世界基督教統一神霊協会(統一教会) 世界基督教統一神霊協会(統一教会)
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『統一教会に反対する人々』
―  4千人の拉致・監禁はなぜ起きたか ―

はじめに

     日本において、統一教会信者に対する棄教目的の拉致監禁事件が多発してきました。最初に監禁事件が起こったのは1966年です。以来、現在までの43年間で、4000人を超える信者が監禁の被害に遭ってきました。
    この拉致監禁の悪質な点は、信者が信仰を棄てるまで監禁から解放しないことです。また、幸いにして監禁から逃れてきても、2度目、3度目と、信者が脱会するまで、何度でも拉致監禁が繰り返されるため、反対牧師らと結託した親族をもつ統一教会信者は、「また、いつ、どこで、拉致監禁されるかしれない」「今度監禁されたら、二度と解放されないのではないか」といった不安を抱え、逃避的生活をせざるを得なくなり、平穏な日常生活を送ることが非常に困難になってしまうのです。
    脱会するまで監禁を継続するというやり方は、日本のキリシタン迫害で用いられた方法です。キリシタンにとって、信仰を全うして殉教することは、ある意味で「信仰者の鏡」として称賛されます。ところが、日本の為政者は、キリシタンが栄光と思う「殉教者の道」を与えませんでした。
    それは、「キリシタンを皆殺しにすることはやさしいことだったが、迫害者たちは、それより転ばせる(棄教させる)方法を選んだ。理由はキリシタンを皆殺しにしても彼らを自分の意に従わせえなかったという侮辱を受けたことになり、自分たちの負けになるからである。迫害者たちが望んだのは、己れの命令に(キリシタンを)従わせることだった」(1612年3月28日付、宣教師オルファネルの報告)という理由からです。
    棄教強要のため、迫害者は拷問や踏み絵など、あらゆる手段を講じました。心理的な作戦として、父母と息子・娘、宣教師と信者を一緒に拷問することを通して、親子の情、師弟の情などに揺さぶりをかけ、棄教するよう責め立てたのです。
    このようなキリシタン迫害は、親族を巻き込んだ統一教会信者に対する棄教強要事件と通じる世界があります。監禁をきっかけに、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ続ける人も多くおり、棄教強要の実態は悲惨です。
    この小冊子が、多発してきた統一教会信者に対する「脱会強要事件」の真相を知る端緒となるように願ってやみません。40年以上にもわたって放置されてきた棄教目的の拉致監禁事件が一刻も早く終息することを願いつつ。

2009年7月7日


Q1. 統一教会信者に対する脱会説得をしているのは、キリスト教の牧師ですが、長年にわたって、どうしてここまで激しく反対するのでしょうか?

A1. 統一教会(世界基督教統一神霊協会)の教え、および存在自体が、キリスト教の存亡にかかわる問題であると感じているからです。
    “社会正義”のためにやっているかのように吹聴する反対牧師もいますが、彼らが反対活動をする動機の核心部分には、自分の信じるキリスト教の教理を守ろうとする“信仰”を懸けた闘いがあるのです。
    統一教会の教えは、神様の創造理想である「真の家庭」を築くことに救いの基準をおいています。理想家庭を築くことは万人共通の願いであるため、統一教会は超宗教の視点に立つことができ、神道、仏教、儒教などの他宗教とも和合していくことが可能です。
    ところが、キリスト教は、“十字架”を信じるところに唯一の信仰基準をおくため、“教条主義”に陥った場合には、十字架を信じない他宗教と和合していくことが困難になる側面があります。
    2000年のキリスト教史を研究すれば分かるように、キリスト教は「十字架信仰」に敵対すると感じた宗教に対して、激しく攻撃してきました。十字軍戦争がその顕著な例です。
    キリスト教の教えは、イエスは十字架で死ぬために来られたと信じます。ところが、統一教会では、十字架は二次的な予定であり、神様の本来の願いではなかったとします。もし統一教会の教えが正しいとすれば、2000年の伝統をもつキリスト教は、その教えの核心部分となる十字架の教理を変更しなければならなくなるのです。それは、キリスト教にとって絶対容認できないことであり、存亡をかけた闘いともなり得るものです。
    実は、統一教会の教えを日本に伝えるため、宣教師が遣わされたのが1958年7月15日でした。翌年10月2日、最初の礼拝が東京都新宿区で行われ、その後、わずかの期間で伝道が爆発的に進み、64年7月15日には、統一教会は宗教法人の認証を受けて、日本社会に対し影響力を持つようになっていきました。
    統一教会の教えが社会に浸透することは、キリスト教にとって絶対容認できないことです。そのまま放置すれば、やがてキリスト教にとって脅威となる可能性があるという思いを、反対牧師らは募らせていったのです。
    実は、森山諭牧師(日本イエス・キリスト教団)による最初の監禁事件が起こったのは66年早春です。穏便な話し合いで脱会させることが難しいため、強硬手段に出たのです。それは統一教会の宗教法人の認証から、わずか1年半後のことです。反対牧師が取り組む動機には、キリスト教の信仰が深くかかわっているのです。 
    43年間で4000件を超える脱会説得事件が発生したことは極めて異常な事態です。それは、反対牧師に「統一教会はキリスト教ではない」という正統異端論争と通じる宗教的動機が働いているためです。そのような動機がある限り、脱会説得事件は簡単に終息しません。
    森山諭牧師は、その動機について「彼ら(統一教会)がキリスト教を名乗らなければ、問題にする必要もありません。しかし、彼らがキリスト教を名乗り……聖書をでたらめに解釈して人々を惑わすので、放っておけないのです」と述べています。

Q2. 反統一教会活動には、キリスト教の牧師だけでなく、左翼思想をもつジャーナリストや弁護士なども連携して取り組んでいます。連携する理由は、どこにあるのでしょうか?
A2. 統一教会の宣教活動は、十字架解釈をめぐる教理論争の影響から、キリスト教圏においては、苦労を強いられることが多くあります。
    しかし、キリスト教の基盤が小さく、人口の1%にも満たない日本社会においては、説得力ある統一教会の教えであるがゆえに宣教が成功し、短期間のうちに基盤が爆発的に拡大しました。特に、70年代、80年代は、破竹の勢いでした。 
    そのような事態に、“危機感”を募らせたのが、日本の共産化を目論む左翼勢力であり、かつ、長年日本のキリスト教化を願いつつも、宣教がうまくいかなかったキリスト教なのです。両者は共に、ほぼ同時期(激しくなるのが70年代後半)に、反統一教会活動に熱心に取り組んでいくようになりますが、それは単なる偶然ではありません。
    1978年3月、日本共産党は、次のように宣言しています。

「日本の民主勢力はかれら(統一教会と勝共連合)を、理論的にも、実践的にも追いつめ、その活動の余地が存在しえないように追求していかなければならない」(『原理運動と勝共連合』日本共産党中央委員会出版局、131ページ)

    この目標は、十字架神学にこだわりをもつキリスト教(特に反対牧師)の目標ともなっています。浅見定雄氏(日本基督教団)は、次のように述べています。「統一協会を崩壊させるもうひとつの道がある。それは……世論を高め、彼らが日本社会に居られなくすることである」(浅見定雄著『統一協会=原理運動』224ページ)。
    この「日本社会におられなくする」ことが、両者の共通目標です。しかも、脱会説得によって得た元信者は、「その後、りっぱなクリスチャンとなり、逆に統一協会の信徒を救い出そうと伝道を始めるようになる」(森山牧師の弁、「クリスチャン新聞」76年3月21日号)というのです。 
    70年代末から80年代前半にかけて、共産党系の精神病院を使った強制改宗事件が多発しました。しかし、この精神病院を使った事件は、そこから逃れた統一教会信者が民事の“損害賠償請求裁判”を起こし、86年2月28日、統一教会信者が勝訴(東京地裁)することで終息しました。しかし、件数が年々増加していったのが、反対牧師と親族らが結託して行う監禁を伴った脱会説得事件です。精神病院を使った強制改宗が行えなくなった左翼勢力は、この頃からキリスト教関係者側を支援するかたちで、協力関係を築いていくようになります。
    そして、80年代後半から、キリスト教関係者と左翼勢力とが協力しながら、脱会説得で得た元信者による裁判闘争を開始していきました。それが「青春を返せ裁判」「婚姻無効裁判」です。これらの裁判闘争は、「日本社会におられなくする」ことを目指し世論を高めていくための、彼らの活動の一環なのです。

