関連資料

生前、戸田会長は「長男は(石田)次男、次男は(池田大作)」と幹部たちに度々述べる。また、臨終間際に辻青年部長が「次の会長は誰でしょう?」と聞いたところ「それは、お前たちで決めるんだ」と言っていた。
戸田の死後も、次期会長は石田氏との見方が定着していた。
会長職2年の空白の後、原島氏の強い推薦を獲得し、三代会長へ。


昭和35年4月1日
(1960)
池田氏発言 「戸田先生は仏さまであられます

    4月2日 戸田城聖三回忌法要

    5月3日 第三代創価学会会長に池田氏(32歳)就任。
「我が創価学会は、日蓮正宗の信徒の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます」【池田生スピーチ音源

    6月 池田 捏造『エレベーター相承』
『大白蓮華』昭和35年6月号で池田はこのようにウソを捏造
「(昭和33年3月)大講堂のエレベーターの中で、二人だけ(戸田と池田)のところで学会のことを託された」→


    6月10日 衆院選不出馬発言
「創価学会は衆院選には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから」

    9月 渉外部を渉外局に格上げ 
連絡局を設ける
表向きの目的は「全国で交通事故や災害に遭ったり、病気にかかった会員の情報をそれぞれの地方組織から受け、お見舞いや名誉会長の激励をどうするか調整の機能を果たす部署」とされている。実際は、末端学会員の情報を一手に掌握、管理。不都合な事件などをマスコミに出ないよう根回し、弁護士、地元公明議員の手配、処理をする部署。局長として長く任務していたのは館岡倉市、その後、竹入義勝氏の弟・央迪が担当。


    10月2日 池田会長ら初の海外訪問(24日間)
ホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなど訪問。 同行幹部は北条、柏原、石田、小平、秋谷
学会機関紙「THE SOKAGAKKAI」発刊

    10月31日 「アメリカ総支部」結成
総支部長に北条、総支部婦人部長に柏原ヤス

    12月14日

「蒲田四支部結成大会」での池田会長指導
「昭和32年の大阪の参議院議員の補欠選挙の時に、蒲田方面の何人かの人が買収事件を起こしました・・・・学会の方針、学会の指導に反してやることはいけませんが、大きい変毒為薬はできます。(中略)あくまで広布流布のために自分はやったのだという、真心があるならば、私は、何らそれは恥ではないし、大御本尊様は大きいし、また自分自身の大きい罪を消していける、信心の上からみれば変毒為薬でもあるし、喜ばしいことであると思うのでございます


昭和36年1月
(1961)
初のアジア六カ国・地域訪問 〜2/14まで

香港でアジア初の地区発足


    3月27日 会員世帯数185万世帯に

    4月 藤原行正氏 初代渉外局長就任。数年間、池田会長の側近ナンバー1として辣腕を振るう。

    4月23日 松江支部結成大会  池田生スピーチ音源

     5月3日
「文化部」を「文化局」に格上げ。局内に政治部」を設置(公明党のルーツ)


     5月 ジョージ・ウィリアムス米国副総支部長帰国。アメリカの会員は1500世帯と本部幹部会で報告。

     6月1日 衆院不出馬発言
「われわれは政党ではない、ゆえに、けっして、衆議院にその駒を進めるものではない。衆議院ならびに地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである」 

     6月11日 不滅の十万結集 女子部総会 池田生スピーチ音源

     7月4日 不滅の十万結集 男子部幹部会 池田生スピーチ音源

     10月4日 ヨーロッパ九カ国訪問 〜10/23まで

     11月27日

「政治部」解消し公明政治連盟に

NSAメンバー68人が本山に初登山。35人が御授戒を受ける。

英ロンドンで「第一回の座談会」


昭和37年1月
(1962)
公明党の前身、公明政治連盟が発足
委員長に原島宏治、副委員長に北条浩、書記長に龍年光

     1月25日 池田氏 大阪事件での一審大阪地裁で無罪判決

     1月27日 東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)発足

     1月29日 中東六カ国訪問 〜2/12まで

     2月20日 池田御授戒秘話
「(小平教学部長と矢島尊師に連れられて御授戒に行き・・・)それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)ともったいない話ではございますが、その時は“信心はけっこうでございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします”とそういうように申し上げたのです。その場で。すると日淳上人は『まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい』と(笑い)。何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様は、ひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)そして、ちょうだいして今日にいたったわけであります」 聖教新聞

    4月 『大白蓮華』
「いまだに、いろいろな戒律を守っている宗教がありますが、その教えがいかに低級であるかを物語っています。また、受戒の儀式もないような新興宗教は、宗教の名に値しないといえます

     6月16日 池田会長「創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養願うようなことはいたしません」と語る。
   ↓    ↓
後年、池田氏は次のように金集めを幹部に指導
「地区部長は最低十万円は出すこと。現在持っている貯金をすべて出すのは当然であり、さらにいくら上乗せするかが信心だ。各支部では十万円以上出す人を三十人以上つくること。一口、二口しか出さない人は信心がない証拠だ。支部内で百万円以上の大口を何人出すかが、支部長・婦人部長の戦いだ。個人指導・家庭指導で三口以下の財務部員がなくなるよう指導すること」


