨みつけ、悪態をついた。
 あいつぜってー卑怯だ。どこが卑怯かっていうと、材質が土だからかどうかは知らねーけど、斬ったそばからその部位を瞬時に再生しやがる。こっちは必死で戦力削がせてるってのに、目の前でにょきっと腕やら足やら生やされちゃたまんねーよ。
「せやぁッ!!」
 振り下ろされた腕を避わし、すれ違い様に剣を斬り上げる。それだけでゴーレムの右腕は、バターのように切り落とされた。だが。
「またかよ!!」
 ゴーレムは地に面した部位から地面の土を吸い集め、その土でもこもこと腕を形成し直す。
「相棒、カリカリすんな。それじゃ相手の思うつぼだぞ」
「だってよ……このままじゃ負けはしねぇけど、勝てもしねぇぞ!」
「いや、大丈夫だ。長い目でみりゃこっちに分があるぞ」
「え?」
 デルフはこっちの方が優勢だと感じてるらしい。その心、是非とも聞いてみてぇな。
「簡単なことだぁな。ちょっと考えりゃ、相棒にだって分かると思うぜ」
「なんだよ、もったいぶらずに教えろよ?」
「しゃあねぇな……じゃあ問題。『魔法の燃料はなんだ』?」
「燃料……?」
 ゴーレムの急転直下パンチや踏みつぶしを避けながら、俺は首を捻って答えを探す。やつの攻撃はけっこう遅いから、避けるだけなら意外と苦にならない。
 魔法って、メラとかメテオとかタルカジャのあれだよな。それを使うには――
「あ」
 俺は急にすとんと腑に落ちた。俺の記憶が確かなら……
「そう、『精神力』だ。やつらが魔法を発動させるには、相応の精神力を支払わなきゃならねぇ。ましてや、あんなデケぇゴーレムを使役し続けるなら、必要な精神力は尋常じゃねぇはずだ」
「じゃあ、俺は粘ってるだけで」
「勝手に勝ちが転がり込んでくる、つーこったな」
 『魔力』って言おうとしたんだけど、どうやら間違ってたみたいだ。まあ、似たようなもんだしいいよな?
 デルフの言葉が確かなら、俺にもまだ勝機はある!
「おっしゃ! そんじゃああいつの全身を斬り落とまくって、フーケの魔力を削ってやるぜ!」
 名付けて『精神力をちくちく削ろう作戦』! うーん、我ながらこすいぜ。
 だがこれは卑怯なんかじゃない、勝利への立派な戦略だ。そうとも、勝てばいいのだよ、勝てば。
 そんな馬鹿なことを考えながら、股を抜けるついでに足をぶった斬って逃げる。これが効いてると分かった今、足がトカゲの尻尾みてーに生えてこようがどうも思わねーぜ。
「………………」
「どうしたデルフ?」
 俄然勢いづいた俺と正反対に、デルフは黙り込んでしまった。なんだ? ……なんか俺、ミスったか?
「いや、メイジってのは知恵だけは達者だからな。このまま終わるわけがねぇはずなんだが――相棒、前!!」
「へ? ――っつえええぇ!!!?」
 デルフに気を取られた意識を前方に向けると、そこには信じがたい危機が迫っていた。なんとゴーレムが森の樹木を一本引き抜き、槍投げの体勢で俺に狙いを定めていたのだ。
 瞬きの暇も許されず、振り抜かれるやつの右手。そこから放たれた大木は、風を切り俺を射抜かんと迫る。
「ぎゃああああぁぁぁ――!???」
 俺は恥も外聞もなく、悲鳴を上げてハリウッドダイブをかました。あんなもんに当たったら冗談抜きで死んでしまう。
 俺はハンターじゃないのでダイブに無敵は付かないが、運良く怪我もなく逃れることに成功した。
「なんだよあれ反則だろ! 完全に殺す気じゃねーかッ!!」
「やっこさんもいよいよなりふり構わなくなってきたな……相棒、こっからが本番だぜ」
「あれが前哨戦!? かなり辛かったんだけどここまで!!?」
 デルフは燃えてきたみたいに高ぶってるが、俺はマジ勘弁して欲しいんだけど。そりゃ俺も戦うの嫌いじゃないよ? 身体気持ちいいし。けど、まだ心の準備はまだできてないっていうか。できれば本気ださないで欲しい。
 大木が飛んでいった方を見やると、森の一角がスプーンでくり抜かれたように綺麗に消滅していた。文字通り、マジで吹っ飛んじまってんだよ、抉り飛ばされちまってんだよ。そしてあれを喰らったら、俺もあんな風に吹っ飛んじまうんだよ!
 その考えが脳に染み渡ったとき、俺の中の何かがキレた。
「もうやだ帰りたい――ッ! 死にたくね゛ーよ゛ー!!」
「ここまできて取り乱すな相棒! 恐怖に呑まれちまったら最後、本当に足が凍っちまう!!」
 俺が恐怖で半狂乱になってる隙に、ゴーレムの野郎は大木を三本引き抜いてきていた。そしてその内二本を脇に抱え、連射姿勢で大木をぶん投げてきた。
「ひょッ! おひょッッ!! ぎゃわーッッッ!!?」
「良いぞ相棒! その調子だ!」
 俺の自分でもよく分からないアクロバティックな回避をデルフは褒めてくれているが、俺はもうそれどころではない。眠っていた生への執着に火が灯り、鈍っていた『恐れ』が堰を切って吹き出しちまってたからだ。これまではアドレナリンやらなんやらで薄れていたが、やつの一発で一気に酔いが覚めた。
 そうだ、あいつはいくら斬っても死なねぇけど、俺は――
(一発でも擦っちまったら、それだけで死んじまうんだ……ッ!)
 死ぬ。死ぬ? 俺が、死ぬ? マジで?
 一度そう考えちまうと、あとはもう止まらなかった。
 恐い。
 恐い。
 恐い恐い恐い。
 恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない恐い死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない帰りたい死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない帰りたい死にたくない恐い死にたくない死にたくない――ッッッ!!!!
「……相棒? おいどうした相棒ッ! ……くそ、声が届いてねぇ!! ここにきて『蓋が開い』ちまったか!?」
 どうしようどうしよう、どうすれば生き残れる? どうすれば、俺は生きて帰れるんだ?
 ゴーレム。俺の敵はゴーレム。やつはどうしてる? 木を抜いてやがる。俺に背を向けて……俺に、背を向けて。
「相棒? ――ダメだ相棒、迂闊に前へ出るなッ!!」
 倒さないと。あいつを倒さないと、俺は生きて帰れない。戻れない。――あれ? なんで俺、戦ってるんだっけ? こんなもん握って、あんな危ねーやつと? というか、なんで? なんで俺、こんなとこにいるの? 家じゃねぇ、見ず知らずの世界に、たった一人で。
 脳裏に、ピンクっぽい髪の毛がよぎった気がした。
「なにか様子がおかしい、行くんじゃない相棒!!」
 そうだ。そうだった。ルイズだ。俺はたしか、ルイズのために。あいつの泣き顔が見ていられなくて、武勲を立てるって誓ったんだ。そうだ。だから、勝たないと。勝って、生きて帰らないと――!
 サイトは熱病に浮かされたように、最初はおぼつかぬ足取りで、そして徐々に加速度をつけてゴーレムの後ろ姿へ走り出す。
 彼は恐怖に縛られすぎ、確かに刻んだ己の誓いすら逃避という焚き火へくべてしまっていることに気付いていなかった。
「相棒、振るな――ッ!!!!」
「――え?」
 デルフの絶叫にも似た荒々しい思念波。俺が念で意識を取り戻した時には、もうゴーレムの『鉛色の』胴体へ横一文字を叩きつけたところであった。
 ――ガギィィィンッッッ!!
「く゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!!」
 鳴り響く金属音と断末魔の如き悲鳴。それは鉄に変化したゴーレムの腹とデルフが打ち合わされる音と、俺の口から発せられた苦悶だった。
 俺の強烈な横一文字は確かにゴーレムの脇腹を捉え、両断するはずだった。だが、何故か俺が打ち込むはずの部分だけが材質を鉄へ変化させられており、断ち切ることができなかったのだ。幸い、デルフはその衝撃を受けても折れることはなかった。しかし、俺の両腕はデルフが伝えた衝撃波に耐えきれず、代わりに砕けてしまったような激痛に襲われた。デルフが折れなかったのは幸いだった。しかし、それは同時に俺への災いにもなってしまったのだ。
「手、手が、手があああぁぁぁっ!!」
「相棒! ――畜生め、完全に狙われた!!」
 痛ぇ、手が痛ぇ。わけ分かんねぇくらい痛ぇ。
 俺は両手を掻き抱いて、苦痛にのたうち回ることしかできない。
「相棒、相棒! 大丈夫か? 剣は握れるか!?」
 剣、剣……そうだ、剣がねぇと力がでねぇ。俺は、取り落としたデルフを拾い上げるため、柄を握りしめようとしたが――
「っづぁ……! だ、ダメだ、手が痺れて……」
「なんだとッ!? ……万事休すか」
 不意に、辺りが暗くなった。へたり込んだまま見上げると、ゴーレムが右手を高々と振りかぶっているのが見える。対する俺はもう動けない。そしてやつは、決して狙いを外さないだろう。
「――すまねぇ相棒。おまえさんは、まだ戦場へ出るべきじゃなかった」
 なんだよデルフ。今更謝るんじゃねーよ。それに、たぶんお前のせいじゃねぇ。こうなったのはたぶん……俺が、俺自身の意志で剣を握っちまったからだ。だから、お前のせいじゃねぇんだ。
 なんか心が落ち着いてるな。これが。無我の境地ってやつ? 目前に明確な死が迫ってるってのに、俺はいったいどうしちまったんだろうか。ここらで目を閉じれば、走馬燈でも見られるかな。
 そう思って眼を閉じてみると、何故かルイズの泣き顔が浮かんだ。
 なんだよ、最後までお前か。ごめんなルイズ。俺、お前を笑顔にしてやれなかった。今日までお前の色んな顔を見た気がしたけど、結局笑顔だけは最後まで見られなかったな。こんなふがいない使い魔だけど、許してやってくれよ――
 俺は目を瞑り、自身の最後の刻を待つ。だが、いつまで経っても終わりがこない。ただ、強く早い調子の地響きと、岩と岩がぶつかり合う鈍い音だけは聞こえていた。
 俺は目を開く。そこには――

「な、なんだ……こりゃ……?」
 腕を振り下ろそうとするゴーレムと、その手首を万力のように握りしめるもう一体のゴーレムが対峙していた。

     ○

 正直、死んだと思った。俺は両手がおしゃかになったせいで、力のほぼ全てが使えなくなっちまった。それで、もう逃げることもできないから、諦めて目を閉じたんだ。
 だが、死神の鎌はいつまで経っても振り下ろされる気配がない。俺は心中、不安で胸が張り裂けそうだった。
 俺が痛みに苦しみもがいて、恐れおののいてる姿を楽しんでるんだろうか。それとも――無いとは思うが、俺を見逃してどっかに行っちまったんだろうか。どちらかというと、そっちであって欲しい。
 それか、ひょっとして。俺、もう死んじまったのかな。
 もしかしたら、俺はもう既に挽肉ミンチみてーにぺしゃんこにされちまってて、死ぬ間際の一瞬が延々と続いてるみたいに感じてんのかな。
 瞬間で殺されすぎて、痛みを感じる暇も無く逝っちまったとか。そっちも捨てがたい気がする。
 あんまりにも何も起こらないから、俺は恐る恐る閉じた眼を開いた。
「……生きてる?」
 見下ろす。手はついてる。足もあるな。心臓。手を当ててみたけど、動いてる。念のため脈もとってみた。うん、あるな。
 あれ? 幽霊って手足がねぇとか聞いたことあんだけど、これって、もしかして俺、まだ死んでねぇの?
 依然陽光は遮られたままなので、ゴーレムがいなくなったわけじゃなさそうだけど――
「――増えてるーーー!!!?」
 俺は恐る恐る目前の巨大な影を作り出している物体を見上げ、目玉が飛び出さんばかりに驚いた。
 何故かって? そりゃお前、増えてたからだよ。え、なにがだって?
 ――さっきまで俺が必死こいて倒そうとしてた、馬鹿デカいゴーレムがだよ!

 ゴーレムはゴーレムの振り上げた右腕を掴み、ミキミキと聞いているだけで不安定になりそうな音をたてながら捻り上げた。
 ゴーレムは捻り上げられた腕を振りほどこうと暴れるが――って、こんな描写じゃどっちがどっちだかわかりゃしねぇ! 今後はゴーレムA(元からいたやつ)、ゴーレムB(後からきたやつ)と呼称するぞ!
 え、なんで俺はどっちがどっちだか分かるって? 後からきたほうのゴーレムは、土の色が若干オレンジがかってて分かりやすいからだよ!
 ゴーレムAが自分の腕を無理やり引きちぎって、ゴーレムBもろとも吹き飛ばした。ゴーレムAはたたらを踏んだゴーレムBそのままに、姿勢を崩しながらも俺を踏み潰そうと足を伸ばしてきた。
 俺は目の前でどすんばたんやられてる情景に呆然としてて、心の準備が出来てなかった。なので、立ち上がろうにも腰が抜けたように力が入らない。
 って落ち着いてる場合か! 急に蹴りがきたので死んじゃいました、じゃ済まされねぇ――
「ひぃっ!?」
 俺は眼を覆おうとした。だが、次に行われたゴーレムBの対応に、目を隠そうとした腕を止める。
 ――ゴーレムBが、俺とゴーレムAの間に自分の足を割り込ませて、やつの足を受け止めてくれたからだ。
 ゴキゴキゴキゴキッ!
「あ……」
 ゴーレムBの右足のふとももは痛々しい音色を響かせて、みるみるうちに亀裂だらけになってしまう。片ひざをついた状態で、ゴーレムBは姿勢を制御できずにふらふらとわずかによろめく。それを好機と、ゴーレムAは間髪いれずに追いうちをかけようとしたが、ゴーレムBの渾身の裏拳を顔面に叩き込まれ、顔をヒビだらけにしながら吹き飛ばされた。
「――サイト!」
 背後から風と、聞きなれた俺を呼ぶ声を感じる。振り返ると、タバサの風竜が俺の後ろに降り立っていた。風竜の背からは、色々な水分で顔をぐしゃぐしゃにしたルイズが顔を出している。
 ……泣くなよ。俺なんかのためにさ。
「今のうち」
 タバサが俺にシルフィードの背へ乗るよう促した。だが、それに素直に応じるわけにはいかない。
「待てよ! まだ決着はついてねぇ!」
「確かについてない。けど、結果は見えてる」
「そんなもんやって見なきゃ……!」
「じゃあ、手をみせて」
 俺はタバサのその一言に、うっと言い淀んだ。正直言ってとてもみせたくないのだが、ここで拒めば無条件でドクターストップをかけられてしまう。俺は観念して両手を差し出した。
 俺の両腕は外傷こそないものの、ピクピクと小刻みに痙攣していた。なんとかこの震えを止めようと頑張ってみたのだが、どうやっても止まってはくれなかった。
「……強制連行」
「へ?」
 タバサは口中で何事か呟くと、俺の体から重力が消えた。そのまま杖で手繰り寄せられ、手を伸ばして待ちかまえていたルイズにキャッチされてしまう。
「ま、待て! 俺は――」
「相棒、引き際が肝心だぜ」
 目の前でふわふわと滞空しているデルフの、諭すような思念波が響いた。
「せっかく拾った命なんだ。無茶してまたお手玉しちまうこたぁねぇ」
「でも……」
 納得いかねぇ。さっきは確かに取り乱したけど、あのわけのわからねぇゴーレムの乱入で多少頭は冷えた。もう、同じ轍は踏まねぇ。
「その心意気は立派。けど、よく考えた方がいい。あなたはもう剣が握れない。フーケがもう隠し球を持ってない保証もない。それに、あのゴーレムがわたしたちの味方という保証もない」
「ぐっ」
 ひょっとするとあれは第三勢力で、次の瞬間にはあなたを攻撃してくるかもしれない、とタバサは様々な可能性を語った。確たる材料がなにもないから、無理はしないほうがいい、と。
 俺は返す言葉もなく黙らされてしまった。
「そう不服そうにしなさんな相棒、初陣にしちゃよくやったほうだぜ? それに――」
「?」
「これ以上、娘っこを泣かせるもんじゃねぇ」
 デルフに指摘されてふと気付く。ルイズは、先ほどからずっと俺の胸に顔を埋めて、くぐもった嗚咽を漏らしていた。
 そうだ。一番大切な、最も大事なだったはずのことを、俺はすっかり忘れ去っていた。
「『死んじまったら』、もう護れねぇんだからよ!」
 デルフは悪戯っぽい笑顔が想像できるくらい、おかしそうに鍔をカタカタと鳴らした。ちくしょう、皮肉のつもりかよ。
 ――だが、そうだな。
「……分かったよ」
 俺は胸に溜まった色んな想いを呑み込んで頷いた。悔しいが今の俺じゃ、この状況で勝ちきる自信はない。そして俺がいなくなったら、ルイズはまた独りぼっちになっちまう。そんなことにだけは、なっちゃいけねぇんだ。
 タバサの風竜はその言葉を待っていたかのようにきゅいと一つ鳴き、大空へと舞い上がった。
「バカ! 本当にバカ! わたしにはあんなこと言ったくせして、説得力ないわよ!」
「悪かったって」
 目元を真っ赤に腫らして『破壊の杖』でどついてくる。こいつもこいつなりに心配してくれたみたいだ……ってちょ! 危ない、危ないから『それ』で叩くな、強い衝撃を与えるな!
 背ビレにもたれてるキュルケは、そんな俺たちを犬も食わないという風にそっぽを向いている。
 竜の首元に陣取っているタバサは、油断無く……といっていいのか分からんが、ぬぼーっとした顔でゴーレム同士の戦いを静観していた。
「タバサ、これから俺たちはどうするんだ?」
 この局面俺たちがどう動くべきなのか、はっきり言って俺には見当も付かない。なんとなく、あのオレンジ色のゴーレムは敵じゃないっぽい気がすんだけどな……助けてくれたし。
「材料が足りない」
 タバサは変わらない表情で呟いた。うーん、主語がないからよくわかんねぇ。
 俺が頭に大量の疑問符を飛ばしていると、タバサは付け加えるように口を開く。
「フーケがどこにいるかも分からない、あのゴーレムに関する情報も皆無」
 そこまで聞いて、俺もなんとなく察することができた。なるほど、動くべき理由が見あたらないから、さしあたってちょっかいはかけない、と。その辺は俺も同意するぞ。
 ただ、タバサの続いての言葉には、俺は表情を曇らせた。
「ここは、『破壊の杖の奪還』だけで良しとすべき」
 最低限の目的は達せられたから、もうここは引くべきだ。タバサはそう言いたいらしい。
「ちょっと待てよ、やられっぱなしで逃げ帰るのかよ」
 音に聞こえた盗賊ってんなら、ここで逃がしたらまた被害が増えちまう。それに、やつはルイズの大事な大事な評価上げの材料なんだ。このチャンス、みすみす見送る手はねぇ。それに。
「あれもほっとけねぇよ」
 俺は眼下で片膝をついた、満身創痍のゴーレムを指さす。よくわからねーが窮地を救われたんだ、見捨ててはいけねぇよ。
 俺がそれを伝えると、タバサは難しい顔をした。……ってそうだ、あのゴーレムどうなった!?
 俺は戦いの行方を見守るべく、シルフィードから身を乗り出した。
「――っげ! やべぇ!」
 眼に映ったのは、ゴーレムAが残った左腕で高々と木槍を構えた姿だった。ゴーレムBは――まだ片膝をついたままだ! 足がヒビだらけで動けねぇらしい。ゴーレムAは、死の宣告のように左腕を思い切り振り抜き、大木の弾丸を撃ち出した。
 あぁ、終わった……と俺は呆然として見つめていたのだが、ゴーレムBはなんとそこからが凄かった。
「……!」
「なにぃっ!?」
 吸い込まれるように飛来する木弾。高速のそれは、当たれば必殺の威力を秘めているのは一目で分かる。しかし、ゴーレムBはそれに物怖じすることもなく、両の手の平を交差させて射線上へ割り込ませ、なんと真正面からそれを受け止めたのである。受け止めた手は材質が脆い土だということもあり、前側にあった左手は貫かれて砕けてしまったが、後ろ側にあった右手は見事に凶弾を受けきってみせた。そしてゴーレムBはお返しとばかりに間髪入れず、握りしめた木を投げ返す。
 ゴーレムAもそれを真似たのか受ける体勢を作ろうとしたが、間に合わずに残った左腕を吹っ飛ばされた。
「人形繰りはあっちの方が上ね。ひょっとして、スクウェアクラスあるんじゃないかしら?」
 タバサと並んで絶句していると、キュルケが感心したように解説した。
「そうなのかタバサ?」
「……あるかもしれない」
 二人とも驚愕してるみたいだけど、俺にはいまいちその凄さの違いが分からない。ゴーレムを素早く動かせるのってそんなに凄いのか?
 そんな考えが顔に出ていたのか、ルイズがさらに詳しい説明を付け加えてくれた。
「人形(ゴーレムやガーゴイル)を操る能力を判断するには、『早さ』と『精密さ』を見ればいいの。 その動きが寄り素早ければ素早いほど、そしてその動きが指先一本に至るまでメイジの意志を反映したものであるほど、使役者が格の高いメイジだと予想できるすることができるわ。ましてやあれ程の巨大なゴーレムに人間と遜色ないような動作をさせるなんて、スクウェアクラスのメイジでもそうはいないはずよ」
「ふーん……」
 俺はまじまじとルイズを見つめる。
「なによ?」
「いや、おまえってさ。そうやって知識が深いところだけみると、すげーメイジっぽいんだけどな」
「どーゆー意味よっ!!」
「あいでででででッ!!」
 ルイズにおもいっきり耳を引っ張られた。いで、いでででで耳がとれる、とれちゃうぅっ!
 キュルケは「いっそ、『魔法を使わないメイジ』って看板を掲げたら?」なんて腹を抱えて爆笑している。てめ、とばっちり受けるの俺なんだぞ。
 タバサはそんな背後のドタバタ劇など完全に無視し、戦場の動向を見守っていた。
「どうだタバサ?」
「あのゴーレムを主体として見たなら、あまりよくない」
 タバサの横に両膝を付いて座り、両手をついて地上を見下ろした。手の痺れはシルフィードの上昇途中にかけてもらった治癒魔法? のようなもので随分良くなっている。おそらくもう剣を握るくらいなら支障はないだろう。
 ゴーレムAは吹き飛ばされたりヒビ割れた部分を修復し、次の一合に備えての自己修復に専念している。ゴーレムBはその姿を見てしばし己の砕けた手や亀裂だらけの足を見つめ、同じようにして修復を開始した。右腕をにょっこりと生やし、足の亀裂を新たな土で埋め、治し終わると今度は両手をグッパと開閉したり、その場で二、三度足踏みしたりし始める。まるで、全身の駆動状況を確かめるかのように。
 しかし……? なんか、若干タイムラグがあったな。どうしたんだろうか。
 そしてお互いの回復が終わると、第二幕の火蓋が切って落とされた。
 まず先手を取ったのはゴーレムA。芸もなくまたも大木投げの体勢に入り、ゴーレムBへ投げつけた。
 しかしゴーレムBはそれを見事な半身で避わし、大きく腕を振ってゴーレムAへダッシュ。そして駆ける勢いもそのままに、ゴーレムAの胸ぐらにハンマーのようなパンチを叩き込んだ。
 重々しい轟音を立ててゴーレムBの拳はゴーレムAの胸を貫き、巨大な破片が宙を舞う。
「おっしゃ!」
 俺は思わず自分のことのようにガッツポーズを決めた。よしその調子だ、やっちまえ!
 しかし、俺の背中を支えにして同じように観戦していたルイズが怪訝に眉をひそめた。
「本当に人間みたいな動きね……いったい誰のゴーレムなのかしら?」
「ロングビルさんじゃねーの?」
「それだったら、わたしたちに一声かけるはずでしょ? そういえば、ロングビルさんの姿も見えないし……どうしたのかしら」
 しきりに首をかしげるルイズ。うーん、そういやロングビルさんはどこ行ったんだろ? もしかしてフーケに捕まったんじゃ……
 そうやって思考に耽ろうとしたが、現実の光景にまたも目を奪われる。
「なんだと!?」
 俺は目を疑った。ゴーレムAが、なんと胸に刺さったゴーレムBの腕をメキメキと取り込み始めたからだ。ゴーレムBはそれに気付いて必死に腕を引き抜こうとしたが、まるで噛みつかれたかのようにびくともしない。ゴーレムBはゴーレムAを足蹴にせんばかりの勢いで、強引に腕を引っ張って――メキィ、という鈍い音と共に、尻もちをついて倒れこんだ。
「うっ……」
「………………」
 なんとか全身を取り込まれることは防いだ。しかしその代償として、ゴーレムBの右腕は食いちぎられたかのようにもぎ取られてしまっていた。
 ひでぇ……人間だったら発狂モンだな。
 しかし、ゴーレムBは気にした風もなく食い取られた腕を再生させると、再度果敢にゴーレムAへ躍りかかっていった。
「すげぇな、このままいけばあいつ、フーケのゴーレムをたたんじまうかもな!」
「……だと、いいけど」
 無意識に喜色ばんだ俺の独り言に、タバサはどこか引っかかる呟きを返した。なんだ? なにか心配事でもあるのか?
 しかし、言ってくれなければそんなこと察せられるわけも無く、そして俺のあまりよろしくない脳みそではいくら考えても分かるはずもない。
 俺はシルフィードがしきりにきゅいきゅい鳴いているのを聞きながら、身を乗り出して観戦を続けるしかなかった。

     ○

 予定外の出来事(イレギュラー)が発生した。そのせいで、目論見が大幅にねじれ曲がってきている。
「ちぃ、なんなんだい『アレ』はッ!?」
 フーケは林の影で爪を噛みながら、憎々しげに悪態を吐いた。自分のゴーレムは確かにあの剣士に勝った。ガンダールヴの生命線であり命ともいえる『手』を潰し、戦闘不能にまで追い込んだ。あと少し、あと少し腕を振り下ろすだけで、自分は伝説の使い魔を倒し、溜飲を下げることができたのだ。しかし、それは突然の乱入者により無残にも台無しにされた。よりにもよって、おそらく自分と同じ土のメイジの手によって。
 フーケは目の前で大立ち回りを繰り広げる、相手方のゴーレムを操るメイジの正体へ考えをめぐらせた。
 ガキどもの誰かか? いや、あいつらの中に土系統のやつはいなかった。じゃあ、同業者? 却下。『破壊の杖』云々についてはまだどこにも情報が出ていないはずだ。今朝ですら学院の馬鹿どもは己の恥部を隠そうとあの様子だ、おそらく二、三日は口外禁止の情報となるだろう。それならば――まさか、『ガンダールヴ』が?
「まさか」
 頭を振ってそんな妄想を追い払う。ガンダールヴは『神の盾』。魔法を操ったなどという伝承は残っていない。
 ならば、誰が?
「……忌々しい」
 忌々しいったらありゃしない。よりにもよって自分と同じ『人形繰り』で割って入ってきて、あろうことか、この『土塊』のフーケ様より達者な人形遣いを見せるなんて。フーケはどう好意的に解釈しようとも、コケにされているとしか感じられなかった。
 彼女は今でこそ盗賊に身をやつしているが、元は貴族出身で高貴の出。その胸に眠っていた誇り高き自尊心が、目の前の不条理に火をつけられた。
 フーケはぎりりと杖を強く握りなおした。
「舐めた真似をしてくれたこと、後悔させてあげようじゃないか!」

     ○

「やれ、そこだ! っしゃぁ! ――あーッ、惜しい!!」
 終始押しっぱなしのゴーレムBに翻弄され、なす術も無いゴーレムA。俺はその光景を、我知らず眼を輝かせて応援していた。まるでヒーローショーを見に来た子どもみたいな俺に、ルイズはあきれ返っている。しかたねーだろ、巨大ロボ戦闘は男のロマンだ! ロボじゃねーけど。
 キュルケは俺の様子を微笑ましげにくすくす笑ってるだけで、タバサは俺なんか気にも留めていない。
「どこの誰だか知らないけど、このままフーケを捕まえてくれたら楽なんだけどね」
「キュルケ、あんた他力本願なこと言ってんじゃないわよ! それにフーケを先に捕まえられちゃったら、わたしたちが来た意味がないわ」
「いいじゃないの。誰が捕まえようと一緒でしょ」
「な、なんてやる気のない……あんた、世を乱す大悪党を憎む気持ちは無いの? 貴族の務めでしょ!」
「べっつにー? あたしがやらなくても誰かがやるし」
 キュルケは退屈そうに大あくびをかいた。やすりで爪の手入れしており、ふっと削りカスを吹き飛ばしたりしている。部屋でごろごろしてるほうがなんぼかまし、と今にも言い出しそうだ。
 こいつ本当にどうでもいーんだな……
 ゴーレムBが(おそらく)味方だという認識が広がり、全員に弛緩した空気が流れ始めていた。しかもゴーレムBはずっと優勢を保っており、このままいけばなにをせずともフーケのゴーレムを下してしまいそうである。なのでこちらに被害がきそううにないので、みんな楽観気味だった。
 しかし、タバサは一人だけ険しい表情で情勢を見つめていた。
「なあ、どうしたんだタバサ? さっきから怖い顔して」
「このままだと不味い」
「え?」
 タバサの瞳を覗き込んでみると、やはり眼下の激戦を映している。ということは、どうやら彼女は戦況が芳しくないと読み取っているようだ。だが、傍目にはゴーレムBが圧倒しているようにしかみえないので、俺は首をかしげた。
「どう不味いんだ? 俺には楽勝っぽくしかみえねーんだけど」
「よく見て」
 タバサはある一点を指さす。つられてシルフィードの背中にしがみつきながら見下ろすと、その先にはゴーレムBの右腕があった。
 しかし俺には意味が分からない。
「腕がどうかしたのか?」
「すぐに分かる」
 タバサは自分から説明する気はないのか、こちらに一瞥もくれず黙ってしまう。仕方が無いので、俺もそれに習って静観することにした。
 場面は丁度ゴーレム同士が駆け寄り、お互いに相手の顔面を粉砕しようと右ストレートを繰り出すところだった。ゴーレムBは相打ちを嫌ったのか、軌道をわずかに修正させて拳と拳をぶつけ合わせる展開に持っていく。
 轟音。そして岩と岩がぶつかり合ったけたたましい崩壊音とともに――ゴーレムBの拳『だけ』が、あっけなくも粉みじんに吹き飛んでしまった。
「なぬ!?」
「――あれは『錬金』ね。ギーシュのバカがよく使ってる」
「レベルは雲泥の差だけれどね」
 ルイズの解説にキュルケが茶化したような相づちを打つ。見れば、ゴーレムAの拳の部分だけが鉛色に染まり、鈍く陽光を反射していた。
「あ、あれ」
「相棒がやられたやつさ。土と鉄じゃあ分が悪いわな」
 カタカタと鞘を鳴らしながらデルフが補足した。つうかお前、鞘にしまってもしゃべれたのかよ。武器屋のおっさん嘘つきやがったな……って違う!
「へっ! そんなもん、こっちも同じことをやればいいだろ!」
 俺は期待を燃え滾らせてゴーレムBの『錬金』を待つ。あんだけ巧みにゴーレムを操れるメイジだ、鋼や黄金、もしかしたらダイヤモンドへの『錬金』も軽くこなしてくれるかもしれない。
 だが、俺のそんな希望は適わず、ゴーレムBは腕を土で修復しただけだった。
「おい、なんでだよ! ただ治しただけじゃ同じことになっちまうぞ!」
「おかしいわね……どうしたのかしら」
 いつの間にか俺の背中を土台にしているルイズも、いぶかしげに眉をひそめる。というかどけ、重……くないけどなんかいやだぞ。
「ひょっとして、『錬金』はできないとか?」
「バカ言わないで、ルイズじゃあるまいし! あんな高度なゴーレムを作れるやつが、『材質変化はからっきしです』なんてあるはずがないわ!」
 ルイズならありそうだけど、と二度も付け加えるキュルケ。ルイズはその挑発に見事煽られ、みるみる柳眉を逆立てていく。痛い、ルイズ痛い、背中に爪立てないで。
「これだけじゃない」
 タバサの一言に、みんなが自然と注目する。タバサが言いたかったことは、今の出来事ではないらしい。俺たちは事態の推移を、固唾を呑んで見守った。
 ゴーレムBの右腕をじっと見つめる。
「……なんか、脆くね?」
 俺は思わずそう呟いていた。
 ゴーレムBの右腕。そこは確かに周辺の泥によりなんとか生やし直されていたが、出来上がったそれはどう見ても小学生の工作レベルの完成度にまで落ちていた。水分が抜けきらずどろどろで、固まりきらぬ泥がぽたぽたとしたたり落ちている。それは岩石の巨腕というよりも、泥たぼうの貧弱な泥腕という感じだ。今またゴーレムAのパンチを右腕でガードするが、今度は受け止めることもできずにべちゃりと飛び散らされてしまった。
「『形成』の精度が、落ちてきてる」
「どういうことだ?」
 タバサは俺の顔をじっと見つめるが、なにも言わない。……え、なに? あんま見つめられると恥ずかしいんだけど。
 俺がぽっと頬を染めて顔を逸らそうとすると、ルイズにすぱんと頭をはたかれてしまった。
「ゴーレムを作るにはまず、『形成』で姿かたちを整えてから『硬化』でそれを定着させるの。でも、あのゴーレムは肉体を壊されるたびに、その部分が甘くなってきているのよ。おそらく……人形繰りに魔力を割きすぎて、『形成』に回す魔力が足りなくなってきているのね」
 ルイズ先生の講義によるとそういうことらしい。本当、こいつ頭だけは半端なくいい。魔法はできないけど。
「あれ? じゃあギーシュのヴァルキューレはどうなんだ? あいつ、花びらから青銅を『錬金』して作ってるじゃん。いったいどこで『形成』してるんだ?」
「あいつは変則型よ。青銅への『錬金』が得意すぎるから、色んな工程を飛ばして結果だけを具現させてるの。普通は土で人形を『形成』して、それを青銅に『錬金』するという段階を踏まなきゃとても無理よ」
「そういうもんなのか?」
「適正があれば不可能ではないわ。わたしだって、あいつがどうやってあれ(花びら一枚からの『錬金』)をこなしてるのかは分からないんだから」
 同系統を操るスクウェアクラスのメイジなら、その原理も分かるかもしれないけど、とルイズは悔しそうに唇を尖らせた。へぇ、ギーシュって地味に凄かったんだな。でも俺の一太刀でぶっ潰されちまったってのは物悲しい話だけど。確かに土よりはましだろうが、やっぱ青銅は柔らけーからダメだ。
 今までの話を総括すると――うん、ようするにゴーレムBのメイジは精神力切れギリギリだっていうことだな。
「……ってやべーじゃん!? メイジって精神力切れたら戦えないんだろ!?」
「でも、フーケのゴーレムは衰えてる様子が無いし……同じゴーレム勝負にしては、減り方がちょっとおかしい気がするわね」
「そんなことはどーでもいいだろキュルケ! このままだとあいつ、やられちまう!」
 ゴーレムAも相手の変化に気付いたのか、勢いを得たりと猛烈なラッシュをかける。動きが緩慢なだけにゴーレムBもなんとか避けて対応するが、ゾンビのように追いすがってくるゴーレムAを御しきれず手を焼いているようだ。
「お、おい、なんとかならねーのか?」
「無理よ。さっきあたしの炎やタバサの風でびくともしなかったのを忘れたの? あたし、あれ以上の呪文は使えないわよ」
「………………」
「くそっ!   そうだ、ルイズ! ……はダメだよな。ごめん、マジごめん」
「どういう意味よっ!!!!」
 ルイズは気が立った猫のように怒り狂い、俺の胸ぐらを掴みかかった。その横でキュルケがさらにルイズをからかい、混沌はさらに深まっていく。
 ちくしょう、こいつらには期待できそうもねぇ。キュルケは端からやる気がねぇし、タバサもなに考えてるかわからねぇ。ルイズなんて論外だ。偶然かもしれねぇが助けられたのに、俺は見ていることしかできねぇのか。
 俺は歯がゆさに歯軋りしながら、祈るようにオレンジ色のゴーレムを見つめていた。……ルイズ、ほっぺたを引っ張らないでくれ。いてぇから。

     ○

 オレンジ色のゴーレム――ゴーレムにメタモルしたハタヤマ――は一向に好転しない状況に、徐々に追いつめられ始めていた。
 まず、相手が小技を混ぜてくるようになったこと。攻撃してきたかと思えばその部位が瞬時に鉄へ変質し、受けても打ち合わせても甚大な被害を喰らってしまう。かといって攻められるのを嫌って反撃に転じれば、今度はこちらが打ち込もうとした部位を鉄化してくる。はっきり言ってこれだけでもお手上げだ。
 そして、さらに厳しいのが。
(もう、殆ど魔力が残ってない)
 そう、魔力が無いということ。思った以上に大きすぎる魔力消費が、真綿で首を絞めるかのようにハタヤマを苦しめているのだ。これは、ハタヤマがメタモルした『ゴーレム』というものの性質に起因する。
 メタモル魔法は『生き物にしか変身できない』という欠点があるのだが、ゴーレムは魔力で動くという建前でなんとか変身することができた。しかし、半ば強引に変身を強行したことで、大きな無理がでてしまったのだ。
 彼を苦しめる最大の欠点、それは存在を維持するだけで多大な魔力を消費させられるということ。この問題は人間でいう血液の部分を術者からの魔力供給で賄っていることからきていて、普通のゴーレムは魔力の外部供給――すなわち、外に発電機を持っているような状態であることに対し、ハタヤマは全て自分でそれを補わなければならない。なので結果として、普通以上の魔力を要求されてしまうのだ。もちろん『形成』も『硬化』も自前である。まあ、この辺りは見よう見まねの部分があるので、彼自身もよく分かっていないのだが。
 さらに相手が新技を絡めてきたことに対し、こちらはそれを真似することができない。ハタヤマが視て識ることができるのはあくまでも生物としてのゴーレムの情報だけであり、彼ら自身ができないことはできない。外部接続である魔法使いが行うような魔法は、彼自身にハルケギニアの魔法理論が備わっていないこともあり、コピーすることができないのだ。
(このままじゃジリ貧だ……メタモルが解ける前に干涸らびて死んじゃう)
 かといってシルフィードたち以外に誰が見ているか分からない手前、延命のためにこの場で変身を解くことも躊躇われる。同じ理由で別の生物にメタモルすることも却下。できれば、そういうことは身の安全を確保してからにしたい。
 だがこのまま事が進めば、己の敗北、必敗は必至。なんとかして活路を開かねばならない。
(考えろ、考えるんだ。ボクにあって、やつにはないもの。決して覆せぬ、揺るがない優位を)
 ハタヤマは今日に到るまで、極限に思考を深めることで苦境を乗り切ってきた。誰にも頼らず、期待せず、ただ純粋に己の持てる力だけを頼りに毎日を生き抜いてきた。
 しかし、ここにきて初めて、自分の力ではどうにもならない壁にぶち当たった。しかも、自分から関わり合って、だ。かつての彼なら篠原の支援や持ち前の往生際の悪さ、そしてメタモル魔法でそれらを打破することができたかもしれない。しかし、ここには篠原もいないし、メタモル魔法もおおっぴらには使えない。しかも今回のケースはすでに消費した魔力が多すぎて、メタモル魔法でのリカバリーは敗走くらいにしか望めないし、ここから勝利をもぎ取ろうと思えば、それは往生際の悪さがどうこうではどうにもならない段階まできてしまっている。
 自分の力はこの世界に来てしまったことで、大部分を封じられてしまった。だからこそ、彼には『奇跡』が必要だった。自分以外の者がもたらす自分とは違う力、そしてさらにこの状況を覆すほどの、強く輝くような切欠が。
 不意に、視界の隅を青い鱗が走る。そういえば、彼女たちもいた――
 ハタヤマに、天啓が降りた。
(――これしかないッ!!)
 こちらにあって向こうに無いもの。この状況を覆すような、強い可能性を秘めた要因候補。彼ならば――なんとかしてくれるかもしれない。
 この『ゴーレム』の弱点は分かっている。後は、それをどうあちらに伝えるか。それも、ハタヤマには心当たりがあった。かなり分の悪い賭けになるが、やってみる価値はある。
(ここまでちょっかい出したんだ、こっちも覚悟を決めてやるよ。頼むぞ少年――これでダメならボクらは……いや、ボクは終わりだ!!)
 ハタヤマはこの日久しぶりに、自分以外の他者に願った。

     ○

『――――――――――ッ!!!』
 眼下の戦闘に大きな変化が起きる。ゴーレムBが突然喉に穴を開けたかとおもうと、その穴から咆哮のような轟音をあげたのだ。その豪雷の如き遠吠えに大気がビリビリと震え、その衝撃波が遠く離れたこちらにも伝わってくるようだ。
「な、なんだ!?」
「っ、み、耳がキーンとするわ……」
「………………」
 ルイズが眼を白黒させ、俺の背中に寄りかかってきた。キュルケを怒鳴り散らすことに夢中で油断していたんだろう。いい気味だぜ……っと、失言だな。わりぃ。キュルケはルイズの怒声を受け流しつつも気を抜いてはいなかったようで、ちゃっかりと耳を押さえている。
 タバサだけはいささか眼差しを強め、さらに騒ぎ出したシルフィードの鳴き声に耳を傾けていた。いささかっつっても、注意してみねーと分からんくらい微妙にだが。
「どうしたんだタバサ?」
「伝言があるらしい」
 は? 伝言? 誰が? 俺に?
「『後は頼む。きっちり決めろよ少年』……らしい」
「――へ?」
 俺はその口調に、強い既視感を覚えた。タバサは原文のままに俺へ伝えてくれたのだろうか。
 この喋り方は、まるで――
「来る」
 タバサが俺に注意を喚起した。いつの間にかシルフィードは翼を羽ばたかせ、フーケのゴーレムの真上まで位置を移動させている。
 耳を突く地鳴りに顔を下げると、オレンジ色のゴーレムが突貫の構えを見せていた。
 一歩毎に地響きを鳴らし、しかしその速度は歩幅もあってトラックの如き突進。フーケのゴーレムは苦し紛れに左拳を鞭のように叩きつけたが、オレンジ色のゴーレムはそれでも怯まずフーケのゴーレムに組み付いた。
「やった!」
「でも、これは……」
 この攻撃の成功に俺は歓声を上げたが、ルイズは表情を曇らせる。俺はその意味を問おうとルイズに顔を向けようとしたが、聞かずとも真実はこちらにやってきた。オレンジ色のゴーレムの抱きついた腕に、みしみしと亀裂が刻まれ始めたからだ。まずは腕を巻き込んで組み付いた左腕に、そして次は腕を砕こうとしきりに殴りつけられている右腕に、みるみるうちに裂傷が刻まれていく。
「やっぱり。もう肉体を留める力も残っていないんだわ」
「………………」
 ルイズの悲観的な言葉が耳に木霊する。じゃあ、なにか。あいつは捨て身で特攻したと。もう、砕け散るのを待つしかないと。俺は左拳をわなわなと震えるほど握りしめた。
 助けてぇ。まだ借りも返してないのに、あいつが砕け散るところなんてみたくねぇ。だが、俺になにができる? 飛び降りて剣を振りかざしたとしても、フーケはまた『錬金』を使ってくるだろう。俺はたったそれだけで、この力の全てを封殺されてしまう。どれだけすげぇ力があっても、やっぱり鉄は斬れなかったんだ。
 俺は――なにもできねぇ。
 俺は堪えきれず頭を垂れる。ひび割れていくゴーレムの姿を直視することができなかった。
『……――――――――――――ッッッ!!!!』
「「きゃっ!?」」
 空を裂く絶叫の如き轟音、そして視界が眩い閃光に染まる。俺は何事かと身を起こし、眼下の世界を確かめた。
 するとそこには全身を取り込まれかけながらも、ばちばちと放電しているオレンジ色のゴーレムがいた。
「――って放電!? ゴーレムが!?」
「こ、こんな魔法は知らないわね……」
 ルイズも度肝を抜かれている。そりゃ、土が発電したらビックリするよな。
「というか、土人形(ゴーレム)相手に雷って意味あるの?」
 キュルケがぽつりと呟く。いい質問だ、俺もそれ思った。
 しかし、その疑問にタバサが一発で回答した。
「この雷自体に意味はない」
「?」
「大切なのは、『魔力を通す』こと」
 タバサの解説が終わらないうちに、フーケのゴーレムの頭頂部に異変が起こった。ボンヤリとなにかの文字が浮かび上がり、淡い光を放ち始めたのだ。
「な、なんだありゃ!?」
「ゴーレムはその身に『刻印』を刻むことで、それを己の核としている」
「たしかにそうだけど、それは普段は巧妙に隠されているわ! それこそ目視できるようなものじゃない!」
「だから、目に見えるように『共鳴』させている」
 ルイズのツッコミにも明確な答えを返すタバサ。それじゃあなにか、あいつは弱点をさらけ出させるためだけに、あんな大げさなことをやってのけてるのか? 一体何のために……
 俺が小首をかしげていると、タバサが不意に俺の顔を覗き込んできた。
「次は、あなたの番」
「へ?」
「『アレ』は自分の仕事をした。だから、次はあなたの番」
 タバサは起伏もなく、しかし彼女にしては珍しいほどの明確な声量で語る。
 それって、もしかして。
「あなたがトドメを刺す」
 ドクン、と心臓が跳ねた。俺が、やつを? この剣で?
 握りしめた左手がガクガクと震える。
 やっと、やっと――
「できないなら、私が「いや」」
 ――借りを返すチャンスが巡ってきた。
 俺はタバサを遮り、手早く両手の感覚を確かめる。ぐっぱと握力を確かめて……うん、良好だ。折れちまったかと思ったが、ちっと大げさすぎたな。
 俺はデルフリンガーを抜いて、シルフィードの頭に足をかけた。ごめんなシルフィード。
「ここまでお膳立てされて、やらねぇやつは男じゃねぇ」
 目標は頭頂部魔法陣中央。位置はちょうど俺たちの真下だ。
「放電で魔力が乱されてるから、『錬金』される心配はない」
「相棒、ここは『突き』の出番だ。思いっきりかましてやりな」
 タバサたちの声も右から左。頭には響いているのだが、意識はそちらに向いていない。狙いは、絶対に外さねぇ。
「うおおおおぉぉぉっ!!!!」
 俺は裂帛の気合いとともに、足場のない空へと飛び出した。剣を逆さまに持ちかえて、大きく体を反らしながら軽い浮遊感に包まれる。
「タバサ、頼む!」
 タバサは打ち合わせもしていないのに、俺の意を汲んでくれた。何事か呪文を詠唱し、彼女が杖を振り下ろした瞬間、俺は猛烈なGに引かれてフリーフォールのように急降下した。『浮遊』の魔法があるんだから『重力』もあるかなと思ったんだけど、どうやら大正解だったらしい。
 ルーンが輝き俺に力を与える。この感じならたぶん足は折れない。いや、別に折れてもいい。この世界ならどうせ治せる!
「砕け散れええええええぇぇぇぇぇ!!!!」
 時間にしておそらく一秒も経たず、俺はフーケのゴーレムのドタマに深々と剣を突き立てた。着地の衝撃は足のバネで殺しきったが降り立った面はそれに耐えきれず、猛烈な破砕音と破片を飛び散らせながら深い亀裂を刻んでいった。
 数秒、世界から音が消える。俺は剣を引き抜いた。すると、魔法陣がまるで心音のように弱々しく明滅し――そして、消えた。
 ――ゴゴゴゴゴゴゴ……
 魔法陣の消失と同時にフーケのゴーレムは崩壊を始め、腕が落ち、足が砕け、みるみるうちに土へと戻っていく。そして一分もしないうちにただの土の塊へと戻っていった。
「――よっしゃああああぁぁぁッ!」
 俺はルイズたちのことなど忘れて、高々と剣を振り上げ勝ち鬨をあげた。
 やった、俺はやった! 勝ったぞ! あんなでけぇゴーレムを、この手でぶっ倒したんだ!
 俺が万感に打ち震えていると、急に視界が暗くなった。見上げると、オレンジ色のゴーレムが俺を見下ろしている。
「……そうだな、忘れてたよ」
 俺の力だけじゃねぇ。俺だけじゃ、あれには勝てなかった。
 俺は目の前の戦友へ、自然にサムズアップを向けた。ゴーレムは表情が変わらないからなにを考えてるか分からないが、あっちもサムズアップを返してくる。
 俺たちの拳が重ねられる。だが、真ん前に巨大な拳があり、俺はよもや潰されるかもしれない状況にさらされているというのに。不思議と、俺は恐くなかった。
 ゴーレムは手を引くと、踵を返し俺から離れていく。そして五歩ほど森へ歩いていくと。
「――消えた!?」
 眩い光に包まれて、その姿を消してしまった。フーケのゴーレムのように土塊の山すら残さずに、文字通り跡形も残さないで。
「な、なんだったんだ……?」
 俺はしばし思考に耽る。しかし。
「ま、いっか」
 分からないので、早々に止めた。
「サイト!」
「ダーリン!」
 上から声が振ってきた。間を置かずシルフィードが俺の傍に降りたってくれて、俺は見上げる手間を省ける。
「怪我は……「すごいわ、さすがダーリンね!」」
 シルフィードから全員が降りると、キュルケが真っ先に抱きついてきた。うは、この乳やべぇ、パねぇ! 猛烈に鼻の下が伸びていくのを感じる。
「ぐはっ!」
 おもむろにルイズに頭をしばかれた。
「なにしやがるっ!」
「うるさいっ、知らない!」
 そう言って眼を怒らせ、ぷいとそっぽを向くルイズ。なにぷりぷりしてやがんだこいつ。
 そうやって俺たちが無事を喜びあっていると、少し離れた茂みからロングビルさんが現れた。
「ミス・ロングビル! 何処へ行っていたのかしら?」
「怪我はありませんか?」
 ルイズとキュルケが駆け寄っていく。
「すみません、わたくしは一人だけ逃げ遅れてしまったので、危険を感じて身を隠していたのです」
 どうやら怪我もないようで、ルイズたちに笑顔を返している。しかし、俺はそれになんとなく違和感を感じていた。
「ロングビルさん」
「なにか?」
「あなたはずっとあそこに身を潜めていたんですか?」
「そうですけど」
「じゃあ、俺たちが危険にさらされたとき――なんで、助けてくれなかったんですか?」
 あなたも魔法が使えるんですよね、とややトゲのある言い方で訊ねる。思えば、ルイズが立ち向かったときも、俺が手をやられたときも、なんの援護も飛んでこなかった。ということはロングビルさんは、それらをずっと静観していたということになる。俺は、それがなんとなく気になった。
「す、すみません。下手に手を出すとあなた方に当たってしまう恐れがありましたので」
 ロングビルさんは申し訳なさそうに顔を伏せる。その返答を聞き、俺の中の疑念がむくむくと首をもたげていく。
「……分かりました。じゃあ、最後に。あのオレンジ色のゴーレムは、ロングビルさんが操ってたんですか?」
「………………」
 ロングビルさんは一瞬眼を見開き、口を開こうとして息を飲み込んだ。そして瞬きの回数も多く、もの凄く熟考する。
「……いいえ、違います。わたくしも土系統を得意としていますが、あそこまでの魔法は使えません」
「そうですか」
 俺はその答えを聞いて、胸のもやもやが晴れなかった。もし、ロングビルさんがこの質問に「はい」と答えたら、俺はロングビルさんを絶対に信じなかっただろう。何故なら、『隠れて操る理由』がないからである。そんな回りくどいことをしなくても、即俺たちの前に姿を現せばいい。フーケの動向を窺っていたというのは無しだ。それなら、今ここで姿を現した意味がない。
 だが、「いいえ」と答えてくれたのだが。……即答してくれなかったことが引っかかる。もしかして、嘘でも「はい」という選択肢に乗っかろうとして、思いとどまって止めたのか? なんとなく、そんな気がする。
 とにかく、俺はこの人を信用しきれない。何故なら俺の、いや俺たちの危機に、息を潜めて隠れていたのだから。
「ほら、そんな恐い顔しないでください。隠れていたことは謝ります。だから、『破壊の杖』をわたくしに」
 さあ、と手を差し出してルイズに歩み寄るロングビルさん。
 俺はそれをブスッとした顔で睨んでいたが、タバサも怪訝な眼差しで見つめているのに気付いて――思わず、彼女らの間に割り込んでいた。
「……どうしたのですか? さあ、『破壊の杖』をわたくしに」
 張り付いたような笑みを浮かべ、なおも手を伸ばしてくるロングビルさん。でも、申し訳ないけど、俺は思いだしちまったんだ。
 ――信じるために、疑うんだ
 あの路地裏での出来事を。去り際に向けられたあいつの言葉を。
「すいません。俺はどうしてもあなたを信じられない」
「――っな!?」
「別に自分の身を案じることが最優先だというのを批判はしません。誰だって我が身は可愛いでしょう。でも、俺は死の危険にさらされた。その時、あなたは俺を見捨てた」
「そ、そんな、あんたが勝手に――!」
「そうです。俺が勝手につっかかって、勝手に死にかけただけです。でも、あなたはなにもしなかった……それどころか、悪びれもせずに今になって現れた。俺は、個人的にその辺が納得いかないんです」
 自分で言ってて、なんつー不躾な言い分だとは思う。でも、俺はこんな言い方しかできない。遠回しに苦言を濁すなんて高等なこと、できないんだ。
「そ、それならその娘たちだって、あんたが殺されそうになったとき、なにもしなかったじゃないか!」
「あら? あたしたちだってルイズを止めるのに必至だったのよ? この子、『破壊の杖』を持って飛び降りようとしちゃってね」
「……ルイズまで危険な目あわせられない」
 そうだったのか。あの時の俺に駆け寄ろうなんて、死にに行くのと同じ事だ。タバサたちはそんなルイズを止めてくれていたのか。そしてルイズ、お前そんな無茶を……
「……個人的な感情でこんな事を言って、大変失礼だって事は分かってます。けれど、これは俺の正直な気持ちです」
「………………」
 ロングビルさんは来る前の穏和な表情などどこへやら、般若のように口を歪め、目尻をヒクつかせて俺を睨みつけている。でも、申し訳ないけどこれだけは譲れない。
「だから『破壊の杖』は、学院に着くまで俺が預からせてもらいます。いいですね?」
「くっ……!」
 正直、学園長秘書にこんな口を聞くなんて打ち首ものなのかもしれない。けれど、この『破壊の杖』だけは、なにがあっても手放したくないんだ。
 それは、この『破壊の杖』が――ということもあるけど。それよりも、なによりも。
「これは、俺たちの『戦果』を証明する大事な証拠です。万が一にも、フーケに奪われるわけにはいかないんです」
 ルイズの『ゼロ』を払拭する、大事な大事なものなのだ。帰り道でフーケに襲われる可能性もあるし、俺が持つことにこのメンバーは絶対不満を持たないはずだ。何故なら、この中で一番接近戦闘力が高いから。
「俺は剣を握ると素早く動けるし、もしフーケに襲撃されても安全でしょ?」
 俺はにかっと笑顔を作る。悪いけどここは押し切らせてもらうぞ。
「あれ、タバサ? 何処行くの?」
「早く帰る」
 タバサが先立って馬車へ向かった。ナイスタバサ!
 俺は心中で拍手喝采だ。
 ロングビルさんはその後ろ姿を苦々しげに見つめていたが。
「……分かりました」
 ややあって、首を縦に振った。

 そして、俺達は一路、学院へと戻るのであった。

     ○

(……忌々しい)
 手綱を握る手に力がこもる。実は彼女、ロングビルこそが、『土塊』のフーケなのである。彼女の目論見は紆余曲折あり、結局失敗に終わらされ、さらに盗んだ『破壊の杖』まで取り返されてしまった。それは、もちろん真後ろで和やかに談笑している『ガンダールヴ』のせいでもあるが……
(あの男、なんだったんだい?)
 フーケはあのオレンジ色のゴーレムが消える瞬間を、偶然にもその眼に収めていた。そして、丁度光が晴れて、ゴーレムが消えた地点に、確かに男が立っていたのを見たのである。そいつは後ろ姿しか分からなかったが、ハルケギニアには珍しい黒髪だけはこの目に焼き付いている。
 やつはおそらく土のメイジ。ゴーレムを操っていたからには間違いないはず。
(あの男……そしてわたしをここまでコケにしてくれた『ガンダールヴ』……ッ! 絶対に、このままじゃ済ませないからね)
 内に煮えたぎる憤怒を悟られぬようぐっと歯を噛みしめる。ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケは、人知れず復讐を決意するだった。

     ○

 俺たちは学院に戻ると、すぐに学院長室へ報告に向かった。
「ご苦労じゃったのう。では、話を聞かせてくれんかの?」
 俺たちは真っ白な髭を蓄えた学院長……オスマンさん、でいいのか? とにかく、某ハリーなんちゃらという映画で見たようなおじいさんに、『破壊の杖』を取り返したこと、そしてフーケは逃がしてしまったことを伝えた。オレンジ色のゴーレムについてもルイズとキュルケが言及したが、結局のところ何も分からなかったので保留ということになった。
「なるほどのう。まあ、目的の物は戻ってきたことじゃし、怪我がなくてなによりじゃ。叶うかどうかは分からんが、君たちに『シュヴァリエ』の爵位申請を出しておいた。ミス・タバサには精霊勲章をな」
「『叶うかどうか』?」
「フーケも添えられていれば、確実に通すことができたかも知れんのじゃが……申し訳ないが、そのときは我慢しておくれ」
 勲章の授与には、あくまでも結果が求められる。秘宝を奪還しただけでは、いささか不十分だったらしい。俺はオスマンさんのやや芳しくない答えに、がっかりと肩を落とした。せっかくルイズに箔をつけてやれると思っていたのに、当てが外れてしまったからだ。
 タバサとキュルケは特に興味もなさそうだった。タバサは端から名誉などに頓着していないようだし、キュルケにいたっては貰えりゃラッキー程度の認識しかないのだろう。ルイズは少し顔を落とし、考え込んでいるようだった。
 ルイズが顔を上げた。
「……オールド・オスマン。サイトには、何もないんですか?」
 俺はその言葉に驚いて、ひょっとこみたいな顔でルイズを凝視した。やや改善が見られるとはいえ、常日頃からあれほどまで俺を虐げているルイズからの口から、そんな風なことが聞けるなど思っても見なかったからである。
 一言で言うと、ありえん。
「彼は貴族ではないからのう」
 オスマンさんは難しい顔で考え込んでしまった。俺は元々、そんなつもりで頑張ったわけでもないので、言葉すくなに遠慮しておいた。
 しかし、働きに見合った恩賞が与えられないってのはどうなんだろうな。貴族じゃないからってのを理由にされちゃ、平民は何も言えなくなっちまうじゃん。フェアじゃねーよな。
「さてと、今夜は『フリッグの舞踏会』じゃ。今日の主役は文句なしに君たちじゃろう。部屋へ戻って用意をしてきなさい」
 キュルケの表情がぱっと華やぐ。見た目どおり、宴の席が大好きなようだ。
 俺はそうやってキュルケがルイズたちの肩を抱きながら顔をほころばせているのを見やり、そしてオスマンさんがロングビルさんへ手招きして、『破壊の杖』を――
「ってちょっと待ったぁ!!」
 俺はオスマンさんへ一も二も無く駆け寄った。二人とも眼を丸くしているがこの際無視。
 今、この部屋には俺たちとオスマンさん、そしてロングビルさんと禿げかけたおっさん……ごほん、コルベール先生だった、か? それらの六人が集まっていた。
「すいません、それを戻しに行くのは俺たちにやらせてもらえませんか?」
「なぜじゃ?」
「せっかくここまで成し遂げたんだから、最後まで責任持ちたいじゃないですか」
 家に帰るまでが遠足だっていうし、と俺は必死で取り繕う。
 俺は、ロングビルさんを疑うと決めた。だからこそ、ここでロングビルさんに『破壊の杖』を渡してしまうのは一貫性が無い。この件については、最後まで責任を持つべきだ。
「……ただ秘宝を元の場所へ返すだけじゃありませんか。そこまで警戒されなくても」
「いえ、他意はないんです。ですけど、やっぱり気になるじゃないですか。なあルイズ?」
 俺は振り返り、ルイズに視線を送った。ルイズは戸惑ったように表情を曇らせたが、一瞬間をおいて頷いてくれる。
 頼む、ここは俺を信じてくれ。
「さすがにいささか解せませんわね。まるで、わたくしがフーケだとでもおっしゃりたいみたい」
「うっ!!」
 俺はロングビルさんの切り返しに、思わず顔を引きつらせてしまった。俺のバカ、これじゃあはいそーですと言ってるようなもんじゃねーか。
 ロングビルさんの瞳が、妖しく光ったような気がした。
「残念ですわ。いくらわたくしが信用ならないからって、なにもそこまで眼の敵になさらなくてもよろしいではありませんか」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「ではどういう意味ですの? 詳しく伺ってみたいですわね」
 息つく暇もなく詰め寄ってくるロングビルさん。俺はその勢いにしどろもどろになってしまって、あうあうと口をぱくつかせることしかできない。
 ともすれば俺が悪者になってしまいそうなこの状況。それを救ってくれたのは、なんとこっぱげの先生であった。
「まあまあ、彼もまだ若いのです。私情が先行してしまうこともありましょうぞ。それはいけないことだよサイトくん」
「は、はあ」
 コルベール先生は人差し指を立て、俺を窘める。俺はいきなり割って入ってこられ、生返事を返すしかない。
「しかし、彼が言うことにも一理ある」
「ミスタ!?」
「いやいや、誤解なさるなミス・ロングビル。『家に帰るまでが遠足』、という部分ですぞ。そういった意味では、まだ彼女らの仕事は完遂ではないのです」
 コルベール先生はにこりと微笑んだ。
「我らみんなで宝物庫へ向かおうではありませんか。これならば、そこにいる用心深い使い魔君も納得してくれるはずですぞ」
「い、いえ……ミスタ?」
「なんですかな、ミス?」
「このような雑務、わたくし一人で十分ですわ。わざわざ貴族である皆様方のお手を煩わせずとも」
「いえいえ、こういったことは形式が大事なのです。何事も途中で投げ出さず、きちんとやり遂げる人材を育成することがこの学院の存在意義。そのためには、たとえ雑務一つに至るまで妥協は許されんのですよ」
 喋っている途中で変なスイッチが入ったのか、瞳を燃やして力説するコルベール先生。なんかおかしな人っぽいけど、今この状況ではありがたい。
「それとも、なにか不都合でもおありかな? ミス」
「………………」
 まったく邪念のないコルベール先生の様子に、ロングビルさんは何も言い返さず黙り込んだ。沈黙を肯定と受け取ったのか、コルベール先生はさくさく話を進めていく。
「さあ、本日の功労者たちよ。残念ながら、貴殿らの仕事はまだ終わりではないですぞ。これから皆で宝物庫に向かおうではありませんか」
「えー。ミスタ、あたしはこれから今宵のための準備に忙しいのですけれど」
「これ、ミス・ツェルプストー。横着はいけませんぞ」
 いつの間にやらコルベール先生が『破壊の杖』を持ち、ルイズたちの背を押して退室を促した。まったく表情は読めないが、ロングビルさんもその後に続いていく。意外な展開にはなったが、これだけ人数がいれば間違いは起こらないだろう。
 ただ一人歩き出さない俺に、ルイズが首だけ振り返って視線を送った。
「わりぃ、先に行っててくれ」
 ひらひらと手を振る俺。ルイズは納得いかないように口を尖らせたが、コルベール先生たちに連れられて部屋を出て行った。
「なにか、聞きたいことがおありのようじゃな」
 俺がオスマンさんに向き直ると、彼は待ち構えていたように口を開いた。そうだ、俺は聞きたいことがある。知りたいことが山ほどあるんだ。
「あの、『破壊の杖』は――」
 俺はぽつりぽつりと、一つずつ疑問を口にしていった。

     ○

 日も暮れ始めた夕暮れ時。そろそろ双月も輝き始めようかという時間。
 トリステインの城下町にある『魅惑の妖精亭』は、これより裁判でも行われそうな重々しい空気に包まれていた。
「まだ戻ってこないのか?」
 口を開いたのは、左目にモノクルをかけた赤毛の男。昨日よりここに軟禁状態の、無銭飲食男である。彼は落ち着かないのかしきりに貧乏ゆすりをしていて、先ほどから椅子がぎしぎしと軋みっぱなしだった。
「開店までには帰ってくるはずよん。あれでいて律儀な子ですもの」
「あんたに救いをもたらすかは分からないけどね」
 ジェシカはいやらしくからかうように笑った。たとえハタヤマが戻ってきたとしても、彼が宝を持ち帰るかはまだ分からないからだ。宝の地図など総じて紛い物が多く、ちょっと裏路地に入った出店をのぞけば何十枚と投売りされているようなものである。そうそう都合よく当たりを引けるとは思えない。
 男はジェシカをギロリと睨みつけたが、もはや突っかかる余裕もないのかすぐに眼を伏せた。
「ただいま~」
 噂をすればなんとやら。ガチャリという扉の音とカウベルの音色に振り向けば、黒髪金眼の優男が入店するところであった。言わずもがなハタヤマである。
「あら、お帰りなさい」
「おかえり~」
 ジェシカたちは各々お帰りの挨拶を返す。
「おい、どうだった!? 俺の地図は本物だったのか!?」
 モノクルの男は食いつかんばかりにハタヤマへ詰め寄った。帰宅早々せわしないことであるが、彼の心中も穏やかではないので仕方が無いかもしれない。何故穏やかではないかというと、ハタヤマが何も持っていない、全くの手ぶらだったからである。
 ハタヤマは両肩を掴んでまくし立ててくる男の手を肩からはずし、やんわりと遠ざけた。
「まあまあ、落ち着いてよ。順を追って話すからさ」
 ハタヤマはこほん、ともったいぶって咳払いし、ジェシカたちが集まっているテーブルに五枚の地図を広げて見せた。
「まず報告することだけど、ボクは今日この内の四枚しか回れなかった」
「な……っ! 話が違うぞ、どういうことだ!!」
「ちょっとした野暮用(イレギュラー)でね。時間的にも肉体的にも余裕がなくなっちゃったんだよ」
 赤毛の男が噛み付くようにわめく。そのあまりの必死さに、んなこの世の終わりみたいな顔しないでよ、とハタヤマは若干引いた。彼にしてみれば自分の進退がかかっているので、箸が転がっても怒りたい心境なのだろう。
 ハタヤマは順番にそれぞれの概要と成果を説明していく。しかし、三枚目に差し掛かっても大した成果を得られなかったことを聞かされると、赤毛の男の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「――で、『子安貝の心臓』ってのがこの黒い物体だったんだけど。いる?」
「けっ、そんなゴミみたいなもんいらん! 捨てちまえ!」
「あ、そう? 残念だね」
 ハタヤマはそう言いつつ、黒い物体をつまみとってポケットへ忍ばせた。さりげなく、目立たぬように。
「で、最後に向かったのはこれ」
「『アルヴィースの宝石箱』?」
 ハタヤマが指差した地図に、皆が釘付けとなった。地図には二匹の小人が描かれており、それぞれ大きな箱と小さな箱を背負っている。
「これは木の虚の中から繋がったダンジョンだったんだけどさ。思いのほか簡単な仕掛けだったよ」
 ハタヤマは語る。そこにはそれまでの探索で遭った罠などは一切無く、最深部にぽつんと大きな箱と小さな箱が安置されていただけだったこと。そして小さな箱だけを調べて、その中身を持ち帰ったことを。
「小さな箱だけ? なんで両方調べなかったの?」
 ジェシカがきょとんとハタヤマを見つめる。ハタヤマは地図に描かれた絵をつついた。
「こういった仕掛けは、大抵強欲なやつに不利なよう作られてるものなのさ」
 ハタヤマは昔、遺跡調査の依頼で酷い目に遭った経験がある。その依頼自体は滞りなくこなすことができたのだが。しかし、これ見よがしに設置された宝箱に眼が眩み、開けてしまったのが運のつき。トラップが発動し『全身脱毛の呪い』に侵され、数ヶ月間羽をむしられた鶏のような姿で過ごす羽目になったのである。お宝を見なかったことにしてちょろまかそうとした報いなのかもしれない。幸い、篠原の尽力で解呪方法が見つかり事なきを得たが、もし見つからなかったら一生丸っぱげだったかもしれない。それを思い出すと、ハタヤマは今でも夢にうなされることがある。
 以来、彼は無用なリスクを嫌うようになり、明らかに怪しいものには近づかないことにしているのだ。
「ほら、隅っこのほうに『慎み深き者に愛を、欲深きものに死を』って書いてるでしょ?」
「え? ん~……どれ?」
「これか」
 赤毛の男がモノクルをかけなおし、右下に描かれた小人の絵のさらに下に記された文字を見つけた。それは人間では読めないほどに小さく、ジェシカにはなにが書いてあるのか分からない。
「よく分かんないわ。ていうか、よく読めたわね」
「ボクの眼は特別製なのさ」
 己の黄金の瞳を指差し、ニヤリと笑うハタヤマ。ジェシカはそれだけでなんとなく察し、生返事を返した。
「話は分かった。それで、結果はどうだったんだ? この地図は『本物』だったのか?」
 言外に戦利品への期待をありありと滲ませ、赤毛の男が詰め寄った。ハタヤマは不敵に微笑み、どこからか頭の大きさほどの麻袋を取り出した。というか待て、本当にどこから取り出したんだ。
「ふっふっふ……ボクが今日一日駆けずり回って手に入れたお宝。これを見ればキミはボクに心底感謝して土下座するだろう。『ああ、ありがとうございますハタヤマさま、あなたは私の恩人です、もう好きにして抱いてきゃー』「さっさとしなさいっ!!」ぐぇぶッ!?」
 勿体つけたハタヤマを間髪いれずどつくジェシカ。後頭部をはたかれたハタヤマは、しぶしぶ口を尖らせながら、麻袋の中身をテーブルの上にぶちまけた。
「ちぇいっ」
「「「!!!?」」」
 あくまで軽い掛け声のハタヤマ。だが、彼が持ち帰ったものは、聞き役に徹していたスカロンでさえも息を呑むほどに驚くべきものであった。
「き、綺麗……」
「質のいい宝石ねぇ。あたくしもここまで上玉な青玉(ルビー)や翡翠(エメラルド)は見たことがないわん」
「………………」
 乾いた音を立てて、テーブルの上で踊る戦利品たち。ジェシカはその美しさに見惚れ、スカロンはその状態のよさに感心し、赤毛の男は感極まったのか絶句している。麻の袋から現われたのは、ドングリほどの大きさから拳大の固まりもある、様々な宝石の数々であった。青玉、翡翠、蛋白石に黄水晶、色とりどりの宝石たちがテーブルの上に山となって輝きを放っている。
 ハタヤマは男の肩に手を置いた。
「キミも悪運が強いね。探索は大成功だったよ」
 ハタヤマにっ、と屈託無く笑った。まあ、今回の結果は多分に運も絡んでいる。一つ、ハタヤマが最後にこの地図を選んだこと。一つ、木の虚が半端ないほどの巨大樹に掘られた小人族のものだったこと。このおかげで、人間の冒険者は脇にある洞窟へ流れてしまい、本当のダンジョンは今日まで誰にも荒らされていなかった。一つ、ハタヤマがメタモル魔法の使い手だったこと。食堂で見かけた気味の悪い人形を思い出し、それをイメージの核として小人族に変身できたので、滞りなく調査することができた。様々な偶然が重なることで、この成果をあげることができたのだ。
 赤毛の男は呆然と宝石の山を見下ろしている。ハタヤマはてっきり借金が帳消しになり、おつりまでできて感激しているのだろうかと思っていたのだが。
「……のか」
「ん?」
「本当に、全部貰って良いのか」
「あぁ、いいよ」
「見つけたのは本当にこれだけか? どこかに隠してはいないか?」
「ないっての。なんならここで脱ごうか?」
 男は疑り深くハタヤマを睨め回す。どうやらそういった穏やかな理由ではなかったようだ。
 おもむろにシャツのボタンへ手をかけるハタヤマ。ジェシカは男の言い草に腹を立てたが、いきなり脱ぎだそうとするハタヤマに頬を染めて顔を覆った。もちろん指の隙間から覗くことを忘れない。スカロンなど鼻を膨らましてガン見である。漢らしい。
「……いや、いい」
 男は宝石から目を離さず、黙り込んでしまった。その言葉にハタヤマははだけたシャツを正すと、ギャラリー二人は眼に見えてガックリと肩を落とした。
「本当の本当に、全部――」
「くどいな。ボクに二言は無いよ」
 再三確認する赤毛の男。ハタヤマはいい加減鬱陶しくなり、投げやりにそれを遮った。正直、ハタヤマは煩わしい言い争いをするくらいなら、金銀財宝などどうでも良かった。何故なら、そんなものに期待しなくても今は職にありついているし、そもそも人間社会で長く生活する気もないからである。確かにあれば便利だろうが、別になくても困らない。貨幣制度を取っているのは、基本的に人間だけだからだ。
 まあ、コンビニもファミレスもない世界なので、単純に使い道がないというのもあるが。これが元の世界(アンゴルノア)であれば、もう少しごねたかもしれない。
 男はハタヤマを見上げた。
「おい、俺と組まないか?」
「はあ?」
 唐突な誘い。ハタヤマはぽかんと口を開けてまぬけ面を晒した。
「知ってのとおり、俺は探検家(トレジャーハンター)だ。だが、恥ずかしい話だが、探険を成功させたことは一度も無い」
 なにかいきなりカミングアウトを始めた赤毛の男。やれ、自分は元貴族だとか、訳あって今はこんなことをしているだとか、勝手に独白を続けていく。ハタヤマは展開についていけず、そして野郎の独白に微塵も興味が無いのでただただ面食らっていた。
「俺には力がある。『本物』を集める情報網が。だが、悔しいが遺跡の罠を乗り越える力は無い」
「ふ、ふーん……」
「だが、お前はいとも簡単に一日で四箇所もの冒険をこなし、しかも結果を持ち帰った。一日でだぞ! これは驚くべき事だ! 俺には分かる。お前には、罠を乗り越え未踏を踏破する力がある」
 だんだんと興が乗ってきたようで、男は爛々と輝く瞳でハタヤマを見つめながら手を握った。ハタヤマはサブいぼで大変である。
「俺は集め、お前は探る。どうだ、悪く無い話だろう?」
「………………」
 ハタヤマはしばし熟考した。彼は初めは話半分に聞き流していただけだったが、話が進むうちにふとした思い付きが頭によぎった。ハタヤマはポケットの中の『子安貝の心臓』を握り締める。
(『コレ』があるってことは、『アレ』もあるかもしれない)
 無論『アレ』これが欠損していなければ『コレ』も不要なのではあるが、ひょっとするとどこかに分離して安置されている可能性も在りうる。ハタヤマはこの『子安貝の心臓』を発見したことで、試してみたいことがあった。
 だが、それはこの『子安貝の心臓』だけでは行うことができない。それにはこの世界の言い回しを借りるならば、『子安貝』が必要だ。この男の優秀さにもよるが、宝探しを続けていればそれが見つかるかも知れない。
 それに。
(世界を渡る方法も、見つかるかもしれない)
 ハタヤマヨシノリ。彼は魔法使いである。今更確認するまでもないかもしれないが、彼は『魔法が使える』のだ。
 確かに、世界間をまたぐという荒唐無稽な事象をやってのける魔法など、普通に暮らしていて身につくものでは無い。ましてや日々を生きることに埋もれてしまっては、それを探しに行くことすらままならないだろう。しかし、『探検家』の名目で胸を張って活動できれば、いつかどこかで見つけることができるかもしれない。
 だが、たとえ探し当てたとしても、それも一朝一夕で身に着けることはできないかもしれない。それでも、自分なら。魔法生物であり、長い寿命を持つ自分であれば。いつか、体得できるかもしれない。百年か二百年かは分からない。だが、『いつか』。
(いつか、帰れるかもしれない)
 彼は今この時だけは、魔女っ娘も世界の垣根すらも忘れ去り、ただただ帰還することを願った。こんなわけの分からない場所で、わけの分からない状況に追いやられることもなく、自分の家で一息吐きたい。後のことは考えず、ただそれだけを願った。
 ハタヤマヨシノリは魔法生物として生まれ、魔法使いの弟子であり、メタモル魔法を駆使して戦う生粋の魔法使いである。たとえ必要に駆られ近接戦闘(ナイフ使い)を学ぼうが、その本質は変わらない。それ故に、彼は未来への活路を、この苦境を打破する血路を、やはり『魔法』へと求めた。
 いつになく真剣な表情で黙り込むハタヤマ。その横顔に、ジェシカはなんとなく不安を感じた。
「……ハタヤマ? どうしたの、そんな怖い顔して」
「え? あぁ、ごめん」
 頭を振って余分な思考を振り払うハタヤマ。考えるまでもなく、最初から答えは分かりきっていた。
「面白そうだね、一口乗ろうじゃないか」
 悩むことなどない。可能性は、いくらあっても困らないのだから。
 赤毛の男はこれまでにみせたことのない、屈託ない笑顔をハタヤマに向けた。
「そうこなくっちゃな! お前はいい判断をした。俺はレナード。〈レナード・ヴァイス〉だ。お前に幸福を運ぶ男の名だ、覚えておいてくれ」
「ボクはハタヤマヨシノリだよ」
 ハタヤマは差し出された手をとり、レナードと固く握手を交わした。
「………………」
「あらん、どうしたのん?」
 男同士の固い握手を、不機嫌そうに睨んでいるジェシカ。スカロンは娘の釣りあがった眼をほぐすように問いかけた。しかし、その問いはテンションの上がったレナードに遮られてしまった。
「マスター、酒だ! 酒を頼む! 俺たちの門出に、そして輝かしい未来へ乾杯しようじゃないか!」
「え゛~……また飲むの?」
「遠慮するな! そうだ、俺たちは必ず上手くいく! ふはははははははははっっっ!!!!」
 ハタヤマの肩を抱き、ワインを樽で注文する勢いのレナード。この男はかなりのアルコール好きらしく、まだ飲んでないのにワインの香りが漂ってきそうである。反対にハタヤマは酒が大嫌いなので、露骨に顔をしかめた。前まではそうでもなかったようだが、最近色々酷い目に遭わされて急激に嫌いになったらしい。
「……なんでもない!」
 ジェシカはスカロンに取り合わず、そう叫んで厨房へ引っ込んでしまった。
(どうしたのかしらん?)
 スカロンは肩をすくめ、どうやってこの飲兵衛からさらなる金を巻き上げてやろうか考えながら、妖精さんたちにボトルを手招きするのだった。



[21043] 四章幕間
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:08
【 四章幕間 『双月の舞踏会』 】



 満天の星が瞬く夜空。自然のままに排ガスにも侵されていないそこには、突き抜けるような星空がどこまでも広がっている。
 そんなため息の出るほど美しい夜空の下で、シルフィードはため息を吐いた。
「お姉さまのうそつき。おにくいっぱいくれるって言ったのに」
 タバサにご褒美を約束されてウキウキしながら待ちかねていたのに、事件の事後処理や舞踏会の準備とやらでものの見事にすっぽかされ、彼女は風の塔の屋上にて拗ねていた。どうやら彼女には、星空よりもお肉のほうがよっぽど好ましいらしい。
 今頃お姉さまは煌びやかなドレスで着飾って、美味しいものを食べているのだろう。シルフィードはそう思うと、怒りがぷりぷりと湧き出てきた。
「だいたい、お姉さまはいつもいつも竜つかいが荒いのね! お姉さまはもっとシルフィに感謝してねぎらうべきなの!」
 だから断固としておにくを要求するの! とシルフィードはぷんすかぷーといかめしい顔を作る。しかし、擬音がファンシーなので、まったく凄みを感じなかった。
 シルフィードは恨めしそうに、今頃学生たちで賑わっているであろう、遠くに見える『アルヴィースの食堂』二階のホールを眺めた。
「きゅい?」
 シルフィードはいぶかしげに鳴いた。はるか下に見下げた廊下に、蠢くように進む小さな影を捉えたからである。人間たちは会場に集まっているはずだし、使い魔はそれぞれの場所で休んでいるはずだ。シルフィードは影のその奇妙なシルエットもあいまって、なんとなく興味をそそられた。
「――あっ!」
 シルフィードはその影の正体に気づくと、嬉しさ満開の笑顔になった。そして彼女はすぐさま空へ飛び立ち、その影のもとへ急降下した。
「ハタヤマ――っ♪」
「どひゃっ!!?」
 突如飛来し、地響きと共に現れたシルフィード。不意打ちすぎる彼女の出現に、影は飛び上がってあとずさった。
 距離の関係で見えなかった正体がが月光に照らされ浮かび上がる。それは彼女の言うとおり、小さなハムスターのぬいぐるみもどき――ハタヤマであった。
「久しぶりなの♪ 久しぶりなの♪ こんなところでなにしてるの?」
「ちょ、し、しーっ! 声がデカい、静かに!」
 ハタヤマは声を押し殺しつつ、静かにシルフィードに黙るよう願った。夜更けとはいえ魔法学院だし、どこに目があるか分からないのであまり目立ちたくないのだ。
 シルフィードはやや不服そうにむくれたが、空気を読んで声のトーンをおとした。
「だって……あれからなんの音沙汰もないし、シルフィ、とっても心配したのよ? 近くに来てたならすぐに顔を見せるの!」
「はは、ごめんごめん。なんとなく踏ん切りがつかなくてさ」
 ハタヤマは曖昧に言葉を濁し、力なく笑った。じつは、今夜彼が学院に訪れたのはたんに用事があったからで、実際はシルフィードに会うつもりもなかったのだ。昼間にあそこまでちょっかいを出したわりに、ハタヤマは未だシルフィードたちとの距離をはかりかねていた。
 しかし、彼の心配は杞憂だったようだ。
「よかったの~、元気そうで本当によかったの~♪ もう心配かけちゃダメなのよ?」
 シルフィードは歌いだすような上機嫌で、ハタヤマを抱きしめた。ハタヤマは恥ずかしいやら、竜のしめつけと爪が痛いやらで、はにかみつつも頬をひきつらせる。
 シルフィードは澄んだ湖のような純粋さで、ハタヤマとの再会の心境を全身で表現する。そんな彼女だからこそ、ハタヤマはそれに心から安心するとともに、くよくよと悩んでいた自分を恥じた。自分は迷惑がられているのでは、と懸念していたが、そんなことはなかったのだ。
「昼間はありがとうなのね。シルフィたちとってもたすかっちゃった!」
「そりゃよかった」
 ハタヤマはシルフィードの感謝の言葉に、軽く微笑みかえした。彼らはお互いの事情は知らないまでも、お互いの存在に気づいていた。幻獣同士の言語は通じる。ハタヤマ登場直後はシルフィードも確信していなかったのだが、最後の雄叫びで彼の声が届き、あの勝利を呼びこんたのだった。
 お互いに理由は聞かない。ハタヤマは彼女らの事情を詮索する気など無いし、シルフィードは彼が善意で助太刀してくれたと信じているからだ。微妙にすれ違いつつも、両者の間に穏やかな空気が流れた。
「そうそう、昼間で思い出したんだけど。『あの』少年どこにいるか知らない?」
「きゅい? 『あの』ってなんなの?」
「シルフィちゃんたちと一緒にいた、長い剣を振り回してたあの子さ」
 妙に錆びた剣使ってる、というところまで言われてシルフィードは合点がいった。彼女が知っている中で、剣を持っている人間など一人しかいない。
 ハタヤマは『少年』という呼称に慣れすぎてしまい、サイトの名前をすっかり忘れていた。
「ああ、あの男の子ね! あの子ならきっと『フリッグの舞踏会』に出ているわ! お姉さまたちと一緒に! きっとシルフィのことなんてすっかり忘れて、自分たちだけおいしいお肉を食べてるんだわ! きゅい!」
 憤懣やる方がない様子で身もだえするシルフィード。口惜しくてたまらないらしい。ハタヤマは彼女のむきだしな感情を全身に浴び、顔を引きつらせ苦笑いした。
「なんかよく分からんけど、取り込み中みたいだね。それじゃあ、日を改めて出直そうかな」
「なにか用があったの?」
「尋ねたいことが一つと、あとは様子を見に、ね」
 ハタヤマはシルフィードに、サイトのことをいくつか尋ねた。帰り道で異様に落ち着きがなかったり、必要以上に明るく振る舞っていたりしなかったなど、どことなく彼の身を案じるように。シルフィードはそこまでサイトに注視していなかったのであまり印象には残っていなかったが、
「なんか、『破壊の杖』を見つめてかんがえこんでたのね」
 と答えた。
 破壊の杖? といきなり飛び出した変な用語にハタヤマは首をかしげたが、まあよく分からなかったのでスルー。少なくとも、後遺症は残っていないようである。
(意外と図太いやつなんだな)
 一般人が急に死の危険へさらされたとき、往々にして心のバランスを崩してしまったりする。妙に神経質になったり、恐怖を忘れようと必死におどけたりと、明らかに異常な態度が目立つようになるのだ。
 だが、シルフィードの話によれば、そういった兆候はないようである。ハタヤマはひとまず安心した。たとえ男などどうでもいいと考えていようが、顔見知りが病んでしまうのをほうっておくのはいささか気分がよろしくない。一度出会って言葉を交わせば、一応『知り合い』なのだから。
「それにしてもひどいと思わない? シルフィ、今日は頑張ったの。だからお姉さま、ご褒美にお肉をたーっくさん食べさせてくれるって約束したの。それなのに行っちゃった。シルフを忘れて行っちゃった! きゅいきゅい!」
 某巨匠のツギハギブタのように煙を吹いて怒るシルフィード。食べ物の恨みは恐ろしいようだ。
 ハタヤマはシルフィードの様子に、しばしアゴ(らしき部分)に手をあて考え込む。
「それはたしかに可哀想だね……」
「そうなの! 今度という今度はゆるさないのね!」
 シルフィードは体こそ大きいが、反対にその精神は幼い。寝て起きて明日になれば、この憤りもころっと忘れてしまうかもしれない。しかし、数日とはいえ寝食をともにした身としては、ハタヤマは彼女たちにあまり喧嘩して欲しくなかった。
 どうすれば目の前でぷんすかと頬を膨らませる、この可愛らしい風韻竜の気をまぎらわすことができるだろう。そう考えて、ハタヤマはあることを閃いた。
「シルフィちゃん、ダンスをしたことはあるかい?」
「ダンス? 里のお祭りでならあるの」
 ダンスという単語にシルフィードはまず、昔里で行われた『大いなる意志』への感謝の祈りを捧げるお祭りを連想した。年に一度の大きな祭事で、一年の無事を祝い、次の年の無病息災を願うのだ。大きな焚き火を囲んで、みんなで舞を踊った。とても楽しかった。
 ハタヤマはシルフィードの返答に、困ったようにぽりぽりと頭をかいた。
「いや、そういうのじゃなくて。人間が舞踏会で踊ってるあれだよ」
 シルフィードは言うまでもなく竜族の少女なので、そんなのやったことがあるわけない。
「ないの」
 当然のようにシルフィードは答えた。ハタヤマはそれを聞いて、狙い通りだとほくそ笑んだ。
「じゃあ、やろうよ」
「きゅい?」
 おもむろに切りだすハタヤマ。シルフィードはきょとんと眼をぱちくりさせた。

     ○

 シルフィードはハタヤマにつれられ、月明かりをたよりに夜道を往く。カンテラもなく真っ暗に近いので。シルフィードはひどく歩きづらかったが、不思議とハタヤマはなんの苦もなく進んでいた。彼の超感覚は、微量の光源さえあればそれを上限百倍にまで増幅することができるのだ。
 しばらくして、ハタヤマは立ち止まった。
「着いたよ」
 シルフィードは周囲を見回す。そこは学院でもっとも奥まった場所にある、以前ハタヤマが一悶着起こした『ヴェストリの広場』であった。
 急に周囲が昼間のように明るくなる。雲の切れ間にさしかかり、隠されていた月光が双月の杯から溢れ出したようだ。
「綺麗なドレスも、おいしいお肉もないけれど。まあ、贅沢は言えないよね」
 ハタヤマは広場中央で振り返った。月の光を全身に背負ったその姿は、ある種幻想的な空気を纏っている。シルフィードは、自身の胸に湧き出た感情の意味は理解できなかったが、おもわず息を呑んだ。
 ハタヤマは一瞬だけ閃光と煙に包まれる。煙が晴れると、そこにはファンシーなぬいぐるみはおらず、しゅっとした青年の姿があった。
「さあ、お姫様。Shall we dance?(ボクと踊ってくださいますか?)」
 ハタヤマは大げさに芝居がかったように跪き、シルフィードへ手を差しのべる。シルフィードはその手をとろうとしたが、伸ばした自分の手を見て、ふと止まる。無骨な、青い鱗に覆われた、鋭い爪を生やした前足。これでは踊ることなどできない。
 シルフィードは口中で呪文を唱えた。その調べが紡がれるとともに、シルフィードを青い風の渦が包みこむ。
「――よろしくてよ」
 青き風の奔流が晴れたとき、そこには美しき青髪の女性が彼の手をとっていた。――全裸で。
「ぶほうっ!!!?」
「きゅいぃ!? どうしたのハタヤマ!?」
 赤い液体がハタヤマの鼻から噴出し、芸術的なアーチを描く。シルフィードは突如ぶっ倒れたハタヤマに、意味が分からずきゅいきゅい鳴いた。
 ハタヤマはシルフィードに看取られながら、とてもイイ笑顔で気絶した。本当に締まらない男であった。

「あー、いいもんみたなぁ」
「きゅい?」
 ほっこりした顔でハタヤマが呟く。シルフィードはそんなハタヤマの様子に小首をかしげた。ちなみにシルフィードは部屋へ服を取りに戻ったので全裸ではない。ぱつんぱつんで胸が大きく強調された赤が強いブラウンのベストにカフスのついた青いカーディガン、首元には黄色いスカーフをアクセントとして巻いている。そして深いスリットが入ったこれまた青いスカートからちらりと見える生足、そして靴は上等そうなブーツであった。
 うーん、どことなくエロい。特にサイズが合ってないんじゃないかと思うくらいのはち切れそうなベストと、スリットから垣間見える生足がヤバい。ハタヤマは知らず血走った眼で、シルフィードの全身をあますことなく凝視していた。
「な、なんなのね? ハタヤマ恐い。きゅい」
「っ!? は、ははは、ごめんごめん」
 完全にドン引きなシルフィード。あまりやりすぎると好感度が下がってしまう。ここらへんの打算が働くあたり、イヤらしい男である。
 改めて彼らは手を取り合い、ぎこちなくも姿勢を作り始めた。
「足を揃えて、腹を当てて……手は腰、左手は合わせて……シルフィちゃん、右手だして」
「こう?」
「そうそう、んで、左手はボクの右腕に」
「きゅいー……」
 言われるがままに応じるシルフィード。ハタヤマも朧気な記憶を頼りにしているので、あまり自信はないのだが。ひとまず、基本的な形はできあがった。
 しかし、やはり曖昧な記憶だったので、握り合った手が五本指全てをがっちり絡めてしまっている。じつはこれ間違っているのだが、ハタヤマは気づいていなかった。
「あとは、ステップを踏むだけだよ」
「ステップ?」
「うーん……ボクも口じゃ説明できないから、とりあえずやってみようか」
 ハタヤマがリードし、ぎこちなくもステップを刻んでいく。それに応じてシルフィードもついていくが、お互いに初心者となのでぶつかることが多いこと多いこと。
「ちょ、痛、いった、シルフィちゃん足、足踏んでる!」
「ご、ごめんなのっ!あわわ――きゃん!」
「うわ、転ける!」
 踏んだ足をどけようとしてバランスを崩すシルフィード。ハタヤマは彼女の腰に添えた手に力をこめ、倒れないように必死に踏ん張る。何故かスウェイができあがった。
 そのまま腕の中でくるくる体を回転させ、右手から左手へ、左手から右手へと流れるようなスピンを決める。
「これ面白いの~♪」
「く……っ! ま、まあ、楽しんでるならいいんだけど」
 妖精のように舞うのが心地よくなってきたのか、嬉々としてステップを刻んでいくシルフィード。もう慣れたのかぎこちなさが薄れ、その動きは流水のように滑らかである。ハタヤマは何故か苦しげに表情を歪めながら、シルフィードのリードに合わせて懸命についていく。これではどちらが男役なのか分からない。
「あっ! 思い出したの! ハタヤマあれやって!」
「『あれ』?」
「高い高いして! くるくるーって廻るやつ!」
「――っ!?」
 ハタヤマは瞬時に、あのメリーゴーランドみたいなやつかと想像し、一瞬だけ顔を凍らせた。それはもう、この夜の終わりみたいに絶句する。しかし、シルフィードは期待に胸を膨らませ、純真無垢な子どものように目を輝かせていた。
 これを裏切るのは男じゃない。
「くそっ。やってやるよこんちくしょ――!!」
 ハタヤマはシルフィードの腰をしっかりと抱え、彼女を持ち上げてその場でくるくると回転する。そして三度ほどターンを決めると、勢いそのままにシルフィードを高々と掲げた。
「気持ちいいのー♪ きゅい♪」
「ぐ――が、が……っっっ!!!!」
 ダンスを満喫するシルフィードとは裏腹に、小声で必死に苦悶を押し殺すハタヤマ。表情こそ笑顔で凍結させているが、その額には脂汗がすごい。彼はシルフィードに気取らせないため、なにかを堪えているようだった。

     ○

(偶然この場に居合わせたでモグが)
(仲が良さそうでよきかなでゲスなぁ)
 広場の中心よりやや離れた草葉の陰から、二人を見つめる二対の目があった。いや、幽霊じゃないけど。
 この特徴的な語尾を聞けば、おそらく察せられるだろう。巨大モグラと巨大火トカゲの幻獣ペア、フレイムとヴェルダンデである。
 彼らは主人にほっぽり出され二匹でぐだぐだくだを巻いていたら、偶然空を舞うシルフィードの姿を発見し、後を追ったらハタヤマがいてと、まるで作為的に仕組まれような展開の中にいた。
(元気そうでよかったモグ)
 シルフィードからハタヤマが旅だったことを知り、ヴェルダンデはとても心配していた。このあたりにハタヤマと同じような種族を見たことがなかったので、おそらくハタヤマは独りきりで旅を続けることとなる。帰属集団もないまったくの無頼で生き抜くには、この世界はいささか辛すぎる。だから、ヴェルダンデは目の前で健在なハタヤマの姿に、心の底から胸をなでおろしていた。
 ちなみに、ハタヤマも人化を操ることは彼らに知れ渡っている。じつはフーケ討伐には、一言も喋らなかったがフレイムも加わっており、その流れでシルフィードに説明を求めたからである。シルフィードもそんなに器用ではないので、あそこまで思い切った行動をしたハタヤマのことを誤魔化すことはできなかった。そしてそのことはもちろんヴェルダンデにも伝聞した。仲間外れはよくない、とはシルフィードの談である。
 もっとも、あんなことをした時点でハタヤマもある程度は割り切っているので、シルフィードたちにばれるくらいは想定の範囲内だったりするが。
(………………)
(……? どうしたモグ、フレイム?)
 フレイムはじっと彼らのダンスを見つめていて、先ほどからずっと殺気を放っていた。ヴェルダンデには察するべくもないが、フレイムはハタヤマに負けず劣らずの残念な趣向と思考回路をしている。なので、目の前でシルフィード(見目麗しい女性)と踊るハタヤマのことが心底羨ましく、血涙を堪えていた。
 そうやって剣呑な気配を発していたフレイムが、今度はほろりと涙をこぼし始めた。ヴェルダンデはその流れゆく滴に動揺した。
(ど、どうしたモグ、フレイム!?)
(ハタヤマさん……漢でゲス、あんたほんまもんの漢でゲス)
 ほろほろと心の汗が止まらないフレイム。水滴は彼の頬を伝い、ぽたぽた地面へと吸い込まれていった。要領を得ないフレイムの呟きに、ヴェルダンデは何事か分からない。ヴェルダンデは強い口調で、フレイムに説明を求めた。
(みるでゲスあの姿を)
 ヴェルダンデはフレイムの言葉にしたがい、改めてハタヤマを視認した。両手をシルフィードの腰に添えて、高々と彼女を持ち上げている。シルフィードは嬉しそうにきゃっきゃとはしゃいでいた。
(あれがどうかしたでモグか?)
(もっと下をみるでゲス。特に足)
 ヴェルダンデは目線を下げた。
(――!!)
 そして絶句した。
(ハタヤマさんの足が――『生まれたての子鹿』のように震えているッッッ!?)
 顔と手――上半身こそ、普段通りの飄々とした姿を崩さないが。彼女――シルフィードからは見えぬ下半身は、ガクガクととんでもなくヴァイブレーションしていた。そこでヴェルダンデは気づく。ハタヤマの顔に脂汗が滲み、やや血管が浮き出ていることを。遠目だから気がつかなかった。
(ど、どうして……)
(シルフィードの種族を考えれば、自ずと答えはでるでゲス)
 ヴェルダンデは考え込む。たしか、シルフィードは風韻竜――ある程度仲良くなったので教えてくれた――、故にあの姿は仮初めで。そこまで考えるに到り、ヴェルダンデも合点がいった。ハタヤマは、『重さ』に苦しんでいるのだ。
 シルフィードの先住魔法は、確かに姿かたちは変化させることができる。しかし、それはあくまで『姿かたち』のみ。質量、その他諸々は帳消しにできない。当然腕力や体力などは人間のそれを遥かに凌駕しているし、『体重』もドラゴンのそれである。女性の体重を聞くのは野暮だが、敢えて記すと1000kg(1t)以上。それを、ハタヤマはあの細腕で支えているのである。
 ヴェルダンデは思った。ただええかっこがしたいためだけに、あんな苦行に耐えるなんて。漢というより、ただのバカなんじゃないだろうか、と。彼にはフレイムの感銘の幾ばくかすら伝わらなかったようである。
 ハタヤマはシルフィードがある程度満足した頃に、ゆっくりと彼女を地に降ろした。その表情はなにか一仕事終えたような、汗を滲ませつつもやりきった横顔で。草むらの二匹は、そんな彼へ涙を流さずにはいられなかった。片方は漢を貫き通したハタヤマの気高さに、もう片方はそうまでして格好つけたがるハタヤマのアホさ加減に。重いなら重いって言えばいいのに。
「きゅいー♪ ハタヤマ、もう一回ー♪」 ピシッ
 シルフィードのその無邪気な一言に、ハタヤマは今度こそ固まってしまった。アゴが外れたようにおち、今にもぎゃあああと叫びだしそうである。
((もう一回……だと……?))
 ハタヤマの声にならない叫びは、確実に二匹に届いていた。
「……きゅい? ハタヤマ、どうしたの?」
 絶望を隠せないハタヤマに、それに気づいたシルフィードが上目づかいで瞳を覗き込む。少しだけ不安そうにしながら。
 はたやまはしょうきにもどった。
「はははもちろんだよシルフィちゃん☆」(やってやるよコンチクショーッ!!!!)
 今回は心の声が漏れなかった。死地に赴く兵隊のように、シルフィードの腰に手を添えるハタヤマ。この腰の感触だけなら、至福の触り心地なのだが。
 それを見つめる草むらの二匹は、心の中で敬礼を送った。
((無茶しやがって……))

     ○

 どこからともなく口笛が響いてくる。シルフィードはそれを耳にし、残念そうに顔をおとした。
「お姉さまがお呼びなの。シルフィ、もういかなくちゃ」
 名残惜しそうにハタヤマから離れるシルフィード。もっと遊んでいたかったらしい。
 ハタヤマは全身を不自然に震わせながら、脂汗だらだらで笑顔を返した。
「は、はは、は、そりゃ、残念、だ」
「きゅいぃ~……」
 猫耳が生えていたら間違いなくたれていそうなほど落ち込むシルフィード。だが、対するハタヤマはやっと終わったという開放感で涙腺が崩壊していて、滝のような涙を流していた。
「そうだ! ハタヤマも一緒に来る? 頼めばきっとつれてってくれるの!」
「いや、遠慮しておくよ。ボクがついてったら、また邪魔しちゃうかもしれないからね」
 タバサにはタバサの事情があり、考えがある。前回はやることがないのでついていったが、根城を決めた今、無闇に首を突っ込むべきではない。
 シルフィードはなにか言葉を続けようとしたが、発せずに口を閉じた。
「そう。じゃあ、シルフィいくね」
「ああ、いってらっしゃい」
 シルフィードは人化を解くと、双翼を広げ夜空へ飛び立った。おそらく彼女の行く先には、件の御主人様が着飾って待っているのだろう。
 ハタヤマは星空へ遠ざかる彼女へ手を振り続け、
「――オフン」
 そのままの状態でぶったおれた。仰向けで安らかに天を仰いでいるが、その瞳にはなにも映っていない。
「ハタヤマさ――んッ!!!!」
「見事だったでゲス……成仏するでゲスよ」
「殺しちゃダメだモグ――!!!?」
 ハタヤマへ駆け寄るヴェルダンデたち。後に彼らにその時の様子を聞くと、ハタヤマはもうゴール寸前だったという。

     ○

 こてんこてんに疲れ切り、『魅惑の妖精亭』へ戻ったハタヤマ。彼は自身に割り振られた部屋へ辿り着く手前で魔力を使い果たし、翌日、倒れ伏しているところをジェシカに発見された。
 そしてベッドに運び込まれ、なんとか一命はとりとめたものの。三日三晩指一本すら動かせぬほど疲弊しきり、全身筋肉痛でうなされたのであった。



[21043] 五章前編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:10
【 五章前編 『使い魔品評会』 】



 ガリア王国の首都、リュティス。
 大陸でも最大と謳われる大都市で、古いながらも格調高い街並みは、訪れたものにため息を吐かせるというもっぱらの噂。ガリアという王国はトリステインをもしのぐ魔法先進国としても有名である。
 そんな旧ヨーロッパをくりぬいたような街頭の片隅の、こじゃれた喫茶店で紅茶をすする男がいた。
「まーったく、息苦しい街だねこりゃ」
 白いワイシャツに黒いパンツは、どこへ行っても変わらない。その男はよく目立つ黄金の瞳で、はるか遠くに鎮座している豪華絢爛な宮殿に眼を細め、ため息を吐いた。
 もっとも、感心や感嘆とは程遠い感情に駆られて、だが。
「どうして人間はこう、デカい建物に住みたがるのかねぇ。しかもそこかしこに神を奉る石像みたいなのが立ってて、落ち着かないったらありゃしない」
 口をつけたカップをおろすと、顔の全貌が明らかになる。ぼさぼさに見えつつも手入れが行き届いた黒髪と、子どもっぽさが薄れた悠然な顔つき――
「ほあっ、熱っ! 紅茶こぼした!!」
 ……は、すぐさまゲシュタルト崩壊ばりに崩れ去り、ふーふーと液体が引っかかった足に息を吹きかける姿があった。ハタヤマである。
 本当にこいつはちょっとの間すら、格好よくキメられない男だ。
 ハタヤマが魔力を回復させたのは、ぶっ倒れて丸一日後のことだった。若いせいか、はたまたこの世界特有のなにかが働いているのかは知らないが、意外にも早い復活である。
 しかし、無理な身体強化の代償に様々な筋肉へガタがきて、立ち上がれたのはそれから二日後のことだった。
 調子を戻したハタヤマは、すぐに活動を開始した。レナードから新たな地図を仕入れ、世界旅行にうって出たのだ。しかし、ジェシカが何故か烈火のごとく怒り、『門限までには帰ってくること』を確約させられたが。
 今回の目的はガリア領内のサン・マロン付近にあるらしい、『巨大風石』を狙ってのことだった。レナードからの情報によると、なんでも、王家秘蔵の隠し鉱山があるらしいというもっぱらの噂だ、とのことだ。非常に曖昧である。
 あまりにも信憑性が低そうなので、他に無いのかとハタヤマが訪ねると、
「本物はそうそう手には入らん。それが手持ちじゃ一番確かなスジのもんだ」
 と返された。ようするに目下収集中らしい。
 しょうがないのでハタヤマはそれで妥協し、とにかく地図の場所へ行ってみたのだが。
「完全武装の兵隊がいるなんて聞いてないよ……」
 ハタヤマはうんざりと机にへばりついた。たしかに鉱山はあった。しかしそこは、明らかに王家から来ました、といわんばかりの物々しい制服に身を包んだ魔法使いたちによって厳重に警戒されており、危なすぎて近寄れるようなところではなかった。これでは風石がどうのという前に、こっちが風穴を穿たれてしまう。まったく、骨折り損のくたびれもうけである。
 しかし、手ぶらで帰るのはあまりにも癪だったので、ハタヤマは学院で見かけた腹に袋があるネズミ(命名:袋ネズミ)にメタモルし、腹いせに小さな風石の欠片を数時間かけて大量にかっぱらってきた。こいつは転んでもただでは起きない。
 そして一仕事終えてリュティスに寄り、ちょっと早めのアフタヌーンティーとしゃれこんでいるのであった。比較的はずれがなさそうな、シュガートーストと紅茶(っぽい色した飲み物)を注文し、舌鼓をうつ。なかなかに美味い。
 ちなみに通行証は地図と一緒に手渡されている。おそらく偽造だろう。どこからこんなものを引っ張ってくるのか、レナードという男は得体が知れない。
「さて」
 ティーカップを小皿に置くと、チンと甲高い音を立てた。ハタヤマは戦利品の入った麻袋をおもむろに引っつかむと、その場に勘定を置いて立ち上がる。
 双頭犬にメタモルしても、トリステインまでは身体強化で駆けて二、三時間ほど。まだ日は高い。
「ちょっくら観光していこうかな」
 ハタヤマは麻袋をベルトにくくりつけると、雑踏の中へ溶け込んでいった。

     ○

 石造りを基調とした重厚な街並み。
 あちこちに水路が張り巡らされ、それはさながら『水の街』とでも題をつけたくなる美しさを誇っている。だが、聞いた話によるとこの国は風と水を足して二で割ったような町並みが自慢であるそうだ。なんとも曖昧な売り文句である。
 しかし、それも表通りだけ。一歩裏へ足を踏み入れれば、そこは薄汚れた人々の集うスラムへと変貌する。ボロ布としか思えないほどすりきれた衣服に身をくるんだ老人、異様に腹が膨れた子ども。栄養失調で腹部が膨張しているのだ。
 ハタヤマはその光景を横目にしながら、立ち止まることなく素通りする。
 どこも同じ。人間の世界は、どこも同じだ。
 ハタヤマの故郷でさえ、行くところに行けばこんな光景など珍しくないという国もあった。持つ者のところには金が集まり、持たざる者のところにはなにももたらされない。
 しかし、それが不幸かというと、どうやら一概にはそうでもないようで。ハタヤマは以前、テレビ番組のドキュメンタリーで、あくせく働きつつも『つらい、つらい』と苦しみあえぐサラリーマンの姿と、毎日羊を追ったり畑仕事をしたりと、暮らしはまずしいが『家族といられるだけで幸せだ』とインタビュアーに答えていた遊牧民の少女の姿を思い出した。幸せの尺度はヒトそれぞれなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、ハタヤマは大通りをつきぬけて街の外れへと差し掛かった。
「――!」
 中央公園をだいぶ過ぎた、裏通りの貧民街。そこでハタヤマは立ち止まり身を隠した。
 建物の影から凝視する先には、養老院か孤児院かは分からない教会のような建物。その門前の花壇に水をやっている老婆の姿から、ハタヤマは視線が離せない。
「ばーさん」
 ハタヤマは魂が抜けたように呟く。老婆が振り向いたことでその錯覚は確信へと変貌した。あの村の事件から行方がしれなかった、あの時のおばあさん。アレキサンドルの母であったマゼンダ婆さんの姿が、こんなところにあったのだ。
「よかった」
 タバサたちは約束を守ってくれたようだ。今こうして、穏やかな表情で花壇の手入れをしているばーさんの姿が証拠になる。少しだけ気に掛かっていたことの答えにめぐり合え、ハタヤマは暖かい気持ちを胸に懐いた。
 教会から、十にも満たない年の頃らしき子どもたちが数名駆け出してきた。マゼンダははしゃぎまわる子どもたちに何事かどなり、子どもたちはいたずらっぽく笑いながら散っていく。マゼンダは子どもたちを見送って、ため息を吐きながらもわずかに微笑み、庭仕事を再開した。
(頑張ってね)
 ハタヤマは胸中で言葉をつむぎ、そっとその場から立ち去った。顔を見せれば、辛い記憶を呼び起こしてしまうかもしれないから。
 顔を見せれば喜ばれるかもしれない。そんな考えは、微塵も浮かばなかった。

     ○

「ほへー、でっかいなー」
 ハタヤマは後ろへ転びそうなほど体をのけぞらせ、目の前の城に感嘆をもらした。遠目で見たときはただただあきれたが、ここまで寄るとさすがに圧巻せざるを得ない。なんとなく城というか、宮殿のような感じだとハタヤマは思った。どこがどうとかは言い表せないけど。
 ハタヤマは今、リュティス郊外にあるヴェルサルテイル宮殿の前へ訪れていた。シルフィードたちとサビエラの村へ行ったとき、途中で立ち寄った場所である。そのときのことをハタヤマは覚えていて、なんとなく気になったのである。
 しかし、ヴェルサルテイル宮殿『前』、という単語にはやや語弊がある。
 実際の宮殿はまだまだどどんと離れているのだから。
「つーか庭広すぎでしょ」
 庭園はそこに小さな村を開拓できそうなほど広大で、豪奢な仕掛けに満ちあふれている。ハタヤマは外観をぐるりと一瞥し、不機嫌に顔をしかめた。
 森を切り開いたといわれる宮殿前の庭園は、現在も様々な職人の手により増改築を繰り返されているらしい。色とりどりの花が咲き乱れる庭園もあれば、清流をたたえた巨大な噴水広場だってある。それらは整然と手入れが行き届き、とても人工的な匂いを放っている。自然界には『秩序的な物体』というのはほぼ存在しない。綺麗に剪定された樹木、鏡のような大理石で作られた噴水。それは、『自然』とは相容れない、匂い立つほどに人工的な臭気を放つ。
 ハタヤマはそこに住んでいた生き物や魔法生物のことを思うと、やや不快な感情がにじみ出る。後から来たくせにずかずか領土を広げやがって、何様のつもりだ、という反発感が。
 ここまで来たんだから中も見せてもらおう、と門番の衛兵に掛け合ってみたが、取り付く島もなくつっぱねられた。用件のある貴族ならまだしも、平民ごときが恐れ多くも陛下のお所へ踏み込むなど論外だ、というのが兵士の言だ。平民を舐め腐っている。
 こうなったら意地でも中に入りたい。ハタヤマは持ち前の無駄な反骨心に火がついた。
「――チェ~ンジッ!!」
 手近な木陰に入り精神集中。イメージは――あいつにしようか。
 元気よく無意味に叫ぶハタヤマ。彼の魔法は呪文を必要としないのだが、ハタヤマは好んでこういったかけ声をする。何故なら、その方が格好いいと思っているからだ。一時期オリジナルの振り付けまでつけていた時期もあるが、『巫山戯すぎじゃ』、と篠原に小一時間説教をされたので止めた。格好いいのに。
 突然響いた叫び声を怪しんだ衛兵たちが、ハタヤマがいるはずの木陰へ殺到する。しかし、そこには誰もおらず。ただぽっかりと開いた穴だけが残っていた。

     ○

(あーあ、退屈だ)
 深い深い水の底で、『彼』はため息を吐いた。もう何度目になるだろうか。百回を超えたころに、アホらしくなって数えるのを止めた。
 彼は昨日の晩からずっと、この水面の下で空を眺めている。
 周辺はよほど暗い場所なのか、いつまで経っても日が射さない。もう、今が昼なのか夜なのかも分からなくなっていた。
 それが嫌なら外に上がればいいと思われるだろう。だが、それはできない。彼には、『動く』という機能が備わっていないからだ。
(今度は何年このままなんだろうな)
 生まれいでて数千年、こんなことは何度もあった。己を使う宿主が死に、次の宿主が現れるまでただじっと待ち続ける。それは悠久にも感じられるほど長く、つまらない時間だった。
 だから、自分から宿主を選んで、『使ってやっていた』というのに。とある青髪のメイジの命令を聞いたばっかりに、こんなところまで落とされてしまった。
 まあ、別にいい。やっててそこそこ面白かったし。一時の暇つぶしにはなった。
 だが、この状況はちと不味い。こんな人目につかない場所では、そもそも見つけてもらうこともできない。拾わせ、手に触れさせなければ、『使ってやる』ことができない。もう少し、人が多いところへ行きたかった――
(……ん?)
 暗い、陰い闇の底。こんな臭くて汚いところ、誰もこないはずなのに。
 『彼』は、水面の向こうから、こちらを覗き込む影を見つけた。

     ○

 ヴェルサルテイル宮殿の中心にそびえ立つ巨城、その名を『グラン・トロワ』という。トリステイン王城に優とも劣らないバカでかい城で、その面積は平民の家を千戸詰め込んでもまだ余裕がありそうなほどだ。
 その近辺の薔薇園では、雀よりもやや位の高そうな鷹っぽい鳥たちが餌を啄んでいた。外敵のいない、入り込みようのないこの環境は、彼らにとってとても都合が良い。
 だが、そんな彼らの静寂を切り裂くかのように、いきなりもっこりと地面が盛り上がった。
「――――――ッ!!」
 けたたましい鳴き声を上げて方々へ散っていく鳥たち。突然の乱入者にたまげたらしい。野性の薄れた野鳥たちは、戦うことを忘れてしまったようだ。
 急造の小山はすぐに崩れ、その下からひくひくと毛むくじゃらの長い鼻が現れる。それがもこもこと土から這いだし、日光に全身をあますことなくさらした。
 その正体は、ややオレンジがかった体毛の巨大モグラであった。
「潜入成功!」
 嬉々とした様子でモグラははしゃぐと、光に包まれ煙をまとい、いきなり人間の姿になる。宮殿に潜入したモグラはハタヤマだったのだ。誰にも見つからず侵入するならば、今回は地下が最も都合がいい。ハタヤマはメタモルの対象に、友モグラであるヴェルダンデを選んだ。
 ハタヤマは周囲を見回すと、うんざりと顔をしかめた。
「うへぇ、むせかえるような薔薇の匂い……鼻がバカになっちゃういそうだよ」
 視界を埋め尽くす薔薇、バラ、ばら。そこにはまるでルイス・キャロルの世界が具現したような光景が広がっている。ここがトランプキャッスルだと不意に言われれば、ひょっとしたら信じてしまうかもしれない。もっと奥を覗くとなんと世にも珍しい青薔薇が咲き誇る庭園もあり、ちらりと見えているガーデンパラソルがなんとも貴族っぽくセンスである。天気の良い日は皆で着飾り、のどかにお茶会でもするのだろうか。良い身分である。貴族だから当然だけど。
 超感覚を持つハタヤマに、この芳香は相当キツい。たとえ良質な香りだろうと、強すぎればそれは異臭となる。彼にとってこの空間は、強烈な刺激臭が充満する密室へ放り込まれたようなものだった。
 ハタヤマはひん曲がりそうな鼻をつまみ、辟易した。
 こんなところにはいたくない。ハタヤマはここが王城の敷地内だということも忘れて、奥へ奥へと進んでいった。

「くさい」
 行き着いた場所は、別の意味でくさかった。漢字で表すと『臭い』だろうか。
 ハタヤマは人目を避けながら、城からつかず離れずを保ちながら敷地の左奥へ向かった。そして、行き着いたのがこの肥だめのような汚水槽であった。キッチン、トイレ、その他諸々の排水を担っているのか、汚水が貯まっていて悪臭に耐えない。鼻をつまんでも臭ってきそうだし、なにより視覚にもよろしくなかった。
 ハタヤマはこの汚水が行き着く先を辿る。排水溝は、城壁を潜って外へと続いていた。
(――こんな汚物を、外へそのまま流しているのか?)
 ハタヤマは衝動的に、こんなものぶっ壊してやろうかという憤りに襲われた。浄化されていない糞尿や石鹸などは、そのまま自然に還すと、その土地を殺してしまう。野に還せば土が死に、河に還せば水が死ぬのだ。
 時代風景が風景だけに、こんなことも予想できる範囲内ではあるが。やはり、見ていてあまり気分のいいものではなかった。
 目にしたくないものを見てしまった。帰ろう、とハタヤマは思って立ち上がり、その場から背を向けようとした。
「……ん?」
 不意に、動きを止めた。振り返ろうとした視界の端に、異質な輝きを捉えたのだ。よく瞳をこらすと、汚濁した水の底に人工的な照り返しが見え隠れしている。ほんの僅かな光量ではあるが、ハタヤマの超感覚なら察せられなくもない。
 ハタヤマは悩んだ。
(取りに行く? いやいや、こんなきったねー泥水の中に潜るなんてヤダよ。こっちが病気になる。じゃあ、見逃す? うーん……でも、なんか気になるんだよなぁ)
 普段は働かないが極限状態ではにわかに騒ぎ出す、自身の第六感が告げている。あれはおそらく『イイモノ』だと。しかし、ここが極限状態なのだとすると、とても嫌な感覚であった。
 ハタヤマは悩みに悩んだが、結論は取りに行くことに決めた。しかし、そのまま入水するとヘタすりゃお陀仏一直線なので、もちろんながら変身して。
 イメージは――毒や細菌に強い生物。
「メタモル☆チェンジング~!!」 ピカー
 仮面ライダーのパクリみたいな振り付けでポーズを決めるハタヤマ。ビシッと体を停止させたところで、眩い光と猛烈な煙が溢れ出た。誰もいないので久しぶりにやってみたが、やはりかっちょいい。こんなに渋いのに、何故篠原は怒るのだろうか。ハタヤマはいくら考えても分からなかった。真なるバカ、ここに極まれり。
 今回メタモルしたのは『ミジンコ』。細菌を餌とし、時として赤潮なんかも発生させる適応力の高い生き物だ。ただ、これは普通のミジンコとは違い、『魔法生物』のミジンコ。イメージは学生時代同じ使い魔学科だった、巨大ミジンコを核とした。体長が人間の胴体ぐらいあるので、見た目はすこぶる気持ち悪い。
 ハタヤマはすぐさま汚水に飛び込むと、水底から『彼』を救いあげた。
「うへぇ、ちょっと臭い残ってるよ~……早く帰ってシャワー、は無いから風呂入りたい」
 ハタヤマは変身を解くと、腕の臭いを嗅いで露骨に顔をしかめた。帰りに香水買わないとな、と切なげに呟いている。ヒトは見た目が九割五分、格好良くないとモテないのだ。
 ハタヤマは自身についてしまった悪臭に悲しみながらも、拾い上げてきたものを改めて確認する。
「……ナイフ?」
 生活廃水の底に沈んでいたのは、一振りのナイフであった。鍔はひし形を重ね合わせたようなギザギザで、上下左右の端の真ん中に赤、青、緑、茶色のビー球よりやや小さな、丸い宝石がはまっている。握りは指の形に段々の入った握りやすい細工が施してある。そして、特に眼を引くのが刀身の見事な紋様である。はた目には分からないが刀身全体にいくつもの波紋が折り重なったような意匠が刻まれており、観賞するだけでも面白い。
 ハタヤマは、それが汚泥の底に沈んでいたものだということも忘れ、しばし時を忘れて見入った。

 ――ゾクリ

 不意に、背筋を氷柱でなぶられたような寒気に襲われた。理由は分からない。だが、心をかき乱す焦燥感が、どんどんと膨れ上がっていく。ハタヤマは全感覚を遮断し、第六感だけに魔力を集結させた。そうすることで物理的な感覚は一切感じとれなくなるが、代わりに眼に見えぬものや耳に聞こえぬもの、いわゆる『直感』でしか気取れないものを察知できるようになるのだ。
 危険信号は、己の魔術回路から出ている。原因の根本は――右手の先、握り締めた物体。
(――精神操作系魔法〈マインドクラック〉かッ!?)
 ハタヤマはそれを看破するやいなや、慌てぬように自身を抑えながらも、迅速に右肩から先の魔力回路を閉じた。ハタヤマの世界では、生きとし生けるもの皆に魔力回路というものが全身に張り巡らされている。それはいわば魔力の血管とでも形容されるもので、それを導体として魔法を行使しているのだ。なので詠唱もいらず扱いやすい反面、壊れやすいというデメリットがあった。自分より強い相手の魔力をモロに浴びせられるとコロッと操られてしまうこともあるし、ちゃんとした防護法を知らなければすぐに回路が損傷して再起不能、なんてこともザラにあったりする。ゆえに、そういったときの対処法も、ハタヤマは篠原から学んでいた。
 右腕を侵食していた異物は、急に壁にぶち当たったように堰き止められた。対処が遅れた右肩から先は完全に乗っ取られてしまったが、こういう魔法は脳や延髄さえ無事ならそう厄介でもない。ハタヤマはほっと一息吐いた。
 しかしその隙を逃さんとばかりに、右腕がまるで意思を持ったようにしなり、ハタヤマの心臓を穿とうとした。逆手のナイフはほぼモーションもなく、吸い込まれるように彼の胸へと迫る。
「おわっとぉっ!」
 だが、ハタヤマはそれは読んでいたのか、やや焦りながらも慌てず騒がず右手首を左手でひっつかむ。右腕はギリギリと左腕を振りほどこうとするが、左腕は万力のようにびくともしない。本体と末端の身体強化の差である。
「な、なんだこれ!?」
 周囲に生き物の気配はなかった。しかし、自分は現に攻撃を受けている。敵の正体を掴めないことにハタヤマは焦燥に駆られるが、自分を殺そうとする右腕の力は徐々に強くなってきていた。左腕から伝わる微量の魔力を吸い取って、力を増幅しているらしい。
「上等だぁ……――大人しくしろッ!!!!」
 ハタヤマは全力でエレキバーストを発動させ、左腕を伝って己の右腕へぶちこんだ。あとのことを全く考えない、ある意味無謀な選択肢である。右腕は高圧電流に感電し猛烈に痙攣を起こしたが、やがて力尽きたようにぽとりとナイフを落とした。それと同時に、右腕の感覚が戻ってくる。
「――あ゛でででででッ!!!! 痛、自分でやったけど痛い!!」
 右腕の神経がずたずたになったような、ひどい激痛にもだえ苦しむハタヤマ。外傷こそないものの、しばらくは痛みに悩まされそうである。結果は分かりきっているのだから、ある程度加減すればよかったのに。まあ、正体不明の魔法を迎撃するのに、相手以上の強大な魔力をぶつけるのは有効な対策なのだが。
 右腕を抱えてゴロゴロ転げまわるハタヤマの耳に、語りかける声があった。
「驚いたな。操れない」
「ん?」
 ハタヤマはきょろきょろと辺りを見回すが、誰の姿も見つけられない。不振気に眉をひそめていると、またも声が掛かった。
「こっちだよ。おまえさんの足元さ」
 ハタヤマは呼ばれるがままに視線を落とした。しかしそこには、先ほど取り落したナイフしかない。
「狐にでも化かされたかな」
 ハタヤマは何事もなかったように、頭を掻きながら踵をかえした。
「ちょちょ、おい待てよ! 無視して帰ろうとするんじゃない!」
「声がすれども姿は見えず~。いったいなんだろうね~」
 ハタヤマは心底不思議そうに、きょときょとと視線をさ迷わせている。響いてくる声が怒気を孕んだ。
「馬鹿やろうこっちだ! てめぇ、わざとやってんのか!!」
「わざとに決まってんじゃん」
「なっ………!!!!」
 首だけ振り返り、いやらしく口元を歪めたハタヤマ。どうやら分からない振りをして、おちょくっていただけのようだ。
「てめぇ、嫌なやつだな。性格がひん曲がってる」
「よく言われるよ」
 直接的な非難もどこ吹く風。ハタヤマはまったく動じない。
 ハタヤマは声の発信源(ナイフ)を拾い上げようと歩み寄ったが、手を伸ばした途中で警戒するように止めた。また操られてはたまったものではない。
「大丈夫だ。もうなにもしないさ」
「………………」
 害意はないと言われたが、にわかに信じないハタヤマ。口では油断させておいて今度こそぐさっ、という可能性は無きにしも非ず。ハタヤマは疑り深く、地面のナイフを観察している。
 ナイフはハタヤマが自分を手に取ることを待っていたが、諦めて先に折れた。
「わかった、手にとらなくてもいい。ただ、俺の話を聞いてくれ」

     ○

「ふ~ん、まあ事情は分かった」
 ナイフは延々と語り続けた。いわく、自分は『地下水』と名乗る魔法ナイフ(インテリジェンスナイフ)であること。そしてとある依頼を引き受けたが、失敗して壊されかけたこと。そして命を助ける代わりにそいつの依頼を引き受けたが、元雇い主の逆鱗をかって下水に流されたこと。
 ハタヤマは黙って聞いていたが、話が終わるとあきれたようにため息を吐いた。
「名前通りドブに流されたってことね……洒落が効いてるや。しかし、王女に裸踊りさせたなんて、ずいぶんと羨ましい話じゃないか。是非ともその場に居合わせたかったね」
「暇つぶしさ。あの王女の慌てっぷりと、家臣たちの騒然とした様は圧巻だったな」
 思い出しておかしくなったのか、鈴のような笑い声が脳に木霊した。インテリジェンス系のアイテムは音波を発して思念を飛ばしてくるので、厳密には喋るという形容は誤りだったりする。
 ハタヤマは以前覗いた王女の姿を記憶の底から引っ張りだし、裸踊りする様子を想像してにやにやした。非常に邪悪である。
「あんたには感謝してるんだぜ。あのまんま沈められてたら、危うく錆びるどころか腐っちまうところだったからな」
「その割には手痛く襲いかかられたような気がするけど」
「悪かったさ。なにせ俺の操り人形にならなかったやつなんて初めてでさ。ついつい興味が勝っちまったんだよな」
 地下水はこれまで人間に自分を使わせ、戦場を渡り歩いてきたらしい。家も金も飯も必要ないが、退屈なのには耐えられない。生涯これ全て暇つぶし、というのが彼の座右の銘らしい。その過程で金や名声を集めることにはまり、そしてそれがガリア王家に目をつけられる理由となった。地下水はつい最近ガリア王家に吸収され、秘蔵の懐刀として珍重されていたらしい。
「人を乗り継いでどこへでも入りこめるし、最後は自殺に見せ掛けるからあとには証拠も残らない……まさしくアサシンナイフ、ってか」
「もっとも、最近はあのわがまま王女にいい加減うんざりしてたからな。今回のことはむしろありがたいくらいだぜ……ところで、だ」
 地下水はおもむろに切りだす。
「あんた、俺を使わないか?」
「キミを?」
「見ての通り俺は魔法剣だ。平民を『使う』より、やはりメイジに『使われる』ほうが都合がいい。道具は、己の力を真に引き出してくれる相手に使われるべきだ」
 地下水はハタヤマのことをメイジだと認識したようだ。自身の『支配』(マインド・バインド)に抵抗し、あろう事か反撃してきたのだから。彼にとって、ハタヤマが自分を振るうに相応しい……かどうかは分からないが、まあ最低ラインはクリアしていると判断したのだ。
 ただ、ハタヤマの反応は芳しくなかった。
「キミ、初対面のボクを乗っ取って操ろうとしたんだよ? そんなやつをどうやって信じろっていうんだい」
「なんだ、ちょっとじゃれただけさ。笑って許してくれよ」
「――あんま巫山戯てると、キミの魂粉々に砕くよ?」
 ハタヤマは右腕に魔力を迸らせ、見せつけるように地下水へ近づけた。目視できるほど高度に圧縮された魔力は、さながら右腕に青い雷光をまとわせたようにバチバチと火花を散らす。
「ボクは舐められるのが大嫌いなんだ。キミがそんな調子なら、ボクはキミを信用することができない」
「お、おう……」
「さっきまでの無礼を詫びて、二度とボクに危害を加えないと誓ってくれ。そうすれば、一考くらいはしてあげてもいいよ」
 先ほどまでのいい加減な空気が霧散し、圧倒的な魔力による圧迫感が地下水を責め立てる。ハタヤマが発する質量を持ったかと錯覚するかのような魔力は、敵意とも殺気ともつかない刺々しさを感じさせた。言葉にしなくてもひしひしと伝わってくる。『おまえが先に手を出したんだ、謝れ』、と。
 地下水は少し反発心を抱いたが、確かにハタヤマの言うとおりなので形だけは謝罪する。
「けっ、悪かったさ。だがな人間、もう少し口のきき方があるだろう。おまえこそそれを直せや」
「……ボクの言葉の意味、伝わらなかったかな?」
「伝わったさ。だがな、使われるとはいえ従属するわけじゃない。上から目線で見下ろすな」
「ひょっとして出来やしないとでも思ってるのかい? 負荷限界以上の魔力を浴びせて、精神崩壊させてやろうか?」
「その前に俺があんたの体を乗っ取って、第二の人生を歩ませてやるよ。あんたは一生口出し禁止の、傍観者席直行だがな」
 お互いに一歩も引かず、ギスギスと剣呑な空気をせめぎ合わせる一匹と一振り。このままにらみ合いが続くと思われたが――
「――ふっ」
 ハタヤマは薄く笑い、地下水を手に取った。地下水はすぐさま『支配』を掛けようとしたが、ハタヤマの様子が妙で思いとどまる。ハタヤマは地下水を腰に挿した。
「……?」
「その我の強さ気に入った。ボクに使われることを許可してあげよう」
「はぁ?」
 ハタヤマはからからと愉快げに笑っている。地下水は彼の思考回路が理解できず、疑問符を飛ばすばかりであった。
 だが、強き『力』と『個』を持つ者は、災いに好かれやすい。地下水はこの先に起こるであろう、『暇を潰せそうな出来事』を想像し、久しぶりに心が高ぶるのを感じた。
「そこでなにをしている!!」
 早速災いがやってきた。
「へ?」
 叩きつけられた怒声にハタヤマが振り返ると、数名の衛士がこちらに向かって駆けてきているのが見えた。
 どうやら笑い声が大きすぎて見つかってしまったらしい。
「あちゃー、面倒なことになったな」
「早く逃げた方がいいぞ宿主よ。ガリアの騎士(シュヴァリエ)はしつこいからな」
 地下水が茶化すように嘯く。ガリアの人々は信仰心が強く、そのせいか忠誠心や矜恃に厚い。なので、城の衛士ともなると、お国のために凄まじいほどの愛国心を見せるのだ。現王女が不人気とはいえ、先王に忠義を立てた古参の騎士にはまだまだそういった者達が多く残っている。
 衛士たちが杖を構えるのを確認して、ハタヤマは一目散に逃げ出した。
「ひぇー、くわばらくわばら」
 ハタヤマは襲い来る風刃や炎槍、雷撃に姿勢を低くして頭を抱えやりすごし、城の塀へと辿り着くと一息に乗り越えた。軽く三メートル以上はあるが、身体強化を使えば五メートルまでなら造作もない。
 両手両足で着地の衝撃を殺し、獣のように地に降り立つ。
「あんたを見てると驚くことばかりだ。そんな魔法どこで覚えたね?」
「半分自己流、もう半分は故郷の師匠が教えてくれたのさ」
 ハタヤマは間髪入れず精神集中へと移行し、すぐさま双頭犬へとメタモルした。風石とともに麻袋へ詰めこまれ、首から提げられた地下水はもう驚きを通り越して質問する余裕もなかった。
(――なんなんだこいつは!?)
 ついさっきまで人間だったのに、もうその気配が欠片も残っていない。それどころか、生物として発しているオーラが、完全に変質しきっている。こんなことはありえない。
 通常、『変化』の魔法は姿かたちは変えられるが、存在そのものまでは変えられない。たとえ別の姿をしていても、その本質は決して変わらないのだ。だが、この男が操った魔法は、その本質さえ書き換えている。まるで、人間という殻を脱ぎ捨てて双頭犬へと生まれ変わったかのように、人間であった気配が失せている。いや、存在が完全に双頭犬のものへと変質してしまっているのだ。
 こんなことは、猿が人間に転生でもしたようなものだ。決してありえない、不可思議で奇妙な事象である。
「……宿主よ。あんた、本当にいったい『なん』なんだ? あんたは、本当に人間なのか?」
「その辺については後で説明するよ」
 ハタヤマは強靱なバネを利用し、弾丸のように走り出す。馬よりも早いその足は、大抵の生き物なら振り切ってしまえるだろう。ハタヤマは空から索敵されやすい街道を避け、森の中をひた走る。
 だが、ハタヤマは甘く見ていた。ガリアの騎士たちの忠誠心を。
「――どわぁ!?」
 中空から降り注いだ火球(ファイアー・ボール)。ハタヤマは勘だけでそれを察知し、高速で左へ車線変更することでそれを避けた。
「な、なんだ!?」
「南タルブへ続く林道にて、野生の双頭犬(オルトロス)を発見! 生息区域ではないため、どこかの非合法組織から逃げ出したものだと予想される! 市民の安全確保のため、ただちに攻撃を開始する! 応援を頼む! 繰り返す――」
「いぃっ!?」
 超感覚により遥か百メートル上空を飛ぶ竜騎兵の通信を聞き、ハタヤマは目ん球が飛びださんほどに動揺した。彼はこの世界で幻獣がどう思われているのかを考えていなかったのだ。そこそこ強い幻獣は、人間にとって恐怖の対象となる。双頭犬は高位でこそないが中級の幻獣なので、殲滅候補ととられてしまったのだ。
「いやあぁ駆除されるうぅぅぅうぅっっっ!!!!」
「あーあ、龍騎士隊まで出てきちまったよ。あれを撒くのは骨が折れるぜ」
 他人事のように呟く地下水。ハタヤマはもうそれどころではなかった。絨毯爆撃のように飛来する炎球を必死こいて避けまくるハタヤマ。恐怖と悲しみで泣き叫び、その姿はとてもみっともない。
「ちくしょう……ちくしょ――――――!!!!」
 ハタヤマは半ば自棄になりながら、南へと進路をとった。
 確かこっち方面には大きな河があったはず。
 なんとしても逃げ延びて、水棲生物にメタモルしてから河を下って追跡を撒いてやる!
「うぉぉぉぉぉおぉっっっ!!!!」

 飛び交う爆発と火柱の中を、シュワちゃんさながらに突っ切るハタヤマ。そんな彼をあざ笑うかのように、追っ手は次々と増えていく。
 彼の決死の逃走劇は、今しばらく続きそうである。

     ○

「品評会?」
 いつも通り日記をつけていた俺は、藪から棒に投げかけられたその言葉をオウム返しに繰り返した。ルイズはそんな俺を腰に手を当てて高圧的に見下ろし、きつい調子で睨みつけている。
「そうよ、品評会。春の使い魔召喚の儀式で呼び出した使い魔のお披露目兼格付けの催し物なの」
「か、格付け?」
「そう、格付けよ! この会で万が一つまんない能力を披露したりしちゃったら、むこう一年笑いものにされちゃうんだから! それどころか卒業までの語り草よ! ……嫌な意味で」
 ルイズの眼が燃えている。まーた変な自尊心に駆り立てられてるよこいつ。めんどくせぇなー。
「今度こそ汚名返上のチャンスよ! 誰よりもすごい芸を……いいえ、贅沢は言わないわ。ツェルプストー。そう、なんとしてもツェルプストーの使い魔にだけは勝つのよ!」
 ルイズは握りこぶしで力説している。
 キュルケの使い魔ってあのでっかいトカゲだろ? 無理だっつの。俺は火なんか吐けねぇし。
 俺は冷めた眼でルイズを見つめたが、ルイズはそんなものどこ吹く風。びしりと俺に指をつきつけてこんなことをのたまいやがった。
「来月の本番までに、なにか芸を一つ身につけておきなさい。しょうもないのはダメ。皆が私を見直すような、素晴らしくて美しいやつだからね!」
 ルイズはできなかったら一週間飯抜き! と言い残して、さっさと布団に入っちまった。まったく、人をなんだと思ってんだ。って犬か。ちくしょう。
 自慢じゃねぇが俺は特技なんてなに一つもってないぞ。まったく、おまえらでいうところの『平民』になにを期待してやがんだ。
 まあ、ぶつくさ言ってもしかたがない。
 タイムリミットは一ヵ月後か。やれやれ、どうしたもんかね。

     ○

 次の日、俺はルイズに伺いを立てて、馬を一頭出してもらった。街へ行くためだ。なぜ街へ来たかというと、かくし芸のネタ探し――というのもあるんだが、もう一つに、あいつの話を聞きたかったからだ。
 俺は三時間かけて馬の背に揺られ、城下町の門前まで辿り着くと、馬を預けて街へ入り込んだ。地理に明るいわけでもないので始めはやや戸惑ったものの、『魅惑の妖精亭』という名前を頼りに道行く人に尋ねるとすぐに分かった。最近新装開店した、話題の酒場兼宿屋らしい。路地を抜け看板を見つけた俺は、恐々しながら戸を叩いた。
「はいはい、まだ準備中ですよ……おや?」
 扉の隙間から生えてきた人のいい笑顔は、俺の顔を見ると素に戻った。
 そいつ――以前、聖 京介と名乗った――はよく来たと俺を招き入れると、手近なテーブルに座らせ、奥の人に何事か頼んで皿を一膳持ってきた。俺の前に置かれた皿には、真っ赤なパスタが盛り付けられている。どうやらまかないの時間だったらしい。
「で、なんでボクのところに来たわけ?」
 ふるまわれたトマトパスタをもりもりむさぼっている俺を、腕組みしながら机にもたれかかって呆れた様に見下ろす聖。こいつは俺が突然訪ねて来たことにいささか驚いたようだが、特に邪険にはしなかった。
「話を聞かせろって言ったじゃんか。それと、相談事が少し」
「余所へ行ってよ。男の愚痴なんか聞いたって、なんの特にもなりゃしない」
「つれないこと言うなよー」
 冗談を言いあって絡む。聖も本気では嫌がっていないようで、俺の馬鹿話につきあってくれた。こんな風に誰かと話すなんて久しぶりで、とても楽しかった。
 他の従業員はまだ寝ているらしく、店内は閑散としている。聖の話では、みんな夜が遅いので昼から起きてくるそうだ。そうこうするうちに俺は飯をぺろりとたいらげ、お冷やをぐいっと一息にあおった。
 話は、まず俺たちの境遇についてから始まった。
「ふーん……『サモン・サーヴァント』、ねぇ」
「おまえは違うのか?」
「うん。ボクがここへ来たのはそれのせいじゃない。まあ、間接的にはそれが係わってるかもだけど」
 俺が知っていることについて聖に語って聞かせると、聖は自分は違う経緯でここに来たと話した。なんと、こいつは呼ばれてこの世界に来たわけではないらしい。そういえばこいつの体には、ルーンが刻まれていなかった。聖がなぜこの世界に来たのか興味を惹かれ、重ねて訊ねてみたが、
「あんま話したくない」
 と黙秘権を行使された。言いたくないことをしつこく聞くのもあまり趣味が良くないと思うので、質問はそこそこに打ち切った。
 まあ、誰だってそういうことはあるよな。
 次に、元の世界について。
 これもまたにわかには信じがたいことのオンパレードだった。
「はぁ!? おまえ、日本人じゃねえの!?」
「うん。というか、ボクの世界にはそもそも日本なんて国がなかったからね」
 あっけらかんと言う聖。異世界に連れてこられ、出会った相手はまた別の異世界人だった。自分でもなにを言ってるのかわからなくなってきた。なんで言葉が通じるんだ、と疑問を口にすると。
「さあ?」
 とどうでもよさそうに返された。それでいいのかよ……
 最終的には、これから生きていくうえでなんの役にも立たない疑問だからいいじゃん、という結論で落ち着いた。
「それに、ここ自体(ハルケギニア)が異世界なんだから、今更異世界が一つや二つ増えたところで変わらんでしょ」
 それもそうか。
 最後に、帰る方法について。
 これについてはかいつまんで説明すると、俺は学院長に聞いてもなにも分からなかったこと、そして聖は『聖地』がどうとかいう話を聞いた以外は特にないということを、確認しあっただけで終わった。聖が『聖地』についての情報をなにも持っていなかったので、実質なに一つ分からないということになる。俺はまたも希望の糸が途切れ、がっくりと頭を抱えてしまった。
「ずいぶん気落ちしてるね。そんなにショックだったのかい?」
「当たり前だろ!」
 学院長と対峙した時はついに帰れるのかと思ったのに肩透かしをくらって、最後の細い棒きれほどの可能性すら消え去っちまったんだ。落ち込むなといわれても無理というものだ。
 聖はうなだれる俺の肩をポンと叩き、こういった。
「まあ、魔法学院の学院長すら知らないことを、ボクが知ってるわけないじゃん。ある意味予定通りということで、すっぱりと忘れようじゃないか」
 ポジティブシンキングだよ、とへらへら笑ってやがる。
 当然俺は納得できなかったが、それをこいつにあたっても仕方がないので、恨めしげに睨み付けることしかできなかった。

     ○

「ところで、相談事ってのはどうしたんだい?」
 沈みきった俺を案じてか、はたまた間を持たせようとしたのか、聖が俺に話題を振ってきた。
 相談事? ああ、そういやそんなことも言ったな。正直、もう会話するのもおっくうなんだが……無視するのもなんなので、ここは素直に乗っかっておく。
「学院で使い魔品評会ってのがあってさ。そこで俺も芸をしなくちゃならなくなったんだ」
「ほう、品評会」
「そう、品評会。でも、俺ってなんのとりえもねーからさ。やることが見つかんなくて困ってんだよ」
「ふむ、たしかに見た目はいたって普通の平凡な男子学生にしか見えないしねぇ」
「うるせーよ」
 なんでこいつは一言多いんだろうか。貧弱なもやしっ子で悪かったな!
 聖はアゴに手を添えてふむ、と考えこんでいたけど、「それなら」と前置きして口を開いた。
「ホワイトボードなり黒板なり用意してもらって、算数でもやりゃあいいんじゃない?」
「はあ? 算数? そんなんで盛り上がるのかよ?」
「少なくとも、キミが三桁の計算を足し引きかけわり難なくこなせたら、貴族連中は感心すると思うよ?」
 おい、それって俺が馬鹿っぽいと言いたいんじゃないだろうな?
 聖は俺が剣呑に眼を怒らせているのに気づいたのか、慌てて取り繕うようにつなぐ。
「この世界は見た感じ教育が行き届いていないからね。日中でも子どもが遊びまわってるなんてザラだ。だから、彼らの定義する『平民』であるキミが高度な計算問題をこなしたら、彼らはきっと驚くと思うよ」
 なるほど。この世界の事情を利用するんだな。それならたしかに鉄板かもしれない。
 でも、貴族たちが俺の計算に感心する様子を想像して、それがなんとなく癪に障った。
「……嫌だ。やりたくない」
「ほう、何故?」
 だって。
「それってチンパンジーが台に乗ってバナナを取ったことに、手を叩いて喜ぶようなもんだろ? まるっきり見世物じゃねえか」
「見方を変えるのは大事さ。その視線を我慢することで、キミは目先の苦労を簡単に解消することができる」
 それでも。
「俺は犬や猫じゃねえんだ。そんな眼で見られるくらいなら、ルイズに折檻されたほうがましだ」
 俺は、静かにそう言いきった。俺は人間なんだ。だから、そんな畜生扱いされるくらいなら、一週間絶食を選ぶぜ。
 聖は、そんな俺の姿を含むように哂った。
「いよいよとなったら、どうなるかは知らないけどね」
「あん? なんだって?」
「いいや、なんでも」
 なにか今、すごく嫌な目つきで笑った気がするんだが……気のせいか?
 聖はこほんと咳払いを一つ、仕切りなおすようにはさむ。
「ま、それが嫌なら別の演目を探すしかないね。なにか心当たりは?」
「いや……とくに……」
 俺は日本での日々を振り返って、なんとかなにかひねり出そうと知恵を絞った。
 サッカー? いや、あれは中学まで部活でやってただけだし。リフティング……ダメだな、インパクトに欠ける。というかさっきの算数がどうのと大して変わらねえぞ。パソコン――も修理中だし、なんか他に持ってなかったっけ――?
 様々な思考がぐるぐる回る。しかし、どれもこれもいまいちな気がして、これだ、と一つに決めきれなかった。
 聖は苦笑した。
「なにも空を飛べなんていわれやしないよ。他のやつらだって火を吹こうが風を起こそうが、それしかできないからやってるんだよ。キミは、キミしかできないことをすればいいのさ」
 難しく考えるな、と諭すように聖は語った。まるで、なんでもないことのように。
 俺にしか、できないこと――……?
 俺は思考に意識を沈める。
「あ」
 あった。俺だからできること。絶対に俺にしかできないこと。
 なんだ、簡単じゃないか。
「これだ」
 俺は傍に立てかけていたデルフリンガーの柄を取り、鞘から抜き放つ。枷から放たれた赤茶びた長剣は、鈴のような心地よい音を響かせる。
「相棒、俺ぁお遊戯の相手はゴメンだぜ」
「そう言うなって。持ち主が困ってんだ、助けてくれよ」
「やれやれ……今代の『使い手』は、伝説の剣である俺様を、変なことにばかり使いやがる」
 バチがあたるぜ、とデルフはしぶしぶといった感じで了承してくれた。わりいな、恩に着るぜ。……って伝説?
「おまえ、伝説の剣なの?」
「んにゃ。 そんな気がしただけだ」
「なんだそりゃ」
 拍子抜けさせやがる。
「よく覚えてねぇけどな……」
「ん? なんか言ったかデルフ?」
「んにゃ、なんにも」
 変なやつ。

     ○

「やれやれ、損な性格してるね」
 聖は俺の独白に、困ったような微笑みを向けた。いや、これは呆れてるだけじゃない。
 あの表情の端に見えるのは、羨望――……?
「……で、結局はその剣をどう使うんだい?」
 俺はほけっと聖の顔を見つめていたが、かけられた声に正気に戻った。
 聖は不思議そうに首をかしげている。いけね、ぼぅっとしてた。
「そりゃ、氷を斬ったり岩を斬ったり、色んな物を斬りまくる」
 俺はやや調子に乗りながら、デルフを構えてポーズをとった。俺に斬れない物はない、なんつって。いや、嘘だけど。さすがにこんにゃくは斬れると思う。
 そんなことを考えていると、聖がこんにゃくなんてねえよ、という顔をした。
「ただ斬るだけじゃ、貴族も同じ事ができるからダメだよ」
「へ? あいつら剣使えねーじゃん」
「風の刃で似たようなことができる。ただ斬るだけじゃ、インパクトが薄いね」
 聖にそう言われて思い出した。そういや、あいつらそんなこともできたなぁ……じゃあ、別のなにかに変える? いや、却下だ。俺にはこれ以外の特技がない。悲しいかな、現代っ子の帰宅部には、突出した才能など本当になにもないのだ。
 自分で言ってて切なくなってきた。
「他になんかないの?」
「他には……あ! 『速く動ける』! って、そんなもん自慢にならねえよな」
「いや、いいじゃないか」
「え?」
 なんの気なしにした提案が思いのほか好反応で、俺はうなだれていた顔を上げる。
「『イカれた斬れ味』に『ヤバい動き』……うん、充分絵になりそうだね」
「い、イカれたって、おい……」
 ひでえ言われようだ。否定はできねえけど。
「キミなら多少仕込めばマシになりそうだし、本番で華麗な剣舞でも見せつけてやればいいよ。魔法至上主義の世界で育った貴族様なんて、それだけで度肝を抜けるはずさ」
 基本もやしっ子ばかりだから、と聖はおかしそうに笑った。
「そんなに上手くいくかな?」
「『すごい』という感情は、自分ができないことをできる相手に向けられるからね。その辺はボクが保証しよう。キミほどに剣を扱えるやつは、この世界にはそうそういないよ」
 聖が褒めちぎってきた。いやあ、そんなにおだてられると気分良いなぁ。はっはっは。
「バカ言っちゃいけねぇや。こんなひよっこが『使えてる』だと? 片腹いてぇや」
 和やかな空気に水を差すデルフ。なんだとてめ、てかおまえ腹ねえだろうが!
「まあ、そうなんだけどね」
 手のひらを返したように突き放す聖。
「なっ! おま、おまえが言いだしたんじゃねえか!?」
「たしかにキミは強いけど、そのポテンシャルを使いこなせてないからね。もうちょっと磨かないと、実戦投入は厳しいかな」
 ぬけぬけとのたまう聖。こいつ、そんなことを思いつつ俺を囃し立てたのか。油断できねえやつ。
「相棒じゃやれて『青銅割り』くれぇなもんよ。凝った技なんざのぞむべくもねぇや」
「そんなことねえよ! 俺だってなぁ!」
 ギーシュのゴーレム斬ったり、フーケのゴーレム斬ったり、フーケのゴーレムの攻撃を避けながら斬ったり――あれ? 俺、ゴーレムしか斬ってなくね?
 その事実に気づいた俺は、愕然と己の両手を見下ろした。
「……なんもできねえ」
「それみたことか。てめぇにゃ庭木を斬る鋏くれぇがお似合いだよ!」
「なんだと!」
「無機物と喧嘩するなよ」
 聖が顔を引きつらせながら、言い争いを始めた俺たちの間に割って入った。呆れてため息をつきたのだろうか。だが、俺は悪くねえぞ。口の悪い馬鹿剣が悪いんだ。
「なあ兄(あん)ちゃん」
 デルフがおもむろに切り出した。呼ばれた聖は何事かという風にデルフへ顔を向ける。
「一つ、相棒を鍛えてやってくれねぇか」
「は? ボクが? なんで?」
 聖は完全に面食らっている。俺を教えなければならないことよりも、自分が選ばれたことが心底不思議で仕方ないという様子だ。俺は、聖の実力は(本気ではなかっただろうが)あの路地裏で分からされていたので、特に異存はなく黙っておいた。
「おめぇさんが強いとは言わねぇが、相棒よりましだとみうけられた。丁度良い機会だ。面倒ついでに頼まれちゃくれねぇか?」
「やだよ面倒くさい。剣を学びたけりゃ、そこらの道場にでも入門してくればいいじゃないか。それに、キミは千年を生きる魔剣(アーティファクト)なんでしょ? 自分で教えてやればいいじゃん」
「俺はあくまでも『使われる』だけだ。磨き、振るうのは使うやつの仕事だ」
 デルフの言葉に、聖は仏頂面を作った。とてつもなくやりたくないらしい。デルフはデルフで自分は教えたくないのか、しきりに聖を口説いている。
「それにボクは剣士じゃないから、剣技なんて教えられないよ」
 聖としては、どちらかというと前者のほうが本音なんだろう。しかし、俺は横で聞いていて、後者のほうが気になった。
「『剣士じゃない』? じゃあ、他になんかやってんのか?」
「ああ、それは言葉の綾というか」
「いいじゃねえか。俺だって色々話したんだから、おまえも少しくらい自分のことを話してくれよ」
 こいつは出会ってから今まで、自分のことを一つも話したがらない。自分から話題にすることはないし、こっちから聞いても「話したくない」の一点張りだ。いい加減顔つき合わせるのも三回目だし、俺は少しだけ聖について興味を持ち始めていた。
 こいつがなにを思い、なにを考えて生きてきて、そしてなぜこんなにも頑なに自分を隠すのか。俺は、俺とやつとの間に存在する、眼に見えない壁の正体が知りたい。
「――つかいさ」
「え?」
「ボクは、『魔法使い』だよ」
「……は?」
 いま、なんつったの? すげーファンタジーな固有名詞を耳にしちまった気がすんだけど。
 まほうつかい? それって、漢字で書くと『魔法使い』っていう、あの?
 俺は馬鹿にされたような気がして、自然と不機嫌に睨み返した。
「からかうなよ。別の世界にも魔法使いがいるってのか? そうじゃなきゃ、メイジにでもなったっていうのかよ」
「まあ、その反応が普通だよね。ボクの世界でも魔法が衰退していて、信じない人も多かった」
 聖は周囲を見回して、床に落ちていた伝票の切れ端を拾い上げた。それを人差し指と中指ではさんで、見えるように俺の前へかざす。
「種も仕掛けもございません」
 その声とともに、紙切れに火が灯された。
「――ぬぉおおおおお!!!? はぁ? なんで!?」
「んな火がついたくらいで大げさな」
 初歩魔法だよ、と聖はなんとなしに微笑んでいるが、俺にしてみれば常識という名のバケツを蹴飛ばしてオウンゴールしてしまったようなほどたまげた。聖の手を掴んでじろじろと調べまわしたが、どこにもライターとかマッチとかが仕込まれていなかった。
 ほんまもんだ……ほんまもんの魔法使いだ……
「おまえどこの草薙の一族だよ……大蛇薙でも撃てんのか?」
「残念ながら八稚女も撃てないね。というか炎が灯せるだけじゃないし」
「まだなんかあんの!?」
「ライターの真似事しかできないようじゃ、魔法使いは名乗れないよ」
 聖は苦笑した。
 手の中の紙切れはさらに燃え続け、余すところなくその繊維を燃え尽きさせた。聖は火傷寸前のところで両手を打ち合わせてそれを祓い、消し炭は中空へと溶けていった。
「というか、この手のものはキミも学院で見慣れてるんじゃないのかい?」
「それとこれとは別だ。あいつらはいかにもな格好してっけど、おまえはどう見てもひょろいホスト崩れにしか見えないからな」
 そのギャップになお驚かされた。人は見かけによらねえな。
「ホスト崩れ……」
 聖は複雑な顔をしている。
「まあ、おめえさんはなんかしら使いそうだとは思ってた。指導の話、受けてくれるな?」
 畳み掛けるようにデルフが念押しした。まあ、俺としてももっと強くなれるなら望むところだし、相手がこいつなら願ってもないことだ。
 こいつは体育会系っぽくないから、礼儀がどうとか言わなそうだし。
「でも、ボクにメリットがなにもないからなぁ」
 聖はまだ渋っている。相当な実利主義者らしく、自分の得にならないことは何一つしたくないらしい。
 めんどくせーやつだな。
「受けてやればいいさ」
 聖の背中から、やや高めのバリトンが響いた。
 聖はあちゃー、と頭が痛そうにばりばりと掻き、腰付近から一振りのナイフを取り出した。
 大きさこそやや大きめのの短剣だが、随所にちりばめられた宝石の細工が美しい。
「バカ、しゃべっちゃダメでしょ」
「すまんな。ちょっとばかり同族の気配を感じてさ」
「ほう。おまえさんも意思を持つ物(インテリジェンス)かい」
「『久しぶり』、若しくは『初めまして』かな?」
「さあな。気が遠くなるほどの時間を生きてきたから、昔のことなんてもう忘れちまったよ」
 二振りのインテリジェンスソードはまるで旧来の知己のように、会話に花を咲かせ始めた。もしかしたら初対面かもしれないのに、なんともフレンドリーなやつらである。会話に夢中なデルフは放っておいて、俺は聖に水を向けた。
「おまえも持ってたのか。どうりでデルフを見たときの反応が薄いと思った」
「つい最近拾ってね。武器を買う節約にはなるかと思って、手元に残してるのさ」
「拾った?」
 破格だったとはいえ武器屋で金貨百枚の装備を、どこぞで拾っただと? しかもどう見て豪華でも高そうなのに。
 意味不明なことをあっけらかんと話す聖に、俺は眼を白黒とさせるばかりだった。
「宿主はひねくれ者でな。どうしても素直に頼みごとを引き受けられない。心中ではまあいいか、と八割がた思っているくせにな」
「……ツンデレか?」
「違うよっ! というかキモいじゃないかっ!!」
 ボクのキャラが崩れるからやめてよ! と、聖は短剣を怒鳴りつけた。しかし、短剣はそんな怒声などどこ吹く風で、全く堪えていないようである。
「ちょうど俺も暇を持て余していたところだ。宿主よ。契約内容は覚えているだろうな?」
「わーかってるってば。まったく、贅沢な短剣様だよ」
 聖は深々とため息を吐いた。なんでも、聖は短剣を『雇う』において、ある契約を交わしたそうだ。その契約内容はただ一つ、「俺を退屈させないこと」。なんともシンプルな条件だった。
「まあ、そういうわけだから。キミたちの要望を受けるよ。ただし、品評会までの間だけだからね」
「十分だ。そんだけありゃ、相棒も半人前くらいにはなんだろうよ」
「へ? 一月で半人前ってことは、今の俺はどんな感じなんだ?」
「けっ、新兵の弾除け君だぁな。雑兵にも数えられねぇよ」
 なんてことを言いやがるデルフ。ぐぎぎ……言いたい放題言いやがって。
「おい、そこまで言ってやるなよ」
 短剣が割り込んでくれた。おお、良いやつじゃねえか。こっちの馬鹿剣とは大違いだ。
「雑兵に失礼だろう」
「それもそうだな」
「うおぃっ!!」
 前言撤回。しゃべる剣はやなやつばっかりだ。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、今日のところは帰ってくれるかい?」
「へ? すぐにでも始めるんじゃないのか?」
「幸いにもまだ時間はあるからね。キミの適正を鑑みて内容(カリキュラム)を考えないといけないし、それによって教材も準備しなくちゃいけない。それにこの後……」
 聖はなにか重大なことを発表するかのように、神妙に顔を伏せる。俺はなにを言い出すのか、固唾を呑んで見守った。
「――店の買出しがあるんだよ」
 へらっ、と聖は笑った。俺は盛大な肩透かしをくらって、後頭部を打ち付けるほどド派手にずっこけた。
「なんだよそんなことか! ちょっとだけ心配したじゃねーか!」
「そんなこととはなんだ。これも大事な仕事だよ」
 むっとしたように聖は人差し指を立てた。なんかこいつ、真面目なのか不真面目なのか分からねえな。
「まあまあ相棒。計画も無しにあーだこーだ能書き垂れる師匠ほど、信用ならねぇ野郎はいないぜ。その点に関して言えば、こいつは折り紙付きだろう」
 たしかに、筋金入りの合理主義で実利主義者だからな……無駄なことは一切しないだろう。それだけは確信できる。
 とにかく、なんとか話がまとまった……かな?

     ○

「あ、ちょっと待って」
 挨拶もそこそこに扉へ手をかけると、背中に声をかけられた。
 振り返ると、聖が厨房に入っていく後姿が見える。しばらく待つと、聖はその手に包丁を持って近づいてきたので、俺はぎょっとした。
「これ、持ってみてくれるかい?」
 聖は入り口付近のテーブルに包丁をことりと置くと、俺に触れるよう促した。なんだよ、一瞬刺されるのかと思ってびびったじゃねえか……
 言われるがままに左手で柄を握ると、手の甲のルーンが輝きを放つ。
「……はい、オッケー。じゃあ、次はこれ」
 しばし俺の手の甲を見つめた後、そう言ってモップを差し出す聖。ここまでくると、俺もこいつの意図が分かってきた。
 俺は包丁をテーブルに戻すと、左手でモップを受け取った。
 ルーンは輝きを放たない。
「もっと強く握りしめて。……そう、体育測定の握力計測みたいな感じで」
「うぬぬぬぬぬぬ……ッ!!」
 俺はモップの柄を、血液が集中し血管が浮き出てくるほど力いっぱい握った。しかし、ルーンはうんともすんともいわない。
 聖はアゴに手を当て、真剣に俺の様子を観察している。
「ご苦労さん。これで最後だ」
 聖は柄を俺の方に向けて、キッチンナイフを差し出した。フランス料理店のテーブルに備えつけられてるような、鉄でできた食器ナイフだ。
 俺がそのナイフの柄に触れると、左手のルーンが仄かに光った。
「……なるほど」
 聖はなにかを納得したのか、そう呟いて俺からナイフを受け取った。
「いったいなにが『なるほど』なんだ?」
 意図は分かるが、詳細については俺も察することができない。俺はエスパーではないのだ。
「いや、こっちの話さ。あと言い忘れてたんだけど」
 聖は俺の肩をポンと叩き、にこやかにこう言い放った。

「明日から馬、禁止ね」

「――は?」
 俺は耳を疑った。

     ○

 深夜。
 天窓から射す月明かりを頼りに、ハタヤマは自室で木材をいじっていた。その右手には彫刻刀が握られており、無心に手中のそれを削っている。ぱらぱらと木屑がこぼれ落ちるが、あらかじめ床に敷いた古紙がそれをやんわりと受け止めるので、後始末には困りそうにない。用意のいい男である。
 しばし、シャッ、シャッ、と、小気味良い音だけが部屋を満たした。

 コンコン。
 しばらくして、床板からノックが聞こえてきた。ハタヤマの部屋は天井裏にあり、ハシゴを伝って出入りする。ゆえに入り口は床にあり、それは床板で閉じられていた。
 ハタヤマは、はて、こんな夜分に誰だろう、と首をかしげながら、手に持ったそれらを脇の机に置いて応じた。
「や、こんばんわ。お邪魔するよ」
 ノックの主はジェシカだった。彼女は店が終わるやいなや、疲れたと言って自分の部屋にすぐ戻ったはず。ハタヤマが終業作業を終えて自室に戻ってから、もう数刻は経っているはず。ハタヤマは、ジェシカがなんの用でここへ訪れたのか、皆目見当もつかなかった。
 人間状態で店に出るようになり出来ることが増えた今でも、最後の掃除はハタヤマの仕事である。彼は宝探しでそれなりの収入を得られるようになっても、この店の従業員であることを辞めなかった。
「なにしてたの?」
 床に散乱する木屑を見て、ジェシカはきょとんと疑問符を浮かべた。
「んー? ちょっと工作をね」
 創作意欲をかき立てられて、とハタヤマは冗談っぽく笑う。ジェシカはその質問自体に意味はなかったのか、ふーん、と小さく呟くだけだった。
「ところでなにか用かい? 今日の売り上げ計算なら、もうやっておいたはずだけど」
 この店の閉店作業は、ハタヤマが来てから大きく変わった。今までは当番の妖精さんたちが掃除をして終わりだったのだが、彼が現れてからは『現金チェック』が行われるようになったのだ。
 元々店内の結束は固いとはいえ、長く勤めればどうしても弛みがでてくる。決算が月末であるのを良いことに、売り上げを着服する妖精さんがいるのだ。皆が皆そういうことをするわけではないし、その量も日々微々たるものではあるが、それが毎日続けられると結構な額になる。なら犯人を見つけ出して首にすればいいのだが、月末にしか計算しないのでそれを絞り込むことは容易ではない。それに、下手に全員を疑って尋問を行おうものなら、『魅惑の妖精亭』自体の雰囲気が悪くなってしまう恐れがある。妖精さんたち一人一人が大切な家族であり、重要な稼ぎ頭なのだ。なので、あまり強硬な手段もとれない。スカロンは帳簿を読み返しては、その謎の誤差にいつも頭を痛めていた。
 だが、ハタヤマは義務教育を受けた現代っ子なので、そういった類の計算についてはお手の物。たとえ簿記の資格はなくとも、最低限の基礎学力があった。なので、酒の席でスカロンがこぼした愚痴を拾って、この作業を提案したのである。毎日誤差を計算すれば、早期に対処策を打てる。スカロンはレジ締めで判明した誤差を、妖精さんたちの連帯責任として全員にまとわせることとした。
「わたくしもこんなことはしたくないのよ? でも、これはこの店存続に関わる重大な問題なの。ごめんなさい妖精さんたち、お願い、分かって!」
 と、涙ながらにクネクネしながらスカロンは訴えた。もちろん芝居である。妖精さんたちも働き口がなくなると困るし、なにより纏う金額が極少額なので、しぶしぶながらそれを受け入れた。月末締めの法外な誤差を請求されたならば非難囂々でボイコットが起こっただろうが、相対効果というやつである。
 そして数日すると変化が起こった。ぴたりと誤差がなくなったのだ。
 顛末はこうだ。真面目に働いていた妖精さんたちが、不満を募らせて自主的に目を光らせ始めた。そして手癖の悪い妖精さんを見つけると、終業後に呼び出してヤキいれしたのである。たとえ同僚といえど、不利益をもたらすのなら容赦はしない。
 やがて皆にモラルというものが形成されはじめ、そして事態は収束した。悪は去ったのだ。
「ああ、そうじゃないの。いつも助かってる。ありがと」
 ジェシカは動揺したように目を泳がせた。先ほどからそわそわ身じろぎして落ち着かない。ハタヤマはいよいよもって訝しげに目を細めた。
「本当にどうしたんだい? なにか問題でも」
「ちがう、ちがうの。そうじゃないの!」
 ジェシカはもじもじと言いよどんでいたが、意を決して口を開いた。
「あのね、あんたが来てからあたしたちすごく助かってる。けど、このままじゃいけないと思ったの」
「へ? いや、気にしなくていいのに」
「ダメよ! なんでもかんでもあんたに押し付けてちゃダメ! あんたは人がいいからなんでもやってくれるけど、それに甘えてばっかりじゃ悪いわ」
 ジェシカはハタヤマが雑務をかってでてくれることに、ありがたい気持ちの反面申し訳なくも思っていた。父であるスカロンも最近はハタヤマを本格的に取り込む気なのか、徐々に任せる仕事の範囲を増やしてきている。その分ハタヤマ自身の時間が削られており、このところハタヤマの睡眠時間はどんどん目減りしてきていた。
 それでもハタヤマは嫌な顔一つせず、にこにこと雑用をこなしてくれる。なので、店内全体に、彼へ仕事を頼むことが当然だという空気ができ始めていた。これではいけない。たしかにジェシカはハタヤマにこの店へ留まって欲しいとは思っているが、彼の人生を磨り潰してまで縛りつけたくはないのだ。
「だから、なにかあたしにできることはないかと思ってさ」
「う~ん……」
 ハタヤマは腕組みして、眉根を寄せてむにゃむにゃと唸った。自分としては宿代代わりにお手伝いしているだけなのだが、返って気を使われてしまっているようだ。宝探しの報酬で懐も潤ってきたから、賃金を受け取っていないせいもあるかもしれない。ハタヤマはジェシカの立場に自分を置き換えて想像し、そりゃ落ち着かないよな、と腑に落ちた。
 しかし、そうなると困るのがジェシカに廻す仕事である。ハタヤマは主に買出しと掃除、ウェイターを任されており、そのどれもが力仕事と言って差し支えない。なので、ジェシカの細腕に任せるには、いささか抵抗を感じざるを得ない。男としてその辺りは譲れないのだ。ハタヤマは現代に生きているくせに、変に女性へ気を廻す部分があった。
 世の女性でこういった考えに不快を懐く方がいるならば申し訳ない。これは彼の性分なのだ。
 唯一任せられそうなのがウェイターだが、まさか稼ぎ頭の妖精さん筆頭にそんなことをさせるわけにはいかない。彼女には疲れた男どもを接待するという、重要な使命があるのだ。
 ハタヤマは困り果て、眼を糸に、眉間に皺を、そして口を波線にして滝汗をかいた。
 どうしよう、任せられる仕事が思いつかない。
「それで、あたしなりに考えてみたんだけどさ」
 ジェシカがうつむき顔を赤らめつつ、消え入りそうな声で呟く。ハタヤマは渡りに船、とジェシカの言葉を待った。そしてその恥じらいを含んだ表情にノックアウトされ、脳内で妄想を暴走させた。
(これ、伝説の樹の下で告白のシチュエーションじゃね? ぐへへもちろんオールオッケーだよ~)
「……というわけで、今後のためにも経理の仕事覚えたいし、計算を教えてくれると……って、え?」
 強い意思を込めた瞳をハタヤマに向けるジェシカ。しかしその眼に映ったのは、真摯に話を聞いてくれる金眼の男ではなく。
「ぐへへへへへへもちろんだよ詩織ちゃん~」
 灰色の脳細胞を異次元にエスケプしている、逝っちまった眼をした変態であった。
「ぎゃああぁっ!?」
「ぐべぅあ゛ッ!!!?」
 ジェシカはハタヤマの気味悪さに鳥肌に襲われ、本気でグーパンを顔面に叩き込んだ。ハタヤマは垂らしたよだれに血飛沫を飛散させながら、きりもみ回転して奥の雑多な物の山に突き刺さった。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
 ジェシカは口元に手を当てて、狼狽しながらハタヤマへ駆け寄った。しかし、ハタヤマから返事は無い。気絶しているようだ。
 大丈夫だジェシカ。むしろ謝らなくていい、もっとやれ。むしろ殺レ。

「なるほど、つまり空き時間でいいから勉強を見て欲しいってことかい?」
 顔面に大きなガーゼを貼ったハタヤマは、ジェシカの話を要約した。顔は落ち窪んで顔面崩壊を起こしているが、まあ次の場面にはもう治っているだろう。お話のコメディーパートとはそんなものである。
 ジェシカは大きく頷く。
「うん。あたしもいずれはこの店を任される日が来るかもしれない。そんなときに店主が算数もできないなんて、恥ずかしいじゃないか」
 ジェシカは深夜、ホールで独り帳簿をつけるスカロンやハタヤマの姿をいつも横目で眺めていた。彼女はそんな彼らの姿が眩しくて羨ましく、そして自分が情けなかった。だから、少しでも彼らに近づきたいと思い始めたのだ。
 しかし、この感情は、スカロンの背中を見ていたときには懐かなかった類のもの。ハタヤマがこの店に現われて初めて湧いた、彼女の見得のようなものであった。
「ふーん……まあ、たしかにそれもそうだ。御宿の主が無知ってんじゃ、格好つかないよね」
「それじゃあ!」
「ああ。そういうことなら応援するよ。いくらでも頼ってよ」
 ハタヤマはにこりと微笑む。ジェシカは彼の無邪気な笑顔に、不意に顔から火が出るほど赤面して背を向けた。
「どったの?」
「な、なんでもない!」
 ジェシカは顔をぼっと上気させ目を逸らす。
 商売柄色々な接し、ときには寝ることもあったというのに。この男の前では初心な少女のように、ゆらゆらと心を乱されてしまう。
 確かめたい。この気持ちの正体を。
 ジェシカはぎゅっと緑色のワンピースの裾を握り締め、決意を持って振り向いた。
「ねえ――」
 一緒に寝れば、肌を合わせれば、この胸に宿る灯火の正体が掴めるかも知れない。そんな強い想いをこめて振り返ったのだが。
 その気持ちを向けた当の相手は、さっさとベッドにもぐりこんでいた。
「もう今日は遅いから寝なよ。明日から終業後の一時間を、勉強の時間に充てようじゃないか」
 ハタヤマはジェシカに背を向けて、もぞもぞと毛布に包まった。ジェシカは色恋の気配をまったく読まないハタヤマにあっけにとられ、しばしその場で絶句する。
 ジェシカははっと気を取り直し、横になったハタヤマの肩に手をかけた。
「ぐぴぴぴぴぴぴ……ぷしゅー……」
「寝てる……」
 なんて男だ。こんなにいい女をほったらかして、さっさと寝入ってしまっている。神をも恐れぬ不届き者じゃないか。
 ジェシカはしばらくの間ハタヤマの寝顔を、ベッドのふちで頬杖をついて眺めていたが、ふうとため息を吐いて踵を返した。
「おやすみ」
 カタン、と床板が閉じられる音が響き、トン、トン、と足音が遠ざかっていった。

 足音が聞こえなくなった頃合を見て、膨れた毛布が盛り上がる。
「――ちょっと露骨だったかな」
 ハタヤマは起きていた。先ほどの寝息は狸寝入りで、眠ってなどいなかったのだ。もちろん、それはジェシカも察している。男の寝息が本物かどうかなど、寄り添わなくても分かるのだ。
 ハタヤマはぼりぼり頭をかき、机に除けておいた彫刻刀と木材を手に取った。
 その晩、屋根裏部屋から響く乾いた削り音は、月が沈み、空が白む頃まで止む事はなかった。

     ○

 次の日。
 太陽も頂点からやや降りてきた午後二時頃、ハタヤマはホールにて『地下水』の手入れをしていた。
「珍しいわねぇ。ハタヤマちゃんがこんな時間にいるなんて」
「今日は他に予定があってね」
 外回りを終えて帰ってきたスカロンに手を振って答えるハタヤマ。スカロンだけは日の出と共に起きだして、方々に営業や発注に出かけていた。この店を一代で築き上げただけあって、見かけによらず勤勉な男である。
 ハタヤマは砥石をテーブルに置き、地下水の『斬る部分』を探りながら研ぎを繰り返す。刃物は尖っている部分が斬れるのだと勘違いされがちだが、実際には『斬る面』という部分が存在する。それを見極めて研がなければ、刃が潰れてしまい使い物にならなくなってしまう。なので、研ぎとは単調だが、細心の注意を払って行わねばならない。
 ぬるま湯で砥石を洗い、シュ、シュ、と地下水を面に沿って上下させるハタヤマ。両刃である地下水を丹念に研いでいく。地下水は短剣ではあるが、ナイフというよりダガーくらいの小さな刀身をしているので、それなりに研ぎやすかった。
 磨き終わるとぬるま湯に地下水を浸し、乾いた布で水分を丹念に拭い、刃を調べ、そして次の面を研ぐ。気の遠くなるほど地味で面倒な作業だが、ハタヤマは一切手を抜かなかった。
「おぉ……いいぞ、宿主。こんなに気持ちがいいのは数百年ぶりだ」
「へぇ。今までの使い手は手入れしてくれなかったのかい?」
「ほとんどが俺に『使われてる』やつだったからな。それに、俺の本来の用途は『斬る』ことにあらずだからな。それでもどうしょうもないくらい気持ち悪くなったら自分でちょいと研いだりはしたが、本格的に体を休めたのは初めてかもしれん」
「どんな生き物でも体が資本なんだから、なおざりにしちゃダメだよ」
 無駄話に花を咲かせながらも、ハタヤマは手を止めない。彼はしゃべりながら仕事ができる性質だった。
 ぽけー、っと口を半開きにしながら、ハタヤマは地下水を研ぎ続ける。眼も虚ろでぼんやりしていて、心はここにないようだ。けっこう凝り性なのかもしれない。
 やがて全ての刃を研ぎ終わると、ハタヤマは深く息を吐いた。
「おい、おいおい、もう終わりか? ついでに『磨き』もしてくれよ」
「はあ? 斬れりゃいいんだから、そんな必要ないでしょ」
「いいじゃねえか、減るもんでもなし。ここまできたらさっぱりしたいんだよ」
 本来、刀剣において研磨粉で磨くという工程は不必要だったりする。研磨粉は傷を削り、輝きを増す効果はあれど、斬れ味を良くする効果はない。よく漫画で綿棒を使って剣を磨いている描写はあるが、あれは実際には、斬れ味回復という観点においては毛ほども効果が無いのである。しかも、非常に手間が掛かる。そりゃもう研ぎの数倍くらい。
 なので、ハタヤマはやりたくなかった。
「宿主は手つきが丁寧だからな。やられてっと心地いいんだよ」
「けっ、そういうことは意中の女を口説くときに言うもんさ」
 軽く笑って地下水の太鼓を受け流したが、褒められて悪い気はしないのか、どこからか研磨粉を取り出すハタヤマ。しないしないと言いつつも、しっかり用意している辺りさすがである。
 刃全体に満遍なくまぶし、丹念に布で磨き、ぬるま湯で粉を落としてはまた磨くという作業を繰り返す。これまた面倒で手間のかかる作業だ。しかし、ハタヤマは腐りもせず、真剣にこの作業へ取り組んでいた。
 なぜ、ハタヤマは普段から手抜きを信条としているのにもかかわらず、こういったことには労力を惜しまないのだろうか。それはひとえに、命が賭かっているからである。
 普段からずぼらな管理をしていれば、いざというときに機能不全で役に立たなかったということはままある。しかし、自力本願を座右の銘とするハタヤマにとって、それは受け入れがたい最悪の事態だ。彼は己の力しか信じていないので、そういった自身の怠慢による失敗を極端に嫌っている。ゆえに、彼は『自分の事に関して』だけは、欠片ほども手を抜かない主義だった。
「おぉう、そこそこ。もうちょい上、うひょひょほーい」
「気持ち悪い声ださないでよ……」
 嬌声をあげてあえぐ地下水を、ハタヤマはうんざりと見下ろした。やはり野郎(性別は知らないが、っぽい)は基本的に嫌いなのだ。

     ○

 バン! と入り口がけたたましく開かれた。
 ホールにいたスカロンとハタヤマは、その音に戸口へ視線を注ぐ。そこには、
「ぜ……ぜっ……は……っ……」
 息も絶え絶えに扉にもたれかかり、赤錆びた長剣を杖代わりにした少年の姿があった。
「やあ、おはよう。今日は遅い到着だね」
 気さくに手をあげるハタヤマ。
「どのくっ……ちっ……がはっ……」
「『どの口でほざきやがる』、だってよ」
 赤錆びた長剣が代弁した。少年の相棒である意思を持つ剣(インテリジェンスソード)、デルフリンガーである。そしてその使い手である少年、平賀サイトは。
「ふっ……はひゅっ……!」
 息も絶え絶えに膝をついた。しゃべる余力もないらしい。ハタヤマはサイトの様子を観察し、ふむ、と小さく頷いた。
 なぜサイトがこれほどまでに消耗しているかというと、それはハタヤマが『馬』を禁止したからである。
 稽古はつける、しかしそれを受けるにはハタヤマの元へ日参しなければならない。しかし、馬は使ってはいけない。ならばどうすればいいのか。サイトは昨日、ハタヤマへ食い下がった。そしてその返答がこれ。
「走ればいいじゃん」
 サイトは絶句した。開いた口がふさがらず、落ちたアゴが地表を突き破ってマントルまで到達しそうな勢いだった。こいつなに言ってんの、馬鹿じゃないの。サイトは口には出さなかったが、胸中はそんな思考でいっぱいだった。
 それを告げたハタヤマの表情は、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というありがたい発言を残した女王様のように無垢な笑みだった。サイトが民衆だったら決起して処刑していただろう。
 だが、教えを請う立場なので、強硬な姿勢をとれなかった。
「馬鹿言ってんじゃねえよっ! ここまで馬で何時間かかると思ってんだ!? 歩いてきたら日が暮れちまうよっ!!」
「なに言ってんだい大げさな。キミには左手のルーンがあるじゃないか」
「それとこれとは別だろ! こんなの正気じゃ「同じさ」ね、え……?」
 ハタヤマは、何年もの時を刻んだ老齢の菩提樹のように落ち着き払って呟いた。その声はまくしたてるサイトの怒声をばっさりと断ち切り、聞く者の耳へ届けられるように圧倒的だ。
 サイトは、思わず黙る。
「第一の修行は『街まで徒歩で行き来すること』。行きも、帰りも、その足で行ってもらう」
「じょ……冗談だろ?」
「ボクは冗談しか言わないけど、残念ながら今回は違う」
 ハタヤマはにこりと、悪魔のように微笑んだ。
「次の修行はそれが終わってから。異論があるならやらなくてもいいけど、その時点で指導は打ち切るからそのつもりで」
 ハタヤマはかなりのスパルタであった。
「おっと」
 ドサリと崩れ落ちるサイト。しかし力尽きても剣は離さず、しっかりと左手に握り締めている。
 ハタヤマはやや慌てて駆け寄り、サイトの呼吸をたしかめた。
「心配ねえ。ちっとばかし疲れて眠ってるだけさね」
「……そうみたいだね」
 持ち主の体調が分かるのか、デルフがそう言ってカタカタと笑った。
 ハタヤマは手持ちの白いナプキンでサイトの額の汗を拭きとると、背中に背負って歩き始めた。
「どこへ連れて行くんだい?」
「ボクの部屋。しばらく休ませておくよ」
「ハタヤマちゃん、その子が?」
「ああ、今朝話した少年さ。あまりちょっかいかけないであげてね」
 スカロンはサイトの顔を覗き込み「可愛らしい子♪」と腰をくねらせたが、ハタヤマに釘を刺されて残念そうに目元をハンカチで拭った。
 あらかじめスカロンに話を通しておいてよかった。彼にさえ事前に伝えておけば、ここでは大抵のことがフリーパスだ。
 ハタヤマは階段をこつこつと登る。
「そういやデルフリンガーくん」
「デルフでいいぜ」
「じゃあ、デルフくん。少年はここまで何時間かかったの?」
「そうさなぁ……学院を出たのは大体、娘っ子を授業に送り出してすぐだったぜ」
 ハタヤマは学院で過ごした記憶を掘り起こす。朝の授業が始まるのは、おおよそで朝の九時くらいだったはず。
 なら、大雑把に五時間くらいか。
「へぇ。まあ、上出来かな」
 まず言いつけを守ったことが偉い。自分だったら間違いなくズルをして、篠原にシバキまわされていただろう。本当に素直な少年だ。
 ハタヤマはくすりと小さく微笑み、自室への扉を目指した。

     ○

「――はっ!?」
 眼を覚ますと、知らない天井だった――って、使い古されたネタしとる場合か!! たしか俺は息も絶え絶えに『魅惑の妖精亭』に辿り着いて――
 おぼろげな記憶を掘り起こすと、少しずつ思い出してきた。
「ここ、どこだよ?」
 周囲を見回すと、奥の方にホコリを被った傷みの酷いテーブルや椅子、そして掃除用具が散乱している。枕元にはそこだけぴかぴかに掃除された化粧台があり、そこには小さな鏡立てが置かれていた。
 見上げると大きな天窓が備え付けられており、差し込む光に眼を細める。
 もう一度見回す。
「……出入り口がねえぞ」
 なんなんだよこの部屋は。
「相棒、起きたかね」
 声に顔を向ける。その主は、脇の机に立てかけられていたデルフだった。
「おい、デルフ。俺はどうなった? ここはどこだ? あいつはどうしたんだ?」
「おうおう落ち着けよ。慌てなくたって俺は逃げやしないよ」
 深呼吸深呼吸、と促すデルフに従って、大きく息を吸い込んだ。
 すぅー、はぁー、すぅー――……ぐへ、ぐえへ、げほげほっ!
「ほこりが喉に入った!」
「そうかい。そりゃ災難だ」
 てめえのせいだろうが馬鹿剣! げへげへげへッ!!
 呼吸を整えるまで数分のたうちまわった。喉痛ぇ。
「一つずつ質問に答えていくとな。まず、ここは酒場の天井裏だ。そして相棒はぶっ倒れてここへ運ばれた。あいつは下で仕事してるよ」
 簡潔な説明ありがとう。そうか、俺はなんとか来れたのか……最後のほうなんて意識が朦朧としてて、どこ歩いてんのかすらよく分かってなかったぜ。
「分かった、サンキューデルフ。んで、最後の質問だが」
「なんだね?」
 俺はデルフに尋ねた。
「出口はどこだ」
「そこだよ」
 そう言ったままデルフは黙りこくった。おい、指し示してくんねーと分かんねーよ!