Q3. 反対派は、統一教会信者が拉致監禁され、脱会説得を受けるという深刻な「人権侵害」を、なぜ長年にわたって黙殺しているのでしょうか?
A3. 反対派の目的は統一教会つぶしです。反対派はそれを目標に、長年取り組んできました。そのためにキリスト教関係者、元信者、左翼ジャーナリスト、反対派弁護士らは、統一教会信者が拉致監禁されていることを知りつつ、その人権侵害の事実が知られないよう、黙殺してきたのです。 
    反対派の取り組む動機はさまざまです。最初の監禁事件は66年に起こり、以来、43年間で、把握できる事件で4000件を超えます。 
    監禁の手法をあみ出した森山諭牧師は、「統一教会は異端である」という“魔女狩り”的な動機から取り組みを始めています。 
    しかし、聖書解釈となれば、ユダヤ教とキリスト教が2000年を経た今もなお、旧約聖書の解釈をめぐって対立していることからも分かるように、穏便な話し合いで脱会に追い込むことは至難のわざです。ゆえに強制力を伴うかたちで監禁し、脱会説得をするようになったのです。 
    やがて、同じ「統一教会つぶし」の目標を掲げる左翼陣営が、反統一教会活動に加わるようになります。左翼陣営は60年、70年安保闘争で盛り上がりをみせ、70年代末、遅くとも80年代初期には日本の共産化が果たせると踏んでいました。ところが、統一教会の友好団体である「国際勝共連合」が68年に創立、勝共運動が社会に浸透していくと、日本赤化が難しい状況となっていきました。特に、左翼陣営が危機感を募らせたのが、78年4月の京都府知事選挙での共産党敗北です。
    日本共産党の宮本顕治委員長(当時)は、共産党県・地区委員長会議で、「勝共連合との戦いは重大。大衆闘争、イデオロギー、国会、法律の各分野で、また被害を受けている勢力が共同して、全面的な戦いにしていく必要がある。自民党に対しては“勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だ”という状況をつくることが重要。“勝共連合退治”の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される『聖なる戦い』である」(「赤旗」78年6月8日)と宣戦布告しました。
    この頃、頻発したのが共産党系の精神病院を使った脱会説得事件です。しかし、前述したように、精神病院を使った方法は、人権侵害裁判で統一教会信者が勝訴して終息します。それに引き替え、年々増加したのが、親族を巻き込んで、信者を監禁して行う脱会説得事件でした。
    その説得で脱会した元信者が裁判を起こし、それをマスコミが報道することで、いわゆる「霊感商法」問題が騒がれるようになります(『踏みにじられた信教の自由』112~41頁、光言社)。そして、自民党などの統一教会支持者に対しては「霊感商法を行う統一教会に荷担するのか」と糾弾し、分断作戦をとってきたのです。いわゆる霊感商法問題は「勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だという状況をつくれ」との宮本路線を現実化したものとなっているのです。このような流れを継続させたいのが、“統一教会つぶし”を目指す反対派の願いです。
    人は自分の活動実績を確認したいものです。霊感商法問題を積極的に取り上げて報道してきたジャーナリスト・有田芳生氏は、自民党議員から「霊感商法でしょ。あれからきっぱりと関係を絶ちました」との返答を聞いて、宮本路線の実績確認を取っています(有田芳生の『酔醒漫録』06年9月23日)。 
    これらの人々にとっては、霊感商法問題は積極的に報道すべきものですが、拉致監禁による強制改宗事件は、取り上げる必要のないものなのです。

Q4. 日本共産党は、統一教会および国際勝共連合に対し敵意をむき出しにし、目の敵にしていますが、そこに至るまでに、どのような攻防の歴史があったのでしょうか?
A4. 統一教会および国際勝共連合を壊滅させることは、左翼勢力の目標となっています。前述したように、1978年6月、日本共産党の宮本顕治委員長(当時)は、統一教会の関連団体・国際勝共連合に対し、「勝共連合退治の先頭に立つ」(『赤旗』)と宣戦布告しますが、68年から78年までの10年間、勝共連合と共産党の間で、さまざまな攻防がありました。
    日本の共産化の危機は、終戦以降、何度かあったと言われます。特に60年、70年安保闘争の頃は、学生や青年層に左翼勢力が浸透し、共産主義革命が実現しそうな勢いがありました。
    この日本の危機的状況を打破しようと、68年に創設された国際勝共連合は、国内で勝共運動を推進しました。会員らは主要都市の駅前や街頭にくり出し、共産主義の間違いを訴え、啓蒙活動を展開していったのです。そして70年9月、武道館で2万数千人を集めて「WACL(世界反共連盟)世界大会」を開催し大成功を収めました。
    また、72年4月、宮本委員長に12項目の「公開質問状」を送付しました。しかし返答がないため、6月6日、日本共産党本部に行って「公開討論会に応ぜよ」と要望書を手渡し、渋谷と新宿の駅頭で街頭討論会を準備して待ちました。しかし日本共産党は無視し続けたのです。
    ところが6月22日、毎日テレビ放送(現在のテレビ東京)が『ドキュメント・トーク』という番組で、共産党と公開討論をやって欲しいと要望してきました。勝共連合はそれに応じますが、共産党はこれを拒否。結局、番組は流れてしまったのです。そればかりか、勝共連合が共産党員の必読教科書『共産主義読本』を批判すると、共産党は批判された個所の書き換えや削除をし、出版し直しました。なおも批判を続けると『共産主義読本』を絶版にして、共産党は理論戦で完全に敗北したことを自らの手で証明する結果となったのです。
    以上の経緯から、共産党は78年3月、『原理運動と勝共連合』を出版し「日本の民主勢力は彼らを、理論的にも、実践的にも追いつめ、その活動の余地が存在しえないように追求していかなければならない」(131頁)と訴えるまでに至ったのです。その翌月、京都府知事選挙での共産党敗北があります。勝共連合によって、28年間にわたって支配してきた京都府政が倒れたため、宮本氏は「勝共連合退治」を呼びかけ、躍起になって乗り出したのです。
    実は、京都府出身のジャーナリスト・有田芳生氏は、学生時代、共産党の学生組織・民主青年同盟(民青)に所属し、その後共産党に入党。有田氏の父は共産党京都府委員会副委員長で、89年の参院選で比例区名簿に名を連ねたほどの人物です。有田氏も大学卒業後、共産党系出版社に入社(77年)しており、親子2代続く熱心な共産主義活動家です。勝共連合および統一教会を批判し続ける有田氏は、いわば宮本路線を踏襲しているのです。
    また、反対牧師の脱会説得で棄教した元信者の裁判を担当する弁護士にも、左翼思想からくる政治的意図があることを知っておく必要があります。

Q5. 全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)は、1987年から始まった「霊感商法」問題について積極的に取り上げ、統一教会批判を展開しています。この全国弁連が発表する内容を、マスコミは積極的に報道してきましたが、この団体設立の背景について教えてください。
A5. 統一教会の友好団体である国際勝共連合は、1960年代から共産主義・社会主義の間違いを訴え、日本の共産化・社会主義化を阻止する運動を展開しました。また、勝共連合の友好団体「スパイ防止法制定促進国民会議」は、日本の共産化のために暗躍するスパイや工作員らを法的に取り締まるため、「スパイ防止法」制定推進の運動を進めていました。全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)は、これらの国民運動を阻止しようとして設立された政治的意図をもつ団体です。 
    1978年、京都府知事選挙で、28年間にわたった共産党府政が敗北したことは左翼勢力に大きな衝撃を与えましたが、さらに彼らが危機感を募らせたのが「レフチェンコ事件」でした。1979年にアメリカに亡命していたレフチェンコ氏が、82年12月、ワシントンで日本におけるソ連の秘密情報機関KGBのスパイ活動、および工作員に関する衝撃的な証言をしたのです。 
    83年から国際勝共連合と社会党(現、社民党)との間で「レフチェンコ事件裁判」が始まりました。この裁判は、レフチェンコ証言はCIAと国際勝共連合の謀略であると「社会新報」に記載されたことに対し、国際勝共連合が社会党を名誉毀損で訴えたものです(94年に、社会党が国際勝共連合に解決金200万円を支払うことで和解)。この裁判の社会党側の代理人弁護士の一人が、全国弁連の山口広弁護士です。「スパイ防止法」制定に危機感を募らせた左翼勢力が、国際勝共連合および統一教会をつぶそうと躍起になって乗り出したのは、86年11月26日の「スパイ防止法案」の再提出からです。 
    全国弁連の発足の背景について、『「霊感商法」の真相』(世界日報社、206~207ページ)によれば、横浜弁護士会所属の小野毅弁護士が、86年10月23日、日本ジャーナリスト会議のシンポジウムで、「発足した時、被害者は1人しかいなかったが、弁護団を発足させ、マスコミに取り上げてもらって被害者を発掘しようということになった」と語ると共に、全国弁連が、共産党系を核とする左翼的活動家弁護士の集団である青年法律家協会(青法協)を中心に、スパイ防止法阻止のために発足した経緯について述べています。 
    統一教会の一部の信者が、独自の経済活動として開運商品や仏具等を販売していたことがあるのは事実です。しかしこのような販売行為はあくまで、販売員とその関係会社が行ったもので、統一教会はそのような販売活動は一切しておりません。ところが、全国弁連の弁護士らは、「霊感商法の手口により集められた資金がスパイ防止法制定推進運動の資金とされている」と邪推し、左翼的マスコミと結託して「霊感商法」反対キャンペーンを展開したのです。 
    それから1年後の87年10月23日、「朝日ジャーナル」の伊藤正孝編集長は、東京・銀座の資生堂パーラーで、ごく近しい記者仲間たちを集め、「“霊感商法”とジャーナリズム」というテーマで講演し、次のように語っています。

「新聞やテレビは被害者、被害者というけれども、自分たちが売りつけた購入者の9割はみんな喜んでいる。彼らは9割9分と言いますが、みんな喜んでいる。それなのになぜたった1%ぐらいの反対者のことばかり報道するのか。こういう抗議が(彼らから)何度もまいりました。……確かに彼らの言うことには一理ありまして、『霊感商法』被害を訴えているのは、ほぼ5%未満であります。ある種の世論調査をわれわれが取ったのですが、大部分は今もですね、壺の効用を信じている」