戸田会長の財務に対する遺訓
「日蓮正宗を信仰した結果、ご本尊の功徳で福運を得て、生活が豊かになった信者は、学会運営のためにその一部を学会へ寄付しなさい」


     8月31日 学生部の代表に「御義口伝」講義を開始。
実際に下調べ、解説を行ったのは原島嵩氏を始めとした教学部。池田氏は本編の解説が終わった後、自身の野心を語ることに終始。

この頃、右翼の大物・児玉誉士夫が学会にクレームをつける。
学会員・塚本素山を通し、児玉氏のとりまきの親分衆と北条、藤原が会う。
池田会長は後年、この恩を塚本氏に返すため、正本堂建築の際の鉄材を塚本総業へ発注する。


     8月 西ドイツで「第一回欧州総会」
フランス人8、イギリス人2、スウェーデン人2、スイス人6、ドイツ人28

     9月10日 学会 題目を商標登録申請
「南無妙法蓮華経」を商標登録として池田大作宗教法人創価学会会長が出願。昭和47年にも再び登録願い提出。→
聖教新聞に説明を掲載。

昭和38年1月8日
(1963)
欧米・中東・アジア七カ国訪問 〜27まで

    3月 海外初出張御授戒
ハワイ、ロサンゼルス、シアトルほか

    4月17日 都議選で17名当選。

    5月24日 アメリカで海外初の法人許可

    7月 藤原弘達氏宅に学会員から抗議の殺到
『文芸春秋』誌での座談会記事に対し、藤原氏へ抗議の手紙、電話が殺到。

学会 言論部設置

    7月27日 会員世帯数360万世帯に

    8月3日 名聞名利について指導
「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない」聖教新聞

この年、ロサンゼルスにアメリカ本部・NSA会館がオープン 

シカゴで第一回「全米総会」開催。参加者1500人

    10月1日 登山についての指導
「我々が登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもないのである」

    10月18日 民主音楽協会発足

昭和39年2月
(1964)

ブラジル日蓮正宗として認定受ける

「戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」大白蓮華2月号 秋谷栄之助

    4月1日 総本山 大客殿落成慶讃大法要。
池田会長 法華講総講頭に就任。


池田不遜発言
戸田会長七回忌の後『戸田会長時代、またそれを継承した七年間は迹門である。これからの私の時代が本門である』

    5月3日 池田氏 衆議院出馬を表明
「公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆様方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議員に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。(中略)恩師戸田先生も、時きたらば衆議院へ出よ、とのご遺訓があったのです」

    5月12日 オーストラリア・セイロン・インド訪問 〜5/24まで

     8月 『大白蓮華』8月号での池田会長発言
「御本尊様は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません(中略)御本尊を“物”と扱うようになった場合は罰を受けます。学会精神に反します。信心ではありません

アメリカの聖教新聞「ワールド・トリビューン」紙創刊
(80年代には10万部をこえたが、近年はその半分に減少)

     10月2日 東南アジア、中東、ヨーロッパなど10カ国訪問 〜10/19まで

     11月3日 関西文化祭(甲子園球場)
     11月8日 東京文化祭(国立競技場)

     11月17日 公明党結成大会(日大講堂) 

昭和40年1月1日
(1965)

小説『人間革命』が聖教新聞紙上で連載開始
実際の執筆は戸田門下生で作家志望だった明治生まれの篠原善太郎氏。後年、彼の死により連載が途絶える。残りの原稿探しに池田氏は大慌てする。
その内容について側近幹部たちが事実と違うこと口にすると、池田会長は「フィクションだから」言い訳をする。


公明都議23人が全員当選。キャスティングボートを握る。

     4月20日 池田ウソ発言
「私も二百万遍、三百万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて、少しずつ御本尊のお力、大聖人様の仏法の片りんがわかってきたていどであります」

     6月4日 『前進』6月号 池田氏謗法発言
「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない」

     7月4日 参院選11名当選。

池田氏 評論家・高瀬広居氏のインタビューにおいて
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」と答える。


     7月15日 『聖教新聞』日刊化
     7月23日 公明 都議選で23名当選。キャスティングボート握る 
     7月26日 池田 広布流布の意義を語る
「私が御法主猊下様、大聖人様に広布流布いたしましたと、猊下をお通しして、一閻浮提総与の大御本尊様にご報告することが、究極の、広布流布の暁の、その意義なのであります。」聖教新聞

     8月 大きな会館はつくらない
「学会は大きな戦艦のような建物はつくらないよ。全国の小さな会館が飛行機の役目をするのだ」池田発言

     10月

正本堂建立のために全国1万6千会場にて365億円のご供養を集める。このご供養は一部が正本堂に使われたが、学会の会館、研修所その他に使われ、不法な使い方として、学会内部からご供養返還訴訟を起こされる。尚、海外信徒から集めたご供養は公表せず、そのまま学会が使った。

     10月16日 理事会メモ「正本堂御供養は、創価学会が天下を盗る瑞相である」「学会は家来ではない。旧信徒が家来になってきた」「学会は僧侶の家来ではない」等と記される。