     ○

「おや、お目覚めかい?」
 一階に下りると、聖がテーブルクロスを敷き直していた。一つ一つの机を丹念に磨きあげ、丁寧にクロスを敷いていく。俺はなんとなく邪魔にならないよう、それが終わるまで傍で待った。
 やがて仕事が終わったのか、聖がこちらへやってくる。
「やあ、待たせたね。調子はどうだい?」
「おかげさまで最悪だよ」
「そりゃ失礼」
 聖はケタケタと笑っている。ちくしょう、屈託もなく笑いやがって。怒りづらいじゃねえか。
「おい、次の修行はなんだ」
「修行? ああ、そういえばそんなのもあったね」
 聖は思い出したように手を打った。こいつ、今の今まで忘れてやがったのか!?
 俺は今度ばかりは歯を剥いて怒り狂った。
「『そんなの』だと!? 俺の努力をなんだと思ってんだ!!」
「ごめんごめん、キミがなかなか下りてこないから、ほかの事を考えてたんだよ」
 ボクもあんまり暇じゃないんだ、と苦笑する聖。くそ……俺のせいってことか。まあ、たしかに力尽きて寝てたけど。
 そう考え、はてと首をかしげる。
「なあ、今何時だ?」
「今かい? そろそろ開店だから、たぶん六時くらいだね」
「六時!?」
 それを聞いて、俺は真っ青になった。やべえ、ルイズにはあまり遅くならないって言ってある。日がとっぷり暮れてから帰ったりしたらなんて言われるか。
 俺は帰ってからのルイズの反応を想像して、背筋をがたがたと震わせた。
「まずい、もう帰らねえと!」
「そうかい。じゃあ、また明日ね」
「へ? だから修行は……」
「今日はもう遅いから、また明日にしよう」
「ふざけんな! なんのためにここまで来たと思って!」
「キミがもう少し早く来ていて、早く目覚めていれば、他のこともできたんだけどねぇ」
 ニヤリと口の端を歪める聖。ぐ……くそっ!
 俺は口論している間も惜しく、店から駆け出そうとした。
「ちょっと待って」
「ああん!? なんなんだよもう!」
「これを持って行きなよ」
 聖に硬いなにかを手渡された。俺は手の中のそれをまじまじと見つめる。
「これは――メリケンサック、か?」
 それは木製のメリケンサックだった。楕円形の木の真ん中を削った輪っか型で、握る部分には指の腹を当てる溝が掘られている。表面はなにかで塗り上げてあるのか、ニスのように茶色いけれどすべすべとした手触りである。
「剣を構えながらじゃ走りにくいでしょ。次からはそれを使うといい」
 左手のルーンが輝いている。これなら――いける!
「……明日は絶対続きをやらせてみせるからな! 首を洗って待っとけ!」
「楽しみにしてるよ」
 俺は振り返りもせずに走り出した。いそがねえとルイズにどやされちまう!
 そうよぎる俺の脳内には、もうぶっ倒れた不満など吹き飛んでいた。

     ○

「店長。ちょっとの間だけ外に出てもいいかな」
「……あなたはもうウチの大事な戦力なんだけど。ま、よく働いてくれてるからいいわ。でも、早く帰ってきてねん」

     ○

 俺は夕闇に染まる世界を駆ける。
 周囲には大草原と地平線以外何も無い。そんな寂しくも寒々しい街道を、たった独りでひた走る。
 街を出て数分過ぎた頃には、寂しいなんて感覚も薄れちまった。
 なにも考えず、頭を空っぽにして、ただ、走る。
 余計なことを浮かべちまうと、とたんに不安になってくるから。
「はっ……はっ……はっ……」
 どれくらい走っただろう。学院まであとどのくらいだ?
 もう、そんなことも分からない。
 ただ、ひたすらに走る。
 立ち止まれば、もう一歩も踏み出せなくなりそうだから――
「――がッ!!」
 体が宙を舞う。転んじまったらしい。
 手をついて立ち上がろうともがくが、できない。
 全身が悲鳴を上げていた。
「はは――疲れた」
 俺はうつ伏せから横に体を回し、ごろりと仰向けになった。
 吹き抜ける風が冷たくて心地いい。
 見上げると、煌々と輝く赤と青の月。
「綺麗だな」
 なんか眠くなってきた。
 もう、動きたくねえなぁ。
 俺はそんな取り留めの無いことを考えながら、緩やかに意識を手放した。

「おやおや、寝入っちまったよ相棒」
 いつまでも変わらない月光の元、一振りはそう独りごちた。
 なんだかんだいっても久しぶりに巡り合った相棒、彼にしてもこの少年は大事だった。
 なにより、気性が気持ちよい。底抜けに真直ぐで、そして馬鹿だ。
 デルフはこの若い『使い手』のことを、それなりに気に入っていた。
「しょうがねえ、ここは俺が送ってやるか――」
 大昔の記憶を紐解いて、自身に秘められた能力の一つを引っ張り出してきたデルフリンガー。しかし、その行動は、突然の乱入者により中断させられた。
「――なっ!?」
 大きい。月明かりを背にしたシルエットは、強大な地獄の番犬(ケルベロス)の如く。吼えずとも発せられるその獰猛な気配は、周囲に畏怖を抱かせた。
 ――幻獣、オルトロスである。
 デルフにもし顔があれば、血の気がひいて冷や汗を一筋流していただろう。それほどまでに、この状況は切迫していた。
「おい、おい相棒! 起きろ! 寝てる場合じゃねぇぞっ!!」
 デルフは己の相棒である、若き使い手へ必死に呼びかける。しかし、少年は目覚めない。
 なぜここにこんな幻獣が、と疑問が湧くもすぐに捨てる。今はそんなことは重要ではない。
 考えれば考えるほど絶望的なこの状況に、デルフは悲愴感に包まれた。
「ちくしょうめ、相棒さえ目覚めてくれれば」
 この少年はまだまだ未熟だが、それゆえに輝かしい前途が、無限大の伸びシロがある。いずれ、先代たちに負けず劣らぬ、立派な剣士になるはずなのだ。
 デルフは無念に心を痛めた。
「くそ、かくなる上はこの俺が――」

「一時間か」

「――?」
 オルトロスが、言葉を発した。幻獣は人語を解さないはずなのに。
 デルフは疑問符を浮かべた。
「ま、初日ならこんなもんでしょ」
 オルトロスは見た目にそぐわずひょうきんに笑うと、少年のパーカーを咥えて振り上げ、その背に乗せた。
「な、な!? ちくしょう、おい、俺たちをどこへ連れて行くつもりだ!!」
 デルフは酷く狼狽した。
 オルトロスはそれをおかしむように、こう答えた。
「こんな夜更けに野宿なんかしちゃ、風邪を引いちゃうかもしれないからね。差し出がましいけど、送ってあげよう」
 双つ首の狼はコミカルに微笑むと、双月の満月を背に駆け出した。



[21043] 五章中編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:12
【 五章中編 『特訓』 】



「いくよー」
 俺は高ぶる心を落ち着かせようと、胸に手を当てて深く深呼吸した。五メートル先には、聖が薪の山の隣でその一本を弄んでいる。ここは森奥の炭焼き小屋。『次の段階に移行する』とか言って、聖に連れてこられた場所だ。
 聖が薪を大きく振りかぶり、投げた。この動作が、修行開始の合図だ。
 俺は手の中の木刀を握りしめ、眼前に迫る脅威を睨む。するとその気炎に呼応するように、左手のルーンが輝きを放ち出す。飛来する薪は弾丸の如き勢いで、空中を一直線に俺目がけて突っ込んでくる。俺は流れるように右足を半歩下げ、上体を反らしてそれを避けた。薪は後方の雑木林に着弾し、カランと木材特有の真ん中が抜けたような音を奏でた。
 しかし、そんなことに気を割いている余裕はない。聖は徐々に振りをコンパクトに変え、弾幕の密度を上げてくる。初めは一つ、二つと隙間だらけの投擲だったものが、ほんの五秒で雨もかくやという猛烈な奔流へと変貌した。
 俺は避けることに必要な感覚以外を全て遮断し、薪の軌道と体の動きだけに意識を没頭させた。
 顔面へ飛来してくればタイミングを合わせて首を逸らし、胴体ならば半歩後ろ下がったり上半身をかがめてやりすごし、そして時折ターンも混ぜて、それら全てをすり抜ける。足下をかすめれば曲げたり跳ねたり、一瞬も体の動きを止めない。
 そんなことをしている間にも、弾幕の密度はさらに濃くなる。俺は避けることが厳しくなると、満を持して切り札の封印を解いた。
「おうおうおぅ、なかなかだぁね」
 半身を下げて二本を流し、三本を木刀の一振りではたき落とす。やがて俺は避けることを最小限にとどめ、飛来する全てを打ち落とす体勢に入った。
 間断なく襲いくるそれを斬り落とし、斬り払い、斬り上げ、木剣の腹で受け止める。常人がこれと同じ事を真似ても、動作の間に次弾が刺さってお終いだろう。だが、俺ならばできる。できるんだ。
 ここ数日で改めて実感したが、ルーンの力は本当に凄い。走れば馬を追い抜く速度が出せるし、飛べば二階建ての宿舎に飛び乗れた。極めつけは肉体の強度がアホみたいに上がり、手にした武器の威力がバカみたいに増大する。
 先日、聖に『能力検査』と称してやらされた試し斬りで、デルフを使ってどの程度まで斬れるのかを実戦したところ、なんと一センチの銅板くらいなら断ち斬れることが分かったのだ。とんでもねえ。
 そしてルーンから送られてくる『技術』。これもまたかなりヤバい。頭に思い浮かんだと思ったら、体がすでに実戦している。今のこの訓練に耐えられているのだって、この効果があってこそだ。無けりゃ数秒も持たないだろう。それぐらい聖の訓練は厳しい。
 まあ、耐えられると判断したからこそ、あいつもこのやり方を選んだんだろうけど。
「小僧、残り三十だ」
 地下水がカウントコールをしてくれた。『薪槍百本当たっちゃダメよ 地獄のダンストレーニング』(命名:聖)も、いよいよ佳境に入ったようだ。
 俺の剣とあいつの剣は、脇の木陰に立てかけられている。聖が言うには、「真剣訓練なんぞ百年早い」らしい。悔しいぜ。
 だが、この修行を始め、今日を数えてもう一週間経つ。最初の頃は二十本と持たずボロカスにやられてしまっていたが、今じゃここまで捌けるようになった。俺も結構やれるようになったんじゃないだろうか。
 十、九、八……ミッション達成が刻々と迫る。はは、やっとこの修行も終わりだ――「がふんっ!?」
 スカーン、という竹を割ったような音。そして衝撃が俺の脳天から背筋を一直線に駆け抜け、目の前に星が飛ぶ。俺は頭をかち割られたような痛みに襲われ後方へぶっ倒れ、激痛に頭を抱えて転げ回った。
「はいダメー、失敗。残念だったね」
「九十六か。最高記録だぞ、小僧」
「油断しちゃダメさね相棒」
 口々に好き勝手言ってくれるギャラリーたち(こいつら)。ち、ちくしょう。なにがどうなった?
 座りこんできょろきょろと周囲を見回しても、叩き落とした薪が散乱しているだけで、なにが起こったのか把握できない。
「頭痛ぇだろ、相棒?」
「ああ……滅茶苦茶いてぇ」
「山なりに放られた一本が、ドンピシャで脳天に直撃したのさ」
 地下水に言われ、そうなのかと納得する。ダメだ……全然気がつかなかった。
「キミ、『やっと終わりだ』とか考えてたでしょ。眼を見れば分かるんだよ?」
「ぐっ」
「それに、意識を目の前だけに集中しすぎ。たしかにそうすると近距離の反応速度が上がるけど、視野が狭まっちゃうという欠点があるんだ。視野が狭まると認識範囲が小さくなって、範囲外からの攻撃に弱くなる」
 聖は丁寧に解説をしてくれた。俺は自分の手が届く範囲にだけしか意識を張り巡らせていないから、そこ以外から来る某かを認識できていない。だから、聖が直前に行った、山なり投擲を避けることができなかった。あれは、『範囲の上から』降り注いだ攻撃だったから。
「くっそ~、もうちょっとだったのに」
「まあ、今のは良い線行ってたよ。もうちょっと頑張ればなんとかなりそうかな」
「ほんとか?」
「キミは今の半分の集中力でも、この程度の弾幕なら楽に避けられる。その半分を遠距離に廻して、視界全体に注目するんだ」
 視界全体に注目? それって。「ただ意識散漫なだけじゃねえか」
「いや、そういうんじゃなくて……そのうち分かるよ」
「『そのうち』じゃおせーんだって!」
「ははは……近道はないよ。精進しな」
 聖は俺に手を差しのべて苦笑した。俺はむくれながらもその手を取る。
 はぁ、いつになったら立ち会い稽古できるんだろ。
 俺は碌に剣(デルフ)も握らないまま一週間が経ったことで、若干焦り始めていた。

     ○

「ふぅー」
 革袋に詰めこんだ水を一息にあおる。ややぬるいが、乾いた体に染み渡る感覚が心地良い。ここに来る前に聖から渡された、原始的な水筒だ。あいつは訓練に必要な物なら、なんでも用意してくれる。
 一度、悪いからと金を払うことを提案したのだが、一笑の元に却下された。曰く、「子どもがそんな心配するんじゃない」、だそうだ。餓鬼扱いは気に入らないが、現時点で俺は無一文なんだから仕方ない。ルイズに頼むのも抵抗あるし……なんだかんだで、あいつにもかなり金を使わせちまってるしな。
 振り返ってみると、俺って誰かに世話かけてばっかりだ。
「どうしたね相棒。重っ苦しく肩なんざおとして」
「あぁ……俺ってダメだな、と思ってさ」
「おや、どうして?」
 だって。
「無理矢理異世界に連れてこられたとはいえ、大怪我をしてルイズに大金払わせるわ、武器を買うのになけなしの小遣い出させるわ。そして今度は強くなるためにあいつから色々教わってる。俺は、貰ってばかりだ」
 そのくせ、なにも返していない。返せるようなものも持たない。どうしようもねえ。
 俺は膝を抱えてどんよりと雲を背負う。そんな俺の独白に、デルフはカタカタと鍔を震わせた。
「なんでぇ、そんなことか」
「そんなこととはなんだ。俺は真剣に――」
「難しく考えるこたねぇ。貰えるもんは貰っとけ」
 俺は耳を疑った。受けた恩などかなぐり捨て、甘い汁を吸い続けろというのか。
「相棒。おめぇが怪我をした顛末は知らねぇが、あの娘っ子ががま口を開けたのはあいつの問題だ。おめぇさんが気に病むことじゃねえ。そして、今回だってそうだ。おめぇさんはあいつに請うたな。『強くなりたい』って。あいつは、それに応えてるだけだ」
「なら、なおさら」
「勘違いすんなよ? おまえさんは欲しいから願ったんだ。そんなやつが、返せるような上等なもんを持ち合わせてると思うか?」
 それは……無いけど……
「借りなんざ心に留めておいてな、後々まとめてかえしゃあいいんだ。返せるときに、一気にな」
「返せるときに?」
「そうだ。おまえさんがこのまま腐らず歩み続ければ、いずれなにかを得るだろう。その時、おまえさんはおまえさんを助けたやつらと同等の立場に立つ。返せるもんを掴むんだ」
 デルフは懇々と俺に語り続ける。俺はそれに、黙って耳を傾ける。
「なにもねぇ時に思い悩んでも、それはどうしようもねぇ。おまえさんがそれを申し訳ねぇと感じるなら、余計なことは考えず、今より一層努力しろ」
「――そうか」
 たしかに、今の俺ができることなんてたかが知れてる。そんな中から無理に捻り出したとしても、あいつらから貰った物には相当劣ってしまうだろう。そんなものは、返しても意味がない。
「それと、これは俺の経験談だがな。生きてりゃ、誰しも必ず一度は『助けて欲しい』と思う時が来る」
「『助けて欲しい』……?」
「そうだ。自分の力ではどうしようもない、強大な困難にぶち当たる。それは魔法の苦手な娘っ子にも、得体の知れない兄ちゃんにも、誰にでも等しく訪れる」
 ま、自然災害みたいなもんだ、とデルフはこともなげに笑った。経験談とは、これまでに出会った使い手たちのことなのだろうか。
「おまえさんが借りを返したいという想いを、心の底から願い、忘れなければ。その時に助けてやればいい。それまで与えられ、培った力でな」
 だから、とデルフは付け加える。
「今は貪欲に吸収しろ。学び、磨き、力を蓄えろ。来るべき時、足りない力に剣を折らないために」
 それきり、デルフは黙った。
 ……励ましてくれたんだろうか。こいつにしては珍しい。それとも、こいつもなにか、思うところがあったんだろうか。足りない力に、膝をついたことがあるのだろうか。それは、俺には知る由もない。
 ただ、これだけは伝えておこう。
「ありがとな、デルフ」
「構わねぇよ。しょぼくれた相棒なんざ気味が悪い」
 もう、どうしようもないことで悩むのはやめよう。くよくよするなんて俺らしくない。いつか、何者かになって、その時に借りたものを返そう。のしをつけて、万倍にして。
 だから。今は目の前のことに集中する。もう迷わない。一日も早く、なにかを掴むんだ!
「――そうだ、相棒。おまえさんは、そのままでいいんだ」
「ん? なんか言ったかデルフ?」
「んにゃ。なにも」
 デルフはそう言ったっきり黙りこんだ。休憩中何度話し掛けても、返事の一つも返さなかった。
 変なやつ。

     ○

(半端ないな)
 やや離れた木陰で座り込んでいるハタヤマ。彼はここまでのサイトの成長具合に、内心舌を巻いていた。
 正直、今日行っている内容に辿り着くまで、丸々一週間はかかるだろうと踏んでいたからだ。
 それがなんとこの少年は、三日で走破慣れてしまった。今では片道二時間半で余裕らしい。初日、ハタヤマが送って帰った姿とは見違えるほどの変化だ。ハタヤマは意味が分からなかった。
 サイトは二日目には体力を使い果たしつつも、自力で帰路を完走するという荒行を成し遂げていた。日中常に走りっぱなしだが、それに耐える力をもう身につけたのだ。これにはハタヤマも目を剥いた。おそらくこうなるだろうと予想していたが、まさかこんなにも早く効果が現れるとは。
 ハタヤマがサイトに、この一見無意味とも無謀ともとれるメニューを言いつけたのは、一重に、サイトの力を肉体に馴染ませるという狙いがあった。たとえ大きな力を持っていても、それを操る肉体が貧弱では宝の持ち腐れである。ゆえに、サイトの肉体改造を、まずなによりも優先して行う必要があった。
 生き物の肉体とはなかなか便利に作られていて、時間が経てば成長するし、負荷をかければその部分が強化される。いわゆる、『鍛える』というやつである。それはなにも筋肉だけではなく、その他あらゆるものに適応される。もちろん、『超常の力』においても例外はない。『ガンダールヴ』(神の力)は、鍛えられるのだ。
 といっても、それ自体を鍛えるわけではない。ルーンの力はそれ自体で完成されているし、なにより鍛えなくても強い。ならばどこを鍛錬するのか。それは、使い手の肉体だ。
 ハタヤマがサイトの強化プランを立案するにあたって、まず始めに思い浮かんだのが『長時間の能力使用に耐える体を作ること』だ。自身の肉体で想像するならば、ルーンの力とはおそらく魔力のようなもの。脆弱な魔力回路では、流れる魔力に耐えられない。
 ならば、どうやって強靱な魔力回路を作るのか。その方法には色々あるが、もっともオーソドックス且つ手っ取り早いのは、回路に負荷をかけまくることである。魔力回路も結局のところは普通の筋肉と同じで、使えば疲れるし、トレーニングにより改造も可能だ。回路をひたすらいじめ抜いて、超回復により強度を増大させるのだ。そのために、徒歩で走破するというのはとても都合が良かった。
 なにせ、嫌でもルーンを使わざるを得ないのである。手を抜くといつまで経っても学院に着かないので、サボり防止にもなって一石二鳥だった。
 それにしたって。
(三日で慣れるなよ……)
 自分でさえ、似たようなことを肉体強化魔法で行い、初日は五分でぶっ倒れ、馴染むまで一週間かかったのだ。それなのに、目の前で軽々とこんなことをやられてしまうと、流石のハタヤマも複雑な心境である。
 やっぱ、最後は才能がものをいうのかなぁ。
 ハタヤマは、そんな切ないことを考えていた。
「おい、そろそろやろうぜ!」
 サイトが元気よく定位置に戻り、ぶんぶん木剣を素振りしていた。ハタヤマお手製の、剣というより長い棒だが、サイトはお気に召したらしい。
 ハタヤマははふぅ、とため息を吐き、尻についた葉っぱを払いながら立ち上がった。
 自分など、鍛錬の時間は嫌で嫌で仕方がなかったのだが。このやる気は尊敬に値する。
「いくよー」
 いつも通りの合図。サイトはそれを受け、気合い十分に木剣を握りしめた。

     ○

「あーもう! もう疲れたー!!」
 人気のない深夜のホールに、女性の悲鳴が響き渡った。その声の主は『魅惑の妖精亭』店主の娘にしてナンバーワンフェアリー、ジェシカである。
 彼女はもうかれこれ一時間、眼前の羊皮紙と格闘していた。
「二桁の足し引きは問題ないけど、三桁になると繰り上がりが怪しくなるね……」
 テーブル中央のカンテラに照らされながら、アゴに手を当て、肘を抱いて唸る男。言うまでもないが……と描写するのもいい加減にくどい。今後は『ハタヤマである』の一文で統一しよう。
 赤インクに浸した羽ペンで、テスト答案を丸つけしているのだが、どうしたものかと首を捻る。どう指導していいのか分からないのだ。
 元来、『他者にものを教える』というのはとても難しいことだ。それゆえに『教師』という職業があり、その職に就く者は相応の教育を受ける。『教師』になるための教育を。
 『分かるように説明する』というのは、それだけ難渋なものなのだ。
 なので、そういった知識にはまったくの無知であるハタヤマは、ほとほと手を焼いていた。
(どうすりゃいいんだよもう……)
 繰り上がりは分かる。足し算と引き算の原理も理解している。しかし、長い計算はできない、できるけれど誤差がでる。なまじ中途半端にできている分、どう手をつけていいか分からない。
 ハタヤマは悩んだ。
「ごめんね……やっぱり、今更勉強なんて無理なのかな」
「いや、そんなことない。指導を受けてるのに分からないって事は、教えてるやつがタコなんだ」
 そう、教え方が悪い。だから、ジェシカは悪くない。
 真剣な顔つきでそう呟いたハタヤマに、ジェシカは見とれた。
(思い出せ。ボクは小学校時代なにをやった? どうやって算数を覚えた?)
 心の奥底をスコップで掘り返し、封をした壺の口を破る。甦るのは、自身を取り囲む人間の子どもたち。あの頃は自分と人間の違いを理解せず、そのせいで周りと――抹消。今はこんなもの、というか二度と思い出したくない。次、次。
 壺の中身をひっくり返し、水が滲んだようにおぼろ気な記憶の断片をつなぎ合わせる。中には眼をこらしても正体が掴めないものもあったが、なんとか必要なものは探り出せた。
(そうだ!)
 ハタヤマの瞳が喜色ばんで輝いた。
 ハタヤマは、テーブルの上に用意してある新しい羊皮紙の束から一枚ひっつかみ、しゃかしゃかと羽を走らせた。ジェシカはそれを頬杖をついて横から眺めている。
 やがて、ハタヤマが羽を置いた。
「ジェシカちゃん、今からキミに数学の奥義を伝授しよう!」
「奥義?」
「そう、奥義。これさえ覚えられれば、もう計算なんて恐くない!」
 自信たっぷりなハタヤマに、ジェシカは可愛らしく小首をかしげた。もう見栄えのいい、男の心を掴む仕草が染みついてしまっているようだ。
 ハタヤマは羊皮紙を指さす。そこには、現代に生きる誰もが最初に習う方程式が描かれていた。
「これは、『筆算』っていうんだ」
 全ての計算の基本となり、応用の要となる根底にあるもの。そう、ハタヤマはまず、それを伝えねばならなかったのだ。
 これさえあれば、大抵の計算はなんとかなる。
「元となる数字を上に、そして加えたい数字下に書いていって、一番下の段の左に計算記号を書く。今回は足し算だから『+』だね」
「ふむふむ」
「そして、上にある数に下にある数を、記号の法則に従って計算する。数字が一周したら、くりあがって左の数字に足してね」
「『くりあがって』?」
「あーっと……数字は一から九までしかないってことは知ってるよね?」
「うん」
「すると、溢れた数字は次の位に移行する。それを『繰り上がる』っていうんだよ」
 ジェシカは言葉ではよく分からないようなので、ハタヤマは数式で説明した。答えの部分の繰り上がりを数字の右上に書き、それがどういう効果を及ぼすのかを、繰り上がった数字を加えてもう一度計算する。
「あ、そういうこと。なんだ、簡単じゃない」
「分かってくれた?」
 どうやらジェシカは『繰り上がり』という単語を知らなかっただけらしい。これだけのことを説明するのにも一苦労で、ハタヤマは焦るたびに体温が上がって、全身が熱かった。
「じゃあ、これがこれで……こうなって……すごい、簡単じゃない!」
 ジェシカは先ほど行った、ハタヤマお手製のテスト問題を新しい紙に書き写し、もう一度トライし始める。するとさっきは解けなかった問題がスラスラ解け、あっという間に終わらせてしまった。
 ハタヤマがそれを受け取り、即興で添削を行った。
「おお、全問正解じゃないか。さすがだね」
「先生がいいからよ」
 ジェシカはぱちりとウィンクした。ハタヤマはズキューンと心臓を射抜かれ、頬を染めて挙動不審になる。ジェシカはそんな彼の初心な反応にくすくすと微笑んだ。
「そ、それじゃあ今後は四桁の計算を混ぜた小テストを毎日続けることとして。ジェシカちゃん、『九九』って知ってるかな?」
「『クク』? なあに、それ? 鳥の鳴き声?」
 それはクックドゥルドゥーである。
 きた。最大の難関きた。
 ハタヤマは笑顔を崩さないが、内心だらだらと汗をかき始めた。
 義務教育において、小学校の低学年前半の山場と言っても過言ではない、超難問が降臨なされた。
 ハタヤマも曖昧な記憶だが、ずーっと授業で唱和させられたことを思い出した。
 特に七の段が手こずった覚えがある。どう手こずったかは覚えていないが。
 ハタヤマは深く息を吐いた。
「……今日はこれまでにしようか。どうするかは、明日までに考えておくよ」
「うん、ありがとね! それでさ」
 ジェシカがハタヤマにすり寄った。
「今夜、部屋に――」
「そんじゃお休み。良い夜を」
 ジェシカが口を開くのを、ハタヤマは被せるように彼女の頭を撫で、踵を返した。絡まされた手をすり抜けられ、彼女の右手は虚空を切った。
 そのままずんずんと階段に足をかけ、声をかける間もなく二階へ登っていく。
「あ、うん。お休み……」
 ハタヤマは一度も振り返らず、闇夜の中へ消えていく。
 ジェシカは彼の後ろ姿が見えなくなるまで、寂しそうに見つめていた。

     ○

「遅い」
 突然だがこの俺平賀サイトは、人生最大の危機に直面している。
 ネグリジェ姿の我が小憎らしき御主人様が、俺に向けてその杖を突きつけなさっておられるからだ。
 言葉遣いが変だが気にすんな。
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着けよルイズ!」
「毎朝毎朝早くに出かけて、帰宅はいつも日がとっぷり暮れてから? あんた、わたしの使い魔でしょ! それなのに御主人様を一日のほとんどほったらかしにするってどういうことよっ!!」
「しょーがねーだろうが! ぎりぎりまで修行してたら、どうしてもこんな時間になっちまうんだよ!」
 これは嘘じゃない。いつも夕方六時頃には向こうを出発しているのだ。そこから二時間半だから、学院に着く頃にはもう月が昇っている時間になってしまう。決して、聖に誘われて妖精さんたちと戯れてたりなんかしない。決してしないぞ。
 ……違うんだからな! 誘ってくるあいつが悪いんだ!
「学院を出るまでに、掃除洗濯は終わらせてるだろ! ちゃんと仕事はしてるぞ!」
「そういう問題じゃない! あんた、最近わたしが授業中になんてからかわれてるか知ってんの!? ――『ついに使い魔に逃げられたかヴァリエール』よ゛――――――ッッッ!!!!」
 ふがーっ! っと杖をへし折らんばかりに両手で折り曲げ、怒り心頭の猫又みたいにわめくルイズ。おおぅ、なんか髪の毛が怒気でうねうねしてる気がするぞ。恐い。というかちょっとご近所迷惑だから止めろよ。余計火種に燃料注ぐぞ。
 しかし、そんな風に噂されてんのか。まあ、俺近頃昼間は学院にいねえし、それも仕方ないかもな。
 だが、ルイズはそれが気に入らないらしい。
「あんた、本当にちゃんと芸の練習してるんでしょうね。馬小屋番から伝え聞いたけど、馬にも乗ってないみたいだし。もしかして、学院を出たふりして、あの乳メイドと乳繰りあってんじゃないでしょうね?」
 上手いこと言ったつもりか。つまんねーぞ。
「いいえ、違うわね。きっと学院近くの森に潜んで、だらだらと時間を潰しているのね。使い魔の仕事をサボりたいばかりに! なんて怠惰!」
「馬鹿野郎、人聞きの悪いこと言うな! 証拠も無しに難癖つけてんじゃねえよ!」
「証拠ならあるわ! 徒歩で街へ出るなんて、平民には不可能よ!」
 “フライ”も使えないくせに! とルイズは息巻く。語るに落ちたな。お前だって使えないじゃねえか。ということは、お前も貴族じゃねえってことだ。
 ……と、そこまで考えて自重した。さすがにこの方面でイジってやるのは可哀想すぎる。俺だって空気は読むぞ。多少は。
 それに、『魔法を使える者を貴族と呼ぶんじゃないわ』って言ってたしな。それぐらい覚えてるさ。
「よし分かった」
 俺は重々しく頷く。ルイズは俺の不敵な態度にやや気圧されたのか、左目を細く引きつらせた。
「なにがよ?」
「証拠が欲しいなら見せてやるよ。次の修行にはお前もついてこい」
「え? だって、そんなこと言っても私、授業が」
「明後日休みだろ。向こうは曜日は気にしなくていいって言ってたから、行くつもりだったんだ」
「『向こう』? 誰かに習ってるの?」
「そうだ」
 信じられないってんなら、実際にやってみせるしかねえ。今日はもう遅いし、明日は聖が『仕事の日』だってんで、自主トレを言い渡されている。タイミングとしては丁度良い。
「お前は馬を使っていい。せいぜい置いてかれないようにな」
「はあ? あんた、馬と併走するつもり? んで、勝つつもり? ばっかじゃないの?」
「俺からすればお前の言葉こそ耳を疑うよ」
 なんかすげー会話になっちまったな。端から見れば、俺の方が気が狂ってるように見えるんだろうか。まあ、できちまうんだからしょうがないけど。
 俺はさっさと寝床である藁束にくるまり、ルイズに背を向けて寝っ転がった。
「じゃあ、二日後に一緒に街へでるぞ。忘れんなよ」
「ちょっと、明日の着替えの用意は? 髪のブラシもまだよ」
「自分でやれよ」
「あんたの仕事でしょ!」
「俺は御主人様の無理難題を叶えるための『秘密の特訓』で、すごく疲れているのですよ」
 これ見よがしに嫌みを囁いてやった。ルイズは頭に血が上ったのか、かぁっと顔を真っ赤にして湯気を噴く。しかし、証拠のない現状で、今の俺を虐げるのはただの理不尽だぞ。ケケケ。
 ルイズもそれを理解してるのか、わなわなと拳を震わせ、
「このっ馬鹿犬ぅっ!!!!」
「あべし!?」
 ベッドに駆け寄って枕をぶん投げてきやがった。俺はそれを後頭部にくらい、素っ頓狂にうめく。
 ちくしょう、ささやかな抗議のつもりか? ぜんぜんささやかじゃねえ……
 俺はくそぅ、と苛立ちつつも、反撃すると余計に疲れそうなので無理矢理目をつむった。
「ちょっと」
 背中にルイズのお呼びがかかる。なんだよ、もう寝かせてくれよ。
 俺はむっくりと起きあがり、半眼でルイズを睨んだ。
「枕とって」
 ――困るなら投げるんじゃねーよ! と、思いつつ素直に枕を持って行ってやる。
 ルイズは興奮の余韻で頬を上気させながら、拗ねたようにむくれつつ両手で枕をうけとると、ジロッ、と俺を目力で脅した後、布団をひっかぶって隠れてしまった。
 不覚にもちょっと可愛いと思った。

     ○

 次の日。
 俺はルイズを授業へと送り出し、ヴェストリの広場で自主トレに励んでいた。
「くっ……くくく」
 片手逆立ちを十分間。ついさっき右手を終わらせて、今度は左手で挑戦中だ。
 良い感じに体温が上がって、ぽたりと玉の汗が頬を伝って落ちる。結構しんどい。
 三……にぃ……いち……ッ!
「くはっ!」
 ラストカウントとともに脱力し、べちゃりと地面に崩れ落ちた。疲れたー。
 今日は聖がいないので、独りでの訓練である。あいつはなにか自力で働き口を見つけたらしく、日中はいないことが多いらしい。だが、俺の特訓には付き合ってくれているので、もしかしたら無理をさせているんじゃないかと不安になり聞いてみたところ。
「いつでも仕事があるわけじゃない」
 と言われ、気にするなとやんわり諭された。なんでも、情報が入るまではぼけっとしていることの方が多いらしい。だから仕事がない日はあの店で引きこもっているようだ。
 んで、今日はようやく情報が入ったから、満を持して出勤するんだとさ。
 久しぶりのゆったりした日。このところ聖にしごかれてばかりだったから、少しくらい骨を休めてもいい気はする。だが、俺はあえて休まない。
 なぜって? 時間がもったいないからさ。
「ふっ、ふっ、ふっ!」
 聖に貰った木刀で素振りをする。千回くらいやれば充分だろう。だからといってむやみやたらに振り回すことはせず、きちんと姿勢を正して、フォームを崩さないように。
 五百回を過ぎた頃から、もう数えるのも億劫になってきた。だが、ちゃんと数えないと何回やったか分からないので困る。
「九十八、九十九、六百! 一、二……」
 長い数を数える時は、百の位を抜くのがミソだ。いちいち六百一とか六百二とか付け加えてると手間だからな。
 パーカーを脱ぎ、上半身裸で、汗を迸らせながら俺は没頭する。蒸気みたいな煙が全身から発せられてるけど、そんなことは気にしない。
 聖には筋トレなんていらないと言われたが、俺は自主練メニューに筋トレを加えていた。

 なぜ聖は筋トレを『必要ない』と断言したのか。俺は休憩中にそういった会話の流れになり、気になって質問した。
 聖の答えは単純明快、『他で代用が利くから』ということらしい。
 聖においては肉体強化魔法、俺にとっては左手のルーンがそれにあたる。
 別の力で強化できるから、無理につける必要がないのだ。
「でも、それって魔法が使えない状況では危なくね?」
「その状況で対峙せざるを得ない状況に陥った時点で、こっちはもう負けてるんだよ」
 なるほど。
 だが、まだ俺の疑問は尽きない。
 俺はおもむろに聖のワイシャツをめくる。そこには、六つに割れた見事な腹筋が存在を主張していた。
「いやん」
「いや、キモいって」
 おどけて体を隠す聖はスルーするとして、よく観察すれば腕も相当引き締まってるし、背中なんて一部の贅肉もないしなやかさだ。筋肉いらないっつってるやつが、こんな鍛え抜かれた筋肉を保持していることに、俺は納得いかなかった。
 それを聖に指摘すると、衣服の乱れを正しながら、こんな回答が帰ってきた。
「まあ、あっても困らないからね」
「矛盾してんじゃねーか!」
「まあまあ、これには理由があるんだよ」
 ほう。
「これは、ボクの修行時代の話なんだけどね――」
 聖がぽつぽつと、記憶の欠片を掬い出すように語り始めた。
 聖も俺と同じように、弱かった頃があったらしい。若い頃はこいつも師匠の元で、修行三昧の日々を送っていたようだ。
「若いって……お前いくつなんだよ?」
「ん? 二十三だよ」
「にじゅうさん!? おっさんだな」
「うぐっ」
 おっさんて、おっさんて……と聖は砂に『の』の字を書いていじけてしまった。す、すまん、つい。
 気を取り直して。
「ボクも、師匠に全く同じ事を言われた。『魔法使いに筋肉なぞ邪魔なだけじゃ』ってね」
 むしろ近づかせないように魔法を磨くべし、というのがその師匠の持論だったらしい。聖も初めはそれに疑問を持たず、日々研鑽を積んでいた。
 しかし、ある日壁にぶち当たる。魔法勝負では、師匠に一撃も入れられなかったのだ。
「あのじーさんやたら強くてさ。こっちが必死で食らいついてるのに、平然とそれ以上の魔法で押し返してくるんだよ?」
 同じグラビトロンで撃ち負けた時なんてもう……と、聖はどんよりと悲しみを背負う。今でも悔しさが忘れられないようだ。
 そうやって毎日対峙することで、やがて聖は理解した。『同じ土俵では勝てない』と。
「ボクは考えた。どうすればあの憎たらしいじじいをボコボコにしばき倒せるのか」
 ぎりぎりと歯軋りし、怪しい目つきで聖が呟く。こ、こいつ、結構根に持つタイプなんだな。
 そして見いだした結論が、『近寄ってズタズタにする』だったらしい。同じ事をしていても勝ち目はない、ならば向こうができないことをしてやる。
「あのじーさん、言うだけあって肉なんざ贅肉しかついてなかったからね。まあ、種族的な問題もあったけど」
「種族的な問題?」
「ああ、こっちの話。ま、寄る年波ってのもあって、体力はかなり貧弱だったのさ」
 そうと決めた聖の行動は速い。毎朝密かに筋トレを繰り返し(修行の時間がいつも夜だったらしい)、隠れて牙を研ぎ続けた。全ては、ただ師匠に一矢報いんがためだけに。
 まあ、こいつの性格からして。ただたんにやられっぱなしじゃ性に合わなかっただけなのかもしれないが。
 毎夜反吐を吐くほど魔法でしごかれてから、休息も取らずに筋力トレーニング。さすがのこいつも、疲労で死ぬかと思ったらしい。
「んで、その過程で気づいたんだ。筋肉がつくと、肉体強化の出力も比例して増大するって」
「へぇ」
 それまで二百キロまでしか無理だったのが、いつの間にか五百キロまで持ち上げられるようになった。
 それは、こいつにとってかなり革新的な変化だったらしい。なにせ、とれる戦略が大幅に広がるのだ。
 そして、聖は三ヶ月の調整期間を経て、改めて師匠へと挑戦した。その結果は。
「いやー、見せられるものなら見せてあげたいよ。あの驚愕した篠原さんの姿!」
 聖の圧勝で終わったらしい。開幕早々地面を引っ掴んで大地を抉るように巨岩を持ち上げ、それを投げつけた隙に特攻してジ・エンドだったらしい。鋭利なナイフを突きつけられて、師匠は呆然と聖を見上げるしかなかった、というのは聖の談だ。ほんとかね。
 どうやら瞬発力や移動速度も筋トレの恩恵を受けていて、こいつの師匠はそれを見誤ったようだ。
「ま、その後ズタボロにやり返されたんだけどね」
「へ? なんで?」
「なんか『もう一戦じゃ!』とか言いだしてさ。一回やった戦法は通じなくて、為す術もなく魔法の奔流に攻め殺された」
 あれ絶対私念だよ、と聖は思い出してむかついたのか歯軋りする。そこまでこっぴどくやられたんだろうか。こいつの師匠も、こいつに負けず劣らずの負けず嫌いなのかもな。
「ま、そこで学んだわけさ。『なくても困らないが、あって損もない』ってね」
 聖はそう言って話を締めくくった。

「……九百九十九、千!」
 俺は一際気合いを込めて木刀を振るい、深く息を吐く。最後の一刀を振り抜くと、頬を伝う汗がきらきらと宙に飛び散った。そこはかとなくスポ根っぽい。
 俺は全身を脱力させ、ばったりと大地へ仰向けに倒れ込んだ。ビリビリと手が痺れ、二の腕がぱんぱんに張っている。手の平をを太陽に透かすと、指先がぶるぶると震えていた。
 疲れた。
 しかし、嫌な疲労ではない。厳しい課題をやり通した後のすがすがしい心地だ。
 聖は一番初め、俺に向けてこう言った。「最後は自分で考えろ」、と。
 言われたことをこなすだけなら猿でもできる。その上でなにが足りないのか、それを克服するためにどうすればいいのか。それを常に意識しろ、と。
「馬鹿は、すぐ死ぬ」
 俺は、ぽつりと口ずさむ。これは、聖が俺を指導する時の口癖だ。
 この後に、「頭を使え」というフレーズが続く。この言葉は、聖の戦闘理念の根底を示すものらしい。
 俺は目をつむり、大きく息を吸い込む。そして薄く笑みを浮かべ、勢いよく跳ね起きた。
「この俺、平賀サイトが頭を使って考えた結果、『筋肉はあった方が良い』という結論がでました!」
 その方が格好いいし! 腹筋六つとか憧れるし!
「ゆえに、これからも筋トレを続行します!」
 周りに誰もいねーけど宣言する。口に出すのって大事だよな。
 まあ、こんな様子見られたら変質者確定なんだが……
「あ」
 腕をほぐしながら振り返ると、校舎側の出入り口に立つ人影と眼があった。 
 ショートヘアーの青髪、背がちっこいのにでけえ杖背負った、あの眼鏡の女の子は。
「タバサ……」
「………………」
 見つめ合うこと数秒。
 タバサは、上半身裸族の俺を矯めつ眇めつ眺め、小首をかしげて一言。
「……露出狂?」
「ちげ――――――っ!!!?」
 俺の魂からの絶叫。
 今日、この日。俺に変態属性がついた。

     ○

 トリステイン魔法学院付近にある森。そこには最近、とある噂が囁かれていた。なんと、竜が現れるというのである。それゆえ近所にある村の村人たちは、震え上がって近づかない。
 その噂は本当だ。その森には、つい最近住み着いた、小さな風竜の少女がいた。
 その竜は森の中心部に住処を構えている。
 木をその鋭牙で切り開き、枝葉を集めて屋根を作り、傍にはどこから持ってきたのか飼い葉置きまで備え付けていた。
 その中央で丸くなって眠っていた彼女は、小鳥のさえずりに瞼を震わせた。騎士(シュヴァリエ)・タバサの使い魔であり、伝説の風韻竜であるシルフィードである。
 いつからか彼女はそこに住処をこしらえ、快適な日々を送っていた。
 シルフィードは日の出とともに目を覚ます。寝ぼけ眼に天井から射し込む日光を受け、眠りの世界から引きずり起こされるのだ。彼女お手製の天井は、巨大な鳥の巣のように隙間の多い構造をしていて、お日さまを遮断してくれない。
 シルフィードはくあ、と大きな大きな欠伸をかいた。
 彼女の一日の大半は、この森でむにゃむにゃして終わる。それ以外やることがないからだ。
 しかし、この日はいささか違った。珍しく、本当に珍しく、彼女を訪ねる来客があったのだ。
 太陽が頂点を目指して登り始める午前。
 シルフィードが住処で丸まりながら、小鳥と一緒に歌を歌っていると、がさり、と不意に葉が擦れる音を察知した。いつものような風によるものではない、おそらく生き物が草をかき分けた音だ。
 シルフィードはきゅい? とたらしていた首をもたげ、不思議そうに周囲を見回した。そして、がさがさとせわしなくざわめく茂みの一点を見つけた。それはどんどんこちらに近づいてくる。
 なんだろう、人間かな? それとも森の動物?
 正体の分からぬがさがさに、シルフィードは不安気に身を震わせた。鳥たちはなにかを感じているのかがさがさが来る前に一斉に飛び立ち、けたたましい鳴き声を残して方々へ散っていく。
 そしてがさがさが、茂みが途切れる直前で止まった。
「ぐわおおおおぉぉぉぉっ!!!!」
「きゅいいいいぃぃぃぃっ!!!?」
 棘の多い野茨の茂み、その隙間から二対の黄金が閃き、巨大な影が飛び出した。それは鋭い牙を剥き出しにした、二つ首の巨大な狼。幻獣オルトロスであった。
「やなの恐いの、シルフィ食べてもおいしくないのーっ!!」
 恐怖に喉を引きつらせ、盛大に取り乱すシルフィード。いつもより多くきゅいきゅい鳴いている。
 この森は幻獣も生息していない、安全な場所だったはず。だからこそここを選んだシルフィードは、突然現れた凶暴な幻獣に怯えた。野生のオルトロスは気性が荒く、近づく者全てに襲いかかりかねない獰猛な生き物なのだ。
 恐怖に駆られたシルフィードの頭から、お姉さまの言いつけが吹っ飛んだ。
「こーわ゛ーい゛ーの゛――ッッッ!!!!」
「――っ!? ちょ、シルフィちゃん、やめっ――」
 シルフィードはぐわば、と大きく口を開けると、生存本能のままにアイスブレスを放つ。哀れ、何事か弁解しようとしたオルトロスは、周辺の風景ごと絶対零度で凍り漬けにされてしまった。風韻竜の吐息(ブレス)はへたなトライアングルメイジの『氷風』(ウィンディ・アイシクル)より強いので、中級幻獣(オルトロス)如きが対抗できるはずもない。
 彼女の吐息が過ぎ去った後には、氷りついた草木で真白に彩られた、雄々しい氷像ができあがった。
 シルフィードははた、と正気に戻り慌てふためく。
「や、やっちゃったの! やっつけちゃったの! ゴメンなの! というかしゃべっちゃったの! きゅきゅい!!」
 シルフィードは色々やらかしてしまってしっちゃかめっちゃかだ。もしここにタバサがいたら、無言のうちに彼女の頭を杖で打ち据えていたことだろう。うららかな森のひとときは、一転して混沌に包まれた。
 哀れ、この狼さんはこのまま凍えてしまうのか。
 ピキッ
「きゅい?」
 氷像にピシリと亀裂が生まれる。それは瞬時にオルトロスの全身に広がると、盛大な破砕音をたてて砕け散った。
「ふぃ~……あー、死ぬかと思った」
 ぷるぷると全身を振り乱し、毛皮についた霜を払うオルトロス。それと同時に撒かれた薄蒼色の残光は、彼自身の魔力の残り香だろう。某煩悩魔人の言い回しを真似た、分かりやすい復活のしかたである。
 シルフィードは己の全力を振り絞った吐息を平然と耐え切った目の前の幻獣に、腰を抜かして尻尾を巻いた。
「お姉さま助けてー! 可愛い使い魔が大ピンチなのよー! 気高くて貴くて慎み深い、お姉さまにとって唯一無二のパートナーである風韻竜の危機なのよー! きゅいきゅい! 」
「さりげに脚色しまくってるね」
 オルトロスが呆れて肩をすくめた。しかし、住処の隅で縮み上がっているシルフィードには聞こえていない。頭を抱えてぷりんと尻を突き出した姿は、どう見ても気高くなかった。
 これが『人化』状態だったら、とオルトロスは残念でならない。
「ごめんごめん、ちょっと驚かそうと思っただけなんだ」
「きゅい?」
 名前を呼ばれ、シルフィードが首だけもたげて傾げる。なぜ、見知らぬはずのオルトロスが、自分の名前を知っているんだろうか。
 シルフィードは改めてオルトロスをまじまじと凝視し、ややあって顔をほころばせた。
「あ! おまえ――」
「そう、ボクだよシルフィちゃん」
 オルトロスはにかっと笑い、それと同時に肉体が淡い光と煙に包まれる。数瞬してそれが晴れた中から、小さなハムスターのぬいぐるみが現われた。
 ハタヤマである。
 シルフィードはそれが分かるやいなや、彼女のお尻のようにぷりぷり怒った。
「バカ、バカバカ! ちょっとだけビックリしちゃったの! ……ちょっとだけよ? ほんとにほんとに、ほんのちょっとなんだから!」
「はいはい、そうだね」
 分かってますよ、とハタヤマは苦笑した。子ども相手に真っ向から否定すると、泣き出してしまうかもしれないからだ。
 空気を読む男である。
「早速遊びに来てくれたのね! 嬉しいの!」
 怒ったと思ったらもう笑っている。天真爛漫、元気印。そばにいるだけで元気を分けてもらえそうである。
 暇を持て余していたシルフィードは、ハタヤマの来訪を歓迎した。まさに向日葵が咲いたような、はじけるような笑みである。ハタヤマはそれが眩しくて、頬を緩めて眼を細める。
 そして、この大きな竜と小さなぬいぐるみの、昼下がりのお茶会が始まった。
 直前の早速、という彼女の言葉に戻ってみよう。
 これがどういうことかというと、じつはつい先日、彼らは顔をあわせて会う約束をしていたりする。
 ハタヤマがサイトを送った折、どうやって彼を部屋まで届けようか困り果てていたところを、ちょうどよく彼女が通りかかったのだ。
 ハタヤマはこれ幸いとシルフィードに彼を頼み、彼女はその代わり家へ遊びに来いと言った。その約束を守るために、彼は彼女の住処へ赴いたのである。
 無論、それだけが理由ではないが。
「……でねでね、あの憎たらしいおでこ姫ったら、裸踊りを始めちゃったの! 公衆の面前で! いい気味なの、きゅい!」
「ははは、そりゃいい見世物だ」
 泉が湧くように止まらないマシンガントークに、ハタヤマはずっと相槌を返している。シルフィードがおしゃべりを始めて、かれこれ数時間は経った。彼女は日頃しゃべれない鬱憤をここぞとばかりに晴らしたいらしく、ハタヤマは聞き役に徹していた。
(そんな顛末があったとはね)
 地下水の話を聞いたときには、どんなやつがそんな依頼を持ちかけたのかと思ったが。なんのことはない、噂の主は意外と身近にいたのだ。ハタヤマは『裸踊り事件』の裏にシルフィードたちが絡んでいたことを聞き、抵抗なく腑に落ちた。
 だが、そんなことに納得している暇はない。彼女の口はまだ閉じないのだから。
 ハタヤマが持ってきた街一番のお菓子屋のクックベリーパイに、きゅいきゅい鳴きながら舌鼓を打つシルフィード。どうやらなかなかに好評らしく、彼女はワンホールまるごと口に放り込んでご満悦だ。
 彼はそんな彼女の幸せそうな鳴き声を、心地よさげに聞いていた。……まだ食べてなかったのに、とちょっとだけ後ろ髪引かれながら。
 彼女は切り分ける前にがっつりいってしまったので、ハタヤマは買ってきたのに食べられなかったのだった。
「シルフィちゃん」
 不意に、らしからぬ真剣さをまとい、ハタヤマはシルフィードを見上げた。シルフィードはその雰囲気の変化を敏感に感じ取り、きゅい、と彼を見つめ返した。
「――『ミノタウロス』、って知ってるかな?」
 シルフィードがこおりついた様に息を呑んだ。
「ミノタウロス! どこでそんな名前を聞いたのかしら!? ダメよ、ハタヤマ。悪いことはいわないから、そんなのに関わらないほうがいいのね!」
「へぇ。どうして?」
 シルフィードは口にするのもはばかられるのか、がたがた震えながらその危険性を説く。
 一つ目に、驚異的な生命力。首を刎ねてもしばらくは絶命せず、ちょっとばかし傷を与えてもまたたく間に再生してしまう。それは腕を切り落とされても、間を置かなければくっつけてしまうほどである。
 二つ目に、怪力。その剛力、天を貫かん。そんな噂を囁かれるほどに、その腕力の強さは有名だ。亜人(オーク)を軽くしのぐ豪腕を持ち、腕の一振りで巨岩を砂糖菓子のように粉砕するらしい。
 三つ目に、強靭な皮膚。剣や弓や程度では傷一つつけられない、硬くて厚い素肌の鎧。その再生力とも相まって、メイジですら戦いたがらない理由はこれだ。
 そして最後に――
「やつは、穴から出てこないの。獲物を襲うとき以外、常に己が定めた巣穴の中で潜んでる。だから、やつらと戦うには、やつらの縄張り(テリトリー)へ入らないといけない」
 ただでさえ尋常ではない戦闘力に加え、彼らの領域へ飛び込まざるを得ない。それは大口を開けた竜のアギトへ、知って足をかけることに似ている。
 能力、地の利、その他諸々を全て不利な状態で対峙せねばならない。そんなことは自殺行為である。
「だから、ダメ。忘れなさい。ハタヤマはそんなこと、知らなくていいの」
「ああ、分かったよ」
 情報提供ありがとね、とハタヤマは胸中で礼を返した。彼が欲しかった情報を、シルフィードは自覚せず懇切丁寧に語って聞かせてしまったのだ。だから、彼女は憎めない。
 ハタヤマは、そんなシルフィードが愛らしかった。
「そんなことより。ところで、最近なにしてるの? なにか楽しいことなぁい? シルフィ、退屈すぎて死んじゃいそうなの」
 シルフィードはぷしゅ、と口を尖らせ息を吐いた。彼女は若い身空で使い魔に選ばれてしまったばかりに、遊びたい盛りの自由を奪われ、任務がない日は退屈だった。友達はいないこともないが、皆使い魔として忙しいし、種族も違うから目線を合わせて戯れることができない。シルフィードが全力で楽しむと、怪我をさせてしまうかもしれないからだ。同族の友達は皆風韻竜の里におり、気軽には会いにいけない。
 彼女は、独りぼっちだった。
「そうだねぇ。このところは、あの少年とよく顔を会わせるよ」
「少年?」
 ハタヤマはシルフィードに、サイトの面倒を見ていることを伝えた。
 彼は行った修行内容を、面白おかしく彼女に話す。それは娯楽に飢えていた彼女にとって、日常への絶妙なスパイスを与えるものだった。
「なにそれなにそれ、楽しそう! 見たい、シルフィも見たい!」
 目を輝かせて詰め寄るシルフィード。元来彼女はおてんばな性質で、ヒト並以上に好奇心が強い。なので彼女は懐いた感情に、とことんまで素直に従った。
 ハタヤマはやんわりと断ろうとしたが、ふと止まる。
(邪険にするのも可哀想かな)
 彼女が自分に向けているのは、あくまでも無邪気な好意である。ジェシカのようにむき出しの『それ』ではない。ならば、無理に遠ざけず、相手をしてもいいんじゃないだろうか。彼女はただ、無垢なだけなのだ。
 ハタヤマは、日がな一日こんな森深くでぼけーっとしている自分を想像し、そりゃ退屈で死にたくもなるわ、と思いなおした。
「いいよ。タバサちゃんも連れて、一緒においでよ」
 歓迎するからさ、とハタヤマは影のないにこやかな笑みで応えた。その言葉に、シルフィードはぱっと顔が綻んだ。
「分かったの! じゃあ、明日早速遊びに行くの!」
「えっ、明日?」
「明日は『虚無』の日なの! 明日いかなきゃ、次はまた七日後になっちゃう!」
 そんなに待てないの、きゅい! と、シルフィードはそっぽを向いた。フラストレーションが爆発寸前らしい。
 ハタヤマはそんなシルフィードに、自然と頬と目尻が柔らかくなった。
「ああ、それじゃあ明日は御馳走を用意して待ってるよ」
「ごちそう? おいしいものが食べられるの?」
「少年の訓練が終わってからになるけど、それでもいいなら頼んでおくよ」
「やったのー!!」
 シルフィードは見ている方が嬉しくなるようなくらい、全身で喜びを表現した。普段は他者と距離を離し気味なハタヤマも、彼女の前だけはガードが甘くなってしまう。
 これは、彼女が持つ天性の資質だろうか。
「それじゃ、そろそろお暇しようか……」
「待つの! シルフィはまだ話し足りないの! まだ言ってないことが沢山あるのよっ!」
「え、ええ?」
 ひとまず用事も済んだことだし、そろそろ宝探しへ出発しようとしたハタヤマ。今くらいの時間なら、ぎりぎり一ヶ所は廻れる算段だった。しかし、蓄積した退屈がフルバーストを起こしているシルフィードは、そんな彼を帰してくれない。彼女はハタヤマと、もっとお喋りしたいのだ。
 ハタヤマも、そんなに急ぎでもないし、と胸中で言い訳をでっち上げ、彼女と共にある時間を大切にした。

 しかし、シルフィードのお喋りしたいという気持ちが、手当たり次第に誰でもいいわけではなく。『ハタヤマと』お喋りしたいという方向性が混じり始めていることに。
 彼も、そして彼女も。まだ気づいていなかった。

     ○

 ルイズは城下町へ向かう街道を馬で駆けながら、目の前の光景が信じられなかった。
 人間――しかも己の使い魔である『平民』の背に、いつまで経っても追いつけない。それどころか徐々に引き離されている気がする。
 事実、それは気のせいではなく、彼我の距離はじわじわと、しかし確かに遠ざかりつつあった。
「うおおおおおおッ!!!!」
 ズドドドドド、と豪快な足音を響かせて、あいつ――サイトは地を迅雷の如く駆ける。左手に変な木の輪を握り締め、手の甲のルーンを輝かせ。風を切り裂くように走っている。
 今朝、サイトが馬小屋で馬を本当に受け取らなかったとき、ルイズはふざけているのかと思った。それにカチンときて怒鳴りつけたら、「いいからこい」と手招きされ、門をくぐればこのざまだ。
 ルイズはここに至ってもなお、このふざけた現実が――馬よりも早く駆ける己の使い魔の姿が、どうしても信じられない。いや、信じたくなかった。
 なにあいつ。
 いつの間にあんな力を身につけたの。
 もしかして隠していたのかしら。
 ありえない。
 様々な感情が胸中を渦巻く。全速力の馬の背でそんな考え事に没頭したもんだから、またたく間に顔が青くなる。酔ってしまったようだ。
「……待ちなさいよ」
 ルイズは、胸を突く衝動に押し出されるようぽつりと呟いた。フーケのゴーレムの時もそうだ。サイトはいつも、いきなり信じられない力を見せ付けてくる。
 ギーシュの時もそうだ。自分はあの時、不覚にも彼を眩しく感じてしまった。あんなにもぼろぼろになってまで立ち上がって、そして彼に敗北を認めさせた圧倒的な力。それが、羨ましいって。
 ルイズは気がつけば思考に没頭していた。
 以前は、彼は私の背に乗って、慣れない馬の振動にひぃひぃ悲鳴を上げていた。だが、今はもう私の助けなど必要なく、彼は自分の足で立ち、私を追い抜き駆けていく。この距離が、まるで私とあいつの間に開きつつある絶壁のように見えて。
 頑張っているのに。誰よりも努力して、勉強に励んでいるはずなのに。みんなわたしを追い抜いていく。どれだけ走っても追いつけない。それどころか後から来たやつらにも悠々と周回遅れにされ、ただただ差は開くばかりだ。
 待ちなさいよ。ご主人様をおいてかないでよ。あんた、そうやってどこまでも一人で駆けていって、わたしを取り残させるつもり?
 ――あんたも、わたしを『ゼロ』(落ちこぼれ)にするの?
 呼び出したのが平民でがっかりすると同時に、彼女はどこかでほっとしていた。魔法のできない平民。それは彼女の人生において、そして学院に入ってから始めての、『自分より弱い存在』だった。
 格下で、『ゼロ』以下。ゆえに、自分が守ってやらねば生きられないほどにか弱い。そう思うことで彼女の自尊心は最低限守られ、そして癒されていた。極端に言えば、サイトに辛くあたることで、自分の心を守っていたのだ。
 この世界の常識も知らない馬鹿で無知な平民は、彼女にとってとても都合が良かった。
 だが。
 ――前を往く使い魔の背を見つめる。
 いつから。いつからこんなことになった? 自分より劣っていたはずの使い魔は、いつしか影も踏ませぬ場所へ突っ走っていっていた。ギーシュ(貴族)を倒し、フーケを退け、今ではあいつの武勇は、留まることを知らないほどに膨れ上がっている。
 このままだといずれ――『わたしがおまけ』になる?
 そんなこと。
「ぜったいに認めないわっ!!」
 ルイズは自分に檄を飛ばした。主人が使い魔に負けてどうする。主人たるもの、使い魔より劣っている要素など、一つたりともあってはならないのだ。
 でないと、またわたしは――
 ルイズは、なにかに突き動かされるようにマントの内側から杖を抜き、離れゆく使い魔の背中へ狙いを定めた。
「――ちょっとは振り返りなさいよっ!!」
 思い描くは『突風』の魔法。強風によりよろけて転ばせ、足を止めるだけのつもりだった。
 しかし。
「え?」
 杖の先から風は現われず、代わりに出たのはいつもの爆発。しかも、その魔法が具現したのは、よりにもよって馬の尻だった。
 チュドン、とやや場違い気味にコミカルな爆発音が風に絡み、彼女が繰る馬の尻尾を焦がす。
 まあ、そうなると当然のことながら。
「きゃああぁぁっ!?」
 馬はいきなり尻を炙られたことに驚いて嘶き、前足を蹴り上げて暴れまわった。ルイズは振り落とされまいと必死に馬の背へしがみつくが、華奢な彼女の力では堪えきれずに空中へ放り出されてしまう。
 ルイズは咄嗟に右手の杖を強く握り締め、『フライ』の呪文を唱えた。だが、当然のように発動せず、虚しく呪文が木霊するだけである。
 ルイズは恐怖に身をすくませた。しかし、時は無慈悲に進む。彼女の体はみるみるうちに高度を下げ、後頭部に固い地面が迫る。
 わたし、死ぬのかな――ルイズは固く身をちぢこませ、ぎゅっと目をつむった。
 しかし、彼女を襲ったのは、硬質な砂地の感触ではなく。
「――なにやってんだよ!!」
 自身をふわりと抱え込んだ、使い魔の優しい腕の感触であった。サイトはルイズを抱え込みつつ宙を滞空し、着地の衝撃を足のバネで殺しつつがりがりと数メートル地を削った。
 なんで、とルイズは状況が飲み込めず目を丸くした。たしかサイトは、自分を五十メートルも引き離していたはずなのに。
「本気でおいてくわけねえだろうが! あんま無茶すんじゃねえ!」
 怒鳴りつけ、彼女の瞳を真摯に覗き込むサイト。彼の行動とこの言葉で、彼女はやっと理解した。彼は馬の嘶きを耳にした瞬間、躊躇いなく引き返してきてくれたのだと。
「待って欲しけりゃちゃんと言え。口に出してくれねえと分かんねえよ」
 照れくさそうにそっぽを向くサイト。ルイズは悪態をつくことも忘れ、呆然とサイトの瞳を覗き返す。
「な、なんだよ?」
「………………」
 この使い魔は、わたしのことをどう思っているのだろうか。『ゼロ』? それとも――
 はっ、とルイズはニ、三度瞬きして正気に戻った。
「つ、使い魔がご主人様を助けるのは当然よね。珍しく役に立つじゃないの」
「あぁん!? せっかく助けてやったってのに、礼の一つもねえのかよ?」
「なに言ってるの馬鹿犬。当たり前のことをしただけで、褒められるとでも思った?」
 サイトはっ、と不満げに舌打ちした。彼もルイズの気性を知っているから、食い下がっても無駄だと理解しているのだ。
 しかし、その側面しか知らないからこそ、ルイズが口にした後で後悔していることには気がつかない。
(あぁ、また言えなかった)
 本当は、一言素直に『ありがとう』と言おうとしたのだ。しかし、自身の中の凝り固まったプライドが邪魔をする。そのせいでまた悪態をつく。
 しかし、それは彼女にとってある種仕方がないこと。これほどの強固な自身への誇りがなければ、今日まで生きてこられなかったのだから。
 弱みを見せまいと強がる虚勢が、彼女の心を決して脱げない針鼠の棘でくるんでしまった。己の心を守るために、傷つく前に傷つけるしかなかったのである。なにしろ長年被り続けた自衛の刃だ、そう簡単に取り除くことはできない。
 だが、希望はある。
「乗れよ」
 ルイズが顔を上げると、そこにはしゃがみこんだサイトの背中があった。いつの間にか長剣を腹にくくり直している。
「なによ」
「馬、どっか行っちまっただろ。おぶってやるから早く乗れ」
 いやよ、と反射的に答えようとして口をつぐんだ。
 こいつは迷いなくわたしを助けるために戻ってくれた。それくらいは考慮してやってもいい。
 ルイズは、心にまとった棘の一本を外した。
「……あんまり揺らすんじゃないわよ。あと、変なとこ触ったらぶっ飛ばすからね」
「へーへー、わあってますよ」
 背に柔らかい感触を感じてから、サイトはゆっくりと歩き出す。やがて徐々に速度を上げ、風のように地を駆ける。だが、背中の主を気づかってか先ほどのような弾丸並みのスピードではなく、ジョギング程度に抑えている。
 まあ、大分街の近くまで来ているはずだから、これぐらいでも一時間で着くだろう。この道を走り慣れたサイトは、そうおおよその目算を立てた。
「しっかし、おまえぺったんこだな。背負ってて全然楽しくねえ」
「なっ――!? ご、ご主人様に失礼なことを聞くのはこの口かしらね?」
「いで、いでででほっぺた引っ張んな!」
 軽口を叩き合う二人。
 その他愛ない口論は、街に着くまでずっと続けられた。

     ○

「本当に師匠なんているの? 出まかせ言って、本当は街でナンパでもしてたんじゃないでしょうね」
「お前そればっかりかよ!? ちったあ俺を信用しろ!」
 訂正、街に着いても続けられていた。
 ルイズはぶつぶつとぼやきつつも、サイトの後ろについて歩いている。そうやって並んで歩く彼らは、どう見ても兄と妹にしか見えなかった。
 やがて表通りを抜けると、歓楽街の中心にデンと居を構える立派な酒場が見えてきた。
「ほら、あそこだ」
 サイトが指さした店を見上げ、ルイズは露骨に目つきをしかめた。
「『魅惑の妖精亭』? あんた、わたしをからかってるんじゃないでしょうね。酒場の師匠なんて、あんた夜の帝王にでもなるつもり?」
「だから違うって! 色欲方面から離れろ!」
 店の前であーだこーだ言い争う二人。はたから見たら痴話喧嘩にしか見えない。
 やがてサイトは口で言っても無駄だということを悟り、とにかく『やつ』と彼女を会わせることにした。
 店の扉へ手を伸ばすサイト。

「「「「あ。(きゅい?)」」」」

 同じように手を伸ばしていた誰かの手を重なった。同時に四つの声が上がる。
「あれ、あんた……?」
「た、タバサ?」
「………………」
 左を向けば丁度そこには、青髪ショートの同級生がいた。ルイズの友達、タバサである。まあ、友達といっても交流を持ったのはつい最近で、それまで一度も会話したことすらなかったのだが。
 タバサの隣には、同じく青髪だがロング、そして背が高く乳がでかい女性が立っている。
 ルイズはそれに気づき、意外そうにその女を見た。
「あら、あなたがキュルケ以外の人と一緒にいるなんて珍しいわね」
「きゅい? なんでぺったんこがいるの?」
「な゛っ……ぺ、ぺったん!? わ、わたしのこと言ってんのあんた!?」
 背の高い女に詰め寄るルイズ。どうやら触れてはいけないトリガーを引いてしまったようだ。
 般若の如く息巻くルイズに、背の高い女はきゅいきゅいと困る。あまりにも恐すぎてもう泣きそうだ。
 見かねたサイトが颯爽と仲裁に入った。
「やめろよ! 事実だろうが!」
「――ぅるあぁッッッ!!!!」
「はひゅんっ!???」
 気合一閃、金的直撃。ルイズの右前キックから与えられた想像を絶する激痛が彼の全身に襲いかかり、サイトは股間を押さえてへろへろと撃沈した。響き渡った切なくも甲高い悲鳴に、道行く男たちは皆己の大事なところを押さえている。
「タバサ、こいつ誰!? この失礼な女は誰なの!!」
「私の遠い親戚の友人。この辺りの地理に疎くて案内している」
「〈シルクゥ〉なのっ! よろしくなのね!」
 シルクゥと名乗った女は、ぺこりとお辞儀して胸を張った。背筋を伸ばした拍子にぷるんとそれが揺れる。
 ルイズはとたんに胡乱な目つきでそれを睨んだ。
「なに? なにこれ? あんた喧嘩売ってんの? ああそう、いいわよ買ってやるわよ」
「きゅい?」
 病的なまでにゆんゆんしているルイズ。なにやら電波を受信したようだ。あまりに尋常ではない様子に、シルクゥはぞくりと悪寒を感じた。
 ルイズは貞子のようにゆらゆらとシルクゥににじりよると、むんず、と彼女の乳をわし掴んだ。
「半分よこせー!!」
「きゅいいいぃぃぃっ!?」
 ルイズは掴んだ手をそのままに、猛烈ににぎにぎし始めた。未だかつて味わったことの無い感覚に打ち震え、腰砕けになるシルクゥ。幼さが残るその横顔が妖艶にあえぐ様は非常に艶かしく、上気した頬がアンバランスに美しい。
 サイトは止めに入ろうとしたが、その刺激的な映像と表情、そして声にやられて前屈みになり、血液が集中したことでさらに増大した苦しみにのた打ち回っている。
 タバサは端から興味が無いのか、どこからか取り出した本を開き、読書の体勢に入っていた。
「――なにやってんだい、キミたちは」
 心底呆れかえったため息が、混沌とした空間に清風を送りこむ。サイトはみの虫のように尻を浮かしながら顔をだけを上げ、タバサは本からわずかに視線を逸らす。ルイズは手を添えたまま顔だけをそちらに向け、シルクゥはぱっと表情を輝かせた。
 混沌(カオス)を終わらせるためにつかわされた救世主(メシア)。彼は開いた片側の扉に背を預け、やれやれと腕組みしながら肩をすくめていた。

     ○

 俺は深く息を吸い込み、両手で握った木刀の感触を確かめ、きっと正面を見据える。そこに立つのは、いつも通り力の抜けた笑みを浮かべる聖の姿。
 あれから数日、もう開始の合図すらなくなった。やつが振りかぶり、投げる。そのモーションを俺は見逃さないからだ。
 飛来する高速の薪を苦もなく避ける。あれだけ苦労したはずなのに、今では止まって見えるから不思議だ。
 続々と増え続けるそれは、俺の体を掠めるように後方へ流れていく。横から見ているやつらには、おそらく薪が俺の体をすり抜けているように見えるだろう。
 しかし、その予想は正しくない。そう見えるのはたんに俺の避ける動作がほんの僅かだからで、俺が微動だにしていないようにしか見えないから、すり抜けているように見えるのである。
 これまでの俺は、壊滅的に無駄が多かった。避けることしかり、注意力しかり、必要のないところにばかり余分な力を割いていた。だから、あんなにも手こずっていたんだ。
 正面から殺到する薪のラッシュを、俺は『衝突しない面』に体を滑り込ませるだけでやりすごす。たったこれだけ。たったこれだけのことで、飛んでくる某かのほぼ全てを無効化できた。
 やつが以前言っていた『視界全体に注目する』とは、こういうことだったのだ。
 俺がまだ日本で中学生をやっていた頃、友達とバスケで遊んだことがある。
 放課後、そのバスケ部のダチが知り合いに声を掛けて、3 on 3を企画したのだ。近所の公園に皆で集まり、狭いバスケットコートの中をかけずり回って日が暮れるまで遊んだ。
 その時、バスケのコツをそいつに教えられた。曰く、『視界を広く使え』、らしい。
 どういうことかというと、ダチは後ろから俺の頭を固定して一言。
「その状態で目の端にいる相手の動きもカバーしろ」
 無茶を言ってくれる。首を動かせないなら、視界の端っこにちょろっと見えてる腕や足が見切れたかどうかで相手がなにを狙ってるのか予想しなければならない。なにより、そのために眼球から力が抜けないので、目玉がとても痛かった。
 しかし、今になってあの時ダチが言いたかったことが分かった。あいつは、『首を動かすこと自体が無駄だ』と言いたかったんだな。 
 一人だけに集中して神経を向けてしまうと、その他の二人の動きが掴めない。一人に首まで向けてしまうと、死角となる背中方面にいる相手には好き放題やられてしまう。
 なによりも大切なのは、『死角を作らないこと』なのだ。
「娘っ子ども、完全に声を失っちまってるな」
「小僧、残り二十だ」
 視線は向けずとも頷いて答える。飛来する薪のカーテンの向こうに、手首を反した聖の姿を捉えた。
 やつの手から、他のとは違う軌跡の薪が繰り出される。俺は迫り来る弾丸の軌跡を線で思い描き、前と斜め上、どちらにもぶつからない位置へ足を置いた。それだけで、山なりの軌道の薪も虚しく音を立てて空を切る。
 大切なのは動きの無駄を省き、僅かな予兆を見逃さないこと。
 動きに関してはまたもバスケの経験が役に立った。軸足を決めてその場で回転する――ピボットの動きが、予想以上に有効だった。
 軸足さえしっかりしていれば体がぶれないので、多少無茶をしても転ばないのだ。軸足に当たりそうな攻撃が来たら、反対側を軸足にして同じように避ければいい。とても機能的だ。
 そして『予兆』とはどういうことかというと、前述したような聖の動向だ。
 どれだけ弾幕が濃くなろうとも、結局その大元にいるのは聖だ。もちろんそれだけに集中するわけにはいかないが、こいつの動きにさえ注意を払っていれば、そうそう奇襲を受けることはない。何故今までこんな簡単なことに気づかなかったのか。自分で自分に疑問を抱かざるを得ない。
 視界全体に注目するとは、眼に映る世界を俯瞰するということ。どこにも意識を留めないことが、死角を無くすコツなのだ。
 最後のラッシュなのか、迫り来るプレッシャーは最高潮を迎える。
 だが、俺の精神は風の止んだ湖畔のように穏やかで。最後の一本を高々と打ち上げ、放物線を描いて目線の高さまで落ちてきたのを木刀で打ち返す。
 おそらく聖が予想だにしていないはずの反撃。それは吸い込まれるように聖の顔面へ直進していき――ぐわし、とやつの右手の平に鷲掴みにされ阻まれた。
「――随分生意気なことをするじゃないか。もしかして、ギャラリー(女の子たち)がいるからテンション上がっちゃった?」
「そんなんじゃねーよ。ここまで付き合ってくれたお前への、ささやかな恩返しだ」
 聖は薪を放り捨てながらふん、と鼻を鳴らした。もっと絡んでくるかと警戒していたが、意外にもすんなり引き下がってくれる。
 俺の顔を立ててくれているのだろうか。
 そう、俺は今日だけは無様を晒すことはできない。何故なら――やたらと疑り深いご主人様が、俺の修行を視察に来ているからだ。
 俺は振り返る。そこには、小屋の壁に背を預け、ここまでの出来事を見学していた三人の女性たちがいた。
「「………………」」
「きゅい。面白かったのー」
 ぱちぱちと乾いた拍手が響く。約二名は沈黙。片方は興味深そうに、もう片方は呆然と俺を凝視している。最後の一人は単純に感想を述べているが、おそらく言葉以上の意味はないだろう。もっと大げさに驚くかと思ったが、ちょっと拍子抜けだ。
 仕方がないので、俺は無言で座り込んでいる二人へ歩み寄った。
「どうだ、これでも俺がサボってたと思うか?」
 意地悪に笑いかける俺。俺が声をかけた片方の女――ルイズは、なにやら形容しがたい表情をしていたが、ややあって答えた。
「わ、悪かったわよ……」
「はぁ? 聞こえんなあ?」
「ぐっ……っ! う、疑って悪かったっつってんのよ!!」
 がおー、と急に立ち上がって吼えるルイズ。反省してるようには見えねーぞ。ま、謝罪の言葉が出ただけよしとするか。
 続けてもう片方の女――タバサに声をかける。
「まさかタバサも来てたなんて思わなかったよ」
 にこやかに笑いかけてみたが、無言。沈黙。サイレント。
 俺はすぐに間が持たなくなって、苦し紛れに乾いた笑いを上げるしかなかった。
「……いつから?」
「へ?」
「いつからこういったことを始めたの?」
「あ、ああ。大体もう二週間以上経つけど」
「そう」
 再び沈黙の帳がおりる。――どないせいっちゅーんじゃ!
 前から思ってたが、この青髪の少女は扱い難すぎる。どんだけこっちが話題を振ろうと、ただのひとつも返してこない。それどころかつまらなければ、どこからか本を取りだして読み出す始末。
 人と話してる時は本を読んじゃダメって教えられなかったんですか、と俺は言いたい。小一時間問いつめたい。
 だが、今回は興味を惹けたらしく、タバサは俺をじっと見つめている。
 な、なんだ? 迫力が恐いぞ。
 とりあえずタバサはそれくらいにして、俺は最後の女の子に話しかけようとしたが――
「お疲れさまなのね!」
 声に振り向く。するとそこには、仲良さげに談笑する聖とシルクゥの姿があった。聖はタオルを受け取りながらもまんざらではなさそうだ。
 あれ、俺ガン無視? その事実に気づき軽くへこむ。
 しかし意外な組み合わせだ。前から知り合いだったんだろうか。
「彼はシルクゥの古くからの知り合い。その縁で私も知り合った」
「へ? 古くから?」
 おかしい。あいつは俺と同じ異邦人。少なくとも、タバサの知り合いと知り合うタイミングなんて無いはずなんだが。
「……どうしたの?」
 タバサが俺を見上げてくる。向こうから話を振ってくるのも珍しい。
 聖のやつ、またてきとーなこと言ってお茶を濁してんじゃないだろうな。
 俺は疑問を確かめるため、タバサにぶつけてみた。
「俺はあいつに、『最近この辺に越してきた』って聞いたんだけど。しかも前に住んでたとこは、ずっと遠いところにあるって」
 敢えて被せるような尋ね方をする俺に、今度はタバサが片眉を上げた。
 なにか、重大な行き違いがある。
 俺は、その正体を確かめるため、さらに質問を重ねようとしたのだが、
「こまかいことはいいじゃないかぁっ!!」
 妙にハイな聖に遮られた。
「生きてりゃ色んな出会いがあるよ。そしてその殆どが、当人たち以外には関わりのないことさ。そんなことを根掘り葉掘りほじくり返したって、全くの無益だと思わないかい?」
 過去より未来を重視すべきさ、と大仰な仕草で語る聖。
 いや、そりゃそうだが。それを面と向かって宣言するのってどうよ。
 タバサも同じ気持ちらしく、なにか言いたげな視線を聖にぶつけている。
 一瞬困ったようにたじろぐ聖。
「まあまあキミたち、ちょっと落ち着こうじゃないか。この話題を続けて困るのは、むしろキミたちの方だと思うけどね」
 意味深にほくそ笑む聖。その言葉に、俺も思い当たることがあって黙った。
 俺の左手の力については、あまりばらしたくはないんだよな……
 俺は左手に刻まれているルーンにちらりと目をやった。
 俺と聖の間にある縁は大きく分けて二つ。すなわち、『異邦人』と『ルーン』だ。
 学園長は俺のルーンが伝説の使い魔のものであると言っていた。そして異世界が存在するという考え方も一般的ではないらしい。
 どちらも触れたくない話題であり、しかし話の流れでどちらかに必ず触れなければならなくなるだろう。
 それはかなり遠慮したい。主に説明が面倒だから。
 タバサに目を向けると、なにやらあちらも渋い顔をしている。
「どうだろう。ここは一つ、出会った奇跡に感謝する……という段階で思考を止めようじゃないか」
 キラリと歯を光らせ、サムズアップする聖。すげーさわやかだけど、言ってることは滅茶苦茶だ。何一つ道理が通ってない。
「……それでいい」
「た、タバサ?」
「私は彼が何者であるかなんて興味がない。だから、なにも聞かない」
 だから、あなたもなにも聞かないで、というタバサの声が聞こえた気がした。
 なんか釈然としねーけど……
「分かったよ」
 そっちがそう言うなら仕方がない、俺もそれに乗っかるよ。誰も得をしないのなら、その方がいいんだろう。
 俺はひょいと肩をすくめて、追求の矛を収めるしかなかった。

      ○

「さて」
 聖がぱんと手を打った。
「少年の修行風景のお披露目も終わったことだし、そろそろ帰ろうか」
 聖が宴会が待ってるよ、と悪戯っぽく笑う。その言葉に、退屈そうにしていたシルクゥが真っ先に食いついた。
「えんかい! ごちそう! おいしいものー♪ シルフィ……きゃん! いたい、いたいよう。し、シルクゥお腹ぺこぺこなの!」
 なんか途中で言い直したが、シルクゥは宴会が待ち遠しくて堪らなかったようだ。
 この人、見てるこっちが元気になりそうなくらい溌剌としてるよな。
「ちょっと、学院に戻れば夕食があるでしょ?」
「なら、ぺったんこは帰ればいいのね。おまえの分までシルクゥが平らげてあげるの」
「な゛……! こ、好意を無下にしないのも貴族の務めよ! というか、わたしの名前はル・イ・ズっ!!」
 ぺったんこはやめなさい! とシルクゥに飛びかかろうとしたので、俺は慌ててルイズを羽交い締めにした。お前は野生の虎か。
「ま、全員参加ってことでいいかな? そんじゃ、店へ戻ろうか」
 聖が率先して歩き始める。
 だが、まだ帰るわけにはいかない。
「待てよ」
 俺は聖の背に声をかけた。声色から剣呑な気配を感じ取ったのか、振り向いたやつの瞳が妖しく輝く。
 俺はびしりと木刀を突きつけた。
「第二の修行は終わったぜ。――そろそろなんじゃねえか?」
「なにがだい?」
 駆け回るくらいじゃ疲れやしねえ、棒をはたくのももう飽きた。
 遊びは終わりだ。
「もうネタも尽きただろ。俺と楽しいことしようぜ」
「見目麗しい女性からのお誘いだったら、一も二もなく飛びつくところなんだけどね」
 男二人の間に流れる物々しい空気に、女連中もなにか感じたらしい。シルクゥはきゅいきゅい落ち着き無く、タバサは関わらずも興味はあるのか事態を静観している。
 そしてルイズは。
「ちょっと、なに吹っかけてんのよ! 発情期でもあるまいし!」
 やっぱり空気が読めてない。まあ、そこが可愛いところなんだが。
 俺は歯を剥いて口の端を吊り上げる。
「男ってのは困ったもんでな。ある程度力が身に付いてきたら、試したくなるもんなんだ」
「無謀と蛮勇は重なると酷いことになるよ?」
「言ってろ」
 正直、勝てるかどうかは分からない。
 聖はあんななりしてるが、おそらくかなり強いだろう。元々知恵で生き残ってきたらしいから、ルーンの力で押す俺とはほぼ正反対のタイプだ。
 単純な能力差では俺に分があるかも知れないが、踏んできた場数はやつに軍配が上がる。
 気になる。やつはどんな戦い方をするのか。そして、俺はどこまでやれるのか。今日までの修行で俺はどう変わったのか。
 それが試したい。
「やれやれ……そういや、キミも戦闘民族の系譜だったね」
 聖は面倒くさそうに頭を掻いた。
「いつもなら即答で断るとこだけど、今日はボクも気分が良くてね」
 聖はシルクゥに笑いかけた。シルクゥはきょとんと眼をパチクリさせている。
「いいよ、やろうか。その代わり後悔しないでね」
「むしろお前に後悔させてやるよ」
「ほんと、気概だけは一人前なんだから」
 聖は悠々と、自信に満ちた様子で振り返る。どこから取りだしたのか、その手にはいつの間にか小太刀ほどの木刀が二振り握りしめられていた。
 こいつ二刀か。こりゃ、面白くなってきた。
 俺は未知なる型への期待に、胸の高鳴りが隠せなかった。



[21043] 五章後編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:17
【 五章後編 『記憶の残光/土塊大戦争 AGAIN』 】



 対峙する二人の男。
 一人はユニクロのパーカーに何の変哲も無いジーンズの少年。背丈の三分の二ほどもありそうな長尺の木の棒を正眼に構え、相対する相手を見据えている。
 もう一人は白いワイシャツに黒のロングパンツの青年。指先から肘くらいまでの、撥のような短棒を両手に携え、片方を肩でぽんぽんしながら余裕ありげにユニクロを見やっていた。
 場所は炭焼き小屋よりやや離れた、森の中の拓けた空間。木を伐りだす伐採林のようで、そこここに放置された切り株が残っていた。
「ルールは無し。ただし、相手に重大な損傷を与えるような行為は無し……ってことでいいのか?」
「仕合形式とはいえ訓練だからね。目突きや金的は勘弁してくれよ」
 白いワイシャツの男――ハタヤマが苦笑した。練習で怪我なんぞしたくないとばかりに軽い調子でうなずいた。
 ユニクロ――サイトもそれは同じ気持ちなので、特に疑問を持たず同意する。
 ハタヤマはポケットから銀貨を一枚取り出すと、脇に立つルイズへ投げてよこした。
「開始の合図は任せるよ。そいつを弾いて、地面についた瞬間始めってことで」
「ちょっと、勝手に決めないでよ!」
「キミがやってくれたら、少年も嬉しすぎて本気出すかもしれないよ」
「う、うるせえ!」
 ねえ、と共感を求めるようにハタヤマがからかうと、サイトは顔を真っ赤にして怒鳴り返した。本心ではまんざらでもないくせに、思春期真っ盛りである。
「キミは彼の女神様なんだから、たまにはサービスしてあげなよ」
「う、うるさいわね……」
 ルイズは口を尖らせながらも頬を紅く染め、いそいそと一歩前へ進み出る。女神様、という単語が彼女の自尊心をくすぐったようだ。
 ルイズはその細く陶器のように白い指で拳を作り、親指の上に銀貨を載せた。
「サイト」
「あん?」
 ルイズはサイトを見据える。
「やるんだったら――必ず勝ちなさいよ」
「ったりめーだ」
 サイトは木刀を握りなおし、気合十分に大地を踏みしめる。彼の女神の囁きに、改めて気迫を刺激されたようだ。
 ハタヤマはそれを受けて、自身も戦闘体勢に入る。右足を半歩前に出して左足を引き、右の得物はあごの高さに、左の得物は体の後ろの位置で腰だめにする。右の足先は前に、左の足先は左に向け、手中の得物は逆刃に握った。
「……? なんだその構え?」
「これが一番やりやすいんだ。気にしないでくれると助かる」
 ハタヤマの構えはサイトのルーンでは読めないものだった。知識の中を探ってみても、一つとして似た型が出てこない。
 まあ、こっちは両手剣、向こうは短剣二刀だから、系統が違うのだろうと結論付けた。
「じゃあ、いくわよ」
 ピン、と弾かれくるくると宙を舞う銀色のコイン。二人はそれに一瞥もくれない。
 そして地に触れたそれが波紋のような音色を奏でた瞬間、サイトの姿が掻き消えた。

     ○

 硬貨が音を響かせるか否やのタイミングで、サイトは呪印に光をくべた。
 先手必勝! と言わんばかりにハタヤマへ突撃するサイト。彼の『力』ならこの程度の距離など無いも同然、詰めるのに一秒も掛からない。
 しかし、超感覚でしっかりと初動を捉えていたハタヤマは、流れるように対策を講じる。
「うわっぷ!?」
 ハタヤマは体の構えそのままに、引いた左足を勢いよく蹴り上げる。事前に土を咬ませていた左足は、思いきり砂を撒き散らした。連日の快晴によりからっからに乾いていた大地は、盛大に砂埃を中空にまき散らす。
 サイトはその煙に正面から突っ込んでしまい、攻める勢いを削がざるを得なくなった。
「てめ、卑怯だぞ!」
「『ルールは無し』っつったでしょ!」
 サイトの文句にも取り合わず、ハタヤマはその場から背を向け一目散に走り出す。そして茂みを飛び越えると、またたく間に鬱蒼とした森の中へ溶け込んでしまった。
「くそ、待ちやがれ!」
 サイトは頭に血が上って、つられる様に森林の中へ足を踏み入れていく。
 それが、ハタヤマに誘い込まれているのだとも知らずに。
「あらら、もう相棒ダメかもしれんね」
「いきなりなによ? まだ始まって一分も経ってないわよ」
 観覧席で勝負を眺めていたルイズは、早すぎるデルフの悲観的な意見に眉を上げた。
 一連の流れを見ていただけでも、両者の力がそう離れていないことは分かる。まだ旗色云々を論じるには早計ではないだろうか。
 しかし、デルフはきっぱりと言い切った。
「このままの調子じゃまず負けるね。相棒に勝ち目はこれっぽっちもねぇや」
「だから、なんでそんなに自信満々で断言できるのよ!」
「……『森へ入った』」
「へ?」
 デルフに詰め寄っていたルイズは、ぽつりと呟いたタバサに思わず振り返った。いったい森へ入ったからどうだというのだ。
「ほう。なかなかに鋭いじゃないか嬢ちゃん。さすがはこの『地下水』を降しただけはある」
 見直したとばかりに褒める地下水。しかし、タバサはそれを受けてもまったくの無表情で、いつも通りに眠そうな目をしたままだ。
 ルイズは一人内容が理解できず、置いてきぼりにされ憤った。
「ちょっと、勝手に盛り上がってないでちゃんと説明しなさいよ!」
「シルクゥも教えて欲しいのー」
 がおがお吼えるルイズにきゅいきゅい鳴くシルクゥも加わり、場は混沌の香りを放ち始める。仕方がないのでタバサが口を開く。
「彼は『長剣』を使う」
「……? それがどうかしたの?」
「見ていれば分かる」
 元々口下手なタバサは、懇切丁寧に説明するつもりなど毛頭無い。なので、そこまでで会話を打ち切り、サイトたちを追って森へ踏み込んでいった。
「きゅい~、待って欲しいの~」
「ちょ、ちょっとタバサ! 答えになってない……」
 ルイズはタバサの背中に声を投げるが、タバサはそれにまったく取り合わない。シルクゥもタバサの後に付いていってしまったので、その場にはルイズだけが残された。
「おい、娘っ子よ。できれば置いてかねぇで欲しいな」
「すまんがよろしく頼む」
 後ろから二振りが願う。ルイズはぬぬぬ、と不満を握りしめていたが、しょうがないので自分も後を追うことにした。
「んしょ……お、重いわね」
 デルフは、サイトでも背負わなければ持ち歩けないほど大きな剣である。なので、サイトより体格の小さなルイズでは、抱えることすら大変だ。
「娘っ子にはちとキツイか。手間かけさせてすまんね」
「まったくよ」
「詫びと言っちゃなんだが、嬢ちゃんにヒントをやろう」
 地下水が語る。
「ポイントは『長さ』だ。後は自分で考えな」
 『長さ』? とルイズは首をかしげた。いったいどういうことだろうか。
 しばらくその場で思考に耽っていたが、
「――ぬおおぉぉぉおっ!!!!」
 と、サイトの吃驚した叫びが聞こえてきたので、ルイズはひとまず謎解きを打ち切り声の出所へ足を速めた。

     ○

 森へと足を踏み入れたサイトはいささか困っていた。すぐさま追跡したはずなのに、ハタヤマを見失ってしまったのだ。
「どこ行きやがったあいつ」
 サイトが悪態をつく。彼は初手から汚い手を使われ、怒りに煙を噴いていた。彼が想像していたのは、漫画やアニメのように剣閃を交し合う真っ向勝負である。
 なので、先ほどのハタヤマの一撃は、なにか自分のイメージに泥を塗られたようで、とても不愉快だった。
 サイトは木々の間を縫うように駆けると、いくらかも行かないうちに妙なものを見つけた。
「なんだこりゃ?」
 木の根元にちょこんと置かれた、指先で摘まめるほどに小さくて綺麗な石。その石は鮮やかな翡翠色をしていて、反対側が透けて見えるほどに透明度が高かった。
 なぜこんなものがこんなところに、とサイトはきょとんとそれを見つめる。ただの石ころと投げ捨てるには、その翠はあまりに鮮やかすぎた。
 ――かさり
 耳元を数枚の緑葉が掠める。その瞬間、彼は猛烈な悪寒に襲われた。
「上かっ!?」
 反射的に体を反らし、木刀で頭上を守る。防御姿勢を構えた瞬間、その両腕にすさまじい重力を感じた。いや、違う。
 頭上から急速落下してきたハタヤマの蹴りを、構えた木刀が受け止めたのだ。
 支える右手と背骨がぎしぎしと軋み、両足ががくがくと衝撃に嘆く。崩れ落ちたい、座りたい、と。サイトはそんな自分の体を、叱咤激励し必死に踏ん張る。
「――ぬおおぉぉぉおっ!!!!」
 決して倒れるわけにはいかない。尻餅をつけばそこで終わりだ。
 サイトはそんな危機感を吹き飛ばすように猛々しく吼え、足のバネを巻き込みながらも左手で大きく木刀をなぎ払った。
 両足で着地する姿勢だったハタヤマは、大きく宙に投げ出される。
 しかし、それはわざと自分でも跳んだからだったようで、ハタヤマは空中でニ、三回トンボを切って危なげなく着地した。
「いまのが受けられちゃうのか。なかなかやるじゃん」
「てめぇ、また卑怯な真似を……」
「『卑怯』? 勝つための工夫と言って欲しいな」
 ちちち、とハタヤマは指を振った。そんなハタヤマがあまりにも得意げなもんだから、純粋なサイトは憤慨した。その憤りは止まることを知らず、そりゃもう怒り心頭で湯気を噴かんばかりだ。
 ハタヤマはバックステップでサイトからやや距離をとると、改めて構え直した。
「よし、仕切り直しだ。いつでもきなよ」
「そう言いながら、またなんか罠でも張ってあるんじゃねえだろうな?」
「心外だな。ボクってそんなに信用無いのかい?」
「胸に手を当てて考えてみろ!」
 サイトは思わず噴飯したが、ハタヤマはくすくす笑うだけで構えは解かない。どうやら知っておどけているらしい。
 ここでサイトはふと、すっかりペースを崩されてしまっている自分の姿に気づいた。
(ダメじゃん俺。これじゃ前と同じパターンだ)
 サイトは路地裏でやり合った時のことを思い返す。あの時自分は感情にまかせて剣を振るい、簡単にいなされやられてしまった。
 もう同じ轍は踏まない。サイトは反省点を踏まえ、小さく僅かに深呼吸してハタヤマを見据えた。
(落ち着け俺、集中集中……ルーンの力を忘れるな)
 サイトはハタヤマの様子に注目している振りをしつつ、左手のルーンに意識を埋没させた。
 今日までの修行を通して、新たに判明したことがある。それはルーンから技のフィードバックを受けた後、さらに精神を集中させると『相手がなにをしてくるか』まで教えてくれることが分かったのだ。
 さすがに二手三手先までは見通してくれないが、各ルートにつき最も有効的且つ確率の高い相手の反撃を示唆してくれる。
 これはある種未来予知じみた的中率を誇り、サイトはとても重宝していた。
 なのでサイトは今回もそれにしたがい、相手の対抗策にどう対策を立てようかアテにしていたのだが……
(あれ、これって――やばくね?)
 サイトの頬を、たらりと冷や汗が一筋流れた。

     ○

 両者構えたままの睨み合いは、すでに二分が経過しようとしていた。
 ハタヤマは不敵に口元を歪め、サイトは平静を装いつつも眼が泳いで汗を掻いている。
「ちょっと、なんで二人とも固まってんのよ。さっさと続けなさいよ!」
 痺れを切らしたルイズが野次を飛ばす。しかし、戦闘中の二人はまるで聞こえていないかのように動かない。
 ルイズには、彼らが動きを止めた理由が理解できなかった。
「固まってるんじゃない。動きたくても動けないのさ」
「さすが『戦いは頭だ』と言い切るだけはあんなぁ、兄ちゃん」
 しゃべる剣たちがしきりに感心している。しかし、ルイズはどの辺りがすごいのか見当もつかないので、そのストレスを加速させた。
「だから、どういうこと――「木が邪魔」へ?」
 ぽつりと呟くタバサ。ルイズは彼女のそのまんま過ぎる答えに目を丸くした。
 そりゃ、あれだけ繁茂していれば煩わしいだろうが。
「その通りだ、青い方の貴族の娘っこ。ま、それ以外に言いようがねぇやな」
 なんとデルフは同意してしまった。いよいよルイズはわけが分からなくなる。
 ルイズはあんまりにも自分だけ置いてけぼりにされているので、ついにはぶすっとむくれてしまった。
 見かねた地下水が補足を入れる。
「嬢ちゃん、さっき俺がやったヒント覚えてるか?」
「……? ええ。『長さ』でしょ?」
「そうだ。それじゃあもう一つ。剣はどうやって攻撃する?」
 どうやって……? ルイズは地下水の質問の真意が分からず、怪訝そうな顔をした。
 すると後ろで黙っていたシルクゥが、代弁するように元気よく答えた。
「はいはいはーい! こうやるのー!」
 ルイズからデルフを奪うように受け取り、とりゃー! ちょいやー! と振り回すシルフィード。どう見てもチャンバラごっこである。
 気分良く躍動するシルクゥだったが、それを見つめる女性陣二人の視線は冷たかった。
「まあ、あれは置いといて。それはやっぱり、斬るんじゃないの?」
「そうだ、『斬る』んだ。じゃあそれを踏まえて、宿主が立ってる位置を見てみな」
「位置? ――あ、なるほどね」
 合点して眉を上げるあげるルイズ。ハタヤマが陣取った場所には、両脇に大木が生えている。すなわち。
「斬るためにはには腕を振らなきゃならない。だが、そのためには十分なスペースが必要だ」
「あそこに立つことで、彼はあなたの使い魔の動きを制限している」
 サイトの木刀はかなり長い。なので無理に攻撃しようとすれば、間違いなく両脇の大樹に阻まれてしまうだろう。そしておそらくハタヤマはその隙を見逃さない。
 サイトはその最悪の結果がなまじルーンで視えてしまうので、迂闊に攻められないのである。
「理屈は分かったわ。けど、そこまで警戒すべきことなの?」
 ルイズは首をかしげた。
「よく知らないけど、武器って長い方が有利なんでしょ?」
 剣道三倍段という諺がある。これは空手の三段が剣道の初段に相当するという、ある種のこじつけっぽい格言だ。本当のところはどうか知らないが、そりゃ素手と武器なら凶器持ってる方が強いに決まっているので、あながち間違いではないだろう。ここで「鍛え上げた拳ならいける!」と本気で言っちゃう人は厨二病である。無理だから。
 なので、その理論に当てはめれば、得物が短いハタヤマの方が不利なはず。ルイズはそう思い、多少無理をしても押しつぶせるのではないかと考えた。
 しかし、地下水はそれを否定した。
「甘いな。事はそう簡単ではない。もうどちらが有利かという局面は終わり、次の局面に移行しているんだ」
「………………」
 眼光鋭く、タバサは対峙する二人から目を離さない。経験の浅いルイズとは違い、彼女はこの状態の際どさを心得ているのだ。
「どれだけ力を秘めていようが、生かしきれなければ無いも同然だ。宿主は森に入ることで得物の有利不利を逆転させ、地の利を制することで小僧の選択肢を奪った」
「相棒が攻めるにゃ、正面からの唐竹割りか突進して突きを叩きこむしかねぇ。それが分かれば守るのは難しくねぇし、返り討ちにすんのも容易いだろうよ」
 デルフが会話に加わった。デルフを地面に突き立てたシルクゥは、いい感じにほっこりしている。どうやら満足したようだ。
「だからま、有り体に言えば、『先に動いた方が負け』ってことだ」
「あの兄ちゃんは決して強くはねぇが、巧(うめ)ぇ。賢いんだ」
 正面からぶつかっても勝ち目はない。それを誰よりも理解していたハタヤマは、開始直後に博打を打った。
 森へ入れたら勝機あり、入れなかったら即終了。さらりとおびき寄せたように見えたが、じつはかなり危うい賭けだったのだ。
「きゅい。ねえねえ、あの子そんなに強いの? あんなに苦しそうな顔してるのに」
「バカ言っちゃいけねぇ。こんな状況になってなけりゃあ、確実に相棒が圧勝してら」
 まだまだ成長途中とはいえ、『ガンダールヴ』(左手のルーン)は伊達ではない。この力は、特に一対一の勝負で比類無き強さを発揮する。
 そうでなければ、始祖の盾になど到底為り得なかっただろう。
「じゃあ、これに勝ったらハタヤマはもっと強いってことになるの! すごいの!」
「いや、そういうわけでもねぇ。『強さ』ってのはやっかいでな。一回の勝った負けたじゃ量れねぇ」
「きゅい? どういうこと?」
「『強さ』ってのは、不変じゃねぇのよ」
 デルフの言い回しに、シルクゥは理解が追いつかず疑問符を浮かべた。ただ単に、勝った方が強いというわけではないのだろうか。
 デルフはシルクゥの悩む様子が面白いのか、カタカタと鍔を震わせた。
「今がまさにそうだ。能力だけならそれこそ万の軍勢に匹敵するくれぇ強い相棒をあの兄ちゃんは押さえ込んでる。だが、平地でやりあや、兄ちゃんは一秒と持たず相棒にやられっちまうだろう。
 そういうもんだ」
「きゅい~……?」
「つまりだな。どっちが強いかというのは、一概には判断できない。その時々によって簡単に変わるということだ」
 地下水の付け足しでもいまいちよく分からないのか、シルクゥは眼をぐるぐる回している。もうちょっとしたら煙を噴くかもしれない。
「知ってるか? 竜とアリの御伽噺があってな。竜は散歩をしていたら、アリを踏みつぶしてしまった」
「だが、それに怒ったありんこが徒党を組んで竜に報復。竜が喰い殺されちまった、ってやつだろ?」
「そうだ。喩えるなら竜が小僧、宿主はアリだ。基本は竜の方が強いが、アリはありとあらゆる手を尽くしてその力量差を埋めようとする。非力故に、知恵を絞るのだ」
 力は魔力で代用できる。技を操るのは知恵だ。ゆえに、力とは知恵であり、賢いやつが最強である。
 これがハタヤマの信念であり、根底に流れる信条であった。
「まあ、だからといって今宿主が有利かというとそうでもないんだがな」
「へ? そうなの? さんざん持ち上げたくせに」
「しょうがねぇだろが。どうやったって覆せねぇもんもある」
 ルイズのなんだ、という呆れた様子にデルフは鍔を鳴らした。
「攻撃手段を限定させたとはいえ、相棒の能力を無効化したわけじゃねぇ。仕掛ければ負けると決まってる限り、兄ちゃんは受身にならざるを得ない」
「かといって、小僧がバカ正直につっかかってくるかというとそれも望み薄だ。あの小僧に僅かでも知恵があれば、攻めることの愚を察しているはずだからな」
「千日手」
 タバサの発した一言が全てを言い表していた。どっちも攻めないし、攻められないから動かない。だから勝負がつかない。
「こりゃもう、日が暮れるまで勝負つかねぇな」
「きゅい~!?やなの、ごちそう食べられなくなるの!」
 それならもう引き分けでいいの! と急に投げやりになるシルクゥ。彼女はいつでも花より団子だ。
 ルイズも、もうなんかどうでもいっかー、とシルクゥの投げやりが伝染し始めた。
「ルイズ!」
 しかし、己の使い魔に呼ばれて正気に戻る。
 空ろだった意識を覚醒させ、ルイズが顔を上げると、くいくいと手を反すサイトの姿があった。
「おい、デルフ持ってきてくれ!」
「んな!? ちょ、おい少年! それは反則だぞ!!」
 あまりにも突飛すぎる発言に取り乱すハタヤマ。仕合形式だっつってんのに。
「安心しろ! 直接お前には向けねえ!」
 ルイズは、ご主人様をアゴで使おうとする使い魔に文句の一つも言ってやろうと思ったが、サイトの表情が真剣そのものなので自重した。
 シルクゥからデルフを受け取ると、カラカラ引きづりながら運ぶ。
「サンキュー」
「んしょ……っと。いったい何に使うつもりよ?」
「へへ、まあ見てな」
 左手に木刀、右手にデルフを握ったサイト。期せずしてハタヤマと同じスタイルになった。
 サイトはルイズに戻るようジェスチャーすると、眼を閉じて意識を集中する。
「おぉ、きたきた!」
 脳内に流れ込むイメージ。真剣(デルフ)を手にしたことで、これまで浮かばなかった方法まで想起された。
 予想通りだ、とサイトはほくそ笑む。
「俺、思ったんだわ」
「?」
 サイトは改めてハタヤマを睨みすえた。
「障害物のせいで戦いにくいんなら――どけちまえばいいってな!!」
 サイトは気合いとともにデルフを横凪ぎに思い切り一閃し、勢いをそのままに目の前の大木へ回し蹴りをかます。
 蹴られた大木はみしみしと嫌な音を立て、ゆっくりと傾き始めた――ハタヤマのいる方向へ。
「え、ちょ――ぎゃあああぁぁぁっ!!!!?」
 周囲の木々を巻き込みながら、ドミノ倒しのように轟音を立てて倒れてくる大木。さすがのハタヤマも度肝を抜かれ、間一髪で逃げ延びた。
「まだまだいくぜぇ――っ!!!!」
「ア゛ッ――! ホア゛ッ――!! ギャワッ――!?」
 むやみやたらに剣を振り回し、将棋倒しのように森林伐採しまくるサイト。森林愛護団体が見たら卒倒もののバイオレンス映像である。
 対抗手段のないハタヤマは情けない悲鳴をまき散らしつつ、命からがら逃げ惑うしかなかった。
「あのバカ……真剣は無しなら、それも禁じ手でしょうが」
「きゅいー、ごちそうー……」
 少女たちは各々に感想を漏らす。おそらく、せっかく真面目な空気だったのに唐突にシリアスブレイクされて、アホらしくなってしまったのだろう。
 おもむろにタバサが背を向けて歩き出す。
「どこ行くのタバサ?」
「……帰る」
「きゅい!? お姉さまごちそうは!?」
「いらない」
 タバサはもとからお呼ばれするつもりもなく、きりのいいところで帰るつもりだった。
 タバサの非情なる宣告に、この世の終わりみたいに顔をくしゃくしゃにするシルクゥ。
「やなのお姉さまー! おいしいもの食べるのー!!」
 シルクゥはや゛な゛の゛ー!!!! と駄々っ子のように泣き叫ぶ。その声量は凄まじく、びりびりと衝撃波をまき散らすほどだ。それを間近でくらったルイズは、耳を押さえて目を回した。
 タバサは咎めるようにシルクゥを睨みつけ、手にした杖を振りおろそうとしたが。
「まあ待てよ嬢ちゃん。宿主も今日のために色々準備してたんだ。ここは一つ、顔を立ててやってくれよ」
 すかさず地下水がフォローに入った。このままではあまりにもシルクゥが不憫だし、彼自身賑やかなことは嫌いではない。
 なにより、ハタヤマが他者を誘うなど本当に珍しいことなので、できるだけ便宜を図ってやりたかった。
 なんだかんだで地下水はハタヤマのことを、憎からず思っているのである。
「………………」
「……まあ、家の犬も今日は言って聞かないだろうしね。あなたも急ぎの用がないなら、少し顔を出していってもいいんじゃない?」
 ルイズも事実上の参加宣言を告げる。そこまで頑なに断る理由もないし、使い魔を置いては帰れないからだ。
 いつの間にか全員の視線にさらされタバサはぱちぱちとまばたきすると、ややあってこくりと頷いた。
「わかった」
「よし、それじゃあ俺たちは一足先に行ってるか」
「きゅいー♪ ごちそう、えんかい、おにくにおさけー♪」
「あんたたち、日が暮れるまでには帰りなさいよー!」
 少女たちはさりげなく親交を深めつつ、赤らみ始めた空に背を向けた。
 西日に照らされた彼女たちはとても美しく、黙っていれば美人三姉妹だったという。
「待てこら――! 決着つけろ――!!」
「いや゛――! 放っとかないでえええぇぇぇ!!」

 その日、彼らの宴会は夜遅くまで続き大いに盛り上がったが、それはまた別の話。
 そして次の日、伐採し尽くされた森林を見て、炭焼き小屋の職員たちは小人の存在と始祖の加護に感謝したという。

     ○

 朝の魔法学院。
 朝食にはまだ早く、ルイズが起きるにはやや遅い時間。俺はルイズの洗顔水を用意した後、ちょっと間の時間を使って用事を済ませに来ていた。
「………………」
 ドアの前でなんとなく立ち止まる。その胸中は複雑だ。
 うーん、正直、頼まれたって仲良くおしゃべりなんぞしたくない相手なんだが……まあ、頼まれたんだから仕方ない。
 俺は腹を据えて、扉をノックした。
「おい、起きてるか? 俺だ、サイトだ」
 やや控えめなノック。すると中でしばし待ちたまえ、という返答があり、がさごそとなにやらけだるげなシャクトリ虫の這いずるような音が続いた。
 俺は扉が開くのをじっと待つ。そして、たっぷり時計の秒針が一周するくらいの間を開けて、部屋の主が顔を出した。
「なんだね、こんな朝っぱらから。おかげで整髪に手間どったじゃないか」
 現れたのはキザ野郎。いつでもどこでもスカした態度を忘れない、薔薇をくわえたうざったい男。
 そう、誰あろう、俺を決闘で瀕死にまで追い込み、三日三晩生死の境を彷徨わせた張本人、ギーシュ・ド・グラタンその人であった。
「グラタンではない! グラモンだ、グ・ラ・モ・ン!」
「あれ? 違ったっけ?」
「一文字違うじゃないか!」
 細かいことにツッコミやがる。お前なんてグラタンだろうがラザニアだろうが、ドリアだろうがどうだっていいんだよ。
「ずいぶんなご挨拶じゃないか……」
 ギーシュのやつ、いつの間にか剣呑な目つきで俺を睨んでやがる。
 どうやら全部口からたれ流してたらしい。悪いね、正直で。
「くっ……まあいい。用件を言いたまえ」
 キザったらしく髪をかき上げながら、尊大な態度で先を促すギーシュ。普通は滑稽にしか見えないはずなんだが、しかし、こいつがやると案外様になるから不思議だ。
 俺も長々と話をする気分ではないので、さっさと目的の品を手渡した。
「ほら。報酬だってよ」
 じゃら、と重たい金属音を鳴らす麻袋を押しつける。ギーシュは少し面食らったようにたじろいだが、その中身を見てさらに驚いた。
「ず、ずいぶんと多いね」
「初回料金+迷惑料だとよ」
 あの袋の中身は銀貨だ。ギーシュが目を丸くしているので、おそらく相場よりかなり多いのだろう。
 なぜ俺がこんな事をしているかというと。ちょっと前聖に頼み事をされ、その契約が果たされたので報酬の受け渡しに来たのだ。
 やつはある日、俺に綺麗な石の詰まった革袋を手渡し、
「錬金術が得意な友達はいないかい?」
 と尋ねてきた。話を聞くと、この石を依って糸状にできるような魔法使いを捜していたらしい。
 なにに使うか聞いてみると、「服を作る」との事だ。なにやら、この石には霊験あらたかな力が凝縮されているらしく、上手く加工すれば疑似アーティファクトのようなものが作り出せるらしい。アーティファクトってのはマジックアイテムのことらしく、えーっと、なんだ。とにかくファンタジーなアイテムのことだ。深く聞くな。俺も知らねえし。
 俺は、日頃世話になっていることもあり、快く快諾した。
 その際、聖が俺に手間賃を握らせようとしたが、俺は頑なに拒否した。そんなつもりでやってるんじゃないし、むしろこれぐらいやらないと俺の方が申し訳ない。
 でも、なにもしないのは気が済まないらしいから、代わりとしてこの綺麗な石をいくつか貰った。『風石』というらしい。
「足りなきゃ俺に言付けてくれってさ」
「い、いや、十分だ」
 『風石糸』を納品した時はあれほど文句をたれていたのに、現金なやつである。やれ「ボクは青銅専門だ」とか「こんな加工は専門外だ」とかぼやいてたの、俺は忘れてないぞ。
「しかし、君の友人はいやに羽振りがいいようだね。商人かなにかなのかい?」
「『探検家』(トレジャーハンター)らしいぞ」
「な゛――ありえん! その友人とやらは、毎回当たりくじでも引いているのかい!? あんな紛い物ばかり蔓延る業界で、安定した財産を築けるなんて!」
「本当なんだから仕方ねえだろ」
 事実、俺はあいつに『戦利品』を色々見せてもらったのだ。履くと早く走れる『白馬の靴』とか、持ってるだけで身体が身軽になる『大岩鳥の羽』とか、変な物が多かったが。
 あれ以外にも色々見つけたらしいが、必要ない分は換金して情報屋と折半しているらしいので、実際の利益はまだまだ多いだろう。
 持ち歩けない分は、スカロンさんに預かってもらってるそうだ。
「まあ、それで愛しのモンモンにゴマすりでもしてろ。用はそれだけだ」
「ま、待て、サイト!」
 俺がさっさと踵を返すと、ギーシュはその背中に待ったをかけた。俺はあん? と不愉快を隠さず首だけ振り返る。
 和解したとはいえ、俺はこいつに冗談じゃなく殺されかけたんだ。そこまでお人好しじゃねえから、どうしたって割り切れない部分はある。殺されかけた相手とへらへら笑いあえ、なんてのは無茶な話だ。
 向こうも『平民に負けた』とあっちゃ、俺に対して思うところの一つや二つあるはずだが。
「その……もう、いがみあうのは止めにしないかい?」
 は?
「まあ、思い返せば僕にも非があった。平民相手とはいえ、理不尽にそれをひねり潰すのはよくない。貴族たるもの、諫言は真摯に受け入れなければならない」
 俺はあんまりにも吃驚して、鳩が豆鉄砲を食ったような面をさらしている。
「それに、君は僕を負かした。どうだろう? それで痛み分けにしないか?」
 僕は、僕の目を覚ましてくれた勇敢な平民と、不和なままではいたくないのだよ。ギーシュはそんなことをのたまって、すっと右手を差し出しやがる。
 俺は一笑の元に吐き捨ててやろうと思ったが――ギーシュの真剣な顔に中てられ、思いとどまった。
 頭こそ下げやしないが、ここまで歩み寄るのも『貴族』にとっては凄まじい譲歩なんだろう。いっつも針鼠みたいなルイズを相手にしてるから分かる。『貴族の誇り(プライド)』ってのは、そう簡単にぬぐい去れるもんじゃない。
 こいつはこいつなりに悪いと思って、俺に仲直りを申し出てきたんだ。
 それに比べて俺は――なんて、小さい。
「……ていっ」 ぺちっ
「ぬなっ?」
 俺はおもむろにギーシュの額へチョップをかました。突然の俺の奇行に、眼を白黒させるギーシュ。
「な、なんだね? なんのつもりだい?」
「これで帳消しだ」
 俺とお前のわだかまりの糸を切った。ま、これぐらいは許されるだろ?
 俺は改めて右手を差し出す。
「右手の握手は『よろしく』って意味らしいな。――ま、これからよろしく頼むぜ」
 にっと悪戯っぽく笑みを浮かべ、伸ばされた俺の右手。ギーシュはそれと俺の顔を交互に見比べていたが、ややあって不敵に笑い、その手を取った。
 河原で殴り合う友情ってのも、こんな感じなんだろうか。
 ――まあ、悪くはないかもな。

「サイト」
「ん?」
「さっそくだが、僕らの友好の印に、ぜひとも君の強さの秘訣を教えてもらいたいんだが」
「な、なんだよ藪から棒に」
「君のように強くなれば、さらに多くの女の子たちが僕を見直してくれるだろう? 」
「はあ? お前にはモンモンがいるじゃねえか」
「それはそれ、これはこれさ。それと『モンモン』と呼ぶことは許さん。彼女は僕の物だ」
「…………ていっ」 ビスッ!
「あうっ!」

 前言撤回。
 やっぱこいつ、ろくなもんじゃねえ。

     ○

 数日ぶりの修行。
 俺ははやる気持ちを抑えながら、溜まった鬱憤を爆発させるように街道を駆ける。
 その速さは疾風の如く、かかった時間はニューレコードを記録した。
 なんかこのルーン、俺の気分によって出力が違う気がすんだよな。
 不思議。
 辿り着いた『魅惑の妖精亭』。
 もはや通い慣れた気軽さで、準備中の札がかかった扉を遠慮無く開く。
 その先、入り口にもっとも近いテーブルにいつも通り腰掛けている聖を見つけ――いつも通りではない部分に唖然とした。
「お、おい……その包帯、どうしたんだ?」
 聖は頭に仰々しく包帯を巻いていた。なんか、脳手術をした患者みたいだ。
 いつもつるつるだったアゴには、若干の無精髭が浮かんでいる。
 しかも、昼間っからワインの瓶を一本開け、切り分けたチーズなんぞをつまんでやがる。
 完全な飲んだくれだ。
「『名誉の負傷』ってやつさ。気にしないで」
「いや、気にするなって言われても」
 無理だ。気になる。
 というかどうした。
「お前、宴会の時『酒は嫌いだ』って言ってたじゃねえか」
 最初の一杯はさすがにワインだったが、その後こいつはずっとジュースをちびちびしていたはずだ。
「飲みたい気分になる時もあるんだよ」
 キミもやるかい、と瓶を差し出されたが、しどろもどろでお断りした。
 どうしたんだこいつ?

     ○

 巨大な木に大量に吊り下げた薪、その中心で剣舞を舞う少年が一人。彼は振り子のように半円を描いて間断なく襲い来る薪を、流れるような動きで受け、いなし、かわしていた。
 サイトは、ハタヤマが課した最後の試練――『全方位認識の型』を、なんの苦もなくこなしていく。これまでは一つの課題に数日、長ければ一週間以上かかっていたが、今では初見の訓練もなんなくコツを掴むようになった。戦闘における『センス』が身に付き始めたのだ。
 何事も、下地があれば覚えは早い。サイトはこの一ヶ月を通して、自分なりの基本を編み出すに至っていた。
 そもそもハタヤマは短剣士であり、しかもそれすら副職業で本職は魔法使いである。生粋の剣士であり、長剣士のサイトに教えることなどあるはずがない。
 短剣士の基本を長剣士に指導しても、ほぼ流用が効かないので意味がないのだ。
 だからこそ、ハタヤマはサイトに「考えろ」という言葉を贈った。これすら自分で気づけないなら、キミに戦士としての芽はない、と。
(もう、ボクじゃ稽古の相手にもならないだろうな)
 木陰に腰掛けながらため息を吐く。ハタヤマはワインの瓶をぐびぐびとあおりながら、サイトの訓練を見ていた。
 凄い少年である。たった一月で見違えるような進歩を遂げた。チンパンジーが一段飛ばしでホモサピエンスに進化したようなものだ。左手(ルーン)の力もさることながら、その覚えの良さは驚嘆に値する。
 一つ気づき、二つほど助言を与えれば、後は独自で十や二十を簡単に吸収してしまう。それはさながらスポンジが水を吸うように、みるみるうちに自分の物にしてしまうのだ。
 ハタヤマはもし、自分が全力を出せたならば、と一瞬だけ考え、不毛なので瞬時に止めた。無駄に負けん気を出して全盛期の自分と比較しても、それはただのあてつけであり全くの無意味である。
 普段のハタヤマならそんなこと思いすらしないだろうが、ついつい暗い思考に陥ってしまう。
 彼は昨日決着をつけたと『ある事件』に色々と心を揺さぶられ、ちょっとばかしセンチメンタルに浸っていた。
「――……い、おい」
(あのヒトの最後の涙――あれ、結局どういう意味だったんだろう)
「おい!」
「っ!?」
 ハタヤマは険のある怒声にびくっと身を震わせる。見上げると、サイトが木刀を肩で遊ばせながらこちらを見下ろしていた。
「時間だ。終わったらしいぞ」
「あ、あぁ。お疲れさん」
 いつの間にか目と鼻の先まで近寄られている。ハタヤマは完全に油断していた。
「どうしたんだよ。今日、なんかおかしいぜ?」
「なんでもないよ。ちょっと切ない気分なだけ」
「それを『なんでもある』って言うんだよ」
 サイトがハタヤマをじと目で睨む。ハタヤマはたはは、と苦笑いを返した。
「まあ、上手いこと片づいたからさ。しばらくすれば治るよ」
「たくっ……頼むぜ、おい」
 いつでも不敵な笑みを絶やさないハタヤマがしょんぼりしていると、こっちの調子も狂ってしまう。サイトはこんなハタヤマの姿は見たくなかった。
 サイトは、こいつにはへらへらしてるけど時折鋭い眼光を光らせる、そんな陽気なやつでいて欲しいと思っていた。
「そういや、もうそろそろ一月経つね。本番はいつなんだい?」
「本番? 本番――」
 空気を変えようと話題を逸らすハタヤマ。もう教えることはなくなったので、いささかのんびりとした調子だ。
 サイトはすっかり忘れていて、しばし考えこみ、そして驚愕した。
「あ、明日だ……」
「え、マジで? やること決めてあるの?」
「全然考えてなかった」
 この世の終わりのように顔を青ざめさせるサイト。ハタヤマはサイトの答えにがびーん、と頭に王冠点滅をつけた。
「ど、どうしよう聖。俺、なんも思いつかねえ!」
「落ち着け、落ち着くんだ! 今までの修行の中からてきとーなのを見繕って流用すれば」
 なんとかお茶を濁そうと画策するハタヤマ。ギリギリになって慌てふためくなど、夏休みの宿題か。
 慌てふためく彼らの姿は、どう見ても新学期直前に絵日記や図画工作の課題に頭を悩ませる子どもにしか見えなかった。
 しばらくして、ハタヤマはすう、と深呼吸してサイトの肩をポンと叩いた。
「まあ、頑張れ。応援してるよ」
「見放すのか俺を!?」
 眩しいばかりの笑顔。溢れた糸切り歯が燦めきそうだ。
 こいつ、早々に逃れやがった。
「だって、ボクがやるわけじゃないし」
 頼まれたのは修行だけだしー、と口を尖らせてサジを投げるハタヤマ。放り出されたサイトはたまったものではない。
 しかし、どれだけ食い下がってもハタヤマが取り合ってくれないので、諦めてサイトはがっくりと肩を落とした。
「帰ってから考える……」
「ははは、そうしなさい」
 他人事だと思って、とサイトはハタヤマを恨めしそうに見やるが、実際他人事なので仕方がない。
 分かっていたことだが、ハタヤマは薄情だった。
「なあ、聞いていいか?」
「ん?」
 妙に改まったサイトの声。ハタヤマは両手を枕にして寝転がっていたが、居住まいを正した。
「なんでお前――そんなに寂しそうなんだ?」
「………………」
 ハタヤマはきょとんと目を丸くした。まさか、そんな言葉をかけられるとは思ってもいなかったからだ。
「そう見える?」
「ああ、見える」
 サイトは気づいていた。会話の合間や訓練の最中。誰も聖に目を向けない瞬間、不意に見せる物憂げな横顔を。
 こいつはいつも、なにかを悔いている。その正体は分からないが、ずっとなにかを後悔している。
 サイトは、そんなハタヤマの姿がずっと気になっていた。
「きっと気のせいさ」
「んなわけあるか。こんだけ顔会わしてりゃ、嫌でも気づくっての」
「……BL的な意味かい? 悪いけど、ボクそっちの趣味は」
「茶化すなよ」
 サイトは真剣そのもので、ハタヤマをじっと見つめている。ハタヤマはそのあまりの気迫に気圧され、こりゃ誤魔化せないか、と扱いにくそうに渋面を作った。
 この少年、どうやら若さ炸裂のかなり熱い心(ハート)を胸に秘めているようだ。ハタヤマの斜に構え冷め切った心とは全く正反対のタイプである。
 ハタヤマは目を細め、サイトを値踏みするようにねめまわした。
(――まあ、いいか)
 やや空気が読めないところはあるが、口止めすれば言いふらさないだろう。
 このところずっと顔をつきあわせていたこともあり、さらに酒の勢いも手伝ってか。ハタヤマのメンタル面のガードは、サイトに対してだけかなり甘くなっていた。
「じゃあ、ちょっとだけご静聴願おうか。これから話す事は他言無用で頼むよ?」
「当たり前だろ。それぐらいわきまえてるって」
 ――これを誰かに話すのは初めてだな。
 自分でも思い出さないよう、必死に目を背けていた記憶。今もなお胸に刺さる、小さくも鋭い一本の棘。その痛みは未だ癒えず、ずっとこの胸を苛んでいる。

 ハタヤマは心を落ち着かせるように深呼吸し、ゆっくりと語り始めた。

     ○

 ある日、呼び出し状が送られてきた。
 免許が下りる直前、就任式の一週間前だった。
 魔女っ娘協会会長の判子も捺印されている正式な書面で、どうやらイタズラではないらしい。
 ボクは不思議さで頭がいっぱいだったが、とにかく呼び出しに応じ、魔女っ娘協会へと向かった。

     ◆

「はーたやまーっ!!」
「ぬおっ!?」
 駅へ続く商店街をぽてぽてと歩いていると、急に腹を掴まれ持ち上げられた。
 気もそぞろだったので軽くびびる。
 振り向くと、その声の主は、はじける笑顔のビビアンちゃんだった。
「もう、ビビアン! 後ろから大声かけたらびっくりするでしょ! ……ごめんなさいハタヤマくん」
 小走りにボクらへ駆け寄り、心底申し訳なさそうに肩を落とすフィリアちゃん。でっかいため息が眼で見えるようだ。
 どうやら姉妹でショッピングの真っ最中らしい。
「い、いや、いいよ。こんなところで会うとは奇遇だね」
「まったくなのだ! でも、これからはずっと一緒に住むから、奇遇ではなくなるのだぞ」
 指を立ててえっへんと胸を張るビビアンちゃん。
 ボクは固定のパートナーを選ばなかったので、一応フリーの扱いになる。
 しかし、実質上は四人と契約しているようなもので、これからはフィリアちゃん、ビビアンちゃん、リンレイ、そして戻ってきたらルシフェルちゃんたちと一緒に同棲することになっていた。
 いやぁ、学院寮追い出されたらどうしようかと思ってたけど、夢も叶って一石二鳥だね。
「はは、そうだね。毎日エロいことし放題だね」
「は、ハタヤマくん……」
「ダメだぞ、やりすぎたら馬鹿になるのだ。始めの一月はお預けなのだ」
「そ、そんなっ!!」
 この世の終わりのような劇画顔でショックを受けるボク。そ、それじゃなんのために同棲するのか分からないじゃないか! ヤるために決まってるでしょ!?
 そんな考えが顔に出ていたのか、ビビアンちゃんにめっ、とチョップされた。
「まったく、ハタヤマはいつもエロいことしか考えていないのだ。困ったやつなのだぞ」
「び、ビビアン? その条件は、ちょっとハタヤマくんが可哀想じゃ」
「あ、忘れてたのだ。お姉ちゃんもむっつりだったのだ!」
 び、ビビアン!! と顔を真っ赤にして怒るフィリアちゃん。ああもう、可愛いなぁこの子たちは。
 そんな風に雑談もそこそこに、姉妹水入らずを邪魔するのも悪いので、ボクは話題をまとめに入った。
「じゃあ、ボクはそろそろいくよ」
「え、もういっちゃうんですか?」
「今、お姉ちゃんと新生活に向けてお買い物をしてるのだ。ハタヤマも一緒にこないか?」
「そうなのかい。ご一緒したいのは山々だけど……」
 ボクは事情を話した。
 すると、フィリアちゃんたちは怪訝そうに眉をひそめた。
「呼び出し状? 私たちには、そんなもの届いてませんね」
「ビビアンもきてないのだ。なんでハタヤマだけ呼ばれたのだ?」
「さあね。それを今から聞きにいくんだよ」
 ボクの答えに、ビビアンちゃんはそっかー……と露骨に残念なオーラを発し、フィリアちゃんも目尻がしょんぼりしている。
 だが、今後所属することになる職場からの呼び出しとあらば、無視するわけにもいかない。
「とりあえず必要なものはないから、また今度みんなでお出かけしよう」
「本当か!?」
「みんなで……ですか?」
「うん。そのほうが楽しいでしょ?」
 ビビアンちゃんは素直に跳びあがって喜んだが、フィリアちゃんは少し不服そうだ。
 ふむ。
「二人きりがご希望なら、やぶさかでもないけどね」
 ぱちりとウィンクを送ると、ぽっとフィリアちゃんが頬を染めて両手を添えた。
 この辺の気配りが色男の秘訣だよ。
「あー! ずるいのだ、ビビアンもハタヤマとデートするのだ!!」
「ビビアン、私はそういう意味で言ったんじゃないのよ?」
「じゃあ、ビビアンがハタヤマとデートするのだ! お姉ちゃんはおあずけ!」
「わ、私が先に約束したんだから、私が先! ビビアンは後!」
「お姉ちゃんのケチ!」
「び、ビビアンっ!!」
「あー、はいはい、喧嘩しないで」
 フィリアちゃんの身体をよじ登り、肩にとまって割ってはいる。
 げへげへ、モテル男はつらいね!
 ……まあ、冗談はさておき。
「これからはいくらでも時間があるんだから、好きなだけ付き合うよ。だから、そんなことで喧嘩しないで」
「むう~。約束だぞ! 絶対なのだぞ!」
「楽しみにしてますね」

 ボクは、そこでカーネリアス姉妹と別れた。
 その時の彼女らの笑顔は、瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。
 この先の未来を心の底から信じ切った、穏やかな微笑みだった。

     ◆

「「あ。」」
 駅前でリンレイに出会った。
 どこかへ出かけていたのか、その手には大きな紙袋を抱えている。
 袋の中から黒い金属の取っ手みたいなのが飛び出している。調理器具の類だろうか? 
「ハタヤマ、こんなところでどうしたアルか? 出不精のおまえが珍しいアル」
「ちょっとそこまでね。リンレイこそどうしたんだい。いっつもバイト先と寮にしか出現しないくせに」
「……人をレアモンスターみたいに言うのはこの口アルか~」
 流れるように右手で袋を抱え直し、左手でボクの頬をつまみ上げるリンレイ。つまんだ指先は万力のようで、重力より握力のほうが痛い。ちょ、あいででいででぇでで、も、持ち上げないで、ちぎれる、ちぎれちゃううぅぅぅ!
 リンレイはひとしきりボクをびよんびよんしたら満足したのか、おもむろに指を離した。
「ぶべらっ!」
 当然ボクは重力に逆らえず、頭から路面へ落下した。
「痛いじゃないか! ボクのハンサムでプリチーな顔に、傷でもついたらどうしてくれんだ!」
 お婿に行けなくなるじゃないか! と、ボクは怒り心頭で怒鳴った。
 しかし、リンレイはボクのそんな怒声などどこ吹く風。涼しい顔で一言。
「おまえはもうお婿に行く必要ないからいいアル」
 なにを――と言い返そうとして我に返る。ちょ、なに気に爆弾発言しやがった。
 恐いなぁ……嬉しいけど。ちょっぴり頬を染めながら言うのがいじらしい。普段がさつなくせに、こういうところがギャップなんだよねぇ。
「これからのために、中華セット一式を買ってきたアル」
 リンレイはこの語尾の通りこの辺出身の人間ではなく、大清帝国が故郷である。
 しかし、大清帝国なのに中国拳法、中華料理。不思議だね。
「器具が揃ってないと、満足に腕が振るえないアルからな」
「いっとくけど料理は当番制だよ」
「なにぃ!? あたしの腕が信用できないアルか!?」
「リンレイに任せとくと、食卓が中華で染まっちゃうからね」
 いくら美味くてもそれは勘弁だ。さすがに毎日じゃ飽きる。
 リンレイは不服そうに口を尖らせたが、やがて諦めて折れた。
「家事全般は持ち回りだからそのつもりで。頑張ってね」
「なに人事みたいに言ってるアル。おまえも例外じゃないアルよ」
「この体格でできると思う?」
「変身すればわけないアル。横着は許さんアルよ!」
「これは禁断の闇魔法だから、みだりには使えないんだよ~」
「くっ。ああ言えばこう言う……」
 リンレイは握り拳で押し黙った。屁理屈でボクに勝とうなんざ十年早いよ。
 まあ実際の話、料理以外のことはするつもりだけどね。
 なぜか料理だけは上手くできないからやだ。焦げたり酷い味になったりする。なんでだろう。
「まあいいアル。ゆぅっくりとその身体に教えこんでやるアルから」
「エロいなあリンレイ。もう夜のことを考えて……」
「そっちじゃないアル!」
 ぶぎゅっ、と思いっきり踏みつぶされた。痛い。凄く痛い。
 あ、あ、やめて、ぐりぐりするのやめて。どMだけど痛いから。
「たく、この年中脳内ピンク色が……その辺についてもよお~く調教してやるアル。覚悟しとくアルよ?」
「お、お手柔らかに頼むよ」
 とびっきりの邪笑を浮かべてボクに流し目を送るリンレイに、たじろぎなからも微笑み返す。
 きっとボクとリンレイは、これからもずっとこんな感じなんだろう。

 そう、思っていた。この時は思っていたんだ。

     ◆

 電車を乗り継ぎ郊外へ出る。
 魔女っ娘協会本部は、都市部にぽっかり空いたように存在する森林地帯に居を構えている。マナの通りが良いかららしいが、ボクはそんなもの全く感じたことがないので眉唾物だ。
 電車を降りると駅から自由の女神みたいなどでかい聖女像が見えるので、道に迷うことはない。ここには魔女っ娘協会の中枢から居住区、コンビニ、はては娯楽施設まで揃っているから驚きである。
 その巨大すぎる規模は、ある種『魔女っ娘都市』のような国を、近代化の進む世界の一角で形成していた。といっても、この区画に住めるのはある程度地位のある魔女っ娘と役員だけで、家賃もバカ高いらしいが。
 なんど来ても思うけど、人間社会ってのは謎が多いよね。
 ボクは守衛さんに入館証を発行してもらい、魔女っ娘協会本部へ真っ直ぐ足を向けた。遊びに来たわけではないので、寄り道はまた今度だ
 そしてそこの受け付けのお姉さんに用件を伝えると、すぐに奥へ案内された。
(……なんだ、ここ?)
 入って真っ先に感じたのは、異様なほどに張りつめた魔力。注視すると部屋全体に無色の魔法陣が描かれており、室内における一切の魔法を無効化する処理が施されていた。
 白い壁に、白い机が部屋の中央にポツンとあり、これまた白い椅子が向かい合わせに置かれている。
(取調室かよ)
 机と椅子以外なにもない部屋。ここにいると、まるで自分が罪人になったかのような錯覚を覚える。
 正直、こんな部屋にいつまでもいたいとは思わない。ボクはとても気が悪いので、さっさと終わらせて帰りたくなった。
 椅子に乗ってみたがしっくりこないので、机の上によじ登りしばし待つ。しばらくすると、反対側の扉から人間が入ってきた。
「ぁらん、お待たせしてごめんなさいねぇ」
 なんというか、エロい魔女っ娘さんだった。いや、どう見ても二十歳過ぎなので『娘』という年ではなさそうだが、シオリちゃん系の艶っぽい女の人だ。
 あかぬけていて、夜の街にいそうな雰囲気を全身に纏っている。
 女の子なら基本的に雑食で、なんにでも飛びかかるボクだけど。なぜか、この時は食指が動かなかった。
「あの、今日はいったいどういう理由でボクは呼ばれたんでしょうか?」
 なんか、なんか嫌な感じだ。背筋のゾクゾクする感じが消えない。
 駅に着いてから感じ始めて、内部に入ってさらに強くなり、この人が出てきて最高潮になった。
 早く帰りたい。帰って、みんなに会いたい。
 もう、目の前の胸元のきわどい服を着たお姉さんなどどうでもよく、一刻も早く、ボクはこの場を去りたかった。
「そんなにかしこまらなくていぃのにぃ。それじゃ、手短に済ませるわ」
 お姉さんは持っていた黒いファイルを開く。
「〈ハタヤマヨシノリ〉。年齢十八歳。高校中退の後エンゲル魔法学院に編入、そして闇魔法学会の目論む魔王復活――通称『第二次魔王大戦』に巻き込まれる。その際、それを阻止しようと組織された学生グループの中心として奔走、尽力し、見事魔王討伐を果たした……間違いないわね?」
 魔王大戦。戦いの規模こそ小さかったが、飛び交った力があまりにも強大だったためにそう名付けられた現代の異変だ。
 実際、最後の戦いは凄まじかった。フィリアちゃんはEXエクスキュージョンを連発するわ、ビビアンちゃんは『みんななかよし』をぶっ放すわ、リンレイなんて『龍閃』で屋上の半分を吹っ飛ばしたからなぁ。
 魔王は魔王でさすがの貫禄を見せつけたし、総帥――学院長(あのハゲ)もやたらとウザかった。地味に強いから放置できない。格の違いを分からせてやったけどね。
 もちろんボクも頑張った。最後はルシフェルちゃんの精神世界で魔王と一騎打ちだったし。うん、我ながらよく生き残ったもんだよ。
「はい。まあ、そんな感じです」
「うふん、素直でよろしい。……といっても、こっちもそれは把握してるんだけどね。あの戦いの模様は、記録班が上空からカメラを廻してたから」
「はぁ」
 ボクは気のない相づちを返した。まあ、それぐらいはボクも気づいていた。なんか飛んでるなー、程度しか意識してなかったけど。状況が切迫してて、それどころじゃなかったし。
 あ、伊藤くんは大興奮してたな。魔王に身体いじくられて最高にハイな状態になってたから、ボコボコにしてすぐ黙らせたけど。今でも時々恨めしそうに責められる。シャッターチャンスを返せって。知らんがな。
「私(わたくし)もVTRを拝見させてもらったわ。一騎当千、獅子奮迅のめざましい活躍だったわねぇ」
「いやあ。あれはみんなの力があってこその結果でした」
「あら、謙虚なのね」
 可愛い、とコロコロ鈴のように笑う女史。しかし、ボクはそれに目を奪われることもなく、胸騒ぎが消えない。
「たしかに、あの学生たちの力も目をみはるものがあったわ。あれなら間違いなく第一線でもやっていけるでしょうねぇ」
 不意に、女史は笑みを潜め、真顔になる。
「けど、それでも彼女たちだけでは魔王に太刀打ちできたかどうか怪しいわ」
 じっとボクを見つめてくる女史。ボクは答えを返さない。
「あなた自身の力、そしてメタモル魔法は、あの中で異質なほど突出していたわ」
 女史は語る。曰く、彼女たちが魔王と互角以上にやり合えたのは、ボクが総帥を一人で封じきったからだ。あなたの『メタモル魔法』は、総帥の不完全な『メタモル魔法』を遥かに凌駕していた、と。
「あの子たちは、個々の力では総帥にすら、ましてや魔王になんてとても敵うようなレベルではなかった。それを均衡するまでに引き上げ、そして勝利を勝ち取るまでに持ち込めたのは、あなたの助力があったからこそ成し得たことよ」
 ボクは沈黙した。
 たしかに、彼女たちは強くなった。個々人が研鑽を積み、独自の必殺技を編み出すまでに至った。
 しかし、『それだけ』だ。フィリアちゃんは聖属性魔法以外は人よりやや秀でているくらいだし、ビビアンちゃんもその才覚は『表現力』のただ一点に集約している。リンレイなどやっと魔法と体術の複合理論の足がかりをみいだしたくらいで、強いのは『龍閃』だけだった。
 総帥はボクがタイマンで倒した。魔王だって、決着をつけたのはボクだ。しかし――
「それでも、彼女たちの力無しでは成し得なかったことです。決して、ボクだけの力によるものじゃありません」
 はっきりいって魔王+総帥をボク一人で倒すのは無理だっただろう。一人ずつならまあ分からないが、同時には絶対無理だ。捌けない。
 魔王だって完全復活していなかったのと、直前の四対一で疲弊してたから勝てたようなものだ。消耗していない魔王とやり合ったら、どう転んでいたかは微妙なところだ。
「ずいぶんと肩を持つのねぇ。記録では誰の目にも明らかだったのに」
「大切なパートナーたちですから」
「うふふ……そう」
 女史はなにがおかしいのか、またコロコロと笑った。
「まあいいわ。本題には関係のないことだし」
「……?」
「今日あなたを呼んだのは他でもない、その『力』のことなのよ」
 女史は語った。
「あなたの『力』はアンゴルノア(この世界)において非常に希有なものよ。それが魔女っ娘協会に加わるのはとても心強いことだけれど、同時にとても危険なことでもあるの」
「危険?」
「そう、危険なの。あなたが魔女っ娘協会(うち)で力を振るうということは、メタモル魔法を公認するということ。それは、白き魔女の教えに反するということでもある」
 第一次魔王大戦の後、白き魔女は全世界の魔法を何十冊にも渡り本に纏めた。そして、その内極めて危険だと判断した魔法を『闇魔法』として一冊の本に書き記し、封印した。その中には、メタモル魔法もばっちりと含められている。
 チャック族が衰退したのはたしかに一族の非もあったが――それはあくまでも遠因であり、やはり最大の原因は『闇魔法の一つとして封じられてしまったこと』にある。白き魔女はいったいなにを考えてこんな厄介なことをしてくれたのか、叶うならば尋ねてみたい。『あんた、初めからボクらを絶滅させる気だったんじゃないの?』と。
 まあ、白き魔女批判はこれぐらいにして。
 白き魔女の教えを戒律にしているこの協会では、ボクのメタモル魔法を見過ごすことができないらしい。
「もちろん、あなた本人が危険だなんて私たちも考えてはいないわ。けれど、それとは別の問題なの」
「『闇魔法』そのものをメインツールとしていることが問題ってことですか……それで、ボクにどうしろと?」
「あぁ、気を悪くしないで。私たちも分かっているわ。あなたは、『メタモル魔法』がなければ真価を発揮できない。それを禁じられてしまえば、使い魔としての活動自体に支障をきたしてしまうってことは」
 ボクはたしかに魔王と渡り合えるほどの力を持っている。しかし、それはあくまでもメタモル魔法があってこそのものだ。ぬいぐるみの身体のままではできることが少ないので、力を発揮しきるには、『発揮できる種族に変身すること』が前提となる。
 メタモル魔法とは、いうなれば常に後出しのジャンケン。相手がファイアーマンならば水龍にメタモルするし、蟹やカマキリなど斬属性に長けている生物ならゴーレムにメタモルする。
 常に相手と相性の良い属性で戦え、異常なまでに『負けにくい』魔法。それが、メタモル魔法、ひいてはチャック族が最強魔法生物の候補たる由縁なのだ。
 ボクが強いのはあくまでも『メタモル魔法』だけ。しかし、この魔法の異様なまでの対応力の高さが、魔王大戦で中心となれた理由だった。
 そう、ボクが強いんじゃない。『メタモル魔法』が強いのだ。
「それについて、上層部は幾度も会議を重ねたらしいわ。あなたの処遇……扱いについて、ね」
 意味深に言葉を切る女史。おそらく、例外を認めるかどうかで揉めたのだろう。
 一つでも例外を認めると、それが前例となり第二第三の『例外』が生じる恐れがある。前例とは恐ろしいもので、たった一ヶ所の綻びからほどけてしまうセーターのように、瞬く間に傷口を広げてしまう。
 ボクを認めるということは、『闇魔法』を容認するということ。それは、後々ボク以外の『闇魔法』の使い手を呼び寄せる可能性を芽生えさせ、ひいては『協会に所属すれば闇魔法を使ってもいいのか』という議論に発展しかねない。
 ボクをどうするかというのは、冷静に考えると、結構デリケートな問題なのだ。
「それで。『魔女会議』によって、ある結論がでたの」
 女史は胸元の谷間から携帯灰皿とタバコ、ライターを取りだし火を付けた。やたらと細いタバコだ。
 無意識の動作だったのか、すぐに気づいてボクに目線で問いかけてきた。それにボクは、気にしないと首を縦に振ることで答えた。
 『魔女』。それは現代で最高位の魔女っ娘たちに送られる役職、あるいは称号のようなものである。昔は魔法を使う女性全員が魔女と呼ばれていたのだが、魔力が弱まった現代ではそういった風に呼び名が変わっていった。
 そいつらは協会の最上層に何名か―詳しい人数は公表されておらず、『五人以上十人未満』というのがもっぱらの噂だ―いて、協会全体の、さらには魔女っ娘界全体の統制をとっているらしい。
 そんな人たちが、ボクについて会議まで開いたのか。知らぬ間に大事となっていたようだ。
「その結論とは――」
「……結論とは?」
 女史はふう、と肺に吸い込んだ煙を吐き出し、くわえタバコをくゆらせる。そしてボクを見つめる瞳に若干の感情が見え、すぐに消えた。
「あなたに、選択肢を与えることにしたの」
「選択肢?」
「そう。あなたは選ぶことができる」
 落ち着いて聞いてね、と前置きして女史は黒いファイルを開き、読み上げ始めた。
「『甲は乙に対して絶対の忠誠を誓うことで、甲の使い魔活動及びメタモル魔法の使用を乙は容認するものとする』」
 ボクは耳を疑い、眼を見開いた。聞かなくても分かる。甲とはボクで、乙は魔女っ娘協会だ。
 ――絶対の忠誠を誓うなら、認めてやってもいい、ということか?
「待って。まだ続きがあるから。
 『甲は上記の契約を拒否する場合、その魔力を無期限封印し、乙指定の区域にて生活することを命ずる』」
「ま、待って、待ってよ。それって」
 協会に忠誠を誓うか、魔法を捨てて幽閉されるか――事実上の強要じゃないか。
「驚愕してるみたいね……気持ちは分かるわ」
 ふざけんな。あんたにボクのなにが分かる。
「急に言われてもショックよね。けれど、私たちはなにも、あなたが憎くてこんな契約書を作成したわけではないのよ? この条件を呑めばあなたの立場は協会によって保証されるし、通常の魔女っ娘や使い魔にはない権限も与えられるわ。全世界で使用可能のブラックカードも支給されるし、特別権限を使えばあらゆる公共機関、娯楽施設、その他全てサービスを予約無しのその場で受けられるようになる」
 その代わり、協会には絶対服従。逆らうことを許されず、永久に歯車として働かされることとなる。
「それに、もしあなたがそれをよしとせず、魔法を捨てることを選んだとしても……『第一級絶滅危惧魔法生物』として、あなたの生涯は協会に保証されるわ」
 協会指定の保護区で、生まれたてのひな鳥みたいに与えられるエサをパクついてろというのか。一生、そんな老いさらばえたじーさんみたいな生き方をしてろというのか。
 ボクは家畜かなにかか。ボクの権利は、全て無視か。
「どちらにしても、あなたにとって損にはならない。――悪くない条件だと思わない?」
 妖艶に口元をキュッと歪める女史。その仕草が、その態度が、どうしようもなく勘に障る。
 女史は、顔を伏せ黙り込んだボクを迷っていると勘違いしたのか、饒舌に言葉を続ける。
「あなたの大切なパートナーさんたちにも、それなりの便宜を図ってあげる。大好きな魔女っ娘さんたちと、幸せに暮らせるわよ?」
 フィリアちゃんやビビアンちゃん、リンレイにルシフェルちゃんたちと、ずっと一緒に暮らせる。そう考えれば、いい話なのかもしれない。
 しかし――
「……少し、考えさせてください」
「あら、どうして? あなたは彼女たちと一緒に仕事ができれば、それでいいんじゃないの? なにか不明な点でもあった?」
「頭を冷やしたいんです」
「………………」
 女史は紫煙を呑みながら腕組みでボクを見下ろしていたが、やがて吐き出し、携帯灰皿にタバコを収めた。
「まあ、たしかに気持ちを整理したいかもねぇ。いいわ、今日はもう帰っても。けれど、三日後には答えを聞かせてね」
 ボクは背中にかかる女史の声を聞きながら、とぼとぼと部屋を出た。
 三日後。その日は、試験通過者の着任式だった。

     ◆

 その帰路。
 ボクはぽてぽてと情けない足音を響かせながら、線路の上を歩いていた。
 電車には乗らない。なんとなく、そんな気分じゃなかった。
 ぽつぽつと後頭部に水滴が当たり始めているのに、ボクは線路の枕木を浮島のようにして歩く。
「………………」
 契約の内容を思い返す。
 地位にブラックカード、特別権限。なるほど、たしかに良いことずくめかもしれない。絶対忠誠という部分に目をつむれば、安定した生活を送れるだろう。
 しかし、ボクはずっと胸に引っかかっていることがあった。
「『絶対の忠誠』、『無期限封印』」
 前者の条件を呑めば、ボクはその生涯を魔女っ娘協会の構成員として固定されることとなる。それは、フィリアちゃんたちが『生きている間は』別段問題はないだろう。しかし、『その後』は? 彼女たちがいなくなった後は――死んだら、ボクはどうしていけばいい?
 彼女たちの寿命はせいぜい百年、対するボクは五百年以上は優に生きる。天寿を全うしたチャック族はこれまでいなかったらしいから、もしかしたら千年以上生きるかも知れない。ボクは、彼女たちのいない残りの九百余年を、どうやって生きたらいい? 自由も利かない、契約に縛られた状況で、なにを信じて生きればいいんだ?
 かといって契約を蹴ったとしても、待っているのは飼い殺しの生活。それでも、みんななら変わらず接してくれるだろう。しかし、それも保って百年。その後は同族もいない保護区で、閉塞された暮らしを強いられる。抜け出そうと思っても、魔法が使えなければボクは自力で生きていけない。路頭に迷って死ぬのが関の山だ。『メタモル魔法』は、魔力は、ボクがボクらしく生きるための、唯一の『力』なんだ。知らなかった頃にはもう戻れない。
 もう、決して失えない。失いたくない。でないと、また誰かの庇護がなくては生きられない生活に逆戻りしてしまう。
「あ――ああ――」
 自然と、足が廻った。じっとしていられない。雨は、いつの間にか本降りとなり、ボクはぐっしょりと濡れ鼠になっていた。
 百年。百年は彼女たちがいる。しかし、その後はボク独りが取り残される。その時、はたしてボクはボクらしく生きられる状況にあるのだろうか。
 協会は、本当に信用できるのか。いつ契約を反故にされ、『メタモル魔法』を奪われるか分からない。『封印』と常に隣り合わせの生活。はたして、それは本当に『幸せ』だといえるのだろうか
 ぷあん、と間の抜けた警笛。顔を上げ、ボクは初めて対面から電車が迫っていることに気づいた。しかも、もう衝突まで幾ばくもない。ボクはあぜ道へ身を投げた。
 電車が通りすぎるがたんごとん、という音が真横を通り抜け、同時に真上から洪水のような泥水が降ってきた。おそらく、電車にはねられたのだろう。もろにかぶってぐしょぐしょになってしまった。
 ボクは泥だらけで空を仰ぐ。
「ああああああああああああああああああああ」
 どちらを選んでも、必ず別れが訪れる。その時、その先になにがあるんだろうか。
 恐い――ボクは、『ボクらしく生きられなくなること』が恐い。みんなはボクより先に逝く。篠原さんだってボクより先に死ぬだろう。その時、たった独りこの世界に残されたとき、この契約はどう働くのだろうか。待ち受けるのは協会の走狗としての生涯か、はたまた魔力を無くして飼われ続ける隠遁か。
 みんながいなくなったら――ボクはどう生きればいい?