    伊藤編集長は、この日の集まりが、いわば“身内”の集まりだったため、批判キャンペーンには都合が悪いとして隠していたデータ(5%未満)を、ついポロリともらしたのです。
    この伊藤編集長の発言からも分かるように、反対派は、事実に基づいて報道しようとするのではなく、何としてでも社会問題化し、統一教会や国際勝共連合を窮地に追い込もうという特定の政治的意図をもって出発していたのが、いわゆる“霊感商法”キャンペーンであった事実を知っておく必要があります。

Q6.1987年に始まった、いわゆる「霊感商法」キャンペーンの背景には、「事前工作」とも言うべき元信者の活動があったと聞きました。それはどういうことなのか、説明してください。
A6.1987年2月14日、朝日新聞が“霊感商法”キャンペーンを開始しました。以来、反対派は、マスコミなどを通じて「反社会的な霊感商法を行う統一教会」という批判を展開しました。この“霊感商法”キャンペーンには、いわば“事前工作”と呼べる元信者の活動があったことを知らなければなりません。
    統一教会を脱会させられた元信者は、自分の献金に対する返金要求だけでなく、統一教会信者らの経営する企業に就職していた場合には、宗教法人・統一教会(世界基督教統一神霊協会)と関係がないにもかかわらず、その顧客にも働きかけて返金させていく活動をしていました。 
    例えば、反対牧師の和賀真也氏が主宰するエクレシア会の「エクレシア会報」第21号(82年6月11日)には、Mさんの脱会した経緯とともに、彼女が脱会後、脱会説得者とともに自分の顧客を積極的に回った事実が、次のように報告されています。

「遂に脱会の決意が成り、大阪まで同行し、印鑑や壺販売のお客一人一人の家を回って、間違いを告白し、働きを止める旨告げて行った」(14ページ)

    また、同会報第18号(82年3月10日)にも、「昨年1千万円を越える同様の取引解約にひき続き、再び高額商品の返品・解約に成功した。被害にあった人は長野県の善良な未亡人であり、不運な体験を威迫商法に利用されて亡き夫の財産をつぎ込み、1300万円を支払ってしまった。その後、エクレシア会によりこれは統一協会の営利事業と分り、解決に努めてきた」(6ページ)とあります。このようにして、顧客を訪問して、ことさらに営利事業を統一教会と結びつけた話をすることによって解約・返金をさせる活動をしているのです。
    田口民也著『統一協会からの救出』にも、元信者が自分の就職していた企業の顧客を回って、商品を返品させるための働きかけをした事実が、次のように報告されています。

「(脱会後の)彼は霊感商法で壺や多宝塔を売った人たちのところへ行って、何度玄関払いされても、熱心に自分の間違いをおわびし、イエス・キリストに救われた喜びを伝えてゆきました。 Fさんという婦人は、最初の3日間ほどは玄関にも入れてくれなかったということでしたが、N君の真実な態度とあまりの真剣さに、よくよく話を聞いてみようということになり……ついにはイエス・キリストを信じ……多宝塔も返して、代金を取り戻すことができたそうです」(189~190ページ)

    また、日本基督教団出版局発行「信徒の友」1988年5月号にも、元信者らの働きかけによって、返金がなされた実例が報告されています。個人が特定されないために、いくつかの事例をもとに再構成したとしながらも、次のように述べています。

「知人に相談、回り回ってある牧師を紹介された。(統一教会信者の)妻にはうそをついて、母も加わり3人でその牧師館を訪ねた。
    (妻の脱会の)説得は夜8時から明け方にまで及んだ。12時頃、ふとつきものがおちたかのように我に返った。
    霊感商法の被害届けがたくさん出ていること、文鮮明という人がどんな人でどういう生活をしているか、キリスト教とのちがい、などを、その牧師はひたすら話した。…… 
    (そして)献金や、母の分も合わせて、被害額の計1450万円は、弁護士を通して統一協会並びに販売会社に契約の取り消しを求めた結果、ほぼ全額もどってきた」(20ページ)

    このように、反対派は「キリスト教とのちがい」を語り、説得して脱会させた元信者らの働きかけによって、本人が捧げた献金ばかりか、統一教会信者が経営していた企業への返金請求をさせて、その額を“霊感商法”の被害総額として、統一教会批判に利用していきました。 
    反対派は、“霊感商法”キャンペーンが開始されるより前に、さまざまな元信者自身の返金訴訟および顧客への働きかけによって、被害者を発掘する活動を行っていたのです。そして、マスコミでキャンペーンが始まると、それまで購入した商品に満足していた人も不安をあおられ、消費者センターなどに相談することで、それがまた、さらにマスコミで取り上げられ、徐々に“霊感商法”問題の騒ぎが拡大されていったのです。 
    反対派による脱会説得事件がなければ、元信者が顧客に働きかけてキャンセルさせる事前の工作活動もあり得ず、いわゆる“霊感商法”問題がここまで社会問題として拡大化されることはなかったと言えるのです。

Q7. 統一教会信者に対する拉致監禁事件は、純粋に「家庭問題」によって引き起こっているものであって、統一教会がいう“強制改宗グループ”など存在していないという主張を聞きました。真相はどうなのでしょうか?
A7. 拉致監禁行為は、たとえ親族が行ったとしても犯罪です。反対派は、その犯罪行為を教唆している事実を隠蔽したいがために、そのような噂を流し、拉致監禁はあくまでも親族が行っていることにしたいのでしょう。
    長年にわたって、反対派やマスコミは統一教会批判を繰り返してきました。反対牧師が暗躍した43年間で、批判書(週刊誌などを除く)は優に100冊を超えており、反対派の思い入れは極めて異常です。その批判内容は、統一教会内部でリンチが行われているといった誹謗中傷、未解決の凶悪事件に対する事実無根の統一教会犯行説、さらには、事実がゆがめられて伝聞された文師の「経歴詐称疑惑」、統一教会出版物の「相互矛盾」の揚げ足取り、統一原理を曲解した「教理批判」、風聞にすぎない「血分け」などの中傷です。反対牧師の説得で脱会した元信者が起こした訴訟、いわゆる「青春を返せ裁判」「霊感商法裁判」「婚姻無効裁判」などの裁判記録や報道なども、脱会説得のための批判資料とされています。
    これらは、親族の不安をかき立てるものばかりです。批判書を読んで不安を抱き、そこに記載してある相談窓口などに連絡して反対牧師とつながった親族は、さらに不安をあおられ、結局、反対牧師や元信者らと協力態勢を組みながら、統一教会信者の“脱会説得”に取り組むようになるのです。 
    よく反対派は、「家族だけでは救えないけど、家族にしか救えない」(「日本海新聞」07年5月28日)と言います。つまり、脱会説得を成功させるには、親族と反対派の“共闘”が必要不可欠だと言うのです。 「家族だけでは救えない」というのは、脱会説得には、統一原理批判に関する専門的な知識と脱会させるためのテクニックが要るからです。浅見定雄氏が『統一協会=原理運動』で、半分以上のページを割いて教理批判をし、また、川崎経子牧師が「原理の着物を脱ごう」と語って、統一教会員を説得していることからも、それが分かります。浅見定雄氏も「教えのことは、それをよく心得ている説得者に任せたほうがよい」(『統一協会=原理運動』29ページ)と指導しているのです。
     一方、「家族にしか救えない」ということで、親族らは、話し合いの環境づくりと称し、信者をマンションなどに監禁しますが、その本当の目的は、反対牧師に引き合わせ、統一教会信者を脱会説得することにあるのです。 
    このように、拉致監禁を伴った「脱会説得」は、拉致監禁の実行犯である親族のみでなせる行為ではなく、言わば、脱会説得の“専門家”とも呼ぶべき説得者がそこに加わわってこそ、成し得ることなのです。
    日本基督教団は、1993年1月28日の声明文「再び、『統一原理』問題に関する声明」で、「統一協会を脱会した元信者達の訴訟も全国で行われ、被害者の救済と被害者を出さないための運動が進められている」とし、その訴訟が一連の組織的な反対活動をする中での“実り”であることを述べ、「日本基督教団はあらためてこの問題の重要性を確認し、今後も一層の努力をして統一教会の実態を世に示し、被害者を出さない活動を行い、被害者の救済に取り組み、統一協会が消滅するまで活動することを表明する」としています。
    また、日本共産党も「日本の民主勢力はかれら(統一教会)を、理論的にも、実践的にも追いつめ、その活動の余地が存在しえないように追求していかなければならない」(『原理運動と勝共連合』日本共産党中央委員会出版局、131ページ)と公言し、長年取り組んできているのです。

