ここから本文エリア 戦後65年−5−ハイラル雪原オオカミ狩り2010年08月17日
マイナス35度の雪原。8人の兵士が獲物のオオカミを手に記念写真に納まっている。 「遊び場もない幕舎暮らし。仕事ばかりで、週1回の休日は狩りに出かけるのが楽しみでした」 盛岡市の和野武男さん(86)が、戦時中にハイラル(現中国内モンゴル自治区)で過ごした日々を振り返る。ソ連(当時)との国境近くでの任務は、思い出すと恐ろしいものだった。 川の水を試験管に集め、軍医に渡した。軍医は試験管にコレラや赤痢の菌を混ぜては、「試験管をばらまいてこい」と命じたという。細菌戦の一つだったと後で知った。 1940年、和野さんは陸軍に志願。翌年3月、旧満州・平房にあった同部隊に配属され、顕微鏡の使い方や菌の培養などの教育を受けた。 軍医の元での不可解な任務に、和野さんは歩兵への転属を願い出た。上官は「銃で戦うばかりが兵隊ではない。今の仕事も大事だ」。44年にフィリピンへ移るまで、同部隊での任務が断続して続いた。 終戦を知ったのは45年8月21日。ルソン島で米軍将校と日本軍の中尉から「戦争は終わった」と教えられた。 約1年後に復員。48年、岩手県警に入り、35年間勤めた。その間、ハイラルで一緒だった仲間の消息もほとんどわからず、731部隊での経歴もまわりに知られることはなかった。 転機は94年7月。新聞で、731部隊の真相究明を進める市民団体が展覧会を盛岡市で開くと知った。「戦友に会えるかも知れない」 足を運んだ会場でジャーナリストらに出会い、証言を求められた。「誰からも口止めされたことがないから」 県内の元隊員で初めて実名を明かし、体験を話し始めた。元隊員から「昔のことは忘れろ」と忠告が届き、新聞に「軍人だったらあの世まで持って行け」と投書されたこともあるという。 それでも「一度話し始めたことだから」と証言を続けている。次の世代には、すべてを知ったうえで、戦争とはなにか、想像して欲しいと願う。軍隊では悪いことだけでなく、良いこともしたと信じている。「それでも二度とあって欲しくない戦争だから」
マイタウン岩手
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