【萬物相】光化門の扁額

 韓国で通常「光化門の懸板」と呼ぶ場合の「懸板」は、「扁額(へんがく)」と呼ぶのがより正確だ。「懸板」とは、木の板に文字を書いて建物に掲げたものを指すが、詩を書いたものなども含まれるため、範囲が非常に広い。これに対し、「扁額」は建物に一つしかない。「扁」とは文字を書くという意味で、「額」は「建物の正面の高いところ」を意味する。人間の体に例えれば、額(ひたい)に相当する部分だ。

 古代中国・魏の第2代皇帝、明帝の代のことだ。王宮の陵雲殿が完成し、扁額を掲げようとしたが、大工が誤って、字を書いていない扁額を建物にくぎで打ち付けた。そこで、当時最高の名筆家・韋誕が字を書くことになった。「魏の宝物や器に書かれた文字をすべて手掛けた」といわれるほど、名筆家として名高かった韋誕だが、地面から25尺(中国では1尺=約33.3センチ)の高さまで綱を伝って上り、3文字を書いて下りてきた途端、髪の毛が真っ白になってしまったという。

 東晋時代の書家・王羲之の息子の王献之も、書の世界では右に出るものはない人物だった。王宮に太極殿を建て、扁額を掲げる際、王献之に仕事が回ってきたが、彼は韋誕の話を持ち出し、首を横に振ったという。いくら字が上手だからといっても、大きな字を書くというのは、小さな字を書くのと同じようにはいかない。縦・横が共に1メートルを超える字を、自然な姿勢で書き、全体的に生き生きとした形に仕上げるというのは容易なことではない。古代中国には八つの字体があったが、扁額に使う字体は別にあった。北京にはこれを展示した「扁額博物館」がある。

 韓国は外敵の侵略や戦争、火災が絶えなかったため、長く原形を保っている扁額はそう多くない。忠清南道公州市の麻谷寺大雄殿の扁額は、新羅の名筆家・金生(キム・セン)が、また慶尚北道栄州市の浮石寺無量寿殿の扁額は、高麗大31代国王・恭愍王(武宗)が手掛けたという。景福宮、昌徳宮、慶煕宮をはじめとする、朝鮮王朝時代の王宮の宮殿や楼閣の扁額は、日本統治時代や6・25戦争(朝鮮戦争)当時に破壊されたり、失われたものが多い。また、国宝第1号だった崇礼門(南大門)の扁額は、2年前の放火によって大きく損傷した。

 景福宮の正門、光化門が復元され、光復節(日本の植民地支配からの解放を記念する日)の15日、新しい扁額が公開された。1968年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が書いたハングルの扁額をそのまま残そうという意見も多かったが、結局、大院君時代に再建された当時、責任者の任泰瑛(イム・テヨン)が書いたという扁額が復元された。朝鮮王朝が滅びてから100年を迎えた今年、朝鮮王朝の正宮だった景福宮の正門が。本来の姿を取り戻した。国が滅びたとき、最も悲惨な運命をたどるのが文化財だ。光化門の扁額を、新しく作り直すことは、二度とあってはならない。

金泰翼(キム・テイク)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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