高宗、1910年6月にロシア亡命を計画

ロシアの外交文書を単独入手

ウラジオストクでの抗日闘争の拠点づくりが狙い

 高宗が、日本による韓国併合直前の1910年6月、ロシア・ウラジオストクに亡命し抗日闘争の拠点を築こうとしていた事実が、ロシアの外交文書から明らかになった。

 中国・上海に駐在していたロシアの商務官ゴイエルが1910年6月22日付で作成し、駐日ロシア大使マレフスキーに送った報告書は、「高宗が、間島管理使・李範允(イ・ボムユン)と咸鏡道の義兵の助けを得られる北方に逃亡し、ロシアの国境を越え、ウラジオストクに滞在しようとしている、と伝えてきた」と記録されている。ゴイエルは、同年6月中旬に自らを訪ねてきた韓国軍大尉・玄尚健(ヒョン・サンゴン)と、愛国啓蒙団体「西北学会」幹部の李甲(イ・ガプ)から、高宗の親書をロシア皇帝に渡してほしいと頼まれ、その席で高宗の亡命計画を聞いたという。これに先立つ1909年2月、高宗は露清銀行ウラジオストク支店に預けていた自らの秘密資金を、日本側が引き出すことを妨いでほしい、と駐韓ロシア総領事ソモフを通じ要請していた。

 ゴイエルの報告書を公開したチェ・ドッキュ東北アジア歴史財団研究委員は、「ロシア陸軍は当時、極東防衛のため、沿海州の韓国人を対日防諜活動に活用する計画を持っていた。ところが、日本との関係悪化を懸念したイズヴォルスキー外相やストルイピン首相らが反対し、ロシアは高宗の亡命要請を受け入れなかった」と語った。

金基哲(キム・ギチョル)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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