昭和35年4月1日
(1960)
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池田氏発言 「戸田先生は仏さまであられます」
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4月2日 |
戸田城聖三回忌法要
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5月3日 |
第三代創価学会会長に池田氏(32歳)就任。
「我が創価学会は、日蓮正宗の信徒の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます」【池田生スピーチ音源】
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6月 |
池田 捏造『エレベーター相承』
『大白蓮華』昭和35年6月号で池田はこのようにウソを捏造
「(昭和33年3月)大講堂のエレベーターの中で、二人だけ(戸田と池田)のところで学会のことを託された」→
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6月10日 |
衆院選不出馬発言
「創価学会は衆院選には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから」
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9月 |
渉外部を渉外局に格上げ
連絡局を設ける
表向きの目的は「全国で交通事故や災害に遭ったり、病気にかかった会員の情報をそれぞれの地方組織から受け、お見舞いや名誉会長の激励をどうするか調整の機能を果たす部署」とされている。実際は、末端学会員の情報を一手に掌握、管理。不都合な事件などをマスコミに出ないよう根回し、弁護士、地元公明議員の手配、処理をする部署。局長として長く任務していたのは館岡倉市、その後、竹入義勝氏の弟・央迪が担当。
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10月2日 |
池田会長ら初の海外訪問(24日間)
ホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなど訪問。 同行幹部は北条、柏原、石田、小平、秋谷
学会機関紙「THE SOKAGAKKAI」発刊
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10月31日 |
「アメリカ総支部」結成
総支部長に北条、総支部婦人部長に柏原ヤス
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12月14日 |
「蒲田四支部結成大会」での池田会長指導
「昭和32年の大阪の参議院議員の補欠選挙の時に、蒲田方面の何人かの人が買収事件を起こしました・・・・学会の方針、学会の指導に反してやることはいけませんが、大きい変毒為薬はできます。(中略)あくまで広布流布のために自分はやったのだという、真心があるならば、私は、何らそれは恥ではないし、大御本尊様は大きいし、また自分自身の大きい罪を消していける、信心の上からみれば変毒為薬でもあるし、喜ばしいことであると思うのでございます」 |
昭和37年1月
(1962) |
公明党の前身、公明政治連盟が発足
委員長に原島宏治、副委員長に北条浩、書記長に龍年光
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1月25日 |
池田氏 大阪事件での一審大阪地裁で無罪判決
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1月27日 |
東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)発足
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1月29日 |
中東六カ国訪問 〜2/12まで
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2月20日 |
池田御授戒秘話
「(小平教学部長と矢島尊師に連れられて御授戒に行き・・・)それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)ともったいない話ではございますが、その時は“信心はけっこうでございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします”とそういうように申し上げたのです。その場で。すると日淳上人は『まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい』と(笑い)。何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様は、ひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)そして、ちょうだいして今日にいたったわけであります」 聖教新聞
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4月 |
『大白蓮華』
「いまだに、いろいろな戒律を守っている宗教がありますが、その教えがいかに低級であるかを物語っています。また、受戒の儀式もないような新興宗教は、宗教の名に値しないといえます」
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6月16日 |
池田会長「創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養願うようなことはいたしません」と語る。
↓ ↓
後年、池田氏は次のように金集めを幹部に指導
「地区部長は最低十万円は出すこと。現在持っている貯金をすべて出すのは当然であり、さらにいくら上乗せするかが信心だ。各支部では十万円以上出す人を三十人以上つくること。一口、二口しか出さない人は信心がない証拠だ。支部内で百万円以上の大口を何人出すかが、支部長・婦人部長の戦いだ。個人指導・家庭指導で三口以下の財務部員がなくなるよう指導すること」
戸田会長の財務に対する遺訓
「日蓮正宗を信仰した結果、ご本尊の功徳で福運を得て、生活が豊かになった信者は、学会運営のためにその一部を学会へ寄付しなさい」
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8月31日 |
学生部の代表に「御義口伝」講義を開始。
実際に下調べ、解説を行ったのは原島嵩氏を始めとした教学部。池田氏は本編の解説が終わった後、自身の野心を語ることに終始。
