「日本が韓国を丸ごとのみ込もうとしている」(下)

高宗、併合直前にロシア皇帝にあて懇切な手紙

亡命のため仮名で秘密資金を預けていた高宗

 ゴイエルの報告書によると、李甲は1910年4月、5月に幾度か高宗と会い、高宗から「亡命を決心しており、すぐに実行に移したい」という話を聞いた。高宗がこれまで亡命計画を保留していた理由は、二つある。第1に、海外に滞在する資金を準備するため、仮名で預けていた資金を引き出そうとしたが、首尾良くいかなかったこと。第2に、日本の人質となっている英親王の母・厳妃が、息子の身辺の安全を理由に引き留めていたからだった。しかし高宗は、海外の韓国人秘密組織の助けを得て亡命生活を送ることができると判断、これで厳妃との不和が深まり、亡命を断行することを決心した。また1910年5月、臨時内閣総理大臣になった朴斉純(パク・ジェスン)と、1903年に間島管理使として派遣されウラジオストクに軍事力を有していた李範允(イ・ボムユン)が、高宗の亡命を助けることになった。亡命を準備するため、既に複数の人物がウラジオストクに向かっていた。

「李甲、高宗の親書を持ってサンクトペテルブルクを訪問」

 ゴイエルの報告で目を引くのは、高宗が海外に預けていた巨額の秘密資金の用途だ。高宗は、ドイツ系の徳華銀行、ロシア系の露清銀行などに秘密資金を預けていたが、その具体的な用途は「主権守護外交用」と推測されているにすぎなかった。これについてゴイエル報告書は、「高宗は、海外滞在資金を用意するため、仮名で秘密資金を預けていた」と明かしている。またゴイエルは、「李甲が高宗の親書を持って、ウラジオストク経由でサンクトペテルブルクのロシア外務省を訪問するのは間違いない」と報告した。

 李泰鎮(イ・テジン)ソウル大名誉教授は、「高宗は、1900年代(1900~1909年)後半からウラジオストクに資金を送り、抗日根拠地を作ろうと試みていた。1910年3月に安重根(アン・ジュングン)の死刑が執行されて以降、韓国国内にこれ以上滞在するのは困難と判断し、ウラジオストクで新たな抗日闘争を試みようとしたものとみられる」と語った。

金基哲(キム・ギチョル)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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