     11月 正本堂建設委員会を流会させる 
池田氏は会場(東京品川・妙光寺)に入るなり日達上人よりしたの配席が気に食わない、出された果物にもケチをつけ流会にさせる。

     12月 『折伏教典』校訂再版
真実の広布流布は、大聖人の宗教革命の真髄たる三大秘法の南無妙法蓮華経が、世界人類に行きわたることである。三大秘法とは南無妙法蓮華経の題目と、日蓮大聖人出世の本懐たる南無妙法蓮華経の本尊と、三大秘法の定義による南無妙法蓮華経の本門の戒壇である。されば、三大秘法の広布流布でなければ、まだ広布流布せりとはいえないのである」


昭和41年
(1966)
池田会長の執筆を代作する部門「特別書記」発足。原島嵩氏、上田雅一氏、桐村泰次氏が就任。
     1月8日 佐藤栄作 池田氏と公明党との協力について会談

     2月 「私から幹部の任命を受けることは、記別を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益である」『前進』2月号

     2月27日 和泉覚 理事長就任

     3月6日 南北アメリカ訪問 3/23まで

新宗教新聞社 『創価学会犯罪白書』を刊行

     5月3日 信徒には信徒の道
「猊下より、僧侶より、われわれが敬われるなどということは、とんでもないことです。(中略)信者には信者の道があります。これは皆さんも忘れてはいけません」本部総会 池田発言

池田 広布流布構想
「昭和54年から11年目の昭和65年・・・この年を目標にして、広布流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は八回になります。また、衆議院の選挙も、最低七回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までにはひじょうに力がつくのではないかと考えます。また折伏も、一千万の基盤は、・・・昭和54年にでき上がれば、65年までには、さらに4、5百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。・・・一千万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の“舎衛の三億”の方程式は、事実上まちがいなし、それ以上の結果になることは明らかです」聖教新聞 1966年5月4日付

     8月 大聖人と寸分違わない
「私の構想は、大聖人の仰せと寸分狂っていない」(「前進」8月号 池田)

     9月18日 大阪にて「雨の文化祭」開催

正本堂建立事業計画により土地買収を開始

創価学会は富士宮の土地を300万坪にも渡り買収。そのほとんどが農地であったため、法律上の手続きを必要とした。しかし、それを無視したため、47年時点で7割近い土地が転用を許されない違法の状況となる。この追求を逃れるため、学会は富士宮に対し、金をばら撒き反対者を懐柔。その結果、池田は国内から唯一の名誉市民称号を得る。また、反対住民への押さえつけには地元暴力団が関与。後に学会との関連が表面化した。池田はこの工作の一つとして、富士宮市を“創価市”しするよう山崎正友氏に命令した。

     9月25日 学生部 『グレート・イーグル』を刊行

     12月 選挙違反指南
「ある日、堺の選挙事務所が、酔っぱらいに荒らされた。報告を受けられた先生(※池田大作氏のこと)は『すぐ一一○番に電話して警察に来てもらいなさい』と指示され、(中略)『いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました・といって御近所を全部回りなさい』と指導された。(中略)そして先生は『対立候補は悪らつな妨害をやる。選挙事務所になぐり込みをかけてきた・という印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、一軒一軒手を打て』といわれた。」『前進』12月号所載・将軍学を学ぶ 

昭和42年1月30日
(1967)

衆院選で25名初当選
20年に及ぶ竹入委員長、矢野書記長体制に

池田 富士短期大学を卒業
『この年をして(卒論を)百枚も書いたんです』とウソ発言。実際は桐村泰次の代筆。池田はその内容すら知らない。

     6月2日 『聖教新聞』
「総じていえば、日蓮大聖人直流の門下にすべて相伝があるといえるが、別していえば、法体の血脈相承はただ一人に限る。日蓮大聖人の付嘱が唯授一人の日興上人であらせられることは、二箇相承に明らかである」

     6月25日 学会系企業の社長出席による第一回「社長会」。昭和47年4月18日まで60回開催。

     9月1日 学会本部文化会館の落成(信濃町)。

池田氏 かつて一年あまりで学費が払えず中退した大世学院(現富士短期大学)の卒業資格を得る。卒業論文は後年教学部長を務めた桐村泰次氏に書かせた。

    10月2日 座談会会場で殺人事件 
愛媛県新居浜市の座談会会場で参加していた青年部員・神野忠信が、ささいな怨みから地区部長を刺殺。服役10年後、再び学会活動に励んだが、選挙活動の帰途、車ごと谷に転落し死亡。

    10月15日 東京文化祭(国立競技場)

    10月30日 EUの父・リヒャルト・クーデンホフ=カレルギーと会見

    11月25日 社長会での池田発言
「中曽根康弘は心配ない。こちらの小僧だ。総理大臣になりたいお云っていたのでよしよし云っておいた。ケネディキドリダ。坊やダ」

    11月 内藤国夫『公明党の素顔』出版妨害
当初の出版社からエール出版に換え、出版を予定していたところ、大手取次ぎなどに学会の妨害が入りる。 
エール出版に学会・山崎尚見から「これまでかかった諸費用はすべて面倒見る」「出せば必ず売れる創価学会の本をお宅にお願いするから」と申入れる。また、学会は、笹川良一に内藤の本を全部買い取らせる工作をしたが、内藤は拒否する。