「ああぁああぁああああぁぁぁああぁああッッッ!!!!」

 雲に隠れた月に吼える。チャック族に涙腺はない。だから、頬を伝うこの水滴は、決して涙なんかじゃない。
 この日、ボクはこの街から消えた。

     ○

「そして、あの日から五年が経ち、今に至る――というわけさ」
「………………」
 サイトは言葉を失っていた。いつもふざけた態度を崩さないこの男に、そんな過去があったなんて。あえて明るく振る舞っているのは分かっていたが、全然気が付かなかった。
 しかし、サイトには腑に落ちない点があった。
「なあ、『消えた』って言ってたが、その後に残した友達には連絡したのか?」
「してない」
「なっ――!? おい、俺は知らねえけど、大切な友達だったんだろ? なんで会いにいかねえんだよ?」
 ハタヤマはしばし黙り込み、ぽつりと呟いた。
「……だから」
「あん?」
「いずれ別れる人たちだから。もう、いいかと思ったんだ」
 三角座りで、力なく俯いたハタヤマ。その横顔は見る影もなく消沈し、その猛々しい黄金の瞳は輝きを失っていて。
 サイトは見ていられなくなり、思い切り横っ面をぶん殴った。
「馬鹿やろうっ!!!!」
「ぶるぁ゛あ゛あ゛ッ!?」
 左手に木刀を握ったままだったので、呪印の力でメガトンパンチになってしまった。奥歯をガタガタいわせながら、きりもみ回転で三メートルほどぶっ飛ぶハタヤマ。血反吐を吐いてとても痛そうである。
 ハタヤマは腫れあがった右頬を抑えながら、よろよろと手をついて身を起こした。
「な、なにすんだよ……」
「なんでいきなり姿を消すんだよ! なんで相談しなかったんだ! ダチなら、きっと力になってくれたはずだろ!?」
「――っ」
 ハタヤマが、痛みとは別に顔を歪める。
「それは……みんな大事な時期だったし、それにこれはボクの問題でみんなには関係ないから、話しても無駄に途惑わせるだけだし」
「なんで『無駄だ』とか思うんだよ、おかしいだろ! お前の力はよく知らねえし、ダチにもあったことないけど、そんだけ重大な出来事を一緒に乗り越えたんならもう他人なんかじゃねえ!! なのに、なんでお前は『関係ない』なんて言うんだよ!!」
「き、キミになにが分かるって」
「分かるさっ! 間違いなくお前は悪いやつじゃねえ。そんなお前がそこまで懐かしそうに話すダチなら、よっぽど大切なやつらだったんだろ? きっと話を聞いてくれて、一緒に悩んで、考えてくれたさ。他ならぬ、大切なお前のために!」
 過去を語るハタヤマの瞳は、深い追慕の念に染めあげられていた。楽しかった日々を、大切だった人たちを想い、強い未練を薫らせていた。そんな瞳を向けるやつらが、大切でないはずがない。
 ハタヤマはサイトの言葉を聞くたび、ズキズキと心臓の辺りが疼くのを感じた。ついには堪えきれず胸を押さえ、ずるずるとうずくまる。
「お前はどこまでいっても自分のことしかねえ。自分がいなくなることで、ダチがどう思うかを考えねえ」
「うるさいよ……」
「お前が逃げたのは協会とやらの契約からじゃねえ――いずれ必ず訪れる、ダチとの別れって現実だ!!」
「んなことは分かってんだ――っ!」
 激昂寸前で口をつぐむハタヤマ。言い終わる寸前に自らの口を塞ぎ、口をついて出た言葉に驚いている。
 そう、彼もまた――
「失せろ」
「……え?」
 浮き出るような意志の籠もる呟き。サイトはその意味が、すぐには理解できなかった。
「わずかでも人間を信じたボクが馬鹿だった。もう今日でボクはお役御免だろ。用がないならさっさと帰れよ」
「そ、そんな言い方ねえだろ」
 サイトはハタヤマの発する絶対零度の拒絶感に、火が消えたようにかぼそい声で反論した。
 しかし、立ち上がったハタヤマの――射るような鋭い黄金の視線に、二の句を告げず喉が閉じる。
「もう二度と顔を見せるな」
 その言葉を最後に、ハタヤマは追い払うように右手をしっしっ、と払い背を向けた。
 サイトはかける言葉が見つからず、しばしその場で立ちつくす。
「あ、あっと、その……」
「相棒、もう戻ろうぜ」
「デルフ?」
「今のあいつにゃ、どんな言葉も届かねぇよ。あーんな女々しく拗ねちまった野郎にゃあな」
 ……拗ねる? とサイトは意味が分からずハタヤマの背中に目をやった。しかし、ハタヤマは背を向けて佇むのみである。
 このままここにいても埒があかないので、サイトはひとまずこの場は帰ることにした。
「一つだけ言わせてくれよ。――お前の大切なやつらは、きっとお前のこと探してると思うぜ」
「………………」
「今でも、な」
 ハタヤマは振り返らない。
 サイトはその背中を一瞥すると、背を向けてその場を後にした。
 ハタヤマはサイトが去った後、自嘲気味に頭を大樹にぶつけた。衝撃で傷口が開き、額の包帯が赤く滲む。
 しかし、ハタヤマはその痛みよりも、心の軋みが痛かった。

「……あ」
 サイトは頭に冷たさを感じ、胸の前で手の平をかざす。すると、開いた手の平に水滴がぽつぽつと触れるのを感じた。
「ち、降ってきやがった。早いとこ戻らねぇとずぶ濡れになんぞ」
 デルフは急ぐようサイトを促した。
 サイトは来た道が気になるように振り返る。
(あいつ……もう戻ったかな)
 ハタヤマの様子が尋常ではなかったので、とても名残惜しかったが。
 気にしてどうなるものでもないので、サイトは気を取り直し、駆け足で学院へと急いだ。

     ○

「あーらら、雨が降ってきちゃったわん。嫌だわねぇ」
 スカロンが窓辺で天を仰ぎ、どんよりとした雲に覆われ、泣き出した空にため息を吐く。青髭のくせに窓辺で頬杖ついてからに、乙女をきどっているつもりか。妙に様になってるのがまた異様である。
 夕方というにはまだ早く、昼間というにはやや遅い時間。スカロンやジェシカたち『夜の妖精』には、一番自由になる時間だった。
「しちろくしじゅうに、しちしちしじゅうく、ししはごじゅうろく……」
「ジェシカ、あんたなにやってんの?」
 スカロンは一番テーブルで黙々となにかを呟いているジェシカに興味を向ける。彼女は先ほどから、手の平サイズで端っこに穴が空けられ、その穴に黒い紐を通して縛られた長方形の紙の束を、しきりにペラペラめくっていた。
 ジェシカはスカロンに声をかけられ、集中を解いて顔を上げた。
「ん?」
「さっきからなにしてんの?」
「ああ、これ。ハタヤマがくれたの。毎日三回はやれって言われててさ」
 ジェシカが黒い紐をつまみ、スカロンが見やすいように持ち上げた。それはハタヤマお手製の九九用自習カードであった。
 持ち運びやすい大きさの長方形カードに1×1から9×9までの問題を書き、裏面にその答えを用意しておく。これにより問題と答え合わせが同時にこなせるので、一人での学習が可能となる画期的な発明だ。誰が考えたんだろうね。
 スカロンはそれを興味深げに受け取り、じろじろと眺めた。
「へぇ~……良くできてるわねぇ。これなら、たしかに便利だわん」
「でしょ? ほんと凄いよねハタヤマは!」
 屈託ない笑顔でハタヤマを賞賛するジェシカ。スカロンはそんなジェシカを、微笑ましくも危うそうに見守っていた。
 キィ、と店の扉が開き、カウベルが来客を告げる。
 準備中の札がかけてあるので、関係者以外は立ち入らないはずだが……
 ジェシカとスカロンは挨拶がないことを怪訝に思い、二人して音の方へ向いた。
「あ、おかえ――」
 ジェシカがおかえりと言おうとして、息を呑んだ。入ってきた人物は黒いパンツに白いワイシャツなので、一目でハタヤマと分かったのだが。彼の様子が、とてもおかしかった。
 全身ずぶ濡れでぽたぽたと水滴を滴らせ、額に巻いた包帯には血が滲んでいる。なにより、いつも不敵と余裕を称えていたはずの、彼の代名詞である黄金の瞳が、虚ろに力なく細められていた。
「ど、どうしたの!? もう、こんなに濡れて……すぐにタオル持ってくるから!」
 ジェシカはすぐさま我を取り戻し、大慌てで奥に引っ込んだ。ハタヤマのことになると行動が早い。
 しかし、ハタヤマはその後ろ姿をちらりと一瞥しただけで、幽鬼のような足取りでこつこつと二階へ上がっていく。全身あますところなく水を含んでおり、一歩ごとにぐしょぐしょと滲んだ足音が鳴り、床板に靴形が描かれていく。
 スカロンはハタヤマのあまりの豹変に言葉を失い、ただただその姿を目で追うことしかできない。今朝の出がけ、可愛い坊やと連れだって出かけた時には、いつも通りの彼だったのに。いったいなにがあったんだろうか。
「おまたせ――ってちょっと! 濡れたまま戻っちゃ駄目でしょ! 身体冷やすと風邪ひいちゃうわよ!」
 ジェシカが真っ白で大きなタオルを持ってきた頃には、既にハタヤマは屋根裏へのハシゴに足をかけたところであった。ジェシカは世話女房のようにハタヤマの後を追い、屋根裏へ駆けていく。
「……まあ、ここは娘に任せておきましょうかしらね」
 あの子は随分ハタヤマに懐いている。娘の思いビトであるなら、自分の出る幕はない。彼がここに居続ける限りは、娘の好きにさせてあげよう。
 ――たとえ彼に、欠片もその気が無かったとしても。

     ○

 ハタヤマは自分の部屋に戻ると、その中央で立ちつくした。というのも、ジェシカがすぐさま後に続いてきて、彼にタオルを被せたからである。
「まったく、こんなにびしょびしょになって……これは服も着替えないと駄目ね」
 ぶつぶつとそんなことを口中で呟きながら、ジェシカはがしがしとハタヤマの髪を拭く。ハタヤマは特に抵抗せず、ジェシカにされるがままだった。
(これ……おいしい展開かな)
 ジェシカは、内心で思わぬ僥倖にほくそ笑んでいた。商売女である彼女は、男の扱いを心得ている。男心の機微に関しては、得意分野といったところだろう。
 傷心の男は温もりに弱い。このまま優しくしてあわよくばベッドイン、と彼女の脳内コンピューターはかしゃかしゃと高速回転していた。彼女は好機と見れば遠慮せず、そのままガンガンいく質であった。
 軽い女と思うなかれ。飲み屋の女は逞しいのだ。意中の男を手に入れるためなら、できる手だてはなんだって講じる所存である。
 ジェシカはそんな胸中の打算などおくびにも出さず、背後から抱きつくようにハタヤマのワイシャツのボタンを外していく。日々の皿洗いや洗濯など荒れているので、白く細いとはいかないまでも、手入れは欠かしていないつもりだ。そのしなやかな指がハタヤマの胸元をするように踊る。
「……!」
 一番上から順に外していき、ヘソの辺りまで差しかかったところで、ハタヤマがジェシカの指に手を添えた。
 たしかな手応えに頬を紅潮させ、期待に胸を弾ませるジェシカ。
 ハタヤマはジェシカの指を逃れ、おもむろに向き直ると彼女の肩を抱き、唇を奪った。
 ただ重ねるだけの子どものようなキス。しかし、この瞬間を待ち望んでいたジェシカにとっては、それだけで絶頂に至ってしまいそうだった。心臓は早鐘のようにばくんばくんと暴れるし、沸騰したような熱さの血液が全身を駆けめぐる。ジェシカは眼を開けたまま呆然とハタヤマを受け入れ、少しの間、室内の時間が止まった。
 ハタヤマはジェシカを巻き込み、ベッドの上へ彼女を押し倒した。ジェシカは覆い被さられた状態だったが、さしたる抵抗もせず、ハタヤマの両肩に手を添え、期待に胸を高鳴らせながらゆっくりと眼を閉じた。
 しかし。
(……?)
 ハタヤマが動かない。おかしい。ジェシカが彼女の経験則に則してこの後の流れを予想してみると、男が自分の胸やら秘所やらをまさぐりだし、そしてなし崩し的に行為をいたす、のような感じで発展していくはずなのに。
 ジェシカが大量の疑問符を脳内に舞わせていると、不意に唇の感触が消えた。
「あ――っ?」
 寂しげにさえずるジェシカ。続いて両肩の手の感触が離れ、覆い被さっていた重量感が急に失せた。不安に駆られ目を開き身を起こすと、ハタヤマはベッドの横にある一組の机と椅子に項垂れて腰掛けていた。
「ど、どうしたの……?」
「……ごめん」
 なぜ謝るのだろうか。自分はもう受け入れる準備が万端だというのに。
 たたみかけよう、とベッドから起きあがってハタヤマの背中にしなだれかかろうとしたが。その横顔に差すあまりにも濃い悲愁の影に、彼女はなにもできなくなった。
「独りにしてもらえるかな……」
 ハタヤマは、それきりなにも言わなくなった。ただ、肘をついてデコに手を当て、悔やむように顔を伏せるのみ。発する空気は、全てを拒絶しているようだった。
 ジェシカはその背中を見ていると、胸が締め付けられるようだった。知りたい。話して欲しい。なぜ、そんなに悲しそうなのか。自分に打ち明けて欲しい。
 だが。その隙間につけ込もうとしていた自分の姿を思い出し、その言葉を形にして、口にすることはできなかった。
「……後でご飯持ってくるね」
 ジェシカは寂しげに微笑むと、ハタヤマの肩から手を離した。そして床板を開け、ハシゴに足をかけ、蓋を閉じる寸前に一言。
「気が変わったら、いつでも呼んでね」
 ポツリと送られた言葉。これがジェシカにとって、唯一絞り出せたアピールであった。
 そして、ぱたんと扉は閉められる。
「………………」
 ハタヤマはなにも言わない。
 ずっと腰に挿されていたスズキもなにも言わない。それは、かける言葉が見つからないからか、それともまた別の理由か。
 ハタヤマはふと、机の右隅に備え付けた、小さな鏡立てに視線を送った。そこに映ったのは、見る影もなく憔悴した己の顔。
 ハタヤマは無言で鏡立てを伏せた。

 天窓を叩く雨脚の音は、なおも絶え間なく降り続いている。
 雨は、止まない。

     ○

「午前の授業は中止ですぞ!」
 というコルベール先生の一声とともに、学院は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
 どうしてかというと、姫殿下が学院へお立寄りになるからだそうだ。貴族の子とはいえまだ魔法学院すら卒業していない彼らには、姫殿下の姿を直接真近で拝むなど滅多にない機会である。しかも、学院としても総出でお持て成ししなければならないので、全校生徒、職員をも巻き込んだ大騒動となっていた。

「もう、あのバカ犬どこいったのよ!」
 肩を怒らせ、絹のようにしなやかな桃色の髪をとてももったいなく逆立たせた少女が地団駄を踏む。ルイズである。
 彼女は今朝から姿が見えない使い魔の姿を探していた。
「あらルイズ。どこへいくつもり? これから捧げ杖の予行演習なのに」
 大広場へ移動する人波から一人だけ外れようとするルイズの背中に、気だるげな声がかけられた。ルイズはその声に小動物のようにびくっ! と背筋を震わせる。
 ひくひくとこめかみをひくつかせながら振り返る。その声の主は、己の燃えるように赤い毛先を指でくりくりともてあそんでいるキュルケであった。
「な、なななによキュルケ。あんたこそこっちに用でもあるの? 姫殿下のお迎えは全員出席のはずよ」
「バカいわないで! なんでゲルマニア人のあたしが、トリステインの王女のためにお迎えなんてしなきゃいけないのよ?」
 ルイズは言外に『ついてこないで』という意思を込めてキュルケを睨みつけたが、彼女にはどこ吹く風。全く効いていないようだ。
 キュルケは単純にサボりたいから列を抜け出したらしい。
「あたしは校舎裏にでも行ってるつもりよ。それで、あなたはどうしたのよ?」
「………………」
 ルイズはぬぬぬ、としばらく言いたくなさそうに眉間に皺を寄せていたが、しぶしぶといった感じで口を開いた。
「……いないの」
「いない?」
「そう。今朝からあのバカ犬――サイトがどっかいっちゃったの」
 まあ、と口に手を当てるキュルケ。そういえば付き添っているはずのダーリンの姿が見えない。先ほどから感じていた違和感の正体が判明した。
「まったく、昨日は昨日で、帰ってくるなりすぐ横になっちゃうし。今朝だって桶が用意されてるだけで、サイト本人はいなかった。様子がおかしいわ」
「ふぅん。たしかに妙ねぇ」
 サイトはなんだかんだで仕事はサボらないし、重要なときはルイズのそばを離れないよう気をつかっていた。しかし、今日に限っては前倒しになった『品評会』本番だと分かっているはずなのに、忽然といなくなった。
 ルイズはサイトの怠慢に憤り半分、もう半分は心配もしていた。
(はやく捕まえて聞き出さなくちゃ)
 心を乱した状態では、日常の仕事に差し支える。使い魔の悩みを聞いてやるのも主人の務めだ。そんなわけで、ルイズはサイトを探しにいこうとしていたのだ。
 キュルケはそんなルイズを面白そうに眺めた。
「あらあら、きっと怖気づいて逃げ出しちゃったのね。平民だし、裸踊りくらいしかできそうにないから」
「違うわ! あいつはそんなやつじゃない! 今日に備えて、すっごく特訓してたんだから!」
 からかうように右の口の端をつりあげるキュルケに怒鳴り返すルイズ。
 思い出すのはあの練習風景。あの時のサイトは、もうフーケ戦のようにむやみやたらと無思慮に剣を振り回すような状態ではなかった。定石を学び、練習を重ね、意思のある体運びができるようになっていた。
 それに、わたしは知っている。たとえなにも思いつかなかったとしても、サイトはなにも言わずに逃げ出すような意気地なしではない。なにがあろうと逃げず、退がらず、立ち向かってくれるはずなのだ。なぜなら、わたしの使い魔なのだから。
 キュルケはルイズの剣幕にやや驚き、にやにやしながら彼女を見下ろし、一言。
「ま、そこまで言うなら楽しみにしてるわ。あなたの使い魔の『特訓の成果』とやらを、ね」
 イヤミったらしく『特訓の成果』の部分を強調し、手をひらひらさせて去っていくキュルケ。
 ルイズはいっー、と遠ざかる背中に歯を剥くと、自分もその場を後にした。

     ○

 一方その頃、サイトは風の塔の屋上で寝っ転がり、流れる雲をぼんやりと眺めていた。
「相棒。おいあいぼー。こんなところで油売ってていいのかい? 本番は今日なんだろ?」
 デルフが問いかける。心配そうにではなく、どちらかというと事実を確認するような調子だが。
 サイトは答えた。
「いいんだよ。そんな気分じゃねえし」
 サイトは昨夜からずっと考えていた。頭を回転させすぎて寝つけず、知恵熱寸前まで身もだえした。しかし、答えが見つからない。
 ――あの時、どんな言葉をかければよかったのだろうか。それをずっと悩んでいる。
「相棒が気にすることじゃねぇだろ。ありゃ、あいつの問題だよ」
「そういうわけにもいかねえよ。あいつの逆鱗に触れちまったのはたしかなんだから」
「逆鱗……ね」
 意味深なデルフの呟きにはとりあわず、サイトはなおもぼけっと空を見上げる。しかし、雲の形をソフトクリームやらわたあめやらに見立てても、気はまぎれるが気は晴れない。
 あんなこと言わなければよかったのか、だが言わなければ言わないでハタヤマのためにならない。圧倒的な圧力の前に、まず逃げ出すなんて間違っている。だが、それ自体はやつも悩んでたみたいだし……
 考え出すと止まらない。堂々巡りだった。
 不意に、頭上を大きな影が横切った。
「お?」
「ありゃ竜だな。しかもとびっきりでけぇ」
 デルフがサイトの疑問符に反応する。サイトは身を起こし、立てひざで座り込んだ。
 デルフいわく竜らしい影は、頭上でぐるぐると旋回している。
「この世界に来て、初めて竜なんて生き物見たけどさ。すげえよなあれ」
「どのへんがだい?」
「でけえし、ごつい。そしてすげえ」
「よく分からんね」
 語彙の少ないサイトでは、それぐらいしか言い表せなかった。彼の世界で大きな飛影など飛行機ぐらいしかなかったので、あんなに大きな生き物が飛んでいるという事実が感動ものだった。
 一月前のフーケ戦では気にする余裕がなかったが、なんと竜の背中に乗ったのだ。地球人類史上初の快挙である。ハルケギニア人では知らんけど。
 思考をこねくり回しすぎたサイトは、しばし放心してその竜影を追う。
「……ん?」
 しばらく眺めていると、サイトはあることに気づいた。なんというか、影がどんどんでかくなってきているのだ。
「なあ、デルフ。あれ、なんかどんどん近づいてきてる気がするんだけど」
「『気がする』じゃなくて、実際にきてるな」
 竜影は風の塔上空を大きく旋回していたが、だんだん軌跡を螺旋に変えて高度を下げ始めていた。そして円の直径が縮むごとに下がる高度は比例して増大し、遂にはロケットのように一直線で落っこちてくる。
 しかし、着弾予定地点には当然サイトたちがいるわけで。
「ぬおー! 敵襲敵襲、エマージェンシー! 本部応答頼む、メーデー!」
「はよ逃げろ相棒! 肉塊になっちまうぞ!」
「ぎょぇえええええええっ!!!!」
 サイトは恐怖に慌てふためいた。このままでは急速落下から生じた衝撃波でミンチになってしまい、三分クッキングでお前はミートボールだ、なんてことになりかねない。
 そうこうしてる間にも、影は急速に『降って』くる。なんだか、キーンという風切り音まで聞こえてきた。
「――速ぇ!? ヤベぇ、間に合わねぇ!!」
「跳べAIBO――ッ!!」
 サイトは遮二無二ハリウッドダイブをかました。当然ながら無敵はつかないが、なんとか着弾予定地点からは抜け出せたようである。
 サイトが飛びのくと同時に、爆音と暴風が吹き荒れた。
「間一髪だな相棒」
「あーもう、なんなんだよこの展開!」
 屋上でいじけていたら竜が降ってきたでござるの巻。いったいなにが始まるのだろうか。
 もうもうと舞った砂埃が晴れると――そこには。
「きゅいー♪」
「……なんだ、お前かよ」
 深い蒼色の瞳に、青い鱗の風竜がいた。
 サイトは記憶を探る。たしかこの竜はタバサの使い魔で、シルフィードとかいったはずだ。
 サイトは警戒を解いた。
「あんまびっくりさせんなよな。というか、リアルにヤバかったし」
「きゅい?」
 下手すりゃ風圧で吹っ飛ばされて、打撲やら骨折やらしていたかもしれない。とっさにデルフを掴んで呪印を開放したから踏ん張れたものの、サイトでなければおそらく重傷を負っていただろう。
 サイトはそれを咎めようとしたが、シルフィードがあんまりにもつぶらな瞳で小首をかしげるため、毒気を抜かれたようにため息を吐いた。
「……まあ、お前に悪気はねえんだよな」
「きゅいー」
 タバサにも世話になったし、その繋がりでこいつも無下にはできん。このでかさでも子どもらしいから、叱りつけるのも可哀想だ。そう思い、サイトは溜飲を下げた。
 サイトはシルフィードの隣に腰かけた。
「はぁ――……」
「きゅいきゅい」
「あん? なんだよ?」
 サイトが盛大に肩を落としていると、下げた頭をつつかれた。見上げると、シルフィードがアゴで頭をこつこつしてきている。構って欲しいのだろうか。
「やーれやれ、おしめえだな相棒」
「はあ?」
「風竜に気ぃつかわれてんじゃねえか」
 デルフにそう言われ、まじまじとシルフィードを上から下まで見直すサイト。シルフィードは変わらずつぶらな瞳で、なおもサイトを見下ろしている。
 その眼が、なんとなく「元気出せ」と言っている気がした。
「そっか。俺が落ちこんでたから、お前なりに元気づけようとしてくれたんだな」
「きゅーいきゅい」
「分かったよ、悪かった。ありがとう」
 なんも分からんけど礼をいうサイト。こういうのは深く考えたら負けだ。猫に話しかけるのと一緒で、伝わっているかどうかなんてどっちでもよく、自分にとって都合良く解釈していればいいのである。
 そのまま一人と一匹(+一本)はぼんやりと黙っていたが、やがてサイトが口を開いた。
「――なあ、シルフィード」
「きゅい?」
「俺、昨日地雷踏んじまったんだよ。
 ……つっても本物の地雷じゃなくて、対人関係のあれこれなんだけど」
 きょとんと首をかしげるシルフィード。サイトはそれを、言葉が理解できないことからきたものだと受けとった。しかし実際には、彼女の知識に『地雷』というものが存在しなかったからだったりする。そんなものは、まだこの世界で発明されていないのだ。
 そんなこととはつゆ知らず、構わず話し続けるサイト。彼はシルフィードをただの『幻獣』としか認識しておらず、木か石に語りかけるが如く、昨日の出来事を話し始めた。
「おい相棒、そいつは」
「なんだ?」
「……いや、なんでもねぇや」
 デルフは風竜の真実をサイトに伝えようか言いよどんだが、結局止めた。その真意は、彼の相棒では今以上の進展は望めないから新たなきっかけを求めたのか、あるいは、単にそのほうが面白そうだったからなのか。とにかく、デルフはこの場を静観することに決めた。
 サイトはぽつぽつと語る。知り合いの金眼の青年の身に起こった出来事、そしてそれに言及したせいで友を傷つけてしまったことを。
 シルフィードは、最初は大人しく耳を傾けていたが、やがて立ち入った話に入るにつれて落ち着きがなくなり、ついには竜顔でも分かるくらいに呆然とした様子になった。
 サイトはそんなシルフィードのことなど欠片も気づかずに話し続ける。
「――で、俺は『てめーは逃げてるだけだ!』ってずばりぴしゃっと断言しちまってさ。
 あいつ、怒っちまった」
 今でも自分が間違っていたとは思わない。それだけ大事な人たちがいるなら、ちゃんと顔をあわせて話し合うべきだ。サイトはそう思っていた。

 ――しかし。サイトはこのとき、自分のことを『棚上げ』していた。
    それはデルフもシルフィードも、そしてサイト自身でさえも気がつかない不変の事実。
    それに彼が気がつくことは、おそらく独力では不可能に近いだろう。

「ん?」
 サイトは己の左手の甲を引き寄せる。今、なにか妖しく輝いたような気がしたが……
「どうした相棒?」
「いや、なんでもない」
 非常にどうでもいいことのように思えて、そんなことは捨て置くことにした。それより今はハタヤマのことである。
「あいつの問題もなんとかしてやりたいけど、それよりまずは仲直りしたいんだよなー」
「相棒。おそらくその考え方で兄さんと接すると、ほぼ100%溝が深まると思うぜ」
「はあ? なんでだよ」
「あの兄さんは下手な同情を毛嫌いしてるみたいだからな。
 『余計なお世話』の一言で片づけられちまうよ」
 デルフはこの一ヶ月のやりとりで、ハタヤマの思考回路をある程度把握していた。
 まず、ハタヤマは極度の自力本願信仰者であり、他者に借りを作りたがらない。それは先日、とある事件に巻き込まれたから修行日数を減らしてくれと頼まれたとき、サイトの『手伝おうか』という好意の言葉をやんわりと断ったことや、何事か頼むときには必ず謝礼を払うことから見てとれる。基本的に、彼は自身が他者になにか頼むことを、他者にとって全て迷惑になると感じているのだ。だから、自分の問題には誰も関与させないし、助力も求めない。自分ができないことは他者に頼むが、その際必ず『手間賃』を握らせる。
 そして、普段は対人関係において非常に外向的であるが、ある側面では極度に内向的だ。その『極度な一面』とは、主に『自分に降りかかる某かの不幸』。それは、昨日の独白ではっきりと感じられた。ハタヤマは賢いが、それゆえに物事を難しく考えすぎるきらいがある。元来が悲観的な性格らしく、それゆえ自身の中で想定した様々な結末のうち最悪の結果だけがどんどんと肥大化してしまい、きっとそうなるに違いないという病的な疑心暗鬼に陥ってしまうのだ。
 なぜ、そんな思考回路になってしまったのかは分からないが……おそらく、よほど酷い環境で生きてきたのかもしれない。だが、それだとあそこまで情が深く、真直ぐな性格であることの説明がつかない。そういった環境で育った生き物は、総じて性格が破綻してしまうものだが。
 ハタヤマは性格が捻じ曲がってはいるが、どこかに一本の太い線を持っている。道徳や倫理に一定の理解を払い、『してはいけないこと』は決してしない。性根は腐っていないのだ。しかし、それがまた歪な感覚を引き起こす。
 デルフはハタヤマという『生物』に、ある種の研究対象のような強い興味を惹かれていた。
「きゅい――!」
「ぬわあっ!?」
 シルフィードは一声鳴くと、大空へ高々と飛び去っていった。あまりにも唐突な彼女の行動に、風にあおられ驚くサイト。
「な、なんだったんだ?」
「……相棒。こりゃ、まさかのファインプレーかもしれんぜ」
「え? どういうことだ?」
「んー? んふふふふふふ」
 おかしそうに笑うデルフを、若干引き気味で見下ろすサイト。キャラに合わない笑い方で、非常に気持ち悪かった。
 いつ芽吹くか、どんな花を咲かせるかは定かでないが、面白い不確定要素(イレギュラー)が混ざったものだ。
「ま、果報は寝て待てっつーだろ。次に会ったときも、今まで通り接すりゃ大丈夫さ」
「ほんとかよ。なにもしなくていいのか?」
「心配しなくても、兄さんは相棒よりかは長生きしてる。自分でネジ巻いて立ち上がるだろうよ」
 サイトはこれまでだましだまし逃げていたハタヤマの心に、小さな波紋を投げかけた。それは、自身だけの力では、振り返られなかった過去だろう。それだけで、サイトは十分に仕事をしたのだ。
 当のサイトは意味が分からず、首を傾げるばかりだが。
(この後どうなるかは、兄さん次第だな)
 眼をそらし続けた問題に対面し、歯を食いしばって立ち上がるのか。それとも、また逃げ出してしまうのか。
 デルフはハタヤマの選ぶ『答え』が、今から待ち遠しくて堪らなかった。

     ○

 皆が校門に集い、姫殿下の王女行列に歓声を湧かせて持て成している頃。
 人気の絶えた学院の隅、宝物庫がある校舎の前でそこを見上げる人影があった。
「おめでたい奴らだよ。警備も残さず総出でお出迎えなんてさ」
 普段かけている眼鏡を外し、タレ眼がちだった柔和な眼(まなこ)はきつくつりあがっている。長い緑髪を適当に縛ってまとめている彼女は、誰あろうミス・ロングビル――『土くれのフーケ』その人であった。
 彼女はあの後ずっとお宝を『奪い返そう』と機を窺っていたが、警戒が前より厳重になってしまったので、タイミングを掴めず歯軋りする毎日を送っていた。
 彼女にとって、『破壊の杖』は既に彼女の所有物。奪われたなら奪い返さねばならない。でなければ、『土塊のフーケ』の名折れなのだ。
「しかし、どうしたもんかねぇ」
 フーケは忌々しげに眼前の塔を睨みつける。そこはかつて、彼女が自慢の土人形(ゴーレム)で風穴をぶち開けた部分だった。
 しかし、その傷跡は跡形もなく塞がれており、何重にも『固定化』がかけ直されている。これでは、たとえスクウェアクラスの攻撃魔法をぶつけたとしてもびくともしないだろう。
 フーケ自身も、研鑽によりトライアングルまでなら土限定で使えるが、その程度でこの堅牢な宝物庫の壁を打ち破れるとは到底思えなかった。
 あのときはヴァリエールの小娘が魔法でヒビを刻んでいたが……
「今回も同じ手を、なんてのは無理だろうしねぇ」
 そもそも、あの小娘がこの場で魔法を使う理由がない。あのときは子ども同士のくだらない諍いで魔法勝負をしていたようだが、そんなことがそうそう都合よく何度も起こるわけもなく。
 フーケは早々に打つ手なしであった。
「まあ、しょうがないねぇ。どの道これほどのチャンスなんて、今後おめにかかれないだろうし」
 あのハゲ変人の言うことがたしかであれば、物理的な衝撃に弱いという欠点は克服されていないはず。どれだけ『固定化』を強めようと、魔法の欠点は早々に補えないものなのだ。
 これが塔の再設計にコルベールが一枚噛んでいたりしたら、やれ鉄の棒を格子状にして耐久面を向上させようとか、宝物庫の壁面部分には鉄板を間に仕込んでから『固定化』をかけようとか、色々びっくりどっきりアイディアを織り込んでくれたのだろうが。残念ながら、学院はそこまでこっぱげ先生を評価していなかった。
 発明家は不遇が常である。
「一度は破った宝物庫……あまり私を舐めるんじゃないよ」
 姫殿下の視察という『アクシデント』に見舞われたため、品評会の開始は午後にずれ込んでいる。
 狙うのであればそこしかない。
 フーケはその時を待ち焦がれるようにニタリと唇を歪ませると、音もなくその場を後にした。

     ○

 この日のために組み立てられた白い舞台。その前には木製の長椅子がずらっと並べられ、さながら体育館で行われる全校集会のような様相を見せている。
 まだ春の終わらない肌寒い野外広場で、生徒たちは己の使い魔の一芸を披露していた。
 演目はニードルラットが針を飛ばしてダーツの真似事をしていたり(百発百中)、でかい芋虫が糸を吐いてどでかいキャンパスに絵を描いたり、バグベアーが「このロリコンどもめ!」と言わんばかりに眼を発行させたりと様々だ。各々趣向を凝らした芸で、己が使い魔を見せびらかしている。
 それを観客席のさらに後ろ、一段と高い位置に据えられた豪華な椅子に腰かけた王女――アンリエッタ姫が興味深げに、時折口に手を当て大げさに驚き、その一喜一憂に学生たちはまた盛り上がっていた。
「――どーこいったのよあのバカ犬ぅー!!!!」
 ……失礼。約一名盛り上がっていない生徒がいたようだ。冒頭からずっと使い魔(サイト)の行方を捜し求めていたルイズは、憤然やるかたなく廊下の壁をバンと叩く。
「――~~~~っっっ!!」
 そして奔った予想以上の痛みに、右手を抱いて身悶えた。ひ弱なもやしっ子である。
 彼女は数時間以上休みなくずっと探し続けていたのだが、残念なことに成果はあがっていないようだ。教室にもいない、部屋にもいない、食堂にも、校舎裏にもいない。まったくあのバカ使い魔は、いったいどこへ行ったのだろうか。
 彼女が彼を見つけられないのは、探索範囲に理由があった。彼女は階段を上るのが面倒なので、あまり広い範囲を探してはいないのだ。そしてサイトは風の塔―四属性の塔の中でも、もっとも背が高い―の頂上で、うだうだごろごろくだを巻いている。探索範囲が一致していないので、見つかるはずがないのである。
 ちなみに、サイトは学院の周囲を取り巻く城壁とそばに生える木、そして風の塔を足場にした三角とびで瞬時に屋上へ上がれたりする。お前は猿(ましら)か。
「どうしよう、このまま私の順番が回ってきたら……」
 ルイズは想像する。いよいよ自分の名前が呼ばれ、皆が自分に注目する。しかし、その時送り出すべき使い魔は隣に居らず、関心の瞳は好奇へと変わっていく。その中心にさらされる、自分。しかも今日は姫殿下が――
 ルイズは、想像を絶する羞恥と絶望に身震いした。このままでは不味い。なんとしてもそれだけは避けなければ。
 だから、さっきからずっとサイトを探しているというのに、あのバカはどこにもいやしない。たとえ出番に間に合ったとしても、今夜は鞭打ちフルコースよ……と、ルイズは瞳を妖しく爛々と輝かせた。
「………………」
「ふふふ、泣き叫んでも許してあげないんだから……」
「………………」
「だ、だだだ駄犬には躾が必要よね……って、タバサ?」
 ゆんゆん電波を受信していると、横から肩をぽんぽんと叩かれた。ルイズが正気に戻って向き直ると、青髪の騎士(シュヴァリエ)がそこにいた。
「ど、どうしたのよこんなところで? あなたの番は終わったの?」
「……さっき終わった」
「そ、そう。でも、それなら席に戻らないと」
 ルイズはどこまでもマイペースなタバサにたじろぎながら、必死に言葉のボールを投げた。タバサはこちらから話題を振らないと、延々気まずいお見合いを続けることになりかねない。
 ルイズの問いに、タバサはぽつりと答えた。
「騒がしい」
 小脇に抱いた本を指して、そう呟くタバサ。ルイズは意味が分からずにはあ? と眼を丸くした。出番が終わったことと騒がしいことが、いったいどう繋がるのだろうか。
 タバサはルイズの様子にしばし思考をこねくり回し、彼女なりに説明した。
「順番は終わった。もう、あそこに残る理由がない」
「……ああ、そういうことね」
 要するに、タバサは他の誰がどんな使い魔を呼び出したかなどどうでもよく、そんなことより本が読みたいらしい。しかし、観客席はミーハーな学生たちで溢れていてやかましいから集中できない。だから、部屋に戻って静かに本が読みたい、と。
 ルイズは、今自分がいる場所が、学生寮の廊下だということを思い出した。
「あなたは、なぜここに?」
「え?」
 ルイズが、謎解きのようなタバサの思考を読み解いていると、タバサが彼女に話しかけてきた。タバサが自分から話しかけることなどほぼありえないので、ルイズは大層驚いた。
 しばし放心していると、不思議そうに自分を見つめるタバサの澄んだ瞳に気づき、はっと意識を戻す。
「ねえタバサ、サイト知らない? 今朝から姿が見えないの」
「……知ってる」
「えっ!? 教えて、どこ、あのバカはどこにいるの!?」
「風の塔の屋上」
「――はぁ!? なんでそんなところにいるのよ、今日は大事な日だって分かってるはずなのに!!」
「………………」
 火を吹かんばかりの勢いで怒るルイズ。気の弱い人間が見たら卒倒しそうな形相をしている。
 タバサは考えた。話自体はシルフィードから聞いている。しかし、その内容はみだりに言いふらすべきものではないだろう。たとえどうでもいい相手とはいえ、無意味に事を荒立てるような振る舞いはすべきではない。
 ルイズに関しても、なにも知らない仲ではない。そんな彼女が困っているのに、無視して素通りするのも悪い気がする。
 自分にできることはないか。タバサはそんな思考を脳内で躍らせる。それは、今まで全てに無関心、不干渉を決めこんでいた彼女の、薄らとした変化の兆しであった。
 タバサは廊下の窓を開け、透き通るような口笛を吹いた。すると、いくばくも待たずに青色の風竜が駆けつける。
「乗って」
「え?」
「連れて行ってあげる」
 風竜の背に飛び乗り手招きするタバサ。ルイズはあっけにとられてタバサと風竜を交互に見たが、やがて我を取り戻し、タバサの手をとって窓枠を蹴った。
 サイトの受難、その爆弾の起爆まであとわずか――

     ○

「ミス・ヴァリエール!」
 がやがや騒がしい広場に響き渡る、こっぱげ先生の加齢臭交じりの声。いや、どんな声かと訪ねられたら困るけど。
 舞台は進み、いよいよルイズの番が回ってきたのだ。
「ミス・ヴァリエール! いないのですか!? 次はあなたの番ですぞ!」
 声を張りあげて呼び出しをかけるが、名前の主は現われない。やがて、『現われないこと』を曲解した観衆たちが、根も葉もない噂話をざわざわと始めようとしたが。
「ミスタ! ルイズは使い魔と最後の打ち合わせをすると言って、どこかへ行きましたわ! あたしが伝言を受けました!」
 そんな無責任な雑言のヴェールを切り裂くように、一際大きな声があがった。キュルケである。
「むむ、ミス・ツェルプストー。そういった事は早めに言いなさい。というか、そんな大事な言付けは本人が私へ伝えに来るべきで……」
 キュルケは艶かしくしなを作りながら、人波の中心を進む。スタイルの良さも相まって、その破壊力は抜群だ。
 キュルケはコルベールのそばで足を止めると、胸の谷間を強調しながら、上目づかいで囁いた。
「申し訳ありませんわ。あたし、今の今まで自分の演目のことで頭がいっぱいで忘れていましたの。許してくださらない?」
 胸元のきついシャツから、垣間見える褐色の谷間。コルベールは慌ててそっぽを向くも、悲しいかな、男の性で横目を血走らせて目を離せなかった。
 この世界にもあった、『だっちゅーのポーズ』。
 え、なに、例えが古い? 分かりやすいからいいじゃないか。
「つ、次からは気をつけるように! ミス・ヴァリエールは一番最後に回します!」
 取り繕うように声を荒げ、勢いだけで軌道修正するコルベール。年甲斐もなく頬を赤らめる様子は、元々心許ない威厳が、彼の生え際に残された希望のごとくはかなくも奪われてしまっていた。悲しい。
 それをほくそえみながら、キュルケはため息を吐く。
(まったく、なんであたしがこんなことを……)
 本来なら、七代前からいがみ合うヴァリエール家の女にこんなことをしてやる義理などないのだ。全てはダーリンのため、主人の『ゼロ』のせいで彼が不当に貶められないための、『優しいあたしの気づかい』なのだ。ああ、なんてあたしって気が利くのかしら!
 キュルケはルイズのことなど、ぶっちゃけなくてもどうでもよかった。

 観客席よりさらに後ろの賓位。
 天幕の下にある豪奢な座席に腰かけた姫殿下は、様々な想いが入り交じった吐息を漏らした。
(ルイズ……)
 わたくしの幼い頃からの親友。彼女は覚えているかしら。わたくしを、まだ親友と呼んでくれるかしら。
 どんな使い魔を召喚したのだろう。なぜ最後に回ったの? なにかトラブルでもあったのかしら。
「アンリエッタ様。どうかなされましたか?」
 身を案じるようなマザリーニ枢機卿の声に、姫殿下――アンリエッタは思考を切った。
 幼友達の名を聞いてから、ずっと彼女のことを考えてしまう。
「なんでもありませんわ」
 内心の全てを折りたたみ、仕舞いこんで、アンリエッタは王族の笑みを返す。
 彼女は、自らの臣民たちに手を振って応えながら、親友の出番を待っていた。

     ○

 広場の方が騒がしくなってきた。
 品評会はたけなわを迎え、盛り上がりは最高潮に達しているようだ。距離の離れた風の塔屋上にまで、歓声が届いている。
「相棒、そろそろマジでやばいぜ。娘っ子ほっといていいのか?」
「………………」
 サイトは思考を巡らせる。もし俺が行かなかったら、ルイズは赤っ恥をかいてしまう。涙目でぷるぷる震えながら、それでも気丈な態度を崩さないご主人様の姿が瞼に浮かぶ。
 ――可愛いかもしれん。
「まあ、そんなことも言ってられないよな」
 一生に一度の学校行事で、そんな思い出を作らされるのはあまりにも不憫である。サイトはこれ以上ご主人様のトラウマを増やさないため、重い腰を上げた。
 寝転がっていた足を丸め、手を使わずに跳ね起きる。
 と、同時に。
「お、おぉ?」
 重々しい衝撃音が鼓膜をたわませ、ぐらぐらと周辺の地面が揺れる。サイトは一瞬、自分の尻が地震を起こしたかと心配になった。
「んなわけねーだろ馬鹿」
「心を読むなよデルフ!?」
「アホなこと考えてねーで、あれ見てみ、あれ」
 サイトは脳内のボケすらつっこまれてしまったことに不平を感じながら、デルフが示す方向を見やる。
 するとそこには、塔壁にジョルトをかました姿勢で固まっている、二十メートルくらいありそうな土人形がいた。
 犯人はそれだけで分かる。あんなでかい土人形で宝物庫を襲撃するやつなんて、そう何人もいてたまるか。
「あいつ――性懲りもなく!」
「手薄になったところをリベンジ、ってとこかね」
「ジョルトはカウンターじゃねえとただの強パンチだぞ!」
「なんなんだよそのツッコミは……」
 無駄で間違ったボクシング知識をひけらかしながら、サイトは屋上のへりに足をかけた。
「おい相棒。あんなのに構ってっと、本気で娘っ子の番に間にあわねぇぞ」
「だからって、見つけちまったのに見て見ぬふりできねーだろ。それに、舞台でお遊戯するよりも――『土塊』捕まえた方が、箔になるってもんだろ?」
「……へへ、違ぇねえや」
 サイトはそっちの方が楽しいしな、と悪戯小僧のように笑う。その点についてはデルフも同感だった。
 サイトの高揚を思念で感じ、共鳴するように高ぶっていくデルフ。それと共に、左手のルーンは輝きを増していく。
 サイトはデルフを握り直すと、引き絞った弓のように勢いよく地を蹴って空中へ飛びだした。

     ○

「ちぃっ、固いねぇ。こりゃ、骨が折れそうだよ」
 現在進行形で“サイレント”を張り直しながら、フーケは悪態を吐いた。なにせ、塔壁の手応えが前回の比ではない。固すぎである。
 どうやら反省を踏まえて、より強固で堅牢に仕立て上げたらしい。彼女にしてみれば迷惑な設計であった。
 しかし。
「……やはり、弱点を克服しきれてはいないね。この感じなら、“鉄腕”(アイアン・フィスト)で貫けそうだ」
 素材を金属にすると音が殺しきれなくなるのであまり使いたくはなかったが、それでなければ破れないのなら仕方ない。穴を空けてから、迅速に『破壊の杖』を奪還し、速やかに逃走すれば問題ないだろう。
 ――自らの所有物を取り返すから『奪還』なのに、後ろの形容詞が『逃走』なのは、染みついた日陰者の癖なのだろうか。
 フーケは杖を繰り、ゴーレムの右手を鉄に“錬金”すると、極限まで振りかぶって塔壁へ打ち出した。 
「――?」
 破壊的な轟音、そして崩壊。という光景が描き出されるはずだった。なのに、現実にはなんの音も響かないし、砕けた石の破片も舞わない。
 フーケは不審気に眉をひそめ、突きだしたゴーレムの右腕を確認した。
「なっ……!?」
 フーケは目を疑った。突きだしたはずのゴーレムの右腕、その肘から先が――無かった。駆動を妨げないように鉄化しなかった肘から後ろの岩石部分に、鋭利な刃物で切り落としたような断面を残して、忽然と消失していたのだ。
 いったいなにが、と思う間もなく背後から振動。“サイレント”で音は封じられていたが、わずかな地響きを感じ取る。
 フーケは弾かれたように衝撃の震源を追う。そこには虚しくも手だけになった鉄腕と、その上に悠々と足を組んだ『憎たらしいあいつ』がいた。
「よう、久しぶりだな! 会いたかったぜ!」
 なんとも気さくに手なんぞ振ってくる糞ガキ。生憎こっちは顔も見たくなかった……いや、会いたくはあったのだが。もう一度相対して、完膚無きまでに叩きつぶしてやりたいと、ずっと夢見ていた。
 一度はぎりぎりまで追いつめたが、思わぬ邪魔が入り覆されてしまった勝敗。今度こそこの手に勝利を掴む。
「奇遇だね。私もだよ……『ガンダールヴ』ッ!!」
 猛禽のように眼をつりあげ、熟成に発酵を重ねた狂おしいほどの怨念を籠め、高々とゴーレムを『跳躍』させた。当然足は鉄化済み。一息に踏み潰す。
「――ぬ゛ぉおおおお!!!? そんなんありかっ!?」
 まさかこれほどの巨体がスタンプを決めてくるとは予想だにせず、サイトは目を剥いて驚愕し、降りかかる影から逃れようと、必死でデルフを握りしめる。
 呪印の輝きと粉砕音。宝物庫周辺は、瞬く間に土煙で包まれた。

     ○

「……?」
 ふとアンリエッタが気づく。
「どうなされました姫様?」
「いえ、なにか聞こえませんでしたか?」
 マザリーニは耳を澄ませる。しかし、聞こえてくるのは喧噪と、頭の薄い教師の注意のみである。
「気のせいではございませぬか? 私にはなにも聞こえませんが」
「そうなのでしょうか……」
 アンリエッタはそういって舞台へ視線を戻したが、内心は釈然とせず、ずっとその音が気にかかっていた。

     ○

「っぶねぇ~……」
 四つんばいのように身を起こしたサイト。回した首の先にあったのは、ヒビだらけの地面と隆起した岩盤、そして黒々とした光沢を称えたゴーレムの両足であった。
「ひゅう、間一髪だな。良い反応だ相棒」
「そりゃどうも」
「でも――」
 デルフの逆接に、はっとゴーレムを見上げるサイト。ゴーレムはフーケの杖の動きに合わせ、間髪入れず左拳を今まさに振りおろさんとしていた。
 悲鳴を上げる暇さえ惜しみ、クラウチングスタートを決めるサイト。間を置かず、背後から強烈な音と風を感じた。
「相変わらずちょこまかと……避けるんじゃないよ!」
「アホか! こんなもん受けたら死んじまうだろがっ!!」
 腕で、足で、執拗に攻撃の手をゆるめないフーケに、怒鳴り返しながらサイトは考える。とりあえずヤバかったので右腕を切り落としたが、その後のことをなにも考えていなかった。その右腕はすでに回復され、攻撃の密度はさらに増している。
 むやみやたらに斬りかかるのはダメだ。前回の記憶では、俺が剣を振り抜くより、フーケの“錬金”のほうが速かった。同じ事を繰り返しては、同じ轍を踏んでしまう。
 消極的に避け続ける俺の様子に、フーケはモグラ叩きをやめた。
「そうそう、あんたの能力はそれだけじゃなかったねぇ。まあ、このままでも負ける気はしないけれど……」
 フーケは力ある言霊を紡ぎ、己がゴーレムに魔法をかけた。それが引き起こした変化にサイトは絶句する。
 なんと、ゴーレムの全身が黒く染まり、陽光を反射し始めたのだ。
「あんた、鉄は切れないんだろう? ――なら、これで盤石だね」
 獲物をいたぶる愉悦に浸るように、くつくつと喉を鳴らすフーケ。彼女はゴーレムの全身を鉄化し、万に一つの可能性すら摘み取ってしまう気なのだ。
 サイトは苦々しく顔を歪める。これでは、刃が通らない。万事休すか――
 その時、彼の脳裏に親しきヒトの声がよぎった。

 ――考えろ

「……?」
 心に響くような言葉。それは、この一ヶ月、何度となく語り聞かされた教え。
 フーケは絶望したこちらの姿を楽しんでいるのか、すぐに仕掛けてくる気配はない。
 サイトは心に耳を傾けた。

 ――戦いに勝つために必要なのは、力でも、技でもない。知恵だ
   なにがあっても諦めるな。誰よりも、なによりも『頭』を使え――

 あの男は、ことあるごとにそんなことを言っていた。俺が「じゃあ修行なんていらねえじゃねえか」と言うと、ゲンコツを落としてこうも言った。

 ――努力しないやつは勝てないよ
   力を蓄え、技を磨き、その先を分けるのが『知恵』なんだ――

 力があるのは当たり前だ。技がなまくらでは土俵にも上がれない。
 常に向上心を忘れず、研鑽を積み、それら全てを持っていることが大前提である。そして、そこから先――それらが及ばない、刹那の明暗を分けるのが知恵なのだ。
 一ヶ月だけの師匠――ハタヤマは、いつもそう語っていた。
「……へへ、そうだよな」
 変な別れ方をしたから、昨日のことなのに懐かしく感じる。
 あいつは言っていた。無敵なやつなんてどこにもいない。誰でも、どこかに弱点を持っているものだ。しかし、絶望し、思考を放棄してしまうと、そのわずかな光明に気づけなくなってしまう。だから、最後まで眼を閉じるな、と。
 俺は今日まで努力した。研鑽を積み、様々なことを教えられて、きっと前より強くなった。だから、俺は負けない。そしてなによりも。
「あっさり負けちまいでもしたら――あいつに会わせる顔がねえんだよ!」
 サイトは弱気を勇気で祓い、フーケのゴーレムに吶喊した。といっても無思慮に剣を振るうわけではなく、手が痺れず、デルフが折れない程度の力加減で、ゴーレムの硬質な肌を撫でる。
 振り降ろしてきた前腕、駆け抜けた脛、そして股を抜けざまの尻。サイトは力を緩め、確かめるように打ってみたが、どこも耳障りな金属を奏でるだけだった。
「あはははははっ!! ほれ、どうしたのさ!」
 フーケは間断なく拳と足の雨を降らせる。しかし、呪印の力を解放したサイトには止まって見えるほど遅く、緩慢なものであった。
「あの時の勇ましいさはどこへ行ったんだい!」
 サイトはデルフに思念を飛ばす。
(おい、デルフ。なんとかできねえか?)
(無茶言うな相棒。俺ぁへし折れるのはゴメンだぜ)
(そうじゃない。負けられないんだ、知恵を貸してくれ)
 懇願するような切実な思念。デルフは鍔を鳴らした。
(どうしてそこまでこだわるね。相棒はよくやったよ。このまま応援が来るまで粘れば、間違いなくお前さんはお手柄だ)
(それじゃダメだ、ダメなんだ)
(なぜ?)
(俺はあいつから手ほどきを受けた。ということは、俺はあいつの弟子にあたる。その俺がこそ泥なんかに手こずったとあっちゃ、師であるあいつの腕前まで疑われちまう。――ダセぇところは見せられねえんだ)
 あいつなら、鮮やかにケリをつけるはずなんだ、とサイトは瞳に闘志を燃やす。まだ、彼の心は折れていない。それどころかどうすれば勝てるのか、強大な敵を前に、内なる炎を滾らせていた。
 デルフは感じた。今代の使い手は、きっと誰よりも強くなるだろう、と。
(――いいだろう。俺の命、お前に預けるぜ。その代わり、絶対勝てよ?)
(たりめーだ)
 デルフは気持ちばかり前を行くサイトに、微笑ましい気持ちを抱いた。
(俺の経験則からいくとな。ああいった手合いは、長い時間戦闘行動がとれねぇ。なぜかっていうと、素材の扱いにくさに比例して、精神力の消費が増大するからだ)
 土系統のメイジが行う“人形操り”は、材質が重ければ重いほど、固ければ固いほど難易度が上がる。人間が酒樽を持ち上げるのことや、スプーンを折り曲げることに苦労するのと一緒だ。重すぎる重量は必要な精神力を増やし、柔軟性のない材質は精密な動作を妨げる。その結果すぐに疲れ、戦闘不能に陥るのだ。
(だが、相棒はタイムアップを望まない。だから、その戦法はとれねぇ。それに、向こうもそんな欠点は対策済みらしい)
(そうなのか?)
(ああ、明らかにあの動きはトライアングルじゃねえ。だが、噂じゃフーケはトライアングルクラスだ。ということは、だ)
 デルフは確信を持って呟く。
(やっこさん、どっかで手を抜いてやがる)
(手を、抜く?)
(そうだ。機敏な動きを実現するために、どこかを土のまま残してる。つけいる隙があるとすればそこだ)
 大きく後方へステップし、振りおろされた腕をすかす。もうもうと立ちこめる土煙の向こうで、『土塊のフーケ』は嗤っていた。
(それを見つけられりゃあ相棒の勝ち。見つけられなけりゃ……)
(俺の負け、ってか)
 土煙の向こうで巨体が揺れる。俺を倒そうと向かってくる。
 ――上等じゃねえか。
 サイトは萎えぬ気迫を背負い、土煙を見通すように睨みつけた。

     ○

 宝物庫がある塔の上空。
 眼下で繰り広げられる大激戦に、ルイズは錯乱気味に叫んだ。
「な、なななにやってんのあいつは――っ!!!!」
 まさにそれだ。その一言に凝縮されている。
 ルイズの魂からの叫びは、ここに来るまで考えていた一切合切の不平不満全てを、簡潔に言い表していた。
「朝からあちこち探し回って、やっと見つけたと思ったら戦闘中!? なに、あんたなにがしたいの!? ご主人様のあずかり知らぬところで、いったいなにをやらかしてんの――っ!!!!」
「………………」
 タバサはおもむろに杖を突き出し、狙いを定めて呪文を紡いだ。
「“デル・ウィンデ”」
 杖の先から迸る風の奔流。それは不可視の軌跡を描き、ゴーレムの肩の上――フーケへ向けて殺到する。
 しかし、その死角からの攻撃は、寸前でゴーレムの右腕に遮られた。
「不意打ち失敗」
「た、タバサ」
「なに?」
「あなた、意外と容赦ないのね」
 タバサは隣に座るルイズに顔を向け、ぬぼーっとした眼をぱちぱちさせ、一言。
「問答無用」
 たしかに、賊相手に話し合う必要などないだろうが。ルイズは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「タバサ、あいつの近くに下りて! サイトを助けなきゃ!」
「……それはお勧めしない」
「どうして?」
「下手をしたら、全滅する」
 前回はフーケが物陰に隠れており、隙を作るのも容易かった。だが、今回はフーケ自身が戦場に現れ、サイトの動きを追っている。それだけに、前回以上に警戒が強く、反応も機敏だと予想できた。
 そんなところへ着陸し、サイトを拾い上げ、再離陸するという三行程の隙をさらせば、間違いなくフーケにそこを狙われる。豪腕一撃で全員仲良く挽肉化なのは想像に難くない。
「そんな! このままじゃサイトが――」
「たぶん、大丈夫」
「え?」
「見て」
 タバサが身を乗り出して、地上に向けて指を指す。ルイズは促されるままに覗き込んだ。
 サイトは吹き荒れる暴力を全て見切り、危なげなく回避している。どちらかというと、かすりもしないことにフーケの方が焦っている感じである。
「おそらく、彼はフーケより強い。勝てはしなくても、負けもしない」
「まさかっ!? だって、サイトはただの平民で、バカで、私の犬で……」
「彼はずっと努力していた。積み上げた鍛錬は、嘘を吐かない」
 その証拠に、サイトの動きにはなにかしらの意図が見え隠れしているように見えた。彼は、なにかを狙っている。狙う余裕がある。
 タバサの確信を持った言葉に、ルイズは胸に暗い火が灯るのを感じた。
 積み上げた鍛錬は嘘を吐かない? なら、わたしはどうなるの? 誰よりも努力しているのに、なぜ成果が現れないの?
 そんな怨嗟のような想いが、頭の中にふつふつと、泡のように浮かんでは消える。積み上げた努力が嘘を吐かないのなら。鍛錬が必ず報われるのなら。わたしは、いつ『救われる』んだ?
「ルイズ」
「……――っ!」
 タバサの呼びかけで正気に返る。目の焦点を戻すと、心配そうな青い瞳と眼があった。
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない」
 いけない。最近情緒不安定になっている。こんな醜い、醜悪な感情を表出させれば、わたしの立場はどうなるか。気を引き締めなければならない。
 ルイズは軽く首を振り、脳内の恨み言を追い散らした。
「タバサ、どうしたらいい? わたしたちはなにもできないの?」
「………………」
 いつも通りの、いや、いつもよりやや伏し目がちに黙り込むタバサ。あのゴーレムの色合いを見れば、サイトが手を焼く理由もなんとなく分かる。こちらが魔法を乱射して隙を作っても、彼はそれを生かせないだろう。どうすればいいだろうか――
「ルイズ――っ!!」
 遥か地上、危険渦巻く戦場から、彼女を呼ぶ声が上がった。

     ○

 状況に変化があった。
 遥か上空から放たれた風の魔法が、横合いからフーケを襲ったのだ。
 フーケはとっさにゴーレムの右腕を盾にして防いだが、こちらを警戒しつつも、憎々しげに横目で空を睨んでいる。
 サイトもそれに習い、空を見上げた。
「あれは……シルフィード?」
 そこにいたのは、タバサの使い魔の青い風竜であった。しかも、その背中から覗くあの青とピンクの髪の毛は……
「相棒、よかったな。ご主人様のお出ましだぞ」
「ちっ、厄介な時に出てきやがって」
 サイトは頭が痛くなった。
 ルイズはこういった状況では俺の身を案じてくれるが、そのせいで無茶なことををしがちだ。下手をすれば、今回も飛び降りてきかねない。
 サイトはフーケの動向を窺いつつも、ちらちらと上空に注意を払った。
「娘っ子がもうちっと賢けりゃ、相棒はこんなにハラハラせずに済むんだがなぁ」
「まったく、あいつ、頭は良いんだけど……」
 魔法の知識に関しては、ウィキペディア並につまってるんだが。……ん? 魔法の知識?
「これだっ!!」
「ぬぉっ!? な、なんだ相棒?」
 サイトは思い切り息を吸い込むと、手でメガホンを作り叫んだ。
「ルイズ――っ!! こいつの弱点を教えてくれ――っ!!」」
「おいおい……んなアバウトな」
 しょうがねえだろ、藁にも縋る思いなんだ。
 などという失礼なことを考えながら、サイトはルイズの返答を待った。

     ○

「ルイズ――っ!! こいつの弱点を教えてくれ――っ!!」」
 『ガンダールヴ』のその叫びを聞いた時、フーケはしまった、と顔を歪めた。
(あのガキ……『土の基本』を知っているのか?)
 じつはフーケが行っているトリックは、土系統に明るいメイジであれば、少し知恵を働かせれば分かるくらい単純なものである。おそらく、ここにギーシュがいればウザいポーズで即答してくれただろう。それぐらい簡単なことなのだ。
 しかし、余所の系統のメイジは、他の属性の蘊蓄については無知なことが多い。自身の属性を至上とし、他の属性を疎かにしがちなのである。まあ、勉強しても相性が悪ければ身に付かないから、ある程度仕方のないことなのだが。
 “人形操り”の基本にして、操作対象が高度になればなるほど絶大な効果を発揮する『技』。しかし、単純であるがゆえに、土系統のメイジですら忘れがちな技術。
 しかし。
(あのガキ、魔法は使えなかったはずだけどね……)
 記憶に残る映像では、あのガキが唱えた魔法はすべからく失敗していた。妙な爆発が起こるだけで、『意志のある事象』を具現できないのだ。
 それだけで考えれば、取るに足らない相手の筈だが。
(あいつは、二つ名が『二つ』ある)
 ルイズは、『ゼロ』という汚名に隠されがちだが、もう一つの通り名がある。主に教師陣の間で囁かれる、彼女の本質を示す通り名。
 その名は――『秀才』。実技こそ入学当初からゼロ点が続いているが、その遅れを取り戻すためか、筆記テストは常に満点。平均得点が一度も百を割ったことがないのだ。その噂は、学園長の秘書であり、教師ではないフーケの耳にも届いていた。
(あいつが噂通りの『秀才』なら、知っている可能性がある)
 それがガンダールヴに伝われば、形勢は一気に不利へ傾く。そうなれば面倒なことになるだろう。
 フーケは、攻撃対象を上空へ移した。ゴーレムの素材から手の平ほどの土を捻出し(それでも大玉転がしの玉くらいある)、さらに“錬金”で鉄に変え、滞空する竜へ投げつけようとして――
「……っ!」
 身の危険を感じ、とっさに左腕を防御に回した。その反動で体勢が崩れ、作りだした鉄球を落としてしまう。
 『ガンダールヴ』が、拳大の石を投げつけてきたのだ。
 弾かれた石はごいん、と鈍い音を響かせ、衝撃で粉々に砕け散る。神の力で投擲されれば、ただの石ころでさえ必殺の威力を纏う。
「余所見してっと危ねーぞっ!」
「ちぃ……めんどくさいねぇ」
 ハタヤマ仕込みの『物投げ戦法』。落ちてる物はなんでも使え、落ちてなくても用意しとけ、だ。
 フーケは一月前と別人になったか、と見紛うほどのサイトの仕上がり具合に、鬱陶しさを増大させた。

     ○

「弱点……?」
 風竜の上でルイズは悩む。いきなりそんなことを尋ねられても、急には答えが出てこない。
「タバサ、あなたは分かる?」
「……『土』のことは、よく分からない」
 タバサの二つ名は『雪風』。その名の通り専門は風であり、土系統は専門外だった。
 タバサが知らないのであれば、自分だけで考えなければならない。
(土系統――たしか、昔本で読んだことがあるはず)
 過去の記憶を掘り返すルイズ。積もった土砂へスコップを突き刺し、発掘した欠片を柔布で丁寧に磨く。そうすると、徐々に輪郭が浮き出てきた。
 昔読んだ、土属性メイジ向けの専門書。ルイズはその中に書かれた一文を思い出した。
(『“錬金”を使ったゴーレム作成は、『空洞』、『表面錬金』など、色々な隠れた技術が編み出されています。その中でも最も簡単で、かつ実用性が高いものに――』)
 思考に没頭するルイズ。タバサはそんな彼女の様子をじっと見つめている。
 数秒ほどして眼に光が戻り、ルイズはまばたきをして再起動した。
 大きく息を吸い込んで、精一杯の声で叫ぶ
「サイト――っ! 『関節』を狙いなさい――っ!」

「関節……?」
(しまった――ッ!)

 意味が瞬時に理解できず、首をかしげるサイト。
 最も恐れていた事態に、顔面を引きつらせるフーケ。
 ルイズからもたらされた情報は、彼らの明暗をくっきりと分けた。
「『関節』か……なるほど、さすがは娘っ子だ」
「お、おい、どういうことだよデルフ。俺にはいまいちよく分からねえんだが」
「駆動域の問題だ。全身を鉄にしたら、伸縮に余計な精神力を使う。やつは人体における健の部分を土のまま残すことで、その負担を軽減してるんだ」
 鉄と粘土、どちらが折り曲げやすいか。そう問われれば、百人中百人が粘土と答えるだろう。平たくいえばそういうことなのだ。
 サイトが落ち着いてゴーレムを観察すると、裏付けるような事実を発見した。
「あ、よく見りゃ光ってないところがある! 黒く塗ってるだけじゃねえか!」
「涙ぐましい努力だね」
 幽霊の、正体見たり枯れ尾花。傍目には仰々しく見えたものも、蓋を開ければそんなものである。真実はいつもショボイのだ。
 フーケは追いつめられたように頬を引きつらせたが、張りつけたように虚勢をふかした。
「は、はん! たとえそれが分かったとしても、易々とやられるわけないだろう! 刃を弾いて、それで終わりさ!」
「――それはどうだろうな?」
 不敵に笑うサイト。フーケはその得も知れぬサイトの発する余裕に、気圧されたようにたじろいだ。
「俺が、お前に、素直に『守らせてやる』とでも思うか?」
「な、なんだい。ハッタリかまそうったってそうは」
 不安に急き立てられ口を閉じられないフーケ。ゆえに、彼女は呪文が唱えられなかった。いや――たとえ唱えられたとしても、結果は変わらなかっただろう。
「――遅え」
 サイトの姿が瞬時にかき消え、次の瞬間にはゴーレムの背後に移動していた。デルフを振り抜いた姿勢で微動だにしない。
 サイトを見失ったフーケは慌てふためき、自身のゴーレムに異常はないか点検する。その結果では、『異常なし』とでた。
「……? なんだい大げさな。格好ばかりでなにもないじゃないか」
「いや。もう『終わった』」
 サイトはそう呟くと、血を払うようにデルフを振って、ゆっくりと鞘に収めていく。
「残念だったなあ――」
 チン、と甲高い音が響いた。
「俺の勝ちだ」
 その瞬間、ゴーレムはバラバラになった。
「――!!!?」
 突如全身が浮遊感に包まれ、反射的に“フライ”を詠唱するフーケ。次に起こるのはドゴドゴと断続的に轟く落下音。眼下を見下ろせば、そこにあるのは細切れにされた己のゴーレム。
 フーケは、なにが起こったのか理解できなかった。
「な、な、な……」
「『足首』、『膝』、『股』、『手首』、『肘』、『腋』、『腰』――いやあ、結構すっかすかだな」
 姉歯設計のゴーレムに、カラカラと晴れやかな笑みを向けるサイト。
 フーケはこの現実が信じられなかった。
(まだ、まだ終わってない!)
 精神力に余剰はある。『破壊の杖』は諦めるとしても、こいつだけはこの場で潰す――
 そう、思ったのだが。
「……! きょ、今日のところは分けだよ『ガンダールヴ』! 次に会ったらただじゃ済まさないからね!」
 小物臭漂う三文台詞を残し、学院外へ飛び去るフーケ。サイトはしばし呆気にとられ、そして気を取り直して後を追いかけようとしたが。
「『土くれのフーケ』を退けた!」
「あの使い魔すげぇぞ!」
「『ゼロ』のルイズの使い魔だ!」
 猛烈な歓声に吃驚して、踏み出した足でたたらを踏んだ。
 振り返ると、生徒、教師、衛士まで入り交じった人垣が、一斉にサイトへ視線を注いでいる。
 百を超える視線を浴びせられ、サイトはかなりびびった。
「な、なに!? こいつらいつの間に来たの!?」
「相棒気づいてなかったんか。『関節を狙いなさいっ――!』の辺りから集まってきてたぞ」
 デルフがルイズの声真似をしつつ説明した。作った裏声がとても鼻につく。どうやら戦闘中に“サイレント”が解け、音が広場へ届いていたらしい。たしかにあれだけ派手にやれば、人も集まってくるだろう。
 サイトはこの場を切り抜けるために、最も適した選択肢を探した。
 その時、またも心の声が浮かぶ。

 ――困った時は、とりあえず吹かしとけ――

 サイトは思わず吹き出した。この場でそんなことしていいのだろうか。
 サイトはにかっとおかしげに笑い、全てを精神の高揚に任せ、大きく声を張り上げた。
「以上、ルイズの使い魔〈平賀サイト〉が贈る、『ゴーレム解体ショー』でした!」
 サイトは舞台役者のように、大げさな身振りでお辞儀をした。
 それを受け、観客たちは沈黙に包まれる。
(やべ、滑った?)
 大げさに吹かしてみたら、地雷を踏んじゃったでござるの巻。なんてことになったら悲惨である。
 サイトは心の声を憎んだ。
 しかし、その心配は杞憂だったようだ。
「「「――オオォオォォオオオオッッッ!!!!」」」
 静寂に包まれたのは一瞬だけで、次の瞬間には、直前の歓声を塗り替えるほどの大喝采が巻き起こる。
 サイトは称賛を一心に受け、照れたように頭を掻いた。

    ○

「――……勝っちゃった」
 ルイズは眼下の光景が信じられなかった。
 サイトが、私の使い魔が、あのバカ犬が。フーケのゴーレムに完勝して、あろうことが喝采を受けている。
 このわたしを差し置いて――
「……ルイズ?」
 タバサの呼びかけにも答えない。それほどまでに、ルイズは自分の世界に没頭していた。
 あのバカはどこまでいくつもりなんだろうか。あいつが輝けば輝くほど、わたしの影が色濃くなってしまう。
 待って、やめて、いかないで。わたしを置いていかないで――
 震える身体を自らで抱きしめる。
 ルイズは、華々しい功績を刻み続けるサイトの姿に、どうしようもない焦りを感じた。

     ○

 時は進み、日が落ちて。
 ところ変わってここは〈魅惑の妖精亭〉。
 今日は月に一度の大掃除の日で、従業員は皆清掃作業に駆り出されている。
 その中でハタヤマはモップを持ち、ぬたくらとホールのモップがけをしていた。
「………………」
 従業員たちはハタヤマのことを、皆影から気にしていた。なぜなら、なんというか、いつもと雰囲気が違うからだ。
 様子を窺う者たちの中でも、ジェシカとスカロンは特に彼を気にしていた。
(……やっぱり)
(……調子が戻ってないわねぇ)
 ハタヤマの様子を一言で表すなら、『解脱』だ。悟りを啓いたとでもいうのか、まるで憑きものが落ちたかのように邪気が消えている。
 普段、邪気の塊である彼だから、この状態はかなり異常だ。だからこそ、なにかあったのだろうと思うのだが、彼のあまりにもぽけーっとした表情に、そんな話題は振りづらい。だから、皆話しかけられない。
 そんな視線を知ってか知らずか、なおもハタヤマはぬたくらぬたくらモップを動かしていた。
 そこへ転がり込むように飛び込んでくる来客。扉を開けるのすらもどかしいのか、カウベルが鳴るより速く店内に押し入り、ホールの中心にいたハタヤマの両肩をぐわしと掴んだ。
 レナードである。

「だから、なにかやるときはわたしに一声かけてからにしなさいって言ってんでしょ!」
「んだよ、迷惑はかけてねえだろ! むしろ感謝して欲しいぐらいだぜ!」
「それが問題なのよ!」
 魔法学院の寮の一室では、熾烈な口論が繰り広げられている。
 彼の高まりゆく名声に焦ったルイズと、理不尽な彼女の文句に反発するサイトが怒鳴りあっているのだ。
 これ以上目立って欲しくないルイズと、ルイズのためを思って功績を積み上げるサイト。
 お互いがお互いを勘違いしていて、議論はどこまでいっても平行線だった。
「いい? あんたは、いつもわたしのそばにいればいいの。あんまり頑張りすぎなくていいから」
「……お前さあ、なんでそんなに怒ってるわけ? 使い魔の手柄は主人の手柄なんだろ? じゃあ、素直に受け取ればいいじゃねえか」
「そ、それは」
 言えない。あまりにも力を見せつけられすぎると、自分の惨めが浮き彫りになるからなんて。
 ルイズが言葉に詰まっていると、部屋の扉がノックされた。
「あん? 誰だよこんなときに」
 初めに長く二回、そして短く三回。ルイズはそれを聞いた瞬間目の色が変わった。
 顔をつきあわせていたサイトのことをほっぽり出し、いそいそとドアの鍵を開け、扉を押し開く。
 開かれたドアの先にいたのは、黒い頭巾をかぶった少女だった。
 彼女はそそくさと部屋に入り、“ディテクトマジック”と“サイレント”を唱える。
 そして反応がないことをたしかめると、顔を覆っていた頭巾を脱いだ。
「……? 誰だあんた? いきなり他人の部屋で失礼だな」
「なっ……! バカ、なんてこと言ってんのあんたは! 申し訳ありません〈姫様〉!」
「よいのです、ルイズ」
 美しいワインレッドの髪に、まるで人形のような整った顔立ち、そしてなによりも注目は胸。とてもデカい。
 宵の口の来訪者。その女は、午前の歓迎式典の主役であり、この国の王族、姫殿下。
 アンリエッタ・ド・トリステインだった。


「聞け、ハタヤマ! とんでもない儲け話を仕入れてきたぞ!」
「今日参ったのは他でもありません、あなたに頼みがあるのです」


「相変わらず騒がしいやつだね……くだらない話は勘弁してくれよ」
「頼み……? このような下賤な場所に御身自らいらっしゃるなんて、よほどのことでございましょう。なんなりとお申しつけ下さいませ」
(なんか込み入った話みてえだな)


「とにかく現地へ飛んでくれ! 明日の朝、いや、時間が惜しい! 今すぐにでも出発してくれ! 〈アルビオン〉に!」
「ありがとうルイズ。あなたに、〈アルビオン〉へ向かって欲しいの」


「「――〈アルビオン〉?」」



 そして、彼らはまた出会う。



[21043] 五章内短編
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:19
【 五章内短編 『牛鬼と珍獣』 】



「もーいーかい」
 少女はつむった目を開き振り返った。押さえていたまぶたにまだ闇が残っており、大樹の下ということもあいまって、やや薄暗い。
「まーだだよ」
 声が返ってきた。まだみんな隠れられていないらしい。少女はそれに「わかったー」、と無邪気に答え、また木に顔を伏せて数を数え始めた。
 今日は天気がいい。雨上がりで森はやや寒いくらいの風に満たされていたが、遊んでいるうちにそんなことは忘れられた。数日振りに外で遊べるのだ。少し肌寒いくらいがなんだ。
 村のそばにある落葉樹の森。その中ほどにある、ぽっかりと拓けた広場。そこは『巨人の足跡』と呼ばれており、彼女たちのお父さんお母さん世代からある、子どもたちの遊び場だった。
「もーいーかい」
 少女は顔を上げず繰り返した。今度は、返事がなかった。
 少女はにぱ、と表情を明るくして目を開けた。
「――……?」
 暗い。まるで、急に夜になったのかと思うくらい辺りが暗かった。少女はきょろきょろと左右を見回す。すると、暗いのは自分の周辺だけで、他のところは明るいということが分かった。どうやら背後に『大きななにか』が立っていて、陽光を遮っているようだ。
 少女は不思議そうに振り返った。

 バササッ、と森がざわめき、大量の鳥たちがけたたましい羽音をたてて飛び立つ。
 影が去った大樹の根元に、もう少女の姿はなかった。

     ○

「しけた村だねぇ~」
 ガリア領内のとある村。人口は百に達するかどうかで、未だに藁ぶきの屋根が存在するほどのひなびた寒村である。
 その小さな村の片隅にある、終日閑古鳥の鳴く休憩所にて、ワイシャツの男がぼけっと長いすに座り込んで呟いた。ハタヤマである。
 彼は、本日の戦利品である『妖精(ノーム)の鋏』を検めながら一息ついていた。地図の裏側にある説明文によると、この鋏はどんな糸でも切れる魔法の鋏らしい。
「……どうぞ」
「おお、きたきた! ありがと」
 茶屋の娘さんからバスケットを受け取り、ハタヤマは目を輝かせた。中身はこんがりと焼けたスコーンだ。付け合わせにバターや野苺色したジャムが添えられており、飲み物の紅茶の香りがいっそう食欲を掻き立てる。
 この地方の特産品は穀物らしく、広々とした畑がそこここに点在していた。おそらく秋頃になれば、金色に輝く美しい草原を見ることができるだろう。
 ハタヤマは仕事柄様々な地方に赴くので、その際休憩に街や村へ立ち寄ることがある。そのとき、ただ単に観光するのも寂しいので、茶店に入りお茶を飲む。それがだんだんと習慣化していき、いつしか彼は仕事のたびにご当地の特産品に舌鼓を打つのが趣味になっていた。手段と目的が逆転している。
 しかし、お茶を飲んだらお茶請けも頼むのは至極当然の帰結だろう。なおかつそれが美味いんだから、街へ立ち寄るたびに興味をそそられるのも無理はない。
 ハタヤマは四つあるうちの一つにバターを塗り、かぶりつく。ばりばり。あ、うまいねこれ。
(――しかし)
 バリバリとスコーンを咀嚼しながら、ハタヤマは目を細めた。この村の雰囲気は異常すぎる。
 道を歩く人々は皆俯き気味で元気が無いし、どこかぴりぴりしている感じだ。よそ者の自分に排他的ではないところをみると、人間同士のいさかいが起こっているわけではないようだが。とにかく、村人たちがなにかに怯えているようなのだ。だからといってどうというわけではないが。
 ハタヤマは別に正義感溢れる若者ではないので、自ら進んで厄介ごとに係わろうという気はなかった。
 ふと、ハタヤマは視線を感じて目を落とす。
 すると、三人組の子どもたちと目が合った。簡単に描写すると、デブとノッポとチビである。ずっこけ三兄弟だ。
「なにか用かい?」
 ハタヤマはにこやかに微笑んだ。初対面用の営業スマイルだ。元々みてくれがそこそこなので、黙っていればウケがいい。
 しかし、少年たちはなにも言わず、じっとハタヤマを見上げている。ハタヤマは三対の視線にさらされ、居心地が悪そうに身をよじった。
 しばらくしてハタヤマは気がついた。どうやらこの少年たちは、自分に用はないらしい。
 ハタヤマはすっとバスケットを差し出す。
「食べる?」
 少年たちは顔見合わせぼそぼそと何事か相談したが、ややあっておずおずと手を伸ばしてきた。
 一人が手に取ればあとは早い。バスケットの中身はあっという間に空となり、ジャムとバターは彼らに強奪されてしまった。
 しばらくスコーンを貪り食う少年たちを、頬杖ついて眺めていたハタヤマが口を開く。
「一つ、訪ねたいんだけど、この村はどうしちゃったんだい? 火が消えたみたいにしょんぼりしてるよね」
 少年たちは、口いっぱいにほうばったまま顔を見合わせ、中央の少年(チビ)が進み出た。
「ふふぁっふぁ」
「いや、食べてからでいーから」
 もぐもぐ、ごっくん。
「いなくなった」
「『いなくなった』?」
 ハタヤマは眉をひそめる。
「三日前、俺たちが森で遊んでたら、アンジェリーナがいなくなっちまったんだ」
「あ、アンジェリーナ? 遊んでた?」
「あ、アンはおにだったんだな。ぼくら、かくれてたんだな」
「鬼?」
 要領を得ないチビとデブの言葉に、ハタヤマは疑問符しか浮かばない。目を白黒させているハタヤマの心境を察したのか、ノッポが内容を補足してくれた。
「僕たち、森でかくれんぼしてたんです。アンジェリーナが鬼で、僕らは隠れる側。だからみんな散らばって隠れたんですけど」
「い、いいつまでたってもさがしにこなかったんだな」
「だから、俺らは待ちきれなくて、アンジェリーナを大声で呼んだんだ」
「でも、声が返ってこない。おかしいなって思って、僕らは集まってアンを探したんです」
「けど、アンジェリーナちゃんの姿はどこにもなかった、ってことか……」
 ハタヤマはアゴに手をやり頷いた。なるほど、そりゃたしかに陰鬱にもなるだろう。人間、しかも子どもが神隠しに遭ったのだ。大都市であれば埋もれるだろうが、こんな小さな村では一大事である。
「アンのかーちゃん、あれから塞ぎこんじまった」
「げ、げげんきがないんだな」
「心配です」
 チビはぎゅっと拳を握りしめ、デブは口の周りを食べかすでテラつかせながらもしょぼんとしている。ノッポはアンジェリーナの身を案じているのか、表情も暗く肩を落とした。
 ハタヤマはしばし少年たちを見つめていたが、おもむろに立ち上がった。
「よし。少年たち、この村の代表者の家はどこだい?」
「え?」
 ノッポが顔を上げる。
「ここで会ったのもなにかの縁さ。話だけでも聞いてみよう」
 ハタヤマはへら、とやわらかく笑った。ハタヤマは良い魔法生物ではないが、悪い魔法生物でもない。面倒だからと厄介ごとから距離を置くことはあっても、目の前の悲しげな少年たちを無視するほど冷血ではなかった。利にならないことはしない、と頑なに目をそむける偽悪者とは違うのだ。
 しかし、少年たちは表情を曇らせた。
「でも、お兄ちゃん……」
 少年たちはまじまじとハタヤマを見た。どっからどう見ても平民の兄ちゃんである。これがマントを羽織った貴族ならまだ見込みはありそうだが、ただの流れの平民にアンジェリーナを見つけられるとは思わなかった。
「これは内緒なんだけど」
 ハタヤマは少年たちの心境を察しているのか、にやりといたずらっぽく笑い、しゃがみこんで声を潜めた。
「ボクはなんでも屋さんでね。内容が正当で報酬が見合えば、達成率は十割さ」
 嘘ではなかった。ハタヤマは元の世界(アンゴルノア)では非合法のギルドに顔を出し、そこから依頼を受けることで日々の糧を得ていた。そのギルドは『非合法』とはいっても、それは単純に悪い仕事ばかりを斡旋しているわけではない。そこには絶滅危惧種保護を謳う団体から魔女っ娘協会を対象とする妨害工作の依頼もあれば、悪い魔法生物が暴れているという討伐依頼だって来る。あらゆる意味でアングラなのだ。
 金を払えば欲しい情報を集めてくれたりもする。例えば、妖精族の羽は生息地により模様が違い、それが希少種であるほど美しいことから、剥製にしてコレクションするような『良い趣味』の嗜好家たちがいた。そういった魔法生物愛好家(マッドコレクター)の情報を頼んでおけば、入り次第依頼者へ提供される。
 さらに、そこを利用する魔法使い(『ハーミット』と呼ばれている)たちにも一定の傾向がある。そこを訪ねるのは、主に世間ではいわゆる『闇魔法』と呼ばれる魔法の使い手たち――『闇魔法を使わなければ力を発揮できない』魔法使いが利用している。そこは、様々な事情で表では活躍できない魔法使いが集う、吹き溜まりのようなところだった。
 ハタヤマはそこで主に魔法生物の保護、そして犯罪を犯すような『闇に堕ちた魔法生物』の説得及び討伐をメインに活動しつつ、余剰のお金でマッドコレクターの情報を買い、現地に飛んでぶっ飛ばすことを生業にしていた。
「だから心配しないで。きっとその子を見つけてみせるよ」
 ハタヤマはそう言って、少年たちの頭をわしわしと撫でた。

     ◆

 ―― 一年目の手記 一ページ

 素晴らしい。わたしは感動を禁じえない。まこと、この■■■■■■の肉体は最高だ!
 捕獲には随分骨が折れたが、この力はそれを補って余りある愉悦だ。あぁ、これからのわたしの研究生活は、至福に満ちた有意義なものとなるだろう!

     ◆

「はぁー……」
 魅惑の妖精亭、終業後のホール。
 ハタヤマはどっかりとテーブルに足を投げ出し、椅子の背もたれにもたれて重々しいため息を吐いた。そりゃもう十キロの分銅が乗っけられたような、のっぺりしたため息だ。
 理由は簡単。村長さんに門前払いをくらったからである。
「いくら刺々しくなってるからって、話くらい聞かせてくれてもいいじゃんかー……」
 手持ち無沙汰に、手の中で香水の瓶をもてあそぶ。村長はハタヤマが貴族ではないと分かると、怒鳴りつけるように追い出した。いわく、『貴様も人攫いの仲間だろう!』だそうだ。
 どうやら近隣の村々でも同じことが起こっているようで、彼らはこれを人身売買目的の誘拐だと踏んでいるらしい。取り付くしまもなく追い返され、なすすべなくハタヤマは帰らざるを得なかった。
 この事件への関心はある。しかし、当事者たちに自分は必要とされていないようだ。
 ならば背を向けるか。
「………………」
 香水の瓶を窓から差し込む月明かりに透かす。以前、帰路の異臭をごまかすために購入した、鈴蘭の香りの一品である。その日は役に立ったものの、ハタヤマには元来そういった習慣などないので、減ることもなくポケットの中で眠らされている。
 ジェシカにあげようか、とも考えたが、おそらく彼女はそういった贈り物を貰い飽きているだろうから却下した。
 明日も少年に修行をつけなければならない。地図だって手元に集まりつつある。やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないことはいくらでもある。
 だが。
「――まず、実態を把握しないとね」
 ハタヤマは席を立った。
 少年には週三、四回に日数を減らしてもらおう。宝の地図は後回しだ。野郎など待たせておけばいいのだ。
 ハタヤマは、ここで手を引くことなど考慮の端にもなかった。必要とされていない? いや、そんなことはない。自分は彼らの前で口にしてしまったのだ。「心配しないで」、と。
 ハタヤマは普段軽薄ではあるが、約束は守ろうと努力する男でもあった。

     ○

 三日後。
 ハタヤマは前回の村よりややリュティスに近い街に足を向けた。人が多いところには情報が集まりやすいだろう、という安直な理由である。しかし、手がかりも無く闇雲に捜査を進めるという、砂漠で胡麻を探すような無謀よりかは有効だろう。
 情報屋の場所はレナードに聞いてある。そこがダメなら酒場にでもいけ、と投げやりに手をひらひらされた。
 情報屋は細い大通りよりさらに細い裏路地、その一番奥にいた。
「『この世で一番高い物は』」
「『タダと自由と宵越しの金』」
 『客』用の合い言葉を返すと、情報屋――黒いローブを被った老人が警戒を解いた。まかぶに被ったフードと薄暗さのせいで顔は見えないが、口元に蓄えた白いヒゲと、背の低いひん曲がった背から、高齢だろうと予想された。
「なにが知りたい?」
「ここ一月の失踪事件の数、そして世代の統計を知りたい」
 老人はしわがれた声で、囁くように語り始めた。失踪の数は先月の倍に増え、そして被害者のほぼ全ては若い女らしい。
「ほぼ? 残りの比率はどんな感じなんだい?」
「若い男が数名。借金苦。おそらく借金の型に攫われたのだろう。それより多かったのは子ども。確認できただけでも七人が忽然と姿を消している。若い男より多いのは珍しい」
「子どもはそんなに珍しいのかい?」
「攫って金になるのは一に若い女、二に若い男、三四が無くて五に横並びだ。子どもはむしろ金を食う。市場もそれほど広くない」
 男は炭坑にでも放り込んで肉体労働、女は言わずもがな……なので、それ以外の年代は取り扱いが難しい。幼すぎては成人と同じような環境にぶち込めないし、押し込んだとしてもすぐに体を壊してしまう。唯一高値で売れる好色趣味な貴族様たちも、そうそう新しい物を買い入れてはくれないし、なによりその類は容姿に左右されすぎる。なので、子どもの被害は思いのほか少なかったりするらしい。
 ハタヤマはそれら始めて知った知識を、興味深そうに聞き入っていた。
「だが」
 老人は続ける。
「子どもが流れたという情報は、儂の耳には届いていない」
「へえ」
 この老人はここら一帯の情報屋の元締めをしているらしく、その気になればどこそこで誰が買われたという情報まで集められるらしい。その耳を持ってしても、子どもの行方は分からないようだ。
「あんたの耳に入らないってことは――人買いに攫われたわけじゃない、ってことかな? それこそ、煙のように消えちゃったとか」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」
 老人は右手を差し出した。面会時間終了である。
 ハタヤマは、興味本位で藪をつついた。
「ところで、その人買い集団って――」
 ハタヤマは途中で言葉を切り、固まった。じゃり、と小石をする音とともに背後から殺気を感じた。しかも一人、二人……と、気配は続々増えてくる。これは、蛇どころか熊が出てきてもおかしくない雲行きだ。
 冷や汗が一筋たらり、と流れた。
「好奇心は猫をも殺す。そう思わんかね?」
「……はは。それもそうだね」
 ハタヤマは引きつった笑顔で懐から革袋を取り出し、老人の手に乗せた。革袋はじゃら、と耳障りな金属音をたてる。
 老人は革袋の口を覗き込むと、僅かに口元を歪めたような気がした。
「また来るがいい。金さえあればなんでも揃えよう」

 ハタヤマは表通りに出ると、その足で酒場に向かった。期待の情報屋では肝心の部分が判然としなかったので、なにか手がかりの一つでも掴みたかった。
 あの老人が情報を隠している、という可能性はほぼ皆無だ。なぜなら、もし情報を持っていれば、理由をつけて吹っ掛けてくるはずだからだ。相手は情報屋、全てを金で解決する生き物である。
「キミはどう思う?」
 ハタヤマは注文したナポリタンをフォークでつつきながら、ごそごそと腰に手をやると、布でぐるぐる巻きにされた短剣を取りだした。
 つい最近ハタヤマの相棒になった、魔法剣の〈地下水〉である。
「どうもこうもない。子どもは特殊だってだけで、犯人像は影も形も見えん。
 なにも分からんのと同義だな」
「はっきり言わないでよ~」
 ぐでっとテーブルにたれるハタヤマ。分かってはいるが、認めたくないらしい。せめて糸の先っぽだけでも見つかれば、手繰り寄せられそうなものなのに。
 完全なる手詰まりだった。
「そういや、〈地下水〉って名前呼びづらいよね。それ本名なの?」
「いや、誰かが勝手につけた風評だ。面倒なんでそのまま拝借してる」
「銘はなんなの?」
「さあね。忘れたよ」
 地下水は自分のことすら興味がないようで、欠伸が聞こえてきそうだった。こりゃいかん、とハタヤマは身を起こす。
「ダメだよそんなの! ボクが名前つけてあげよう!」
「は? 別に構わんのだが」
 珍しいくらい感情が乗ったハタヤマ。地下水は意外そうに遠慮した。
「出生も知らず、名前もないなんて……そんなの、悲しいじゃないか」
 沈痛な面持ちで俯くハタヤマに、地下水はぽかーんと呆気にとられて絶句した。
 この男は時々、本当に時たま、こんな切ない顔をする。スカロンとジェシカのやり取りを見て羨ましそうに目を細めたり、嫌々引き受けたはずの修行のためにあれこれ用意したり。斜に構えた無頼を気取っているが、中身がまるで伴わない。世の無常を客観視しているくせ、心中は情で溢れているのだ。
 なにがあれば、こんな歪なヒトが出来上がるのか。地下水はこの特異な宿主に興味が尽きなかった。
「そうだな……〈スズキ〉! いい名前だ、これにしよう!」
「お、おい宿主? それは本当にいい名前なのか?」
 なんとなく、自分の名前をつけられたハウスとか持ってそうな名前である。地下水……もとい〈スズキ〉は、なんとも微妙な気分だった。



 ―― 三年目の手記 五十八ページ

 違和感は日に日に薄れ、ついにわたしは完全なる融合に成功した! 馴染む、この身体がよく馴染むぞ!
 その副産物として、精神力が大幅に増幅されたようだ。これならば、わたしの悲願が叶う日は近いかもしれない。



「騎士さま、騎士さま! お願いしますじゃ!」
 ハタヤマがデザートにチーズケーキを頬ばっていると、にわかに騒がしくなった。騒ぎの元に視線を向けると、なにやらご高齢のおばあさんとジェントル貴族がもみあっている。
 ハタヤマはプリンが食べたかったのだが、この世界のプリンはなんとしょっぱかった。なので彼は目にした時に違和感を覚え、口にした瞬間たいそう驚いた。そもそもぷるぷるしてなかったのだ。不思議である。
 なんとなしに聞き耳を立てていると、どうやら平民のおばあさんが、ひっつめ頭でピエール髭の貴族に討伐依頼を切願しているらしい。
「領主様にも見放されて、もう頼りはあなたさましかおらんのですじゃ!」
「んなこと言って、くるやつみんなにそう言ってるくせに」
「やかましゃっ!!」
 酒場の店主が茶化したのを一喝するおばあさん。噛みつかんばかりの勢いである。店主はいつものことなのか、ひょいと肩をすくめるだけだ。
 へんちくりんな髭の貴族は、おばあさんを押しのけるようにマントを払った。
「わきまえろ平民が! この私がアイゼンヘルツ家の長男と知っての狼藉か!」
 どうやらこの貴族、この見た目でまだ十台らしい。いや、ぎりぎり二十歳くらいかもしれない。
 それにしてはあまりにも髭が立派すぎるようだが。
「だからこそお頼み申すのですじゃ! どうか、どうかこの哀れな老婆の願いを聞いてくだされ!」
「駄目だ駄目だ、他を当たれ! 貴様のところの領主にでも陳情すればよかろうが!」
「なんども申しているではありませぬか! 領主様は我らをお見捨てになった!」
 貴族の腰にまとわりつく猫背の老婆。騒ぎはいっこうに収まる気配がない。
「……ねえマスター。あれ、なんなんだい?」
「騒がしくてすまないな兄ちゃん。あのばばあ、貴族と見るや手当たり次第に絡みやがる」
 こちとら商売あがったりだぜ、とマスターは苦笑した。
「まあ許してやってくれや。あと数日もすりゃ、諦めんだろう」
「おや、どうして?」
「脅迫状が届いたんだとよ。おまえんとこのむすめをさしだせー! ってな」
 おどけた調子でマスターは語る。それによると、指定された期限は一月以内――もう一週間を切っているらしい。
 おばあさんは娘を守るために、あんなに顔を真っ赤にしているのだ。
「そりゃひどいね。国はなにしてるんだい。領民が危機に陥ってるのに」
「あいつのとこは今にも廃村しそうなしょぼい村だからなぁ。おそらく無視されてるんだろうよ」
 誘拐事件が流行ってるから、その捜査を優先しているのかもしれんが、とマスターは付け加えた。しかし、金にならないからとりあえず後回し、という理由も少なからずあるだろう。なんとも世知辛い世の中である。ハタヤマはおばあさんの事情に深く立ち入るにつれ、正体の知れない煮え湯のような想いが湧き起こり、胸をむかむかさせた。
「お、おい、おい兄ちゃん? ……もの好きなやつだ」
 ハタヤマはおもむろに立ち上がり、言い争いの中心へ歩み寄っていった。
「後生です、後生でございまする! なにとぞこの哀れな年寄りめの願いを……!」
「えぇい離せ! これ以上無礼を働くのであれば、この私の杖を持って――「やあやあお二方、いったいなにをなさっておられるのかな?」」
 すがりつくおばあさんに懐から杖を抜こうとしている貴族。そんな一触即発の物々しい空気をものともせず、颯爽と割って入る影があった。
 普段のようなだらしない顔をさらに薄っぺらくして貼り付けているが、それはハタヤマそのヒトであった。
「やや! いけません、いけませんよ旦那! ここは皆々様が日頃の鬱憤を忘れて楽しむ憩いの場! いわば殿中と同義! ここは酒を飲むところであって、杖を抜くところではありません!」
 一息にまくし立てるハタヤマ。突然乱入してきた男に、二人は面くらいたじろいだ。
「ささ、旦那! そんな物騒なもんしまってしまって! クールダウンクールダウン!」
「う、うむ……」
 通り一遍の軽薄な笑顔で、勢いにまかせ押し切るハタヤマ。これは彼が場を煙に巻くときの常套手段だった。
 ハタヤマは自分がいい加減そうな見た目をしていることに気づいている。なので不真面目という仮面を被ることで、それを最大限に生かし、活用しているのだ。
 まあ、こいつは普段から不真面目ではあるのだけれど。
「ねえオババ様。さっきから見てたけど、随分切迫してるようじゃないか。ここは一つ、ボクにもその悩みを分けてくれないかい?」
「なんじゃお主は。ワシはお主になぞ用はないわい! おとといきゃーせっ!」
「うわ、ひどっ」
 小声でちょっとだけ傷つくハタヤマ。歯に衣着せぬ物言いは、時として他者を傷つける。
 しかしこの程度でへこたれる訳にはいかないので、傷心を押し隠し笑顔を修復した。
「いいじゃないか減るもんじゃなし。人類皆兄弟! ラヴ&ピース!」
 人類じゃないくせに人類を説くハタヤマ。世も末である。
 おばあさんはハタヤマを怪訝な顔で窺っていたが、やがて折れたようにため息を吐き、語りだした。
「……わたしらの村に、脅迫文が届いた「あ、その辺知ってるから巻きでお願い」」
 いきなり話の腰を折られ、ぎょろりと柳眉を吊り上げるおばあさん。ハタヤマは口にした後でしまった、と口元を手で多い、苦笑いしながら先を促した。
 おばあさんはこほん、と咳払いをする。
「十年前にも同じ事があった。これは〈ミノタウロス〉の仕業なのじゃ!」
 おばあさんは切々と語る。いわく、十年前も同じ事があったこと。そしてそれを行きずりの騎士さまに退治してもらったこと。今回指定されたのが十年前の洞窟と同じだったこと。だから、今度もミノタウロスに違いない、とツバを飛ばして力説した。
「ふーん……ちなみに、その文は手元にあるのかい?」
「疑っちょるのか!!」
「い、いや、そういうわけじゃないよ。参考までに。ね、ね?」
 まだまだ不満を溜め込んでそうだったが、おばあさんは渋々懐から獣の毛皮を取り出してテーブルの上に広げた。
 そこには血文字で、『次に月が重なる晩、森の洞窟前にジジなる娘を用意すべし』と書かれていた。
 ハタヤマはそれを見ると、とてつもなく渋面を作った。まるで抹茶の粉末を口に含んだみたいに。
「これを発見した場所は?」
「村の掲示板じゃ」
「時間は?」
「朝じゃ。その際、村人数名が大きな牛頭の化け物を目撃しておる。これはもう間違いない!」
「………………」
 ハタヤマの表情が、これ以上ないってくらいしわくちゃになった。
 怪しすぎんだろそれ、と言いたくなる心情をグッと堪え、ハタヤマは頭を振って気持ちを切り替える。そしておばあさんにちょっと待つようにジェスチャーを送り、髭貴族の肩に絡んだ。
「旦那。こりゃ、美味しい話ですぜ」
「なにを言う貴様。私の肩を抱くという無礼は見過ごすとしても、これのどこが美味しい話だ。ミノタウロス討伐など、百害あって一利もないわ!」
「おや旦那。ひょっとして恐れておられるので? 貴族様が、所詮は牛畜生程度の相手に怖じ気づいていると?」
「ば……ッ! 馬鹿を言うな! わ、私はただ、単独でそのような危険を冒す愚を語っておるだけだ! 断じてそのようなことはない!」
 髭はそんなことを言ったが、ハタヤマはその右手が震えて汗ばんでいるのを見逃さなかった。やっぱり恐いんじゃん。
「それがそうでもないんですぜ」
「なに?」
「よく見てくだせぇ」
 ハタヤマは首だけで血文字を指す。
「……? あれがどうした」
「おかしいじゃないですか。ミノタウロスといやあ、迷宮を守る番人、狂える雄牛。そんなやつが、わざわざ村の掲示板にあんなもんを張り付けるような知能を持ち合わせてますかねぇ?」
「む」
「それに、嫌に達筆だ。まるで人間が書いたみたいに」
「なにが言いたい?」
 ハタヤマはにやりとほくそ笑んだ。
「こりゃ、十中八九人間の悪知恵ですぜ。それもかなり計画的だ」
「何故そう思う」
「獣がやったにしちゃ手が込みすぎてる。人物を指定するって事はまず村を下見してるってことだ。なら、そのときに姿を目撃されないはずがない。掲示板近くで目撃されるようなやつならね。しかも、名前まで知ってるときた。これでますます疑問が深まる。いったいどうやって調べたんですかねぇ?」
「………………」
「そのミノタウロスさんに『協力者』でもいない限り、間違いなくこれは人間の仕業だ」
 髭貴族は考え込んでいる。ハタヤマは相手が揺らいでいるのを感じ、最後の仕上げに取りかかった。
「あれあれ? ちょいと小耳に挟んだんですが、そういえば最近誘拐事件が流行ってるらしいですねぇ」
「そうだな」
「しかも、被害者には若い女性が多い……これって、偶然でしょうか? どう思います旦那?」
「………………」
「これってもしかして――同一犯だったりして」
 ハタヤマは髭貴族の耳元で、絡みつくような声で囁く。もしここに真実の姿を映す鏡があれば、彼の体にはおそらく悪魔のような耳と尻尾がひょろひょろしていることだろう。
「名を上げるチャンスですよ。旦那のお力で一網打尽にしちまいましょうや」
「し、しかし」
「大丈夫ですって。もしやつらにメイジが付いていようと、悪漢に堕ちた弱小メイジなど、高貴なる『貴族』である旦那の敵じゃありませんて」
「――そ、そうか?」
「もちろんですとも! もし首尾良く捕まえられりゃあ、恩賞の他に勲章も与えられるかも」
 ぽんぽんなでなでと背中をさすりながら、あらゆる角度で煽動するハタヤマ。こういう手合いはおだてればチョロい。
「旦那のお力を世に知らしめるまたとないチャンスですぜ。ここは美味しくいただいときましょうや」
「――そうだな。この私が、アイゼンヘルツ家の長男、ヴェリンデールが、卑しき盗賊もどき如きに後れをとるはずがない」
 髭は胸を炙るよく分からない興奮に、にやけた面を隠せない。ハタヤマはそれを確認して、すっと後ろに退いた。
 完全にハマった。
「よかろう老婆よ。この私、アイゼンヘルツ家の長男、ヴェリンデールが、貴様の願いを聞き届けてやる」
「本当ですか!? ありがとうごぜえますだ!!」
 諸手を挙げて喜ぶおばあさん。どうでもいいが、いちいち自分の家柄と名前を名乗らないとしゃべれないのか貴族は。
 めんどくさいやつである。
 ハタヤマは意気揚々と店を出て行く髭と、それに追従するおばあさんを、ばいばーいと言わんばかりにひらひらとナプキンを振って見送った。
「驚いたな兄ちゃん。あの堅物をその気にさせるなんて、どんな魔法を使ったんだ?」
「ま、その辺は企業秘密ってことで」
 ハタヤマはマスターの軽口に軽く手を振って答え、デザートの残りをつつくために席へ戻った。
「珍しいな宿主」
「ん?」
「宿主ならてっきり、お礼目当てに飛びつくかと思ったんだがな」
 ハタヤマが可愛い婦女子の危機と聞いて真っ先にナイトをかってでなかったことに、地下水は不思議そうにしていた。
「あー。まあ、別にボクが行ってもよかったんだけどさ」
 事実、喉元まで出かかっていた。だが、それを止めたのは。

 ――お願いします! アンを見つけてください!

「……先に依頼を受けてんのに、後から来た依頼を優先するのはフェアじゃないでしょ」
 その呟きは、ただ単に職業上の誠意から生まれたものなのか。それとも、別の何かに突き動かされた結果なのか。
 それは、ハタヤマ自身にも分からなかった。
「そういや、あのばーさんの村の名前を聞くの忘れちゃったな」
 惜しいことをした、とハタヤマは指を弾く。たとえもう滅ぼされたとはいえ、超レア幻獣であるミノタウロスの情報だ。是非ともその住処跡に赴き、己の戦力アップのために死骸でも毛皮の切れ端でもいいから一目この瞳に映して、魔力回路の奥底にあるモンスター図鑑に刻み込みたかった。
「あれはエズレ村のやつだよ。ミノタウロス云々の噂は、俺もちっとは聞いたことがある」
 マスターが気さくに答えをくれた。どうやら厄介者を追い出してくれたハタヤマに親近感のようなものを抱いたようだ。
 ハタヤマはそれを聞くと、パンツの後ろポケットから四つ折りにした地図を取りだし、テーブルに広げた。
「エズレ村、エズレ村っと……ん?」
 ハタヤマは眉をひそめる。
「マスター。この辺で最近誘拐が流行ってるらしいけど、被害があった村や街を知ってるかい?」
「ん? そうだな、ちょっと待て」
 マスターは白布で手を拭いながらカウンターから出てきて、ハタヤマの地図に点を打っていく。
「こことここと、あとここだ」
 ハタヤマは地図に印された点を穴が開かんばかりに凝視し、続いて点と点を線で繋いでいく。
「ミノタウロスの住処は?」
「それは……ちょっと待て。今思い出す」
 マスターは記憶を探るようにこめかみに指を当てたが、やがて地図の一点を指した。
 ハタヤマは村や街を示した点の両端をミノタウロスの住処に繋ぐ。
「………………」
「どうした宿主?」
「――け、剣がしゃべってる!?」
 今更ながらのマスターのリアクションは無視。ハタヤマは沈黙して動かない。
 やがて、彼は真剣な表情で、ゆっくりと顔を上げた。
「なるほどね――分かってきたよ」
「なにがだね」
 ハタヤマの抱いた一つの仮説。それは、地図上に現れたある範囲を元に導き出される。
 ハタヤマは描いた線を指でなぞりながら、目を細めてつぶやいた。

「ボクの予想が正しければ――この件、一筋縄ではいきそうにないね」

     ○

 空が白む頃のトリステイン城下町。
 しんとした静けさが街全体に染みいり、まるで街そのものが眠っているかのような錯覚を覚えそうになる。
 そんな大通りをハタヤマは両手をポケットに入れてすたすたと歩き、布と鋏の看板を掲げた店の前で立ち止まった。
 コンコン。静かだった街に音が生まれる。
 やや間をおいて、木製の扉ががちゃりと開かれた。
「おや、旦那。おはようございます」
「ああ、おはよう。朝っぱらから悪いんだけど、『あれ』はもうできてるかい?」
 団子っ鼻でしょぼしょぼした眼の店主に、ハタヤマは早速用件を切りだす。よほど急いでいるのか、平静を装いつつも足や肩を小刻みに揺すって落ち着かない。
 注文の日から、もう既に四日が経っていた。
「へえ、ここに。ちゃーんとできてますよ」
 店主は店の中に引っ込み、折りたたんだ黒い布のようなものを持ってきた。ハタヤマは待ちかねたようにそれを受け取ると、自分の肩に合わせて広げた。その布の正体は、ベルトだらけの黒いコートであった。
 ハタヤマはいそいそと袖を通し、着心地を確かめるように二、三度体を捻る。するとそれは、まるで長年着古した部屋着のように良く馴染んだ。
 腰、背中など幾重にもベルトが巻かれており、尾てい骨を沿うように皮のナイフホルダーが吊り下げられている。そしてなぜか、薄い陽光を浴びた部分はキラキラと線のような模様が浮かび上がっていた。
「うん、いい仕事だ」
「このような注文をなさったのは、あなたが初めてですよ。随分骨が折れました」
「こんなものを頼んで、しかも急かしてすまなかったね。報酬ははずむから」
「いいえ、それには及びません」
 ハタヤマは地下水、もといスズキをホルダーに挿しながら財布を取り出そうとしたが、店主に制されて動きを止める。
「よろしければ、この鋏をわたくしに譲っていただきたい」
 店主は懐から、素朴ながら宝石で装飾された鋏を取りだした。それはハタヤマがオーダーの際、役立ててくれと貸し与えた『妖精の鋏』であった。
「このような『糸』を取り扱ったのも、このような『鋏』を手に取ったのも、生まれてこの方初めてでございます」
 年甲斐もなく胸が躍りましたぞ、と店主は充実した笑顔を浮かべた。ハタヤマが持ち込んだ注文は非情に難儀なものだったが、非情に職人魂を刺激されるものでもあった。
 ハタヤマは鋏など自分で持っていても仕方ないので、二つ返事で了承した。「旦那とは、末永くお取引したいものですね」
「はは、なんかボクを気に入ってくれたみたいだね」
「旦那は、また『面白いお仕事』を持ち込んでくださる気がしまして」
 店主は思う。目の前にいるこの男は、常人にはない発想で物を創る。今回の『あれ』を糸にして服を仕立てるなど、いったい誰が考えよう。
 平民ならばまず思いつかない、貴族であろうとも一笑に付すだろう馬鹿げた考え。しかし、まともに使うことができれば――
「今後ともご贔屓に」
「ああ、ありがとう」
 ハタヤマは短く礼を告げ、朝靄の中に立ち去った。
 店主はそれを見送ると、拳でも入りそうなほどの大欠伸をかき、一眠りするために店内へ戻っていった。

     ◆

 ―― 五年目の手記 一八二ページ

 この身体を手に入れたことで、研究は目覚ましい進歩を遂げた。
 あと少しでこの理論も確立されるだろう。しかし、最近夢見が悪い。あのような夢を見るなど……いや、ただの悪夢だろう。考えすぎはよくない。

     ◆

 ガリアとの境界線付近にあるエズレ村。以前、ハタヤマが小さな依頼者から依頼を受け、そして追い返されたところである。日も高く昇ったお昼頃、ハタヤマは門前に立っていた。
 コートの『試運転』をしていたらいささかのめりこんでしまい、遅くなってしまったのだ。
「お兄さん!」
 ハタヤマの姿を見つけるやいなや、声とともに駆け寄ってくる少年。彼はたしか三バカ一の長身、ノッポくんである
「やあ、久しぶりだね。今日辺りケリがつけられそう――」
「お、お兄さんお兄さんお兄さん! レオが、ホプキが、帰ってこないんだ!!」
「……?」
 凄い喧幕で捲し立てる少年に、ハタヤマは怪訝な顔を浮かべる。ハタヤマは片膝を立てて腰を落とし、目線を合わせて落ち着かせるように少年の肩を叩いた。
「ストップ。深呼吸」
「そんな場合じゃないよ!」
「いいから。はい吸ってー」
 少年は激昂しようとしたが、覗きこんでくるハタヤマの黄金の瞳の迫力に圧倒され、しぶしぶ呼吸を整えた。
 吸って吐く毎に心音が穏やかになっていく。
「落ち着いた? じゃあ、どうぞ」
「レオが待ちきれなくなって、アンを探しに行ったんだ! 今日で丸一日経つけどまだ戻ってこない!」
 ハタヤマの眼が見開かれた。少年たちが先走ってしまうのは想定外だった。
「ボクは危ないから止めたんだけど、じゃあおまえは待ってろって言って、ホプキを連れてあの森へ……」
 レオとはあの小さい少年のことだろうか。太めの方はそんなにアグレッシブには見えなかった。おそらく、小さい少年の勢いに流されてついて行ってしまったのか。
 ハタヤマは顔をしかめた。
「どうしよう、アンだけじゃなく、このまま二人も帰ってこなかったら――」
「諦めるな。きっと無事さ。ひょっとしたら、道に迷ってるだけかもしれないしね」
 ハタヤマの脳裏に、最悪の結果がちらりとよぎった。だが、今は捨て置いておく。無駄に不安をあおる必要はない。
 言ってから、地元民が道に迷うはずなどないことに気がついたが、ハタヤマは苦笑で誤魔化した。
 少年は意を決したように、ハタヤマの眼を見つめ返した。
「お兄さん……いえ、なんでも屋さん。なんでも屋さんはお金を払えば、なんでもしてくれるんでしょう?」
 少年はごそごそと短パンのポッケを探ると、綺麗なピンク色のイヤリングを取りだした。
「これ、アンが付けてた耳飾り。かたっぽしかないけど……それに、僕のおやつも、おこずかいも全部あげます! 一年分、お母さんに頼んで出してもらうから、だから!」
 少年がハタヤマに縋り付いた。
「アンを、みんなを助けてください!!」
 活気の絶えた村に響き渡る慟哭。全てを諦めた村人たちの中で、この少年だけは友の無事を願った。たとえ己の全てを投げ打ってでも、みんなに帰ってきて欲しかった。
 ハタヤマはしばし無言で少年を見つめていたが――
 ふっ、と柔らかく微笑み、ぐしぐしと彼の頭を撫でた。
「心配しなくてもドタキャンなんてしないよ。キャンセル料が発生しちゃうからね。ま、そのイヤリングはもらっとくとして……」
 ハタヤマはにっ、と笑って少年の頬を撫でて涙を拭い、立ち上がると踵を返した。
「残りは、事件の元凶さんから取り立てようじゃないか」
 溢れるやる気を背中で語り、コートをなびかせて足早に去っていくハタヤマ。
 少年は彼の無事と、友達の帰還を願いながら、その背中が見えなくなるまでずっと見送っていた。

     ○

 昼でも薄暗い森深く、ミノタウロスの住処より一キロほど離れた地点。そこに人目を避けるように立てられた、朽ちたあばら屋があった。
 人も住めそうにないくらいぼろぼろだが、周囲に人影が多数蠢いている。その数、八人。
「ちょろい仕事だったなぁ!」
 頬に傷がある、髭ぼうぼうの男が高笑いをあげた。つられるように笑い声が増え、森の静けさはまたたくまに、下品な嘲笑に塗りつぶされてしまった。
 彼らはここ最近、人攫いと奴隷売買で荒稼ぎしている『人買い』グループである。もともとはケチな盗賊行為が本業だったのだが、一度売れた女の値段に味を占め、本格的に人身売買を行い始めたのだ。
 現在は仕事の成功を祝して、真っ昼間から酒盛りの真っ最中だ。
「ちくしょう、出せ! 出せよバカやロー!!」
「あ、あわわゆらさないでほしいんだな」
 薄汚れた中年の群れに響く、一際幼い子どもの怒声。やや離れた木に吊り下げられた木製の檻、その中に囚われた少年――レオの声だった。
 彼らは『巨人の足跡』近辺を探索中に運悪く人買いの隠れ家を発見してしまい、あえなく捕まってしまったのだ。
「高いよ暗いよ恐いよーッ!! 母様ー、母様助けてーッ!!!!」
「俺たちより取り乱してる……」
「な、なさけないんだな」
 捕まっているのは少年たちだけではない。慢心を胸に颯爽と盗賊退治に現れたヴェリンデール様(笑)も、速やかに捕まって牢屋に放り込まれていた。彼は高そうな衣服と杖は剥ぎ取られてしまったので、身につけているのはブリーフ一枚である。着る物にも困っている盗賊たちはなけなしの一枚すら奪おうとしたが、泣き喚きながら慈悲を請うヴェリンデールの気迫に免じてそれだけは許された。
「糞ったれた貴族共は俺たちを見つけられない! 新しい商品も向こうからやってきた! 来てる、俺たちに運がきてやがる!」
 興奮したスカーフェイスは、握り拳で朗々と演説のように謳う。やにわに同調する男たちの熱狂は高まっていく。
 唯一、ハーメルンハットを顔に被せて寝転がっている男だけは、我関せず静かだった。

 二刻ほど過ぎ、宴もたけなわになった頃。ぐでぐでに酔い疲れた男たちは、思い思いの場所で雑魚寝している。
 次の『納品』は数日後。盗賊たちは品物を探しに行く手間が省けたので、あとは期日まで寝て過ごすつもりである。そんな弛緩した空気を打ち砕くように、突如轟音が響き渡った。
「な、ななんだぁ!!!?」
 スカーフェイスが飛び起き、慌てて音のした方に目をやった。
「――んなっ!?」
 そこには本来あるべき牢屋が忽然と消えており、千切れた縄と、木の幹に短剣が刺さっているだけだった。視線を下げると、牢屋は地面に落下しており、木製というのもあって脆くも砕け散っていた。
「い、いでで……」
「び、びっくりしたんだな」
「のぉ――! 私のきめ細やかな肌に、青あざがついてしまったぁ――!!」
 浮き足立っている部下たちの中で、スカーフェイスはいち早く正気を取り戻した。品物の鎖が切れた。逃げ出す前に縄をかけねばならない。
「てめぇら、『鶏』を捕まえろ――」
 しかし、その号令は最後まで発せられない。立ち上がった彼の足に焼きごてを当てられたような激痛が走り、苦痛に顔を歪め崩れ落ちる。
「う、ぐ……これは、ナイフ?」
 足から生えた短い金属。手を触れると、ぬるりと生暖かく赤黒い液体が付着する。足に、ナイフが刺さっていた。
 そうこうする間にも異常事態は続く。続いてぎゃ、が、と悲鳴が二つ上がり、スカーフェイスと同じように地へ倒れた。彼らにも同様の短剣が刺さっている。スカーフェイスはこれで確信した。
 俺たちは、敵襲を受けている。
「落ち着けおまえら! つけこまれるぞ!」
 スカーフェイスの怒号。しかし、蜂の巣をつついたような騒ぎのこの場では、彼の声は届かない。
 恐慌状態の一人が大木に手をついた瞬間、頭上から落下してきたなにかに押しつぶされた。落ちてきたのは、黒いコートを身に纏った人間。
 そいつは踏みつけた相手を踏みつぶす寸前に身を投げ出し、前転で着地の衝撃を殺すと、そのまま地を駆け手近にいた短足のふとっちょの腹にひじうちをたたき込んだ。土手っ腹に突き刺さった鋭角の肘に、酸素を絞り出されて崩れ落ちるふとっちょ。
 残り三人。
「くそぉっ!」
 スカーフェイスは吐き捨てるように悪態を吐く。敵は見る限り一人。たった一人にいいようにやられてしまっている。
 襲撃者はあらかた片づいたと見るや、人質どもに駆け寄ろうと身を翻す。しかし、なにかを感じたのか、一歩を踏み出した姿勢のまま、上半身を振って大きくバックステップをした。
 そして飛び退いた直後、襲撃者がいた場所の隣にあった大樹に、粉砕するような音と共に大穴が穿たれた。
「ずいぶんと暴れてくれたものだ」
 風穴を開けられた哀れな老木は、メキメキと悲鳴を上げて倒れ伏せる。いつの間にかハーメルンハットの男が起きあがり、杖を抜いて身構えていた。
 もし襲撃者が感づいて避けなければ、その頭部が柘榴のようにはじけ飛んでいたことだろう。
「メイジか。やはりいたね」
 襲撃者――口元を白いナプキンで覆い隠した、黒コートの男は、ハーメルンハットを静かに睨んだ。
 両者、睨み合いが続く。息も詰まるような緊迫した空気は、それが一瞬とも永遠とも感じられた。
 不意に、風が吹いた。
「“風よ”!」
「シッ!!」
 先を制したのはハーメルンハット。何万回と唱え、簡略化された『風鎚』が宙を奔る。黒コートの男はそれに弾かれたように反応し、風のように滑り呆然としていたやせ細った盗賊に駆け寄って、そいつを盾にして首筋にナイフをあてがった。
「ひ、ひぃ!?」
「大人しくしてね。怪我したくないでしょ?」
 震え上がるやせっぽっち。それの肩越しに黒コートは油断無くハーメルンハットを見据えていた。
「これはこれは、勇敢なお客人だ。まさか我らにたった一人で挑もうとは」
 ハーメルンハットははた、と気が付いたように片眉を上げる。
「いや、勇敢なお客人はもう一人いたな。最も、すぐさま我らの家畜と成り果てたが」
「貴様ッ! それは私のことか! 無礼な、訂正せよ!!」
「あんた、捕まってたのかよ……」
 ブリーフで憤るヴェリンデール様。黒コートはそのシュールな光景に呆れて目尻を下げ、しゃべりにくいのか、白いナプキンを外した。
「なっ、貴様は!?」
「兄ちゃん!!」
「おにいさんなんだな~」
 身なりこそ変わっているが、さらされた素顔は見間違いようのない優男。ハタヤマであった。
「ほう。彼を差し向けたのは貴殿か。なかなか知恵は回るようだが、その眼力はいささか曇っているようだな」
「もうちょっと使えるかと思ったんだけどね。人選ミスだったよ」
 ヴェリンデール様は酷い言われようだった。彼らの物言いにヴェリンデールは憤るが、パン一なのでまったく威厳がない。
「名は?」
「不要だね。お互いが誰かなんて興味ないでしょ」
「それもそうだ」
 名乗りを拒否したハタヤマに、納得したように言葉を下げるハーメルンハット。
 彼はハタヤマに杖を突きつけたまま、生き残った盗賊一人に片手で合図を送った。
「動くな。こいつがどうなっても――「貴殿は勘違いしている」」
 ハタヤマの背筋に悪寒が走り、蹴飛ばすように人質を左に、自分は右に身を投げた。瞬間、その間を貫くように通り抜ける氷の刃。
「食い詰め者などそこら中に溢れている。わたしさえ生きていれば、代わりなどいくらでも集められるのだよ」
「離せ、離せよー!」
「い、いたいんだな」
「くぬぅ、ヴェリンデール、一生の不覚……」
 一瞬でハタヤマは人質を失い、そしてハーメルンハットたちは人質を得た。形勢逆転である。
 ハーメルンハットは不快気に顔を歪めた。
「半端だな。纏った殺気も、押しつける威圧も全て幻。一皮剥いたその裏側は、驚くほど甘ちゃんだ。――わたしは、おまえのようなやつが大嫌いだ」
 ハタヤマはやせっぽっちを庇った。それは、彼が端から誰一人殺すつもりが無かったという証明である。
 賞金稼ぎに身をやつしながらも、一線は守っている。そんな上っ面の綺麗が、ハーメルンハットは気にくわなかった。
「得物を捨てて裸になれ。武装は全て解除してもらおう」
「………………」
 苦い顔で沈黙するハタヤマ。ハーメルンハットはアゴをやる。すると、人質を取っていたサド気味の男が、チビの頬をひっぱたいた。
「づあっ!!」
「や、やめるんだな!」
「まとわりつくな餓鬼が!」
「ぎゃん!」
 頬を押さえ倒れこんだチビ。口の端が切れたのか、赤い筋が流れている。止めに入ったデブは男に蹴飛ばされ、腹を押さえてうずくまった。
「止めろっ! ……ちっ」
 ハタヤマは苦虫を噛み潰したように顔を歪めたが、あっさりとナイフを捨てた。続いてコートを脱ぎ始める。
「おい宿主! 従ったら俺たちまで終わるぞ!」
「仕方ないでしょ。手詰まりだよ」
「ほう、インテリジェンスソードか。珍しい物を持っているな」
 これは思わぬ拾い物だ。好事家に高く売れるだろう。ハーメルンハットはさらなる大金の予感に、厭らしく笑みを浮かべた。

 このまま彼らの勝利で終わってしまうのか。
 しかし、運命の神の悪戯は、この結末をよしとしなかった。

     ◆

 ―― 八年目の手記 二七二ページ

 頭痛が酷い。記憶も酷く曖昧だ。このところ、記憶が欠落していることがよくある。今日はなにもしなかったはずなのに、気が付けば本棚の本が増えているのだ。『あれ』はまだ書き終えていないはずだったのに。
 悪夢も日に日に酷くなる。数年前までは朧気だったのに、今では触れ得るほどの実像を持って、毎夜わたしの精神を苛む。誰か、この頭痛を止めてくれ。

     ◆

「――あ?」
 間抜けな声を上げ、サド気味の男が『真っ二つに割れた』。脳天から左右対称に切り裂かれ、臓物がべしゃりとぶちまけられる。
 両断したのは、巨大な斧。それを持つ手もまた大きく人間のような形をしているが、茶色ずんだ亜人らしき皮膚の色をしている。
 スカーフェイスが叫んだ。
「み、ミノタウロスッ!?」
 現れたのは狂える雄牛、ミノタウロスだった。ミノタウロスは人質たちに目もくれず進みだし、ハーメルンハットへ近づいていく。
「く、舐めるなこの牛がぁッ!!」
 半ば半狂乱になって“ウィンディ・アイシクル”を乱れ打つハーメルンハット。数十もの細い氷の刃が、ミノタウロスに殺到した。
 しかし。「――なにぃ!!!?」
 ミノタウロスは両手を交差させると、その肉体で“ウィンディ・アイシクル”を耐え抜いた。トライアングルクラスの魔法なのに、ミノタウロスはまるで蚊に刺された程度しか効いていないのか、痒そうに身体の霜を払った。
「ひっ……ひいいぃ!!」
 脇で座り込んでいた盗賊が逃げ出す。ハタヤマに盾とされ、そして庇われたやせっぽっちである。ミノタウロスはその後ろ姿をゆっくりと眼で追い、手にした斧をおもむろに放り投げた。
 手斧(マチェット)というにはあまりにも巨大すぎる斧。それは吸い込まれるようにやせっぽっちの背中に飛来し、鈍い音を立てて深々と突き刺さった。
 やせっぽっちは、ぎゃっ! と鋭い悲鳴を上げ、斧ごと地面に縫いつけられ、二、三度痙攣して動かなくなった。
「化け物ォッ!!!!」
 ハーメルンハットが再度“ウィンディ・アイシクル”を放つ。しかし、それは先ほどの描写を写したかのように防がれる。
 ミノタウロスは右手をかざすと、言霊を紡ぎ出した。
「“ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ”」
 魔法を使うのはメイジだけ。幻獣、ましてや亜人などという下等な生命体にはありえないことのはずだった。
 しかし、その詠唱に呼応して巨大な氷の矢が十数本作り出され、ハーメルンハットに殺到した。
 苦し紛れに発動させた“風壁”の魔法も紙のように破かれ、全身に氷の矢に八つ裂きにされるハーメルンハット。
「……雄牛が、魔法を」
 ハーメルンハットはかすれ声でそう言い残し、胴体を穴だらけにして、口から蒸気のような赤い吐血を残して倒れ伏す。全身の穴という穴から血を吹き出し、大地を紅く染め上げる。それがハーメルンハットの最後であった。
 他の盗賊たちは、足を怪我していたり昏倒していたりと逃れられない状況にある。なので、迫り来る恐怖を肌で感じつつも、逃れる歩みは牛歩より遅い。
 のし、のし、と枯れ木を踏みしめ、ミノタウロスがゆっくりと後を追う。
「ひっ……ひっ……ひっ……!」
「や、やめ」
 二振りで、二人の命が潰えた。一人は頭をかち割られ、もう一人は首と胴を切り離され、噴水のように血しぶきを上げた。
 返り血を浴びたミノタウロスの姿は、まるで地獄から現れし使者のようだ。
「は……母様! 母様――!」
 あまりに刺激的すぎる惨状に正気を失ったヴェリンデールは、我を忘れて逃げ出そうとした。しかし、一歩を踏み出す間もなくその肩を後ろから引っ掴まれる。
「ひぃっ!?」
「待て! この子らを連れて行け!」
 肩を掴んだのはハタヤマだった。いち早く正気を取り戻した彼は、少年たちの前に立ちふさがって、コートを広げ視界を遮っていた。こんな世界見せられない、見せてはいけない。
 アゴで少年たちを指すと、指を払って退避を促す。
「わ、分かった、分かった!」
 ヴェリンデールはうわずった声で返事を返し、放心している少年たちの手を取って駆け出した。ミノタウロスはそれに反応したが、ハタヤマがその前に立ちふさがる。
「おい宿主、逃げろ! まともにやったら割に合わんぞ!」
 ハタヤマはスズキの悲鳴のような注意にも耳を貸さず、眼前のミノタウロスを睨みつけた。
 まず、デカい。こちらの三倍以上はありそうだ。顔は牛で身体は筋骨隆々の人間、その異様なシルエットが無意識に畏怖を感じさせる。全身が茶色い皮膚に覆われている。これが噂に聞く『鋼の皮膚』というやつだろうか。
 勝つのは難しい。ハタヤマは戦わずしてそれを悟った。しかし、だからといって尻をまくることはできない。ここで自分が下がってしまえば、十中八九逃げた彼らに牙が向いてしまうだろうから。
(こいつ……理性あんのか?)
 ハタヤマはとりあえず交渉することにした。もう殆ど忘れかけていた幻獣語を脳の奥から引っ張り出し、ミノタウロスとコミュニケーションを図る。
『おいあんた。言葉は分かるか? とりあえず話を聞いてくれ』
 人間には奇声としかとれない高域の声。ミノタウロスはそれを聞いて小首をかしげた。
「なにを言っているか分からん」
「――?」
 ミノタウロスが、人語を話した。ハタヤマは意外そうに目を丸くする。幻獣語が通じないばかりか、人語を介すミノタウロスか。
「……言葉は分かるようだね。ボクはハタヤマ。行方不明の女の子を捜しにここへ来た」
「………………」
「んだけど」
 ハタヤマは周囲を見回した。そこにはまだ生き残った盗賊たち―足に傷を負っていたり、気絶したりしている―がいる。
「とりあえず、もう十分だから殺さないであげてくれるかい?」
「なぜだ? この者たちは貴様を殺そうとした。それに人買いの一派なのだろう? ならば、この者たちも同罪。万死に値する」
 ミノタウロスは敵に情けをかけるハタヤマが心底疑問らしい。犯した罪を償わせるには、死刑しかありえないと考えているようだ。
 たしかにハタヤマも、彼らを庇う理由などなかったのだが。
「それでも無益に殺すのはダメだよ。土地が汚れるし、警察に突き出すための生き残りも必要さ」
 取って付けたような理由。事実、その場で考えた即興の言い訳だ。ハタヤマは、むやみやたらに血や命が散らされるのは嫌だった。
 ミノタウロスは感情の見えない紅い瞳でハタヤマを見つめ返した。
「まあいい。ここへ縛って転がしておけ。しばらくすれば、逃げたやつらが衛士を呼んでくるだろう」
「ああ、ちょっと待って」
 立ち去ろうとするミノタウロスを呼び止めるハタヤマ。
 ミノタウロスは首だけ振り返る。
「なんだ」
「ここら辺で女の子を見なかったかい? こんくらいの小さな子」
 ハタヤマは自分の腰辺りで手を振り、背丈を説明した。ミノタウロスはじっとそれを見つめていたが、やがて首を横に振った。
「……知らんな」
「あ、そう。それともう一つ。ボク、あんたにすごーく興味があるんだ。具体的にいうと魔法を使うことと、人語を解すること」
 ハタヤマはぱちりとウィンクする。
「ちょっとばかし、お話聞かせてもらえないかなぁ?」
 ことさらおどけて剽軽さを張り付けるハタヤマ。染みついた軽薄を装う癖は、もはや無意識に出てしまうようだ。
 ミノタウロスは黙っていたが、首を縦に振った。
「好きにしろ」
「ああ、ちょっと待って!」
「今度はなんだ」
 やや苛ついたように眼を細め、歯を剥くミノタウロス。ハタヤマは申し訳なさそうに手を立てて頭を下げながら、死屍累々の盗賊たちを指した。
「生き残ってるやつら、手当てしてからでいいかな? このままだと衰弱して死んじゃうよ」
「……ふん。おかしなやつだ」
 ミノタウロスは腰を下ろした。どうやら待ってくれるようだ。
 ハタヤマはそれを確認して、盗賊たちの治療に取りかかった。
「おい」
「ん?」
 ハタヤマに臀部の刺し傷を治療されながら、スカーフェイスが問いかけた。
「なぜ俺たちを助けた? 俺らがどうなろうと、お前には関係のないことだろう」
「んー。そうだね、たしかにそうなんだけど」
 ハタヤマはアゴに指をあてしばし考え込み。
「死んでいいやつなんて、いないと思わないかい?」
 手遅れなら仕方がないが、助けられる命は助けた方が良い。ハタヤマはそう考えていた。
 スカーフェイスは、そんなハタヤマを鼻で笑った。
「ふん、俺たちはまた娑婆に出れば同じ事をするかもしれないぜ。また悪事を働くと分かっていて、なぜ情けをかける」
「それは悲しいことだけど……今ボクの目の前にいるのは、非力で矮小な傷ついた小悪党さ」
「はっ」
 スカーフェイスは、やや質の違う笑いを浮かべた。
「救いようのねぇ大甘野郎だ。……ま、足下掬われないように気をつけな」
「そうするよ。――はい、できあがり、っと」
「いでっ!」
 ガーゼをあてて包帯を巻き、処置が終わったと傷口をはたくハタヤマ。スカーフェイスは突如走った電流のような痛みに仰け反る。
 ハタヤマはスカーフェイスの腕と足を縛ると、気絶した二人を引きずって大樹にもたれさせ、あばら屋にあった太い縄でぐるぐる巻きに縛り付けた。
「まあ――せいぜい取って食われないようにな。あの牛野郎、かなりヤバいぜ」
「ご忠告どうも。でも、こんな諺を知らないかい?」
 きょとんと隻眼を丸くするスカーフェイス。
「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ってね」
 にやりと口の端を吊り上げるハタヤマ。
 太陽は既に空から落ち、双月が顔を出し始めていた。

     ○

「あんた、人間だったのかい」
 足場の悪い洞窟を下りながら、ハタヤマはミノタウロスに問いかけた。ミノタウロスは驚いたように振り返る。
「なぜ分かる?」
「魔法生物なのに人間の言葉が分かるなんて、人里に住んでたか元々人間だったかのどっちかしかないさ」
 内部は日中でも薄暗く、さらに日が落ちて一筋の光も差さない。ハタヤマは手にした松明を頼りに、頼りない足取りでミノタウロスの後に続く。
 ハタヤマは人買いのアジトを離れ、ミノタウロスの住処へと足を踏み入れていた。
 天井には尖った岩肌がむき出しになっており、時折水の雫がぽたぽたと滴り落ちてきている。ミノタウロスはここを、天然の鍾乳洞だと語った。
「いかにも。わたしの名はラルカス。元……いや、今も貴族だ」
「へぇ。爵位を持っていたお方が、今や牛面の化け物となったのか。なにか罪でも犯したのかい?」
「いいや、なにも」
「へ?」
 毅然と否定するラルカス。ハタヤマは予想外の反応に、間の抜けた声を上げた。
「わたしは、自ら望んでこの姿となった」
「――そりゃ、どうしてだい?」
 ぴちょん、と遠くで水滴が弾ける音が木霊した。
「人間の肉体だったころのわたしは不治の病に侵されていた。このままでは病床で死神の迎えを待つばかりだった。しかし、そんな毎日に嫌気が差してな。死ぬ前にもう一度外の景色が見たくなって、最後の旅をしていたのだ」
「死出の旅路ならぬ、未練の旅路ってやつかね」
「未練……そうだな。それもあったかもしれぬ。わたしは、わたしの人生を諦め切れなかった。我が悲願を叶えるまで死ねなかった」
「悲願?」
「我が生涯をとした悲願――『並列魔法理論』の立証だ」
 ミノタウロスは感慨深くそう呟いた。耳慣れぬ言葉に片眉を上げるハタヤマ。
「聞いたことがあるな。複数の魔法を同時に行使することを目的として探求された学問だ」
「おや、物知りだねスズキくん」
「俺を創ったやつも、片手間にそんな学問を齧ってた気がするぜ」
 ナイフホルダーのスズキが付け足した。
「しかしあの理論には、人の身では乗り越えられない、致命的な欠陥があったはずだが……」
「そうだ、聡き剣よ。この理論には重大な障害があった。魔法とは脳に依存する。そして一つの脳では、一つの魔法しか制御しきれない。並列魔法を行使するには、それを克服せねばならなかった」
「えっと……ようするに、脳みそがたくさんないとできない、ってこと?」
 ハタヤマの要約しすぎた想像に、ラルカスはふっと鼻を鳴らした。
「そう考えていい。二つの魔法を同時に使うには二つの脳が、三つなら三つの脳が必要になる。まあ、残念なことに常人にはどだい不可能な、机上の空論でしかなかったのだ」
 滴った水滴がぴちょん、とひときわ大きく響いた。静かな暗黒に沈む洞窟内は、靴音すらいやに耳を打つ。
「わたしは研究に没頭していたよ。病魔に冒される前は、それはそれは熱心な研究者だった。一時期、王立魔法学院(アカデミー)の筆頭講師に推薦されたこともあったのだ」
「『あった』?」
「……あの病さえなければな」
 よほど口惜しいのか、ぎり、と歯軋りが聞こえてきた。
「長く生きられぬからという理由で、わたしは候補から外された。代わりに据えられたのはわたし後輩の若輩者だ。ああ、あのような不出来な輩に、栄誉ある筆頭講師など務まるものか! 魔法も、知識も、熱意すらも! 全てにおいてわたしに劣るあのような小童が! このわたしを差し置いて!!」
「ちょ、ちょっと、落ち着きなよ」
「ブフゥー――……ブフゥー――……」
 高ぶる感情にまかせて怒り狂うラルカス。鼻息荒く地団駄を踏み、瞳は赤き輝きを強める。ハタヤマはその様子にややあっけにとられたが、落下してくる石つぶてにこずかれ、慌ててやんわりと窘めた。
 このままでは洞窟が崩れて、生き埋めになってしまうかもしれない。
「すまない、取り乱した。とにかく、わたしは身一つで学院をふらりと抜け出した。もう、全てがどうでもよかった。道端で野ざらしになろうと構わない、とさえ思っていた――そこで出会ったのが、これだ」
 ラルカスは自身の胸をどんと叩く。
「自棄になっていたからかな。ミノタウロスと聞いても、なんの感情も懐かなかった。ただ、この命尽きる前に、なにか証を残したかった」
「証?」
「そう。わたしの生きた証。なんでもいい。ただ、世界の片隅にでもいいから、わたしの存在を刻みたかった」
 ラルカスは久方ぶりの会話に興が乗ったのか、没頭するように朗々と語った。立ち寄った村で村人に乞われ、怪物退治に赴いたこと。戦いは熾烈を極めたが、最後に勝利を勝ち取ったこと。
「しかし、その戦闘でわたしも深手を負った。弱った身体では、治癒魔法に耐える体力も底をついている。わたしはミノタウロスの亡骸の横で、ただただ死を待つばかりだった」
 ラルカスが立ち止まった。
「そこでわたしは驚くべきものを見た。なんと、息絶えたはずのミノタウロスの傷口が、みるみるうちに塞がっていくという光景だ。なんとミノタウロスの再生力は、息絶えた後でも健在だったのだ」
 そこで、彼はある妄想を心に懐いた。
 ミノタウロスの脳は死んだが、肉体は死んでいない今この瞬間ならば、あの魔法を用いて再利用することができるのではないだろうか、と。
「わたしの渾身の『氷槍』でミノタウロスの頭骨には穴が開いていたから、切開する必要はなかった」
 彼は禁忌を犯した。禁断の『脳移植』を行い、雄牛の身体を乗っ取ったのである。
「……ぞっとしないね」
「ミノタウロスの身体のことか? なに、肉体などただの入れ物だ。それに、慣れればむしろこちらのほうがはるかに人間より――」
「違うよ」
 底冷えするような、ハタヤマの刺々しい呟き。ラルカスは振り返り、ハタヤマの表情を見下ろした。
「ボクが怖気を感じたのは、他者の肉体を奪い取ってでも生に執着するあんたの執念さ」
 ハタヤマはラルカスを追い越し、少し進んだ先で立ち止まる。
「あんた、死んだ後も身体だけ自分以外のやつに持て遊ばれる気持ち考えたことある? ボクは嫌だね。死んだなら、そのまま寝かしといて欲しいよ」
「なぜ怒る? ミノタウロスは村を襲い、人を食らう。人に仇なす害獣だ。 むしろ、わたしはそれを有効活用してやっているだけだ」
「――どうやら、あんたとは分かり合えないようだね」
 ハタヤマは表情を窺わせず、さっさと先を促した。
「もうこの話題は止めよう。あんたのこと嫌いになりそうだ」
「………………」
 ラルカスは釈然としなかったが、無言でハタヤマを追い越し、先を歩き始める。
 しかし、なぜ幻獣に対して同情し、憤りすら懐けるのだろうか。ラルカスは、そんなハタヤマの思考が心底不思議で、まったく理解できなかった。

     ○

 十分ほど進むと、開けた空間に行き着いた。そこは天然の鍾乳洞ではなくラルカスが独自に削りだしたらしく、荒々しい削り跡の残る人工的な石室だった。
 まず目を引くのは巨大な本棚の群れだ。目の粗い壁紙を隠すように本棚が並んでおり、その中には数百以上もの蔵書が収められている。部屋の中央にはぽつねんとテーブルが置かれ、中央には申し訳程度の光源として、小さな蝋燭立てが備えられていた。
 どうやら部屋はこれだけではないらしく、あちこちに通路のような穴ぼこが開けられていた。
「闇はわたしの友。この肉体ならば、暗闇でも昼間のような視界を保つことができるのだが……インテリアとして、なんとなく灯している」
「人であった頃の習慣は、そう簡単に忘れられない、か」
 ハタヤマは松明を数度振って消し、投げ捨てる。そしておもむろに本棚から本を数冊引き抜き、椅子へどっかりと腰をかけた。
「いや、無作法で悪いね。物珍しくて、好奇心が抑えられない」
「構わん。この身体となってから始めての来客だ。大したものは用意できんが、それなりにもてなしてやろう」
 食い入るように文面を読みふけるハタヤマを、ラルカスは咎めず苦笑した。講師時代の記憶が蘇ったのか、その視線は出来の悪い生徒を見守るように微笑ましい。
 魔法使いであるハタヤマは、自身の知らない知識が記された書物に目が無い。昔は読書が嫌いだったのだが、篠原に仕込まれていつの間にか師匠に匹敵するほどの本の虫となっていた。元来物覚えが悪くなく、加えてそれなりにセンスもあったハタヤマは、一度読めば大概の技術は即座に理解して習得できてしまう。彼はその『覚える快感』がやみつきとなり、本を読むことが大好きになった。
 ラルカスは、その手にはやや小さすぎるティーカップを二つ持ってきた。そして奥からこれまた可愛らしいティーポットを取り出し、二つのカップに赤茶色の液体を注ぐ。
 香りからしてアールグレイだろうか。フレーバーティー独特の強い芳香が鼻腔をくすぐる。
「茶菓子はないが、我慢してくれ」
「ああ、ありがとう」
 ハタヤマは顔も上げずにカップを手に取り、口に含もうとした。しかし、はたとその手を止める。
「………………」
「どうした?」
 ラルカスは子どもの腕ほどもありそうな指先でカップをつまみ、かぱりと一息に喉へ紅茶を流しこんだ。彼が人間用の食器を扱う様は、まるでドールハウスへ迷いこんだような錯覚を引き起こす。
 ハタヤマはひくひく鼻をひくつかせ、赤茶色の水面を凝視して。そしておもむろに顔を上げると、こんなことを言い放った。
「すまないけどボク、コーヒーが好きなんだ。入れなおしてもらってもいいかな」
 なんという厚顔無礼。人の家に来て出されたものに文句をつけたのだ。
 ラルカスはハタヤマのあまりの無礼さに目を丸くしたが――
「……よかろう。探求者は飲み物にこだわるものもいる」
 わりかしあっさりと承諾した。ラルカスは白地に花柄のティーポットをぐわしと掴み、また奥へ引っ込んだ。
 ハタヤマはその後姿が見えなくなるのを確認して、目を細めてティーカップの中身を睨みつけると。頬杖をつきながらカップを傾け、たぱたぱと紅茶を地に流した。
「おい宿主、いくら嫌いだからってそりゃやりすぎ――」
「あれは嘘だよ」
 ハタヤマは声を潜めて答える。いくら彼が失礼な男だといえ、出されたもてなしを理由もなく無碍にすることなどありえない。「キミ、初歩的な魔法は使えるだろ?」
「あん? そりゃ、まあ魔法剣だからな」
「紅茶の成分を『解析』してみな」
 スズキは怪訝そうに思念波を揺らしながら、地面の紅茶溜りに“ディテクト”をかけた。
(『解析』開始――紅茶成分九十九%――眠り、痺れだと……!?)
 見た目はどうみても何の変哲も無い紅茶。しかし、その内にわずかながらの毒物反応を検出したスズキ。しかも、盛られた量自体は極微量だが、一口でも口に含めばすぐに昏倒するほどの劇薬だ。スズキはないはずの背筋に、ぞっと寒気がはしった気がした。
 ハタヤマは席を立ち本棚に歩み寄りながら、奥にいるラルカスに話しかけた。
「ねえ、あんたその身体になって長そうだけど、研究の方は捗ってるのかい!」
 やや声を張っているので、閉ざされた洞窟内では反響して響く。
「そうだな。この身体になってもう十年になる。研究の方は目処が立った」
 本棚は端にいくにつれて、豪雪のようにホコリが深くなる。どうやら初期の棚には手を触れていないようだ。
「『複数の脳』の問題は、外部に触媒を用いることで解決される」
 ハタヤマは左端の本棚に、唯一ホコリのない本を見つけた。その本だけ頻繁に手に取っているらしく、浮き出るように綺麗だ。
 背表紙には『Dr. Jekyll and Mr. Hyde』と綴られていた。
「そもそも同時に詠唱しようという思考がいけなかったのだ。
 一度詠唱した魔法を触媒に『停滞』させ――」
 ハタヤマは本を手に取る。すると、本棚が音もなく前へ、そして右へスライドした。その下には柔らかい土が盛られており、他の岩肌の床とは異質だった。
 ハタヤマは汚れるのも構わず、屈み込み素手で土を掘り返す。
 そこから現われたのは、白。


 丸くて、小ぶりで、可愛らしい。
 陶器のような――頭蓋骨。


「なにをしている」


 背後から声をかけられた。テーブルの上の蝋燭の明かりが、背後の人物の影を映し出す。その影はとてつもなく巨大で、屈みこんだハタヤマを飲み込んでしまうほどだった。
「いや、ボクもまさかこんなものを見つけちゃうとは思ってなかったんだけど」
 ハタヤマは振り返らず、ふざけた調子を崩さない。いや、掘り返した穴の中にあった白骨の山を見て、さらに軽薄さを強めた。
「なにこれ?」
「……ミノタウロスの残飯入れだろう。十年前のものが残っていたのではないか?」
「その割には、えらく綺麗だよねぇ」
 ハタヤマは頭蓋骨を一つ手に取った。そのアゴの中から、からん、となにかが零れ落ちる。それは、ピンク色の水晶の、小さな耳飾りだった。
 ドクン、とハタヤマの心臓が脈打った。「これ――あんたがやったんじゃないの?」
 背後で風切り音と、筋肉が引き絞られる音がした。ハタヤマは、それを感じる前に手首を返して頭蓋骨を投げつけ、自身はその場から飛び退いた。
 身体を丸めて宙を舞い、降り立つ。それと同時に豪快な破壊音と、カルシウムの砕け散る合唱が響いた。
「変だと思ったよ。子どもの神隠しと、女の行方不明者の被害範囲を照らし合わせたら見事に一致した。でも、あの人買いたちは子どもは扱ってないらしい。ということは、だ」
 ハタヤマは眼光鋭く身構えながら、じりじりと距離を離す。
「人買いの陰に隠れて、別の誰かが暗躍してる――それも、金以外の目的で」
「それがわたしだというのか。……違う、誓ってわたしではない! こんなもの、記憶に無い!」
 ラルカスは悲痛に訴えた。それは心に迫っており、どことなく嘘ではなさそうな気配がする。
 しかし、『耳飾り』を見つけてしまったハタヤマは、その絶叫に取り合わなかった。
「はん、この期に及んで白を切るつもりかい? 無限の知識を求めた代償――悲劇の英雄(ジークフリート)を気取るつもりかい? ……生憎だね。心が化け物に堕ちた時点で、あんたは悪霊(リッチ)と大差ないのさ!!」
 冷ややかなハタヤマの視線。そして突きつけられた現実。
 それによりラルカスが縋っていた、最後の希望の糸が――切れた。
「ぐ、ぐぐ……グルオオオォォォ――――――ッッッ!!!!」
 ラルカスはひときわ大きな遠吠えを上げ、わき目も振らず踵を返し、背を向けて穴ぼこに突進した。予想外の奇行にあっけにとられるハタヤマ。
 しかし、すぐさまラルカスの真意に気づく。
「そうか! ――ちくしょうッ、もう間に合わないッ!!」
 己の迂闊さと馬鹿さ加減に、憤慨をテーブルにぶちまけるハタヤマ。そのせいでテーブルは無残にも壊れてしまったが、そんなことは気にしない。ハタヤマは迷うように視線をさ迷わせた。
 しかし、それも一瞬。
 ハタヤマは意を決したように目つきを怒らせ歯を噛み締めると、落っこちた蝋燭立てを拾って、コートをなびかせ別の通路へ駆けこんだ。

     ○

 違う。
 わたしではない。
 わたしは、人など食わない。
 その証拠に、今朝は猪を狩って、その生肉を喰らった――
 な、ま、にく?

 わたしは呆然と立ち止まった。

 これまで、わたしは食べ物の調理を欠かしたことはなかったはずなのに。
 いや、最近では、物を食べた記憶すら曖昧だ。
 いつの間にか食事が済んで、満ち足りた気分でロシアンティーなどを味わっていた。
 わたしは、昨日、一昨日、一週間前。この一月、なにを食べていた――?

 わたしは『出口』に辿り着いた。

 殺さないと。
 やつが生きてこの洞穴を出れば、王国の兵士を引き連れて戻ってくるかもしれない。
 いや、わたしの存在を報告すれば、王国はわたしを野放しにしないだろう。
 生かしては帰せない。

 わたしは背にくくりつけた大斧を振るい、天井を砕き壊した。
 『出口』はがらがらと崩落した岩に埋まり、洞窟に真の暗闇が訪れる。

 いや、やつが戻らなくても、外で見逃した人買いたちがわたしのことを告げ口するだろう。
 ああ、何故わたしはやつらを殺さなかったのか。
 分かっていたはずなのに。

 日の出前には発たないと。ここを離れて、身を隠さないと。
 夜が明ける前に、やつを殺す――
 ああ、『迷宮』を掘っておいてよかった。
 自分でもよく分からず、本能に従って掘っていたが――今日、来るべきこの日のためだったのだろうか。

「シラれたカラにはイカしてオケん! 殺す!! ころすコロすコロス――ッッッ!!!!」

 外へ繋がる『出口』はここだけだ。
 ニガシハシナイゾ――……

     ○

 右手に持った蝋燭立ての明かりだけを頼りに、ハタヤマは遮二無二闇の中を駆ける。
 足場が悪く何度も倒れそうになるが、文句など言っている場合ではない。
 いくらハタヤマがAAA(トリプルエー)クラスの魔法使いとはいえ、それは元の世界(アンゴルノア)での話。この世界(ハルケギニア)では、翼をもがれたただの一般魔法使いにすぎない。対するミノタウロスは特上級のレア幻獣。風評だけでも半端無い戦闘力を秘めていることが分かる。今のハタヤマでは、真っ向からやりあうのは厳しすぎる。
 だから捕まれば、それでお終いなのだ。
「おい宿主! おまえ分かってたのか?」
 左手に握られたスズキが問う。彼は、ハタヤマの全て計算ずくだったような振る舞いに疑問を感じていた。
「まあ、なんとなくね……といっても最低最悪の事態として予測してただけだけど、まさかドンピシャでそれが的中するとは」
 超展開はお話の中だけにして欲しいよ、とうんざりしたため息を吐くハタヤマ。彼にしても、この展開だけは避けたかったのだが。
 まあなってしまったものは仕方ない。そう割り切り、ハタヤマは超感覚で前方を見据えた。
 しかし、先ほどから随分進んだはずなのに、一向に景色が変わらない。いや、洞窟だから当たり前なのだが。とりあえず壁づたいに延々走り続けているわけだが、視界も横穴があったりでこぼこしているだけで、目に見えた変化は訪れない。
 ハタヤマは、同じところをぐるぐるしているだけのような錯覚に襲われた。
「くそっ、やってられないよ」
 しまいにはやる気をなくし、壁を背に座り込んでしまうハタヤマ。スズキは呆れたように呟く。
「おいおい、そんなにゆっくりしてていいのか? 追いつかれたら終いなんだろう?」
「んなこと言ったって、何処に隠れていいのかも分かんないのにどうしろってんだよ。緊急事態に備えて、体力を温存しとくんだよ」
 休憩だよ休憩、とことさらめんどくさくなった事を隠すハタヤマ。そんなことをしても、そのだらけきった態度で嘘なのは見え見えなのだが。
 スズキはいよいよ呆れかえった。
 こいつはどこまで追い詰められても、余裕を感じさせる態度を崩さない。
「随分と余裕だな。次の瞬間には殺されるかもしれんのに」
「――そう見えるかい?」
「あん?」
 ぽつり、とハタヤマがそう漏らした。スズキはその真意が分からず、問いただそうとしたが。
(……あ)
 寸前で思い直した。自身を握るハタヤマの手が、小刻みに震えているのを感じ取ったからだ。
「ボクだって怖いものは怖いよ。ただ、慌てふためいて取り乱してもどうしようもないから、そう振舞っているだけ」
「……すまん」
 スズキは失言を詫びた。ハタヤマは気にしていない、と返したが、スズキは己の思慮のなさを悔やんだ。

 しばらくして、 不意に鼻歌が聞こえてきた。
 閉じていた眼を見開き、組んだ腕と足をほどいて飛び起きるハタヤマ。
 ずしん、ずしん、と足音が近づいてくる。
「――ばあ」
 にょきっと、横穴から牛が生えてきた。
「ん~♪ 何処へ行こうというのかね? 外へ繋がる道は一つだけ。それもさっき破壊してきた。
 ――逃げ場は無いぞ」
「ふん。中は複雑、出口は一つ、ってか?」
 御伽噺そのままじゃないか、とハタヤマはくだらないと鼻を鳴らした。
「こんなことなら、外に糸でも結んでくればよかったよ」
「『アンリアドネイスの糸』か。なかなか教養は深いようだな」
 どうやらこの世界にも、似たような神話があるらしい。
 ラルカスはのっそりと穴から這い出し、ハタヤマと相対した。
「諦めろ。ただのメイジではわたしに勝てん」
「どうかな?」
 ハタヤマは会話の最中、さりげなくコートの裏に手を伸ばしていた。そしてそこに縫い付けられたホルダーから投げナイフを抜き取り――
「――諦めの悪さが取り柄でね!!」
 言い終わるや否や抜き撃つ。飛来する刃物のぎらつきを見てとり、ラルカスは斧でそれを受けた。特攻を阻まれた哀れなナイフは、こつんと虚しい音をたてて弾かれる。
 斧を下げると、ハタヤマは既にはるか彼方へ走り去っていた。
「鬼さんこちらぁ!!」
「逃すかっ!!」
 ラルカスは後を追って地を蹴った。その速さは下り坂のトロッコよりも速く、その体躯で巨大な斧を背負っていることなどまったく感じさせない。
 天馬(ユニコーン)に匹敵するほどのその速さで、メイジなどすぐに捕まえられるはずだった。
 しかし。
(――バカな?)
 追いつけない。それどころか徐々に引き離されている。そんなことは本来ありえないはずだ。ただの人間如きでは、ミノタウロスに何一つ敵うはずが無いのに。
 いったいどういうことなのか。ラルカスは風に舞う紙切れのような速度で遠ざかるハタヤマの背を見つめる。
 そこにわずかながら、『輝く線』を見出した。
(まさか)
 ラルカスは驚きに目を見開いた。彼も以前一度だけ、そういった案を練ったことがある。しかし、かかるコストの割りに見返りが薄いと結論が出て、お蔵入りとなったものだった。
 見誤ったな、とラルカスは心中で舌打ちした。しかしただ手をこまねいているだけではない。ラルカスは右腕を突き出し、狙いを定めて呪文を紡いだ。
「“風鎚”」
「――ぬぉわっ!?」
 風の塊に足下を抉られ、豪快にすっ転ぶハタヤマ。上手い具合に受け身は取れたが、あちこちに擦り傷ができてしまった。
 振り返り状況を把握しようとするが、ラルカスはただ右腕を突き出しているだけである。この世界の人間は、杖がなければ魔法を使えないはず。ハタヤマは理解不能の状況に眼を白黒させるばかりだ。
「わたしは右腕に杖を移植している。杖を奪おうなどと考えても無駄だぞ」
 まあ、人間にはお勧めせんがな、とラルカスは冗談をかました。余裕である。
 ハタヤマはナイフホルダーからスズキを抜くと、左腕を腰の後ろに据えた戦闘の構えをとった。
「ねえ、ボクもこの世界の魔法使えないのかい?」
「できんこともないが……おまえの世界の魔法はどうなんだ?」
「威力が低くて燃費が悪いんだよ!!」
 以前、現状の戦力を把握するために行った自己診断では、無駄に魔力を食うくせに、威力はワンランク下がってしまう――ようするに、戦力外通告を出さざるを得ない結果が出てしまった。普段からハタヤマが魔法を使わないのは、じつはそういう理由があった。
 スズキは逡巡し、言葉を整理した。
「俺には、平民に魔法を使わせるため――変換器(エンコーダー)の機能も備えられてる。それを使えば、あるいは」
「本当かい!? よし、じゃあ応戦してみよう!」
「お、おい、宿主! そういったやつらは俺が主導権を握らないと駄目だった! 今の状態じゃどうなるか分からん――」
「なんでもやってみるものさっ!!」
 ハタヤマはスズキを突きだし、ラルカスと全く同じポーズをとった。
「相談は終わったか? ならば始めるぞ」
 ラルカスは呪文を詠唱し、“ウィンディ・アイシクル”を発現した。湿度の高い洞窟内では太く、固い氷柱が中空にいくつも生成され、ハタヤマを射抜かんと殺到する。
「『呪文』と『属性』、『効果』だけお願い! あとはこっちでなんとかする!」
「えぇい、もう……どうなっても知らんぞ!!
 “ラナ・デル・ウィンデ”、属性は風、衝撃波だ!!」
 ハタヤマは瞬時に氷が存在しない空間を探し当て、わずかな隙間に躍りこむと、回転ざまに呪文を唱えた。
「“ラナ・デル・ウィンデ”!!」
 声高に呪文を叫ぶハタヤマ。その気迫がどこかに通じたのか、信じられないことが起こる。
 スズキの柄に嵌められた四つの石、その緑色の魔石が輝き、剣の先から波紋状の衝撃波が撃ち出されたのだ。
「なにぃ!?」
 幾重にも折り重なった衝撃波をモロに喰らうラルカス。見たこともない魔法の『形』に、ダメージは無いが面食らった。
「おぉ!? なんかできた!!」
「宿主……おまえ時々すごいなぁ」
 理屈はよく分からないが、ハタヤマのイメージが自由奔放すぎて、魔法があらぬ形に変質してしまったらしい。これは、ハタヤマが元の世界で学んだ魔法を基礎として、『衝撃波』というイメージを強く描いてしまったことに起因する……かもしれない。
 まあ、魔法は『心』で撃つものだから、こんなこともあるよ。
「ぐっ――貴族のわたしに、魔法で勝負を挑むか。面白い、受けて立とう」
「いや、そんなつもりないんですけど!?」
「我が属性であり、全身全霊を籠めた“ウィンディ・アイシクル”でお相手しよう」
「話聞いてないよこいつ!!」
 ラルカスは朗々と呪文を謳い、再び氷塊を中空に生み出す。今度は数が減ったが、その代わりに太くて鋭かった。
「すごく……大きいです」
「言ってる場合か! 来るぞ!」
 スズキから檄が飛ぶ。氷塊が空を滑り始めたのは、それとほぼ同時だった。
「――火の呪文を教えろ!」
「“ファイアー・ボール”!」
「お手軽簡単ありがとうっ!!」
 そのまんま過ぎる名前なので、詳しく聞かずとも効果は察した。ハタヤマは超速で呪文を完成させると、槍状のイメージにして発現させ、氷塊の一本に真正面からぶつけた。
「ふん、そんな下位魔法でトライアングルスペルが破れるか!」
 炎と氷の正面衝突で、辺り一面が凄まじい水蒸気に覆われた。続いて、氷塊が地面に突き刺さる音が響き渡る。
 ラルカスはその心地よい音色に、己が勝利を確信した。
「……?」
 ラルカスは首をかしげる。もうもうと立ちこめる霧が晴れると、そこにあるはずの死体がなかった。
「逃したか」

     ○

「――っし、撒いた!」
 ハタヤマは滅茶苦茶に走り回り、充分離れたところで足を止めた。荒い心音と呼吸を整え、額に浮き出た汗を拭う。
 スズキはミノタウロスを撒いたハタヤマの脚力を素直に賞賛した。
「凄いじゃないか宿主。おまえ、『その姿』でもここまで足が速かったんだな」
「んなわけないでしょ。これのおかげさ」
 ハタヤマは素直に受け取らず、己の着用したコートを示した。
「今朝からずっと思ってたんだが、そのコートにはどんな魔法が籠められてるんだ?」
 そのコートは見た目には普通のコートと変わらず、効用などせいぜい闇に溶け込めるくらいしか見出せなかった。
 ハタヤマはスズキの問いにふふん、と得意げに指を立てた。
「このコートは、風石を糸にして縫ってもらったんだ」
「なぬ、風石!? どひゃー! そりゃ贅沢だな!」
「レナードは『んな屑風石いらない』って言ってたからね。ちょっとばかし張り込んだよ」
 ある程度の大きさであれば捌きやすいが、小さすぎると用途が限定されるので売りづらい。なのでハタヤマはいらないのならと、細かい風石を引き取っていた。
 しかし、それだけではいまいちよく分からない。スズキの質問は続く。
「で、そうするとどんな恩恵を授かれるんだ?」
「風石ってのは風の魔力の結晶さ。そのベクトルを制御してやれば、利用法は無限大なのさ」
 力を発動させるには装備者の魔力が必要だが、それも始動時の極わずかだけである。
 これでできることは重さの制御だ。コートが常時『浮遊』の魔法をかけた状態になり、ある程度の重力を無視できる。といっても空を飛べるほどではないがこれにより、より速く走り、より高く跳ぶことが可能となる。
「なんだ。案外大したこと無いな」
「そう思うかい? ――それがボクに限って言えば、そうでもないんだよ」
 不敵に笑うハタヤマ。スズキは興味を引かれ、先を促す。ハタヤマは勿体つけながらも、悠々とスズキに講釈をたれた。
 いわく、被服に魔力を流せるようになることで、空気中に溶ける魔力を抑えることができるようになるらしい。
 ハタヤマにとって魔力のロスは、どこまでも付きまとう悩みの種だった。なにせ魔法を発動させるたびに、肉体から消費魔力以上の量が、勢い余って抜け出てしまう。それはある意味、ふたの無いヤカンのようなものだ。瞬間で発動する魔法ならまだ許容範囲だが、肉体強化のような恒常的に発動させ続ける魔法の場合、浪費する魔力の量は馬鹿にならない。
 しかし、この被服を纏うことにより、その心配は皆無となる。
「全身を魔力の膜で包むことができるから、魔力のロスを最小限に減らせるんだ。しかも空気抵抗や重さの操作は、肉体強化とすこぶる相性がいい」
「節約と強化が同時にできるってことか……」
 スズキはハタヤマの発想力に、舌は無いが舌を巻いていた。
 この男はわずかな工夫で、大きな力を生み出すことに長けている。この世界の貴族がたかだか魔力節約のためだけに、どうして貴重な風石を大量につぎこもうなど考えようか。そもそも素早く動きたいなどとすら思わないだろう。魔法使いは、肉体では戦わないからだ。
 馬鹿げたことを真剣に考え、そしてそれを実行する決断力と行動力。それが、ハタヤマの持つ類まれな資質の一つだった。
「ま、『風の妖精』の逸話をヒントにした部分もあるけどね」
「ほう。その心は?」
「風の妖精(シルフィード)ってんだから、風と相性のいいもの身に着けてるはずでしょ」
 シルフィちゃんにも感謝しなきゃ、とハタヤマは続ける。どうやら本当にただの思いつきだったらしい。風石は語呂合わせみたいな感覚で結び付けたようだ。
 いよいよもって不思議な思考回路だ。大量の風石を消費して、高い金をつぎ込んで、効果がなければどうしていたつもりだ。
「そんときは、また別のアイディアをひねり出すだけさ」
 あっさりとそうのたまうハタヤマ。こいつの辞書には『失敗』の文字が記載されていないらしい。
「失敗上等さ。十個考えて一個使えれば、まあ採算はあうかな」
 逞しい男である。
「『魔法』も充分使えそうだし。今回、得たものは多いなぁ」
 威力は充分、魔力消費もコートとスズキのおかげで半減されているのかお手頃だった。
 ……後は、この洞窟を生きて出られたならば、文句なく万々歳だろう。
「なあ宿主よ」
 またしばらく歩いた後、スズキが声を発した。
「やつは犯行を否定していたが、本当だと思うか?」
「はん、嘘に決まってる――と、言いたいところだけど」
 ハタヤマがニ、三度まばたきして立ち止まる。
「なーんか腑に落ちないんだよねぇ。演技にしちゃ、あの時の剣幕はそれっぽかったし……」
 白骨死体の山を発見したときのラルカスを思い出すハタヤマ。なんというか、言葉と行動がちぐはぐなのだ。まるで、意思に反して身体を動かされているみたいに。
 つい感情にまかせて跳ね除けてしまったが、もう少し話を聞いてもよかったかもしれない。
 ふと、壁の向こう側から風を感じた。
「……? なんか、風の音がするね。向こう側は空洞なのかな」
「おそらく迷宮を複雑にする過程で、そういう構造になったんだろうな」
 こんこん、と壁をノックすると、反響した音が返ってきた。どうやら、壁の向こうにも道が続いているようだ。
 壁面をぼけっと観察しながら歩を進めていると、欠けて穴が開いた部分を発見した。
「こういうのって覗きたくなるよね」
「そんなことをしている場合か」
「ちょっとだけだよ」
「鬼が出ても知らんぞ」
 好奇心に身を任せ、欲望のまま穴に眼をあてがうハタヤマ。その穴から見えたものは。
 こちらを覗き返す、紅く輝く狂気の瞳――
「……――っ!!」
 反射的に飛び退くハタヤマ。しかし、今回ばかりは相手も逃がしてくれなかった。
 轟音を立てて壁をぶち破り伸びてきた巨大な手に捕まり、反対側の壁へ磔にされてしまった。
「がっ、は……!!」
「無駄な抵抗だということが何故分からん? この洞穴はわたしの庭。そしておまえの位置は足音と匂いで辿ることができる。おまえはもう籠の鳥なのだ」
 もうもうと立ちこめる土煙。その靄の中で、紅い瞳だけが踊っている。ハタヤマは自分の迂闊さを呪い、心中で五寸釘を連打した。
「なあ、あんた」
 ハタヤマはぎしぎしと軋む肉体をよじり、声を発した。
「本気で、やってないって言うのか?」
「………………」
 ラルカスの瞳から狂気が薄れ、手の圧力が若干弱まった。
「――夢を、見るのだ」
「……ゆ、め?」
「そうだ。汚れを知らぬ、無垢な少女を――くびり殺す、夢。首を捻り、一息に絶命させて肉を喰らう。きゅ、という小鳥のような可愛らしい断末魔が耳をくすぐり、どうしようもなく心を湧き立たせるのだ」
「………………」
 淡々と独白を続けるラルカス。彼は、静かに狂っていた。
「そして真っ赤に染まった両手を見下ろし、『違う!』、と叫んで目が覚める。もちろん両手は綺麗なままだが、血なまぐささが抜けず、腹は満たされている――なあ」
 ラルカスは逆に問いかけた。
「おまえは、これが夢だと思うか? それとも、わたしは本当にいたいけな少女を殺し、その肉を喰らったのだろうか? 教えてくれ」
「が、ぐ……は……あっ!」
 言葉とともに握力が増し、ハタヤマは押しつぶされていく。呼吸がしたいが、肺をつぶされて空気が入っていかない。しかし、ラルカスはそれに気が付かないのか、手の力を緩めるどころかどんどん強めていく。背後の岩壁が、ミキミキと嫌な音を立てた。
 ハタヤマは力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「それ、は――」
「それは?」
「呪い、だ」
 呪い。ラルカスはその単語が示す意味が理解できず、少しだけ力が緩んだ。
「死してなおその生を汚されし雄牛の怨念が、あんたの魂に取り憑いてるんだ。自分らしく生きさせろ、と、あんたの魂に訴えてるんだ」
「――畜生に魂などあるかぁッ!!!!」
 ラルカスの激昂。捕らえた手に力を込め、ハタヤマをひねりつぶそうとした。しかし、その腕は激痛とともにはね除けられる事となる。
「グゥルオオオォォォッッッ!!!?」
 弾かれた右腕に引きずられ、大きく仰け反ったラルカス。腕を見ると、血管が破裂し焼け焦げ、じゅうじゅうと香ばしい煙を立ち上らせていた。
 ハタヤマの切り札の一つ、放電魔法“エレキバースト”である。
「ちょこざいなぁッ!!」
 強い憎しみを籠めハタヤマを睨みつけるラルカス。しかし、今度は彼に強烈な閃光が襲いかかる。
 ラルカスはそれに網膜を焼かれ、悲鳴も上げられず転げ回った。

 やや足を引きずりながら、早足で遠ざかる足音。
 ラルカスはそれを聞きながら、さらなる殺意を漲らせた。

     ○

 ハタヤマは充分距離を取ったのを確認し、壁に寄りかかりながら手の中の物体に目を落とした。
「持ってて良かった、伊藤くんのデジカメ……」
 心底安堵して胸を撫で下ろす。これはハタヤマが魔法学院時代の学友に譲り受けた一品である。盗撮マニアだったその彼が、友好の証に譲ってくれたのだ。しかし、ハタヤマは写真を撮る趣味も、そしてもちろん盗撮する趣味もなかったので、今の今まで存在すら忘れていた。
「おい宿主、大丈夫か?」
「大丈夫……とは言いづらいね」
 全身をあますことなく痛めつけられ、骨が悲鳴を上げている。もう全快時のようには動けないだろう。
 そして、その程度の機動力ではあの暴力を凌ぎきることはできない。
 メタモル魔法を使うことも考えたが、残念なことにミノタウロスに勝てる生物を思い浮かべることができなかった。一手の悪手が致命傷となりかねないこの状況では、悔しいが封印しておくが安定だろう。
 このまま退却することも却下だ。それでは根本的な解決にならず、逃げた足取りを追いかける間にまた犠牲者が増えてしまう。
 ミノタウロスは回復力も常軌を逸していると聞く。この渾身の目眩ましすら、数時間持ってくれるかどうか。
 相手に視力が戻った時。それが、ハタヤマの最後である。
「………………」
 ハタヤマは知恵を働かせる。脳みそをぎゅんぎゅん廻し、どうにかならんかと起死回生の妙案を探す。
 相手に残っているのは聴覚、そして嗅覚。聴覚は、その場から身動きしなければ殺したと同様の状態に持って行ける。
 問題は嗅覚――
 ハタヤマはポッケを探る。すると、小指に固い瓶の感触があった。
「宿主、時間はあまり無いぞ。どうする」
 ハタヤマは眼を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
「……よし」
 そして、決意を固め、カッと眼を見開く。
「もうボクも長くは持たないだろう――勝負を賭けるよ」

     ○

 ラルカスは赤黒く濁った瞳を隠さず、洞窟内を徘徊していた。
 一度ならず二度までも。次こそは必ず殺す。絶対に殺す。そう胸中で繰り返しながら。
「――……?」
 不意に、場違いな香りが鼻孔をくすぐった。陽光の下でしか嗅げぬはずの匂い。これは――花の香りだ。
 その匂いは点々と続いており、明らかに作為が感じられる。
「事ここにいたって、まだ抗うか」
 己の敗北を認めず、この状況に絶望せず、まだ牙を折らぬのか。敵ながら天晴れ。現在では珍しいくらいに気骨のある若者である。もし自分が未だアカデミーの講師であれば、文句なく筆頭講師に推薦したことだろう。
 しかし、現実は無情だ。時の流れは戻らない。わたしは暗き洞窟に潜む雄牛であり、彼はわたしの獲物でしかないのだ。
 いいだろう。その誘い乗ってやる。
 一歩進む毎に匂いは強くなる。この匂いの先にやつは待ちかまえているのだろうか。
 そう思うと、はやる気持ちが抑えきれなくなる。はやく、はやくあいつの断末魔が聞きたい。ああ、やつはどんな声で鳴くのだろうか。想像するだけでイッてしまいそうだ――
 しばらくしないうちに匂いが止まった。いや、『充満した』と形容すべきか。
 一段と花の香りが濃くなり、もうそれ以外の匂いを嗅ぎとれない。ラルカスはこれがどの花の匂いだったのか、花の名前を思い出そうとしたが。記憶の底で砂を被されすぎて、もう思い出せなかった。
 そんな風にぼんやりと物思いに耽っていたから、彼は気がつかなかった。
 天井にへばり付き息を潜めた、黄金の瞳の存在に。
「――!?」
 ラルカスは急に肩が重くなった。何者かにのしかかられたらしい。
 何者かは彼に反撃する間も与えず、両手の小指と薬指を折って、中指をラルカスの耳に突っ込んだ。
「エレキバーストォ――フルドライブッ!!!!」
「グゥルオオオォォォアアアアアアァァァァアァアッッッ!!!?」
 ハタヤマの腕を伝って奔った紫電がラルカスの鼓膜を破り、内部から全身を焼く。洞穴内は瞬く間に、空気の爆ぜる音と絶叫で満たされた。
 ラルカスは想像を絶する苦痛に暴れ回る。
「ぐぅっ!! があ゛ッ!!」
 後先考えず全力で後頭部を岩壁に強打。
 続いて身体をくの字にして反対側の壁に顔面から突撃する。
 ハタヤマはそれに巻き込まれ、頭と顔から血しぶきをぶち撒けた。
 離したい。今すぐ力尽きてしまいたい。しかし、この組み付いた足を解いた瞬間、自分の未来は永遠に閉ざされるだろう。
 嫌だ――まだ、まだ『みんな』に謝ってないのに――
「ボクはぁ、絶対帰るんだぁぁあぁぁあ――ッ!!!!」
 ハタヤマは猛々しく吼え、生への執着を繋ぎ直した。眼に映るのは、雄牛の後頭部。ラルカスがミノタウロスを討った際致命傷となったらしい、今もなお残る痛々しい傷跡。それは未だ完治せず、そこに残り続けていた。
 ハタヤマはスズキを抜き、両手で柄を握りしめ弓なりに振りかぶると、絶叫を追い風に猛然と振り降ろした。
「グギャッ!!」
「やったか!?」
 びびくんと身を跳ねるラルカス。スズキが希望をこめて願う。しかし、ラルカスは一瞬鋭い悲鳴を上げただけで、なおも暴れて手がつけられない。脳を刺しただけでは死なない。
 ハタヤマはもう殆ど本能だけで魔力回路をいじり、魔力核から発生させた電気を、コートを導体として指先に送り、スズキを媒体にして頭蓋内部に注ぎこんだ。
「グギャン゛ッ!!?」
 ボン、と異音が発生し、後頭部が異常に隆起した。
 ――脳みそが爆発したのだ。
 ラルカスは一際大きな悲鳴を上げ、しばし棒立ちになり、そしてゆっくりと仰向けに倒れた。倒れこんだ際、重々しい落下音が生じる。
 ハタヤマは最後の力を振り絞ってスズキを抜き、肩の上に立ち上がり、押しつぶされないよう飛び降りた。
 着地する余力すら残っておらず、べしゃりと崩れ落ちるように倒れこむハタヤマ。
「宿主! しっかりしろ宿主! 聞こえてるか!?」
「き、聞こえてるよ……」
「やったぞ! 生き残った! おまえは勝ったんだ!」
 かすれた声で応じるハタヤマに、興奮冷めやらず捲し立てるスズキ。己が選んだ使い手が、まさか狂える雄牛を降すほどとは思っておらず、感動が隠せないようだ。
 コートが彼の命を救った。風石糸を用いたことにより電気との相性が良く、ほぼ無反動でエレキバーストが行使できたこと。そして、生じる魔力のロスが被服によって防がれたこと。
 それがなければ、エレキバーストを発動した時点で反動に耐えきれずショック死、よしんば耐え抜いたとしても、魔力を使い果たして指一本動かせず、眠るように緩やかに死んでいったかもしれない。
 備えあれば憂いなし。最悪の事態に備えて周到に準備を行ったからこそ、ハタヤマは生き延びることができた。
 ハタヤマはよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りでラルカスに歩み寄った。
「死体をいたぶる趣味はないけど……悪く、思わないでね……」
 ハタヤマはスズキに魔力を通し、一息にラルカスの首筋をなぞった。スパッ、と雄牛の首が刎ね飛ぶ。離れた首と胴体の間から、血しぶきがホースの先から吹き出すように噴出した。
 シルフィードの話では、首を刎ねてもしばらく生きているらしい。念には念を入れても損はないはずだ。
「宿主、まだ気を失うなよ。傷を負って衰弱した状態で手当もせず寝たら、比喩でなく死ぬぞ」
「分かってるよ……」
 もうしゃべることすらおっくうなのか、力なく呟くハタヤマ。
 そのままずるずると足を引きずり、その場を去ろうとした。

「……教えてくれ」

 弾かれたように振り返るハタヤマ。脳を爆砕し、首を刎ねたのに。まだ生きているというのか?
 しかし、ハタヤマはすぐに警戒を解いた。何故なら、刎ねられた首がぱちぱちとまばたきして、呟いているだけだったからだ。
「教えてくれ。わたしは、本当に人間だったのか? 本当は、人間だった頃の記憶が夢で、ミノタウロスだったことが現実だったんじゃないか? わたしは、『人間だった夢』を抱いた、醜い化け物だったんじゃないか? 教えてくれ。誰か、教えてくれ」
 教えてくれ、教えてくれ、と壊れた人形のように繰り返すラルカス。ハタヤマは首のそばに屈み込むと、優しく、包みこむような声色で語りかけた。
「あんたは悪い夢を見ていたのさ。ほら、もう起きる時間だよ。眼を閉じて……次に目覚めた時が、あんたの本当の現実だ」
「……そうか。全ては、夢だったのか」
 ラルカスの頬を一滴の涙がこぼれ落ちる。
 ハタヤマがその眼を閉じてやると。
 彼はもう、二度と目を覚まさなかった。

     ○

「宿主、おい宿主起きろ」
「――……んぁ?」
 スズキの呼びかけに眼をしぱしぱさせるハタヤマ。彼はあの後、頭から血を流しながら満身創痍でリビング(的な部屋)に戻ってくると、本棚にもたれかかり身体を丸めてうずくまって、激戦の疲れを癒していた。
 もちろん、手当をしなければ衰弱死してしまうほどの重傷を負ったまま寝入ってしまったのだが、そこはスズキが機転を利かせた。
「本当はもう少し寝かせておいてやりたいんだが……俺では、始末をつけられん」
 スズキはハタヤマが力尽きてしまった直後、すぐさま身体を乗っ取って傷の手当てを行った。とにかく出血だけでも止めなければ、本当に危険な状態だったのだ。
 ハタヤマは頬に手をやり、ぐるぐる巻きにされた包帯を感じて小さく礼を言った。
「俺はあくまでも『共演者』だ。さあ、幕を引いてくれ」
 どうやらスズキは、ハタヤマが描く結末に興味津々らしい。自身は決して出しゃばらず、あくまで使い手の決断を待つ。それは、使い手の一生を小説や映画のように傍観してきた、彼の唯一にして最大の楽しみだった。
 ハタヤマは寝ぼけ眼でぼりぼり頭を掻こうとして、怪我を思い出して止め。おもむろに立ち上がり、『ミノタウロスの残飯入れ』につかつかと歩み寄った。
「おいおい、そんなとこにまだなんか用があんのか?」
 ハタヤマは答えず、黙々と白骨をかたづけていく。
「――おや?」
 スズキの間の抜けた声。
 人骨を掘り進めた先には、鋼鉄でできた観音開きがあった。

 カツン、カツンと石段を下りていく。壁には燭台すらないので一寸先は闇どころの話ではない。というか、この諺は明かりがどうこうという意味は含んでいないのだが。
 ハタヤマは手元の蝋燭立てのぼんやりとした明るさを超感覚で増幅し、それを頼りに地の底へ下りていく。左手にはスズキを構えたままだ。
 延々と続く闇と下り階段は、まるでそれが奈落の底へ続いているのではないかという錯覚を引き起こした。
「宿主。なぜピンポイントでここを発見できたんだ?」
「んー? 簡単なことだよ」
 ハタヤマは人差し指を立てる。
「あのヒトは記憶にないって言ってたけど、あの仕掛けは明らかに魔法使いが作ったもの。――あのヒトの語る『ハイド』さんでは、おそらく作れないはずだ」
「『ハイド』?」
「夢の中で彼が演じていた役割の名前さ」
 裏の人格、自分を操る自分ではない意識。ハタヤマはそれを、便宜上『ハイド』と名付けることにした。
「この仕掛けは『ハイド』のものではない。しかし、あの人骨を積み上げたのは紛れもなく『ハイド』の仕業だ。ということは――」
 ハタヤマは一つまばたきをし、一拍置く。
「ラルカスにとってとても大切だったもの、そして『ハイド』にとってとんでもなく邪魔だったものが、そこに隠されているはずさ」
「人骨はカモフラージュだったのか……」
 ハタヤマはなにかあるとすれば、間違いなくここ以外にないとアタリをつけていた。真実はいつだって、狂気と闇の中にうずもれ、日の目を拒むように隠されている。

     ○

 しばらくすると、広い地下室に辿り着いた。
 そこは四方の壁に切りだした石を煉瓦のように積み重ねてあり、剥き出しの岩壁ではない、ちゃんとした作りの部屋だった。ちゃんと燭台も備え付けてあり、人間用の工夫が施されている。
 ハタヤマは燭台に火を灯した。
「なんだこの部屋は?」
 スズキがまたも怪訝そうに呟く。炎によって浮かび上がった室内は、とても異様な空気を醸し出していた。
 なにせ、部屋の中央に棺が一つあるだけで、それ以外になにもないのだ。
 ハタヤマは棺に歩み寄り、おもむろに手をかけ、蓋を開けた。
「――うっ」
 スズキは肺のない身体で息を呑んだ。
 ホコリを被った棺の中には、『固定化』によって永久に姿を固められた、色とりどりの花が敷き詰められており――その中央に、白い骸骨が寝かされていた。
 棺の状態から、おそらく長い年月、そのままにされていたようだが、骸に『固定化』がかけられているのか、骨繊維の腐敗は一切無かった。
 物言わぬ成人男性の白骨死体が、地の底で眠っていた。
「や、宿主。こりゃ、いったいなんなんだ? いったいぜんたい誰の骨だい?」
「これはおそらく、『ラルカス』の死体だよ」
「なにぃ!?」
 スズキは心底たまげた。これがミノタウロスだった男の成れの果てか。
 ハタヤマはスズキをホルダーに仕舞い、何事か確かめるように、じっと『ラルカス』の亡骸を見つめた。
「ちょ、ちょちょちょちょっと待て! 俺にもどういうことか説明しろ! 自分だけで納得するな!」
「ボクも整理してる途中なんだ。頼むから少し黙って――」
「いいや黙らないね! おまえの思考の過程も教えろ! 契約を忘れるな契約をっ!」
 ハリーハリープリーズ、とまるで似非外人のように捲し立てるスズキ。いや、本当にそんなことを言ってるわけじゃないが、喧幕は紛れもなくそんな感じである。
 ハタヤマは苦笑し、こほん、と咳払いを一つする。
「じゃあ、キミにも分かるように、一つ一つ紐解いていこうか」
 憶測も多分に混じるけど、とハタヤマは前置きし、自分の中で咀嚼するように思考をまとめると、穏やかな声色で語り始めた。
「魔法使い『ラルカス』は、十年前にこの洞窟で死に、そして生き返った。
 肉体を捨て、生まれ変わったんだ」
「ああ、禁呪『脳移植』を用いてな」
「その時の彼は、生の喜びを噛みしめていたらしい」
 どこから取りだしたのか、ごつい装丁の分厚い本を手にしているハタヤマ。彼は、大きな肩かけ鞄を提げていた。
「なんだそれは?」
「彼の日記さ。さっき上で見つけた」
「いつの間に……」
「まあ、そんなことはいいんだ。この日記によると、三年目くらいまではテンション上がりっぱなしだったみたいだね」
 一年で一冊、日記は十冊。初めの三冊は強靱な肉体への喜びと研究の経過報告がつらつらと書き連ねてある。よほど嬉しかったのだろう。その筆跡は踊るように軽やかだ。
「しかし、そんな薔薇色の日々も、五年目を境に曇り始める」
 ハタヤマが『ラルカス 五年目』と表紙に金字で刻印された本を開く。そこには、薄れゆく自身の記憶と、『悪夢』についての不安が綴られ始めていた。
「日常の中で『空白』が生まれ始める。それは日を経るごとに頻繁になり、悪夢も鮮明さを増していく」
「宿主が『呪い』っつってたやつだな。しっかし、本当にそんなことあんのかねぇ」
「え? あるわけないじゃん」
「――は?」
 真顔で全否定するハタヤマ。自分で言ったくせに速効で前言撤回した。
「なにキミ、もしかして信じた? 死人に口なしって言葉知らない? 魔法使いの呪い(まじない)ならまだしも、この世界の魔法生物にそこまでの力はないよ」
「じゃあ、どういうことなんだ? なぜこの男は狂ったんだ?」
「………………」
 ハタヤマは屈み込み、棺の中から白い花を取りだした。指先で花冠の尻をつまみ、くるくるともてあそぶ。
「これを読んでみて」
「ん? ……ホルダーに仕舞われていては、宿主の手元は見えんよ」
 ハタヤマはそれを聞いて、それもそうかと苦笑し、『ラルカス 七年目』の日記のとあるページを読み上げた。

