8月14日、ニューヨークのタイムズ・スクエアに、数々のメダルを胸に飾った第2次世界大戦の退役軍人数十人が集結した。「VJ-Day (Victory over Japan Day)」、つまり日本の無条件降伏による第2次世界大戦の戦勝記念日のイベントだ。杖や車椅子が目立つが、アメリカ合衆国国歌や陸・空・海軍、海兵隊の賛歌が流れると、すっくと立ち上がって敬礼する。その姿に、集まった観光客や若者がさかんに声援や口笛を送り、お祭り気分に包まれた。
8月15日、65回目の終戦記念日を迎え、戦争の犠牲者を慰霊する祈りと誓い、白い菊の花に包まれた厳粛な日本の終戦の日とは異なる、もう一つの終戦記念日だ。
1945年8月14日、トルーマン大統領が「戦争終結」を発表するとの期待から、タイムズ・スクエアには夕方早くから人々が集まり、午後7時過ぎ、当時スクエアの真ん中にあったニューヨーク・タイムズ本社ビルから速報が流れると、午後10時までに200万人以上の市民が集まり、戦勝を祝ったという。
「1945年8月14日にどこにいましたか」退役軍人に話を聞いてみた。
「足を負傷して、ドイツにある英軍の病院に入院していた。戦争が終わったと聞いて、これで家に帰れると、狂おしいばかりにうれしかった」と、車椅子で参加していたチャールズ・ワレシュ氏(86)。
「太平洋戦線から本国に戻る途中だった。タイムズ・スクエアで、戦勝を祝うパーティがあったことは、帰国してから知った」というのは、空軍に32年間務めたという黒人のフロイド・カーター氏(87)。退役軍人ゲストの中で、ひときわ矍鑠(かくしゃく)とした姿で目立ったが、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と3つの戦争に赴いた。
「ベトナム戦争では、機内でたった一人の黒人で中佐だった。戦争は、黒人の私に栄誉を与えてくれた」
退役軍人の誰もが大戦が終わった時の喜びを笑顔で語った。彼らに、日本がいかに厳かに終戦記念日を迎えるかという話をするのは難しい。広島・長崎への原爆投下についても、「戦争終結を早め、日米の多数の人々の命を救ったのだから、正しいこと」という考え方は米国人の間で支配的だ。このイベントでも、司会者が「戦争が終わらせ、世界に平和をもたらしたときの喜びと感謝を忘れないようにしよう」と呼びかけるのが度々聞かれた。
2年前、ベトナム帰還兵らに話を聞いたことがある。そのうちの一人、ジェイムズ・ソーウェル氏はこの14年間、ホームレスだ。月900ドルの軍人年金では、生活ができず、ホームレスになった。寝床にしていたミニバンに火を点けられたこともある。今でもトラウマの治療を受けている。「ホームレス退役軍人に支援を」と訴えたボードを立てて、グランド・セントラル駅に週に3回立つが、パンフレットを手に取り、言葉を交わし、寄付をしてくれるのは、8割が海外からの旅行客で、米国市民からの反響は薄い。
同氏によると、ベトナム帰還兵は第2次世界大戦の帰還兵と異なり、帰国しても誰にも歓迎されず、トラウマから社会的復帰を遂げられなかったケースが多い。初対面のベトナム帰還兵同士が出会うと、「ウェルカム・バック・ブラザー」と言って握手し、米一般市民が掛けてくれなかった言葉で互いの帰国を歓迎しあうという。
2つの戦争の退役軍人の間で、帰国後の環境に天と地の差がある国で、タイムズ・スクエアの戦勝記念イベントを見ると、米国独特の合理主義と個人主義の二つの行き先がみえてくる。
「日本の降伏を原爆投下によって早め、日米と世界の若者、市民の命を多数救った」として祝う合理的な考え方は肯定される一方で、ベトナム戦争については「負けた戦は、過去のものとして忘れ去ろう」という切り捨て方だ。
その恐さを考えたとき、毎年、戦争の意味を探り、振り返る日本の終戦記念日は、まだまだ意味があるとあらためて気が付かされる。
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津山恵子(つやま・けいこ) フリージャーナリスト
東京生まれ。共同通信社経済部記者として、通信、ハイテク、メディア業界を中心に取材。2003年、ビジネスニュース特派員として、ニューヨーク勤務。 06年、ニューヨークを拠点にフリーランスに転向。08年米大統領選挙で、オバマ大統領候補を予備選挙から大統領就任まで取材し、AERAに執筆した。米国の経済、政治について「AERA」「週刊ダイヤモンド」「文藝春秋」などに執筆。著書に「カナダ・デジタル不思議大国の秘密」(現代書館、カナダ首相出 版賞審査員特別賞受賞)など。