  神崎武法(のちに公明党代表) “いざ鎌倉”
司法修習生で学会の学生部副部長の ポストにあった一九六七年、学生部がまとめた文集「グレートイーグル」に次のような一文を載せ ている。
『池田先生は「どこの世界でも同じだが、とくに仏法の世界においては、〃いざ鎌倉〃というときに、 はせ参じられる人が真の人材であり、信者のなかの大信者なのである。
〃いざ鎌倉〃というときには率先して学会を守り、学会を推進していくのだという幹部にならなけ ればならない。この心構えさえあれば、ふだんの行動に自然とにじみ出てくるものであるLと指摘されている。 われわれは、"いざ鎌倉〃の精神で戦うことを決意しようではないか。』

昭和43年1
(1968)
植村左内 学会批判しないいよう調印
元学会員で『これが創価学会だ』の著者。出版妨害された挙げ句、今後、学会批判を書かないよう文書に調印させられる。


    212 佐藤首相 国会の空転により池田氏に援助頼む

    322 第十回社長会
「独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。そうすれば文部大臣は森田さん、大蔵大臣、中西さん。外務大臣、小島さん、軍需大臣、木村。運輸大臣、田中。建設大臣、杉本。宣伝大臣、横松。北条さんは警視総監。全部いるよ。」

    41 創価中学・高校開校

    5月23日 松下幸之助氏を批判
「松下幸之助はずるい奴だ、『PHP』五十万部で、もう少し下ると思うが、道徳をとりあげている。松下教祖だ。社内の訓練も松下教だ」 社長会

    77 参院選13名当選
集団替え玉投票8人有罪

毎日新聞は「投票入場券、十万通消える 大量の不正投票か 世田谷など本人の手に届かず」(7/10日付・夕刊)と伝える。
郵便受けなどから6千枚もの投票所入場券を盗み出し不在者投票させたもの。池田会長は事件に関わった者に「法難章」としてメダルを与える。

事件には創価学会新宿第三総合ブロック・宮本孝が替え玉指揮官、欧州第二本部・砂川昭夫が副将となり、北林芳典が「戸二読書会」の名目で住民票を閲覧して、替え玉投票を組織、警察に摘発される。

東京地裁は、砂川に禁固1年、執行猶予4年、北林に禁固4ヶ月、執行猶予3年など8人に有罪判決。

「船の科学館」に使用する都の跡地払い下げのために公明都議が笹川良一氏に便宜を計る。


    78 「警察だって、動かしているのは竹入・井上だよ。」第十三回社長会での池田大作氏発言 

    98 日中国交正常化を提言

    911 池田 替え玉投票事件の首謀者暴露
池田の弁】「八矢君(八矢英世副会長 創造社代表)の今回の失敗は前回の区議選の時、正論を言っていられず、秋谷が失敗した。その戒を自分の戒としてやれば、こんな事はない。慎重な反面、傲慢な面がある」社長会

【八矢の弁】「これは私の担当していた一つの新宿区でございましたが、非常に悪質な選挙違反がありまして、私はその総括責任者として非常に、その監督がまずかったわけでございます。で、お前はそういうような非常に油断をしているところがあるというので、大変、度々(池田大作に)叱られました」('81/3月 社長会記録の著作権をめぐる裁判での八矢証言)

隈部大蔵氏は都内赤坂プリンスホテルで、公明副委員長・北条浩から「創価学会という象は蟻の一匹といえども全力をもって踏みつぶす」と脅かされる。

    1012

『折伏教典』校訂32版
「御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」

    1024 社長会記録
「大化城はこわさなければならない、あれは私の発案ではない」
※学会寄進ではあるが、池田自身の発案ではなかったのが気に食わなかった模様。


    1121 社長会記録
「『PHP』の記者が、松下幸之助が一週間に二回位来て力を入れてきている、そして是非池田会長の原稿をもらってこい、と厳命されてて、要言集を全員読んでいて、幸之助も先生をほめていた、新年号で百万部を突破する、先生の原稿は大切に保管させて頂く、と云っていた。『PHP』を読むクラスは折伏できるよ。愚人にほむらるるは恥辱だけど、こうしなければ進まない

    1217 社長会記録
「今年度の採点、田中さんは一億の借金で丙、八矢さんは選挙の件で丙」

昭和44年2月19日
(1969)
ヤリスギ発言
「杉本君(当時総務)はばかに痩せている。生気がない。(中略)肺病を治すのは護符を頂き、夫婦生活をやめて、11時以内に帰る。これをやれば治るよ。ヤリスギだ!諸法実相で姿を見ればわかるよ。肺病にも、先天的な体、青木さん、山川とか結婚前になるのが多い。顔の皮膚が透き通った様な感じでわかる。それ以外はヤリスギだ!なさけない顔だ」第21回 社長会