     ◆

 ―― 七年目の手記 二六八ページ

 恐い。眠るのが恐い。なぜあんな夢を見るのだ?
 催眠薬を調合し、毎日服用することにする。くそ……この身体では効きが悪い。

     ◆

「催眠薬……まさか、あれか?」
「そう。彼は日常的にたしなむ紅茶の中に、常にそれを混ぜていた。しかし、強靱なミノタウロスの肉体には、ちょっとやそっとの毒なんて効きやしない。ゆえに、日々の摂取量はどんどん増え、効き目もますます強いものを求めるようになっていく」
 ハタヤマは指先で花を弾いて捨てた。
「彼はもう、薬物中毒だったんだろうね。第二の人格――いるはずのない『ハイド』さんを内に生みだし、罪を被せてしまうくらいに」
「それは――」
 なんて、救いのない。ハタヤマはラルカスの一連の言動を、『薬中患者の狂言』だと推理したのだ。
「しかし」
 ぱん、と手を叩いて補足するハタヤマ。
「本当のところは闇の中だよ。ボクがでまかせで言った『怨念』なのかもしれないし、はたまた全て計算ずくの極悪者だったのかもしれない。ま、その辺りは本人に聞いて見なきゃ――いや」
 ハタヤマは俯く。
「本人も、分からないかもしれないね」
「………………」
 つかの間訪れる沈黙。果たしてラルカスはなにを想い、なにを考え、そしてなぜこんな凶行に走ったのか。もう、それを知る術はない。
 スズキは空気を変えようと質問を捻り出した。
「そうだ! この骸はなんなんだ? やつはなぜこんなものを残しているんだ?」
 ハタヤマは眼を閉じ、何事か考え込む。スズキはそんなハタヤマの返答を、辛抱強く待った。
 やがて、ハタヤマが瞳を開いた。
「それはね――これが、彼にとって唯一の心の支えだったからさ」
「……?」
「ボクは昔、一度だけ同族と出会ったことがある」
 突然昔話を始めるハタヤマ。スズキはそれが今回の件となんの関連があるのか疑問だったが、それよりもハタヤマが自身のことを語る方に興味を惹かれ、黙っていた。
「そいつはボク以上にメタモル魔法が達者なやつでね。ボクの知らない魔法生物をたくさん知っていた」
 色々視せてもらったよ、と懐かしそうに頬をゆるめるハタヤマ。そこには、普段見せることのない、懐古の念が浮き出ていた。
「でも、そいつには『自分』がなかった」
「『自分』?」
「そう、『自分』。数多の魔法生物を識り、姿形を写し取れたけれど。本当の自分の姿を、彼は覚えていなかった。姿を変え、別の種族にとけ込んだ時間が長すぎて。彼は、元の自分がどんな姿だったかを忘れてしまっていた」
 チャック族は絶滅の危機に瀕する種族。ゆえに、頼れるものは自分自身のみ。しかし、独りきりで生きて行くのに、世間は些か厳しすぎた。
 『彼』は、生き残る術として、チャック族であることを捨てた。
「初めはそれでよかったらしい。入り込んだ種族のヒトたちもよくしてくれた。でも、彼の心には、ずっと隙間風が吹いていた」
 周囲には家族のある者たちが、和気藹々と生を営んでいる。しかし、自分には誰もいない。昼間仲良くしていても、住処に戻ればいつも独り。鏡に映る自分の姿は、他の者たちと同じなのに。
「そして、彼は一線を越えた」
「……どういうことだ?」
「とある家族の一匹を殺し、自分がそれに成り代わろうとしたんだ」
 殺した相手は、友達だったらしい。
「彼は死んだ友達の代わりに、自分を家族にしてくれと頼んだ。当然頼まれた方は困惑する。しかし、彼はその困惑を拒絶と受け取った」
 そもそも『自分を代わりにしてくれ』と頼むこと自体が非常識なことに、彼は気づかない。彼もまた、狂気に犯された一匹だった。
「そして、その家族を皆殺しにした」
「うわぁ……」
「そうなるとその事件は瞬く間に一族郎党へ知れ渡る。彼はもうその集団の中にはいられない。そして、どうしたと思う?」
「どうしたって……どう、したんだ?」
「壊滅させた。一族郎党を根絶やしにしたんだ」
 スズキは息を呑んだ。そんなこと、たった一匹の幻獣に可能なのだろうか。
 しかし、チャック族ならば――こと戦闘において、アンゴルノアの歴史上最強魔法生物の五指に入ると謳われたこの一族の者ならば、可能なのだ。
「それからは色々な種族を転々として、入り込んでは殺してを繰り返していたらしい」
『彼』は自分の居場所を求め、自分を認めない者たちを殺し続けた。ただ、『自分』を手に入れたいという一念のもとに。
 その過程で、ハタヤマは『彼』と出会った。――ギルドの情報網に捕まったのだ。
「メタモル魔法の使い手には、一つだけ絶対の掟があるんだ」
「それは、なんだ?」
「それは――自我を失わないこと。自分を信じ、自分を愛し、決して自分を見失わないこと。ボクは師匠に、これだけは口を酸っぱくして言い聞かされた」
 変身魔法を操る術者は、常に『元に戻れなくなる』危険にさらされている。自分の姿が、自分の中から消えてしまうのだ。
 ハタヤマが自身を絶対的に信用し、そして決して裏切らないのは、そういった理由もある。
「『自分』が消えた者は自我が不安定になり、確固たる『自分』を探すようになる。拠り所を求めるんだ」
 『彼』はそれを『居場所』に求め、既に持っている者から奪うことを切望するようになった。
「今回の場合もそう。ラルカスは『人間だった自分の身体』が、唯一の拠り所だった。この死体は、自分が人間であった証なんだよ」
 ラルカスは不安になるたび、死した自分の顔を覗き込み、思い出と誇りを思い出していたのだろう。それがどれほど大切だったかは、このように作り込まれた安置室や棺、そして棺いっぱいのドライフラワーから見てとれる。
 この身体がある限り、ラルカスは自我を保ち続けられる……自己を肯定し続けられるはずだった。
「だが、その魔法もいつかは解ける」
「どういうことだ?」
「人体に『固定化』はかけられない。死体が、腐り始めたんだ」
 ハタヤマは四年目の日記を開く。そこには、朽ちゆく己の死体と、それをどうにかして長らえさせようとするラルカスの悪戦苦闘が延々と綴られていた。
 よほど気が気でなかったのだろう。筆跡はかなり荒い。
「しかし、尽力虚しく彼の願いは叶わなかった」
 ハタヤマは四年目の最後のページに目を落とした。

     ◆

 ―― 四年目の手記 三六五ページ

 ついに、私の肉体が腐り落ちてしまった。唯一残せていた顔も、無惨に型くずれをおこした。
 無念である。

     ◆

 これにより、ラルカスは急激に過去の記憶が薄れていくこととなる。
 これまで守ってきた記憶が、加速度的に消え失せていく。それは、彼にとって恐怖以外の何者でも無かっただろう。
「『顔』が崩れたこと。これは、ラルカスにとってトドメになった」
「なぜ?」
「人間だった自分の『顔』。それは、彼が人間だった最後の証明なんだよ。それが崩れてしまったことで、抑止力としての機能を失ってしまった」
「拠り所を失って、一気に転げ落ちてまった……ということか」
 徐々に消えゆく記憶。そして毎夜襲い来る悪夢。それにより日々疲弊していく心。そのためラルカスは薬を求め、心をぼろぼろにしていった。
 理由はそれだけではない。
「それに、彼は本当の意味であの身体に適合してはいなかった」
「どういうことだ?」
「肉体の死は免れたけれど、脳は変わらず朽ちつつあった。本当の意味で、病気から逃れたわけではなかったんだ」
 ミノタウロスの再生力は想像を絶するものがある。それはなにも肉体だけでなく、脳の再生にも当てはまる。
「日々病気で壊死していく脳細胞を、ミノタウロスの回復力が再生していく。そして、脳細胞はどんどん新しいものに置き換わっていく」
 だから、昔のことをどんどん忘れていく。皮肉なことに、死なない身体が仇となった。
「これら色々なことが合わさった末、こんなことになった……んじゃないかというのが、ボクの妄想だよ」
 どうかな、とへらりと笑うハタヤマ。スズキはそんなハタヤマの推理に、久方振りに心を震わせていた。
(やはりこの男――面白い)
 こいつといれば決して退屈しないだろう。自身のめがねは狂っていなかった。
 スズキは、この男に付いていこうという決意を改めて固め直した。「それで、どうするんだ?」
「どうするって?」
 ハタヤマがきょとんとした。スズキは問いただす。
「この狂人の凶行を、白日の下にさらすのか?」
 ハタヤマのおかげでそこまで大規模にはならなかったが、それでも子どもを七人も喰らった凶悪犯だ。このままにしておくわけにはいかないだろう、とスズキは思い、ハタヤマもそう考えているだろうと想像していた。
 しかし、ハタヤマは。「どうもしないよ」
 あっさりとそうのたまった。スズキは顔があればアゴが地面に触れるくらいびっくりしているだろう。
「言ったでしょ? 『死体をいたぶる趣味はない』って」
「はぁ?」
「ラルカスという魔法使いがいた。彼は十年前、村人に乞われて怪物退治に赴き、そして死んだ。それでいいじゃないか」
 そう語るハタヤマの表情から、その真意は掴めない。彼は棺の蓋を閉じると、踵を返して歩き出した。
 スズキは、まあ、使い手がそう言うなら、と口を挟む気はなかった。

「そういえば」
 帰路、スズキがおもむろに語りかける。
「その『彼』とやらは、どうなったんだ?」
「ボクが殺した」
 ハタヤマはちらりと眼球を動かし、そして言った。
 それは、なんの感慨もない、機械的な口調だった。
「彼は死ぬ間際、元の姿を取り戻したよ。そして、うっすらと微笑んで逝った」
「――宿主。おまえは、本当に優しいな」

     ○

 レオとホプキが戻ってきて一日経った。
 村には少しだけ活気が戻った。
 何故なら、『人買い』たちが捕まえられ、不安の雲が吹き飛んでいったからだ。
 レオとホプキは『お兄さん』の武勇伝をみんなに語って聞かせた。
 ボクがお兄さんに頼んでいたのをみんな窓から見ていたから、その話はすんなりと信用された。
 しかし、『化け物』の話は、誰も信じなかった。
 レオとホプキは、本当なんだと言い張ったけど、みんな笑い話としか受け取らなかった。
 かくいう僕もその一人。
 その話を信じあぐねている。

 お兄さんは約束を守ってくれた。
 レオとホプキは目を輝かせてお兄さんのことを語った。
 レオなんて「いつか兄ちゃんみたいな男になる!」と目を輝かせて木の枝を振り回している。
 王宮の近衛衛士隊に志願するつもりらしい。
 ホプキはレオほど気が強くないからそんなことはしないけど、彼もきっとお兄さんのことを一生忘れないだろう。
 二人とも、ミノタウロスに立ち向かったあの背中が忘れられない、って言ってたから。

 でも。
 まだ一つだけ、果たされていない約束がある。

「アン……」

 僕は深くため息を吐く。
 アンジェリーナがまだ帰ってきていない。
 お兄さんは、「必ず見つけてみせる」と言ったのに。

 僕は、アンが好きだった。
 あの穏やかな、ゆったりした笑顔が素敵だった。
 向日葵みたいに弾けるような元気はないけど、風に揺れる秋桜みたいな優しい空気が気になっていた。
 いなくなって初めて分かった。
 僕は、アンが大好きだった。

「ご飯よー!」

 お母さんが呼んでいる。
 なかなか起きてこない僕に痺れを切らしたみたいだ。
 もう、そんなに怒鳴らなくても聞こえてるよ――


 起きあがろうと布団から身を起こした時。
 窓の外に、黒いコートの裾がなびくのを見た。

「――お兄さん!?」

 僕は飛び起きて窓へ駆け寄る。
 そして両開きの窓を押し開け、大きく身を乗り出した。

「……あれ?」

 しかし、そこには誰もいない。
 見間違いだったのかな、と窓枠に両手をついて探そうとしたら、ついた右手になにかが当たった。

「あっ」

 それは、ピンク色の水晶の耳飾り――アンの耳飾りだった。
 僕は、それをしばらくじっと見つめる。
 僕が渡したのは片方だけだったけれど、ここにあるのはちゃんと一組になっている。

「ジョシュアー! 早くしなさい! 冷めちゃうでしょ!」
「分かってるよーっ!」

 僕はやかましいお母さんにそう怒鳴り返し、その耳飾りを机の上に置いた。

「ありがとう、お兄さん」

 僕は、レオたちの言うことを信じる。
 ミノタウロスは本当にいた。
 だって――


 お兄さんは、約束を守ってくれた。
 アンを見つけてくれたんだから。




 その後、この村には『黒き衣の旅人』という伝承が語り継がれた。その者は黒き衣に美しい宝石の短剣を携え、ふらりと村へ訪れる。
 そして小さき子どもの願いを聞き入れ、『人買い』退治へと赴く。そこで狂える雄牛と出会い、その住処で一晩の激戦を繰り広げる。
 そして夜が明けると、住処の入り口は落盤でふさがり、旅人は行方知れずとなる、という内容だ。

 それにより、この村では旅人を『幸福の象徴』とし、訪れる者に村人全員で真心をこめたもてなしを行った。それが噂となり訪れる者が増え、この村は未曾有の繁栄を遂げることとなる。
 それを語り継ぐ語り部は吟遊詩人となり、成人し村を出ると世にその物語を広めた。
 その男は、常に桜色の耳飾りを身につけていたという。



[21043] 五章幕間
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:21
【 五章幕間 『博愛とは悪なのか?』 】



 見上げれば満天の星。
 一点の曇りもない夜空は、ため息を吐いてしまうほどに美しい。
 ハタヤマは城下町を抜ける通りを歩きながら、ぼうっと空を眺めていた。
 月や星がまたたいているということは、この世界にも宇宙があるはずだ。ならば、夜空の向こうには宇宙が広がっているのだろうか。日が昇り、そして沈み、月が毎夜顔を出すが、この世界も丸いのだろうか。
 そんなたわいのない疑問が、頭の中に浮かんでは消える。
 似ているが、違う。この世界は『違う』のだ。
「よお、まだいたか」
 背後から声がかかった。振り返ると、片手を上げてひらひらさせながら、レナードが歩み寄ってくるところだった。
「ちょっと注文した物を受け取りに行ってたからね。キミこそ、『もう少しひっかけてから帰る』んじゃなかったのかい?」
「かか、まあな。……ちっと話そうや」
 レナードはハタヤマの隣に並ぶと、噴水を指して縁に座った。ハタヤマも誘われるがままに腰掛ける。
 レナードは懐からマッチと紙巻きタバコを取り出すと、マッチに火をつけようとしたが。
「――ん。ありがとよ」
 横合いから伸びてきた手。人差し指を立てた指先には、小さな炎が点っていた。
 レナードはハタヤマがメイジ(正確には違うが)だということを知っているので、動じなかった。
「タバコは身体に悪いよ」
「知ったことか。たとえ悪くとも、こればっかりはやめられん」
 ハルケギニアでは、タバコとニコチンやらタールのような成分の関連性はまだ解明されていない。なので、吸い過ぎると肺ガンになる、なんてことはまだ明らかにされていなかった。
 喫煙者の認識は、せいぜい『煙たい人』程度である。
 レナードはすう、と染み込ませるように紫煙を呑み込み、ゆっくりと吐き出した。
「お前、あの酒場の娘とデキてるんだってな」
「は? いきなりなに? というかどっからそんな話が」
「いいから答えろ」
 いつになく真剣な彼の様子に、ハタヤマは戸惑いながらも答えた。
「ボクとあの子は、なんの関係もないよ。世話にはなってるけど、付き合ってはいない」
「そうか」
 レナードはタバコをくわえ、吸い口をガジガジしながら黙った。
 この世界にはフィルターがないので、すこぶる身体に悪そうだ。
「だが、なにかと面倒を見てるそうじゃないか。聞いたぞ。勉強を教えてるんだってな」
「そりゃ、まあ、一宿一飯の恩って言うし。頼まれればやぶさかでもないよ」
 ハタヤマとしては、別に他意があって講師を引き受けたわけではない。本当に軽い気持ちで、役に立てればと思ったからだ。
 しかし、レナードはハタヤマの答えに、失望したように煙を吐いた。
「一緒に働いて、勉強を見て、一つ屋根の下で生活して……本当に、なにも思わないのか。なにも感じないのか?」
「………………」
 横目でハタヤマの反応を窺うレナード。その視線に、ハタヤマは押し黙った。
 レナードの責めるような瞳。そのことに、ハタヤマは思い当たることがあったからだ。
「あんまり気を持たせるな」
「――それは、キミ個人の感情による言葉かい?」
「本気で言ってんのか。だとしたらぶん殴るぞ」
「冗談だよ」
 拳を握るレナードに、ハタヤマはふっと笑って返した。もとより、ハタヤマも軽口のつもりだったからである。
 レナードは短くなったタバコを踏み消し、立ち上がって民家の壁の前に移動した。間を置かず、ちょろちょろとした水音が聞こえてくる。
 ハタヤマは顔をしかめた。
「あの女が目くじらを立てるのは、お前にずっとそばにいて欲しいからだ。お前が自分を見てくれないから、お前の眼が、ずっと遠くを映しているから、あの女は不安になる。このままお前を放っておけば、いつか突然、お前が故郷へ帰ってしまうんじゃないか。自分の前からいなくなってしまうんじゃないか。そんな不安ばかりが心を焦がし、焦りがつのり、だからお前を咎めてしまう」
 日に日に顕著になるジェシカの誘惑は、ハタヤマもすでに感じていた。だが、どんな誘いも柳のようにいなしてしまう彼に、彼女が寂しそうにしていることも知っている。
 レナードは、はっきりしないハタヤマを責めているのだ。
「その気がないなら優しくするな。傷つくのは――より、想いが深い方なんだぞ」
 レナードはそう言って、やや腰を振るとズボンを直した。
「俺は、貴族の三男坊だった」
 唐突に語り始めるレナード。ハタヤマは俯いていた顔を上げ、関心を示す。
「自慢じゃないが、そこそこデカい家の生まれだ。上に兄貴が二人、下に妹が一人の四人兄妹だった。俺たちは仲が良くて、遊ぶ時はいつも一緒だった。妹は身体が弱くて、外ではあまり遊べなかったが、小さい自分はままごとなんかをして遊んだ」
 レナードは噴水に近寄り、両手を水に浸け濯いだ。
「だが、十を超える頃からお互い疎遠になり始めてな。兄貴二人は魔法学院にやってもらったが、俺は行かせてもらえなかった。兄貴たちほど、才能がなかったからだ。この頃には妹の病状がさらに悪化していて、毎日薬を服用しなきゃいけない身体になっていた。俺は毎日、妹の世話役みたいなことをさせられてた」
 レナードは寂しげに眉尻を落とした。濯ぐ手は、止めない。
「兄貴たちが羨ましかったし、妹が疎ましかった。『面倒かけてごめんなさい』とか、『お兄様も勉強すれば、きっと立派なメイジになれるのに』とか、そんな言葉をかけてくるのが鬱陶しかった。俺にとっちゃ妹の世話は、この家に残るためには断れない仕事だったし、分かったような口を聞いて、俺を気遣ってくる妹が酷く煩わしかった」
 レナードは水から手を抜き、だらりとたらした。濡れた両手の先から、ぽたぽたと水滴がしたたり落ちている。
「だが、そんな毎日は長く続かなかった。……残念なことにな」
「……?」
 嫌になるような毎日が終わったというのに、レナードの表情はすぐれない。ハタヤマは眉をひそめた。
「母上が急死した。俺や妹に優しくしてくれた人だ。俺たちを守ってくれていた母上が死んだことで、俺たちへの風当たりがより強くなった。……役に立たない三男坊と、金ばかり食う妹、ってな」
「……死因はなんだったんだい?」
「心臓発作だった。――母上は、持病なんてなかったのにな」
 レナードの瞳に火が灯る。その炎の色は、薄暗い――憎しみの色だった。
「母上が死んだ後、親父は待っていたかのようにすぐさま再婚した。化粧の濃い、嫌な女だった」
 レナードは語った。その継母が現れてからの、屈辱と忍耐の日々を。
 食事が犬の餌のようなものになり、部屋を取り上げられて馬小屋で寝起きさせられたこと。妹も同じ境遇に落とされ、さらに病状が悪化したことを、拳をわななかせ、歯軋りして語った。
「幸いなことに、薬は一応もらえていた。俺は自分の食事すら妹に与え、甲斐甲斐しく世話をした。この頃には、俺にとって妹は欠かすことの出来ない存在になっていた。骨と皮みたいになっちまったのに、まだ俺のことを案じやがる馬鹿な妹。俺は、それまでの俺を殺してやりたくなった」
 自分はままならない毎日に嫌気が差して、その鬱憤をぶつけていたのに。怒鳴りつけ、ひっぱたいたこともあった。なのに、妹はまだ自分のことを慕い、変わらぬ笑みを向けてくれる。その笑顔は、衰弱により見る影もなくなっていたが、とても美しいと感じた。
 レナードと妹は、寄り添って毎日を生き延びていた。
「だが、悪いことは重なりやがる」
 レナードは拳をゆっくりと打ち付けた。噴水のへりは煉瓦でできており、固い。
「親父が、『金がない』と言い出しやがった。だから、妹を放り出す、と」
 家具や調度品は豪華になり、量も母上が亡くなってから随分増えていた。コックの話では、食事には毎日稀少な食材を各国から取り寄せていたらしい。そして、継母。
「あいつが――あの女が、見たこともないような毛皮を、指輪を、首飾りを提げているのを見て、俺は殺意を抱いた」
 レナードは息も荒く、断続的に拳を打ち付け続ける。その勢いは徐々に速く、強くなっていく。
「俺は懇願した。それだけはやめてくれと。あいつは独りでは生きられない。死ねと言っているのと同義だ。そしたら、あのババアなんて言ったと思う?
 『聞き分けのない子はいらない。お前も出て行け』だとよぉ……っ!!」
 一際大きく振りかぶり、拳を振り降ろす。その拳が鈍い音を立てる直前に、横合いから手首をがしりと掴まれた。
 病的に血走った眼で、掴んだ手の主を睨みつけるレナード。ハタヤマは、沈痛な面持ちで眼を閉じ、ゆっくりと首を振った。
 レナードの拳は皮膚が裂け、血が滲んでいた。
「……俺は、妹と家を出た。不憫に思ったのか、親父が俺に三ヶ月分の薬を持たせてくれた。だが、それだけだ。路銀もなく、住むところもない。俺たちは捨てられたんだ」
 レナードの瞳に理性が戻った。
「その後はお涙頂戴……語るようなもんじゃねえ」
 レナードはハタヤマの手を払うと、背を向けて歩き出した。
「お前には感謝してる。お前が稼いでくれるおかげで、随分と余裕ができた。これまでは薬代で精一杯だったが、お前のおかげで妹に良い物を食わせてやれる」
 レナードは立ち止まる。
「だから、これだけは言っておくぞ。半端な情は残酷なだけだ。最後まで責任が持てないなら、淡い希望なんて抱かせるな」
 レナードはそう言い残すと、軽く手を上げて立ち去った。
 広場には静寂が戻り、ハタヤマだけが残される。
 ハタヤマは腰を上げると、軽く助走をつけ跳び上がった。月までも届きそうなその跳躍は、二階建ての家の屋根に着地して終わった。
 ハタヤマは煙突に背を預け、赤と青の月を見上げる。
「……はぁ」
 自分はよかれと思ってやっているのに、彼は『それは悪だ』と言った。自分がやっていることは、やはり悪いことなんだろうか。いずれいなくなるのだから、わざとでも冷たくするべきなんだろうか。
「無理だよ」
 ハタヤマは頭を振った。たとえ相手のためとはいえ、つれなく振る舞うことなどできない。だって、ボクはあの子が嫌いじゃないんだから。嫌いでない相手なのに、どうやってすげなく断れよう。そんなことを続けていれば、こちらの心がまいってしまう。
 優しさを捨てられない。知って悪ぶることができない。それは、ひとえに彼自身が――

 ハタヤマは求めるように月を見上げた。
 しかし、月はそこにあるだけ。ただぼんやりと輝くだけで、望む答えを返してはくれなかった。



[21043] 六章Side:S 一日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:24
【 六章Side:S 一日目 『姫さまの依頼』 】



「くあぁ~~~……――」
 肌寒い朝の風にさらされながら、盛大な欠伸をかみ殺す。
 まだ辺りは薄暗く、しかし山向こうの夜明け空は鮮烈な赤に染まっていた。この世界はついつい月ばかりに気をやってしまいがちだが、こういうのもいい。綺麗だ。
 俺は目尻に大粒の涙を貯めながら、ぼりぼりと気怠げに頭を掻いた。
「ちょっとサイト、それが姫さまから仰せつかった重大な任務に挑む態度? 少しはわきまえなさい」
「いいじゃねえか、態度なんてどうでも。んな四六時中気を張ってたら、土壇場で疲れて動けなくなるだろうが。こんぐらいでいいんだよ」
「まったく……」
 睨むルイズの視線を感じるが、そんなものは無視だ、無視。ただでさえ乗り気じゃないのに、その上無駄にかしこまってなんてられるか。
 今、俺たちは校門前で護衛の到着を待っている。なんでも、アンリエッタとかいう王女様が俺たちだけじゃ心配だからと、腕利きを派遣してくれるらしい。
 んな回りくどいことすんなら、そいつに直接行かせればいいと思うんだが。
「姫殿下は、ぼくたちを見込んでこの崇高なる任務を託されたのさ! この大提督グラモンの血を引く若き獅子であり、砂漠に咲く一輪の薔薇であるこのギーシュ・ド・グラモンを見込んで! ああ、なんとお目が高いんだ! しかもお美しい!  最高だ!」
 この場にいる三人の人間、その最後の一人であるギーシュは、さっきから変なスイッチが入ったようにシュパシュバとウザいポーズで吼えている。
 いいね、馬鹿はいつも通りで。
「なあサイト? この任務を成功させたら、姫殿下はぼくに目をかけてくれるかな? ひょっとしたら、ぼくがトリステインの王になってしまいやしないか?」
 今度は身悶えしだした。うぜぇ。

 どうしてこんなことになったんだろうか。
 俺は昨晩の出来事を思い返し、本日一発目のため息を吐いた。

     ○

「あなたに、極秘の任務を頼みたいの」
 そう切りだしたこの国の姫は、ルイズの幼なじみらしい。
 俺は女の高いテンションについていけず蚊帳の外。
 まるで昔見た教育アニメの、ヨーロッパの家族のワンシーンみたいな寸劇を見せられてぽかんとしていた。
 あれだ、赤毛のアンとかアルプスの少女ハイジ系に通じるやつだ。ハイジは外国の作品じゃないけど、雰囲気としてはずばりだと思う。
 ようするに、胡散臭いくらい芝居臭かった。まあ、本人たちは本気で興じてるんだろうけどな。
「――この命に代えましても、必ずや成功させます!」
「ありがとう、ルイズ」
 なんてことを考えてたら話が終わった。
 どうやらそのアルビオンとやらに行くことが決定したらしい。
「一応聞いとくけど、やっぱ俺が戦うんだよな?」
「当然でしょ? なんのための使い魔だと思ってるの?」
「さいですか」 愚問だったな。分かってたけどさ。
「しかし、なんでそんなこそこそ取りに行かなきゃいけないんだ? 手紙なんて、ちょちょいと『返して』って言えば返してくれんじゃねえの?」
「ばっ――!! あ、あんた、話聞いてなかったの!!?」
「よいのですルイズ。平民には理解の及ばぬことでしょう」
 あ、こいつも平民を見下してやがる。いや、これは無意識か?
 帝王学かなんか知らないが、教育の段階でそういった意識がすり込まれてるんだな。
 王族とその他下々の者たち、ってか。
「わたくしは婚礼を控えた身です。そこへ、たとえ過去の物であろうと別の殿方へ送った文が発見されればどうなりましょう?」
 そう問いかけてくる姫さま。そういやゲルマニアと結婚するなんて話してた気がする。
 んー、いまいち実感湧かないけど、芸能人のスキャンダルみたいなもんか?
『若気の至り! トリステイン王女の恋文発見!!』みたいな。ラブレターかどうかは知らんけど。
 まあ、普通に考えて大バッシングを受けるよなぁ。この世界は新聞無いけど、王族レベルのスキャンダルなら、秋の杉花粉より早く広がるだろ。この世界娯楽が少ないから、平民にしても話題に飢えてそうだし。
「まあ、あんまり歓迎はされねえよな」
「わたくしは国のために嫁ぐのです。だからこそ、不安の芽は摘んでおきたい」
「ふーん」
 俺の他人事のような反応に、ルイズは目を怒らせ、姫さまは悲しげに目を伏せた。
 いや、同情するにしても俺この人のことよく知らねーし。親身になるとか無理だわ。
 それに。
「なあ、姫さま」
「なんでしょう?」
「あんた、ルイズのあだ名知っててこの話してんの?」
「……?」「――ッ!!!!」
 俺がそう口にした瞬間、ルイズは猛獣のように飛びかかってきた。
「もがが」
 力ずくで俺の口を塞ぐルイズの姿に、姫さまは目を丸くしてる。ああ、そっか。知らないのか。
 まあ、知ってたらこんな危ねー任務頼まねえよな。
 俺はルイズの手をのける。
「ルイズ、さすがにこういうのははっきりさせておいた方がいいぞ。見栄で死んだら目も当てられねえ」
「な、なんのことを言ってるのかしら? お、おおおかしなことを言う使い魔ね!」
 んなどもりながら胸張っても、虚勢なのがみえみえだっての。こいつ、バイトとか仕事で無理して失敗するタイプだな。
 『ほうれんそう』ができてねえ。特に、相談ができないのは致命的だ。この程度、俺だって分かることなのに。
「『力』も無いのに安請け合いすると、自分に跳ね返ってくるんだぞ」
 まあ、跳ね返ってきたら守るけどさ。身を挺して。でも、できれば跳ね返ってくる前に改めて欲しい。
 痛いの嫌だし。
 だが、俺の願いも虚しく。
 ルイズはびくりと肩を振るわせ、拳をぷるぷると握りしめ、顔を真っ赤にして黙るだけだった。
「?? どうしたのルイズ?」
「あー……ちっといじめすぎたな。まあ、俺も頑張りますんで大丈夫っすよ」
 俯いてしまったルイズの代わりに、俺は姫さまに向き直った。すると、姫さまはにっこりと微笑む。
「頼もしい使い魔さん。どうか、わたくしのお友だちをよろしくお願いしますね」
「はあ」
「先のフーケ討伐、お見事でしたわ。まるで魔法のようだった」
 姫さまの眼がきらきらしている。どうやら、心からの称賛らしい。
 一国の姫に褒められるって、俺結構すごくね?
「あなたが付いていてくれれば、ルイズのことも安心ね」
「姫さま……」
 蚊の鳴くようなルイズの声に、姫さま共々顔を上げる。
 そこに立っていたルイズの姿は、今にも儚く消えてしまいそうなくらい消沈していた。
「姫さま。この任務は、サイトがいたから。だからわたしに頼んだのですか? わたしではなく、サイトの能力を評価して、お選びになったのですか?」
「る、ルイズ? どうしたの? あなたらしくもない」
「『わたしらしい』? わたしらしいとはいったいどういうことです? わたしは、いつもと変わらない!」
「お、おいおいルイズ。そんな興奮すんなよ」
 いったいどうしたんだ? 急に荒い息を吐きやがって。
 そんな噴火寸前の火山のようなルイズの様子に、俺たちが途惑っていると。
「――お話は聞かせて頂きました猊下ぁ!!」
 扉を蹴破る勢いで、何者かが乱入してきた。
 それがグラタン野郎だった。

     ○

 というわけで。
「ああ、なんてぼくは罪な男なんだ!」
 などと薔薇をくわえてくねくねしてるこいつは、本来この任務に無関係だったんだ。
 それが、変に首をつっこんできて……あまつさえ、『わたくしめにお任せを!』なんて言いだしやがった。
 お前、姫さまが許してくれたからよかったけど、そうじゃなかったら密談を盗み聞きした罪で牢屋行きだぞ。
 かなりきわどいラインだったんだからな。
「ん? なんだね、ぼくの顔になにかついているかい? ――ああ、もしかしてきみもぼくに見惚れたか!? これから覇道を刻み、いずれ王となる、未来の色男のぼくに! いけないよ、ぼくにそういう趣味はない。だが、同性をも虜にしてしまうなんて、僕は、僕の美貌が恐ろしい……」
 ――そうだな、お前はなにも考えてなかったな。
 馬鹿って時々すごいわ。羨ましい。
 ルイズはルイズで、
「ちょ、なによこのモグラ!? のしかかるんじゃ……あ、あ、ど、どこさわってんの!!」
 なんかモグラとじゃれてるし。
「ふむ、美女と野獣だな。実際目の当たりにすると、なかなかに乙なものだね」
「あんたの使い魔でしょっ!! なんとかしなさいよっ!!」
「彼は稀少な宝石に眼がないのさ。多少は大目に見てやってくれたまえ」
 どうやら、ルイズの左手の『水のルビー』という指輪にモグラは興味を惹かれたようだ。この指輪はあのお姫さんが、お守り代わりにルイズへと貸し与えた物だ。
 モグラに馬乗りの状態で組み敷かれたルイズは懸命に逃れようともがくが、いかんせんモグラが重すぎてどうにもならないらしい。このモグラデカいもんなあ。ちょっとした子牛ぐらいある。
 絵面はすごくファンシーだが、当事者はたまったもんじゃないだろう。
「サイト! ご主人さまのピンチよ! どうでもいいから助けなさい!!」
「……お前、緊張感ねえなあ」
「わたしのせいじゃないでしょーっ!!」
 可哀想な人を見る目でルイズを見やると、ルイズは顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
 まったく、それが姫さまから仰せつかった重大な任務に挑む態度かよ。少しはわきまえて欲しいぜ、はっはっはっはっは。

 その時、突風が吹いた。
 いきなり台風のような横殴りの風が吹き荒れ、俺たちはとっさに足を踏ん張る。
 だが、その強風はまるで意志を持っているかのように俺たちを避けるように通りすぎ、ルイズにまたがったモグラへぶち当たり、吹っ飛ばした。
「きゅきぃっ!」
 苦痛を告げるモグラの悲鳴。その鳴き声を聞き、真っ先に血相を変えたのはギーシュだ。
「何者だ! 姿を見せろッ!!」
 憤然やるかたない様子で憤るギーシュ。美形だから、怒気を孕んだ顔も絵になる。
 自分の使い魔を酷い目に遭わされて、頬に怒りの朱が射していた。
 ……ちょっと見直したぜ。
「いや、すまない。僕の婚約者がジャイアントモールに襲われているとあっては、黙ってみているわけにもいかなくてね」
 上空から、大鷲が羽ばたくような羽音が伝わってくる。俺たちがその衝撃波と振ってきた声につられ、空を見上げると。なんと、どデカい化け物鳥にまたがった渋いおっさんが、こちらへ向けて飛来してきていた。
 ――というか、今なんつった?
「貴様、ぼくの使い魔になんてことするんだ!」
「おや、聞こえなかったかな? 僕は、『婚約者が襲われている』と思ったのだよ。僕の大事なルイズの一大事とあらば、多少手荒なこともするさ。大目に見てくれたまえ」
「だからといって事実は違う! ヴェルダンデに謝罪してくれたまえ!!」
「だから、すまなかったと」
「ぼくはいいから、『彼』に謝れッ!!」
 煙でも吐き出しそうに興奮したギーシュ。荒々しく肩を怒らせ、飛びかからんばかりに高ぶっている。
 おっさんはそんなギーシュの様子をやや感心したように眺め、ふむ、とアゴに手をやった。
「たしかに軽率な行動だった。すまなかったねモグラくん」
 おっさんは、屈み込んでヴェルダンデと目線を合わせると、やんわりと頭を撫でた。ヴェルダンデはきーきゅいと鼻をヒクつかせ、中空をもひもひした。
「ヴェルダンデはきみを許すそうだ。彼が寛容で助かったな」
「それはよかった。……ふふ」
「なにがおかしい」
「いや、なに。使い魔のためにそこまで感情を露わにした者を見たのは久しぶりでね。純粋に感服したのさ」
 おっさんは嫌みのない笑みで微笑んだ。くそ、なんつーか、絵になる。
 ギーシュなんか目じゃないくらいダンディーだ。シヴい。
「改めて自己紹介を。僕は女王陛下の魔法衛士隊、グリフォン隊隊長のワルド子爵だ。此度の密命にて、姫殿下に君たちの護衛を直々に任された」
 おっさん――ワルドの自己紹介に、ギーシュの表情が凍りついた。ピシッ、とリアルに聞こえてきそうな気配だ。
「も、申し訳ございません! ぼ、ぼく、そんなこと全然知らなくてッ!!」
「いやいや、構わないよ。使い魔と主人は一心同体。使い魔への無礼は主人への不敬だ。君が腹を立てるのも無理からぬことだろう」
 超畏まって平伏する勢いのギーシュを、笑顔でさわやかに窘めるワルド。
 貴族らしからぬ寛容な対応に、ギーシュは尊敬の視線を向けた。このおっさん、人間ができてやがる。くそう、無性にむかむかするぜ。
 ワルドはギーシュをやんわりとたしなめつつ、ルイズへと視線を合わせた。
「ああ、ルイズ! 僕のルイズ! 大きくなったね。以前顔を合わせた時は、こんなにも小さかったのに」
「いやですわ、ワルドさま。それではまるで、わたしは小人(アルヴィース)ではありませんか」
「僕にとってはそう見えていたのさ。僕だけの、可愛らしいお人形さ!」
 指先をつまむようにして大きさを示したワルドに、ルイズははにかんで乙女な微笑を返す。
 ぐ、ぐぎぎ……うぜぇ。口から砂糖を吐きそうだ。なんだこのむずがゆいおのろけ空間は。指先サイズってお前、シルバニアファミリーじゃねえんだぞこら。
 どいつもこいつも芝居がかりやがって、この世界はこんなやつしかいねえのかよ。
「なあ、ルイズ。このおっさんと知り合いなのか?」
「おっさ……っ! あんた、いい加減口を慎みなさいよ! どんだけわたしに恥かかせる気!?」
「……ルイズ? いったいどうしたんだい?」
「あ、ワルドさま……こほん」
 ルイズは気を落ち着かせるように二、三度深呼吸し、ワルドを手の平で示した。
「この方は、わたしの婚約者なの」
「――は?」
 え、なに? こんやくしゃ? 何語、それは。
 十五にも満たないような見た目のルイズと、このシヴいおっさんが、許嫁?
 マジで?
「いや、おい、ふつーに犯罪だろそれ。社会的にいいのかそれは?」
「なにを言ってるんだね君は。幼少の内の婚約など、いくらでもある話だぞ」
 ギーシュはさも当然だというように説明した。
 マジか。ほんとにあるんだ、そんなこと。
「おおマジだよ。ぼくの兄上も婚約者がいるぞ?」
「え、じゃあお前も婚約してんの?」
「いや、ぼくは四男だからいない。婚約が求められるのは、基本的に長男か次男まで、そして女姉妹だけなのだよ」
 ああ、あれか。家同士の絆を深めるための政略結婚みたいなもんか。貴族って大変なんだな。
 ということは、ルイズも嫌々させられたのか――
「ははは、相変わらず君は軽いね! まるで羽のようだ!」
「わ、ワルドさま……」
 ルイズの腰に手を添え、高い高いメリーゴーランドを決めるワルド。そして頬を上気させているルイズ。
 俺はビキビキとこめかみにキている。
 なんだあの空間は。心なしか、スポットライトが降りてきてる気がするぞ。なに、この紙吹雪はどっからきてるの?
「望まぬ結婚を強いられる者も多いのに。彼女らは幸せそうだね」
 微笑ましげにうんうんと頷くギーシュ。ちくしょう、俺は全然納得いかねえぞ。
 俺は(幻覚だと分かってるけど)舞い散る紙吹雪をしっしと払いながら、不満げに唸ることしかできなかった。

 その後、色々と打ち合わせをして、俺たちは学院を出発した。
 俺は、ルイズがワルドのグリフォンの後ろに跨っているのが妙に気になり、どうにも胸がざわついてしかたがなかった。

     ○

「なに、船が出せないだと?」
 ワルドが眉をひそめた。
 見た目が貧相な、浅黒い肌をした船乗りが語る。
「へえ。今出発すれば間違いなくアルビオンにはたどり着けませんぜ。高度が足りなくて落っこちちまわぁ」
「なんとかならないのか」
「なりませんなぁ。風石を余分に備えてる船ならまだしも、ウチはほら、この通り零細ですから。そんな余裕ありゃしませんわ」
 船乗りはにべもなく言った。なんだか、とても癪に障る態度だった。
 俺たちは学院を出て、一路ラ・ロシェールを目指した。
 普通は二日かかる距離らしいが、途中で馬を変え休憩無しの一日で走破。おかげで腰ががくがくだ。ギーシュなんて魂抜けかけてる。
 ルイズに「俺は走った方が速いんだけど」と上申してみたが、「ダメ」の一言で却下された。
 なんでも、土壇場で疲れてるといけないから~なんて言ってたが。むしろ馬に乗った方が疲れるんだけど。
 それを伝えると、今度は「ダメなものはダメ!」と否定を重ねて怒鳴り散らしてきた。 なんなんだよこいつは。
 あ、そうそう。
 道中、街直前の街道で盗賊に襲われた。普通にぼこぼこにしたけど。
 俺たちが両脇を切り立った崖に囲まれた道の中腹に差し掛かった時、両脇の崖の上から突然矢を射られたのだ。しかも大量に。
 ワルドは迫る矢を魔法で吹き払い、ルイズを連れて上空へ逃げたので、俺はひとまずルイズのことは忘れ、馬から飛び降りギーシュの前で斬撃の防御を張った。ギーシュのやつ、明らかに浮き足立っていて、放っておくとすぐ死にそうだったからだ。
 ギーシュは俺の一喝でなんとか正気を取り戻し、薔薇型の杖の花弁を三枚使って青銅を錬金して、ヤドカリみたいに青銅をすっぽりかぶってうずくまった。『身を守れ』という俺の指示に従ったのだ。
 俺はそれを確認してから一目散にラ・ロシェールへ突進した。
 すると、相手は別働隊を出して俺を捕まえようとしたので、まずは別働隊をしばき倒す。たしかに戦い慣れしてるっぽかったけど、正直あんまり強くなかった。瞬殺だったし。
 それで、そいつらを片付けたら今度は崖を垂直走りで一息に登り、真横から奇襲をかけた。あん時のあいつらの顔は見物だったな。夢中でギーシュへ矢を射かけてたら横からメリケンパンチが飛んできたんだから、そりゃビビるよな。歯が何本もへし折れてたし。んで、動揺が走った隙にデルフで全員峰打ちにした。時間にして五秒もかかってなかったんじゃないかな。
 反対側の崖にも敵がいたんだけど、そっちはワルドが片してくれた。竜巻みてーな風を杖の先から放って、一撃でぶっ飛ばしてたな。あっちは何人か死んだんじゃないかな……俺には、あーいうのはできそうにない。
 あ、そうそう、垂直走りってのは言い過ぎたわ。でっぱりを足場にして飛び跳ねたってのが正しい。あと、訓練の成果なのか、飛んでくる矢が全部止まって見えたのはビビッた。ガンダールヴってすげえなあ。
 でも、全員気絶させ終わった後に降りてきたルイズの表情は、なんつーか、苦虫を噛み潰したように複雑だった。
 何故なんだろうか?

     ○

 もうとっぷりと日が暮れてしまったので、ひとまず俺たちは宿をとることにした。
 いい加減ギーシュが限界だったからだ。見るからにへろへろで、普段のアホさもなりを潜めている。これ以上連れ回すのはさすがに可哀想だ。たとえアホでも、人権はあるからな。
 『金の酒樽亭』と書かれた看板の店のはね扉を開き、全員で一つのテーブルを占拠する。そして給仕にワインを頼むと、ギーシュは溶けるようにへろへろとテーブルへへたり込んだ。
「ふぅ……やっと落ち着けたよ」
「だらしねえなあ。俺はまだまだ余裕だぜ」
「君はビッグベアかなにかかね。ぼくは全身がたがただよ」
 この店、外観こそ朽ち果てた廃墟のようにみずぼらしかったが、中身はなかなかにしっかりした作りだった。まあ、飲食店なのに内装が汚かったら致命的だろうけど。店内は客でごった返しており、剣やら斧やら槍やらを抱えたおっさんたちが、夜が更けるのも構わずどんちゃん騒ぎに興じている。冒険者……いや、たぶん傭兵だろう。戦地が近いらしいしな。
 給仕がワインを持ってきた。
「歯がゆいが、今日はここで休息としよう。船がなければどうしようもない」
「そうっすか。じゃ、今日はもう解散っすね」
 俺は二つ返事で了解した。ギーシュには余裕をかましたが、正直いって俺もそろそろ限界だった。剣やメリケンサックを握ってる間は疲れを忘れてるんだけど、離したら急にぶり返してくるんだよな。筋肉痛でたまんねえ。
 ギーシュは一息でワインを飲み干すと、給仕におかわりを頼んでいた。
「君とギーシュは相部屋だ。部屋はもうとってある」
 ちゃり、とルームキーを二つテーブルに置くワルド。
 ……ん? ちょっと待て。
 俺は訊ねた。「ルイズはどうするんだ?」
 俺はあいつの使い魔だぞ。部屋を離されちゃ守れねえよ。
 ワルドは、なにを言ってる? と言わんばかりに目を丸くした。
「ルイズは僕と同室だ。婚約者であることだし、問題は無いだろう?」
「な……っ! いや、大ありですよ!!」
 いきなりなにを言いだしやがるこのおっさん。婚約者とはいえ、嫁入り前の娘が男と同衾? お父さんは許しません、ええ、許しませんとも! 断固不許可の構えですよ!
 ギーシュは給仕の女の子を口説いている。
「おいルイズ! こんなこと言ってるけどいいのか!?」
 ルイズは衝撃でやや放心しているようだったが、俺の問いかけにはっと我に返った。
「ダメよワルド! わたしたち、まだ結婚してるわけじゃないのよ!」
 そうだそうだ! 言ってやれルイズ!
 しかし、ルイズのささやかな抵抗は、
「大事な話があるんだ。二人きりで話がしたい」
 というワルドの甘い言葉でぽっきり折れた。
 おい! 眼と眼があっただけで、ぽっと頬を染めてんじゃねえよ! イケメンだからか、やっぱり男は顔かこの野郎!
 俺は、ルイズが拒否しないならなにも言えない。だって、俺はただの使い魔で、ご主人様の下僕でしかないからだ。
 ギーシュは相変わらず給仕を口説いていたが、なんと給仕は頬を染め照れ笑いを浮かべている。なんだか上手くいきそうである。
 俺はそれに無性に腹が立ち、ギーシュを思いっきりぶん殴った。
「ぐはあっ! な、なにをするんだね君は!?」
 盛大に顔を腫らすギーシュ。
「うるせえ、もう寝るぞ!」
 俺はギーシュの襟首を引っ掴み、づかづかとその場を後にする。
「ぬぁ、サイト、ぼくはこれからエウリーシュと食事する約束があるんだ! 離したまえ!」
「任務中にナンパしてんじゃねーよ! モンモンに言いつけるぞ!」
「それは困る! それに自由時間だって言ったじゃないか! あとモンモンって呼ぶな!」
「だー、もううるせえ! いいから来い、よい子は寝る時間だ!」
「ぬおおぉぉぉごめんよエウリーシュぅぅぅぅぅ」
 俺は無駄な抵抗をするギーシュをずるずると部屋へ引きずっていく。
 そのとき、ルイズが俺を呼び止めた気がしたが。
 俺は振り返らなかった。



[21043] 六章Side:S 二日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:26
【 六章Side:S 二日目 『敵襲』 】



 目を覚ますと、知らない天井だった。
「……同じネタ使いすぎだ」
 いい加減新しいパターン考えないとなあ。古いものばっかり使っててもあれだし。
 外はまだ薄暗いが、俺としたことが寝坊してしまった。ルイズの世話をする場合、日の出前には起きないといけないのだ。
 俺はもっと暖かいベッドにくるまっていたいという欲望を断ち切り、ぼんやりと身を起こした。
「あ、つぅっ!」
 頭に鋭い痛みが走り、俺は頭を抱える。
 昨晩はデートを邪魔されたギーシュがやけ酒を飲み始めてしまったので、それに付き合ってたら大宴会になってしまった。俺も機嫌が悪かったから、ついついグラスが進んじまったんだよな。
 ほのかに酒の臭気が漂う室内を見回すと、床には昨日の残骸であるワインの空き瓶が散乱している。何本飲んだか数えるのも億劫になりそうで、足の踏み場がないくらいだ。我ながらよく飲んだもんだ。
 そこまで考えてふと気づく。ここの支払い、誰が持つんだろ。
「もしあのおっさんだったら、ルイズ怒るよなあ」
 かんかんに怒って怒鳴り散らすルイズの姿が容易に浮かぶ。「この駄犬ッ!!」と仁王立ちで見下ろしてくるのが目に見えるようだ。あちゃー、またやっちまったよ。
 後悔しても後の祭り。俺は考えるのが嫌になり、ばたんと勢いよくベッドに倒れ込んだ。
 そのままうとうとと微睡んでいると、どれくらいかして、部屋の扉がノックされた。控えめで、気遣うように小さな音だ。
 俺は意味不明のうめき声を上げながら布団からのそのそと這いだし、散らばったワインの空き瓶ですっころびながらも扉の鍵を開けた。
「やあおはよう、使い魔くん――」
 来訪者であるワルドは、俺の様子と体臭、そして背後に広がった光景を見て眉をしかめた。
「たしかに自由時間だとは言ったが、羽目を外しすぎるのは感心しないな。我々は今任務中だぞ」
「しーましぇ~ん」
 返す言葉もありません。
 ワルドはなにやらもの凄く何か言いたげだったが、俺がルイズの使い魔だからか遠慮したみたいだった。……まあ、人間扱いされてないのかもしれないけど。使い魔って畜生だし。
 いかん、へこんできた。
「……聞いていたかね?」
「へぁ?」
 ワルドの柳眉がさらにそそり立った。いかん、怒ってらっしゃる。母さんや父さんに怒られるのとは別種の恐さだ。
 ――あれ、母さん? そういや、家族のことなんて久しぶりに考えたな。元気にしてっかな……――あ、あれ?

 顔が――みんなの顔が、思い、だせ

「使い魔くん!」
「ほぇっ!?」
 上から怒鳴りつけられた。見上げると、ワルドが仏頂面で俺を見下ろしている。
「大丈夫かね。そんなに体調が悪いのなら、ここでおいていってもいいんだぞ」
「い、いや、大丈夫です! ほら、この通りぴんぴんしてますから!」
 マッスルポーズで軽く跳ねてみる俺。ここまで来て放り出されちゃたまらん。
 ワルドは呆れたように深いため息を吐いた。
「……まあいい。先ほどまでの内容を繰り返すが、君の力を試したい。これから時間を貸してくれないか?」
 ワルドは背負った杖の柄を掴み、チャキリと鳴らした。
 ……ああ、なるほど。「ちょっと面貸せや」ってことか。別に昔から喧嘩っぱやかったわけじゃないけど、そういうのは分かりやすくて好きだぜ。
 それに。
 目の前のこのおっさんを倒せば、ルイズは俺を見直すかもしれない。こんなおっさんより、俺の方がそばでずっと守ってやれると気づいてくれるかもしれない。
「いいっすよ」 
 俺は散らかった瓶を蹴飛ばしながら、ベッド脇に立てかけたデルフを引っ掴み舞い戻る。そしてデルフを背負いなおすと、口元に獰猛な笑みを浮かべた。
 ワルドはそれを見て薄く笑みを浮かべ、「ついてきたまえ」と歩き始めた。俺はそれに続こうとして、ふと足を止める。
 あれ、俺さっきまでなに考えてたんだっけ。
 なんか、とても大切なことを思い出してた気がするんだけど……
 ギシ、と階段を降りる音が聞こえた。意識を戻すと、ワルドは既に階下へ降りようとしている。
 俺はこの違和感の正体がとても気になったが。思い出せないならどうせ大したことないことなのだろうと思い、忘れてしまった。
 なぜか左手の呪印が輝いていたことには、ついに最後まで気がつかないまま。

     ○

 ワルドに連れてこられたのは、宿の裏口にある朽ち果てた中庭だった。この宿は生意気にもかつて砦だったらしく、内側に練兵場があった。もっとも、それは既に過ぎ去った過去の遺物で、今は物置と化しているらしい。
 ピーカンの空の下で、木箱やらテーブルやら埃まみれのテーブルクロスやらが雑多に積まれている光景はひどく物悲しい。
「んじゃ、さっそく始めましょーか」
「いや、しばし待て」
 やる気満々で肩なんかならしちゃってる俺に、ワルドは待ったをかけた。なんだ? いきなり水を差しおってからに。
「決闘には、介添人がつきものだよ」
「介添人?」
「正々堂々の立ち会いには、見届ける者が必要なのだよ。なに、そう待つことはない。もう呼んであるからね」
 ワルドがそういうと、隅っこにある木箱の蓋がパカッと開いてルイズが出てきた。ルイズは対峙する俺たちを見てギョッとしたようだ。
 いや、お前、俺の方がびびったんだけど。
「ワルド、いったいなにを始める気!?」
「彼の実力を、ちょっと試したくなってね」
 不敵にくつくつと喉を鳴らすワルド。ルイズはそんなワルドの酔狂を止めようと躍起になっている。
 いや、ちょっと待てよお前等。まずルイズ、お前なんつーとこから出てくるんだ。ワルド、お前もだ。なに軽く流してんだよ、つっこんでやれよ。ボケが死んじゃうだろうが。ほら、ルイズちょっと悲しそうだぞ? たぶんあれ、お前をおどかそうと思って、いまだに抜けない子どもっぽさを総動員して準備したんだぞ? ちょっとはリアクション返してやれよ。
 ぽかんと呆れかえった俺に気づくことなく、こいつらはノリノリで舞台を演じている。
 え、なに、俺がKYなの? なにこれコント? シュチュエーションコメディってやつ?
「バカなことはやめなさい! これは命令よ?」
「だ、そうだが。どうするかね、使い魔くん?」
 ワルドはしたり顔でそんなことを尋ねてくる。結局つっこまねーのな、じゃあ俺も流すけど。
 俺の答えは決まってる。
「ルイズ!」
 俺は一際大きな声で呼びかける。「力試しとは言ってるけど――ぶっ飛ばしちまってもいいんだよな?」
 俺は毒気なくけたけたと笑う。煽るような無邪気さに乗せて、敵意と闘志をワルドにぶつけた。
 ワルドはそれを敏感に感じ取り、やつも笑みを深めていく。戦士の才覚が、肌を刺すような空気を読み取っているのだ。
 なんつーか、お互いがデキるやつだから分かるけど、分かんねーやつらが見たら、ただの危ない人だよな俺たち。
 ルイズはそんな様子の俺に、態度が変わった。
「……いいわ。あんた、教えてもらいなさい」
「?」
「平民は、貴族に絶対勝てないってことを」
 瞬間、かっと血が昇った。視界が真っ赤に染まったかと錯覚するくらい苛つく。血管がブチ切れそうだ。
 俺を応援しねえのか。それどころか、この期に及んでまだそんなことをいいやがる。――そんなに俺のことが嫌いか。
「話はついたようだな。……ああ、使い魔くんは今にも爆発しそうだね。よかろう、すぐにでも始めよう」
 なんだよ、その悲しそうな眼は。俺が負けると思ってんのか。あいにくだな、俺はなにがあっても負けねえ。俺は――
 ワルドが杖をレイピアのようにして構えた。
「始まりの鐘は無用だな――きたまえ」
 ――『ゼロ』のルイズの使い魔だからな!!
 先手必勝! 俺は背負ったデルフの柄を握り込み、地面すれすれまで身体を倒して地を駆ける。その様はさながら猛獣の如く。居合の一太刀で終わらせてやる。
 しかし、俺の渾身の速攻戦術は、苦もなくワルドにいなされた。
「んなッ!?」
「甘いぞ使い魔くん!」
 ワルドは下がり気味に俺の袈裟切りを杖で受け、流すように斬撃の軌道を変える。そして身体が泳いだ俺の顔面目がけて、必殺の突きをみまってきた。
 おそらく喰らえば昏倒必死、俺は恥も外聞もなく地べたに這い蹲りやり過ごし、手首を反して後頭部を狙ってきた一撃も、飛び退いて全力で避けた。
「手応えがねえ……なんであんな棒きれで、俺の太刀が受けられるんだ?」
「相棒、あれは受けてるんじゃねぇ。流れを読んで払ってんだ」
 久しぶりのデルフの助言。声を聞いたのは数日ぶりだ。
「たしかに鉄を仕込んでるみてぇだが、俺はそこまでヤワじゃねぇ。それでもあれを斬れないのは、鉄と魔力の補助、そして圧倒的な技術があるからだ」
「技術?」
「曲がりなりにも『騎士』(シュヴァリエ)っつー人種は、尻の青い学院の連中とは違うってこった。言ってみりゃ戦いのプロだからな。接近戦闘術も心得てやがる」
 なるほど、ギーシュとは違うってことか。これは厄介だぜ。だがな、それでも俺は負けない。
 何故なら――
「――っ!?」
「おるぁぁあッッッ!!!!」
 おそらくワルドから見れば、俺の姿が『かき消えた』はずだ。それほどに俺の動きは素早い。技術なんて関係ない。この『速度』と『力』さえあれば!
 ガギン、と重々しい鉄のぶつかり合う鈍い音が響く。斜め右から斬りかかる俺の刃をすんでの所で防御したが、ワルドは驚愕で眼を見開いてた。――どっちかっつーと俺の方が吃驚だ。まさかこれを受けられるなんて。
 しばし鍔迫り合い。ぎちぎちとお互い一歩も譲らない。
「今のは目を瞠ったな。なかなかやるようじゃないか」
「そりゃっ……どうもぉッ!!」
 返答に蹴りをつけて送り返す。俺の渾身の前蹴りがワルドの腹に炸裂! やつは身体をくの字によろめき、苦悶に顔を歪めている。
 『迫り合いになったらすぐに離れろ』って嫌というほど教えられたからな。剣士、魔法使い問わず超至近距離はお互いに必殺範囲らしい。あ、至近距離と超至近距離は定義が違うらしいぞ。
「まだ終わりじゃねえぞッッッ!!!!」
 上段、下段、中段織り交ぜ猛烈なラッシュを仕掛けて揺さぶる。こいつが『騎士』なら俺は『剣士』だ。俺だって『剣』の専門家、俺の絶技を見よ!
 首、篭手、脇、太股と、万遍なく急所に斬撃の雨を降らせるが、さすがは魔法衛士隊隊長、全く崩れる気配がない。確実に俺の太刀を受け流し、杖を庇う余裕までありやがる。音速に迫る打ち込みかけてんのに、こいつ化けもんかよ。
 だが、さっきからワルドは防戦一方だ。どうやら反撃に転じる余裕はないらしい。このまま一気に押しつぶして――
「相棒、守れ!!」
 デルフの突然の警告。俺は反射的に受け流された状態のまま踏みとどまりバックステップ。同時に剣の柄を両手で握って引き寄せつつ肩口に添え、剣の腹を支えるように二の腕の筋肉を緊張させた。
「“風槌”(エア・ハンマー)!」
 それと同時に、まるで十トントラックが全速力で衝突してきたような衝撃が剣にのしかかってきた。俺はその衝撃に叩きつけられるように吹っ飛ばされ、轟音を響かせ廃材の山に突っこんだ。そのダメージで、デルフを弾かれてしまった。
「な、なん――だ……?」
 なにが起こった? 意味が分からねえ。ワルドはたしかに、為す術無く俺の攻撃に翻弄されていたはずだ。いったいどうして――
「たとえ酷い混戦状態であれ、正確に呪文を詠唱する――軍人の基本中の基本だよ」
 全身に余裕を張りつけてワルドがいった。ちくしょう、ってことは俺のあの雨のような攻撃を防ぎながら、呪文を詠唱したってことかよ。ありえねえ、あんな一瞬でも気が途切れればやられちまう状況で、何故そこまで冷静に魔法が唱えられるんだ。
 ――これが、プロの力ってやつか。
「降参したまえ『ガンダールヴ』。君が武器を拾うより、僕の“風槌”が君を貫く方が速いぞ」
 あの野郎、俺が武器がなきゃ何も出来ない平民だと思って余裕しゃくしゃくだ。――ってか、俺なにも言ってないのにな。ルイズが話したのか?
 ワルドは悠々と杖を遊ばせながら、俺との距離を詰めてくる。
 その表情は兎を追いつめる狼みたいだ。
「う、うわぁ……来るな、来るなぁ!!」
 俺はすがるようにみっともなくわめき散らし、手当たり次第に物を投げる。できるだけ情けなく、心底びびってるみたいに。
 往生際が悪い俺に、ワルドは不快気に眉をひそめた。
「諦めなさいサイト! あんた、剣がなきゃなにもできないでしょ!」
「うるせぇっ! 俺はまだ負けてねぇ! すっこんでろ!!」
 ルイズの咎める声など聞かず、ひたすら物を投げ続ける。椅子をぶん投げ、テーブルを振り投げ、投げようとした椅子の足が折れ明後日の方角へ飛んでいく。放たれた物体は一直線に飛んでいくが、ワルドが何事か呟くとともに発生した竜巻によって、目標に到達することなく弾かれてしまう。あの野郎、竜巻を身にまといやがった。
 ワルドは俺のダサ過ぎる様子に、不愉快を通り越して呆れたらしい。
「――もういい。せめてもの情けだ。この手で敗北を突きつけてやろう」
 ワルドは歩む足を速めた。そうだ、来い。そのまま、もう少し――入った!
 俺はにやりとほくそ笑んだ。
「……?」
 ワルドもその表情の変化に気づいたようだが、もう遅い。お前は俺の『間合い』に入った。
「――ふッ!!」
「ッ!?」
 吐くような気合い。俺は一息に、後ろ手に握りしめていたテーブルクロスを広げ投げた。埃だらけの薄汚れた布はワルドの視界を覆い隠し、それどころかその身を呑み込んで動きを封じる。たとえ竜巻をまとっていようと、この『面』の攻撃は避けられまい。
 俺はクロスを放つと同時に弾丸のように飛び出して、固く握った左拳をぶちかます。木製のメリケンサックを握りしめ、おそらくワルドの顔面があるであろうテーブルクロスの中心へ。
 お前は気づくべきだったんだよ。剣を失ったにも関わらず、俺の膂力が落ちなかったことを。これだけ取り乱しているのに、左手をパーカーのポッケから出さなかったことを。
「サイトパーンチッ!!!!」
「ぐぶぁ゛っ゛っ゛っ゛!!!?」
 メキッ、と鈍い感触が伝わり、薄汚れたクロスが鮮やかな赤に染まる。ワルドはくぐもった悲鳴を上げ、五メートルくらい吹っ飛び、土煙を巻き起こしながらもんどりうって地面を転がっていった。俺が演じた醜態は、全てはこの一瞬のためだったんだよ。
 お前の敗因はただ一つ。俺を、平民と侮ったことだ。
「ワルドっ!」
 ルイズが口元を覆い悲鳴を上げ、一目散にワルドへ駆け寄る。グーパンを決めた姿勢のまま取り残される俺。
 ……あれ? 勝ったのに俺無視ですか?
「だ、大丈夫だ。問題ない」
 赤黒く染まったクロスを脱いだワルドは、顔面からだらだらと血を流していた。うわっちゃー……歯は折れてないっぽいけど、どうやら鼻が折れちまったらしいな。抑えた手の隙間から鮮血がとめどなく溢れている。
 ルイズは息を呑み悲鳴を上げた。
「ごめんなさい! わたしの使い魔が、なんてことを!!」
「決闘を申し出たのは僕だ。どんな傷を受けようと、それを責めるのはお門違いさ」
 滝のように鼻血を流しながら、さわやかなことを言ってくれるワルド。ルイズはそんなワルドに、瞳を潤ませ心酔したような視線を向ける。
 あ、あの、もしもーし?
「傷の手当てをしましょう。どこかに水のメイジでもいればいいけど……」
「安心して、僕のルイズ。こんなこともあろうかと、水の秘薬を持ってきている。完治とはいかないだろうが、ある程度は治せるだろう」
「すごい! さすがワルドね!」
 なんか二人の世界が展開されてる。俺、完全に蚊帳の外だ。
 二人は俺を置いて行こうとする。
「お、おい! 俺の勝ちだろ!? 俺の方が強いんだろ!?」
「……すまない、場所が悪かったようだ。この任務が終わったら、王城の正式な練兵場に招待する。その時に決着をつけよう」
「んなぁ!? 待て、なんだその遠回しに『俺は負けてない』みたいな言い方は! 勝てばいいだろ、言い訳すんな!!」
 熱く燃え上がる俺。ふざけやがって、あいつは言ってたぞ! 「勝った方が正義」だってな!
 ルイズは、そんな俺を哀れむようにため息を吐いた。
「……サイト。あなた、そうまでして勝ちたいの?」
「当たり前だろ! 実戦じゃ負けたら死ぬんだぞ!? 俺が死んだら、誰がお前を――……」
「惨めな男ね」
 ……――な、に。
「少し頭を冷やしなさい」
 ルイズはワルドに寄り添い肩を貸した。去りゆく彼らの後ろ姿は、まるで仲睦まじい恋人みたいで。
「――んだよ」
 俺は、お前のために強くなったのに。お前を守るためなら、なりふり構わない覚悟なのに。なんでお前は、俺を認めねえんだッ!!!!
 そう怒鳴り散らしたかった。しかし、それだけは、俺の中に残された一欠片のプライドが押しとどめた。
 ルイズたちが去り、練兵場に俺だけが残される。

 俺は、よく分からない正体不明のドス黒い感情が、胸を引き裂いて溢れだしそうだった。

     ○

「うぃ~っひっく、ばーろうめ」
 ワインをあおる。うめえ。年齢制限ないっていいね。はるきげにあばんざーい!
 んだよあいつは、とれすてぃんのグリフォン隊隊長だかなんだかしんねーけど、ルイズにべたべたしすぎ。うん、あいつは間違いなくロリコンだね。ロリコンのぺどやロウだ。決めた! 俺がそうきめちまいましたからね~。
 ワインをあおる。うげふぅ。
 くっせ、自分の息だけどくっせ。
 ルイズもルイズだ。ちょーっとヒゲがだんでぃーだからってころっっっとほだされやがって。みたかあのヒゲ。ぶしょうひげとかじゃない、まじもんのダンディーもじゃもじゃだ。俺だってはじめてみた。つーか俺も欲しいかも。
 あれか、俺ももじゃ男の仲間入りすりゃ、ルイズ、てめーはまんぞくなのか?
「なんだね、さっきからもじゃもじゃと。体毛趣味に目覚めたのかね」
 あれ、ギーシュいつの間に? お前、またおんなひっかけにいったんじゃなかったのか?
「残念なことにエウリーシュは遅番だった。それにいささか体調もすぐれなくてね。さすがに人でごった返す通りまで行く気力はない」
 けっ、ふられてやんの、ふられてやんの~。しね、イケメンは全員しね。ぶはははははははははっ!
「末期症状のようだね……」
 わいんをあびるようにむさぼる。あ、もうなかみねえ。ぎーしゅ、いっぽんくれ。
「もうやめておきたまえ」
 あ、てめ、んなたかくあげたらとれねーだろが。けちけちすんな、ひげまじんのおごりだ。
「こらこら、さっきすれ違った時小言を言われたのだよ。『羽目を外しすぎぬように』、とね。だからやめておきたまえ」
 うるへーばか。わいん、わいん、わ~い~ん~。
「ええいもう、絡むなうっとうしい! というか臭いぞ!! 顔を寄せるな!!」
 もるぼるぶれす~。
「まったく、酒癖の悪い――」
「わりぃなあ土の小僧。相棒、さっきからずっとこんな調子なんだよ」
「ぼくが出て行く前からこんな様子だったが、いったいなにがあったんだね? この潰れ方は尋常じゃない。というか土の小僧とはなんだ、土の小僧とは。ぼくには『青銅』という立派な二つ名が」
「てめえなんざ『土』で十分だよ。そういうことはもっと修練を積んでからほざけ」
「ぐぬぅ」
 ぶははだまらされてやんの。いいきみだ。そこらじゅーにたねばっかまいてるからそうなる。
「ぼ、ぼぼぼくはまだ未経験だ!!」
「おやま、そうなのか」
 おれもびっくりした。てめ、じつはなんちゃってジゴロなんだな。このかわかむりめ。しろうとどうていめ、ぎゃはははははははは!
「酔っぱらいの相手はかなわん」
「そう言わねーでやってくんな。相棒も今回ばかりは傷ついてんだ」
「ほう? 図太いだけが取り柄の彼にしては珍しい。どうせ暇だし、ぼくにも聞かせてくれるかね」
 でるふがぎーしゅとはなしはじめた。つーかうっせ、ずぶといだけがとりえでわるかったですねー。どーせおれはなさけない、あわれでみじめなおとこですよーだ。ばーかばーか。

 しばらくして。

「……なるほどね。たしかにそれはやるせなかろう」
「「惨めな男ね」、だもんなぁ。頑張ったのにな相棒」
 そう僕は地の底でうぞうぞと蠢く矮小な土竜なのであるこんな私めが日の光を浴びあまつさえ魔法衛士隊隊長でありルイズの許嫁でもあるワルド様に刃向かうこと自体が差し出がましくも愚かしい神をも恐れぬ愚行であり愚鈍愚図愚昧愚行蛮行蛮勇野蛮で粗野な浅慮甚だしい馬鹿げた行為だったのだましてやルイズはあの髭を気に入っているのだろうしかし俺には髭がないはやそうと思っても生えてこないそんな俺がもじゃもじゃもじゃんぼーの仲間入りなど夢のまた夢まだふりやまじ儚き夢は水泡に帰す決して叶わぬ淡い夢なのだ
「な、なんか気持ちが変な方に振れていないかね?」
「あちゃー、裏返っちまってるな。相棒、おいあいぼー、戻ってこーい」
 そもそもの発端は私めが畏れ多くも貴族であり魔法衛士隊隊長であるワルド様の鼻骨にあろう事か鉄拳の如き木製握輪をぶちかまして差し上げてしまったことが起因するのでありそのためワルド様のお鼻はぺっきりとぽっきりとぐっしゃりとひん曲がり折れ曲がり砕け散ってしまったわけでそれは総じて鼻が高いこの世界の人間においては悲しい悲しいハンデとなること受けあいでありああ私はなんてことをしてしまったんだもし時間が戻せるのならあの時の自分を止めたいあの暴挙をなかったことにあれさえなければワルド様の高く鋭角なお鼻が無惨に折れ曲がることもなかったルイズも俺を嫌うことがなかったああ穴があったら入りたいだからこそ俺は土竜ギーシュの使い魔でありいつも鼻をもひもひしている可愛らしくも茶色い土竜いやそれだとヴェルダンデに失礼かもしれないああならば俺はなにになればいいんだやはり土竜か土の中で日の光を浴びず地の底で鼻をもひもひしながらミミズをほおばっていればいいのかヴェルダンデごめんなさいでも俺には土竜しかなぐは
「本当によかったのかい? 後頭部を思い切りはたいて」
「ああいいっていいって。こうでもしなきゃ戻ってこねぇし」
 ……あれ? 俺なにしてたの? てか頭痛い。後頭部にたんこぶが。ギーシュが青銅のハンマー持ってる。
「気付けの一発というやつだ」
 いや、死ぬだろそれ。
「要約すると、『ワルド殿をぶちのめしたらルイズに嫌われてしまったから、そのことを悔やんでいる』んだね?」
 いや、そんなこと。いやいや、そうなのかな。俺、嫌われちまって……もうあいつを守ってやれないのかな。
 そうだよな、もう許嫁も一緒にいるし……
 平民で使い魔の俺なんていらないよネ……
 そう、いらないネ……
 そうでしゅ。ボクはもういらないんでしゅ。いらない子なんだネ……
「こ、今度はどうしたんだ? 一周回って頭が腐ったのかい?」
「末期的だぁね」
 ボク、ルイズに捨てられちゃったら何処へ行けば良いんだろう。これが、俗に言う捨て犬の気持ち? でも、俺にはどうにもできない。だってルイズにはワルドがいる。
 もう、俺なんていらないんだ……
 いらないんでしゅ……
 いらないんだゴラァッ!!!!
 は、アハハはあハハアハあははハハ、ヘぁ。
「素敵にイッてしまっているようだね」
「ここまで狂った相棒をみるのは初めてだ」
 どうすりゃいいんだ。どうすりゃあいつのそばにいられるんだ。俺は、あいつのそばに『いなければ』ならないのに。守ってやらなきゃならないのに。
「……ふむ。キミはサイト国の国王だ」
 は?
 いきなりギーシュが語り始めた。
「サイト国はギーシュ国に宣戦布告し、今は戦時中だ。両者は国境沿いに睨み合い、一触即発の状態だ。サイト国は海沿いの国で魚が特産品、反対にギーシュ国は内陸部の国で背後に巨大な山岳地帯が広がっている。両者の間には一筋の川があり、それがお互いを隔てている」
 い、いきなりなんの話だ?
「黙って聞きたまえ。ギーシュ国は背後に山、前方には川とサイト国の存在で逃げ場がない。森林戦闘に不慣れなサイト国の弱点をついてはいるが、戦況は防戦一方の膠着が続いていて、食糧の備蓄と川から流れ込んだ湖による飲料水だけで保っている状態だ」
 ギーシュは優雅にグラスに注いだワインを含み、口内を湿らせる。
「さて、サイト国は戦争を長引かせたくない。できることなら一週間以内にギーシュ国を降伏なりなんなりさせたい。さて、きみはどういう作戦を立てる?」
 ふーむ……できるだけさっさとギーシュ国をやっつけちまえばいいのな。
 それって兵力は同じくらいなのか?
「ああ、ほぼ拮抗していると考えてくれ。だから、圧倒的戦力で叩きつぶすというのは無しだ」
 そうだなぁ……じゃあ、他の国に使者を送って一緒に攻めてもらえばいいんじゃね?
「周辺国家は静観の構えを見せている。今回の場合はどちらにも組みしない」
 うーん、そんじゃあもうなんも思いつかねーよ。一週間とか不可能だろ。
「いいや、そうでもない」
 え?
「答えは簡単だ。川に毒を流せばいい。人間は食わなくても数日は生きられるが、飲まなければすぐに死んでしまう。水を浄化するには水のメイジの魔法が必要不可欠だが、その魔法力はこの拮抗状態において無視できぬ浪費となるだろう。精神力を惜しんで死者が続出すればしめたもの。疫病が流行り、勝手に崩壊してくれるかもしれない」
 え、えぐいな。恐慌と暴動が起こるのを待つのか。でも、それって人道的にどうなの?
「あまりよろしくはないね。言い忘れたが、サイト国はギーシュ国の豊かな国土を狙って攻め入った。だから、今回のような作戦を執ると戦争の意味がぼやけてしまう。川が死ねば、そこら一帯は死の大地だ。数年はなにも実らぬ不毛の地となるだろう」
 疫病も流行り、浄化には土と水のメイジが必要。まさに踏んだり蹴ったり。ダメじゃん。
「これは、今のきみにも当てはまる」
 はあー?
「きみはなにも、ワルド殿を完膚無きまでにぶちのめす必要はなかったんだ。なのに、きみは彼を傷つけるほどに力を振るってしまった。だからこんなことになった」
 ちょ、ちょちょっと待てよ! 俺だってギリギリだったんだぞ! それに、ボコらなきゃ力を示せないだろうが!
「本当にそうかな? ワルド殿はルイズの許嫁だぞ。傷つければ良い印象を持たれないに決まっている。しかし、負けたら負けたできみは使い魔として不的確だということになってしまう」
 ぐぬ……たしかに。
「この匙加減は難しい。しかし、きみには選択肢は一つしかなかった。『ワルド殿の顔に泥を塗らず、かつ自分の評価も下がらないように勝つ』という方法だけだったのさ」
 ……なんだよそれ。無理ゲーじゃねえか。しばき倒すのすらいっぱいいっぱいだったのに、その上手加減までしろってのか? 無茶言うな。
「まあたしかに難しい事だが――最後の一撃を寸止めにして、『いつでもトドメは刺せた、あの時風だそうとしたときにもじつはズタズタに出来た』、なんて言ってやればよかったんじゃないかな。相手は誇り高い騎士(シュヴァリエ)だ。上手く行けば、こちらの意図を汲んでくれたかもしれない」
 ぐぬぅ。
「きみはベターな結末を迎えた。しかし、今回の場合はバッドにも等しい。きみはやり方を間違えたのだよ」
 そうかー……トドメ刺しちゃダメだったのか。失敗した。
 まあ、俺も同じ状況に置かれてルイズが他の誰かにボコされでもしたらブチ切れるしな。そうかもしれない。
 くっそ、もうダメだ……
「それなんだが、きみはそんなに骨のない男だったのかい?」
 ほえ?
「あの時、何度倒されようと不死者(ゾンビ)のように立ち上がってきたきみの姿は闘志に溢れていたのだがね。ぼくの見込み違いだったのだろうか」
 こいつ、決闘のこと言ってんのか。根に持つやつ。
「まあ、なにが言いたいかというとだ。戦う前に勝利条件を見直すことをお勧めしたい。作戦目標を明確にすれば、このような失敗も無くなるだろう」
 お前、結構作戦家なんだな。
「グラモン家の教育だよ。といっても、貴族の男なら家庭教師に必ず教え込まれるのだがね」
 未来の将軍として英才教育、か。
「日がな一日チェス盤をいじっていた頃が懐かしいよ。まあ、それは脇に置いて。たった一度の失敗でめげるにはいささか早すぎるのではないかな? きみの長所は、その底抜けの楽天思考と、何度でも食らいつく三つ叉頭(ケルベロス)のような執念深さなのだから」
 ……なんか癪に障るけど、お前が気をつかってくれてるのは分かるよ。
「一度の失敗で折れるなどきみらしくもない。むしろこれまで以上に張り付いて、汚名返上を狙うべきではないかね」
 そうかもしれん。
「ならばこの話はお終いだ。くよくよするな、立ち上がれ。
 その愚直さだけがきみ唯一の長所なのだから」
 言いたい放題言いやがって。いつもはただのバカのくせに。まあ、感謝だけはしとく。
 ギーシュ。
「なんだね?」
 ありがとよ。
「やめてくれむず痒い。背筋を猫草で撫でられたようだ」
 いつも通りのスカした微笑のはずなのに、今日はやけに様になってやがる。まさかこいつに慰められるとはな。
「さあ、きみも立ち直ったところで、今度こそ街へ繰り出そうじゃないか!」
 は? お前しんどいんじゃなかったの?
「少し休んだら元気が出てきた。
 愛を振りまくのが薔薇の務めならば、怠けるわけにはいかないだろう?」
 いやにてかてかしてやがるな……ああ、やっぱりこいつバカなんだなあ。要所要所は格好いいのに。
 モンモンも苦労するだろうに。
「さあサイト、きみはぼくの引き立て役だ! 有象無象が咲いていてこそ、薔薇の美しさが映えるというもの。少しは役に立ってもらうぞ!」
 ちょ、ちょっと待てよ! 出発は明日っつってたけど、晩飯までには戻らなきゃならないんだぞ!? もう時間ねえよ!!
「だからこそ急ぐのさ! 華の命は短いんだ!」
 どういう理屈だよ! ……まあ、付き合ってやらなくもないけどな。
 俺は肩を抱かれながら、ギーシュに伴われ外へ繰り出した。

     ○

「おねーさんボトル追加でー!」
「じゃんじゃん持ってきたまえ!」
 肩を組みララバイを歌う男ども。こいつらはどっちも能天気なぴっかり顔で、まるでこの世全ての憂いをかなぐり捨てたようなアホ面である。
 豚足のボイル片手にファビョる彼らを横目にしながら、ルイズはため息を吐いた。
「ごめんなさいワルド。こいつら、言っても全然聞かなくて」
「ははは、まあ彼らはまだ学生だ……おっと、使い魔くんは違うが、まあ年の頃は同じぐらいだろう。正式な軍隊行動でもなし、多少は多めに見てあげよう」
 それに、とワルドは前置きし。
「これぐらい砕けてくれた方がやりやすいし、なによりカモフラージュになる」
 たしかにこんなアホどもが姫殿下の密命を帯びた一団だなんて、誰も思わないだろう。いや、自分たちを仲間として見られるのはとんでもなく不本意だが。
 ギーシュはサイトそっちのけで給仕を口説き始めた。サイトはなにに勝ったのか知らないが、勝手に凱歌を歌い始めている。
「ルイズ」
 ルイズはぎょっとした。ワルドが彼女の手に、その無骨な手を重ねてきたのだ。長い騎士団生活と訓練により節くれだち、傷もあるが、暖かくたくましい指。それが今、彼女の細くしなやかな指と絡み合うように、手の甲から重ねられている。
「昨晩の話、考えてくれたかい?」
 ワルドは初春の桜の木の枝にとまるウグイスのような笑みを浮かべた。そんな無垢な表情を向けられ、ルイズの胸はきゅっとうずく。
 しかし、その『うずき』は恋や愛といった甘い感覚によるものではない。どちらかというと怯え、恐れ――『恐怖』に属するものである。
(わたしに、そんな価値なんてないのに)
 ルイズは眼を伏せ、人形のように整った顔立ちに暗い影が差す。ルイズはワルドの直接的な求婚に、いけないとは分かっているが、憂鬱さすら感じていた。
 ワルドは魔法衛士隊の隊長で、姫様に密命を頼まれるくらいの凄腕だ。彼の歩んできた道のりに比べれば、今の自分なんて部屋のすみに積もるホコリである。並んで歩くことすらはばかられる差がある。
 それに、とルイズは声にせず呟く。
 彼は風のトライアングル、いや、スクエアに手が届くくらいの誇り高い『貴族』だ。そして学院にはタバサのような風と水に秀でた者。キュルケのように眩しいほどの烈火の才を纏うものがいる。目の前のおばかなギーシュでさえ、青銅と錬金に非凡な才を発揮し、独自の才覚を秘めているのだ。
 しかし、自分には何も無い。できることといえば赤子が初めて杖を振って繰り出す、出来損ないの“破裂”(クラック)のような小爆発しか扱えない。いや、扱えているかというのも疑問だ。だって、『意思ある事象』を現実世界に呼び起こせていないのだから。あんな『爆発』、意図していないのだから。
 その観点から自分を眺めれば、最近ではもうサイトにすら劣っているのではないかと感じる。いや、これは己の心の弱さから来る『希望的観測』だ。サイトには非凡の才がある。たとえルーンの力だろうと、貴族を倒す力がある。しかし、自分はどうだ? こんな爆発では、木陰で休むヤモリすら倒すことができそうに無い。
 そう、自分には何も無い。誇れるものが何も無いのだ。
「――ルイズ?」
 ワルドの声に現実へ引き戻された。どうやらウィンナーをフォークに刺したまま、思考に没頭していたようだ。行儀が悪い。
「ごめんなさいワルド。大丈夫」
「本当かい? もし体調を崩したのなら、今日はもう休んでも――」
「大丈夫よ。本当になんでもないの」
 ルイズはゆっくりと頭を振り、ウィンナーをぽきりと齧って、咀嚼しながらフォークを置く。
 ワルドはきっと自分になにも求めないだろう。彼はたとえわたしが魔法を使えなくても責めない。きっと優しくしてくれる。
 でも、とルイズは一拍置く。
 その“位置”に。“お嫁さん”という状態に一度収まってしまえば。わたしはきっと身動きできなくなる。
 ワルドのお屋敷で使用人をはべらせながら、ずっと彼の帰りを待つ生活。たまに友人を屋敷に招いて、ティーパーティーやナイトパーティーを楽しむ。きっとそんな生活は優雅で素敵だ。とっても貴族的な生き方だ。
 しかし、そこに“わたし”はいない。“ワルド子爵の婦人”という女はいるが、“ルイズ・フランソワーズ・ル・フラン・ド・ラ・ヴァリエール”という少女は、もうそこにはいないのだ。
 そうなれば、わたしは貴族ではなくなる。“貴族の誇り”を手に入れようとあがくことすらできなくなってしまう。
 ――そんなの、嫌よ。
「ワルド」
 ルイズはワルドに向き直る。その背には真剣なオーラが漂っている。
「やっぱり、あの話はまだ受けられないわ。わたしはあなたに釣り合うような女じゃないの」
「なにを言うんだルイズ。僕の事が嫌いになったのかい?」
「いいえ、違うわ」
 ルイズはじっとワルドの瞳を見つめた。
「あなたのことは好きよ。好きだからこそ、一緒にはなれないの」
 コルベール先生は言っていた。願い続ければ夢は叶うと。それにほだされたわけではないが、まだ叶っていないのに諦めるのは悔しい。まだなんの結果も得ていないのに、放り出すなんてもってのほかだ。
 わたしはこれまで頑張ってきた。血が滲むような努力をして、“願い”を積み上げてきたのだ。だからこそ見たい。この願いが、いったいどこへ辿り着くのか。どんな世界を見せてくれるのかを。
 ワルドは戸惑ったように声を揺らす。
「ルイズ? もしかして学生であることを気にしているのかい? それなら大丈夫、結婚しても続けて学院に通ってもいい。僕は女性に勉強など不要だなんて言うつもりは無いよ。それに、魔法が“苦手”だということを気にしているなら、昨日話しただろう?」
「……“秘めた才能”のこと?」
「そうだ、ルイズ。君はいずれ、きっとこの国一番のメイジになる。君にはその力がある、そのつつましやかな胸の中には、無限の才能が眠っているんだ」
「つつましやかで悪かったわね」
「あ、ああ、いやいや。すまない、決してそういう意味で言ったわけじゃないんだよ」
 虚を突かれ少年のように取り乱すワルド。ルイズはそんなワルドが年下の少年のように見えて、わずかに口元をほころばせた。
 ギーシュは給仕(エウリーシュ)の手を握り、熱っぽく見詰め合って愛を囁いている。おそらくモンモランシーが見たら、鬼女のように怒り狂ってギーシュを刺し殺すだろう。エウリーシュは夢見心地だ。ギーシュは頭の中身は残念だが、基本イケメン、略して“イケ念”なのだ。
 サイトはなにがおかしいのか大笑いしている。
「そのことだけど……あなたはわたしを過大評価しすぎてる。わたしにはそんな力なんてないわ」
「それこそ過小評価さ! 僕が保障する! だから、君はなにも恥じることは無い! 安心して僕の胸に飛び込んでくればいいんだ!」
 ゆっくりと、しかし勢い良く両手を広げるワルド。
 ルイズは彼のその姿に、言いようの無い不安を感じた。
「ワルド、あなた……?」
「はいどーん!」
「ぐばぁっ?!」
 唐突にカエルがひしゃげるような悲鳴が上がった。サイトがギーシュを殴ったらしい。なんの予備動作も無く、しかも満面の笑みで。
「な、なにするんだねきみは! 毎度毎度いいところで邪魔してくれてからに、ぼくに恨みでもあるのかね!?」
「うははははは! てめーの横顔はなぜか殴りたくなるんだよ! なんでだろうな?」
「知らんよそんなこと!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るギーシュ。しかし、サイトは全く堪えた様子は無い。彼らはずっと平和である。
 ルイズは改めて自分の使い魔を見た。
 馬鹿で、直情的で、考えなしで、どうしようもなくて。でも、ちょっと優しい。
 わたしのことをなにより一番に考えてくれる。それだけは自信を持って言える。
 フーケの時は守ってくれた。品評会の時はすごく頑張ってた。それらは、全部わたしのため。
 でも、こいつはわたしがそばにいないとなにもできない。こいつの保護者はわたし。だって、こいつはわたしの使い魔だから。
 ルイズはサイトに、少しずつ情を懐き始めていた。といってもそれは男女の情ではなく、あくまでペット――飼い犬に向ける博愛のようなものだ。
 サイトがあまりにも“尻尾を振りすぎる”ので、想いのベクトルが固定されてしまったのだ。
 使い魔が主人に尽くすのは当たり前。そんな固定観念にどこまでも忠実なサイトは、彼女にとって格好の愛玩対象であった。
 しかし、ワルドはそうはとらなかったらしい。
「……どうやら、君の心に誰かが住み始めたみたいだね」
「え?」
 心底不思議そうに、素っ頓狂な疑問符を上げるルイズ。文字通り心にもなかったので、本気でびっくりしてしまった。
「ワルド? いったいなんの話?」
「とぼけるのかい? まあ、それもいいだろう。でもルイズ。僕はきっと君の心を射とめて見せるよ」
 ルイズは本当に意味が分かっていない。そしてワルドは勘違い星雲を驀進中のロケットである。
 はたから見ればどちらも滑稽だった。

     ○

「うぇははは! 拝めば付き合ってもらえるなら、いくらでも拝むけどなぁ」
「そういいつつぼくにだけ拝ませようとするのはやめたまえ――」
 上機嫌にできあがったサイトが、ギーシュの頭を押さえつけている。その、頭が下がった刹那。頭があった空間を貫くように、なにかが高速で通り抜けた。
「っつ! んだ……っ!?」
 左手の甲をかすめた痛みにサイトは眉をしかめ、そして瞬時に顔色を変えた。
 手の甲が薄く裂け、ルーンが上下に割れている。「やべえぞ! 敵襲だ!」
 警鐘と同時に矢襖が殺到してくる。ワルドはさすが軍人、瞬時に魔法“風壁”(ウィンドヴォール)を展開してルイズを守る。サイトは浮き足立つギーシュの首に腕をかけ引き倒し、自分も倒れざまにテーブルを蹴り上げた。
 四角い長テーブルが防壁に早変わりした瞬間、皿やコップが豪雨のように砕け散る音と同時になにかがかかかかと連続で命中した音が響いた。
「うひぃっ!?」
 ギーシュが目を剥いた。目の前にテーブルを貫いた矢尻が飛び出してきたからだ。後数センチずれていればお陀仏だった。悪運の強い男である。
 テーブルの向こうではどやどやという多数の足音、そして一般客であろう大量の阿鼻叫喚が聞こえてくる。どうやら入り口を固められてしまっているらしい。
「ど、どどどどうするんだ!? こんな場所でしかも圧倒的戦力差! 絶体絶命だよぼくらは!」
「ふむ……どうやら向こうは二十人規模の集団らしいな。入り口付近に横倒しのテーブルがあって五人。やや内部にバリケードを張って左右二人ずつの四人。残りは外でローテーションを組んで待っている」
「なんで分かるんすか?」
「この距離ならば“風”で分かる」
 “撹乱”(ジャミング)もない傭兵相手なら簡単なものだよ、とワルドは余裕の笑みを浮かべた。
 ひょいと不用意に顔を出してもワルドは風で矢を弾いてしまう。彼だけなら一人で壊滅させそうな気配である。
「ということは向こうにメイジはいないわね。不幸中の幸い、ってとこかしら」
「だからこそアリのように群れたがるのだろう。面倒なことだ」
 ルイズはワルドの軽口にも取り合わない。
 彼女も表情は真剣そのもので、緊張がにじみ出てきている。
 この中で慌てていないのは、ワルドとサイトだけだった。
「さ、サイト……きみは落ち着いているね。まるでこういったことに慣れているみたいだ」
「慣れる、か。まあ慣れてるっちゃあ慣れてるかもなあ」
 サイトはやや引きつった笑みでまぶたを閉じる。すると浮かんでくるのはあの修行の日々。あの大量の薪の嵐も、今となっては懐かしい気がする。
 薪も弓矢も似たようなものだ。あたれば痛いが、あたらなければどうということはない。そして、彼は当たる気など微塵もしていない。なぜなら、訓練中に心構えを師匠から聞いていたからだ。

 ――キミは実戦だからって気負うような性格(たち)じゃない。
                 落ち着いてやればいつだって大丈夫だよ――

 サイトは現代人に珍しく、どっしりと座った肝っ玉を持っていた。恐怖や怯えに強いのだ。だからこそギーシュとの決闘では痛みに耐えて立ち上がれたし、フーケのゴーレムにも立ち向かえた。もっとも、あの時はあせって手痛い反撃を食らわされていたが……あれは力の使い方を知らなかった“弱気”からくるあせりであり、厳密には恐怖ではない。力の振るい方を身につけた彼には、もう縁遠いものになっていた。
 ワルドはサイトの様子ににやりと笑った。
「頼もしいものだ。それでは使い魔君、この場を頼めるかね」
「へっ?」
「こういった場合は部隊の半数が目的地に辿り着けば成功とされる。僕らは四人だ、だから二手に分かれよう」
「ワルド、なにを言ってるの! サイトたちを見捨てる気!?」
「へ、へ? いったいどういうことだいミス・ヴァリエール。是非とも説明を要求したいんだが」
 嫌な予感をひしひしと感じ、顔を青くしているギーシュ。アルコールで吐きそうなのもあるかもしれない。
 ルイズは切迫したように早口で答えた。
「信頼を得るには立場なりなんなりで裏付けできる、ある程度の説得力が必要よ。なら、この中ではわたしが一番姫殿下に近い。だから一人はわたしで決まり。そして賊への対策として、腕利きが一人必要よ。それなら、ワルドしかいないじゃないの」
「な、ならばここに残るのは」
「そう。あんたとサイトってことになる」
 そこまで聞き、ギーシュはこの世の終わりのように顔をゆがめた。まるでムンクの『叫び』である。
「ちょ、ちょっと待ってくれたまえ! きみたちはぼくらに死ねと言うつもりか!?」
「そうよ! だからダメなのよ! ワルド、絶対ダメよ! こいつらには荷が勝ちすぎる!」
 ワルドは傭兵軍団の弓矢に“風槌”で応射しながら答えた。
「そうかな? 使い魔くんは僕を退けるほどの腕利きだ。この程度の苦境は苦境ですらないだろう」
 ワルドは鼻の頭を撫でながらいう。
 そこには白いガーゼが貼ってあり、今朝の決闘の傷跡が残っていた。
 まさか私念でそんな意地悪を、とルイズは愕然とする。
「いやいや、他意はないんだ。ただ、本当に彼に任せられると心から思っているから、僕は彼に頼みたいんだよ」
 あくまでも否定するワルド。しかしこの状況ではそうにしか取れない。ワルドは困って頬をかいた。
 その状況に割って入ったのはサイトだ。
「いや、たぶん俺だけでもなんとかできる。行くなら三人で行ってくれ」
「サイト!? あんたまでなに言って」
 ルイズはサイトの正気を疑った。まさかこんな時に自己犠牲や蛮勇に目覚めたのだろうか。
 しかし、続いてサイトの口から出た言葉は、ワルドの眉をひそめさせた。
「……ただ、俺はその案に反対するぜ」
「ほう? 理由を聞いていいかね?」
 サイトは身を隠すように片ひざをついた姿勢でワルドに向き直る。
「そんな人間を戦力として切り貼りするようなやり方は好きじゃねえ。行くんだったら多少傷を負ったとしても、全員揃って行くべきだ」
「君は任務の遂行より、兵士の命が大事だと言うつもりなのかね?」
「切り捨てた勝利が尊ばれるなら、そんなもん糞くらえだ! 俺たちは全員無事で学院へ帰るんだ!」
 明確な決意を込めてサイトはワルドを睨みつけた。サイトはワルドの人を駒のようにしか見ないやり方が気にくわなかった。
 夕方にギーシュから教えられた。勝つとしても、それなりの勝ち方があるはずだ。
 それに。「こいつ(ルイズ)と離されるのは勘弁だ。でないと守ってやれないからな」
 その言葉に、ルイズははっとサイトの横顔を見た。サイトの表情には気の抜けたような不真面目さは消え、真摯にワルドを見つめている。
「心配要らない。ルイズは僕が守ろうじゃないか」
「そういう問題じゃないんスよ。こいつは無鉄砲なとこがあるから、目を離すとなにするか分からねえ。心配なんだ」
「大丈夫だ、僕は王宮直属の部隊の隊長だぞ? なにがあっても守ってやれるさ。それとも、使い魔くんは僕が信用できないのかな?」
「そんなレベルの問題じゃない!」
 サイトの鋭い否定の語調に、一瞬だけ場は空を切る矢の音だけに満たされた。
「そばにいないと、万々が一の一に遭ったとき、俺はこいつを守ってやれねえ。力が足りずにやられるならまだいい。けど、『いなかった』って理由で、こいつを危険な目に遭わせたくない」
 サイトはルイズを振り返る。
「そんなことにならないために。俺はこいつを、手の届く場所に置いておきたいんだ」
「サイト……」
 ルイズの心臓がどくん、と跳ねた。みるみる顔に血液が集結してくるのを感じ、慌てて顔を背けるルイズ。
 サイトは不思議そうに首をかしげた。
「ば、ばばばばっかじゃないの!? 使い魔のくせに!」
「んだよ、お前前言ってたじゃねーか」
「……?」
 顔を真っ赤にし、両手で口元を覆いながら、横目でちらりとサイトを見やるルイズ。
「『敵に背中を見せない者が貴族』なんだろ? なら、ここで逃げたらダメだろうが」
 至極当然のように胸を張るサイト。むふー、なんて鼻息まで吐いちゃってる。
 ルイズはきょとんとサイトの表情をまん丸な眼に映し、彼の全身を上から下まで眺め回した。
「なんだよ」
「あんた大丈夫? ギーシュの菌が移ったの?」
「人をばい菌みたいに言わないでくれないかね」
 ギーシュ菌発見、浸蝕の様相を見せている! ……なんてことはないのであしからず。
 病原菌扱いされたギーシュは傷ついたようにいじけてしまった。
「それで、これからどうするのかな?」
 ワルドが冷たい視線で、意地悪い響きを含んで呟いた。
「ここに留まるということは、やつらを壊滅させねばならないぞ。君に、彼らを皆殺しにする覚悟はあるのかね」
「み、皆殺しって……」
 なにもそこまでしなくても、という顔で視線を泳がせるサイト。
 ワルドは強い口調で首を振った。
「君が言っていることはそういうことなのだ。やつらはおそらく仲間、いや、肩を並べた同業者が二、三人命を落とした程度では止まらんぞ。半数以上を殺すか、圧倒的力の差を見せつけねば退けられん。それも、畏怖を与えるような方法でね」
 ワルドは言外に“生け贄を捧げろ”と言っているのだ。厳密な意味はそうではないが、似たようなことだ。無惨な、もう戦いたくなくなるような死体を向こうに見せつけ、戦意を喪失させるべきだと提案しているのだ。
 無論、この場に全員残るのであれば、という場合だが。
 サイトは難しい顔で唸った。
「全員気絶させる、てのじゃダメっスかね」
「道理が通っていないぞ。なぜそんな回りくどいことをせねばならんのだ」
「だって、可哀想じゃないっスか」
「――はぁ?」
 世にも珍しい魔法衛士隊隊長のあきれ顔。心の底からありえないという脱力を感じさせるため息である。
「君、やつらはこちらを皆殺しにしようとしているんだぞ? なのに可哀想? 正気かね? それともなにか、君は無抵抗主義者なのか?」
「いや、そんなんじゃないっスけど」
 サイトはワルドに向き直り、瞳を覗き込んだ。
「振りかかる火の粉は払わなきゃいけないっスけど、やりすぎちゃダメだと思うんです」
 彼はいつか言っていた。殺すために剣を振るうのではない、と。そしてその考えは今でも変わっていない。『守る剣』を証明するためにも、極限まで殺しはしたくない。
 それに。
「俺たちは、殺さずに済ませるくらいの力を持ってるじゃないスか。
 だから、できるだけそういう努力しましょうよ」
 ギーシュにはないっスけど、と思い出したように付け加えるサイト。ギーシュは絵に描いたようにショックを受ける。
「じゃあわたしはどうなるのよ」
 若干むくれてルイズも食ってかかる。しかし、サイトは慌てない。
「なに言ってんだ。使い魔の力は主人の力だ。俺が、お前の力なんだよ」
 またもや当然だと言い切るサイト。その真っ直ぐで短絡過ぎる発言に、ルイズはふっと目尻が落ちるのを感じた。
 サイトが本気で言ってくれているのが分かる。サイトは本当にわたしのために戦ってくれていた。こんな状況だからこそ信じられる。サイトは、たとえなにが起ころうとも、わたしを必ず守ってくれる。
 ルイズは心の重しが少しだけとれたような気がした。
 ワルドの目線がきつくなる。
 それはまるで、愚か者共の集団を見下ろすような、ゴミ虫を見る眼だった。
「……よかろう。ならばやって見せたまえ。言っておくが僕は力を貸さないぞ」
「え? ちょ、ちょっと、ここにきてそんな大人げないこと言わないでくださいよ」
「僕からすれば君の言い分こそ狂気の沙汰だ。力を振るえばものの数分で終わらせられることに、わざわざ制約を設けるんだからな」
 さっさと殺せばすぐ終わるだろう。ワルドからはそんな攻撃的な雰囲気が滲み出ている。
「ルイズは任されてやる。だが、そこから先は君たち二人でやるんだ」
「ちょっと、ワルド! こんな時に仲間割れしても仕方ないでしょ! 協力しましょうよ?」
「ああ、僕のルイズ。こんな時だからこそ、彼らには知ってもらわねばならないんだよ――戦場で情を挟むことの愚かしさを、ね」
 ワルドは身を乗り出して一際大きな風の塊を敵陣へ叩きつけ、振り返る。
「三分だ。それ以内になんらかの結果をだしたまえ」
「んな!?」
「時間をかければかけるほど状況は悪くなる。時間切れか、やつらが最終防衛ラインを越えたと僕が判断した時――その時は、分かっているね?」
「………………」
 サイトは重々しく押し黙る。
 ラインというのは、おそらく部屋の中央ぐらいだろう。今自分たちは入り口から最も離れた反対側の壁際、二階への階段を脇にして応戦している。距離としてはその辺が妥当だろう。
「……分かりました」
 サイトは頷いた。

     ○

「ということだギーシュ。作戦を練るぞ」
「どういうことだね!? というか勝手に巻き込まないでくれたまえ!」
 暗黙の了解のように話を振ってくるサイトに、ギーシュは怒りの声を上げた。
 予想外のギーシュの反応に、サイトはきょとんと目を丸くする。
「――手伝ってくんないのか?」
「くっ……」
 捨てられた子犬のようなサイトの瞳。その邪気のない寂しそうな視線に、さしものギーシュも罪悪感を刺激された。
 ――バカはこれだから困る!
 ギーシュは内心で怒鳴った。
「ぼくはどちらかというとワルド殿に賛成だ。命を狙われているのだから、こちらが殺し返しても問題は無いはずだ」
 これはぼくが貴族で、向こうが平民だからというわけではないぞ。そうギーシュは前置いた。
 サイトはしゅんとしおれる。
「……そうか」
「だが」
 ギーシュはサイトを正面から見据える。
「まあ、きみはぼくの友達だ。友が困っているのであれば、力を貸すこともやぶさかではない」
「さすがギーシュ! だから好きだお前! 愛してるぜ!」
「ぐはっ! ちょ、やめたまえ気持ち悪い!」
 抱きついて頬をすりつけてくるサイトに、ギーシュは困った悲鳴を上げた。
 ルイズはその光景に顔を真っ赤にして眼を手で覆った。しかし、隙間からしっかり見ている辺り、腐女子の素養はばっちりである。
 ワルドがせっついた。
「ほらほら、そんな友情ごっこをしている暇はあるのかね? もう三十秒は経ったんじゃないか?」
「わ、分かってるっスよ!」
 忘れられがちだが、今こうしている瞬間にも敵の攻撃は続いているのだ。さっきまではワルドの魔法射撃のおかげで威嚇できていたが、それが無くなった今、いつ攻め込まれてもおかしくない。
 サイトは頭を捻った。
「あいつら全員いっぺんに無力化できねーかな」
「難しい、と言わざるを得ないね。少なくとも物理攻撃では無理だろう。物量で追いすがられて捕まるか、勢いあまって殺してしまう可能性が高い」
「魔法じゃ無理か?」
「そうだね……スリープクラウドでも使えれば別だが、ぼくの手持ちの魔法では無理だ」
「お前は使えねーのか? その、スリなんとかってやつ」
「ぼくは錬金専門なんだよ」
 サイトははぁとため息を吐いた。
「使えねーやつ」
「なにをーっ!? ならば、きみは妙案があるというのかね!?」
「いや、ねーけど」
「ほらみたまえ、きみも同類だ!」
「一緒にすんなバカ!」
「バカって言った方がバカだ!」
「うるせーこの発情もやしがッ!」
「黙れ単細胞ッ!」
 デコを合わせいがみあう二人。五十歩百歩の醜い争いである。
 見かねたワルドがわざとらしくゴホン、と咳払いをした。
「まったく、あんたたちそんな場合じゃないでしょうが! ちゃんと考えなさい!」
 どっちもバカなんだから……とぷりぷりしながら仲裁するルイズ。その一言に食い付こうとした二人だが、今にも殺されそうなワルドの殺気に矛を収めた。
「とりあえず、きみの剣技頼りになるね。きみはその点だけはバカみたいに秀でてるから」
 バカという単語をことさら強調するギーシュ。気炎を吐きそうなサイトはルイズに頬をつねられ止められた。
「まあ、俺が攪乱してお前が援護、って形にするしかないか」
「ふむ。ベストではないがベターだね。おそらくきみだけなら捕まらないだろう」
 もう時間も残り少ないので、その辺で妥協する二人。
 作戦と呼べるのかどうか分からないくらいお粗末だ。
 サイトもギーシュも、ガンダールヴの力に頼ることをためらわない。それはなにも、彼らが傭兵たちを舐め腐っているわけではなく、掛け値無しにそれぐらいルーンの力が強いからである。おそらく剣を握ったサイトは、百人がかりでも倒せないだろう。万を超えたら微妙だけど。
「んじゃま、行きますか……あ」
「どうしたのかね?」
 唐突に固まるサイト。ギーシュの問いかけにギギギ、とにぶにぶしい油の切れた軋み音が聞こえてきそうな様子で振り向く。
「デルフ忘れた」
「え」
「部屋に置きっぱなしだ」
 ギーシュは言葉を失った。
 今何言ったのこいつ?
「……マジかね」
「ああ、大マジだ」
 もう一度問い返しても、サイトの答えは変わらない。彼の背中を見ると、たしかにあの赤錆びた長剣を背負っていなかった。そういえば会話にも加わってこないと思っていたが――
 ギーシュはふぁさっと前髪を右手でかき上げる。
「……ほんっとーにバカは困るね」
「ごめんなさいサイト。さすがに今回はわたしも言わせてもらうわ――このっバカッ!!!! 大バカッ!! 駄犬ッ!!」
「すいません、ほんとすいません。ごめんなさい」
 返す言葉もないサイト。今度ばかりは彼も言い返せなかった。
「仕方ない――ここはぼくが一肌脱ごう」
「ギーシュ?」
 薔薇の造花を取り出すギーシュ。彼はそれを二、三度振り、花びらを全て舞い落とした。
「ぼくだって貴族の端くれだ。ただのお荷物ではないのだよ」
 口中に意志ある願いが木霊する。薔薇の造花の花びらが震え始めた。
「きみはここで見ているといい――この、ギーシュ・ド・グラモンの凱旋を」

     ○

「“風”が止んだな……精神力切れか?」
 襲撃部隊の暫定隊長であるラッツィンガーは首をかしげた。
 あれほど強烈な魔法を連発していれば、そうなるのも頷ける気がする。
 これ以上射かけるのは矢代の無駄になる。できれば出費は少なく抑えたいところだ。
 ラッツィンガーは頃合とみてとり、振り返って突撃命令を出そうとした。
「お、おい……」
「なんだあれ……」
 部下たちのざわめきが耳に届いた。微量ではないたしかな動揺を感じ取り、ラッツィンガーは号令を中止して背後を見た。
「なっ――」
 そこにいたのは鈍い鉛色の“なにか”。色合いや光沢的に金属なのだろうが、なにせとにかくデカかった。なんと五メートルくらいある。しかもイエティみたいにずんどうな人型をしていて、まるでゴーレムのようであった。
 “ゴーレム”が動いた。ずしんずしんと緩慢な動きだが、ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。
 ラッツィンガーは我に返った。
「――弓矢装填! 射撃よーい――ってぇ!!」
 号令と同時に放たれる雨のような矢の大群。それらはあますことなく全弾ゴーレム(らしきもの)に命中するが、かいんと甲高い金属音を立てて次々に弾かれてしまう。
 部下たちに動揺が広がった。
「狼狽えるな! 怯まず撃て!」
 ラッツィンガーが檄を飛ばすが、矢の勢いは目に見えて衰えている。迷いが蔓延しているのだ。
 あれの正体はなんなのか、いったいどうすればいいのか――怖れの糸は、ラッツィンガーの首にも掛かる。
 その時ゴーレムから声が聞こえた。
「くく――ふふふ――ははは、はーはっはっはっは!!!! 無駄無駄無駄ぁっ! この『青銅』のギーシュに弓矢は効かんぞ!」
 悪役のような三段笑い。声の主は愉快でしかたがないようだ。なんとゴーレムが喋っている。
 ラッツィンガーは最初理解できなかったが、ややあって合点がいった。
「そうか。人間が入っているんだな」
 その通り。あれは青銅ゴーレム in ギーシュ。青銅戦士ギシュダムなのだ。 
 断面図にすると中心にギーシュが埋め込まれるように配置され、両手足の動きに連動するようにゴーレムが動く仕組みである。
 こうすることによりモーションキャプチャーと似たような原理が働き、脳内で動きを思い描く→ゴーレムに伝える→ゴーレムが動くというややこしい行程を短縮し、簡単かつダイレクトな操作が可能になるのが強みだ。精神力の節約にもなり、一石二鳥なのである。
 よく見ると顔の辺りに穴が三つ開けられ、空気穴+覗き穴が設置されているのが分かる。ちゃんと矢が通らないくらいの大きさに抑えてあるので、やや呼吸が苦しいけれど防御も完璧。首周りはやや大きめに空洞化してあり、左右にも覗き穴をつけているので真横からの攻撃にも対応できる。
 さらに視界を確保できることにより、誤って相手を殺害してしまう可能性がぐんと減る。手加減しやすくなるのである。
 ギーシュは自分のこの思いつきに、嬉しくてテンションが上がりきっていた。
「ふはははは! やはりぼくは天才だ! これはラインになれる日も遠くないな!」
 思いつきとランクアップは必ずしも連動しない。使用法を工夫しただけで、技巧的には向上していないからだ。
 しかし、気持ちよくなっているギーシュはそのことに気づいていなかった。
 そうこうしているうちにデッドラインを越え、敵陣営まであと半分のところに辿り着く。
「我が青銅の餌食になりたい者はこの場へ残れ! 命が惜しい者は今すぐ立ち去れ! 犬のように尻尾を巻いて情けなく逃げるのであれば、ぼくは命までは取らん!」
 ぼくは寛容だからな! と朗々と演説するギーシュ。この男調子に乗っている。
 だが、それを咎める平民の一撃が、間髪入れずもたらされた。
「ん……? なんだ、ってあつ、熱っ!?」
 急に発生した右手の熱に驚き喘ぐギーシュ。ガラスの破砕音がしたかと思ったら、いきなり右手が熱したフライパンを直に触ったみたいな熱さに襲われた。
 ギーシュの悲鳴にラッツィンガーたちはにわかに活気づく。
「効いているぞ! 次弾、構え!」
 ラッツィンガーを中心にして左右に二人ずつ部下が並んだ。彼らは全員利き腕に瓶を構え、瓶の口は赤々とした焔を吹き出している。
 火炎瓶である。
 それを認識した瞬間、ギーシュはさっと血の気が引いた。
「や、やめたまえ! それはダメだ! 頼む、やめてくれ!」
 必死に懇願するギーシュ。彼は自分の弱点を嫌というほど分かっていた。

 ――説明しよう!
 青銅戦士ギシュダムは物理攻撃に滅法強いが、急激な温度変化にとてつもなく弱いのだ!

 なので氷結魔法や炎上魔法は原則的にNGである。青銅が熱や冷気を素通ししてしまうので、ほぼノーガードと同義なのだ。
 だから火炎瓶もダメなのだ。油が付着し燃え上がれば上手に焼けてボイルされてしまい、今夜のメインディッシュはギーシュの姿焼きになること間違いなしだろう。
 それを理解しているからこそ、ギーシュの恐怖は推して知るべし。
「放てーッ!」
「うわぁぁあぁあぁ!!」
「ギーシュ――ッッッ!!!」
 放たれる火炎瓶。その瞬間ギーシュの体感する世界は、全てがスローモーションに流れる。
 ぐるぐると縦回転しながら迫り来る火炎瓶。ああ、このままでは蒸し焼きにされてしまう。しかし兵装を解くわけにはいかない。なぜなら、彼らの背後には隙間を縫うように五人の射手が待ちかまえているからだ。脱げば串刺し、脱がなければヴェルダン、どっちにしても地獄しかない。
 テーブルの合間を縫い敵陣に迫っていたサイトが、見かねて飛び出してきている。ああ、馬鹿者。きみがみつかったら作戦が台無しじゃないか。この作戦のキモは、きみの奇襲にかかっているというのに。
 ギーシュは不思議となんの感情も感じていなかった。恐怖も、後悔も、恨みも、なにも感じない。明鏡止水の境地にあった。
 流れるように左手を掲げ、サイトの周辺にあった椅子を“軟化”させる。サイトはそれに足を取られ転んだ。サイトは信じられないという表情で身を起こしこちらを見る。
 これでいい。たとえ瓶を弾いたとしても、二の矢の攻撃で仲良くやられるだろう。ならば、倒されるのはぼくだけでいい。きみまで命を落とすことはないんだ。
 視線を戻す。火炎瓶はもう目前まで迫っていた。

 ああ 父上 母上
   先立つ不幸をお許し下さい

 全てを諦め眼を閉じて、辞世の句まで詠んだ瞬間。彼に奇跡が微笑んだ。
「なにっ!?」
 目を瞠るラッツィンガー。突如発生した強風が、火炎瓶を鋭角に吹き飛ばしたのだ。
「……あ、あれ? ぼく、助かったのかい?」
 いつまで経っても熱くならないので、恐る恐る眼を開けるギーシュ。炎上していない自分の身体を不思議そうに眺め回す。
 ぽかんとしている傭兵たち。するとその背後から炎と風の奔流が吹きすさび、彼らの身体をあぶりなぎ倒した。予想外の方向からの攻撃に、傭兵たちは浮き足立つ。燃えたのはギーシュではなく、傭兵たちの方だった。
「――あたしたちを抜きにして、随分楽しそうなことしてるじゃない?」
 爆発して扉がぶっ飛んだ入り口から、褐色の脚線美が顔を出す。もうもうとした煙の向こうから現れたのは、頼もしい援軍であった。
「キュルケ!」
「はぁいダーリン♪ 相変わらず飽きない男ねぇ」
「それにタバサも!」
「………………」
 いつもどおりのはちきれそうな学生服のキュルケと、ナイトキャップでパジャマなタバサ。仲良し二人が揃い踏みだ。
「キュルケ、タバサ、なぜここにいるの? あなたたち学校はどうしたのよ?」
「あら、ヴァリエール、ご挨拶ね。自分はしぶ~いおじさまとお忍びデート? そんなの見せられちゃ、退屈すぎて学業なんて手に付かないわよ」
「……連れてこられた」
 どうやらキュルケは出発する自分たちを見つけて野次馬根性でつけてきたらしい。タバサはおそらく巻き込まれたのだろう。いつもどおりのどうでも良さそうな表情が物語っている。
 というかキュルケ、着替える時間くらいあげればいいのに。
「後方の部隊は――」
「あら、あなたが司令官かしら? 残念だけど、後ろにいた方々にはお眠りいただいたわ」
「残りはあなたたちだけ」
 ラッツィンガーは彼女らの言葉にそうか、と一言返すだけだった。なかなかできた傭兵である。
「さあダーリン、お話はまた後にしましょう! こいつらを片付けるんでしょ?」
「そうだった! ――挟撃する! 俺に合わせろっ!」
「「「OK!(任せたまえ!)(ん……)」」」
 サイトの裂帛の気合いに呼応し、キュルケがぴっと杖を突きつけ、ギーシュが行動を再開し、タバサは緩やかだが堂に入った動きで杖を構えた。
「突・撃・ッ!!」
 号令と同時にサイトは飛び出す。その手には木製のメリケンサックが握られている。爆発と熱風により陣形を崩された傭兵たちへ野猿のように躍りかかるサイト。
 それを援護するかのように前後から魔法の集中砲火を浴び、ラッツィンガーたちはろくな抵抗すらできずに取り押さえられることとなった。
「わたしも……わたしもやるんだから!」
 ルイズもギーシュの背後から魔法を繰り出す。しかし、起こるのはよく分からない爆発だけ。それに挫けそうになったが――
「いいぞルイズ! そのまま頼む!」
 というサイトの激励に励まされ、下げかけた杖を握りなおした。

「本当に頼もしい使い魔くんだ――少々、目障りなくらい」
 暗い光を称えた瞳は、サイトの姿を写している。
 そんなワルドの呟きは、彼らには届いていなかった。



[21043] 六章Side:S 三日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:28
【 六章Side:S 三日目 『再会』 】



「ほえーっ! すげええぇえぇぇええ!!!!」
 雲の向こうから現れた大地に、感嘆の雄叫びを上げる俺。
 おい、見ろギーシュ! やべぇぞあれ、すげーぞ!
「たしかに素晴らしい景観だが、そこまで珍しいものでもないだろう……平民でも少し背伸びをすれば手が届く程度の避暑地だぞ」
 こいっつ……ロマンのねえことを!
 飛んでんだぞ、ラピュタなんだぞ、ラピュタ!
 パズーとシータと宮崎駿なんだ!
 青少年の青春の結晶なんだぞ!
「わ、分かった分かった。きみがいたく感動していることはよぉ~く分かったから……これ以上ぼくの気分を悪化させないでくれ」
「きぅー」
 なんだその投げやりな反応、船酔いしてる場合じゃねえぞ――ってヴェルダンデ! そうだ、お前は分かってくれるか!?
「き、きぅ?」
 おぉーそうかそうか、お前も感動で鳴き声が止まらないか!
 だよなだよな、そうだよなあ!
「き、きぅいぅー」
「きみ、ヴェルダンデが困っているじゃないか。妙なテンションで絡むのはやめたまえ……うぇっぷ」
 絡んでねーし迷惑がってねえよ!
 俺たち友達、友達の使い魔も友達!
 だからみんな友達だ!
「どういう理屈だねそれは……うぅ、もうダメ」

「ごめんなさいワルド。あんのバカ、泥の上にクックベリーパイを塗りたくるみたいに恥の上塗りしちゃってぇ……っ!」
「ふふ、まあいいじゃないか。あの浮遊大陸は、初見なら誰でもああなるさ」
「タバサ……あたし今、初めて“微熱”以外の心の高ぶりを覚えているわ」
「………………」
「ゲスゲスゲス」
「きゅいー」

     ○

 昨晩の襲撃から一夜明け、俺たちは予定通りアルビオン行きの船に乗り込んだ。
 他の乗客たちも数名一緒だったが、そいつらは旅行者ではなくみんな傭兵だ。戦争の噂がラ・ロシェールで飛び交ってたから、旅行を見合わせる観光客が殺到してキャンセルが続出したらしい。ま、好き好んで戦地へ観光に行くやつなんていないよな。
 ガラガラの客船内でだらだらと時間を潰しつつ、俺たちは昨夜の疲れを癒した。昨日は全然眠れなかった……というのも、宿のおっさんが泣きながら修理費を請求してきて、払わなければ出てってくれ! と怒鳴りつけてきたもんだからとても困ったんだよな。ワルドが手持ちの用紙からささっと手形を発行してやっても、「紙切れなんぞ信用できるか!」なんてハリネズミみたいに気が立ってて聞き入れてくれない。しょうがないからその日は街を出て、近場にテント張って野営したもん。あー、身体いてぇ。
 俺は客室に案内された瞬間ばたんきゅー。速攻で寝ちまった。で、起きたら茜色の空にこれぞファンタジーって物体が浮いてて、浮かれまくってるってのが現状ってわけ。
「ルイズ! あれすげえな! あんな綺麗なもん初めて見たぜ!」
 俺は興奮冷めやらずルイズに駆け寄る。
 船の縁から五分ばかし眺めてたが、好奇心がまったく萎えない。
 これが見られただけでも付いてきた甲斐があったってもんだ。
 しかし、ルイズの表情はすぐれない。
「どうしたルイズ?」
「……サイト」
 ルイズは縁から一歩離れ、ぼんやりと佇んでいた。
 いつもの気むずかしい熊ような気性はなりをひそめ、どこか儚げに感じてしまう。
 どうしたんだこいつ?
 なんかおかしい。
「あの国は、あと数日したらなくなっちゃうのよね」
「……あ~」
 ルイズの視線を追って俺も眼前の浮遊大陸を映す。
 なるほど、諸行無常の理を感じてセンチメンタルになっちまったんだな。
 いや、意味はよく知らんけど。
 大体あってるだろ。
「アルビオンの王党派の貴族たちは、いったいどんな気持ちなのかな。恐く……ないのかな」
「ルイズ」
 きりりと真面目な顔で、ルイズを正面から見つめる。
 ルイズはえ……? と戸惑いと不安と、そしてちょっぴりほっぺたが赤くなって目が潤む。
 ルイズ――ごめん。
「パイターッチ!!」
「ふぇあっ!?!?」
 むぎゅっとルイズのおっぱいを右手でわしづかむ、いや、掴んだつもりだんたんだけど。
 うへあ、手応えねぇ~。
 指先が空ぶったぞ、すっかすかじゃねえか。
「な、ななななァにィしてんのあんたわァ――ッッッ!!!!」
「ぶるふぁああぁあぁぁあっ!!?」
 ルイズがダイナマイトスイング。俺はもろにぶん殴られ、膝をついて崩れ落ちた。
 い、いでぇ、ほっぺたが、ほっぺたが抉れる。
「ひでぇなお前! ほっぺたとれたらどうすんだよ!」
「やかましいわこのバカ犬――ッ!! こんなときに発情してんじゃないわよ――ッ!!」
 ルイズは憤懣さめやらぬのか、かがんだ俺をけっ飛ばして寝かせ、ぐりぐりと踵で踏みつけてきた。
 いて、いてえよ! やめろってば! 俺Mじゃないから! あぁ、なんか周囲の視線が痛い! だからヤメテ!
 しこたま俺を蹴り倒してやっと溜飲が下がったのか、ルイズはゆっくりと足を下げた。
「はぁ、はぁ……まったく、いったいなんのつもりよ」
「へへ、しけた面は治ったみたいだな」
 俯いて荒い息を吐いていたルイズは、俺の言葉にはっと顔を上げた。
 そこにはもうさっきまでの暗い影はない。
 そうだ、それでいい。
「たしかに軍人さんたちは可哀想だけどさ。それでお前まで気が滅入っちゃダメだろ」
 俺だってテレビで被災地のVTRとかアフガンやらの紛争地の映像みたらうわぁ、って思うよ。
 でもよ、それは手が届かねえ世界のことだ。
 可哀想だから助けたい、その気持ちだけで助けられるレベルじゃないんだよ。
「湿っぽい面見せられたら、向こうだって困るだろ。お前は姫さんの特使なんだから、相手さんを不安にさせちゃいけねえ」
 今回の目的は手紙の回収だ。戦争に加勢するとか、戦争を止めさせるとかじゃないんだ。
 だから、相手のことを考えたって、気分が沈むだけなんだ。
「お前はずっと笑っとけ。そのほうがずっと似合ってるよ」
 少なくとも、お前のことは俺が守ってやる。
 だから、そんな顔すんなよ。
 ルイズはなんか俺の顔をじっと見つめると、いきなりぼっ、と顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「あん? どうしたルイズ。俺の顔になんかついてた?」
「な、ななななんでもないわよ! わたし戻ってるから!」
 つかつかとデッキから出て行くルイズ。ほんとにどうしたんだあいつ?

「バカなのか天然なのか分からないわね」
「両方なんじゃないか?」
「あなたに言われたらお終いよね」
「どういう意味だいそれは!?」
「………………」

     ○

 道中は特筆すべき事はなかった。
 港でわずかだった乗客たちが全員別れ、それぞれの街道へ散っていく。
 俺たち以外の客は全員逆方向へ去っていった。
 鎧や剣が目立ったので、おそらく貴族派に付く者たちだったんだろう。
 だが、俺たちにそれを咎める権利はない。
 だから、俺はその後ろ姿を睨みつけることしかできなかった。

 姫さんの話じゃ、悪いのは口火を切った貴族派だってことらしいが。
 こうやって冗談を言い合いながら去っていく傭兵たちを見ていると、ふと分からなくなってくる。
 王様か、貴族か。いったいどっちが悪いんだ?
 王様か、貴族か。それともどっちも悪くないのか。

 それとも――どっちも悪いのか?

     ○

「ようこそ、勇気ある特使たちよ。私がアルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ」
 ようやく対面した亡国の王子は、滅びが目前に迫っているのに、それを感じさせないほど落ち着き払った威厳を見せた。
 これは、諦めとか悲観とかじゃないな。
 どっちかっつーと、達観してる。
 そんな気がする。
「残念ながらきみたちを構うことはできない。明日の正午、叛徒共が攻め入ってくるとの旨を伝えてきてね。あまり長居をさせてしまうと、きみたちを巻き込んでしまいかねない」
 だから手短に頼むよ、と王子は儚げに笑った。
 いや、本人はそんなつもりないんだろう。
 死を目前にした人間って、こんな顔するんだな。
 ワルドが進み出た。
「アンリエッタ姫殿下より、密書を言付かって参りました」
 ワルドが淡々と俺たちを紹介し、王子となにか挨拶を交わしている。
 あれは形式的な挨拶なんだろうな。
 俺はそれをぼんやりと眺めていた。

     ○

「やりきれねえよなぁ」
 俺は眩しい双月の月夜の見上げて、重たいため息を吐き出した。
 バルコニーから見上げる月は、ここが雲の上だけあっていつもより大きい。
「どうしたね相棒。藪から棒に」
「だってよ……」
 あんな一幕見せられたら、嫌でも気分が沈んじまうぜ。
 悲壮すぎるだろ。ルイズが取り乱したのも分かる気がする。
「相棒、馬鹿な考えは起こすなよ? さすがに伝説の使い魔でも、戦争の仲裁はできねぇからな。下手しなくても死んじまうよ?」
「分かってるって」
 いくら俺が強くたって、これは俺がどうにかできる範疇を越えてる。
 見てるだけしかできないってのは分かってる。
 けど。
「明日死ぬだろう人たちと、笑ってパーティーなんてできねぇよ……」
 なんかもう、あの立食会の会場にいるだけで空気がいてえもん。
 いたたまれねえよ。
「よくみんなはアレに混ざれるよなぁ」
 俺なんかこうやってこっそり逃げ出してきたってのに。
 キュルケは普段通り男にちょっかい出してたし、タバサも黙々と料理つまんでた。
 ルイズとワルドは知らない。
 特使ってことで、なんかこの国の貴族に取り囲まれて酒やらなんやらを勧められまくってたから、多分まだ会場にいるんじゃねーかな。
 ギーシュ?
 どうでもいいよ。
 全員ウェールズさんにドレス用意して貰ってて、みんな器量がいいからすげー可愛かった。
 男の分はなかったけど。
 ああ、こんな状況じゃなけりゃ、俺もアホみたいになにも考えず楽しめたんだろうな。
「ま、なんとか無事に任務も終わりそうじゃねぇか。とりあえずはそれでよしとしようぜ」
「ほんとによかったのかなあ……」
 どうすればいいのか、俺には分からない。
 ――なんかもやもやするなあ。
 ダメだ、頭が熱い。
 ちょっと歩こう。
 ……と思ったんだが。
「って、どこだここ?」
 頭の後ろに組んだ手をほどき、俺はきょろきょろと辺りを見回した。
 あてどなく歩いてたらよく分からんところに出た。
 なんだここ?
「迷子か」
「ちげーよデルフ。ちょっと道が分かんなくなっただけだって」
 あ、なんだよその呆れたカタカタ音は。
 しょーがねーだろ、ここ広いんだから。
 しかも広いくせに延々似たような廊下が続いてっから、どこがどこだか分かんねーんだよ。
「ずいぶん奥まできちまったみたいだな」
「本当なら見回りの兵士がうろついてるんだろうが、今日だけは無礼講らしいな」
 そうそれ、俺も思った。
 どうにもじっとしてられなくて城内を散策してたんだが、さっきから一切誰ともすれ違わない。
 全員ホールに集まって、最後の晩餐を楽しんでいるらしい。
 ま、騒がないとやってらんないんだろーけど。
 しかし困ったな、誰かに道を尋ねたいのに。
 というか、侵入者とかいたらどうするんだろうね――

「な、何者だ貴様! だ、誰か! 誰――」

 ん?
「おい、今なんか聞こえなかったか?」
「ああ、聞こえたなぁ」
 ……もしかして、噂をすればってやつ?
 ちっと見に行ってみるか。
 声のした方へ駆けていくと、俺はとてつもなくごつい扉で閉ざされた部屋の前へ辿り着いた。
「なんだこりゃ?」
 鉄製の観音開きで、大きさはなんと俺の身長の二倍ぐらいある。
 左右の広さなんて、両手をめいっぱい広げても届かないぐらいあるな。
 いかにも『大事なもん入ってまーす』って感じの扉だ。
「う、うぅ……」
「あ! おい、大丈夫か!?」
 うめき声で、扉のすぐ隣に座り込んでいる男に気づく。
 たぶんこの城の衛士だろう。
 俺は慌てて屈み込み、衛士のがくがくと肩を揺らした。
「ん……? なんだ、寝てるだけか?」
「どうした相棒、ちっと見せてみろ」
 デルフに言われ、見やすいように背負ったデルフを鞘から少し抜く。
 どこに眼があんのかしらねーけど、たぶんこんなもんでいいはず。
「ああ、こりゃ魔法だな。どうやら眠らされてるようだぜ」
「分かんの?」
「なんとなく」
 なんでも、催眠やら暗示にかけられたやつは体内に魔法力が残留してるから分かるらしい。
 ふーん。
「って、和んでる場合じゃねえじゃねえか!!」
「だなぁ。魔法で眠らされてるってことは――」
 がらがらがっしゃん! と轟音。
「――眠らせたやつがいる、ってことだからな」
 工具箱をひっくり返したような音が、扉の向こうから響いてきた。
 誰か、いる。
「野郎……卑怯なことすんじゃねーか! 紳士協定ってやつはどうした!」
「いや、たぶん貴族派の仕業じゃないだろ。どうせ明日奪うんだから」
 あ、そっか。
 ってことは……どういうことだ?
「捕まえて吐かせれば分かるんじゃね?」
「あ、それもそうだな」
 頭いいなお前。
 うん、そうしよう。
「って、ノリで話進めてたけどほんとにいいのか? なにも俺たちがやらんでも」
「誰か呼びに行く間に逃げられたら事だろ。それに、ウェールズさんたちは明日に備えて英気を養ってるんだ。少しは負担を軽くしてやりてえ」
 俺ができる事なんてたかが知れてるだろうけど、これぐらいならなんとかなる。はず。
 この賊を捕まえるために消費する精神力が、明日の明暗を分けるかもしれない。
 うん、分ける。
 きっと分ける。
 俺はそう考える!
「まあいいけどね……相棒も強くなったから、少々の相手なら遅れはとらんだろうし」
「だろ? 経験値稼ぎだよ。レベリングのメタスラ狩りなんだよ」
 なんだよそれは、なんてぼやいてるデルフは無視。無視ったら無視。
 さあ、行くぜ!
 俺はそう意気込み、重厚な扉にゆっくりと手を掛けた。

     ○

 室内はひっそりと静まりかえっていた。
 ぎぎぎ、と軋む扉の向こう側からは冷え切った空気が流れ出してくる。
 俺は意を決し一歩足を踏み入れた。
 中には緑色の絨毯が敷かれた廊下があり、奥にまた二つ扉があった。
 廊下の脇には鋼色の鎧甲冑が二体ずつ鎮座しており、その物言わぬ迫力に威圧感を感じる。
「……まだ奥があるのか」
 俺は左右の扉を上から下までまじまじとながめた。
 両方とも黒い鉄でできた重たそうな扉で、押そうが叩こうがびくともしないと思う。
「金庫と財宝置き場、ってやつだあね」
「そうなのか?」
「一緒くたにすると使いにくいから、別々に分けて保管してるのさ」
 たしかに、美術品と金貨を一緒に置いとくと都合悪そうだなあ。
 支払いの時いちいちめんどくせえ。
 どっちの扉にも鉄の錠前が掛けられていたが、向かって右の扉の鍵は開けられていた。
「こっちに入っていったのか」
「んう? おかしいな」
「どうしたデルフ?」
「看板をみてみな」
 デルフに促され立て看板を読もうとした。
 しかし、部屋が暗すぎてよく見えない。
「ど、どうしよう。暗くて読めねえ」
「そりゃまいったね。まず明かりを探してきな。でないと話にならねぇぞ」
 視界真っ暗で相手を追いかけて、暗闇でぼこられるなんてことになったら笑えねえ。
 俺はばたばたと来た道を戻り、衛士の身体をまさぐって戻ってきた。
「カンテラもってた」
「意外と悪(わる)だね相棒」
 ちょっと借りただけだ、あとで返すからいーんだよ。
 俺は手に入れたカンテラに、魅惑の妖精亭でもらったマッチを使って火を灯し、改めて立て札に明かりをかざした。

『美術品、魔宝具保管場』

「普通、すぐ使える金貨を狙いそうなもんだが」
「どうでもいいじゃねーかそんなの」
 なにを盗もうが賊は賊だ。
 捕まえちまえば一緒だよ。
「腹に入れればなんでも同じ、みたいな言い方だなぁ」
 人を悪食みたいに言うなよ。
 別にいいけどね。
 俺は錠前の外れた扉を開き、さらに奥へと足を進める。
 開いた隙間からカビくさい臭気が漏れ出てきて、カラカラに乾ききった風が頬を撫でる。
「さみいしくせえな~……不気味」
「そりゃ、滅多に人を入れない場所だからな」
 こういうのをお化けでも出てきそうっていうんだろうか。
 部屋は時々掃除されているのかホコリこそ積もっていないが、やはり冷たい空気に満たされていた。
 人の出入りが乏しいから、人の気配が半端なく稀薄なのだ。
 なんだか耳鳴りがひどい。
「なんかよー分からんものばっかり置いてあるな」
「そりゃ宝物庫だもの」
 そういうもんなんだろうか。
 室内の中央には等間隔に棚が置かれており、そこには様々なよー分からん物体が保管されていた。
 厳重に封された薬瓶や、見た目にはどうレアなのか分からん日用品っぽいものの数々。
 奥の方には本棚が一つ見え隠れしてたり、その辺になんかエイリアンみたいな生き物の標本まであったりする。
 趣味悪ぃなぁ……あ!
「どうした相棒!?」
 唐突に棚の一つへ駆け寄った俺に、デルフが緊迫した声を上げる。
 この縦長の長方形、大量のゴムでできたぽっちは……
「テレビのリモコンじゃねーか」
 なんでこんなとこに?
 てかテレビ本体もないと意味ねーぞこれ。
 というか本体あってもコンセントとアンテナがねーと映らねえだろ。
 リモコンだけでどうすんだよ。
 背後の棚や周辺を見回すと、見覚えのある道具がちらほら目に付く。
 というか、棚の七割以上が懐かしい物で溢れていた。
「王家の宝物庫って、意外とゴミみたいな物でいっぱいなんだな……」
「相棒にとってはそうでも、この世界のやつにとってはそうでもないんだなこれが」
 うーむ、正直こんなもんなんの役にもたたないと思うんだが。
 そうやって俺が目的を忘れて散策していると。

 こつ……

 と床石を踏む固い響きを耳の端に挟んだ。
「誰だ!?」
「いや、賊だろ」
「忘れてたっ! よし、出てこい!!」
「おいおい」
 思い出したんだからいーだろ!
 危ねぇ危ねぇ、不意打ちくらうとこだったぜ。
 林立する棚の向こうへ、ばっと弾かれたように顔を上げて睨みつける。
 そこにはいつの間に現れたのか、黒ずくめの男が立っていた。
 黒いコートに黒いズボン、茶のややごつめの編み上げブーツに首元からわずかに覗く白シャツ。
 顔は見えない。
 何故なら、そいつは先のよれた黒いとんがり帽子をまかぶに被り、顔の半分以上が帽子のつばで隠れてしまっているからだ。
「外の兵士を眠らせたのはお前か!? というか怪しいから捕まえるぞ!」
「好戦的だね相棒」
 ぐだぐだ話すのは性に合わねえんだよ。
 それにこんな時期にこんなところにいて、外には眠らされた衛士がいた。
 そんだけでもう証拠充分、むしろ証拠過多で現行犯逮捕だろ。
「なんか申し開きはあるか! あるなら聞くだけ聴いてやるぞ!」
 左手でしゃきっとデルフを抜き放ち、右手でずびしと指を突きつける。
 俺はいつでも臨戦態勢だ。
 しかし、目の前の男は帽子のつばを指先でつまんで俯いたまま、なんの反応も返してこない。
「おい聞いてんのか!? なんとか言えよ」
 なんだ?
 なんで言い返してこない?
 というか、なんとなく値踏みされてる気がする。
 じろじろとねめまわす視線を感じるような……
 俺がよく分からん黒コートの態度に途惑っていると、黒コートはおもむろに踵を返した。
 どうやら別の棚の間から外へ出るつもりらしい。
「あ、ちょ、待てよ!」
 俺は慌てて左手を握りしめ、ルーンの力で後を追う。
 これなら百メートル一秒くらいだから、逃げ切られることは絶対ないはず。
 そう、逃げられはしなかったんだが。
「――!?」
 黒コートの肩を掴んだ瞬間、一瞬で世界が反転した。
 いや、違う、これは――
「がはッ!!」
 石の床へしたたかに背中を打ち付ける。
 喉に酸素が通らなくなり、肺が呼吸を拒否している。
 間違いない、掴んだ肩の右手を取られてそのまま投げ飛ばされたんだ。
「ぐっは……っ!」
 右手で掻きむしるように胸を押さえながら、ふらつきながらも立ち上がる。
 無理矢理に上げた眼に映るのは、なおも去りゆく“やつ”の後ろ姿。
 ――待て「よおらぁッッッ!!!!」
 気合いとともにルーン発動。
 てめえ絶対にぶっ飛ばす!
 真っ赤に充血したような視界の中、やつに牙突ゼロ式サイトスタイルを――
「ぐばあぁああっ!??」
 ――しようとしたら思いっきりつんのめった。
「ごぶあッ!!!」
 文字通り弾丸みたいに空中を滑り、前のめりで壁に激突する俺。
 その勢いでカンテラが飛んでった。
 痛い。ものごっつ痛い。
 顔刺さったぞ、壁なんて人間の上半身の形に亀裂はいってるし。
 大丈夫俺?
 鼻折れてない? ワルドみたいに。
 痛む顔面を押さえながら振り返ると、身体を半身にして棚近くに寄りかかりながら直立し、右足の踵を軸にしてピンと前に伸ばしている黒コートの姿があった。
「や、やろぅ 足、引っ掛けやが っ」
「相棒落ち着け。ビビらねえやつに威圧的な戦闘法は通用しねぇ。畏怖ってのは、怯えから生じる縮こまりだからな。ついでに鼻血拭け」
 え? 鼻血でてる?
 くっそ、拭いても拭いても止まりゃしねえ。
 ハンカチなんて高等なもんは持ってねえし……
 そんなどうでもいいことに悩んでると、下がった視界に突然にゅっと腕が伸びてきた。
「あ、どうも」
 伸びてきた手が差し出していた、ポケットティッシュを素直に受け取る。
 いや~、助かった助かった。
 一枚出して真ん中で千切って、両方の鼻の穴に詰めてっと。
 ……ん?
「いやちげえだろ!? なになごんでんの俺?!」
「おお、自分で気づいたね相棒」
 猛烈に仰け反りながら我に返る。
 なんで敵にポケティ恵んでもらってんだよ俺。
 ダメじゃん。
 というかあいつなんでポケットティッシュなんて持ってんだ?
 棚から取ってきたのか?
 ――ぃいやいや、余計なことは考えるな!
 脱線しすぎるのは悪い癖だ!
「ティッシュありがとう! でもそれとこれとは別だぞ!」
「一応お礼は言うんやね相棒」
 うるせー、律儀なこってとか言うなデルフ!
 それはそれって言ってんだろが!
 黒コートはふわり、と浮遊するようにバックステップ。
 そして柔らかく膝をわずかに曲げて着地し、また静かに俺を見据えてくる。
 一見隙だらけだけど、分かる。
 あれは“わざと”だ。
 昆虫が植物に擬態して油断を誘うように、食虫植物が毒々しくも美しい花を咲かせて待ち受けるように。
 狡猾に隙を“演出”して、俺をハメようとしているんだ。
 のこのこ近づいたら最後、理不尽なまでの反応速度で後の先を取られてやられちまう。
 そこらのやつなら引っかかるだろうけど、生憎俺には効かないぜ。
 なぜなら。
「修行の時、嫌ってほど思い知らされたからな……っ!」
 これをやってくるってことは、あの黒コートは異常なまでの動体視力と反射神経を持っているんだろう。
 後の先ってのは二種類あるが、結局のところそういうこと。
 『一点読み』か『見てから反応』のどっちかなんだ。
 こんな性格の悪いハメ手をまさかあいつ以外にやってくるやつがいるとはな。
 世の中って広いや。
「っしゃ、頭冷えた! もう大丈夫だ!」
「いや相棒、気づかねえのか?」
「なにが?」
「……ま、別にいいけどさ」
 なんだ、デルフのやつ?
 まあいい、こっからはそんなこと気にしてらんねえ。
 俺たちは無言で睨み合う。
 俺はやる気十分、おそらく向こうも似たようなもんだろう。
 さあ、なにを盗りに来たのか知らねえが、こっからはやるかやられるか――俺を倒さなきゃ出られないぜ?
 この“ガンダールヴ”〔神の左手〕をな。
 俺は心中に鳴り響く戦いのゴングに、魂の高まりを感じながらも獰猛に口元の笑みを深めた。

     ○

「さあ相棒、やるからにゃ策はあんのかい?」
「ないっ!」
「だと思ったよ」
 元気よく返事したが、こんなときに嘘吐いてもしかたない。
 だってよー、棚と棚の間が狭すぎて剣振れねーんだもんよ。
 これじゃ追いかけられねーよ。
「しょうがねぇな……相棒、こんなときはあいつを向こう側へ押し出すんだ」
「押し出す?」
「反対側にも横五十、縦十メイルくらいの広場があったろ」
 ああ、あったあった。本棚とか剣や武器が立てかけられてるスペース。
 どっちかというと魔宝具っぽい魔宝具が置いてあったとこね。
「あいつはたぶん絶対攻めてこねえ。かといってみすみす逆側の見えねえ空間に逃げられたらなにしてくるか分からん。多少無理矢理でも攻めて、圧倒的圧力で押しつぶすんだ」
 で、でもまたさっきみたいにいなされたりしたらどうすんだよ?
 たしかに頭に血が上ってたのもあるけど、俺が反応できない足引っ掛けってじつは相当すごいぞ。
 俺コンマ五秒以内なら見てから反応できるもん。
「だからこそ近づくんだ。たとえ反応できたとしても、近接戦闘で相棒に勝る相手はまずいない。相棒は腐っても『使い手』だからな」
 腐ってもってなんだよ!
「あぁほら下がり始めた! ほれ相棒いけ、こっちの土俵に引きずり込め!」
 デルフの言葉に意識を戻すと、黒コートは後ろ歩きでじりじりと下がり始めていた。
 い、いけね。
 離されると、踏み込みが届かない範囲にいかれるとマズい!
 たとえ一秒で縮められるとはいえ、近けりゃ近いほど都合がいいんだ!
 俺は慌てて追いすがり、やつと後二メートルの距離まで詰めた。
 黒コートは一瞬身構えたが、俺が斬りかかってこないことを察するとまた足を止めた。
 うぬぬ……必殺の距離まで詰めたはいいが、こっからどうすりゃいいんだ?
 こう狭くっちゃ剣振れねえよ。
 一応宝物庫だし、棚ごとぶっ壊すわけにもいかねえし。
「落ち着けよ相棒。今考えっから、間違ってもさきばしんなよ」
 うぬぅ……見たところあいつは素手だし、ちょっかいかけても手痛い反撃はなさそうだな。
 ちっとつついてみっか。
「あ、待て相棒! 早まるな!」
 ただ単純に大きく一歩踏み込んでの上段打ち。
 つってもそれはルーンの力で神速の面砕きへと昇華される。
 さあ、どんなんくるかな――
「――いぃっ!?」
 ちょ、柄に腕割り込ませてき「ぶふぁっ!!?」
 俺はぶっ飛ばされ地面に転がる。
 い、いた、痛苦しい……っ!
 あいつ、振りおろす瞬間に大股で一歩“踏み込んで”きて、右腕を頭上にかざして柄を受けやがった!
 しかも左手でアッパーカット、身体が泳いだ瞬間心臓あたりに強烈な後ろ廻し蹴りまでかましてきやがる。
 なんつー華麗で凶悪な連携決めやがんだ。
 しかも“踏み込んで”きたんだぞ!?
 俺峰で斬ってるけど、一歩間違えばバッサリ斬られてお陀仏なんだぞ!?
 ありえねえよ、恐くねえのか?!
 神経切れてるよ絶対!
「おい、まだいけるか相棒?」
 な、なんとか……
「やっこさん相当肝が据わってやがる。不用意に仕掛けるとぼこぼこにされんぞ。こんな風にな」
 身を持って思い知ったよ。
 てかもっと早く言えバカ剣。
 黒コートは俺に追撃を仕掛けず、なおもゆっくりと後ろに下がっていっている。
 おーおーさすがだね。
 俺が悶えつつもデルフ離してないのは見逃してねえや。
 近寄ってきたら逆にぶっ飛ばすからな。
「いやー、まいったね。こりゃ攻めづれぇや」
 んなこと言ってる場合か!
 もう向こう側まで十メートルもねぇ――っていきなり踵返した!?
 チャーンスッ!!
 キタコレ、背中向けたらなにもできねえはず。
 見誤ったな、このまま背中打ち込んでしまいだ!
 と、思ったのに。
「あらぁー!!?」
 通路を飛び出そうとした俺はまた盛大にずっこけて、したたかに顔面を打ち付ける俺。
 文字通り“飛び出す”ハメになっちまった。
 慌てて四つんばいで振り返ると、遠くに見える本棚に縄が結わえられており、黒コートは棚のカゲにしゃがんでその端を持って、ぎゅっと引っ張ってピンと引き伸ばしていた。
「ありゃー、やるねぇ。マントラップとは」
 ――感心しとる場合かーッッッ!!!
 いつ仕掛けたんだよ、ていうかいちいちせこいんだよてめーは!!
 あ、くそ、その口元のしてやったりってニヤニヤ笑い、むかつくグギギ……ッ!
 決めた。
 ぶっ飛ばす、てめえぶっ飛ばす、泣いて謝っても許してやらねえ。
 むしろ泣くまで許さねえ。
 泣き叫ぶまで詫び続けろウガアアアアアアッッッ!!
「……!」
「お、いいぞ相棒!」
 激流に身を任せて特攻。
 上手いこと通って乱戦へ。
 袈裟斬り、返す刀で胴を薙ぎ、腕を引き寄せて腰だめに構えた剣を突き出し突きを決める。
 しかしそれは半身でいなされ、腰を引かれてすかされて、倒れ込むような左へのターンで紙一重のもとに回避されてしまう。
 なんなんだこの避け方、まるでタコかクラゲを相手してるみたいだ。
 しかし俺はめげない、俺の剣閃はこんなもんじゃないぜ!
 俺はルーンに導かれるまま無心に剣を振り続け、そのたびに徐々にエンジンの回転数が上がるように動きのキレが増していく。
 当たんねーなら当たるまでやる。
 避けきれると思うなよ。
 黒コートはもう意志のある竜巻のようになった俺に、どんどん追いつめられていく。
 が。
 なんとこいつ、両手をそれぞれ宙で円を描くように動作させ、俺の剣閃を捌きだした。
 絶妙なタイミングで俺の手首に手の平ををぶつけ、受け止め、剣を振りぬくことを阻止しやがる。
 その結果俺の剣はやつの身体に届くことなく、まるで制空権に阻まれているかのように弾かれてしまう。
 アホかこいつ、意味分からねえ。
 なんでこれが見切れる、そしてそれで止められるんだよ。
 てめーはアメリカ映画のエージェントかっ!!
「……やっぱ“人間”じゃ勝てねぇか」
 あん、なんか言ったかデルフ!?
 聞いてる暇ねえけど!
 それでも俺はめげん、こうなりゃ我慢比べだッ!
 おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃ――!!!!
「――ちっ」
 ガギン、と鉄を打ち合わせる音。
 お互いに動きを止める俺たち。
 交差した点には闇に浮かび上がるように鈍く光る刃。
 黒コートの野郎は、いつの間にか右手に短剣を握っていた。
 ――いぃよっしゃァッ!!
 抜かせた!!
「ぼけっとすんな相棒!!」
 え? ……ぅおっ!?
 黒コートは「遊びは終わりだ」といわんばかりに攻勢へ転じてきた。
 俺の一振りの倍、いや倍以上の速度で短剣による刺突を織り込んでくる。
 腋、脇腹、首、手首、狙う全てが人体の急所。
 一つでも喰らえば致命傷になりかねない。
「ほれ、相棒どうした! 受けてねえでやりかえせ! でねぇとこっちが圧殺されっぞ!」
 ん、んなこといったって速すぎて返せねえんだよっ!
 俺が振ろうとしたら五撃くらい射し込んでくるんだぞ!?
 切り払うだけで精一杯だ!
「近づきすぎてっからだよ! ナイフのリーチに付き合うな、あと一歩分後ろへ下がれ!」
 だ、から……っやってるっての!
 下がれば下がるだけ追いつめてくるんだよっ!
 とにかく俺はまるで分身したようなナイフの猛攻を必死に捌き、じりじりと後退を余儀なくされる。
 掠めた刃で皮膚が切れ血が滲み、打ち合わせた火花が肌を焼く。
 短剣相手ってこんなにやりにくかったのか……ってあ!
 どん、と背中に固くて冷たい岩の感触。
 背後に壁。
 もう下がれない。
「――いかん! 相棒、堅めろっ!!」
 そうデルフの檄が飛ぶ前に、俺は防御を固めていた。
 しかしユニクロのパーカーじゃあ、迫る刃は防げない。
 肌を撫でられるのが痛くて我武者羅に振り払おうとするが、長すぎる剣(デルフ)ではそれすら許されない。
 密着状態では細かな動作が効かないこの剣はこの間合いでは全く役に立たず、俺はただひたすら亀のように丸くなる。
 そして、男の動きがスローモーションに見えた。

 逆手に持ちかえた

   突き刺す気だ
 どこに?

         頭? 肩? 首筋?

    どこでも致命傷だ
 嫌だ、いやだ

             いやだいやだやめろ――!