Q8.統一教会側は「拉致・監禁」と言っていますが、実際にはそれは「保護・救出」であって、親族間における「話し合い」に過ぎないという反対派の主張を聞きました。真相はどうなのでしょうか?
A8.親族らは、話し合いの環境づくりと称し、信者をマンションなどに監禁しますが、その本当の目的は、反対牧師と引き合わせ、統一教会信者を脱会説得することにあります。“話し合い”というのは建前であって、脱会を成功させるための作戦の一環にすぎません。
    脱会させることが目的なので、もし「こんな閉ざされた場所なんかで、反対牧師とは会いたくない」と拒めば、親族と共に無期限となり得る監禁生活が、延々と継続されることとなってしまうのです。
    山崎浩子さんの場合、「(親族から)原理講論の解説をしてくれと言われて、必死で説明しても、ほんの最初の三行でつまずいてしまう。どうして、うちの親族は、こうも物わかりの悪い人間たちなのだろう」(『愛が偽りに終わるとき』185ページ)と嘆いていますが、これはほとんどのケースで用いられる作戦の一つです。親族は信者の考え方や統一原理を理解しようとする動機から講義を聞いているのではなく、初めから暗礁に乗り上げるよう教理論争のまねをし、最後には「やっぱり納得できない」と言って、牧師の介入のチャンスを得るため、本人からの承諾を得ようと仕向けているだけなのです。 
    本当に「話し合い」なら、自由な環境で行い、お互いの心が通じ合って完全に理解し合えるまで、徹底的に話し合うべきなのが常識的です。 
    ところが、やがて反対牧師(親族でない説得者)が介入すれば、浅見定雄氏が「親は、説得者と本人とのやりとりにあまり口を差し挟むべきではない」(『統一協会=原理運動』38ページ)と指導しているように、親族は事前の計画どおり、もっぱら“監視役”に退いてしまうのです。 
    浅見氏は、「本人が……分かってくれた(と私は信じた)のに、家へ帰ったあと再び統一協会へもどってしまったという痛恨の事例も幾つかある」(前掲書44ページ)と述べ、説得した信者が、その後も統一教会の信仰をもち続けるケースを「痛恨の事例」だと告白しています。 
    また、川崎経子牧師も「説得について二、三の注意」として、「(牧師と会わせる際に)絶対に妥協して期限を切ってはなりません。期限つき説得は、成功しません。期限を切った時に、すでに勝敗は決定的です。……裏を返せば『一週間我慢して自己防衛すれば……原理に帰ることができるのだよ』と、子どもを励ましていることになるのです」、「複数(2人)の説得者の利点は……A牧師の説明では不十分だったことを、B牧師の言葉によって補うことができるからです。……異なった目で見ることによって“偽装脱会”を見抜けることです」(『統一協会の素顔』191~193ページ)とし、信者が脱会を決意した後も、「落ち込み、ゆれ戻しは必ずやってきます。まだ安心はできません」(同195ページ)などと述べています。このように、牧師は「期限つき説得」を強く戒め、脱会に至るまで無期限の脱会説得をするよう指導しているのです。
    その上で、念を押すように「ツメが甘くなっていませんか」(196~197ページ)と強調し、統一教会の信仰を“根こそぎなくす”ための指導を徹底させています。これらの発言から分かるように、反対派の眼中には、統一教会信者を「脱会させる」ことしかありません。信者の信仰を尊重する配慮などないのです。“ツメ”が甘いかどうか、あるいは“勝敗”を云々すること自体、それが尋常な話し合いの場ではなく、“信仰(思想)の破壊工作”の場であるとしか言いようがありません。
    このように、統一教会信者の脱会を徹底させるその姿勢は冷酷そのもので、彼らの言う「話し合い」なるものを終えるには、“脱会”という選択肢しか与えられていないため、統一教会信者は、それこそ地獄の苦しみを味わうこととなります。 
    明確に脱会を拒んだ後藤徹氏のケースでは、監禁期間が12年5か月の長期に及んでいます。この監禁の長期化は、脱会しない限り監禁から解放しないためであり、このようなやり方が「話し合い」と呼べるはずがありません。

Q9.拉致監禁がきっかけで、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、苦しみ続ける人がいると聞きました。拉致監禁の被害者数に対し、PTSDなどの後遺症で苦しむ人はどのくらいの割合にのぼるのでしょうか?
A9.統一教会側が把握している拉致監禁の被害者数は、1966年から現在までの43年間で、4000人を超えています。なお、ジャーナリストの米本和広氏の取材に対し、反対派の人物が「最低でも5000人はいる」(「月刊現代」04年11月号、289ページ)と回答しており、統一教会が把握できていない水面下で、被害を受けていた人がいるものと考えられます。 
    ちなみに、山崎浩子さん失踪事件(1993年3月)が起こった前後、マスコミの統一教会批判報道が激しかった頃に事件が激増し、91年に302人、92年に375人、93年に360人と、わずか3年間で1000人を超える被害者が出ています。
     PTSD被害はかなりの割合に上ると考えられますが、監禁は、信者が脱会するまで無期限で続けられ、被害に遭った信者の約7割が脱会しているため、把握できません。また、自力で監禁から脱出してきた約3割の人の中に、深刻な精神的ダメージを受けている人を見かけますが、そのような人に対しても、2度目、3度目と拉致監禁が繰り返され、脱会へと追い込まれてしまうことから、その後の経過が不明であり、把握できない状況です。 
    ただし、偽装脱会等によって難を逃れ、統一教会に戻ってきた人の証言によると、偽装脱会中に、接することのできた元信者の中に、意味不明な言葉を発する人、自殺未遂、人間不信、無気力、社会復帰ができない人など、深刻な精神的ダメージを受けている人を複数見かけたとのことです。また、偽装脱会して統一教会に逃げ帰ってきた人も、悪夢にうなされるなどの症状が見られるため、PTSD被害はかなりの割合にのぼると見られます。 
    ちなみに、米国の宗教学者デビット・ブロムリーとジェームス・ルイスが調査した「カルト脱会シンドローム・誤った原因の帰属」(1987年)によると、脱会者のうち、強制的方法で脱会させられた人の61%に「意識の浮遊や変成状態」がみられ(強制的でない人の場合11%)、その他、悪夢47%(強制的でない人の場合11%)、健忘症・記憶喪失58%(強制的でない人の場合8%)、幻覚・幻影36%(強制的でない人の場合4%)、単調な精神的リズム56%(強制的でない人の場合3%)、激しい感情的爆発42%(強制的でない人の場合9%)、自殺・自己破壊的傾向31%(強制的でない人の場合9%)という調査報告がなされています。この調査から、強制的脱会説得が、いかに大きな精神的ダメージを与えていることが分かります。

Q10.キリスト教史の中で、日本におけるキリシタン迫害が最も厳しい迫害であったという話を聞きました。迫害といえば、ローマ帝国でのキリスト教迫害が有名ですが、日本のキリシタン迫害が最も厳しかったと言われる理由を教えてください。
A10.1597年2月、長崎26聖人の殉教事件が起こりました。以来、日本は長く厳しいキリシタン迫害時代に入っていきました。このキリシタン迫害について、キリシタン史研究家の片岡弥吉氏は、次のように述べています。

「世界史の中で、ローマ帝政時代300年のキリスト教迫害はもっともよく知られている。けれども、徳川幕府のキリシタン迫害には及ばない。ローマの迫害は皇帝によって寛厳があり、また迫害が中断されたこともあったし、教皇以下神父たちもいて祭儀も行われた。徳川幕府の250年に及ぶ迫害はやむことなく、その検索も緻密・厳重をきわめており、神父も殉教しつくして、ひとりの聖職者もいない時代が7世代にわたる久しきに及んだ」(『探訪・大航海時代の日本―キリシタンの悲劇』小学館、36ページ)

    日本におけるキリシタン迫害が他に類を見ないほどに厳しかった理由は、迫害者が信者に「殉教者の道」を選ぶことをさせず、棄教するまで監禁して拷問し続けるという方策を取ったためでした。 
    1607年に来日した宣教師オルファネルは、当時の迫害状況を次のように報告しています。

「キリシタンを皆殺しにすることはやさしいことだったが、迫害者たちは、それより転ばせる(棄教させる)方法を選んだ。理由はキリシタンを皆殺しにしても彼らを自分の意に従わせえなかったという侮辱を受けたことになり、自分たちの負けになるからである。迫害者たちが望んだのは、己れの命令に(キリシタンを)従わせることだった」(前掲書、40ページ)

    こうして迫害者は、棄教のために有効と思われるあらゆる手段をとったのです。拷問の方法も陰湿で、残酷なものが数多くありました。 文献から具体的に述べると、

  1. 火あぶり――生身の人間を焼き殺す方法で、柱に縛り、苦しみを長引かせて転ぶ機会を与えるために、縛った縄も弱くし、薪は柱から離しておく。
  2. 竹鋸引き――キリシタンを街道わきの柱にくくり、首に刀傷をつけ、そばに竹鋸をおく。刑吏や通行人がこの竹鋸で首の傷あとを引き裂いていく。
  3. 穴つり――深さ2メートル、直径1メートほどの穴のそばにつり台を立て、信者をつり台から穴の中に逆つりする。内臓が逆転したり、頭に充血したりして早く死なないよう胴体を綱でぐるぐる巻きにし、耳のところに小さな穴を開けておく。中央を半円にくり抜いた板2枚を、腰に当てて蓋にする。その苦痛を倍加させるために、穴の底に汚物を入れることもある。
  4. 雲仙の地獄責め――雲仙の硫黄泉の噴出口に連れて行き、長い柄の柄杓で熱湯を汲み、その柄杓の底に開けられた小さな穴からしたたる滴を、裸の肉体のいたるところに注ぐ。苦痛を長引かせるために、医師が焼けただれた傷に手当てを加え、小屋に入れて藁の上に休ませた。1日に1回、1椀の飯と鰯1尾が食事として与えられ、拷問は幾日もつづいた。(参考、前掲書および岡田章雄編『日本の歴史10―キリシタンの世紀』から)