    3月16日 『六巻抄講義 序文』
「戸田会長も、常々“教学は日寛上人の時代に帰れ”と述べられていた。事実、われわれの教学研鑽の伝統は、日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといって過言ではない」池田大作

    4月 池田氏 野望を語る
天下を盗ろう、それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめてきた連中に挑戦して、最後に天下を盗って、今までよくも私をいじめたか、弱い者をいじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」(前進4月)

    5月31日 池田氏 公明の審議反発を抑え自民に軟化姿勢とる

    7月13日 練馬区投票所襲撃事件
東京・練馬区の選挙投票所(豊玉第2小)において、投票終了時間後に訪れた二人が投票できなかったことを理由に、市川雄一(元・参謀室長、元公明党書記長・代議士)を首謀者に百数十人の学会員が投票所を取り囲んで襲撃、女性・高齢者を含む投票立会人四人に集団暴行を加えて流血させた事件。

    1110 藤原弘達『創価学会を斬る』を発刊


池田会長「学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時には公明党委員長じゃなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか」語る。

     12月13日 NHKに出演した共産党・松本善明が藤原弘達、内藤國夫氏の著書に対する出版妨害を創価学会、公明党が行っていると告発。

言論出版妨害事件一連の詳細
藤原弘達氏 著書「創価学会を斬る」の出版をめぐって学会がそれを妨害した事件が起こり国会でも論争を呼ぶ。
 藤原弘達氏へ直接交渉にあたった藤原行正氏、秋谷栄之助氏がその内容をテープに隠し撮りされる。また、全国の会員に非難の手紙を書かせ送りつける嫌がらせ行為を行う。また、潮出版幹部・池田克也から大手取次ぎ各社、大手書店に圧力を与える。さらに、公明党・竹入から田中角栄幹事長に事態収拾を依頼する。
  藤原氏と田中氏の交渉の場である赤坂の料亭で、池田会長と竹入委員長が盗み聞きしていたところを仲居さんに目撃され、サンケイ新聞記者の俵孝太郎に公表される。
「創価学会を斬る」はこのような、問題が世間に大きな話題となったことで結果的に100万部を超える大ベストセラーとなる。


この事件を受け、国会では池田大作氏の喚問を動議。それを阻止するため、公明国会議員が連日、与野党の議員を赤坂のクラブ「石丸」などに接待漬けに没頭する。

言論妨害事件について池田会長は日経新聞に連載の「私の履歴書」の中で、自ら指示して起きたことを隠し しらじらしいウソを掲載する。
「私が一歩引いたときに極めて予想外のところから事件がおきてきた、これが言論問題である。私は、事の真相が初めわからなかった。よくよくその本質を追求していったときに、これは創価学会の体質かかわることであることを知った」


    1227 公明 衆院選で47議席、第三党に
東京八区・中川嘉美を支援する活動家が「対立候補者・山田久就が脳溢血で死んだ」とデマを流し虚偽事項公表罪で逮捕。

昭和45年1月5日
(1970)
副会長制設置。北条浩、森田一哉、秋谷栄之助が就任。

     1月28日 会員世帯数750万世帯に

     2月3日 反創価・公明集会に3000人
「公明党・創価学会の妨害に反対する、言論・出版の自由にかんする大集会」には3千人が集まった。全国各地でも、言論・出版の自由を守る懇談会が結成。

     2月9日 著名作家 言論問題で出版に影響
五木寛之、生島治郎、戸川昌子、野坂昭如ら著名作家七人は「出版妨害問題が解決するまで、創価学会系とみられる出版物、雑誌に取材・執筆を自発的にさし控える」旨コメント。

     2月27日 第32回社長会
「今度の事件で、とにかく日本中に浸透した。有名になった。本当は政教分離どころか、政教一致で私が指揮をとりたいよ、ほっておけない、竹入、矢野はよく頑張っている・・・たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ・・・新聞記者はどんな時でも味方につけなければならない」

     2月28日 塚本三郎(民社) 池田氏を証人喚問要求

     3月4日 「5・3お詫び講演」をウソを裏付ける内部文書
学会副理事長らが地方幹部を相手におこなった指導メモ。
「(言論問題の)本質は広布を阻む第六天の魔である」「公明党・創価学会の悪口を一口でもいったら追かえし、不法侵入として警察へ訴える位にする」  「マルキョウ(丸の中に共の文字。以下同)は槍傷覚悟でやって来る。広布をハバむ魔である。重大な決意をしなければならない」「マルキョウに焦点を合すこと」「マルキョウをつぶす様祈っていこう」70年3月4日付の「総合本部長会報告」


     4月18日 赤坂芸者との関係記事掲載
同日号・週刊新潮は池田と赤坂芸者との関係を掲載。
これに対し、学会側は告訴の動きを見せたが、新潮側が「それなら国会議員の女性との問題を取り上げる」と反撃したため告訴を断念。


     5月3日 池田会長言論出版妨害事件について釈明
「今度の問題は『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害という陰湿な意図はまったくなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません」
その後「どうですか、私が辞めてよろしいと思う人?手を挙げてください」本部幹部会(日大講堂)