「――!?」
 黒コートが息を呑んだ。
 俺があいつの振りおろした手を、刺さる寸前で左手で握り掴んだからだ。
 いい加減にしろよてめぇ――
「舐めんなおらぁッッッ!!!!」
 デルフを握っていることも忘れ、俺は右手で男を全力で殴りつける。
 男はその衝撃に大きく仰け反るが、俺に手を捕まれているので吹っ飛べない。
 俺はそれをいいことに二度、三度と猛烈に拳を叩き込む。
 殴るたびに肉を轢く鈍い感触が腕を貫き、痛々しい骨の音色がゴスゴスと鳴り響く。
 舐めた真似した代償だ、流動食しか食えなくしてやる!
「……っ!!」
 四度目の鉄拳を見舞おうとした時、男は手首をひねって俺の拘束を外し、殴られる勢いに任せて後ろに吹っ飛んでいった。
 いや、違うな、あれはわざとだ。
 自分から後ろに飛んで、ダメージの相殺とバックステップを兼ねたんだ。
 盛大に吹き飛んだがなんとか仰向けに倒れず、膝をついて立ち上がる黒コート。
 そのまかぶに被った高帽子の下から、たらりと赤い筋が流れていた。
 へへ、今度はてめえが鼻血を流したな。
 でも悪いけどティッシュ持ってねーんだわ。
 それは許してくれよ。
 男は、にやりと口元を歪めた気がした。
 瞬間、真横の通路に飛び込む黒コート。
「相棒、マズいぞ! 逃げ切るつもりだ!」
 そういや逆側は出入り口がある。
 しまった、条件を見間違えた。
 俺がここでするべきことは、『あいつをぶっ飛ばすこと』じゃなかったんだ!
 逃がしちまったら意味ねえよ!
 俺はすぐさま後を追って通路に飛び込む。
 しかし、男の姿は見えない。
「いないっ!?」
「んなはずはねぇっ! 相棒が追いつけないなんざありえねぇ! まだ絶対どっかにいやがるはずだ!」
 どういうことだ、真っ直ぐ逃げてりゃまだこの通路で後ろ姿が残ってるはずだ。
 どこ行きやがった――
「ここに潜む者は誰だ! 大人しく姿を現せ!」
 ばたんっ! と扉を蹴破らんばかりに開いた音。
 それに、この声は。
「王子様!?」
「おぉ、使い魔の少年か! いったいなにがあったのかね!?」
「サイト!!」
 ルイズやその他の仲間の声も聞こえる。
 どうやら騒ぎを聞きつけて、全員が駆けつけたみたいだな。
「王子様、賊です! ちょっと逃がしちまったみたいなんです! 部屋の外ですれ違いませんでしたか!?」
「なに? それはおかしい、部屋からは誰も出てこなかったぞ!?」
 へ? それこそおかしいぞ?
 姿が見えない、通路にもいない。
 なら、どこに――
 どどん、と地響きが轟き、ぱらぱらと砂埃が舞い落ちてきた。
「な、なんと!?」
「なによギーシュ――ってええぇ!?」
 なんだ、なんか騒がしいけど。
 ギーシュとキュルケはなにを見たんだ?
「さ、サイト、逃げなさいっ!!」
 ルイズ?
 轟音が近づいてくる。
「棚が――棚が倒れてきてるわッ!!」
 は? 棚?
 なにそれどういう――
 音のする真横の棚へ首を向ける。

 そこには、ゆっくりと傾き始めた巨大すぎる棚が、俺の頭上へと迫ってきていた。

     ○

「うわあああぁぁあドドンッ!!
 サイトの絶叫は棚の発した轟音にかき消された。
 横並びにされていた木製の巨大な棚はドミノ倒しのように倒され、サイトはその大きすぎる棚に無残にも押しつぶされてしまったのだ。
「――サイトおぉおおオっ!!?」
 ルイズが金切り声を上げて叫んだ。
 無理も無い、サイトが縦五十メートル、横百メートルもありそうな物体のドミノ倒しに挟み込まれてしまったのだ。
 どう贔屓目に見ても、生きていそうには思えない。
「落ち着きなさいルイズ! まだ、死んだと決まったわけじゃ……」
「離して、キュルケ! 離してよォ!!」
 目の前で使い魔を失ったショックで半狂乱になっているルイズ。
 なにが潜んでいるか分からないのに、とにかくサイトの元へ駆け寄ろうとしている。
 キュルケが背後から羽交い絞めにして落ち着かせようとするが、その声はまったく届かないようだ。
「こ、これはいったいなにがあったのでしょうか?」
 額に冷や汗を一筋たらし、ギーシュはウェールズの表情を窺った。
 しかしウェールズは表情険しく一点を見つめているだけで、その問いに答えない。
 不思議に思ったギーシュがタバサのほうにも問いかけようとすると、彼女の同じように一点を睨みつけていた。
 二人とも、左端の壁――もうもうと砂ぼこりが立ち込める向こう側を、まるで透視するかのように。
 タバサが杖を構え、わずかに唇を震わせる。
 すると立ち込めた靄がひゅうと吹き晴らされ、浮き出るように人影が顔を出した。
「貴様は――」
 ウェールズには見覚えがあった。
 その男は、漆黒の闇のように黒いロングコートを身に纏った、一見すると優男にも見える線の細い男。
 “あの時”は帽子を被っていなかったが、たとえ顔が見えなくても分かる。
 その手に持った短剣が、その男が“あの時の男”であることを証明していた。
「やはり貴族派の手の者であったか」
「へ?」
「あの時、なんとしても捕縛しておくべきだったようだ。そうすれば、このように痛ましいことには……」
 ウェールズは溢れんばかりの憎しみと後悔を乗せ、黒衣の男を敵意で射抜く。
 しかし、黒衣の男はそんなウェールズなど意にも介していないように、じっと棚の海の中の一点を見下ろしている。
「聞いているのか貴様ッ!!」
 ウェールズの激昂。
 しかし、男はまるで無視。
 その時、折り重なるように倒れた棚――その左から四番目――が、がたがたと振動し始めた。
「………………」
「……? いったいなにが」
 棚は左から倒れたので、その棚の上には三つの巨大な棚の重量がかかっている。
 しかし、振動はそんなもの関係ない、といわんばかりに猛烈な揺れを深めていく。
「――よくもサイトをッ!!」
「あ、ルイズ!」
 ルイズがキュルケを振りほどいた。
 棚の下、わずかな隙間からまばゆい輝きが漏れ出てきた。
「ふ、ざ、けんなおらあああぁぁぁああぁぁあぁあああッッッ!!!!」
 片手にデルフを、片手にメリケンサックを握りながら、拳でのしかかる棚を支え。両の足はがに股でべたりとつき立て。魂を震わす激情の咆哮が産声を上げた。
 目を貫かんばかりの猛烈な閃光が左手の甲(ルーン)から発せられており、まるで彼自身の魂の煌きを写し取っているかのようである。
 サイトは死んでいなかった。輝きを纏い甦ったのだ。
 彼はどしどしと棚の海を抜け出し、改めて黒衣の男と対峙する。
 抜け出る時に投げるように上げられた棚は、ずどん! と重々しい音を立ててまた地に倒された。
 そして、サイトは振り返り、黒衣の男を睨みつけ――
「“ファイアー・ボール”!!」
「ぺぅッ!?」
 ルイズ“魔法”(ばくはつ)で、黒衣の男の頭部は爆撃され。
 ひゅぅ~――すかーん!
「ピギャっ?!」
 なぜか振ってきた銀色の物体が黒衣の男の脳天に直撃、大打撃。
 哀れ、男は一撃で意識を刈り取られ、白目を剥いてぶっ倒れることとなった。
「……あ、あれ?」
 やる気をぶつける相手が昏倒し、はけ口の無いビキビキを持て余すサイト。
「た、倒しちゃっ、た?」
 まさかこんなことになるとは思わず、きょとんと目を丸くするルイズ。
「皇太子様、あれはいったい?」
「う、うむ……あれは異国の商人から買い取った、不思議な金属でできた桶で」
 ウェールズはあごに手を上げ唸る。
「たしか、名は――『水精霊(ウィンディヌ)の洗い桶』と言ったか?」
 皇太子の言葉が虚しく響く。
 ハタヤマの頭頂部を襲った物体――それはどうみても風呂場で使うような銀色のタライだった。
 完全にドリフである。
「……ま、手間が省けてよかっただぁね」
「お、俺のこのやり場の無い闘志はどうすれば」
 サイトはすがるように切ない視線でみんなを見回すが、そんなものは知らん、とばかりに誰も答えてくれない。
 いや、全員なにが起こったのか、どうすればいいのかわからないようで、雁首揃えて放心していた。
 仕方が無いのでサイトは剣を収め、黒衣の男に歩み寄っていく。
「ずいぶんてこずらせやがって。つーかやたら“あいつ”に似てたなあ……」
 戦い方とか、やたら強いとことか、とぶつぶつ呟きながら、黒衣の男の帽子を脱がせるサイト。
 そこに現れた賊の顔は。
「――んなっ!!!?」
 彼にとって予想だにしない――そして、もう一度会いたいと思っていた“あいつ”。
 彼の一ヶ月だけの師匠、ハタヤマヨシノリが目を回してぶっ倒れていた。

「お、お前だったのか!?」
「いや気づけよ」
 アホである。



[21043] 六章Side:H 一日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:33
【 六章Side:H 一日目 『何もない国/美女の味方』 】



 乾いた風に、舞う土埃。険しい岩壁を直接彫刻(ほっ)たような『港街』は、見渡す限り土色だった。
 岩の家に岩の階段、なにからなにまで岩でできている。さらに驚くべきは、家と岩山の間に継ぎ目が存在せず、ぴったりとくっついていることである。土のメイジたちが、魔法の粋を結集して作り上げたらしいこの街は、『玄関口』と呼ばれていた。
 『風の国』アルビオンへ向かう航路は、この街にしかないらしい。なので、この街はアルビオンへ商いをしに行く者、アルビオンからの輸入品を仕入れに来る者、アルビオンで働き口を探す傭兵、はてはアルビオン旅行に思いを馳せる恋人たちなど、様々な人々でごった返し、大いに賑わっていた。
 この街の来訪者の例に漏れず、新たな旅人が街へ訪れる。黒い髪に黒いロングパンツ、そろそろ春も終わりだというのに黒いコートを纏った、なんともまっくろくろな優男。しかしその旅人の瞳の色――浮き出るような黄金色の瞳が、黒に映え、ひときわ異彩を放っていた。。
 その男――〈ハタヤマヨシノリ〉は、夜通し走り続けようやく辿り着いた彫刻都市を見上げ、訝しげにため息を吐いた。
「この街、本当に船なんか出てるの?」
 朝焼けに照らされどことなく幻想的な街へ、懐疑的な視線を向けるハタヤマ。言われた通り来ては見たが、ここはどこからどう見ても内陸部で、水着の女が戯れる砂浜も、磯の香りを含んだ潮風も無い。吹く風といえば、乾燥した煙たい砂埃ばかりである。服を着込みはするだろうが、脱ぐような場所ではない気がする。
 たとえこの世界が魔法の世界だといえど、にわかには信じられなかった。
「空飛ぶ船なんて、『ノアの箱船』じゃあるまいし……」
 ハタヤマの世界では、空飛ぶ乗り物なんて魔女の箒か飛行機ぐらいのものだったので、木製の船が空に浮かぶ姿をいまいち想像できない。しかし、『魔女の箒』なんてのも大概異常だということにつっこむ者は、残念ながらこの場にいなかった。
 いつまでも門前で立ち止まっていてもしょうがない。ハタヤマはそう思い直し、入国しようと足を踏み出した。
「――お? お、おおぉぉおぉお??!」
 両脇を崖に遮られた山道を抜け、視界が広く開かれた。その開けた空に、彼の常識には存在しないものを見つけた。なんと、想像そのままの木でできた船が、ゆっくりと高度を下げて『港』へ入港しようとしていたのだ。遠目だがかなり大きな船で、二百人以上は乗れそうである。
 船着き場は街で一番高い位置に生えた、とても巨大な木をくり抜いて作っているらしい。街の頂上にそびえた巨木の肌にらせん階段らしきもの(超感覚でも見えづらいくらい遠い!)が見え、禿げ上がった木の天辺付近、その枝に舷梯が備え付けられていた。その枝より上に伸びている枝には多数のロープが吊り下げられていて、おそらく入港時にはそれを船にくくりつけて停泊するのだろうということが予想できた。
 ここまでさらっと描写したが、ハタヤマは山の麓におり港からは数キロ以上離れた場所にいるので、見えたといっても豆粒ぐらいの大きさである。それでも細かな部分を識別できるのは、彼の異能である『超感覚』のおかげだ。便利な能力である。
「いやぁ、世界って広いねぇ」
 不思議な現実にしみじみと頷くハタヤマ。ヒトが想像できるものは、たとえどれほど不可思議であろうと『起こりえる事象』である。
 青い空に浮かぶ帆船。
 ハタヤマはその光景にいささかの感動を覚えつつ、取りだしたデジカメのシャッターを切った。

「え、乗せてくれないの?」
 街で一番高いところ。天空への玄関口、山頂にそびえる大樹のさらに上、頂上にある船着き場。ハタヤマはそこで船員に交渉し、そしてにべもなく断られた。
「ダメだダメだ、この便は貿易専用船だ! 旅行者は次の便を待て!」
 筋骨隆々で赤いバンダナを巻いた、口ひげがふぁっさー、となっている親父は、ツバを飛ばして追い払うようにわめいた。どうやら今回出向するのは貨物船らしく、一般の利用者は乗せられないらしい。
「定期船は三日後だ。それまで街で暇でも潰してな」
「そりゃ困るよ。時間がないんだ。なんとかならないの?」
「かーっ、せっかちな男だな! そんなに焦らんでも、アルビオンは逃げやしない! 街には酒場も、カジノも、『花』屋もある! ここでも観光はできるだろう!」
「いや、『逃げる』から言ってんだよ……」
 小声でぼやくハタヤマ。彼は観光目的でここまで来たわけではない。あまり時間をかけすぎると、『お宝』の女神が手からするりと滑り落ちてしまう。
 ハタヤマは眼を閉じ、昨晩の出来事を思い返した。

     ○

「いきなりなんなんだい。その〈アルビオン〉とやらに、古代文明の遺産でも隠されていたってのかい?」
「そんなたいそうなもんではないが、『遺産』といえばそうかもな」
 にやりといやらしい笑みを浮かべるレナード。ハタヤマはその笑顔を不気味に感じながら、意味が分からず首をかしげた。
 レナードは口を開こうとしたが、二、三度周囲を見回して声を潜めた。
「ここじゃ人が多い。二人で話そう」
「まあ、べつにいいけど」
 話に聞き耳を立てていたジェシカがすかさず割ってはいる。
「それじゃ、奥の個室を使うといいわ。普段は金持ち相手のプライベートルームだけど、そういった密談用の作りも仕込んであるから」
「ありがたい。なら、遠慮無く使わせてもらうぞ」
「ただし」
 語尾を強め、条件を提示するジェシカ。「あたしとパパも同行させてもらうよ。こいつはウチの家族でもあるから、無茶な仕事はさせられないもの」
「そういうことねぇ。悪いけど、その辺は分かって欲しいわん」
 人目をはばかるほどの密談ということで、ジェシカたちは譲らない。昨日よりは持ち直したとはいえ、まだハタヤマの様子がおかしい。無いとは思うが、自棄に走って自殺まがいの仕事を受けやしないか心配だった。
 露骨に顔をしかめるレナード。眉根を寄せてハタヤマに助け船を求めたが、ハタヤマはひょいと肩をすくめるだけだった。
「まあ、仕方ないんじゃないの? 心配しなくても、この二人なら信用できる。言いふらしたりはしないと思うよ」

「アルビオン王家が崩壊!?」
 ジェシカが目を丸くして驚いた。
「そうだ。これは極秘に得た情報なんだが……水面下で活動していた『反王政組織』が、いよいよ攻勢に転じたらしい。それによりアルビオン王家は風前の灯火、いつ滅亡するか分からない状態だそうだ」
「それは――世界が動くわねぇ」
 いやだわん、とスカロンが憂うようにため息を吐く。この世界はほぼ全ての国が王による統治を採用している。それを打倒することを目的とする団体なら、アルビオンを落としただけで満足する可能性は極めて薄い。
「戦争が始まるわ」
「……まあ、そんなことはどうでもいい。一介の平民がどうこうできる話でもないしな。重要なのは『アルビオンが崩壊寸前』という部分だ」
 レナードは、国家の盛衰など興味がないとばかりに流した。彼は、ここが防音室ということも忘れて声を落とす。
「王家とはいえ滅亡寸前だ。ならば、城内は悲観と混沌の坩堝、残された戦意など『焚き火にくべた栗』程度のものだろう。ばちっと弾けて、それで終わりだ」
「………………」
「おそらく連中は『貴族として戦って』死ぬ。そのわずかな瞬間、城内のとある部分は全くの無警戒となるはずだ」
「それは、どこなの?」
「――『宝物庫』だ」
 ジェシカの疑問符にレナードは答えた。まるで、御禁制の品が詰まった木箱を前にしたような、妖しく薄暗い調子で言った。
「貴族は馬鹿が多い。死にたがりで格好つけたがりだ。まあ、それが仕事なんだが。――おっと、話が逸れたな。とにかく、近いうちにあの国の火は潰える。だから、そんなけしからん無礼な組織にお宝が渡る前に、俺たちでかっさらっちまおうってことさ」
「あんた、なに言ってるの!? 最後の戦いになれば、負ける方は籠城するしかないんでしょ? じゃあ、一番危ない瞬間じゃない! それに、そんなことになってるなら、周りは敵に包囲されてるはずだわ。その中に忍び込んで財宝を奪おうなんて、正気の沙汰じゃないわ!」
「だからこそ、最高の隙ができるんじゃないか! それに、王家の宝となれば、間違いなく目ん玉が飛び出るほどの金になる。そこらのちんけな貴族連中なんて目じゃない、一生豪遊くらいはくだらない金だ。ケチな遺跡発掘で稼ぐより、よほど効率が良い」
「だからってハタヤマをそんなところへ行かせる気!? あたしは絶対認めないわよ! 行かせない、許さないっ!!」
 滅亡寸前の国家といえば、その国内に入国するだけで大変なことになる。入るだけなら簡単だが、出るとなると恐ろしいくらい大変だ。入国した後で国が滅亡してしまうと、その後は悲惨である。
 まず国境で検問が設けられるから出られないし、国内なら国内で異国人としてスパイ容疑がかけられたりする。上手く脱出ルートを確保できていればいいが、それが不慮の事故で塞がってしまったら孤立無援である。住むところも、働き口もなく、路銀が尽きればホームレスを余儀なくされてしまう。
 出られないわ、生活困るわ、戦争の結果次第でさらなる悲劇が待ち受けているわ、お先真っ暗の残念賞なのだ。
「なにも死んでこいってわけじゃない。無理そうなら帰ってくればいい。ただ、こんなチャンスを逃す手はない。上手く行けば、巨万の富を得ることができるんだ」
「そんなにもお金が大事なの!? ハタヤマはあんたのパートナーでしょ!? 命を賭けさせて、失敗したら帰ってこないかもしれない! そんな危険なことをやらせてまで、あんたはお金が欲しいの!?」
「欲しいさッ!!」
 ばん、とテーブルに拳の腹を振りおろした。突如響き渡った鈍重い音に、場はしんと静まりかえった。
「……それに、俺は誰にだってこんな仕事を頼むわけじゃない。 こいつだからこそ、この仕事を持ちかけたんだ」
 そう呟き、複雑な表情で押し黙るレナード。推移を静観していたスカロンは、なんとなくレナードの心境が分かる気がした。
 ハタヤマは普段こそ軽薄でいい加減だが、こと重要なことに関しては決して裏切ったりしない。どうでもよくない物事には、一定の誠意と真摯な姿勢を持ってあたる。
 スカロンは、ハタヤマがこれまでの発掘で得た戦利品を着服したり、取り分をごまかしたりしたことがないことを見ていた。そんな彼の誠実さは、言わずともレナードにも伝わっていた。だからこそ、レナードはこの一世一代の大絵図面の実行者に、ハタヤマを選んだのだ。
 この男ならあるいは、と。
「いつも危険度星五つのクエストを、鼻歌交じりにこなして帰ってくるこいつなら……上手く行けば、薬代どころか、治療魔法専門学院(メディカルアカデミー)の診察に掛からせてやることだって」
「な、なによ、そのメディカルアカデミーってのは」
「なんでもねえ。それに、ハタヤマだって探しものがあるんだろ? 王家の宝物庫なら、もしかしたら見つかるかもしれないぞ?」
 ハタヤマはトレジャーハンターをやってはいるが、それはなにも、日銭を稼ぐためだけにやっているわけではない。本当の目的は、元の世界へ帰る方法を探すこと。トレジャーハントとは、魔法に関する古い書物や魔宝具(アーティファクト)を集めるための手段にすぎないのだ。
 王家の宝物庫ともなれば、その国の秘蔵の宝が眠っているだろう。その中に、『世界渡り』の方法を記した書物や、そのための魔宝具が収められているかもしれない。
 それを聞いて、ジェシカの顔色が変わった。
「な……! なら、なおさら行かせられないわ! あたしは絶対許さない!」
「なんでだよ。お前が口を出すことじゃないだろう?」
「うるさいわね! 駄目なものは駄目なの!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るジェシカ。彼女のとりつく島もない様子に、レナードは呆れて肩をすくめた。

「――あんまり期待しないでくれよ?」

 ぽつりと染み出したような言葉に、その場の全員が注目した。声の主はハタヤマだった。
 ハタヤマはこれまでずっと壁際で腕組みをして黙っていたが、腕をといて中央のテーブルへ進み出た。
「な、なにを言ってるの? 駄目よ、絶対に駄目。そんな危ないところに行かなくても、これまで通りでいいじゃない。なにか不満でもあるの?」
 話の輪に加わったハタヤマに、ジェシカがすがるような視線を向ける。彼女は日々強くなる漠然とした不安に、ハタヤマを目の届かないところへ行かせたくなかった。
 しかし、ハタヤマはそんなジェシカのことなど意にも介さぬように言った。
「今日までの探索でなんとなく分かった。これまでと同じ事を続けていても、状況は一向に改善しそうにない。実のある成果を得るためには、多少危ない橋を渡ることも必要かも知れない。それに」
 ハタヤマはレナードに顔を向けた。
「せっかくのお誘いだからね。やれるだけのことはやってみよう」
 穏やかに微笑んだハタヤマに、レナードは顔を伏せた。自身も後ろ暗い感情を感じているらしく、顔を合わせられないらしい。
「ただし。あくまでも挑戦してみるだけだ。あんまりにもヤバそうだったら、途中で切り上げて帰ってくるからね」
「あ、ああ。もちろんだ。身の安全を優先してくれ」
「ハタヤマッ!!」
 ジェシカの身を切るような絶叫。名を呼ばれたハタヤマは、ゆっくりと向き直った。
「どうして? どうしてそんなに変化を求めるの? せっかく店にも馴染んできて、お仕事も順調で、貯金だってできた。もう、暮らすのに不自由なんて何一つないわ。なのに、どうして? これ以上なにを求めているの?」
「………………」
 眼を閉じ、沈黙するハタヤマ。たしかにジェシカの言うとおり、ハタヤマの生活は安定の兆しを見せている。
 寝て、起きて、冒険に行って、帰ってきたら店を手伝って、帳簿をつけて、ジェシカと勉強して、そしてベッドで横になる。その一日のサイクルは、休日を挟むこともあるがかね一定である。
 ハタヤマも、そんな毎日が心地よくなりつつもあった。
 しかし。
「ジェシカちゃん」
 ハタヤマは真摯な瞳で、ジェシカの眼を覗き込む。
「ボクもそう思うよ。こんなにも心安らかになれたのは、本当に久しぶりだ」
「だったら……ッ!」
「でもね、違うんだ。なんとなく、このままじゃいけない気がするんだ。初めは、この気持ちはホームシックの類かと思ってたんだけど、どうやらそうじゃないっぽい」
 自分は、ただ故郷に帰りたいだけだと思っていた。事実、帰りたいという気持ちはある。ふとした瞬間よぎる思い出が、郷愁の念を刺激する。
 だが、ある事に気づかされた。昨日、彼に、あの少年に、真実を突きつけられたのだ。
 そして自分は、無意識に怒鳴り返していた。「そんなことは分かっている」、と。
 そう、分かっていたのだ。
「ボクは気づいてしまった。目を背け続けた事柄に。答えは、ずっとそこにあった」
 自分は、悩んでいると『思って』いた。ずっと答えを探している『つもり』だった。だが、それは違った。
 もう、ボクは分かっていたのだ。あの雨の日の疑問の答えに。答えは、この胸の中にあった。自分はただ、気がつかない振りをしていただけだったのだ。
 そして、それに気づいてしまったからこそ、もうこのままではいられない。
「正直、まだ覚悟はできてない。もし帰る方法が見つかったとしても、ひょっとしたら帰らないかもしれない。けど」
 ハタヤマは強い決意を秘めて、一つまばたきをした。
「『帰る手段を探す』ことを、完全に諦めることはできない」
 『帰ることを諦める』ということ。それすなわち。
「それは、これまで『ボク』であったものを、すべて捨てるということだから」
 自分が自分であるために、決して忘れてはいけないヒトたち。共に歩むなり、一生決別するなり、なにかしらの決着をつけなければならない。
 どんな道でも、前に進むしかない。逃げ続けてはいられないのだ。
「……過去のことなんてどうだっていいじゃない。ほら、ここからまた始めましょ? 私も、みんなもあんたを歓迎するわ」
 ハタヤマは、見るもの全ての心を癒すような笑みを浮かべた。
「ありがとう。けど、もう決めたことなんだ」
「――っ」
 穏やかだが、まるで筋金が入ったかのような意志の籠もる眼差し。ジェシカは耐えきれなくなったように部屋を飛び出した。
「あ、ジェシカちゃん!」
「いいのよ、ハタヤマちゃん。放っておきなさい」
 引き留めようと手を伸ばしたハタヤマの肩を、スカロンがやんわりと叩いた。
「でも……」
「ふふ、本当に情に満ちたいい男ね。けれど、優しいだけではダメよ。まあ、そこがあなたの良いところでもあるんだけど」
「は、はあ」
「あの子もそろそろ知らなければならない。どれだけ望んでも、手に入らないものもあるって」
 ハタヤマは言葉が見あたらず、ただ黙ってスカロンを見つめた。
「あの子は、私の教育のせいもあるけど、根っからの町娘よ。物心ついた頃からウチの妖精さんをやっていて、他の仕事をしたこともないし、また、する必要もなかった。だから、あの子の世界は狭い。植物的な生き方しかできないの」
 でも、とスカロンは含み、ハタヤマを正面から見据える。
「あなたは違うわ。あなたはいつまでも若い心を忘れない。一つところに留まらず、死ぬまで旅を続けるような、動物的な男よ」
 だから。
「あの子とあなたは合わないわ。本質的に性質が違う。あの子は旅ができない。そしてあなたは、根付くような生き方ができないから」
 スカロンは娘の幸せを願っている。だが、それ以上に人生の不条理も知っている。現世とはままならぬもの。どうにもならないこともある。
「ヒトそれぞれに生き方がある。あなたは、あなたが信じるままに生きればいいのよ」
 スカロンはそう言って微笑んだ。その笑顔に、ハタヤマはなにも言えなくなった。スカロンは、娘を泣かせるかもしれない自分を、言外に許すといっているのだから。
 スカロンは付け加えた。
「でも、ここにいる間だけは。ほんの少しでいいから、あの子を気にかけてあげてね」
 あの子はあなたを気に入っているから、とスカロンは憂うようなため息を吐いた。
 ハタヤマは、頷くことしかできなかった。

     ○

『明日の早朝、極秘で貨物船が出る。手段は問わないから、なにがなんでもそれに潜り込め』
 レナードは、それがタイムリミットだと言った。それを逃すと、おそらくもう間に合わないらしい。
 ハタヤマは、目の前にある吊された巨大帆船を見上げた。やはり、近くで見ると改めてデカい。感動ものだ。
「ねえ船長。ボクはどうしてもこれに乗りたいんだ。そのためにカジノや花街を素通りして来たんだよ? どうにか便宜してくれないかな」
「ダメだダメだ! これは荷物を載せる船であって、客を乗せる船じゃねえんだよ!」
「そこをなんとか。お願い大将!」
「おだてたって無駄だ! おとといきやがれ!!」
 にべもなく追い返す船長。ハタヤマはそっかー……、と残念そうに呟いた。しかし、その瞳は妖しくぎらついている。
 そう、ここからが交渉の本番だ。
「『荷物を載せる船』ってことは、荷物ならいいんだよね?」
「あん? 屁理屈こねたって無駄だぞ。この船はさる高貴な貴族さまが丸々一隻借りてらっしゃる。平民の荷物なんざ詰めねぇよ」
「――その荷物、一つ見落としてないかな」
 ハタヤマはさりげなく船長の肩に手を回し、コートの懐から布袋をちらつかせた。
「おかしいなぁ。『荷物を一つ積み忘れてるよ』?」
「………………」
 声を潜め、船長に布袋を押しつけるハタヤマ。手渡された布袋はずしりとした感覚と、じゃらじゃらとした金属音を船長に伝えた。
「これで美味しいものでも食べなよ。もちろん、『花』を買いに行ってもいいよ」
「……へへ。いやあ、そうだったそうだった! ちゃーんと注文通りにお届けしないと、貴族さまにどやされちまやぁ!」
 調子よく朗らかに高笑いを上げる船長。現金な男である。
 ただ、やはりどこの世界でも、賄賂は有効なネゴシエーションらしい。

 船長はハタヤマを倉庫へ連れて行き、空の木箱に身を隠させた。木箱は船長指揮の下、船倉へと運ばれる。
 こうしてハタヤマは、まんまと貨物船へ潜入したのだった。

     ○

 船着き場よりさらに上、木の天辺から船を窺う影があった。
 影は甲板に人がいなくなるのを見るや、ふわりと宙を浮いて甲板へ飛び降りた。高さは三階建てのビルくらいあったのに緩やかに落下したところをみると、どうやらこの影はメイジらしい。
 メイジはもう一度周囲に人影がないことを確認すると、杖を握ったまま両手を甲板につけ、なにごとか呪文を紡ぐ。すると、木製の甲板がぐにゃりと歪み、粘土のようにめくれ落ちた。
 メイジはそれを見て満足そうに頷くと、その穴へ飛び込み、そして内側から“修復”を施す。ほどなくして穴は塞がった。
 その間、わずか数分。
 甲板は、まるで何事もなかったかのように静かだった。

     ○

「……ん」
 暗闇の中で目が覚めた。
 背中と尻には、固い木製の感触がある。長時間同じ姿勢でうずくまり続けていたので、ややじんじんと痛かった。
 しばらく寝ぼけ眼をしばしばさせ、思い出す。そういえば、自分は密航中だった。
 目を覚ました男――ハタヤマは頭上に注意しながら立ち上がり、身体強化を起動させて、木箱の蓋を内側から押し開けた。蓋は四隅に軽く釘が打ち付けてあるだけだったので、あっさりと外れた。
 木箱の外は、さらに薄暗かった。
 しかし、壁際に積まれた木箱の間から明かりが漏れている部分があり、そこからぼんやりと光が射し込んでいる。
 ハタヤマは夜光に誘われる誘蛾のように、光が差す方へ足を向けた。「へえ」
 ハタヤマは感嘆の声を漏らす。木箱の隙間の奥には円形の窓があり、十字の鉄板に打ち付けられたガラスの隙間から、外の世界が覗いていた。
 遠くには、沈みゆく夕日。空の境界には、真っ赤な卵の黄身のような太陽が見える。それが、視線を下げた先にある雲海を茜色に染め上げて、どうしようもなく美しかった。
「もうそんな時間なのか」
「宿主が眠って、もう半日は経ったからな」
 ハタヤマの呟きに、スズキが付け加えた。
 ハタヤマはここへ運び込まれてから、ずっと人気が無くなるまで息を潜めていたのだが、その間に眠気に誘われ、夢の世界へダイブしていた。一昨日は夜通し悶え苦しんでいたし、それに昨日の強行軍も加わり、気づかぬうちに疲労が蓄積していたらしい。
 眼が覚めたら夜だったでござる、なんてことにならなかっただけマシか。
「半信半疑だったけど、この船、本当に飛んでるんだね」
「宿主の世界に船はなかったのか?」
「いや、船はあったけどさ。ボクの知る船は、空なんて飛ばないよ」
 船とは海に浮かぶものである。間違っても空を泳いだりはしない。
 ハタヤマは空の彼方を見つめた。
 下界では泣き出しそうだった空も、雲を抜ければそこは快晴が広がっている。そこには、雨をもたらす要素が存在しないからである。
 ハタヤマは、いつかこんな世界で暮らしたい、そう漠然と思った。
 悲しむことも、怯えることもない。ただひたすらに穏やかな世界。そんなところで、ずっと安らかに生きていきたい。ハタヤマには、そんな淡い憧憬があった。
「――本当に、それでいいのか?」
 スズキが問う。ハタヤマはなにも言わない。スズキが、悪意があって心を読んでいるわけではないと分かっているからだ。
 そう、害威の無い、ただひたすらに穏やかな世界。その世界はたしかに優しいだろう。だが、そこには『なにも』無い。心弾ませる楽しい出来事も、頬を緩ませる嬉しい出来事も起こりえない。だって、『なにも無い』世界なんだから。
 そんな世界で生きることが、はたして幸せなことなのか。スズキは、その意味をハタヤマに問うているのだ。
 分かっている。こんな考えは、所詮逃避でしかないということを。傷つくことを、傷つけることを恐れ、全てから逃げ出したいという軟弱な思考なのだ。
 ハタヤマは、もう『逃げない』ということを決めたが。じゃあ、具体的にどうするのかというと、そのビジョンは浮かんでいなかった。
 帰って、みんなともう一度向かい合って。それからどうするのか。どうすれば、ボクの犯した罪は許されるのだろうか。
 ハタヤマはずっとそんなことを考え、そして毎回答えが出ず、堂々巡りの袋小路、泥沼に首まで浸かっていた。
「はぁ……」
 ハタヤマは疲れたように重たいため息を吐き、デジカメを取りだして窓の外を覗いた。
 デジカメの存在を思い出してから、写真を撮るのが趣味になっていた。電池は充電式なので、出力を落とした『エレキバースト』を使えばいつでも充電できる。そんなお手軽さもあって、ハタヤマは某ピンク色のおしどり夫婦のようにぱしゃぱしゃとフラッシュを焚きまくっていた。
「おや?」
「どうした、宿主」
「いや、なんか画面の隅っこに小さな影が」
 ファインダーを覗きこんでズーム機能で拡大してみるが、距離が離れすぎていてよく見えない。ちょっとばかり悪戦苦闘したが、スズキの『超感覚を使えよ』というもっともなツッコミに、思い出したようにデジカメをおろした。
 この男は、裸眼の方が視力が良いのだ。
「ん~……どうやら船みたいだよ?」
「ほう。この辺りはそろそろアルビオンの制空圏だ。ということは、アルビオン所属の商船かな」
「それにしては、武装が物々しいんだけど」
 眉をひそめるハタヤマ。その船は規模こそ小さいが、脇腹に三丁づつ大砲を備えていたからだ。
 これが普通の商船だったら、砲門なんてつけないだろう。
「あ、なんか近づいてきてるよ?」
 船のマストについた見張り台がちかちかしたかと思うと、面舵一杯で進路を変える謎の船。ハタヤマが眼を細めて焦点を合わせると、見張り台にはいかにもな黒いバンダナを巻いたおっさんが双眼鏡を持って立っていた。 
「つかぬ事を聞くけどさ」
「なんだね?」
「この世界には、『空賊』っているのかい?」
 ドカン、と大気が振動した。謎の船の脇腹から黒煙が立ち上っている。
「いるなあ。普段はアルビオンが哨戒しているが、今は弱体化しているから、やりたい放題だろうな」
『空賊だ――ッ!!!!』
 階上から警鐘が響く。すると、とたんに騒がしくなってきた。
 どうやらこの船の船乗りたちも、迫り来る脅威に気づいたらしい。
「うはぁ、めんどくさいなぁ~。なんつータイミングで来るんだよ」
「どうするんだ宿主?」
「どうもしないっつーの。どうせなら、ボクがいない時に襲って欲しいね」
 あわや捕虜の危機だというのに、気の抜けた態度を崩さないハタヤマ。彼にしてみれば武装した人間程度、束ねた藁束のようなものだからだ。
 乗組員全員が魔法使いだとしたら、多少骨は折れるだろうが。それでも、自分一人逃げ出すくらいは訳ないと思っていた。
 とにかく。
「狭い場所で物量作戦をとられたら困る。とりあえず甲板へ出るよ」
「賢明だな」
 ハタヤマは大きく伸びをすると、踵を返して貨物室を出て行った。

     ○

「――空賊だって? くそ、間が悪いねえ」
 ハタヤマが退室した後、貨物の影で悪態を吐く影があったのだが。
 振り返らなかったハタヤマは、その存在に気がつかなかった。

     ○

 ハタヤマが甲板へ出ると、そこは混沌の坩堝だった。
 皆一様に取り乱しており、よく分からない悲鳴や奇声が飛び交っている。
 何故だろう、とハタヤマが空賊船がいるはずの方へ顔を向けると、その理由が分かった。
「ちょっと、なんでもうあそこまで来てんの!? いくらなんでも早すぎる!!」
 手近な船員を捕まえ、怒鳴るように問いただす。つい先ほどまで豆粒ほどだった船影が、いつの間にか目と鼻の先まで肉薄してきていたのだ。
「きょ、『強風機関』だよ! 大量の風石の力を解放させて生み出した風を、船艇に対照に配置した噴射口から解放するんだ! な、なんで空賊風情がそんなもの持ってんだよ!? うわあああああ!!!」
 船員はそうまくしたてると、手を振り解いて行ってしまった。なるほど、そういわれてみればたしかに向こうの船には、飛行機のジェット噴射口のような部品が船の腹辺りに二つ取り付けられていた。
 ハルケギニアにも、一応そういった力学的な考え方はあるらしい。
 そんなことをのんびり考えている間にも、状況は刻々と変化しつつあった。
 空賊船は推進力をそのままに見事なターンを決めると、併走状態に持ち込んだ。続いて上がる大量の怒号と、まるで旗立てのような長いハシゴが乱立される。そして、全てのハシゴが立ち終わると、一斉にそれらが倒され、こちらの船へとかけられた。
「「「オオオオオォォォォッッッ!!!!」」」
 空賊たちがハシゴを伝い、一斉になだれ込んできた。所詮しがない貨物船員でしかないこちらは、チワワのように震えるしかなかった。
 ハタヤマはダルそうに頭を掻き、船尾から脱出しようとしたが。柵へと手を掛けた寸前、首筋をかすめた『風』の気配に、ゆっくりと振り返った。
「――ひゃーはははははぁっ! 動くなよぉ? 少しでも怪しい動きをすれば、そのドタマをかち割ってぶちまけてやるぞ?」
 そこにいたのは、仰々しいマントをなびかせた男。海賊チックな大きい帽子にふさふさの髭と編み上げた長い金髪、その姿はまさしく絵に描いたような『船長さん』だ。
 ハタヤマはその姿に、フック船長やジャック・スパロウを幻視した。
「……あんたたちの目当ては『積み荷』だろ? なら、ボクのことは見逃してくれないかな」
「そうはいかねぇな? 貴様は見たところ乗組員って風じゃない。だが、他の乗客の姿が見えないことをみると、この船は客船でもないようだ。――おまえ、怪しいんだよ」
 杖を突きつけた船長らしき男の瞳が、ぎらりと輝く。ハタヤマは、男のその透き徹るような空色の瞳が、ひどく印象に残った。
 空賊らしくない、気高い理想を秘めた瞳だ。世俗にまみれていない、下賤な欲にも塗れていない、影のないまっすぐな瞳だった。
「あんた、その格好似合ってないよ」
「?」
「隠しても分かる。あんた、いいとこの貴族だろう?」
「――っ!!」
 育ちの良さが滲み出てるよ、とハタヤマがからかうと、男はさっと頬に朱が差した。
 どうやら図星らしい。「なんのつもりかは知らないけど、火遊びはほどほどにね」
「……どうやら、なおさら貴殿を逃がすわけにはいかなくなったようだ」
 先ほどまでのノリの良さはどこへやら。一転して言葉遣いが真面目丁寧に変わる船長。
 ハタヤマはその様子を、にやにやといやらしく見つめる。
「さっきのワイルドな振る舞いも、なかなかにイケてたけどねぇ」
「う、うるさい! 一緒に来てもらうぞ!」
 語調を荒げ、杖を荒々しく突きつけなおす船長。その杖は魔法学院が使っているような貧相な棒きれではなく、柄に羽の細工が施された、そこそこの太さの短丈だった。先端に嵌められた大きなエメラルドが一際目を惹く。
 ハタヤマはふっと息を吐くように微笑んだ。
「なにがおかしい?」
「いや、いい杖だと思ってね」
 さらに笑みを深めるハタヤマ。そこまできて、船長はハタヤマの真意に気づいた。
 そんな杖を見せびらかす時点で、正体を隠しきれていないぞ。ハタヤマは、言外にそう嘲笑(わら)っているのだ。
「残念だけど先約があってね。お誘いは受けられそうにない」
「なんだと? 我が国に先約――貴様、叛徒の手の者かっ!?」
「いや、そういうわけじゃ……いやいや、この場合そうなるのかな?」
 船長が血相を変えた。
「まあ、そんなことはどうだっていい。ボクはここらでお暇するよ」
「逃がさんぞ! “スリープ・クラウ――」
 船長の高速詠唱。しかし、ハタヤマの反応の方が早かった。
 ハタヤマは高速でスズキを左手で抜き放ち、一息にバックステイを切り裂いた。そして弾ける縄の尻を、振りぬいた回転をさらによじって右手で掴まえ、勢いそのままに宙へ『跳躍』する。
 船長が我に返った時には、すでにハタヤマは手の届かない位置へ――マストの頂点へと飛び乗っていた。
「悪いけど急いでるんだ! それじゃ、ボクは行かせてもらうよ!」
「ま、待てっ!!」
 船長に届くよう声を張って、捨て台詞を残すハタヤマ。
 そして船長の制止を聞き流し、ヤードを駆け、躊躇いなく雲の海へと身を投げた。
 ハタヤマは宙で身を丸め、二回ほど回転すると、ピンと身体を伸ばし、流星のように落下する。そして雲へと突き刺さると、ぽかりと穴を開けて消えていった。
 船長はデッキの端へ駆け寄る。しかし、落ちたハタヤマの姿は確認できなかった。
「……殺すつもりはなかったのだがな」
 船長はしばし、悔いるように黙祷を捧げる。“フライ”で空を渡ろうなど甘い。人の身でこの国の風を操ろうなど不可能だ。
 あの男に待っているのは墜落死のみだろう。船長はそう思った。
 そして二、三度まばたきすると、背後で繰り広げられる叫喚の世界へと舞い戻っていった。

     ○

(そろそろ大丈夫かな)
 雷鳴轟く暗雲の中で、ハタヤマは静かに精神を集中する。耳をつんざく風の音も、心臓が浮かぶような落下の感覚も忘れ、己の心に没頭する。
 思い描くのは、可愛らしい友達。青い鱗が眼に映える、心地よいほどに純粋な少女。
「――姿を借りるよシルフィちゃんッ!!」
 ハタヤマはカッと眼を見開き、内なる魔力を解放した。魔力は全身を包み込み、己の姿を『作り変えて』いく。チャック族の身体から人間の身体へ作り変えられたように、細胞の一つ一つが、新たな肉体へ再構成されていく。それはさながら『転生』の如く、存在そのものが置き換わる。
 生きているのならば『神』にでも成り変わってみせる。それが、彼の誇る最強の魔法――メタモル魔法なのだ。
「いよっし、成功っ!」
 今回は閃光を抑え煙だけを放ったが、煙の晴れた向こう側から、金の瞳の風韻竜が現れた。
 彼の行うメタモル魔法は、変化先の肉体であってもあくまで『ハタヤマの存在』をベースとして構成される。ゆえに、元の姿の名残が残ってしまうのだ。
 残る要素は術者により違うのだが、彼の場合は『眼球』。どの生物にメタモルしようと、瞳だけは獅子のような、鋭い金色の瞳になってしまう。
 ちなみに、彼の師匠は『背中にチャック』というある種どうしようもない名残が残ってしまったり、数ある未来の中の一つにいるハタヤマの娘は、『手』……しなやかだが長い指と鋭い爪が残ってしまい、人間状態では手袋でカモフラージュしていたりするのだが、それは余談である。
 ハタヤマは進路を北にとり、暗い雲を切り裂くように泳ぐ。
 風竜の感が告げている。この風に乗れば、どこかへ行き着くと。
 荒れ狂う暴風が体をあおるが、さすがは風韻竜の身体。横殴りの風にもびくともしない。大空の王者の肉体は、完全に『風』を支配していた。
「……あら?」
 素っ頓狂な声を上げるハタヤマ。竜のように奔り回る雷の閃光の中に、なんと人影を発見したからだ。
 その影は必死に進もうとしているのだが、狂った気流に翻弄されて思うように飛べないらしい。次の瞬間には墜落してしまいそうな、危なっかしい状態だ。
 珍しいこともあるもんだ。ハタヤマはそう思うだけで、さっさと視界から外そうとした。
 正直言って他人に構っている余裕などないのだ。あんな状態になるやつが悪い。単身でこんな乱気流の中に身を投げたら、そりゃ死ぬに決まってるじゃないか。だから、落ちようが落ちまいが好きにしろ。
 そう思っていたのだが。
(――ぬなっ!?)
 ハタヤマは逸らそうとした顔を機敏に戻し、二度見した。
 何故ならば。
(あの乳あの尻あの腰は――見目麗しいお姉さんッ!!!!)
 その服の上からでも分かる胸のふくらみ。黒いローブで全身を覆っているが、それでも隠しきれぬしなやかな尻と腰のくびれ。特に尻が素晴らしい。シュッと締まってそれなのに形が良く、とても揉み心地が良さそうな美尻である。
 ハタヤマの〈美女センサー〉が、A級判定を叩きだした。
 ……こんな劣悪な空間でそこまで正確な情報を得るには、超感覚を使わざるを得ないのだが。ここまでくだらないことに全力を傾けてしまう辺り、この男は救いようがなかった。
 ともあれ、そんなチャンスを見つけてしまえば、それを無視できるわけがない。
「あなたのハタヤマが今行きますよ――ッ!! お姉さ――んッ!!!!」
「――!? な、なんだい、この竜は!!?」
 風の流れを上手く制御し、一目散に謎のお姉さんへ肉薄するハタヤマ。ハタヤマはそのまま身体をお姉さんの下に滑り込ませ、広い背中に受け止めた。お姉さんは突然現れた風竜に途惑ったが、弾丸のような風に吹き飛ばされそうになり、必死にハタヤマの首へ抱きついた。
(うほ、テンション上がるwww)
 首に感じる柔らかなふくらみに、カートゥーンのように鼻の下を伸ばすハタヤマ。言葉の端に草を生やすとは、お行儀の悪いやつである。
 しばし沈黙し、雲を泳ぐハタヤマ。やがて彼方に切れ間を見つけ、その中へと飛び込んだ。





(……こりゃ、すごい)





 ハタヤマは息を呑んだ。様々な美辞麗句は瞬く間に吹き飛び、そんな陳腐な言葉しか浮かんでこなかった。それほどに、『それ』はインパクトがあった。
(まさかとは思ったけど、ほんとに『天空都市』なのかよ)
 茜色の空をバックに、空へ浮かぶ巨大な岩。切り立った断崖、その岩肌の先には緑が垣間見える。大陸の端から溢れる川の水は、中空で霧散し、霧となって雲に溶けていた。
 そこには、ハタヤマが昔金曜ロードショーで観た、『ラピュタ』がたしかに存在していた。
「ティファニア……今帰るからね」
 背中の女がなにか言っているが、ハタヤマの耳には入らない。
 ハタヤマは、未だかつて感じたことがないほどの感動に、純粋に心を震わせていた。
(……あ)
 デジカメを取り出そうとしたが、この身体ではシャッターが切れないことを思い出す。
 ハタヤマは、それだけが残念だった。

     ○

「だから、他意は無いって言ってるじゃないか」
「はん、信用ならないね!」
 穏やかな風そよぐアルビオンの端っこ。切り立った崖と雲海を背に、吹き抜ける風へ衣服をたなびかせ、二人の男女が言い争っていた。
 片方はいわずとしれた黒助ルック、金の瞳のハタヤマくんである。もう片方は、緑の髪にきついつり目で、瞳の色は蜂蜜のような琥珀色の女性。先ほどまで羽織っていた黒いローブを脱ぎ捨て、露出の少ない緑と白のローブをさらしている。
 はた目にはとても麗しい女性に見えるのだが。今、ハタヤマの眼前で、一触即発の如く杖を突きつけるその姿は、般若のようで恐ろしかった。
「やれやれ、嫌われたもんだね」
「当たり前じゃないか! ひ、ひと、人の尻をいやらしく撫でがって……っ!!」
 小さく両手を上げて、降参のポーズで苦笑いを浮かべたハタヤマ。女性は、そんな程度では許さん、といわんばかりに顔を真っ赤にして怒り狂っている。
「いや、手元にそんな見事なお尻があっちゃ、触らないわけにはいかないじゃないか」
「あのボケ老人みたいなこと言ってんじゃないよッ!!」
 至極当然だというように真顔で断言するハタヤマに、うがー! と爆発する女性。ハタヤマはそんな女性の罵倒を、なかなかに乙な感じで、ほっこりした表情で浴びていた。どうしようもないM野郎である。
 何故彼女がここまで怒っているのかというと。
 雷鳴渦巻く積乱雲を抜け、遠くにちらつく軍艦を避けながらゆるやかにアルビオンへ着陸した際、ハタヤマはすぐにメタモルを解いた。その時、女性はハタヤマにおんぶされた状態になったのだが、なんとその時、あろうことかハタヤマは女性の桃尻を欲望赴くままに揉みしだいたのである。
 当然憤慨する女性。竜が人間になった驚きと尻をまさぐられた羞恥がないまぜになり、激情に身を任せ、ハタヤマをぼこぼこにぶちのめした。しかし、ハタヤマはひとしきり顔面を変形させ流血した後、なんと数秒で何事もなかったように復活してきたのだ。なので女性は怒り半分、恐怖半分で、やや距離を置きハタヤマを威嚇しているのだ。
 誰が悪かったかというと、全面的にハタヤマに非がある。まったく、この男は本当にどうしようもない。
「あんた、いったい何者なんだい? 風竜かと思ったらいきなり人間に……まるで先住魔法だよ」
「『先住魔法』? なんだい、それ?」
「エルフや幻獣が使う魔法のことだよ」
 そんなことも知らないのか、と呆れたように眼を細める女性。そんなことをいわれても、知らないものは知らないんだからどうしようもなかった。
「何故あんたはここに来た? 何処の国のメイジだ? 目的は何だ? 何故あたしを助けた?」
「んー、秘密」
「ふざけんじゃないよ!」
「じゃあキミ、ボクがキミに『あなたは何者なんですか?』って聞いたら答えてくれんの?」
「うっ……」
 言葉に詰まる女性。自分が同じことを聞かれたとしても、おそらく答えないからだ。
 ハタヤマはほらね、と目を細め口元を歪めた。
「お互い詮索は無しにしようよ。ま、最後の質問には答えても良いけど」
「?」
「『何故キミを助けた』のか。それは、キミがボク好みの麗しい女性だったからだよ」
 あっけらかんににへら、と笑うハタヤマ。女性はその返答に、あからさまな軽蔑を露わにした。
「はん、生憎世辞は無駄だよ。わたしは、あんたみたいな軽薄な野郎が大嫌いなんだ」
「あらま、残念」
 まったく残念じゃなさそうに呟くハタヤマ。女性は門答するのがアホらしくなってきたのか、うんざりした様子で背を向けた。
「おや、お帰りかい?」
「ああ、そうだよ。ついてくるんじゃないよ」
「これもなにかの縁だ。名前だけでも教えてくんない?」
 遠ざかる背中に声を投げかけるハタヤマ。女性はふと歩みを止め、疲れたようにため息を吐いた。
「『フーケ』とでも呼んでおくれ」
「フーケちゃんか。ボクはハタヤマだよ」
「『ちゃん』って呼ぶな!」
 フーケはそう怒鳴ると、今度こそ振り返らず歩き始めた。
 ハタヤマはその背を見送りながら、今後の予定を組み始める。
(とりあえず入国には成功したから、後は時期を見て仕事するだけか。城の近くに潜伏してればその内……あ)
 そこまで考えてはたと気づく。
(ボク、城の場所知らないや)
 目的地は分かっているが、肝心の所在が知れていない。レナードの情報では内戦真っ最中なので、闇雲に動き回るのも危険だ。
 ならば、近くの村か街で情報収集を、と考えてまた気づく。
(『袖の下』にお金使い切っちゃった……)
 財布をそのまま渡したので、すっからかんの素寒貧だった。いつもはベルトにひっかけた隠し金を股ぐらに仕込んでいるのだが、その分は服と靴を引き取った際の代金に使ってしまったのでもう無い。本当の意味でからっ欠だった。金に頓着しないというのも、至極考えものである。
 これでは、酒場にすら入れない。飯も食えないし宿すらとれない。非常事態勃発である。
 ハタヤマは、もう豆粒ほどになったフーケの後ろ姿を見た。
(……宿代奢ってくんないかな)
 できれば飯も食わして欲しい。城の場所も教えてもらって、路銀を工面してくれたら万々歳だ。
 完全にヒモの発想である。この男、最悪だ。
 しかし、格好よく別れた(本人はそのつもり)のに、今更追いかけて『金貸してくれ』なんて言おうものなら、その瞬間自分のカリスマが音を立てて崩れ去ってしまう。ハタヤマとしては、それは容認できないことであった。
 元々カリスマなど持ってないだろ、なんてつっこんではいけない。
 ハタヤマは一寸悩み、そして決断した。
(後をつけよう)
 街に入ったなら偶然を装って同席し、飯をたからせてもらおう。民家に入ったならしめたもの。宿代まで節約できる。
 この男、転がり込む気満々だ。アブないストーカーの発想であった。
 そうと決めれば話は早い。
 ハタヤマは気配を消し、見つからないように距離を離して、フーケの尾行を開始した。

     ○

 ハタヤマと別れ、森へと足を踏み入れる女性――フーケは、はやる気持ちを必死に抑えていた。
 ティファニアは無事なのか。彼女の頭には、ただそのことだけしかない。
 フーケは学院でサイトに敗れた後、すぐにラ・ロシェール行きの馬車に揺られていた。二度も負けて退くのは癪だったが、これ以上の執着は危険だと判断したのだ。
 自分はまだ捕まるわけにはいかない。守るべき者たちがいる。そう思うと、久しぶりに子どもたちの顔が見たくなり、ふらりと馬車へ乗り込んでいた。
 だが、そんなささやかな旅行気分は、瞬く間に焦燥へと変わった。
 ラ・ロシェールまでの中継地点にある街で、こんな噂を耳にしたからだ。
「アルビオン王家が崩壊寸前らしい」
 耳を疑った。酒場で静かにワインを飲んでいたフーケは、鬼気迫る勢いで、噂話をしていた傭兵集団に詰め寄った。
 男たちはやや引きながら語った。アルビオン王家は数日の内に潰え、『共和制』が始まると。
 フーケは、そんなことはどうでもよかった。王家などむしろ滅びてしまえばいい。制度が変わろうが知ったことか。彼女の関心事はただ一つ。
 ティファニアが危ない――ただ、それだけだった。
 フーケは出発直前の早馬をつかまえ、頼み込んで乗せてもらった。夜の旅は盗賊が出るのでかなり危険なのだが、自分は魔法が使えるということを前面に押し出して説得した。幸い、盗賊に襲われることはなかった。
 そして、ラ・ロシェールに着くやいなや、港に直行し今に至る。
 空賊に襲われた時は肝を冷やしたが、複数の男の声が扉の向こうから響いた瞬間、一か八か船底に“錬金”して穴を開け、空へと飛び出し、“フライ”でアルビオンへ上陸を試みた。
 しかし、アルビオンの空はとても厳しく、人間の魔法では自由に飛ぶことがままならなかった。妙な男に助けられなければ、自分は空の藻くずと消えていただろう。
 その後のことは許せないが、その点だけは感謝している。
(無事でいておくれ、ティファニア……ッ!)
 フーケはひたすら前だけを見て歩き続ける。
 ゆえに、背後を付ける『複数』の気配に気づいていなかった。

     ○

 空に星が瞬き始めたころ、ようやく帰ってくることができた。
 森の奥にひっそりとたたずむ、木製で二階建ての民家。いつ戻っても変わらぬそのたたずまいに、フーケは頬が緩むのを感じた。
 一階に明かりがついている。おそらくティファニアはまだ起きているのだろう。
(無事でよかった……)
 フーケはほっと胸を撫で下ろし、緩やかに歩調を落とした。
 まだ、戦火はここまで及んではいなかった。ひとまず、あの子たちの顔が見たい――
「ヒャッハー! ドンピシャだぜ!」
「――!?」
 背後からの耳障りな叫び声が響いた。驚いてフーケが振り返ると、そこには粗末な格好で小汚い顔をした男たちがいた。各々が武器を装備しており、傭兵だということが見てとれる。
 一様に下卑た笑いを張りつけており、善玉には見えない。
「見かけた直後に襲わなかったのが疑問だったが、さすがは団長さま、冴えてるぜぇ!」
「『獲物は泳がせるもの』……学ばせていただきました」
 顔に傷がある男が囃し立て、背が低く眼鏡で猫背の男がうししとニタつく。
 つけられた。
 フーケは己の迂闊さを呪った。ティファニアのことで頭がいっぱいで、周囲に気を配っていなかった。
 まさか、自分が火を招いてしまうなんて。
「ダブルアップ成功だな! 金目の物をいただこう!」
「男は殺す。女と子どもは闇市にでも流しちまいましょうかね」
「勝手なこと言ってんじゃないよ!」
 フーケは素早く太股のスティックホルダーから杖を抜き、構えた。つり目をさらに怒らせて、敵意に満ちた眼光で睨みつける。
 そのとき、ぱん、と甲高い乾いた破裂音が響いた。その音は闇に静まりかえった森の中を木霊し、大量の鳥たちが巣から飛びだし、森はにわかにざわめきだす。
 フーケは、長身で羽帽子を被った男の持っているものに、目を疑った。
「――じゅ、銃、だって?」
「そうだ。我が『イーグルフェザー団』が、数々のメイジを屠ってきた理由だ。我ら五人は、仲間の絆とこの最新兵器で戦場を渡り歩いてきたのだ」
 フーケも、噂には聞いたことがある。さる研究機関が、平民でもメイジに太刀打ちできるように、兵器を開発中らしい。しかしその時の話では、まだ実用化には至っておらず、試作品すら門外不出で厳重に保管されていると聞いたはずなのだが。
 フーケは知るゆえもないが、その銃は現代社会における『ラッパ銃』との愛称を受ける、とても旧型の銃だった。
「つっても、まだ結成して一月だけどな!」
「偶然~殺した兵士が~持ってた~」
「一生懸命仕組みを理解して、火薬を調合できるようになったんですよね」
「数々っつっても殺ったの三人だけだしな」
「う、うるさいぞ貴様ら!」
 口々に羽帽子をからかう男たち。聞いてもいないのにぺらぺら喋る。
 フーケは悔しげに歯噛みした。
「さあ、我らも無闇に商品の値段を下げたくはない。杖を捨ててもらおうか」
「なあに、運がよければいい主人に買ってもらえるさ!」
「くっ……」
 自分だけなら逃げることは容易い。だが、その選択肢を取ると、あの子たちに災いが飛び火してしまう。それだけはできない。
 だが、相手は多勢上に銃まで所持している。メイジはいないようなので多勢なのは問題ないのだが、やはり未知数である銃の存在が気に掛かる。
 あれは、平民がメイジを殺すために作り出した物。舐めてかかると危険だ。
「早くしないと、あなたを置いて家へ上がらせていただきますよ」
「誰か~怪我するかも~しれないね~」
 フーケは憎々しげに歯軋りして、無言で杖を投げ捨てた。
「聡明だな。話が早くて助かるぞ」
(ぬかしてろ)
 フーケは歩み出しながら、自然に両手の袖に互いに差し込ませ、袖の中に仕込んだ仕込み針を、拳を握るように指へ挟んだ。たとえ刺し違えてでも皆殺しにしてやる。その狂気じみた執念は、瞳の奥で静かに、鈍く輝きを放っていた。
 羽帽子はフーケが無力化したことを確認して、拳銃に弾を込め始める。
「……?」
「ああ、この銃は単発式でね。一度撃つと、次弾を装填せねば使い物にならんのだよ」
 火薬の粉末を注ぎながら、にたにたといやらしく笑う羽帽子。その笑みは傭兵たちに伝染し、フーケはその嘲笑にさらされることとなった。
 こけにしやがって……フーケの憎しみに油が注がれる。その狂気が爆発する寸前、あと数歩のところで、場違いな情けない叫び声があがった。
「ぬあ~! な、なにをしてるんだお前たちはっ!」
 裏返った金切り声に、銃を構えた羽帽子以外の視線が集中する。そこには、びびっと傭兵たちへ指を突きつける黒コートの男がいた。
(あいつは……)
「なんだ貴様。道にでも迷ったか?」
「そんなことはどうでもいい! 婦女子にそんな危なそーなものを突きつけるなんて言語道断! このボクが成敗して……ッ!」
 しゅぴっ、と頬をなにかが掠める。続いて、ひりつくような鈍い痛みと、頬を濡らす赤い液体が流れ出す。猫背が弓を射ったのだ。
「自慢じゃありませんが、街の野鳥狩りコンテストで入賞したこともありましてね。わたくしは獲物を外しませんよ、けひひひひひっ!」
「……すんませんでした――ッ! 命ばかりはお助けを――ッ!!」
 出てきた威勢など霧散消沈の計。黒コートはさあっと顔面を蒼白にし、手の平を返したようにジャンピング土下座をかました。見る者の心に迫る、気合いの入った土下座だった。
「残念だったなあ! 見られたからには生かしておけん!」
「そんなこと言わずに、後生です! なにとぞ、なにとぞお慈悲を~!!」
 額を地面に擦りつけてわめく黒コート。この世界には土下座という概念がないので傭兵たちは面食らったが、戦意がないことだけは感じ取れた。
 羽帽子は、黒コートの滑稽な姿に興が削がれたようだ。
「まあ、殺すまでもないか。二束三文にはなるだろう」
「頭(かしら)~どうする~?」
「縄で縛って転がしておけ。そこのお嬢さんもな」
 羽帽子の指図でフーケに二人、黒コートに一人の男が差し向けられる。二人同時には殺しきれない、とフーケはやや後ずさりした。その反応すら心をくすぐるのか、頬に傷のある男がサディスティックな笑みを浮かべる。この男、そういった趣味のようだ。
 フーケは黒コートの様子を窺った。
(あの男、どういうつもりなんだい?)
 あの男は、たしか〈ハタヤマ〉と名乗ったはあいつのはずだ。何故この場にいるのかというのも気になるが、なによりこのタイミングで姿を現したことが解せない。いったいどうして、わざわざ捕まりたがるようなことをしたのだろうか。
 黒コートはまだ土下座したままで、間延びした声の巨漢に取り押さえられる寸前だった。
「おら~たちやが――ガフゥッ!?」
 この巨漢の男の不幸は、ハタヤマの方へと廻されてしまったことだろう。ハタヤマが顔を伏せていたのも不運だ。何故なら、彼の伏せた顔は輝かんばかりに満面の笑みで、巨漢の足が視界に入るのを待ち受けていたのだから。
 巨漢が腰を落とした瞬間、ハタヤマは左膝を立て、それを軸に右足を神速で蹴り上げた。放たれた足は巨漢の顎を踵で抉り、ぐしゃ、と鈍々しい骨のひしゃげる音がした。
 土下座とは古来、武士が考え出したものらしい。本来は脇に刀を置いて相手の様子を窺い、向こうが敵意を露わにしたら、瞬時に立て膝で臨戦態勢に移れるように考え出された構えなのだ。
 巨漢が仰向けで大の字に倒れ伏す。軸が合わさっていてハタヤマの動きが見えていなかった猫背は、瞬時に状況を把握した。
 つがえた弓を射放ち、放たれた弓は一直線にハタヤマへ殺到する。しかし、すでに足を降ろして体制を整えていたハタヤマは、慌てず騒がず迫る矢を見据えた。
「な゛!?」
 猫背は目を疑った。なんと、ハタヤマの心臓を貫くはずだった矢が、中空でびたりと制止したのだ。いや、『制止』したという表現は適切ではない。ハタヤマが、突き刺さる直前に右手で矢を下から掴んでぴたりと止めたのだ。
 ありえない、常人には決して不可能な回避方法。それをまざまざと見せつけられ、猫背は瞬間的に思考停止へ陥った。
 だが、その隙が命取りとなった。
 ぎらりと光る黄金の瞳は、その弱気を見逃さない。
「ぐぎゃあっ!!」
 足を襲った焼けるような痛み。見ると、矢が深々と足を貫いている。ハタヤマが掴んだ矢を投げ返したのだ。投げナイフの要領で放たれた矢は、寸分違わず猫背の太股に命中した。傷口から赤黒い血液が流れ始めている。
 その悲鳴に、ついに羽帽子はフーケから視線を逸らした。
(……っ!)
 今しかない。フーケはそう決断し、脇目もふらず駆け出す。己の杖を取り戻すために。
 間を挟むように位置する傭兵二人もフーケの意図に気づき、阻止せんがために各々地を蹴る。だが、一瞬早く杖へ辿り着いたフーケは、迷うことなく呪文を紡いだ。
「“アース・ハンド”!!」
 呪文が完成した瞬間、羽帽子の足下が隆起する。隆起した土は粘土の腕となり、羽帽子から銃を奪って遠くへ放り投げる。それだけで、羽帽子は完全に無力化された。この男だけは、何一つ武器を装備していなかったからだ。
 迫り来ていた男の一人が、フーケを捕まえようと飛びかかる。しかし、フーケは冷静に半歩身体をずらして軽やかに突進をいなし、がら空きの脇腹へ杖を深々と突き刺した。それだけで、男はかひゅうと空気を吐いて崩れ落ちる。
 この瞬間人数は二対二となり、戦力比で見ても平民二人対魔法使い二人という破格の状況となった。形勢逆転である。
 このままいけば、完全に押し返せるはずだった。

「……だ、誰?」
 がちゃり、と家の扉が開かなければ。

 真っ先に反応したのは頬に傷のある男だ。この男はフーケの方が速いと判断した時点で距離を離し、様子を窺っていたので、家に一番近かった。男は瞬く間に、出てきた女性の首に腕を掛け、羽交い締めにする。
「ティファニアッ!!」
 フーケの悲痛な叫び。羽帽子はフーケの表情に、己が有利を取り戻したことを悟った。
「あらら、これはまさかの展開だね」
「ふ、ふふ、ふははははははは!! 随分と暴れてくれたものだ!
 だが、今度こそ大人しくしてもらうぞ!!」
 俄然勢いを取り戻す羽帽子に、フーケは火を吹かんばかりにがなりたてる。
「その子を離しなッ! 傷一つでもつけてみなよ、生まれてきたことを後悔させてやるからねッ!!」
「おおっと、お嬢さん! 杖を捨てないとこいつが酷い目にあうぜ? 俺は女に興味がないから、情け容赦なんかしない! それに、メイジの杖も売り物になる! 傷つけないよう、俺の真横へ投げろ!」
「おいおい、ガチホモかよ」
 フーケは爪が皮膚を破らんばかりに強く杖を握りしめていたが、怒りに震えながらも杖を捨てた。人質になった女の子は、彼女にとってよほど大切な相手なのだろう。
 ハタヤマはその様子を黙って見ていた。
「次はそっちの兄さんだ! 俺好みのいい男だぜ! お前は色物の貴族どもなんかに売ったりしねえ! 俺が大事に可愛がってやるよ!」
「うっ……こっちに来てから、変なのばっかりに好かれるなぁ」
 ハタヤマは寒気に顔を青くした。フーケはハタヤマの次の行動に、固唾を呑んで見守っている。ここでハタヤマが逃げ出したりしたら、それこそ全てが終わってしまうからだ。ハタヤマには、人質への義理など何一つ無いのだから。
 ハタヤマは眉根をよせ、難しそうにうーんと唸った。
「ここは、ボクは関係ないんだから、さっさとお暇したいところなんだけど……」
「………………」
「ボクは全世界、全宇宙、全次元の見目麗しい女の子の味方だ。ここは言うとおりにしよう」
 ハタヤマはそう言うと、腰のホルダーからスズキを抜き、羽帽子のそばに放り投げた。
「うほっ♪ ますますいい男! こりゃ、良い拾いものだぜ!!」
「そ、その視線やめてくれよ。虫酸が走って仕方ない」
「なあに、ノンケはみんなそう言うんだ! だが、しばらくすればみんな俺に尻を向けるようになる! お前も俺の極太コックで、メロメロの虜にしてやるよ!」
「うわぁ……これはひどい」
 やらないか、とビンビンなホモに、ハタヤマはうんざりして顔をしかめた。
 フーケはこのやり取りなど耳に入っておらず、ただただハタヤマの選択に驚いていた。彼女は、ハタヤマが自分たちをあっさりと見捨てると思っていたからだ。何故なら、あいつの第一印象は、『最低最悪の軽薄な男』だったのだから。
「おい宿主! 応じたら俺たちまで捕まっちまうぞ!」
「仕方ないでしょ。打つ手無しさ」
 スズキの慌てふためいた思念に、両手を空に向けて肩をすくめるハタヤマ。その姿には、欠片の焦りも見られない。
 羽帽子は目をみはった。
「なんと、『インテリジェンスソード』? まさか、こんなところで魔宝具に出会うとはな!」
「汚い手で触らないでくれよ? その剣は、とっても気むずかしいからさ」
 やんわりと忠告するハタヤマ。だが、瞳がエキュー金貨になっている羽帽子には届かない。
 羽帽子は魅入られたようにふらふらとスズキへ吸い寄せられ、恐る恐る手に取った。
「おお……なんという美しい刀身! この柄の装飾、この散りばめられた宝石、どれをとっても一級品だ! 手放すには惜しすぎる」
 羽帽子は飽きることなくスズキをためすつがめす眺め、宝石を撫ぜ、刀身に頬を擦り寄せた。闇市に流せば、おそらく一財産になるだろう。しかし、この剣は手放したくない。ずっと手元に置いておきたい!
 まるで“魅了”(チャーム)の魔法にでも掛かったかのようにスズキを愛でる羽帽子。しかし、彼の瞳はいつしか輝きを失い、ぼんやりと虚ろに翳っていく。だが、それに気づいていたのは、この場ではハタヤマしかいなかった。
 ハタヤマはわずかにほくそ笑んだ。
「どうだい、良い剣だろう?」
「あぁ……そうだな」
 羽帽子はにやりと邪悪に口の端を歪める。それは、『彼』とハタヤマの間に決められた合図であった。
 羽帽子は頬に傷がある男へ向き直り、つかつかと歩み寄る。
「よし、もう十分だ。その女をこっちへ寄こせ」
「あいよ、団長!」
 顔傷男(かおきずおとこ)はティファニアを離し、背を押して羽帽子へ突き渡す。テファニアはがくがく震えてされるがままだ。羽帽子は突き飛ばされた彼女をやんわりと受けとめ、にんまりと笑みを深めた。
「よし、ごくろう。次はだな」
「次は?」
「――とりあえず、寝とけ」
「は?」
 顔傷男が眉をひそめる。しかし、疑問を挟む間もなく息を呑むことになった。
 羽帽子が顔傷男へ短剣をつきつけていたからだ。「“スリープ・クラウド”」
 眠りの霧を発生させる、風と水のラインスペル。放たれた魔法はもちろん男に直撃し、抵抗する間もなく崩れ落ちる。平民には、魔法抵抗(レジスト)などというステータスは備わっていないのだ。
「よかったなあ、温厚な『俺』が相手で。これが宿主やつり目の姉さんだったら、お前、命が無かったかもな」
 諧謔的に笑う羽帽子。
 フーケは一連の流れに、ぽかんとあっけにとられていた。
「ごくろうさん」
「ああ、ほらよ」
 羽帽子は迷わずハタヤマの前まで戻ると、右手の短剣をすっと差し出す。ハタヤマはそれを労うように、両手で丁寧に受け取った。
 数瞬して、寝ぼけたような声が上がる。
「んぁ? わたくしはいったいなにをして――ぶびゃっ!?」
 がきっ、と顔面にアイアンクローを決められる羽帽子。ハタヤマは事態を飲み込めず狼狽える羽帽子の瞳を覗き込むと、極上の笑みを浮かべて言った。
「楽しませてくれたお礼だ。遠慮無く受け取ってくれよ?」
「な、なにを――ああ゛あ゛あ゛あ゛びゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃぁ゛ッッッ!!!!」
 ハタヤマの心臓付近から蒼い輝きが生み出され、コートにまるで血管のような蒼い線が浮かび上がる。それは回路に電流が通るように高速で迸り、心臓から右腕へ、そして手首から指先へ伝わり、羽帽子の顔面へと送り出された。
 羽帽子は全身を駆け巡る地獄のような激痛に、断末魔の如き奇声を上げた。
「――なあに、釣りはいらない。とっといてくれ」
「あ、あ……ぁ……」
 ハタヤマはゆっくりと手を解き、ぴんとデコピンでデコを弾く。。すると羽帽子は白目を剥き、泡と煙を吹いて、重い板塀が倒れるかのようにゆっくりとぶっ倒れた。
「一丁上がり、ってね」
「たく、都合の良い時だけいいように使いやがって」
「そう気を悪くしないでよ。頼りにしてるよ相棒」
「けっ、調子のいい男だ」
 何事もなかったかのように軽口をたたき合う彼ら。これが彼らのスタイルなのだ。
 フーケは眼をぱちくりさせながら、きょとんとした様子でハタヤマを見つめている。
 その視線に気づいたハタヤマは、不思議そうに眉を上げた。
「ん? ああ、今のも作戦だよ。ボクは極限まで追いつめられない限り、自分に不利になる選択肢は取らないのさ」
 スズキを捨てたのも一つの作戦。彼が『魔法剣』であることを最大限生かしたトリックコンボだ。前回は不意の乱入者により不発に終わってしまったが、今回は上手くいったようだ。
 だが、そんな事情を知らないフーケは、なおも首をかしげるばかり。まったく意味が分からない。
 ハタヤマは肩をすくめると、もう一人の女の子へ目を向けた。
「お嬢さん、大丈夫かい? 苦しいところや、怪我とかしてない?」
「は、はい、大丈夫です……」
 少女は口ではそう言ったが、縮こまってまだかたかたと身体が震えている。未だ恐怖が残っているのだろう。
 ハタヤマは痛ましそうに少女を見やり、ゆっくりと頷いた。
「ああ、可哀想に! こんなにも震えているじゃないか!」
 ハタヤマはがしっと少女の両手を取る。少女は、突然のことに顔を上げ、眼を白黒させていた。
 ハタヤマは静かながらも爛々と瞳を輝かせ、鼻息荒く少女を見つめる。その視線は主に胸に集中していた。というか、胸しか見てなかった。
 なにせ、規格外にデカい。フィリアちゃんに匹敵する、いや、それよりもデカいかもしれない。巨乳フリーダムだった。
「もう安心だ、ボクが付いてる! だから、この胸で存分にお泣き――」
「なにしとんじゃあんたわぁ――ッ!!」
「へぶあっ!!」
 がばっと両腕を広げた瞬間、真横からビンタが飛んできた。森の静寂を切り裂くように、ぱしーんと抜けるような音が響き渡る。またも鳥たちが空を舞った。
「な、なにするんだい! ボクはただ、彼女の悲しみを癒そうとしただけなのに!」
「目つきと手つきが怪しいんだよ!!」
「なにを言う! ボクがそんなにエロいことしそうに見えるのかい!?」
 心外だと言わんばかりに胸を張るハタヤマ。しかし、頬に紅葉を刻んだ状態では、欠片も説得力が無かった。
「あ、あの、姉さん、喧嘩しないで……」
「ほら、この子もこう言ってる! いがみ合いは憎しみしか生まない! だから仲良くやるべきだ! ところで、キミ名前は?」
「はぃっ? てぃ、ティファニアです」
 びっくりしてつい答えてしまうテファニア。
「ティファニアちゃんか~。良い名前だね。ボクはハタヤマヨシノリさ。はたぴーはっちゃんはたやんはたのり、またはよしりんとでも呼んでくれ」
 きらりと歯を光らせるハタヤマ。もしここに普段のハタヤマをよく知る者たちがいれば、腹を抱えて大笑いしていたことだろう。それぐらい通常時とのギャップが酷かった。しかし、ティファニアはハタヤマのテンションにただただ途惑うばかりである。
 ハタヤマがいつの間にかまたティファニアの手を取っていたので、フーケはぴしゃりとはたき落とした。
「いてて……なんだか手厳しいなぁ。ボクそんなに悪者に見える?」
「……あんた、恐がらないのかい?」
「え?」
 フーケの言葉に、ティファニアはびくりと肩を振るわせる。ハタヤマは意味が分からず、疑問符を浮かべるばかりである。
 フーケはティファニアの耳にかかった髪を梳く。そこには、人間ではほぼあり得ない――長い、鋭角の耳が生えていた。
 しかし。
「ああ、そんなこと」
 あっけらっかんと流すハタヤマ。そのあまりのあっさり具合に度肝を抜かれるフーケ。
「そ、そんなこと?」
「キミ、世界は広いんだよ。探せば、そりゃ耳の長い人種がいたっておかしくないさ」
 むしろ可愛いと思うけどね、とハタヤマはティファニアの耳を人差し指でなぞる。ティファニアは耳に生じた未知の感覚に背骨を揺らされ、艶っぽい吐息を吐いた。
 手の甲でハタヤマの頬をはたくフーケ。さっきとは反対側の頬だ。
「あうち! ……なんかキミ楽しんでない?」
「ふん、あんたがいらないことばかりするからさ」
「ははは! まあ、ボクの私見を語らせてもらうとね。世界ってのは『見目麗しい女性』と、『それ以外のなにか』しかいないのさ。そして、ボクは『見目麗しい女性』以外はどうでもいい――ボクは、可愛い子の味方だ」
、ハタヤマはそうからからと笑い飛ばし、ティファニアの頭を優しく撫でた。その姿にティファニアはぱぁっと顔をほころばせ、フーケは心底驚いたように面食らった。



[21043] 六章Side:H 二日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 18:14
【 六章Side:H 二日目 『何でもない日/土塊大戦争 SATISFACTION』 】



 窓から射し込む光に眼が覚めた。
 寝ぼけ眼を擦りながら、ぼんやりと天井を見上げる。そこには、ひどく久しぶりな、しかし懐かしい天井があった。
「あ――そういえば、帰ってきたんだったね……」
 起き抜けの霞を払うように目をこする女性――フーケは、久方振りの安息に息を吐いた。
 昨日の事を思い返す。それにしても、激動の一日だった。ティファニアが危ないと知った瞬間から、精神は嵐が吹きすさぶみたいに荒れに荒れ、生きた心地がしていなかった。
 晩の襲撃もなんとか退けられたけれど、いったいあの男はなんなんだろう? どこまでも不思議な男だ――
「――っ!?」
 意識が覚醒し、眼を見開いて飛び起きるフーケ。あの男は今どうしている。
 昨晩、厚かましくも「泊めてくれ」などとほざいてきたので追い返そうとしたが、ティファニアが勝手にあいつを泊めてしまった。苦言を挟もうとしたら窘められた。
 しばらく見ないうちにしっかりしたねえ……などと言ってる場合ではない。
 窓からは強い陽光が射し込んできている。おそらくもう正午近い時間だろう。疲れが祟って寝過ごしてしまった。
 あの男が悪意を隠していたならば、みんなが危ない――
 フーケは寝間着のまま部屋から飛びだし、階段を駆け下りて居間へ向かった。最悪の結果になっていないことを祈って。
「ティファニア、無事かい!?」
 ドアを蹴破る勢いで駆け込むフーケ。表情は必死で、「あの男」を視界に映せば、杖もないのに問答無用で飛びかかってしまいそうだ。
 しかし、呼びかけられた当のティファニアはきょとんとしていた。
「ど、どうしたの? マチルダ姉さん」
 彼女はいつもの緑色のノースリーブのワンピースの上にエプロン姿で昼食を作っているところだった。彼女は身体の凹凸が素晴らしすぎるので身体の線が出まくっており、ただのワンピースでも男子垂涎、鼻血必死の破壊力を持っている。
 美味しそうなシチューの香りが鼻孔をくすぐり、胃袋が活動を再開した。
 ぐぅー
「……うふふ、もうちょっと待ってて姉さん。すぐにできるから」
「あ、こ、これは違うんだよ!」
 思い返せば、昨日一日なにも口にしていなかった。それほどまでに追いつめられていたのだが、過ぎた今となっては不思議な気分だ。
 腹の音が、全ての不安を打ち砕いてくれたようだった。
「あの人もそろそろ帰ってくると思うし、みんなでお昼ご飯にしましょう」
「あの人――そうだ、あの男! あいつはどこにいったんだい!?」
 居間で椅子を並べて寝ていたはずの男は、影も形も見えなかった。まだ彼を信用していないフーケは、姿が見えないだけで気が気ではない。
 ティファニアは鍋をかきまぜながら言った。
「あの人なら、今朝早くに起きて村へ行ってくれたよ」
「ウェストウッド村へ?」
「お客さまだからくつろいでていいって言ったのに、『こんな美人のお嬢さんを働かせてだらだらしてたとあっちゃ、マダオの烙印を押されちゃうよ』って言って手伝いを申し出てくれたの。だから、そろそろ買い出しに行かなきゃいけなかったから、メモを渡してお願いしたの」
 それを聞き、フーケはひとまず胸を撫で下ろした。とりあえずティファニアにはなにもされていないことが分かったからだ。さっきから重度のシスコン患者のように彼女のことを気にしているが、それは無理からぬこと。彼女は、それだけ危うい立場にいるのだから。
「ねえ、姉さん」
 テファニアは鍋をまぜながら言う。
「なんだい?」
「マダオってなに?」
 フーケは言葉に詰まった。
「……さ、さあ?」
 顔を引きつらせて曖昧に濁すフーケ。ティファニアは不思議そうに首をかしげた。
「そういえば、チビたちはどうしたんだい?」
 この家にはフーケが拾ってきた孤児たちが何人かおり、いつも騒がしくも可愛らしい声に満たされているはずだった。しかし、今はしんと静まりかえっており、焚き火が爆ぜる音と鍋の煮える音、鳥のさえずりしか聞こえない。
 フーケはそれが気になった。
「ああ、あの子たちならあの人が連れてったよ」
「なんだって?」
「『一人で面倒見るのは大変でしょ。道案内も欲しいし、遠足がてらボクが見ておくよ』って言ってたけど」
 フーケの背筋に、冷たい汗がぶわっと噴き出た。――まさか、人質?
 甘かった。昨日の晩、問答無用で記憶を消して叩き出せばよかった。あのチビたちになにかあったら、悔やんでも悔やみきれない。フーケは自分を呪い殺したい気分だった。
 その時、外からきゃいきゃいとはしゃぐ声が聞こえてきた。
「あ、帰ってきたみたい。早く準備しなくちゃ」
 棚から皿を取り出そうとしているティファニア。フーケにはもう、その独り言が耳に入らなかった。
 ばん、と飛びつくように玄関を開けた。遠くの方に多数の人影が見える。大きな紙袋を右手に、見た目十キロくらいの小麦の袋を小脇に抱えた長身の男が一人。そして彼の足くらいの子から腹ぐらいの子まで、大小男女の子どもが六人。一人は彼に肩車されている。
「あー、ねーちゃん!」
「マチルダお姉ちゃんだー!」
 年少の子どもたちが彼女に駆け寄ってくる。みんな怪我一つ無く、前に会った時より背が伸びた気がする。
 フーケは元気そうな彼らを見て、安心して腰が抜けるような思いだった。
「ああ、久しぶりだねぇ。大丈夫だったかい、あの男になにもされてないかい?」
「……? にーちゃん、あそんでくれたよ?」
「アメ買ってくれたのー」
 女の子の一人は、大きな紙袋を抱えていた。その中には飴玉がいっぱい詰まっている。
 しかし、家にはこんな無駄遣いをする余裕は無かったはずだが。
「ぽけっとまねー、っていってたよー」
 鼻水を垂らした少年が答える。どうやら、あいつが自腹を切ったらしい。
 フーケはあの黒服の男――ハタヤマをどう評価していいのか分からず、悩んで眼を白黒させた。
「やあおはよう。よく眠れたかい?」
 フーケの心を現在進行形で乱しまくる張本人は、気さくに手を挙げておはようを告げた。
 フーケは子どもたちの無事を知ったことで緊張が解け、思考停止状態で彼を見上げる。
「ふむ、独創的なヘアースタイルだね。でも、まだちょっと眠そうかな。顔を洗ってきたらどうだい?」
 ハタヤマはやんわりとそう促した。
 独創的なヘアースタイル――フーケは自分の頭に手をやる。するとそこには、癖毛が爆発した残念な手触りがあった。
 彼女は、普段は絹のようなストレートヘアなのだが、じつはかなりの天然パーマだったりする。それを朝の半刻を使って、毎日セットしているのだ。
 しかもおっとり刀で飛び出してきたので、まだ彼女は寝間着のままである。
 当然、そんなだらしない頭を人に見せたいわけもなく。
「……――っ!!!?」
 フーケはぼふっと顔を真っ赤にして、室内に引っ込んだ。
 扉の外からはたくさんの笑い声が響いてきた。振り返った台所では、ティファニアがくすくす微笑んでいる。

 厄日だ。
 フーケはそう思わざるを得なかった。

     ○

「機嫌治してよ姉さん」
 家の外、庭に設置されたカフェテラス。
 へそを曲げてしまった姉を懸命に宥めるティファニア。しかし、彼女の姉はずっとぶすっとした表情のまま、全然取り合ってくれなかった。フーケはティファニアお手製のクックベリーパイをつつきながら、無言で紅茶をすするばかりである。
 久方振りに再会した姉と楽しいお茶会のはずだったのに。蓋を開けてみれば、さっきからずっとこんな感じだった。
「姉さんがあんなにあたふたするなんて初めてだから、可愛いなと思っただけなのに」
 フーケがんぐ、とパイを喉に詰まらせた。ごほごほとむせながら胸を叩き、必死に紅茶を喉へ流し込む。ティファニアはあらあらと背中をさすった。しかし、フーケは背中をさする彼女を押しのけ、ぷるぷる震えながら苦しさを堪えている。
 意地っ張りもここまでくれば大したものである。というか、いい加減大人げない。
 ティファニアは苦笑して肩をすくめた。
「姉さんが人を、しかも男の人を連れてくるなんてね。ずっと心配してたけど、しっかり女の子してたんだ」
「ばッ、馬鹿言うんじゃないよッ! あいつとは赤の他人、来る途中偶然出会っただけさ!!」
「だから、恋に落ちるのは一瞬だったのね」
「い、いいいいつからそんな生意気言うようになったんだい!? ひっぱたくよッ!!」
 うがががと虎のように吼えるフーケ。しかし、どうみても初心な乙女にしか見えない。本人は誤解されたくない一心で憤っているのだが、その真意は伝わっていないようである。
 怒鳴られているのに嬉しそうなティファニアの様子に、フーケはなにを言っても無駄だと悟った。仕方がないので弁解は諦め、フーケはぷいと視線を逸らした。
 目を向けた先には、ハタヤマと子どもたちが遊んでいる。
「しゅっしゅっぽっぽっしゅっぽっぽ~」
「ぷお~♪」
「ぷしゅぅ~」
 粗末な縄を輪っか状に結び、それの内側に入ってふちを持ち、ムカデのように列を組み歩き回る。いわゆる「電車ごっこ」である。
 ハタヤマが歌う擬音を真似て、子どもたちが各々警笛を鳴らす。フーケにはどの辺が面白いのか皆目理解できなかったが、子どもたちが楽しそうなので静観していた。
 昼食後、ハタヤマはずっと子どもたちに遊び方を教えていた。
「昨日の夜は、恐い人なのかなって思ったけど……面白い人だね。楽しくて、優しい人」
「ふん、どうだかね……」
 拷問が終わった後、家に戻していたティファニアを呼び出して傭兵たちの『記憶』を消した。ティファニアは拷問についてフーケたちを責めようとしたが、フーケもハタヤマも「必要なことだった」と説き伏せることで押し切った。
 記憶を消す場面ではハタヤマを家の中に閉じこめてカーテンを閉めさせ、一切の情報を与えなかった。ハタヤマは興味ありげに立ち合いたそうだったが、彼もその辺は弁えているので、フーケの指示に素直に従った。
 フーケはハタヤマをかなり危険視していた。
 あの男は言えば聞くし、妙な動きもしないけれど。なんというか、自分と同じ『夜』の匂いがする。身体に染みつき、拭いきれぬほどに定着した『裏』の気配が、あの男からは漂っているのだ。
 フーケにはそれが分かる。何故なら、自分も同じだから。
 普通に振る舞っていても、日の当たる場所で生きる者と交わればその違和感が浮き彫りになる。価値観が食い違い、選択肢が噛み合わず、しかも、お互いにそれが当然のことなので分かり合えない。そして、自分で言っていることがおかしいことを自分でも理解できているのに、そう感じることを止められない。ゆえに、拷問することを『当然』だと納得してしまえたのだ。
 あの男はどのくらいかは分からないけれど、常識の大部分が狂っている。いや、常識を保持したまま狂いも併せ持っている。本当に狂っている者なら、あんな風に子どもたちと笑い合えないはずだから。だけど、狂いを内包していなければ、昨夜のように真顔で殺意の『演技』などできないはずだから。
 昨夜、あの男はこう言った。
「迫真の演技って言うでしょ? 演技ってのは、『真』に『迫』っていなければ。人を騙せないんだよ」
 狂った常識人(モラリスト)。それがフーケのハタヤマに対する印象であった。
 フーケが様々な疑念を脳内でこねくり回していると、こんな会話が聞こえてきた。
「ねーねーにーちゃん」
「んー? なんだい?」
「でんしゃごっこっていってたけどー、『でんしゃ』ってなーに?」
「……――ッ!!!?」
 鼻垂れ小僧の無垢な一言に、ハタヤマは凍り付いた。顔面は劇画のように筆書きの荒々しい線になり、この世の終わりを知った科学者のような悲壮感を漂わせている。
 ――そう、この世界には『電車』が無い。ハタヤマはその事をすっかり忘れていた。
「そ、それはねー……」
 ハタヤマは困った。そりゃもう、これ以上ないくらいに心中で慌てふためいた。表情に出せば子どもが不安がるので、それだけは耐えなければいけない。
 電車がない世界では、電車ごっこという名称が使えない。しかし、それ以外に言い表す言葉が思いつかない。電車の仕組みやその形、それのなんたるかを懇切丁寧に語り聞かせようと、この世界の住人には決して伝わらないだろう。蒸気機関ならまだしも、モーターエンジンなんてシステムを理解できるはずがない。電気で走るよく分からない金属の塊なんて、どうやって説明すればいいんだ。
 だからといって適当ぶっこくわけにもいかない。知識のない純粋な子どもたちに、嘘の知識を植え付けてはいけない。それは教育の立場に立つ者にとって、最低最悪の愚行なのだ。教育者じゃないけど。
 ハタヤマは極限状態だった。
「電車っていうのはー……」
「いうのはー?」
「ボクの故郷の乗り物なんだけどー……」
「けどー?」
 言葉尻を被せて問い続ける鼻垂れ小僧。子どもなので悪意はないだろうが、相当に恐ろしい絡み方である。ちゃんと着地しなければ、会話を終わらせてもらえないのだ。
 ハタヤマはあー、とかうー、とか言葉に詰まったが、最終的にこんな結論に至った。
「ボクもよく知らないから、新しい名前を考えようか」
 投げた。この男投げやがった。「ボクも詳しい仕組みはよく知らないんだー」なんてはにかんでいるが、とんでもなく大人な対応である。知らないということを盾にして、強制的に話題を転換させたのだ。この男やりおる。
 子どもたちはふーんと流れに身を任せる。正直言ってあんまり興味がなかったのだ。ハタヤマは逃げ切った、と脳内で邪笑を浮かべた。
「列になって走るものってなんかあるかい?」
「んー、なんだろー?」
 年少の少女が声を上げた。「ありさーん!」
「んー、そうだね、たしかにありさんは列になってるね」
 しかし、ハタヤマは首を横に振る。
「でも、ありさんは鳴き声をあげないなぁ」
「えー、なかなきゃだめなの?」
「うん。さっきしゅっぽーとか言ってたみたいに、なんかしら鳴き声をあげないと楽しくないね」
 またも考え込む子どもたち。今度は年長の男の子が手を挙げた。
「馬! 騎士団は陣形を組んで走ってるぜ!」
「馬かー。うん、良い線いってるよ。じゃあ馬にしよっか」
 とりあえず鳴けばなんでも良かったので、馬で妥協するハタヤマ。
「じゃあ、『お馬さんごっこ』ということで――……」
「でも、にーちゃんおうまさんごっこしてくれたよ?」
「え゛っ?」
 ハタヤマの表情が強ばる。
「あさ、してくれたねー」
「ぱからっぱからってー」
 子どもたちの言葉にハタヤマは思い出す。そういえばティファニアが朝食を作っている最中、暇を持てあました子どもたちが邪魔をしていたので遊び相手になってあげた。その時、自分は四つんばいになり、背中に子どもたちを乗せてお馬さんごっこをしたのだった。
 なんと、名前が既出だった。またも狼狽えるハタヤマ。
「ぬあー……えっとねー……」
 背中に冷たい汗が噴き出しっぱなしのハタヤマ。文字通り言葉に詰まっている。
 そんな彼が出した結論はこちら。
「ま、名前は後で考えよっかー」
 先延ばしにした。保留しやがったよこの男。どうしようもなくなったから、とりあえず結論を濁したのだ。またも知略を巡らせてやがった。この男、策士である。
 子どもたちは名前なんてどうでもよかったので、『電車ごっこ』改め『名称保留』の遊びを再開した。
「ぱからっぱからっぱからっ」
「ひひーん♪」
「ぶるひひひーん!」

「なにやってんのかねぇ、あいつは……」
 頬杖をついて呟くフーケ。
 ティファニアは終始にこにこしていた。

     ○

「ごめんなさい、付きあわせて」
「いやいや、なんのなんの」
 心苦しそうにもじもじするティファニアに、ハタヤマは気にするなと笑いかける。
 彼らは買い忘れたワインのために、二人でウエストウッド村まで出かけていた。酒呑みの姉のために久しぶりに一本開けようと思ったら、切らしていたのを忘れていたのである。
 当然この組み合わせをフーケは凄まじい勢いで却下したが、子どもたちが久しぶりのお姉ちゃん帰還に遊びをねだったこと、そしてティファニアが静かに押し切ったことで、うやむやのうちになんとかなってしまった。
「しかし、何故ボクを連れてきたんだい? フーケちゃんと二人で来てもよかったんじゃ」
「姉さんのためのパーティーの買い出しなのに、本人と一緒だったらつまらないじゃない」
 ティファニアはそう言ってくすくすと笑った。どこまでも善玉の気配しかしない女の子である。
 ハタヤマは自身が悪玉の中の悪玉、黒すぎてブラックホールのようになっていることを自覚しているので、そんなティファニアが眩しかった。なんというか、綺麗すぎて直視できない。まかり間違って触れでもしたら、その指先から焼けただれて灰になり、ぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうな気がする。
 のどかな森林を他愛もない雑談を交わしながら歩く。嘘か本当か、一人で歩いていると小鳥や野兎なんかがすり寄ってくるとティファニアは語る。ハタヤマはそれにたいそう驚き、改めて彼女の清らかっぷりに脱帽した。
 森を抜けると村が見えてきた。
「ティファニアちゃんはこの村の人なのかい?」
 何の気なしにハタヤマは訊ねた。
「いいえ。違うわ」
「……へ?」
 にこにことおだやかな表情で、よどみなく否定したティファニア。ハタヤマはその意外な答えに面食らう。
「わたしはみんなの好意でここに置いてもらえてるだけ。ここの住人じゃないの」
「それは、住んでるって言わないかな」
「違うの。わたしは住んでない。住ませてもらってるだけよ」
 ゆるやかに、けれど頑なに否定するテファニア。
 ハタヤマは彼女の横顔を横目でじっと見つめ。口をとがらせ言葉を切った。
 そのまましばし無言。やがて見えてきた一軒の店屋にティファニアは入っていく。ハタヤマはついていかず、その背中を見送った。
 ウエストウッド村は、いつか見たエズレ村のような日々の糧すら困っていそうな、カントリー的情緒が残るとてもひなびた村である。アルビオンの特徴である痩せた土地、それがもっとも顕著な村でもある。しかし、それゆえにブドウがよく育ち、アルビオン唯一のワインの名産地としても名高い。他の土地は農業には向かない不毛の土地か、それか中途半端に農業がぎりぎりできる土地かのどっちかしかないので、この国でのブドウ農家は貴重だ。
 ちなみに、ブドウがあまり育たないので、この国ではビールが主に嗜まれていたりする。あの苦みがいいのだとか。
「なーんであんなに寂しそうなのかねぇ」
 ハタヤマは一人戸口で待つ。なんとなく、一緒に行ってもしかたがないと思った。
 あの少女は笑っていて、心を誰にでも開いている。ように見える。しかしてその実体は。
「ありゃ、誰も特別にしようとしてないね」
 買い出しに行ってくれるんですか? ありがとう。
 薪を割ってくれるんですか? 助かります。
 お客さまなんだから、そんなことなさらなくていいのに。
 そう、自分はお客さま。どこまでいっても赤の他人。彼女にとって、『姉の知り合い』でしかないのだ。
「恐い顔をしとるね」
「うわぉっ!?」
 唐突に真横から声。気づくと真隣に白髪じみたじーさんが立っていた。完全に気を抜いていたので、ハタヤマはびびってこけそうになる。
 感覚が鋭敏といえど、無心で、しかも意識がこちらに向いていない相手のことは分からない。
 ありていに言えば、通りすがりのじーさんにすらいちいち反応していてはいられないのだ。
「な、なんか用?」
 ハタヤマは引きつった笑みで訊ねた。
「お前さん、今朝子どもを連れて来ていただろう。テファちゃんとこのさ」
「ま、まあ」
 ハタヤマはぽりぽりと頬を掻く。
「あの子らとはどういった関係で?」
「お金がなかったから、一晩宿を借りたんだ」
「そのわりに、銀貨一枚でしこたま飴玉を買っていたじゃないか」
「ポケットの底に一枚だけ残ってた」
 老人はへらりと笑う。
「悪い男だ」
「知らなかったんだ。わざとじゃない」
「飴はせめてもの罪滅ぼしかい?」
「そういう意図も無きにしもあらず」
 ハタヤマは憮然として言った。
「本当は何も考えていなかったろう」
「うん」
 まったく恥じることなく断言するハタヤマ。老人は面白そうにしわくちゃの顔を歪め、もさもさの髭を揺らした。
「あの子はなあ、寂しい子なんだ」
「……?」
 ハタヤマは片眉を上げた。
「昔から人に会えず、友だちもいない。周りにいるのは数人の世話係と、ただひたすらあの子を守ろうという両親だけだった」
「両親はどうしたの?」
「………………」
 老人は無言で髭をもさる。
「あの子たちの力になってやってくれんか」
「藪から棒だなぁ」
「あの子たちは良い子なんだ。ただ、少し耳が長いだけ。それ以外は、わしらとなにも変わらんのだ」
「なんでボクに?」
「誰でもよいのじゃ」
 ハタヤマは老人を見下ろす。
「お前に資格がなければ、どうせ全て忘れてしまうことだ。ただ、今ここにお前がおるから話をしているだけにすぎん」
「……?」
「ただ、あの子がお前を認めたら。どうか助けてやってくれ。なにができるかは知らん。だが、持てる限りの力を尽くして」
「あんたらは何もしないのかい?」
「できるもんならもうしとるよ」
 老人は憮然として言った。
「わしらにはの。こんなことしかできんのだ。これですら難色を抱く者もおる。なだめすかすので精一杯じゃ」
「………………」
「あの子らはどちらも不幸な子じゃ。一筋縄では救えない。それこそ、全てを捨ててでも身を挺してくれる者がおらなければ」
「――知らんよそんなもん」
 ハタヤマは眼を閉じ、肩をすくめた。
「確約はできないね。そもそも『資格』とかいうのを持ってるかも分かんないし」
 老人はおかしそうにふがふがと笑った。
「お前は嘘を吐かんのだな」
「嘘は吐くさ。できない約束はしないだけ」
「ふぇっふぇっふぇ。おかしな男だ」
 老人はさらに笑みを深める。
 そうこうしているうちに待ち人が戻ってきた。
「お待たせ、ハタヤマさん」
 用事を済ませたティファニアがが戻ってきた。彼女はその豊満な胸がひしゃげるように、瓶の詰まった袋を抱いている。 ティファニアはハタヤマの隣にいる老人に目をとめた。
「あら村長さん」
「え゛っ? 村長?」
 ハタヤマはティファニアから荷物を受け取りつつ、驚きに目を丸くした。
「ご無沙汰してます、ご機嫌いかが?」
「ああ、元気だとも。久しぶりにお前さんの顔が見られて、腰の痛みが消えてしまった」
 ぐるぐる腕を回して示す村長。ティファニアは笑って彼を窘める。
「ふふふ、お上手なんだから。腰が悪いんだから無理しないでね。言ってくれたらお手伝いに行くわ」
「ありがとうティファニアよ」
 ふぇふぇふぇと笑ってそのままハタヤマに視線を移し、正面から見つめてくる村長。
 ハタヤマは苦笑いを浮かべるしかない。
「……? なにを話していたの?」
「いいや、なんでもないよ。この男がお前たちにとって、良い出会いになればいいのう」
「だから分からないってば」
「どっちでもええわい。頼んだぞ」
 老人はばしんとハタヤマの背を叩くと、ふぇふぇふぇとそのまま行ってしまった。
 顔を見合わせるハタヤマとティファニア。
「なにか言われたの?」
「そういうわけじゃないよ。ま――」
 ハタヤマはティファニアを上から下までじっくりと眺め回し。満足そうに頷くと、先に立って歩き始めた。
「やるだけやってみようかな」
「???」
 慌てて背中を追いかけるティファニア。
 だが、話の内容がよく分からず、ただただ首をかしげるばかりだった。

     ○

「あはははははっ!」
 ひときわ大きな笑い声が上がった。孤児たちの中でも年長にあたる、スポーツ少年のような男の子だ。
「そんなのうっそだー!」
「いやいや、ほんとなんだって。ボクが座ったら床がスコーンってねぇ――」
 先ほどからずっと身振り手振りで語り続けるのはハタヤマだ。彼は食卓で探検家であることを話し、思いのほか皆の反応が良かったことに気をよくして、先ほどから延々喋りっぱなしだった。子どもたちにせがまれるままに冒険譚を謳うその姿は、まるで舞台から抜け出したアクターのようである。緊迫した場面には声をひそめ、手に汗握る活劇の場面には宙を握りしめ力説し、聴衆の心を掴むボディランゲージを混ぜてハタヤマは静かに、そして荒々しく語る。
 外の世界の知識などここへ来る前の悲惨なものしかない子どもたちは、ハタヤマの語り口に身を乗り出して聴きいっていた。
「――部屋へ踏み込むと足下がガクンッてなった。すると突然扉が閉まる。閉じこめられた! しかもぷしゅーって音がする。くんくん……これは毒ガスだ! フラッグマン大ピンチ! このままでは危ない!」
 迫真のハタヤマの演技に、一同が固唾を呑んでハタヤマに視線を注ぐ。
 もはやテーブルの上に並んだ瑞々しいハシバミ草のサラダも、湯気を立てる熱々のクリームスープも、彼らの視界には入っていないらしい。
「しかしこんなこともあろうかと、彼は空気アメ(エアードロップ)を用意していた! これさえあればもう大丈夫……ああ!? ポケットに穴が開いてる! 中身が全部無くなっちゃってるよ!」
 ズボンのポケットに手を突っ込むやいなや、にょきっと穴から腕を生やすハタヤマ。同時に行われた、どうしよう~というハタヤマの驚愕と悲壮感溢れる声色に、子どもたち(ティファニアも)の緊迫感は高まっていく。
「長いこと息なんて止めてられない。こうなりゃ仕掛けの謎を解くしかない。彼は周囲を見回した……すると壁に壁画がある! どうやらこれがこの部屋の謎みたいだ――」
 囁くように声をひそめ、妖しさを帯びるハタヤマの語り。ハタヤマの経験にわずかな創作を混ぜた『フラッグマンの冒険』は、この分だとまだまだ続きそうである。
 それを見つめる二対の瞳は、正反対の色に染まっていた。
「はらはら……」
「………………」
 片方は長い耳に流れるような長いブロンドの爆乳、この家みんなのお姉さん、ティファニアである。彼女は子どもたちと同じように喜び、驚き、笑いながら、ハタヤマの話術を聴きいっている。今は両手を組み合わせて、汗でも流しそうにはらはらしっぱなしらしい。
 もう片方は普通の耳に髪はセミロングのエメラルドグリーン、妹ほどではないがやや控えめな手の平サイズの美乳を持つフーケだ。彼女は悦に入った感じで気分良く語り続けるハタヤマを、薄汚いドブネズミを見るような眼で睨んでいた。
 彼女は冒険譚がお気に召さないようだ。
「ティファニア」
「どきどき……」
「テファ!」
「っひゃう!?」
 急に耳元で大声を出され、びくっと跳ねるほど驚くティファニア。その拍子に豊満な乳房がたわわみ、はち切れそうな存在を誇示している。
 ハタヤマはいつの間にか立ち上がり、テーブルに足をかけんばかりの勢いでヒートアップしている。しかし、その視界の端にはしっかりとその神なる震えを捉え、話は止めないまでもぎらりと眼を光らせていた。この男、最悪である。
「ど、どうしたの姉さん」
 フーケに首を向けるティファニア。彼女の目に映ったフーケは、いちだんと不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。
「あんたもあんな与太話にときめいてんのかい?」
「いいじゃない、面白いし」
「あんなの街の詩人かジャグラーの方が良い仕事するだろうよ」
「でも、わたしはそんなの見たこともないから、純粋に楽しいわ。それに」
 ティファニアは目線を高くし、弁舌を振るうハタヤマの顔を見上げた。
「汗をかくくらい熱弁してくれてるんだもの。たとえ作り話でも、素晴らしいものだとおもうな」
 話が佳境に差し掛かったのか、まるでジョーズが迫ってくるBGMが聞こえてきそうな程勿体ぶっているハタヤマ。子どもたちはみんなハタヤマに釘付けだ。娯楽が皆無な田舎に住んでいるので、こういった話に飢えているのだろう。だからこそ、ハタヤマのような素人が語る冒険話にも食い付いてくる。それは無闇に人前へ姿を現せないティファニアも同じだった。
 フーケはそんなチビたち(+α)に、頬杖付いてため息を吐いた。

  チビたちはまだいい。だけどティファニア、あんたが懐いちゃダメでしょうが。

 フーケは頭が痛くなってきたのか、眼鏡を下げ、額を人差し指でもみほぐした。彼女は眼鏡っこである。
 フーケは未だハタヤマのことを信用していなかった。これまで怪しい素振りを見せない、しかし、あるいは、次の瞬間には裏切るかもしれない。そんな思いが彼女の中をぐるぐる回り、そしてどんどん目の傾斜が上がっていく。彼女の睨みつけるようにキツい目つきは、彼女の家が取りつぶされてからずっと続く癖だった。
 他人に気を許してはいけない。こんな時期にこの国へ来るなんてろくなやつであるはずがない。
 それにこの男の『力』も、全くもって不透明きわまりない。もしかしたらティファニアを珍しがって、攫う機会を窺っているのかも。
 フーケはずっとそんなことばかり考え、そのたびに目つきが悪くなるので、もう眼が縦になりそうな勢いだった。
「――ついにやってきた宝の間。しかしそこには先客がいた。でも、どうやら捕まってしまったらしい。番人に捕らえられ檻に入れられているのは、美しいエルフの少女だった!」
 ハタヤマは不意にツッコミのように手の平をビシッと振り、ティファニアを指し示した。
「はい、どうぞっ!」
「え、えぇ? た、たすけてえぇ~」
 突然のネタ振りに狼狽えたティファニアだが、眼をパチクリさせながらも、なんとかぎりぎり切り返すことに成功した。大阪人が吹き矢を吹かれる真似事をされたら、「うっ」と死ぬ真似をするようなものである。両手を胸の前に組んで瞳を潤ませた姿は、なかなかどうして様になっている。
 ハタヤマは追い風を得た、と言わんばかりに軽快なサムズアップを決めた。
「任せなさい! フラッグマンの胸に灯った、正義の炎が燃え上がる! こうなったらもう誰にも止められない!」
 ハタヤマは会釈するように、右手を百八十度円を描くように流し、大きく息を吸い込んだ。
「さあ、みんなで名前を呼ぼう! 哀れなエルフの少女を助け、強大な宝の番人を倒す! ――強くて格好いいヒーローの名前は?」
「「「フラッグマーン!!!」」」
「オーケーだッ! さあ始めよう、お宝を賭けた激熱バトル――開始ぃ!!」
 まるで休日のデパート屋上で行われているヒーローショーみたいなノリだが、ウケてるんだから仕方ない。『正義の炎』なんてどの口でほざくと言われてしまいそうだが、言ってくれる相手がいないので至極残念であった。
 ――いや、一人いるにはいたのだが。彼女はB級劇団の舞台のようなこの光景が見ていられず、ただただため息を吐くばかりだ。
「ティファニア」
 今度は間を置かず顔を向けるティファニア。フーケの声のトーンが下がっていたからだ。
「今夜、あいつの記憶を消すよ」
「……姉さん。そのことなんだけど」
「例外はありえないからね。秘密を守る一番の方法は、誰にも知らせないことなんだから」
「姉さん」
 ティファニアはフーケの服の袖を掴んだ。こんなに意志を感じさせる行動なんて、これまで一度も見たことがなかった。なので、フーケはやや面食らう。
「あの人の記憶は消さないでおきましょう。あの人はきっと大丈夫よ」
「ティファニア、あんたはあいつの正体を知らないからそんなことが言えるんだ。あいつは……竜に変身したんだよ」
「じゃあ、あの人は竜人(ドラゴニア)だっていうの? そんなこと、ありえない! 竜人なんて、御伽噺にしか出てこない空想上の幻獣よ!」
「あたしだってそうは思っちゃいない。けど、少なくとも人間じゃないか、それほどの力を持ったメイジだ。用心するに越したことはないよ」
「姉さん、わたしは――」
「ティファニア」
 フーケは言葉を遮った。母が娘を、姉が妹を叱りつけるような、有無を言わせぬ迫力があった。
 理性を飛び越え本能を責め立てるような冷たい声色に、ティファニアは押し黙る。
「別にあたしは意地悪で言ってるんじゃないんだよ。あいつはたしかに、今のところ疑う理由を見せない。だけど、それがあいつを信じる理由にもならない」
 おいそれと人を信じるな。人を見たら泥棒と思え。フーケはハタヤマを敵だと断定する材料を持ってはいない。しかし、味方だと断言する要素も見つけられなかった。
 理由はそれだけで充分なのだ。
「それに、あんたは自分の立場を分かってない。あんたの存在は、アルビオン王家どころか一般人にすら知られちゃならないんだから」
 彼女の耳はエルフの証だ。エルフは聖地を守り、人間を襲う。彼女の存在がばれれば迫害されるかも知れない。
 それに、フーケはハタヤマを手放しに信じられない『ある情報』を握っていた。
(あいつは、あの時あそこにいた)
 あの思い出すのも腹立たしい『破壊の杖』の一件。やつはあの時、たしかにあそこにいた。後ろ姿を覚えている。巨大なゴーレムが音も無しに跡形もなく消え去り、白煙の向こうから現れた男。
 間違いない。こいつは、あの時のあいつだ。
 ふと、フーケは気づく。ティファニアが自分を不満げに睨みつけているのを。
「……ティファニア? どうしたんだい?」
 上目づかいでじっと不満をぶつけてきているつもりなのだろうが、いかんせん迫力が無く、威圧感よりも愛らしさが先に出てしまっている。とても可愛い。
 しかし、ティファニアが自分に逆らうなんて初めてのことだ。なので、フーケはその理由が分からずに途惑った。
「………………」
 ティファニアはただ無言でフーケを見つめている。口をとがらせ頬膨らませ、両手は膝の上でぎゅっと握りしめている。
「……分かった」
 ややあってティファニアは頷いた。期待していた答えを返したティファニアに、フーケは顔をほころばせる。
「ああ、やっぱり良い子だね。あんな男はさっさと忘れな。昼間になにがあったか知らないけど――」
「――ッ!!」
 室内が騒然となり、そしてシンと静まりかえった。ティファニアがテーブルをバンと叩き、激情を露わにしたからだ。
 いつも優しいお姉ちゃんが、唇をキュッと引き締め両手をわななかせる姿に、子どもたちは目を点にしている。そして、それはフーケも一緒だった。
「――そんなのじゃないもんッ!」
 ティファニアはそう叫ぶと、飛び出すように居間を出て行った。
「――ティ、ティファニア」
 フーケはきょとんとして、閉じたドアを見つめるだけである。
 小さいお姉ちゃんは去り、大きいお姉ちゃんはぽかんとしているのみである。この状況で最も早く再起動したのはハタヤマだった。
「ま、まあ、ちょうど冒険譚も一区切りついたとこだし。ボクらもご飯食べよっか」
 パチンと胸の前で手を合わせ、全員にそう促すハタヤマ。自身もおもむろにスープを木製のスプーンに掬って頬張る。
「うは、旨、これ」
 こらうまい、こらうまいと無心で食べ始めるハタヤマ。ソーセージを頬張りパンを食いちぎるその姿は、まぎれもない欠食児童である。ちゃんと野菜も食べる辺り、好き嫌いのない雑食さが滲み出ている。
 食欲の権化と化したハタヤマの障気に中てられたのか、子どもたちもそれに習い食事を再開した。
 ただ一人。フーケだけは、扉とハタヤマを交互に見比べ、難しい表情でアゴに手を当てていた。

     ○

「いったい何処まで行くんだい?」
 ハタヤマは前を歩くフーケに声をかけた。
 どのくらい歩いたのだろうか。もう彼女らの家から離れ始めて随分経つ。ティファニアたちが暮らすログハウスは、森に埋もれてしまってもう見えない。
 ちょっと顔を貸せというのでついてきたが、フーケはさっきから半刻も黙ったままである。すぐに着くのかと思って黙っていたが、十分を過ぎてからいぶかしく思い始める。
 しかし、彼女はなにも答えてくれない。三度目の問いかけで、ハタヤマは諦めてため息を吐いた。
 アルビオンは雲上の国だ。雲を突き抜けた場所にある大地は、昼間のような月光に照らされている。しかし、この深い森林の中ではその輝きもわずかかしか届かず、時折存在する木々の切れ間からそそぐ光だけが頼りだった。
 足下は悪いが、ハタヤマは超感覚で苦もなく歩を進める。彼はわずかでも光源がありさえすれば、それを数十倍に増幅する感覚――超感覚――を持っているからだ。しかし、フーケはそういった技能を持ち合わせていないはずなのに、まるで闇夜を見透かしたように危なげなく直進していく。ハタヤマはそれが不思議だった。
 ややあって、開けた場所に出た。
「へえ……綺麗なもんだね」
 そこは小高い丘がある花畑だった。猫の額ほど、というわけでなく、遊び回るには十分なスペース。赤、黄、白やらの色とりどりの花が咲き乱れ、のどかにも蝶々が蜜を吸うために飛んでいるのがちらほらと見えた。よく見ると、蝶の羽がちらほら輝いているのが見える。空を泳ぐ軌跡にもわずかな光のスジが見えるので、どうやら鱗粉に発光作用が含まれているらしい。夜光蝶だろうか。
 ここを見せたかったのか、とハタヤマは前にいたはずのフーケを探した。
 しかし。「あれ?」
 いつの間にか、フーケはいなくなっていた。本当に音もなく消えたので、ハタヤマはやや驚く。歩く気配すら感じなかった……
 ハタヤマはきょろきょろと周囲を見回すと、森の切れ間に大陸のはじっこがみえた。どうやらここはアルビオンの果てらしい。昼間にピクニックなんかで訪れると、とてもよいスポットであろう。これで柵でもこしらえてあれば、安全性も言うこと無しなのだが。
 ハタヤマがぼんやりと視線を彷徨わせていると、その視線はある一点でぴたりと止まった。森の切れ間、小高い丘になっている部分に、見慣れぬものを発見したからだ。
「これは、墓?」
 木でできた粗末な十字架が四つ、横並びになっていた。平和の象徴のようなこの場所にはあまりにも異質で、ハタヤマにはひどくそれが浮いて見えた。墓にはそれぞれ四色の花輪がかけられ、地面には花束が備えられている。花はまだ新しく、瑞々しい活力を感じさせた。
 誰の墓だろう。そう思い、おもむろに近づいていくハタヤマ。

 ――不意に、大気が振動する音が聞こえた。
 はっと緊張を纏うハタヤマ。背後から差していた月光が翳った。いや、違う。
 足下に、巨大な影が伸びて――

「――っぶない!!」
 間一髪飛び退くハタヤマ。間を置かずずずん、というにぶにぶしい鈍重な落下音。振り返ると、彼の立っていた場所には巨大な土の塊が深々とめり込んでいた。衝撃により地は裂け、土は抉れ、隕石の落下地点のようになっている。
 それは天空へ繋がっており、その先に巨大な土人形が無言の存在感を放っていた。
「な、なんのつもりだい? じゃれるにしても限度ってもんが」
 ゴーレムの肩にはフーケがたたずんでいた。ハタヤマは突然の彼女の凶行にその真意をはかろうとしたが、彼女の表情は下げ気味の顔にかかった髪に阻まれ覗えなかった。
「――あんたには死んでもらうよ」
 フーケは、静かにそう呟いた。その言葉は誰かに向けて放ったものではないらしく、まるで独り言のように平坦な声色だ。
 いきなりそんなショッキングな宣告を告げられ、ハタヤマは驚き慌てふためく。
「な、なんで!? ボクなんかしたかい!? ひょっとしてまだお尻のこと根に持ってんの!?」
 それともティファニアの胸ばかり見ていたことか、それとも昨夜の場面で傭兵たちを泳がせていたのがばれたのか……心当たりがありすぎて困るハタヤマ。
 だが、フーケの行動の理由は、そんなところにはないらしい。
「あんたはティファニアにとってよくない」
「……?」
「あの子は外に出るべきじゃない。外へ憧れちゃいけないんだ」
 淡々とそう呟くフーケ。その語調はハタヤマへ言い聞かせようというものではなく、どちらかというと自分自身に浸透させるためのものらしい。
 ハタヤマは眉をひそめた。
「なぜだい? というかどうしてあの子はこんなところに匿われてんの? たしかに耳は長いけど、見たところ普通の女の子じゃないか」
「あんたは、本当になにも知らないんだね」
 フーケが杖を手首だけで振り下ろした。ハタヤマはすぐさま反応したが、魔法の種類までは察知しきれない。
「“尖れ”」
「ぐふっ!?」
 くの字にくずおれ、腹を押さえてうずくまるハタヤマ。彼の立つ位置より一歩前方の地面が、突如隆起し襲い掛かってきたのだ。
「が、かはっ――」
「三角の耳はエルフの証さ。エルフは聖地を人間から奪い、そして人間を敵視する。ここまで言えば分かるだろう?」
 ぽつぽつと降り注ぐ言葉を、苦悶に顔をゆがめながら受け止めるハタヤマ。たしかにそこまで聞けば、それ以上は必要ないだろう。
 しかし、一つだけ合点がいかない。
「な、なんでキミは、彼女を守っているんだい? 人間のキミが、エルフのあの子を」
 フーケはわずかに沈黙し、そして口を開いた。
「あの子はハーフなのさ」
「――!」
 ハーフ。人間と人外の間に生まれた子ども。
 その境遇はどんな世界のどの文化でもおしなべて一緒だ。
 ハタヤマは痛ましく表情をゆがめた。
「それは」
「『可哀想』だとでも言うつもりかい? 偽善者」
 フーケはさも軽蔑したように唾棄した。
「異種族との姦淫はただでさえ重罪さ。その上あの子はエルフの子、見つかれば異端審問にかけられて死刑確実。もし死刑を免れても、実験動物(モルモット)としてアカデミーか王室に飼われる未来しか残されていない」
 実験と称しての暴行や強姦を受けるかもしれない。それだけで済めばまだマシで、最悪の場合子どもを量産させられて強化兵士の母体にされたり、魔術発展のための『ハツカネズミ』にされるかもしれない。それを考えれば、死刑のほうがある意味で幸せなのかもしれない。
 最悪の想像は際限なく溢れ、奈落は尽きない。
「あの子は一人で生きていけない。ここにいるのが一番安全なんだよ」
 フーケはこれまでずっと戦い続けてきた。同業者と、衛士と、そして社会や体制と。貴族の称号を剥奪されて数年、盗賊に身をやつしてまでも、ティファニアを守るためならなんでもした。それはある側面では家を取り潰した王家への恨みや、厄介ごとを抱え込んだばかりに命を落とした義理堅い両親への反発もあっただろう。
 しかし。それ以上に、彼女にとってティファニアの存在は大切なものになっていた。
 ともすれば激情とともに溢れそうになる心情を抑え、フーケはキッとハタヤマを見下ろす。
「あんたはあの子に『外』を教えた。あの子はそのせいで『外』を焦がれる。それはいけないことなんだ」
 外には危険がいっぱいだ。彼女だけでは、それら全ての脅威から守りきることはできない。たとえ窮屈でも、あの子は外にでるべきではないのだ。
 ぴくり、と這いつくばったハタヤマの指が動いた。
「本当に、それでいいと思ってるのかい?」
 ゆらりと幽鬼のように立ち上がるハタヤマ。うつむいていて、表情は窺えない。
「いつからやってんのか知らないけど、こんな状況がいつまでも続くと本当に思ってるのかい? 予言してもいい。この場所は五年以内に必ずばれるよ」
「なにを根拠に言っているのさ」
「人間の神出鬼没さを舐めちゃいけない。『アレ』はどこにでも現われる。現に昨日だって見つかってたじゃないか」
 たとえ後をつけられたという要因があったとしても、それは人間の活動範囲にこの隠れ家があるということだ。歩いて辿り着ける場所なら、盗賊や旅人が必ずここをかぎつけるだろう。
 心当たりがあるのか表情を曇らせるフーケ。
「……心配無用だよ。あの子はある『魔法』が使えてね。たとえ知られても問題ないのさ」
 ティファニアには『忘却』がある。あれさえあれば、軍隊規模の相手が来ない限りは対応しきれるはずだ。フーケの言葉は、そう考えてのことだ。
 だが、ハタヤマは呆れたように深くため息を吐いた。
「あの子がここから出ず、追っ手をみんなその『魔法』とやらでどうにかすれば、あの子は大丈夫だってことかい?」
「ああ、その通りだね。それであの子は安泰だ」

「――的が外れてるよ」

「な、に?」
 フーケは眉を吊り上げた。血液が沸騰する。やれやれと肩をすくめる眼下の男が、その声が、どうしようもなく耳に障った。
「ボクだったらこーんな場所で老いさらばえるまで押し込められるなんて絶対やだね。退屈で気が狂っちゃうよ」
「ふざけたこと言ってんじゃないよッ! 外に出ればあの子は殺されちまう、外には不幸しか無いんだ! あんたはそれを知らないから――」
「分かってるさ」
 断言するハタヤマの語調は、まるで澄んだ闇を切り裂くような鋭さを帯びていた。フーケは思わず言葉を切る。
「外に出れば危ないのは分かる。キミらの事情は知らないけど、そりゃここにいた方が安全だろうさ。でもね」
 ハタヤマは顔を上げ、はるか上空のフーケを見上げる。黄金の瞳は爛々と輝き、闇夜に浮かび上がるような存在感を示している。
「『安全』と『幸福』はイコールじゃない。あの子は今死んでるんだ」
 全てを見通し、心の深遠を覗き込むようなハタヤマの黄金の瞳。なにか言い返そうと思っても、口からは音が表出してくれない。
 見下ろした先にいる男のその瞳は、正体はわからないが、有無を言わせぬ深いなにかの『色』に染まっていた。
 ハタヤマは役者のように大仰な振る舞いで謳う。
「一生こんなところで毎日かわりばえしない生活を営んで、そして老いて死んでいく。果たしてそれは本当に幸福なのかな?」
「し、死ぬよりはマシだろう! あんたになにが分かる!」
「ああ、分からないね。ボクはキミの考えだけじゃなく、ボク以外の知性ある生き物が考えてることはすべからく分からないよ。だって超能力者じゃないもの。けどね、ボクはこう思う」
 ハタヤマは口の端を吊り上げた。
「――死んだように生きるより、死ぬような思いをしてでも生きたい、ってね」
 フーケはハタヤマの言葉に愕然と目を見開いた。全身がこわばり、意味も分からず震え始める。
 ただ、それが恐怖によるものではないことだけは分かった。
「ふ、ふざ、ふざけんじゃないよっ!!!! 人をおちょくるのも大概にッ」
「ふざけちゃいないよ。大真面目さ。命の旅路は一方通行なんだ。なら、派手に楽しく生きなきゃ損だよ」
 さも当然だというように、あっけらかんと言い放つハタヤマ。両手を頭の後ろに組んで、のびのびと伸びまでしている始末。
 あまりにも肩の力が抜けたハタヤマの態度に、フーケの怒りは加速した。
「あの子は荒事が苦手なんだ! 街に出れば敵が多すぎる! いざとなった時守ってやれない!」
「だからさぁ」
 煙を吹くようなフーケと対照的に、ハタヤマはいたって冷静である。お互いの温度差がとても激しい。
 その理由の根源は、彼らの価値観の違いにあった。
「なんで守ってあげることが前提なわけ? あの子はエルフの血が流れてるんでしょ? なら、多少なりともそこらの人間よりは魔法の才があるはずさ。守りきれないなら、自分で身を守れるようにしてやればいいじゃないか」
 逆転の発想さ、とハタヤマはいとも簡単に言い切った。どの世界も一律同じような感じなら、人間は基本的に魔法適正が低い種族である。ならば、魔法適正が高いエルフがそこらの一般魔法使いに負けるはずがない。
 本当に身を入れて魔法を教えこんでやればいい。そうすればティファニアは必ず大輪の花を咲かせるはずだ。少ない時間しか彼女を見ていないが、ハタヤマはティファニアの才覚をそう判断していた。
 しかし、フーケは間髪入れず反論する。
「言っただろう、あの子は争いに向いてないって! 可哀想だからって虫も殺せないような子だ! 教えたって無駄だよ!」
「だからそれはキミが決めることじゃないでしょ? そーいうのを『過保護』ってんだよ」
 肩をすくめて失笑するハタヤマ。彼はフーケをモンスターペアレンツと同等程度にしかとらえていなかった。彼にしてみれば、他人の性格や気持ちを分かったように語る『他人』こそ、滑稽な者はいないと思っているからだ。他人の本当の性質など、実際のところはたとえ身内だろうと読み切れるものではないと彼は考えているのだ。
 しかし、彼の言葉は、フーケの中に固まっているティファニア像を崩すまでの力は持たなかった。
「ふざけたことばかり言ってるんじゃないよ! 私はあんたの数百倍以上の時間をあの子と共に過ごしてきたんだ! 少なくとも、あんたよりはあの子のことを分かってやってんだ!」
「どうだかねぇ」
 にたにたと懐疑的な視線を向けるハタヤマ。彼は物言わず様々な感情を含ませた瞳でフーケを見上げた。
 その真意が分からないフーケは、馬鹿にされたのかと憤る。
「なんだい……なんだいその眼は!?」
「いや別に」
 あざけるような嫌らしい眼。その表情はハタヤマの癖である。自分が相手の欠点に気づき、そして相手自身がそれに気づいていない時、彼は抑えきれず相手をあざけってしまう。幼少時代からのねじ曲がった性根が、無意識にそうさせてしまうのだ。
 そしてそれはもちろん褒められたものではなく、フーケの苛立ちという名の炎に油をぶち撒ける結果となった。
「そんな眼で私を見るなぁっ!!」
 フーケはゴーレムに大地を抉らせ、ハタヤマへ思い切り投げつけた。ある種土砂崩れと化した土の奔流は、砂粒や石ころ、花の根っこを引きちぎりながらハタヤマを呑み込もうと迫る。
 だが、『初動』があるなら脅威ではない。
「――!?」
 フーケは驚いて思わず足を踏み外しかけた。なんとハタヤマが横っ飛びでこの攻撃を避けたのだ。
 避けられただけでも驚愕だが、その避け方がまた信じられない。あの『ガンダールヴ』を彷彿とさせる機敏な動きで五メートル以上の距離を滞空し、ぐるぐると側転しながら華麗に着地したのである。おおよそ人間にはありえない跳躍力と瞬発力だ。
 ハタヤマは側転の終わりと同時に流れるように姿勢を立て直すと、ぱんぱんとコートの埃を払った。緊急回避から復帰までを一連の動作として習得しているようだ。
「短気は損気って聞くけどね」
「どこまでも減らず口を……」
「まあ聞きなよ。『ここ』のエルフが何年生きるか知らないけど、多分人間よりは長生きするんでしょ? でも、キミは人間だ」
 回りくどくもったいつけ、ここで言葉を切るハタヤマ。フーケは彼の言葉の内容に興味をそそられ、煮えたぎった腹が少し冷えた。
「なにが言いたいんだい?」
「人間の寿命は短い。キミの全盛期だって長くないだろう。よくてあと五十年もすれば隠居さ。でも、ティファニアちゃんはそうじゃない。キミが戦えなくなった後も、彼女の人生は続いていくんだ」
 ハタヤマはふっと感情の仮面を取り外し、フーケへ深淵のように静かな視線を送った。
「キミは彼女より先に死ぬ。その時、彼女はどうなると思う?」
 フーケは言葉を失った。ハタヤマの遠すぎる未来への不安提示に呆れたからではない。彼女が純粋にそこまで考えたことがなかったからである。
 たしかにハタヤマの問いかけには一理ある。身体が動くうちは彼女がティファニアを守り続けることができるだろう。しかし、それも途中まで。ティファニアの一生を保証しきるにはいたらない。
 年を取り、自分が衰えてしまった時。あの優しくて可愛らしい妹はどうなってしまうのか。フーケは妹の末路を想像するに難くなかった。
「生きとし生けるもの、最後に頼れるのは自分だけだ。生まれた時から格差はある。それはもうどうしようもないことさ。でも、それをどうにかしようってんなら、結局はそれをはね除けるくらいに強力な力を得るしかないんだよ」
 チャック族に生まれ(エルフに生まれ)、社会からはつまはじき(社会は受け入れてくれない)。そんな世界で自分らしく生きるには(そんな世界で自身の権利を主張するには)、社会の鎖を引きちぎるほどの研鑽を積むしかなかった(社会の刃をはね除けるほどの力を手に入れるしかない)。
 それが五年間悩み続けたハタヤマの得た、ある一つの真理であった。
 目には目を、歯には歯を、強大な力にはさらに強大な力をもって、その追及を退ける。それがハタヤマの見つけた答えだった。
 フーケはハタヤマの病的なまでの純粋な瞳にたじろいだ。
「キミが生きているうちはまだいい。でも、キミがいなくなったときのために、キミはあの子へ残してあげなければいけないよ。不条理に抗い、道を切り開く力をね」
 ハタヤマの内に根付いた『自力本願』という価値観は、もはや信仰に近いものがある。結局最後は独りなのだから自分の身は自分で守るべきであり、他人に期待や依存などすべきでないのだ。
 庇護や助力は得られるならば得てもいい。だが、それは永遠ではないし、常に受けられるとも限らない。ならばそれに備えるべきだ。ただ独り取り残された時、自分の力で立ちあがれるように。
「……?」
 『ボク良いこと言ったなぁ』と心の中で陶酔していたハタヤマはふと首をかしげた。金言を送ったはずなのに、送られた相手の反応がない。本当ならここで「私が間違ってました」、とフーケは感動にむぜび泣いてもいいはずなのに。
 しかし、反応はそのすぐ後に返ってきた。とんでもない脅威と一緒に。
「――おぁああっ!!?」
 内に向けていた注意を外へ戻すと同時に、やばすぎる気配が首筋を打った。もうそれは気配というレベルじゃなく、予感だけで死にそうな不安感を抱かせてくる警鐘だ。
 まばたき一つで意識をリセットする。そこに飛び込んできたのは、ギリギリと腰をねじって引き絞った、ゴーレムの姿だった。
 ――回し蹴りだあぁああッッッ!!!?
 瞬時に理解して心で絶叫するハタヤマ。目ン玉が飛び出て魂が消えるほどびびりまくる。
 しかし、正気に戻るのがやや遅すぎた。もうゴーレムの左足は弾かれた弓のようにしなりから解き放たれ、スローモーションで彼へ迫ってきている。いや違う。死の危険を悟った彼の世界認識能力が、感覚をマヒさせているのだ。『走馬燈』というやつである。
 身の毛もよだつような危機感に突き動かされ、ハタヤマは無意識に対応策を立案する。

 軌道は? ――地面すれすれ
  しゃがむ? 無理、避けきれない――
   受ける?  アホか――死ぬわ

    じゃあどうする?

                ――それなら――

 身体が自然に動いていた。
「ひゃわ――ッ!!!?」
「なんだって……!?」
 時間にして一秒もない。しかしフーケは己が眼を疑った。迫り来る死へのハタヤマの対処は、度肝を抜かれるものだった。
 まずハタヤマはその場から逃げず『前方へ』駆け出した。それだけ見れば死にたがりの発狂者である。しかしそこからがすごかった。
 瞬間的にコートにびっしりと翠色の線が浮かび上がったと思ったら、ハタヤマが地を蹴って宙を浮き、岩石の巨足と衝突する瞬間。なんと彼はゴーレムの足に手を突き、身体を跳ね上げてやり過ごしたのだ。まるで倒立のように身体を立てつつダンゴ虫の如く全身を丸め、足がかすらないように逃れるという完璧な回避っぷり。
 フーケは見間違いかともう一度目をこすった。だが、それでもハタヤマは健在だった。
「こ、殺す気か――ッ!! んなことした死んじゃうだろうが――ッッッ!!!! バカ――ッッ!!」
 手をついた勢いのままに空中で丸まり高速回転し、なんとか四つんばいでしゅざっと地面に着地するハタヤマ。そして生の実感にひとしきり打ち震えると、続いて心の底から憤った。女性に優しいフェミニストとはいえ、この仕打ちはさすがに腹に据えかねたようだ。ハタヤマでなかったら間違いなく挽肉を通り越して謎の物体Aになっていただろう。
 しかしハタヤマの抗議など何処吹く風。フーケは悪びれず妖艶に笑う。
「……おしゃべりは終わりだよ。言っただろう? 『死んでもらう』って」
「だから理由を説明しろよ――」
 そこまで口から溢れ出して、その続きは呑み込んだ。何故なら。
 彼へ向けられる時、一度たりとも下がることのなかった彼女のつり目。その目尻が、しゅんとたれていたからだ。

  ああもうめんどくさい女だな――

 ハタヤマは心中でそう呟き、苦い顔をして乱暴にがりがり頭を掻きむしった。
「分かった、分かりました! どうでもいいからかかってきなよ!」
「――……」
 やけくそのように叫ぶハタヤマ。それにフーケはわずかに目を丸くした。
「どうせボクが信用できるのかどうかまだ迷ってるんだろうっ!? なら気が済むまで試せばいいじゃないか!!」
 ハタヤマは頭ごなしに『自分を信用しろ』とは言わない。そんなことを直でほざくようなやつこそ世界で一番信用できないと、彼は分かっているからだ。
 ハタヤマはシュラリと腰のスズキを抜き放ち、戦闘態勢に入った。
「ボクが負けたら殺そうがどうしようが好きにすればいい。でも、もしボクが勝ったら、キミの話を聞かせてくれ」
 これは約束だ、とハタヤマは付け加えた。こういう場合は魔法で語り合う方が早い。話し合いはその後である。
 フーケはハタヤマに完全なまでに意図を察せられ、途惑うように視線が泳いだ。
「安心しろ! ボクは嘘は吐くけど約束は破らない! これは絶対だ!」
 だから遠慮なく飛び込んでこい! とハタヤマの闘気が語っていた。普段は怠惰な男なのに、こういう時だけ漢らしい。
 これも全てはフーケとティファニアのため。『見目麗しい女の子』たちの笑顔を守るためなのだ。
 フーケは不自然なまでに波打つ心臓を抑え、震える唇で言葉を紡いだ。
「あんた、なんで」
「『殺す寸前まで敵意を向けて、怒らなかったら信用できる』」
「――っ」
 フーケは呆然とハタヤマを見下ろした。
「そこまで突き詰めてみないと、不安が拭いきれないんでしょ? いいよ。ボクの本性がどんなやつなのか、その眼で見極めてみなよ」
 ハタヤマはシニカルに、しかし暖かく微笑んだ。フーケはしばし立ちつくして黙り込んだが、ややあって無言で杖を上げる。
 それ以上言葉はいらなかった。
「ちょっと痛いけど、怪我しても泣かないでね」
 不敵な笑みが戻ったハタヤマ。ゴーレムの肩に佇むフーケもようやく心を決めたようだ。
 そして、火蓋は切って落とされた。
「“土塊よ”っ!!」
 彼女の号令のような呪文とともに、大地が一斉に『起き上がった』。全長一メートルほどの土人形が地面からむくむくと現われてハタヤマへと襲い掛かる。その数はこの狭い広場を埋め尽くさんばかりにうじゃうじゃいて、まさに土の軍勢である。
 ギーシュ・ド・グラモンの“ヴァルキューレ”と同じ原理だが、彼よりも数も錬度もはるかに高い水準にある。ギーシュのようにシルエットにこだわった処理は施していないけれど、それは戦闘に無用な要素なので省いても問題ない。彼女らしい実戦重視のゴーレム兵。土のトライアングルは伊達ではない。
 先手をとられたハタヤマだが、彼の不敵は崩れない。
「大人気ないけど速効で決めるよ!」
 ハタヤマは両足をバネのようにして地面を蹴りだし、襲いくるミニゴーレムたちの突進をかわす。そしてそのまま彼らの頭を踏み台にして、因幡の白兎のようにひらりひらりとフーケへ迫った。地面から起き上がったゴーレムの頭には花が咲いている者もいるので、極力それらは避けながら進んでいく。
 身体強化と魔獣の運動神経、そして風石のコート(シルフ・コート)のポテンシャルをフルに発揮した戦法だ。いや、今回はそれだけではない。よく見ると彼の靴――かかととつま先の部分が淡く翠色の輝きを放っている。じつはこの新装備は、なんと彼が企画、設計を行った風石のブーツ(シルフ・ブーツ)なのである。
 この靴はもっとも力を爆発させやすい親指のつけねとかかとの部分に増幅装置として風石を嵌め込んで、瞬発力を高める狙いを満たすように創られている。速度を持続させる効果は薄いが、初速を瞬時にトップスピードにまで引き上げる点で爆発力に優れており、さらに副産物としてジャンプ力の大幅強化という恩恵まで得られるのが魅力だ。
 これにより元々の人外の身体能力に持続力(シルフ・コート)と瞬発力(シルフ・ブーツ)が備わり、今のハタヤマは鬼に金棒で狂人に刃物状態であった。
「もらったーっ!」
 巨大ゴーレムの手前でつまさきの風石に魔力を注ぎ、ロケットのように空へ跳ねるハタヤマ。それはまるで背中に羽が生えているかのように柔らかく、そして力強い。あまりにも強すぎる踏みつけの力に、運の悪いミニゴーレムの一つは顔面を盛大に踏み砕かれ崩れ落ちた。
 五階建てのビルほどもある距離を一飛びでまたぎ、フーケの姿がみるみる迫る。あと少し、もう少しで手が届く距離――
「気安く近寄るんじゃないよッ!」
「ぐべあっ!!」
 しかしハタヤマの差し伸べた手は、冷たい岩の壁に阻まれる。フーケが巨大ゴーレムの肩に両手をついたかと思ったら、突如長方形の壁がせり上がってきたのだ。
 さすがに重力には逆らえず、発生した壁に全速力で激突するハタヤマ。ぶちあたった瞬間にトマトが破裂するような音が鈍く響き、薄かった壁にはびきびきとヒビが刻まれた。
「“尖れ”!」
「ぎゃぶんっ!?」
 間髪いれずフーケの追撃。張り出した壁の後ろに手をつき、反対側にへばりついているハタヤマへ向けて凸型の隆起を発生させた。
 強烈な勢いを付加されたそれはまたもハタヤマの腹部を穿ち、ゴミ屑のように跳ね飛ばす。
 跳ね飛ばされたハタヤマは枯葉のように吹っ飛ばされ、ぐしゃりと頭から地面に激突した。
「い、一度ならず二度までも……」
「ふん、せっかく温情をかけてやってるってのに。むしろそれを感謝して欲しいねえ」
 狙おうと思えば二回とも股間にクリーンヒットでもよかったのだ。それをあえてしないフーケは、かなり優しい部類である。慈愛に満ち溢れているといってもいいだろう。
 ハタヤマは喉元まで迫るすっぱい液体を飲み下し、じんじんと痛む腹を押さえながら立ち上がった。
「チビ人形ども! 取り押さえな!」
 いまだ足元がおぼつかないハタヤマへ向け、今度はフーケがラッシュをかける。二十数体のチビゴーレムを使役し、ハタヤマへ突撃命令を発した。
 チビゴーレムは声こそ上げないが、重い重い岩窟音を響かせながらハタヤマへ殺到し、主の敵を捕まえんと指の無い手を伸ばす。
 しかし伸ばしたその手の先には、もうハタヤマの姿は無い。彼は既に痛みをねじ伏せ、フーケへのアタックを再開していたからだ。
「いくらダメージが蓄積しようが、さすがに岩っころにはやられないよ!」
 チビゴーレムの道を駆けながらハタヤマは威勢良く吼える。
 二度同じ手は喰らわない。次に肩へ乗れば勝ちだ!
「――ふふ。ならこれはどうだい?」
 フーケはにたりと薄く微笑み、指先でついと杖を振った。
「う、おぉぉ!!?」
 急に足元の感覚がおかしくなり、がくりと体勢を崩すハタヤマ。何事かと足を確認すると、なんと右足がチビゴーレムの頭に埋もれていた。
 どうにか足を引き抜こうとするが、チビゴーレムの身体が泥沼のように絡み付いてきて抜けない。
「な、なんだこれ!?」
「あはははははっ! ドットスペル“粘土”だよ! それ、おまけだ!」
 フーケの嘲笑と同時に左足の感覚もなくなる。ハタヤマは泥に両足がずっぽりと飲み込まれてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。なにせ逃れようとあがけばあがくほど、足がずぶずぶとはまっていってしまうのだ。これはさすがにどうにもならない。
「――“固まりたまえ”」
 びしり、と泥が硬質化した。沼のようなぬかるみの泉は堅い岩石の肌へと還り、ハタヤマの足をくわえこんで離さない。
「あら? あららら? あ、足が抜けない」
「チェックメイトさ――やっちまいな!!」
 無駄に両手を振り回してあがくハタヤマへ、フーケは非情な宣告を告げた。彼女の僕である土塊の兵士たちは彼女の願いを叶えるため、三度目の特攻を開始する。
「ちょ、くっそ、くんな、くんなよぉっ!!」
 ハタヤマはへばりついてくるミニゴーレムへ必死に抗うが、徐々に両手、腰や首へ取り付かれ、抵抗の力を弱めていく。『速さ』を奪われたハタヤマは、陸に上げられた魚と同じだった。
 たとえ身体強化があるとはいえ、彼自身にベタ足で打ち合えるような攻撃力は無い。あくまでも彼の強さというのは罠と不意打ちと技巧に支えられているのだ。
 だが、ここまでがっぷりと組み付かれてしまうと技術をこらす隙間すらない。なので力を発揮できず、ハタヤマはずるずると岩の山に埋もれていった
「――っ――! ――、――……」
「……あーあ、あっけないねぇ」
 全身をミニゴーレムに埋め尽くされ、わずかに突き出た片腕さえも力なくだらりと垂れ下がった。それにハタヤマの諦めを感じ取り、フーケはわずかにがっかりと肩を落とした。
 ――本来なら喜ぶべきことのはずなのに、彼女は逆に失望している。その自分の心に彼女は気がつかない。
 フーケはトドメを刺してやろうと、全ゴーレムの“硬化”を唱え始める。ハタヤマを岩の檻に閉じ込め、戦闘不能にするつもりなのだ。
 そのとき、片腕がぴくりと動いた。
「『魔力開放』ッッッ!!!!」
 迸る魔力を爆発させて、腑抜けた拳を握りなおし、ハタヤマは凄まじい気合を発露させた。気合はそのまま蒼色の暴風となり、三百六十度全方位の土塊どもを砕き飛ばす。その暴風は土塊だけでなく草木、花をも大きく揺らし、一陣の風が吹き抜けた後には色とりどりの花が吹雪いて舞い散った。
 『魔力開放』。できれば絶対に使いたくなかった奥の手中の奥の手である。体内の魔力の半分を強制噴射し、周囲にいる全ての生物、物質、マナや魔力障壁、その他全てを弾き飛ばす荒業である。これをやると魔力核(ビーン)の中身が本当に半分になってしまうので、大気中に魔力が無いこの世界では、一度発動させるだけでも窮地に陥る可能性が高い。なので、極限まで追い詰められたとしても使いたくない手段だった。
 だが、今は出し惜しみする時ではない。今この瞬間こそが、死力を振り絞るべき瞬間(とき)なのだ。
「――どけおらあぁぁああぁあああぁぁぁッッ!!!!」
 ごきごきとゴーレムが地面にぶち当たり砕け散る音を聞きながら、ハタヤマは全力で暴れまわった。魔力開放の範囲から逃れていた両足のミニゴーレムを“それ”ごと振り上げ、無意味だが魂が宿った絶叫とともに、めたくたに目に付く全てを蹴り飛ばしまくる。身に纏うコートは光の川が流れているかのように翠色の光流を湛え、両足に喰らいついたミニゴーレムのひび割れからも強烈な輝きがもれ出ている。しかしなによりも煌いているのは、彼のその両の瞳。獅子のような黄金の瞳が、覇王の如き猛々しさを鮮烈に称えていた。
 蹴り砕き、破片が舞い飛び、破砕音と遠吠えのような咆哮の入り混じる世界の中心で、ハタヤマは本能のままに猛り狂う。その音色は世界を崩壊へいざなうコンサートのように壮絶で、しかし、その中心で舞い踊るように戦い続けるハタヤマの姿は神々しくも美しかった。
 フーケはハタヤマの獣のような荒々しさにしばし絶句していたが、ややあって息を吹きだした。
「は、あ、あはははははっ! そうだよ、男ってのはそうでなくちゃっ!!」
 フーケは心の底から歓喜していた。あの糞生意気なガンダールヴとの戦いでは味わうことがなかった感覚。己の魔法をかいくぐり、かきわけ、確実に迫ってくる予感。それは昨日から徐々に、そして今急激に距離を縮められつつある気がする。現にあの人間ならざるような、魔獣の化身のような奮戦振りに、胸の高鳴りすら感じている!

  そう、そうやって私の全ての魔法を跳ね除け、打ち砕き、私を打ち負かして欲しい!
  そして私たちを、『私』を――

「ははははははッ!!!!」
 フーケは狂ったように笑い狂っている。そして巨大ゴーレムを走らせ、駆ける勢いをそのままにハタヤマめがけて腕を振り下ろした。岩石の巨腕がハタヤマに迫る。
 だがハタヤマは慌てない。あらかたミニゴーレムを蹴散らしていたのですぐさま両足の“残骸”を払い、くるりと踊るようなバックステップでその巨腕を寸分たがわずぎりぎりで避けた。そして刺さるように飛び散る地面の破片を無視し、弾丸のような速度でゴーレムの腕を駆け上っていく。
 ハタヤマのスタイルは『術者一点狙い』。たとえどんな魔法を使われようと術者を倒せばそれでお仕舞いだから、という彼らしい効率主義な思想である。だからこそ彼はそれに従い、果敢にフーケへダイレクトアタックを敢行しているのだ。
 フーケは駆けて来るその姿を喜色に濡れた瞳に映し、さらなる魔法を行使する。
「“尖り貫け”!!」
 フーケが両手を巨大ゴーレムの肩口につけ、イメージとともに呪文を紡ぐ。その光景を意識の中に捉えた瞬間、ハタヤマは予感よりも早く弾かれたようにバク宙して、無意識に空へ身体を逃がしていた。
 ――ズガガガガガガッ! と腕は一瞬で“針のむしろ”と化し、全てを貫く土の槍に覆われる。あのまま駆け上り続けていたら、串刺しにされて命を落としていただろう。
 フーケは巨大ゴーレムの腕を振り上げさせようと念じた。避けられこそすれ、未だハタヤマは宙でくるくると身を丸め滞空している状態だ。あの体勢では、この一撃は避けられまい。
 だが、ハタヤマはその予想すら凌駕する。
「“ラナ・デル・ウィンデ”!」
 そうハタヤマが叫んだ瞬間、彼の身体が『鋭角』に跳ね飛んだ。彼は真横に吹き飛び巨大ゴーレムの棘だらけの腕を逃れると、そのまま猫のように身体をひねって地面へ着地した。
 何故だ? なにが起こった? フーケは直前のコンマ一秒間に起こった出来事を思い返し、そしてなんとなく察した。
「ふふふ、器用な男だねぇ」
「引き出しの多さが自慢でね」
 フーケは艶っぽく、ハタヤマは不敵さに胸を張って笑う。
 ハタヤマの珍妙な回避法のタネはスズキだ。ハタヤマは身を丸めつつ腕を横に伸ばし、手中でスズキを逆手に持ち替え、“自分に向けて”魔法を発動させたのである。
 フーケとハタヤマ。彼らの微笑みあってお互いを見つめる瞳は、もう憎しみやら怒りやら憎悪やらというしがらみから抜け出し、別の次元に至っていた。
 月光はシャンデリア、星たちは観客、荒れ果てた大地は舞踏会場(ダンスホール)。彼らはお互いを認め合い、心の底から楽しみながら殺しあっていた。
 フーケは唇をきゅっとつりあげ、巨大ゴーレムを指先で操る。堅く握り締めさせた手を高々と振り上げて、なんの遠慮もなくハンマーのように大地へ叩きつけた。
 鼓膜を破裂させるほどの轟音と、遅れて発生するマグニチュード四以上の地震。ハタヤマはその縦揺れに身体を跳ねられ、尻餅をついて姿勢を崩した。
 そこへフーケはすくった土を蒔く様に投げつけ、意味ある言霊をぽつりと呟く。
「“鋭く尖れ”」
 土はフーケの言葉に忠誠を示し、細く鋭い針へと姿を変え、数百ものそれがハタヤマへ殺到する。ハタヤマはそれににやりと口元をゆがめると、立ち上がりざまにコートの端を引っつかんで放り上げ、簡易のシールドを展開して身を守った。そして脅威から軸を逸らすと、踊るようにくるりと回りつつ振り向きざまに手からなにかを放つ。
 フーケは巨大ゴーレムの顔を粘土状に変化させ、握り締め、おもむろににゅいんと引き伸ばし、そしてそれが終わると“硬化”させた。間をおかず伸ばした部分になにかがカキンとぶつかる。その正体は月明かりの照り返しで分かった。投げナイフである。
 フーケはハタヤマのその鮮やかな一連の対処に、ぞくぞくと背筋に甘い痺れを感じた。

  この男はなにをぶつけても確実に受け止めてくれる。
  それどころか鋭い牙を剥いて、それ以上のなにかを返してくる。

 ――嬉しい。
 フーケは己の思いの全てをぶつけても壊れないハタヤマに、ある種愛おしさすら感じ始めていた。心のままに激情を振るうなど今日この時が始めての彼女は、感情を爆発させることのキモチよさというやつを、生まれて初めて味わっているのかもしれない。どうしようもなく楽しい。愉快な気持ちがとまらないのだ。
 しかし、舞踏会はそろそろお開きである。
「これ以上やっても埒が明かないよ。夜も遅いし、そろそろ決着をつけようか」
「あら……そうかい? つれないねぇ」
 切なげに身をくねらせ、妖艶にため息を吐いた。元々器量がよい容姿に、頬にはすっと朱を帯びている。陶酔するようにとろんとたれた目尻に濡れたような瞳はハタヤマを見つめていて。ハタヤマはごくりと生唾を飲み込んだ。
 ややあってはっと気を取り直し、ぷるぷると顔を振るハタヤマ。ハタヤマの初心な反応に、フーケはくすりと微笑んだ。
「せっかくの機会だしお互い全力でいこう。スカッとやってスカッと終わろうね」
 そう言ってスズキを胸の前で握りしめ、精神集中を始めるハタヤマ。聞きようによってはさわやかなんだか卑猥なんだか分からない言い方である。
 フーケはこの楽しい刻をいつまでも続けていたい、という一抹の寂しさを感じていたりもしたのだが、素直にハタヤマに従った。
(不思議なもんだね)
 フーケは心の中でふと思う。
 今朝まではあれほどまでに危険だ、危険だと感じていたのに。今となっては、この目の前の男はいいやつなんじゃないかと思えてきていた。
 なんとなく分かる。目の前で剣を捧げ持ち、刀身に輝きを集めている男は、『信じろ』と言葉にして表さないけれど。言動が、立ち振る舞いが、全身で『信じて欲しい』と懇願しているように感じる。私に信じてもらうためだけに、ここまで危険を冒してこんな茶番に付き合ってくれているのだ。
 そして、私はそんなあいつの心に甘えている。差し出された手をはね除けようと思えば、簡単にはね除けられたはずなのに。
 あいつは命を削り、心を削って、『信用』を勝ち取ろうとしているのだ。
 だからこそ。
(今の私の全身全霊を籠める)
 フーケは朗々と呪文を謳う。
「“石よ、岩よ、鉄よ、銀よ、全てを統べる元素の王よ。我が土塊の右腕に、汝が力を宿したまえ”」
 両手を掲げなおも謳い続けるフーケ。するとフーケのゴーレムの右腕がみるみる透き通り始め、やがて透明の色に染まる。その透明な腕に月光が射し込み、美しい輝きを放ちだした。
 フーケは杖でその部分をつつき、満足げに頷く。
 彼女が誇る全力全開――錬金宝石“ダイアモンド”である。
 錬金はどんな鉱石、宝石でも作り出せると思われがちだが、実際のところそうでもない。作れることは作れるが、純度が低い粗悪品ができやすいのだ。
 しかし、それに比べれば彼女が行った錬金は、そこら辺の素人メイジと一線を画す出来映えだ。純度も硬度も彩度も明度も全て本物に限りなく近づけ、一級鑑定士でも簡単には見破れない完成度を誇っているのだ。
 それをゴーレムの腕に施し武器にするという、なんとも贅沢な必殺技である。
 フーケは準備が出来上がったので、眼下のハタヤマへ視線を送った。
「や、宿主よ。言っちゃあ悪いが、俺にはデルフリンガーほどの切れ味はないぞ?」
「大丈夫大丈夫、ボクに任せなさい」
 ハタヤマは己の内側に残っている魔力をかき集め、スズキの刀身に集中させる。すると刀身が徐々に蒼い輝きを放ち始めた。
 しかし。
「宿主。多少の強化じゃあれには勝てん。素直に魔法で行ったらどうだ」
 スズキは魔法用の儀礼剣であって、実際の斬り合いを想定して作られているわけではない。なのでどれだけ強化しても、一定水準以上の切れ味に到達することはありえないのだ。
 彼はそれを自分でも分かっているので、不安そうにハタヤマへ進言する。このままでは一合の負荷に耐えきれず、ぽっきり折られてしまうかもしれない。
 だが、ハタヤマは不敵にほくそ笑んだ。
「たしかに『普通』の強化じゃ勝てないよ。だから“裏技”を使うのさ」
 いっぺんやってみたかったんだよねー、と軽い口調で不安になるようなことを言いつつ、ハタヤマは精神集中を解いた。刀身に魔力を集められたスズキは焼け付くような蒼い光を帯びている。さらに柄に嵌められた四色の魔石と柄尻に嵌めこまれた大理石のような漆黒の魔石が、刀身の脈動に呼応するかのようにどくどくと明滅していた。
 だが、これだけではまだ不十分だ。
「宿主よ、その裏技とやらはいったいなんなんだ?」
「ん~? こうするんだよ」
 ハタヤマはデコピンの要領で、ピンとスズキの刀身を弾いた。
「お。お、お、おお、おおオおオおオオっ!?」
 刀身が凛と振動したかと思うとその振れ幅が徐々に増幅され、より多く、より小刻みに震わせられていく。同時に耳をつんざくようなきぃんとした音波が高鳴り、それに呼応し振動もより強くなっていく。
 やがて振動はそのままに、耳を貫く怪音だけは収まった。
「ほう、さすが魔法剣! なんとか耐え抜いたみたいだね!」
「な、なんだこりゃ宿主よ? なんだかとっても気持ちいいぜぇ~」
「いや、ずっと試してみたかったんだけどさ。前これと同じ事を普通の剣でやってみたんだよ。でもその時は刀身の強度が振動に耐えきれなくて、粉々に砕け散っちゃってさー」
「お、おま、そんな危ないことを俺にしたのか!?」
「だいじょぶだいじょぶ、前は魔法剣じゃなかったから」
 そういう問題ではないのだが、ハタヤマはまったく悪びれない。
「な、なんだか釈然としないが……これならいけそうな気がするぜ」
「そう、自信を持ってくれ。今のキミなら、どんなものでも切り裂けるはずだ」
 スズキを色々な角度から眺め、二、三度素振りして頷くハタヤマ。
 準備は整った。
「さあフーケちゃん。これが最後のストレス発散ポイントだよ。たぶんもう二度とこんなことしないから、悔いを残さないようにね」
「おや、もう遊んでくれないのかい?」
「こんな遊びしてたら、命がいくつあっても足りないよ」
 苦笑するハタヤマ。やはり彼は、元々あまり面倒くさいことはしたがらないのだ。
 フーケは残念そうに唇を尖らせた。
「コイントスが最後の合図。地面に落ちたら開始だよ」
 ハタヤマはそう言ってポケットから銅貨を取りだし、おもむろにぴんと高く弾いた。
「随分長いことやった気がするけど、少しは満足してもらえたかな?」
 銅貨が放物線の頂点に差し掛かる。
「なかなか楽しい一時だったよ。できればもう一度やりたいくらいだねぇ」
 銅貨が急速に落下していく。
「それは勘弁して欲しいね」
 銅貨が地面すれすれまで落ちる。
「そいつは残念だねぇ――」
 ――銅貨が、開始の合図を告げた。

「“金剛石の指”(ダイヤモンド・フィスト)――!!」
「いくぞ“超振動ブレード”――!!」



「やめて!!!!」



「「!?」」
 影が重なり合う瞬間、絹を裂くような悲鳴が響いた。
 しかしフーケは急には止められず、思い切り深々と地面を穿つ。ダイヤモンドの巨腕の周囲には濃い砂煙が広がった。
 森から現れたその声の主は。
「ティ、ティファニア」
 フーケは息を呑んだ。
 少し出かけると言い残してきたはずなのに、なぜこの子がここにいるのだろうか。
 フーケの顔は戸惑いに染まっている。
「二人が帰ってくるまで起きてようって思ってたら、急にドン! って音が聞こえた気がして、テーブルがかたかた揺れて……」
 どうやらフーケの攻撃が派手すぎて、家まで余波が届いていたらしい。それで異変を知ったティファニアがここまで来てしまったのだ。
 ティファニアはじわわ、と目に涙を溜めた。
「な、て、テファっ!?」
「どうして? どうして喧嘩してるの?せっかく初めてのお客さまなのに。初めてのお友だちなのに」
 ティファニアはぐしゅぐしゅと泣き崩れる。お姉ちゃんとお友だちが殺し合いをしていたのが、よほどショックだったらしい。
 バヒュンッとハタヤマが煙の中から駆け寄ってくる。
「てぃ、ティファニアちゃん泣かないで――!? 別に喧嘩してたわけじゃなくて、そう、ちょっとプロレスごっこしてただけだよ! 若干本気の!」
 ほら、フーケちゃんも早く謝って! と猛烈に手招きするハタヤマ。みっともないほど狼狽えて取り乱している。
 フーケは“フライ”を唱え、ハタヤマの隣に降り立った。
「そうだよティファニア。ちょっと二人だけでお話してただけで、別に喧嘩してたわけじゃないんだよ」
「ほんと……?」
「そうそうほんとほんと! ほら、ボクらこんな仲良し!」
「きやしゅくしゃわりゅんじゃないりょ……」
 ハタヤマが無理矢理フーケと肩を組み、組んだ手の人差し指をフーケの口に射し込んで無理から笑顔作らせた。不自然に口角が引っ張り上げられているフーケは、とても嫌そうにハタヤマを肘でぐりぐり突き放した。
 フーケの唇はとってもやわこくて、若干幸せなハタヤマだった。
「よかっ……た……」
「ティファニア!?」
 急にぱたりと倒れたティファニアに、フーケは慌てて駆け寄った。ハタヤマも彼女の後に続き、真剣な表情で呼吸を確認する。
「大丈夫。安心して眠っただけだ」
「あぁ、心配させないでおくれよ……」
 フーケは心底ほっとしたようにティファニアの身体を抱きしめた。ティファニアを抱く彼女の表情は聖母のように慈愛に満ち、とても優しい。
「やっぱつり目で睨んでるより、そっちの方が似合ってるね」
 ポツリと独り言を呟くハタヤマ。彼はそこから一歩引いて、微笑ましげに彼女らを眺めていた。

     ○

「じゃ、キミたちのことを話してくれるんだよね?」
 帰路。鬱蒼とした林道を歩きながら、ハタヤマは隣を歩くフーケに呼びかける。ティファニアは眠ってしまったので、ハタヤマがおんぶして帰っている。
「………………」
 だが、フーケは答えない。瞼を閉じ、何事か考え込んでいるようである。勝った負けたが有耶無耶になったので、もしかしたら話したくないのかもしれない。
 ハタヤマは不安に思いつつもそんなことおくびにも出さず、とりあえず気になっていたことを話題に上げた。
「ところであの墓は誰のお墓だったのかな? マメに手入れされてたみたいだけど」
 ハタヤマはあの並んだ十字架を思い返していた。花輪に花束が備えられており、そのどちらもまだ新しかった。どうやら誰かの縁の人が眠っているらしい、というのは分かったのだが。
「――あれは私たちの両親の墓だよ。死体はここにないけどねぇ」
「え? で、でも四つあったけど。てか死体ないって、え?」
「ティファニアと私は姉妹じゃない。血は繋がってないんだよ」
「え、ええ、えぇ?」
 淡々と衝撃の真実が列挙され、思考が追いつかないハタヤマ。えーっと、フーケちゃんとティファニアちゃんは姉妹じゃなくて、でもフーケちゃんはティファニアちゃんを守ってて、しかもあそこには両親の墓があって……従姉妹? 再婚した連れ子? でもそれだったら四つあるのおかしいし……どういう関係?
 フーケが立ち止まり、ゆっくりと瞳を開き、振り返った。
「私の名前は〈フーケ〉じゃない。本名は〈マチルダ・オブ・サウスゴータ〉――この国の貴族だったんだよ」
 そう静かに語ったマチルダ。
 ハタヤマの瞳を覗きこむ彼女の眼は穏やかな安らぎに充ちており、もう険しさを無くしていた。



[21043] 六章Side:H 三日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 03:42
【 六章Side:H 三日目 『雲の向こうに/再会』 】



 マチルダ・オブ・サウスゴータ。
 彼女の人生はある日、突然に大きな地割れに呑み込まれた。
 彼女の生家、サウスゴータが王家によって取りつぶされたからである。
 当時、彼女は成人にも満たなかった。
 着の身着のままに家を逃げるように後にし、幼いティファニアの手を握りしめて必死に走った。
 炎に呑まれゆく思い出を背に、追っ手の影に振り返りもせず。
 ただ、この手の中の温もりを守るためだけに。

 事の発端はモード大公の処刑だった。
 エルフの妻を娶ったが、それが発覚して王に投獄されたのだ。
 父は絵に描いたような忠臣で、逃げ延びたエルフの母子を匿い、モード大公への忠義を貫き死んだ。
 母もその運命を共にした。
 残された私に全てを託して。
 それについては、もうなにも思い返すことはない。
 ただ、馬鹿な両親だとは思う。
 忠義のために命を賭けたのだから。

 ただ。
 そんな自分にも、あの両親の血が脈々と受け継がれているんだろう。
 小さい頃、ほんのわずかな時間遊んだことのあるだけの、耳の長いあの子を。
 『姉さん』舌足らずな声で、後をついて回ってきたあの子を。
 見捨てることができなかったんだから。

     ○

「――ふうん」
 ハタヤマは胸に溜まった塊を吐き出すように、深く重いため息を吐いた。マチルダはテーブルの対面に座り、燭台を挟んで向かい合っている。
 殺意に彩られた舞踏会は終わり、彼らはログハウスへ戻ってきていた。
「糧を得るために盗賊行為、孤児たちは見てられなくて拾ってきた、か」
 ハタヤマは、目の前に置かれたワイングラスをじっと覗きこみながら呟く。グラスにはなみなみと濃い赤葡萄色の液体が注がれ、蝋燭の炎を照り返している。
 マチルダは長い語りを終え、葡萄酒をあおり唇を湿らせた。
「同情はいらないよ。私にはそれしかなかったんだ」
「しないよ。むしろよく頑張ったと褒めるね」
 ハタヤマはワイングラスをこつこつと指先でつつきながら、なんの含みもなく言った。本当に心の底からなんとも思っていないらしい。マチルダはそれがなんとなく癪に障り、胸中は複雑である。
 マチルダはぐっとワインを一息に飲み干し、たんっ! とグラスを叩きつけた。するとにゅっと対面から瓶が伸びてくる。
「……ありがとう」
 いつの間にコルクを抜いたのか、ハタヤマがお酌をしてくれた。ちゃんとラベルを上に向ける辺り、社会常識もそこそこのようだ。
 蓋の開いた瓶から溢れ出る紅玉色の液体が、とくとくとグラスに注がれていく。
「それで?」
「……?」
「一番肝心なとこが抜けてるでしょ」
 ハタヤマは瓶をことりと置くと、ピンと自分のグラスを弾いた。
「この数年間、どうして彼女は無事だったんだい?」
 波紋を刻む水面を見ず、ハタヤマはにっと笑みを浮かべた。仕事に出ている間はティファニア一人であり、マチルダの庇護を受けられない。村の人間に頼んだとしてもイレギュラーは避けられないはずだ。なのに、ティファニアは今日まで見つかることなく身を隠し続けている。おかしな話だ。
「まだ話していないことがあるんじゃないの? よければ聞かせてくれないかな」
 そうハタヤマが笑いかけると、マチルダは表情を曇らせた。わずかにグラスをつまむ指先に力が籠められている。彼女の顔は俯き、眼はわずかに虚空を彷徨っていた。
 ハタヤマは唇を尖らせて軽くため息を吐き、半眼でぽりぽりと頭を掻く。
「……よし」
 がたり、とハタヤマはおもむろに立ち上がると、てこてこと後ろ歩きでテーブルから距離をとった。マチルダはそんなハタヤマの行動を訝しみ、頬杖をつきながら眉をひそめる。
 彼女は大分酔っているのか、頬に熱っぽい朱が差していた。
「今からボクの重大な秘密を教えよう」
「はぁ?」
「そういえばそっちに話させてばかりだったからね。これじゃあ、ちょっとフェアじゃない」
 ハタヤマは体内に残った魔力の“絞りかす”をかき集め、眼を閉じ精神を集中する。すでに魔力核は先ほどの戦いで空っ欠だったが、数度の変身ならなんとかなりそうだ。
 マチルダはなにが始まるのかと、据わった眼で睨みつけるようにハタヤマを見ている。
「ある時は謎に満ちた格好いいにお兄さん――」
 ハタヤマは役者のようにばっと右手を伸ばし、左手を胸の前に握りしめる。マチルダはあきれ顔だ。
「またある時は威風堂々たる風を統べる風韻竜――」
 ぼうん! とハタヤマが煙に包まれたかと思うと、次の瞬間にはとてつもなくデカい風韻竜が唐突に出現。
 フーケは不条理な出来事に眼を見開き、がたりと盛大に頬杖を崩して立ち上がった。
「はたしてその実態は――」
 またも大量の煙。マチルダはもくもくと渦巻くそれを、食い入るように見つめている。
「――?」
 マチルダは片目を細め、首をかしげた。立ちこめる煙が晴れた中から、あのどデカい風韻竜が忽然と姿を消していたからである。あんなのがまばたきの間に消え失せるなんてありえない。いったいどこへ……
 ややあって対面の椅子ががたがた揺れ始めた。怪訝そうに注目するマチルダ。
 そこから、にょきっとオレンジ色が生えてきた。
「異世界から来たファンシー魔法生物、動物界・なんちゃって動物門・魔物綱・幻獣目・ぬいぐるみ科・チャック属の末裔。ハタヤマヨシノリくんなのさ」
 ハタヤマはテーブルによじ登ると、ぴょこりと気さくに右前足を掲げた。しかし、マチルダは目の前の出来事を脳が処理しきれず、なにがなにやら眼をぐるぐるさせている。なんだ、なんだこの生き物。あの風韻竜は、人間はどこへいった?
「だからあの竜も、あの人間も、どっちもボクなんだよ」
 目の前で起こった不可思議な事象、受け入れがたい現実に言葉もないマチルダ。
「ボクの一族は変身魔法……『メタモル魔法』の使い手なんだよ」
「い、異世界って、人をからかうのもいい加減に……!」
「キミはボクみたいな奇天烈な生き物を他に見たことあるのかい?」
「ぐ……」
 ハタヤマのもっともな質問に、言葉に詰まってしまうマチルダ。というか自分で自分を奇天烈とか形容する自体大概である。まあ、奇天烈なのだが。
 にわかには信じがたい、しかし信じる以外ない真実にくらくらするマチルダ。
「ボクは異邦人だから。どこの国家にも所属してないしキミたちを狙う理由もない。だから、そんなに身構えないでほしいんだ」
 ここに至っても『信じろ』と言わないハタヤマ。まるでそう願うことが罪であると思っているかの如き頑なさだ。
 しかし、この極端なほどに控えめな姿が、彼の誠意の表れであることをマチルダは知っていた。なのでワインを飲み干すことで、胸中に渦巻く様々な想いを胸の奥へと呑み込んだ。

     ○

 ハタヤマとマチルダは酒を酌み交わし、様々なことを語りあった。
 といってもほとんどは酔いの回ったマチルダが数年間ため続けた鬱憤を炸裂させてばかりだったのだが、ハタヤマはそれを適度に相づちをうちながらやんわりと受け止めた。元来自分のことをあまり話さないハタヤマ、そしてずっと誰かに聞いて欲しくて心が引きちぎれそうだったマチルダだったので、お互いに相手のスタンスは都合が良かった。パンク寸前の蓄音機のように自分の現状、世の中、そして王家への恨みを爆発させるマチルダ。
 その怨嗟に濡れた呪いの言葉は、ともすれば聞いているだけで胸が悪くなりそうなほどに壮絶で刺々しい。しかしハタヤマは一言も文句を言わず、はぁ、へぇ~、そうなのかい? と心を込めて合いの手を入れ続けた。彼女はこれまでたった一人でその鬱屈した感情を抑え込んできたということを、ハタヤマは知っていた。自分には篠原がいたし、別に守るべきものも特にはいなかった。それにたとえ仕事中にそういった存在を抱え込んだとしても、生来の厚顔無恥さで恨み辛みを嘆くことをはばからなかった。
 しかし、マチルダは違う。それが許されない立場で、そんな感情を押し殺そうとずっと肩肘張って生きてきた。そんな痛みが察せられるからこそ、ハタヤマは話を聞いてやるべきだと思ったのだ。
 吐き出して楽になれるなら、それに越したことはないのだから。
 久方振りの“対等な相手”に、マチルダは興が乗ったのかとても饒舌に想いを吐き出す。初めての盗賊稼業での不安と、そして思いのほかあっけなく盗みが成功した拍子抜けの感覚。初めてお宝と対面した瞬間の感動。興奮の余韻を味わいながら、酒場で“フーケ”の噂に聞き耳を立てることの優越感。いつしかそれが酒の肴になったこと。
 初めての失敗。危うく捕縛されかかるも、すんでのところで逃げ延びたこと。力不足の自覚。高い金を出して土の魔導書を裏筋から取り寄せ、死にものぐるいで読み込んだこと。隠れ家近くに洞穴を掘り、毎日毎日訓練を行ったこと。日々魔法が身に付いていくことへの喜び。思うように伸びない自分の能力への憤り。“人形繰り”に出会った瞬間の、魂の全てが解放されたかのような、全身を駆けめぐる言い表しようもない感動。一週間もしないうちに三十メイルものゴーレムを操れるようになったこと。そこまでの修練で、土系統におけるその他の魔法の腕も、いつの間にかトライアングルにまで昇りつめていたこと。
 盗賊稼業の安定。心に余裕ができると、ふと孤児が目に付くようになったこと。スラムで蠢くように生きる子どもたちに、心からの憐憫と憤りを感じたこと。それから孤児を拾うようになり、獲物を“腐敗した金持ち”に固定するようになったこと。
「いつか、王宮に盗みに這入るのが今の目標なのさ~」
「ほぉー、そりゃでっかい夢だね。頭が下がるや」
 マチルダの想いは尽きない。彼女にしては珍しいほどべろべろに酔っぱらいながら、もう数時間以上も話し続けている。ハタヤマはいい加減疲れてきつつもあったが、焦点の合わぬ視線を彷徨わせながらも心地よさそうに語るマチルダの姿を見ていると、止めるのはいささか忍びなかった。
 マチルダが酒に溺れた瞳でハタヤマを映す。話しづらいので、ハタヤマは人間の姿を纏っていた。
「ねぇ」
「へ?」
「あんた、なんか面白い話ないのかい?」
 さすがに語り飽きたのか、興味の矛先がハタヤマに向いた。いや、おそらくまだまだしゃべくりたりないのだろうが、酔っぱらいのくせに気をつかったのだろうか。
 意外なタイミングで水を向けられ、ハタヤマはきょとんと眼をしばたかせた。
「いや、ボクは特に……」
「よく考えたら私ばかり喋ってるじゃないか。 それは“ふぇあ”じゃないんじゃないかねぇ」
 悪戯を思いついた猫のように笑うマチルダ。深入りしたのはそっちの勝手だと思うのだが。
 しかし、ハタヤマはそんな大人げないことは口にしない。
「――そうだね」
 ハタヤマはいつも無言の獣性を称えている両の瞳を柔和に細め、柔らかく笑みを浮かべる。
 マチルダの心臓がどくり、と跳ねた。
「じゃあ、ちょっとご静聴願おうか」

     ○

「ボクは学院を卒業後、『とある事情』で姿をくらましたんだけど」
 間髪入れずに『学院』や『事情』について疑問を呈すマチルダ。そんな彼女をハタヤマはやんわりと宥めた。
「その辺はまた今度ね」
 ハタヤマは続ける。
 着の身着のまま町を出て、どんな道を辿ったのかももう覚えていない。長距離の電車に乗って、寝て起きた後に適当な駅で下車しただけである。
 そこでハタヤマは抜け殻のように、ただ毎日を浪費していた。
「一応“両親”に手切れ金がわりの十万円をもらってたからね。しばらく食うには困らなかった」
 本当の子どもができたということで、養子の自分は用済みとなったらしい。どうやら自分を引き取ったのも国から出る“絶滅危惧種扶養補助費”が目当てだったらしいので、怒りは覚えたが驚きはしなかった。
 寝床は月と星を壁紙にした、廃ビルのすみっこだった。隙間風はひどかったが、雨をしのげるのがありがたかった。そこで夜を明かし、夜が明ければあてどなく付近を徘徊するという浮浪者のような生活を送っていた。
 だが、一ヶ月程経ったある日。そろそろ金がつきようかという時、妙なやつが現れた。
「妙なやつ?」
「黒いローブをまかぶに被った、絵に描いたような怪しいやつさ」
 そいつは自分を案内人と言った。無気力ながら投げやりに用件を聞いてみると、ハタヤマに用があるらしい。付いてこい、ということだった。
 ハタヤマはどう見ても胡散臭いとしか思わなかったが、もう全てがどうでもよかったので、大人しく付いていった。
 “鏡”の道を通った先。そこには、地下深くに人目を忍ぶように作られた――巨大な地底都市(アンダーグラウンド)が広がっていた。
「それは、どんなところだったんだい?」
 息を呑むマチルダ。ハタヤマの背景も気になっているが、完全に物語に聴きいっている。
 ハタヤマは薄く笑みを浮かべた。
「慌てないで。今話すから。
 そうだな……街自体はボクが暮らしてたほかの街と大差ないよ。ビルが建ち並び、外灯もあるし車も走ってる。けど、唯一にして大きな違いは、そこが地下に作られた巨大なドームの中にあった、ってところなんだ」
 そこは日の光も、月の輝きも届かない街――『ノーライト』と呼ばれていた。
 マチルダは“びる”や“がいとう”、“くるま”の意味が分からなかったが、とりあえず城下町のようなものだろうと想像した。
「ボクはそこで、中央にある巨大な建物に連れて行かれた」
 その建物は魔女っ娘協会よりもやや小さいが、似たような作りをしていた。受け付けをすぎると奥の部屋へ通され、暫しの間待たされた。
 しばらくして部屋の扉が開く。現れたのは、背の高く、顔色の悪い紳士だった。
「そいつは二メートルもありそうなひょろ長い背丈でね。タキシードを着てたけど、なんか衣装棚に入ってるマネキンみたいな感じが強かった。眼が紅かったから、バンパイアかなんかだったかもね」
 男のことには興味ないから、別に調べなかったけど。とハタヤマは失笑した。
 そこで彼は自分が呼ばれた理由を説明された。どうやらヘッドハンティングだったらしい。どこからか彼の噂を聞きつけ、仲間に引き入れたかったようだ。
「……? あんた、有名人だったのかい?」
「有名っちゃあ有名かな。その時ボクは、全国指名手配されてたんだよ」
「し、しめっ……!?」
 愕然と息を呑むマチルダ。ハタヤマはこともなげに言い放ったが、かなりの衝撃的事実だった。
 ハタヤマを誘った組織は、DarknessVelvet(闇色の天鵞絨〔てんがじゅう〕)と名乗った。ビロウドの裏側に追いやられた者たちを集め、その権利を守るために発足されたらしい。
 だが、ハタヤマは目の前の老紳士が語る耳障りのいいおためごかしなど、欠片も耳に入っていなかった。
「仕事をくれて金払いがいい。ボクはそれだけでよかったんだよ」
 路銀も底をつき始めていたので、彼にはとても都合が良かった。
 登録を済ませれば、晴れてこの街の住人となる。住民票を受け取れば、家を持つことも店を開くことも自由だ。ハタヤマはその暗い天鵞絨の街で、なんでも屋を開業した。
 電話線を引くと、熱されたポップコーンがはじけるよりも早く黒電話が鳴る。何処で聞きつけたのか知らないが、耳ざといやつもいるもんだ。
「ボクはのめり込むように仕事をした。よく知らないけど、ボクの風評は“Sクラスエージェント”だったからね。引く手あまたで、休む暇もなかったよ」
 魔王討伐の実績は伊達じゃなかったようだ。
 ハタヤマは請われるままに、非合法すれすれだろうがなんでもやった。秘境に生息する御禁制の種子の採取、希少種密売組織の壊滅、危険魔法生物討伐魔女っ娘部隊の撃退、数え上げればきりがない。ただ、殺しや誘拐はしなかった。
 基本的には単独で、必要なら同業者と協力することもあった。
「他にもそんなメイジがいたのかい?」
「ああ。死体を愛するあまり死霊術士〔ネクロマンサー〕となり、それだけでも飽きたらず自分の身体に死肉を“接ぎ木”する死肉改造士〔ネクロシュタイナー〕。夢に潜る魔法を得たが、深く潜りすぎて戻ってこられなくなった夢潜水士〔ドリームダイバー〕。本が好きすぎてあらゆる書物を脳内に記憶することができたけど、代わりに本の“文節”から引用することでしか話すことができなくなった言霊士。本当に、色んなやつがいた」
 ハタヤマはくすりと思い出して吹き出す。言霊士は地面にまで届く長い黒髪の小さな少女だったのだが、色々あって事務所に居着いてしまったのでちょっと色々困ったりしたものだ。あれでハタヤマより年上らしいから、見た目では分からないものである。
 閑話休題。
 ハタヤマはそこで戦いの日々に浸かり、叩き上げられていった。依頼先で出会うあらゆる魔法生物、魔女っ娘たちとの激戦が、彼の心鉄をより強く、固く鍛え上げていったのだ。
 魔法生物は話せば分かるやつもいたが、話が通じないやつもいた。憤怒と怨嗟に染まった者は、被害を拡大させないためにも命を刈り取らなければならなかった。
 力や技は磨かれていったが、ハタヤマは少しずつ錆びていった。何事にも感動せず、心が震えなくなっていったのだ。
「あの頃のことはもうほとんど覚えてないよ。ただ、一年間鏡を見なかった、ってことだけは覚えてるけどね」
 ハタヤマは研磨されるにつれ、澱み、ヒビだらけになっていった。鞘なき抜き身の刃では、傷つき続けることしかできなかったのだ。
 だが、ある日転機が訪れる。
「師匠がね。事務所に現れたんだよ」
 半年だけの師匠、篠原。彼は一年間手を尽くしてハタヤマの行方を追い、ついにこの天鵞絨の街を突き止めたのだ。
 なぜ急に姿を消した。なぜ相談しなかった。そう怒鳴りつけてやろうと心に決めて。
 しかし、そこにいたハタヤマの姿を――ちょうど人間の姿でコーヒーを煎れようとしていた――彼の瞳を見て、凍り付いたように立ち止まった。
 そして。
「篠原さん、泣いたんだよ。ボクを見た瞬間、声もなく、静かに」
 よほどひどい顔をしていたのだろうか。今でもハタヤマは分からない。
 だが、篠原が――利己的で、飄々としていたはずの老ペンギンが――、自分のために涙を流してくれていることだけは分かった。
 懐かしさに目尻を落とすハタヤマ。マチルダは呼吸をすることも忘れたように、ハタヤマを見つめている。
「それからボクは甦った。無気力に生きることを止めて、仕事を選ぶようになった。修行も再開した」
 ハタヤマは自分を、そして毎日を粗末にしなくなった。自分のために泣いてくれた篠原。血の繋がりもないのに、同族だからという理由で面倒を見てくれる篠原のために、情けない生き方はしたくなかった。
 彼は、心に拠り所を得たのだ。
「歴史は人間に支配されていて、魔法生物は年々数を減らしている。魔法も徐々に忘れ去られ、魔女っ娘の数も随分減った」
 魔法生物の出生率はがくんと落ち、絶滅を待つ種族も多い。自分もそんな中の一匹だ。
 だが、そんなことはどうでもいい。
「たとえ何が起ころうとも、決して変わらない唯一の真実。それは――ボクが『チャック族』であること」
 一族の歴史の最後に席を置き、終末を担う唯一の生き残り。篠原は彼に願いを託し、こんなどうしようもない自分の身を案じてくれた。
 だから。
「ボクは最後のチャック族として、恥じないように生きたいんだ」
 それは篠原への義理立てか、白き魔女に仕えたとされる聖獣としてのちっぽけな使命感なのかは分からない。ただ、どこまでも心配してくれる篠原のためにも、折れては、曲がってはいけない気がする。立派に生きようと想う心が、自分らしくありたいという願いが、ぐいぐいとこの背中を押すのだ。
 砕けず、腐らず、真っ直ぐに。胸を張って生き抜くこと。それが、恩返しになる気がするのだ。
 ハタヤマはそう言って言葉を切った。
「――あんたは、なぜ姿をくらましたんだい? そんな性根を持ったやつが、なぜ」
「まあ、色々あったんだけど。大切な人たちと保身を天秤にかけて、ってとこかな」
 苦い顔で無理矢理苦笑を浮かべ、ぽりぽりと首元を掻くハタヤマ。
「でも、つい最近知り合いに怒られてね。逃げる前に、その人たちと相談してみればよかった」
 そうすれば、別の未来もありえたかもしれない。
 しかし。
「それでも、そのことを考えると今でも恐い。もし拒絶されたら……」
 億の億という確立でも、そんなことはありえないと分かっている。でも、その万が一を考えると、足が竦んで動けないのだ。
「それは、あんたが考える事じゃないよ」
「え?」
 浮き出るように響いたマチルダの呟き。その声にハタヤマは俯いた顔を上げた。
「あんたはそいつらが助けてくれる、受け入れてくれると信じているんだろう? なら、迷う必要なんてないじゃないか」
「で、でも」
「人には鬱陶しいくらい絡むのに、自分のことになると臆病なやつだねぇ。相手がどう思うかなんて、相手に考えさせればいいじゃないか」
 マチルダは赤く染まった頬で、きゅっとワインを飲み干した。
「自己中のくせに変に他人を思いやるから、そんなくだらないことで悩むんだよ」
「く、くだらないって……」
「ああくだらないねぇ」
 たじたじになっているハタヤマを尻目に、マチルダはたんとグラスを置いた。
「私がティファニアを守るのも、盗賊になったのも私自身の意志だ。坊主が説教読むのも、道化が舞台でおどけるのも、国があの子を追い続けるのも――」
 はっ、と目を丸くしたマチルダ。言葉が切れる。
「どうしたの?」
「い、いや……とにかく。人間ってのは――いや、生き物、か? そいつらがそうやって生きてるのは、『自分で決めた』からなんだ。それは他の誰にも強制された事じゃない。それらはそいつらが自分で選んだ、そいつら自身のエゴなんだ」
 たしかに全員が無秩序に我欲を満たそうとしたり、力にものをいわせて押さえつけようとするのはいけないことだ。しかし、そういったことに抵触しないなら、『エゴ』を邪魔される筋合いはない。
「誰にも迷惑かけないなら、文句言われる筋合いはない。あんたは、好きなように生きていいんだよ」
 マチルダは前のめりの背を正し、じっとハタヤマの瞳を見つめた。ハタヤマは目を逸らさず、真正面からそれを受け止める。
「でも、迷惑だったら? それがそいつにとってありがた迷惑だったらどうするんだよ?」
「そんときゃそんときに考えればいいんだよ。少なくとも、やる前からあんたが思い悩む必要はない」
 大切なのはためらわないこと。自分らしく生きるとは、自分のエゴを押し通すことなのだから。
「心配しなくても、あんたは大概まともだよ。アホだけど節度は弁えてる。――好き放題しようが、滅多なことにはならないだろうよ」
 ハタヤマは悪意で人を貶めたりしない。不条理に人を害すことはない。マチルダは、なんとなくそう感じていた。
 何故ならば。
「本当に悪いやつってのは、そんなことで悩んだりしないんだよ」
 はっと息を呑むハタヤマ。マチルダはちらりと手元に目を落とす。
 にゅっと瓶が伸びてきた。
「ボクは、好きに生きてもいいのか」
 とくとくと紅玉色の液体を注ぎながら、ハタヤマはぽつりと呟いた。
 マチルダはにぃと口の端をつり上げる。
「『派手に楽しく生きなきゃ損』なんだろう? その権利は、誰にだってあるのさ」
 ハタヤマは注ぎ終え、ことりと瓶を置く。
「――ふ」
「ふ?」
「ははは、ははははははっ!」
 ハタヤマはいきなり息を吐いたかと思えば、腹を抱えて大笑いし始めた。突然の快笑に目を丸くするマチルダ。
 ハタヤマはおかしくてたまらないのか、肺の中身が空になって、息が詰まっても笑い続ける。
 一分ほどして、ついに酸欠なのか咳を始めた。
「ちょ、ちょっと、どうしたんだい?」
「い、いや、ちがうんだ」
 ぜぇぜぇと呼吸を整えながら、テーブルから身を起こすハタヤマ。
 その顔には、もう澱んだ曇りはない。
「こんなことに気が付くのに、五年もかかっちゃったなあ」
 笑い涙を拭いながらそう呟くハタヤマの表情は、雨雲が去った快晴の空を彷彿とさせ。
 マチルダもつられて笑みを浮かべた。

     ○

「もう行っちゃうんですか?」
 しゅんと耳をたれるティファニア。家に住む者は全員、玄関先へ集まっている。
 酒を酌み明かした夜が隠れ、空には煌々しい太陽が笑みを浮かべている。しかしここに集まった者たちは、約二名を除いて悲しげに沈んでいた。
「にーちゃ、いっちゃぅ?」
「もうこないの?」
 最年少のはな垂れと少女が、ハタヤマのコートに縋り付く。そこには『行ってほしくない』という感情がありありと表れていた。
「ごめんね。お兄さんも用事があってさ。そろそろ行かなきゃいけないんだ」
 ハタヤマはしゃがみ込み、両手をそれぞれの頭にぽんと乗せた。そしてにかっと明るい笑顔を向ける。
 うるうると泣きそうな子どもたちだったが、ハタヤマの笑みにつられて涙はこぼさない。
「ティファニアちゃん、世話になったね。改めてお礼を言わせてもらうよ」
「い、いえ、そんな」
 立ち上がってありがとう、と頭を下げるハタヤマにしどろもどろになるティファニア。
 ハタヤマの腰には麻のサックが結わえられており、その中には水筒とパン、そして少量のチーズと野菜が入れられている。ティファニアがお弁当として持たせてくれたものだ。
 優しさ溢れる彼女の施しに、ハタヤマは感涙せざるを得なかった。
「ニューカッスルとやらはあっちに行けばいいんだよね?」
「ええ。王城はこの国の中心、風の集う地に居を構えているわ。でも、どうしてお城なんかに?」
「んー? それは秘密だよ」
 まさかお宝盗みに行きます、なんてことは言えない。ハタヤマは守秘義務ってやつだね、と曖昧に誤魔化した。
「そんじゃあそろそろ行きますか」
「あ、待って!」
 背を向けて駆け出そうとしたら、ティファニアに呼び止められた。
 疑問符を浮かべて振り返ると、ティファニアはマチルダの背を押して、ハタヤマの前へ押し出しているところだった。
「ほら姉さん! ハタヤマさん行っちゃうよ!」
「な、なんだいティファニア、もう!」
「なにか言うことないのっ!?」
「なにもないってば! なに勘違いしてんだい!」
 にこにこ笑顔でぐいぐい押すティファニア。マチルダはその勢いに押され、なぜかハタヤマの目の前につれていかれた。
「「………………」」
 無言で見つめ合うハタヤマとマチルダ。お互いに別に話すことはないので、気まずい沈黙が漂っている。
 マチルダは別にそこまでハタヤマが好きじゃないので、桃色空間は発生しないのだ。
「マチルダちゃん」
 黄金の瞳でまじまじと見つめてくるハタヤマに、マチルダは首をかしげた。
「例の話、考えといてね」
 屈託なく笑うハタヤマ。その邪気のない微笑みに、マチルダは毒気を抜かれたように目を丸くした。
「それじゃあ今度こそ出発するよ。ティファニアちゃん、またね」
「え? また来てくれるの?」
「いや、来ないけど。でも、必ず近いうちにまた出会うよ」
「……?」
 思わせぶりなハタヤマの微笑に、ティファニアはきょとんとハタヤマを見つめ返す。
 しかし、ハタヤマは答えを残さず、踵を返したところであった。
「きっとまた会えるよ! みんな、またね!」
 元気よくさよならを告げ、振り返らずに駆けていくハタヤマ。
 その後ろ姿は瞬く間に小さくなり、森にとけ込んで見えなくなった。
「どういうことなのかな、姉さん」
 ティファニアは答えを求め、手に持ったメモを見下ろしているマチルダに話しかける。
 しかし、その問いかけはすぐに中断された。
「姉さん、なにかいいことあった?」
「ん? どうしてだい?」
 顔を上げ、意味が分からないという風に問い返すマチルダ。
 ティファニアはそんなマチルダを、華やいだ笑顔で見つめ返した。
「だって姉さん――顔にすぐ出るんだもの!」

     ○

「な、何者だ貴様! だ、誰か! 誰――」
 目の前で崩れゆく兵士を見ながら、静かに短剣を鞘へ収める影が一つ。影はそれほど長身というわけではないが、ぴんと伸びた背筋が高い印象を感じさせる。男は闇に融けるような真っ黒いロングコートを身に纏った、この世界には珍しい黒髪の青年だった。
「いやぁ、この世界の魔法は便利だね」
 多少上等なマントと軍服を着込んだ兵士の寝顔を見下ろして、男は感心したように笑った。その顔にはガラス細工のように透き通った、そしてまるであつらえたかのように似合いの金色の瞳が輝いている。
 たとえそっくりさんが世界に三人いようが、こんな男はそう何人もいないだろう。この男は今朝方ウエストウッドを出てからしばし身を潜めていた珍獣――ハタヤマヨシノリであった。
「呪文一つで寝かせちゃうんだもん。強盗が起こり放題だね」
「宿主の世界にはなかったのか?」
「あったけど、『闇魔法』指定されて封印されてたよ」
 白き魔女セリアが危なそうな魔法を全て禁じてしまったので、あったとしても使えないのだ。魔法や魔法生物が廃れてきたのもそれに端を発していたりする。なにせ必要最低限しか残さなかったもんだから、困った人類は身近な科学へところっと傾倒してしまったのだ。魔法生物の身としては、迷惑な話である。
 まあ、今更そんなことをぐちってもどうにもならないので言わないが。
「それにしても、ずいぶんあっさり潜入できちゃったもんだね」
 兵士の腰から鍵の束を奪いながら呟くハタヤマ。末期の刻だけあってがちがちに警備を固めているかと思っていたのだが、吃驚するほど手薄であった。ここまで誰の姿も見かけなかったのである。これはいささか拍子抜けだった。
「おおかた最後の晩餐でも開いているんだろう。それなりにいい上官や雇い主なら、そういう催しをしてくれることがたまにある」
 的確に予想するスズキ。さすがはベテランの傭兵である。
 ということは最小限の見張りを残して、残りはホールにでも集まっているのだろうか。
「ジャンケンにでも負けたのかな? 可哀想に」
「いつの時代でも、こういうやつはいるものさ」
 主に貧乏くじばかり引かされる、とても運が悪い男。ハタヤマは自分も一端を握ってるくせに、この哀れな兵士に同情した。
 だが、同情ばかりもしていられない。ハタヤマは安らかな寝顔で親指をしゃぶる金髪ベイビーフェイスな兵士に小さく手を合わせ、宝物庫の扉へ鍵をさしこんだ。鍵束には三つの鍵がついており、とりあえず一つさしこんでみる。そして少しひねってみると、がちり、と重たい錠が開く音が鳴った。
「よし、入るぞ」
 扉の隙間から中を覗き込むと、そこには真っ暗闇が広がっていた。光源が一切存在しないので、暗すぎてなにも見えない。
「暗いな……」
「それは困るな。宿主、カンテラは持ってるか?」
「いや、ない」
 ハタヤマは元々冒険に荷物を持っていかない。そんなものなくても、魔法と超感覚でほとんどなんとかなるからである。しかし、今回はそうはいきそうにない。なにせ、扉を開けっ放しで中にはいるわけにはいかないし、かといって扉を閉めれば待ち受けるのは漆黒の闇。なにも見えなきゃ仕事にならないのだ。
 しかし、ハタヤマは不敵に笑った。
「大丈夫。こんなこともあろうかと」
 彼はごそごそとコートの胸元を探り。
「こーんなものを用意してるのさ」
 じゃじゃーんとなにかをつまみ出す。指先につままれたその物体は、翠色の石を結んだペンダントであった。
「それで、そいつにはどんな効果が秘められているんだい?」
「ふっふっふー、驚くなよ? これ、風石で作ったんだけど――なんと、ちょっとだけ光るんだよっ!」
 どや、と胸を張ってどや顔なハタヤマ。言われてみれば結わえられた石がたしかにぼんやりと光っている。風の象徴で暗闇に光るなんて、もう完全に飛行石にしか見えない。
 しかし。
「少しささやかすぎやしないか?」
 その光量はお世辞にも多くなく、せいぜい電池が切れかけの懐中電灯くらいしかなかった。まあ周囲十センチくらいなら見通せそうだが、それだけでは心許なさすぎる。
 だが、ハタヤマはちっちと指を振った。
「甘いな。ボクの特殊技能を忘れたのかい?」
 特殊技能。スズキはしばし記憶をほじくり返す。
「あ~……なるほどな」
 スズキは合点がいった。ハタヤマが持つ固有の異能であり、彼の種族が誇る人外能力の一つ、『超感覚』である。その能力の詳細は省くが、一つに暗視(ノクトビジョン)があった。
「まったくの暗闇じゃあさすがに見えないけどさ。ボクはわずかな光源さえあれば、あとは無問題なんだよ」
 おそるべきは人外の力。及ぶ範囲ならなんでもありである。
 ハタヤマはそこで雑談を切り、室内へと踏み込んだ。
「うへー、不気味」
 周囲を見回したハタヤマは、そう形容するしかなかった。両脇に甲冑が沈黙を発しており、正面には二つの扉が並ぶのみ。しかも超感覚により視界こそ明るいが、静かすぎて気持ち悪い。
 ハタヤマは眉間にしわを寄せて、づかづかと廊下の中央を進んだ。
「さて、どっちに入ろうかな」
 二つの扉を前に見比べ、腕組みをしてアゴに手をやるハタヤマ。視線を下げると立て札が目に入ったので、腰を折って読んでみた。

 →:『美術品、魔宝具保管場』
 ←:『金庫』

「二択か」
「普通に考えれば、金庫一択でいいんじゃないか?」
 スズキがハタヤマに進言する。真夏にうろつくサンタクロースの如く、怪しさ満開で袋に金貨を詰めまくればいい。一袋で一財産、そこらの中堅貴族が領民から年間に搾り取る税金くらいにはなるだろう。
 しかし、その意見にハタヤマは悩むように表情を歪めた。
「どうした?」
「――ちょ、ちょーっとだけ宝物庫のほうを覗く、ってのはどうかな?」
 おずおずと人差し指を立てて提案するハタヤマ。もちろんなにもなけりゃすぐ戻るし、と慌てて言いつくろったりもしている。まるで、なにか後ろめたいことでもして問いつめられた青少年のようだ。
 スズキはその言葉を受けてわずかに黙ったが、ややあって興味なさそうに言った。
「好きにすればいいんじゃないか? 俺が決める事じゃないからな」
 スズキはあくまでも武器であり、使われるだけの道具なのである。ゆえに、自身を使って人を救おうが反対に殺戮の粋を尽くそうが自由。その代の使い手が自分をどう使おうがそれは使い手の勝手なので、自分からとやかくさしでがましいことを言うつもりはないのだ。
「……ありがとね」
 ハタヤマはスズキのともすれば冷たいともとれるぶっきらぼうな優しさに、少しだけ感謝した。
 宝物庫への扉の錠前に鍵をさしこみ、がちゃりとひねる。がち、と鍵はあっけなく外れた。
 扉の片側に錠前を引っ掛けたまま、ハタヤマは押し開いてさらに奥へ進んだ。
「ぬぬぬ……カビくさい」
 鼻をつまみ、露骨に顔をしかめるハタヤマ。王家発祥からその宝を貯め込んできた胃袋は、時が経ちすぎて異臭を発するまでになっていた。
「“固定化”をかけてあるから、虫に食われることはないはずだがな」
「どうせなら“滅菌”もかけてくれよ」
 あるかどうかも知らない魔法を求め、ぶーぶー文句を言うハタヤマ。無責任な男である。
 室内は巨大な棚が並べられた、まるで倉庫のような作りをしていた。
「企業向けの商品倉庫か、学生時代の図書室を思い出すなあ」
 企業の倉庫は昔テレビで見たことがある。あれはもうちょっと広くてクレーン車(だったか?)が走るスペースがあった。図書室については言わずもがな。無駄に名門学院だったので、蔵書量が半端無かった記憶がある。
 あの頃はよく通ったなぁ――ナナリちゃんと仲良くなりたくて。
「宿主?」
「――っ! あ、あぁ」
 スズキの呼びかけで我に返る。しばし呆然と立ちつくしていたようだ。感傷的になっている……ハタヤマは気分を切り替えるように、ぶんぶんと乱暴に頭を振った。
 棚の列の間に足を踏み入れる。一瞥した様子では、魔力を感じる物は無い。
 というか。
「日用雑貨みたいなのがいっぱい転がってるんだけど」
 ハタヤマはやや戸惑いながら、手近な棚に手を伸ばした。手に取ったのはプラスチックの黄色い輪っか。巨大な円形――まあ、フラフープである。
 小学校の頃はプチブームがあったりした気がする。お腹を通して腰振って、アロハダンスでアロハオエー。三十分以上回せるやつはちょっとした英雄だった。ハタヤマ身体のサイズが合わないし、そもそも腰がなかったのでできなかったのだが。
 棚には他にもガンプラみたいな物や水まきに使うゴムのホース、はてはゲームボーイや色鉛筆の箱など様々な物が所狭しと棚に詰めこまれていた。
「こんなのがお宝なの?」
「俺に聞くなよ」
 人間の考えることなんざ知らん、とにべもなく言い切るスズキ。あんまりにもはっきり言われたので、ハタヤマは苦笑いするしかなかった。
(『あれ』はないのかな)
 ズボンのポケットをまさぐりながら、きょろきょろと棚を見て回るハタヤマ。
 以前遺跡探索で見つけた『これ』が使える物があればいいんだけど……
「宿主、そろそろ出た方がいいんじゃないか?」
 ジグザグに棚を見回って四列目に差し掛かった時、スズキがそう声を上げた。
 たしかに見張りを魔法で眠らせたとはいえ、ここは王宮奥深く。いつ誰に見つかっても不思議ではない。
「それもそうだね」
 ハタヤマは少しだけ残念そうに口をとがらせたが、探索を打ち切ることに決めた。そうそう都合良く欲しい物が見つかるなんてありえないことである。
 しかし、多少の期待を胸にこの危険すぎる場所へ訪れたゆえ、多少の落胆を感じざるを得なかった。

     ○

「しかし、でっかい地図だねぇ」
 ハタヤマは壁掛けのランプに指先で火をつけた。暗闇に包まれていた宝物庫の一角は、ほのかな光線に照らし出される。
 壁にかかった大きな額縁を見上げ、ハタヤマはほぅと感嘆の息を吐いた。出入り口とは反対側の開けたスペース、そこに縦横二十メートルに届こうかと思えるような巨大な地図がかけられていた。そこにはどうやって測量したのか、大陸の全体図が書き漏らすことなく描かれている。
「この時代に世界地図が存在すること自体にも吃驚だけど、もっと昔にも既に作られてたんだね。いったいどうやって調べたんだろうね?」
「さあな。始祖の時代の誰かがやったんじゃないか?」
 日本ではたしか松尾芭蕉が全国行脚して調べたのだったろうか。いや、測量したのはまた別の人間だった気がする。まあハタヤマは日本人じゃないし、地図の起源なんてものに欠片も興味がなかったので、それ以上は思考を深めなかった。
 地図によるとこの世界は一つの大陸になっていて、全てが地続きで繋がっているらしい。国名こそ記入されていないが、現在ハタヤマが露店で買った世界地図と照らし合わせても大体形は変わっていないので、なかなか精巧な地図なのだろう。
 しかし、この地図には、というかハタヤマが今使っている地図にも共通しておかしな点があった。
「なんでこの地図、大陸の左半分しか描いてないの?」
 古代の地図も現代の地図も、同じように右半分が見切れている。まるでそこから先は存在しない地平だと物語るように。
「それはおそらくエルフのせいだ。あいつらがサハラ辺りから先を押さえてて、誰も向こう側へ行けなかったんだろう」
 砂漠にはエルフがいて、そのせいで右側との国交が断絶されている。スズキはそうハタヤマに語った。
 ハタヤマはこの世界の常識を知るために読んだ歴史書の知識を掘り返し、指折り数えてその年月を勘定する。
「えーっと、たしか始祖の降臨とやらが六千年前なんだろ? ってことは――どひゃー! そんな昔から戦争し続けてんの!? バカだねぇ、人間とエルフじゃ地力が違うだろうに」
 生まれつき持っている知識量も違うだろうが、なにより種族差が絶望的だ。たとえ同じ魔法を使っても人間のファイアーボールとエルフのファイアーボール、どっちが強いかなんて明白だ。下手すりゃ「これはメラゾーマではない、メラだ」とまで言われてしまいかねない先天的な適正の差がある。
 正面からやり合っても無駄に傷口が広がるだけなのは分かり切っているはずだ。なのに、なぜここまで長引く前に、和平交渉をしなかったのだろうか。
「始めの千年ぐらいは両方元気よく戦(や)りあってたんだが、そこからはどっちも疲弊してな。今じゃ戦争状態とは名ばかり、お互い不干渉を決め込んでる」
 なんじゃそりゃ。東西冷戦というやつか。
「よく人間は攻め滅ぼされなかったね。普通敗戦で家畜まっしぐらだと思うんだけど」
「エルフは数が少ないからな。足りない部分は物量でカバーだ」
 うへぇ、えげつねぇ。エルフ一人殺すために五人の人間を特攻させたんですね分かります。
 おそらく戦場は死屍累々だっただろう。主に人間の死体で溢れて。
「キミも戦争に参加したのかい?」
「さあな。したような、しなかったような」
 スズキはもう覚えてねえよ、と投げやりに返すと黙ってしまった。
 答えが期待できそうにないので、ハタヤマはふむ、と鼻を鳴らして沈黙した。反射的に質問してみただけだったので、別にどっちでもよかったのだ。
「左端の海から、世界一周してくれば……」
 諦め悪く少し思案したが、やはり無理だという結論で思考を放棄する。一枚の大陸だけでやってきた世界なら、航海技術なんて発達していないだろう。よしんば船出したとしても、地図の向こう側は切り立った断崖絶壁だった、なんてことがあるかもしれない。いや、そんなまさかと侮るなかれ。世界も丸くて地続きなんてことが絶対的な常識ではない。他の世界では四角だったり三角だったり、ましてやなにもなかったりするかもしれないのだ。
 まあ。コショウを求めたコロンブスくらいのフロンティア精神が無ければ難しかろう、ということだけはなんとなくハタヤマも分かった。

     ○

 棚にはめぼしい物はなさそうだ、ということで最後に宝物庫の奥を流して探索を完了とすることにした。
 ざっと見た感じ棚の中身はガラクタばかりだったのだが、ここは純粋な魔宝具を寄せ集めた一角のようだ。壁際には宝箱がいくつか積み上げられており、そばにはちゃぶ台サイズの机があって、その上にさらに色々なアイテムが置かれている。それらにはあまりホコリが積もっておらず、また若干人間の匂いが残っていたので、頻繁に持ち出されているのだろうと予想できた。
 アラビアンでナイトなランプや指輪に腕輪、首飾り。主として装飾品が多かったが、ハタヤマはその中のある一つに強い興味を抱いた。
「これ、なんだろ?」
 それは小さなこけしのような人形だった。まったく目立った意匠の施されていない無個性な木人形(もくにんぎょう)なのだが、それゆえにその他の仰々しい装飾がごった返す魔宝具の中では一際目を惹く。それだけでなく、その人形からは他とは一線を画す強い魔力が発せられており、それがハタヤマの関心を呼び起こした。
「そいつはスキルニルだな」
「なにそれ?」
「物真似人形(スキルニル)だよ」
 スズキが常識のように講釈をたれる。それによると、体液を一滴垂らせばあら不思議、その対象の完全コピーが一瞬のうちに出来上がるという魔法の人形のようだ。
「へー、ドッペルゲンガーみたいなもんか。意識はあんの?」
「いや、知能までは備わらない。動かすには念を籠める段階で一連の命令(プログラム)を打ち込んでやらんといかん。それだってあまり複雑な命令は打ち込めないから、実質的には姿を写すだけだ」
 まあ、遠隔操作なら誰でもできるがな、とスズキは付け加える。ハタヤマはまじまじと手の中の人形を見つめた。
 人形の魔宝具としては最高峰に数えられるスキルニル。現代ではこれを作り上げられるメイジが年々数を減らしており、そろそろ死伝魔術(デッドアーツ)に加えられそうになっている。もうこれを作れるだけの人形使いがいないのだ。
「疑似命魂人形(オートマータ)は人形師たちの目標にして悲願だよ」
「そんなもんかねぇ」
 興味なさそうに呟くハタヤマ。しかし少し逡巡して、ダッチワイフに知能があったら大きいお友だち大喜びだな、と内心思い、その思いつきに自分で吹き出した。
 一人で笑い独りで悦にいるハタヤマに、スズキは気持ち悪そうに声をかける。
「ほれ、人形いじくってる場合じゃないだろう。さっさと仕事しろ」
「はいはいっと……――っ!?」
 ハタヤマの表面を流すように送られた視線が、ある一点でびたりと制止した。そして長テーブルの上におもむろに置かれている“それ”を、しばし呆然と凝視する。
 それを不審に思い、スズキが声をかける。
「どうした宿主?」
 ハタヤマはそれに答えず、震える指先で“それ”を手に取った。
「これは」
 それは手の平くらいの大きさの、虹色に輝く平べったい板だった。奇妙な台形で角が鋭角をしており、まるでなにかが砕けた破片のような形状をしている。
「どうしたんだ宿主? なにか面白い物でもあったのか?」
 已然黙りこくったままのハタヤマ。しかし、その尋常ではない様子にスズキはなおも語りかける。
 だが、ハタヤマはそれに返事を返す余裕がなかった。
(これは、“鏡”だ)
 ハタヤマは“これ”が記憶にあった。自身がこの世界に来ることになった理由。その一端を握る『狭間への扉』。その架け橋、渡し船となる異界への通行手形。“あの時砕け散ったはずなのに”。
 それが、何故こんなところに――
「うおっと!?」
 がらがらがっしゃん! と唐突に甲高い金属音が木霊する。知らぬ間についた右手が楽器のような魔宝具に当たり、机の上から落としてしまった。
 不注意である。
「おいおい宿主、しっかりしてくれよ。そんな物音立てたら見つけてくれっていってるようなものだぞ」
「あ、あぁ。ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてて」
 照れ隠しのようにぽりぽり頬を掻くハタヤマ。しかし、そのわざとらしい仕草もすぐになりをひそめることとなる。

「……まだ奥があるのか」

 ぎぎぎ、という耳障りなこすれ音と共に、そんな呟きが聞こえてきた。ここから外まで軽く五十メートル以上はあるが、この場が雑音一つ無く静かで、またハタヤマの超感覚が為せる技である。
 ハタヤマは、スズキと顔を見合わせるように身体を捻って振り返った。
「まいったな。もう見つかるなんて」
「宿主が寄り道ばかりしてるからだ」
 憮然とした声色のスズキ。まるで面倒事が生じたことに辟易しているようである。使い手の面倒くさがりが伝染したのかも知れない。
 ハタヤマはスズキから感じる刺々しいオーラに、たははとわざとらしく頭を掻いた。
「まあ来ちゃったもんはしょうがない。なるようになるさ」
 またも扉が開く音が聞こえた。追っ手は迷い無く一直線にこちらへ来てしまったらしい。ブラフに両方の鍵開けとけばよかったかな、とハタヤマは若干後悔した。
 速やかに入り口が窺える棚の横腹に背をつけ、ちらりと顔を覗かせてみる。
 そこにいたのは。
「――いぃっ!? 少年!?」
 なんと先日喧嘩別れした自分と同じ異邦人。平賀サイト君であった。
 彼は油断無く周囲を警戒しながら、なんか見つけたのか棚に駆け寄って無警戒にガンプラをいじくっている。お前は子どもか――いや、子どもだ。
「な、なんであの子がここに?」
 途惑うように口にするが、それで疑問が晴れるわけもなく。少年は棚を物色しながらどんどんこちらへ近づいてくる。
 ハタヤマは正直いって逆ギレの末絶交宣言した手前、とてつもなく顔を合わせづらい。できればこんなところで会いたくない相手だった。
 とはいえそんなことを言っていても始まらない。とにかくなんとか誤魔化さなければ。
「な、なんか顔隠すもの……」
 とにかく手にした“鏡”をポケットにつっこみ、慌ててなにかないか探す。すると、丁度良くすぐそばに帽子掛けが立っているのを見つけた。その隣には衣装掛けも置いてあり、どうやら衣類系魔宝具置き場らしい。
 ハタヤマはその帽子掛けからそれなりによさ気な黒高帽子を手に取り、すっぽりと頭に被せてみた。なかなかしっくりくる。
「ま、なにもないよりはマシだろうな」
 茶化すようなスズキの思念にうるさいよ、と歯を剥くイメージを返し、ハタヤマは踵を返した。

 そして、彼らはまた出会った。



[21043] 六章Side:S&H 六章三日目夜~四日目早朝
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 04:03
【 六章Side:S&H 六章三日目夜~四日目早朝 『暗躍/決戦前夜』 】



 ――ガシャーンッ!