この頃、右翼の大物・児玉誉士夫が学会にクレームをつける。
学会員・塚本素山を通し、児玉氏のとりまきの親分衆と北条、藤原が会う。
池田会長は後年、この恩を塚本氏に返すため、正本堂建築の際の鉄材を塚本総業へ発注する。
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8月 |
西ドイツで「第一回欧州総会」
フランス人8、イギリス人2、スウェーデン人2、スイス人6、ドイツ人28
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9月10日 |
学会 題目を商標登録申請
「南無妙法蓮華経」を商標登録として池田大作宗教法人創価学会会長が出願。昭和47年にも再び登録願い提出。→
聖教新聞に説明を掲載。 |
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昭和41年
(1966) |
池田会長の執筆を代作する部門「特別書記」発足。原島嵩氏、上田雅一氏、桐村泰次氏が就任。
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1月8日 |
佐藤栄作 池田氏と公明党との協力について会談
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2月 |
「私から幹部の任命を受けることは、記別を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益である」『前進』2月号
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2月27日 |
和泉覚 理事長就任
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3月6日 |
南北アメリカ訪問 3/23まで
新宗教新聞社 『創価学会犯罪白書』を刊行
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5月3日 |
信徒には信徒の道
「猊下より、僧侶より、われわれが敬われるなどということは、とんでもないことです。(中略)信者には信者の道があります。これは皆さんも忘れてはいけません」本部総会 池田発言
池田 広布流布構想
「昭和54年から11年目の昭和65年・・・この年を目標にして、広布流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は八回になります。また、衆議院の選挙も、最低七回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までにはひじょうに力がつくのではないかと考えます。また折伏も、一千万の基盤は、・・・昭和54年にでき上がれば、65年までには、さらに4、5百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。・・・一千万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の“舎衛の三億”の方程式は、事実上まちがいなし、それ以上の結果になることは明らかです」聖教新聞 1966年5月4日付
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8月 |
大聖人と寸分違わない
「私の構想は、大聖人の仰せと寸分狂っていない」(「前進」8月号 池田)
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9月18日 |
大阪にて「雨の文化祭」開催
正本堂建立事業計画により土地買収を開始
創価学会は富士宮の土地を300万坪にも渡り買収。そのほとんどが農地であったため、法律上の手続きを必要とした。しかし、それを無視したため、47年時点で7割近い土地が転用を許されない違法の状況となる。この追求を逃れるため、学会は富士宮に対し、金をばら撒き反対者を懐柔。その結果、池田は国内から唯一の名誉市民称号を得る。また、反対住民への押さえつけには地元暴力団が関与。後に学会との関連が表面化した。池田はこの工作の一つとして、富士宮市を“創価市”しするよう山崎正友氏に命令した。
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9月25日 |
学生部 『グレート・イーグル』を刊行
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12月 |
選挙違反指南
「ある日、堺の選挙事務所が、酔っぱらいに荒らされた。報告を受けられた先生(※池田大作氏のこと)は『すぐ一一○番に電話して警察に来てもらいなさい』と指示され、(中略)『いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました・といって御近所を全部回りなさい』と指導された。(中略)そして先生は『対立候補は悪らつな妨害をやる。選挙事務所になぐり込みをかけてきた・という印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、一軒一軒手を打て』といわれた。」『前進』12月号所載・将軍学を学ぶ |
昭和42年1月30日
(1967)
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衆院選で25名初当選
20年に及ぶ竹入委員長、矢野書記長体制に
池田 富士短期大学を卒業
『この年をして(卒論を)百枚も書いたんです』とウソ発言。実際は桐村泰次の代筆。池田はその内容すら知らない。
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6月2日 |
『聖教新聞』
「総じていえば、日蓮大聖人直流の門下にすべて相伝があるといえるが、別していえば、法体の血脈相承はただ一人に限る。日蓮大聖人の付嘱が唯授一人の日興上人であらせられることは、二箇相承に明らかである」
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6月25日 |
学会系企業の社長出席による第一回「社長会」。昭和47年4月18日まで60回開催。
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9月1日 |
学会本部文化会館の落成(信濃町)。
池田氏 かつて一年あまりで学費が払えず中退した大世学院(現富士短期大学)の卒業資格を得る。卒業論文は後年教学部長を務めた桐村泰次氏に書かせた。
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10月2日 |
座談会会場で殺人事件
