コメントを頂いているにも、関わらず更新遅れました。ブログ炎上の話題、拉致監禁問題、その中で、「婚約者からの訴え」を読む中で、私自身、心情が揺れ動いた部分があります。そして、いろいろ考えていく中で、気づいたことがあるので記事にします。(御旨、仕事中含も考えていたので、いろいろと失敗もしてしましいましたが・・・。余談)
まず、多くの統一教会員が「拉致監禁問題」をブログにして書いていますが、私の見たかぎり、コメントは少ないです。そして、あっても同じ教会員からの賛同のコメントばかりです。ブログの目的は、作成者にしかわかりませんが、おそらく大半の教会員は「一般の人に事実を知ってもらいたい!」「拉致監禁をしている人達にやめるように訴えたい!」などの目的でブログを書いていると思うので、もっと交流をもてるようにならないのかと個人的には思います。
そして、ブログ上ではこれだけ問題になっていますが、SNS上ではほとんど話題になっていません。教会員同士のコニュニティーやサークルなどに入ると、原理の話題、STFの話題、信仰の悩みなどは多く書かれていますが、教会員同士であまり拉致監禁を話題することは少ないように思います。(もちろん、私の見た限りの範囲ですが。)
そんなことを考えながら、ヨシュアさんのブログに意見を書いたところ、返事をしてくれるだけでなく、私の記事の意向通り、「婚約者からの訴え」を読んでいただき、記事にまでしてくださいました。
論点のすり替えではないですか?
江里子さんが婚約者を失ってしまうことが問題の本質ではありません。例えば、江里子さんの婚約者が自主的に統一教会の間違いに気付き、その結果、お二人の 関係が破綻することもあり得るでしょう。その場合、不幸な出来事とは言えても、仕方のないことです。社会的には全く問題はない。
本人の身体を拘束し、拉致監禁下の中で説得すること自体が批判されているのです。間違いを正すためなら、本人の意思に反して拉致監禁しても良しとする態度 が批判されているのです。婚約関係が破壊されてしまうことが批判されている問題の本質ではありません。論点をすり替えないように。
この教会員にとっては、一人の教会員が婚約者を失うことよりも、拉致監禁問題の解決の方が大切なようです。そして、別な言い方をすればヨシュアさんに対して、拉致監禁の話をしているのに、人情的な話題を出すなと批判しているようです。
この考え方は、一般的な社会や組織の中では当然のことのように思います。会社を守るために、時には社員をリストラすることもあるし、一部の敗者や被害者が出てしまっても、国は政策を実施することはあります。もし、反対派の方や元教会員、被害者の方がこのコメントをような主旨のコメントをしても、なんの衝撃も受けなかったと思います。
私が、衝撃を受けたのは現役の統一教会員を思われる人がこのコメントをしたことです。
まず、婚約者を失うことに対して「問題の本質でない」「不幸だか仕方のないこと」としています。しかし、統一原理の中心は「祝福による結婚」「神様を中心とした家庭をつくること」にあるはずです。そのことを考えれば、決して仕方のないことなどとは言えないはずです。統一原理を信じているとすれば、一人の女性の永遠の命が関わっていることを忘れてはならないと思います。
そして、しきりに問題の本質と言っていますが、この教会員にとっては、拉致監禁問題の究明>被害者の救いになっているように思います。そして、これが教会員個人の問題でなく、今の統一教会全体の考え方のように感じました。だから、今各地で、デモ行進をしてといるのかなと(あくまで個人的推測)。
こんなことを書くと、「拉致監禁問題が解決しない限り、被害者は増え続けるだから、拉致監禁の解決が被害者の救済につながる」と批判されそうですが、何か順番が逆な気がします。
マザーテレサは、貧困問題の解決に対して、周囲の人がもっと政府や国連に訴えるべきだと進言してきた時に、次のように言いいました。
「わたしは一人の人を助け、できればもう一人の人を助けたいと思っているだけです。」
統一教会が拉致監禁問題を解決しようと思ったら、デモ行進や警察への呼びかけよりも大切なことがあると思います。それは教会員を愛することであり、心配している教会員の家族を愛することであり、そして統一教会に反対している牧師や反対派の人達を愛することです。
