関連資料


戸田城聖の名前の由来「戸田という字画をかぞえてみろ、日本と同じだろう。つまり俺は日本城の聖(ひじり)ということだ」と語る。

昭和20年1月8日
(1945)
戸田 獄中で牧口の死を予審判事から告げられる

    3月 池田 西糀谷から強制疎開。大田区西馬込の祖母を頼り転居
    5月24日 池田家 空襲で消失。バラック小屋に居住 

 
    7月3日

    7月5日
戸田城聖 豊多摩刑務所から出獄

戸田、歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

池田 大田区大森南(森ヶ崎)に移転


戸田城聖
    8月20日 日本正学館仮事務所設置(品川・上大崎)

    9月 池田大作 旧制東洋商業学校(現・東洋商業高校)夜間部2年に編入学。新橋の昭文堂印刷に勤務

    10月 戸田 日本正学館設立(西神田) 

野島> 「あなたは牧口先生の1番弟子であり、私も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は牧口先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長引き、そのあげくに、牧口先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
戸田> それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、牧口先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)



昭和21年1月1日
(1946)
再建後初の第一回法華経講義 (総本山大石寺において)
    1月10日 池田三兄・開造 復員

池田 昭文堂印刷に入社

    3月頃 創価教育学会を「創価学会」と改称し再建
価値論を用いた折伏から生命論を用いた折伏に転換
    5月1日 「創価学会」第一回幹部会
    6月1日 『価値創造』復刊 
    8月17日 池田四兄・清信 復員 

    9月20日 池田二兄・増雄 復員
    11月17日 牧口の三回忌法要
創価学会第一回本部総会

昭和22年3月
池田氏 東洋商業学校卒業。昭文堂を退社し、蒲田工業会に勤務
    5月30日 池田長兄・喜一 戦死の報告届く 
    8月14日 池田 創価学会の座談会に参加 (蒲田・三宅宅)
    8月24日 池田太作氏(のちに大作と改名)、日蓮正宗に入信。
池田氏は同級生の三宅妙子さんの姉に誘われ、三宅家で行われている座談会に出席したことから学会との出会いが始まる。「人間革命」に書かれる戸田会長は出席しておらず、詩を詠んだこともウソである。
学会活動家の家庭では家族全員が学会に入ることが常識だが、池田氏は親兄弟を半分ほどしか折伏できておらず、特に父親からは信用されたいなかった模様。また、個人折伏が得意でなかったことを、一緒に折伏しに歩いた経験がある藤原行正氏がのちに暴露している。



池田太作
    9月 池田 蒲田工業会に入社 
    10月19日 創価学会第二回総会 
「日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしの常に説くところであり、諸君が常に現証について、よく体験せられているところであります」
「けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは、けっしてでき得ないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります」創価学会の使命より戸田指導

昭和23年1月
(1948)

「冒険少年」創刊

    3月 池田 東洋商業学校を卒業
    4月 池田氏 大世学院(現・富士短期大学)政経科夜間部に入学
    9月 「冒険少年」から「少年日本」に改題 (10月25日休刊決定)

    11月1日

ポルノ誌『ルビー』を刊行(翌年9月休刊)。【動画】 資料→
翌年発行される『大白蓮華』にも広告を掲載する。



雑誌『ルビー』

 

池田氏が三宅妙子さんに送ったラブレター画像→


    12月31日

池田 蒲田工業会を退社


昭和24年1月3日
(1949)
池田氏(21) 戸田の経営するする日本正学館に入社。少年雑誌の編集に携わる。


西神田の旧学会本部
    5月 池田 大田区中央(大森・新井宿)のアパート「青葉荘」に移転 

池田 『冒険少年』の編集長となる

    7月10日 機関誌『大白蓮華』発刊

    7月10日 池田 『大白蓮華』に池田伸一郎のペンネームで「若人に期す」を寄稿 

    10月1日 日本正学館倒産

    10月24日 創価学会第四回総会 
「大聖人様のご出世は、われわれのごとき無智な悪人に、大御本尊様を拝ましてやるという一大因縁なのである」「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人々があれば、車にのせて、大御本尊様の御もとへ案内して行くのが、学会の唯一の使命である」大御本尊様への車引きから