愛媛県新居浜市の座談会会場で参加していた青年部員・神野忠信が、ささいな怨みから地区部長を刺殺。服役10年後、再び学会活動に励んだが、選挙活動の帰途、車ごと谷に転落し死亡。
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10月15日 |
東京文化祭(国立競技場)
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10月30日 |
EUの父・リヒャルト・クーデンホフ=カレルギーと会見
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11月25日 |
社長会での池田発言
「中曽根康弘は心配ない。こちらの小僧だ。総理大臣になりたいお云っていたのでよしよし云っておいた。ケネディキドリダ。坊やダ」
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11月 |
内藤国夫『公明党の素顔』出版妨害
当初の出版社からエール出版に換え、出版を予定していたところ、大手取次ぎなどに学会の妨害が入りる。
エール出版に学会・山崎尚見から「これまでかかった諸費用はすべて面倒見る」「出せば必ず売れる創価学会の本をお宅にお願いするから」と申入れる。また、学会は、笹川良一に内藤の本を全部買い取らせる工作をしたが、内藤は拒否する。
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神崎武法(のちに公明党代表) “いざ鎌倉”
司法修習生で学会の学生部副部長の
ポストにあった一九六七年、学生部がまとめた文集「グレートイーグル」に次のような一文を載せ
ている。
『池田先生は「どこの世界でも同じだが、とくに仏法の世界においては、〃いざ鎌倉〃というときに、
はせ参じられる人が真の人材であり、信者のなかの大信者なのである。
〃いざ鎌倉〃というときには率先して学会を守り、学会を推進していくのだという幹部にならなけ
ればならない。この心構えさえあれば、ふだんの行動に自然とにじみ出てくるものであるLと指摘されている。
われわれは、"いざ鎌倉〃の精神で戦うことを決意しようではないか。』 |
昭和43年1月
(1968) |
植村左内 学会批判しないいよう調印
元学会員で『これが創価学会だ』の著者。出版妨害された挙げ句、今後、学会批判を書かないよう文書に調印させられる。
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2月12日 |
佐藤首相 国会の空転により池田氏に援助頼む
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3月22日 |
第十回社長会
「独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。そうすれば文部大臣は森田さん、大蔵大臣、中西さん。外務大臣、小島さん、軍需大臣、木村。運輸大臣、田中。建設大臣、杉本。宣伝大臣、横松。北条さんは警視総監。全部いるよ。」
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4月1日 |
創価中学・高校開校
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5月23日 |
松下幸之助氏を批判
「松下幸之助はずるい奴だ、『PHP』五十万部で、もう少し下ると思うが、道徳をとりあげている。松下教祖だ。社内の訓練も松下教だ」 社長会
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7月7日 |
参院選13名当選
集団替え玉投票8人有罪
毎日新聞は「投票入場券、十万通消える 大量の不正投票か 世田谷など本人の手に届かず」(7/10日付・夕刊)と伝える。
郵便受けなどから6千枚もの投票所入場券を盗み出し不在者投票させたもの。池田会長は事件に関わった者に「法難章」としてメダルを与える。
事件には創価学会新宿第三総合ブロック・宮本孝が替え玉指揮官、欧州第二本部・砂川昭夫が副将となり、北林芳典が「戸二読書会」の名目で住民票を閲覧して、替え玉投票を組織、警察に摘発される。
東京地裁は、砂川に禁固1年、執行猶予4年、北林に禁固4ヶ月、執行猶予3年など8人に有罪判決。
「船の科学館」に使用する都の跡地払い下げのために公明都議が笹川良一氏に便宜を計る。
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7月8日 |
「警察だって、動かしているのは竹入・井上だよ。」第十三回社長会での池田大作氏発言
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9月8日 |
日中国交正常化を提言
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9月11日 |
池田 替え玉投票事件の首謀者暴露
【池田の弁】「八矢君(八矢英世副会長 創造社代表)の今回の失敗は前回の区議選の時、正論を言っていられず、秋谷が失敗した。その戒を自分の戒としてやれば、こんな事はない。慎重な反面、傲慢な面がある」社長会
【八矢の弁】「これは私の担当していた一つの新宿区でございましたが、非常に悪質な選挙違反がありまして、私はその総括責任者として非常に、その監督がまずかったわけでございます。で、お前はそういうような非常に油断をしているところがあるというので、大変、度々(池田大作に)叱られました」('81/3月 社長会記録の著作権をめぐる裁判での八矢証言)
隈部大蔵氏は都内赤坂プリンスホテルで、公明副委員長・北条浩から「創価学会という象は蟻の一匹といえども全力をもって踏みつぶす」と脅かされる。
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10月12日 |
『折伏教典』校訂32版
「御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」
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10月24日 |
社長会記録
「大化城はこわさなければならない、あれは私の発案ではない」
※学会寄進ではあるが、池田自身の発案ではなかったのが気に食わなかった模様。
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11月21日 |
社長会記録
「『PHP』の記者が、松下幸之助が一週間に二回位来て力を入れてきている、そして是非池田会長の原稿をもらってこい、と厳命されてて、要言集を全員読んでいて、幸之助も先生をほめていた、新年号で百万部を突破する、先生の原稿は大切に保管させて頂く、と云っていた。『PHP』を読むクラスは折伏できるよ。愚人にほむらるるは恥辱だけど、こうしなければ進まない」
