三代目松本金太郎を名乗り、79年3月に6歳で初舞台を踏みました。その前から父の舞台けいこに付いて劇場に行き、小道具部屋に入ったり、芝居で使う紙の雪をもらい、家でまいて遊んだりしていました。初舞台では楽屋や専用の鏡台が用意され、衣装やかつらをつけて誰に怒られることなく堂々と舞台に立てる。それがうれしかった。
《5歳から歌舞伎俳優の基礎となる踊りのけいこを始めた。81年10、11月には祖父の松本白鸚(はくおう)、父の九代目松本幸四郎、本人の七代目染五郎の親子孫三代の襲名興行が歌舞伎座で行われた》
小学校低学年のころには、うちは他の家とは違うんだ、という認識があったように思います。父が(六代目)染五郎であることが誇らしかったし、あこがれてもいた。小学校2年生の時に「盛綱陣屋(もりつなじんや)」で子役の大役である小四郎を初演しました。
《近江源氏の佐々木盛綱と弟の高綱は敵味方に別れ、高綱の息子、小四郎は戦場で盛綱方に捕らわれる。北条時政の前で盛綱が戦死した高綱の首実検をしようとした時、小四郎は切腹する。高綱の首が偽物であることを隠すためであった》
千秋楽の前日に体調を崩してドクターストップがかかり、一日だけ舞台を休みました。毎日舞台にいる時間に、家で寝ているのが気持ち悪かった。だから千秋楽は、熱があるのに無理に舞台に立ちました。その時に「何があっても休みたくない。もう二度と休まない」と心に決めました。それから舞台を休んだことはありません。
《白鸚の父、七代目幸四郎は「勧進帳」の弁慶を生涯に1600回以上演じたといわれる立ち役である。白鸚も、その長男である現・幸四郎も、弁慶を当たり役としてきた。高麗(こうらい)屋(幸四郎家)は「弁慶の家」でもある》
小さいころは弁慶のまねに明け暮れました。「勧進帳」は長唄の名曲で、おはやしの鼓も印象的です。弁慶をすぐに演じられないのは分かっていました。ならば「勧進帳」の鼓を打てるようになってやろうと、小学校3年生の時にけいこを始めました。のめり込みましたね。
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聞き手・小玉祥子/「時代を駆ける」は火~土曜日掲載です。
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■人物略歴
歌舞伎俳優。37歳(写真は79年3月歌舞伎座での初舞台=写真家の福田尚武さん撮影)
毎日新聞 2010年8月18日 東京朝刊
8月18日 | 市川染五郎/2 二度と舞台は休まない |
8月17日 | 市川染五郎/1 一日一日、勝負の舞台 |
8月7日 | 古葉竹識/10止 人生預かる立場は同じ |
8月6日 | 古葉竹識/9 津田を襲った悲劇 |
8月5日 | 古葉竹識/8 「江夏の21球」で日本一 |
8月4日 | 古葉竹識/7 優勝で広島に恩返し |
8月3日 | 古葉竹識/6 後遺症克服し盗塁王 |
7月31日 | 古葉竹識/5 念願のプロ入り、広島へ |
7月30日 | 古葉竹識/4 完全試合、現場で体験 |
7月29日 | 古葉竹識/3 稼ぐためプロ目指す |
7月28日 | 古葉竹識/2 焼け跡、越境、甲子園 |
7月27日 | 古葉竹識/1 監督退き20年、再び |
7月24日 | 羽生善治/9止 勇気持って「羽生流」へ |
7月23日 | 羽生善治/8 名人戦問題で発奮 |
7月22日 | 羽生善治/7 再挑戦で初の7冠 |
7月21日 | 羽生善治/6 米長名人との死闘制す |
7月17日 | 羽生善治/5 初めてのスランプ |
7月16日 | 羽生善治/4 将棋漬けの10代後半 |
7月15日 | 羽生善治/3 強烈な奨励会の体験 |
7月14日 | 羽生善治/2 毎日熱中、小学生名人に |
7月13日 | 羽生善治/1 手が震える名人の重み |
7月10日 | 川口淳一郎/10止 宇宙大航海時代へ挑戦 |
7月9日 | 川口淳一郎/9 夢の跡に立って |
7月8日 | 川口淳一郎/8 意地と忍耐の7年 |
7月7日 | 川口淳一郎/7 人事を尽くし神頼み |
7月6日 | 川口淳一郎/6 人類初のだいご味 |
7月3日 | 川口淳一郎/5 破れかぶれの挑戦 |
7月2日 | 川口淳一郎/4 「軌道の魔術師」現る |
7月1日 | 川口淳一郎/3 米の惑星探査機に驚き |
6月30日 | 川口淳一郎/2 夢のようなフィナーレ |
6月29日 | 川口淳一郎/1 「はやぶさ」帰還に涙 |
6月26日 | 川島隆太/10止 「賢く老いる」懸け橋 |
6月25日 | 川島隆太/9 10億円寄付し研究に |
6月24日 | 川島隆太/8 情報発信にジレンマ |
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6月22日 | 川島隆太/6 思いつきが共同研究に |