兵庫県美方郡香美町(旧・兵庫県城崎郡香住町)。
人口約13,800人。日本海に面し、豊富な自然に恵まれた町。
カニをはじめとする漁業や水産加工業が主な産業ですが、
山沿いでは梨の栽培なども行われています。
大阪からJRの特急に乗って約2時間半で城崎駅へ。
そこからさらに各駅のワンマンカーに乗って餘部まで約20分。
城崎駅の方面から餘部鉄橋へ向かう場合、
餘部駅の1つ前の鎧(よろい)という駅と、次の餘部駅の間に鉄橋が
架かっていることから、まず鉄橋を渡り、それから餘部駅に降りて
改めて橋の全景をながめる、という順番になるのです。
ワンマンカーが鎧駅のホームを離れると、鉄橋を見に来た車内の乗客も
カメラを片手に窓際へと移動をはじめます。
餘部鉄橋の線路上、列車の中からながめる日本海。
トンネルを抜けてすぐに飛び込んでくる景色です。
高所恐怖症の私にとっては少し足の震える高さですが、
鉄橋を渡り終えたところが餘部駅。単線なので片側ホームです。
地元の人に交じって脚立やカメラを抱えて列車を降りる人も
たくさん見かけました。
駅のホームから少し登った場所にある展望台から見た、餘部鉄橋の全景です。
その高さだけでなく、建築スケールの大きさにも気づいてもらえると思います。
青い海、緑の眩しさ、赤い鉄橋。まさしく「色とりどりの世界」が広がります。
奥に見えるトンネルを抜けてすぐ、列車は鉄橋の上に差しかかり、
渡り終えたところが餘部駅、という位置関係です。
餘部鉄橋の着工は明治42年12月。
アメリカ人技師ウルフェルスの設計で、完成まで2年を要しました。
総工費は33万円。
高さ41mの危険な作業ゆえに、作業員には1人2万円の保険が
掛けられていたそうです。どちらも当時の価値でいえば莫大な金額となります。
橋脚は11基。その鋼材はアメリカから九州の門司を経由して餘部沖まで
運搬されてきました。これも今から考えれば大変な手間と労力を掛けた
大プロジェクトだったといえるでしょう。
(写真は工事の風景。昔は人も生活道路として線路脇を歩いて通行したという)
駅のホームを降りてやや急勾配の山道を下っていくと、
ちょっとした集落があります。
民家、民宿、交番、小学校……。
約30分ごとに鉄橋の上を通る列車の音がとても心地よく聞こえる
田舎独特の、のどかな風景です。
道を歩いても人影はまばらで、実にゆったりとした空気が流れています。
帰宅途中の小学生の女の子が、
すれ違う時に「こんにちは」と挨拶してくれました。
「登下校中に出会った人には挨拶しなさい」
同じく田舎の小学校に通っていた幼き頃の私も、
先生に教えられた通り挨拶していたものです。
いろんな角度。いろんな視点。いろんな一面。
一見、緑あふれる田園には不釣り合いにも見える大きな鉄橋が
年月を重ね、周りを囲む自然との美しい調和を遂げていったのです。
餘部の、そして「香住のシンボル」として、明治〜大正〜昭和と
時代をこえてその役割を果たし続ける餘部鉄橋。
しかし国鉄が民営化されてJRへと変わる直前、
餘部鉄橋は残したくない歴史の1ページを刻むことになってしまいます。
今から18年前。
昭和62年の年明けを間近に控えた、寒い冬の日の出来事でした。
昭和61年12月28日、午後1時25分頃(推定)。
香住発浜坂行のお座敷列車「みやび」(回送)が、餘部鉄橋を通過中に
日本海側からの突風にあおられ、全車両のうち7両を転落させました。
転落した車両は鉄橋下にあったカニ加工場を直撃。
加工場の作業員5名と列車の車掌1名、あわせて6名が犠牲となりました。
近くの民家も半壊状態。下を走る国道178号線もこの事故で不通になるなど、
国鉄時代としては最後の大きな鉄道事故となってしまいました。
(写真:事故後、木材やケースが散乱するカニ加工場)
5名の作業員が亡くなったカニ加工場のあった場所に、
事故から2年後の昭和63年に建てられた聖観世音菩薩像です。
犠牲者の冥福を祈るとともに、
鉄橋上を走る列車の安全な運行を願う目的で建てられました。