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12月17日 |
社長会記録
「今年度の採点、田中さんは一億の借金で丙、八矢さんは選挙の件で丙」 |
昭和45年1月5日
(1970) |
副会長制設置。北条浩、森田一哉、秋谷栄之助が就任。
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1月28日 |
会員世帯数750万世帯に
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2月3日 |
反創価・公明集会に3000人
「公明党・創価学会の妨害に反対する、言論・出版の自由にかんする大集会」には3千人が集まった。全国各地でも、言論・出版の自由を守る懇談会が結成。
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2月9日 |
著名作家 言論問題で出版に影響
五木寛之、生島治郎、戸川昌子、野坂昭如ら著名作家七人は「出版妨害問題が解決するまで、創価学会系とみられる出版物、雑誌に取材・執筆を自発的にさし控える」旨コメント。
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2月27日 |
第32回社長会
「今度の事件で、とにかく日本中に浸透した。有名になった。本当は政教分離どころか、政教一致で私が指揮をとりたいよ、ほっておけない、竹入、矢野はよく頑張っている・・・たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ・・・新聞記者はどんな時でも味方につけなければならない」
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2月28日 |
塚本三郎(民社) 池田氏を証人喚問要求
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3月4日 |
「5・3お詫び講演」をウソを裏付ける内部文書
学会副理事長らが地方幹部を相手におこなった指導メモ。
「(言論問題の)本質は広布を阻む第六天の魔である」「公明党・創価学会の悪口を一口でもいったら追かえし、不法侵入として警察へ訴える位にする」
「マルキョウ(丸の中に共の文字。以下同)は槍傷覚悟でやって来る。広布をハバむ魔である。重大な決意をしなければならない」「マルキョウに焦点を合すこと」「マルキョウをつぶす様祈っていこう」70年3月4日付の「総合本部長会報告」
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4月18日 |
赤坂芸者との関係記事掲載
同日号・週刊新潮は池田と赤坂芸者との関係を掲載。
これに対し、学会側は告訴の動きを見せたが、新潮側が「それなら国会議員の女性との問題を取り上げる」と反撃したため告訴を断念。
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5月3日 |
池田会長言論出版妨害事件について釈明
「今度の問題は『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害という陰湿な意図はまったくなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません」
その後「どうですか、私が辞めてよろしいと思う人?手を挙げてください」本部幹部会(日大講堂)
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5月16日 |
池田 政教分離を認める。
池田の目的は最高権力者になること
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」(『現代』昭和45年7月号)
野崎勲氏 九州学生部幹部との懇談で「創価学会の最大の弱点は政教分離問題」であると語る
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6月25日 |
公明党大会『政教分離』を決定 |
昭和47年1月7日
(1972)
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学会 題目を再び商標登録申請
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2月4日 |
社長会
「新宿の選挙違反事件等は、絶対にいけない。八矢は、アブノーマルな点が心配だから、絶対にいけない」
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4月18日 |
創価山立宗寺を建てる
「三多摩に菩提寺を作りますよ。日本一のお寺を作る。三百年前の様式で作る。創価山立宗寺で、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるための永遠のために懇談しましょう」第60会 社長会
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5月5日 |
池田 アーノルド・トインビーと対談
後の対談集は往復書簡形式で行われたものだが、書いたのは特別書籍メンバーによるもの。つまり、池田の偽装対談集ということになる。 出版に際しても、当初、博士が席を置くオックスフォード大学側は反対していたが、強引に押し切って学会が出版した。【暴かれたウソ】
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6月 |
公明党代表団 北朝鮮を訪問
6/7付 公明新聞では「この国を本当に廃墟の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆様の敬愛する金日成首相にお目にかかり」と賛美。
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6月15日 |
「本当は全体主義は一番理想の形態だ」
「本当にやった人は表彰する。創価山立宗寺にも(銅板に名を刻んで)入れてあげる」 第61回社長会
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7月26日 |
「池田先生が日本の指導者として立っていただく。」北条浩副会長発言・聖教新聞
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9月 |
正本堂の意義をめぐり、東京・常泉寺で妙信講、学会(秋谷栄之助、原島嵩、山崎正友)が10時間に渡り激論。
1.正本堂が御遺命の戒壇であるとは現在においては断定しない。
2. 御遺命の戒壇が国立であるか否かは引き続き論議する。