    以上のように、キリシタンを殉教させるのではなく、棄教目的のために監禁したうえ、さまざまなかたちで拷問したのです。中でも「穴つり」は残忍で、当時、来日していた反キリシタンのオランダ人でさえ、その陰湿な拷問方法を嫌悪したと言います。また「雲仙の地獄責め」は、拷問で受けた傷の手当てをし、食事を与え、体力が持ち直せば、再び拷問をする方法がとられました。棄教させるためには、まさに“あめとムチ”方式でキリシタンの心身をもてあそんだのです。このように、日本のキリシタン迫害は、信者が信仰を捨てない限りは、監禁がいつまでも継続されたのです。 
    長い間迫害されたキリスト教が、今度は迫害する側に回り、肉体に対する拷問は基本的にないにせよ、棄教目的の監禁をして、統一教会信者が信仰を棄てない限り、いつまでも監禁を継続する方法を取っているのです。これは、どれほど苦しいことでしょうか。迫害史の中で、最も残忍と言われる方法が継承されているのです。
    一部のキリスト教牧師らが、親族と組んで信者を監禁し、棄教を目的に脱会説得しているのは極めて問題であり、この信教の自由の侵害行為を“親子の話し合い”の名のもとで放置してきた日本社会は、後世から大きな断罪を受けることでしょう。

Q11.長く厳しかった日本でのキリシタン迫害が終わったのは、どのような経緯からでしょうか?
A11.残念ながら、日本政府自らが「信教の自由」に目覚めることでキリシタン迫害が終わったのではなく、きっかけは「浦上四番崩れ」に対する諸外国からの非難、外圧によるものです。 
    キリシタン迫害において、幕末から明治初期にかけて「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害が起こりました。 徳川幕府が鎖国を解いた7年後の1865年、長崎に大浦天主堂が建ちましたが、そのとき、長く潜伏してきた多くのキリシタンたちが名乗りを上げました。これは世界宗教史の奇跡とさえ言われました。その2年後の1867年7月、幕府の捕り手が浦上に乗り込み、キリシタンを拉致したのです。
    信者は拷問に屈して一度は棄教を表明しますが、すぐに信仰を持ち直しました。そこで、翌68年7月、再度、信者は役所に呼び出され、次々に捕縛され、福山、津和野をはじめ、鹿児島、広島、岡山、姫路、松江、鳥取、徳島、高松、松山、高知、和歌山、名古屋、金沢、富山など住み慣れた家から別の場所に移され、そこで棄教を強要されたのです。彼らキリシタンは犬の扱いを受け、1匹、2匹と数えられ、見知らぬ土地で監禁されて、棄教を迫られたのです。
    こうして、キリシタン迫害がなされている最中の1871年11月、岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団が横浜港を発ち、1年10か月にわたって、条約改正問題の交渉のため、アメリカを経て欧州諸国を訪問しました。その際、キリシタンを迫害し、信教の自由を認めない野蛮な国とは条約を結べないとの激しい非難を受けたのです。
    この岩倉使節団の経緯を、永井隆著『乙女峠』(中央出版社)は、次のように述べています。

「どこの国に行っても、日本政府が人民に信仰の自由を与えていないのは野蛮国だ、という非難の世論がごうごうと岩倉大使一行を攻撃し、ことにベルギーのブリュッセルでは、一行の乗った馬車が市中を通るとき、市民がおしよせてきて口々に非難し、人民に信仰の自由をゆるし、流されている浦上のキリシタンを牢から出せ、と叫んでやみません。 
    ……ついに使節から東京に電報が打たれました。『吾人は行く所として、切支丹追放者と信教自由とのために外国人民の強訴に接する、この際、前者はすみやかにこれを解放し、後者については幾分の自由寛大の意向を表明しなくては、とうてい外国臣民の友誼的譲与を期待することはできない。』
    この電報は政府を驚かしました。……小さいと思った宗教問題が、平等条約を結ぶのにいちばん大きいじゃまになっていたのをはじめて知ったのでした」(72~73ページ)

 このような諸外国からの外圧を受けた日本政府は、ついに1873年2月21日、切支丹禁令の高札を取り去り、3月14日に、各地に流されていた浦上の信者を故郷に帰したのです。こうして信教の自由を与えた日本は、やっと野蛮国の汚名を返上し、諸外国と平等な条約を結ぶことができたのです。 
    現在、拉致監禁事件を見て見ぬ振りをする日本国家は、世界の真のリーダー国となるために、このような過去の歴史的経緯から、多くのものを学ぶ必要があると言えます。

Q12.反対父母の会が流した情報が、国会質疑で取り上げられ問題となったことがあると聞きました。また、有田芳生氏も、根拠のない情報をさまざまに流し続けてきたと聞きましたが、具体的にはどのような情報でしょうか?
A12.反対派は、「統一教会ではリンチ殺人が行われている」「行方不明者がいる」「犯罪者になる」など、統一教会信者の父母らを不安に陥れる、さまざまな風聞を語り続けてきました。 
    1977年2月、全国原理運動被害者父母の会(反対父母の会)は、「統一教会信者の調査対象者119人中、行方不明32人、死亡3人、異常心理をきたした者49人」などとする情報を発表しました。この情報を真に受けた父母は、統一教会の信仰を棄てさせようと反対牧師らと共謀し、脱会説得に積極的に乗り出すようになり、監禁事件が多発してきました。
    この「反対父母の会」の情報は、1977年の衆議院予算委員会で、当時の社会党(現、社民党)議員によって、統一教会攻撃のための質問の資料として用いられました。しかし、この「反対父母の会」の情報は、実にデタラメなものでした。実は、「反対父母の会」のアンケート要請文には、「子供がなるべく精神病者や栄養失調になるよう回答を作り上げてください」(共産主義と宗教問題研究会編『日本版・収容所列島』善本社、407ページ)と書かれており、統一教会を貶めようとする立場から意図的に情報がわい曲されていたのです。 
    この情報を用いて国会で質問を行った社会党議員(当時)に対し、統一教会側は調査結果に該当する個人名を挙げるよう要請しました。しかし具体的に個人名を挙げられたのは、「行方不明32人」中3人、「異常心理49人」中6人だけでした。しかも、該当者として挙げられた人物を追跡調査すると、その情報は“事実無根”であったことが判明したのです(同書、407~413ページ)。 
    このようなデタラメぶりが明るみにされた後も、なお「反対父母の会」は類似したデタラメ情報を流し続けました。実に悪質です。しかし、その実態を知らない父母の中には、この手の情報に踊らされていく人が多数いたのです。 
    これらのデタラメ情報によって、どれほど多くの父母が不安におびえ、統一教会信者を監禁してでも脱会させようとしてきたことでしょうか。 
    反対派は80年代以降も、父母らを不安に陥れる情報を流し続け、“統一教会は怖い”というイメージを作り上げました。例えば、1987年7月21日、広島大教授が学部長室で殺害された事件では、マスコミは「統一教会員犯人説」を流布しました。
    有田芳生氏は、同年8月7日号「朝日ジャーナル」で、「広島大オカルト殺人」と題する記事を掲載し、統一教会の友好団体「原理研究会」と事件を関連付け、「朝日新聞阪神支局襲撃事件とともに、不吉な時代の到来を予告するものでないよう……犯人逮捕が待たれる」と述べています。(ちなみに有田氏は、同年5月の「朝日新聞阪神支局襲撃事件」についても、97年5月15日号「週刊文春」で、赤報隊=統一教会説を展開し、統一教会を犯人扱いしています。) 
    広島大教授殺害事件は、同年10月2日の犯人逮捕で統一教会の“無実”が証明されますが、当初、統一教会と関連付けて騒ぎながら、犯人逮捕後、統一教会への謝罪報道は全くありませんでした。そのため、統一教会の悪いイメージだけが残ることとなります。
    同様の報道は、90年代においても継続し、94年2月、反統一教会活動家の卓明煥氏が自宅前で殺害された事件では、「黒幕は統一教会」という風聞が流されました。犯人逮捕で、統一教会の無実は証明されていたにもかかわらず、事件に便乗して統一教会を批判し(「クリスチャン新聞」94年3月6日号)、まるで事件関与のような扱い方でした。 
    また、95年3月のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」の際も、オウム真理教と統一教会とは全く無関係であるにもかかわらず、反統一教会の小野毅弁護士は、「(オウム真理教には)統一教会に入っていた人物がいる……」と事実無根情報を述べるなど、両者を結びつける悪意の報道をしました(「週刊現代」95年5月27日号)。 
    他に、世界日報元幹部の副島嘉和氏が84年6月に暴漢に襲われて負傷した事件、2000年暮れに発生した「世田谷一家殺害事件」も、統一教会犯行説をまことしやかにささやいているのです(95年1月号「マルコポーロ」有田氏の記事、および02年3月号「新潮45」一橋文哉氏の記事など)。 
    このように反対派は、凶悪事件と統一教会を結びつける悪意の情報を流し続けることで、“霊感商法”報道と相まって、統一教会の悪いイメージを作り上げていったのです。