    10月25日 『少年日本』休刊決定

    11月27日 第一回総合座談会(品川・妙光寺)

    12月4日 学会幹部社員、池田氏らは小口金融・東京建設信用組合に移動

昭和25年8月10日
(1950)
     
戸田会長『凡夫と御本尊』から
「久遠元初の自受用身のご当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである」

   8月22日 戸田会長『三種の悟り』から
「われわれ末代凡夫の悟りは、大聖人のお悟りを悟りとしなければならないのであるが、とうていおよぶことができないのである」

    8月23日 東京建設信用組合が大蔵省から営業停止
戸田は その影響がおよばないように、創価学会の理事長職を辞任する。


大蔵商事時代の池田
    10月 戸田 手形割引などを行う高利貸し業の大蔵商事(現・日章)を設立し、顧問に就任。
この高利貸し業は、学会組織をフルに利用し融資を募る。営業部長に若くして就任し、池田氏の唯一仕事で成功を収めたのはこの高利貸し業だった。現在の額で、200万円ほどの給料を得ている。部下には、中西治雄、吉田顕之助らの学会幹部がいた。

    11月27日 池田 大蔵商事営業部長に

昭和26年3月11日
(1951)
東京建設信用組合正式に解散

    4月20日

    5月3日

機関紙「聖教新聞」発刊(月3回発行、5000部)

戸田氏第二代会長に就任(東京・常泉寺にて就任式)
7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、もし出来なかった場合には自分の葬式は出さずに、骨は品川沖に投げ捨てて欲しいとの決意を示した

常泉寺での就任式

    6月10日
第一回本部婦人部委員会(婦人部)を結成
「折伏論」での戸田会長指導
「仏教上、仏と称される方は、かず限りなくおられるが、その、かずかぎりない仏は『時』と『所』と『衆生』とに応じて、一人一人ご出現になることになっている。けっして一度に二人の仏は出現にならないのである


「僧侶の大功績」として指導
「この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面には、猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである

    7月3日      財務部結成
(生活にゆとりのある会員を面接で決める、推定で60万人で一人年間4000円)【財務・広布基金について

    7月11日
    7月19日
男子青年部結成式(学会本部にて)
女子青年部結成式(学会本部にて)


    8月31日 支部長会での戸田指導
「自分を折伏してくれた恩人は、善知識というのであって、『師にもあらず、弟子にもあらず』という立場なのである。学会において、教化親などとのことばをつかい、折伏した人を、あたかも自分の意志どおりに、動かしてよいのだというような、 あやまった考えをもつものは、断固として処分するゆえに、このさい、はっきり認識しておいていただきたい」

    9月1日 講義部を教学部に改称(受講者を1〜5級に分ける)

    11月18日 『折伏教典』発刊

昭和27年1月

池田 蒲田支部幹事に

    2月9日 池田 青年部参謀に 

    3月2日 杉並支部第一回総会
「成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬ前にほんとうの歓喜の生活が送れるのである」
    3月10日 池田『天下を取ろう』
聖教新聞で当時参謀であった池田が常に言っていた言葉を紹介。「同君(池田)は常に言う『天下を取ろう』と」

 
    4月24日
「新編 日蓮大聖人御書全集」完成

    4月27日 宗旨建立七百年祭(総本山大石寺)
狸祭り事件起こる
(戦前、宗門僧侶・小笠原慈聞が唱えた「神本仏迹論」が原因で牧口が逮捕、獄死したと青年部が逆恨みし、牧口の墓前で謝罪状を書かせた事件。これによって戸田は一時、参詣禁止の処分を受ける)【当時の聖教新聞他資料

    5月3日 池田氏 白木かね(香峯子)と結婚。目黒区三田に移転。

    5月18日 池田 情報参謀に

    9月8日 宗教法人『創価学会』設立

    10月4日 月例登山会開始

    10月21日 女子部「華陽会」が始まる。(戸田の薫陶による女子部の育成)