3.「聖教新聞」に正本堂が御遺命の戒壇の「完結」ではないとの理事長(和泉覚)談話を掲載する。
との双方の一致を見せ、この内容は10月2日の聖教新聞に掲載される。
学会首脳が「正本堂は御遺命の戒壇でではない」との見解を発表したことに池田氏が激怒。
現会長である原田氏はこの当時、原島氏に「原島さんの言っていることは正しい」と賛同。
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10月1日 |
正本堂落成(総本山大石寺)
日達上人並びに妙信講との交わした意向に反し、 池田会長は福島副会長に命じ「本日、七百年前の日蓮大聖人ご遺命が達成されました。ありがとう」と、登山した会員に伝達する。
宗門 韓国メンバーと本山で第一回目の会談
国内でバラバラとなっている組織を統一し「韓国・日蓮正宗仏教会」とするために協議。しかし、現在に至っても韓国組織はいくつもの団体・グループに分かれたまま。
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11月11日 |
正本堂御供養返還裁判
民音((財)民主音楽協会)職員だった松本勝弥が正本堂御供養金返還訴訟を起こす。参考 |
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昭和50年1月1日
(1975)
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池田による本部 模刻本尊入仏式
正式な本尊謹刻を願いを届け出ず、隠密裏に製作した板御本尊を僧侶を呼ばず、池田氏によって入仏式が行われた。
学会側で了解されるはずの無い八体の模刻本尊がつくられる。
後日、宗門にこのことが発覚し、50年10月23日、当時総監であった法道院・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、模刻本尊の入仏法要。他の七体の本尊は宗門に保管された。しかし、御守御本尊やこの八体以外に板御本尊が存在したとの目撃情報もある。
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1月4日 |
池田 閉眼した御本尊を安置
『聖教新聞』 「これまでの紙幅御本尊(模刻した元の御本尊)は、学会の重宝として永久に保存されることになった」と報じた。
しかし、この学会本部常住の紙幅御本尊は模刻の2年後、再び表に出ることになる。
昭和52年4月27日、名古屋文化会館において池田は、
「私の心境や歴史的な意義を含めて、中部の同志にはこれから創価学会の真実の歴史を作ってさし上げたい。そういう発露から本部の御本尊をご安置申し上げたことを知っていただきたい」
閉眼して秘蔵された御本尊を再び、池田の入仏式によって開眼(?)されたのである。
同じ御本尊が紙幅のものと板御本尊の2体が同時に祀られた瞬間である。
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1月 |
池田・キッシンジャー国務長官会談
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1月10日 |
核廃絶1000万名署名を国連事務総長に提出
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1月26日 |
創価学会インターナショナル(SGI)発足
グァムで「第一回世界平和会議」。のちにSGIの日となる
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5月3日 |
「伸一会」発足
中心メンバーに野崎勲、原田稔。宗門の「妙観会」に対抗。情報収集、広報活動、僧侶の吊るし上げなどを行う。
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5月16日 |
ローマクラブ創設者アウレリオ・ペッチェイと会見
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5月27日 |
池田氏 名誉称号あさり開始
1975年5月27日 ロシア(旧ソ連) モスクワ大学の名誉博士を皮切りに2010年3月現在で277個。これらは本の贈呈などお金で買ったものであることが、大学や学会関係者から度々暴露された。【買った称号リスト】
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6月10日 |
「学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である」
「創価国、創価王国を、地球上に宇宙に作ってみんなを守ってあげよう。」(第二回東京最高会議での池田大作氏発言)
秋ごろ、原島教学部長から池田氏へ「日達上人は、次は阿部教学部長に譲られるおつもりのようです」と進言。それを聞いて池田氏は阿部教学部長の懐柔策を進める。
この頃、福島源次郎副会長と池田氏と懇談で
「生粋の池田派は中西・福島・原島だな。他は北条派や秋谷派に属しているから生粋とはいえない」 と池田氏が語る。 が、その3人ともに生前から池田氏から去ってしまった。
志茂田景樹 『大寄進』を発表。学会が志茂田へスパイ行為働く
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6月16日 |
八王子本山構想
「創価学会が手段になってはならない。とんでもない。創価学会が原点。日蓮正宗、法華講はおとぎ話」
「大学の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか--戸田記念館・・・世界の本部にする。公会堂、地方の人がもう何千人でも泊まれる恒久的な本部、広布流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって、これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん--どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい」第一回本部中央会議
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7月8日 |
政教一致発言
「政教一致---大きなお世話。不仲説・・・誰がいったか。親として自分の手製の党を心配するのは当たり前」婦人部長研修会 池田発言
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7月12日 |
池田 宮本顕治と対談
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7月27日 |
共産党と「10年協定」を公表 |