Q13.元信者は「統一教会にだまされた」と発言することがありますが、何をもって「だまされた」と言うのでしょうか。統一教会は本当に人をだましているのでしょうか?
A13.元信者が「だまされた」と発言している理由の一つに、教理問題が深くかかわっていることを知る必要があります。元信者は反対牧師から脱会説得を受けた結果、統一教会の教えが信じられなくなり、「だまされた」と発言しているのであって、統一教会が人をだましているわけではありません。
    反対牧師の反統一教会の動機には、聖書をどう解釈するかという宗教上の教理問題があります。その最も大きなものは、キリスト教の教えの根幹にある「十字架贖罪」の問題です。
    統一原理では、十字架は本来あるべきではなかったと主張します。神様の願いは、イエスが生きて勝利し、理想家庭、地上天国を築くことであったが、当時のユダヤ教の不信によって十字架で殺害された結果、霊的救いのみで終わったとするのです。反対牧師はこの教えを、「十字架に敵対」(ピリピ3章18節)する“サタンの教え”と批判してきました。
    キリスト教が十字架にこだわる理由は、救いの根拠を十字架に置くためです。その十字架を取り除けば、救いの根拠が全くなくなってしまうため、統一教会の存在自体をサタン視するのです。
    反対牧師は聖書を用いながら「十字架は絶対予定だ。あなたはだまされている」と統一教会信者を説得し、脱会を迫ってきました。
    従来のキリスト教がどのような観点で十字架の救いを信じているのかを知らないまま統一教会と出合い、信仰をもった信者の場合、反対牧師の、聖書を用いて行う教理批判に耐えられる人はほとんどいないでしょう。なぜなら新約聖書を素直な気持ちで読めば、「十字架は絶対予定である」という従来のキリスト教の考え方に影響されてしまうからです。 
    実際、福音書には、イエス自らが十字架を予告し、その十字架の死は人類を救うためであると述べた聖句が多く記されています。統一教会の十字架解釈と真っ向から対立すると思われる記述です。反対牧師は、そのような聖句を用いて痛烈な教理批判をぶつけてくるのです。ほとんどの信者は、反対牧師の攻撃をかわし切れず、どう解釈したらいいのか混沌とさせられ、やがて脱会に追い込まれてしまうのです。
    こうして、牧師の説得で「私はだまされていた」と判断するようになった元信者は、「統一教会の背後にサタンがいる」とまで思うようになります。
    ところで、キリスト教では、19世紀以降、「イエス伝研究」が急速に進み、福音書に書かれたイエスの生涯は、「歴史的事実に則して忠実に書かれたものではなく、それはケリュグマ(宣教)のイエス像に他ならない」というのが聖書批評学における常識となっています。
    すなわち、十字架が絶対予定であるという記述は、“十字架贖罪”を明確に述べていく必要性から、イエスに関する伝承を集めた福音書記者が、十字架の後でその出来事を回想し、イエスの受難の生涯を弁証的に論証しながら書き上げた“事後預言”にほかならないと言うのです。そのことを知らない信者の場合には、反対牧師の巧みな説得によって脱会に追い込まれるケースが多くあり、それが「だまされていた」という発言へとつながっているのです。これは宗教上の教理論争の問題であり、決して統一教会が人をだまそうとしているのではありません。
    しかし、元信者が「だまされた」と発言し、それがマスコミで報道されることで、統一教会は怖いというイメージと相まって、どんな人をも騙してしまう「マインド・コントロール」という特殊手法を用いている、得体の知れない集団であると思われてしまうのです。
    この十字架をめぐる教理論争の問題については、太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』(光言社)231~245ページに論じられていますので、参照してください。

Q14.反対派は、長年にわたって、統一教会では“血分け”を行っていると言って批判してきましたが、真相はどうなのでしょうか?
A14.反対派が脱会説得の際に用いる統一教会中傷の一つに、いわゆる“血分け”があります。1975年に出版された山口浩著『原理運動の素顔』には、次のように書かれています。

「“血分け”の方法は、といえば、教祖に献血してもらうのではない。ヤクザの義兄弟の契りのように血をすすり合うのでもない。教祖サマにセックスをしてもらうことによって“血分け”を行なうのである。従って、教祖サマからの血分けは、女性しかできない。その女性から今度は男性が分けてもらう、というように、男→女→男と互いちがいに行なうのだ」(144ページ)

    ジャーナリストの山口浩氏の説明によれば、統一教会では“セックスリレー”を実践していると言うのですが、これは事実無根です。拉致監禁され、反対牧師の説得で脱会した元信者の中でそのような経験者は一人もいません。(いくつかの霊的集団、例えば禹明植集団などは、禹氏が複数の女性との間で子女をもうけているようですが、それらの集団は、“絶対純潔”を説く統一教会とは無関係です。) 
    日本の信者にそのような経験者がいないと見るや、韓国の古い幹部の36家庭だけが“血分け”を実践していたのだと批判する反対派もいます。例えば、1990年4月に出版された川崎経子著『統一協会の素顔』には、「最初の3組と33組(36家庭)は、実際に文鮮明の血分けを受けたと指摘されている」(235ページ)と記されています。
    ところが、93年10月27日の某テレビ局のワイドショーに、36家庭の元信者、および「血分け」批判の草分け的存在の卓明煥氏が出演した際、司会者の「文教祖との間で血分けはあったのか」との質問に対し、36家庭の元信者は「自分たちには“血分け”はなかった」と否定したばかりか、長い間“血分け”批判をしてきた卓氏も、「統一教会は教理的にはセックス教理だが、今まで実際には証拠がなかった」と発言しました。 
    つまり、反対派の「36家庭までは血分けをした」という批判には、何の証拠もなかったのです。(最近では「3家庭だけ」と批判する反対派もいますが、これも事実無根です。)何の根拠もなく批判し続けてきたという事実は、驚くべきことであり、反対派の“悪意”からくる風聞に過ぎないものだったのです。 
    実は、拉致監禁による強制改宗の手法を生み出した森山諭牧師の「血分け」批判のニュースソースはこの卓明煥氏からの情報です。
    森山牧師の著書には、「血分け」が断定的に述べられているのですが、その情報の根拠が明示されていません。しかし74年10月12日号「キリスト新聞」を読むと、いわゆる「血分け」の情報提供者が卓氏であることが分かります。森山牧師は、何の証拠もないまま「血分け」を語っていた卓氏の発言を鵜呑みし、まるで自分が見てきたかのように「血分け」批判を断定的に行っていたのです。実に無責任です。
    名誉毀損にもあたりかねない情報を書く場合、その情報が果たして事実かどうかの裏づけを取り、極めて慎重に記載すべきです。ところが、卓氏自身が「証拠はなかった」と平然と言ってのけるところに、この“血分け”の中傷の悪質さがあります。 
    このような、単なる風聞から始まった「血分け」批判を聞かされることで、数多くの信者が、自分では目撃したことも、体験したこともないにもかかわらず、批判に踊らされて脱会に追い込まれた事実は、あまりにも嘆かわしいことです。

Q15. 統一教会側は“血分け”を否定するが、「堕落論で教えているように、堕落の経路がすべてセックスの関係だったなら、これを回復(復帰)するのは逆のセックスの経路が必要だ。だから“血分け”を間違いなくしているはず」という反対派の批判を聞きました。どう考えたらいいのでしょうか?
A15.このような邪推をし、流言飛語しているのは浅見定雄氏です。浅見氏は『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)の中で、天使長ルーシェルをL、エバをE、アダムをA、と表示しながら、統一教会には「セックスで清め返す」という教えがあるとして、次のように邪推します。

「堕落の経緯がL→E→Aとすべてセックスの関係だったとすれば、これを回復(復帰)するのはこれと逆のセックス経路がどうしても必要なはずである。堕落天使ルーシェルがエバを汚し、そのエバがこんどはアダムを汚したのだとすれば、逆に新しい『無原罪』ルーシェル(L’)が『清い』セックスによって人間の女(E’)を清め、そうして清まった女がつぎに男(A’)を清めればよいのだ。……彼らの論理では、イエスは本当は『第二のルーシェル』でなければならないのだ。そうでないと、最初のルーシェルがセックスで汚した人間の女をセックスで『清め返す』ことはできないからである」(16ページ)

    浅見氏の解釈がねじ曲がってしまうのは、浅見氏が『原理講論』をトータル的に把握していないためです。浅見氏は、堕落論の要点である、

  1. 天使長ルーシェルとエバの霊的堕落の問題が、単なる“性関係”を結んだというレベルの問題ではなく、夫婦となるべき関係でもないのに、“不倫の関係”を結んだという「創造原理に反する行為」であった点
  2. その動機が、神の愛ではなく、「自己中心の愛」であるところに問題があった

という重大な2点を見落としています。これらの重要点を見落とすようでは、堕落論はおろか、統一原理のイロハも分かっていないと断定せざるを得ません。『
    原理講論』には、「アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかった(318ページ)と論じられています。これは創世記12章10節~13章1節の物語を解釈したものです。


【図1】

    復帰摂理の中心人物アブラハムは、アダムの立場を蕩減する人物として、一旦、天使長の立場を象徴するパロに妻サライ(妹)を奪われそうになったのですが、再びサライを取り戻す路程を歩みました。これはアダム家庭で起こった堕落の内容を反対の経路で蕩減復帰する路程であったと解説しています。
    この場合【図1参照】、アダムの立場を蕩減するアブラハムはアダムのままであり、また、天使長の立場のパロも、やはり天使長のままであって、それは霊的堕落をするときに、夫婦となるべきではない二人(天使長とエバ)が“不倫の愛”の関係を結んで堕落したので、(1)逆にサライ(=エバ)がパロ(=天使長)と“不倫しない”で、「創造原理の相手」である夫アブラハム(=アダム)のもとに帰ってきた、(2)サライは夫の生命と自分の貞操を守るために、“自己中心的な動機”ではなく、「神を中心とした生命がけの心情」をもって、偽りの愛による「誘惑」の試練を乗り越えたのです。
    すなわち、堕落が「不倫の問題」だったので「不倫しない」こと、さらには、堕落が「自己中心の動機」によって引き起こされたので、今度は「神を中心とした動機」に立つこと。このように反対の道を歩んだアブラハム路程こそが、まさに復帰ということを意味するのです。
    浅見氏が言う、イエスは「第2のルーシェル」だとか、第2のルーシェルであるメシヤがセックスで「清め返す」といった屁理屈は、統一教会では全く教えていない、浅見氏の邪推にすぎません。浅見氏は、統一教会の教えのイロハさえも分かっていないのに、「統一教会の教えはこうだ」と断定的に述べているのです。