     5月16日 池田 政教分離を認める。


池田の目的は最高権力者になること

「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」(『現代』昭和45年7月号) 


野崎勲氏 九州学生部幹部との懇談で「創価学会の最大の弱点は政教分離問題」であると語る

     6月25日 公明党大会『政教分離』を決定

     108日 東京文化祭(国立競技場)

昭和46年1
(1971)
第44回社長会
「正本堂の御供養、五年間であれだけ。十年間はあの倍。あの発表の他に百億はやった。また、稼ぐよ」
正本堂御供養は355億円以外に100億円集めていたことを明かす。


    3月10日 第一回 金剛会総会

    4月 創価大学設立 
開学当時は経済学部・法学部・文学部


   4月13日 「いざとなったら全部城を明け渡し全部日蓮正宗の信者になっても良い」社長会

    6月27日 参院選10名当選

    7月8日 学会員は奴隷発言 
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ」
「S二十八年で戸田先生の時代の基礎が出来、三十年頃から後に託す事を考えられた。石田次男を跡継ぎにしようとしたがうまく行かず、後の二年は完全にはずれた」社長会


    7月20日 第51回社長会 
「68万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。そうすれば文部大臣は森田さん。大蔵大臣、中西さん。外務大臣、小島さん。軍需大臣、木村。運輸大臣田中。建設大臣、杉本。宣伝大臣横松。北条さんは警視総監、全部いるよ」  「9月の初めに、3泊4日で霧島へ行こう。歩いたら大変だ。65万坪、文京区位あるんだから。独立国を作ろうか。帷幕の内に謀りごとをめぐらそう、ゆっくりやろう」

    9月12日 民音職員・松本勝弥の妻尭美 学会を脱会

    9月21日 公明党大会で竹入刺傷

    10月13日 宗門から金儲け
「本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)やらせようね。いいね。どれほど儲かる。10%かそれでは少ない、15%儲けなさい。かまわないよ」第53回 社長会

    12月31日 「本山のCATV予算はいくらだ。2億1000万円か。その見積はそれとして、1750万技術料として加算しなさい」第56回 社長会

昭和47年1月7日
(1972)
学会 題目を再び商標登録申請

    2月4日 社長会
新宿の選挙違反事件等は、絶対にいけない。八矢は、アブノーマルな点が心配だから、絶対にいけない」

    4月18日 創価山立宗寺を建てる
「三多摩に菩提寺を作りますよ。日本一のお寺を作る。三百年前の様式で作る。創価山立宗寺で、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるための永遠のために懇談しましょう」第60会 社長会

    5月5日 池田 アーノルド・トインビーと対談
後の対談集は往復書簡形式で行われたものだが、書いたのは特別書籍メンバーによるもの。つまり、池田の偽装対談集ということになる。 出版に際しても、当初、博士が席を置くオックスフォード大学側は反対していたが、強引に押し切って学会が出版した。【暴かれたウソ

    6月 公明党代表団 北朝鮮を訪問 
6/7付 公明新聞では「この国を本当に廃墟の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆様の敬愛する金日成首相にお目にかかり」と賛美。

     6月15日 「本当は全体主義は一番理想の形態だ」
「本当にやった人は表彰する。創価山立宗寺にも(銅板に名を刻んで)入れてあげる」 第61回社長会

     7月26日 「池田先生が日本の指導者として立っていただく。」北条浩副会長発言・聖教新聞 

     9月 正本堂の意義をめぐり、東京・常泉寺で妙信講、学会(秋谷栄之助、原島嵩、山崎正友)が10時間に渡り激論。
1.正本堂が御遺命の戒壇であるとは現在においては断定しない。
2. 御遺命の戒壇が国立であるか否かは引き続き論議する。
3.「聖教新聞」に正本堂が御遺命の戒壇の「完結」ではないとの理事長(和泉覚)談話を掲載する。

との双方の一致を見せ、この内容は10月2日の聖教新聞に掲載される。


学会首脳が「正本堂は御遺命の戒壇でではない」との見解を発表したことに池田氏が激怒。
現会長である原田氏はこの当時、原島氏に「原島さんの言っていることは正しい」と賛同。


    10月1日 正本堂落成(総本山大石寺)
日達上人並びに妙信講との交わした意向に反し、 池田会長は福島副会長に命じ「本日、七百年前の日蓮大聖人ご遺命が達成されました。ありがとう」と、登山した会員に伝達する。

宗門 韓国メンバーと本山で第一回目の会談
国内でバラバラとなっている組織を統一し「韓国・日蓮正宗仏教会」とするために協議。しかし、現在に至っても韓国組織はいくつもの団体・グループに分かれたまま。