「え?」
 重々しい鉄の格子が一片の慈悲なく、けたたましい音をたてて下ろされた。
 その怪音に目覚めたハタヤマは、目の前の光景に一瞬呆ける。そして現状を認識すると、飛び掛るようにして格子を両手で握り締めた。
「ちょ、おい、待てよ! ボクがいったいなにをした!」
「どの口でほざきやがる!」
 そう怒鳴り返すのはサイトだ。彼は憮然とした表情で腕組みし、牢屋の前から中を威嚇している。危うくぽっくり逝かされかけたので、少々気が立っているようだ。
 ここはニューカッスルの地下深く、罪人を収監する牢屋である。中は昼間でも日光が届かず最小限のランプしかないから日中でも薄暗く、排泄物やカビの匂いがこびりついたように蔓延している。冷たい岩肌がむき出しの牢内は一片のぬくもりすら奪いつくすように冷々としており、コートでも欲しくなるほどの寒さが身体を攻め立てていた。
 現在は牢屋内にハタヤマ、牢屋外にウェールズとサイトの二人が並び、お互いに向かい合っている。ハタヤマは武装を全て奪われ、白いワイシャツと黒いロングパンツという出で立ちだ。
「お前、なんでこんなところにいやがる! あそこでなにしてやがった! んで、なんで俺に喧嘩吹っかけてきやがった! それと――」
「ちょっと、ストップストップ! いっぺんにまくし立てられても答えられないよ!」
 クールダウンクールダウン、テイクイットイージーと、右手を突き出し真剣な表情でサイトを宥めるハタヤマ。しかし、その宥め文句はどう聞いてもふざけているようにしか聞こえない。
 ハタヤマはこほん、と咳払いして注目を促し、ゆっくりと口を開いた。
「詳細については黙秘権を行使しよう」
「な、てめっ!」
「まあまあ。それで、なぜキミにちょっかいかけたかというと」
 言いにくそうに言葉を切るハタヤマ。自然、次の言葉を待つように全員が静かになる。
「普通に話すのもバツが悪かったんで、つい」
「つい!? ついでお前は棚をぶっ倒すのか!?」
「ちょっとした照れ隠しだよ」
「~~~っ!! ふざけんのも大概にしろよッ!!」
 ハタヤマの悪びれない様子に、サイトはすさまじく憤った。そんな理由じゃ話にならない。この男の態度としてはいつも通りだといえばいつも通りだが、はたしてそれが許されていいものか。
 場には今にも火蓋が切って落とされかねない、一触即発のよろしくない空気が漂う。しかし、それを裂くようにウェールズが一歩前に進み出て、煙を吹くサイトを片手で制した。
「貴殿は私を覚えているか?」
「へ? 誰だよあんた?」
 唐突なウェールズの問いかけに、ハタヤマは素で問い返した。彼には端正な顔立ちの知り合いなどまったくいないはずだからだ。むしろ自分よりイケメンなやつとは話もしたくない類である。
 ハタヤマの返答に、ウェールズはわずかに目を細めた。
「……そうか。ならばアルビオンの皇太子として貴様に問う。我が国の宝物庫でなにをしていた」
 そう問いただすウェールズからは、圧し掛かるような威厳が発せられていた。有無を言わせぬ迫力、とはこういう様を表すのだろうか。王族としての風格なのか、その姿は地獄の閻魔のような絶対性を帯びていて、そばにいるサイトたちは無言で圧倒された。
 しかし、ハタヤマはそんなもの欠片も感じていないのか、いたって軽い調子で口を開く。
「ちょいとお宝をちょろまかそうと思いまして。どうせあんたらが持ってても、もう使わないんでしょ?」
 じゃあ頂戴よ、と歯に衣着せずあっけらかんと語るハタヤマ。まるで十階建てのビルの屋上で飛び降り自殺をしようとしている人間に、「どうせ死ぬなら通帳と印鑑ください」と目の前で片手を差し出すくらい酷い物言いだ。
 ハタヤマのあまりにも利己的な理由にウェールズは気分を害したらしく、さっと顔色が変わった。
 それを気づいているのかいないのか、さらに言葉を続けるハタヤマ。
「この国に美味しい話があると聞いて、はるばるここまで飛んできたのさ」
「美味しい話だと?」
「アルビオン王家が滅亡するってね」
 国家の存亡をまるで世間話でもするかのように口にするハタヤマ。それも、王子の御前でのたまうのだからまた始末が悪い。
 ウェールズはわずかに眉間に皺を寄せた。
「もう、我が国の現状は国外に広く知れ渡っているのだな……」
「いや、世間一般ではまだまだ噂の域をでないさ。でも、諸国の外交、諜報機関レベルなら周知の事実になってんじゃないかな」
 ハタヤマも情報を得たのが数日前なのであくまで予想でしかないのだが、少なくともその日まで魅惑の妖精亭にアルビオンの風雲急を告げる噂が囁かれたことはなかった。おそらくラ・ロシェール近辺の街や村、傭兵ネットワークといった、あらゆる意味で距離が近い場所でしかこのことは話題になっていないはずである。
 ウェールズの眼光がわずかに鋭くなった。
「ならば貴様は何処で知った」
「それはまあ、企業秘密ってことで」
 ハタヤマはウェールズの眼光を受け流し、おもむろに牢屋の壁へ寄りかかると、背中を預けて座り込んでしまった。質問に答えるつもりはまったく無いらしい。
 この態度にサイトが憤慨した。
「おい、真面目にしろよ! お前この状況分かってんのか!?」
 サイトは内心ひやひやしながらハタヤマを叱咤する。ハタヤマの言葉を鵜呑みにすれば、彼は国の一大事に乗じて国庫を撥ねようとした火事場泥棒のハイエナだ。通常なら終身刑すら生ぬるい、即死刑を言い渡されてもおかしくない。
 サイトは一ヶ月の付き合いでハタヤマが欠片も嘘を吐いていないことが分かるだけに、ウェールズの機嫌を逆なでするような彼の言動に肝を冷やしていた。嘘でもいいから、せめてこんなときぐらいはうわべを取り繕えばいいのに、とサイトは思わずにはいられない。一歩間違えば死ぬような目に合わされたというのに、彼は結構いいやつであった。
 しかし、ハタヤマは変わらず口を開く。
「十分に理解してるさ。だからこそ、嘘を吐いても仕方ない」
「……?」
「最後の晩餐をしてたってことはもう明日がこの国の最後なんでしょ? なら、今更取り繕ったって無駄さ。すぐに処刑か、はたまたこのまま牢屋の中で放っとかれるかだけだろう」
 裁判なんてしてる暇無いだろうしね、とハタヤマは付け加える。
「状況証拠は揃いすぎてるし、なによりボクも弁解するつもりはない。だからこそ、無駄なことはしたくないんだよ」
 めんどくさいし、とのほほんと和んだ表情でハタヤマは言う。盗人猛々しいとはこんなやつのことをいうのだろうか。
 悠然と構えているハタヤマを、サイトはぽかんと見下ろした。なかなかに筋は通った言い分だが、ハタヤマのそれはやりすぎではなかろうか。もうちょっとかしこまった方が、とサイトはそう思わずにいられなかった。
 ハタヤマはウェールズを見上げた。
「ただ一つ言える事は、ボクは純粋にお宝を狙ってここに来たってことだけだよ。別に他国との繋がりも無いし、もちろん貴族派に雇われてもいない。そんなの知ったこっちゃないしね」
 交差する金とスカイブルーの視線。その空色の瞳を覗き込んだとき、ハタヤマはなにかに気づいた。
「――ああ、あんたはあの時の。まさか王子様だったとは」
 そう言ってにっと笑うハタヤマ。突然の意図不明な発言に、不思議そうにウェールズを見上げるサイト。ウェールズはサイトより少しだけ背が高い。
 しかし、ウェールズはそれに答えずじっとハタヤマを見下ろし、そして踵を返した。
「おって処分を言い渡す。それまで夜風で頭を冷やすように」
「へ~い」
 サイトは戸惑い、きょときょととウェールズとハタヤマの姿を見比べたが、ハタヤマがしっしっと促すので後ろ髪を引かれながらもウェールズの後を追いかける。
 一度だけ背後を振り返ると、鉄格子の向こう側からひらひらと手が振られているのが見えていた。

     ○

「使い魔君。彼は君の知人なのかい?」
「は、はい? ま、まあそうなんッスけど」
「どんな男だ?」
 静かに、しかしなにかを見透かすようにじっとサイトを見つめるウェールズ。
 サイトはその視線にたじろぎながらも、必死で脳内の考えを整理し、言葉へと変換させていく。
「言動まんまのやつだと思います。今も別に嘘はついて無いと思うし、その点だけは信じていいと思います。良くも悪くも人目を気にしないやつなんで」
 あんまりにも裏表がなさ過ぎるので、ときたま本気なのかどうか悩むこともあったが、付き合いを深めていくうちに分かった。こいつはいつでも本気だ。そしてそれを隠さない。それがハタヤマの美徳であり、同時に欠点でもあるとサイトは感じていた。
 一緒にいて時々胸が悪くなるくらい不快を感じることもあるのだ。その直接的過ぎる物言いに。
 しかし。
「でも、そういうやつだからこそ。俺も仲良くできるんだと思います」
 こいつは上辺だけの愛想笑いや、心中で舌を出すことは絶対にしない。気に入らなかったり不快なことは面と向かって直接言ってくる。いや、むしろ面と向かって舌を出してくる勢いだ。それは時として辛辣だけど、こいつは決して悪意でそんなことは言わない。ただたんに直情的に、思ったことを口にしているだけなのだ。
 そして、面と向かって言うことで、相手が懐く不審や反感をハタヤマは逃げることなく真正面から受け止める。その場だけ調子を合わせて、後で陰口を叩くというようなみみっちい真似は絶対にしない。
 サイトは、ハタヤマのそういうところは嫌いではなく、むしろ好ましく思っていた。たしかに、「こいつしばき倒してやろうか」と思うくらい情け容赦ない痛烈なことを言われるときもたまにあるが、それ以外は基本的にまともでいいやつである。あいつは剥き出しの言葉しか発さぬゆえに、どこまでも正直で誠実なのだ。
 まあ、この場合の誠実がいいのか悪いのかと訊ねられると、そこはまた難しいところなのだが……
 眼をぐるぐると回して頭を抱えながら語るサイトの姿に、ウェールズはふっと口元をゆるめた。
「よき友なのだな」
「あ――はい!」
 サイトは、自然に自信を持って頷いた。しかし、その表情もすぐに曇る。
「あ、あの~……あいつのこと、できれば寛大な処分で済ませてやってくれませんか?」
 その言葉に、ウェールズはきょとんと目を丸くする。
「何故君がそんなことを気にするのだ? 友とはいえ、君は彼の抵抗により命を落としかけたのだぞ? それなのにどうして庇ってやる?」
「あー、あいつ、スイッチ入ると振り切っちまうところがあって。たぶんさっきのもついやっちゃっただけなんだと思うんですよ」
 こういったことは一月前もたびたびあった。サイトは思い出す。
 ルイズに修行参観させた翌る日、しぶるあいつをなだめすかして模擬戦に持ち込んだ時。まあ当然俺の圧勝、瞬殺だったんだけど、それにピキピキきたあいつが今度は『特殊状況訓練』と称して森林内での再戦を強要してきた。んで、もちろんどっちも木刀だから俺が圧倒的不利なわけですよ。ちょーっと振っただけで至る所にかつかつ当たって太刀筋ぶれるわ威力削げるわ、向こうは向こうで目に見えない速さで、しかも木立にまぎれて移動すっから満足に反撃もできないわでさんざん。しこたま短い木刀で木々の隙間から突かれ倒して、もうやだと言うまでしばきまわされた。
 ――というような一幕があった。あの男は普段すかしているのだが、内面はかなり子どもっぽく大人げない。やられたらやり返さずにはいられないのである。
 おそらくあの時は、神の力鉄拳パンチで顔面をぼこぼこにされたことにぷっつんきてしまって、考え得る最大規模の反撃をついカッとなってやってしまったのだろう。
「どっからこのことを聞きつけてきたのかは分かんないッスけど、逆にこんな状態の国相手じゃなければ盗みなんてしないと思うんです。だから……」
 と、そこまで言ってはっと口に手をやるサイト。ついうっかり、滅亡寸前の国家のようなニュアンスの言葉を口にしてしまった。
 恐る恐るウェールズの様子を窺うサイト。しかし、ウェールズは気にした風もなく穏やかに微笑んでいる。
「心配せずとも処刑などしない。一晩留置はさせてもらうがね」
「へ?」
「幸い今回は未遂で済んだ。それに、そのような噂を聞きつけてつけいられたのならば、その責任の一端は我らにもある。こんなことにならなければ、彼はこの地に訪れなかっただろうからな」
 それに、と言葉を切り、息を吸うウェールズ。
「特使殿のご友人とあらば、手荒に扱うわけにもいくまい」
 この王子はそこまで厳格な質ではなく、罪には慈悲無き厳罰を! なんて性格ではないらしい。このままでは明朝この国と共に潰されてしまう哀れなこそ泥の運命に同情し、情け深くも禁固一晩で許してやろうと思っているようだ。おそらくサイトの知り合いだからというのも大きな理由だろうが、たとえサイトがいなかったとしても、彼はハタヤマを死刑にはしなかっただろう。
 サイトはウェールズの暖かい微笑に感謝し、ほっと胸を撫で下ろした。
「君にこの鍵を渡しておこう。地下牢の共通鍵だ」
「え……いいんですか?」
「構わんさ。収容した犯罪者は全て別の都市に護送してある。君が彼を助けたいのなら、明日この国を立つ時にでも一緒に連れて行ってやるといい」
 丸い鉄の輪っかに通された鍵を受け取るサイト。なんの飾り気もなく、剥き出しの鉄としか言いようのないそれは、なんだかとってもファンタジー。サイトの世界ではきょうびお目にかかれないくらい、時代の匂いを感じさせた。
「ただし、罰は必要だからね。夜が明けるまでは釈放しないように」
 ウェールズはそう悪戯っぽく微笑むと、別れを告げて行ってしまった。
 その場に一人取り残されるサイト。
「懐の広い王子様だぁね」
 感心しているのか茶化しているのか、微妙な調子で呟くデルフ。
「なあ、デルフ……」
「あん?」
「あいつ、もう大丈夫なのかな」
 サイトは目をつむり、ハタヤマの様子を脳裏に思い返す。あの男は自分の顔を見ても、まるで何事もなかったかのように態度を変えなかった。それに、その姿から受ける印象に、あの日の、今にも崩れてしまいそうな、弱々しい気配が消えていた。
「怒ってないのかな。悩みは解決したのかな」
「――それは、俺よりもお前の方がよく分かってるんじゃねぇか?」
 含むように呟くデルフ。まるで口の端がにやりと歪んでいる様が、瞼を閉じれば浮かびあがるような言い方だった。
 ハタヤマは正直で、その言動には嘘がない。嘘を吐くなど、せいぜいつまらない見栄を張って、良い格好しようとする時だけである。みえみえのでまかせを振りかざして女にモテようとするのだが、なぜかいつもバレて振られるのだ。魅惑の妖精亭の妖精さんにちょっかいかけて、袖をすかされる様子を先月に何度も見た。まあ、なんとなくわざと自分から自爆してるような気配もしたのだが……
 もとい。
(あの様子なら、怒ってない……のかな?)
 態度が戻りすぎていて面食らったが、あれならもう含む想いはもう無いようだ。自分でネジを巻いて立ち上がる、とデルフも言っていたが、本当に立ち直ったらしい。
 これなら、また落ち着いて話し合うこともできるかもしれない。

「たとえどれだけ錆び付いて、痛み、ヒビ割れてしまっていても。火を入れりゃ、輝きを取り戻すもんさ」
 名剣ってのはな、とデルフは愉快そうに鞘をかたかたいわせた。

     ○

 ルイズは窓辺に座り、月を見上げていた。煌々と輝く赤と青の月は、いつもより眩しく感じられる。この国が雲の上にあるからだろうか。彼女は続いて手の中にある二通の手紙に視線を落とし、重く深いため息を吐いた。
 何故この国の者たちは、望んで死地に赴くのだろうか。怖くは、恐ろしくはないのか。残された者たちはどうすればいいのか。考えれば考えるほど、それは消化できぬ違和感となってこの胸にのしかかる。
 サイトは「気にするな」と言った。しかし、そんな言葉では割り切れない。信じられない。許せない。姫さまが――恋人が「逃げて」と言っているのに、それを振り払えるウェールズが理解できない。あのパーティで最後の演説を行ったこの国の王が。自分たちにウエストウッド産のワインを勧め、ハチミツを塗りぱりっと焼かれた鶏肉の手羽先を勧めた貴族たちの思考が分からない。彼らはみんな笑っていた。それがルイズにはまるで自分とは違う種族、まるで異星人を見ているかのようで、一種の気味悪さすら感じていた。
 馴染みのない国の、馴染みのない部屋で明かす一夜。恐い。心細い。周りはみんな以前見たブリミル教過激派の狂信者のような顔で、破滅的な末路へと邁進している。そんな様々な不安を打ち明けようにも、そんなことができる相手はいない。キュルケは家同士の因縁もあるし、なによりそこまで仲良くはない。タバサなんてもっと繋がりが薄い。ギーシュなど論外だ。打ち明けられる友達がいない。そんなことを突然打ち明けられても相手は困るだけだろうし、なにより、今まで自分を拒絶の鎧で覆い隠してきたルイズは、自分の弱さを他人に見せることが、自分自身で許容できなかった。
 こんな時愚痴の相手にできるあの使い魔は、賊を連行するウェールズに付いていってしまった。この部屋には、自分一人。迎賓用の特別にあつらえられたこの広い部屋に、独り。
 じわ、と目尻に涙が滲んだ。
「お父様、お母様、ちぃ姉さま……恐いよう……寂しいよう……」
 わけも分からぬ孤独感に、突き動かされるように嗚咽が漏れる。この国の貴族たちは、本当に同じ人間なのだろうか。ルイズは理解できぬ彼らの姿に怯え、恐怖で押しつぶされそうだった。
 ――約一名、呟きからハブられているお姉さまがいるが、それは触れないお約束だ。
 窓枠に伏せって震えていると、不意に部屋の戸がノックされた。
「……誰?」
 正直、今は誰とも顔を合わせたくない気分だった。しかし、来客はなにも旅仲間だけに限ったものではない。もし万が一、にべもなく追い返した相手がウェールズ皇太子だったりしたら、とんでもない不敬になってしまう。
 だが、とても声色を作れるような心情でもない。ルイズが発した問いの言葉は、やや棘を含んでいた。
「僕だよ。君を誰よりも愛す、君だけの騎士(シュヴァリエ)、ワルドだ」
「ワルド!?」
 がばっと弾かれたように跳ね起きるルイズ。そして扉までの距離すらもどかしそうに戸口へ駆け寄り、がちゃがちゃと慌ただしく鍵を外した。
「――ワルド……ッ! ワルド……ッ!!」
「おやおや、どうしたんだい僕のルイズ? 子猫のように泣き濡れて」
 ワルドは胸に飛び込んできたルイズの両肩に手を置き、わずかに押し返して正面から顔を見下ろした。ルイズの顔は涙の堰が決壊して、ぐしゃぐしゃに歪んでしまっている。
 ワルドはルイズの左頬を撫で、流れ落ちる涙をすくった。
「わたし、この国が分からない。なぜあの人たちは、喜んで死を選ぶの? なぜ愛する者たちのために、生き延びようとしないの?」
「それが、彼らの義務だからさ。果たすべき使命だからなのさ」
「分からない、わたしは分からない! その使命は、命を捨てるほどの価値があるものなの!?」
 ルイズはヒステリックに叫び、感情を爆発させる。ワルドの胸板を叩くその両手は、子どもの癇癪そのものである。しかし、それはある種仕方がないこと。彼女は、これまで領地の屋敷と学院という、狭く守られた空間しか知らなかった。彼女はまだ年端もいかない、貴族の子息(こども)なのである。
 ワルドはルイズの頭を撫で、にっこりと笑いかけた。
「女の君には理解しづらいことかもしれないね。だが、貴族の務めとはそういうものだ。おめおめと逃げ去り、生き恥をさらすことなど許されない。国のため、民のために、なによりも誇りを守るために。貴族は死なねばならないのさ」
 ルイズは叩いた両手をワルドに押しつけ、しゃくりあげながら、その諭すような説明を聞いていた。しかし、ワルドの言葉が終わった瞬間、ぎゅっと両手を握り直して力任せに叩きつける。
「――なぜ!! なんで!? 本当に大切に思われているのなら、生きていてくれた方が嬉しいに決まってるじゃない!! いなくなっちゃったら悲しいじゃない!! 愛する者に、敬愛する人に生きて欲しいと思うことは、そんなにおかしいことなの!!?」
「しかし、それでは誇りが守れない」
「誇り、誇り誇り誇りッ! そんなにも形がない物が大事なのッ!? そのために、大切な人たちを捨てるのッ!!? 誇りのためなら、愛する人の気持ちを踏みにじってもいいの!!!?」
 なんて、なんで、とひくひくと喉を断続的に震わせながら繰り返すルイズ。ワルドはルイズの身体を抱きしめ、ただ微笑み続けるだけである。
 不意に、ワルドがマントの下から“コルクの抜けた”ワインの瓶を取りだした。
「“誇り”は、人を殺せるの――?」
「ルイズ」
 ワルドはルイズのアゴに手をやり、上を向かせた。
「君は色々ありすぎて疲れているんだ。これでも飲んで落ち着くといい」
 ワルドはルイズを押し剥がし、無遠慮につかつかと室内へ踏み込んでいく。そして化粧台の上に置いてある水差しとグラスのセットからグラスだけ手に取り、とくとくとやや黄色がかった透明の液体を注いでいく。
「これは先ほどのパーティで勧められた果実酒だがね。あまりにも口当たりがよいものだから、一本ほど失敬してきたのさ」
 悪戯小僧のように微笑むワルド。その年に似合わぬ少年のような笑顔は、いくらかルイズの心を静めた。
 ルイズはずいと差し出されたグラスを両手で受け取った。ワルドも遅れて新たなグラスに果実酒を注ぎ、同じように片手に取る。
「任務の成功と僕たちの未来に」
 ワルドはグラスを掲げると、そのまま一息で干してしまった。ルイズもそれにつられるように、くぴりと可愛らしく喉を鳴らす。
 だが、「僕たちの未来に」という言葉が、ルイズは少し引っかかっていた。わたしはまだ答えを出す気はないし、ワルドも待ってくれると言ったはずなのに。なぜ……
「――どうだい。美味しいかい、ルイズ?」
 こくり、としっかり頷くルイズ。姿勢が戻りワルドを見つめ返すが、まばたきをぱちぱちと二回繰り返す。徐々に目元が溶けるようにたれてきて、ぼんやりと視線をさまよわせている。
 ワルドはそれに満足してグラスをことりとテーブルに戻した。
「君は、この国の貴族たちが理解できないと言っていたね。どうだい、もう分かるようになっただろう?」
 こく、とまるで舟を漕ぐように頷くルイズ。くらくらと首を左右へ揺らし、瞼が落ちかけて瞳も虚ろ。
 ぱち、とまばたきを一度する。
「そうそう、さっき皇太子殿に僕らの結婚式の立会人を頼んできたんだ。彼は快く引き受けてくれたよ」
 ぱち、とまばたきを一つ。
「僕が新郎、君が新婦だ」
 ぱち、と両目をつむり、大きくがくりとうなだれる。
 そして若干の間を置き顔を上げる。
「――僕の想いに、応えてくれるね?」
 こくり、としっかり頷くルイズ。その美しい鳶色の瞳からは輝きが消え失せて、光を映さぬ闇に染め上げられている。その顔はワルドに向けられているが、その眼球にはなにも映されていない。手の中からグラスが滑り落ち、がちゃん、とガラスが砕け散る鋭い音が響いた。グラスから解き放たれた液体は絨毯に染み込み、みるみるうちに濃い“斑点”となった。
 ワルドはルイズのその様子に、顔を歪め腰を折り、右目を隠すように手を当てた。
「くく……くくく」
 肩を震わせるワルド。まるで嬉しくて、楽しくてたまらないかのように。

 狂ったように腹を抱えて、堪えきれないように身悶えするワルド。逆になんの反応もなく、ただ虚ろな視線を彷徨わせて沈黙するルイズ。
 この異常な彼らに言及できる者は誰もおらず。彼女を守るべき“左手”の使い魔は、今この場にはいなかった。
 
     ○

「ルイズー? 帰ったぞー」
 ドアの前で、ひどく暢気にノックを繰り返す男がいる。この世界には不似合いなユニクロ衣服、そして背負った身長のほどもありそうな錆び錆びの長剣。誰がどう見ようと平賀サイトである。彼はそこらにいた衛士にルイズたちの足取りを訊ね、やっとここまで戻ってきたのだ。
 しかし、中からは返事がない。ただの空き部屋のようだ。
「っていやいや、そんなわけねーよ」
「なに言ってんだ相棒?」
 自分で自分にツッコミをいれ、ドアノブをおもむろにひねるサイト。ノブはなんの苦もなく回り、簡単に扉は開いた。
 隙間から中を覗くと、人影が“二人”並んでいるのが見えた。
「なんだ、いたのか。それなら返事くらいしろよ」
 サイトはルイズの姿を認識し、そして横に立つ人影に眉をひそめた。ガタイからして男である。こんな時間に、女(ルイズ)一人の部屋に押しかけるなんざどこのどいつだ。サイトは睨みつけるように影へ目を向ける。
 そこにいたのは、いつも通りの魔法衛士隊制服に身を包んだワルドであった。
「ワルド……さん? なんでここに」
「おかしいかね? 僕はルイズの婚約者なのに」
 ワルドはシニカルに両手を天に向けて肩の位置まで上げ、わざとらしく肩をすくめた。それになんとなくカチンとくる嫌な気配を感じながら、サイトは室内へ足を踏み入れる。
「あんた、ハメを外しすぎるなって言ってたじゃねえか。いくら婚約してるとはいえ、こんな時にこんな場所で“いたそう”なんて思ってんじゃねえだろうな」
 サイトは敵意を隠さずにワルドを威嚇する。口には出さないまでも、その態度からは「非常識な」という責める言葉が滲み出ているようだった。
 ワルドとルイズを引き離そうとずかずか歩み寄るサイトだが、三歩前に出たところでワルドに遮られた。
「さすがに僕もそこまで厚顔ではないよ。しかし、別のことを“いたそう”とは思っているがね」
「……なに?」
「ルイズと挙式をあげることにした」
 瞬間、時が止まった。サイトの世界から音が消え、そしてぐにゃぐにゃと視界が歪む。今、こいつはなんて言った? 挙式……てことは、結婚? ルイズが、嫁に――
「は、はは、なんか俺、耳がおかしいみたいだ。すいませんけどもう一回言ってもらえ」
「何度でも言おう。僕とルイズは明日、結ばれる」
 もう、サイトは立っていられなかった。両目は痛々しいほどに見開かれ、わけもなくアゴが外れたように口が開き、頬の筋肉が戦慄いてがくがく震えている。
 それでも腰が抜けて尻もちをつかなかったのは、ただ目の前の男に無様な姿をさらしたくないという、たった一つのちっぽけな見栄(プライド)であった。
「は、はは、は、は。そ、そうッスか。よかったッスね――なあルイズ、本気か!? 正気なのか!!? 本当にワルドと結婚するのか!!!?」
 ワルドへの簡潔な祝いの言葉を贈り、そして食らいつかんばかりの勢いでルイズに捲し立てた。それはもう必死な形相で、万に一つの可能性を願う嘆願者のようでもあった。
 しかし。

 こくり

 と頷くルイズの前に、サイトは黙らざるを得なかった。
「皇太子殿に立会人をお願いしてね。彼は快諾してくれたよ。ついさっきそれをルイズに伝えたら、彼女は恥じらいながらも僕の求婚を受け入れてくれた。いや、僕もいささかためらったのだがね。しかし、こんな時だからこそ、皇太子殿を鼓舞するためにもなにかめでたい出来事をお送りしたかったのだ。結婚の立会人ともなれば、一生を左右する重大な役目だ。彼は僕らが永遠の愛を誓う姿に勇気づけられ、明日はきっとさらに勇敢に戦い、勇敢に散ってくれるだろう」
 べらべらと唱うように喋るワルド。しかし、その言葉は一言一句サイトの脳みそに届かない。ただの音声(ノイズ)として右から入り、左から放流されるだけである。
 サイトは、目の前が真っ暗になった。
「――よう色男。どんな手品を使ったんだ?」
 サイトの背中から待ったがかかる。デルフがサイトの肩越しににょっきりと柄を出していた。
「……魔剣か。手品もなにも、僕は事実を語っているだけだ。僕らは愛し合っている」
 なあ? と隣に立つルイズへ微笑みかけるワルド。ルイズはこくり、と頷いた。
 サイトはもう、世界が終わり、全てが崩壊して、地の底へ堕ちていくかのような感覚に満たされていた。心の全てが急速に硬化し、ひび割れ、砕け散っていく。視界がちらつく。上手く呼吸できない。両手を首にまとわせて不自然なリズムで呼吸を刻むが、酸素が喉を通っていかない。ルイズ。本当なのか? 本当にそいつと結婚するのか? 俺はなにも聞かされてない。俺は、お前の使い魔なのに。俺がお前を守るはずなのに。ルイズ、ルイズ、ルイズ――
「しかし腑に落ちねぇ。
 いくら娘っこがお前を愛してたとしても、多少の分別は弁えてると思ったんだがな」
「根拠も無しになにを言う。それにルイズは受け入れたのだぞ? 本人の意志は使い魔の意志だ。使い魔君に、この結婚を阻む権利があると思っているのかね?」
 ワルドは悠々と余裕を身に纏い、胸を張ってサイトを見下ろす。その口元はいびつに歪み、月光を背負って影に包まれたその姿はまるで悪魔のようである。
 デルフは怪訝そうにしながらも、ワルドの言葉に強く出られない。何故なら、ルイズがワルドの言葉に、素直に頷いているのだから。
「ふむ。そこまで信用ならないのなら、証拠を見せようか?」
 くい、とワルドがルイズのアゴに手をかけた。



「   あ 」



 ルイズと ワルドが キスしてる


 
 唇を重ねたかと思うと、ゆっくりと舌がルイズの小さな唇を分け入りさしこまれる。始めは緩やかに、そして徐々に激しくなる唇と唇の貪り合い。いや、ルイズはただ受け入れているだけなのだが、サイトにそれに気づく余裕はない。
 ぬちゃぬちゃと淫らな水音が漏れ出て、ワルドの舌がルイズの口中を這い回る。糸を引く粘液が口の端から溢れ、つつー、と透明な糸を引いた。唾液だ。ワルドが自分の口内のそれを、ルイズの可愛らしい蕾のような唇の中へ流し込んでいるのである。ルイズは唾液を飲み込むことなくだらだらと口の端から溢れさせ、流れ落ちるままにしている。溢れた唾液はアゴを伝い、ぼたぼたとカーペットに染みを作った。
 サイトはその光景から目が離せない。目の前の生々しい現実が彼の脳髄を蝕み、目の前が黒と赤のストロボで明滅する。月光に照らされた二人の姿はどうしようもなく醜悪で、醜い悪魔に蹂躙される聖女の姿を想起させた。
「あ」
 サイトは一歩足を下げる。
「ああ」
 サイトは三歩後退する。
「あああ」
 サイトはバランスを崩したように後ろへつんのめり、ばん、と部屋の扉に張り付いた。
「あああぁぁぁああぁぁぁあああぁぁああぁあぁぁああぁ」
 サイトはバネ仕掛けの人形のようにドアノブに縋り付き、震える手で乱暴に回して、蹴破らんばかりの勢いで部屋を飛び出した。
 嫌だ。もう見ていられない。見たくない。ルイズが、誰かとキスする姿なんて!
「うわあああぁぁぁああぁぁあぁああぁあああッッッ!!!!」
 遠ざかっていく壮絶な足音。“神の盾”は主人を蹂躙する髭の悪魔の前に、尻尾を巻いて逃げ出した。
 ちゅぽん、と淫らな音を立てて、ワルドはルイズの唇を吸うのを止めた。
「――はは」
 彼は愉快で堪らなかった。彼の計画はほぼ成就されたのだ。
「はは、ははは、はーっはっはっは!!!!」
 闇夜に響くワルドの嘲笑。
 いつの間にか月光は陰り、空には暗雲が立ちこめ始めていた。

     ○

 何故だ。
 どうしてこうなった。
 俺たちはただ姫さんのお使いでこの国に潜入しただけなのに。
 手紙返してもらって、明日帰るだけだったのに。
 それだけのはずだったのに。

「あああぁあぁぁぁああぁあ!!」
 サイトは走る。
 意味も分からず、また意味もなく、急き立てられるように痛切な悲鳴を上げながら。幾人かの兵士とすれ違い怪訝な顔をされたが構いやしない。ただ、叫ばずにはいられない。でないと思い出してしまうから。
「――がっ?!」
 階段を駆け下りようとして、足を踏み外し転げ落ちる。ごろごろと転がり、全身をしこたま打ちつけて階下に叩きつけられた。
「はぁ、はぁ、はぁ――……」
 酸素が足りない。不足した分を貪るようにぜえぜえと喉を鳴らし、四つんばいでうなだれるサイト。その形相は鬼のように鬼気迫る緊張感を纏い、頬からはぼたぼたと不自然なほど吹き出した汗がしたたり落ちている。

 ――じゅる

「う」

 ――じゅる、ちゅ、ちゅっ、ふぅ……

「あ、ああ、あああ――」
 サイトは狂ったように頭を掻き抱き、がくがくと振り乱す。耳の置くにこびりついたのは、心を蝕む悪魔の音色。口の間から見え隠れする舌が、こぼれ落ちる透明の糸が、そして断続的に耳を犯す、卑猥で下品な水音と呼吸の音が、脳裏から消えてくれない。
 いけない。立ち止まってはいけない。でも、逃げても逃げても追いかけてくる――
「うあ、ああ、あああ、あああああぁぁぁああぁぁあぁああぁあああッ!!!!」
 もう一度振り払うように絶叫し、また走り出すサイト。彼は行く当てもなく、無意識に“下へ”と駆け続ける。

「――……?」
 後ろからゆっくりと付いてくる、青髪の少女に気がつかぬまま。

     ○

「寒ぃねぇ……」
 ハタヤマはぶるりと肩を震わせた。牢の後ろの方に座り込み、両手を頭の後ろに組んで、両足を組み床に投げ出したリラックススタイルである。彼は冷え込む石壁や臭い匂いに閉口しながらも、大人しく幽閉されていた。
 まさか捕まるとは思っていなかった。せいぜい見つかって追い立てられることはあっても、なんとか誤魔化して逃げ切れると思っていた。まさか自分と同等の力を持つ相手と鉢合わせるなんて、想定すらしていなかったのだ。この世界の魔法使いのことしか頭になく、想定外(イレギュラー)への警戒を怠ったゆえの失敗。これは自分の甘さである。
「ぅえぶしっ!!」
 ずび、と鼻を啜って人差し指でこする。くしゃみと同時に鼻水がたれた。
 妙なところで再会したが、あの子は怒っていなさそうだった。面に戸惑いは浮き出ていたが、どちらかというと心配の色の方が濃かった気がする。あんなみっともない姿を見せてしまったのに、まだ見限られていないのだろうか。
 いや。
「卑屈はいけないな」
 ボクはあの少年に色々した。それが素直に受け取られていれば、少なくとも多少のことで不信感は与えないはずである。そう信じたい。いや、そう信じよう。
 ハタヤマはマチルダとの一夜で、相手の気持ちを考えることと自身の行いを客観的に評価する視点を得るに到っていた。相手に嫌われていると“思いこむ”こと。それは、ヒトの気持ちを理解しないというとんでもなく傲慢なエゴである。相手にだって心はある。それは、自分勝手に想像して、決めつけてよいものではないのだ。
 分かっていなかった頃はただ苦しかった。しかし、今ではそれが嘘だったかのように胸が軽い。無駄に思い悩んでいたことを、『相手に任せて良かった』ということが分かったからだ。胸に渦巻いていた黒い鉛のようだった毒蛇が、霧のように消え去ったような気分だ。
 彼の胸の動機は穏やかで、表情は雨後の快晴のように晴れやかであった。
 サイトたちが去ってしばらく経った。反省の意味をこめて朝まではじっとしていようと思ったのだが、この男はすでに飽きていた。
 だーれもいないし暇つぶしの材料もない、聞こえるものといえば隙間風が吹きすさぶびゅうびゅうという寒々しい音のみである。静かすぎてつまらないのだ。
 そろそろメタモル魔法でネズミか猫にでも変身して脱出しようかな、とハタヤマがそんな風に考えていると。遠くからけたたましい足音が聞こえてきた。その足音は速く、どんどんこちらへ近づいてくる。
(こんなところになんか用かな……?)
 ハタヤマが怪訝そうに眉をひそめる。このだだっ広い牢獄には、現在自分しかいない。まさか自分に用事、いやいやそんなことあるわきゃない、と足音の正体を色々勘ぐってみるハタヤマ。
 なんだか一直線に音が大きくなってくるので、興味ありげに横目で鉄格子の向こうを窺うハタヤマ。そこへ現れたのは、大きく息を荒げて両太股に手を置き身体を支え、肩で息をしているサイトであった。
「おや少年。いったいどうした?」
 きょとんとして尋ねるハタヤマ。サイトの様子は尋常でない。目は血走り、髪が濡れるほどに汗を拭きだし、あらゆる意味で挙動が不審だ。特にぎょろぎょろと焦点の合わぬ眼球が、落ちつかなさを物語っている。
 サイトはがしゃん、と鉄格子を両手で掴み、異常な顔色に染まった顔をハタヤマへ晒した。
「ルイズ」
「は?」
「ルイズが、ルイズがワルドと結婚するんだッ! ワルドは許嫁で親同士が決めてたらしいけど、今キスしてたッ!! 舌這入って、ヨダレたれて、あいつが男とキス……!!! ああぁルイズぅぅうううわぁあああああッッッ!!!!」
「落ち着けっ!!」
 びくっ! とサイトは震えた。慌てて駆け寄ってきたハタヤマに両肩をがしりと捕まれたからだ。
 サイトは衝撃を受けたように息を止め、そして放心した。
「あ、あぁ」
「結婚ってのはめでたいことじゃないのか? キミは何に焦ってる? 落ち着いて、順を追って説明してくれよ」
 ハタヤマはサイトの瞳を覗き込み、諭すように言い聞かせた。しかし、サイトは脳内のぐちゃぐちゃこそ沈静化したようだが、まだ論理的に言葉を組み立てられる状態にはないらしい。サイトは必死に説明しようとするが、異常に視線を彷徨わせながらあうあうと口をパクつかせるだけしかできなかった。
 無理に急かすこともできないので困ってしまうハタヤマ。難しい顔でアゴに手をやる。
「娘っこが誑しこまれたんだよ」
「誑しこまれた?」
 『使い手』の様子を見かねたのか、サイトの背中からデルフが柄を出す。ハタヤマは続きを促す。
「俺たちはちっと用事でここまで来たんだが、護衛が娘っこの許嫁でな。ついさっき結婚表明されて、相棒が取り乱しちまったんだよ」
「ふーん……娘っこって誰だっけ?」
「相棒のご主人様だよ」
「ご主人……ああ、たしかルイズちゃんだったかな?」
 なんとなく思い出したハタヤマ。たしか街で初めて再会した時、サイトの隣にいた小さいピンク色の髪の女の子である。半月ぐらい前にも会ったが、その時も世間話程度のことしかしなかったのであまり印象に残っていない。ハタヤマは可愛い子とあらば節操なくちょっかいをかけるが、他人の嫁には手出ししないようにしているのだ。
 しかし、サイトの崩れように少々面食らうハタヤマ。ひどい目に遭わされていると常々愚痴っていたくせに、じつは心の底から惚れこんでいたんだろうか。
「いや、凄まじいことになってるね。結婚宣言がそんなにショックだったのかい?」
「いやな、それだけじゃなくて、目の前で熱烈なラブシーンを見せつけられてなぁ」
「ラブシーン?」
「熱いベーゼを交わしやがったんだよ」
 こう、ぶちゅーっとな、と気にくわなげに言うデルフ。その意味を理解し、ハタヤマはあちゃー、と天を仰いだ。そらきっついわー。
 しかし、ハタヤマは言いにくそうに返す。
「でも、その男は許嫁なんでしょ? それじゃあ、ちょっと割り込むのは難しいよね」
 ハタヤマはデルフの説明を、『恋敗れ夢砕けた青少年の、甘酸っぱい青春』と受け取った。後から惚れた時点でもう周回遅れなのだから、そこまで進まれちゃもうどうしようもない。できることといえばせいぜい枕を涙で濡らすことと、式場でブーケを憎しみ込めてダンクシュートするくらいだろう。
 だが、デルフはそれに言い返した。
「それがなぁ、ちっと娘っこの様子がおかしかったんだよ」
「というと?」
「なんかみょ~に目が虚ろでなぁ。なに言っても頷くしかしやがらねぇ。あいつの性格なら接吻だって羞恥で拒むくらいしそうなもんなのに、なされるがままだったからな」
 デルフはルイズに違和感を感じていた。いつもはサイトと顔を合わせれば速効でいびりの一つも飛ばしてくるのに、あの時はいびりどころか皮肉一つも返してこなかった。それはあの万年精神病患者のように気が立っている彼女にしては、異様過ぎる変化である。
 ハタヤマはふむ、とアゴに手をやった。
「昼間、ってかボクが捕まる寸前まではまともだったんだよね?」
「ああ、あの時まではぴんぴんしてやがった。相棒が牢屋に付いてくって言った時も、ちょいとばかしいびるだけでさっさと戻ってったしな」
「……魔法の線は?」
「それは無ぇ。ちゃんと『視』たからな」
 デルフの調べでは、ルイズからはなんの反応も感じ取られなかったらしい。なかなか抜け目無い魔剣である。
「できれば声かけと正気判別もしたかったんだが、相棒がキレちまってできなくてなぁ」
「ま、そりゃ酷ってもんでしょ」
 自分だったら逆上してその男をぶっ殺すかもしれない。そう思いハタヤマは苦笑いを浮かべる。ボクの嫁に手を出すやつは地獄すら生ぬるい。検事も弁護士も陪審員もボク、満場一致で死刑一直線だ。
 それを考えると、サイトを責めるのは可哀想というものだ。
「少年、キミはどう思ってるんだ?」
「え?」
 サイトは俯いた顔を上げた。
「ルイズちゃんが結婚していいの?」
「ばっ! そ、そんなもん、俺がどうこう言うことじゃねえよ!」
「じゃあなんでそんなに落ちこんでんの?」
「それは……」
 ただじっと見つめるハタヤマの視線に、サイトはわずかに言い淀む。
「分かんねえ」
 サイトにとってルイズは、かなり複雑な存在だった。いきなりこんな意味分からん世界に呼び出すわ、勝手に使い魔にされてこき使われるわ、散々な目にしか遭わされていない。
 この世界にやってきて死にかけたのは一度や二度じゃない。つい最近になって待遇は改善されつつあるが、未だにベッドで寝ることすら許されない。俺は家畜じゃないのに。それを思い返せば、あいつがどうなろうと別に構う必要はないのかもしれない。
 けど。
「あいつがキスしてんの見たら、なんか落ちつかねえんだ。胸が痛えんだよ」
 ワルドを見ていると胸騒ぎがする。ルイズが危ないって、なんとかしなきゃって、胸の奥がざわめくんだ。
 サイトはそう言って、ぎゅっと拳を握りしめた。
(……なんかおかしいなぁ)
 ハタヤマは、思い詰めたようなサイトに首をかしげる。たしかに、サイトはルイズを大切な存在として、守りたいと思っているようだ。
 しかし。
(想いの出所があやしい)
 なんというか、サイトから助けたという想い“しか”伝わってこないのだ。人間ってのはそんな単純な生き物じゃない。衝動には必ず、それへ働きかける原動力となる欲望が発生しているはずなのだ。しかし、サイトからは、助けたいという衝動は感じるが、それの発生源となる欲望が感じられない。好きとか嫌いとかいう以前に、“守らなければならない”という強迫観念で動いている気配しかしないのだ。
 彼は、本当に心の底から、本心でそう思っているのだろうか。ハタヤマはそれに強く疑問を感じた。
 だが。
(今は、それを指摘すべきじゃない)
 そんなことをして自分に疑問を持ち、動けなくなってしまっては大変なことになる。なにか行動を起こすにあたりノリや勢いは大切なファクターである。たとえ多少あやしくとも、ここは乗っかるべき時だ。
 やらずに後悔するより、やってから思い悩んだ方がいい。そっちの方は取り返しがつくから。
「まあ、そこまで挑発されてなにもやり返さないのはくやしいね。どれ、ちょっとそいつを試してやろうじゃないか」
「え……」
 きょとんとハタヤマの眼を覗くサイト。
「なんて顔してるんだい。その婚約者とやらが気にくわないんだろう? デルフくんも釈然としてないんだろう? なら、納得いくまで調べるべきだ。疑うべきだよ」
「う、疑うって」
 サイトはたじろいだ。証拠も無しに他人を疑うなど、口にすることもはばかられるような気がする。
 しかし、ハタヤマは怪しむことをためらわない。
「別に疑うこと自体は悪い事じゃないんだ。本当にダメなのは、疑いを疑いのまま放置して、仲をこじらせることなんだ」
 勘違いなら謝ればいい。それで許してもらえないなら、それはそれでしかたない。保証もなく仲良くしてだまされるよりましである。
 信じる前に、信じるために疑うこと。それをハタヤマは信条としており、だからこそサイトに主張した。
「このままルイズちゃんが盗られちゃったら、キミも気持ちの整理がつかないでしょ。せめて、そのワルドとやらが信頼に足る相手なのか見極めさせてもらおうじゃないか」
 不味いやつなら結婚は許さん。なんとしても阻止してくれる。だが、審査の結果合格ならば、その時は諦めるんだよ。
 そんな風にハタヤマはサイトを諭し、ぽんと肩を叩いた。サイトは複雑そうに顔を歪めながら、しぶしぶこくりと頷いた。
「ところで、そのワルドって人はどんなやつなんだい?」
 さあ調査を開始しよう、と意気込んでみたものの、サイトにはその具体的なアプローチの仕方が想像もつかないようだった。
 なのでハタヤマはとりあえず、この場でできそうなことから始めることにした。聞き込み調査である。

〈Case.1 平賀サイトの証言〉
「いけすかねぇおっさん。性格は良いけどそこがまたむかつく。完璧超人かよ。あとヒゲ」

「……そんだけ?」
 拍子抜けしてあんぐりとアゴをおとすハタヤマ。ただの私怨のまみれな悪口じゃないか。
「あん? 人柄って言ったじゃねーか」
「いや、言ったよ? でもそんなつかみ所のない言い方されちゃ、なにも言いようがないじゃないか」
 せめてもうちょっと建設的なことを話して欲しい。今の話でワルドの概要が理解できるなら、そいつは聖徳太子かエスパーである。
「ルイズの許嫁で超つえーんだよ。仕合して負けかけたし」
「負けかけた? キミが? ――って、今聞きたいのはそういう話じゃなくて」
 一対一(サシ)の勝負ならべらぼうに強い目の前の少年が苦戦したと聞き、わずかに眼を見開くハタヤマ。それについても聞いてみたい気がするが、今はそんなことで盛り上がりたいわけではない。なかなか意図を察してくれないサイトに、ハタヤマはちょっとばかし困ってしまった。
 必死で話すが主観的な内容から脱し得ないサイトの言葉に、眉を寄せがりがりと頭を掻くハタヤマ。ハタヤマがどう説明したもんか、と悩んでいると、不意に表情を硬くし、出入り口である固く閉ざされた鉄扉の方を見やる。
「あん? なんだ……」
「――シッ」
 人差し指を立てサイトを制し、片目を細めて耳をそばだてるハタヤマ。サイトは言葉を遮られ気分を害したように眉根を寄せたが、数舜して彼も気づく。
 足音がする。階段を下り、こちらへ向かう人の足の音がする。ここに収容されている囚人は現在ハタヤマだけ。ゆえに、誰もここへ立ち寄る理由がないはずなのに。
「「………………」」
 二人は警戒したように黙り込み、じっと鉄扉を見つめた。足音はどんどん近づいてくる。サイトはハタヤマが急に纏った張りつめた空気に当てられ、意味も分からずごくりと生唾を呑み込んだ。
 やがて足音は扉の向こう側で止まり、ギギギ、と重々しい軋みを上げて開かれる。まず初めに眼に映ったのは――透き通るような水色の髪。
「……?」
 不思議そうに首をかしげる闖入者、それはいつもぬぼーっとしている、眠そうな目の青いちびっ子。今回の任務の同行者が一人、タバサであった。
 彼女の姿にハタヤマは表情のこわばりを解き、サイトは驚いて目を丸くする。
「た、タバサ? どうしたんだ、こんなところに」
「……あなたの様子がおかしかったから」
 どうやら奇声を上げながら駆け回るサイトの姿を見かけ、心配になって付いてきたらしい。
 サイトはその言葉の意味を理解して、顔を赤くして目を背けた。
「あ、あぁ。ちょっと色々あってさ」
「ちょっと聞いてよタバサちゃ~ん。少年ったら青春真っ盛りなんだよ」
「お、おい!」
 間髪入れず暴露しようとするハタヤマに、サイトは顔を真っ赤にして怒鳴る。口の軽きこと貝の如し。魚が来たらすぐに開いてしまう。
「いいじゃんか。味方は多い方が良い。それに、この子は比較的しっかりしてるからね。有益な意見をくれるだろう」
 ハタヤマはそう言ってさばさばと笑った。自分の負担が軽くなって嬉しいらしい。
 タバサは若いのに宮仕えで匿名部隊所属なので、学生のようにちゃらんぽらんではない。その鍛えられた経験と知識を生かして、必ずや役に立ってくれるはずだ。
「まあ無理にとは言わないけどさ。彼女に知恵を借りることをボクはお勧めするね」
 実際問題、ハタヤマはサイトたちの事情を一つまみの砂粒ほども知らない。なので、たとえ様々な説明をサイトから受けたとしても、そこから得られた推測は想像の域を出ないだろう。実のある議論を展開するには、客観的に判断してくれる者がどうしても必要なのだ。
 ハタヤマたちのやり取りに、ただ眠そうな眼をパチクリさせているタバサ。サイトは彼女をじっと見つめ、言いたくなさそうに唸った。
 しかし。
「……わかったよ」
 どうしようもないと折れたサイトは、タバサに打ち明けることを決める。
 そして己が見たあの忌まわしい出来事を、ゆっくりと語り始めた。

     ○

 夢を見ている。
 暗い闇の中で立ちつくす夢。
 なにも見えず、なにも聞こえず、まとわりつくのは闇ばかり。
 何故か指一本動かせず、また、動かす気力もなく、私はただ立ちつくしている。

 やがて隣に異形が現れた。
 虚空に三日月型の白が現れたかと思うと、黒い横線が真ん中をしゅっと横断し、縦線がいくつも刻まれた。
 どうやら口らしかった。
 口はひょこひょことおかしげに上下へ跳ねると、わたしの周りを回り始めた。
 親しげに、愉快げに、楽しくて堪らないというように、ぴょこぴょこ跳ねながらわたしの周りをぐるぐる回る。
 ぐにゃぐにゃ伸びたり縮んだりする三日月型が気持ち悪い。
 わたしはそれをなにをするでもなく、ぼんやりと放置していた。
 集中できないし。

 しばらくすると、口が突然不快げにへの字へ歪んだ。
 光だ。
 眩い光がわたしの前に現れた。
 その光を見ていると安心する。
 なにか懐かしい気がする。
 この光のそばにいると、わたしは心を休めることができる。
 お屋敷でも、学院でも、わたしは落ち着けなかった。
 周囲を威圧し、“秀才”という仮面を被らねばならなかった。
 貴族のくせに魔法が使えない。
 なら、わたしから学力をとればなにが残る?
 わたしはなにを誇ればいいのだ?
 ちぃ姉さまは「無理しなくていいのよ」って言ってたけど、そうはいかない。

 ヴァリエール。
 この名前には、様々な責任が籠められている。
 先祖代々続く名家としての誇り。
 領地を統べる領主としての誇り。
 国に仕え、国を守る貴族としての誇り。
 大好きな父様、母様、ちぃ姉さま、そして……ちょっと、というかとても恐いけど、カトレアお姉さまも。
 みんなこの誇りを背負い、ヴァリエールを名乗ってる。
 わたしはみんな大好きだ。
 父様も母様も厳しいけど、とても立派な方だ。
 あんな風になりたいと思う。
 カトレアお姉さまにはいつも叱られる。
 でも、小さい頃はよく勉強を見てくれたし、休憩の時はたまにクックベリーパイと紅茶を煎れてくれたから好き。
 恐いけど。
 ちぃ姉さまは大好き。
 だって、とっても優しいんだもん。
 わたしは泣きたくなると、いつもちぃ姉さまのところへ行く。
 するとちぃ姉さまは、決まってぎゅっと抱きしめてくれるの。
 暖かくて、柔らかくて、良い匂いがするから好き。

 大好きなみんなは“ヴァリエール”。
 そしてわたしも“ヴァリエール”。
 わたしの行いが、ひいては家族みんなの評価に繋がる。
 わたしが落ちこぼれたら、父様や母様が軽んじられる。
 カトレア姉さまが馬鹿にされる。
 ちぃ姉さまが悲しむ。
 だから、わたしは貴族らしくあらねばならない。
 魔法ができないからこそ、矜恃だけは気高く保たないと。
 だって、わたしは“ヴァリエール”なんだから。

 でも、この光はそんなこと関係無しにわたしを照らす。
 貴族や平民、出来不出来に関係なく、なんにでもつっかかっていく。
 ご飯抜きにされてもめげない。
 五体をずたずたにされて、血塗れになっても立ち上がる。
 気に入らなければメイジだろうが貴族だろうが構わない。
 誰に対しても同じように物を言うのだ。
 初めは無礼な平民だと思った。
 学のない、文字も読めない、常識の欠けた下賤なやつ。
 でも。

 あいつは、わたしを“ゼロ”だからと馬鹿にしなかった。

 あいつはわたしをからかったり、馬鹿にすることはある。
 けれど、その理由はもっと単純だ。
 顔を自分で洗わないからだとか、食事を抜かれたからだとか、そんなくだらないことへのささやかな復讐だ。
 学院のむかつくやつらが枕詞のように口を揃えて言う、“ゼロのルイズだからしかたない”とは、あいつは一度も言わなかった。
 いや、一度言ったことがある。
 でもその一度だけ。
 ひとしきり笑って茶化した後、もう二度と口にしなかった。
 あいつにとってわたしが“ゼロ”であることは、そうたいしたことではないらしい。
 あいつは魔法が使えないことではなく、もっと直接的な、わたしの行いに対して文句を言う。
 床は痛いだの、服ぐらい自分で着ろだの、飯抜きは横暴だなど、具体的な行動に対して抗議する。
 その理由に、わたしが“ゼロ”だからとは言わないのだ。
 それが、わたしを何故かほっとさせた。

 この光からは、あいつと同じ気配がする。
 そばにいると安心できる、心の鎧を脱いでも良いかと思えるような、暖かい温もり。
 だが、口はその光を快く思っていないらしい。
 飛び込むようにわたしと光の間に割り込むと、かしゃかしゃと中身のない歯だけを開閉し、光を威嚇する。
 光は途惑うように震えるも、なおもわたしに近づこうとしてくる。
 口は、それに禍々しいように、端をつり上げた。

 口は、わたしの唇を奪った。

 気持ち悪い。
 嫌。
 嫌、嫌。
 嫌、嫌、嫌。
 口は、いつの間にか虚空から舌を出現させ、わたしの口内を犯す。
 嫌なのに、振り払いたいのに、わたしは指一本動かせない。
 まるで自分の身体じゃないみたい。
 でも、口中を這い回るこの感触は生々しい。

 ――あ。

 光が、行ってしまった。
 急速に遠ざかっていく。
 もう見えなくなった。
 ここには、もうわたし一人。
 いいえ――口だけが、にやにやと、にたにたと。
 厭らしく跳ね回っている。


 ……もうなにも考えたくない。
 わたしは、かんがえることをやめた。

「おや、ルイズ? どうしたんだ? 何故泣いている? ああ、そうか、感激に胸が震えてしまったんだね! ああ、僕も嬉しいよ! 感極まってもらい泣きしてしまいそうだ! いや、紳士たる者、レディーの前で涙を見せてはいけないな。とても辛いけれど、ここはぐっと堪えることにするよ。ああ、しかし君の涙を見ると思い出すね! なにかって? 遠い昔の小舟のことをさ! ああルイズ、ルイズ! 僕のルイズ! 僕だけのお人形、僕にだけ尽くす大いなる“虚無”よ!! はは、ははは、はは、は――っはっはっはっはッッッ!!!!」

     ○

「――これが、俺の見た事全部だ」
 そうサイトは言葉を切った。できる限り克明に話したつもりだ。デルフも協力してくれたので、話し零しもないだろう。
 ただ、ワルドにキスされていたことだけは言わなかった。いや、言えなかった。ハタヤマもそこには触れなかった。
「………………」
 タバサはじっと黙り込んでいる。心なしか眠そうだった目尻がこわばり、眉間にしわを寄せているように感じる。目に見えるほどの表情の変化。それはサイトが初めて見るような、かつて無い変化だった。
「タバサちゃん、どう思う?」
 サイトよりもタバサの機微に敏感なハタヤマが、彼女へ発言を求める。まるで彼女が答えを知っていると確信しているかのように。
 タバサはゆっくりと眼を閉じ、そして大きく開いた。
「おそらく、薬」
「薬、ねぇ」
「なるほどなぁ。魔法の気配がねぇってことは、そっちの線が濃厚だよなぁ」
 盲点だったぜ、とデルフが鞘をカタつかせる。自分を置いて納得している三人に、サイトは焦って声を荒げた。
「おいちょっと待てよ! 俺にも分かるように説明しろよ!」
「ああ、そっか。馴染みないから分からないよね」
「おそらく精神操作系の秘薬。ルイズはそれを飲まされた」
「じゃ、じゃあ……あれは、ルイズの本心じゃないのか?」
「そうなるなぁ」
 良かったな相棒、かかか! とやかましく鞘を鳴らすデルフ。それを聞いてサイトは目に見えて表情が明るくなる。鬱屈した感情が晴れ、じんわりと笑みが戻ってくる。
 しかし、他の二名の表情は暗い。
「しかし、誰が薬を盛ったんだろうね?」
「そりゃ、あのヒゲだろ」
「それ以外に考えられない」
「だよねぇ」
 自分で提起しておいて、あっさり納得するハタヤマ。分かっていて聞いたようである。
 はっ、と安心による放心から、正気に戻るサイト。
「――こうしちゃいられねえ! ルイズを助けねえとっ!」
「はいストーップ!」
「うげっ?!」
 振り向きざまに地を蹴ろうとしたサイトのパーカーがわしづかまれる。見事に首を極められたサイトは、ヒキカエルがひしゃげるような汚い声を吐き出し、仰け反った。
 喉に両手をやりあえぎながら振り向くと、掴んだ手の主はハタヤマだった。
「なにしやがる!」
 苦しさと怒りで顔を真っ赤にして怒鳴るサイト。その顔には先ほど沈静化したはずの焦りが色濃く再発し、鬼気迫る気迫を感じさせる。
 しかし、その矛先であるハタヤマは涼しげにそれを受け流し、ぴっと人差し指を立てた。
「まだ理由が弱い。ちょっかいかけるのはよしときな」
「なんでだよっ!! ルイズの様子がおかしかった! ワルドが怪しい! それでもういいじゃねえかっ!!」
「だーかーらー落ちつけってば。その行動力は評価するけど、今回ばかりは悪い癖だよ?」
 気が高ぶりすぎた猪のようになっているサイトは、今にもまた駆け出しそうだ。ハタヤマはそんなサイトをじっと見つめ、とりあえずこれだけは聞け、と前置きした。
「まず、使い魔とはいえ平民のキミと貴族であり婚約者のワルドとやら。真っ向から言い合ったら、どっちが信用されると思う?」
「信用されるかどうかは関係ねえ! ルイズを調べればすぐ分かるはずだ!」
「もう寝たとか言って追い返されるのが関の山だよ。それでもしつこく食い下がろうもんなら、逆にこっちの立場が危うくなる。護衛って事は貴族なんでしょ? なら、相手はキミに対して、なんだってできるんだよ。『花嫁の使い魔が気が触れた』、とか言ってね」
「じゃ、じゃあワルドを倒してルイズを取り返す!」
「それこそまさかだ。キミ、衛兵が駆けつける前に、仮にも護衛としてつけられた魔法使いを押さえ込めると思ってんの? そりゃ粘れば勝てるかも知れないけどさ。猶予は保って三十秒だ。それを過ぎれば増援が来て、その時点でキミは謀反人として間違いなく死刑にされちゃうよ」
「じゃ、じゃあ! 衛兵も全員倒して……っ!」
「キミねぇ……」
 直情的に戦う事へ思考を傾倒させるサイトに、ハタヤマは頭が痛くなってきた。これが若さというものだろうか。本人の身体から発される悲壮ともいえる空気により、本当にその手段しかないと思っているのが分かるからなお質が悪い。感情派を理性で説き伏せようとするのは、なかなかに難しいのだ。
 このまま放っておいたら、本当にやりかねない。するとこの少年は、確定的に彼岸の六銭を支払わされることになるだろう。そう確信してしまうと、一ヶ月だけとはいえ時間を共にした者として、ハタヤマは彼を無視することはできなかった。
 ハタヤマは、うつむいて思い詰めたようにぶつぶつ呟いているサイトの目の前で、パン! と勢いよく両手を打ち鳴らした。
「ほらほら、熱くなるな! 肩の力を抜きなって! そんなんじゃ見えるものもみえなくなるぞ!」
「あ……」
「なにも戦って打ち負かすだけが方法じゃない。勝利という条件だけに限定すれば、それへの道は無数にあるんだ」
「でも、俺、考えんのって苦手で……もう、どうしていいか」
「大丈夫だ」
 どうしようもなくなって、頭を抱え込んでしまったサイト。呟く言葉は弱々しく、そこにはいつもの太陽のような眩しさはない。
 ハタヤマはサイトの両肩をがしりと力強く掴み、前を向かせた。
「キミは独りじゃない。ボクも一緒に考えよう。それに、デルフくんもタバサちゃんもいるんだ。みんなで知恵を搾れば、きっとルイズちゃんを助けられるさ」
 眼を合わせ、ゆっくりと、穏やかに微笑み諭すハタヤマ。その表情からは普段のちゃらんぽらんでいい加減な軽薄さが消え失せ、真摯な内面が発露していた。
 そう、この男は。事ここに至った時、重大で大変な場面でだけは、道化の仮面を脱ぎ捨てる。必要な時、必要な場面でだけは、これ以上ない頼もしい味方となるのだ。
「もう少しだけ我慢してくれ。なんとかして糸口を見つけるから」
「……あ、あぁ」
 サイトは、修行時代には一度も見たことがなかったハタヤマの純粋で親身な口調と物腰に、憑きものが取れたように放心して応える。
「………………」
 タバサは彼らのそんなやりとりを、物言わずじっと静観している。
「タバサちゃん」
 ハタヤマは真剣な眼差しをタバサへ向けた。
「キミたちがここへ来るまでの出来事を、話せる範囲で教えてくれないかな?」
 ハタヤマの静かな懇願に、タバサはわずかに眼を細める。願いをこめて見下ろすハタヤマに値踏みするように見上げるタバサ。空気が冷たくなっていく。
 二人の間に流れる空気に、サイトは水面からやっと顔を出せたダイバーのように割って入った。
「お、おい、必要だってんならいくらでも教えるよ! なんでそんな睨み合ってんだよ!?」
「それはねぇ、ボクが」
「信用できるか分からない」
 ハタヤマの言葉尻を受け継いだタバサ。彼女はなんの迷いも、遠慮もなく口にした。
 サイトは絶句した。
「ちょ――ちょっと待てよ!? こいつは俺のダチだ! 絶対に大丈夫だって!!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどね。状況的に考えて、もう少し疑った方が良い」
「なんでだよ! お前さっき言ってたじゃねえか! 『何処の組織にも属してない』って!!」
「鵜呑みにしてはいけない」
 あくまでも冷ややかなタバサの調子に、サイトは怒りとも不満ともつかない、正体不明の憤りにぶるぶる震え出す。
 その噴火に待ったをかけたのはデルフだ。
「相棒、よく考えろ。たとえ兄さんが知り合いとはいえ、この国は今、再会を手放しに喜べるような状況じゃねぇんだ。兄さんが偶然この国に来て、しかも偶然俺たちと出会った。これは確率的に考えて、ちょっと不自然すぎるんだぜ」
「……こいつが、俺たちの後を追ってきたっていうのかよ」
「可能性は否定できない」
「まあ、普通はそう思うよね」
 デルフも、タバサも、当の本人であるハタヤマでさえも、再会が作為的であることを疑っている。
 サイトは、内に渦巻く得体の知れない黒い炎を握りつぶすように堅く拳を握った。デルフとタバサの言っていることは分かる。反論はあるが、理解はできる。
 でも。

  ――お前は否定しなきゃ駄目だろう。

「聖っ!!」
 へらへらと他人事のように同意するハタヤマを、サイトは胸ぐらを掴み引き寄せた。拳は熱い焔が灯ったかのように力強い。
「なんで違うって言わねえんだ! なんで信じてくれって言わねえんだよ!! お前、ありもしないことで疑われてんだぞ!? 言い返せよッ!!」
「――……」
 サイトのもの凄い喧幕に、ハタヤマは度肝を抜かれたようにきょとんとしている。彼のがくがくと揺さぶる両手の力が、叩きつけるような剥き出しの感情を含んだ言葉が、ハタヤマの心に訴えかける。
 やがてハタヤマは胸ぐらの手に己の手を重ねると、その金の瞳を真っ直ぐに見つめ合わせ、言った。
「抗う言葉に意味なんて無いよ。信じる信じないは相手次第だからね」
「だから、より信じてもらいやすいように訴えろよ! なんでなにも言わねえんだ!!」
 烈火のようにまくしたてるサイト。ハタヤマはその強烈な感情の渦を受けてなお、水面のような瞳を曇らせない。
「ボクの言い分はもう語った。ボクの性格は普段の行いで示してる。それらをどう判断するのか。それはキミの領分であって、ボクが口出しする事じゃないよ」
 ハタヤマはこともなげにそう言った。ようするに、ここで信じてもらえないなら、自分の価値などその程度のもの。仲間にする必要もなく、いてもいなくても一緒だろう。そうハタヤマは言外に主張しているのである。
 なんと潔くも傲岸な男か。千の虚言で飾り立て、万の嘘で塗り固めることをよしとせず、ただ己の存在だけを唯一の真実として場に示す。ボクの値段はキミが付けろ、と言わんばかりの不遜さである。語る言葉を持っているくせに、あえて語らずに判断を委ねるのだ。
 多くを語らず、それ故にとんでもなく扱いづらい男。存在自体がめんどくさく、毒にも薬にもなりえる劇薬である。普通の神経の相手なら堪忍袋のメーターが振り切れて爆発し、もういいやーと切り捨てちゃう類の取扱注意な危険人物だろう。
 しかし、それに相対する左手の少年は、それを乗り越える才能を持っていた。
「――よし、信じる!」
「………………」
 おもむろにハタヤマの胸ぐらから手を離すと、決然とそう断じるサイト。そんなサイトを、タバサは物言いたげに見上げる。
「俺が今ルイズを助けるためにできることは、こいつに頼ることだけだ。俺はあんま頭よくねえから、知恵が回るやつが必要なんだ」
「いいのかい? もしかしたらボクが言ってたことは全部嘘で、キミを騙しているのかもしれないよ」
 サイトはじっとハタヤマの眼を見つめる。
「なあ、俺、前言ったよな」
「ん?」
「『自分の認めた相手を全力で信じること』。それが一番大切だって」
「……ああ、たしか、言ってたような気がするね」
 そう毅然と断言した姿があまりにも青臭く――そして、眩しくて。あの時は正面から見ていられなかった。
 ハタヤマはわずかに苦く口元を引きつらせた。
 サイトは続ける。
「お前は俺が認めた男だ。だから、絶対に大丈夫なんだ」
 真正面からハタヤマを見据え、サイトはそう言い放った。真っ直ぐで穢れを知らぬ、透き通った意志を称えた瞳。
 今度は、眼を逸らさなかった。
「――やれやれ、敵わないな」
 ハタヤマは苦笑し、肩をすくめた。 
「いくら悪ぶっても無駄だぜ兄さん? 相棒はそういうめんどくさいもんは、一切合切無視して突き抜けちまうからなぁ」
「そうみたいだね。もうネガネガするのは止めようか」
 ハタヤマは不意に表情を消し、真剣そのもので目の前の少年少女たちを見据えた。
「そこまで信頼してくれるからには、ボクも応えないわけにはいかない。絶対に後悔はさせないよ」
 ぱぁっと表情が明るくなるサイト。未だ物言いたげではあるが、これ以上口を挟もうとはしないタバサ。カタカタとおかしげに鞘を鳴らし続けるデルフ。

 ニューカッスル奥深く。
 薄暗き静寂が身を横たえるこの場所で今、ルイズ救出部隊(レジスタンス)が発足された。

     ○

 僕は半分ほど注がれたワインに口を付け、一息に飲み込んだ。味わい慣れたウエストウッドの葡萄の風味が舌に薫り、なにか懐かしい気持ちが揺り起こされてくる。
 あれは幼少の折、母上がご健在の頃だったか。国内の視察という名目で組まれた義理事に同行した時の事だ。父上は豊穣祭の貴賓として迎賓席に縛り付けられていたが、僕はまだ早いということで暇を出された。思い返せば、父上は子どもである僕を目の前の賑やかさ溢れる世界から隔離し、縫いつけることを哀れと思ったのかも知れない。
 僕はその言葉に跳び上がって喜び、母上の手を引いて屋台の森へと一目散に駆け込んでいった。村人たちは皆親切で、僕に様々な料理を振る舞ってくれた。なにせ、顔を見るたびに鳥の照り焼きやら豚のシチュー、サラダに果物をふんだんに盛りつけたケーキなどを皿一杯に盛って勧められるのだ。母上は小食だからあまり食べられないし、かといって残すのも礼儀が通らない。僕は頑張って食べた。腹がはち切れんほどに食べた。そしていささか苦しくなってきた頃に、母上は笑いながら教えてくれた。
「食べきれない時は、周囲の皆に振る舞えばよいのですよ」
 僕はそれを聞いて、ぽかんと口を開けてしまった。口を付けていない物ならば、他の屋台の店主や村人たち、お付きの衛士にそっくり与えてしまえばいい。交換だとか、お前も食ってみろとか、理由はなんでも良いらしい。そんなこと、僕はまったく思いつきもしなかった。無理に全部食べずとも良いのだ。僕がその気づきに「そっか!」、とぽんと手を打つと、周辺はどっと笑いに包まれた。僕が恥ずかしさに怒鳴り上げようと賑わいは止まることが無く、それどころかより深くなっていく。そして僕がどうしようもなくなってベソをかくと、母上は柔らかく抱きしめて下さった。
 胸に蘇る、平和だった頃の記憶。今もなお色褪せぬ、輝かしい日々の欠片。
 間もなく母上は亡くなった。死因は聞かされていない。誰に聞いても教えてもらえないので、僕は葬儀の日に大粒の涙を流すことしかできなかった。
 父上は再婚しなかった。一人息子である僕を跡継ぎと定め、より厳しく接されるようになった。母上を最後のお人と定め、自身の天命が尽きる時まで添い遂げるつもりのようだった。僕はそんな父上に憧れ、また良き跡継ぎであろうと心がけるようになった。
 政学、商学、その他様々な学問。魔法、杖術訓練など、王への教育は厳しいものであった。しかし、僕はひたすら耐えた。その原動力は、父上の期待に応えたい、母上にとって誇れる息子でありたいという一心だった。その甲斐あって僕は家臣や国民にも認められ、父上亡き後は次代のアルビオンを背負う王として、待望されているはずだった。
 そう、はず“だった”のだ。
「皮肉なものだな」
 思わずそう呟いてしまう。まさかこの様な結末が待ち受けていようとは。
 無礼なる叛徒共。己が利しか省みず、民を“うぬら”の覇道の観客か駒としか考えぬ、不届き千万なる貴族派共よ。
 聖地奪還だと? 笑わせる。国とは民だ。民の望まぬことを行い、望まぬ戦いへ引きずり込むことが、指導者のすることなのか。戦争が始まれば、人が死に、孤児が増え、餓えや渇きが蔓延するだろう。無辜の民の血も朱い河川が生まれ出るほどに流されることになるだろう。そうなればこの国は民の心が荒廃し、治安が下がり、野盗や無法者が幅を利かせる世の中へと変貌してしまう。この国だけではない、世界中もだ。存在する地獄へと為り堕ちてしまうのだ。
 深い憤りに拳をぎりぎりと握りしめる。しかし、それでは問題が解決されるどころか、気分すら晴れない。
 ああ、なんと無力なるこの両手よ。民を救い、導き、国の未来を掴むためのこの手の平だったはずなのに。今掴んでいるのは空のワイングラスだけだ。ああ、なんと情けない。
 もう僕にできることは、王として潔く、そして気高く果てることだけだ。
 これまで民に生かされてきた、そしてその恩に報いることができなかった王家の、最後の務め。
 恐くはない。この胸はむしろ、誇りの炎で燃えたぎっている。我が王家が王家の矜恃を、王族の魂をアルビオンに、そして他の国の民たちへと示すのだ。
 全ての王家の模範となるよう、我らは華々しく、壮絶に散ろうではないか。そう、その様が遥か遠い地にて我が身を案じてくれた、可愛らしい従姉妹へと届くように。それがあの娘への激励(エール)となり、この忌まわしき戦争を乗り越えるための勇気となるはずなのだから。
 不意に、戸口がけたたましくノックされた。
 いったい何事だろうか。緊急の報告ならノックもそこそこに大声で入室の許可を願ってきそうなものだが。
 僕は怪訝に眉をひそめながらも、グラスを置いて「入りたまえ」と声を掛けた。
 蹴破るように飛び込んできたのは、特使殿の使いである少年だった。
「おや、使い魔君。いったいどうかしたかね?」
 決戦前夜に気が高ぶって眠れないのだろうか。いや、彼らは明朝すぐに国を起つはずだから、そういうわけでもあるまいか。使い魔の彼はよほど急いでここまで走ってきたのか、雲の上という寒い土地である我が国には珍しいくらいに大量の汗をかいて、荒い息をついている。
 使い魔の彼は両膝に手をついて息を整えると。ややあって背筋をぴんと伸ばし、僕の顔を正面から見据えて言った。
「お願いします、ルイズを――ルイズを助けてください!」
「……む?」
 いったいどういうことだろうか。
 鋭角に頭を下げる使い魔君を前に、僕はきょとんと首をかしげた。

     ○

「なるほどねぇ……」
 サイトたちから彼らがここに来るまでの数日間の内容を聞き、ハタヤマはゆっくりと、かみ砕くように頷いた。腕を組んでアゴに手をやり、考え込むように眼を閉じている。
 サイトはそれを固唾を呑んで見守っている。それを見つめるタバサの視線は冷たい。なにせ、サイトは一欠片も隠すことなく真実を晒してしまったのだ。彼女にしてみれば危なっかしいことこの上なかった。
 しばらく黙っていたが、ハタヤマはゆっくりと目を開いた。
「一番おかしいと思うのは――いや、国の一大事な案件を君らに任せたというのもまずおかしいんだけど――、やっぱり、ラ・ロシェールの一件だね」
「ラ・ロシェール? あの港町のことだよな。なんで?」
「気がつかないかい?」
 思わせぶりに口角を上げるハタヤマ。サイトはなんのことかさっぱりなので、ただただきょとんとするばかりだ。
 あんまりからかってもしかたない、とハタヤマはタバサへ水を向けた。
「タバサちゃん。ここまでの話、キミは聞かされていたかい?」
「……聞いてない。あの夜に合流してから、ただ付いてきただけだから」
「なるほど。タバサちゃん(学院の友人)たちでさえ、姫さまの依頼内容は、そもそも依頼があったことさえ知らなかったわけだ」
 ハタヤマは瞳だけでデルフを見やる。
「デルフくん。これを踏まえて、どこがおかしいと思う?」
「おいおい、俺は剣だぜ。そういうのはお前らの仕事だろーが。ヒントならまだしも、まんま答えを求めるんじゃねーや」
 小気味良くカタカタと鞘を鳴らすデルフ。ハタヤマはふむ、と逡巡すると、そのまま矛先をサイトへ向けた。
「じゃあ少年。どこがおかしいと思う?」
「へ? い、いや、どっか……おかしいの、か?」
 限りなく疑問系のサイト。視線の泳ぎと語尾のか細さに、自信のなさが滲み出ている。
 ハタヤマはそれを眼を細め、生暖かい眼で見守っている。
「し……っ! しかたねーだろ! 分かんねえから聞いてんじゃねえか! 俺に振んなよ!」
「いやいや悪かった。ちょっとからかっただけだよ」
 朗らかな笑顔で返すハタヤマ。白い歯がきらりと光っている。誰がどう見てもおちょくっているようにしか見えない。
 もちろんサイトもそれを察知し、むかむかと頭から煙を吹いた。
「まあ冗談はこれくらいにして。キミたちが学院を出発したのは、王女様から密命がくだったからからだよね」
「おう!」
「それは当日に突然聞かされただけで、キミたち以外には誰も知らない。タバサちゃんも、友達が、出発する少年たちの後ろ姿を見つけなければ知り得なかったほどだ。間違いないかい?」
「………………」
「なのに、だ」
 ハタヤマはサイトとタバサを見回し、一度言葉を切り、深くゆっくりと呼吸を置いた。
「キミたちは襲われた。しかも待ち伏せだ。これが第一のおかしな出来事」
 サイトは思い出すように首をかしげる。
「でも、あれはただの追いはぎだって聞いたぜ? 俺たちが襲われたのはたまたまで、あそこ通りゃ誰でも狙われたんじゃねえの?」
「ふむ、なるほど。たしかにそうだね。一回だけなら偶然で済むだろう。でも」
 ハタヤマはまたも言葉を切った。
「同じ事が二度起これば、それはもう偶然じゃないんだよ」
「同じこと?」
「数日後の夜、また敵襲を受けたって言ったね」
 ハタヤマの問いに頷くサイト。
「しかも宿屋で飯食ってる時に、ピンポイントで狙われた。これはおかしい」
「……なんで?」
「どうしてキミたちの情報が漏れてるんだよ。数日前に王女が独断で決めたことのはずなのに。しかも迷わず狙ってきたってことは、相手は『キミたちの顔を知ってる』んだよ。明らかにこれはおかしい。異常だ」
 一度目の待ち伏せ、これはまだ分かる。そこらのケチな野盗が身代金欲しさに道行く人を襲う、そんなところで済むだろう。
 だが、宿屋で飯を食う特定の集団に襲いかかるということ。これには明らかに意図がある。相手には何らかの狙いがあるのだ。
「任務遂行を阻止するために、謎の刺客を差し向けられた。誰も知り得るはずのないことをその襲撃者たちは知っていた。これが示すことは明白だ。即ち――」
「て、敵がいるんだよな?」
「そう。そして」
「内通者がいる」
 タバサの簡潔な一言。それにハタヤマはただ事実を認めるように頷き、サイトは驚愕に眼を見開き、表情をこわばらせた。
「なっ――」
「そう、そうなんだよ。そいつらが知ってたってことは、誰かが漏らしているんだよ。でないと知られようがないんだから」
 理由のない行動は存在しない。どんな些細なことであろうと、結果にはそうなる過程、原因が必ず隠されているのだ。
 知られるはずのないことを、知っているやつがいる。ならばその背後には、教えたやつがいるはずだ。
「そしておそらく、内通者はキミたちの近いところにいるはずだよ」
「――っ!?」
「だってそうだろう? でないとキミたちの現地のスケジュールまで把握できるわけがないじゃないか」
 次々と明かされる衝撃の事実に、サイトは圧倒されていく。彼にしてみれば、そんなこと思いもよらなかったからだ。難しいことはルイズとワルドに丸投げしていたので、彼はなにも考えていなかった。
 ハタヤマは続ける。
「ここまでの情報を整理すると、容疑者は大体絞られる。すなわち、キミたちが王女に頼み事をされたと知っている。そしてその任務の重要性を正確に把握しているやつってことだ」
 人差し指を立てて語るハタヤマ。あっさりとそう断定してしまった。まあ、今回はかなり特殊なケースで条件がかなり限定されているので、推理しやすいのである。
 ハタヤマはタバサを見た。
「一つ一つ可能性を洗っていこう。まず、タバサちゃんたち学院の学生たち」
「それはありえねえよ! タバサたちがんなことするわけねーだろ!」
「それは分かってるよ。あくまでも可能性を潰すという意味で言っただけさ」
 ハタヤマはあっさりと容疑を撤回した。分かっていて口にしたのだろう。
「それに、こう見えてボクもタバサちゃんには一目置いてるんだ。この線はたぶん無い」
「……何故?」
「ボクの勘」
 へら、と棘の無い笑みを浮かべるハタヤマ。タバサはそれを無言で見つめ返すだけで、なにも言い返さない。
「まあ他の仲間についてはボクは知らないけど、少年はどう思う? 怪しい素振りあった?」
「ねえよ! キュルケはよく知らねえけど、ギーシュはまあありえねえな。あいつバカだし」
 サイトはギーシュが暗躍する様を想像し、イメージが湧かなくて止めた。月夜に屋根の上で馬鹿笑いしてる様子しか思い浮かばない。あいつはそんな器用なことはできないだろう。
 ハタヤマは頷いた。
「よし、じゃあ学生陣の容疑はこれで晴れた。対象から除外するよ。次は少年のご主人様だ」
「な……っ!? てめっ!?」
「いちいち怒るなよ。可能性は全部潰すって言ってるじゃないか」
 悪びれずどうどうと宥めるハタヤマ。サイトはにわかに気色ばんだが、タバサに袖を引かれしぶしぶ矛を収めた
「自作自演」
「そういうこと。でも、この線も薄いね。なにせ少年が四六時中張り付いてるんだから、そもそも暗躍する暇がない。これで犯人だったら、ルイズちゃんは相当のタヌキだね」
「たりめーだ! くだらねえこと言うな!」
 サイトの鉄格子を食い破らん勢いに、ハタヤマは苦笑して追及を止めた。
 もう、容疑者は多くない。
「次は王女様だね。その人がキミたちを妨害してる」
「ん~……でも、それって」
「不合理」
 タバサが端的に言葉で表す。つまりはそういうことだ。
「自分で依頼して自分で妨害して――これじゃ、論理的におかしいよね。因果関係を考えれば、王女が犯人ってのはありえない。王女が他のやつに話したって線は?」
「え? いや、たぶん無いんじゃねえかな」
 なにせルイズの部屋へお忍びで押しかけてきて、速攻で音を遮断する魔法(サイレント)を唱えるくらいだ。よっぽど誰にも聞かせられないことなのだろう。
 ハタヤマはふむ、とアゴを掻いた。
「じゃあ、やっぱりこうなるわけか……」
「………………」
「?」
 無言で俯くハタヤマとタバサ。それを見て、不思議そうにサイトは首をかしげる。
 残りの可能性? と思考を巡らせ、ややあってぽんと手を打った。
「おお! じゃあもう決まりじゃねえか! 犯人はワルドだ、裏切り者はあいつなんだ!」
「うーん……」
 溌剌と断言するサイトに、言いあぐねるように唸るハタヤマ。サイトはそんなハタヤマの様子に、きょとんと眼をぱちくりさせた。
「なんだよ? そもそもあいつ怪しいし、他にいねえじゃん」
 ずばり言い切るサイト。もうワルドを犯人だと断定する勢いである。しかし、それでもハタヤマの表情は晴れない。
「決め手に欠けるんだよねぇ。隙を見せたのが今回だけじゃ、つけいるにしても難しい。せめて、動くならもう一押し欲しい」
 ぶつぶつと小声で呟いているハタヤマ。自分の思考に没頭しているようだ。
 サイトは声を掛けようとしたが、タバサに袖を引かれ自重した。
「タバサちゃん。キミから見て、そのワルドってのはどんなやつなんだい?」

〈Case.2 タバサの証言〉
「魔法衛士隊の隊長。背は高く壮年。ルイズの許嫁。ペドフィリアでロリータコンプレックス」

「……はぇ~?」
 タバサの証言に心底面食らったハタヤマ。この娘、言う時は言うじゃないか。
「あと」
「?」
 もったいつけるタバサ。ハタヤマは興味をそそられ、鉄格子越しに顔を近づけた。
「ヒゲ」
「またヒゲか!?」
 示し合わせたようにヒゲ。そんなにもヒゲが目立つのだろうか。
 タバサは淡々と続ける。
「わたしには親切。けれど、キュルケには冷たい。だからロリペド」
「ふ、ふーん……」
 ハタヤマはそのキュルケという人間を知らなかったが、まあおそらくタバサとは真逆のベクトルを持つ人間なのだろうと予想した。
 しかしロリペドっておい。言葉選ばなさすぎだろ。ハタヤマはそう言いたい衝動をぐっとこらえ、引きつった顔で言葉を進める。
「その『魔法衛士隊』ってなに? 強いの?」
 ハタヤマにしてみれば、この問いかけは純粋な興味によるものである。
 しかし、続いて彼女からもたらされた情報に、耳を疑うことになった。
「王室直属の部隊。トリステインではグリフォン部隊がそれを担い、彼の使い魔もグリフォン」
「グ、リフォン――?」
 ハタヤマの様子がにわかに変わった。驚愕に眼を見開き、呼吸すら忘れたように言葉を失っている。
 それを感じ取ったタバサは、不思議そうに首をかしげた。
「おい、どうしたんだよ?」
 遅れてそれに気づいたサイトも、関心を引かれたように問うた。
 ハタヤマは迷うように視線を彷徨わせ、アゴに手を当て考え込む。そして決意したようにキッと顔を上げると、牢屋外の彼らを見据えて言った。
「じつはここに来るまでに、こんな噂を耳にしてね――」
 自身が手に入れた情報を伝えるハタヤマ。皇太子暗殺計画、そしてレコンキスタに突然現れたトリステインの内通者。そいつの使い魔がグリフォンであること。
 サイトたちはそれに愕然とするほど驚き、男の使い魔がグリフォンであることを聞いたところで興奮が最高潮に達した。
「マジか!? こりゃもう決まりだぜ!! さっそく「ちょっと待てってば!」ぐはっ?!」
 襟首を掴まれ仰け反るサイト。ひしゃげた悲鳴は相変わらずである。サイトは何度目かの喉への負担に堪忍袋の緒が切れたのか、鉄格子を引きちぎらんばかりにハタヤマへくってかかった。
「んだよいいかげんにしろよてめえ! 俺の首の骨を折るつもりか!!」
「そういうわけじゃないよ……ああ、だから言うのをためらったんだよ!」
 ハタヤマは危惧が的中したとでも言わんばかりに頭を抱えた。
「言えば、こうなることは分かってたんだ。他に考えられないしね」
「なら早く行かせろよ! 早くしないとルイズが……!」
「だからちょっと待てよ! もしそのワルドってやつが裏切り者だとしても、正面から行けばいいようにやられるだけだ! ボクが言ったことを忘れたのか!? 問答無用で殺されちゃうぞキミ!!?」
 サイトとワルドでは発言力が違いすぎる。しかもケチなこそ泥(ハタヤマ)がもたらした情報では根拠も無いに等しいので、ワルドへ件の疑惑を突きつけたとしても歯牙にもかけられない可能性が高い。かといって感情的に斬りかかれば、死刑磔まっしぐらである。そのうえルイズまで人質にとられているのだ。
 どう転んでもろくな事にならないのは容易に予想できる。茨を通り越して針地獄の道となるだろう。
 しかし。
「それでも! 俺には!! もう、それしかねえんだッ!!!!」
 サイトは背負ったデルフの柄をジャキリと握りしめ、悲壮な覚悟で啖呵を切った。鋭く、それでいて追い詰められたような強烈な眼光。彼は、今の自分がウェールズと同じ表情をしていることに気づいているのだろうか。
 ハタヤマはサイトの発した感情に触れ、あっけにとられて目を丸くしていたが、不意に表情を引き締めた。
「……ちょっと待ってて」
 ハタヤマはおもむろに牢屋の奥へ引っ込むと、薄茶色の紙切れを持って戻ってきた。牢の便所(とは名ばかりの、鉄格子をはめられた汚い穴)に備え付けられたいわゆるちり紙のようなものである。
「デルフくん貸して」
 格子の隙間からにゅっと手を伸ばすハタヤマ。サイトは唐突なそれにお、おう、と条件反射でデルフを抜き、柄を向けて渡した。タバサはなにか言いたげだが言わない。
 ハタヤマはデルフを受け取ると、自分の右手の人差し指にうっすらと傷をつけた。
「あ……」
 じんわりと浮き出る血の玉に、かすかに息を呑むサイト。ハタヤマはそれを気にも留めず、さらさらと指先で茶紙(ちゃがみ)に何事か文字を滑らせていく。
 そして書き終ったのか、腕を下ろすとデルフを返し、サイトに向き直った。
「今からキミに任務を与える」
「へ?」
 サイトを見下ろし、いたって真面目にそう言い渡すハタヤマ。対するサイトはその脈絡の無い言葉に驚き、生返事で見上げるしかない。
「これからひとっ走りして、そうだな……あの王子様のとこへ行ってきな」
「王子様って……ウェールズさんか?」
「ウェールズって名前なのか。まあなんでもいい。んで、なんとか口説き落として、協力してもらえるように話をつけるんだ」
 ハタヤマは淡々と言う。
「キミがワルドとやらに正面から意見することはできない。相手は貴族であり許婚だからね」
「………………」
 悔しげに唇を噛むサイト。ハタヤマはそれに目を細め、ふっと邪な笑みを浮かべた。
「そう拳を握るなよ。足りないなら、他から引っ張ってくればいい」
「――?」
「権威には権威をぶつければいい。同じ力で対抗するんだ」
 だからウェールズを落とす。他国であれ王族とあらば、どこの貴族にだって口出しすることができるだろう。少なくとも邪険にはできないはずだ。ハタヤマはそう目論み、サイトに知恵をつけることにした。
 しかし、サイトの反応は芳しくない。
「でも、ただでさえ嘘くさい話なんだぜ? ウェールズさん、取り合ってくれるかな……」
 サイトの危惧はもっともなことである。ただでさえ突飛で荒唐無稽な与太話、しかも裏切りの情報を持ってきたのは現在獄中の犯罪者だ。信じてもらえると思うほうがおかしい。
 だが、ハタヤマは強い語調で言い返した。
「無理でもなんでもなんとかするんだ。この条件がクリアできなきゃ、九割九分失敗する」
 ただの平民の使い魔であるサイトに、主人の結婚へ異議を唱える権利は無い。だからこそ、“異議を唱えられる”人間を味方に引き込むことが必要不可欠となる。逆に言えば、それ以外に突破口などありはしない。やるしかないのだ。
「おそらくあの王子は頭がいい。たとえ平民(キミ)が言ったことでも、道理が通ってりゃ無碍にはしないはずだ」
 王族の空賊行為を決断できる人物なら、頭は柔らかいほうだろうと予想できる。話くらいは聞いてくれるだろう。
 そこから先はサイトの頑張り次第である。
「上手く協力が取り付けられたら、この手紙を渡してくれ」
 そう言ってハタヤマは手中の茶紙を折りたたもうとしたが、血が乾いていなくて少し困る。すると、タバサが一言呟き紙に“固定化”をかけてくれた。
「便所紙に血文字ってのがまた貧相で泣けてくるけど、そこんとこは勘弁してもらってね」
「……わりぃ」
「そんな顔しないでよ。言ったでしょ、『後悔はさせない』って」
 ぺろりと舌で傷を舐めながら、そうやって朗らかに笑うハタヤマ。サイトは申し訳なさそうに目を伏せたが、差し出された茶紙を受け取った。
「じゃあ」
「ああ、ちょっと待って。これで最後だ」
 踵を返そうとしたサイトに呼びかけ、ちょいちょいと手招きするハタヤマ。先ほどまでと一変したイタズラ小僧のような軽い様子に、サイトは呼ばれるままにきょとんとして歩み寄っていく。
「なんだよ?」
 牢屋の前に立つサイト。ハタヤマはにっこりと笑みを浮かべると、サイトの胸元にぺたりと右手を張りつけた。
「――ボクにできる最後の手助けだ」
 ハタヤマは目を閉じ、意識を集中させる。次の瞬間、彼の内側から紫電のような蒼い迸りが生まれ、湧き出たそれは流れるように右腕からサイトへ伝わった。
「お、おぉ、おおぉおぉおお!?」
 全身を駆け巡るぴりぴりした感覚に、キョドりながら両手を見下ろすサイト。一歩引いて静観していたタバサは、表情険しく弾かれたように杖を抜く。しかし、その杖が振り下ろされることは無かった。
 ぱりぱりと帯電するように輝くと、蒼い閃光はサイトの内側に消えてしまった。
「な、なんだこれ? いったいなにしたんだ?」
 目を白黒させて尋ねるサイト。ハタヤマは経過を観察するように腕組みしてアゴに手をやっていたが、特に問題はなさそうだと分かると組んでいた手を解いた。
「ボクの魔力をキミに分けた。しばらくは常人より魔力が高い状態を保てるはずだ」
「ま、魔力!?」
「内に脈動する感覚を感じるだろ?」
「い、言われてみればたしかに」
 サイトは胸や両手に視線を巡らせる。彼も、なんとなく心臓の奥や両手首の脈に、鼓動とは別の脈動を感じることができた。なにかが、身体の内側に漲っている。
 サイトは好奇心を刺激され、目をきらきらと輝かせた。
「じゃあ、俺も魔法使えるようになんのか!?」
「いや、たぶん無理だね」
「うぉいっ!!」
 あっさりと否定されずっこけるサイト。淡い厨二願望はもろくも崩されてしまった。
「じゃあ何の為にくれたんだよ!?」
「魔力ってのは誰にでも使えるもんじゃない。生まれつきの才覚が無ければ、たとえ修行を積んだとしても、覚醒(めざ)めさせることすらできないんだ」
 ハタヤマの世界でも魔法学院というものがあったが、そこは厳しい適性検査をパスしなければ入学することすらできなかった。ハタヤマ自身はあっさり入れたのであまり実感は無いのだが、実際のところ、天賦の才に恵まれなければスタートラインにつくことすら許されないのだ。
 近年人間社会には“科学”が発展してきていて、わざわざ苦労して魔法を覚える必要はなくなった。それゆえ代を重ねるごとに魔法の才覚が薄れてゆき、今では大多数の人間は魔法の存在すら知らない。〈魔女っ娘〉という職業は聞いたことがあるが、それが具体的になにをして、どんな魔法を使っているのかはもう分からないのである。
 不要になったから疎遠になった。それゆえ受け皿である精神の感覚が失われ、才が退化したのである。それが、魔法が衰退した一因でもあったりする。
「もしキミに才がなければ、その魔力はじきに薄れて消えるだろう。でも、もしわずかでも“きざし”があれば、その才をボクの魔力が呼び起こしてくれるはずだ」
 未発達の魔力回路では“きざし”の壁を打ち破れない。ハタヤマはサイトがその壁を乗り越えられるよう、初めの初めの補助として、サイトには持ち得ない限界以上の魔力をあえて与えたのだ。
「なにかの切欠があれば、溢れた魔力が発露するだろう。その時、キミの秘めた才覚が形を持つと思うよ」
「“形”?」
「そう、形。誰にだって最も得意とする型がある。それがキミの終生の牙になるんだ」
 大雑把に言えば地水火風、細かく分ければ“人形”(ドールマスター)や“錬金”(アルケミー)など、生まれた頃から手に馴染んでいるような魔法の系統がそれぞれにあるものだ。ハタヤマでいえばメタモル魔法である。
「使わないに越したことは無い。でも、もし力が足りなくなった時、悲しい思いをしないために。可能性だけは植えつけておくよ」
 本当のところは、ハタヤマはサイトに魔法を与えることはしたくなかった。過ぎた力は災いを呼び、いずれは身を滅ぼす脅威となりえる。あまりに強大すぎる力は、個人が持つべきではない。ましてや、既に強すぎる力を持つ者が、さらなる力を求めるべきではないのだ。
 だが。
(用心に越したことは無い)
 相手は聞く限り手練れの魔法使いだ。魔法使いという人種は、ある一定の力量を超えると人間災害のような戦闘力を得る、厄介な存在である。それに剣一本で立ち向かうには、あまりにも心もとない。おそらくまず間違いなく、近づく前に殺されてしまうだろう。
 覚醒めないに越したことは無い。しかし、現状の彼の力量では、無事生還できる可能性があまりにも低い。だからこそ、ハタヤマはサイトに萌芽を与えるという決断をした。
「ただ、これだけは忘れないでくれ」
 ハタヤマはその金色の瞳で、サイトの瞳を覗き込む。
「絶対に怒りや憎しみで、力を振るわないでくれ。魔法とは心の力だ。たしかに負の感情は強い瞬発力を持つけれど、それは一時的でしかも薄っぺらい。より強い力を引き出そうとすると、自分の心を傷つけ、歪ませてしまう」
 強い負の感情は、心に多大な負荷をかける。怒りを燃やし、憎しみを魂に焼き付け、心を燃やして戦うのだ。
 しかし、その心の動きは不自然であり、歪だ。だからこそ節々に無理が生じ、結果として心が悲鳴を上げる。そしていずれその苦痛に自分自身が耐えられなくなり、心が壊れてしまうのだ。
「誰かを守りたい、救いたいと思う気持ち。それらは果てが無く、無限だ。誰かを想う熱い胸の高鳴りが、きっとキミの力になってくれるはずだ」
 ただの夢想論ではなく、実感を伴った確かな響き。それを語るハタヤマの瞳は、どこまでも澄み渡り嘘が無かった。
 しばし真剣にサイトを見つめていたが、唐突に破顔するハタヤマ。
「なーんてね。ガラじゃなかったかな?」
 カラカラと晴れやかに苦笑するハタヤマ。サイトは返す言葉が見つからず、戸惑ったように言いよどむ。
「さあ行け、時間が惜しい。ルイズちゃんを助けるんだろう? なら、とっととオトコノコしてきなよ!」
「あ、あぁ……ありがとな!」
 ハタヤマに豪快に肩をはたかれ、サイトは追い出されるように駆け出した。
 彼の頭の中にはもう、前に進むこと以外は無かった。

     ○

「ふむ……」
 全てを聞き終え、ウェールズは悩むように眉間を揉み、重い息を吐いた。
 サイトの説明はなにかに追い立てられるように切迫しており、ところどころ要領を得ない部分もあったが、かね殆ど、全て余すことなくウェールズに伝わった。当然、ハタヤマが入れ知恵した部分も。
「キミは、あの男に全幅の信頼を置いているんだね」
 ウェールズは飲み干したグラスに水差しからワインを注ぐと、くいと傾け唇を湿らせた。
「しかし、僕に助力を頼むということがどういうことか。君には分かっているのかね?」
 ウェールズは含むような流し目を送る。サイトはそれが現す意味を受け取れず、戸惑ったようにたじろいだ。
 ウェールズが息を吐き、グラスをことりと机に置く。
「結婚式とは神聖な儀式だ。夫婦は始祖ブリミルの前で永遠の愛を誓い、指輪を交換する。それはただの指輪ではなく、終生寄り添い、伴侶となる誓い。指輪とは絆なのだ」
「………………」
「分かるかね? 遊びではないのだ。そこへ横槍を入れるという事は、儀式を汚すということだ。それは君だけの問題では済まされない。式を取り持つ僕、そして新郎であるワルド殿。ひいては君の主人であるルイズ殿の顔も潰れてしまう」
 語尾を上げるような問いかけ。射抜くような鋭い眼光でサイトを見据えるウェールズ。
 ぐびり、とサイトは生唾を飲み込んだ。
「分かるかね? 神聖で祝福された、幸福なる儀式は一転して、人生最大の汚点となるのだ。君自身が行おうとしている事でね」
 語尾を下げるような問いかけ。ウェールズは目を細め、サイトと向き直った。
「分かるかね。もしこれが言われ無き冤罪であったとき。君は、君の存在などでは償いきれぬほどの罪を背負うことになるのだぞ。君に、その覚悟はあるか。君は、その重さに耐えられるのかね」
 心の深遠まで覗き込み、問いただすかのようなウェールズの瞳。それは紛れも無く王たるように教育された、王者の風格そのものである。
 サイトは目に見えぬ、息が詰まるような圧迫感に晒されながらも、気丈にその視線を受け止め続けた。
「……分かりません」
「なに?」
「難しいことは、分かりません」
 搾り出すようなサイトの吐露。ぎらり、とウェールズの眼差しが光った。
 しかし、サイトはひるまない。
「ただ、これだけは分かります」
 サイトはきっとウェールズを見つめ返す。
「やらなきゃ、俺は必ず後悔する。正しくても、間違ってても、俺はやらなきゃいけないんです」
 確固たる決意を持って語るサイト。その表情には迷いが無かった。
 ウェールズは表情を変えない。
「ならば、もしも君が誤っていた時。その時、君はどうするつもりだ? どう責任を取るのかね?」
「その時は――」
 しばし俯き、黙り込むサイト。そしてゆっくりと顔を上げると、ジャキリとデルフの柄を握った。
「腹を切ります」
 ウェールズはただ表情を変えずたたずみ、じっとサイトの瞳を覗き込んだ。
 そこにあるのは、揺らがぬ輝き。それは止水の水面の如く静かで、そして澄んでいた。

  ――ほう

 ウェールズは胸の奥で感心した。まだ若く、失礼かもしれないがしかも平民なのに。迫る重圧に脅えないのか。怯む様子も、震えも見せぬか。
 その心意気やよし。
「よかろう。微力ながらこのウェールズ・テューダー。君に力を貸そうじゃないか」
「え?」
 魂消たようにぽかんとするサイト。その顔がことのほか面白く、ウェールズはくすりと感情をこぼした。
「そのような眼をした男(おのこ)など、始祖ブリミルでも止められんよ。どうせ止めてもやるのだろう? ならば、せめて僕の指導の下、節度を守って行ってもらう」
「でも、それだとウェールズさんにも迷惑が……」
 申し訳なさそうなサイトから思いがけぬ言葉を聞き、ウェールズはきょとんと眼をしばたかせた。
 今更なにを言っているのだこの少年は。
「なあに、どうせ明日散り往く命だ。この恥は墓場まで抱いていくさ」
 殊更無邪気そうに胸を叩くウェールズ。それが自分に気を使ってくれているのだということに気づき、サイトは胸が熱くなった。
「すいません、ありがとうございます。……でも、どうして平民の俺なんかの話を、ウェールズさんは聞いてくれるんですか」
 おずおずとそう尋ねるサイト。ウェールズはその質問を噛み砕くように耳に含み、そして口を開いた。
「国とは民だ。王族は民によって支えられている。そして民には貴族も平民も無い。皆等しく守るべき民であり、そこに貴賎など存在しないのだよ」

「ああ、そうだ!」
 話が一段落した頃、サイトは思い出したように声を上げた。そしてパーカーのポケットをまさぐると、茶色いみすぼらしい紙切れを取り出した。
「ウェールズさんが協力してくれる時は、この手紙を渡してくれって」
 作法が良く分からず両手で手紙を差し出すサイト。ウェールズはその紙から囚人房の男を想起し、疑問に眉をひそめながら受け取った。
 そこには紅いナメクジが這い回ったような走り書きで、こう書かれていた。

  ――こんなんじゃ死にに行くようなもんだ!
     装備を見繕ってやってくれ!

「――ふ」
 ウェールズは小さく微笑むと、手紙を丁寧に折りたたんで仕舞いこんだ。
「なにが書いてあったんスか?」
「ああ、いや」
 ウェールズは柔らかい笑みを浮かべると、先に立って扉へ足を向けた。
「君は、本当にいい友達に恵まれているんだな」
「……??」
 ウェールズの笑みに意味が分からず、疑問符を浮かべっぱなしのサイト。
 そんな様子を楽しげに眺めながら、ウェールズはあえて答えを与えなかった。
「ついてきたまえ。道すがら計画を煮詰めようじゃないか」

     ○

「やれやれ、牢屋を開けるのも忘れて突っ走っていっちゃって……」
 呆れつつも苦笑するハタヤマ。しかし、少年らしいといえば少年らしい。
 そんなハタヤマにぽつりと尋ねるタバサ。「……出たい?」
「いや。どうせ外に出てもなにもできないし、むしろ彼にとって害にしかならないからね。朝までは大人しくしてるよ」
 そう、といつも通り呟くタバサ。罪人という時点でハタヤマの発言力は既にゼロを下回っているので、当然と言えば当然だ。
 猛烈なサイトの足音も遠ざかり、場は静寂に包まれる。
「………………」
「………………」
 き、気まずい。
 会話が途切れて、というか会話自体が発生していないので、居心地の悪さに身をよじるハタヤマ。忘れてたー、この子全然喋らんこやったー。
「……なぜ?」
「ん?」
 ぽつりと浮かび上がる言葉。ぼりぼり頭を掻いていたハタヤマは、つられるように視線を下げた。
 すると、タバサが見慣れた表情でこちらを見上げていた。
 そのまましばし無言で見詰めあう二人。
「あ、あのー? もうちょっと主語とか述語とかを付け加えてくんないと分かんないんですけどー」
 もう少し詳しい説明を求めるハタヤマ。タバサはぱちぱちと二度ほど瞬きすると、間を置いてゆっくり話し始めた。
「なぜ、あなたは親身になって彼の話を聞くの?」
「へ、そりゃあ――」
「あなたには、一銭の得にもならないのに」
「――……」
 言おうとして言葉を切るハタヤマ。
 ハタヤマは一瞬言葉につまり、表情をしかめると。腰を折り、両手で鉄格子に寄りかかってタバサに顔を寄せた。
「『情けは人のためならず』って言葉、知ってるかい?」
 覗き込むように見下ろすハタヤマ。彼の唐突な問いかけに、タバサはきょとんと小首を傾げる。
 ハタヤマは特に答えを期待していなかったのか、気にせず話し続ける。
「ボクの世界に伝わってる言葉なんだけどさ。他人のためになにかするのは、別に他人のためじゃない。巡り巡っていつか返ってくる、自分のためにすることなんだ。やったことは、いずれ返ってくるんだよ」
 らしくない穏やかな笑顔を浮かべ、そう真剣に言い切るハタヤマ。邪気のない笑顔は貴重である。
 しかし、彼の想いを乗せた言葉は、彼女には届かなかった。
「……嘘」
 善行が必ず返ってくるのなら。なぜ母様はあんな目に遭わされているのだろうか。良いことをした全ての人間が報われるなら、母様も報われるはずである。だから、それは嘘。偽善、詭弁、欺瞞なのだ。
 ハタヤマは急に冷えだした空気を敏感に感じ取り、あちゃーとぽりぽり頭を掻いた。
「そう、嘘だよ。返ってこないこともある」
 ギン! とタバサの視線が凍えた。まるで弾かれたように顔を上げ、敵意を隠さずハタヤマを睨みつける。
 だが、ハタヤマの表情は変わらない。
「でも、返ってくることもある。それはキミだって分かってるんじゃないの?」
 悪戯っぽく口角を上げ、ぱちりとウィンクをするハタヤマ。タバサは無言で見上げている。
 彼女の脳裏に浮かび上がる、わずかな暖かい記憶。そこでは翼人の少女と人間の少年が、“錬金”料理人を夢見る少女が、幼少期の城で行った他愛ない善行に微笑みながら感謝する使用人たちが、そして――母様が、笑っている。
「キミは今まで、すごく頑張ってきたんだね。でも、頑張りすぎて。ちょっとだけ疲れちゃったんだね」
 ハタヤマはぽんとタバサの頭に手をやり、柔らかな髪を優しく撫でた。
 手の重みに俯いた彼女の、表情は見えない。
「誰かに良いことをしてもらえば、次は自分も返そうと思うでしょ? そして自分が返したら、相手はまた返してくれるかも知れない。貸し借りってのはそういうもんじゃないかな」
「――……」
「それに」
 ハタヤマは続ける。
「良いことをすると、良い気分になる。気持ちが良いんだ」
「それは、本心?」
「ああ、本心だよ。勝手に良いことしたって自己完結して満足する、自己満足って感情さ。結局は善行とはいっても、それは一方的な自己解釈であり、エゴでしかないんだよ――」
 ハタヤマはそう言って、悲しそうに目尻を下げた。その変化をタバサは見て取り、わずかに気遣うように小首をかしげる。
 それを見て、ハタヤマは慌てて気を張り直した。
「――ああごめんごめん! 気を遣わせちゃったね!」
 ハタヤマは気を取り直して続ける。
「まあとにかく。ボクは友達が困ってるのを黙って見てるのは忍びない、ボクにできることがあるなら力になりたいってだけなんだよ。ボクは少年は友達だと思ってる。少なくとも、ボクはそう思ってるんだ」
「……たとえ、それがエゴでしかないとしても」
「痛いこと言うなぁ……それに、友達は少年だけじゃない。スカロンさんもジェシカちゃんも、シルフィちゃんも、もちろんタバサちゃんだって。みんなみんな、ボクは友達だと思ってる。思ってるんだ」
 若干の寂しさを滲ませてはいるが、ハタヤマはそう言い切った。
 タバサはいつもより少しだけ眼を大きく開き、ハタヤマを見上げている。
「自分自身が相手を友達だと認めること。これって結構大事だと思う」
 斜に構えてんのは子どもっぽいしね、とハタヤマはやや恥ずかしそうに頬を掻いた。それは、過去の自分を反省しての言葉か。
 ハタヤマは不意に表情を正し、タバサの瞳を見つめた。
「だから、もしなにかあった時は。ボクになんでも相談してくれ。気持ちは言わなきゃ伝わらない。外からは痛がっていることは分かっても、どうして痛いのかは分からないんだ」
「………………」
「もしボクが信用ならないなら、少年でも構わない。あの子は優しい子だ。他でもない友達の言うことなら、きっと親身になってくれるよ」
 タバサはわずかに瞼を震わせた。
「……友達?」
「そう、友達。少なくとも、キミはそう信じるんだ。勝手に想像して切り捨てちゃダメだ。相手の気持ちなんて分からないんだから」
 ハタヤマはそう言って優しく微笑んだ。
 タバサは、なにも言わない。
「信じることを諦めちゃダメだ。夢見ることすら忘れたら、生きること自体が辛くなっちゃうからね」

「さあタバサちゃん、キミに頼みたいことがあるんだ」
 言いたいことを言い終えると、ハタヤマはそう切りだした。
 タバサは纏っていた警戒心が緩んでおり、いつも以上にぬぼーっとしている。
「キミにも伝えたい魔法がある。それに、もうちょっと根回しも必要だ」
「……どうするの?」
 素直に耳を傾けるタバサ。どうやらハタヤマへ対する精神防壁(ガード)は大部分緩和されたようである。
 ハタヤマは表情を引き締めた。
「正直、ボクはキミたちが無事に帰れると思ってない。間違いなく全滅させられるだろう」
「どうして?」
「まだおかしいことがある。いや、おかしいことだらけだ」
 ハタヤマはまくしたてる。
「百歩譲って君らを特使に任命したことは良しとしよう。子どもに生死の危険がある任務を与えるのは常識的にどうかと思うけど、それはまあその姫様とやらがお茶目なんだろう。茶目っ気たっぷりだよ。嫌な意味で。そして待ち伏せを食らったこと。それもまだいい。でも二度目の襲撃。これが不味い。明らかに作為的だ。敵の存在が仄見える。そしてこの国に着いたと思ったら、少年のご主人が結婚式? バカじゃないのか相手は。何故今この場所この瞬間で挙式をあげる必要がある。んな暇あるならさっさと帰れよ」
 そういうことは故郷(クニ)でやれ故郷で、と苦々しげに毒を吐くハタヤマ。サイトの前では言わなかったが、言いたいことがたくさんあったらしい。そもそも話を聞いただけでもつっこみどころ満載だったし。
「でも、そんな些末なこと霞んじゃうぐらい、どデカいおかしなことがある」
「……?」
 ハタヤマは目を細める。
「キミたちが無事ここまで来られたことだよ」
 ハタヤマの表情は険しい。
 タバサはハタヤマの言わんとすることが分からず、答えを求めるようにじっと見上げた。
「だってそうだろう? ただ任務を阻止したいだけなら、問答無用でぶっ殺せばいい。その気になれば、乗ってきた船を途中で爆破するくらいできたはずだ」
 魔法使いならそれぐらいやる。たとえ世界が変わろうとも、ハタヤマにはその確信があった。
「でも、それをしなかったってことは。おそらく別の狙いがあるんだ。キミたちをここまで連れてこなければならなかった理由(わけ)が」
 物事には全て理由がある。無意味なことなど何一つ無く、起こるべくして起こるのだ。
 それがハタヤマの持論だった。
「詳しいことは分からないし、知らない。けど、明日はおそらく決戦になるだろう」
 それだけは間違いない。なぜなら、明日の早朝、結婚式の瞬間以外に、攻め時が無いからである。
 その時、この少年少女たちは、この世で最も醜悪な世界の一端に触れることとなる。
「ボクは、キミたちに怪我をしてほしくない。死んでほしくないんだ」
 ハタヤマは眼を閉じ、逡巡する。
 だから抗う術を教えるのか。その術は敵を倒す力であり、他を傷つける凶悪なものだ。身を守るためだといって、他を害す力を伝えてもいいのか。悩みは尽きない。
 しかし、ハタヤマはそれらを全てねじ伏せ、今だけは迷わないことにした。
「タバサちゃん、シルフィちゃんは来てるかい?」
「来てるけど、外で待たせてる」
「そうか。たしかに魔法は秘密だもんね。じゃあ王宮内には呼べないか……」
 ぶつぶつと考え込むハタヤマ。タバサはなにも聞かず、答えをじっと待つ。
 やがて考えをまとめたハタヤマは、タバサにこう指示を出した。
「打てる手は打っておきたい。フレイムくんとヴェルダンデくんを呼んでくれ」

     ○

 つまらない。
 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは、やすりで爪を磨きながら、薄く不満の吐息を漏らした。
 理由は明白。今、目の前で宿敵のヴァリエールが、結婚式をあげようとしているからだ。それも、自分(ツェルプストー)を差し置いて。
 ここはニューカッスル内の礼拝堂。時は日も昇らぬほどの朝。普段は城勤めの敬虔な信者たちが日曜礼拝に利用したり、王族や貴族の婚約などに利用される神聖な場所である。
 ここには現在人影が四人。赤い、ともすれば攻撃的とも取れる、情熱的できわどいドレスに身を包んだキュルケ。そして明るい紫のマントを羽織り、七色の羽がついた帽子――どうやらそれが礼装らしい――を被ったウェールズ。そして、新郎と新婦。いつも通りの魔法衛士隊制服のワルド、そして花嫁衣裳に身を包んだルイズである。
 ルイズは、まるで白百合のように純白なドレス、そして新雪のように眼に映える真白のマント、そして魔法により永久に枯れぬ白薔薇があしらわれたティアラによって着飾られていた。その姿はおとぎ話に出てくるお姫様のように美しい
「……ふん」
 キュルケは知らず爪を噛んだ。なによあれ。貧相な身体なら、貧相なりに映えさせる方法もあるのね。おそらくあたしがあれを着ても、あんな風には着こなせないわ。可憐、てやつかしら?
 でも、あなただって、あたしみたいに燃えるような赤は着こなせないはず――
 そう考え、脳内でルイズの着せ替え人形をいじくるキュルケ。純白のドレスをひん剥き、あられもない姿にして、さらに赤い胸元の開いたどぎついドレスを着せる。ぬふふ、よいではないか。
 そして着替え終わらせた姿は。
「――ちょっと似合ってるじゃないの」
 乏しい胸元をあげつらうための開きは、ぴっちりと肌に張り付くほどのサイズに調節すれば、細くしなやかな肢体を強調するアクセントとなる。赤のドレスに白い肌が浮き出るように映え、魅惑的な雰囲気をかもし出すかもしれない。
 長くウェーブのかかった髪は、アップにして赤いリボンを結ってみようか。すっきりとした印象に変わり、時折覗くうなじがセクシーだ。
 化粧は……あの子は素の肌が綺麗だから、あまりうるさく飾らなくてもいいかもしれない。赤いルージュをひくだけでいいかしら。
 仕上げに赤いロング手袋を嵌め、男を惑わす魔性の女の出来上がり。
「ちきしょう……なに着せても絵になっちゃうんだから」
 可愛らしく、悔しげにハンカチを噛むキュルケ。自分で想像して自分で白旗を揚げたらしい。しかし、ここで往生際悪くむりくり相手を貶めないところが、彼女の美点でもあるだろう。非は認め、美は尊重する性質なのだ。
「それにしても」
 自分しかいない列席者の椅子を見回し、キュルケは不満げに腕組みをした。たわわな乳房が寄せ上げられる。
 他の者たち(サイトやタバサ)はどこへ行ったのだろうか。
「起きたらこの話を聞かされて、驚いてタバサとお喋りしようとしたらもぬけの殻。挙句にサイトも、ついでにギーシュもいなくなっちゃうなんて」
 皇太子様に聞いてみても、「彼らには準備があるのでね」の一点張り。そして衣装室へ行くように言い残すと、自分もさっさと消えてしまった。
 あのあんまりな対応に、なによ、のけ者? このあたしを蚊帳の外なんていい度胸じゃないの、とキュルケは唇を尖らせた。彼女は自分が知らないところで、楽しそうなことをされるのが大嫌いなのだ。
 そうやってキュルケが様々な意味でぶーたれている間にも、式の準備は粛々と進行されつつあった。
「このウェールズ・テューダー。今日という良き日に同席し、そして立会人という大役を担うことができることを誇らしく思っている」
 新郎(ワルド)と新婦(ルイズ)を交互に見回し、満足げに頷くウェールズ。その表情には笑みがこぼれている。その言葉にワルドは愛想よい微笑で、ルイズはやや俯きつつ無表情で答えた。
 ごろごろと外で空が鳴る。
「どうやら雲海に入ったようでね。太陽は雲にかげり、国中にヤギのミルクのような霧が覆いかぶさっている。いや、めでたい席だというのに、誠に申し訳なく思うよ」
「殿下。天候はあなた様によるものではありませぬ。どうかおきになさらず」
「そうかい子爵。そう言ってもらえると助かるよ」
 そんな世間話を交わしながら、ワルドは内心に懸念があった。
 学生たちの姿が見えない。あの赤髪の女はこの場に出席しているが、それ以外の者たちの姿が影も形も消えうせていたのだ。
 もしや帰ったのか。しかし、それならば一声かけてから船に乗るはず。自分やルイズに一言も話に来ないのはおかしい。
 あれほど主人(ルイズ)に御執心だった使い魔の少年すらいないのだ。ワルドはそれが不気味だった。
 もしや、どこかで一矢報いんと機を窺っているのでは――
 そこまで考え、ワルドはその危惧を一笑に伏した。
 まあ、瑣末なことか。
 あんな小僧一人、取るに足らない矮小な存在である。この場に剣を携えて乗り込んでくるならば、その場で心臓を穿ち捨ててやればよい。こちらにはその大義名分がある。『神聖な儀式を穢す、嫉妬に狂った使い魔を誅す』という、な。
 ウェールズはこの後『大事な戦』が待っているので、雑談もそこそこに打ち切り、誓いの儀式の定型文を朗々と口にした。
「新郎、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、そして妻とすることを誓うか」
「誓います」
 ワルドはウェールズの厳かな問いに、右手で杖を捧げることで答えた。
 新郎新婦の友人代表スピーチや乾杯、ケーキ入刀などは一切合財省かれている。まあ戦時中だし、来賓なんぞ呼ぶ暇も無いのでしかたがないだろう。もしデコレーションキーキなんぞ注文しようものならば、宮廷料理人に張り倒されてしまうかもしれない。
 そこまで考え、ま、あたしには関係ないけど、とキュルケは声にせず眼を細めた。スピーチを頼まれても丁重にお断りさせてもらうし。そんな義理無いから。
 でも、新婦としてはいささか寂しすぎる結婚式よねぇ、とも思い、ルイズに同情も感じてはいる。結婚は人生の一大事。式のランクで男の格が分かるという格言があるほどの重大な出来事なのだ。それなのにこれは、ちょっとあんまりじゃないだろうか。王子様が媒酌してくれるとはいえ、ねえ。
「では新婦――おや?」
 同じように誓いを確認しようとして、ウェールズははたと言葉を止めた。
「新婦。気分が優れないようだね。どうかしたのかね」
「殿下?」
 ワルドが怪訝な声を上げたが、ウェールズは取り合わずなおも続ける。
「――これはいかん、ソロチエ(高山病)かもしれんぞ。医者にかからせたほうがいい」
 ルイズは式の最中だというのに、ずっと俯いて地面を見つめたままだった。その様子に異常を感じたウェールズは、早急に診察を受けさせようとルイズの両肩に手を伸ばした。
「殿下」
 しかし、その両腕はワルドによって遮られた。
「どうしたのかね子爵。彼女には体調不良の兆候がある。式も大事だが、そのために無理をさせては可愛そうだろう。すぐに詰め所から衛生兵をやってもらうから、しばし儀式を中断しよう」
「それには及びません殿下」
「なに?」
 眉根を上げるウェールズ。ワルドは続ける。
「殿下の貴重なお時間を割いて頂き、このような得がたき栄誉を我らは身に受けているのです。その上に多少の体調不良でさらなるお手間を取らせたとなれば、我らは斬首でも償いきれぬような恥を晒すことになりましょう」
「なにを言っておる。たかが数分だ、その程度で僕は目くじらなど立てんよ」
「おお、なんと寛大なるお言葉。胸に痛み入ります。しかし、今はその数分すら殿下には貴重な刻なのです。現世で味わえる最後の時間、その価値は金にも勝る……」
 ふと、ワルドはウェールズを見た。そこにあるのは、怒りも、不快も、なにもない能面のような顔。
 ……いささか舌を回しすぎたか。
「失敬。しかし、心配には及びません。『なあルイズ?』」
 やや顔を傾け、まるで確信があるかのように語りかけるワルド。ルイズは降ってきたワルドの声に、水差し鳥のようにこくりと頷いた。
 一連のやり取りをじっと見ているウェールズ。
「殿下。本人もこう申しておるのです。ささ、続きを。なに、あと一、二分くらい、この子も耐えてくれるでしょう」
「――そう、か」
 ウェールズはやや納得がいかなそうに、しぶしぶ同意した。
「ならば続けようか。汝、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール――」
 そう、礼拝堂内に響くようにウェールズは謳い。
「おお、そうだ」
 と、またも言葉を切った。
「……いかがいたしましたか殿下?」
「いや、なに。せっかくのめでたい席だからね。これを良き機会として、僕の感傷にも終止符を打たせてもらいたいのだ」
 穏やかな微笑のウェールズ。ワルドはそれが示す意味が分からず、やや首をかしげた。
「しばし手紙を返してくれぬかね。もちろん、すぐに返すから」
 にこやかに右手を差し出すウェールズ。ワルドはその手をじっと見下ろし、何度か交互にその手と顔を窺った。
 そして少々表情を堅くしつつ、数歩前へ進み出て、懐から手紙を取り出した。
「おや、君が持っていたのかい? 僕はてっきり、彼女が保管しているとばかり思っていたのだが」
「城に戻るまでが任務でございます。いつ何時どこで襲われるか分かりませぬゆえ」
 ほう、と含むように呟くウェールズ。
 しかしそれ以上は言わず、彼は手紙を受け取ると封を切り、しばし読みふける。その表情は様々な感情に彩られ、極彩の変化を含んでいた。
「ああ、懐かしいな。この手紙は我らが幼き頃に、あのいとこが送ってくれたものでね。夜会を抜け出たあの夜の出会い、その後すぐに送られてきたのだよ。僕はたいそう驚いたね。なんとも健気じゃないか。まだ小さなあの子が、懸命に恋を伝えようと、詩を綴ってくれたのだ。封を切って中を読んだとき、感動に胸が熱くなったものだよ」
 ウェールズはとても大仰な身振りで、当時の思い出を振り返る。ここに観客を呼び寄せれば、舞台劇だと説明しても信じてしまうかもしれない。それぐらい感にいった仕草であった。
 そしてひとしきり感傷に華を咲かせた後、不意に声を落として呟いた。
「だから、いかんのだよ」
「……?」
「僕の感傷があのいとこを悩ませている。この文を後生大事に保管などしていたから、あの子は心労に心砕かねばならなくなったのだ」
 ぴり、と裂けるような音。
 ウェールズは手紙を丁寧に折りたたみ封をすると。極々自然に、胸の前で両手で摘まんだ。
「殿下――?!」
 ウェールズは一息に手紙を引き裂いた。それは真っ二つに、そしてまた合わされ四つに、そして八つに、とどんどん小さく細切れになっていく。
 ワルドは眼を剥いて驚愕した。
「よい。本来ならあの日、返事とともに送り返すか、処分しておくべきだったのだ。王族が憂いを残すような証拠品を、大事に抱いていてはいかんのだよ」
 ウェールズは粉々になった手紙を指先で丸めると、そう儚げに笑った。しかし、ワルドの驚きはそれについてのことではない。
 ワルドは愕然とウェールズを凝視していた。
「どうせついでだ。昨夜渡した手紙も返してはくれないかね。あれも捨ててしまおう。なに、君たちが任務を果たした証明として、王印と署名をこしらえてやろう。それがあれば、あのいとこも納得してくれるはず――」
 ぞぶり、と生々しい音がした。
「――む」
 己の胸を見下ろすウェールズ。そこにはワルドの“右腕”が、深々と突き刺さっていた。
 ごぼ、と口から赤い吐血が吹き出る。
「殿下、お戯れとは感心しませんな」
 ワルドはゆっくりと腕を引き抜くと――肘まで刺さっていた――、まるで汚物でも振り払うかのように血を払うと、どん、とウェールズの肩口を突き飛ばした。
 ウェールズはそれに為すすべなく弾かれ、どしゃりと石の床に崩れ落ちる。
「ちょ、ちょっとあんたなにしてんのよ!?」
 だくだくと床を汚す血溜りに再起動したキュルケが、ガタン! と立ち上がり怒鳴りつけた。
 ワルドはその声に振り返る。
「なんだ女。貴様、いたのか」
「お、女? あなた、自分がいったいなにしたか分かってるの!?」
 キュルケはワルドの眼光に怯みつつも、気丈に言い返した。
 ワルドの眼はゴミ屑を前にしたかのように冷淡で、昨日までの彼とは豹変している。
「なにをしたか、だって? ああ、分かっているとも。『我々』の障害となる皇太子殿下の心臓を、突き潰してやったまでさ」
「『我々』――?」
 言い知れぬ不安に急き立てられるように、キュルケはごくりと喉を鳴らした。
 ワルドは哂っている。
「そう、我ら〈レコンキスタ〉。ハルケギニア統一と聖地奪還という大儀のため、我らは国の垣根を取り払い立ち上がった。そのために王子(この国の王家)は邪魔となる」
 ワルドはただ無表情に語る。そして真っ赤に染まった右手をおもむろにキュルケへ向けると、静かに詠唱を始めた。
 彼の右手には、ずっと杖が握られている。
「他の者どもの姿が見えぬが……まあよい、些細なことだ。貴様は運が悪いな。ただ、その不運ゆえに、ここで命を落とすこととなる」
 ただ、その瞳が恐ろしくて。キュルケは凍えたように汗を掻きながら、ドレスをまくり上げて太ももから杖を抜いた。
 しかし。
「遅い」
 無常なる呟き。キュルケは凍りつく。
 ワルドは歪に口元をゆがめた。
「“風槌――」

 ズガシャアアァァンッ!!
「っ!?」
 巨大なガラス細工が高所から叩きつけられたような轟音。キュルケは肩をびくりと震わせ、眼を見開いた。
 頭上高くに揺れていた豪奢なシャンデリアが突如ワルドの頭上に落下し、彼を叩き潰したからである。ワルドはとてつもなく大きな鉄、そしてガラスの塊に飲み込まれ下敷きになり、壊れた人形(マネキン)のように全身をひしゃげさせて血溜りを作っている。
 キュルケはめまぐるしい出来事の連続に、もはや青ざめて貧血寸前だった。
「――これで一丁上がりかな?」
 場違い過ぎる気の抜けた声。キュルケが弾かれたように視線を上げると、シャンデリアの最上段に足をかけ、吊り下げ棒の部分に掴まって軽い笑みを浮かべている、黒いコートを纏った黒髪の青年が眼に映った。
 この男は覚えている。昨夜、サイトに捕まえられていた――
「あ、あなたは」
「おお、お嬢さん。危なかったねぇ。いや、上手くいってよかったよ」
 外してたらやばかった、と黒衣の男は悪びれず笑う。つい今しがた人を一人殺したとは思えないほどの屈託の無さだ。
 キュルケはなんと返していいのか分からず、あうあうと空気を噛むばかりである。
「とりあえずルイズちゃんを――ってうわっとっ!」
 ハタヤマは突如機敏にシャンデリアを飛び降りたかと思うと、ルイズを抱えて飛び退った。それとほぼ同時にシャンデリアの一部が甲高い破砕音とともに砕け、欠けたチーズのような形に変形する。
「……やーっぱりまだくたばってないのか。まったく、面倒だなぁ」
「貴様」
 憎々しげな呟き。キュルケから見て右、ハタヤマが飛びのいた方向とは逆側の柱の影。そこには、傷一つ無く五体満足のワルドが杖を突きつけていた。
 ハタヤマはルイズを優しく降ろしながら、ちらりとシャンデリアの下に眼をやる。そこには、先ほどまであったワルドの死体が無かった。
「いったいどんな手品なんだい? それともキミ、双子だとか?」
「ほざけ。何者だ貴様。よもや新たな刺客ではあるまいな」
 ワルドは敵意を隠さずに言った。もしや同じく〈レコンキスタ〉から派遣された、見届け人兼始末屋かもしれない。自身にウェールズを殺させた後、口封じに自分をも処理させる算段かもしれないのだ
 しかし、ハタヤマは一笑で返した。
「いいや別に。通りすがりの魔法使いさ」
「戯言を――」
「戯言は君の方だぞ、子爵」
 ワルドは驚き、眼を見開いて声の方へ顔を向けた。そこに現われたのは。
「まったく、凄惨なことをしてくれる。人形とはいえ、本当に死んだかと錯覚したぞ」
 ワルドと同じく五体満足のウェールズ。そして、それに付き従うようにブリミル像の背後から現われる、怯えたギーシュの姿だった。
 ワルドははっとして“ウェールズ”の死骸を確認する。するとその死骸はぽしゅ、と霧状の精神力を吐き出し、胸に穴が開いた木彫り人形へと姿を変えた。
「君ならば知っているだろう。この魔宝具のことを」
「デク人形(スキルニル)……」
 ワルドは忌々しげに吐き捨てると、改めてウェールズを正面から見据えた。
「たばかられた、というわけか」
「君がそれを言うかね、子爵?」
 皮肉たっぷりに微笑むウェールズ。これが王族の極上の笑顔というやつだろうか。
 ワルドはギラリとギーシュを睨みつけた。
「貴様が操っていたのか」
「ひ、ひぃ!? ぼ、ぼくはただ殿下に頼まれてやってただけです!! ただ言われたとおりにスキルニルを――」
「なにを言う。あれほど達者な人形使いとは思っていなかったから、これでも感心していたのだが?」
「で、殿下ぁ~」
 いや、本物より見事な王を演じてくれたものだから、あわせるのに苦労したよ。
 そう苦笑するウェールズに、泣きそうになりながら縋りつくギーシュ。ワルドが怖くてしかたないらしい。
 ウェールズは指先で杖を振り、地に転がる手紙の成れの果てを風で呼び寄せた。
「これはなににも代えがたき我が宝――逆賊風情にくれてやるわけにはいかん」
 ウェールズは丸めた紙を指先で弾いて口内に放り込み、一息に飲み込んだ。
「どうせ手紙が目当てだったのだろう。これで貴様はもう手出しできん。当然、死んでやるつもりもないしな」
「おやおや、男前だねぇ」
 ウェールズの気障っぽい振る舞いに、ハタヤマは茶化すような歓声を上げた。やはりこういうことは、イケメンがやると絵になるものである。
 ワルドはじっと沈黙している。
「……ふん。多少予定は狂ったが問題ない。今ここで貴様らをまとめて消し去れば、後はどうにでもなる」
 ワルドは殺意を滾らせそう呟く。その言葉にハタヤマとウェールズはきょとん、と眼を丸くし、そして顔を見合わせる。
 そしてぷっと吹き出すと、ウェールズは声を押し殺して、ハタヤマは腹を抱えて大笑いした。
「なにがおかしい」
 不快気に柳眉を吊り上げるワルド。しかし、彼らの爆笑は止まない。
「は、ははは! ボクらを抜くつもりかい!? しかも一人で?! こりゃ恐れ入った!! 大きく出たねぇ!!」
「蛮勇とは恐ろしいものだな」
 あげつらうような二人の嘲笑に、ワルドはぎりりと歯軋りする。
「ぬかせ。滅びゆく国の非力な王子に、よく分からんどこぞのメイジ? ふん、貴様ら如きに遅れなどとるものか――」
「おめでたいなぁ」
「なに?」
 ハタヤマの失笑に、ワルドは眉をひそめる。
「本当にボクらだけだと思ってんの?」
 ハタヤマはにやにやと腕組みした。
「一番大事な今日の主役が、まだここに来てないじゃないか」
「――?」
 ワルドは不審気に眉根を寄せた。
 もしやアルビオン軍自体を動かし、伏兵として潜ませているのか。しかし周囲には気配がなく、なにも隠れていそうにない。
 ウェールズは大きく息を吸い込むと、扉の外へ呼びかけた。
「――入ってきたまえ! 君の言う通りだったぞ!」
 その声を受け、ゆっくりと木製の扉が独りでに開かれていく。
「ルイズちゃん」
 ハタヤマは隣に立つ少女へ呼びかける。しかし彼女はそれに答えず、ただぼんやりとたたずむのみである。
 ハタヤマは痛ましげに顔を歪めた。
「可哀相に……でも、もう心配いらない。キミの使い魔(ナイト)の登場だ」
 ハタヤマはそう穏やかに微笑むと、ルイズを扉の方へ向かせた。
 扉が開ききったそこにいたのは。

 風竜の鱗であつらえた鎧を身に纏い。
 鎖で編んだかたびらをそのパーカーの下に着込み。
 翠玉を嵌めこんだ銀の盾をその背に背負い。
 その上に赤錆びた長剣を背負った少年。

 全身をアルビオン製装備で武装した、平賀サイトが仁王立ちしていた。
 ワルドはその姿に苦々しく表情をしかめ、ハタヤマへ目線を移した。
「この絵図をひいたのは貴様か」
「いやぁ、ここまで上手くいくとは思ってなかったけどねー」
 ハタヤマの軽薄な微笑。ワルドはそれがどうしようもなく癪に障り、顔面に風穴を開けてやりたくなるほどの嫌悪感を抱いた。
 歯軋りをする彼の様子にハタヤマもそれを感じたらしく、さらに煽るように笑みを深めた。
 サイトは勢いよくデルフを抜くと、びしりとワルドに突きつけた。
「ふん。こんなことなら、ルイズ以外は皆殺しにしておけばよかったな」
「黙りやがれッ! ――てめえだけは、俺がこの手でぶっ飛ばす!!」



[21043] 六章Side:H 四日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/14 10:49
【 六章Side:H 四日目 『願いの果てに』 】



「うおおぉおおっ!!」
 まず睨み合いを破ったのはサイト。口から雄叫びとも絶叫とも取れぬ威声を発し、地を滑るように突撃を仕掛ける。駆ける速さは神速に達し、目に見えぬ速さで距離を潰す。そしてワルドの眼前に現れると同時に、握った柄を勢いに任せて振り抜き放った。
 ただ力任せの一撃。それはワルドに届くことはなく寸前で杖に受け止められ、甲高い耳障りな金属音を響かせた。
「ただの阿呆と思っていたが、なかなかどうして小細工もこなすのだな。素直に感心したぞ」
「うるせェ!! ルイズはてめェを信じてたんだぞ!! その信頼を踏みにじりやがって!!」
「信じたことは貴様たちの勝手だ。僕の知ったことではない」
「て、めェ――」
 ギリ、と合わせた犬歯が擦れ合う。サイトの怒りはその卑劣に燃え上がり、それを燃やし尽くさんと猛り狂う。
 その激情を剣に乗せ、憎きワルドへもう一度叩きつけようとしたが。「下がれ、少年!」
 真横からの鋭い忠告。声に一筋の冷風が吹き抜け、胸の炎がわずかに冷める。続いて呪印(ルーン)からもたらされた直感に、わずかに眼球を上げてみると。そこには、今にも結ばれんとする、裏切り者(髭モジャ野郎)のすぼめた唇がある。
 サイトはとっさにデルフを肩口に引き寄せ、防御姿勢で大きく、跳ねるように下がった。
「“風槌(エア・ハンマー)”――」
 喉を貫くような刺突を、すんでの所ですかすサイト。しかし、殺意はそれだけで終わらず、風の凶弾(カタマリ)となってサイトに襲いかかる。
 サイトはデルフ越しに直撃を食らい、バックステップの勢い増大させ跳ね飛ばされた――が。
「ぐがッ――あああぁぁあぁああああッッッ!!!!」
 サイトは獣のような絶叫をあげると、浮いた両足を無理矢理地面に着け、超人的な膂力で踏ん張った。石畳ががりがりと削られ、凄まじい削岩音が礼拝堂内に木霊する。そして数十メートルほど擦り下がらされ、背中が扉に打ち付けられたところで止まった。
 なんとこの男、倒されずに両足と背筋の力のみで、魔法の衝撃に耐え抜いたのだ。呪印の力があるとはいえ、とんでもない男である。
「ほう? 同じ轍は踏まぬか。筋は良い。貴様が我が隊の兵士ならば、及第点をやっただろう」
 ワルドの感心したような呟き。どうやら素直に評価しているらしく、表情に皮肉気な気配はない。
 サイトは悔しげに歯噛みした。
「く、そ……分かってたのに、避けきれねぇ」
 相手は魔法衛士隊隊長であり、斬り合いのさなかに詠唱ができるほどの使い手である。サイトもそのことは把握していたのに、激情に流されて忘れてしまっていた。
「気を落とすな相棒。今のはなかなか狙いは良かったぞ」
「少年、その受け方は止めとけ! 靴(スニーカー)が潰れたら、戦うどころじゃなくなるぞ!」
 デルフの慰めとハタヤマの注意が交差する。サイトはハタヤマのアドバイスに、己の足下を見下ろした。するとなるほど、擦った靴の裏がちりちりと赤く明滅しており、そして石畳には焦げ付いたような黒い線が残っていた。
 さすがの現代科学の結晶も、こういった使われ方は想定していなかったのだろう。靴底が焼け付き、繊維が溶け始めていた。
「目障りだな」
 ちょろちょろと口を挟むハタヤマへ、ワルドは不快気に杖を向けた。蚊とんぼを嫌悪するように眼を細め、紡いだ呪文を放とうとする。しかし、不意に気づいたように九十度腕を振り曲げ、身体の側面に“風壁”を張った。
 それと同時に発生した壁へ“風鎌”(ウィンド・カッター)が殺到し、相殺されて霞と消える。
「王族の前で余所見をするとは、随分と余裕じゃないか。敬意が足りんのではないかね」
「……ちっ」
 忌々しげに舌打ちするワルド。その視線の先には、悠々とした威厳を背負い、杖を構えたウェールズがいた。
「風の祝福を授かりし王族に、風のメイジが楯突こうとは。その高慢、万死に値する」
「ぬかせ“坊ちゃん”が。城でぬくぬくと育った貴様とは違うのだ」
 両者、視線と戦意が高まる。
「せめてもの手向けだ。近衛魔法衛士隊、その隊長まで登りつめた我が魔法。その身に刻んで果てるがいい」
「その不遜、ここで挫いてやろう。アンリエッタを裏切った罪は重いぞ」
 両者のその言葉が契機となり、魔法戦の火蓋が切って落とされた。

 
   ○

「す、すげぇ……」
 サイトは言葉を失っていた。眼前で吹き荒れる暴風、その光景に圧倒されていた。
「はいおまちー……ってどうした少年。ぼけっとしちゃって」
「おお兄さん。どうやら相棒、初めての達人同士のやり合いに圧倒されて、ブルっちまったみてーだよ!」
「ち、ちげえよ!」
 反射的に噛みつくサイト。怖じ気づいたわけではない、と声高に主張する。
 なにせ強風警報が発令されそうな凄まじい強風が吹き荒れ、しかも意志を持ってぶつかり合っているのだ。その余波は、離れて見ているこちらの方まで吹き飛ばされそうな威力を持っている。
「ぬるいぞ坊ちゃんッ!! 包まれた暮らしで牙が折れたか!!」
「ぐ、ぬ――黙れ下郎がッ!!」
 目に見えぬ力が飛び交う戦場。メイジ同士の戦闘を見るのが初めてなサイトには、ただただ圧倒されるしかない。
「あー、あれね。初めて観戦するには、ちょっと刺激が強いかもね」
 ハタヤマはあっけらかんと言い放った。
「お前はなんともおもわねえのか?」
「別に。あんなの派手なだけだし、鍛えれば誰でもできるようになるからね。それより、見た目がしょぼくてもえげつない、しかも殆どのヒトが使えないような魔法もあるし」
 ボクとしてはそっちの方が恐いよ、とこともなげに肩をすくめるハタヤマ。そんなもんなんだろうか、とサイトは生返事で返した。
「お前もあんなのできんの?」
「いやできない。しようとも思わないしね」
「なんで?」
「だってめんどくさいじゃん。得意分野ってわけでもなし、好きでもないことをわざわざ覚えようとは思わないよ」
 無駄なことは覚えない。何故なら、それに割く労力がめんどくさいからである。買ってまで苦労はしない、それがハタヤマの信条であった。
 そんな風にのんきな談笑をしていると、後ろから狼狽えた声がかかる。
「お、おいサイト! これはいったいどういうことだね!?」
 今の今まで蚊帳の外だったギーシュ・ド・グラモンくんであった。彼は、ウェールズのそばで震えた兎のようになっていたところを速やかにハタヤマに誘導され、入り口側へ退避させられていた。
 彼のそばにはキュルケや、もちろんルイズの姿もある。
「殿下直々に助力を請われたので言われるままに協力したが、いったいなんなんだこれは?! なぜ子爵がぼくらに杖を向ける!!?」
「あいつは裏切り者だったんだよ」
「なにぃっ?!!」
 吐き捨てるように顔をしかめるサイト。その衝撃の真実に、ギーシュはさらにヒートアップ。
 大声量で叫んでいるが、耳元でとてもやかましい。
「ダーリン、タバサを知らない? 今朝から姿が見えないの!」
「タバサ? いや、俺は知らないけど……」
「あの子は『持ち場』で待機中さ。あとで合流してくれるよ」
 キュルケの問いに、後ろからひょいと顔を覗かせ答えるハタヤマ。一応彼らは面識がないので、キュルケは途惑うようにハタヤマの顔を見つめた。
「あ、あの、ミスタ? あなた、わたくしの友達を知っていらっしゃるの?」
「知っているもなにも、ボクもあの子の友達だよ」
 良い子だよね、と親しげに微笑むハタヤマ。その笑顔に少しだけ平静を取り戻したキュルケだが、先ほどまで晒されていた緊張が抜けきらないのかまだ表情が硬い。
 ハタヤマはふむ、と一つ唸り、すっと右手を差し出した。
「種も仕掛けもございません」
「……?」
 ハタヤマは右手を開き、両面なにもないことを確認させる。そして拳をぎゅっと握ると、手首を反すように小さく振るった。
 するとどこから現れたのか、真紅の薔薇が現れた。
「まあ!」
「もう怯えなくていいよレディ。ボクも守るし少年も来たからね。だから、そんな険しい顔しないで、ボクに笑顔を見せておくれよ」
 にやりとニヒルに口元を歪めるハタヤマ。本人は格好いいつもりだろうが、壊滅的に似合っていない。もしここに魅惑の妖精亭の面々がいたならば、真っ先にジェシカが頬をつねりに駆け寄ってきただろう。
 しかし、二つ名が『微熱』のキュルケ。彼女はその微笑にころっと騙され、ぽわんと頬を朱に染めた。
 だが、その空気も長くは続かない。
「こんなときに口説いてんじゃねーよバカ」
「あだっ!?」
 すぱんと頭をはたかれるハタヤマ。鈍い痛みに振り返ると、あきれ顔のサイトがこちらを睨んでいる。
 ちょっとちょけすぎたらしい。
「なんだよ、恐い顔すんなよ。ちょっと場を和ませようとしただけじゃないか」
「そうだぞサイト、男は常に女を魅了しなければ……む?」
 ギーシュが横から援護するように割り込んでくる。しかし、彼は言葉の途中で胸元に手をやり首をかしげ、ズボンの前や後ろポケットをぱたぱたと探り回る。
 そしてキュルケの持つ薔薇に目をやり、しばしじっと見つめたあと。ようやっと気がついたのか、素っ頓狂な声を上げた。
「あぁっ!? それはぼくの杖じゃないか!!」
「気づくのが遅いなぁ。得物盗られてぼっとしてんなよ」
 しゃあしゃあとのたまうハタヤマ。欠片も呵責を感じていないらしい。どうやらキュルケに与えた造花は、ギーシュの持ち物からさくっと拝借したらしい。
 そのまま目の前でひょいひょいと薔薇の造花を、いくつも手の中から出現させてみせると、ギーシュは驚きすぎて仰け反るくらい目を剥いた。
「美しい赤髪のあなたに、情熱の花束をプレゼント」
「あら、嬉しいですわね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! さすがに全部は堪忍してくれ! 小遣いの三ヶ月分が消し飛んでしまうよ!!」
 マジ勘弁してくれ、と涙ながらに訴えるギーシュ。貴族のくせに貧乏らしい。
 ハタヤマはそんなギーシュにやれやれと苦笑いを浮かべ、もう少しからかうだけで許してやることにした。
「そうは言っても、もうこの薔薇はボクの物じゃないからね。そういうのは、こちらのミスにお願いしてくれ」
「うふふ……ギーシュ、借し一つね」
「きみたちは鬼かねっ!?」
 並び立って邪笑を浮かべる二人。ギーシュはそんな彼らの背後に、悪戯な小悪魔の影を幻視した。たちの悪いやつらである。
 そこへサイトの声が上がる。
「おい、おいおい、ふざけてる場合じゃねえぞ!」
「なんだい今いいとこなのに」
「ウェールズさんがピンチなんだよ!」
 なぬ? とハタヤマが未だ轟音鳴り響く戦場へ目を向けると、そこには劣勢のウェールズがいた。
「はははははは!! やはり青二才、与えられし餌を啄むだけの雛鳥よ!! その程度では僕には勝てんよ!!」
「ぐ、ぐぬゥ……」
 苦しく、悔しげに胸を押さえながら膝をつくウェールズ。紫のマントと白い豪奢な礼服は見るも無惨に引き裂かれ、まるで着古したボロ切れのようになってしまっている。唯一、無事な帽子に施された七色鳥の羽だけが、鮮やかに存在を主張していた。
「なんだよ。威勢よく啖呵切ったわりには、意外と貧弱なんだなぁ」
「血も涙もないなお前!?」
 期待はずれだとがっかりするハタヤマに、サイトはがびーんと驚いた。なんという男だろう。劣勢の仲間を前に、心配よりも落胆が先に出るなんて。
 ハタヤマはやれやれと肩をすくめる。
「だってさー、昨日なんて『もしいよいよとなれば、逆賊風情、我が風で打ちのめしてやろう』、なーんて言ってたんだよ? それなのになにあの体たらく? がっかりだよ」
 なんとがっかりと口に出してしまった。いよいよこいつは酷いやつである。くそ真面目に行ったウェールズの声真似がいやに上手かった辺り、屈託無さを増長させている。
 サイトは憤った。
「おい、ふざけんなよ! 茶化して良い時と悪い時も分かんねえのか!!」
「それぐらいは分かるさ」
「は?」
 不意に表情を引き締めるハタヤマ。
「まだふざけて良い段階だ。あの王子は言うほど追い込まれてない。なぜなら――」
 真面目で塗り固めた表情を壊し、わずかに口角をつり上げるハタヤマ。
「――ボクらがいるからね」
 悪戯っぽくウィンクするハタヤマ。それにあっけにとられたサイトは、ぽかんと口を開けるのみである。
「そんじゃあそろそろお手伝いしますか。少年、援護するぞ」
「いやちょっと待てよ! あんな爆撃の中に突っ込んだら死んじまうよ!?」
 ウェールズが膝をついたとはいえ、魔法戦は絶賛継続中であった。舞い吹雪く暴風に切り裂くかまいたち、竜巻の中では椅子や折れた柱など、色んな物が飛び交っている。あんな中に剣一本で突撃するなんて自殺行為。むしろ味方に殺される勢いである。
 そんなサイトの狼狽えた様子に、ハタヤマはちっちと指を振った。
「頭が固いな少年。近づけないなら、近づかなきゃいいんだよ」
「え?」
「いいかい、見てな」
 ハタヤマはそばに転がっている長椅子の残骸――ウェールズとワルドの戦いで吹き飛ばされ大破した――を引っ掴み、大きく振りかぶって……
「おりゃーっ!!」
 投げた。
 放たれた残骸はブーメランの如く超高速で回転しながら、ワルドの後頭部に高速で迫る。しかし、ワルドは振り返りもせず纏った“風壁”の出力を上げ、残骸を吹き飛ばしてしまった。
「あ、あんまり効いてないんじゃ」
「そんなことはない。まだまだいくよー!」
 オーラオラオラオラオラオラオラオーラー! と、どこぞの星の白銀のように叫びながら、手当たり次第に物を投げつけるハタヤマ。それらの殆どは弾かれてしまうが、幾つかは風の防御を突き抜け、弱いながらもワルドの背中へぼすぼすと突き当たる。
 ワルドが心底うざったそうに振り返る。
「うわ、あいつこっち向いたぞ!?」
「だーいじょうぶ。こうなった場合は」
 慌てず不敵にほくそ笑むハタヤマ。その態度が示したように、ワルドはまた前に向き直り魔法弾幕を展開し始める。
 隙を見せたワルドに、これ幸いとウェールズが攻め気を出したのである。
「この戦法はボクらだけでは成立しない。かといってあの王子だけでもあの髭もじゃには勝てないだろう。王子様(ウェールズ)というアタッカー兼エースガード、そしてボクらという+αがいてこそ、この作戦が力を持つんだ」
 いかにワルドが強いとはいえ、片手間でウェールズを押さえ込めるほどの力はない。そこへ外部からの力が加わればどうなるか。結果、力の均衡が崩れ、強い個人は崩れ始める。
 ハタヤマの描いた作戦、それは。
「『物量による暴力! よってたかってぼこぼこにしよう作戦』だ!」
 ふぅははははははぁー! と邪悪な高笑いを上げるハタヤマ。今の彼は、誰がどう見ても間違いなく邪悪の化身であった。
 それを見る二人の少年たちは、複雑な心境であった。
「身も蓋もねえなおい」
「まあ、確かに理に適ってはいるが」
 サイトはあまりにも露骨な卑怯根性に、ギーシュは貴族の誇りと作戦の正当性の板挟みに苦い顔をしている。正直男らしくないので、あまり参加したくないようだ。
 しかし、キュルケがさっと間に入る。
「ほら、あんたたちも突っ立ってないで手を動かしなさいな!」
 彼女はルイズを後ろから抱きしめるように守りながら、片手でファイアーボールを連発していた。やはり風の壁に阻まれているが、ワルドはすこぶるウザそうである。
 肉体的に影響はなくても、精神力的には効いているようだ。
「そういうこと。ほら、少年もなんでもいいから投げろ。斬りにいったら巻き込まれて死んじゃうからね」
「わ、わかったよ……」
 しぶしぶといった感じで従うサイト。しかし、やり始めればあとは早い。
「死ねおらぁああぁアァアァッッッ!!!!」
 あっというまに夢中になり、ワルドへの憎しみが絶頂に達するサイト。どうやら心の奥底で、かなり燻っていたようだ。
「まだ俺もでぃ~ぷなキスはしてなかったんだぞおおぉおぉおぉおおッッッ!!!!」
「す、凄まじい怨念だね……よし、そこの金髪の少年」
「ギーシュ・ド・グラモンだ」
「そうか。じゃあグラモンくん。キミはなにができるんだい?」
 ハタヤマの問いかけに、ヴァルキューレを錬金して答えるギーシュ。
「ボクは“錬金”が得意でね。彼女たちを使役して戦闘を行う」
「というかそれしかできねえけどな!」
「う、うるさいぞサイト!!」
 図星を突かれ顔真っ赤なギーシュ。しかし事実なので仕方ない。
 ハタヤマは整然と並ぶ七体のヴァルキューレをじっと見つめると、一つ頷き指示を決定した。
「槍は持たせなくて良い。とにかくこの子たちを特攻させて、髭の身動きを封じるんだ」
「身動きを?」
「どうせキミじゃ傷一つつけられない。だから、とにかく全力を尽くして、あいつの動きを止めてくれ。一秒でも隙を作れりゃしめたもの、あとはあの王子が決めてくれる」
 達人同士の戦闘において、コンマ五秒以上の隙は死に直結する。わずかな隙が活路となるのだ。
 ギーシュはハタヤマの物言いに言いたいことがないでもなかったが、非常時だということで、胸中で噛み殺した。
 サイトとキュルケは既に行動を起こし、ギーシュもヴァルキューレに持たせた槍を手に錬金し直して、四つ手の銅像を造り出す。
「さあみんな、お喋りはお終いだ。さっさと片付けて無事に帰ろう――」
 これで準備は整った、とハタヤマが号令を出そうとした矢先。場は急転の様相を見せた。