また、統一教会に反対されている方は、統一教会員のことをマインドコントロールされているなどと、色眼鏡でみるのでなく一人の人間として愛する努力をしてもらえればと思います。教会員への説得の仕方は人それぞれだと思いますが、自分では話し合いのつもりでも相手には、強制的説得だと思う可能性はあるし、それが「拉致監禁」と言われしまうのかもしれません。相手を尊重する気持ちがあれば、誤解をあたえるような言動や行動はなくなるように思います。
愛するだけでは、解決しない問題もあると思われている方も多いと思いますが、批判だけでも何も解決しません。例に出すと怒られるかもしれませんが、ヨシュアさんは「婚約者からの訴え」を統一教会に反対しているにも関わらず読んでくださいました。ヨシュアさんのブログにいくら批判のコメントをしても、この訴えを読むことはなかったと思うし、まして被害者気持ちを考えようとはしなかったように思います。
人間本質的には、愛のあるところにいくものです。
拉致監禁があるから、統一教会が発展しないのではありません。統一教会に信者を奪われるから、既成キリスト教会が発展しないわけではありません。統一教会があるから子供が家を出て行くのではありません。
そして、原理的に考えれば「善」は「愛」からしか生まれません。
そして、「善」からしか「義」(≒正義)は生まれません。
善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい[原理講論第1章第4節(三)(3)]
統一教会員と反対されている方のやり取りを見ていると、相手を批判・追求することが「善の目的に役立つ生活的要素」なのかな(?)と思ってしまいます。

まず、多くの統一教会員が「拉致監禁問題」をブログにして書いていますが、私の見たかぎり、コメントは少ないです。そして、あっても同じ教会員からの賛同のコメントばかりです。ブログの目的は、作成者にしかわかりませんが、おそらく大半の教会員は「一般の人に事実を知ってもらいたい!」「拉致監禁をしている人達にやめるように訴えたい!」などの目的でブログを書いていると思うので、もっと交流をもてるようにならないのかと個人的には思います。
そして、ブログ上ではこれだけ問題になっていますが、SNS上ではほとんど話題になっていません。教会員同士のコニュニティーやサークルなどに入ると、原理の話題、STFの話題、信仰の悩みなどは多く書かれていますが、教会員同士であまり拉致監禁を話題することは少ないように思います。(もちろん、私の見た限りの範囲ですが。)
そんなことを考えながら、ヨシュアさんのブログに意見を書いたところ、返事をしてくれるだけでなく、私の記事の意向通り、「婚約者からの訴え」を読んでいただき、記事にまでしてくださいました。
婚約者か らの訴えを読みました。コアバリュー氏のすすめをうけて。
「マインドコントロールに関する考え」「宮村氏との関係」など、多少疑問に感ずる部分はありましたが、個人的に衝撃を受けたのは、ある教会員と思われる方のコメントです。論点のすり替えではないですか?
江里子さんが婚約者を失ってしまうことが問題の本質ではありません。例えば、江里子さんの婚約者が自主的に統一教会の間違いに気付き、その結果、お二人の 関係が破綻することもあり得るでしょう。その場合、不幸な出来事とは言えても、仕方のないことです。社会的には全く問題はない。
本人の身体を拘束し、拉致監禁下の中で説得すること自体が批判されているのです。間違いを正すためなら、本人の意思に反して拉致監禁しても良しとする態度 が批判されているのです。婚約関係が破壊されてしまうことが批判されている問題の本質ではありません。論点をすり替えないように。
この教会員にとっては、一人の教会員が婚約者を失うことよりも、拉致監禁問題の解決の方が大切なようです。そして、別な言い方をすればヨシュアさんに対して、拉致監禁の話をしているのに、人情的な話題を出すなと批判しているようです。
この考え方は、一般的な社会や組織の中では当然のことのように思います。会社を守るために、時には社員をリストラすることもあるし、一部の敗者や被害者が出てしまっても、国は政策を実施することはあります。もし、反対派の方や元教会員、被害者の方がこのコメントをような主旨のコメントをしても、なんの衝撃も受けなかったと思います。
私が、衝撃を受けたのは現役の統一教会員を思われる人がこのコメントをしたことです。