     11月11日 正本堂御供養返還裁判
民音((財)民主音楽協会)職員だった松本勝弥が正本堂御供養金返還訴訟を起こす。参考 
 
     12月10日
公明 衆院選で29議席に後退

昭和48年1月13日
(1973)
民音職員・松本勝弥を解雇

    2月19日 難民救援募金を開始

学会・公明の連絡協議会を設置

     4月 創価学園中学の入学式において池田氏がスピーチ中、赤ん坊が泣き出したところ「うるさい!連れ出せ!」と怒鳴りつける事件が起こる。

創価女子中学・高校を開学

     4月12日 共産党と協調発言
「わたしは一貫して共産党のいうことを理解しておりました・・・未来において協調すべきだし、それしかないです」『週刊現代』4/12

     5月3日 富士美術館開館

     7月 学会 松本勝弥を盗聴

     7月8日 都議選で26名当選

     7月22日 学会 立正佼成会幹部に工作し「明日の佼成会を守る会」を結成させる

     8月 日達上人から賜った「賞与御本尊」を放り投げる
正本堂建立の翌年、昭和48年日達上人はこの功績に対し「賞与御本尊」を下付された。その年、池田氏は創大体育館で行われた本部幹部会で出席者に見せびらかせ、「350億も御供養して、正本堂を建てたことに対して、紙切れ一枚で御苦労様≠セよ」と言って、御本尊をクルクルと巻いて第一庶務局員の前にポンと放り投げたという事件。

     9月 公明党大会で「中道革新連合政権構想」を発表

     9月8日 映画『人間革命』(東宝)が公開

     10月14日 池田 日達猊下に「金出せ」と面罵
昭和48年頃、御開扉の終わった後で、池田前会長と福島源次郎氏(当時副会長)が、猊下がお通りになった時、「(※日達上人が)今頃来やがった」とまず福島が言い、池田前会長は「○○億円出せ」と怒鳴ったという事件があった。猊下の気性から思えば、その時は気持ちの上でずいぶんと押えられたと思うが、その後、内事部へ来られて、『ああいう体質では、もう学会とは一緒にやっていけない。たとえ小さくなって日蓮正宗の信仰を守っていきたい』と悲痛な表情で仰せられたのである。(『暁鐘』20号)

     10月17日 学会 「日蓮正宗国際センター」構想決定

     12月29日 池田 「仏」発言
「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の800万は、明確に終わった」
創価学会の重宝として「留言集」(池田氏の遺言)を残すことを話す。2千ページにも及ぶ細かなことまで記されているとされる。」第2回御義口伝受講者大会



昭和49年1月2日
(1974)
日達上人と学会幹部の集まりの席上、「富士宮付近で、正宗の僧侶が遊びほうけている」と池田氏が再び日達上人を叱り飛ばす。

     2月16日 池田 大聖人再誕を演技
大聖人誕生の地を訪れ「確か、あの時もこのメンバーだったなあ」。そして境内の千年杉に対し「なつかしいなあ!」と自身を大聖人の再誕であることを側近に吹聴する。
この杉自体は大聖人入滅後の木であることから返ってニセ仏を証明することに。


     2月 学会提案の 「日蓮正宗国際センター」構想、宗門と協議
学会が海外布教での主導権を握り、本山を傘下にする目的であったため猊下はこれを拒否。

     3月19日 パナマ・ノリエガ将軍と初対談(パナマ)

     4月 都内で太陽が二つに見える現象が観測


学会「国際センター構想」を画策

学会を中心にしてその傘下に日蓮正宗を位置づけるというもの。
これに日達上人は断固拒否の態度をとる。


池田氏は八王子にある法忍寺を創価山立宗寺と名称を替えようとするが、日達上人は許さず池田が陳謝。
池田は学会幹部に「(日達上人は)俺に詫びさせた」と激怒。


     4月12日 創価学会 宗門支配を画策(山崎・八尋報告書「本山の件」)
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理していくかについて、二通り考えられます。 一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり向こう三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後をかためるという方法です。(中略) 本山、正宗は、党や大学、民音以上に学会にとっては存在価値のある外部と思われ、これを安定的にひきつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。(中略)
そのための布石としては、
一、本山事務機構、法人事務、経理事務の実質的支配。
二、財政面の支配、学会依存度を高める。
三、渉外面の支配。
四、信者に対する統率権の支配、宗制宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等。
五、墓地、典礼の執行権の委譲。
六、総代による末寺支配。
が必要です。
これらのことは機会をとらえながら、さり気なく行うことが必要であり、今回のことは、一、二、三を確立し、さらに四までを確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度な判断によって決せられるべきと思いますので、ご決断を仰ぐ次第です。 」


   

     5月10日

創価学会 宗門からの分離独立を画策 (北条報告書「本山の件」)
・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。 ・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。(北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)


北条メモ
     5月18日 フランスの作家 アンドレ・マルローと会見

     5月27日 学会は「僧宝」発言
「今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会がある」池田大作

     5月29日 第一次訪中 〜6/16まで

     6月18日

創価学会 宗門からの分離独立を画策 (北条報告書「宗門の件」)
広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上ることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠ってご判断をあやまらせてはより以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上ます。また私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜りたく、その上で、私どもいかなる事なりとも闘う所存です。かねて先生の仰言(おっしゃ)っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いづれにしても私たちは断乎たたかいぬく決心です。 G(※猊下)の心理は、一時的なものではない・・・長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カトリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて・・・当面Gの異状心理をしづめ、新しい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に闘いたいと思います。