Q16.「文鮮明師が1935年4月17日、イエス様から啓示を受けたというのは作り話である。統一教会の出版物も食い違っており、実にいい加減である」という反対派の批判を聞きました。真相はどうなのでしょうか?
A16.聖書を使った教理批判は、結局、どちらの解釈を信じるのかというところに行き着いてしまうため、「それでも、私は統一原理を信じる」と統一教会信者が突っぱねると、脱会説得に時間がかかり、手こずらせる場合があります。ところが、「文は“血分け”をしている」、「うそをついている」など、人格批判で説得していけば、より効果的に脱会させられます。そういうことから、反対牧師が語る、文師を不信させるための批判の一つに、いわゆる「イースター問題」があります。
    脱会した山崎浩子さんは、「その日はイースターではなかった」という反対牧師の説明にショックを受け、文師を不信して、次のように述べています。

「文鮮明師は、一九三五年四月十七日のイースターの時、イエスの霊が現れ、
『私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい』
と啓示を受けた――というふうに私たちは教えられてきた。
    しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日がきて満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の四月十七日は日曜日ではなかった。
    反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年四月十七日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、“イースターの時”という補足は削除されているようだ」(『愛が偽りに終わるとき』195~196ページ)

    確かに、山崎浩子さんが言うように、35年4月17日は日曜日ではなく、受難週の水曜日に当たっています。(注、35年のイースターは4月21日)しかし、その日が、現在のキリスト教で祝うイースターではないからといって、文師がうそをついているということにはなりません。 
    78年10月14日に韓国で出版された『統一教会史』(成和社)には、次のように述べられています。

「先生が(数えで)16歳になられた年の復活節、(35年)4月17日のことであった。この日が本当の復活節であるということも、このとき先生は初めてお分かりになった。それは霊的にイエス様に会われたなかで、初めてあかされたからである。今日、一般のキリスト教で守っている復活節(イースター)記念日は年ごとに異なっている。それはイエス様が亡くなられた日が分からず、復活日も調べようがなく、西暦325年、ニケア公会議において『春分後、初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう』と規定したためであった」

    つまり、キリスト教自体、イースターがいつなのか分からず、明確でない時代がしばらくあって、AD325年の会議によって決めたのが、現在、キリスト教で祝われているイースターなのです。ゆえに、キリスト教で祝っているイースターは、正確なイエスの復活日かどうかハッキリしないのです。
    文師はイエスから「4月17日が本当のイースターである」と知らされたのです。その内容が日本に正確に伝わらなかったために「イースター問題」となったのです。
    いろいろな統一教会関係の出版物を調べてみると、反対派がその矛盾をあげつらって指摘しているとおり、出版物相互間に大小さまざまな食い違いがありました。このような食い違いが生じたのは、啓示に関する情報が、日本に伝わる際、断片的に伝えられたり、あるいは勘違いして受け取ったり、さらには、韓国と日本の風習の違いの問題も、そこに絡んでいたからです。
    例えば、「文師が16歳のとき啓示を受けられた」と伝え聞いた人が、韓国社会では、通常“数え”で年齢を数えていることに無知であった場合、単純に生年の1920年に16を足して「1936年」としてしまったり、あるいは「文師が啓示を受けた4月17日こそ、本当のイースターだった」という内容が微妙に変化して、「文師は4月17日のイースターに、啓示を受けた」と伝聞されてしまったり、という具合にです。
    このようにして、情報に食い違いが生じてしまったのです。その情報の食い違いを反対派があげつらい、監禁現場での脱会説得材料のひとつに利用(悪用?)するようになったのが、このイースター問題の真相です。 
    初代教会時代にも、福音書をはじめ新約諸文書間に矛盾があり(注:4つの福音書間にも矛盾がある)、それをユダヤ教側が「キリスト教諸文書は自己矛盾している」と批判しましたが、反対牧師の行為はそれと同じです。

Q17.「文鮮明師が、朴正華氏を背負って海を渡っているという写真は、別人で、人違いである。美談を作ってまで人を騙すような人物が、再臨主であるはずがない」という反対派の批判を聞きました。真相はどうなのでしょうか?
A17.反対牧師が、脱会説得に使用する資料の一つに、文師が朴正華氏を背負って海を渡っておられると信じられていた写真があります。朴氏は、文師が北朝鮮の興南監獄(徳里特別労務者収容所)で苦役されているとき、夢に現れた老人の導きもあって、文師を再臨主と信じ、弟子になった人です。 
    1950年10月14日、文師は国連軍による爆撃で解放され、平壌の弟子のもとを訪ねられます。そのころ、朴氏は足を骨折しており、平壌市内に避難命令が出されたとき、足手まといになるとして家族から置き去りにされていました。そんな朴氏を、文師は見捨てずに救い出されたのです。
    同年12月、文師は、足の不自由な朴氏を自転車に乗せ、金元弼氏とともに釜山を目指して南下しました。その途中、龍媒島という島から仁川に直行する船が出ていることを知って、朴氏を背負って浅瀬になった海を渡られたのでした。 
    反対牧師が批判する写真は、もともと韓国の「中央日報」に連載された李承晩大統領夫人の回顧録に出ていたもので、その写真は朴氏を背負って海を渡られる文師を彷彿させるものでした(83年10月24日付「中央日報」)。 
    84年5月9日、来日した朴正華氏は、東京の本部教会で「この写真は私と文先生です」と証言しました。その後、名古屋、宝塚、九州などを巡回したのです。当事者の証言であったことから、当然、多くの人々は全く疑うことなく、それを「文師と朴氏の写真」として受け入れたのです。しかし、その後、写真は文師と朴氏でないことが判明しました。 
    写真が見つかり、朴氏が来日した84年当時は、文師がアメリカの裁判でダンベリー収監が確定されるかどうかの時期であり、文興進氏が交通事故で亡くなってから数か月後でした。この写真の発見が、どれほど統一教会信者を慰め、励ましたことでしょうか。瞬く間に、その朗報は統一教会全体に伝わったのです。 
    反対牧師は、監禁場所で、その写真を統一教会信者に見せながら、「これは文鮮明ではない。文は嘘をついている」と批判します。しかし、これは文師が嘘をついたのでも、統一教会がだまそうとしたのでもありません。写真の雰囲気があまりにも似ていたこと、および当事者の証言もあったため、そう信じられるようになったのです。 
    たとえ、この写真が文師と朴氏でなかったとしても、文師が足の不自由な朴氏を見捨てずに南下された事実が否定されるわけではありません。足を骨折していた朴氏が、南にたどり着いたのは事実です。 
    ところで、イエスの遺体を包んだとされるイタリアのトリノの聖骸布も、その真贋のほどが取りざたされ、ある人は「偽物だ」と批判します。しかし、万一、聖骸布が偽物であったとしても、それでイエスが十字架で亡くなった事実そのものが否定されるわけではないのです。写真の問題は、それと同じであると言えるでしょう。

Q18.「『原理講論』の聖句引用はデタラメである。このようなものが、真理であるはずがない」という反対派の批判を聞きました。この問題について、どう考えたら良いのでしょうか?
A18.『原理講論』に不適切と思える聖句引用があることは事実です。しかし、これは「表現上の完成度レベル」の問題であって、統一原理の内容をより分かり易く説明しようとの意図から引用した聖句が、ふさわしくなかったというもので、統一原理の理論そのものが間違っているというのではありません。
    実は、ユダヤ教側から追求されざるを得ない「旧約聖書からの聖句の引用問題」が、新約聖書にもあり、基盤のなかった草創期の初代教会の人たちは、当時、圧倒的な基盤を誇っていたユダヤ教徒らから、「あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ……」と非難されざるを得なかった状況にあったことを知らなければなりません。
    この新約聖書が抱えている「聖句の引用問題」について、出村彰・宮谷宣史編『聖書解釈の歴史』(日本基督教団出版局)で、橋本滋男氏(同志社大学神学部教授)は次のように述べています。

「福音書における旧約句の利用は、上述のようにユダヤ教と共通する解釈が意識的な検討なしに採り入れられており、しかもそれらは伝承の諸段階で一貫していたわけでもない。また旧約引用の基本目的は、イエスの事件が人間にとって決定的な救済の事件であり、旧約の言葉の成就であることを示すところにあるが、それはあくまでもイエスを救い主と信じる信仰を前提にし、その立場からなされる旧約解釈であって、逆に旧約を深く読めば自ずとキリスト教信仰に到達するというのではない。したがってケリュグマの正当性を弁証するための旧約引用であるにもかかわらず、具体的には矛盾や問題を孕む箇所が見い出されるのである」(67ページ)

    さらに、橋本滋男氏は、『新共同訳・新約聖書注解I』(日本基督教団出版局)の「マタイ伝注解」でも、次のように述べています。

「彼(マタイ伝記者)は自らの神学の根拠づけのために旧約を利用しながらもそれに拘束されず、適当に変更を加えている。つまり彼においていわば旧約聖書はキリスト論のための道具と化している。こんなふうでは果たしてユダヤ教徒を説得できるのか問題が残るであろう。実際ユダヤ教徒はキリスト教の側が旧約聖書を適当に利用し、不正確な旧約本文でユダヤ教を攻撃することを長く嘆くことになり、後に旧約聖書のギリシア語新改訳(アクィラ訳/Aquila)を作ることになる」(37~38ページ)