まず、婚約者を失うことに対して「問題の本質でない」「不幸だか仕方のないこと」としています。しかし、統一原理の中心は「祝福による結婚」「神様を中心とした家庭をつくること」にあるはずです。そのことを考えれば、決して仕方のないことなどとは言えないはずです。統一原理を信じているとすれば、一人の女性の永遠の命が関わっていることを忘れてはならないと思います。
そして、しきりに問題の本質と言っていますが、この教会員にとっては、拉致監禁問題の究明>被害者の救いになっているように思います。そして、これが教会員個人の問題でなく、今の統一教会全体の考え方のように感じました。だから、今各地で、デモ行進をしてといるのかなと(あくまで個人的推測)。
こんなことを書くと、「拉致監禁問題が解決しない限り、被害者は増え続けるだから、拉致監禁の解決が被害者の救済につながる」と批判されそうですが、何か順番が逆な気がします。
マザーテレサは、貧困問題の解決に対して、周囲の人がもっと政府や国連に訴えるべきだと進言してきた時に、次のように言いいました。
「わたしは一人の人を助け、できればもう一人の人を助けたいと思っているだけです。」
統一教会が拉致監禁問題を解決しようと思ったら、デモ行進や警察への呼びかけよりも大切なことがあると思います。それは教会員を愛することであり、心配している教会員の家族を愛することであり、そして統一教会に反対している牧師や反対派の人達を愛することです。
また、統一教会に反対されている方は、統一教会員のことをマインドコントロールされているなどと、色眼鏡でみるのでなく一人の人間として愛する努力をしてもらえればと思います。教会員への説得の仕方は人それぞれだと思いますが、自分では話し合いのつもりでも相手には、強制的説得だと思う可能性はあるし、それが「拉致監禁」と言われしまうのかもしれません。相手を尊重する気持ちがあれば、誤解をあたえるような言動や行動はなくなるように思います。
愛するだけでは、解決しない問題もあると思われている方も多いと思いますが、批判だけでも何も解決しません。例に出すと怒られるかもしれませんが、ヨシュアさんは「婚約者からの訴え」を統一教会に反対しているにも関わらず読んでくださいました。ヨシュアさんのブログにいくら批判のコメントをしても、この訴えを読むことはなかったと思うし、まして被害者気持ちを考えようとはしなかったように思います。
人間本質的には、愛のあるところにいくものです。
拉致監禁があるから、統一教会が発展しないのではありません。統一教会に信者を奪われるから、既成キリスト教会が発展しないわけではありません。統一教会があるから子供が家を出て行くのではありません。
そして、原理的に考えれば「善」は「愛」からしか生まれません。
「正しい」ってなんだろう?
「正 しい」ってなんだろう(2)そして、「善」からしか「義」(≒正義)は生まれません。
善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい[原理講論第1章第4節(三)(3)]
統一教会員と反対されている方のやり取りを見ていると、相手を批判・追求することが「善の目的に役立つ生活的要素」なのかな(?)と思ってしまいます。
元食口のベルナデッタと申します。
ヨシュアさんの掲示板からお邪魔致しました。
きちんとした考えを持っておられる、コアバリューさんの様な方がおられるのを知り、ちょっと癒されました☆
私自身は、拉致監禁には反対です。
先日も元食口のお友達と色々話したのですが、結局、統一教会を離れるか離れないかは、その人の『その時の心の状態』 と『時』があると思っているからです。
また、自分の記事にも何度か書いた事があるのですが、違法な活動や、社会常識と離反した行いをしないのであれば、統一原理を信じるのは、本人の自由であると思っています。
ただ、昔の仲間が逮捕されたり、高額献金した壮婦が脱会しないよう、アベルに家出を指示されたという話を聞いた直後等は、短気なのでブログ記事もファイティングモードになってしまうのですが・・・。
でも、コアバリューさんの様な方がいらっしゃるのであれば、時間はかかるかもしれませんが、UCにも未来はあると思いました。
とりとめのない内容を書いて、申しわけありませんでした。また、時々記事を読ませて頂きたく存じます。
猛暑の折り、どうぞ御身おいたわり下さいませ。
聖霊の祝福が、限りなくコババリューさんに注がれますよう、心からお祈りさせて頂きます。