    7月7日 参院選14名当選

    9月2日 宗門と学会連絡会議
学会側から紙幅の御本尊を板御本尊にしたいとの伺いを申し立てる。それに対し、宗門側は「いいでしょう」との約束であったが、真意は宗門側が紙幅御本尊を払い下げるとともに新たに板御本尊を御下附するというものであった。  

    9月8日 初訪ソ 〜9/18まで

17日 コスイギン首相と会見

    10月28日 パナマ・ノリエガ将軍と2度目の対談(聖教新聞社)

    10月29日 代表役員 池田から北条に

    11月13日 学会 妙信講と裁判開始

    12月2日 第二次訪ソ 〜12/6まで

    12月3日 大蔵商事→大同商事→株式会社日章に変更
保険代理業務などが主業務。

    12月5日 中国・周恩来首相と会見

    12月28日 創共協定結ぶ
秋谷栄之助(当時副会長)は協定は「共闘なき共存」を定めたものだとして、協定にある「協議」や「協調」の精神を否定した。 【詳しくは

  この年、特別財務をスタート 
「それぞれの地域に相応しい会館を建てる」との名目で実施

昭和50年1月1日
(1975)
池田による本部 模刻本尊入仏式
正式な本尊謹刻を願いを届け出ず、隠密裏に製作した板御本尊を僧侶を呼ばず、池田氏によって入仏式が行われた。
学会側で了解されるはずの無い八体の模刻本尊がつくられる。
後日、宗門にこのことが発覚し、50年10月23日、当時総監であった法道院・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、模刻本尊の入仏法要。他の七体の本尊は宗門に保管された。しかし、御守御本尊やこの八体以外に板御本尊が存在したとの目撃情報もある。



    1月4日 池田 閉眼した御本尊を安置
『聖教新聞』 「これまでの紙幅御本尊(模刻した元の御本尊)は、学会の重宝として永久に保存されることになった」と報じた。
しかし、この学会本部常住の紙幅御本尊は模刻の2年後、再び表に出ることになる。
昭和52年4月27日、名古屋文化会館において池田は、
「私の心境や歴史的な意義を含めて、中部の同志にはこれから創価学会の真実の歴史を作ってさし上げたい。そういう発露から本部の御本尊をご安置申し上げたことを知っていただきたい」
閉眼して秘蔵された御本尊を再び、池田の入仏式によって開眼(?)されたのである。
同じ御本尊が紙幅のものと板御本尊の2体が同時に祀られた瞬間である。


    1月 池田・キッシンジャー国務長官会談

    1月10日 核廃絶1000万名署名を国連事務総長に提出 

    1月26日 創価学会インターナショナル(SGI)発足
グァムで「第一回世界平和会議」。のちにSGIの日となる

    5月3日 「伸一会」発足
中心メンバーに野崎勲、原田稔。宗門の「妙観会」に対抗。情報収集、広報活動、僧侶の吊るし上げなどを行う。

    5月16日 ローマクラブ創設者アウレリオ・ペッチェイと会見

    5月27日 池田氏 名誉称号あさり開始 
1975年5月27日 ロシア(旧ソ連) モスクワ大学の名誉博士を皮切りに2010年3月現在で277個。これらは本の贈呈などお金で買ったものであることが、大学や学会関係者から度々暴露された。買った称号リスト
 
     6月10日 「学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である」
「創価国、創価王国を、地球上に宇宙に作ってみんなを守ってあげよう。」
(第二回東京最高会議での池田大作氏発言)


秋ごろ、原島教学部長から池田氏へ「日達上人は、次は阿部教学部長に譲られるおつもりのようです」と進言。それを聞いて池田氏は阿部教学部長の懐柔策を進める。

この頃、福島源次郎副会長と池田氏と懇談で
生粋の池田派は中西・福島・原島だな。他は北条派や秋谷派に属しているから生粋とはいえない」 と池田氏が語る。
が、その3人ともに生前から池田氏から去ってしまった。


志茂田景樹 『大寄進』を発表。学会が志茂田へスパイ行為働く

     6月16日 八王子本山構想
「創価学会が手段になってはならない。とんでもない。創価学会が原点。日蓮正宗、法華講はおとぎ話」
「大学の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか--戸田記念館・・・世界の本部にする。公会堂、地方の人がもう何千人でも泊まれる恒久的な本部、広布流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって、これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん--どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい」第一回本部中央会議


     7月8日 政教一致発言
「政教一致---大きなお世話。不仲説・・・誰がいったか。親として自分の手製の党を心配するのは当たり前」婦人部長研修会 池田発言

     7月12日 池田 宮本顕治と対談

     7月27日 共産党と「10年協定」を公表


この頃、池田は「弟子分帳」を制作
池田の直弟子たる証明として「記別」の称号を与える。数千人の幹部に与える。 




月刊ペン裁判、隠密に手打ち
ニューオータニさざんか荘で隈部の弁護人、山崎正友、笹川陽平の間で手打ちの打ち合わせ。以後、数回行われる。

池田への帰命
「まさしく、現代における“人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる」『ひのくに』第10号
 




inserted by FC2 system