三井炭山のおける朝鮮人労務者
入山した3,109名の朝鮮人労務者は、三井砂川関係の寮だけでも9寮を数え、職種は 坑内夫、抗外夫それぞれ6・4の割合で稼働し、坑内では全坑内員の3割強を占めた ほどである。
やがて故郷から家族を呼んで社宅住まいに移った者、独身者で上砂川の乙女と結ばれ て社宅に新居を構えた者など、山元との同化が進み、一般に”半島さん”(朝鮮半島の 人の意)と呼ばれて、上砂川の人たちとの親しみを深めていった。
昭和15年ころから、単身で来山していた朝鮮人労務者のところへ、故郷から家族 たちがやってきた。遠路はるばるなので、その出迎え風景は感激的であった。 労務者たちは砂川まで出迎え、お互いに元気な姿を見て肩を擁して嬉し涙にくれ…. 家族を迎てからの労務者は、一戸を構えると同時に、出炭作業にも異常なまでに 励んだのである。<上砂川町史より>
当時は、朝鮮人も日本人であり、同胞であったから、昭和16年以降は、生活も ほとんど在来日本人同様になり、種々の風習や炭山の習俗にもなじみ、三井砂川の 住民になりきり、次のようなエピソードを残している。
当初は、家族たちは、何分にも言語、人情、風俗などすべて異なる異郷にきたので あるから、何彼につけて不自由が伴った。しかし近隣の人たちは、自発的に金を出し 合い、入山記念品として炊事道具を贈ったりして励ました。また、同郷の人たちは、 「家族を持って若し出勤時間に遅れたりしては、産業報国の趣旨にもとり、内地同胞 に対しても申し訳ない」と、目覚し時計を各戸に一個ずつ贈るなど…. <上砂川町史より>
盆踊りなど純日本的な風習にも、初めはにぎやかさに誘われて見物していた朝鮮人も、 いつか赤と黄の襷を持ち出して、踊りの輪に加わるようになり、また共愛会の運動会 には、各種目に朝鮮人労務者が出場して数多く入賞し、特に朝鮮人労務者が熱狂した のは、朝鮮人寮対抗リレーで、大会の花形とまでいわれたものであった。 昭和16年9月には、これら朝鮮人労務者とその家族を慰安するために、朝鮮楽劇団を 呼んで、娯楽館で演芸大会を催したが、歌曲、舞踊、寸劇などに熱狂的な拍手が 渦巻いた….
やがて、三井砂川に稼働する朝鮮人労務者は、それぞれ2年間の契約期間が満了と なり、帰郷することになったが、100名以上の労務者が非常時下の石炭産業にと 契約を更新するとともに、「半島産業挺身隊」を結成して増産に励み、所内表彰を 受けたりした。
東町親和寮に住む朝鮮人労務者たちは、報酬の中から郷里の小学校新築について 寄付募集を申し合わせるなど、郷里の母校を想う同窓愛は、われわれと何ら変る ものがなく….<上砂川町史より>
こんなに素直でやさしく、なじみ深かった朝鮮人労務者も、終戦後の動転(日本の 敗戦と朝鮮の独立など)を期に、ほとんどが三井砂川から引き揚ていったが、戦後、 各地で朝鮮人騒乱がみられた中で、三井砂川に朝鮮人騒動がなかった(中国人との 抗争はあったが)のは、戦時中の鉱業所の対応措置が適切であったこともさること ながら、炭山のひとたち(近隣、同僚など)が人種の垣根を越えて、真に同胞として 善隣友愛を貫いた真情によるところも、また大であった。