    10月27日

報道班員の質問会
「そういう人生をよくみつめ、自分観、人生観、社会観、宇宙観、この四つをきちっとまとめているのが仏法なのです。世間法は、この四つのうちのひとつにひとつに分離されているので、映画を見ても、これは自分観であるとか、社会観であるというように、はっきりと判断できるような信心になれば、自分の悩みが解決でき、なんの悩みもない、すばらしい生活ができるのです」


    12月16日 男子部の人材グループ「水滸会」の初会合(38名)
『水滸伝』を学ぶ。(昭和31年5月まで続いた)
次代のリーダーを育成するための“松下村塾”である「水滸会」が発足し、“エリート訓練”が開始されました。以来、昭和五十年代までの創価学会・公明党の中枢幹部達は、ほとんどが「水滸会」出身者で占められています。この「水滸会」で、後の首脳達へ叩き込まれた“天下盗り”のための戦略戦術を記録したものが、「水滸会記録」。
さらに、昭和53年ごろ、戸田会長の言行録として、池田氏が密かに副教学部長・佐久間昇に命じて作らせたものが『水滸会遺誡置文二十六箇条』と題する改ざん文書。
<内容の一部として>
「●総理大臣について
今の総理大臣の権力は明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限を持つことができる。自衛隊を動かすことのできる権力を持っている。ある意味では広宣流布しやすくなったな


「●官庁閥 
 われわれが将来、一番とりにくい所はどこですか。  
先生(戸田二代会長のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、 出世したものが又後輩を引き立てて行くしかないな。警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や社会の重要ポストを占めるようになれば、その仲間同士で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ


「●日本の広宣流布 『政治家対策』
一人の議員をつかんで、自由に動かすのは、買収費と小遣銭を入れて、一年に四百万円(昭和三十一年当時)かかる。百人で四億円だ。それが一つのホシになる。 四億円あれば日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。」
詳しくは


    12月21日 第一回教学試験

昭和28年1月2日
(1953)
池田 男子部第一部隊長就任

    4月19日 男子青年部第一回総会
「御本尊様は、われわれを幸福にする機械である。最後に、第四に、政治、経済と、諸君の立場についていう。共産主義か、資本主義かという問題がある。わたくしからいえば、どちらでも自由である。これらは、一分科に過ぎない。これらは政治と経済の面からのみ、人類に幸福を与えるだけである」

    4月20日 池田 文京支部長代理に
    4月28日 池田長男・博正誕生

    5月 秋谷栄之助論文
「相伝がない所に仏法は存在しないし、相伝がない本尊を拝めば、功徳がないばかりか、正法にそくむ謗法である」
「然るに一般日蓮宗は(中略)或いは経巻相承なんどと稱(しょう)し、大聖人様の仏法は唯授一人という狭義ではないなどと、全く総別の二義をわきまえざる僻見を立てている」
(大白蓮華・相承の重要性について)


    5月31日 学会建立寄進第一号の正継寺(相模原)落成入仏式

    6月21日 蒲田支部第三回総会
「わたくしは好きなことをやっている凡夫なのです。もし、わたくしが生き神様とか、生き仏とかいわれるならば、とっくの昔に死んでいます」私は末法の凡夫から

    9月 『聖教新聞』週刊から日刊に

    11月13日 学会本部 西神田から信濃町に移転完成

池田氏 「太作」から「大作」に改名

    12月23日 男子青年部第二回総会
「さきほど辻君が、折伏の仏であるといわれたが、仏は末法には日蓮大聖人様以外にいない。これは訂正しておき。しからば、私は凡夫である」すべての階層の指導者にから

昭和29年2月8日
(1954)

戸田 4級講義の後、本部で倒れる

    3月28日 鶴見支部第三回総会
「かれらが責められれば身延や中山にならって、三宝を立て、釈迦が仏、法が南無妙法蓮華経、僧は日蓮聖人などという。バカげた三宝です。仏と法はそろわなくてはならない」人法一箇についてから


    3月30日 池田大作氏 青年部参謀室長に任命

情報部を設置
池田氏が情報部最高顧問に就任


池田氏 この頃には大蔵商事から離れる

    4月30日 青年部大総会(御茶ノ水・中央大学講堂 4000人)
新編成の男女部隊に部隊旗授与

    5月3日 第十回本部総会(最高首脳陣の交代)