     ○

「前座は終わりだ」
 そうワルドが口元を歪めると、これまでにない突風が彼の周囲に発生し、礼拝堂内の全てを吹き飛ばさんばかりに吹き荒れた。
「きゃっ!」
「うわっぷ! す、すげえ風圧だ!」
「ふっ。ヴァルキューレの影に隠れたぼくに隙はなかった」
 各人思い思いの感想を漏らし、各々防御姿勢をとる。サイトはキュルケとルイズの前に立ちふさがって風を受け止め、ギーシュはヴァルキューレ軍団に自分を取り囲むように支持し、己の身を守らせていた。
 吹き荒れる強風の向こう側では、ウェールズも風の壁で対抗している姿が見える。ハタヤマは暴風をまるでそよ風のように受け流し、奔流の中で仁王立ちしていた。
「ん……?」
 ふと、ハタヤマは妙な気配を嗅いだ気がした。嗅ぎ慣れたような、そしてこの世界では絶対に嗅げるはずのない匂い。この世界の人間は持たない、自分だけが持つ魔力の薫りを。
 ハタヤマは目元に手をかざして、殴りつけるような強風を防ぎながら上空を見上げる。そこには、中空で制止し、くつくつと喉を鳴らして嗤うワルドがいた。
「まさか、子爵がこの風を起こしているの?」
「馬鹿な、ありえん! “浮遊”(フライ)の最中に“突風”(ガスト)だと!? しかもこの威力、馬鹿げてる!!」
 ギーシュとキュルケが怖れと驚き――恐慌に急き立てられるように叫ぶ。それを見てハタヤマも思い出す。たしかこの世界の人間は、同時に二つ以上の魔法を使うことができなかったはずだ。
「な、なんだ!? なんでみんなビビってるんだ?!」
「あの髭が、とんでもなくあり得ないことをしてるからだよ」
 みんなの驚愕の理由が分からず、よく分からないままに狼狽えるサイト。そんなサイトに、ハタヤマはどうでもよさそうに説明を与えた。
 サイトは詳細を根掘り葉掘り聞きたい衝動に駆られたが、ハタヤマが険しい表情を崩さないので、さすがに空気を読んで自重する。
「キミからはなにか珍しい匂いがするね! 隠し球でも持ってるのかい!」
 ハタヤマは大げさな身振りで問う。それはさながら舞台役者のように慇懃で、どうしようもなく似合っていた。
 ワルドは笑みを深める。
「ほう? 貴様、いやに鼻が利くな。――いかにもこのワルド、まだ全力を出し切ってはおらん」
 ワルドは右手で右目を覆い隠すと、苦悶の呻きを漏らし始めた。爪を食い込ませ掻きむしる姿は、まるで目玉をもぎ取ろうとしているかのようである。
 サイトたち年少組はその様子の異様さに、ハタヤマとヴェールズは高まりゆく焦燥感にそれを見守る。ワルドはなにかとんでもない物を見せようとしている。しかし、今ここで不用意に割り込み、その正体を知る機会を逃すと、後々大変なことになる気がする。
 本来ならば邪魔をするべきだろう。しかし、大局的に見るのならば、この場は手を出してはいけない。ヴェールズはそれをなんとなく、ハタヤマは確たる経験として把握していた。
 やがてワルドの震えが止まり、静かに被せた右手を降ろした。
「見るがいい――これが、僕の力の秘密だ」
「――!?」
「うわっ、グロいな……」
 サイトは眼に映ったワルドの顔があまりにもグロテスクすぎて、思わず顔を背けてしまう。
 ワルドの顔、その右目の眼球。それがまるで水晶玉のような赤黒い球体へと変質し、びくびくと脈を刻んでいたからである。
 その水晶の外側は鮮血のような赤に染まり、中心に向かうほど黒に変色していく。そしてその中心部は漆黒。まるで世界中の闇を集め、擦り切れるまで絞り尽くして凝縮させた一滴を垂らしたかのように黒い。しかし、その球体は肌が泡立つほどの強烈な生命力を発しており、覗きこんでいるだけで吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥るほど、鮮烈な存在感を無音で誇示していた。
 サイトは己の感じた感想に、同意を求めるようにハタヤマを見上げた。
 しかし
「ん? どうしたんだ聖?」
 サイトはきょとんと首をかしげる。なんと、あのなにが起ころうが不敵な笑みを崩さない、人生いつでもふざけているような男が、眼を見開いて絶句し、立ちつくしていたからだ。

「それ、を――どこで手に入れたんだ」
「ふむ? 貴様はこれを知っているのか? ということは貴様も“魔女”に会ったことがあるのだな」
「“魔女”――ッ!!」

 サイトはハタヤマとワルドの会話が理解できず、ヴェールズも口を挟むことができない。それだけワルドが纏った“得体の知れない力”は、強大だった。
 ハタヤマはぎり、と拳を握りしめる。
「まさか、あいつも来てるのか――魔王、いや。“黒き魔女”リスティンが!」
「お、おい、お前らなんの話してんだよ? あの赤い珠がどうかしたのか?」
 サイトはハタヤマとワルドを交互に見比べ、戸惑ったように問いかける。しかしハタヤマは表情固く答えず、ワルドはくつくつと不気味に嗤うのみ。
 サイトはさっぱり事情が飲み込めず、苛立たしげにハタヤマの肩を掴む。
 だが。
「って、なにすッ『ズガガガンッ!!』ぬおっ!?」
 いきなり思い切り突き飛ばされ、もんどりうって転がるサイト。その無法に抗議を刺そうとしたら、続いた轟音にかき消された。
 あわてて飛び起きると先ほどまで彼の体があった場所には、透明で巨大な槍が刺さったかのような抉れ跡が刻まれている。そこにあったはずの固い石畳は無残に砕かれ、砂埃と土煙を吐き出していた。
「もうなにもかも面倒だ。手紙も、“虚無”も、もういらん。貴様らを殺して終わりにしよう」
 ワルドはそう呟くようにこぼす。すると、彼の周囲にまたも風が集まり始め、徐々に巨大な竜巻へと変貌していく。風の奔流は目に見えぬ蛇のように蠢き、獲物を求めて猛り狂う。
 不意にワルドが指先で杖を振るった。
「――あ?」
 サイトの間の抜けた吐息が漏れる。実際、彼以外それを察知できた者はいなかった。否、彼ですら“反応はできなかった”。
 ワルドの操る指揮棒(タクト)に合わせ、不可視の大蛇が鎌首をもたげる。そして大きく波打つように飛び上がり、サイトたちへとその牙を剥いた。
 “見る”ことができたのはサイトのみ。キュルケとギーシュは何が起こっているのかすら分かっていない。ただ漠然とした『危険の予感』だけが、サイトにその不可視の脅威を、輪郭を持って感じ取らせていた。
 しかし、それも粟立つような危機を知らせるだけ。それに立ち向かうべき身体は、凍りついたように動きだしてくれない。
 あと数瞬。それで自分たちは命ごとあの風の蛇に呑み込まれ、五体を引きちぎられてしまうのだろう。
 そのとき、サイトの前に黒い背中が、立ち塞がるように割り込んだ。
「――ッ!?」
 眼を剥き絶句するワルド。なにせ、己の生み出せし殺意の結晶が目の前で唐突に霧散させられたのだ。驚かない方がおかしい。
 彼の無色の蛇はサイトたちを呑み込む寸前、弾けるように消沈した。掻き消えた場に躍り出たのは、両手を交差させた黒コートの男。無地だとばかり思っていたそれには、今や眼に焼きつくほどにまばゆい翠色の模様がびっしりと浮かび上がり、どくどくと波打つように脈動している。
「なんだその外套は。魔宝具(アーティファクト)の類か?」
「んな高等なもんじゃないよ。思いつきで作ったただの一張羅さ」
 ぬかせ、とワルドは心中でツバを吐く。ただの衣服がこのワルドの“風蛇”(スネーク・ガスト)を無効化できるものか。
「少年」
 ハタヤマは振り返らずに言う。
「ここは逃げろ。この国から脱出するんだ」
「な――!?」
 サイトは絶句した。
「な、なに言ってやがる!! あの野郎を前にして、みすみす背中を見せろってのか!? お前『まだ大丈夫』って言ったじゃねえか!! それに、俺はあいつを一発ぶっ飛ばさなきゃ気が済ま――」
「聞き分けてくれ」
 ぽつりと、しかし浮き出るように強い語調。耳に届く緊迫した声に、サイトは知らず口をつぐんでいた。
「状況が変わった。あれは、本当にヤバいんだ」
 あの、世界が終わる瞬間だろうが飄々と笑っていそうな男が、目に見えるほど緊張をあらわにしている。サイトからは前に立つハタヤマの後姿しか見えないが、やや口元がこわばっているのが見て取れた。
 しかし、サイトはそんな言葉だけでは引き下がれない。
「い、いくらヤバくってもこっちは三人いるんだぜ? 全員で押し囲めば……」
 サイトはなおも戦闘続行を望む。昨夜あれだけコケにされて、しかもルイズをこんな目に遭わされて、彼は絶対に引けなかった。
 そこへワルドが呼ばれてもいないのに割って入る。
「ふむ、数の有利を説くか。たしかにこの頭数の差はやや厄介だな」
 ワルドは礼拝堂の中心で、ふわふわと浮遊しながら大げさに肩をすくめた。なんとも頭が痛いものだ、と軽口が聞こえてきそうなほどわざとらしい。
 そのため息にサイトは勢いを得たように、歯を見せて口を歪ませた。
 しかし。
「ならばこんな趣向はどうかね?」
 おもむろにワルドが指を鳴らした。 
「――……」
「なっ……!?」
「――はああぁぁあぁああ!!?」
 不意に風が止み、ハタヤマは眼を細め、ウェールズは絶句し、サイトは心の底からおっ魂消る。
 風が止み、現われたのはワルド。宙に浮かぶワルドの元にずらりと整列する十二人のワルド。右を見ても左を見ても、真ん中を見てもワルドである。
 なんとワルドが一つ指を鳴らすだけで、新たに十二人のワルドが虚空より出現したのだ。
「こ、こんなのありかよ……ッ!」
 サイトは苦々しげに歯噛みする。ワルドが一人でもあの強さだというのに、それが十三人に増えただと? 馬鹿げてやがる。
 ワルドは万華鏡のように表情を変えるサイトの様子が可笑しすぎるのか、噛み締めるように愉悦を浮かべた。
「これで数の上では六倍以上……いや。そちらにも人数だけは揃っていたな。乳臭さの抜けぬ、青い餓鬼どもが!」
 指を刺し、腹を抱えて狂ったように嘲笑するワルド。それはシーツの染みのように広がっていき、一人、また一人と足元のワルドが嘲りの合唱祭に参加参列の意思を表じる。
 増え続ける耳障りなワルド、ワルドワルド。サイトは、一際鼓動が高く脈打つのを感じた。
 六倍。六倍だと。
 十三の割る六は約二。おそらくウェールズさん、そして目の前のあいつだ。
 あの野郎。

  ――俺を、戦力(かず)に入れてやがらねえ

 ぶつん、と血管がちぎれる音がした。
「待て少年」
 サイトはこめかみに大きな血管を浮かべ、デルフを折れるほど強く握り締めながらづかづかと詰め寄ろうとしたが、横合いから伸びた手に遮られた。ハタヤマである。
 サイトは視線だけで射殺せそうな殺気を纏い、ハタヤマを睨みつけた。
「どけ」
「ダメだ、死ぬ気かい?」
 サイトはかっと血が上り、ハタヤマを突き飛ばした。
「ざけんな、俺は負けねえッ!! たとえ殺られたとしても、あの野郎だけは許せねえッ!!」
 ここまで舐められて後に退けるか。やつには分からせてやらねばならない。後悔を心に刻みつけてやらねばならないのだ。
「俺にだって“力”はある!! ――あいつに思い知らせてやるんだ」
 己の犯した罪の重さを。己の重ねた罪の数を。
 そしてなにより、俺のご主人(ルイズ)に手を出したことを!
「だから――たとえ死んでも、ぶっ殺すッ!!!!」
 サイトは怒りと憎しみに燃えた瞳で、ハタヤマに激情を叩きつけた。
 ハタヤマはそんなサイトを真正面から静かに見つめ。
 ――思い切り、頬を張った。
「皆殺しにするつもりか」
「……え?」
 サイトは呆然と己の頬を撫でた。わずかに赤く腫れており、ぴりりとした痛みが走る。
「そりゃキミは死なないかもしれないけど、後ろの彼らは全滅するよ?」
 アゴで視線を促すハタヤマ。サイトがつられて振り返ると、そこにはキュルケとギーシュ、そして――ルイズの姿があった。
「ここにいる全員が全力で戦えば、その余波は間違いなくこの部屋全体を覆い尽くす。ボクらも自分のことで手一杯だから、この子たちを守ってやる余裕は無い」
 ウェールズも、ハタヤマも、そしてサイトも。その分野での“いっぱし”と呼ばれる領域に、手を伸ばせる位置にいる戦士である。ゆえに、このままワルドと戦争にもつれ込んだとしても、少なくとも即死することは無いだろう。しかし、キュルケたちは違う。彼女らはまだ学生。しかもまともな命のやり取りをしたことも、する必要も無い身分である。そんな彼女らに戦う力など、身を守る力など備わっているはずもなく。一度火蓋が切られれば最後、間違いなく、確定的に、絶対に、抗うすべなく命を落とすことになる。
 そして、命を落とすのは友達だけではない。
「――キミは自分の私怨のために、友達を、そして一番守りたいヒトまで見殺しにするつもりなのかい?」
 サイトははっとなってキュルケの腰元に視線を降ろす。そこには、虚ろな眼をしたルイズがいた。サイトは愕然とした。復讐と報復に心を揺らされ、ルイズの存在が頭の中から一瞬でも消え去っていたのだ。
 しかし。
 サイトはまたばっと振り返り、中央に蠢くワルドの集団を見据える。やつらは一様にニヤニヤと笑みを貼り付け、こちらの様子を窺っている。まるで三文芝居を見物している、意地の悪い観客のようだ。
 ぶん殴りたい。ぶった斬って、ルイズの前で謝らせたい。でも、今の自分ではみんなを守りきれない。でも、目の前でやつは笑っている。今が、真正面からぶつかり合える最大のチャンスなのだ。そのチャンスを逃すのは――いや、しかし――
 顔を引きつらせぐるぐると思考が煮えたぎるサイト。苦悩が表情ににじみ出ており、なんとも形容しがたい様子だ。
 そんな彼の肩にぽんと手が置かれた。サイトが顔を向けると、そこにはハタヤマの穏やかな表情があった。
「今キミがすべきことは、あの髭を剃り落としてやることじゃない。みんなを、そしてルイズちゃんを、無事に連れ帰ることなんだ」
 それは、キミにしかできないことだよ。そうハタヤマはサイトに言い聞かせた。
 サイトの表情がわずかに和らぐ。しかし、完全には晴れない。
「でも、あいつをほっとくわけにも――」
「大丈夫だ」
 ハタヤマはサイトを片手で下がらせ、自身は前に大きく踏み出した。
「ここは任せて、先に行け」
「え?」
「ここはボクが抑えよう。だから、キミたちはこの国を脱出するんだ」
「な――っ!?」
 サイトは耳を疑った。そして、言いようの無い抵抗感が胸いっぱいに膨れ上がる。
「待てよ、お前らだけじゃ危ねえ! 俺だって“足し”ぐらいにはなるだろ!?」
 たしかに経験という面においてはこの場で一番劣るかもしれないが、それでも自分は『ガンダールヴ』。この比類なき強大な力は、戦力外にはならないはずだ。
 そしてなにより。
「んな、仲間を見捨てて逃げるような真似……俺にはできねえよっ!!」
 それが、サイトの正直な本音であった。
 ハタヤマはそんなサイトの純粋な叫びを一心に受け、首だけ振り返り、眩しそうに眼を細めた。
「なんて顔してるんだい」
 ハタヤマは身体をわずかに返すと、ぽんとサイトの頭に手を置いた。
「ボクがこの場に残るのは、なにもキミたちを助けるためだけじゃない。あんなイカれた髭をほっとくと碌なことにならないから、ここで叩いておくためさ」
「だったらなおさら!」
「落ち着けよ。キミにはキミの仕事があるだろう? それはそっちを優先しなくちゃ。それに――」
 ハタヤマは儚くも優しく微笑む。
「力と義務は=(イコール)じゃない。たとえキミに力があろうと、それが進んで関わる理由にはならない。だから、キミがそのせいで心を砕き、気に病む必要は無いんだよ」
「……?」
 サイトには、ハタヤマの言葉の意味が分からなかった。それでも彼が言い返さなかったのは、ハタヤマの表情――とても暖かく、そして悲しい顔――を目の当たりにしたからだ。
「もういいかね! いい加減、人情劇はあきあきなんだがな!」
 ワルドが退屈に声を張り上げた。面白そうなので放置したが、もう飽きてしまったらしい。数人のワルドは髪をいじったり髭をいじったり、あくびをしている者もいた。
 ハタヤマはそれを受け向き直る。
「話は終わりだ。逃走ルートは覚えてるかい? キミがみんなを守るんだ」
「……っ!」
 『みんなを守る』。その言葉に、サイトはなにも言い返せない。
 だからせめてもの反抗に、大声で背中に激励を叩きつける。
「――ああもう! 言われなくても、俺が全部護ってやるよ! だから、お前も死ぬんじゃねえぞ!」
「ふふ……ボクを誰だと思ってる」
 ハタヤマは振り返らず、不敵なサムズアップで返した。

「キミに稽古をつけたのは誰だい? こんなところで死ぬもんか」

 まあ、ぶっちゃけ少年の方が遥かに強いんだけどね、とは口にしない。師匠のプライドとして。
 幸いハタヤマの苦笑いは、背中越しのサイトには見えなかったようだ。
 サイトは、いつも通りの不敵さを復活させた後ろ姿を眼に映し、力強く頷いた。
「分かった――先に行かせてもらうぜ!」
「良い返事だ!」
 ハタヤマは応えると同時に、勢いよく胸元から投げナイフを三本抜き撃つ。それはワルドになんなく竜巻で相殺されるが、それと同時にサイトたちは駆け出していた。
「走れみんな!」
「きゃっ!?」
「ま、待ってくれたまえ!」
 サイトはパーカーのポケットからメリケンサックを取り出し、ルイズを抱っこして走り出す。しかしすぐに後ろの二人との速度の違いに閉口し、駆け足を緩めキュルケの手を掴んだ。
 ほったらかしにされたギーシュはそれでも必死に後を追う。しかし、その背中に“風棘”(ウィンド・スピア)が迫った。そこでギーシュが振り返ってしまい、迫る脅威にほぎゃああああ、とみっともなく表情が凍りつく。だが、その死神の鎌は彼に突きたてられる寸前、黒いカーテンに阻まれ消えた。カバーに入ったハタヤマが、コートの裾を跳ね上げ相殺したのだ。
 そこへワルドが放った椅子やらなにやらが、弾丸の如き狂った速度でハタヤマへと殺到する。ギーシュを守って体勢が泳いだままのハタヤマには、それを避けるすべが無い。それを一瞬で理解したハタヤマは忌々しげに舌打ちし、多少の傷を負うことを覚悟して“ハイシールド”を詠唱し、身体を掻き抱いて目を瞑った。だが、それはまたも届かない。
 弾丸がハタヤマに着弾する寸前、真横から風の濁流が吹き荒れる。濁流は無色の川の氾濫のように進路にある全てを呑み込んで、明後日の方向へ吹き飛ばした。ウェールズである。彼はハタヤマとサイトのやり取りの最中、ひそかにスキルニルを回収し身代わりを立て、自身は“消気”(ハイド)で気配を消して、人知れず移動していたのだ。ハタヤマはいぶかしげに目を開くと、瞬時にそれらのことを把握し軽くウェールズへ手を上げた。
 そこでようやくサイトたちは出口へ辿り着く。サイトは扉を開けることすらもどかしいようで、瞬きの間にデルフを振るいそのまま扉を蹴破った。自身はそこで脇へと下がり、ギーシュとキュルケを先に逃がす。そこまで来てワルドは彼らを魔法で討つのは難しいと判断し、残った手練二人を無視して数名のワルドが地を蹴った。サイトが室外へ出る。それと同時にウェールズは“風槌”(エア・ハンマー)を唱え、追跡を阻もうと出入り口へ向け発動。もちろんそれに気づいているワルドは、残ったワルド全員でウェールズへ魔法の集中砲火を浴びせる。だが、それも通らない。
 再三放たれた三度目の刃は、スズキを振るったハタヤマの“風壁”で一つ残らず威力を半減され、貫通したいくつかもその外套で霧散消沈に散らされた。
 外への扉が瓦礫に埋もれる。
「二人……いや、三人通したか」
「まあ、これは仕方ないよ」
 ウェールズは苦々しく顔をしかめ、ハタヤマがそれに慰めをかけた。あの場面で二手に分かれていたら、おそらくウェールズが墜ちていた。
 直前に助けられたハタヤマとしては、借りを返す前に死なれては寝覚めが悪すぎる。むしろ三人で済んだことを喜んだほうが建設的だろう。
「いささか不安は拭えぬが、彼らを信じるしかないな」
 ウェールズは憂うように息を吐くと、ハタヤマの方へ振り向いた。
「しかしよかったのか? この場に残るということは――」
「なんだよ弱気発言? ヘタレだなぁ」
 ヘタレ。王族に向かってヘタレ。あまりの衝撃に絶句するウェールズ。今の今まで生きてきて、自分にこんな口をきく奴なんて会った事が無い。
 ハタヤマはシニカルに笑い飛ばす。
「ボクは死なない。キミも死なない。あいつを黙らせてそれで終わりだ」
「ぐっ……貴殿は本当に不遜な男だな。まあいい。だが、正直な話だ。貴殿は彼らと共に脱出したほうがよかったのではないか? そのほうが脱出できる可能性はぐっと高まる」
 言外に自分を見捨てて、と滲ませウェールズはハタヤマへ問いかけた。どうせ自分は戦場で戦死する身なのだ。それならば、若い特使たちの未来を守るほうが、いくらか有益ではないだろうか。
 しかし、ハタヤマは首を横に振った。
「ダメだ。それをしたら、あんたが死ぬ可能性が100%になっちゃう。そんなのはフェアじゃない」
「フェア?」
「そうさ。あんたはルイズちゃんを助けるために少年に協力して、そしてあの子たちを逃がすために尽力してくれた。それなのに殺されるのはおかしい。取引は平等じゃなくちゃいけないんだ」
 ハタヤマがサイトたちの護衛に着けば、確かに生還率は上がるだろう。しかし、それではウェールズが救われない。ハタヤマはそれを不条理と断じ、絶対に認める気は無かった。
 ハタヤマはウェールズを正面から見据える。
「あんたがどこでどう死のうが知らない。けど、ここでは死なせないよ」
 恩には恩を、借りには貸しを。それがハタヤマの矜持であった。それは何時何処で、どんな時でも変わらない。たとえ命を賭したとしても、だ。
 どこまでも真っ直ぐなハタヤマの瞳に、ウェールズは苦笑し肩をすくめた。
「君は本当にお人よしなのだな」
「……ただ、馬鹿で餓鬼なだけさ」
 自虐的に目を伏せるハタヤマ。ウェールズはその変化に不思議そうに小首をかしげ、真意を尋ねてみようと口を開きかけた。
 しかし、お喋りはそこで終わりだった。
「プリンス・オブ・ウェールズ」
 宙に浮いたワルドが朗々と呟く。
「もう抗うな。貴様はどう足掻いても死ぬ。どうせ速いか遅いかの差だ。だから、あまり手を煩わせないで欲しいのだがな」
「抜かせ下郎、この逆賊が。僕の死は世の王たちを鼓舞し、民に希望を与えるためのもの。貴様如きの手にかかるわけにはいかん」
 ウェールズは意志の表れとして、杖を突きつけることで返した。
 ワルドはふん、とくだらな気に吐き捨て、今度はハタヤマへ顔を向ける。
「もう貴様の素性については聞かん。事ここに至っては、知る必要も興味も無いからな。だが、何故貴様は僕に楯突く。貴様にとってあの小僧や“坊ちゃん”は、命を懸けるほどに大切な存在なのか?」
「……別にそういうわけじゃない」
「なに?」
「ただ」
 ハタヤマは顔を上げ、ワルドを射るように睨み付ける。
「あの子はボクの友達だ。そしてこの王子も知り合いだ。そいつらが危ないって分かってんのに、放って帰るわけにはいかない」
「友達、知り合いだと? たったそれだけの理由で、貴様はここに残ったのか? このワルドの前に、そして果てゆくこの国に?」
 ワルドは思わず目を丸くした。赤く光る右目の球体がぎょろりと輝く。
「貴様は、ウェールズの盟友なのか?」
「いいや。昨日会ったばかりさ」
「なん……だと……? ふざけるのもいい加減にしろ!! 貴様は昨日会ったばかりの、それこそ名しか知らぬ者のために、命を賭けているというのか!?」
「関係ないさ」
 ハタヤマは瞬きを一つする。
「一度出会い、言葉を交わせば。そいつはボクの知り合いだ。しかもそいつは悪いやつじゃなく、ボクの友達を助けてくれたらしい。そんな良いやつが困ってるなら、助けるのは当たり前じゃないか」
 ワルドは絶句する。
「狂人の考えだ。正気の沙汰とは思えない。貴様はそれこそ『ハンカチを拾ってもらったから』というような理由で、その命を投げ出すというのか!」
「………………」
 ワルドの金切り声。その意味が脳に届き、ハタヤマははてと首を大きくかしげた。どうやら、自分で言っててよく分からなくなってきたようである。
 たしかに自分はウェールズを知り合いだと思っていて、少年を助けてもらったことに感謝もしている。だが、それが今この場に残った理由かといえば、なにか違うような気がする。
 言い表せぬ、言葉にできぬ、もやもやふわふわとした違和感。むしろ、言葉にしたら嘘になってしまいそうな――
「……まあ、いい」
 はっとハタヤマは意識を引き戻した。
「これ以上問答で時間を取られ、みすみす大魚を逃すわけにもいかん」
 ワルドたちは、一糸乱れぬ統率で杖を構えた。
「もう一時間もすれば進軍が始まる。手柄を取られては面白くない。プリンス・オブ・ウェールズ。貴様には、僕の理想への礎となってもらうぞ」
 ワルドたちから障気のような魔力が立ち昇る。ウェールズはかつて感じたことのない禍々しい気配を前に、湧き出そうになる不安を飲み下すように、ぐびりと生唾を呑み込んだ。
 その横をすたすたと前に出るハタヤマ。
「やれやれ。残り二つしかないんだから、無駄使いさせて欲しくないんだけど」
 敵意も悪意も気負いもなく、今にも欠伸でもしそうな感じでおもむろにズボンのポケットをまさぐるハタヤマ。ややあってポケットから抜かれた手には、深い黄色の飴玉が摘まれていた。彼の世界の、魔力を一時的に増幅するマジックアイテム――月光糖である。
 ハタヤマはそれを口に含むと、噛まず、舐めずに呑み込んだ。
「戦う理由を持たないのなら、今すぐこの場から去れ。僕は貴様に用はないし、無駄な手間がかかるのも面倒だ。今なら見逃してやっても構わない」
「キミに無くてもボクにはある。その、右目の魔力核(ビーン)にね」
「――ほう?」
 ワルドが片眉を上げた。
「もしや、貴様がハティマ・ユスィーロか? あの“魔女”がご執心の」
「……は? なんか発音おかしくない? というか、それだとたぶん順番逆だよ。ハタヤマが名字だし」
「む。ならばユスィーロ・ハティマか」
 とんでもなくどうでもいい。
「まあいいや。めんどくさい話は無しだ。あんたの右目のそれはガン細胞みたいな物でね。普通の生き物が融合しすぎると大変なことになる。だから、悪いけど破壊させてもらうよ」
「ふん、これは我が悲願に必要不可欠な物。むざむざくれてやるわけにはいかん。それに――」
 ワルドは口元をつり上げる。
「あの“魔女”は貴様を殺せば、さらなる力を与えてくれると言った。丁度よかったかもしれんな」
 ワルドはわずかに思い出す。遠き日に出会った黒い魔女を。

   『ハタヤマヨシノリを倒すことができたのなら、お前を新たな寵愛の対象としてやっても良いぞ。
    まあ、やつがお前の手に負えれば、の話じゃがな』

 別に女としてやつを欲したことはないので、当時は聞き流しもう忘れかけていたが。まさかこんなところで出会うとは、運命の神も粋なことをする。
 “聖地奪還”のための潮流が怒濤の如く動き始め、混沌を深めつつある今。ウェールズの首とハティマの命(新たなる力)は、必ずや追い風となるだろう。
「ウェールズくんだっけ?」
 唐突に呼ばれた己の名前に、ウェールズは戸惑い言葉に詰まる。
 ハタヤマは沈黙を肯定と受け取ったのか、答えを待たずに続けた。
「今から起こる目の前の出来事は、一切他言無用で頼むよ」
 ハタヤマは獰猛な笑みを浮かべると、ゆらりと前へ進み出た。

「手加減は無しだ。そんなに見たけりゃ見せてやるよ――メタモル魔法の深淵をね」

     ○

「――……」
 ウェールズは言葉を失っていた。目の前で起こる超常不可思議な死闘から、一瞬たりとも目が離せない。
「チェンジ!」
 という黒衣の男のかけ声と共に、戦況は万別の変化を見せる。それはまるで、幼い頃読んだ物語が目の前にそのまま出現したような不可思議さで、彼の目を惹きつけて放さない。
 ほら、まただ。

 自身に向けて豪雨のように集中する風の槍を地を蹴って跳び上がり避け、さらに放たれた追い打ちに対しては“生やした羽”で空を舞いかわす。ハタヤマは跳び上がった直後に煙を纏い、次の瞬間には『翼人』へと変身を遂げていたのである。
 子爵はその瞬間眼を見開いて身じろぎしたが、すぐに立て直し攻撃を続行する。しかし、空を縦横無尽に泳ぎ回るハタヤマのすばしこさに、なかなか対応できないらしい。ハタヤマは身を翻し、手近にいたワルドの真上に差し掛かると、またもかけ声と煙を纏った。
 すると。
「  ぶぎ」 グチャ
 ずずん、という大理石が落下したような重低音。そして肉が踏みつぶされる音。なんとハタヤマは巨大なゴーレムへと姿を変え、無慈悲に急降下し子爵を踏みつぶしたのだ。子爵たちはその出来事に絶句し、しばし呪文を唱える口が止まる。
 ゴーレムは足の裏がにちゃにちゃと気持ち悪いのか、足を砕き折って新たに生やし、血と油が付着した瓦礫はタバコを踏み消すようにじゃりじゃりと踏みにじった。
「な、なんだ。なんなんだ貴様はぁっっっ!!!!」
 数名のワルドが錯乱したように、“風槌”をやたらめたらに打ち乱す。どうやら“偏在”で作られた者は、思考にノイズが発生するらしい。しかし、ゴーレムは全身をぼごがごと削られるのを鬱陶しそうに身じろぎするだけで、全く堪えていないようだ。
 チェンジ、という声が聞こえた気がした。
「げぎょ   」 ビチッ
 声と共に巻き起こる白い煙、そこから現れたのは狂える雄牛。黄金に燦めく瞳が一際異彩を放つ、亜人ミノタウロスである。ミノタウロスはまるで赤い衣に煽られた闘牛のように圧倒的な突進力を猛らせ、三メートルにも渡る体躯を感じさせない身のこなしで、瞬きよりも速くワルドの頭を握りつぶした。踏みならす地響きすら遅れて聞こえるほどの間に頭をわしづかまれたワルドは、断末魔すら上げることを許されず、熟れたトマトのように顔面をはじけ飛ばす。
 ここでワルドたちは統率が取れてきたのか、一糸乱れぬ波状攻撃を開始。数が減る事に命令系統が洗練されていくらしい。だが、ミノタウロスの強靱な皮膚にはそんなものまるでそよ風に撫でられたくらいにしか感じないらしく、おもむろにそばにあった石柱をへし折ると、頭上で風車のように振り回して、うざったい風を豪快にかき消した。人の身ではびくともしないような、重く巨大な石柱。それをまるで棒きれのようにいとも容易くへし折り、軽々と振り回す。
 そして雄牛の横薙ぎの一振りが、新たに二名のワルドの命を奪った。
「挽肉になるのは嫌かい? じゃあ、ちょっと趣向をを変えよう」
 顔面蒼白で凝視してくるワルドに、雄牛は石柱をぽいと投げ捨て、さらに姿を変えた。今度現れた姿は――
「――に、人形?」
 藁を寄り集めてできたような体躯、吹けば飛びそうなひょろひょろの手足。言うなれば藁人形のようなものが、煙の中から出現した。
 あれは生き物なのだろうか? ウェールズは、生まれてこの方あんな生物を見たことがなかった。
 それはワルドも同じなのか、先ほどまでとのあまりのギャップに途惑っているようである。
「ほらどうした? かかって来いよ」
 びびってんのか、と文字通り糸のような体躯をひょろひょろさせながら煽るハタヤマ。その舐めた口のきき方にかっと頭に血が上ったのか、沸点の低い数名のワルドが“ウィンド・スピアー”を殺到させる。個体によって性格にも違いがあるのは興味深い。
 ハタヤマはそれが“視えているはずなのに”、避けることもせず全身を刺し貫かれ、ほつれるように全身を舞い散らせた。
「ハティマ殿!?」
 ウェールズは子爵が呼んだ名を思い起こし叫ぶ。しかし、ハタヤマはそれに答えられる状態ではなく、全身の繊維が床に飛び散らかされたまま動かない。まさか死んでしまったのだろうか。
 ワルドはおっかなびっくりにその様子を窺っていたが、どうやらハタヤマが動かないと見るや、歪んだ笑みで喉を鳴らし始める。
「く、くくく……なんだ、口ほどでもないではないか。所詮は手品師、ぼくの敵では」

「――キミは本当に面白いね」

 ワルドたちはわずかに跳び上がって身震いし、愕然と眼を見開いた。どうやらかなりびびったようだ。
「傲慢にして過信が過ぎる。そのくせ予想外の衝撃に弱い。自意識に太った小心のイタチだ――異様に瞳(め)だけがぎらついた、ね」
「なっ……!?」
 中心で浮かび上がっているワルドは歯を剥き、ハタヤマを探す。しかし、声はすれども姿形はいずこにも見えない。彼の両の目は憤怒に染まり、憎しみで赤黒く濁っていく。それに呼応するかのように、朱い宝珠はほのかに燦めいた。
「どこだ! どこに隠れた!? 口先だけの卑怯者めッ!!」
 声を荒げたワルドの怒声に、ハタヤマはくつくつと含んで笑った。
「どこ見てるんだい。――ここにいるじゃないか」
 その声が聞こえ終わるやいなや、藁の残骸の中からぴょこりと芽が生える。その萌芽はみるみるうちに成長し――
「な、なん……だと?」
 ――あっというまに、藁人形の姿へと成熟した。しかも、五体。増えたのである。
 不可思議を通り越して不条理な現実。もうワルドはなにがなにやら分からない。
「放心するのは危ないよ。魂消ながらでも足を動かしな」
 声にワルドたちは正気に戻ったが、その時にはもう出遅れていた。三体の藁人形が各々標的を見定め躍りかかっている。ワルドたちは迎撃しようと“風槌”を詠唱したが、間に合わず二名のワルドがツタの触手に絡め取られてしまった。
 片方の藁人形が“竜巻”によりねじ切れ弾ける。どうやら捕縛された本人が自爆覚悟でぶっ放したらしい。しかし、弾けた残骸はまた新たな藁人形となり復活するので、残念なことに状況は悪化の一途を辿る。増えた藁人形はさらなる数の利を持って、ワルドたちへと進軍を開始した。
「今度はなんだ!? 人形(ガーゴイル)の類かっんぐ!?」
 散らしても散らしても群がってくる藁人形の不気味な圧力に、動揺に駆られ怒鳴った実働隊ワルド一名の口に、狙いすましたようになにかが打ち込まれた。大口を開けていたワルドは、思わずそれを呑み込んでしまう。
 すぐに飛んできた方角へ目を向けると、そこには崩れ去る藁人形の一体がある。ワルドは出来事の事情が掴めず、目を細め大量の疑問符を浮かべた。
「失礼だな、これでもれっきとしたイキモノなんだよ?」
 崩れた一体はみるみるうちに枯れ果て、粉々になって風に消えた。
「学院で見かけたんだけど、珍しい生物でね。なんと知能のある植物生命体なんだよ。百合人間って言ったかな?」
 増え続ける藁人形の大群、致命傷には至らないけれど捌ききれないそのラッシュは、まるで人間と藁人形のワルツである。
 その攻勢に唯一加わらない一体が、“種”を呑み込んだワルドへと語りかける。
「この生物は物理攻撃では死なない。存在の核となる種子が残っている限り何度でも復活する。その時、枝分かれして子孫が増えるけど、その子孫は親が命令すれば意のままに操ることができる。枝分かれした種子は子孫であり、分身なのさ」
 朗々と、劇の狂言廻しのように語るハタヤマ。今、彼に表情を表す顔があれば、それは不敵に彩られていただろう。
 不気味すぎる彼を抉り貫いてやろうとワルドは“ウィンド・スピア”を詠唱したが、唐突に心臓が跳ねたような違和感に襲われ中断させられる。
「そうそう、百合っつってもこれ花咲いてないけどさ。なんでそう呼ばれてるかってーとね」
 まるで今思い出したかのように、わざとらしく大げさな身振りのハタヤマ。しかし、ワルドにはそれを睨みつける余裕すら無い。
 体内の、まるで血管の中をなにかが這い回っているかのような感覚。腹部を中心にみるみる大きくなる異物感。ワルドは苦しげに胸を押さえ、腰を折って膝に片手をつく。
「か……は……っ……!、?」
「この植物は食肉植物でさ。普段は土に埋まったり日光浴したりで栄養を確保してんだけど、やっぱりそんだけじゃ足りないんだ。だからいつもは、こんな貧弱ななりしてひょろひょろしてる。子どもだって生き残るのは十株に一つぐらい。それだって色んな草食動物に食われてすぐ死んじゃう」
 天敵が多いんだ、とまるで自分のことのようにはにかみながら小首をすくめるハタヤマ。しかしワルドはそれどころではない。
 呼吸が詰まってきた。もう立っていられない。
「で、こいつはどうやって獲物を捕食するかというと。まあ見ての通り、爪も牙もないから狩りができない。何故無いかというとそれもそのはず。こいつは特殊なイキモノで、獲物を捕食するのが一生に一度だけだからなんだよ」
 他の三人のワルドたちはまとわりつかれないよう、一心不乱に藁人形を跳ね飛ばしている。風の刃で、風の塊で、竜巻を纏って吹き飛ばす。
 “種”を植えられたワルドはもう呼吸することすらままならず、両膝を付いて四つんばいにうずくまった。
「長い年月を生き延びた個体は、体内に“種”を宿すことができる。それは土や日光からの栄養では育たず、ある“特殊な環境”でなければ発芽・生長してくれないんだ」
 全身(からだ)が軋む。息ができない。両手に違和感を感じ袖を乱暴に破り捨てると、血管が赤黒く浮き出たように数倍太くなっている。
 しかも――内部が異様に黒い。まるで、異物が混入しているかのように。
「その環境とは、イキモノの体内」
 びりり、とワルドの背中が“破れた”。
「血、肉、その他諸々をあますことなく吸い尽くし、咲かせる花は極彩の赤。世にも珍しい赤百合さ。――特に人間を母胎にすると、大きくて、本当に素晴らしい色合いに染まってくれるらしいんだよねぇ」
 “種”もそうだけど、花は特に高く売れるんだよ? ボクも初めて見たけどほんと綺麗だねぇ、とハタヤマは悪びれなくからから笑う。しかし、それを聞いていたワルドは既に事切れた後だった。
 したたる雫は命の証。その赤を吸い、花はさらに美しく映える。それは毒々しくも生命力の輝きに溢れ、見る者全てを魅了する。その花は根を張りし“土”の部分さえ見下ろさなければ、この地上のどんな花よりも愛されし一輪となったことだろう。
 残り四名。
「ま、ここで咲かせても持って帰られないし、もったいないからこの辺にしようか」
 一回咲かせるとしばらく“種無し”になっちゃうから、ボクとしてもあんま使いたくないんだよねー。そう笑い、語っていた藁人形はまた煙に包まれる。それと同時に、溢れんばかりに増殖していた藁人形たちも忽然と姿を消す。どういう原理なのか意味が分からない。
 溢れかえっていた藁人形が唐突に消え失せたことに、動揺して隙ができるワルドたち。もちろんハタヤマはそれを見逃さない。
「ぐふぉ、ふぁっ!?」
 ワルドの奇声。メインだった個体に一番近かったワルドが、避ける間もなく得体の知れぬ胴の長いなにかに、首元から足先まで隙間無く巻き付かれ、身動きを封じられてしまった。
 全身を這い回るおぞましい感覚。その正体は――
「節足動物は苦手かな?」
 鋭く生えた二本の曲がり牙が、かしゃかしゃと首筋や頬を撫でる。てらてら輝く漆黒の甲羅と百にも達する大量の足。そう、巨大ムカデである。
 そこまでに至らずワルドは正体に気づき、押さえようのない怖気に襲われた。
「猛毒の牙でじわじわ、ってのもできるんだけど」
 まるで世間話でもするかのように軽い調子でハタヤマは囁くと。
「時間がないからこれで勘弁」
 ギャブ、とワルドの頭を丸ごと一噛み。そして首をスクリューのように120°、さらに逆側に240°ぎゅるりと回転。それと同時にぼぎごぎと骨が砕ける凄惨な音色が歌と流れ、ぶちん、という断音にて終幕となった。
 すぐさま羽で飛び立つ巨大ムカデ。それと同時に赤い噴水が活動を開始する。ポンプのように吹き出る血飛沫をすんでの所でかすらずかわし、ある程度中空で距離を取ってから、またも煙を纏うハタヤマ。そして煙の中から現れ落ちたのは哀れな犠牲者(偏在のワルド)の生首と、開幕当初の人型の彼であった
 ワルドたちはもう巨大ムカデが出現した辺りから思考が停止しており、声もなく全員が首無しワルドを注視している。これが、本当の意味での『絶句』というものなのだろう。
「変なもん食うと腹壊すからね。あんま人間って美味しくないらしいし」
 あれだけのことをした男は、そんな風にあっけらかんと笑う。その姿はもう得体が知れないを通り越し、理解不能の領域へと踏み外す。
 闇を背負う黒衣の男、その影の深さは闇よりも濃い漆黒。ワルドたちは一瞬、その影が何倍にも膨れあがり、鋭く尖った牙を剥いて、ぎらぎらと燦めく黄金の瞳をだけが色を持って、舌なめずりしているように錯覚(かん)じた。
 しかし、彼らがハタヤマの感性を理解できるはずもない。なぜなら、ハタヤマは普段こそ人間の姿を借りてそこらをうろうろしていたりするが――彼は、やはり人間ではないのだから。
 人間が蚊や蠅、豚や牛を殺して良心が痛まないのと一緒。いや、巨大になるとやや罪悪感を感じることもあるが、結局はそこまで思い詰めたりしない。
 それはハタヤマにとっても同じこと。
 ハタヤマにとって“人間”とは、虫や動物と同程度の存在。その程度の認識なのだ。
「くっ――この化け物がぁッッッ!!!! なんだ、なんなんだ貴様ァ!!!!」
「ははは、よく言われるよ」
 半狂乱になったワルドに、ハタヤマは毒のない笑みを浮かべる。
「けど、キミの顔も大概だよ?」
 ハタヤマは苦笑して肩をすくめた。ワルドははっとし、ゆっくりと自身の顔面の右半分に触れる。眼球に触れた手触りは水晶のように固く滑らかで、そのくせどくどくと脈打ち、焼き釜のように熱かった。
 ワルドはしばしじっと黙り込むと、やがてにぃ、と歪んだ笑みを浮かべた。
「……それもそうか」
「それもそうだよ」
 ふふ(くく)、ふふふ(くくく)、ふふふふふ(くくくくく)……
 ワルドは喉を鳴らし、ハタヤマは息を鳴らして笑う。しかしその表情は対照的で、ハタヤマはシニカルな諧謔を含んだ明るいものだったが、ワルドはただひたすらに邪悪な歪さを張りつけていた。

 これが、“魅入っている”ということになるのだろうか。
 ウェールズは異常なる者たちに挟まれ、ただただ面食らうしかない。

 彼には、相対するどちらのイキモノも、ただひたすらに禍々しく見えた。

     ○

「……やれやれ、どうやら僕はとんでもないモノに目を付けられたようだ。貴様はとんだ“ケダモノ”だよ」
「それもよく言われる。なんでだろうね?」
 ギスギスと言葉で、殺意でいがみあうが、それでも笑顔は決して絶やさない。本質はあまりにも違いすぎるが、表面上はお互い似たもの同士らしい。
「さて、そろそろリクエストを受け付けるよ。――次はどんな死に方がしたい?」
 焼死、凍死、圧死に斬死、窒息失血感電死。お望みとあらばどんな死因でも味わわせてあげましょう。なんでも取り揃えてございますよ。
 ハタヤマは無垢な笑顔で、相対するワルドへそう告げた。それはさながら天からの使者か、それとも地獄の案内人か。
 ワルドはハタヤマが発する強烈な狂気に、知らず一筋冷や汗を垂らした。
「ふん、神経の千切れた狂犬め。どうやら貴様を滅ぼすには、さらなる力が必要なようだ」
 中央のワルドが言葉と共に天上近くまで浮かび上がると、それに呼応するかのように生き残ったワルドがその足下へ集結した。
 ハタヤマが肩をすくめる。
「またそれかよ。少年誌展開なんて陳腐だよ?」
 お前はとぐろ弟か、と呆れて失笑するハタヤマ。足し算のバトルは不毛である。
 しかしワルドは堪えない。
「なにをわけの分からんことを」
 いや、意味が伝わっていないだけのようだ。
「どうやら貴様には数で押しても意味がないようだ。アプローチを変えさせてもらう」
「ふん、あんま大差ないと思うけどね」
 ハタヤマは余裕たっぷりに口角を吊り上げる。
「ボクの魔法は絶対に“負けない”。これはそういう魔法なんだ」
 ハタヤマは、いつか篠原に聞かされたチャック族の格言の一節を思い出していた。
 いわく、『チャック族を倒せるのはチャック族だけである』。聞かされた当初は半信半疑だったが、それなりに極めた今なら分かる。千差万別に姿形を、属性から戦法までガラリと変えるチャック族は、特定の個人にその弱点を完全には捉えきれない。かといって多人数で追い立てたとしても、学んだ知識(イキモノ)でするりと逃げてしまう。
 結局のところ。完全に追いつめようと思えば、“同じことができる”ものをぶつけるしかないのである。
「ふっ――その余裕、いつまで続くかな?」
 朱い宝珠が露出したワルドはそう妖しく呟くと、両手を広げ、大きく空気を肺に吸い込み始めた。深く、深く、まるでこの室内の空気全てを呑み干さんというばかりに、部屋中の風を吸い寄せる。
 しかし、ハタヤマはすぐに気づく。ワルドが吸い込んでいるのは空気ではなく、ここまでの戦闘で大気中に飛散した“魔力の残りカス”だということに。
 その証拠にワルドの肺はいくら空気を吸い込んでも膨らまず、吸う対象にもワルドの死骸が選ばれ始めていた。千切れた手足が、潰れたからだが、飛び散った血液が。ワルドの口に吸い寄せられ、ずるずると呑み込まれていく。その様を見て、ウェールズは顔を青くして息を呑んだ。
 ハタヤマの世界では魔力を持つ者たちがぶつかり合うと、その空間の魔力濃度が必ず著しく高まる。それは術者たちの魔力がぶつかり合うことで生じる、純粋な魔力が周辺に飛び散るからである。
 この世界(ハルケギニア)の魔法はハタヤマの認識ではどちらかというと精霊魔法(精霊に魔力を対価として払い、代わりに魔法を行使してもらう魔法。“契約魔法”とも呼ばれる)に近く、魔法が発動した後には基本的になにも残らない。どうやら“精神力”というエネルギーは、出せば出すだけ消滅してしまうようなのだ。ゆえに、こちらの世界の人間に普通はこんなことができるはずがない。
(あのおっさん、かなり汚染が進行してるな……)
 おそらく数日やそこらで得た力ではないだろう。植え付けられて数年、下手をすれば十年以上は経過しているかもしれない。
 浸蝕が進み、融合しすぎるともはや摘出できなくなり、そうなればもう殺すしかない。まあ手に負えない(救えない)相手は容赦なく殺すと決意しているハタヤマだが、それでも、できることならあまり殺しはしたくなかった。先ほどの“偏在”たちを千切っては潰し巻き付いては抉りしたのも、彼自身が“これは手に負えない”と判断したからである。彼には殺戮趣味など無いので、本心では極力殺したくないのだ。
 しかし、やっぱ殺るっきゃないかなー、とも心中で少なからず考えていたりする。これ以上強くなりすぎると、もう寸止めする余裕が無くなってしまうからだ。
 ハタヤマは困ったやつを助ける時は、基本的に“八割五分殺し”を採用していた。
 その辺はだらだら長いので割愛するが。
 そんな風に考え込むハタヤマを知ってか知らずか、ワルドはどんどん浮遊魔力をその身に集めていく。
「お、おいハティマ殿! 子爵からなにやら不穏な気配が強くなってきているのだが、止めなくてよいのか!?」
「ああ王子、いたの?」
 初めて気づいた、と言わんばかりに目を丸くするハタヤマ。ぽかんと目を丸くするウェールズ。
「い、いたのとは……」
「だって、全然戦いに絡んでこないんだもん。こっちは援護くらいあるかなー、なんて思ってたのにさ」
 じと目でウェールズを睨めつけるハタヤマ。その視線からは責めるような圧迫すら感じ、うっと言葉に詰まってしまう。完全に気後れしているようだ。
 第一『圧倒されていて一歩も動けなかった』なんて、恥ずかしくて言えやしなかった。
「冗談だよ」
「っ?!」
 一瞬思考に没頭していた意識を戻すと、ハタヤマが悪戯っぽく微笑んでいた。かぁっと頬が熱くなるウェールズ。
「どうせ援護なんて無くても、ボクが勝ってたろうからね」
 でしょ? とウィンクして同意を求めてくるハタヤマ。相変わらず自信だけは過剰すぎて、溢れ出すほどのようだ。しかし、実際に勝っているのだから、諌めづらくて始末に困るやつである。
 ウェールズは返す言葉が見つからず、ははは……と曖昧な愛想笑いしかできなかった。
「――と、そんな話ではなかった! なにか未知の魔法を詠唱しているのなら、早く子爵を止めなくては」
「いや、様子を見た方が良い」
 一転して真剣な声色で遮るハタヤマ。見ると表情まで真剣そのものに染まっている。
「なぜだ? 理由を聞かせてもらいたい」
 ハタヤマはウェールズへ顔を向ける。
「なぜかって? 理由は『危ないから』さ」
 当然のことの如く断言するハタヤマに、ウェールズはわずかに不思議を顔に出す。王族なのでポーカーフェイスは帝王学の中で伝授されていたが、それでも隠しきれないぐらい疑問が勝ったのだろう。現在の非常事態すぎる現状のせいもあるかもしれない。
 ハタヤマは人差し指を立てると、一から順番に説明する。
「あーいう巨大な魔力を扱う儀式ってのは、途中で中断されるとえらいことになるんだ」
「えらいこと、とは?」
「具体的に言うと、街一つ滅亡とかね」
 核爆弾発射で人類滅亡みたいなもんだよ、とハタヤマは苦々しい顔で付け加える。ウェールズはいまいち『核爆弾』というのが実感が湧かなかったが、とにかく悲惨なことが起こるのだろうと苦い顔が移った。
「行き場を無くした魔力が暴走して、様々な災害が引き起こされるんだ。下手したら魔力が術者に逆流して化け物に変質しちゃうかもしれないし、もちろんちょっかいかけた側が魔力の直撃を喰らうこともある。その儀式の実体が分からないうちは、手出ししない方が無難だよ」
「貴殿はそれを看破できないのか?」
「うん、無理」
 速攻で即答するハタヤマ。ウェールズはその逡巡すらしない断言っぷりに、驚きを通り越してやや呆れた。
「ボクはもっぱら攻撃魔法専門でね。その他の魔法は得意じゃないんだ」
 そりゃあ魔力は視えるし結界も感知できるけれど、それ以上のことは分からない。種族の才能はあるが個体としての適性は高くないので、あまり磨いていないのだ。
「それに」
 ハタヤマが呟く。
「今後同じ状況になった時、手札がないと困るから。ボクは、これを一度だけでも視ておかなきゃいけないんだ」
 ハタヤマはそれきり黙り込み、ただじっとワルドの変化の観察に戻った。その黄金の瞳は射るように鋭く、厳しさに溢れている。
 ウェールズは声をかけるのがはばかられ、自身も隣に並び頭上のそれを見守った。
 やがて、ワルドに変化が起こる。
「ぐ、ぐうぅぅぅ……」
 ワルドは残っていた五体満足のワルドもその体内へ魔力と還すと、全身をかきだき足を丸めて獣のような唸り声を上げる。それは徐々に大きくなり、それに同調するかのようにワルドの身体が変質していく。
 まずは手がゴキゴキと変形した。続いて足も不自然に折れ曲がり、膨れあがる。
「るるるぅるうううぅぅ……ッ!」 
 ゴムが引きちぎれるような音と共に右手の皮膚がはじけ飛び、異形の前足が現れる。続いて左手、両足が“露出”し、全身が膨れあがっていく。
「う、うぅ……ハティマ殿、これはいったい……」
「――……」
 ウェールズは怯えを含んだ瞳で、ハタヤマはただ経過を観察する学者のような瞳で、決して目を逸らさない。
 そして、魔獣は産声を上げた。
「グオオオオォォォオォオォッッッ!!!!」
 凶暴で濁った雄牛のような遠吠え。
 十メートルを超す、赤黒くもてらてらと光る皮膚を持つ、巨大なカエルのような体躯の醜い姿。
 幾本もの触手を生やし、朱い水晶のような両目と、獰猛な地獄の番犬(ケルベロス)のような牙を持つ獣。
 禍々しき魔王の僕、そして魔女の忠実なる番犬。
 魔獣“フェンリル”の復活であった。
「いや、“復活”……ってのは正しい表現じゃないか」
「ハティマ殿?」
「なんでもない」
 ハタヤマは変質が終わったことを確認すると、ウェールズを遮るように一歩前へ進み出た。
「ククク……このような姿を前に恐怖を欠片も抱かぬとは、もしや見慣れているのかな?」
「まあ、やっぱりそうなるよね。“それ”を埋め込まれたやつは、最終的に全員そうなる」
 ハタヤマはぼりぼり頭を掻きながら、眼を細めワルドを分析した。――やはり天然で“アンチマジック障壁”を展開している。これがやっかいなのだ。
 ワルドはハウリングと変声機がかかったかのような、面影を残しつつも歪な声で、くつくつと嗤い続けている。
「あんた、残念ながら手遅れだね。もう人間には戻れない」
「ほう? ご心配痛み入る。診察どうも有難う。――ならば、貴様はどうする?」
「決まってるさ」
 ハタヤマは手中でスズキを器用に風車のように回すと、ぱしっと小気味良い音を立てて柄を鮮やかに握りしめ、威勢良くフェンリルへ切っ先を向けた。
「“黒き魔女”の起こした事件は全部ボクが片を付ける。――それが、ボクの宿命だ」
 張りつけた慇懃を脱ぎ捨てて、大真面目にそう啖呵を切るハタヤマ。それを真正面から受け取め、ワルドはさらに嗤いを深める。
 そのまま火蓋が切って落とされそうになるが。
「ハティマ殿」
 ウェールズに肩を掴まれた。
「貴殿一人では荷が重かろう。私も手伝うぞ」
「そりゃどうも。好意だけ受けとっとくよ。でも、悪いけど下がっててよ」
 ハタヤマは肩に置かれた手に自分の手を重ね、丁寧に降ろさせると。ひらひらと手を振ってさらに歩み出す。
「なぜっ!?」
「理由は『危ないから』さ。あんた、あんなのと戦ったこと一回も無いでしょ? あいつは前知識がないと、ちょーっとばかしやりにくい相手なんだ」
「しかし、それでは貴殿の負担が……」
「しかしもかかしもないの。あいつは倒し方を知らないと勝てない。ま、助力してくれるのは嬉しいけど、またの機会にお願いするよ」
「な、ならば貴殿は戦い慣れているとでも言うのか!?」
「ああ、もちろん」
 その答えに、ウェールズは目を丸くする。
「こう見えてボクは荒事専門でね。むしろこっちが本職なのさ」
 そう言いながらハタヤマは首だけ振り返り、屈託のない笑みを浮かべた。

     ○

 雨のように降り注ぐグロテスクな触手。襲い来る猛烈な密度の脅威。
 ウェールズは必死に“真空壁”(“風壁”の上位魔法、触れた全てのものを断ち切る)を維持しながら、その猛攻を耐えるしかない。
 彼も王族で、その血筋により多大なる魔法の才を与えられているが、それは未だ花を開ききらず、まだトライアングルだった。ゆえに、これほどの攻撃をいなす力はまだ無い――いや、たとえスクウェアでも難しい。
 なので、彼は反撃の余力もなく、歯を食いしばり、玉の汗を浮かべながら堪えていた。
 俯いていた顔を上げる。
「は……ハティマ殿……」
 その眼に映るのは、黒き背中。外套を振り乱し、猛然と舞い踊る黒衣の舞闘家。
 ウェールズは、彼の刻む華麗なる一挙手一投足に、視線を釘付けにされた。

 迫る。迫る、迫る。数多の触手が襲いかかる。
 視界を埋め尽くすほどの触手が、抉り貪らんと殺到する。
 しかし。
 ――シィインッ!!
 空気を切り裂く剣閃が、触手を一瞬で細切れに変える。その軌跡は眼に映らぬほどに鋭い。断ち切られた醜悪な肉は、血を噴出すより早くびたびたと大理石の床に撒き散らされる。
 触手の動きは速い。しなるように、突き刺すように打ち出されるそれらの速度はボルトアクション方式のライフル弾よりも速く、重い。しかし、それを向けられた当人はカトンボを打ち落とすかのごとく難なく捌いていく。
 通常は絶対不可避。常人には絶対不可能。全てが必殺の恐るべき乱撃を、金眼の男は眉一つ動かさず淡々と斬り払い続ける。
(馬鹿なッ!? ありえんッ!!)
 ワルドは内心で眼を剥いた。捉えることすら困難な鞭打を、目の前の男――ユスィーロ・ハティマ――は避けている。顔や体を反らしていなし、手にした短剣を神速の如く縦横無尽に奔らせ斬り裂き、なんなく対応しきっている。瞬時に決着がつくと思っていたワルドは、目の前の事実が信じられなかった。
 だが、それでもワルドは攻撃を止めない。これほどの運動量を続けていれば、遠からず息切れを起こすはずだ。そんな甘い希望的観測を信じ、策もなく圧倒的圧力をかけ続ける。
 そんなワルドの淡いは、能天気な一言で打ち砕かれた。
「よし、大分慣れてきた」
 あっさりそうのたまったハタヤマは、剣舞の足運びに“前進”を追加した。舞い踊るように触手を斬り落としながら、奔流のように襲い来る触手の中で着実に歩を進めていく。一歩間違えば即死するような危険すぎる嵐の中を、である。
 ワルドは絶句を通り越して笑いたくなった。
「儀礼用(アサメイ)だからって舐めるなよ。俺だってそこそこの斬れ味はあるんだ」
「ナイフがも一本あれば、もうちょっと楽なんだけどね」
 スズキが折れずに戦えているのも、魔力強化との相性がすこぶる良好だからである。普通の武器では一合で、保っても五度ほど打ち合わせればへし折れていることだろう。良い武器はなかなか手に入らない。
 まるで世間話でも呟くように、ハタヤマは音速で剣を振るう。そのたびに襲い来る触手が五本、十本と斬り飛ばされていく。
 その光景が、ワルドにはもう悪夢にしか見えなかった。
 なぜハタヤマにこのような剣士紛いの芸当ができるのか。それには幾つか理由がある。
 ひとつは彼の操る魔力という力。魔力によって強化された身体が、武器が、人間以上の戦闘行動を可能にしている。しかし、それだけでは不十分。どれだけ強化されようとそれは“人間以上”でしかなく、幻獣、ましてや魔獣に太刀打ちできるほどには至れない。ならばなにがそれを可能にしているのか。
 その秘密は彼の種族、生物学上の分類にあった。
 ハタヤマはなおもにじり寄る。一歩一歩確実に歩を進め、ワルドとの距離を詰めていく。ワルドはそれを嫌い攻撃の密度を高めるが、さらに動きのキレを増すハタヤマに一切を防ぎきられてしまう。
 ワルドの攻撃を防ぐハタヤマ。この光景ははたで見ているとただ圧倒されてしまうが、理論的に考えてみるとどう考えても不条理である。なぜなら、人間の肉体はそういった“強すぎる力”に耐える構造をしていないからだ。
 通常、人間は筋肉を使うとき、無意識にリミッターをかけている。そうしないと、強すぎる力に肉体が耐え切れず崩壊してしまうからだ。だから、脳が通常時に許可している出力は大体八割ぐらいらしい。
 しかし。“八割”ではこの猛攻を防ぐことは出来ない。実際、ウェールズは己の限界を賭して反撃しようと試みているが、それでも防戦一方だ。王族の血筋の者が全力を尽くしているにも関わらず、これらの攻撃を跳ね除けられていないのである。
 だが、ハタヤマは跳ね除けられる。まるで鼻歌でも歌いだしそうに――本当はそこまで余裕でも無いだろうが――、悠々と津波のような触手を捌く。いったい彼らのどこに違いがあるのか。
 ハタヤマは魔獣である。生物学上はチャック族だが、種類としては魔なる獣、“魔獣”として分類される。そして彼のメタモル魔法は、彼自身の存在をベースに変身後の肉体が構成される――そう。人間にメタモルした彼は、厳密には人間と同じではない。“魔獣のポテンシャルを秘めた”人間なのである。
 それだけではない。彼は肉体を守るためのリミッターを必要としない。なぜなら、彼の肉体は魔獣の肉体。人の形をしていても、その強度は人間よりもはるかに丈夫で頑強だ。さらに、魔力の補助もある。魔力は攻撃の破壊力を上昇させるだけでなく、受けるダメージをカットする役割も担う。ゆえに、力をセーブしなくとも自壊する事はありえない。
 さらに。彼は魔獣の肉体の他に、“超感覚”と“超反応”という技能を持っている。超感覚は五感を強化し、超反応は反応速度を引き上げる技能だ。人間の反応速度は通常、動体視力よりもはるかに遅い。バッティングセンターに行ったとして、ピッチングマシンから放たれるボールが見えていたのに肝心のバットが振れなかった、なんてことは普通だ。人間の認識能力はそんなに単純なものではなく、見えていても、肉体が反応してくれないのである。しかし、ハタヤマは“超感覚”により常人より早くボールを察知し、“超反応”で常人より早くバットを振りぬくことができる。その速度は見たと同時、来たと思ったら体が動いている。動体視力と反応速度に、タイムラグがほぼ生じないのだ。
 見た“瞬間”に動ける男。そんな彼にとって、“見える攻撃”を打ち払うなど造作もないことである。ゆえに、ワルドの攻撃は彼にとって、脅威とすらなりえなかった。

 ふと、ウェールズは気がついた。己への攻撃の密度が下がっている。
 見れば、ワルドの持つ触手の殆どが前方を往くハタヤマへ集中していて、自身への意識が途切れているのだ。
 これは好機かもしれない。ウェールズは静かに呪文を紡ぐ。
「“鎌鼬”(エア・スラッシュ)!!」
 “エア・カッター”の上位互換、風の三乗のトライアングル呪文。風のギロチンがワルドへ荒ぶ。
 しかし、刃は通らない。
「なに……っ!?」
 ウェールズは目を疑った。必中の意を篭めた渾身の魔法が、幻のように消え去った。ワルドの目前で掻き消えたのだ。
 そんな馬鹿な、と半ば急きたてられるように“風槌”(ドットスペル)を連射したが、それも結果は金太郎飴。まったくの同じである。
「無駄なことは止めときなよ。魔力の無駄だ」
 向けられた声にはっと気を戻すと、ハタヤマが振り返らず声だけを向けていた。振り返る余裕までは無いようである。
「しかし、攻めねば勝てないぞ! このままでは敗北を待つのみだ! 攻撃もせずにどうやって勝つ!?」
「だから、『やり方』があるんだってば」
 とにかく見てな、と注意を飛ばしてハタヤマは言葉を打ち切った。やり取りを聞いたワルドがくつくつと喉を鳴らす。
「く、くくく……いやなに、まだこの身体に慣れていなくてね。このような“力”があったとは知らなかった。不恰好なのは許してくれよ?」
「そうだよ。だから“普通の”魔法使いでは勝てない。だからこそ厄介なのさ」
 ワルドはさらに嘲笑を深める。己の優位を確信しているようだ。
 ハタヤマはその油断に内心口元を楽しそうにゆがめ、右手のスズキを強く握りなおした。
「こんだけ近づきゃもう大丈夫だ! 頼むよスズキくん!」
「おうさ!」
 ハタヤマの呼びかけにスズキが応え、柄に魔力が集まっていく。魔力は四つの魔石の内、赤と翠の石へ集中した。
 ハタヤマは呪文を紡ぎながら一気にギアを上げ、周囲の触手を全て切り捨てる。その剣舞の最後にキメに、流れるようにスズキを地に突き刺し吼えた。
「迸れ、“炎風”!!」
「ぐあぁっ!?」
 突如発生した炎の竜巻がハタヤマを中心に吹き荒れる。竜巻は殺到する触手を余すことなく弾き飛ばし、その身に孕んだ熱で焼いた。魔法を無効化する障壁も、その巨大な身体の末端までを覆い尽くしているわけではない。特に、数が多く身体から離れる機会が多い触手たちには、その加護を与えていなかったのである。
 耐熱の皮膚を持たぬワルドはその熱の影響をもろに喰らい、焼け付く痛みに悲鳴を上げた。
 そのせいで、ワルドは意識が一瞬途切れてしまった。ハタヤマから意識が外れてしまった。
 それが、致命傷。
「ハタヤマァ――」
 その声が耳に届いた時には、もう手遅れ。
「フィニッシュ・ブロウッ!!」
「うぐぶぁおっっっ!???」
 ガラスが砕け散るような耳を刺す音色と、汚い悲鳴が交差した。
 ワルドが意識を戻した時には、既に目の前に固く握られた拳があった。だが、ワルドは安心していた。魔法による作用がなんらかでも働いていれば、この障壁が全てを遮断する。もし魔法を使っていなくても、この人外の肉体ならば傷一つつかないだろう。ゆえに、ワルドは身を守ろうとも、その拳を払おうともしなかった。
 しかし。
「し■、■壁をづぎや■っだだ■……!?」
 なんと拳が障壁に達した瞬間、障壁にびっしりと亀裂が刻まれた。その後は、彼の悲鳴で察するべし。
 その時、背中に着地された気配がした。
「いつまで経っても選ばないから、ボクがとっておきを選んであげよう」
 醜く腫れあがった顔で振り返るワルド。眼に映るは、その背に片膝をつき、片手をついて口角をつり上げる悪魔の姿。
「本日のお勧めは――骨身を焦がす感電死だッ!!」
 辺りは、眩い雷光に包まれた。
「――グルオオオオオオオオオォォォォォォォッッッ!!!!」
「ぐぅぎゃっぎゃぎゃああぁっああぎゃあががががが!!!?」
 世界を埋め尽くす蒼い雷光。バリバリと空気が弾ける轟音。魔獣のような雄叫びを上げ、最大出力の電撃を見舞うハタヤマ。その両の眼は爛々と輝き、強烈な野生を放っている。
 ワルドは不自然なほど全身をがくがくと震わせ、苦痛にのたうち回り、部屋ごと砕き壊さんばかりの絶叫を上げる。しかし、ハタヤマは逃げることを許さず、凄まじいバランス感覚でしがみつき、なおも電撃で魔獣を焦がす。肉を焼き、骨を弾けさせ、血管を焼き切らんと“痛み”を突きつける。
 ワルドは断末魔もかくやという絶叫で、のた打ち回りもだえ苦しむ。
 ウェールズはその光景を、呆然と見詰めて思う。
 ――果たして、どちらが“バケモノ”なのだろうか。
 幼少の頃見たことがある。とある美術館の絵画で、彼はその絵の鮮烈さに心奪われた。
 “黄昏の戦争”(ラグナロク)。神々と悪魔が地上の覇権を争い起こりし“滅びの歌”。神々(かみがみ)は神々(こうごう)しく、悪魔たちは禍々しく、争い両者を滅ぼさんと戦っている。しかし、両者は同じように傷つき、血を流し、返り血で体躯を赤や青の血に染め上げる。その姿は既に神や悪魔を超越し、幼きウェールズの眼には、どちらも醜悪に映った。
 目の前で繰り広げられる戦い。地の底からの苦悶のように痛み、苦しみ、喉を枯らす魔獣(ワルド)。醜き獣の背に竜騎士の如く飛び乗り、鮮烈な雷光を発し、獣のように猛々しい遠吠えを上げながら、瞳だけが浮き出るような黄金に煌いている狂人(ハティマ)。
 どちらだろう?
 どちらが“バケモノ”なのだろうか?

 ――もしかしたら。
 ――あの黒衣の男の方が、より“危険”なのではないだろうか。

 人類にとって、最大の脅威と“為り得る”のは――

「うおっとぉ!」
 はっと意識が戻る。見上げるとハタヤマがトンボを切っていた。
 どうやらワルドが自傷覚悟で背中に触手を殺到させ、それを察知したハタヤマが未練なく背を飛び退いたのだ。この辺りの見切りは抜群である。なぜなら、深追いすれば即、死に繋がる失敗となるからだ。
 くるくると空中で四回転ひねりを決め、華麗にウェールズの隣へ着地するハタヤマ。
「魔法障壁は物理で貫く(ぶち壊す)に限る。一回壊せば数分は再展開できない(張りなおせない)……って王子?」
 きょとんとウェールズを見やるハタヤマ。
「どしたの?」
「あ……え」
 面食らいしどろもどろのウェールズ。思考に心を奪われていたせいで、饒舌に答えられなかった。
 その、答えられなかった一瞬。表情によぎった“怯え”の気配に、ハタヤマは瞬間真顔でウェールズを見つめた。
 しかし、それもすぐに消える。
「あんまり気を抜かないでよね。ボクもうカバーする余裕無いよ」
 そう言ってワルドへ向き直るハタヤマ。ウェールズは急にそっけなくなったハタヤマの様子が気になったが、ついに声はかけられなかった。
「ぐ、ぐぐぐゥ……」
「もう立つな。これ以上は手加減できない。出来る限りの手は尽くしてあげるから、おとなしく降参しろ」
 ハタヤマはワルドに選択肢を与えた。それは、彼がどうしても直すことができない悪癖。
 ワルドは小刻みに身悶えながらも、くつくつと静かに喉を鳴らした。
「――聞いた通りの男だな」
「え?」
 眉を上げるハタヤマ。
「貴様の噂は聞いている。人間によって滅ぼされかけたというのに、なぜか人間の味方をする酔狂な男」
 『第二次魔王大戦』では、大活躍だったらしいなぁ? と、ワルドは粘つくような笑みを浮かべた。
 ワルドは朱い眼でハタヤマを見つめる。そこには、球体に映り湾曲されたハタヤマの姿が照り返す。
「ボクは誰の味方でも無い。あの時は、ほっとくと友達に火の粉が降りかかったから。それだけの理由だよ」
「本当に?」
「……何が言いたい」
 ハタヤマは眼光を細めた。ワルドは楽しげに哂う。
「チャック族。古の時代、白き魔女の使い魔として黒き魔女へ挑んだ聖獣の末裔。白き魔女のパートナーにして、その意思を継いだ世界の護り手」
 ワルドは浪々と謳うように囁く。
「そう教え聞かされる。見込みあるものは、老いた先代から。脈々と受け継がれていく。その高潔な魂がな」
「………………」
「なんとも感動的な話だ。泣かせるじゃないか。たった一匹になってまで、健気にその盟約を護り続けている――その思いは、誰にも届かないというのに」
 ハタヤマは眉根を寄せた。
 ウェールズが無意識に呟く。
「届かない……?」
「そうだ。この男は一度世界を救った。しかし、その結末は散々だ。その力を恐れた人間たちはこの男を飼い慣らそうとし、意に沿わぬ場合は牙を折ろうとした。それすらも拒めば今度は手のひらを返し、全人類でこの男を抹殺しようとした。全ては、己たちの保身のためにな」
 ハタヤマは何も言わない。
 ウェールズはほとんどその本質を理解することができなかったが、目の前の男が、痛ましい道のりを歩んできたことだけは分かった。
「悔しいよなぁ。憎いよなぁ。せっかく守護(まも)ってやっているのに、そのありがたみを理解しない人間たちが。どれだけ骨身を、魂を削っても。感謝しない、恩を仇で返す馬鹿どもが」
「そんなこと、考えたことも無い」
「本当に? 本当に無いのか?」
「………………」
 押し黙るハタヤマ。
「それみたことか! 嘘吐きだな貴様は! ――ああいやいや、別に非難しているわけでは無いぞ? 至極当然の帰結だよ。それだけの不遇を受ければ、怨んでも仕方が無いさ」
 ワルドは倒れた身体を起き上がらせる。いつの間にか背中から黒煙が立ち昇らなくなっていた。
「結局は無意味なのだ。どれだけ貴様が守ろうとしても、相手はそれをそのまま受け取らない。貴様の力を恐れ、無力な自分に恐怖し、そして最後は巡り巡って貴様自身を傷つける。――貴様の力を怖れてな」
「そんなヒトばかりじゃない。分かってくれるヒトもいる」
「何人だ! どこにいる!? そいつらが際の際に至ったとき、裏切らない保障はあるのか!?」
 またも、無言。
「もう理解(わ)かっているのだろう? 貴様がどれだけ心砕こうとも、貴様は人間にとって敵でしかない。少なくとも人間側はそうとしかとらない。共に歩むことなど不可能なのだ」
「………………」
「断言しよう。いずれ貴様は絶望する。そしてその時、貴様は人類の、いや世界の。真の意味での“敵”になる」
「そんな日は来ないよ」
 遮ったか細く、しかし強い呟き。ワルドは不思議そうにハタヤマを見やる。
「いつかきっと分かってくれる。ボクはそう信じてる」
 ワルドは瞬間、球体の眼をさらに丸くした。ハタヤマの言葉に、一切のふざけの無いその真剣な表情に。
 そして、そこで初めて貼り付けた笑みを崩し、不快気に顔をゆがめた。
「――ならば試してやろう。貴様の理想が本物なのか」
 ハタヤマが疑問に首をかしげるのと、ワルドが体液を撒き散らすのは同時だった。
「――っ!!」
 口から、触手から、大量の液体を吐き散らす。それは猛毒を含んだ粘液。常人が浴びればひとたまりも無い。
 ハタヤマはとっさにコートをひるがえし身を守る。降り注ぐ毒雨を被服で遮り、染み込む毒素は魔力で弾いた。そうしてなんとか身の安全を確保し、慌てて背後を振り返ると。
「王子!」
 そこには全身に毒液を浴び、苦しそうにうずくまるウェールズの姿があった。
 不味い。フェンリルの体液はタチの悪い猛毒だ。すぐに解毒しなければ死に至るし、解毒するにも“面倒な手順”が必要となる。それこそ、この場では尻を貸すぐらいしか――
 BLは嫌だと表情をゆがめるハタヤマ。けっこう本気で嫌がっている。
 しかし、その心配は毒を保持する当事者により解消された。
「ふん、大方毒の特性を危惧しているのだろう。安心しろ、“欲情”はしない」
 そんな“モノ”を撒き散らしてもなんの得にもならんからな、とくだらなそうにワルドは言う。どうやら色欲が死に絶えているようである。
 玉無しか男色か、と振り返り、嫌な目線で睨み上げるハタヤマ。
「……言及はせんぞ。馬鹿馬鹿しい」
 ワルドは異様に変質した体の癖に、器用に咳払いを一つ。
「僕はこの“毒”をより役立つよう、変質させることに成功した」
「変質?」
 ハタヤマはワルドに正面から向き直る。
「そうだ。なかなか時間がかかったがね。そして出来上がったこの改良毒に――」
 ――ドス
「『ジャバウォック』(言葉の毒)と名をつけた」
 腹に、なにか違和感を感じる。だくだくと足がぬめ濡れていく。
 ハタヤマは、首だけを腹部に下げた。
「あ」
 腹から、王杖が生えている。
「ぐぼぁ……っ!?」
 口から真っ赤な果実が飛び出る。果実は地面に振り落ちると、見るも無残にはち割れた。中身をぶちまけ赤紅色の血溜りを作る。
 ゆっくりと王杖が引き抜かれる。そして、ハタヤマは血の海に崩折れた。
「か……かっ……か……は……っ」
「宿主いぃィぃ!? ちきしょう、王子ぃってめぇトチ狂いやがったかっ!!?」
 スズキが魂の底から憤るように念波を振るわせる。しかし、ウェールズは真っ赤に染まった王杖をだらりと垂らしながら、俯き答えを返さない。
「なんとか言いやがれこらぁっ!!」
「無駄だ。そいつはもう僕の傀儡(くぐつ)だからな」
「なにぃ……?」
 ワルドは可笑しげに喉を鳴らす。
「“ジャバウォック”に魅入られたものは、じわじわと心を壊されてしまう。心を失った生き物は、もう自身でモノを考えられない。ジャバウォック(言葉の魔獣)の言いなりになるのさ」
 スズキはウェールズの瞳を覗いた。そこにあったのは空虚なガラス玉。なにも映らず、なにも映さず、ただそこにあるだけのガラクタだった。
「さあウェールズ様。どうぞこちらへいらしてください。“そのケダモノは危険ですよ”」
「う、ぁ……」
 ウェールズは焦点の定まらぬ眼で、ゆらゆらと頭を揺らしている。
「ふむ、どうやら葛藤が生じているようだな……雛鳥とはいえ王族、か」
 ワルドはわずかに認識を改める。この毒に抵抗“しようとできる”など相当だ。やはり、血筋の力は侮れない。
 だが。ウェールズは逆の手で頭を押さえ頭を振ると。ゆっくりとワルドの方へ歩き出した。
 遠ざかるウェールズの背中。
「な……仲間、割れ……してる場合、か……ぐっ、!」
 ハタヤマは苦悶の表情を浮かべ、腹の傷を押さえながらも上体を起こす。しかし、血溜りについた手が血液でぬめり、顔面から思い切り沈み込んだ。
「戻ってこい……このままじゃ、あ……共倒れだぞ……!!」
 ごばっ、と大量の吐血。腹からもだくだくと血が滝のように流れ落ちる。全身が血塗れで真紅の滴がぼたぼたとしたたり落ちる。その姿は壮絶なほどに凄惨だ。
 しかし、ウェールズはその血を吐くほどの制止にも反応せず、全く振り返る様子が無い。
「宿主、“治癒”だ! “治癒”を唱え――そうか、無理か! お前には再生魔法の才能が無い! 俺に、俺に身体を渡せ! 俺がお前を治してやるからッ!!」
 気を失うように血の海へ倒れこむハタヤマ。しかし、赤い飛沫を振り乱しながらすぐにまた身を起こし、腹の穴を塞ぎにかかる。瞳の気配が変わっている。スズキが無理やりに交代したのだ。
 そのやりとりを悠然と見下ろすワルド。“スズキ”は真っ赤に染まった顔で、鬼神のように表情を歪め、憎々しげにワルドを睨み返した。

「殺し合いに作法無し。まさか卑怯とは言うまいな?」
「――髭ぇえええぇぇぇ……!!」

     ○

「はっ……はっ……」
 身投げのようにその場を飛び退く。瞬間、そこを通り過ぎる人の腕ほどもある奇形の触手。間一髪でそれを避けるハタヤマ。だが、間髪いれず怒涛の波がさらにハタヤマに襲い掛かる。
 ハタヤマは地面をごろごろと転がり、勢いをつけ飛び起き逃げる。しかし、それを読んだかのように放たれた鞭打が、ハタヤマの胸から腹部にかけてを斜め袈裟向きに打ち叩いた。
「ぐがぁッ!!」
 打たれた痛みと傷のうずき、そして壁に激突した衝撃で三度苦しむハタヤマ。塞いだはずの傷口が、じわりと赤くにじみシャツを濡らした。
「傷が痛むか? 動きにキレが無い」
「う……くそ……」
 小動物をいたぶるサディストのようににたにたと哂い声をこぼすワルド。ハタヤマはよろよろと壁によりかかりながらも立ち上がると、ギリ、と歯軋りしきっ、とワルドを鋭い眼光で睨みつけた。
「いつまでも瞳だけは曇らないな。射抜くように炯炯(けいけい)たるまなこ。ふふ、視線だけでヒトが殺せそうだ」
 貫くような触手。ハタヤマは活路へ身投げする。元いた場所の壁が崩壊した。
「じつに痛ぶりがいがある」
 未だ反抗の牙を折らないハタヤマに、ワルドは満足そうに顔をゆがめた。
 ハタヤマがなんとか立ち上がり、翻弄されるように逃げ惑って、既に五分以上が経過していた。その気になれば一瞬でとどめをさせるはずなのだが、どうやら時間一杯まで痛ぶり楽しむ気満々らしい。
 ハタヤマはぜえぜえと荒い息を吐き、額には玉の汗が浮かび滴っている。これまでの余裕が嘘のように消え、表情には劣勢が滲み出ていた。
 これまで一度も表情を崩したことがなかった男が、今、顔色を変えて表情を歪めている。言うまでもなく、ハタヤマはこれまでになく、かつて無いほどに追い詰められていた。その原因は目の前の亡霊のような脅威でも、そそのかされた囚われの王子でもない。
 彼を追い詰め、そしてなおも蝕むもの。それは背後より穿たれた、わき腹をえぐる深い傷であった。
 傷自体はもう塞がっている。スズキが詠唱した“治癒”の魔法により、表面上はまるで何事もなかったかのように、傷跡残さず完治したように見える。しかし、それは見た目だけ。内部は無理やり継ぎ接ぎされたように“端っこ”を圧着させられただけで、中身はズタズタのままだった。
 激しい動きを試みるたびに、その傷口に痛みが伴う。やがて継ぎ目からじんわりと赤が滲み、シャツの隙間から窺える傷口はもう肌が無茶な引っ掛け方をした衣服のように引き裂け、ちぎれそうになっていた。
 その痛みが彼の動きを、行動をじわじわと縛る。真綿で首を絞めるかのように、ズキズキと痛みの鎖をかけていく。
 ハタヤマは元来、格闘に向く身体の作りをしていない。魔獣としてのポテンシャルはあるが、それを磨いたことはあまり無い。せいぜい必要最低限の筋肉をつけるため、筋トレをしたことがあったくらいだ。実際、それだけで事足りた。なぜなら、彼には魔力があったからである。
 魔力とは便利なものだ。ひとたび腕に通して殴れば相手の頭骨を陥没させ、蹴ればあばらを踏み砕ける。大げさのように聞こえるかもしれないが、事実、魔力を持たない相手に対してはそれだけの外傷を与えるだけの効果がお手軽簡単に作り出せた。魔力を持つ相手にも同じだ。どれだけ効果を削ごうとしても、物理という属性を帯びた一撃ゆえに完全には殺しきれない。だから剣士にも魔法使いにも、この戦闘法は有効だった。ハタヤマはその有効性を手放しで評価し、無意識にそれを主体として戦術を組んでしまうほど、無自覚に頼り切っていた。
 しかし今回、それは裏目に出た。
 彼は、依存しすぎていたのだ。いくら戦士らしく振舞おうとも、“戦士”にはなれないというのに。
 彼は破壊力だけに魔力を割き、常の修行ではただひたすらに肉体の速度だけを研磨していった。速きこと風の如く、攻撃すること嵐の如し。避け、当たらず、応戦される前に決着をつける。相手になにもさせず、かつ反撃されてもかすりもしない。傷を負わない戦い方だけをその修練の中で追求してきた。そしてそれは彼の適正に合致し、目覚しい効果を上げていた。それは事実だ。
 だが、今回のような状況。“傷を負ってしまった状況”では、その修練は生かせない。それは、彼のその鍛え上げた能力が、五体満足の状況下でのみ発揮されるものだからだ。
 彼には攻撃に耐える防御力も、痛みを押し殺すタフネスも無い。速く、ただ疾く。それだけを追い求めたゆえに、その肉体に丈夫さは皆無。ひとたび身体に傷を負うと、ほぼ全ての能力がそげおちてしまうのである。
 これがルーンを持つサイトであれば、痛みに耐えながらも防御を堅め、反撃の機を窺い耐え忍ぶこともできるかもしれない。しかし、ハタヤマにその戦法は取れない。速さが全てである者が“動けない”という状況に置かれる。それすなわち、事実上の“戦闘不能”に陥ることと同義なのだ。
「うぐ……っ゛!」
 またも触手に吹き飛ばされた。少し駆けるだけで息が上がり、じくじくとした苦痛が精神を蝕む。張られた頬や身体は痛々しく膨れ上がり、顔の形が変形するほどに炎症を起こしていた。
 だが、ワルドは鞭打を止めない。生かさず、そして殺さぬように細心の注意を払いながら、ハタヤマの身体を痛ぶり続ける。ハタヤマは死ぬほどではなく、しかし死にたくなるほどの激痛に苛まれ、濁流に翻弄される流木のように、ぼろぼろになっていった。
「う――あ――」
 ハタヤマが膝をついた。崩れ落ちるように両膝をつき、儚く枯れ落ちるように倒れこむ。
「む。おい、おいおい。もう死んだのか? 待ってくれたまえよ。これではつまらないじゃないか」
 ワルドが心から落胆するように声をかけた。だが、ハタヤマはぴくりとも動かない。指一本動く気配が無い。
 ワルドは、お気に入りのおもちゃが馬車の車輪に轢かれて砕け散ってしまったかのように、眼に見えて落胆した。
「……しまった。やりすぎてしまったようだ」
 絶命寸前で股から干物のように裂いてやるつもりだったのに、とワルドは口を尖らせた。
「まあいい。ではウェールズ様。“参りましょうか”」
 ワルドは巨大で醜悪な顔をウェールズに向ける。しかし、ウェールズはぼんやりとしたくすんだ瞳で、ただじっとハタヤマを見つめていた。
(まだ自我が残っているのか?)
 ワルドは訝しげに眼を細める。彼は自身の毒を何度も生物で実験し、ほぼ全ての生物に対して効果があることを確信していた。火竜山脈に住むレッドドラゴンでさえ、この毒に抗えなかったのだ。
 しかし、現に目の前の雛鳥は、わずかながらも理性の色を覗かせている。やはり血筋の力なのか、それとも単に毒に耐性のある固体だったのか。はたまた毒の量が少ないのか。その理由は分からない。
 だが、毒の量を増やすにしても、やりすぎると精神崩壊を起こしてしまうという症例を実験にて発見していたので、あまり無茶なこともできない。
 まあ、とにかく攫ってしまえばどうにでもなるか。そうワルドは目算を立てた。
「しかし、終わってしまえばあっけない」
 凄まじいほどの力を持ち、背筋が凍るほどの牙を剥いて、壮絶な反抗を演じた男。その成れの果てが目の前の死体。諸行無常を詠うわけではないが、なんだかとっても寂しく感じる。
 やはり狩りは過程こそが面白い。終わってしまえば、狩った後に残るのは、物言わぬ肉の塊。物でしかないのである。
「命を賭して“守る”ことに生涯を捧げた男。その最後が、守りし者からの凶刃に倒れる、とはな。なんとも皮肉な話だ」
 哀れむようなワルドの呟き。
 そのとき ぴくり、と指先が震えた。
「ぐ……が……!」
 ワルドは感嘆の息を吐いた。なんと、死んだはずの肉塊が身を起こした。絶命寸前の荒獅子のように全身が痙攣を起こしながらも、両手をついて体を支え、俯いた顔を持ち上げた。
「……う」
「む?」
 かすれた声で何事か繰り返すハタヤマ。そのあまりに小かぼそい呟きに初めは聞き取れなかったワルドだが、耳を澄ますと判然とした。
「違う……」
 今にも倒れ込んでしまいそうに頼りないが、なんとハタヤマは立て膝をついた状態にまで立ち直った。無論、赤い腫れは身体をあますことなく走り回り、赤い雫を止めどなく流し続けてはいるが。なんとハタヤマは起きあがった。
 ワルドは興味深げにハタヤマを見下ろした。
「なにが違うのかね? それほどの傷を負いなお立ち上がるとあれば、さぞかし未練なのだろうね」
「違う……これは、おまえの……毒のせいだ……本心では……」
「ほう! まだ折れぬか! 聞きしにまさる屈折的偏屈! そしてクックベリーよりも甘い男だな!」
 血化粧に彩られた顔、その中で瞳だけがぎらぎらと輝き、ワルドを射殺さんばかりに睨みつけているハタヤマ。
 その敵意を全身に受け、ワルドはとても楽しいことを思いついた。
「しかしだね、この毒は本人が欠片も願っていないことはさせられない。そこまでの強制力は無いのさ」
 半分嘘で半分本当だ。たしかに“強制”することはできないが、後から“煽動”することはできる。さらに、毒の成分をいじくることで幻覚を見せることができるので、それにより衝動的な行動を誘発することが可能だ。
 今、ウェールズの瞳に映るハタヤマの姿は。異形の怪物となっているだろう。もちろんワルドは紳士的な髭子爵である。
「ウェールズ様が貴様を傷つけたのは、ひとえにこのお方が貴様を恐れたからだ。貴様の力を、貴様が孕む危険性を。人の世の未来を憂いたからなのだ」
 荒唐無稽嘘五百。六百、七百、八百を超え、千にも達する舌を並べるワルド。もちろんハタヤマを虐めたいというのもあるが、欺く理由はそれだけではない。
 ワルドはこの場でハタヤマを撃滅することを惜しく思っていた。これほど鮮烈に輝く才能、悪戯に散らせるのはあまりにも勿体ない。完膚無きまでに心を折り、可能なら理性を保ったまま配下に加えたいと考えた。王子のような固定砲台型の魔法使いは傀儡にしてもそれほど能力を落とさず運用できるが、ハタヤマのような高機動型の魔法使いは抜け殻にすると著しく能力が落ちる。脳細胞の沈黙と判断能力の欠如により、まともに動かなくなるのである。
 だから、ワルドは触手を引かせ、ハタヤマの心を砕きに入った。
「ねぇウェールズ様、そうですよね? あなたは未来の外敵を駆除した。それはとても正しい判断です。やつは危険なケダモノだ。生かしておけば、いったいなにをしでかすか分かったものではない。あなたは未来を守ったのです」
 ワルドは自己へ陶酔するように謳う。あまりに夢中になりすぎて、ハタヤマの目つきが一瞬変化し、スズキが輝き始めたことに気づかなかった。
「やはりあなたこそ〈神聖アルビオン共和国〉の王に相応しい! いえね、ここだけの話なのですが、僕は初めからあなた様をお招きするつもりだったのですよ。貴族派の長といえど所詮地方領主、そのようなものがどれだけ囀ろうと、王族の威光には敵いますまい。どだい器ではないのです」
 その言葉の雨はウェールズに届いているのかいないのか、彼は全くの無反応。しかし、ワルドはさらにヒートアップ。
「さあウェールズ様。どうぞ“レコンキスタ”へお越しください。我らが、あなたに新たな“玉座”をご用意いたしましょう。あなたがご健在との報を聞けば、きっとアンリエッタ姫殿下もお喜びになりましょう」
「アン……?」
 ウェールズがわずかに反応を示した。ワルドは我が意を得たり、と勢いこむ。
「そうですとも! あぁ、良い事を思いついた! 陛下がご即位の暁には、姫殿下を后に迎えなされ! 我らが覇道にも利すること多し、それにきっと姫もお喜びになりますぞ! なんと言っても、姫様はあなたをお慕い申しておるのですから!」
 ウェールズはガラス玉のような瞳でワルドをじっと見上げている。意思は希薄とはいえ、それでも『アンリエッタ』というキーワードは関心を惹ける要素だったらしい。
 ワルドはこの時、ウェールズを完全に手中に収めたとほくそ笑んだ。

「――それはどうかな?」

 高揚した気分に水を差す一言。ワルドは不快気に、ウェールズは無表情に顔を向ける。
 そこには、若干顔が小さくなった(それでもまだ腫れが引ききっていない)ハタヤマが、活力を取り戻し立ち上がっていた。
「勝手に薔薇色計画立ててるけどさ。それって本当に上手くいくの?」
「なにを言う、この野蛮で無知なケダモノが。陛下の存命は姫殿下、そしてアルビオンの民総てが望む喜ばしき祝事だろう。愚かな旧体制が崩壊するだけ、民の暮らしは以前となんら変わることはない。いや、むしろ以前よりより良く暮らしやすい世となるだろう。なにも問題はないではないか。ねえ陛下?」
「――無責任だなぁ」
「――……」
 『無責任』。その言葉に、ウェールズの瞳が揺らいだ。
「む、せきにん……?」
「陛下?」
「だってそうじゃないか。キミは一人だけ逃げ延びて、幸せを掴もうとしている。けど、それはこれまでキミを信じて付いてきた者たち、臣下たちを全部忘れるってことでしょ? ここまで粘って、『守るべき臣下たち』を巻き込んでおいて、いきなり手のひら返すってどうなのさ?」
 良く通る声でハタヤマは呼びかける。聞きかじりの不得意な『声に魔力を付加する魔法』を使い、ウェールズの心に呼びかける。
 ウェールズはひどく狼狽したように頭を抱え、それを見てワルドは忌々しげに表情をゆがめた。
「陛下、なりません。やつはケダモノ、人類の敵です。そのような者の言葉を真に受けてはなりません」
「それに姫殿下も喜ぶ? そんなの分かんないじゃないか。これまで立派だったキミのことは好きだったのかもしれないけど、テロリストの頭になったキミのことは嫌いになるかもしれないよ? 総てを捨てて逃げ出すような、ヘタレ野郎のことなんかね」
「いけません陛下! 僕を信じてください! お亡くなりになった母君も、きっとあなたが生き残ることを望んでいるはずです!」
「なに馬鹿げたこと言ってんだよ! 死人もそう思ってるはず? 誰がそんなこと決めたんだ、無責任な! 死人の意思を捏造するな!」
「なにを言う! ならば貴様は、陛下の母君が陛下の不幸を願っているとでも言うのか! それこそ馬鹿げた妄言だろう!」
「死人がなに考えてるかなんて知ったことか! 大切なのはそこじゃない!」
 ハタヤマはウェールズの濁った瞳を、鮮烈に輝く黄金の瞳で真正面から真摯に見つめた。
「キミは“お母様”があの世で死ねと言っていれば死ぬのかい? ――考えろ! 自分の頭で! 死人はなにも語らない! 理由を死者に求めるな! 死んだやつが願ったから、キミは仕方なく選ぶのか? 違うだろう? 死んだ、大切だった人に、胸を張って顔向けするために。そのために誇りを守っているんだろう!? 生きる理由は死者のためじゃない。キミが守るべき民のために、キミを信じた臣下たちのために、そして――キミ自身が後悔しないために! そのために生きて、死ぬんだろう!!」
「う、うぅう……」
「気づけ! 選ぶのはキミ自身だ! キミが願う未来を手繰り寄せられるのは、キミだけしかいないんだ!」
「黙れぇいッッッ!!」
 触手で一閃。ハタヤマは視えていたが体が動かず、直撃して柱の一本に叩きつけられる。
「ぐぁあ!!」
「おのれぇ……陛下を惑わす魔性の獣よ。このワルドが成敗してくれる!」
「ふ、ぅ……そいつも、ボクも信じるな! キミ自身の心に従え!」
「まだほざくか下郎!!」
 またも触手がハタヤマを打ち据える。ふさいだはずの傷口が開き、だくだくと赤い血が流れ出す。
「もういい宿主! お前はよくやったよ! 王子のことはもう諦めろ、お前だけでも逃げるんだ!」
「ダメだ。ここで退いたら――これまでボクがやってきたことが、本当に無意味になってしまう。ボクが日頃から嫌っている、口先だけの偽善者と同じなっちゃう」
 ハタヤマは静かに断言する。
「こんな生き方を決めた時から、もう前にしか道は無い。ボクがボクであるために、ただの一度すら退いちゃいけないんだ。たとえ……命を落とすことになったとしても……!」
 汗と血で濡れた前髪の隙間から、強く輝く黄金がちらついた。
「貴様も元いた場所では、古の時代『聖獣』と呼ばれていたそうだが。しかし、今の貴様はどうだ! 独善的な正義を振りかざし、他を傷つける害悪な魔獣ではないか! 救い、守ると嘯きながらも、やっていることは血で血を洗う闘争を各地で引き起こしているだけだろうが! 『弾圧されし無辜の幻獣を救う』、『牙無き者の牙となる』ということを免罪符にすれば、己の行動を正当化できるとでも思うているのか! この汚らわしい、血に餓えたケダモノが!!」
「………………」
 ハタヤマはずたぼろの体を寄りかからせ、沈むように顔を俯かせる。
「そんなこと、思ってない」
「ならばやはり貴様はケダモノだ! 争いを好み、闘争の中でしか生きられぬ! 野蛮で低俗な下等生物だ!」
「違う。ボクは、戦いたくなんか無い」
「なにを言うかこの化け物め! ならば貴様は何故この場に残った! 何故この国へ訪れた! こうなる可能性が極めて高いことを、貴様は分かっていたはずだ! いや、むしろこうなることを期待していたのではないのか!?」
 俯き黙り込んでいるハタヤマ。うなだれた拳は震えるほどに強く握りしめられている。
「ボクは」
 呟く。
「ボクは、これしかできないんだ」
「『これしかできない』……?」
 ワルドは眼を丸くした。
「たとえどんな理由があろうと、他者を傷つけることが許されることはありえない。それは分かってる。けど」
 ハタヤマはまるで血を吐くように。
「ボクの“力”は戦うことでしか生かせない。ボクは馬鹿だから、戦わずに諍いを収める方法を知らない」
 発する言葉で自身を刺し貫き、痛みに声無き絶叫を上げるように。
「けれど、見過ごすことはできない」
 語る。
「だから、ボクは戦う。ボクは、この方法でしか。“守る”ことができないんだ」
 ひとすじ、彼の頬を頭部からの流血が流れ落ちた。それはまるで傷だらけの心から毀れた、赤い涙のようだった。
「く――くはは、くははははは! 懺悔のつもりか!? これは傑作だ!!」
 ワルドは魂の奥底から湧き出すように、盛大に腹を抱えて笑った。
「所詮貴様はケダモノだ! たとえどれだけ取り繕うとも、殺し、殺される世界でしか生きられぬ、血生臭い邪悪な獣なのだ!!「けど、なにもしないよりマシだ」」
 言葉尻を遮る。
「たとえ気狂いだと罵られても、正気じゃないと疑われても。そこで、争いの元を叩き潰して――それで悲しみが終わるなら。それは、それで構わないんだ」
 顔は上げない。しかし、その言葉だけは頑として譲らない。血塗れの身体で、血塗れの言葉を。耳に入れるだけで胸が抉られるような声色で、ハタヤマは語る。
「それでいい!? 貴様はいよいよ狂っているな! 生き物とは、特に人間とは、生きているだけで諍いを起こす! 戦争というやつだ! 貴様はそのたびにその場へ赴き、争いの元を撃滅するのか!? その命続く限り、永遠に戦い続けると!? それをキチガイと言わずなんと呼ぶ! この戦狂いの戦闘狂めが!! 『悲しみを終わらせる』? それすらただの建前! 貴様は、ただただ渇望を満たしたいだけ、戦いたいだけなのだ!!」
「分かってもらえるとは思ってない。なんとでも言ってくれよ」
「認めるのだな! 貴様の狂気を! 抑えようもない、その胸の奥に猛る野生を!」
「それを決めるのはボクじゃない。ボクを見た他の誰かが決める「ならば私が断じてやろう!!」」
 ハタヤマが顔を上げた。そこには、おびただしい数の触手が自身を狙い定める光景。
 ハタヤマはわずかに目尻を落とし、悲しげに眼を閉じた。





「貴様の生涯に、意味は無かったッッッ!!!!」






 肉を引き裂く生々しい音。生肉を断ち切る鈍い音が空間を満たす。



















 “ハタヤマ”は瞳を開いた。
「なん、だと……?」
 絶句するワルド。彼の目の前には、意志の輝きを取り戻した瞳が、遮るように立ちはだかっていた。
「――済まなかったなハティマ殿。悪戯に傷を負わせてしまった」
「馬鹿なッ! あり得んッ!? あの“毒”を克服するなどッ!!」
「黙れ下郎が」
 貴き威厳を十分に含んだ声と同時に、ワルドの身体が女神像の真下まで叩き吹き飛ばされる。
「ぐぅおぉわっ!?」
「下郎。汝が御前に立つ我は、アルビオン王国王家が嫡男、ウェールズ・テューダーであるぞ――頭が高い、ひかえおろう! 汝が狼藉の全てを悔い、我が前に跪け!!」
「グベギャアッ!!?」
 凛とした叱責が放たれるやいなや、“空気の拳”がワルドの頭上に直下する。ワルドは頭骨を砕き脳を揺さぶるような衝撃を喰らい、抵抗することすらできず、頭ごと全身が地面に深々と陥没した。
 頭の位置は確かに低くなった。身体ごとへこんようだが。
「王子……正気に戻ったのか」
「貴殿の言葉に心打たれた。まるで霧が晴れたようだ。恥ずかしい話だが、半ば呑まれかけていたよ。余の死に場所は、ここではないというのにな」
 ハタヤマは柱に寄りかかったまま、口元だけに笑みを浮かべる。ウェールズはその不敵な笑みの復活を見て、照れたように微笑んだ。
「もうボクは動けそうにない。後のことは任せたよ、“ウェールズくん”」
「――心得た。貴殿はそこで見物していたまえ」
 初めて呼ばれた自身の名前。ひらひらと手を振るハタヤマに背を向け、ウェールズはきりりと表情を引き締め。目の前の不埒者に向き直った。
「この“風”……これはトライアングルではない! まさか、この土壇場でスクウェアに昇華したのか!?」
「貴様は彼の生き様を、『無意味』だと断じたな」
 ウェールズは緩やかに歩を進め、荒れた絨毯を踏みしめる。
「たしかに彼は多くを傷つけ、多くを手折ってきたのかも知れない。だが、それ以上に。多くを救ってきたはずだ。目の前で苦しみ、救いを求める者を。いずれ災いの嵐に呑まれ、血と涙の濁流に翻弄される筈だった者たちを。それを知らされぬ者たちは、彼を省みはしないだろう。しかし、私はそれを無意味とは思わぬ」
 ウェールズは王杖を高々と構える。
「それでも無意味だと否定するならば、余が意味を与えてやろう。余はこの者に救われた。ゆえに、その生き様を。余が肯定してやろう!」
 あり得ないほどの簡略詠唱。一言でトライアングルを紡ぐ。王杖から放たれた“鎌鼬”が、無慈悲にワルドへ襲いかかった。
「ひ、ひいぃっ!?」
 ワルドは無様に狼狽えると、必死にアンチマジック障壁を展開して防いだ。
「ひ、ひひ、ひひひひひ!! 無駄だ、無駄無駄無駄無駄ぁッ!! この“障壁”がある限り、全ての魔法は意味をなさん「ハタヤマァ――」!!」
 言い終わらないうちに、ゆらりと現れる神速の黒い影。硬く拳を握りしめ、弓なりに引き絞る猛獣の牙。

「フィニッシュ・ブロウッッッ!!!!」

 ――ズガシャアアアァンッ!!!!

「ぐぶるあぁぁぁぁぁッ!???」

 魂すら打ち砕く盛大に澄んだ破砕音。障壁を貫くハタヤマの拳が、ワルドの鼻っ柱にめり込んだ。
 だが、深々と刺さるだけで、ワルドを跳ね飛ばすほどの威力はもう無い。
「お゛……お゛の゛れ゛え゛ッ゛! こ゛の゛じに゛ぞごな゛い゛がぁ゛ッ!!!」
 ワルドは醜悪な前足でハタヤマを叩き潰そうとするが、その一撃は王杖に刺し貫かれる。
「やらせはせんぞ」
「ばががぁ゛! ぼぐの゛ま゛あ゛い゛に゛ばい゛る゛どわ゛ぁ゛「貴様こそ悠長に構えていてよいのか?」あ゛!?」
 異様な危機感に苛まれ、穴の開いた前足すら無視して彼方を見やるワルド。そこには、ずらりと並ぶウェールズ軍団。礼拝堂内を埋め尽くすほどにひしめく、大量のウェールズが立ち並んでいた。
「“偏在”は貴様の専売特許ではない」
 ウェールズはすっと血の滴る王杖を引き抜く。すると勢揃いのウェールズたちは、一糸乱れぬ統率を見せる。
 踵をならし王杖を捧げ、そして勢いよくワルドへ突きつける。踵の音色は百を数え、耳を打つほどに大きかった。
「スクウェアの百一乗――数えることすら億劫だな」

 そして、ワルドは細切れになった。

     ○

 ハタヤマは極大の竜巻の中で、ボロ雑巾のように翻弄されていた。
(あのヘタレ……やれば……できるじゃないか……)
 彼が立ち直ってくれただけで。それだけで、この場に残った甲斐があったというものだ。ハタヤマはそれが嬉しかった。
 残る心残りは。
(少年は……無事かなぁ……)
 薄れゆく意識の中で、かすかによぎる彼の笑顔。幼さが残るも溌剌としていて、見ていて気持ちが良くなるくらい真っ直ぐで素直な少年。彼は、上手く逃げ延びただろうか。彼の大切な人たちを、守り切れたのだろうか。
 ハタヤマはそれに一抹の不安を感じながらも。
 その意識は。
 緩やかに。





 闇に落ちた。



[21043] 六章Side:S 四日目
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/11 20:38
【 六章Side:S 四日目 『想いの刃』 】



 長い長い赤い絨毯の廊下を、彼らは必死に駆け抜ける。サイトはしんがりを引き受けながら、肩越しに背後をちらりと見やった。
「くそっ、ぴったり張り付いてきてやがる!!」
 そこには角を曲がってきている三人のワルドの姿があった。ワルドたちは駆けず、しかし歩いているという速度でもなく、逃げるサイトたちの背中をひたひたと追ってきている。そのなんとも言えぬ圧力が不気味で、サイトは苛立たしげに悪態を吐いた。
 サイトたちはワルドを撒こうと、さらに角を曲がる。
「ここは任せたまえ!」
 少し進んだところで勢いよく主張するギーシュ。全員が怪訝な目つきで彼に注目する。
「どうすんだよ?」
「あなた、“錬金”しかできないんでしょう?」
「ぐっ……一番得意なのが“錬金”なだけだ! それ以外でも一応そこそこの成績は維持しているんだぞ!」
「うるせえよ。時間ねえんだからさっさとやれっての」
「くそぅ――見るがいいッ!!」
 ぐぎぎと悔しげに歯軋りしつつ、開口一番立膝を突くギーシュ。そして片手を床石につけると、逆の手に握った薔薇を振るった。
 すると唐突に盛り上がる地面。なんと、ぐももとそそり立つ青銅の壁が、通路を覆い尽くして閉ざしたのだ。
「おぉっ!? 壁ができた?!」
「どうだね? これで子爵は追ってこれない」
「やるじゃないのギーシュ!」
 にわかにギーシュを褒め称える二人。ギーシュはおだてられ鼻高々、カカカと胸を張って高笑いをあげる。
 しかし。

 ――ボシュンッ!!

「へ」

 絶句するギーシュ。なんと彼の目線上、青銅の大壁に丸い穴が穿たれた。ぽっかり開いたその穴は、間髪いれず右下から弧を描き、左下までリズミカルに刻まれていく。そして、それは丁度人一人が通れそうな大きさの楕円となった。
 ずごん、という鈍い衝撃音。ギシギシと軋み、めりめりと剥がれていく鈍い音。
 かくして、“壁”は“扉”となった。
「ふむ。なんとも薄い防壁(バリケード)だ。欠陥建築と言ったところかな?」
 そこを通り、ぞろぞろと出てくるワルド×3。皆一様ににたにたしている。
 一同は顔面蒼白になった。
「気を抜いてはいけないな」
 真ん中のワルドがおもむろに杖を指す。サイトは弾かれたように前傾し、地を蹴った。
「“風針”(エア・ニードル)」
「――ッぐぅ!!」
 ワルドが放った至近距離の殺意。サイトはそれを、割り込みざまに掴んだ盾で防いだ。
 銀製のアルビオン盾が、甲高い悲鳴を上げる。
「ふむ。やはり反応はいいな」
「お前ら、先に行けッ!!」
 サイトは振り返らず、怒鳴りつけるように声を投げた。それを受け、戸惑うように、躊躇うようにどよめくギーシュとキュルケ。
「で、でもダーリンは……」
「そうだよサイト、きみはどうする……」
「言ってる場合かっ! 俺一人なら持ちこたえるぐらいはできるから!」
 サイトはそう言いつつ盾を背中に背負いなおし、後ろ手で追い払うようにせかす。言外に邪魔だと言っているのだ。
 二人はなおも心配そうにしたが、ちらりと横目で顔を見合わせた。そしてギーシュは無念そうに顔をゆがめ、キュルケはルイズ抱いて背を押し走り出す。
 気配が遠ざかるのを感じ、サイトは声を投げかけた。
「俺もなんとか上手く逃げる! 後で合流するぞ!!」
「ふふ、随分と余裕だな」
 声に意識を戻すサイト。眼前には三人のワルド。お世辞にも状況はよいとは言えない。
 しかし、心まで萎えてしまわないように、歯を向いてサイトは威嚇する。
「けっ! 模擬戦じゃ俺に鼻っぱしら折られてたくせに! てめぇこそ俺を倒しきれんのかよっ!」
 ワルドは口を一瞬への字に曲げたが、すぐに表情を戻す。彼はそのままサイトをじっと見つめていたが、ややあっておもむろに杖を降ろした。
「行きたまえ」
「へっ?」
 ワルドはニヤリと口の端をゆがめる。
「聞こえなかったか? “逃がしてやる”と言ったんだ」
「ぐ……ッ!」
 サイトのこめかみがビキリとわななく。しかし、たしなめるデルフの脳波を受けて、ギリギリで矛を取り押さえた。
「ふ、ふん。いいのかよ? 勝負するなら絶好のチャンスじゃねえか」
「……ふむ」
 口の端を怒りでひくひくさせながらも、ぐっと堪えて嫌味を返すサイト。それに真ん中のワルドはアゴに手をやり、考え込むように鼻を鳴らした。「君は狐狩りを知っているかい?」
「?」
 おもむろに問いかける中央のワルド。サイトは意味が分からず首を傾げる。
「本来、猛獣や害獣の狩りは平民の仕事なのだがね。我々のような上流層では、趣味の一つとして嗜まれている」
 ワルドは眼を閉じた。
「私は乗馬、チェスなどの数ある娯楽の中でもこれが一番好きでね。暇さえあれば弓を片手に、馬で近くの森へ繰り出す。この際は魔法など邪道だ。魔法を使えばどうにでもできてしまうからね。
 そして、森に狩猟動物――僕の場合はグリフォンだね――を放ち、得物を見つけさせ追い詰めさせる。じっくり、ゆっくりと。じわじわと追い詰めるんだ。狐はどれだけ逃げても逃げ切れない恐怖を背負う。そしてそれは絶望へと変わり、最後は疲れ果てて、そばの茂みへ身を隠すんだ。小さく丸まり、ふるふると震えながらね」
 ワルドは眼を開く。
「その、恐怖と絶望で打ちひしがれた小さな動物を――やや離れた丘や木の上から、こう。トン、とね。――射抜くんだよ」
「………………」
「その瞬間得物はただの肉の塊と化し、物言わぬ物体と成り果てる。ただの“モノ”になるんだよ」
 ワルドはニタリ、と笑った。
「それ瞬間が、たまらない」
 サイトは息を呑んだ。
「……お前、狂ってるよ」
 搾り出すように呟くサイト。ワルドはそれに、くつくつと喉を鳴らすように哂うだけだった。
「ただ殺すだけでは、つまらない。君にはもっと絶望してもらわなければ。そう、たとえば。背後には行き止まり、もう逃げ場が無いほどまでに追い詰められて。君は背中の魔剣を抜き、僕をけなげに威嚇する。しかし、僕はそれを歯牙にもかけず。背後の仲間たちを蹂躙するのだ。風の魔法を使ってね。
 君は呆然と振り返る。そこにあるのは、朱(アカ)。千切れ飛び散乱した手足、物言わぬ首だけになった仲間たち。
 ――そして君は崩れ落ちるんだ」
 ふふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふ。
 ワルドは堪えきれず哂い出す。真ん中のワルドが、右のワルドが、そして左のワルドが哂う。その輪唱はサイトの心を緩やかに、呪うように蝕んだ。
 だが。サイトはその姿がどうしようもなく恐ろしかったが、それ以上に怒りがまさった。
「俺の仲間は、てめえには絶対やらせねえ! 俺が絶対護ってみせる!」
「ならばはやく行きたまえよ。十秒だけ待ってやろう」
 腕組みして見下ろす三人のワルド。サイトはそのプレッシャーを跳ね除け、勢い良く踵を返した。
「後悔しやがれ! 今俺を逃がしたことをなっ!」
 サイトは後方への警戒を切らず、全速力で廊下を駆けて行く。その背にワルドの謡うような声がかかった。
「ははははは! しかし、どこへ行こうというのかね!? 外には数万の兵士、城中(なか)には我らの追跡! 逃げ場は無いぞっ!!」
 サイトは気づかれぬようほくそ笑む。
(けっ、抜かしやがれ。こっちには“秘密の抜け道”があるんだよ)
 五感を頼りにサイトは走り、幾つかの角を曲がったところでギーシュたちの後姿を見つける。
「おいお前ら! なんでまだこんなところにいるんだよ!」
 ワルドと会話していたのは、おそらく三分ぐらいだったはずだ。そのわりにギーシュたちは、思ったより距離を稼げていなかった。
 サイトは彼らに駆け寄る。
「しょうがないの! ルイズが走ってくれないんだもの!」
 サイトははっとなり、立ち止まったキュルケの前方に回りこむ。彼女の前には、両肩に手を添えられた、虚ろな瞳のルイズがいた。どうやら自分で歩くぐらいはしてくれるらしいが、それ以上のことはしてくれないらしい。
 サイトはがしがしと頭を掻くと、ルイズを右手でお姫様抱っこした。背中にはデルフと盾があるので、咄嗟の襲撃に備えるためにも背負うわけにはいかなかった。
「どうするんだサイト? とにかく捕まるわけにはいかないが、闇雲に逃げても埒が明かんぞ」
「そうよダーリン。それに、タバサは何処にいるの?」
「……タバサのことは俺は知らない。けど、逃げる案はある」
 サイトはきっ、と顔を上げた。
「城を出て離れの灯台まで行くんだ。そこまで辿り着けばなんとかなる」
「灯台って、領地の隅っこの方にあったあそこ? あそこになにがあるの?」
「あぁ、あそこには――」
 そこまで話し、びくりと反応するサイト。眼を剥いて一点を見つめたかと思うと、キュルケを押しのけ盾を構えた。
 同時に、ガギャンという鈍いたわんだ音。サイトが衝撃にたたらを踏み、盾の一部が醜く凹んだ。
「立ち止まってはいけないな。話しながらも足を動かしたまえ」
 サイトが睨んだ先から声が響く。そこにいたのはワルドであった。
 距離はまだ離れているが、魔法の射程範囲である。
「ちっ……行くぞみんな!」
「さ、サイト、背を向けては危険なのではないか!?」
「大丈夫だ! ――あいつは“まだ”本気じゃねえ!!」
 サイトは率先して前を駆ける。後ろの二人は戸惑いながらも、彼の言葉を信じて続いた。

「ふふ、よく分かっているじゃないか。
 しかし、“離れの灯台”、ね……」

 ワルドは“風”のメイジである。
 風とは強く吹くだけでなく、波紋を描く衝撃波も捉える。

 後は、お分かりだろうか。

     ○

 サイトたちは、“もぬけの殻”となった城内を逃げ惑う。しかし、神出鬼没。何処からでも現われるワルドに何度も襲撃されてしまい、思うようなルートを辿れない。空き部屋だと思った扉の向こうから、反対側の廊下の角から、はてはカーテンの陰や衣装棚の中から、ワルドは突然現われる。一人のワルドに追われて飛び込んだ部屋の中に、またワルドがいたりする。これはとんでもなくやっかいな状況だった。サイトがワルドを止めギーシュが部屋の壁に穴を開けなければ大変なことになっていただろう。
 礼拝堂は四階の奥に備え付けられていたので、彼らが逃れるにはとにかく一階まで下りなければならない。しかし、ワルドは決まって階段付近に差し掛かると現われ、彼らの進路を塞いでくる。そのあまりの心臓の悪さに、サイトは元いた世界のとあるゲームを思い出した。シャキン、シャキンと刃を打ち鳴らし、何処からともなく表れる狂人。鋏男(シザーマン)である。
 それでもなんとか追撃をかわし、ようやく彼らは二階まで辿り着いた。
「はぁ、はぁ……ダーリン、あたしもう駄目」
 二階の内部、どこかは分からないが直線の廊下の真ん中。周囲の安全を確認しサイトが小休止を許可したとたん、ぐったりと両膝をつくキュルケ。彼女の荒々しくも美しい赤髪は汗と疲労でじっとりと湿り、赤いドレスも駆けずり回ったせいでスカートがぼろぼろになっていた。
 ギーシュも弱音こそ吐かないが彼女と同じ気持ちらしく、ぜえぜえと膝に手をついてあえいでいる。
(まじいな……)
 サイトは眉根を寄せ歯噛みする。二人はもう緊張と疲労で限界が近い。呪印の加護がある自分でさえ汗が滲んでいるのだ。ここまで堪えた彼らを認めてやるべきである。
 だが、このままでは遠からず捕まってしまうだろう。しかし、ワルドはこれ以上泳がせる気は無いのか、一人が階段の前に陣取って待ち構える布陣を取っていた。一人のワルドに追われている時に鉢合わせたのだが、なんと階段の方のワルドはこちらを見てにやにやと哂っているだけでなにもしてこなかった。こちらが疲れ果て、諦めるのを。心が折れるのを待っているのかもしれない。どこまでも厭らしい男である。
 一度は窓から飛び出そうかとも思ったが、遮蔽物が無い場所へいきなり躍り出るのは危険だ。もしワルドが本気になったら、こちらは――いや、自分以外の者は為すすべなく、一瞬で息の根を止められてしまうだろう。サイトはそれだけは受け入れられなかった。
 しかしこのままでは不味い。なんとかワルドが油断しているうちに、突破口を見出さなければ――
「――ッ!!」
 はっと直感に顔を上げるサイト。そこには、向かって右側の通路からゆっくりと歩いてくるワルドが見えた。思考に没頭して気づくのが遅れてしまったのだ。
 これがハタヤマであれば、半径五十メートル以内に入れば必ず察知できるのだが、あまり感覚の鋭くないサイトにはそこまでのアンテナは備わっていない。『神の盾』といえどベースは人間、万能ではないのだ。
 ワルドは貼り付けた笑みで歩んでくる。
「みんな、走れ――」
 サイトは逆側の角へ駆け出そうとして、向いた表情を凍りつかせる。なんと、反対側からもワルドが歩いてきているではないか。

 しまった――挟み撃ちだ!
「く、くそ……追い詰められた……」
「ど、どどどどうするのかね!? ぼくらでは子爵に太刀打ちできないぞ?!」
「やかましい! 今考えてんだよ!!」
                       「……――? なに? あなた……どこ行ってたの……?」
 喧々諤々と言い争うサイトたちを余所に、キュルケは片耳を押さえ眼を閉じて何事か呟いている。ワルドたちはそれらを見苦しい最後の反応と判断し、さらに微笑を邪悪に歪める。
 サイトの二の腕が掴まれた。
「こっちよダーリン!」
 キュルケはサイトの手を引き、そばにある三つの扉のうちの一つに飛び込んだ。サイトは膂力ではキュルケを凌駕するものの、いきなりだったことと相手がキュルケ(仲間)だったこともあり、なすがままに引き込まれる。もちろんギーシュも付いていった。
 とにかくギーシュと入れ替わるようにドアを閉め、サイトは動揺しながら振り返る。
「おいキュルケ、いったいなんだ「ふれいむぅ~っ! いったい何処へ行ってたの!?」……よ?」
 キュルケの猫を撫でるような黄色い声。見ると、キュルケは何故かそこにいたフレイム――キュルケの使い魔の火トカゲ――にへばり付き、猫かわいがりしていた。
 サイトは呆気にとられ、そして呆れた。
「ぐるるるるぅ~♪」
「あぁ、フレイム、フレイム! 無事で良かった! 逢いたかったわぁ!」
「あ、あの~、キュルケさん? お楽しみのところ悪いんですが、今はそんな場合じゃあ――」
「サイト、サイトォッ!!」
「だ――ッ!! もう、今度はなんだぁッ!!」
 どうにかキュルケを窘めようとしたら、今度は背後からギーシュの切迫声。いい加減うんざりして、サイトはキレ気味で振り返った。
 すると。
 ガガガン、ガガガンッ!!
 閉じた扉がいつの間にか青銅に変わっており、その青銅に、なんだかいやに見覚えのある穴ぼこが刻まれ始めていたところだった。
「は、はわ、はわわわわっ! どうしよう子爵が来た!」
「なにいいぃぃいぃっっっ!!!?」
 もうちょっと堅くならねえのか、というアイコンタクトに無理だっ! というウィンクが帰ってきた。使えない男である。
 このままではまた突破されてしまう。今度は逃げ場がなく、ワルドも逃がしてくれないだろう。絶体絶命の大ピンチだ。
 万事休すかと思われたが、なんと意外な救世主が名乗り出た。
「ふ、フレイム?」
 てちてちと四つ足でフレイムが進み出ると、ぐるぎゃうっと皆に奇声をかけた。キュルケの翻訳によると、『あっしの後ろに下がってくだせぇ』らしい。
 もう幾ばくの猶予もないので、とにかく全員がそれに従った。
(大丈夫、あっしはできる。いや、あっし“だからこそ”できるでゲス)
 フレイムは昨晩会った旧友――というほど古くもないが――の言葉を思い出すように、深く息を吸って眼を閉じた。

 ――キミはもっと強い力を秘めている。
    使い方さえ覚えれば、キミの炎は全てを溶かせるようになるはずだ――

 フレイムは思い出す。
 あの盟友が教えてくれた、“新しい力の使い方”を。

 ――魔法の基本は『収束』と『圧縮』だ。
      さあ、深く“炎”を吸い込んで――

 フレイムは息を吸い込む。深く、深く深く。己の肺を破らんばかりに。
 そして吸い込んだ酸素を体内の火炎袋に圧縮し、朱く朱く燃え上がらせる。燃えた炎は猛火となり、袋の中を滾り狂う。
 これが“第一段階”。
 いつものフレイムはこの段階でよしとし、炎の奔流を吐き出すことで技と認識していた。彼自身の得意技でもある“ファイアーブレス”である。
 しかし、ハタヤマはこれを“児戯”と称した。この技はまだ完成していない。まだ可能性を秘めている。そう熱く語り、フレイムに懇切丁寧に分かりやすく方法を説いた。その理論の骨子も共に。
 その真に迫る部分は、高位の幻獣ではない彼の頭脳ではまだあまり理解できなかったが。それでも、この技が“とてもすごいこと”だけは分かった。少なくとも、ただ炎の風を吐き出すよりは数百倍強いことを、頭ではなく本能で理解していた。

 異なる世界の友よりもたらされた知。見せる時は今この時、この瞬間。
「くく、芸が無い――ッ!?」
 青銅の壁が破り去られ、ワルドが無警戒に侵入し――絶句したのは同時だった。
 灼灼(しゃくしゃく)と輝くフレイムの喉元、火炎袋。大きく口を開いた中には、小さな太陽が顔を覗かせて。朱い朱い球体が、大口を開けて待ちかまえていた。

(――“業火”に焼かれて蒸発しろでゲスッ!!)

 ワルドはとっさに“真空壁”(エア・シールド)を詠唱するが、もう遅い。
 フレイムの口から吐き出された太陽(コロナ)は、一直線にワルドへと向かい。彼を呑み込み全てを喰らい、蹂躙の限りで燃やし尽くす。石の壁が溶け空気は焼け付き、全ての酸素を呑み込み猛る。
 獰猛な太陽は荒れ狂い、骨も残さずワルドを喰らい尽くした。
「は、ぁ……? え?」
「こ、これは凄まじい……」
 サイトとギーシュは目を点にして、あんぐりと口を開けっ放しである。それほどまでに目の前の光景は刺激的であった。まさに炎の壁のような業火が、新たな防壁としても機能している。
 なによりも。ワルドが一瞬で燃え尽きたことが、彼らには信じがたい出来事であった。
「~~~っ!! ふれいむぅ~っ!!!!」
 がばりとフレイムを掻き抱くキュルケ。ただでさえ熱風に煽られて暑苦しいのもなんのそのである。
「なんて素晴らしい“炎”なの!? あぁ、あたしは信じてたわ!
 あなたはやればできる子だものっ!!」
 ひしっ! と抱きつきぐりぐり頬ずりするキュルケ。ぐにぐにと姿を変える褐色の巨乳が魅惑的だ。
 ……あ。フレイムが怪しく笑った。なんとなくハタヤマを彷彿とさせる邪笑である。
「いや、しかしこれは冗談抜きで素晴らしい技だ。スクウェアのメイジでもここまでの事象はなかなか引き起こせないだろう」
 ギーシュは感嘆の声を上げる。それは彼の忌憚ない感想であった。
「この炎は“風”では消せん。中位の“水”か、高位の“土”でなければな」
 高密度に圧縮された炎は核熱と化しており、全てのものを呑み込む高温を誇る。反相性や悪相性のものでなければ、殆どのものは消化されてしまうだろう。
 良相性の“風”はどれだけ吹こうと酸素供給燃料としかならず、むしろ業火を増長させてしまうのだ。
 だが。
「一応時間は稼げそうだが……」
「しっかし、このままここにいてもジリ貧だぜ?」
 サイトが苦い顔をする。まさにその通りだ。
 核熱とはいえ永遠に燃え続けるわけではない。しかもまだワルドの生き残りがいるかもしれないので、別のワルドが別の角度からアタックを仕掛けてくるかもしれないのだ。
 ゆえにあまりこの場に留まるべきではなく、一刻も早く移動しなければならない。
 だが。
「この炎ではぼくらも出られないよ」
「ギーシュに横穴を開けてもらっても、外であいつとご対面……ってオチでしょうしね」
 ここは三つ並んだうちの真ん中の部屋。どっちに逃げても結局は同じ廊下へと続いている。そしてそこには当然もう一人のワルドが残っているわけで。
「焼けたのたぶん一人だけだろうしなぁ……」
「ええ。ダメージは与えられたかも知れないけれど」
       「……――。なに? いったいどこに……なんだって――?」
 サイトとキュルケが顔を見合わせていると、今度はギーシュが独り言を始めた。いきなり危ない人と化したギーシュを、彼らはきょとんと見つめている。
 すると、ギーシュはおもむろに声を発した。
「サイト。ぼくに案がある」
「へ?」
 ギーシュは床にしゃがみ込むと、真剣な顔でサイトを見上げる。
「ヴェルダンデが呼んでいるんだ。『こちらへ来れば近道ができるよ』、とね」
「はあ? うぇるだんでって、あのモグラだろ? 呼んでんのはまあいいとして、いったいどこにいるんだよ?」
「――こっちさ」
 ギーシュは意味ありげに微笑むと、片手を床石にぺたりとつけた。
「“錬金”」
 その呟きと共に床石がぐにゃりと変質し、めりめりと両側に裂けていく。まるで重さに耐えかねた粘土のようである。
 そのあまりにもあっさりした仕草に反する起こった事象の不条理さに、目ん玉が飛び出すほど驚くサイト。
 何度見てもこれは慣れない。
「お、おま。えらいあっさり凄いことして――」
「そうかい? ふふ、所詮はドットさ。さあ降りようか」
 その謙遜すら絵になる美少年。むかつく。こいつむかつく。ギーシュのくせに。
 しかし、そんなジャイアニズム溢れる批判を振りかざすわけにはいかないので、サイトはグッと堪えてルイズを抱いたまま一番に飛び降りた。
 すぐさまルイズを降ろし、続けて降りてきたキュルケを受け止める。そしてキュルケも丁重に降ろし、続いて降りてきたギーシュはスルー。
「あだっ!?」
 盛大に尻もちをつくギーシュ。とても痛そうな音が鳴った。
「きみ、何故ぼくを受け止めない!? さり気なく避けただろう?!」
「男だろ。この程度の高さ平気平気」
「ギーシュ、“レビテーション”使えばよかったんじゃないの?」
「少しでも精神力を温存したかったんだよ!」
 なんと殊勝な心がけ。ギーシュもそれなりに考えているらしい。なのに、ギーシュだからというだけでなんとなく粗末に扱われるのは何故だろうか。
 そんな会話もそこそこに、サイトはきょろきょろと周囲を見回す。吊り下がった大量の生肉が放置され、明らかに室温が著しく下がっていて肌寒い。奥には結構巨大(成人男性の身長くらい)な縦長の青色宝石がぼんやりと輝いている。
「食料庫……? いや、肉の貯蔵庫かな」
「備蓄はあったけど、使う間もなく攻め切られたのね」
「ちなみに、奥の宝石は『水石』だ。温度調節用のな」
 などとのんびりお喋りしている場合ではない。こんなことをしてる間にもワルドが追ってきているかもしれないのだ。
 話もそこそこにギーシュは差しのべられたサイトの手を取ると、尻を払って立ち上がった。
「で、ギーシュ。こっからどうすんだ?」
「しばし待ちたまえ。今迎えに来てくれるから」
 ギーシュは眼を閉じて耳を澄ます。そして急にぱっと花が咲いたように微笑むと、一目散に駆け出した。すると、その進行方向の先にある床石がもこりと盛り上がって、黒光りする丸い鼻がひくひくと現れる。そのまま小山はぶるぶると震え、付着した瓦礫や砂を吹き飛ばした。ヴェルダ「う゛ぇるだんでぇ~~~っっっ!!!!」
「……は、は?」
 あんぐりと顎を落とすサイト。キュルケはまーた始まったわねぇ~、と呆れ顔。サイトは知らないので無理もないが、ギーシュが使い魔を狂ったように可愛がっているのは、トリステイン学院では有名な話だった。主に女性の間で。
「あぁ、ヴェルダンデ! 今までどこにいたんだい! 心配したんだよ? あぁ、ヴェルダンデ! マイエンジェル、ぼくの天使よ!!」
 ひし、と抱き合うギーシュとヴェルダンデ。その様は一枚の絵画のように胸に迫る感情を与えたが、やはりどこか滑稽だった。
「きゅ、キュルケ……あれ」
「あれはあいつの“病気”よ。ギーシュって自分の使い魔のことになると、結構見境無くなっちゃうのよね」
 茶化すようにキュルケは言うが、その彼女も先ほどまで似たようなことをしていたのだが。それを指摘する度胸はサイトにはない。
 ギーシュはひとしきりヴェルダンデを撫で終わると、サイトに向けて手招きした。
「来たまえサイト。これが“活路”だ」
 ギーシュが示したのは、ぽっかりと床に空いた穴。お尻を抜いたヴェルダンデの下に現れた、地中へ続くモグラ穴であった。
「なるほど、地中から脱出するのね」
「いや、まあそりゃいいんだけど」
 サイトは眉根を寄せながらぽりぽり頭を掻き、暗い穴ぼこを覗き込む。
「ここをほふくで灯台まで行くのか? それはちょっとつらいぜ」
 サイトは曇り顔で振り返る。心配なのはもちろんルイズのことだ。彼女は現在、自分の意志で機敏な行動が取れない状態にある。そんな彼女が、果たしてどれほどの距離があるのか分からない、薄暗く長い泥穴を無事抜けられるのだろうか。首に縄を付けて引っ張るわけにもいかないので、サイトは難しい顔で口を尖らせた。
 しかし、それを受けてもギーシュは得意げに指を立てつつ、涼しい顔で笑みを浮かべた。
「なあに、心配ない。向かうのは灯台じゃないからね」
「なぬ?」
 どういうことだ、とやや顔を寄せるサイト。
「この穴はやや急ながらも下へ下へと続いていてね。最終的に大陸の反対側へと繋がっているらしいんだ」
「反対側ってーと……」
 思案に首をかしげるサイト。自分たちがいるのはアルビオン地上部、つまり表面である。そしてその逆とは――

 Ans : I can fly.(空も飛べるはず)

「って普通に落ちるじゃねえかっ!?」
 芸人ツッコミをするサイト。その表情と手の返し方は、この瞬間だけ本職を上回っていた。
 アルビオンは浮遊大陸である。なのでその逆側というと、当然ながら虚空へダイブというわけで。空の飛べない人間さんは、残念無念地獄へ直行ということになってしまうのだ。
「分からんぞ? 偶然大鷲(アルバトロス)の群れが通りかかるかもしれない」
 どうやらワンチャンスで天国への切符も手に入るらしい。
 しかし。
「確立が低すぎるわ!!」
 サイトはひたすら全力で怒鳴った。あくまでも彼は乗車拒否を貫くつもりのようだ。というか、地獄だろうと天国だろうと、どっちにしても同じ(We died)である。死んじゃうのだ。
 ギーシュはひとしきりカラカラ笑うと、不意に表情を正す。
「冗談だ。しかし、絶対大丈夫なはずさ」
「あん? その根拠はどこにあんだよ」
 胡乱な目つきで見やるサイト。
「ヴェルダンデがそう言ってる」
「……は?」
 不敵な笑顔でそう言い切るギーシュ。サイトは、彼の答えに心底呆気にとられた。お前なに言ってんの? と口に出しそうな様子だ。
「お前なに言ってんの?」
 口に出した。
 しかし、ギーシュは怯まない。
「なあに、きっとなんとかなるさ。それに彼はぼくの使い魔だぞ? 嘘を吐くわけが無い」
「お前なあ……」
 その無根拠な自信はいったいどこからくるのか。ぜひともご教授願いたいものである。
 その時、わきでフレイムと一緒に生肉を食んでいたヴェルダンデが、一声短くキュイと鳴いた。
「……? それはいったいどういうことだいヴェルダンデ?」
「なんだ、なにか言ったのかギーシュ?」
「いや、彼が『もう待ちくたびれてる』と言い出してね」
 首を傾げるギーシュ。すると、今度はフレイムもぎゃうぎゃう奇声を上げる。
「なんだか、フレイムも『問題ないから早く行くでゲス』と急かしてるわね」
「………………」
 サイトは考え込んだ。このままこの場でぐだぐだ言い争うのは却下。話し合う益が無さ過ぎる。ならば早いとこ城外へ出て、灯台へと走るか? いや、それもあまりよろしくない。一歩外へ踏み出せば、自分たちはそれこそ逃げ惑う狐である。じわじわと追い詰められ、なぶり殺しにされてしまうだろう。とりあえず一階まで下りてきたのはいいが、実際のところ対策は何一つ思いつかなかったのが痛い。
 サイトは穴をもう一度見下ろす。

  ――やはり、これに賭けるしかない、か。

 サイトは深く、気を落ち着かせるように息を整えると、一際大きく頷いた。
「しかたねえ。ヴェルダンデ、ここはお前を信じるぜ」
 どのみち城外に活路は無いのだ。ならば、多少危険でも可能性が高い方を選んだ方が利口だろう。
 そう考え、サイトは決断した。
「ここを下りてワルドを振り切る。みんな、異存は無いな?」
「もちろんさ。なにせヴェルダンデがこうまで押すんだ。ぼくが信じてやらねばどうする?」
「あたしもいぎなーし。あんな加齢臭のおやじに殺されるくらいなら、落ちて死んだ方がましよ」
 さばさばしたキュルケの言葉に、お前おじさまおじさま言って慕ってたじゃねーか、とサイトはつっこみたくなったが、この場でまぜっかえしてもしょうがないのでスルーする。
 その決定を聞き、使い魔たちがわずかに喜んだような気がした。
「この穴は直下型ではなく、すべり台のように螺旋状の斜面が続いた造りになっている。かなり長い距離を滑ることになるよ」
「なんでそんな回りくどいことを? いっそ縦穴でぶち抜いて、すぱっと飛び降りて抜けりゃいいじゃねえか」
「それなんだがね」
 こほん、とギーシュは咳払いを一つ。
「どうやらこの大陸の地中には、大量の風石が埋まっているようなんだよ」
「風石? って、あのきれいな石ころか。それがどうした?」
「どういうことかと説明するとね」
 ギーシュは注目を集めるように、人差し指をぴんと立てた。
「この大陸は地中に眠る大量の風石の力で浮かんでいるらしくてね。ヴェルダンデの話では、地中深くに近づくほどにその密度が濃くなっていき、穴を掘る隙間を探すのも一苦労らしいのだよ」
「なるほど……だから、一直線に穴を掘るなんて無茶もいいとこ、ってことか」
「その通りだ。それに対する措置としてこういった形状にしたらしいのだが。どうやら、それでも避け切れなかった鉱脈がいくつかあるらしくてね。張り出した風石が引っかかると危ないからその辺だけ気をつけろ、と彼は言っているよ」
 サイトは想像する。これまでの説明で思い浮かぶのは、やはり地球でやったテレビゲームだ。彼は活字が嫌いだったが、ビデオゲームは大好きだった。
 赤い帽子を被った髭のおっさんを操るアクションゲーム。斜面をすべる髭。そのステージのあちこちには、トゲの床が見え隠れしている。たしかにこれは危ない。
 サイトはどうすればいいか思案する。
「そうだなあ……じゃあ、なんか敷ける物はないか? 風石もそうだけど、泥で汚れちまう」
 サイトの発案に、一同は辺りを見回す。
「ならばサイト、この羊肉(マトン)はどうだ? 手ごろなサイズだし、これならすぐに人数分揃う」
 ギーシュは吊り下がった肉塊を指した。なるほど、たしかにこれなら人間の子どもくらいの大きさがあるので尻に敷いても余裕があるし、冷凍保存されていたから強度も申し分ない。もし心配なら“固定化”でもかけて強度を底上げしてやればいいし、広さについても二つ三つ繋ぎ合わせればちょっとした荷台くらいになる。それに、そこら中に吊るされているから、いくつか失敬しても、少しぐらいは問題ないだろう。
 しかし、キュルケは不満そうに口を尖らせた。
「えー、趣味悪ーい。肉の上に乗るなんてやーよ、あたし」
 お尻が濡れそうだし、とぶーぶー不満を垂れるキュルケ。
 ギーシュがやれやれと窘める。
「わがままを言わないでくれないかね。今はこれしかないんだよ」
「ギーシュ、あんたソリを錬金(つく)りなさいな。ルイズの分と二台ね」
「なぜそうなる!? 今は非常時なんだぞ、香水の一滴ほどの精神力すら温存したいというのに!!」
「あ~ら、そういうこと言っちゃう? じゃあ、あなたはこんな状態のルイズに、一人で肉(マトン)に跨らせようってのかしら?」
 すかさずルイズの背後に回り、これ見よがしに見せ付けるキュルケ。口元が邪悪に歪んでいる。
「ぐっ……」
 ギーシュは言葉に詰まった。たしかに非常時とはいえ、今のルイズに肉のソリを乗りこなす力があるようには見えない。ぐるぐる巻きにくくりつけるわけにもいかないので、それを考えればソリをあつらえてやった方が何万倍も安心だろう。
 しかし。
「ぼ、ぼくはここまでの“錬金”でかなり消耗しているんだ。これ以上無駄な精神力を使うわけには……」
「――ギーシュ」
 ぬ? と呼ばれて振り返るギーシュ。そこには浮かないサイトの姿があった。
「俺からも頼めないか? この穴は一人ずつしか通れそうにねえ。俺が面倒見てやるわけにはいかねえんだ」
 たのむ、と頭まで下げるサイト。ギーシュはあばばばと面食らう。
 なんてこった、これでは断るに断れない。そんなことすれば一気に極悪人にされ、自身の評価が失墜してしまう。
 ギーシュは脳みそを高速回転させながら顔面をぴくぴく痙攣させて、そして口を開いた。

「  モ、モチロンコトワルワケガナイジャナイカ。
       ボクニマカセテクレタマエヨ?     」

 春の野原に咲くスミレのような、さわやかな笑顔でサムズアップ。こぼれた白い歯がきらりと光る。
 それにサイトはほんとか!? と喜色を浮かべ、キュルケはさすがギーシュっ♪ と白々しい微笑を浮かべた。

 ぼく最近こんなのばっかり。
 ギーシュは心中で号泣した。

     ○

「みんな、準備はいいか?」
「おっけーよ」
「ぎゅあぎゃう」
「キュウキュウ」
「だ、だいじょ……ぶ……だ……」
 約一名若干大丈夫そうではないが、一応肉の上にしがみつくことはできるようなので放置。
 キュルケとルイズはそれぞれ趣味のいい青銅のソリがあてがわれ、キュルケなどそのあまりの出来の良さにご満悦である。人の苦労も知らないで、とギーシュは不満げに顔をしかめた。
「おっしゃ、じゃあ俺が先陣を切る。五つ数えたらついて来い」
「羊肉(マトン)に乗って洞窟探険か。さしずめマトンコースターといったところだね」
「遊園地のアトラクションみたいに言ってんじゃねえよ」
 肉の形をしたジェットコースターが遊園地になんかあろうものなら、不気味でしょうがないだろう。少なくとも不人気ナンバーワンは間違いない。
 ギーシュは『遊園地』がなにかは分からなかったが、とりあえずツッコンでくれたんだろうと深くは追求しなかった。
「突き出た風石は俺がメリケンで砕いとく。だから心配しなくていいぜ」
「相棒、最近いやに冷たいじゃねぇか。寂しいぜ」
 握ったメリケンサックを示すサイトを、デルフは軽くからかった。
 サイトは苦笑する。
「しゃーねーだろ、狭い場所じゃあお前は振り回せねえんだからよ」
 なにせヴェルダンデ(もぐら)が掘った穴なので横幅も縦幅もあまり広くなく、羊肉に跨った姿なんぞはもうすでにボブスレーの選手みたいな姿勢になっているのだ。さすがの神の左手(ガンダールヴ)といえど、そんな状態で大剣など扱えないのである。
 デルフはその返答にカタカタと可笑しげに鞘を鳴らして返し、そしてそのまま黙った。どうやら分かってて言ったようだ。
 そんな雑談もそこそこに終わらせると、サイトは青銅の糸で肉と自分が離れないように胸の前で縛り(糸はギーシュが錬金った)、腹ばいになってスタンバイした。
「やれやれ。そんじゃあ行くぜっ!」
 サイトは勢い良くそう言い放つと、元気良く穴へと突入した。
 暗い、暗い、長い洞穴をサイトは腹ばいで滑り落ちる。
 途中に突き出た翠剣のような風石(とげ)は、彼の拳で粉砕される。
 どんどんと加速度がつき、もはや止まれそうもない速度に達しようと、サイトは歯を食いしばって恐怖に耐える。
 ――後ろの方で、『ぎゃあああああああああああっっっ!!!?』というどぎつい悲鳴が響いているが、そんなものは聞こえない。聞こえないったら聞こえない。
 蛇の胃袋のように入り組んだ構造(レール)、やがて遠くに白く光る“穴”が見えてきて―― 

「――え?」

 落ちた。
「のあああああああぁあぁぁああっ!?!?」
 サイトは我慢が噴き出すように、とんでもなく野太い悲鳴を上げた。
 洞窟を抜けるとそこは大空でした、なんてことになれば、誰だってそうなるだろう。怖いもん。
 サイトはわけの分からない絶叫を上げながら、無心に両手をばたつかせる。しかし、人間の手は風を捉えるようにはできていないので、空など飛べるはずもなく。彼はきりもみ回転しながら、真っ逆さまに落ちていく。
「ちょ、た、助けて、助けて――――――ッッッ!!!?」
 飛べないのは肉の重さのせいだ! と言わんばかりに必死に紐をほどこうとするサイト。しかし焦って取れない。そして取れないことにさらに焦り、顔面は大変なことになっていく。錯乱している。
 綿菓子のように濃密な雲の中、必死にあがき助かろうとするサイト。
 そしてもう発狂寸前まで追い込まれたとき、やっと救いの女神が降りた。
「――わああああぁぁぁあぁ、っあ?!」
 不意に薄らぐ、心臓が浮き上がるような感覚。そして包まれる浮遊感。腹辺りをなにかに支えられている。
 その感触に顔を上げると。
「……待ってた」
「――タバサ!?」
 風竜を駆る雪風の使い手、遅れてきた最後の仲間。愛竜シルフィードに跨ったタバサが、ぬぼーっとした表情で見下ろしていた。
 彼女はどこで着替えたのか、昨日までの寝巻きを捨て去り、緑色を基調とした竜騎士の制服(ガーディアンスーツ)に身を包んでいる。空気抵抗を減らすためなのか全体的にぴっちりなレオタードみたいな生地をしているので、ちょっと色っぽい。
「お、おま、こんなとこにいたのか……ん?」
 会話のキャッチボールを始めようとしたサイトは、そこで腹辺りになにかくすぐったいような感覚が走った。
 不審に思い見下げると、なんとシルフィードが自身の腹ごと――サイトは今腹を咥えられている――羊肉をはみはみしていたのだ。
「ちょ、タバサ、シルフィード止めて!? 喰われる、喰われるから?!」
「……おなかが減ってる」
「それなら俺を切り離してからにしてくれ! その後なら丸呑みしてもいいから!」
 タバサはぱちぱちとまばたきして、一言。
「ちょっと足りない」
「餌にされる――ッ!!?」
 そろそろ擬音が“はみはみ”から“がじがじ”にシフトしてきている。このままでは彼のあまり引き締まっていない腹部は、三日月型に欠けてしまうだろう。なんとかせねばならない。
 その時、彼に天啓閃く。
「そうだ!? おいシルフィード!!」
「ふゅい(きゅい)?」
「あと数秒したら、もっとたくさんの肉があの穴から落っこちてくるぞ! ここで俺を食ってたら、そいつらは受け取れずに落っこっちまうぞ!」
 びしりと落ちてきた穴を指してわめくサイト。事実、吹き荒れる風のびゅうびゅうという音の中に、『ぎゃあああ』という汚い悲鳴が響いているのが聞こえている。この分ではもうちょっとで出てくるだろう。
 シルフィードはそれを聞き、考え込むようにやや頭を下げると。ぐいと長い首を自身の背中にまで曲げ、咥えていたサイトを離した。
 ほっと息をつくサイト。
「し、死ぬかと思った……」
「冗談だったのに」
「お前が言うと洒落に聞こえねーんだよッ!!」
 腹の辺りをさするサイト。するとちくちく刺さるような手触り。見ると、なんと竜鱗製の鎧に無数の小さな歯型が刻まれているではないか。もう少し遅かったら……と想像すると、サイトはぞっとせざるを得なかった。
 そして、次の標的(哀れな子羊)が登場。
「ぎゃああぁあぁぁあぁ!!!? お、落ちる落ちる落ちるぅ――!!!?」
「きゅいー♪」(かぷっ)
「ほんぎゃあああああああ!??? ふ、風竜が!? た、助けてサイト、助けて――??!」
 このままでは巣に持ち帰られてゆっくりと捕食されるうううぅぅぅ、と声高に泣き叫ぶギーシュ。無駄に想像力豊かなやつである。
 サイトはやや微妙な苦笑とも憐憫ともつかない顔で、肘でタバサの腰をつっついた。
「もう許してやれよ」
 それに対するタバサの回答は。
「食べていいよ」
「きゅいー♪」 (ごりっ)
「ッア――――――!!!?」
「こらこらこらこら――っ!?」
 けっこう緊張感無かった。

     ○

「タバサ――っ!!」
 ひし、と抱きつく褐色の女。走ったせいでぼろぼろになったスカートのすそを大胆にちぎって、生足がなまめかしく見え隠れしている。キュルケである。
「ほんっとーに心配したんだから! 一人で勝手なことしちゃダメじゃない!」
「………………」
 一方、タバサのほうはというと、されるがままでなんの抵抗もしない。表情もいつもどおりなので、なにを考えているかわかりづらい。サイトは両足の間にルイズを座らせ、後ろから落ちないように支えながら、それを横目で見ていた。
 ぽつり、とタバサが口を開く。
「『勝手』じゃない」
「え?」
「八割以上、こうなることは予想されていた」
 ばたばたと強風になびくキュルケの髪を顔面に受けながら、タバサは続ける。
「だから、私はここに配置された」
「配置……」
 サイトはあごに手をやり考えこむ。今日の作戦を描いたのは、ほぼあいつ一人の力である。自分たちは指示に従っただけで、作戦内容の全貌については聞かされていなかった。
 そこまで考え、サイトは合点がいった。
「……あいつは、俺がワルドに勝てないことを見越してたんだな」
「それは違う」
 タバサは珍しく、強い語調で言った。
「彼は不確定要素が発生することを確信していた。だから、“なにがあっても逃げ切れるルート”を保険として用意していた」
「へ? それ、どういうことだ?」
「つまり」
 タバサは人差し指を立てた。
「どう転ぶにしろ、彼はあなたとフレイムたちを合流させるつもりだった」
 サイトはきょとんとして、後ろに座るフレイムとヴェルダンデを振り返る。彼らはそれぞれギーシュとキュルケを背中に乗せ(スペースの問題ゆえ)、まったりと寝転がっている。
 サイトは考える。話を聞いていると、どうやらフレイムとヴェルダンデもあいつから指示を受けていたようである。その役割はフレイムが自分たちを誘導し、ヴェルダンデが道を開くということ……
「あ!」
 サイトは手を打つ。なるほど、そういうことか。
「ようするに、どう移動しても結局は今のルートになってたってことか」
「そういうこと」
 そう答えるとタバサは黙った。サイトはぼんやりとしか理解していなかった全貌が、今やっと見えた気がした。すなわち、この作戦はリレーなのだ。ルイズ(とその他)というバトンを持って、自分→フレイム→ヴェルダンデ→タバサとたすきを繋いでいく。そして全員が合流して初めて、戦闘態勢が整うのである。答えが分かって満足し、サイトの顔がにわかにほころぶ。
 なんとなく、横に座るタバサの口元が緩んだ気がした。
「しっかしフレイムのやつ、なんであの部屋にいたんだ? あいつが作戦立てたんなら、たぶん二階についた瞬間キュルケに呼びかけるよう言っておいたはずだぜ?」
 あいつは、こと知恵を働かせることに関しては嫉妬するほど頭が回る。そのうえ合理主義者だから、無駄は一切省くはずだ。しかし、フレイムがいたのは――
 ぎくっ、とフレイムが身震いした。
「あらフレイム? いったいどうしたのかしら」
「たしか彼がいたのは使用人の控え室付近だったね。あの部屋は、メイドの更衣室だったか――おや?」
 ギーシュがなにかに気づく。
「口の端からなにか出ているよフレイム?」
 ひらひらと風になびく白い布切れ。ギーシュはそれをなにげなく引っ張る。フレイムは引きつった悲鳴を上げ、首をそむけ逃れようとした。
 その拍子に口から“それ”が飛び出る。
 その正体は。
「……ショーツ?」
 それはどう見ても女性の陰部を守る、真白なレースの下着であった。

「フレイム?」

 キュルケの身も凍るような呼びかけ。フレイムは水をかけられたように飛び上がり、滝のような汗を噴き出す。
「ちょっと口を開けなさい」
 火のメイジなのにまるで氷の女王のような絶対的威圧感をまとい、仁王立ちでフレイムを見下ろすキュルケ。しかし、フレイムが心底おびえつつも従わないことを見ると、彼の上の口と下の口に手を突っ込み、無理やりにこじ開けた。
 奥に、さらにいくつもの白い布が見える。
「……フレイム。あんた、帰ったら“おしおき”ね」
 黙々と体内からパンツを没収しながら、地獄の閻魔のような判決を下すキュルケ。フレイムは赤い肌なのに顔面が真っ青に染まっており、もう心臓が止まりそうだった。
 キュルケの使い魔フレイム。彼には、下着ドロの癖があった。
「タバサー? 帰ったら魔法の練習しない? “氷槍雨”(ウィンディ・アイシクル)を教えて欲しいの」
「ぎゃわぁっ!?」
 的はこっちで用意するから、という言葉に、フレイムは絶望してがたがた震え、サイトとギーシュ(男二人)に潤んだ瞳を向けた。
 しかし。
「「……ぷいっ」」
「っ!?」
 彼らは無常にも目を逸らした。すまんフレイム、まだ死にたくないんだ、という呟きが今にも聞こえてきそうな横顔である。
 だが、この世の終わりのように涙目で頭を抱えるフレイムがあまりにも哀れだったのか、ギーシュが果敢にフォローに回る。
「は、はは。まあキュルケ、お手柔らかにな? あまりいじめると可哀想だ」
 しかし、ポケットに突っ込んだ手を真横から掴まれる。
「おうギーシュ。――これはなんだ?」
 手首を掴んだのはサイト。ポケットの中から出てきたのはパンツ。どうやら、どさくさにまぎれても持って帰ろうとしたらしい。目線の高さまで持ち上げられたパンツ、対峙するサイトの目つきは見るからに冷ややかな色へ染まっていく。ギーシュの頬を、たらりと一筋汗が流れた。
 女性陣の視線が、なんとルイズからの視線までもきつくなったような気がする。このままではいけない、ぼくの権威が失墜してしまう(もともと無いけど)。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!? これは誤解だ――」
 弁解しようと声を荒げた瞬間、サイトに突き飛ばされるギーシュ。サイトは狭い風竜の背を縫うように移動し、最後尾で流れるような動作で盾を構えた。
 ずぎゃん! とひときわ甲高い悲鳴をあげ、びっしりと盾にヒビが刻まれた。
「っぶ、ねえ……魔法が飛んできやがった」
「待てサイト、ここは雲の中だぞ!? しかもこれほどの濃霧、たとえ空中艦隊の見張りといえど偶然ですら見つけられるはずが――」
「……じゃあ、相手が意思を持って“俺たち”を探してたとしたら?」
 サイトは、険しい表情で眼前の雲海の一点だけを見つめている。彼につられて全員がそこへ視線を集中した。すると、ゆっくりと、浮き上がるように黒い影が接近してくる。
 それは。
「――子爵!?」
 ギーシュが驚愕に目を見開く。深い霧の向こうから現れたのは、グリフォンに跨ったワルドであった。彼は顔の半分がひどい火傷で剥げ、右目は飛び出すように赤黒い球体が脈打っている。その形相はすでに人間のものではなく、どうしようもなく禍々しい。
 一同はワルドの執念に息を呑んだ。
「ど、どうしましょうダーリン? このままじゃ追いつかれてしまうわ」
「へ? よく知らねーけど風竜(ウィンドドラゴン)と怪鳥(グリフォン)だろ? 格が違うんじゃ」
「普段ならそうかもしれない。しかし、今は積載量が違うんだ」
 ギーシュの言葉に気づく。回りを見回すと、それは言うまでもないことだった。
 なんとしても対策を考えねばならない。ここで追いつかれるのも不味いし、もし逃げ切ったとしても必ずどこかで再補足される。やつを倒さなければ。
「キュルケ、フレイムのさっきのやつまた撃てるか?」
 キュルケがフレイムにたずねると、フレイムはぶんぶん首を横に振る。
「ダメみたい。一日にそう何度も撃てる技じゃないらしいの」
「そっか……タバサはどうだ? なにか有効な攻撃手段はないか?」
 タバサに水を向ける。しかし、タバサは即答した。
「無い。私は風のトライアングル。同系統のメイジが相手では、同等かそれ以上の有利はつけられない」
 すげなく言ったがこれももっともな話。100の威力の風と100の威力の風が正面からぶつかり合えば、当然のことながら相殺される。サイトは知らなかったが、魔法力学では当たり前の理論であった。
 もちろん、サイトも“常識”で想像して、タバサの言わんとすることを察する。
 ここでまたもワルドの“風槌”が飛んできたが、タバサの“風壁”により防がれた。
「そうか……じゃあどうすっかな」
「サイト。きみのその盾では攻撃を防げないのかい? きみの後ろに布陣して、全員で集中攻撃すれば」
「ダメだ。こいつはもうガタがきてる。あと一発受けたら壊れちまうよ」
 サイトは呪印の感覚でそれを察する。なんというか、武器ほどではないが予感が囁くのだ。
 ギーシュは盾の損傷具合を調べてみたが、一瞥しただけでその痛みを見抜いてしまった。土系統、しかも“彫金師”特有の鑑定眼がそうさせるのだろうか。彼ではこの盾を修復しきることができない。
「なんでかな、盾だとルーンが輝かねえんだよな。構え方もよく分からんまま使ってるし」
「そりゃそうさ。神の左手(ガンダールヴ)は始祖の剣だ。盾を持つようにゃできてないのさ」
「なぬ?」
 あっさりと言い切るデルフ。サイトは面食らう。
「ちょっと待てよ。ガンダールヴは『神の盾』とも呼ばれてたんだろ? それなのになんで盾が使えねえんだよ?」
「そりゃおめぇ、初代がガン攻め嗜好でよ。守るのは性に合わないってんで、盾を捨てて槍を持っちまったからさ」
「捨てた? ってか、槍って?」
 デルフは鞘を鳴らす。
「初代“ガンダールヴ”は二刀流だった。俺(剣)ともう一本、槍を持っていたんだよ」
 どこに行ったかは忘れちまったがな、とカタカタ笑って鞘に戻るデルフ。今明かされる衝撃の事実。しかし、それに驚いている暇は今は無い。
 タバサとワルドの打ち合いが激しくなっていくのを感じ、サイトはぼうっとした思考を正した。
「なんにしてもあいつを倒さなきゃならねえ。みんな、知恵はないか?」
 サイトは、自分は頭があまりよくないことを知っている。だからこそ初めから無駄を省くため、全員に広く意見を求めた。
 しかし、みんなの反応は芳しくない。
「申し訳ないが、ぼくとキュルケでは子爵に傷一つつけられないだろう。せいぜい嫌がらせが限度だね」
「フレイムは“ファイアーブレス”なら吐けるって言ってるわ。でも、それ以上は無理だとも言ってる。ヴェルダンデには遠距離攻撃手段が無いみたいね」
「彼は地上ではとても頼りになるんだがね。いかんせん足が地に触れていなければ、本来の力を発揮できない」
「……私の魔法は子爵に通用する。けれど、おそらく凌駕はできない。シルフィード(この子)はあまり器用なことはできない。逃げるなら逃げることに集中させるしかない」
 つらつらと現れる情報を吟味するサイト。しかし、彼では上手く情報を処理し、噛み砕き、練り直し、作戦へと消化させることができない。知識もそうだが圧倒的に経験が足りないのである。まあ、数ヶ月前まで普通の高校生だった人間にそんなものを求めるほうがどうかしているのだが。
 黙り込み、脂汗を浮かべるほど悩むサイトを見かねたのか、デルフがしゃらりと鞘から少し飛び出た。
「相棒、そう難しく考えるな。ようは『どうすればあいつを倒せるか』なんだ。過程を先に考えるんじゃねぇ、結果から過程を逆算するんだ」
「逆算……どういう意味だ?」
 デルフは続ける。
「あいつをどうすればおめぇさんたちは安心できるんだ?」
「それは、あいつが追いかけてこなくなれば」
「じゃあ、どうなったら追っかけてこれなくなる?」
「え。うーん……」
 頭を抱えるサイト。デルフはさらにヒントを出す。
「そんなら質問を変えるぞ。『人間はどうなったら動けなくなる』?」
「え?」
「『人間』を『生物』に置き換えてもいい。答えろ」
「――……」
 サイトは言葉に詰まった。人間が活動を止める時、それは。
「そうだな。――『命を落とした時』だな」
 デルフが答えを引き継ぐ。どくん、とひときわ心臓が脈打った。
 重い重い言葉の響きに、サイトは知れず生唾を飲み込む。
 デルフは続ける。
「なら話は簡単だ。どうやりゃあいつをぶっ殺せるかを考えればいいのさ」
「で、でもデルフ。それは――」
「あ~いぼう、いまさらピヨピヨひよってる場合じゃないぜ。ああいう手合いは本当に死ななきゃ止まらねぇんだ。――護りてぇなら、腹ぁくくれや」
 デルフはそう言ったきり黙った。サイトは深刻な表情で手元見下ろし、そしてデルフリンガーを抜いた。空にかざした赤錆びた長剣は、無言の威圧感を放っている。
 嫌だ、とサイトは言いたかった。しかし、それを口にすることはできない。なぜなら、彼は昨晩“あいつ”が言っていたことを、頭の隅に留めていたからだ。

 ――否定するのは簡単だけど、それならそれに代わる代案を示さなきゃいけないよ?
    いやいや駄々をこねるのは、赤ん坊でもできるんだ。でも、それはなにも生み出さない――

 ――しなきゃいけないことはしろ。命にかかわるならなおさらだ。
                    死ねば、そこでお終いなんだ――

 会議の合間の雑談で、おそらくあいつはなんの気なしに口にしたのだろうけれど。その言葉の一つ一つは、緩やかに彼の心に刺さった。誰もが目を背けたがることを、あいつはいつも当然のように言い放つ。普段はふざけた道化のくせに、正論しか言わないのだ。
 サイトは左手に握ったデルフの柄を見下ろす。握り締めた手は、どうしようもないほどに力が込められている。加減ができない。
「………………」
 タバサがサイトの服の裾を引いた。
「あなたに“覚悟”があるなら、一つ作戦がある」

     ○

 ワルドは空を翔る。
 顔を焼かれ、傷を負って、それでもなお彼は翔る。
 己が敵を砕くために、生意気な獲物を捻るために。

 彼は予想外の反抗を受け、頭に血が上りきっていた。
 朱色の宝玉が爛々と輝く焼け焦げたその相貌は、もはや人間とは呼びづらいほどに歪み、捩れきっていた。
 しかし、彼はそれに気づかない。
 彼の頭にはもはや、生意気な餓鬼(ゴミクズ)どもの惨殺死体しか映っていなかったからである。

 前方百メートルに敵影。捉えた。
 “風槌”を詠唱。発動。左手の小僧(使い魔君)に防がれる。
 さらに詠唱。発動。かき消される。おそらく青髪の風使い(あの小娘)だろう。
 距離五十メートル。なおも攻撃を続行。ことごとく防がれる。どうやらあの小娘、なかなかの使い手らしい。
 魔法攻撃を停止。防ぐこともできぬ距離まで接近し、“エア・ニードル”で心臓を丹念に貫いてやろう。

 四十メートル。
 やや距離が縮まった。

 三十メートル。
 さらに近づく。

 二十メートル。
 あと少しだ。

 十メートル。
 あぁ、早く■したい。絶望する顔を、アカく世界を彩りたい――

 突然前方から雲以上の濃霧が発生。
 同時にぱらぱらとつぶてのような“小石”が振ってくる。
 おそらく餓鬼どもが協力しているのだろう。
 あぁ、鬱陶しい。小賢しい。小憎らしい。
 だから■ね。

 つぶての雨は“風壁”を詠唱し遮断する。
 早く捻りつぶしたいので、“突風”を背後に発動させて速度を上げる。
 もう少し、あと少しだ。この霧を抜ければやつらがそこに――

 ――いない?

 ワルドは目を見開く。朱い宝珠がぎょろりと瞬いた。
 刹那、真下から大量の魔法を感じた。

 ひときわ高く嘶きをあげ、グリフォンはするりと空を滑る。
 すると、一瞬遅れて火炎の奔流(ファイアーブレス)、青銅の槍(マジック・アロー)、燃え盛る火球(ファイアーボール)と大量の氷の刃(ウィンディ・アイシクル)がいっせいにそこを通り抜けた。
 下からの奇襲である。

 ――考えたようだが、所詮は浅知恵か。

 ワルドは“風蛇”を詠唱し、全力を込めて振り下ろした。
 これは今までの牽制とはわけが違う。小娘の魔法では防げないだろう。“風蛇”は風を食らう魔法。同じ風系統では止められないのだ。
 事実、見下ろした先のやつらは身を寄せ合い、小娘の“衝撃弾”(エアロ・カノン)で相殺を狙うが失敗し――銀の盾で、防いだだと?
 役目を果たした銀色の盾は、澄み切った断末魔を響かせ砕け散る。
 そういえば小僧もいたか……む?

 ――小僧がいないッ!!

 ワルドは目を剥く。
 あの風竜の背に乗っているのは、取るに足らない餓鬼どもばかりだ!
 やつは、神の左手は。一番の脅威(ガンダールヴ)はどこにいる!?

 グリフォンが警鐘を鳴らす。

 ――上か!?
 ワルドは水挿し鳥のように上半身を反り返らせる。
 するとそこには、刃を下に向けた剣を握りしめ、今まさに彼へ突き立てんと落下してくるサイトの姿があった。
 とっさに“竜巻”を唱える。これが一番詠唱が短く、かつ発動が速かったからだ。
 しかし。

「なんだと!?」

 ワルドは目を疑った。
 大きく頭を振ったサイトは小さく身を丸め一回転し、その勢いのまま虚空を凪ぐ。
 すると、なんとワルドの纏った風がバターのように両断され、霞の如くかき消えたのだ。
 魔法を斬り裂く魔剣など、彼にしてみれば思いも寄らぬ伏兵である。
 サイトはさらに中空で一回転し、風を裂いた勢いそのままにワルドへ一直線に落ちて。

「うあああああぁぁぁぁぁッッッ!!!!」

 ぞぶり。と剣を突き立てた。
 しかし、ワルドは苦痛に顔を歪めつつも、満面の喜色でサイトを見下ろす。

 ――勝ったぞっ!

