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Twitter Send 2010/08/17 14:55 KST
「併合」は侵略隠ぺいの造語、倉知鉄吉回顧録公開


【ソウル17日聯合ニュース】韓日強制併合当時、日帝は大韓帝国を「併呑」しながらも、侵略的な意図を隠ぺいするため「併合」という言葉を意図的に作り出していた。また、初代韓国統監・伊藤博文を射殺した独立運動家・安重根(アン・ジュングン)を死刑にするため、中国で裁判を実施。さらに旧日本軍と統監府は外務省とともに、この事件を「韓国皇帝の使嗾(しそう)」に仕立て、早期併合強行の名分にしようと暗躍していた。

 こうした事実は、聯合ニュースが先ごろ国際韓国研究院の崔書勉(チェ・ソミョン)院長から入手した、倉知鉄吉(韓日併合当時、外務省政務局長)の回顧録「韓国併合ノ経緯」から明らかになった。回顧録は、日本の「外務省調査部第4課」が1939年に秘文書として発刊したもので、2000年6月に日本で出版された「近代外交回顧録」第2巻に収録されている。

 回顧録には、韓国を日本に合併するという議論は世の中で広く唱えられていたが、その意味はよく理解されていなかったとある。会社の合併のように韓日が対等に合同するとの考え方や、オーストリアとハンガリーのような連合国の形を取るべきとの考え方もあったと紹介。単語も「合邦」「合併」などさまざまなものが用いられたと伝える。

 当時の小村寿太郎外相は、韓国は完全に日本内に含まれ、韓国と外国との関係もなくなるとの考えだったという。「合併」という言葉は適切ではないが、「併呑」ではいかにも侵略的なため使うことができず、苦心の末に、これまで使われたことのない「併合」という言葉を作り出したと述べている。「併合」という言葉は、他国の領土を日本帝国領土の一部とするという意味が「合併」よりも強いと説明する。以来、「併合」は公文書に用いられるようになったが、最初に使われたのは1909年に小村外相が桂太郎首相に提出した対韓大方針案だったと明らかにした。

 特に倉知は、「併合」という言葉は完全に新しく案出されたもので、これについて論争が生じることは必至のため、静かに使用し事案を複雑にすることを避けたと語っている。桂首相らは対韓大方針案を読み上げる際、時折「併合」を「合併」と読み間違いながら、気付かないことがあったという。

 安重根による伊藤博文射殺事件と関連しては、東京で一部の人々が想像したような大規模事件ではなく、ロシア・ウラジオストクの「不逞(ふてい)の韓人ら」が計画し、満州で決行した事件として結論づけた。旅順の法廷で適法に処分すれば十分だと認め、できる限り事件を小さく取り扱う必要があり、その旨を政府に伝えたと記録している。

 これについて、崔院長は「日本政府は安重根を必ず死刑にするとの考えだったが、東京で審理を行えば難しいと判断したようだ」と指摘した。そのため、日本政府は倉知を満州に送り、事件を縮小させた後、旅順で処理するようにしたとの説明だ。

 またこの回顧録から、当時韓国内に駐留していた日本軍と韓国統監府が、伊藤博文射殺事件を早期韓日併合の名分とするため、事件は韓国皇帝が指図したものだとねつ造しようとしていたことも明らかになった。

 回顧録は、韓国に居住する日本人のなかには、同事件を韓国皇帝が指図したことにし、それを理由に韓日併合を断行すべきだと主張し、無理に証拠を挙げようとした者がいたと述べている。明石元二郎朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍参謀長、中川一介検事長、韓国語ができる統監府関係者らが旅順に滞在し安重根を監視しながら、証拠を挙げようと画策していたと記されている。

 ただ倉知は、日本政府が併合の大方針を決定した以上、最も適した時期を選ぶことが必要で、無理に併合を強行するのは断然不可能だと信じていたと述べ、白仁武関東都督府民政長官、平石氏人関東都督府高等法院長らも事件を政略的に利用することに反対し、断固として外部圧力に応じなかったと紹介。これで伊藤博文射殺事件を利用し韓日併合を進めようとした計画は終わりを告げたとしている。

 一方、倉知の覚書は、1920年に小松緑が発刊した「朝鮮併合之裏面」でも言及されている。国民大学の韓相一(ハン・サンイル)名誉教授は、外交官の小松は1913年に外務省から朝鮮総督府に派遣され、このとき倉知から覚書を受け取り、これを基に「朝鮮併合之裏面」を記したと説明した。併呑という言葉が含む強制性を隠ぺいするため、日本が併合という言葉を作り出したことは明らかだと強調し、これを機に、これまで使われてきた「併合」という言葉を「併呑」と正すべきだ主張した。

 倉知鉄吉は、明治、大正時代の外交官。統監府書記官を経て外務省政務局長として在任し、韓国併合に向けた外交文書を作成した。

japanese@yna.co.kr