    このように、現在、反対牧師が『原理講論』を批判するのと同様に、新約聖書に引用された旧約聖書からの引用も、ユダヤ教徒から見れば「あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ……」と批判される内容だったのです。
    結局、反対牧師たちは、自分たちの正典である新約聖書に含まれている同様の問題点はひた隠しにしたまま、統一教会員を脱会に追い込むために、『原理講論』の聖句の引用問題などをあら探しし、脱会説得のために利用(悪用?)しているのです。

Q19.「真理は不変である。ところが、『原理講論』は削除や付加、書き替えをして、変化している。このようなものが、真理であるはずがない」という反対派の批判を聞きました。どのように考えたら良いのでしょうか?
A19.反対牧師は、『原理講論』に対し、「韓国語の原典にはあるのに、日本語訳で削除した部分があり、改訂版では修正した所もある。真理は永遠不変なのに、変更すること自体、『原理講論』が真理ではない証拠である」と批判します。
    確かに、一時期『原理講論』にカットされた個所があったのは事実です。しかし、それは宣教上の配慮からであり、また、再臨論には、類似した聖句引用個所があったため、いわゆる「目飛び現象」(注:同じページに、同じ聖句が引用されていたため、同じ聖句と聖句の間の文章が翻訳されていなかった)による欠落部分がありました。
    さらに、翻訳の未熟さから引き起こされた問題も含まれています。例えば、日本語版『原理講論』23ページで、韓国語版では「一つの目的」とあるのが「神の目的」に誤訳される、といったようにです。
    実は、類似した問題が、新約聖書の成立過程にもありました。ゆえに、それをもって統一教会が不誠実であり、『原理講論』が真理ではないと言うなら、キリスト教も不誠実な宗教であり、新約聖書は真理ではないとの批判が、同様に成り立つことでしょう。 
    実際、キリスト教の正典である「新約聖書」の編纂過程を調べると、『原理講論』と同じ事情が、そこに横たわっている歴史的経緯があります。
    新約聖書の原典は、もともとギリシャ語ですが、ラテン語に翻訳された聖書は、すでに4世紀の時点で、写本ごとに食い違っていると言われるほど混乱しており、ついにAD381年、教皇ダマスス一世が、ヒエロニムス(347~419年)にラテン語聖書の校訂を命じざるを得なかったほどでした。
    また、原典であるギリシャ語聖書そのものも大変混乱しており、現代においてさえ、真の原典を復元するための努力として「本文批評」が研究され続けています。その最新の研究成果に基づいて出版されるネストレ=アーラントのギリシャ語聖書は、いまや28版を重ねようとしています。その新約聖書には、数多くの写本の“異読”が、欄外の註(脚注)として記載されています。それを見ればギリシャ語原典の写本が、如何に乱れていたのかがよく分かります。
    また、新約聖書で、宣教上の配慮から一時期、削除されたと考えられる個所として、ヨハネによる福音書8章の「姦淫の女」の話があります。
    さらに、マタイによる福音書では、14章3節「ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで」の“ピリポ”という名前が間違っているため、5世紀頃の後期筆記者(ベザ写本)は、その名を削除したりしているのです。 
    このように、聖書それ自体が、いろいろな諸事情を抱えながら、今日まで伝えられてきたのです。すなわち、書き換え、書き足し、あるいは削除といったことまでが行われ、時代や環境とともに変遷してきているのです。反対牧師は、そのような事実については、統一教会信者に教えようとしません。
    山崎浩子さんを脱会説得する際に、『原理講論』を批判した反対牧師は、「真理とは、ぐらぐらしない、動かないものという意味ですね」と定義し、ぐらぐらし、動いている『原理講論』は真理ではない、と批判しているのですが、その観点から言えば、「聖書も真理ではない」ということになってしまいます。
    キリスト教は、聖書を“神の啓示”と信じてきました。特にプロテスタント教会では、聖書の文字を“真理”と同一視する傾向性をもっています。ところが、19世紀以降、聖書批評学が急速に進展して、聖書の中に相互矛盾や記述ミス等が含まれていることが指摘されるようになり、イエスが語ったとされる言葉にさえ、誤りが含まれていることが明るみになっていきました。この聖書批評学の進展によって、「聖書は間違っていた」「真理ではなかった」として、信仰を失うクリスチャンが出てくるようになりました。
    このようなことを知っている反対牧師は、言わば、同様の手口でもって統一教会信者の信仰に揺さぶりを掛けて、「原理講論は間違い」「真理ではない」として、信仰の破壊工作をしているのです。このような脱会説得によって信仰を失った統一教会信者は、統一教会を激しく憎悪するようになり、裁判闘争までするようになっていくのです。
    聖書の問題点は棚に上げて、統一教会批判に躍起になる反対牧師には、悪意があるとしか言いようがなく、不誠実さを感じざるを得ません。

Q20.棄教目的で親族が行っている拉致監禁事件を、今なお取り締まろうとしない日本は、「信教の自由」の確立されていない国家であると言えますが、欧米諸国において、「信教の自由」が確立していった歴史的背景について教えてください。
A20.「信教の自由」が人類史上、初めて成文化されたのが1791年11月3日、アメリカで制定された「憲法修正第一条」でした。この憲法修正第一条は、信教の自由を語るうえで絶対に欠かせないものです。
    「憲法修正第一条」は、国家と教会の分離を規定しており、それを簡潔に言えば、少数派の権利を守るために、

  1. 国家は特定の宗教を公認してはならない(注:もし特定の宗教だけを公認すれば、非公認の宗教は弾圧の対象となり得る)
  2. 国家は、宗教上の礼拝、言論や出版の自由などを禁じたり、人民が平穏に集会する権利を侵害したりする法律を定めてはならない

とするものです。
    この「憲法修正第一条」が制定されるようになった背景には、思想・言論・結社などの自由をめぐって、カトリック教会、イギリス国教会、プロテスタント教会が互いに排斥、弾圧し合い、場合によっては、親族間で信仰問題をめぐって争い合うという悲劇が起こったからでした。そのような歴史的過ちを、二度と繰り返してはならないという深い反省から来ているのです。
    例えば、ピューリタン(清教徒)が胎動し始めた16~17世紀のイギリスでは、「首長令」を出したヘンリー8世以降、王位継承権争いに信仰問題がかかわり、王室内で王族らを中心に、カトリックか、プロテスタントか、あるいは中道(国教会)か、をめぐって各陣営が火花を散らす争いをしました。特にメアリ一世(1553~58在位)の治下で起こった、プロテスタント指導者らに対する「スミスフィールドの虐殺」は、凄惨な事件でした。
    また、ヨーロッパ大陸に目を向けると、ドイツでは、カトリックとプロテスタントによる「三十年戦争」で多数の国民が犠牲となり、人口は約1600万から600万人にまで減少しました(ウォーカー著『キリスト教史③宗教改革』202ページ)。フランスでは、ユグノー(カルヴァン主義者)を弾圧する「ユグノー戦争」で国土は荒廃、特に1572年8月の「聖バルトロマイ祭日の虐殺」では、約1万人が虐殺されたと言われます。
    正統異端論争に伴った宗教弾圧によって、行き場を失った人々は、信教の自由を求め、スイスやオランダ、イギリスなどに亡命したのです。しかし、その地も、彼らにとって安住の地ではありませんでした。やがて、それらの人々の中から新大陸アメリカへ移住し始めるグループが現れるのです。
    その代表者がメイフラワー号のピルグリムファーザーズたちです。それ以外にも、続々とヨーロッパ各地から、信教の自由を求めてアメリカに渡った集団がありました。彼らは多種多様で、カトリックから弾圧されたプロテスタント以外に、逆にプロテスタントから弾圧されたカトリック教徒も含まれ、さらにはメソジスト派、バプテスト派、クェーカー派、メノー派、そしてユダヤ教徒など、さまざまな宗派の人が移住し、アメリカは宗教のるつぼと化していきました。
    ところが、信教の自由を求めてアメリカに移住した彼らであったにもかわらず、そのアメリカの地で、またもや悲しむべき事件が起こりました。それが17世紀の「セイラムの魔女狩り」です。最も激しかった1692年、わずか3か月間で20名の人間と2匹の犬が、魔女として処刑されたのです(曽根暁彦著『アメリカ教会史』69ページ)。 
    真の愛によってお互いが信頼し尊重し合えれば良いのですが、教理面だけを先立たせてしまえば、やがて醜い宗教間の争いとなって、異端審問、魔女狩りとなってしまうのです。それゆえ、たとえ親族間であったとしても、思想、信教の違いによって争い合うことがないよう、少数派の権利を守るために定められたのが「憲法修正第一条」であったというわけです。 
    イエスが、「今から後は、一家の内で5人が相分かれて、3人はふたりに、ふたりは3人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」(ルカによる福音書12章52~53節)と語られているように、キリスト教信仰においては、その可否をめぐって親族間でさえも争いや対立が起こり得るものです。
    私たちは、過去の歴史を学んで、同じような悲劇が二度と繰り返されることがないように、たとえ親族間であっても、棄教目的で拉致監禁するのは許されざる行為である点を明確にし、善処すべきであると言えます。
    4000件を超える被害者がいるにもかかわらず、いまだに見て見ぬふりをする日本国家は、国際社会のリーダー国の一員としての資質を、大きな疑念をもって見られていくに違いありません。


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