 剣が刺さったのは肩口。
 まだ致命傷ではない。
 手元が狂ったのか、はたまたこいつの甘さなのか。
 そんなことはどうでもよかった。
 だって。やっと■せるんだもの。

 だが。

「――おめぇさん“偽物”だな? わりぃが食わせてもらうぜ」

 そう魔剣が呟いた時、強烈な喪失感が全身を襲った。
 全身の輪郭が歪み、中身がじゅるじゅると抜け出ていく感覚。
 自身の精神力が、自我が、そして存在が消えていく虚脱感。
 
 ――や、やめろ、やめろぉ……

 虚脱感の原因を視認し、さらに失敗したことに気づく。
 余力が残っている内に、小僧をはね除けるべきだったのだ。
 こんなもの――肩口からまるでジュースをすするかのように己の存在が呑み込まれていく光景――を視てしまったばかりに、抵抗する余力すら失ってしまうとは。

 そしてワルド(偏在)の存在が消えたのは、それから数秒後のことで。
 げぷ、とデルフはゲップを吐いた。

     ○

 ワルドを倒し、シルフィードの上へ戻ってきたサイト。
 ワルドの使い魔(グリフォン)はデルフで羽を撫で、飛べない状態にして落とした。おそらく死にはしないと思われる。
「お疲れ様ダーリン! さすがダーリンね!」
「ははは、やはりきみの前では子爵も敵ではなかったか!」
 キュルケとギーシュは口々にサイトを褒め称え、労う。しかしサイトの反応は薄い。「あぁ」と相づちを打つだけで、彼らに背を向けあぐらをかき、膝にルイズを乗せ黙り込んでしまった。
「ダーリン? どうしたの――」
 声をかけようとしたキュルケが制止される。タバサである。
「そっとしておいてあげて」
 タバサはそう言うと、静かにサイトの横へ座った。後ろの二人はきょとんと顔を見合わせている。
 タバサは耳を澄ます。するとサイトはルイズを後ろから抱きしめながら、ぶつぶつとこんなことを繰り返していた。
「もうすぐだ、もうすぐ帰れるぞルイズ。もうちょっとで助かるからな」
 ルイズ、ルイズとまるで念仏のように繰り返すサイト。表情は髪の毛で見えないけれど、手元に目を落とせばカタカタと小刻みに震えている。その手にはデルフリンガーを握ったままだ。左手の筋肉が硬直したように痙攣していて、離そうと思っても取れないのだ。
 タバサはじっとそれを見つめ、痛ましそうに、わずかに目尻をしゅんと下げた。

     ○

 耳鳴りが木霊する。風を切る音が耳を撫でる。
 サイトたちは行き先をタバサとシルフィードに任せ、しばし無言のフライトへと洒落こんでいた。といっても、渦巻く空気はまさにお通夜。重苦しくてたまらない状態だったりする。
 誰一人言葉を発さず、疲労で、または心労で俯いていた。
「おう、相棒よ」
 お通夜に声が浮かび上がった。サイトの左手に握られたデルフリンガーである。
「俺ぁ言ったよな。『ためらうな』ってよ」
「………………」
 サイトは答えない。その反応無き反応に、デルフは苛立たしげに棘を纏う。
「なんだいありゃ? 額か喉に一突きすりゃ終わってたんだ。それをおめぇ、どこに刺した? あそこじゃすぐには殺れねぇよ」
「初めは仕方ない「黙ってな嬢ちゃん」」
 たしなめるタバサにも取り合わない。
「たしかにその心意気は立派だよ。拝みたくならぁ。だがよ、今は非常時だ。殺らなきゃ殺られる。相棒だけじゃない、相棒の仲間も全員だ」
 わずかにサイトの肩が動いた。
「あの髭に対抗できるのは相棒だけだよ。煽ててるんじゃない、客観的に考えてだ。その相棒が勝手に死んじまったら、残ったやつらはどうなるんだ? おめぇの命は、もうおめぇさんだけのものじゃない。相棒が死ねば、みんな死ぬんだよ」
 サイトの左手の震えが強くなった。
 デルフは続ける。
「だから、おめぇさんは生きなきゃならねぇ。たとえ汚泥を被ってでも、岩に噛り付いてでも。生きて、前に立ちふさがらなきゃいけねぇんだ」
 守るってのはそういうことだよ、とデルフは呟き、そして黙った。
 デルフリンガーは、彼なりに言葉を選んでいた。聖人を貫き通して死んで、死んだ後好き勝手やられてりゃ世話ない。生きて、外敵を蹴散らして、睨みを利かせるのが正しい。少なくとも、デルフリンガーはそう信じていた。
 それに。
(俺は、そんな相棒が嫌いじゃないんだがね)
 馬鹿みたいに素直で優しく、こうと決めたら一直線。敵にすら情けをかけるような、正義感の塊みたいな子ども。別にそれ自体は悪いことではなく、実際、どう生きようがそれはその代の使い手の自由だ。なので、本来「使われる物」であるインテリジェンスソードの自分が口を出すことではなく、今彼が行っているのは領分を越えた差し出がましい押し付けと言えなくもない。
 だが。
(せっかく出会えた使い手だ。それに、気持ちいいくらい真っ直ぐなガキんちょだ。――だから)
 死んで欲しくない。長生きして欲しい。いなくなったら――ちょっと寂しい。
 デルフは、気の遠くなるほどの生涯を歩んできた中で、初めてそんな風に思っていた。だからこそ耳の痛いことも言うし、良くない事は批判する。それが、今代の“使い手”を救うことを信じて。
 しかし、人間は急に変われない。それを、彼は悠久とも思える刻の流れの中で、あきが来るほどに見つめてきた。もしも、心の整理をつける前に、新手と遭遇してしまった場合。この心優しい“使い手”は泣きそうな顔で剣を振り上げ――そして、振り下ろせずに倒れるだろう。無念の涙を流しながら、悔恨の表情で凍りつきながら。やはり、振り下ろせないのだろう。
 だから。
(まあ、長く生きた。生き過ぎたよ)
 彼は、その霞がかったかのような記憶を振り返り。
(“道具”が“使い手”を守って……ってのも、洒落が効いてるかもしれんね)
 人知れず、静かに覚悟を決めた。

     ○

「これが、ぼくらの救いの女神かい?」
 呆けたように目を丸くしながら、ギーシュは眼前の船を見上げた。ここはアルビオンの“裏側”。岸壁をくり貫いて造られた隠し軍港である。風竜の牙のようなむき出しの岩が天井にはびっしりと垂れ下がり、床は整地こそされているものの歩きにくい。
 かつては王国秘蔵の航空戦力が備えられていたのだろうこの港も、今では目の前の一隻が残るのみ。他の停泊所はがらがらになっていて、見る影もなく寒々しい。
「しょっぼい船ねぇ。ほんとに動くのこれ?」
 キュルケが疑り深く眼を細め、口を尖らせた。その船は小奇麗にメンテナンスはされているようだが、どう見ても普通の軍船より劣っていた。砲門は左右に一丁ずつ、その他と戦闘用装備は無い。まさに、貴族のプライベートシップとしか思えない質素さだった。
 その横をタバサが通り過ぎ、静かに船腹をじっと見上げた。
「〈アナスタシア〉」
「え?」
 タバサに眼を落とすキュルケ。
「船の名前」
 タバサはびっと船腹を指した。そこにはややかすれ気味の文字で、同じ内容が書かれていた。
「……親父さんがお袋さんのためにこしらえた船だってさ。お袋さんが生きてた頃は、よく水入らずの雲旅行をしてたんだとよ」
 そうサイトが補足する。彼はこの船の逸話を、昨日の晩に聞いていた。
 それを受け、バツが悪そうに眼を逸らし頬を掻くキュルケ。
「ま、まあここにいても仕方あるまい。早く出航しようじゃないか!」
 重苦しい雰囲気に耐えかね、ギーシュがことさら明るく提案した。このまま俯いていては、場の空気に押しつぶされそうだった。
「さあ、舷梯(げんてい)はぼくらだけでは動かせないから、このぼくが直々に作り上げて見せよう! ぼくの華麗なる“錬金”を――」
「よっと」
 ギーシュは大仰に両手を広げ、右手の造花を振るおうとしたが。軽やかに真横を走り抜け、ひととびで家ほどもありそうな高さを跳び上がったサイトに凍りついた。
 サイトは手すりを掴んで鉄棒選手のように軌道を変え、身体を丸めてくるくる着地すると、そのまま甲板に消えた。そしていくらかも待たず、するすると縄梯子が下りてくる。
「キュルケ、ルイズを後ろから支えて梯子を掴んでくれ! 俺がこっちから引き上げる!」
「オッケー!」
 良い返事と共にすみやかに行動を起こすキュルケ。そしてルイズを抱えて梯子を掴むと、梯子はするするとエスカレーター化する。おそらくメリケンを装備したサイトが、その膂力を利用して引っ張っているのだろう。
 その場に取り残されるギーシュ。振り上げた右手がやり場もなく硬直する。
 ぽむ、と肩を叩かれた。振り返るギーシュ。そこには自身を見上げるタバサ。
「どんまい」
 ぴしり、と凍えて石化するギーシュ。
 タバサは澄んだ口笛を吹くと、シルフィードがすぐさまそばへ降り立つ。そして使い魔たちをその背に乗せると、ふわりと空へ飛び立った。
 ぽつんと取り残されるギーシュ。
「――ぼくの見せ場はどうなるんだぁぁぁぁぁ!!!?」
 軍港の中心で哀を叫ぶギーシュ。
 やはり、どこまで行ってもギーシュはギーシュだった。

 甲板に降り立った一同。
 操舵室の無いむき出しの舵輪、帆の降ろされたむき出しのマストは長いこと放って置かれたのか薄黒く日焼けしており、船室など床下の風石炉ぐらいしかない小さな船。
 まさに空遊船としての機能しかないそれは、王妃が物々しい武装や過度な装飾を嫌ったかららしい。
「ふむ。して、誰がこの船を操舵するんだ? 自慢じゃないが、ぼくは船酔いでそれどころじゃないぞ」
「本当に自慢にならないわね」
 皮肉るように肩をすくめるキュルケ。既に気分が悪そうなギーシュは、青い顔で胸を押さえふらふらしている。貧弱もやしボーイである。
 その時、彼らが会話している横をサイトがすっと進み出た。
「ダーリン?」
 それに気づいたキュルケが振り返る。サイトはじっと舵輪を見つめ、おもむろに左手でそれに触れる。すると左手のルーンがゆるやかに輝き、サイトの顔色が変わった。
「俺が動かす。なんとかいけそうだ」
「おや、きみは航空術でも学んでいたのかね? 多芸だな」
「そうじゃねえよ」
 サイトは首だけ振り返る。
「たとえ装備は貧弱でも、武器がある限りこれは軍艦。すなわち“武器”だ。武器の扱いなら俺に任せろ。俺には、そういう“力”があるんだ」
 そして、〈アナスタシア〉は出航する。
 疲弊した彼らをその背に乗せて。

     ○

 最初に違和感に気づいたのはタバサだった。
 異様にシルフィードが落ち着かない。彼女は哨戒を兼ねて自分だけ船のデッキには乗らず、シルフィードの背にまたがり空を併走していた。
「どうしたの?」
 首を傾げるタバサ。シルフィードの返答はこうだ。
「なにか、なにか変なのがいるの! 近くにいるの! どこかにいるの!」
 きゅいきゅい、きゅいきゅい! と警鐘を鳴らすように騒ぐシルフィード。粟立つような禍々しい気配を敏感に感じ取ったようだ。
 しかし、シルフィードですら特定できぬ対象を、人間のタバサに感知できるわけが無い。タバサは油断なく風を読みながら、船の周りをぐるりと旋回した。
(上からはなにも見えない)
 帆が張られ風を受けられるようになったマスト、中心付近で舵を取るサイト、ルイズの背を抱きテーブルセットに腰掛けるキュルケに船のふちでげろげろと苦しんでいるギーシュ。怪しい者は見えない。
 周囲はまとわりつくような雲の領域。手を伸ばした先すら見通せない濃密な霧の世界なので、隠れていても分からない。けれど、それは相手も同じことのはず。見失うリスクを考えても、雲にまぎれているとは考えづらい。
 ならば、とタバサは船底へ回り込む。だが、まさか船の腹に取り付いているなんてこともなく。
 その時、タバサは神経を刺すような鋭い予感に襲われた。
(これは、魔法の予兆――)
 それを感じた瞬間には。
 既に、船底は轟音と共に大穴が穿たれた後だった。
「きゃあっ!!?」
「な、ななななんだね!?」
 ぐらりと大きくぐらつく船体。キュルケは椅子から転げ落ちそうになりながらもなんとか耐え、ギーシュは丁度げろげろ~とやりそうだったので勢い余って落ちかける。サイトは歯を食いしばりながら両腕に力を込め、船が転覆しないように堪えている。
 乗り出した拍子にギーシュは大穴を発見する。
「ぬぉっ!? サイト、サイトサイト!! 穴だ、穴が空いているぞ!!」
「あぁん!? 穴だぁ?!」
 手が離せないサイトは怒鳴り返す。そこへタバサがシルフィードから降りずに急接近してきた。
「敵襲。内部からの攻撃。風石炉になにかいる」
「内部だと――?」
 驚きに眼を見開くサイト。いったいなにが現われたのか。
 サイトは記憶を辿る。自分たちは“三人”のワルドに追われ、一人はフレイムの核熱の吐息(コロナブレス)で焼失し、もう一人はデルフが引導を渡した。
 そこまで考えてふと気づく。“三人”のうち“二人”は倒した。
 だが。
 ――残りの“一人”は、どこにいった?
「私が穴から索敵してくる」
「ダメだッ!!」
 強い制止。すぐさま取って返そうとしていたタバサは、それを受けシルフィードを止める。
「俺が見てくる。みんなはここにいてくれ」
「ダーリン? それならあたしたちも」
「ダメだ、ついてくるな。俺一人の方がいい」
 取り付く島の無いサイト。その答えに、キュルケやギーシュはなにか言いたげにするが、結局声を収める。
「ギーシュ、運転代われ」
「え? いや、ぼくは船の操舵なんてできないよ?」
「舵を持ってるだけでいい。いいか、どっち方向にも動かすなよ。バランス崩したら、ひっくり返ってまっさかさまだからな」
 海なら転覆しても水に浮かぶが、ここは絶空の孤島すら無い空中。逆さまになったら落ちて死ぬ。
 ギーシュは木の葉のように舞い落ちる自分を想像し、顔を青くした。
「キュルケ、ルイズを頼むぞ」
「分かったわ」
「タバサ、みんなを頼む」
「……ん」
 サイトはそう言い残すと、マストを挟んで反対側にある船倉への扉へ駆けていき、ためらいなく引き開けた。
 床と一体化している開き扉から飛び降り、船の内部へ足を着けるサイト。
 そこは縦に細長い通路のような部屋で、目の前にはまたも扉があった。どうやらこれが風石炉へと通じるドアらしい。船倉はほぼ全て風石炉として扱われているようだ。
 サイトは扉を前に息巻く。
「俺が、みんなを守らないと」
 みんなは“やつ”に勝てないから。自分がやるしかないんだから。だから、俺が戦わないと。戦って勝たないと。サイトは自己に暗示をかけるよう、呪文のように繰り返す。
 この扉の先にいるのは、十中八九“やつ”だろう。サイトは身体が震えるのを感じ、左手でデルフを、右手でズボンの右ポケットに入れたメリケンサックをきつく握り締めた。
 デルフを放して取っ手を回し、ぎぃ、とドアを押し開く。
 そこには。

「――やあ、待っていたよ」

 気さくに手を上げて微笑を浮かべる、髭の糞野郎がいた。
 ワルドは風石炉にもたれかかり、目元が隠れるほど帽子をまかぶに被り、両手を組んで待っていた。彼の前には申し訳程度の風石が転がっており、それ以外にはなにも無い部屋だった。奥のほうでは大穴が開き、そこから強い風と冷たい霧が流れ込んできている。
 サイトは犬歯を剥いて威嚇した。
「どの面さげて『やあ。』だよ……えぇ、おい?」
「ふむ。随分と嫌われてしまったな。僕も君が大嫌いだけれどね」
「けっ。てめぇが好きな人間なんているのかよ?」
「はは。これは一本取られた。なかなかにジョークを心得ている」
 ぎすぎすぎすぎすと空気がいがむ。お互い今にも斬りかかり、魔法をぶっ放しそうな様子だ。よほどお互いが気に喰わないのだろう。
「いや、まさかここまで粘るとは想像もしていなかった。なかなかどうしてやるじゃないか」
「そりゃどうも。こっちもまさかここまで追っかけてくるとは思ってなかったよ」
「それはいけない。軍人は任務に忠実だ。ましてや隊長格ともなれば、どこまででも任務を続行するものだ。それが達成可能であると判断したのならば、ね」
 どうやらワルドはどうしてもサイトをからかいたいらしい。ひたすらに神経を逆なでするような言葉を振りかけてくる。
 だが、サイトはもうそんな挑発には乗らなかった。
「お前が最後だな。お前を倒せば、今度こそ俺たちは安全だ」
「ふふ。また大きく出たものだ。君に僕が倒せると?」
「一回倒した」
「あれは仕合だ。コロシアイではない。混同しないで欲しいものだ」
 心外だと顔をしかめるワルド。
「じゃあ決着をつけてやるよ」
 サイトはすらりとデルフを抜き、メリケンを握った右手を抜いた。
 ワルドは意気込むサイトへ待ったをかける。
「待ちたまえ。ここは場所が悪いし、ギャラリーもいなくてつまらない。外へ出ようじゃないか」
「ふざけんな! んなこと言ってみんなを人質に取る気だろう! そんな手には乗らねえぞ!」
「――君は勘違いをしている」
 ワルドはおもむろに杖を抜くと、瞬時に魔法を詠唱した。サイトはそれを認識し、瞬時にデルフを肩口に添えて備える。しかし、魔法はサイトに飛んでこず、風石炉の炉心へと放たれた。
 亀裂を刻む筒状の炉。そこから様々な方向に伸びているパイプも、嫌な音をたてて軋んだ。
「なっ! やめろバカ!」
「風石炉は空船の心臓だ。これが壊れると瞬く間に船は浮力を失い、羽をもがれた翼人のように大地へと墜落していく。君たちにはあの蒼髪の小娘の風竜(使い魔)がいるだろうが、ここはアルビオンの暴風域だ。あの若く小さな幼竜では、全員を生還させることは出来ない」
 ワルドはにたりと笑みを浮かべる。
「さあ。何人死ぬかな?」
「てめえ……!」
「君に選択肢は無いのだ。主導権を握っているのは僕。君は、僕に従うしかない」
 ワルドは繰り返す。
「表へ出たまえ。決闘の続きをしよう。決着をつけようじゃないか」
 君にとっても都合が良かろう? とワルドは知ったように顎で示す。
 サイトは、悔しげに歯噛みしつつも、背を向け、部屋を出ることしかできなかった。

     ○

 颯爽と甲板へ躍り出るサイト。
「サイト? どうだった。何が潜んでいたんだい?」
 ギーシュが駆け寄ってくるが無言。サイトはただ、船首の方角をじっと睨みつけるだけである。
 キュルケが不思議そうにその視線を辿ると。
「――っ!? し、子爵?! ダーリン、子爵だわ!!」
 船のふちより下からふわりとワルドが緩やかに姿を現し、船首の先へと降り立った。この旅における“諸悪の根源”の出現に、にわかに色めき立つキュルケたち。
 サイトはワルドをじっと睨み射抜き、剣と拳を抜き構えた。
「約束しろ。俺を倒すまで、船にもみんなにも手は出さないって」
「くく、この状況で取引を持ちかけるつもりか。それに僕が応じるとでも?」
「………………」
 不動の構えで視線の槍を飛ばすサイト。ワルドはやれやれと両手を天にかざし肩をすくめ、冷笑を浮かべた。
「そんなにいかめしい顔をするな。いいとも、約束してやろう。僕は騎士だからね」
 騎士は礼儀を重んじるのさ、と得意げに胸を張るワルド。その仕草さえサイトには挑発としか見えない。
 サイトは全員船尾の方へ下がるよう手を振って指示し、前傾で意識を張り詰めた。
「まずは小手調べ。キミの土俵に歩み寄ろう」
 ワルドがおもむろに甲板へ降り立つ。その前にサイトは駆け出している。
 しかしその軌道は真正面からの上段打ち込みで、ワルドはみえみえのそれを鼻で笑うが――

 瞬間、サイトの姿が掻き消えた。

「!?」 
 驚きに目を見開くワルド。そして無意識に首の後ろを切るような風を感じ、とっさに杖を間に合わせる。“エア・ニードル”で強化した杖身が、鉄を打ち合わせたような悲鳴を上げた。
「うらあぁぁッ!!」
「ほう、!? 学、んだな! 正面と、見せかけて背後、とは! なかなかに、賢いじゃ、ないかっ!!」
 斬る、斬る凪ぐ斬りおとす。烈風のように剣閃を重ねるサイト。しかしワルドは息を弾ませつつ、剣の嵐をその杖で見事に斬り払い捌ききる。
 しかし、いくら本職の騎士とはいえ、やはりサイトには信じられない。その事実がにわかには受け入れられなかった。
「なんだ!? なんなんだてめぇ!? どうして俺の剣が受けられる!?」
「それは、君が、単調だからだ! 目をつむってでも、御しきれる!」
 剣閃の合間を縫った刺突と、それと同時に放たれる“ウィンド・スピア”。サイトは後ろへ飛び退いて刺突を避けたが、続く魔法は避けられず跳ね飛ばされる。
 風竜鱗の鎧のおかげでほぼ無傷ではあるが、なければ深手を負っていただろう。
「ちきしょう……! 横にかわせないタイミングで刺してきやがる! 化け物かあいつ!?」
「力だけなら君のほうが相当だよ。しかしもったいない。まったく基本がなっていないね」
 ワルドは大げさに肩をすくめる。
「君はまるで大きな子どもさ。剣を操っているようで、その実剣に振り回されている。トリステインの広場で遊びに興じる小童どもと一緒なのさ」
「遊びだと……!」
「棒切れ遊び(ちゃんばらごっこ)など誰でもできるさ。君は卒業しそこねたようだがね」
 サイトは目の前がかっと赤くなる。そのまま飛び込もうとしたが、その意識すら凍えるような嫌な予感にたたらを踏んだ。
「“剣技”とはこういうものさ」
 その呟きと同時に、サイトは猛烈な衝撃を腹に喰らう。喉を磨り潰すような悲鳴を上げた。
 なおも衝撃波が隙間なく襲い掛かり、サイトは身を固めて痛みに耐える。腰を落とし、両手で顔を覆って、風の暴力に必死で抗う。
 覆った手の隙間から見えた。ワルドが残像すら残るような突きをフェンシングのように繰り出し、その数だけ風の塊が打ち出されているのだ。
「動作の理を学び、反復修練によりその理を身体に定着させ。そして実践で磨くことにより、初めて理(り)は技(ぎ)へと昇華される。分かるかね? “力”とは天から賜るものではない。たゆまぬ努力により身に根付かせるものなのだ」
 ワルドは手を止めた。
「理を解せず、技を軽んじ。ただただガンダールヴ(ルーンの力)に任せて振り回すだけ。そんな児戯にはこのワルド、決して遅れなどとりはせん」
 そこに立つ髭の子爵様は、間違いなく魔法衛士隊の隊長。その貫禄を放っていた。
 サイトは悔しげに歯噛みする。
「ちくしょう……おいデルフ! あーいうのも全部食えねえのか!?」
「無茶言うない。ただでさえ今日はもう大分食ったんだ。そろそろ腹がはちきれそうだよ」
「腹ぁ? どの辺だよそりゃ!?」
「しらねーよ」
 サイトはついさっき二体目のワルドを倒したさい、デルフの秘密の一つを打ち明けられていた。いわく、彼は“魔法を喰らう剣”で、どんな魔法でもある程度なら吸い取り、無効化することができるらしい。その効果があってこその、あの上下分離作戦だったのだ。ガンダールヴの跳躍力により虚空へ大きく跳び上がり、上空からワルドを刺す。最後の詰めに失敗があったが、その点もデルフの機転で事なきを得た。
 なのでサイトはそれを当てにしていたのだが、これ以上吸うのは厳しいらしい。
「勘違いすんな。俺はそこまで万能じゃねぇってのを分かれ。後、ただ食わず嫌いしてるだけじゃねーぞ」
「じゃあなんなんだよ?」
(――耳を貸しな)
 会話を思考内にシフトするデルフ。サイトは唐突なことに戸惑う。
「な」
(声出すな。聞かれちまう)
(……なんだよ。なにか作戦があるのか?)
(ある。とっておきのやつがな)
 デルフはカチカチと鍔を鳴らした。
(相棒。おめぇが使える全ての力を使って、なんとしても俺をあいつにブッ刺せ。そうすりゃ後はなんとかしてやる)
(さ、刺すだけでいいのか?)
(あぁ。身体の一部分に刺さりさえすれば、あいつが“偽者”なら俺が喰らい尽くしてやる。そうすりゃおめぇさんの勝ちだよ)
 デルフの作戦は単純明快。サイトは喰らうという単語に身をこわばらせた。
(心配すんな。あくまで相棒は刺しただけだ。その後のことは俺が勝手にやっただけ。おめぇさんのせいにはならねぇさ)
 しかし、デルフのこの一言でサイトは生唾を呑み込むが、静かに表情を引き締める。
 デルフはそんなサイトを見て、静かに、舌打ちのように鍔を鳴らした。
(だが、おそらくあいつを喰いきったら。たぶん俺は――)
(デルフ?)
 小さくデルフの呟きが聞こえ、サイトは聞き取ろうと耳を傾ける。しかし、それはワルドの声によって中断させられた。
「相談は終わったかね? 目の前で密談するのはいいが、手持ち無沙汰なこっちの身にもなって欲しいね」
「ならさっさと仕掛けてくりゃいいじゃねえか!」
「ふん、僕はそこまでせっかちではないさ。それに君たちが多少知恵を絞ったところで、僕の優位は揺るがない。すべての希望を完膚なきまでに打ち砕いてこそ――得物の良い顔が見られるんじゃないか」
 にたにたとイイ顔で哂うワルド。この三日間見たことが無い、澱みきった嫌な笑顔である。
 ワルドはおもむろに切っ先を向けた。
「さあ見せてくれたまえ。君たちの浅はかな作戦とやらを」
 “エア・カッター”が襲い掛かる。身体を袈裟に両断する風の刃。サイトはそれを大きく右に飛びやり過ごす。だが、もちろんワルドは飛んだ先にも“エア・カッター”をあわせてきていた。
 しかしサイトは慌てない。
「……ほう?」
 ワルドは感心の声を上げた。
 間断なく放たれる風の刃。サイトはそれを左へ、右へジグザグと前進することで回避しつつ距離を詰める。サイトはあっというまに肉薄し、あと一踏み込みでワルドへ斬りかかれる位置まで辿り着いた。
「もう横には逃げられんだろう!」
 ワルドは“エア・シールド”を纏い、さらに詠唱をストックして発動を止める。サイトが飛び掛ろうとした瞬間、呪文をあわせて迎撃しようとしているのだ。
 だが、サイトはその意図を察しているはずなのに、ためらいなく前へ踏み込んだ。
「血迷ったか馬鹿め!!」
 ワルドは待機させていた“ウィンド・カッター”を発動させる。魔法は吸い込まれるようにサイトへ。
 しかし。
「うおぉぉぉぉぉっ!!」
「なんだと!?」
 なんとサイトは大きく胸を反らし、竜鱗の鎧で受け止めた。魔法は風竜の鱗の力により大幅に威力を削られてしまい、強い衝撃を与えるだけで消え去る。
 サイトは胸を全力で殴られたようなダメージに顔をゆがめたが、それでも怯まず襲い掛かる。
 しかし、彼の捨て身の突進は、彼我の間に展開された風のヴェールで阻まれかける。実際、サイトはワルドの纏う風に押し返され、駆ける勢いが一瞬鈍った。
「ふはははは! “チェックメイト”だ、ガンダールヴ!!」
 勝利を確信したワルドの嘲笑。ワルドの杖がサイトを捉える。
 しかし。
「――ウゼえんだよッッッ!!!!」
 一閃。ただそれだけで。風のウェールが掻き消えた。デルフが“触れた部分だけを”喰い取り、乱れた継ぎ目を剣圧で吹き飛ばしたのだ。
 驚愕に目を見開くワルド。
「これで終わりだ!!」
 サイトは振り抜いた姿勢から一歩前へ踏み込み、デルフを握った左手を腰だめに引き構え、腰を軸に超速で回転させ思い切り突きを放った。
 サイトは全てをルーンに任せ一連の動作を行った。そして、自分が無意識に心臓か首を狙い、上向きに突きを放っていることに気づいてしまった。
 ゆえに、切っ先が鈍った。
「………………」
 ぽたぽたと滴り落ちる赤い雫。苦悶の表情を浮かべるワルド。
 サイトが放った一撃は。左手をかざしたワルドの手によって、胴体へ届くことなく阻まれてしまっていた。刀身がまるで埋まるようにワルドの左手の中心を貫いている。
 サイトは手に伝わる生々しい感触に、呆然と目を丸くし、続いて逆流しそうになる胃液を必死にこらえた。
「う、あ……」
「やはり、先の“あれ”もためらいによるものであったか。いかんなぁ。情けは己が身を苦しめるぞ?」
 ワルドは捕まえた、と言わんばかりに嬉しそうな微笑を浮かべる。そして逆の手に握った杖が、サイトの命へと銃口を向けた。
 サイトは冷や汗をかきながら右手のメリケンを杖の横っ腹に叩きつけ、ぎりぎりと切っ先を明後日の方角へ押し返す。サイトは冷や汗を流しながら、デルフのために必死で耐える。
 だが。
「ちくしょう! ダメだ相棒、いったん退けっ!!」
「え? っうぇぇ!?」
 デルフの叫びに集中が途切れ、危うく杖に穿たれかけるサイト。メリケンを下ろしてデルフを引き抜き、防御姿勢をとりながら後退し、放たれた“ウィンド・カッター”をモロに食らって、船の反対側までぶっ飛ばされた。
「ぐは……っ!? ど、どういうことだよデルフ! 体の一部にさえ刺せばいけるんじゃなかったのか?!」
「アテが外れたんだよ! 野郎、全く吸い込めねぇ! 身体が精神力でできてねぇ!!」
「なにぃ!?」
 デルフはカタタタと鍔でわめいた。
「間違いねぇ、あいつは“本物”だ! 紛い物とはできがちげぇ!!」
 ワルドはくつくつと可笑しそうに嗤う。
「誰が僕を“偏在”だと言った? またも君たちは勝手に勘違いをしたな。もう少しでその過失(ミス)は、君を死に至らしめるところだった」
 迂闊だなガンダールヴ、とワルドはことさら扱き下ろすように口の端を吊り上げる。
 この作戦は、目の前のワルドが“偏在”であることが前提である。しかし、その前提が崩れた今、サイトに手は残されていなかった。
「おや、おやおや? どうしたというのかね? まさか、虎の子の最後の一手が、まさかこんなにもみすぼらしい、ハリボテのようなお粗末な一手だったのか? おいおい嘘だと言ってくれ! 君はそれほどに愚かだったのか!?」
 そう謳いワルドはけたけたと嗤う。ことさら不安を煽るように。サイトは忸怩(じくじ)たる思いに唇を噛み。
 その不安は、決闘を観戦する者たちにも伝染した。
「まさか……サイトでも勝てないというのか?」
「ダーリン……」
 ギーシュが呆然とそう呟き、キュルケはルイズの背後からかけた手をぎゅっと握りしめる。
 今、彼らにとって頼りなる唯一の希望はサイトだけだ。そのサイトがあのような表情をしてしまっては、見ている彼らは心乱さずにおられない。
 しかし、それを求めるには、サイトはまだまだ未熟すぎた。
「――ぬっ!?」
 ワルドがとっさに真横へ魔法を放つ。すると虚空で衝撃波のぶつかり合いが発生し、爆音と強風が吹き荒れた。
 サイトが目を疑う。
「タバサ!?」
 なんと船外にてシルフィードにまたがるタバサが、ワルドへ向け“エアロ・カノン”を撃ちだしたのだ。タバサはそれだけにとどまらず、さらなる魔法のラッシュを仕掛ける。
 おそらくサイトが見ていられなくなったのだろう。協定ゆえ手出しせず静観していたが、どう贔屓目に見てもサイトがワルドを倒す未来が想像できない。ゆえに彼女は自己判断で、決闘への介入を選んだのだ。
「あなただけでは荷が重い! 援護する!」
「く、くはははは! どうやら見限られたようだな! 情けないぞガンダールヴ!!」
 ワルドはタバサを迎撃しながら、またも愉快気に喉を鳴らした。
 そこへ背後からの強襲。
「ぬぉうっ?!」
 いつの間にか青銅の巨人が現れ、ワルドの胴体を真後ろから羽交い締めにした。巨人は決して離さぬように、ぎりぎりと敵を締め上げる。
「サイト! さあサイト! 早く子爵を斬り捨てるんだ!」
「ギーシュ!? でも、そこじゃお前まで斬っちまうかもしれねえ!!」
「ならばぼくもろとも叩き斬れ!!」
 ギーシュの魂からの叫び。しかし、それは虚しくも掻き消されることになる。
「――“烈風よ”」
 ワルドの詠唱。すると猛烈な竜巻が彼を中心に巻き起こり、巨人の腕をこじ開ける。さらに風圧で巨人は跳ね飛ばされ、そこに追い討ちの“ウィンド・ハンマー”。
 それをまともに喰らった巨人は、肉体を半壊させながら吹き飛び、中にいるギーシュごと甲板に叩きつけられた。
「ギーシュッ!!」
 サイトは一種の悲壮さを纏い、倒れ伏した友の名を呼ぶ。しかしぴくりとも動かない。サイトはいてもたってもいられなくなり、ワルドのことすら忘れてギーシュに駆け寄った。
「ふむ。敵を前に仲間の救出へ走るとは。……まあ、あの若さではしかたない、か」
 屍を踏み越え喉笛に噛み付くほどの気概が望ましいのだが、未熟な子どもではなかなか難しいことだ。ワルドはそう生暖かい判断を下し、おもむろに空を飛び回るタバサへ杖を向けた。
「目障りな子蝿め。“暴食の蛇よ”」
 “風”はワルドの命令に応え、空を這い回る蛇(へび)となり牙を剥く。蛇はタバサの魔法を喰らい、風竜もろとも食い殺さんと迫る。
 しかしタバサはこれを予想していたのか、“ウィンデ・アイシクル”で迎撃を試みる。純然たる風の魔法ではないこれなら、風の蛇といえど消化不良を起こすはずだ。
 だが。
「――!?」
 タバサは喉を引きつらせ絶句した。なんと蛇は氷の矢を呑み込み、体内でぐるぐると風を当て続け、進行方向を真逆に変更させたのである。
 風の蛇は氷塊を呑み込み、風と氷の大蛇と化す。シルフィードはなんとかそれを避けようと宙を舞うが、大蛇はどこまでも追尾を止めない。やがてシルフィードは追いつかれ、タバサ共々撃ち落されてしまった。
「タバサ――――――ッッッ!!!!」
「油断したな? あれは全てを喰らう暴食の蛇。火で焼くか土で阻むかでなければ、その侵攻は止められん。それも、私に匹敵するほどの力を持つ者の魔法でしか……な」
「うぅ……」
「ギーシュ! ギーシュ、しっかりしろ!!」
 サイトはギーシュを抱き起こし意識を確かめる。身を包んだ青銅ごと吹っ飛ばされてしまったギーシュは、上半身は半壊、下半身は脱げない、そして頭と鼻から血を流すという酷い状態だった。
「さ……サイト……」
「しゃべんな! 頭打ってるかも知れねえ! 大人しくしてろ!」
「きみは……」
「だからしゃべんなって!」
「まだ……戦えそうかい……?」
 まだ、戦えるか? ギーシュの問いに耳を疑うサイト。あまりの衝撃に眼を見開き硬直する。
「悔しいが……ぼくらでは役に立たない……わずかな隙を作るくらいしか……できない……」
「だからって――だからって捨て身で突撃するやつがあるかよっ!! 俺なんかのために!!」
 ギーシュはうっすらと笑みを浮かべる。
「きみのために……? なにを言ってるのかね……」
「へ……?」
「ぼくが命を賭けるのは……国のため……姫殿下のためだ……皆も大事だが……それだけではない……忠義を尽くすためなのさ……」
「な――っ! なに言ってんだ!? おまえ、お前は国のために死ぬってのか!?」
「もちろんだ……ぼくら貴族は……国無くては貴族たれない……国あって……民あっての貴族なのさ……」
 ギーシュがわずかにうめき、くらくらと頭を揺する。サイトは鎧を脱ぎパーカーを脱いで、しわくちゃに丸めてギーシュの頭の下に敷き、寝かしつけた。
 その場を読まない行動に面食らうワルド。しかし手は出さない。
「その……国の象徴たる姫殿下から賜った任務だ……命を尽くすのは当然だろう……?」
「分かんねえ……分かんねえよ!! お前の言ってることが分かんねえ!!! お前死にたくねえのか!? たとえ国が続いたとしても、お前が死んだらお前自身は丸損じゃねえか!!!!」
「悔いはない……本望さ……ぼくが死んでも……誇りは残る……」
 目の焦点が合わず、穏やかな表情で虚空を見つめているギーシュ。サイトは彼の手をぎゅっと握りしめた。
「馬鹿野郎……! 死ぬな、死ぬな! 死んだら……俺が悲しいじゃねえか……!」
 顔をくしゃくしゃにして、溢れそうな涙を堪えているサイト。顔は見ずとも声で察せられるのか、ギーシュは嬉しげに微笑んだ。
「優しいなきみは……だからこそ……ぼくは安心なんだ……」
「……?」
「ぼくの任務は……きみたちの護衛……きみと……ルイズが……生きて帰ってくれさえすれば……その任務は……達成される……」
「おい……おい……!」
「きみたちの生還が……ぼくの名誉を守ってくれる……それに……」
 ギーシュが、ゆっくりとサイトに瞳孔を重ねた。
「きみが……きみが生きてさえいれば。仇はとってくれるんだろう?」
 そう穏やかに微笑むと、大きく深呼吸を一つ。そして緩やかに瞳を閉じ、ギーシュは動かなくなった。
「おい、おいギーシュ! ギーシュ!!」
「胸を見たまえ。肺が動いている。ただ気を失っただけだよ。しかし、君たちは総じて三文芝居が好きだね。見世物としては面白いが、正直言って食傷気味だよ」
 大げさに肩をすくめ、両手を上げて失笑するワルド。サイトは敵意を越え、殺気を孕んだ赤く充血した目でワルドを睨みつける。
 その強い意志を帯びた視線を受け、ワルドは不意に真顔になる。
「――僕は君が嫌いだ。何故なら、君は大仰な理想を語るくせに、まったく中身が伴わないからさ」
 ワルドは語る。
「“弱者”とは罪だ。いくら貴き理想を掲げようと、それを為す力がなければただの妄言に過ぎない。なのに貴様は生ぬるい言葉を嘯く。この点に関しては、まだあのケダモノの方が幾分かマシだ。やつは、己の理想に殉じる心と、矜恃を押し通す力を兼ね備えているからな」
 ワルドはサイトに杖を向ける。
「――力の伴わない理想。ゆえに、僕は君を嫌悪する」
 顔つきは大分マシになったが、それでもワルドは、サイトが己の敵に足る相手とは思えなかった。所詮呪印の力を振りかざすだけの野良犬。そんな若僧に、この生涯をひたむきに研鑽し、魔法衛士隊隊長にまで積み上げてきた自分が。負けるはずなどあるわけがない。
「せめてもの慈悲だ。鎧を着けたまえ。剣士がそのような姿で朽ちては、格好がつかないだろう?」
 サイトは自分の身体を見下ろす。さっき装備を脱いだので、身につけているのはシャツと鎖帷子のインナーだけだった。
 サイトは無表情ながらも凄まじい気迫を放ちながら、無言で鎧に袖を通した。
(相棒……)
 デルフが思念波で呼びかけてくる。デルフはサイトの心中に吹き荒ぶ、感情の嵐を痛いほどに感じていた。
 この感情は……かなり“黒い”。ルーンは眩しいほどに輝いている。しかし、この方向は。
(今更なんだって思うかもしれねぇがよ。俺は、甘ちゃんのおめぇさんも好きだったんだよ)
(……?)
(生きて帰れたら剣を置け。相棒にゃ、この世界は向いてねぇ)
(お前も、そんなこと言うのか? 俺が、弱すぎるから。そんなことを)
(そうじゃねぇ。おめぇはよく頑張ってる。俺が保証するよ。だがな。それでも、向き不向きがあるのさ)
 デルフは鍔を悲しげに鳴らす。
(おめぇは優しすぎる。そんなおめぇさんが変わり果てていくのを見るのが、俺は忍びねぇんだよ)
(でも……俺が殺らなきゃ、みんなが殺られちまう!)
(それでもだ。相棒、おめぇはそのままでいろ。おめぇさんは、変わっちゃいけねぇんだ)
 人外の叫び声のようなものが聞こえた。サイトは顔を上げる。
 見ると、フレイムとヴェルダンデが果敢にワルドへ挑みかかるところだった。
「きゅーっ!!」
「しゃぁぁー!!」
 なんとも可愛らしい威嚇だが、この二匹は大真面目だ。
 ヴェルダンデはその発達した前足に誇る怪力を使い、隅に詰まれていた樽やら木箱やらを弾丸のように投げつける。ビッグモール系の基本技能、“クエイクスロウ”の応用である。通常は地面や岩盤を剥がして投げるのだが、固形物であればなんでも投げられる。
 フレイムは彼の十八番、“ファイアーブレス”でワルドを炙る。息が続く限り炎を吹き続け、懸命にワルドを焼き尽くそうとする。
 しかし、ワルドは“竜巻”を纏うだけで、そのどちらもを無効化してしまった。風の防壁が強すぎて、どちらもそれも突き破れないのだ。
「涙ぐましいな」
 ワルドはふっと口角を上げると、杖を指先程度に振る。
 するとフレイムとヴェルダンデがふわりと浮かび上がる。“レビテーション”だ。
 使い魔たちは自分の意志で動くという選択肢を奪われ、狼狽え、怯えるように鳴く。
 ワルドはそれを楽しげににやつきながら眺め、そして。
 船の縁の外まで送り出し、おもむろに魔法を解いた。
「きゅうぅぅぅ――……!!」
「しゃ、しゃああぁぁあ!?」
「ふ、フレイムッ!!」
 キュルケが金切り声を上げた。己の使い魔が目の前で雲の彼方へ落とされたのだ。心乱さない方がおかしい。
「あ、あんた……! 絶対に許さないんだからっ!!」
 ルイズの護衛という役割ゆえに前に出られなかったキュルケだが、ついに堪忍袋の緒が切れたようだ。
 ルイズを抱いた姿勢は崩さず、杖を抜いて肩越しに“ファイアー・ボール”を唱える。だが、それも暴風にマッチ。すぐに吹き消されてしまう。
「鬱陶しい」
 ワルドがさらに杖を向ける。するとルイズだけを残して、キュルケは思い切り突き飛ばされたように尻もちをついた。
「きゃっ! ……なにすんのよ、青あざができちゃうでしょ!!」
「殺さないだけ感謝したまえ。僕は決闘の約束は守るんだ」
 手を出されたら相応の報復はするがね、とワルドはこともなげにのたまう。
 もう、船上に動ける者は殆どいない。
「無様だなガンダールヴ。じつに無様だ。これが伝説の使い魔の実力か?」
 ワルドの挑発。心の底から落胆したような声色で、これ見よがしに肩を落として見せる。
 サイトは目の前で繰り広げられた光景、そして目の前の敵の全てを憎むように苛立ちを募らせる。それに呼応してルーンが輝き、より一層力が漲った。
「これで最後だ」
 サイトは正眼に構える。
「この一撃でてめえをぶった斬る」
 きりきりと歯を剥き、皺だらけの目つきでサイトは宣言する。ワルドはその気合いの乗り方に、嘲笑をひそめ粛然と構えた。
「よかろう。来たまえ」
 相対する二人。憎しみに濁った瞳で身の丈ほどもある長剣を構える少年と、悠然と杖を構えた苦み走った髭紳士。
 向かい合ったこの空間から、一切の音が消え失せる。
 瞬きすら遅すぎる一瞬。
 二人の影が重なった。
 ――グワギィンッ!!
 一拍遅れて響き渡る金属音。ワルドが、サイトの打ち降ろしを、顔に触れる寸前で受け止めていた。
「惜しいな」
 ぎりぎりと歯軋りし、あらん限りの力で剣に力を込めるサイト。受けた杖ごと押しつぶそうと、必死に全力で鍔迫り合いを制そうとする。
 だが。
「僕が“力”を得る前であれば。通っていたかもしれないな」
 ワルドの右目がぎょろりと変質した。
 同時に巻き起こる竜巻。サイトはルーンの力を全開にしているにもかかわらず、為す術無く、今日何度目か分からないほど吹き飛ばされ、甲板に叩きつけられごろごろと転がされた。
「っくしょう――なんでだ! なんで勝てねぇッ!! 俺は、こんなにもお前を憎んでいるのにッ!!!」
「ならば憎しみが足りないのだろう。ふむ、一人殺せばもっと深まるか?」
 ワルドはキュルケに狙いを定める。サイトは猛獣のように飛びかかろうとしたが、間髪入れず向け直された杖に踏みとどまった。
「冗談だ。……僕よりも弱い者を仲間に引き入れても意味がない」
 ワルドは失望したように哀れむ。
「最後の一撃があの程度ならば。もう、君は必要ないな」
 呪文が紡がれる。現れる風の大蛇。避けても追尾されることは分かり切っている。狭い船上に逃げ場は無い。
 迫り来る大蛇がまるでスローモーションのように感じる。サイトは玉砕覚悟でワルドへ強襲をかけようと、一際強くデルフを握りしめた。
「無駄だ。今の相棒じゃあれは斬れねぇ」
 語りかけるデルフの声が。
「相棒。おめぇさんはずっとそのままでいろよ」
 いやに、ゆっくりと響いた。
「もう俺は。おめぇを守ってやれねぇんだからな」
 蛇が消えていく。デルフが蛇を喰らっているのだ。蛇は長い胴がみるみるうちに吸い込まれ、そして尻尾も残さず消え去った。
 サイトはぱぁっと表情が明るくなった。
「なんだよ、やればできるじゃねえかデルフ! この調子でガンガン――」
 ぴしり、とデルフに亀裂が入った。
「――え?」

 そして、デルフは粉々に砕け散った。

 握りしめた柄と鍔、そして足下に落ちたわずかに残った刀身を見下ろし、呆然と立ちつくすサイト。
 目を疑う。信じられない。そんな、デルフが――
「哀れな魔剣よ。使い手が未熟であったばかりに、無駄で、無為な死を迎えるとは」
 砕け散った。デルフは知恵を持つ剣(インテリジェンス・ソード)だ。ならば、身体が剣であり。ゆえに、砕け散ったと言うことは。
「あ、ああ、ああああぁぁぁぁあぁ」
 サイトはただじっと握りしめた柄を見下ろし、意味のない悲鳴を漏らしている。
 その眼には。
「――涙を流すか。この結末を呼び寄せたのは、他ならぬ君だというのにな」
 両目から止めどなく涙が流れる。デルフが。俺を守って。デルフが代わりに死んでしまった。
 いくら呼びかけても答えない。なにも言わない。あの生意気でむかつく声が、もう、聞けないのだ。
 ワルドはそんなサイトの姿に、わずかに目を細めた。
「……君は半端なのだよ。殺意も、憎しみも、自身がそう思いこんでいるだけ。心の奥底からの衝動になりきれない。捨てきれぬその甘さが。君自身の枷となっているのだ」
 サイトはただただ嗚咽を漏らす。ワルドはため息を吐いた。
「もう泣くな。興が冷めた。僕がこの手で終わらせてやろう」
 キュルケも、ギーシュも、タバサもやられた。デルフは粉々に砕けてしまった。
 これは全部俺のせい。俺が弱いからこんなことになってしまった。俺が、ワルドを倒さなければ。守らなければならなかったのに。
 憎むことでは勝てなかった。守ることができなかった。悲しみではどうだろう。駄目だ。輝くけれど、戦えるほどではない。守れるほどには高まれない。
 どうすれば。どうすればいい? どうすれば――みんなを守ることができる?

 ――絶対に

 脳内に声が思い出された。

 ――絶対に怒りや憎しみで、力を振るわないでくれ

 これは、“あいつ”が言っていた言葉だ。
 負の感情では限界があると。本当に強い敵には勝てないと。そうあいつは言っていた。
「誰かを想う熱い胸の高鳴りが、きっと、俺の力になる」
 無意識に記憶を反芻する。
 守りたい、救いたいと思う気持ち。本当に、その想いが、力になってくれるのだろうか。
 分からない。
 けれど。

 今この瞬間縋れるものは、もうこの言葉しか残っていない。

「その悲しみに終止符を――」
「……れるなら」
 サイトの呟きに片眉を上げるワルド。

「タバサはよく分かんねえやつだけど、根はすげえ良い奴だ。昨日、どうしようもなくなった俺と、ルイズのために一緒に考えてくれた」

 野菜ばかり食べてる姿しか思い浮かべられないけれど。あの青髪の小さな少女は、頼もしい仲間だと思ってる。

「キュルケも良い奴だ。なんだかんだでルイズの面倒を見てくれる。男癖は悪いけど、おっぱいがすげえ気持ちよかった」

 豊満な乳圧に押しつぶされたのは初めての経験だった。その後“お友だち”に殺されかけたが、今では良い思い出だ。

「ギーシュはアホだ。けど、俺の初めての親友だ。嫌なこともあったけど、そのおかげでもっと仲良くなれた」

 あいつはこの世界の貴族の中で、一番普通の感性を持っていた。他の奴らは俺を平民と蔑むのに、あいつは普通に接してくれた。それがどれだけありがたかったか。
 ――そして。

「ルイズは、俺のご主人様だ。どうしょうもねえ癇癪持ちで、可愛くねえとこばっかりだけど」

 正直、自分でもこの気持ちがなんなのかはかりかねてる。けど。

 いつも高慢ちきに振る舞っているけど、影で無理した反動で泣いている姿を。
 食堂のデザートがクックベリーパイだった時、人知れず子どものようにはしゃいでいる姿を。
 フーケのゴーレムを前にして、涙目になりながら一歩も退かなかった姿を見ていると。
 守ってやらなくちゃ、と思う。

「俺は、みんなが大好きだ。失いたくない。だから」

 砕け散った相棒を震えるほどに握りしめ、願う。



「今だけでいい。この“想い”が力になるなら、俺の“剣”になってくれ! ――誰も傷つかず失わない、みんなを守れる“大きな剣”に!!」



 その時、ルーンが眩い光を放った。
「なっ――?!」
 世界を埋め尽くす光爆(こうばく)に、ワルドはとっさに目を覆う。光は収まる気配が無く、それどころかどんどん強くなる。
 視界を奪われてしまったせいでワルドは妨害に入ることもできず、戸惑い身構えるしかなかった。
「うおおおぉぉぉおぉおッッッ!!!!」
 魂の底から雄叫びを上げるサイト。左手のルーンからは輝きが迸り、全身から蒼い魔力(ちから)が吹き出している。昨夜ハタヤマから注入された余剰魔力が、回路を伝い吹き出しているのだ。
 常人は魔力の制御ができず、また魔力の生成もできず。開ききった魔力回路から全ての魔力が漏れきって、このままでは干涸らびて死んでしまう。しかし、わずかでも魔力の才があれば。己が身で魔力を生み出す、強い心と想いがあれば。
 その心からの渇望が、新たなる扉を開く。
 やがてサイトの身体から蒼の魔力が消え、新緑色(シャルトルーズ)の波動が湧き出る。彼自身のあり様を象徴するような暖かな輝きが、船上を満たし、周辺一帯を呑み込むほど眩く輝き、燦めいた。
 全身を駆けめぐる壮絶な奔流。サイトは背筋どころか全身がバチバチと痺れるような快感に打ち震えていた。泉のように湧き出る“力”。これがあれば、なんだってできる気がする。
 力の放出は徐々に秩序を持ち、意志を持って収束させられ始める。その行き先は、相棒の半身。未だ手に残る柄へ向け、全波動を凝縮し、送り込む。
(タバサ、キュルケ、ギーシュ、ルイズ――そしてデルフ!)
 サイトは全てを無意識に任せ、高々と柄を振り上げる。
(俺が――みんなの代わりに、あの髭をぶっ飛ばしてやる!)
 そう胸の奥で叫んだ瞬間、柄から巨大な光の柱が放出された。
「な、なんだとっ!?」
 想定外の出来事に取り乱しまくるワルド。小僧の閃光が止んだと思ったら、極太のシャルトルーズな光の剣を振りかざしていたのだ。それも、魔法の使えないはずの平民がである。
 天突き、月を穿ち、太陽を貫くかのような極大新緑の剣。それは今まさに振りおろされんと、軌跡をワルドに合わせていた。
「ぐ、ぬぁ――振らせるか、ぁ!?」
 無詠唱に近い速度で、振りおろす前に心臓を穿とうとしたワルド。だが、その集中は、思いも寄らぬフィードバックに阻害される。
「まさか“偏在”が全て撃破され――おのれあのケダモノがあああぁぁぁッッッ!!!!」
 急に吹き出した鼻血と共に、怨嗟の呪詛を吐き出すワルド。
 それが、彼の活路を断った。
「斬り裂けえええぇぇぇぇぇッ!!!!」
「ぐぬぉ!!?」
 壮絶な剣戟音。新緑の剣とワルドの杖が、真正面からぶつかった。ワルドは魔法で強化した杖とはいえ、強すぎる力にじりじりと押されていく。両手で堪えているというのに、比類無きの力を手に入れたはずなのに。まったく跳ね返せる気がしない。
「く、くそ、この馬鹿力が――」
 憎々しく悪態を吐くワルド。しかし、その憎しみはすぐに焦りへと変貌する。
 ――ビキリ
「――っ! 杖にヒビが!?」
「うぅああああぁぁぁぁあぁぁ!!!!」
 裂帛の気合いで高まるサイト。剣の出力がさらに上がった。
 そして。

 杖はへし折れて。
 ワルドの右手と右足を、新緑の剣の刃が撫でた。

「――ふぅ」
 サイトが虚脱して息を吐くと、光の剣も同時に消える。そして断ち切れるワルドの手足。
「――ぐぎゃあああああああああっっっっ!!!?」
 ワルドは傷口を襲う激痛に、発狂寸前の絶叫を上げた。手足は甲板に転がっている。
 だが、それでも報復は忘れない。左手に残る折れた杖で、なおもサイトに向けて呪文を詠唱し――
「“衝撃弾”」
 真後ろから飛んできた風の剛弾に為す術もなくぶっ飛ばされ、船外へご退場させられた。
「覚えていろおおおぉぉぉぉぉ――……!!」
 最悪裂傷を覚悟していたサイトは、思わぬ展開に目が点になる。魔法が飛んできた方角を見る。そこにいたのはやや傷つきつつも健在な風竜と、ひょっこり顔を出した少女と使い魔たちだった。
「タバサ! それにフレイムとヴェルダンデも!」
 サイトは破顔して諸手を挙げた。やや眼鏡がひび割れているが、タバサに大した怪我はなさそうだった。
「この子は“特別”だから大丈夫だった」
「特別?」
「……秘密」
 相変わらずよく分からない。しかしいつものことなので、サイトは言及するのを止めた。
 ふと視界の隅に、断ち切れた手足がうっすらよぎった。
「うっ――」
 だくだくと流れる流血を見て、サイトは心臓が不整脈を起こしたように乱れるのを感じた。
 ――俺は
 ――『守る剣』と言いながら
 ――結局、人を殺してしまった
 その事実は重くのしかかる。サイトはその重圧に耐えきれず、気を失ってしまいそうだった。
 その背中を、ぽんと叩く者がいた。
「タバサ……」
「誰だって失敗はある。それはもう取り返せない」
「………………」
「けど、やり直すことはできる」
「……?」
 目をしばたかせるサイト。
 タバサはじっとサイトの目を覗き込む。
「たった一度でめげてはいけない。あなたが理想を信じてるなら、あなたは試み続けなければならない」
 タバサの目がややきりりと意志を持った。
「諦めないこと。それが、一番大事」
 そう言うと、タバサはぬぼーっとした目つきに戻った。要はやったもんはしょーがねーから、次から気をつけりゃいいよ、と言いたかったらしい。
 サイトは人を斬った罪悪感やら嫌悪感やらなにやらがないまぜになってぐちゃぐちゃだったが、タバサの言葉に救われた気がした。
「……あぁ、ありがとな」
 サイトは鼻の下をこすりながら、そっぽを向いて礼を言う。やや頬が染まっているところを見ると、照れ隠しのぶっきらぼうなようだ。

 タバサはそれを聞いているのかいないのか、「ん……」と言ったきり黙ったままだった。



[21043] 六章Side:S After
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 19:28
【 六章Side:S After 『帰るまでが任務です』 】



 未だ傷跡癒えぬ船の上。
 舵こそギーシュが“錬金”で作った固定金具のおかげで自動運転になっているが、船自体の惨状は酷いものであった。
 先ほどのサイトの一撃により横腹まで裂けた船体、腹に空いたワルドの一撃による破損。正直いつ墜落してもおかしくない状態である。
 ダメージは船だけに留まらず、そこに乗る乗客たちにも刻まれている。
 昏倒し目を覚まさないギーシュ、サイト自身の手傷もそれなりに深い。そしてルイズ。彼女に至っては通常の治療で治るかどうかも定かではない。
 意識のあるタバサイキュルケたちに、暗い雰囲気がどよどよと渦巻く。
 しかし、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。
 気を取り直しサイトが顔を上げた。
「タバサ、お前は水系統だったよな? みんなの傷を治せるか?」
 サイトは学院で授業を受けた記憶を探り、水系統は回復魔法が使えることを思い出した。
「あなたも酷い怪我」
「俺は後でいい。こんなのなんてことねーよ」
 力こぶを作るように、腕を曲げぱんぱんと叩くサイト。元気さアピールを狙っている。
 しかし。
「だ、いだ、いだだだだだっ!?」
 鎧の隙間から腕を差し込み、胸板をなでなでするタバサ。サイトは猛烈に痛がる。
「嘘つき。脱いで」
「いや、大丈夫だからギーシュを先にぃででででぇー!!!?」
「脱いで」
「だ、だからギーシュ「脱いで」」
 全く退く気配がないタバサ。全然話を聞いてくれない。
 しばらくそんなやり取りを続けたが、キリがないのでついにサイトが折れた。
 ほどなくしてサイトは、青あざだらけの胸板の痛みが、すぅっと引いていくのを感じた。
「ほぇ~……やっぱ、魔法ってすげえなあ……」
 ついでに腕や脚まで治してくれたようで、サイトは腕を回したり屈伸したりして身体の回復具合に驚いている。
 治療が済むと、タバサはさっさとギーシュの介抱へ行ってしまった。
「凄かったわよダーリン! なぁに、あの緑の剣は?」
「いや……無我夢中だったから、正直、俺もよく分かんねえんだよ」
 手中の相棒の亡骸に目を落とすサイト。手の中の柄はなんの変哲もない鉛色に戻り、物言わずひんやりとした感触を感じさせる。
 じっと見ているとまた悲しくなり、泣きそうになってしまうサイト。だが、皆の前で涙を見せるのは、と男の子特有の見栄が発動し、ぷるぷると頭を振って寂しさを追い出した。
「たしか、“大きな剣が欲しい”って思いながら――」
 サイトはぶつぶつと呟きながら集中する。欲しいと思ったらでてきた、という前例を鑑み、軽い気持ちでデルフリンガーの在りし日の姿を思い描く。
 帰ってきて欲しい。生意気で口うるさいけど、誰よりも俺のことを考えてくれたあの剣に。
 すると。
「お、おぉ――?」
 柄がぼんやりと輝き、刀身に輝きが伝導し、ゆっくりと刀身が伸びていく。光ではなく刀身が、である。しかし、折れたままにょっきり伸びてしまったので、先っぽがやや残念なことになっている。
 サイトはまさかなー、と思いながら、折れた先端を拾い、刀身にあてがった。
 するとなんと。
「おお、くっついた!?」
 とんでもびっくりである。
 ここまで来たらもしや、と考え、サイトは恐る恐るデルフをつっつく。
「お、おい、デルフ? デルフー? 朝だよう? 起きようよう?」
 隣の家に起こしに来た幼なじみよろしく、つんつんと刀身をつつくサイト。まさかそんな……

「――ぅ、ぅーん……あと五分……」

 そのまさかだった。幼なじみは低血圧のようだ。
 サイトはがちょーんと顎を外し、はっと気を取り直すとデルフをやたらぶんぶん振りまくった。
「おい、おいデルフ! てめえ生きてたのかこら! あと五分じゃねえよ起きろーっ!!」
「ちょ、ちょちょやめろって! 酔う、酔うから!」
「てめえ! 俺が! どんな気持ちで! というか! 涙! ぼろぼろ! 赤っ恥ー!!」
「おぅうおぉぉぉぉおおおっ!??」
 嬉し恥ずかしで泣きながら笑っているサイト。器用な男である。
 まあ、と口に手を当てて驚いていたキュルケが止めに入る。
「ほ、ほらダーリン? 振り回してたら話せないから。それに生きてたんだからいいじゃない」
「はぁ、はぁ……」
 キュルケの窘めにようやく溜飲を下げるサイト。肩で息をしている。
「でも、よかった……。生きててほんとによかった」
「おう。俺も本当に死んだかと思ったんだがな。というか、俺が気絶してる間になにがあったんだ?」
「気絶?」
「おうよ。あの風蛇を喰ってからの記憶がねぇ」
 どうやらあの後のことは、デルフの中で『気絶していた』ということになっているらしい。剣が気絶というのもまたおかしな話だが、サイトは今更なにが起こっても驚かなかった。というか、生きていてくれただけで。それ以外のことはどうでもよかった。
 サイトは安心して集中を解く。すると。
「……あら?」
「これは……」
 顔を見合わせるサイトとキュルケ。
「お、おい、おいおい相棒!? 俺の身体が縮んじまったよっ!?」
 狼狽したデルフの言葉通り、デルフの刀身の長さが逆再生のように戻ってしまった。柄は長剣用なのに刀身が二の腕サイズなのが、なんだかとっても不格好だ。
「は、はははは! ずいぶん可愛くなっちまったなあ!」
「これで持ちやすくなったんじゃないのっ!」
「て、てめぇら言いたいこといいやがって……ちくしょう、なんだかすごく悲しいぞ! あの長さが一番格好良かったのに!」
 デルフも容姿に気をつかうという概念があったのだろうか。それは彼のみぞ知ることである。
「心配しなくても、使う時にまた伸ばしてやるよ! 今度は前よりもっと長く、さ!」
「あん? おめぇさん、任意に長さが変えられるのかい?」
「あ? ああ、意識すればそれと同じ長さになってくれるみたいだぜ?」
「………………」
 しばし沈黙。考え込むデルフ。
「どうしたんだ?」
「いや。なぁ~んか引っかかるんだよなぁ。昔、似たような話を聞いたことが……」
「おんなじことができるやつがいたのか?」
「んー、いや……分かんね」
 なんだよそれ、と拍子抜けするサイト。覚えてねーもん、と開き直るデルフ。
 顔と刀身を見合わせる二人。やがてどちらともなく吹き出し、抑えきれぬように笑い出した。これこそが、彼らの素のやり取りなのだ。
「楽しそうだね。ぼくも加わっていいかな?」
「あ、ギーシュ」
 声に振り返ると、ギーシュがすぐ後ろに立っていた。
「もう大丈夫なのか?」
「おかげさまで。見事仇をとってくれたみたいだね」
 転がった手足を横目にして、ギーシュは拳を差しだした。
 サイトは一瞬表情を曇らせたが、無理矢理苦笑いを浮かべて拳を重ねる。
「お前にあそこまでの気概があったとは驚いたよ」
「なにを言うか。ぼくだってやるときはやるのさ」
 お互いに笑い合う。そうやって有り難みを噛みしめる。
「しかし、厄介な問題が残っているぞ」
「ああ……」
 二人は同時に視線を移した。そこにはキュルケに伴われたルイズが立っている。
「まるで操心(そうしん)の秘薬を飲まされたように虚ろだ。これはここでは治せないかもしれない」
「やっぱそうか……」
「……毒の種類が分からない以上、アカデミーに連れて行くしかないかもしれない」
 いつの間にか合流していたタバサの言。彼女は心なしか悲しげだった。
「まいったわね。このまま帰ったら大問題になるわよ。手紙だってもう手元に無いのに」
「任務失敗に特使が緊急の様態とは……これはさすがにまずいかもしれない」
 深刻な顔で俯き合うキュルケとギーシュ。このままでは自分たちの評価だけに留まらず、姫殿下、ひいてはトリステイン国内がごたごたに乱れる可能性がある。姫殿下に対する不審の目が今この時期に芽吹くことは、ギーシュとしては極力避けたかった。
 そうやって一同が暗い顔で顔を見合わせていると。
「きゅうきゅう」
「ぐぎゅう」
 使い魔たちの声がした。見ると、フレイムとヴェルダンデが、ワルドの置き土産に群がってしきりに鳴いている。
「フレイム? あなたなにやってるの?」
「どうしたんだいヴェルダンデ。人肉が癖になってはいけないから駄目だよ。ちゃんと帰ってから食事に……」
 残されたワルドの手足に群がる使い魔たち。その主人たちは彼らを止めようと小走りに駆け寄る。
 そこで、ギーシュはある物を発見する。
「おや?」
 なおもぽたぽたと血を滴らせるワルドの右腕。その薬指に、青い指輪がはまっているのを見つけた。
「これは……“水のルビー”じゃないか」
「ルイズが持ってないと思ったら、子爵がかすめとっていたのね」
「ということはきみも探したのかい? ルイズの身体をまさぐって」
「………………」
 やぶへび。目を逸らしわざとらしく口笛を吹くキュルケ。
 油断ならないお嬢さんである。
「……貸して」
 指から指輪を抜き、しげしげと観察するタバサ。表情は真剣そのもの(といってもあんまり変わらないが)である。
「これなら、治せるかもしれない」
「ほ、ほんとかっ!?」
 食いつかんばかりに詰め寄るサイト。タバサはぬぼーっとした表情でサイトをやんわり押し返すと、てくてくとルイズの正面までゆく。
「この影響が“催眠”によるものなら、わたしの手には負えない」
 タバサは指輪をルイズの目の前にかざすと、静かに呪文を詠唱した。
「けれど“調剤”に属するものなら。初歩の“浄化”でも、指輪の力で増幅すれば治せるはず」
 淡い輝きがルイズを包み、ほわほわと明滅して消える。
 固唾を呑んで見守る一同。
 そして。

「――サイト」

 ルイズの瞳に、光が戻った。
「ルイズッ!!!」
 感極まって抱きしめてしまうサイト。
「ちょ、ちょっと、サイト……?」
「よかった……よかった……ッ!!」
 人形のように細い身体を折れるほどに強く抱きしめ、涙声でひたすらよかったと呟き続ける。
 ルイズはちょっと痛苦しいようだったが、サイトの抱擁をなすがままに受け止めた。
「み゛ん゛な゛……み゛ん゛な゛ぶじでよ゛がっ゛だ……ッ゛!!!!」
「大泣きじゃないか。全く――これだからきみは放っておけないんだ」
「ほんといい男よね、ダーリン♪」
 ぐしゃぐしゃに顔面崩壊を起こしたサイトを生暖かく見守る二人。
 彼らの中で、サイトの評価がまた一つ上がった。
「サイト――」
 ルイズがわずかにサイトの胸から顔を上げる。
「私、なにもできなかったけれど。けど、あんたがすごく頑張ってくれてたのは見てた」
 彼女はこれまでの出来事を、あますことなく覚えていた。彼がどれだけ傷つき、悲しんでいたのか。憤り、涙を流していたのかを。
「あんたがあたしのために。みんなのためにもの凄く頑張ってたの、見てたよ」
 今まで言えなかったけれど。今なら言える気がする。
 ルイズは頬が熱を持ち始めるのを感じながら、彼女は少しだけ素直になろうとした。
「――サイト、ありが」
 そのとき、船が大きく傾いた。
「な、なんだ!?」
 バランスを崩し、ルイズを抱きしめて必死に踏ん張るサイト。その拍子に胸に顔をうずめられ、ルイズはその続きを口にできなくなる。
「……まさか!」
 ギーシュは一直線に船倉へと飛び降り、ほどなくして凄まじい形相で戻ってくる。
「た、大変だ! 風石が切れた! 船が高度を落とし始めている!!」
「な……っ! なんだってぇ!?」
「おそらく子爵が穴を空けた時に備蓄をぶちまけたんだ! くそぅ、最後まで抜け目ないっ!!」
「も、もつのか? 港までもつのかおい!?」
「無理だ! というかもうすぐにでも墜ちそうだっ!!」
「なぬぅっ?!」
 だいだいだいぴーんち、ぺしゃんこ警報発令だ。最後まで迷惑な髭である。
 タバサは自分の役目を察知し一目散に駆け出そうとしたが、サイトはその背に待ったをかけた。
「ちょっと待て! 考える!」
 そう言って眼を閉じ腕組みをするサイト。額にだらだら汗が滲んでいる。しかし、少しでも頭を使おうとする姿勢は、彼にとって確かな進歩であった。
「タバサ! シルフィードにフレイムとヴェルダンデ、それとルイズを乗っけてくれ! 残りのやつは待機して、地面が見えたらなんだっけ、ほら、あの浮かぶ魔法で飛び出せ! たぶん死にゃしねえから!」
「なっ! な、なかなか乱暴だね」
「しょうがねえだろ、緊急事態だ! シルフィードの脚にでも掴まって降ろしてもらえ! タバサはそれまで浮力の維持に風石炉へ! 俺はそれに付いてく!」
「な、なに言ってるのサイト!? あんたが残るなら私も!」
「ダメだ! 俺が残るのはタバサをカバーするためだ! もしタバサが最後に残ったら、疲れて逃げられないかもしれねえ! 俺が甲板を叩っ斬って脱出路を確保する! その後はタバサの浮かぶ魔法かダメならシルフィードに合流すっから心配すんな!」
 俺ならできる! と早口でまくしたてて指示を飛ばしたサイト。シルフィードにギーシュたちを乗せないのも、その辺を考慮した結果らしい。彼にしてはなかなか考えた作戦である。
 ルイズはなおもなにか言いたそうにしたが、彼の立案に反論を挟む余地を見つけられなかったため、渋々批判の矛を納めた。
 もう幾ばくの猶予もない。
「みんな分かったな! じゃあ解散! 絶対生きてみんなで帰るぞ!」
 その号令に各々従い、タバサは口笛を吹いてシルフィードを呼び寄せ、ギーシュとキュルケは船の縁にて飛び出すタイミングを計り、ルイズと使い魔たちはシルフィードの背に乗り飛び上がった。サイトとタバサは駆け足で船倉へ下りていく。

 ようやく希望の光は見えたが。
 彼らが本当に落ち着けるのは、まだまだ先になりそうだ。



[21043] 六章Side:H After
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 19:33
【 六章Side:H After 『煉獄直行便』 】



「うぅん……」
 うめき声を一つ上げ、うっすらと閉じた目を開く。
 開いた先に見覚えのある天井が――無かった。
「あら?」
 抜けるような青空、本日は晴天なり。しょぼしょぼした目をこすりながら、眠たげに辺りを見回すハタヤマ。あくびなんぞかましちゃってからに、完全に緊張感が途切れちまっている。
 後ろ頭をぽりぽりしていると、背後に気配を感じ振り返る。
「起きたかい?」
「あぁ、ウェールズくん。おはよ」
 寝ぼけ眼で見上げるハタヤマに、ウェールズは思わず苦笑した。
「あんな状況で気を失ったというのに、ずいぶんと落ち着いているんだな」
「だって、キミがあの髭倒してくれたじゃん。なら大丈夫だよ」
 こともなげに断言するハタヤマ。図太いのか危機感が薄いのか。
「ボクはどれぐらい眠ってたんだい?」
「数分ほどさ。まったく、上空から真っ逆さまに落ちてきたのには驚いたよ。てっきりしなやかに退避しているかと思っていたのに」
「ボクだって限界はあるさ。さすがにあれ以上は頑張れなかった」
 ワルドが展開した障壁を打ち破るだけでいっぱいいっぱいだったのだ。あれでガス欠になっていたハタヤマに、ウェールズの超絶竜巻を避けるほどの余力はもう残っていなかった。
「しかし、すっかり風通しが良くなったね。仰々しい大聖堂より、こっちの方が過ごしやすいや」
「ふふふ、我が国では新しいデザインが流行っているのだよ。空の国に相応しい、空を生かした設計だ」
「雨が降ったら大変そうだけど」
「なあに、晴れればすぐに乾く」
 ハタヤマとウェールズは真顔でそこまで掛け合うと、急にぷっ、と吹き出して大笑いした。
 お互いに冗談が分かるので、こういった言葉遊びも楽しい。
「ところで、なんか全身が楽になってんだけど。なんかした?」
「ああ。落下死だけは阻止したが、怪我があまりにも酷くてな。放っておくと命に関わったので、治療させてもらったよ」
「え? キミ治癒魔法使えんの?」
「いいや。不得手だな」
「じゃあどうやって?」
 不思議そうに首をかしげるハタヤマ。するとウェールズの背後から、年老いた皺だらけのメイジが顔をのぞかせた。
「お初にお目にかかります、旅のお方。私、先王の代より王家にお仕えし、現在殿下の侍従を仰せつかっております、パリーと申しまする」
「彼が秘薬を持ってこの場に馳せ参じてくれたのだ」
「………………」
 ハタヤマはふーん……と生返事をしながら、値踏みするように老人を眺めた。
「で、その王子付き侍従様がいったいなんでこんなところにいるのかな?」
「……? なにか棘のある言い方だな。彼は余に、それこそ生まれた頃から仕えてくれている。そう警戒せずとも敵ではないのだよ?」
「いやね。もう今まさに決戦も始まろうかって時に、なんの理由もなくこんなとこまで戻ってくるなんて考えづらくてね。しかも一人で」
 ハタヤマは眼孔が鋭くなる。
「あんた、なにしに来たんだい?」
「……ほっほっほ。旅のお方、あなたはなかなかに勘の鋭いお方のようでございまするな。いや、人一倍、警戒心が強いのか」
「パリー?」
 パリーは安心したように表情を崩すと、ウェールズに向き直り、懐から小箱をとりだした。
「陛下よりお手紙を預かってまいりました。陛下は先ほどのあなた様方の壮絶なる戦いを、一部始終ご覧になられていたのでございまする」
「なんだって? いったいどうやって」
「旅のお方は、“遠見の鏡”という魔道具(マジックアイテム)をご存じかな?」
 マジックアイテム、という単語にハタヤマは一瞬疑問符を浮かべたが、ようするに魔宝具(アーティファクト)のことか、と適当に当たりを付けた。
「いや、知らない」
「そうですか。陛下はそれを用いて、お戻りになるのが遅い殿下を心配なさり、お姿を探しておられたのでする。そこで、先の決戦に行き当たりもうした」
「……覗き見は、良い趣味とは言えないね」
「火急でございまするゆえ。許されよ」
 パリーはいっさい語調を乱すことなく言い切った。なかなかどうして食えないじーさんである。
「そして、そこでの殿下のご活躍をご覧になり。伝令を預かってきたのでございまする」
「伝令……そうであるなら、若い衛士にでも任せればよいだろうに。わざわざパリーにそのような使いを頼むとは」
「よろしいのです。ささ、殿下。お読みなされよ」
 パリーはずずいと小箱を差しだした。それはとても豪華な、宝石箱のような細工の施された一品で。どう見ても手紙を入れるような物体には見えない。
 ウェールズは怪訝そうに眉をひそめたが、六十余年仕えてきたパリーの言うことだから、とおもむろにふたを開けた。
 すると。
「なっ……!?」
 もうもうと吹き出す白い煙。それは意志を持っているかのように、ウェールズへと殺到する。ウェールズはとっさに箱を放り出し身を捩るが、全てはもう遅かった。
「父上……いったいなんのおつもりで……」
 見た目以上に弱っていたのか、はたまたこの眠りの霧を仕込んだ者がよほど高位の術者だったのか。ウェールズはそう言い残すと、抵抗すら満足にできず。まどろむようにくずおれてしまった。
「……申し訳ございませぬ、殿下」
「で、話してもらえるんだろうね?」
 贖罪するように眼を閉じるパリーへ、不躾にそう問いかけるハタヤマ。宝石箱は彼がちゃっかりキャッチしていた。
「あまり動じられないのでございまするな」
「そりゃあ、ね。怪しいもん。ボクだったら開けないかもしれない」
「あなた様は。誰も信用なされないのでございまするな」
「……まあね。ま、ボクはことさら疑り深いからそう思っただけで。ボクにもあんたみたいな人がいて、彼のように育てば。どうしたかは分からない」
 パリーはハタヤマをじっと見上げると、ほっほっほ、と愉快そうに笑った。
「あなたは複雑だが、素直なお方だ」
「は?」
 意味が分からない。ハタヤマは目を丸くしたが、パリーは穏やかに微笑むだけで、なにも補足しなかった。
「あなた様にもお手紙を預かっております。こちらにはなにも仕掛けられておらぬゆえ、ご安心なされよ」
「つっても、あんなの目の前で見せられたらなぁ。身構えずにはいられない」
「ならばわしが封を切りましょうか?」
「よろしくお願いするよ」
 ハタヤマはにこやかに、それでいて油断無く数歩下がり、パリーを観察している。なにか妙な細工をしないか見張っているのだろう。
 パリーはそんなハタヤマの様子に、またも浅く微笑む。
「素直だが、したたかでもある」
「そりゃどうも」
 パリーは懐から今度は便箋をとりだし、封を切ってハタヤマに渡した。
 中を改めるハタヤマ。そこには一枚の羊皮紙に折りたたまれて入っていた。文面を読むと、簡潔に「ウェールズ・テューダーを連れて戦場を離脱せよ」という内容が記されていた。
 どう見ても命令形式の文に、怪訝そうに眉をひそめるハタヤマ。
「は? なんでボクがそんなことを頼まれなきゃいけないんだよ。知らんわそんなもん」
「そうおっしゃらずに。陛下も、この決断には大いにお悩みになったのでございます」
 パリーは脳裏に浮かべた陛下を思いやるように表情を沈ませたが、そんなものはハタヤマにとってなんの関係も無いわけで。説明を求め、責めるようにじっとりと睨んでいる。
 パリーは口を開いた。
「陛下は当初、貴族の名誉を守り、王族の務めとして。殿下も戦列に加えるつもりでございました。しかし、先の一幕を。あなた様の、魂を燃やし尽くしてでも生きようと、生かそうとする姿をご覧になり。そこで新たな未来を見たのでございまする」
「未来?」
「ええ、そうでございまする。陛下はもう長く生きすぎた。これまで為してきた行いが、これまで刻んできた王としての生き様が。あのお方に、生き方を変えるという選択を許さない。しかし、若様は違います」
 パリーはうつぶせに倒れ伏すウェールズを見下ろす。
「殿下はまだお若い。まだ真っ白なのでございます。陛下は、因習の鎖を断ち切るのは、今しかないとご決断なされたのでございまする」
「………………」
「兵たちも皆納得いたしました。殿下になら我らが故郷を、残されし者たちを任せられると。そのためならば我らアルビオンの白鷲は、喜んで礎となりましょう、と」
 ウェールズは目覚める気配がない。パリーはハタヤマに眼を移した。
「彼らは若様の若さに。可能性に賭けたのです。未来を、新しきアルビオン王国の行く末を」
 ハタヤマはじっとウェールズを見下ろす。
「……仮にここから逃げ切れたとして。いったいそれからどうするつもりだい? 亡国の王子なんてどこにも居場所は無い。他国に保護を求めたって飲んでくれるかは分からないし、下手すりゃ戦乱が飛び火するよ?」
「分かりませぬ。しかし、生きてさえいれば。再起の機は必ず訪れる」
「その機をいったいどこで、どうやって待つんだい?」
「だからこそのあなた様なのでございまする」
 ハタヤマは片眉を上げた。
「スクウェアに昇りなさったとはいえ、まだまだ未熟な面もございます。あなた様に、殿下が一人前となって巣立つまで、殿下を導いて頂きたいのです」
「はぁ?」
「あなた様はかなりの強者とお見受けいたしまする。それは、先の刺客との勇戦により確信いたしました。だからこそ、そのお力を。どうか殿下にお貸し頂きたいのです」
 ハタヤマは苦虫を奥歯で十匹ぐらい噛み潰したように顔を歪めた。
「え~、ヤだよめんどくさい。ボクにそんな義理はないさ」
「なにとぞ、なにとぞよろしくお願いいたします。謝礼はアルビオン復興の暁に、相応の品をお支払いいたしまする」
「口約束なんざ信用できるかよ。それにいったい何時になるのさ? 取り返せるかも定かじゃないじゃないか」
「信じて頂くほかありませぬ。もう、我らに選択の余地は無い。頼れるのは、あなた様しかいないのでございまする」
 深々と頭を下げるパリー。ハタヤマはめんどくさいことになったなぁ、とうざったげに頭を掻いた。この男に善意など求めてはいけない。利益を上回るリスクがある場合、絶対に引き受けたがらないのだ。
 どうしたもんかと手元の紙を弄んでいると、ふと、違和感に気づいた。
(炙り出し?)
 真っ白けの下半分、その隅の隅の隅っこの辺りに、妙なにじみを発見したハタヤマ。どうやら魔力で書いたらしく、他の魔力に反応させれば浮き出てきそうな感じである。
 ハタヤマは指先でそれをなぞった。

 “我が愚息を よろしくお頼み申す”

「………………」
 ハタヤマは口元をこわばらせつつ、眉根を寄せてその文章を読んだ。三回くらい読み直した。目をゴシゴシこすっても消えてくれない。気のせい……ということにしたかったが、どうやらそれはダメらしい。
 ハタヤマははぁ、と疲れたようにため息を吐いた。
「――まあ乗りかかった船だ。こうなりゃ最後まで付き合うよ」
「おや? 本当によろしいのですか? 失礼ながら、半ば諦めてもいたのでございまするが」
「ほんとに失礼だね」
 ハタヤマはぶすっと不満を露わにしたが。
「こんなことを言い残されちゃ、聞かないわけにはいかないじゃないか」
 そう言ってぴらりと羊皮紙を裏返し、後ろ頭をガシガシ掻いた。
 ひらひらと突きつけられた羊皮紙に目を落とし、ハタヤマの様子と見比べ、パリーはぽかんと目を丸くすると。にっこりと、穏やかに表情を崩した。
「あなた様は。したたかだが人がよろしい。人に頼られるお方でございまする」
「あんま嬉しくないねぇ」
 損な性格だよ、と笑い、手紙を折って懐に収めるハタヤマ。そんな彼に、パリーはさらに微笑みを深めた。
「なんだかんだで、損得を越えて手を差しのべてしまう。であるからこそ、あなた様は。他から信頼されるのでございまする。あなた様に頼めば間違いない、きっとなんとかしてくれる、と」
「体よく利用されてるだけさ」
「なにを仰る。穿ちすぎでございまする」
「だといいんだけどね」
 頭の後ろで腕組みし、糸目で気の無さそうなハタヤマ。そんな彼の姿を、パリーはうっすらと痛ましげに見上げた。
 この男は――

「で、いつまで見物してるのかな?」
 
 不意に瞳へ戦意を宿し、礼拝堂(だった部屋)のはしっこをぎろりと睨みつけるハタヤマ。
 パリーは最初、その意図が察せられず疑問符を浮かべたが。すぐその疑問は氷解した。
「な、なんと!?」
 空間が揺らめいたかと思えば、突然いやに露出度の高い不健康そうな女が出現したのである。
 冷酷な印象を与える顔立ちに猛禽のような鋭い目つき。恐いお姉さんである。
「んー。場所によって色が変わる布……かな?」
「ご名答。いやに鋭いわね」
「いやいや、そんだけ魔宝具の匂い(魔力臭)まき散らしてりゃ嫌でも気づくさ。というか隠れてるつもりだったの?」
 鼻をつまんで匂いを散らすジェスチャーのハタヤマ。煽る気満々である。というかその仕草からは、悪意しか感じられなかった。
「体臭がキツいと嫌われるよ~?」
「ちっ……口の減らない男。そんなにも今すぐ死にたいの?」
「キミにボクが殺れるのかな?」
「――言ったわね。後悔しなさいッ!!」
 女はさらに猛獣のように顔を歪めると、どっから出したのか人形をばらまいた。すると、額が眩く輝きを放つ。ハタヤマはその様子を観察しながら、『かなり短気。血の気が多い』という性格評を人知れず刻んだ。
 間もなく、人形たちがにょきにょきと人間サイズまで巨大化し、各々剣や槍を構えて布陣した。
「“スキルニル”……だよね?」
「くくく、その通りさ。知っているなら説明はいらないわね。振りかけた血は古代の英雄、“メイジ殺し”の戦士たちよ。見てたところあんたは幻獣で、しかも接近戦は苦手なんでしょう? 果たして生き残れるかしら?」
 愉しげに高笑いを轟かせる顔色の悪い女。ハタヤマは内心冷や汗を一筋流したが、気を引き締めてスズキを握り直す。
 飛び出そうと右足を踏み込むが、身体の軋みに表情を歪める。水の秘薬で格段に楽になったが、それでも完治とはいかないらしい。ハタヤマは舌打ちすると、アプローチを変えることにした。
 がしっ、と丁度真横に転がっていた支柱の一本に抱きつく。
「ぐ、ぬ……ぬぬぬ!」
 脂汗を浮かべ必死の形相で、全身の筋肉に全力全開命令を下すハタヤマ。色んなところに血管が浮き出て、大変きばっているのが窺える。
「はん、あんたにそんな筋力が無いことは把握済み――」
 女は無駄なハッタリだと嘲る。しかし、すぐに表情が凍りつく。
 ハタヤマのコートにびっしりと翠の線が浮きでて、わずかに支柱が浮かび上がるのが見えた。
「うぅおりゃあああぁぁぁぁぁッッッ!!!!」
 一薙ぎ。たったそれだけで英雄人形十体のうち、半数以上がボーリングのピンのようにかっとんでいった。
 ハタヤマは薙いだ勢いで身体を持っていかれかけ、すっぽ抜けるように支柱を放り離した。
「ど……どうだ……ボクも、やれば……できる子だろう……」
「ちっ――こんな力を隠していたなんて」
 ふらふらして汗を噴出しながらも、不敵な笑みで口元をゆがめるハタヤマ。まだ余力があるのか、と女は苦々しく唇を噛む。
 しかしハタヤマはそれどころではなかった。
(だ、ダメだ。消耗が激しすぎる)
 “フカし”の意味を込めて一発派手にやってみたが、それだけで足腰ががくがくになってしまった。もう一回やったら間違いなくぎっくり腰確定で、バンビのように崩折れてしまうだろう。今腰が逝ってしまうのはすこぶる不味い。
 ぶっちゃけハタヤマはもう戦える状態ではない。秘薬は身体の損傷を整えてくれるが、失った血や溜まった疲労まで拭い去ってくれるわけではない。なんとか表情は引きつりつつも余裕を貼り付けているが、もうハタヤマは限界ギリギリなのだった。
 だが泣き言を言っても始まらない。ハタヤマは活路をひねり出そうと、脳みそをさらに高速回転させる。
(考えろ……考えるんだ……)
 まず体内の魔力残量を確認。月光糖で増幅したとはいえ、それすら使い切ってすっからかんの空っ欠寸前。さっきの一撃で残り少ない魔力すら蒸発したようだ。これ以上使ったら、生命活動を維持する分にも手をつけてしまうことになる。それは不味い。
 周囲を見回す。瓦礫や椅子の残骸が転がり、燭台が盛大に倒れ散らかっている。壁は半壊。頭上はピーカンの青空だ。そして、この空間には。先ほどの戦いで発生した浮遊魔力が拠り所を求め、所在なさげに渦巻いている――
 ハタヤマはわずかに目つき鋭く方針を決めると、さっそくアプローチに入った。
「指一本だ」
「……?」
 ぴんと人指し指を立てるハタヤマ。
「ボクがキミに指一本でも触れられたら。ボクの勝ちにしてくれよ」
「戯言を。誰がそんな条件を呑むのよ? 明らかにこちらが不利すぎるわ」
「おや? キミはこんなボロボロの魔法生物が怖いのかい? ボクを怖れていると? こりゃ、キミのその能力……お人形さん遊びか? だって、たかがしれてるってもんだね!」
 ハタヤマはこれみよがしにケタケタと喉を鳴らす。ことさら馬鹿にして見えるように、腹を抱えてよく通る声を響かせる。血と埃にまみれたみすぼらしい軽薄な男に、指を指されて哂われているこの状況。
 女のこめかみに、明らかに目立つ血管が浮かんだ。
「……いいわよ、死に損ない。その挑発乗ってあげるわ。わたしに一瞬でも触れることができたら、あんたを見逃してあげる。ありえないとは思うけれどね」
「言ったな? 約束だよ?」
「できるもんならね――」
 女がそう言い終わらないうちに、ハタヤマは地を蹴っていた。
 女は増援の人形をばら撒こうとしていたところで、完全に不意を突かれた形になる。しかし、先ほどの一撃を免れた三体が、ハタヤマの迎撃に殺到した。
 第一の敵。槍を携えた騎士人形。槍で無造作に突きを繰り出し、迫りくるハタヤマを串刺しにしようと試みる。だがハタヤマは“超感覚”にてその軌道を目視すると、身体を半身にしてそれをすかした。人形は棒術にてハタヤマの迎撃を試み、踏み出した足をべたりと踏みしめる。しかしハタヤマはすかした槍に空いた手を吸い付かせるように合わせ、掴んで引き倒し、すれ違いざまに回し蹴りを、人形の細っこい背中へぶちかました。人形は腕がもげ、小枝のように吹っ飛んでいく。予想だにしない一瞬の出来事に、女はスキルニルをばらまくことも忘れて目を奪われる。
 続いては第二の敵。両手に短刀曲芸人形。ぎゃりぎゃりと二本のナイフを研ぎ合わせながら、ハタヤマへ向けて駆け寄ってくる。その挙動は素早い。ハタヤマはそれを一瞬だけ目の端に捉えると、手にした槍を肩を使いくるりと腰だめに持ち直し、振り向きざまに、腰を入れておもむろに突き抜いた。曲芸人形は避けること叶わず、一撃の下に胸の中央をずしゃりと刺し貫かれる。ここで女が正気を取り戻し、目を剥いて危機感に肌を粟立たせる。
 第三の敵。紹介する間もなく短刀人形ごと振り下ろす槍の一撃を受け、人形同士ごっつんこ。ハタヤマは貫いた姿勢から腕をわっかのようにして槍を滑らせ、体の位置を入れ替え、掴みなおし、つるはしのようにそれを振るう。激突の瞬間、ちょうど刺さった曲芸人形が戦槌の槌のような役割を果たし、人形同士が顔面からぶつかり合い、眼球飛び出しもろとも粉々に砕け散った。
 女が人形をばらまく。彼女の額が光り輝く。ハタヤマは振り下ろした勢いに巻き込まれないよう、全力で叩きつけられた衝撃でたわみ暴れる槍を手放して、四足と見まごうほど姿勢を低くして駆け出した。ここまでの動きに一切のよどみはなく、全てが一連の動作として繋がっているようにみえるほどなめらかだ。
 新たにまかれた人形がむくむく巨大化しようとする。だが、遅い。ハタヤマはそれらの間を縫い、駆ける。手負いでもそれぐらいの動きはできるくらいに、秘薬のおかげで回復していた。さすがに一対多の戦闘はもう無理だろうけれど、速く動くだけならば問題は無い。
 手が伸びる。女の胸元へ。あと一メートル、数十センチ、数センチ、数ミリ――
「ぬふぉあっ!?」
 指先が触れるか触れないかの位置で、ハタヤマは弾き飛ばされた。瞬間風速で樹木すら薙ぎ倒しそうな突風が吹き荒れ、彼を巻き上げ跳ね飛ばしたのだ。女の額が光っているので、おそらくこれも魔宝具だろう、とハタヤマは宙を舞いつつ当たりをつけた。
「ぎゃふんっ!!」
 きりもみ回転して頭から墜落するハタヤマ。地面が砕けて粉塵が舞った。
「な、なんかこの国に来てからこっち、風の災難に縁があるなぁ……」
 落っこちたり落っこちてきたり、と頭を押さえ痛がりながらぶちぶち文句を垂れるハタヤマ。
「――ひ、卑怯じゃないの! 決闘の合図も無しに斬りかかるような真似をするなんてっ!」
「いちち……誰が決闘なんて言ったの? というか、姿を隠して隙を窺ってたやつが、そんなこと言って説得力あると思ってんの?」
 無法には無法だろう、と身もふたも無いことをしゃあしゃあとのたまうハタヤマ。たしかにハタヤマが気づかなければ、彼らは彼女に暗殺されていたのかもしれない。しかし一連の流れをかんがみれば、はた目に悪いのはどう見てもハタヤマの方だったりする。
 立場的にはどっちかというと日の当たる方面の存在なのに、言動はどう見ても悪役方面。どこまでも損をする男であった。
 女は形のいい、紫のルージュを引いた唇を苛立たしげに歪め、歯がわずかにこぼれるほどの憤慨をあらわにした。
「ふん! 勝負はわたしの勝ちね! もうこんな偶然、欠片たりとも通さない!」
「いいや、キミの負けだ。ボクはちゃんと“触った”からね」
「――?」
 訝しむ女。ハタヤマはにやりとほくそ笑むと、いつの間にか手にしていた布きれをぴらぴらと見せつけた。風になびく紫のタイツ地。
 女はきょとんとそれを見つめていたが、やがて気づく。
「そ、それはわたしの服!? きゃあああぁぁぁっっっ!!!?」
「いやぁ、眼福眼福」
 なんと胸元の布地が無惨にも破れ、豊満な乳房が丸出しになっていたのだ。バスト、おっぱい、お乳に夢風船。色々と呼び名はあるが、ようするに乳である。女は自分が女であることを思いだしたのか、相応な羞恥に自分を抱きしめ胸を隠した。
「あぁ、ほんのり人肌。良い匂いぃ……」
「やめんかこの変態がァッッッ!!!!」
 壮絶にすごむが相手はあのハタヤマである。生物失格のこの男が、怒鳴られた程度で行いを改めるはずがない。布地に頬ずりしくんかくんかするその姿は、どう見ても刑務所一直線だった。むしろ裁判をすっ飛ばして死刑だろう。むしろ今すぐ死ぬべきである。
「さあ、話を戻そうか」
「顔に巻くなァッ!!」
「じゃあ胸に「止めろばかぁっっ!!!」」
「なんだよじゃあ股間に「ッコロす! それやったら絶対に殺スッッッ!!!!」」
「あははははははははっ!!」
 天使のように澄んだ声で笑うハタヤマ。その笑顔に邪気はまったくない。だからこそ質が悪いのだが。
 この男が邪気無く微笑むのは。それは、心の底から本気で相手をおちょくっている時だけなのだ。
(そうだ、怒れ。もっと怒れ。そして時間を無駄にしろ)
 内心冷や汗を掻きながら、計画通りとほくそ笑む。時間さえ稼げばどうにでもなる。彼にはその確信があった。
 しかし。
「よくも……よくもわたしの肌を! わたしの肌を、体を愛でられるのは! ジョゼフさまだけなのにッ!!」
「は? ジョゼフ? 誰だよ?」
「――ジョゼフじゃとっ!?」
「跡形も残さない……苦しみ悶えて、ひゃっぺん死ねッ!!」
 どっから取りだしたのか、竜の顎みたいなゴツい盾を構える女。その標的はハタヤマ。
「え?」
 まさか火を吹くんじゃ、とありがちすぎる予想が頭をよぎり。
 ――ドゴォンッ!!
 そのまさかだった。
 人間一つ分真横を、紅蓮の火球が通りすぎる。火球はぎりぎり生き残っていた始祖像にトドメを刺し、爆音を奏でて大爆発した。
 首だけ振り返りたらぁー、と粘っこい汗を垂れ流すハタヤマ。
 のんびりしてる暇はない。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねええぇぇぇえッッッッ!!!!!」
「アーッ、ちょ、ほああぁぁあ!!!? だから女のヒスって嫌い――ッ!?!?」
 自分のことを棚に上げて。この男、自業自得という言葉を知らないのだろうか。
 どがんどがんと爆破コンサートが始まった。ダンサーはハタヤマ、演技ミスの対価は即死である。直撃すれば遺骨も残らないだろう。ただでさえ狭い室内を、アクロバティックに避けまくるハタヤマ。生きて帰れれば、明日は間違いなく筋肉痛だ。そのくせ散らばったスキルニルへ火球が直撃するよう逃げ方を調整している辺り、やはりこいつは転んでもただでは起きない男である。
 地獄絵図と化した礼拝堂。その中心、瓦礫に隠れてウェールズを庇うパリーは、人知れずわなわなと身を震わせていた。
「ジョゼフ……? なぜ現ガリア王の名が? しかもあの能力、そしてルーン……もしやあれは……」
「もしやあれは――っ!?」
「っ?!」
 独り言をオウム返しされ、びくりと驚き振り返るパリー。そこには、手でメガホンを作り、必死で叫び回るハタヤマの姿があった。
「言ってやってじーさん! 図星を突いてびびらしてやって――!!」
 どうやら論点をすり替えて、この場を凌ぐ算段らしい。さすがハタヤマ、コスい作戦である。
「額のルーンがなんだって――!?」
「そ……そのルーンはもしや始祖の使い魔四体の一。“ミョズニトニルン”ではあるまいか?」
「――っ!」
 突如鳴りやむ竜の遠吠え。ハタヤマはこりゃ助かった、と一息ついてパリーのそばへ降り立つ。
「みょずにるとん?」
「ミョズニトニルンですじゃ。始祖ブリミル様はその強大すぎるお力を四つにわけ、自らの子孫に授けなさった。その者の使い魔となった者は、さらなる特別な力を授けられるのでございまする」
 いきなり出てきた始祖伝説。突然すぎてにわかには理解できないハタヤマ。
「その一体が“ミョズニトニルン”。あらゆる魔道具を使いこなす、神の頭脳であり、神の本と呼ばれる使い魔なのでございまする」
「ふーん……まあ、なんとなく道理は通ってるねぇ。そのヨーゼフとかいう王様の名前が出てきたのも、始祖の血筋ーってこじつけられるしー?」
 ヨーゼフではなくジョゼフである。しかし、女――ミョズニトニルンらしき使い魔?――は、色々な危惧によりぐっと訂正を堪えているようだ。
 その様子が事実を裏付けているとも知らずに。
「恐ろしや……始祖の使い魔がこの世に現れたということは。“虚無”が現世に再臨したということ。そのようなことが明るみに出れば、世が混沌に包まれまする」
「あーらら。めんどくさそう」
 他人事のように呟くハタヤマ。実際他人事なのだが。
 竜の顎を構えるミョズニトニルン。
「おーっとそこまでだ。それ以上暴れ回るんなら、ボクだけ逃げてガリア王ヨーゼフは“虚無”ですよー、って言いふらしちゃうぞー?」
「――ハッタリだわ! そこに転がってる坊やはどうするつもり!?」
「いや、どうにもならなかったら見捨てるし。報復はするけど」
 あっさりとぶっちゃけるハタヤマ。ミョズニトニルンはあっけにとられる。
「ボクは本気になったらしつこいぞー? まずー、ガリアの首都リュティスにビラばらまくでしょー? 次にー、裏ルートで根も葉もない噂を流しまくるでしょー? そんでー、後はー……そうだ! 今回の件を知ってる少年たちにも声をかけて、“虚無”を探す運動でもしようか!」
「“虚無”を探す?」
「だって、王様が虚無魔法使ってきたら、もしかしたら太刀打ちできないかも知れないでしょ? そんとき、その虚無に対抗する“力”が必要になるかも知れない。なら、同じ虚無を立てればいいよね」
 ボクってあったまいー、とどうみても本気じゃ無さそうに、軽い調子でおどけるハタヤマ。しかし、この男はやると言えば本当にやる。
「見逃してくれるなら誰にも言わないよ? これは約束しても良い。ほんとに動くとすこぶるめんどいからね。この世界にそんな義理無いし」
「戯れ言を……! おい侍従! この男はあんなことを言っているわよ! こんなやつを信じて良いの!?」
「………………」
 パリーはあきれとも頭痛ともつかないような、複雑な表情でこめかみを揉む。
「このお方が、今仰ったことを本当に成し遂げてくれるのであれば。喜んで我らはここで朽ちましょう。ガリアと事を構えるならば、その隠れ蓑であるレコン・キスタとの抗戦は避けられぬはず」
 パリーは顔を上げ真摯な瞳で、ハタヤマの眼を覗き込んだ。
「憎き彼奴等を討ち果たし、我らの美しき故郷アルビオンを解放して下さるのでありますれば。この老いぼれ、陛下の命令に背き、殿下の無念を一身に背負い、地獄の業火で焼かれることも辞さない覚悟でございまするぞ」
 覚悟を秘めた燃える瞳。ミョズニトニルンはその決意が固いことを察し、苦々しく唇を噛み。ハタヤマはボク地雷踏んじゃった? と、迫り来る面倒な予感に顔面蒼白で固まっていた。
「じ、じいさん? これは言葉の綾ってやつで。ほんとにそこまでできるかどうかは」
「なにを仰いますやら。我らの想いを託すのです。その身果つるまで戦って頂きますぞ」
「へ、へへ。ボクが約束を守らなかったら?」
「いいえ。あなた様は必ず約束を守る」
 パリーは言い切る。
「何故なら。あなた様は他者のために、命を賭して戦える。そんなお方だからでございまする」
 昨晩全てを切り捨てて、自分だけ帰ることもできたはず。それをせず、なおかつ最も死亡率が高い役割を率先して引き受けたハタヤマ。その献身ともとれる行いが、皮肉にも彼の性格を証明してしまっていた。“力”を持っているから。そんな理由だけでは、なかなかそんなことはできない。
 パリーは詳細こそ知らないまでも、“遠見の鏡”にて垣間見た映像、血塗れで訴えるハタヤマの姿を知っていた。だからこそ、パリーは無意識ではあるが、ハタヤマのことを信じていた。
 この男なら血反吐吐き、臓物をぶちまけようとも。必ずや敵の喉笛に深々と喰らいつき、相打ちだろうと約束を果たす、と。
 ハタヤマはパリーのいやに真摯な瞳を真正面から受け止めて。
「……へいへい。精一杯努力させていただきますよ」
 諦めたように肩をすくめた。
 ミョズニトニルンは、目の前の得体の知れない男が腹をくくった気配を感じ、強引な手段にでられなくなってしまった。
 下手に刺激し完全に敵対すれば、間違いなくとんでもない脅威となる。せめてもの救いは、目の前の男がことさら世のためという事柄に関心を示さない性質をしているということか。『めんどい』という理由で、本当に誰にも言わなそうに感じるのが不思議だ。
 だが、不穏分子を見逃すことはできない。
「しかたないわね。もしもの備えと思っていたけど、仕込んでおいて正解だったようだわ」
 ミョズニトニルンはどこに仕舞っていたのか、水晶のハンドベルを取りだした。指先でつまみ、音色を奏でる。
 すると周辺一帯の瓦礫が突然かたかたと震え出し、ぼこっ、と土煙が舞った。
 そこから現れたのは。
「――なんと!? 骸骨剣士(スケルトン)か!?」
「いや違う! 竜牙兵(スパルトイ)だ!!」
 一目見て種族の本質を見抜くハタヤマ。竜牙兵は骸骨剣士とは違い、剣技に長け戦闘にのみ向けられた鮮明な思考を持つ。比べるのもおこがましいほど格が違いすぎるイキモノだ。ただの骸骨と思ってかかると、手痛い反撃を被るはめになる。
「あははははは! こんなこともあろうかと、部屋内に竜牙を散りばめておいたのよ! これなら逃げられないでしょう?」
「か、囲まれましたぞ! どうなされる!?」
 迫り来る明確な死の気配に、切迫して声を荒げるパリー。
「さあ、お前たち。仲間を欲しがっていたよねぇ? ――そいつらを戦列に加えてやりな!!」
 ミョズニトニルンの命令に応じ、髑髏の騎士たちが侵攻を開始する。ある者は鎖骨を、ある者は肋骨を、ある者は己が片腕を引き抜いて武器となし、徐々に包囲網を狭めゆく。白骨がカタカタと中身のない硬質音を刻む様子は、まるでこの空間だけが死者の国へと黄泉堕ちてしまったかのように不気味だ。。
 ハタヤマは油断無く全方位の竜牙兵を警戒しつつ、ミョズニトニルンに問いかけた。
「一つ聞きたい。“黒き魔女”を知ってるかい?」
「――……」
 明らかにミョズニトニルンの目つきが変わった。ガリアの王を貶した時と同じくらい、いや、それ以上の変化である。そこに垣間見えるのは、抑えようもない“憎しみ”というか――
「知ってるなら言っといてよ。『影でこそこそしてないで、とにかく一度会いに来い』って。一回だけなら、デートくらいは付き合ってあげるから、ってさ」
 ハタヤマはびしりと指を指し、ここに居ぬ魔女へ向け啖呵を切った。そしてしばし逡巡し――さらににやりと笑みを深める。
「なんとか間に合ったか」
「――?」
 余裕を示すハタヤマの態度に、ミョズニトニルンは目を細める。その時、遠くからときの声が聞こえてきた。わずかに気がそちらへ傾くミョズニトニルン。
 その一瞬を、ハタヤマは見逃さない。
「チェンジ!!」
「なっ――!?」
 ミョズニトニルンが気を取り直した時には、すでに白煙と閃光で覆い尽くされた後だった。
「寝床(おうち)を無くした皆様に、素敵な棺桶プレゼント!」
 白煙の向こうから強烈な冷気の突風が吹き荒れる。骨身も凍えそうなそのストームに、竜の顎の盾を必死に構え、その炎にて対抗するミョズニトニルン。
 永遠に続くかと思える寒さが、不意に止まる。
「――骨髄(しん)まで氷る絶対零度が、永久(とわ)の安眠(ねむり)を保証します」
 煙が晴れる。そこには、あますことなく氷塊の中に閉じこめられた竜牙兵たちが立ち並ぶ。それらはまるで墓標のように、冷たい輝きを放っている。
「不死者は冷気に弱いんだ。いつでも寝不足で、どこでも眠りたがってるからね」
 悪びれもなくそうのたまう声に、ミョズニトニルンは正気を取り戻す。煙の向こうを射抜くほど見つめる彼女の目に飛び込んできたのは、あまりにも巨大な猛禽類のシルエット。風韻竜にメタモルした、ハタヤマの姿であった。
「な……っ!? もう、“変身”するだけの精神力が残っていないはずなのに!?」
「たしかに“さっきまで”は無かったね」
 ハタヤマは竜の顔をコミカルに歪め、表情豊かに微笑んだ。
「“やっと”溜まったよ」
 じつはハタヤマ、作戦を立てた辺りですぐに“ダイト”を唱えていた。ハタヤマの世界の魔法で、魔力代謝を高めて、一定時間通常より多く魔力を取り込むという魔法である。これを使うと飛躍的に魔力効率が上がり、案外バカにできない魔法だったりする。
 通常、大気中に魔力が皆無なこの世界では無意味な魔法だが。今、この瞬間、この場所だけは例外である。
 何故なら。先の激戦により発生した魔力が。行き場を無くしたゆたっていたからだ。
 ハタヤマはそれらを飼い慣らし、自身の力として呼び込んだのだ。
「ほ、ほほ、ほぉ~……! “鏡”で少しだけ観てはいたが、間近で視ると違いまするなぁ」
「そりゃどうも。特別サービスだよ?」
 ハタヤマは未だ寝こけているウェールズをくわえ、背中に放り投げて乗せる。
「若様をよろしくお願いいたしまする。どうか、どうか、なにとぞ……」
「なに言ってんだい。あんたも来るんだよ」
「ほぇ?」
「いくら下界の知識があるとはいえ、これほどのぼんぼんがいきなり下町では生きらんないよ。支え、躾けるやつが必要さ」
「で、ですがわしは……」
 色々な葛藤が渦巻き、踏み切れない様子のパリー。ハタヤマはめんどうな理屈は一切合切無視し、あっけらかんと言い放った。
「どうせ後は死ぬだけなんでしょ? なら、もうちょっと仕事していきなよ」
 それからでも遅くないでしょ? と悪びれずにハタヤマは笑った。その毒気のない改心の笑顔に、パリーは放心したように息を呑む。
「お……おぉ……おおぉ……」
 パリーはぼろぼろと大粒の雫をこぼす。

 ――陛下。共に参らぬパリーをお許し下さいませ。
   この老いぼれは。殿下が一人前の王に為られたのを見届けてから。英霊たちの後を追いまする。

 許す、と敬愛する陛下の声が聞こえた気がした。
 パリーは深々と礼をする。しかし、誘ったハタヤマの本音は、ただたんに自分でウェールズの面倒を見るのがめんどかったからだけだったりする。これは彼のイメージを守るため、パリーには伝えないでおこう。
 ハタヤマはパリーも背中に放り乗せ、離陸体勢に入った。
「一気に雲を抜けるよ! 絶対振り落とされないように!」
「ま、待ちなさい! その坊やは死に場所を失い、きっとあんたを恨むはずよ! いいえ、きっと憎み、あんたを殺そうとするはず! それでもあんたはそいつを救うの!?」
「………………」
 じっとミョズニトニルンを見下ろすハタヤマ。
「――それが彼の原動力になるなら。それはそれで都合が良い」
 真っ直ぐにそう言い切ったハタヤマ。ミョズニトニルンは絶句する。死にそびれて絶望されるより、復讐に身を焦がし立ち上がってくれた方が楽。ハタヤマはそう言ったのである。
「それじゃ伝言頼んだよ! じゃあね!」
 ハタヤマはそう言い残すと、大空に向け大きく羽ばたいた。
 そしてあっというまに飛び立ち、崩落した城の切れ目を抜け、雲の向こうへ消えていった。
「くっ……!」
 悔しげに唇を噛むミョズニトニルン。しばし虚空を睨んでいたが、急に華やいだように豹変する。
「ジョゼフさまっ!? えぇ、えぇ……申し訳ございません、どんな罰でも……そんな、勿体ないお言葉を。え……そんな……! いけません! 危険です! 是非とも捜索と追撃の許可を……“魔女”の命令? ……そうですか。……分かり、ました」
 不手際に肩を落とし、労いに喜色を浮かべ、意に沿わぬ命令に諫言を送り、“女狐”の命令だと殺意を滾らせる。
 百面相のようにころころと表情を変え、最後にどうしようもない“嫉妬”が残った。

「ジョゼフさま……なぜ、あのような女を城に囲うのですか?
 ――誰よりもあなたの役に立つのは。愛しているのは、わたしだけなのに」



[21043] 六章エピローグ
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/12 19:35
【 六章エピローグ 『そして』 】



 その日、ハルケギニア全域に大きな衝撃が巻き起こった。
 アルビオン王家が崩壊。“白の国”は貴族派の手に堕ちた。
 その噂は瞬く間に大陸全土を駆け抜け、全ての人を、そして各王国の指導者たちに大きな波紋を投げかけた。

「………………」

 眼を閉じ、じっと瞑想に耽るアンリエッタ。
 その頬にはうっすらと涙の跡が残り、紗(うすぎぬ)の手袋に包まれた繊細な両手は、くっきりと皺が刻まれるほどに握りしめられている。
 その祈りは誰に向けられているのか。

「………………」

 ガリア王宮の奥深く、無能王の私室。
 そこではチェスの盤面を見下ろす、精悍な男が佇んでいた。
 年の頃は三十代前後。実年齢は定かでないが若々しく逞しい肉体を持ち、青い短髪と、ワルドに劣らぬ立派な髭が印象的だ。
 男前とも言える美貌。しかし、眼だけが嫌に吊り歪み、爛々と輝いている。

 ガリアの王――ジョゼフ一世――は黒のナイトつまみ、しばし逡巡したが。元の場所へ黒のナイトを戻し、盤ごと窓辺に移動させて背を向けた。

 盤上に残るは白のキングのみ。この盤面が示すものとは。

「………………」

 ロマリア教皇は礼拝堂にてブリミル像へと祈りを捧げる。
 果たして、この国主はなにを思うのか。





 アルビオン王国で起こった革命戦争により、戦死した者は数知れず。
 特に、王党派は最後の一兵までその命を尽くし戦い抜き。
 負傷者すらあますことなく全員が死に絶えた。
 と、各国の諜報、そして噂好きの主婦や酒飲みたちは口を揃えて断言していた。

 その真実は。

 生き残ったのは、トリステインの特使たち数名。
 己の宿命に立ち向かいし異邦の魔獣。

 そして。

 アルビオン王国軍、正規に含まれし生き残りは二人のみ。
 たった、二人。


















 ヴェルサルテイル宮殿。
 その奥に位置する〈妖精の庭園〉と呼ばれる薔薇園の中心に、ぽつんとガーデンパラソルが差されている。
 その下には黒のロココ調なテーブルセット、そしてテーブルの上には、純白の地に映えるような鮮烈な赤薔薇の焼き模様が施されたティーセットが置かれている。
 どれも目ん玉が飛び出すほど高そうで、実際、ここ一体にある物だけで平民の数十年分の年収に相当するようなシロモノであった。

 そこに座る〈漆黒の女性〉。
 静かに、白亜に赤薔薇のカップに口を付け、じっ……とテーブル中央に鎮座した水晶玉を、熱っぽく見つめている。
 そこに映るは黒衣の男。
 黄金の瞳が猛々しく輝く、獅子のように苛烈で、それでいて繊細な優男。

 水晶玉にノイズが走る。
 すると、場面が戻り、また黒衣の男が映る。
 どうやらビデオ再生のように、何度も何度も同じ場面を繰り返しているようだ。
 漆黒の女はその映像を、飽きることなく眺め続ける。

「何年この日を想い、過ごしたか」

 漆黒の女は水晶玉に手を伸ばすと、壊れものでも扱うように、ゆっくりと、大事に頬を寄せる。
 そして愛しげに頬ずりすると、赤い紅を引いた唇を映像に重ね、吸い、離した。
 水晶にうっすらと紅が残る。

「待ちわびたぞ。逢いたかった」

 かすれたようなウィスパーボイスで、ここに居ぬ男へ愛を囁く。
 びしりと指を突きつけて、不敵に笑い啖呵を切る映像の男。
 それを眺め、背筋に電流が走ったように身震いを起こす。
 そして陶酔したようにとろんと眼をとろけさせ、薄く、陶器のような白い頬を朱に染めた。



「もう少しだ。今、逢いにゆくぞ



















 ハタヤマ」



[21043] 六章小物話
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/14 02:14
【 六章小物話 『イーグルフェザー団』 】



EX1 サイドH:一日目深夜

 目を覚ますと、身動きがとれなかった。
「……んあ?」
 身体がデーモンスパイダーの糸に絡め取られているかのように、身を捩っても自由が利かない。力を込めるごとに身体がぶらぶらと揺れ、ぎしぎしと縄が軋む音がする。
 羽帽子――コルトゥヌスが不審に思い見下ろすと、自分は木にぐるぐる巻きで逆さ吊りにされており、虚空には月が輝いていた。
「な、なんだこれわぁ――ッ!!?」
 天地が逆転している。足首から首元まで、あますところ無く茶色い縄が巻き付いており、中空をもぞもぞと所在なく揺れるその姿はまさに蓑虫であった。
「お、起きたね」
「ふん、水をぶっかけてやろうかと思ってたのにねえ」
 首の可動域を限界まで酷使し、声のする方へ首を捻る。そこには金塊色の瞳が目立つ黒コートの男と、流れるような癖のない長い緑髪が映える眉目秀麗な女がいた。
 女は器量はよいのだが、いかんせん睨みつけるようなつり目がその調和を乱しており、もったいないものである。女は、水がなみなみ汲まれた桶を抱えていた。
「なんだ貴様ぁ! このわたくしをかの名高き『イーグルフェザー団』の団長、コルトゥヌス・デ・イグノセスと知っての狼藉かぁ!!」
「へえ、名字があるのか。ということはこいつ貴族なのかな?」
「はん、馬鹿馬鹿しい! こんな卑しい野郎が貴族なわけないだろう! 大方自分で名付けたんだろうよ!」
 ぐ、と言葉に詰まるコルトゥヌス(自称)。どうやら図星らしい。
 コルトゥヌス(仮名)は助けを求めるように首をせわしなく振る。仲間はどこだ、何故自分を助けない。
「キミの部下たちならあそこだよ」
 ハタヤマはコルトゥヌス(偽名)の、蓑虫の腹辺りを掴んで半回転させた。後ろ半分の世界を視界に映した彼は、目を疑う。
 なんと、仲間たちは全員ふんじばられ、巨大な大木に繋がれていたからである。
「彼らには魔法で眠ってもらってる。たっぷり明日の朝まで、何が起ころうと目を覚まさないだろうね」
「くっ……な、なにが目的だ貴様! わたくしにこのような無礼を働いておいて、覚悟はできているのだろうな! 殺すぞ! たとえどれほどの時間が掛かろうと、我ら『イーグルフェザー団』は必ずや貴様を――」
「やかましいよキミ」
「ぐべぶっ!」
 ハタヤマに顔面を鷲掴まれ、強制的に黙らされるコルト(略称)。コルトは脊髄に刻まれた強烈な苦痛がフラッシュバックし、無意識にじっとりと冷や汗が吹き出る。
 ハタヤマは、これみよがしにばちばちと蒼白い魔力光を腕に纏わせる。すると、コルトはそれだけで身も凍るような恐怖に駆られ、ひたすらいやいやと情けなく首を振り回した。全身の神経を針で刺し貫かれたような痛みが、まだ脳裏に残っているらしい。
 ハタヤマは嘲るように鼻で笑うと、迸らせた魔力を収めた。
「あれだけのことをしておいて、まさかただで帰れるとか思ってないよね」
 ハタヤマは邪悪に口元を歪める。
 フーケは一歩引いて流れを俯瞰していたが、彼女もわずかにサディスティックな笑みを浮かべた。
「傭兵ってことは理に棹さす輩、君等は叛徒側の雇われだろう。ボクはキミたちの情報が欲しい」
 ハタヤマはにんまりと嗤った。
「拷問タイムといこうか」

「あち、あちあち、ほあっちぁあ!!」
 森に悲鳴が木霊する。非常に近所迷惑だ。
 先ほどからコルトは、蒸し焼きにされそうな熱に苦しみっぱなしだった。彼の頭上には焚き火がくべられ、煌々と赤い焔がくゆらいでいる。
「げほ、ごほ……っ! き、貴様等ぁ、こんなことをして許されると思っているのか!? この国を攻め落とした暁には、必ずや草の根分けても貴様等を見つけ出し復讐してやるぞ!!!」
「弱いやつほどよく吼えるねぇ。下っ端のぺーぺーのくせしてさ」
「傭兵なんて、みんなこんなものだよ」
 コルトの顔はもう煤だらけで、煙を吸いすぎて赤紫に顔色が変色している。両目から涙をだらだらたれ流し、見るも無惨な状態だ。熱に顔を炙られて、蓑虫のようにぶらんぶらんと振り子打法を連発していた。
 ハタヤマはコルトが弱ってきたころを見計らい、質問を投げかけた。
「何故この国はこんな状況になったんだい? 相手は腐っても国王率いる王権派だ。ぽっとでのテロリストが潰せるようなもんじゃない」
「ふん、無知なる他国人め! 貴様等に語る口などないわっ!」
 ハタヤマは思い切りコルトの頬を張った。フーケが彼に行ったような強烈だが配慮のある一撃ではない、本気で頬肉を抉らんばかりの張り手である。
 コルトはぐふ、と苦悶の声を漏らし、血を吐き出した。口内が切れたらしい。
「無駄口を叩くな。質問に答えろ」
「き、貴様……何故……」
 ハタヤマは逆の頬を張る。ぎゃん! とコルトの身体はくの字に暴れた。
「答えろ」
「……わ、わたくしも組みして日が浅い。人伝に聞いた話になるぞ」
「構わない」
 ハタヤマは、見る者を吸い込むような金色の瞳で、コルトの瞳を覗き込む。そして何事か頷くと、ハタヤマはフーケから桶を受け取り、燃えさかっていた焚き火にふりかけた。焚き火はじゅ、という火の燻る音と共に消え失せる。
 コルトはぎり、と唇を噛んだが、やがて語り始めた。
「我らは『レコンキスタ』。崇高なる使命を担った、選ばれし者の一団である」
「レコンキスタ(再征服運動)……」
 ハタヤマの知識の中では、国土回復運動という訳もあった。ということは、こいつらはなにかを奪回したいのだろうか。
「察するに、目的は世界征服かい?」
「ふん、そのような下劣な思想ではない。我らは元々、地上に住む民であった。しかし、古の時代、なんらかの要因で住んでいた土地が宙に浮かび上がった。それゆえ、このような空の孤島に隔離されてしまったのだ」
 コルトはツバを飛ばして息巻く。
「これは聖戦である。在りし日の故郷、大地を我らの手に取り戻すのだ」
 コルトは熱に浮かされたように、爛々と瞳を輝かせ語る。ハタヤマは頭が痛くなってきた。
 なんだこいつら。ただの危ないテロリストじゃないか。
「ということは……おそらく、貴族派が煽動しているねぇ」
「なんでそう思うの、フーケちゃん?」
「何処の国にでもいるやつらさ。王を倒して、自らの地位を上げようとしているだけ。見栄えのいいおためごかしを振りまいちゃいるが、結局は自分たちの都合なんだよ」
「違うッ!! 我らは真に国のためを思い、腰を上げぬ腰抜け王を誅せんとしておるのだッ!!」
 コルトはぎしぎしと身を捩り、飛びかからん勢いで怒鳴った。どうみても普通ではない。フーケは馬鹿にしたように鼻で笑い、二の句を継ごうとした。
 しかし、それはハタヤマが割って入り中断させられる。
「はいはい、どうでもいい話は止めてね」
 ハタヤマは膝をつき、目線を合わせる。
「ボクが聞きたいのは二つだけ。あんたらの指導者と、急速に力を蓄えた理由だ」
 何処の国にでもいるテロ組織なのに、レコンキスタだけが突出するのはおかしな話だ。原因には、必ず理由がある。
「どうせパトロンでもいるんでしょ? そいつの名前を教えてくれ」
「……貴様、何処の国の者だ。噂を聞きつけて派遣された密偵か」
 ぱん、と乾いた音が響く。コルトの身体が振り子のように揺れた。
「質問しているのはこっちだ」
「……くっ。知らん。我々のような末端の兵には情報が与えられていない」
「本当かい? 嘘だったら――」
 びしびしと耳をつんざく怪音を生みだし、ハタヤマの右手が光って唸る。
「ま、待て! 本当だ! 嘘ではない!!」
 見せつけるように眼前で四本の指を踊らせ、腕を引き絞り、拳を固く握って――思い切り振りぬく。
「ひいいぃぃいっ!!?」
 魂が抜け出るような悲鳴を上げるコルト。ハタヤマの拳は彼の顔面の寸前、拳の風圧が感じられるほどの近さでびたりと止まった。
 どうやら嘘ではないらしい。
「はぁ……じゃ、もうそれはいいよ。あんたらの指導者を教えてくれ。それで許してあげる」
「………………」
 べこべこにひしゃげた顔で、苦虫を噛み潰したように顔を歪めるコルト。腫れと鼻血で酷い顔である。
「それだけでいいのかい? 聞けることがあれば全部吐かせちまえば」
「別にいらないよ。来る途中に飛んでた船をみりゃ、とんでもない航空戦力だってことは分かったし。この国は外部から隔絶されてるから、意表をついた奇襲なんてできやしない。鳥は空でしか飛べないのさ」
 ハタヤマがレコンキスタの指導者を知りたがっているのは、ただ単に金になりそうだからである。
 情報も金になるから、余裕があれば探ってきてくれ。そうレナードにいわれていたことを思い出したのだ。
 コルトは追いつめられたように顔を青くして震えた。
「――い」
「い?」
「言えない」
 ぱん、と乾いた音が響いた。しかし、顔を色とりどりの赤で染めようと、コルトは口を割ろうとしない。
「それだけは言えん。言えば、わたくしも死人部隊に――」
「『死人部隊』?」
 コルトは目を剥き、慌てて口をつぐんだ。どうやらよほど喋りたくないことのようだ。
 ハタヤマは興味深げに、アゴに手をやり頷いた。
「ほう、興味津々だね。是非とも話してもらいたいな」
「頼む! これだけは勘弁してくれ! 口にすれば、わたくしは殺されてしまう!」
「いや、黙ってりゃばれないでしょ。ボクだって言いふらす気はないし」
「そういう問題ではないのだ! わたくしは『あの方』の前で誓った! その誓約として、『虚無』の力をこの身にかけられたのだ!」
「『虚無』ぅ? ……なんか、話が見えないんだけど」
 コルトはただひたすら自己完結型の恐慌に陥っており、話す言葉が要領を得ない。なので、ハタヤマは話の内容がまったく理解できなかった。
「あら、どうしたのフーケちゃん?」
 ふとフーケに視線をかすめ、怪訝に眉をひそめるハタヤマ。見ると、フーケは驚愕に眼を見開いていた。
 ハタヤマの声にはっと気を取り戻すフーケ。
「な、なんでもないよ」
「……ふーん」
 明らかに様子がおかしかったが、ハタヤマはあえて追求しなかった。無駄に虎の尾を踏んで、猛られたらたまらないからだ。
 ハタヤマは懐から『ある物』を抜いた。
「そ、それは……っ!?」
 目ん玉が飛びださんばかりに縮み上がるコルト。ハタヤマが胸の内ポケットから抜き出し、悠々と手の中で弄んでいるそれ――それは、紛れもなく彼が愛用していた短銃であった。
「これ、弾入ってんだよね」
 ごりっ、とコルトのこめかみに銃口を突きつけるハタヤマ。
「――さあ、親玉の名前をどうぞ」
「……い、言えん」
「言わなきゃ脳髄が飛び散るよ?」
「それでも言えん! 言えんのだっ!!」
 身を切るように痛切な訴え。しかし、ハタヤマは無情にもそれを無視した。

「ぐがぁ゛っ!!!?」

 打ち上げ花火が爆発したような破裂音。それは暗い森の中を虚しく木霊した。
「さっさと吐いてくんないかな。ボクはこんなくそつまんないことなんて止めて、さっさと寝たいんだよ」
 ノズルから立ち上る白煙を、格好つけて吹き消すハタヤマ。状況が状況だけに、そこそこさまになっているのが不思議だ。
 くくりつけられていた縄が千切れ、地面に叩きつけられたコルト。彼は簀巻きのままぴくりとも身動きを取らず、地面には液体が広がっていく。
 ――同時に、鼻を刺す臭いも。
「うへぇ、漏らしやがった。ここはトイレじゃありませんよー」
「………………」
 シニカルに頬を歪めるハタヤマ。彼が放った銃弾はコルトの脳天を貫かず、足先のロープを撃ち抜いた。地面に広がった液体は赤黒い血液などではなく――水、塩素、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、リン酸などのイオン、クレアチニン、尿酸、アンモニア、ホルモンなどが含まれる液体。まあ、いうなれば尿である。コルトは極限の恐怖が銃声により決壊し、失禁してしまったのだ。
 フーケは、ぴくぴくと様々な液体を流しながら震えるコルトとそれを冷ややかに見つめるハタヤマを、止めるでもなく、加わるでもなく、黙って観察していた。
「ラストチャンスだ」
 コルトの髪を掴み、強引に顔を引き立たせるハタヤマ。眼前には見せつけるように、短銃をちらつかせている。
「吐け。言わなきゃ殺す」
「――い」
「い?」

「……い、言えん」

 ハタヤマはコルトの頬に指を差し込み口を開かせ、乱暴にノズルを突っ込んだ。うがごっ、とくぐもった悲鳴が漏れる。
「首を振って答えろ。言うか、言わないか」
 氷点下の吹雪のようなハタヤマの声。コルトの瞳を覗き込む黄金の瞳は猛獣のようにぎらつき、ともすれば今すぐにでも喰い殺されていまうのではないかという錯覚をかきたてた。
 コルトは、ガタガタと震え、涙を流しながら――首を横に振った。

 かちん。

「――……っ!」
 コルトの背が跳ねる。ハタヤマがトリガーを引いたのだ。当然弾は入っていないので銃弾は撃ち出されないが、その恐ろしさを嫌というほどに知っているコルトは、心臓が止まるほど怯えた。
 ハタヤマはまたもトリガーを引く。

 かちんかちん。

「む、むが、むが――っ!!」
 たとえ弾が込められていないとはいえ、口中でこんなことをされれば誰だって生きた心地はしない。
 コルトは半狂乱でノズルを吐き出そうとしたが、ハタヤマはそれを許さなかった。どれだけ頭を振り乱そうと、ハタヤマが掴んだ頭を離してくれない。それどころか、暴れるたびに深くノズルを差し込んでくる。なので、コルトは嘔吐感と恐怖と絶望がないまぜになり、完全なるパニックに陥っていた。

 かちん、かちんかちん、かちんかちんかちんかちんかちんかちん――

「む、むぅ! むぁぃぁぅう゛――っ!!」
 コルトは心の底から恐れおののいていた。冷たく、無表情で、指先ほどの慈悲もなく、トリガーを引き続けるハタヤマの姿に。

 かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん。

 永遠に続くかとも思える演奏会。コルトが白目を剥く寸前、激鉄の音は鳴りやんだ。
 ハタヤマはゆっくりとノズルを引き抜いた。
「――名前、教えてくれるよね」
 そういって天使のように笑うハタヤマ。しかし、コルトからは月光のせいで表情が見えない。だが、深い黒に沈んだ顔の中で、獣のようにぎらりと鋭い金色の瞳だけは、浮き出るように爛々と輝いていた。
 コルトはハタヤマのその背後に、地獄の底から這い出てきた、悪魔の姿を幻視した。
「ぉ、お……」
「お?」
「オリヴァー――……」
 そこまで語り、コルトに異変が起こった。唐突にぐりんと白目を剥き、泡を吹いてのたうち回り始めたのだ。
「■■■■■、■■■■ッッッ■■■■■■■!!!!」
「な、なんだぁっ!?」
「様子がおかしい、ひとまず離れな!!」
 まるで悪霊が憑依したかのように、不自然に全身を振動させているコルト。眼がイってしまっているので、夜ということもありかなり恐い。
 髪を振り乱し断末魔の如き金切り声を上げ、三分半ほど陸に揚げられた魚が跳ねる様子(三倍速)ようにびきびきと暴れ回ったが、突然、今度は糸が切れたようにぱったりと沈黙してしまった。
「……も、もしも~し?」
 おそるおそる近寄るハタヤマ。彼は白目を剥いて仰向けに倒れているコルトの眼前に手をかざし、意識を確認する。そして予想通り反応がなかったので、手首の脈をとってみた。
「――ッ!?」
 血相を変え、馬乗りになるハタヤマ。そしてコルトの胸部中央に両手を添えると、強い力を込めて心臓マッサージを開始する。
「ど、どうしたんだい?」
「脈がない! 心臓が止まってる!!」
 フーケは思わず後ずさった。「殺される」といっていたのは、まさかこういうことだったのか。
 しかし、フーケの眼には、その事に慌てふためいているハタヤマの姿が不自然に映った。
「どうせ殺すんだろう? なら、わざわざ蘇生させなくても」
「馬鹿、嘘に決まってんでしょーがッ! コイツを殺してボクになんの得があるってんだッ!!」
 心外だと憤るように怒鳴り返すハタヤマ。その様子はこれまでのいい加減だった立ち振る舞いが霞んでしまうほどに真剣で、心に迫る怒声だった。
 右手をコルトの心臓にあてがい、右手首を左手で押さえ、一心に心臓マッサージを続けるハタヤマ。しかし、一分ほど繰り返して、二度目の心音確認で鼓動が戻らないとなるや、方法を切り替える。
「死ぬな、死ぬな――起きろぉッッッ!!!!」
 声を荒げて呼びかけながら、右手に魔力の電流を通す。バグンッ! と跳ね飛ぶような轟音とともに、彼らの身体が宙に跳ねた。魔力による電流マッサージだ。
 強すぎて心臓を潰してしまわないように細心の注意を払いながら、かつ迅速に心音確認とマッサージを繰り返すハタヤマ。一度流しては鼓動を確認し、ダメならばもう一度電流を流す。
 そして三度目のトライ経て、コルトは息を吹き返した。
「――ご、ごほ、ごふっ、がはっ、ゲホッ!!」
 むせるように二、三度咳き込み、失った酸素を求め喘ぐコルト。しばらくぜえぜえと苦しんでいたが、やがて呼吸が整い、虚ろな瞳でぼんやりと虚空を見上げ始めた。
 どうやら落ち着いたことで、放心状態になったらしい。
「ふぅ……危なかった」
 額の汗を拭うハタヤマ。その姿からは、先ほどのような残酷な影が消えていた。
「なあ、あんた」
「ん、なに?」
「どうしてそいつを助けたんだい? 下手すりゃ命まで狙われるってのに」
「言ったじゃないか。殺す必要はないからさ」
「でも、さっきは脅してたじゃないか」
「ボクは弱者をいたぶって悦にいる嗜好はないけど、こいつらは悪人だ。悪人なら――死なない程度にはなにしてもいいと思うよ」
 諧謔的に顔を歪めるハタヤマ。その邪悪な微笑に、フーケは背筋に冷たい氷をあてられたような寒気を感じた。自身も相当の修羅場をくぐってきたとは思っているが、この男も同じだ。自分とは違うが、同じくらい、いや、それ以上の暗闇の中を歩んできているようだ。
「ま、まったくの徒労に終わっちゃったけど――」
「噂を……聞いた……」
 やれやれと肩をすくめたハタヤマの声を遮り、かすれた声が上がった。ハタヤマとフーケは言葉を消し、注目する。
「近々、総攻撃が行われる……『あのお方』のそばに、急に現れた男が……進言したからだ……」
「「………………」」
「上官が、ぼやいていた……あんな何処の馬の骨か分からん男を、信用して……皇太子の、暗殺など……」
 壊れたオルゴールのように、とぎれとぎれに言葉を紡ぐコルト。目の焦点はあっておらず、内容はうわごとのように要領を得ない。
「信用ならない、内通者……トリステイン人の……グリフォンを駆る、壮年の男……」
 この暴露はいったい誰に向けたものなのか。恐怖を超越した上での思考停止か、はたまた命を救われた礼か。それは本人にしか分からない。
「やれやれ、どこもかしこもキナ臭いねぇ。この国ももうお終いっぽい――あれ、どうしたのフーケちゃん?」
 見ると、フーケは複雑な表情で俯いていた。先ほどからずっとおかしいフーケの様子に、ハタヤマは気づかわしげに声をかけた。
「……はっ!? い、いや、なんでもないよ」
「……? 気になるなぁ、よかったらボクに相談して」
「『お互い詮索は無し』なんだろう? 余計なことを聞くんじゃないよ」

 とりつく島もないフーケ。ハタヤマはつんとそっぽを向いてしまった彼女に、苦笑いを浮かべるしかなかった。





EX2 サイドH:二日目昼


 木漏れ日射し込む森の中、足場の悪い林道を進む一団があった。
 統一性のない服装は彼らが流れの者であり、この国(アルビオン)の者ではないことを示している。
「しかし、なーんで俺たちゃこんなとこにいるんだろうな!?」
 顔に傷がある男が、両手を頭の後ろにやって伸びをしながら大欠伸をかいた。
 常に叫ぶような声量で話すので、やたら響いてやかましい。
「昨日の夜にかけての記憶がありませんねぇ」
 猫背で背の低い男がしきりに首を捻る。たしか昨日は、自分たちの非番の番だったので、革命成功を祈願した宴会をしようと街へ繰り出すところだった。といっても傭兵なんて休みのたびに宴会する生き物なので、別になにもなくとも飲みに行くのだが。
 その後、たしか『なにか』を見つけたはずだったのだが――肝心のそこが思い出せない。
「めが~さめたら~もりだった~」
 巨漢のノッポがあとを接いだ。放り出されたように乱雑に転がされていたので、なにかあったのは分かる。しかし、なにが起こったのかは分からない。
 彼らはずっと顔突き合わせてうんうん唸っていたのだが。やがてそれになんの益もないことを気づき、やめた。
「貴様等、無駄口叩く暇があったら歩け。すでに交代時間は過ぎているんだぞ」
 先頭を歩くコルトは気が気でないようだ。朝には陣に帰還しなければならなかったのに、もう太陽は頂点に差し掛かっている。このままでは敵前逃亡か脱走と見なされ、殺されてしまうかもしれない。
 そう考え、活を入れるため振り返ったのだが。
「ぷっ」
「ブフッ」
「ぶはははははは!!!!」
 突然、全員が爆笑した。彼らの視線はコルトの顔面にあますことなく注がれている。コルトは憤慨した。
「貴様等、何事かッ!! 隊長を笑うなど懲罰ものだぞッ!!」
「い、いや、だって――」
「そんな顔見せられちゃ笑うしかないだろう!!」
 顔傷男は指さして腹を抱えた。彼の示すコルトの顔面――そこには、ある『模様』が刻まれている。
 それは顔の中心に直径五センチほどの茶色い丸が一つ、そしてデコに三つ、両耳のそばに一つずつの小さな丸である。
 それはまるで、誰かの手形のようだった。
「『寝て起きたらイケメンになっていた』! こりゃ傑作だ!!」
「団長、間違いなく男があがってますよぉ?」
 口々に囃し立てる彼の部下たち。発言内容は褒めているのに、その表情はどう見ても伴っていない。コルトはさっきから何回繰り返したか分からないやり取りにまた憤慨し、ヤカンのように顔を真っ赤にして憤慨した。

 彼らはティファニアのおかげでケガは治してもらえたのだが、コルトだけはハタヤマの策略により顔の火傷のみ治してもらえなかったのだった。もしかしたら、ハタヤマは罰ゲームのノリでそうしたのかもしれないが、奇しくも効果覿面であった。
 どどんまい。





EX3 四日目終了間際~After

 アルビオン王国王城、ニューカッスル。その近辺、両軍睨み合う一触即発の平原地帯――より、大きく離れた雲の上。練乳綿菓子のような白く、まとわりつく雲間を縫うように、ゆるゆると漂う一隻の船があった。
「………………」
 くたびれたような頼りない髭をたらし、哀愁漂う背中の男が甲板にモップがけをしている。ごーしごし、ごーしごし。
「団長、だーんちょ」
 霧の中から輪郭が浮き出るように、顔に傷のある男がぬっと現れる。
「なんだ。任務中だぞ」
「なーんで俺たちゃこんなとこにいるんですかい。戦場はどこですかいや」
 顔傷男はとても不満そうだ。んふー、と鼻息荒く腕組みし、フラストレーションに身を震わせている。
 別の方角から声が飛んでくる。
「しょうがないですよ。あっしら、哨戒任務へ回されちまったんですから」
 背の低い、とても卑屈な顔をした男がつまらなそうに言った。
 この男が言うように、『イーグルフェザー団』の猛者たちは前線の部隊に組みこまれず、城や周辺から逃げ出す船や竜の見張り及び国外からの横やりを警戒する、哨戒部隊に入れられてしまっていた。言ってみれば、武功ともっとも遠い位置にある、完全なる貧乏くじ部隊である。彼らは先日の遅刻により部隊評価にケチがついてしまい、体よく左遷されていた。
 団長――コルト――はぬぬぅ、とハシバミ草を奥歯で噛み潰したかのように顔をしかめ、やる気のない部下を怒鳴り散らした。
「貴様等、この崇高なる任務を何と心得る! 我々は前線の同士たちの背中を守る盾、栄誉ある殿を申しつけられたのだぞ!」
「しんがりって、ねえ」
「どんだけ遠いんすか」
 部下たちは顔を見合わせる。どうにも身が入らないようだ。
 見回せば、同じように気の抜けた船員たちの姿がちらほらと点在し、船は弛緩した空気に包まれている。哨戒船とはいえ歴とした軍船、イーグルフェザー団の五人だけで動かすにはちと巨大すぎる。彼らの他にも、運悪くこの任務にあてがわれた傭兵たちがいた。
 彼らの空気は大きく分けて二分されている。すなわち、金さえもらえりゃどこでもいい、むしろ死ぬ可能性がなくて楽だと喜んでいる者たち。そして、戦場で武勲を上げ、あわよくば貴族かそのお抱えの騎士団長に成り上がろうとこんな浮遊大陸くんだりまで来たのに、話が違うと嘆く者たちである。前者は願ったり叶ったりだろうが、後者はそんなこと言ってられない。ここまでの大規模な戦争は久しぶりだ。これを逃せば次の機会が何時になるか分からない。是が非でも前線に行きたかったのだ。そんな彼らの落胆は計り知れない。
 なので、指揮のためつけられた貴族の怒声も聞こえているのかいないのか、皆だらだらとナメクジのように、無意味に蠢き廻っているのだった。
「くぉら――! 貴様らたるんどるぞ――!! もっときびきび動かんかァ――ッ!!」
 一段高い操舵室から癇癪のような金切り声が上がる。この一団全体の責任者である、鋭角の赤い髭が尖りまくったボンボヤジ小隊長である。彼はよほどこの任務が気に入らないのか、出航する前から顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいた。しかし、当然ながら地団駄を踏んでも配置が換わるなんて事はありえない。なので彼は、部下に当たり散らすことで、現状への憤りを吐き散らしていた。
 あたられている部下たちは堪ったものではない。しかし、一応の上司ゆえ、腹が立つからといってしばき倒すわけにもいかない。なので彼らは幽鬼のように「へーい」と力なく返事を返し、しかし内容はまったく聞かないというガン無視戦法で対抗していた。
「部隊長殿は相変わらず元気だねぇ。ツバを飛ばしまくってからに」
「喉が枯れないんですかねぇ」
 いつものこと、と顔を見合わせてほとぼの談笑にふける部下たち。部隊長殿は全く人望がないようである。まあ、荒くれ者の傭兵たちを整然と操るなんて芸当、王族か聖女かとんでもない大富豪くらいのものである。
 コルトはなおもクラゲのようにふぬけた部下たちに何事か叱ろうと口を開いたが、なにを言っても無駄かと諦め、黙って掃除を再開した。

     ○

 それは、コルトが休憩中に起こった。
「な、なんと!?」
 唐突に淡い緑光の帯が空を貫くように立ち上る。その距離、おそらく船から五十メートル。驚きでついた頬杖がへりからずり落ち、思い切り顎を打ってしまう。口が切れた。
 しかしそれだけで終わらない。
「ぬぅわんとぉっ!!?」
 逆側、ニューカッスルの方から突如猛烈な突風が吹き荒れ立ちこめる雲が晴れたかと思うと、遠く、王城の一角から、極大の竜巻が発生した。魔法のクラスなどはよく分からないが、一目見て尋常じゃないメイジがあれを放っていることが分かる。 
「いったいなんだあれは!?」
「なぜ城から魔法が上がる」
 コルトの隣にいる船員たちから声が上がる。たしかに、もう全ての兵が出払っているはずなので、城内から魔法が上がるのは不可思議なことだった。
 混乱はそれだけでは終わらない。
 光の柱が急に傾き、振りかぶるように遠ざかると。まるで船を狙っているかのごとく、猛烈な速度で今度は迫ってきた。
 ――ドゥガーンッッッ!!!!
「ぎゃあああぁぁあぁぁあ!!!?」
 コルトの真横、人一人二人分真横を、緑の光が撫で落とす。光が通った後はまるで鋭利な刃物が両断したかのような傷跡がつけられ、ぱっくりと船側が割れてしまった。
 コルトの立ち位置がもうちょっと横にずれていたら、彼は影も残さず消し飛んでいただろう。
「は……ははぁ――……」
 腰が抜けてへたりこむコルト。小便を漏らさなかったのは立派だ。
「団長、大丈夫かいっ!」
「ご無事ですかぁ!」
 駆け寄ってくる部下二人。部下たちの忠誠心に目が潤むコルト。
「あんたが逝ったら誰が上官に媚びへつらうんだよ! 俺は契約交渉役なんてやだぜ!」
「また新しい箱に入り直すのは手間です。面倒を増やさないでくださいよ」
 潤みかけた涙腺が枯れる。部下たちの利己心に憤るコルト。
 ボンボヤジ小隊長の怒声が響く。
「と、とととにかくだ! 本隊に伝令を送り、本艦は修復が終わり次第周囲を索敵、場合によっては即時戦闘状態に移行する! 警戒態勢を怠るなァ!! ゴロツキどもォ、きびきび動けェ!!!」
 言うなりボンボヤジはすぐさま書面を作成し始め、備えつけの竜兵一人が飛び立つ準備をし始める。ボンボヤジ小隊における竜兵は、その一人だけだった。
「おやおや、慌ただしくなってきた。こうなっちまったら仕事しなきゃなぁ」
「団長、あっしらはあっちの工作兵に混ざってきまさぁ。団長は腰が治るまで、そこでゆっくりしててくださいよ」
 二人はもうコルトに関心をなくし、速やかに、金槌や釘を片手に駆けていく一団に加わった。彼らも一応プロなので、有事の際にはきちんと仕事をする。旗色が悪くなればすぐに尻をまくるとはいえ、はなから負ける気では戦わないのである。
 コルトはそんな部下たちの態度を注意することも忘れ、しばらくその場で放心していた。

     ○

 しばらくして、やっとえぐれた船体の修復が終わった。
 小隊長はすぐさま命令を下し索敵を再開しようとしたが、そこへ物見兵からの報告が入る。
「ニューカッスルから飛び立つ風竜を発見! 数は一騎!」
 金属管から飛び出すがなり声。それを耳に入れた瞬間、ボンボヤジの顔が輝くようにいやらしく歪んだ。
「――ゴロツキどもォ、弓を構えろっ! 風竜を射落とすぞォッ!!」
 竜が去る軌跡を見やりながら、がらがらと勢いよく舵を切って、逃げる風竜の追跡決定を下す。
 彼は手柄を欲しがるあまり、本来の任務をかなぐり捨てた。見た情報さえ持ちかえれば、十分な成果となるはずなのに。しかし、相手が単騎であり、またニューカッスルから飛び立ったことにより要人の可能性が高かったことで、彼の欲望は匂い立つほどに燃え上がった。
 全速前進。傭兵たちは甲板に集結し、一様に弓へ矢をつがえる。もちろんコルトたち『イーグルフェザー団』も、おっとり刀で全員集結していた。
「撃てェッ!!!!」
 矢の嵐が前方を逃げる風竜に襲いかかる。隙間のない矢ぶすまが張られ、風竜の逃げ場などないはずだった。
 しかし。
「なにィ!?」
 ひときわ大きな風が凪ぎ、矢の壁を一瞬で取り払った。まるで片手で払いのけるように、数十の矢が明後日の方角へ吹き飛んでいく。
 風竜は一つホバリングし、ボンボヤジ小隊の船へ向き直る。
 風竜の口元が歪んだ気がした。
「な、なんと!?」
 風竜の目の前周辺に、拳大の氷柱がいくつも作り出されたではないか。それはまたたくまに二十を数え、船を狙って弾丸のように撃ち出された。
「ぬわあああぁぁ!?」
「ひいいぃっ?!」
 降り注ぐ氷柱、突き刺さると甲板が無惨にも砕かれ、痛々しい大穴が穿たれる。甲板は一気に地獄絵図と化した。逃げ惑う傭兵たち。彼らの大盾は船倉で荷物糸に縛りつけられ、ぐっすりと眠っていた。なので矢のように降り注ぐ氷柱を防ぐ手段がなかった。
「ええい、怯むなァ! 撃ち返せェ!!」
 自分一人だけ“風壁”を唱え、安全を確保しているボンボヤジ小隊長。とてもズルい。
 そんなやつが命令しても、当然部下には届かない。各々危機から逃れようと逃げ悶え、運悪く氷柱が刺さってしまった者たちは仲間によって治療が開始されている。
 ボンボヤジ小隊は、残念なことに集団としては全く機能していない。
 風竜はそれだけでは許さない。大きく空気を吸いこむと、極大極寒のブレスを見舞った。そのブレスは船のマストを舐め、帆が絶対零度に凍りつく。
 そこまでやると風竜は身を翻し、またたく間に雲の海へと潜っていって、その姿が見えなくなった。
「ぬ……ぬぬぬぬおのれェッ!! 竜の分際でコケにしおってェ!! いいや、背の竜騎士か!? 許さん、許さんぞォ!!!」
 ボンボヤジは一人憤り、拳を何度も突き上げて怒鳴り散らしている。
「やれやれ、やっぱり貧乏くじだったな」
 顔傷男が言う。
「幸いあっしらに怪我はありませんでしたが、この箱はもう死にましたなぁ」
 コルトは周囲を見回す。数多の穴が刻まれた甲板、凍りついたマスト、傷ついた兵士たち――どう甘く勘定しても、この部隊は任務を続行できそうになかった。
 コルトは言った。「やれやれ。頭の痛いことだ」
 上官のせいで任務は失敗、これでは自分の査定にも響きかねない。こんなことで賞与が減らされてはたまったものではない。
「俺~行ってくる~」
 声に顔を上げると、筋肉のダルマみたいな大男が、甲板修理に加わろうと歩き出したところだった。この男も『イーグルフェザー団』の一人である。彼の団にはもう一人、ほとんど喋らない寡黙な男がいる。彼は今は、怪我人を診て回っているようだ。薬草や医学に長け、隊の救急箱のような男だった。怪我とは友だちのような傭兵稼業、コルトはその男を重宝していた。
「はぁ。足止めだな」
 最低でもあの氷をどうにかしなければ、この船は機能停止状態。しかし、ここには火メイジがいない。油をかけて燃やすのはもってのほか。したたり落ちて船自体を焼けば、その時点で自分たちは全滅である。
 コルトは顔を片手で覆い、首を反り雲の切れ間を仰ぎ見る。

 こんなことなら、レコン・キスタなんかに志願しなければよかったか。
 これまでの不運を思い返すと、コルトは後悔せずにいられなかった。



[21043] 七章一話
Name: しゅれでぃんがー◆1dc91c90 HOME ID:731b6870
Date: 2010/08/19 18:59
【 七章一話 『ハタヤマファミリー』 】



 四ヶ月。
 旧アルビオンが世界地図上から姿を消し、皇太子が行方不明となってから経過した時間である。指導者が取って代わった、神聖アルビオン共和国が刻んだ月日でもある。彼の国はあの血塗られた革命劇を繰り広げて以来、不気味な沈黙を保っていた。
 何処かの国へ攻めいることもせず、かといって和平の使者をばらまくこともない。ただ、自分が正当なアルビオンだと言わんばかりに、何事もなかったかのように"アルビオン共和国"として振る舞っていた。
 ゲルマニアは我関せず。どうやら無駄な戦火を怖れ、関わり合いになりたくないようだ。
 ロマリアは静観。この国は元来どの国への肩入れもしない国。神官の国ということもあり、戦争に荷担すること自体があり得ない。これまでの歴史に照らし合わせ、今回もどちらにも組みしないであろう。
 ガリアは何の反応もない。ただ、交易だけは変わらず続けているらしい。国際的な批判はあったが、取り引きさえできれば指導者が誰であろうと差別しない、というのが主張のようだ。そのせいで各国の関係者の間では、「ガリアは国益とあらばエルフとすら関わる背徳者」と揶揄されているらしい。エルフが喩えに上げられているのは、テロリスト、社会悪、人間にとって見るに堪えない存在としての象徴なんだとか。
 そしてトリステインといえば……

     ○

「ふわぁ~~~あ……」
 ゲンコツでも入りそうな大欠伸を一つ。ぼりぼりと髪の毛を掻きむしり、誰がどう見てもアホ面が一つ、広場の中央で屈伸をしていた。
「サイト」
 背後から掛かった声に振り向く。そこにはピンクブロンドの髪を風に揺らしたルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールが、こちらを見つめてちょこんとたたずんでいた。
「あんだよ。お前授業は?」
「もうお昼休みよ。昼食だから呼びに来たの」
 あきれたようにため息を吐くルイズに、サイトはぐんと伸びをして立ち上がった。尻についた草っぱを払い、ぐにぐにと両腕を曲げたり伸ばしたりしてほぐしている。ここはヴェストリの広場であり、サイトは自主練を終えて小休止をとっているところだった。
「さっき朝飯喰ったばかりだと思ったんだけどな」
「どんだけ集中してんのよ。チャイム聞こえなかったの?」
「うとうとしてたから分かんねえ」
「寝るくらいなら授業に出なさいよ!」
「剣士が魔法のおベンキョしてどーすんだよ」
 サイトはなんとも手作りくさい木刀を肩に遊ばせながら、また大きな欠伸をかいた。ルイズはサイトの返答に眉をひそめる。
「分かんないところは教えてあげるじゃない。というか、使い魔はいつでもご主人様のそばにいなきゃだめでしょうが」
「分かったところで俺に魔法は使えねーし、覚える必要も感じねーよ。俺はご主人様を守るために、剣の稽古をしてたのさ」
 ああ言えばこう言う。いったい誰に似たのだろうか。
 なまじもっともらしい事柄も交じっているので、ルイズはぴくぴくと顔を引きつらせるも言い返す言葉が浮かばない。
「それでも、魔法の効果を知れば、とっさの時に役に立つかも知れないじゃない」
「大抵の魔法はデルフとルーンがあればなんとかなるよ。机に齧りついてるより、実戦で見て覚えた方がはええし」
 これも正解ではないが間違いでもない。魔法というのは、知っていてどうにかできるものが少ない。そしてあまりよろしくないサイトの記憶力では、聞いたところですぐに忘れてしまうだろう。ならば、有事の際に打ち負けないように、地力をつけるほうが有効……かもしれないし、そうでないかもしれない。
 したり顔でほくそ笑むサイト。どっちとも言い切れないルイズは、さらにびくびくと柳眉を逆立てる。
「あんた、生意気になったわね。前は口答えなんてしなかったのに」
「今までの俺が馬鹿だったんだよ。理不尽な罵倒には断固抗議するぞ」
 得意満面でえっへんと胸を張るサイト。どうやら彼の師事する相手から悪い影響を貰っているらしい。しかし、目覚ましい進歩を見せる彼を傍らでずっと見てきた彼女としては、今更交流を断絶しろなんて言うこともできず。
 はぁ、と疲れたように肩を落とすルイズ。「もういいわ。ご飯にしましょ」
「おう!」
 元気よく彼女の後に続くサイト。〈アルヴィースの食堂〉へと続く道を、並んでゆっくりと歩いていく。
 食堂はつい最近マルトーの親爺が辞めてしまい、生徒及び職員、さらには学長までもが嘆いていたが、最近は今の味にもようやっと慣れてきた。まだまだマルトーの舌を蕩かせるような味には至っていないが、十分に美味いと言える味である。マルトーという食神による味の神秘に飼い慣らされたゆえ、舌が肥えていただけだったのだ。
 しかし、それでマルトーの味を忘れたということはない。否、欲求はいまだ燻っていて、どんどん強くなっていたりする。しかし、もうそれを満たすことはできない。
 サイトはそれを残念に思いながら、今日の昼飯は何だろな、と暢気なことばかり考えていた。

     ○

 ところ変わって〈魅惑の妖精亭〉。まだ日も高いおやつどき、今日も今日とてホールには弛緩した空気が漂っている。
「うーん、美味い!」
 ぼりぼりとこんがり焼けたクッキーをかじりながら、ハタヤマは感嘆の声を上げた。カリッとして、それでいて中身はサクッとしていて、香ばしい匂いがふわっと鼻孔一杯に広がる。混ぜこまれたアーモンドの歯ごたえとナッツっぽい甘い味が、またなんとも言えない感動を巻き起こしている気がする。
 紅茶をずずーっとすするハタヤマを、対面に座る爆乳の少女はにこにこと頬杖をついて眺めている。
「うふふ、口にあって良かった」
 はにかむように微笑む彼女はティファニア。室内というのにサリーですっぽりと頭を隠しているが、その花のような美貌は少しも損なわれていない。むしろ清玄な聖女のようで眼に映えた。首辺りにサリーを留めるように若草色のリボンを結んでおり、それがまた似合っている。
 四ヶ月前、ハタヤマがアルビオンで出会った耳の長い少女である。初めは、眼に映る物全てが初体験づくしでいつもどこか落ち着かなそうだった彼女も、今ではすっかりこの宿の一員だ。最近では持ち前の花嫁スキルをいかんなく発揮し、裁縫やお菓子作りの腕前は高まるばかりである。いつ嫁に行っても大丈夫。というか嫁に来て欲しいなぁ、とハタヤマはしみじみと思っていた。
「マチルダちゃんはどうしたの?」
「今朝どこかへ出かけていったわ」
「またカジノに預金かな」
 ハタヤマは表情の読めない顔で呟いた。マチルダとはティファニアの姉貴分。元貴族の今は『土くれ』である。
 彼女は最近では気を張ってお金を稼ぐ必要がなくなったので、日常の立ち回りが緩んできているらしい。元来の賭博好きが急激に疼き出して、今ではポーカー、バカラ、犬に馬。鶏だって嗜んじゃうくらいのヘビーギャンブルジャンキーだった。
 数ヶ月前はそれで痛い目にあったのだが、それでも彼女は全く懲りる様子がない。ハタヤマはもう呆れを通り越し、ある種の感心すら抱いていた。
「でも、もう危ないことはしないって言ってたよ。今日も持ってくお金は少なめだったし」
「どうだかね。言葉なんてアテにならんもんさ」
 閉口してため息を吐くハタヤマ。ティファニアはくすくすと口元を隠す。マチルダがちゃんと自戒して人生を謳歌しているのを、ティファニアは知っていた。それもこれも全部目の前の男のおかげなのだが――当の本人は全く気づいていないようだ。彼女にはそれが、なんだかとても嬉しかった。
「なんだい?」
「なんでもない」
 きょとんとするハタヤマ。なんでもないとクッキーをつまむティファニア。妖精の住まう現世のお宿は、穏やかな刻を刻んでいく……
 そんな優しい時間を切り裂く、耳を刺す破砕音が響き渡った。
「きゃっ!」
 びくっと身を竦めるティファニア。彼女の耳は今間違いなく縮こまって伏せられているだろう。
 ハタヤマはティーカップを置いた。
「『やさぐれ王子』のご帰宅か」

     ○

 ざんばらに伸び放題のゴールドヘアー。蓄えた髭はお世辞にもスタイリッシュとは言えず、どう好意的に解釈しても無精髭としか判断できない。もうしわけ程度にマントを羽織っているが、その威厳の象徴は着古したようにボロボロだ。長身だと思われる体躯は、猫背により前屈み。目付きは世を拗ねたように胡乱で、口元も野盗のように歪んでいる。着飾れば貴族にも見えそうなのに、身なりとその雰囲気が全ての調和を台無しにしていた。
 ただ、抜けるようなスカイブルーの瞳。その輝きだけが、妙に目を惹く。どこかの貴族の不良子息のような、はたまた街のダークサイドに蠢く荒くれ者の長のような、なんとも不思議な男だった。
「若様! 道に酒瓶を投げ捨ててはなりませぬ! 掃除の手間もさることながら、誰かが怪我をするかもしれませぬではないか!」
「うるさいぞパリー」
 従者の老人にも酒臭い息を返すだけ。昼間だというのに赤らんだ顔は、彼が朝帰りだからか。
 最近落ち着いてきたと思っていたが、どうやら『病気』が再発したようだ。
「自棄酒とは感心しないね」
 酒瓶片手に行方の不明な敵意をまき散らす青年。ハタヤマは呆れたように声をかける。
 ぎょろり、と晴天色の瞳が睨んだ。
「貴様に言われる筋合いはない」
「いつまで拗ねてるつもりだい。いい加減癇癪止めなさいって、〈ペカトル〉くん」
 ハタヤマがそう言うと、ペカトルと呼ばれた男は煙を吐くように顔を紅潮させ、足音も荒くづかづかとハタヤマのテーブルへ向かってゆく。
 ハタヤマはティファニアへ退避するよう片手で促しながら、冷ややかな目で青年を見つめている。
「に、兄様。乱暴は止めて。喧嘩しないで……」
「どけっ!」
「あうっ」
 おろおろと間で困っていたティファニアは、ペカトルに乱暴に突き飛ばされ尻もちをつく。
 パリーが目の色を変えて咎める。
「何をなさる若様! ティファニア様は、あなた様の妹様でございまするのですぞっ!!」
「余に妹などおらん!!」
 パリーの非難など全く取り合わず、ペカトルはハタヤマの前に仁王立った。
「余は死に場所を失った! 何故だ! 余の誇りは奪われた! 誰にだ!」
 椅子に足をかけテーブルに片足を乗せ、見下ろすように指を指す。
 叩きつけた足の裏がガジャンと強くテーブルを揺らし、カップの紅茶が揺れ溢れた。
「貴様だ! ハタヤマヨシノリよ! 余の矜恃は貴様に奪われた! 貴様が余を殺したのだ!」
 眼だけで殺さんと歯を剥くペカトルを、ハタヤマはじっと見上げる。そして、やれやれと肩をすくめた。
「演劇の練習は劇場でやってくれよ。わざとらしいのは好きじゃない」
「……いつもいつもいつもいつもッ! 貴様はそうやって余を煙に巻く! 痴れ者、狼藉者、反逆者、薄汚い盗人めが!!」
「………………」
 眼や鼻や耳から血が噴きだしそうなぐらい興奮しているペカトル。ハタヤマは何も言い返さず、静かに彼を観察している。
「で、いったいどうするつもりだい?」
「決まっている」
 ペカトルはマントの裏からとても大きな緑珠が嵌められた王杖をとりだし、構えた。
「余の誇りを取り戻すため。貴様に決闘を申しこむ」
 わずかにハタヤマの口の端がつり上がった。
「若様!」
「兄様!」
 物々しい雰囲気をかき消すため、二人は必死で止めようと割って入る。しかし、ハタヤマはひらひらと手を振った。
「いいからいいから。好きにさせなよ」
「でも……!」
「反抗期をこじらせたようなガキンチョに、ボクをどうにかできやしないさ。――自分で〈ペカトル(咎人)〉なんて偽名をつけちゃうようなやつにはね」
 この中二病め、とハタヤマはケタケタ嘲笑した。
 みるみるうちに怒気が募るペカトル。
「――表へ出よ! 貴様のその歪んだ性根、その不愉快な顔面ごと切り刻んでくれるわァ!!」
 鋭く一つ、杖で外を指すペカトル。しかしハタヤマは応じない。両手を組んで大きく頭の上へ伸びを一つ。気持ちよさそうに関節をほぐしている。
「聞いているのか貴様!」
「まあ待ちなって。それよりいいのかい」
 眉をひそめるペカトル。

「勝負はもう始まってるのに」

 ガクン、と視界が縦に揺れる。ペカトルが、自身が宙に浮いていることに気づくのと、背中に強い衝撃を受けるのは同時だった。
「ぐがっ!?」
 テーブルがのしかかる。テーブルを蹴倒され、床板に叩きつけられ、浮いたテーブルが覆い被さってきたのか。それを知覚した瞬間、顔面に硬質な感触、破砕音、痛み、熱による激痛。まだ相当量の残っていたティーポットが直撃したのだ。
「うぁ、っつ……!」
 必死に顔面を拭うペカトル。その腹に踏みつけられるような圧力が加わり、苦悶の声を上げる。
 ぼやつく視界を無理矢理見開く。そこには。
「残念だったねぇ」
 宝石の意匠をあしらえた、美しい短剣を眼前に突きつけるハタヤマの姿があった。
「ぐ、ぬ……! 卑怯なりハタヤマ! 正々堂々と勝負せよ!」
「はぁ。悪いけどそんなことは知らない。キミの都合を押しつけられても困る」
「貴様には貴族の誇りはないのか!」
「無いね。そもそも貴族じゃないし、キミの作法に合わせる理由もない」
 踏みつけた足をどけることもせず、淡々と論を返すハタヤマ。その姿には全く闘気が感じられず、完全なる平常心でこのようなことを行ったようだ。
 この男は。息をするように敵を殴り、欠伸をするようにヒトを蹴る。
「キミはボクを殺そうとした。なら、何をされても文句は言えないはずだ」
「何を言う! 決闘とは崇高にして高潔、正々堂々たるもののはず!」
「馬鹿言っちゃいけない。所詮は殺し合いだろう。綺麗も汚いもないんだよ」
 そんなことを言いながらも、ハタヤマ自身は決闘を否定するつもりはない。有効であればあえてそういう展開に持ちこむことだってもちろんある。ただ、今この時この瞬間は、それをするメリットがなにもなかったというだけだ。
「それに」
 ハタヤマは言う。
「時と場所を選んでいる時点で。キミは本気じゃないんだよ」
 さっとペカトルの顔色が変わった。
「次は寝込みでも襲ってみな。そしたら相手してあげるよ」
 ハタヤマはとん、と後ろへ跳ねると、にへらと笑って手を振った。ペカトルはもう羞恥やら怒りやらなにやらがない交ぜになり、何も言えず二階の自室へ駆けていく。
「あらら。また拗ねちゃった」
「ハタヤマ殿。申し訳ございませぬ」
 振り返ると、沈痛な面持ちでパリーが見上げてきていた。ハタヤマははは、なんのなんのと適当に茶化しつつ言葉を返す。
 ここまででもうお分かりだろうが、ペカトルとは――アルビオン王国皇太子 ウェールズ・テューダーその人である。彼は貴族の責務を果たす機会をハタヤマに奪われたことにより、世の全てを恨む荒くれ者へと身をやつしてしまった。無念と後悔、王としての誇り、その役目。それらのはけ口を失ったことで、どうしていいか分からなくなってしまったようだ。その結果酒に溺れ、夜ごとふらふらと街を徘徊する毎日。ハタヤマへの決闘申込など日常茶飯事のことで、こんな風にやりこめられるのも半ば風物詩となりつつあった。
 ここ最近は色々あって若干持ち直していたように見えたのだが、どうやら酒のせいでぶり返してしまったらしい。
「アル中とか止めてくれよ? ほんとに再起不能になっちゃう」
「その点はご心配なさらず。腕の良い水メイジを知っておりますゆえ」
 魔法とは便利なものだ。
「兄さん、怪我はない?」
 ティファニアが心配そうに伺ってきた。
「ああ、大丈夫。ピンピンしてるよ」
 ハタヤマは力こぶを作る真似事をし、おどけて無傷をアピールする。
「しかし、キミには本物のお兄さんがいるんだからさ。ボクをそんな風に呼ばなくてもいいんだよ?」
 ハタヤマにしてみれば、この発言は何の気無しにしたものだった。ただ口から出た雑音である。
「……え?」
 しかし、ティファニアにはクリーンヒットだったようだ。
「わ、わたし……兄さんって呼んじゃダメなの……? 兄さんは、わたしの兄さんじゃイヤ……?」
「え、あ、ちょ」
「うっ……ぐすっ……」
 ティファニア、マジ泣きである。彼の発言のどこら辺かが、彼女の琴線に触れたらしい。
 ハタヤマは大弱りである。
「い、いやいやいやいやいやいやいやいやッッッ!!!? 別にダメじゃないよ、イヤじゃないよ!? 遠慮無く呼んで良いんだよ?! い、いやあ、こんなに可愛い妹がいて嬉しいなぁっ!!」
「ほんとに……?」
「ほんとほんと、大マジだよ!! 嘘だったら全裸で街中の女の子にナンパしてもいいねっ!」
 そんなことをしたら牢獄一直線である。この変態野郎めが。
 しかし、そのあまりにも狼狽えたハタヤマの姿が彼女の心を和ませたのか、ティファニアは天使のような微笑みを浮かべ、じんわりと呟いた。
「よかった……」
 ――ズキューンッ!!
 ハタヤマの心臓に槍が刺さった。『テファ可愛い天使か』という文字が書いてある。
「あ、あぁ……そうだよ、怯えなくていい。ボクはいつでもキミのお兄ちゃんだ……」
 ふらふらと吸い寄せられるように歩み寄るハタヤマ。そして、彼女の肩に手を回そうとして――
「なにしてんだいあんたは」
「い、いぃででででででっ!!?」
 後ろからぐいいぃと思い切り耳を引っ張られ、エロ珍獣は咎められた。ついでに刺さった槍まで抜かれ、背中を思い切り蹴飛ばされる。といっても本当に刺さっていたわけでなく、あくまでも比喩表現なのであしからず。それだけテファは可愛いのだ。
 白く細い、美しい指。その持ち主はマチルダ・オブ・サウスゴータ姉さんであった。
 マチルダは耳元に唇を寄せる。
(あの子は家族に餓えてるんだ。揺さぶるようなことは言わないでおくれ)
(……悪かったよ、悪ふざけが過ぎた)
 唇だけのやりとり。しかしそれだけで分かり合える。四ヶ月前、ティファニアを連れてこの酒場へやってきた彼女と、ハタヤマはそれなりに仲良くなっていた。
 彼女は長かった髪をばっさりと切り落とし、ウルフカットもかくやというまで切りつめてしまっていた。しかし、もみあげだけは首元までの長さを残しており、そこがどことなく女性的で色っぽい気がする。左の耳よりやや上の部分には、ネズミをかたどった髪留めをつけていた。
 数ヶ月前まで彼女を捕らえていた悪女もかくやという凄まじいつり目はすっかりと丸くなっており、消えぬ名残だけが『勝ち気なお姉さん』というマイルドなシフトチェンジを行っている。彼女はどちらかというとティファニアのようなほんわかした可愛さではなく、すらっとした美しさを見る者に感じさせた。
 姉妹揃って可愛美(かわいうつく)しい。血が繋がってないのもグッドだ。妹は天変地異のような爆乳、姉は芸術作品のような美尻。身に纏うカソックからは美脚と美尻、モデル体型とも言える繊細な腰と背骨のラインが際だっている。ふくよかな妹と比べれば、釣り合いも取れているというものだ。
「何を考えてるんだい」
「うあぃでぃででぇ~」
 彼の放つ不穏な空気を察したのか、さらにぐいぐい耳を引っ張るマチルダ。これ以上は耳が千切れそうなので、ハタヤマはからがら彼女から離れた。
「今日の投資はどうだったんだい? また赤字かな?」
「馬鹿言うんじゃないよ」
 マチルダは得意げに財布をという名の麻袋を振った。良い感じに肥え太っている
 ハタヤマは一瞬放心したように眼を丸くした。
「こりゃ驚いた。明日は風竜が落ちてくるね」
「なんだいその言い草は。あたしだって負けてばかりじゃないんだよ」
「どうせ明日には無くなってるさ」
「なんだって……?」
 『土くれ』の眼光が甦る。ハタヤマはおおこわ、とぶるりと肩を震わせ、際限なくほざく口を閉じた。
「ところで、この惨上はなんなんだい? 押し込み強盗にでも襲われたようじゃないか」
「『王子』がついさっき帰ってきてね。ボクに喧嘩を売ってきた」
「……勝ったのかい? まさか負けたんじゃないだろうね」
「もちろんさ」
 マチルダは憎々しげに、口にするのすら嫌悪するように言った。
 その声色には、並々ならぬ激情が滲んでいる。
「あんな屑野郎死ねばいい。さっさと自害でもしておっちんじまいな」
 マチルダは元々貴族だった。取りつぶされた要因は――である。
 彼女は"テューダー"が嫌いだった。
「姉さん、兄様を怒らないであげて。今はまだ傷ついて、苦しんでるだけだから……」
「あぁ、良い子だねあんたは。大丈夫、あたしはあんたのことは大好きだよ」
 マチルダは優しくティファニアを胸に抱く。ティファニアは愁いを含んだ表情を、抑えがたいほんわかに変える。
 彼女たちは誰がどう見ても、仲がよい姉妹であった。
 ハタヤマがその光景を和みながら、そして若干の不埒な妄想を抱きながら眺めていると、またも耳を引っ張られる。
「こら、ハタヤマ! なにぼけっとつったってんのさ!」
「あう、あ、痛いって! みんなしてボクの耳を千切るつもりかい!?」
 彼の耳を引っ張ったのは、白いシャツに黒いスカートというなんとも正装チックな出で立ちのジェシカである。彼女は最近新たな生き甲斐を見つけ、その方角へまっしぐらに邁進していた。その仕事は正装でなくては示しが付かないので、彼女は最近妖精の衣装を着ない。
「ほら、パリーさんだけに掃除させてないで、あんたもさっさと手伝いなさい!」
「いえいえ、ジェシカ殿。これは若様のしたことですから……」
「テーブル蹴っ飛ばしたのはこいつでしょーが! こいつが掃除しなきゃダメよ!」
 ジェシカはパリーからほうきをひったくり、ハタヤマへぐいぐい押しつける。ハタヤマはしょうがないので大人しくそれを受けとり、さかさか床を掃き始めた。
「それが終わったらモップかけとくのよ!」
「へーい」
 そう言うとジェシカはせわしなく出かけていった。これから授業なのであった。
「おや、皆さんお揃いで」
 入れ替わるように入ってくる男。そいつは情報屋のレナードである。こいつは夏になったというこのハルケギニアにおいて、未だに厚着で街を闊歩するというなんとも奇特な男である。いつでも新しい、それでいてときたま珍妙な帽子かぶっているので、人混みでもよく目立った。
 何故こんな派手な男に情報屋が務まるのか、とにかく世の中は不思議で満ちている。
「あの『王子』どうしてる? 目処は立ったか?」
「いいや、まったく」
 レナードの問いにハタヤマの反応は芳しくない。
「おいおい、こっちは慈善事業じゃないんだぜ? あんまり手間ばかりかかるなら、いっそ捨てちまったほうが安くつくぜ」
 レナードは困ったように肩をすくめた。酷なようだが、これが彼の正直な気持ちである。
 そこへパリーが待ったをかける。
「お待ち下され! もう少し、もう少し若様に猶予を! あのお方は必ずお立ちになる! 誇りの在処に気づきなさる!」
「つってもよう。あいつを生かすのには骨を折ったんだぜ? 色んなとこに噂ばらまいたり、ちらほらと影武者だって立てた。今生きてること自体が奇跡だぜ、まったく」
 ハタヤマはパリーに依頼して、ハルケギニア中に噂をばらまいてもらっていた。その内容とは、『ウェールズはハヴィランド宮殿から命からがら逃げ延びて、再起の牙を研いでいる』といったものである。そしてゲルマニアやガリアでそれらしい影を演出して、神聖アルビオン共和国へと牽制をかけた。血が絶えていないことをつきつけて、動揺を誘ったのである。王が死ななければ王国は潰えないので、国民も諸国も希望を捨てない。だからこそアルビオンは国際社会へ取り入ることも攻めいることもできず、静観の姿勢を保っていた。
 その裏では諸国へ血まなこになって密偵を差し向け、ウェールズの足取りを追っているのだとか。
「ここに置いとくのも本当なら危ういんだ。そろそろ考えてもらわねえと、死体を放り出すしかなくなる」
「その時は身代金吹っ掛けて、アルビオンへ売り飛ばせばいいよ」
 ハタヤマは表情を変えず呟く。
「お、それはいいな! 死体よりも高い商売だ!」
 陽気に乗り気で手を叩くレナード。
 不穏に飛びかうどす黒い会話に、ティファニアは責めるように割りこんできた。
「兄さん、そんな酷いことを言うのはやめて。冗談でもむごすぎるわ」
「冗談だと思うかい?」
 ハタヤマはその戦慄を感じるような黄金の瞳で、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「……わたし、分かってるもん。兄さんはそんな酷いことはしないわ」
 少し目が潤んできている。
「悪かったよ、冗談だってば」
「冗談なのか?」
 レナードのきょとんとした視線に首を縦に振る。
「まだ待つ。ここまでこじれたのは予想外だけど、ここまで来たらギリギリまで待つさ」
 ハタヤマの決定に、パリーは目に涙をためて感謝を口にした。
「でも」
 ハタヤマは続ける。
「さすがにいよいよとなったら、ボクでも庇いきれないよ」
 それは、ハタヤマの正直な本音。見つかったら切り捨てる、その明確な意思表示であった。
 重々しく、強く頷くパリー。
「その時はこの老いぼれ、若様を引きずってでもご迷惑はおかけしませぬ。どうかご安心下され」
「ありがとうパリーさん。兄様を気にかけてくれて」
「おぉ……! なんという勿体ないお言葉! ティファニア様! どうかわたくしめになんなりとお申しつけ下され! このパリー、この枯れ果てた身を刻み尽くしてでも、ティファニア様のために身を捧げますぞ!」
「そ、そんなに気をわなくてもいいよぅ」
「いいぇ、そうはまいりませぬ」
 パリーは静かに居住まいを正し、ティファニアを見上げた。
「わしは王家に使える従者であるというのに、ティファニア様が苦しんでいるという時になにもできなかった。それどころかその存在すら知らず、馳せ参じることができなかったのでございまする。あなた様がお生まれになって十六年、わしは、なにもしてやれなかった……」
 パリーははらはらと涙を流し、ティファニアの手を握り懺悔する。それは聖母に許しを請う罪人に似ていて、その声はどこまでも心に迫っていた。
「だからこそ、わしはそれ以上にあなた様に尽くしたい。どうかこの老いぼれを、あなた様のために仕えさせてくださいませ」
 ティファニアはそっとパリーの手を握り返した。
「ありがとうパリーさん。なんだか、本当のおじいちゃんができたみたいで嬉しいな」
 パリーは感極まったようにしゃくり上げる。
「おおお……! パリーさんなどと勿体ない。どうかわたくしめのことはパリーと呼び捨ててくださいませ」
 そんなほのぼのした空間に冷や水のような声がかかる。
「ふん。今更出てきて調子の良い」
 マチルダである。彼女は"テューダー"も嫌いだが、王家に連なる者全般、というか貴族が嫌いだった。たとえ従者であったとしても、その嫌悪感は変わらない。"テューダー"の手の者ならなおさらだ。
「ぐぬ……言い訳はすまい。ティファニア様の護衛、大儀であった」
「あんたに労われる筋合いはないよ」
 不協和音が本当に聞こえてきそうなほど、彼女らはぎすぎすいがみあっていた。
 そこへティファニアがめっ、と可愛く叱りに入った。
「姉さん、喧嘩しないでパリーさんと仲良くして。わたしは何も恨んでないよ」
 ティファニアはマチルダの事情を知らない。マチルダは話すつもりもないようだ。しかし、妹分の願いを無下にもできず、押し黙ることで答えを返した。
「そうだ! 今度兄様やみんなを誘ってお茶会をしましょう! 美味しいお菓子を食べてお喋りすれば、きっとみんな仲良くなれるわ!」
 どこまでも善玉で清らかなティファニア。その見当外れな思いつきすら、マチルダも、パリーも愛おしんでいる。彼女らはいがみあってはいるが、どちらもティファニアを愛しているのだった。
 それを横目にハタヤマは陶器の破片をちりとりにまとめ、モップを取りに行こうと静かに離れていく。

 世は全てこともなし、というのは無神論者である彼にとって都合が良すぎるかも知れない。けれど。
「平和だねぇ」
 ハタヤマはこの日常が、どんな金銀珠玉の財宝より、貴く輝いているように見えた。


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