記載の内容には当時の惨状を克明に書いたものだけでなく、事故発生時に
国鉄(当時)がとった運行体制への批判も数多く見られました。
当時の規定では、風速25m/秒以上(現在は20m/秒以上)で
鉄橋の制御装置が作動し、列車の通行が止められることになっていました。
事故当時、日本海上には強力な低気圧があって、
風速40〜50m/秒ほどの風が吹いていた、という証言もあります。
制御装置が働いていたにも関わらず、運転士がそれを確認せずに
鉄橋を渡ってしまったのが事故原因とされていますが、
転落という事実がある以上、安全な列車運行という義務を果たせなかった
国鉄の過失は避けられず、自然に対する状況判断を見誤った
「完全な人災」だという記載が、メモには残っていました。
菩薩像の脇に、小さな引き出しのついた木棚があります。
そこには事故当時の写真と、地元の人によって事故発生の状況が
詳しく記された記録やメモの数々が入っており、
ここを訪れた人が自由に閲覧できるようになっています。
資料の中に見つけた1編の詩。鎮魂歌です。
鳥取在住の男性が作詞したもののようです。
「うらみの餘部鉄橋」という題名に衝撃を覚えますが、
御自身の気持ちをそのまま言葉にされたまでのことかもしれません。
この詩が犠牲者の心の中を代弁していると考えれば、
「なんで餘部で死なねばならぬ」という節には、
聞く者の胸を痛めるに十分の重みがあります。
生まれ育った餘部で、
それもわが町の誇りである餘部鉄橋で起きた事故が原因で
なぜ命を奪われねばならないのか。
亡くなられた方々に、
果たしてそこまで理解できるだけの有余があったでしょうか?
何も分からないまま、ただ突然に、
落ちるはずのない列車の車両が落ちてきて、
自分の身を押しつぶしていったのですから……。
たしかに国鉄の過失は否定できない。
でもその前に、冬の日本海から吹く、強く冷たい風がなかったら、
こんなことにはならなかった。
そう言わんとする気持ちが読み取れる理由として、
この詩には「人災」を責める内容の語句が、どこにも書かれていません。
高所の鉄橋に吹き荒れる海風。
じゅうぶんに事故を予感させる環境をなぜ作ってしまったのか。
もしかすると、無念の思いの先にあるのは
転落事故という一件だけではなく、
餘部が歩んできた歴史そのものに対する後悔の気持ちも
含まれているのではないか、とさえ思えます。
JRはこの事故を受け、制限速度の引き上げや防風柵の増設など、
安全体制を強化しました。
事故の前、脱線したレールの南側には、実は防風柵がなかったのです。
作り上げたものをどう管理するのか。
何よりも大切な人命の尊さを、どう考えて今後の対応にあたるのか。
長い歴史を背負う立場として、これからもずっとその姿勢は問われていくことでしょう。
餘部鉄橋は安全性をより一層強化する目的で、2010年までに
コンクリート橋への架け替え工事に着手することが決まりました。
想像を超えるスケールの大きさに、まず驚かされました。
あふれる緑、広い海、のどかな風景に心を癒されました。
悲しい歴史の真実に胸を打たれ、
その場にいた人々の1つ1つの言葉に、
色々と考えさせられた思いです。
これほど色んな感情が自分の身から湧き出したのは、
生まれてはじめてかもしれません。
本当に、餘部鉄橋という場所を
この眼で見ておいて良かったと思います。
かけがえのない大自然に、鉄橋という歴史ある産物。
この土地で出会ったすべてのものが、ずっとずっとこの先も
「餘部の歴史」として生き続けていく。
悲しいこともあったけれど、それも含めて
「餘部の誇り」となる時がいつの日か来てほしいと、心から願います。
――帰りの列車が、ホームに来ました。
●取材/文/写真 竹之下 たけ
●取材日 2004年8月4日
※2004年秋に「写わごと特別編」として公開した内容を
一部加筆、修正して再公開いたしました。
なお取材時における餘部鉄橋の所在地は「兵庫県城崎郡香住町」でしたが、
2005年4月の市町村合併によって現在は「兵庫県美方郡香美町」となっています。