    9月4日 水滸会第一回野外訓練(奥多摩・氷川キャンプ場)

    10月31日 青年部一万名総登山

『大白蓮華』39号
「彼等の迷論は実に相承に総別の二義即ち法体・法門相承の二義があるのを知らぬ事から生ずるのである」
学会は破門後これを否定。


    11月7日 青年部 初の体育祭「世紀の祭典」を開催(下高井戸・日大グランド)

    11月22日 「文化部」を設置

    12月13日 渉外部設置 池田氏が渉外部長に就任 

昭和30年1月24日
(1955)
「蓮華寺事件」
日蓮正宗の寺(のちに離脱)に対する威迫行為


    1月28日 池田次男・城久誕生

    2月26日 読売新聞社に抗議
池田渉外部長らは「はびこる創価学会・県下の信徒五千名」と掲載されたことに読売新聞本社、浦和支局に抗議。

    3月10日 小樽法論(小樽市公会堂) 日蓮宗身延派と公開法論
昭和30年3月、創価学会の大進出による檀家の減少にたまりかねた 身延派では、学会員の少なかった北海道小樽で、法論対決を迫ってきた。(日蓮正宗教学小辞典創価学会教学部編より、S47年版)

    4月 文化部員から統一地方選に出馬。都議、横浜、川崎市議など52名が当選

    5月29日

     6月
男子部一万名登山

池田 大田区東矢口(小林町)に移転

    7月 『大白蓮華』7月号での戸田会長指導
「心構えが一切衆生の為なら、勝手に御本尊を書写しても御利益があると思い込んでいるから、やたらにニセマンダラがとび出すのである」 

    8月24日 北海道地方折伏講演会
「われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです」


    10月31日 本部幹部会
「会員には、いっさい心配をかけない。金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた。信心とは金に通ずるものではない」学会員に負担をかけるなから

    11月19日 毎日新聞「学会の折伏は破防法に抵触」と報道

    12月13日 関西本部入仏 落慶式
「大聖人のおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります」

昭和31年1月29日
(1956)
猊座の事には一切関知せぬ破る者は除名
戸田会長『信者の大精神に立て』との談話を発表
「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」『聖教新聞』


    5月1日 本門戒壇建立について会長指導
「本門戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし本門戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するならば、現今の皇太神宮や、明治神宮のごとき扱いを受けるであろう。しからば『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』とのご聖訓のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、本門戒壇建立の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。」

    7月10日 参院選に進出3名が当選
選挙違反容疑で多数の学会員が逮捕されるが、日本の国連参加の恩赦として釈放される。

『大白蓮華』第62号
「即ち末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本尊様であらせるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これもまた生身の御本尊様であります。この御本尊こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対にないえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」

    7月 戸田会長「衆議院には候補者を立てない」週刊朝日7/29号

    8月10日 戸田会長 学会解散について明言
岡山市妙霑寺の落慶入仏式の折に、第六十五世日淳上人に対したてまつり、「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするよう なことがあったら、いつでも解散をお命じください。」 と申し上げた。

 
    8月 戸田 国立戒壇発言
「我らが政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広布流布にある。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」大白蓮華8月号

    12月10日 池田氏の父・子之吉氏(68)逝去
父から勘当されたことがある池田大作は、父を折伏できずに終わる。 結局、邪宗教である真言宗で父親の葬儀を出したのである。 この墓とは別に、 昭和三十九年四月、高尾墓園に池田大作が新しい墓を建立。父の法名・種田院法子日実居士をいただく。

昭和32年7月3日
(1957)
小説『人間革命』(戸田著)発刊

    7月4日 参院選補選選挙違反 大阪事件
小泉理事長、池田氏らの在京幹部が大阪で行われる参院補選の選挙運動において指揮を執り、それによって多数の学会員が選挙違反で逮捕され有罪となる。池田氏も逮捕され「戸田先生へ責任が及ばないため」として全面自供。のちの裁判では無罪となる。この事件を学会は反省せず“法難”と称する。
この事件では20人の有罪者が出る。罰金1万円から3000円、その内10人は公民権を三年間停止、7人には同二年の停止という判決が下る。
「創価学会幹部四十五人起訴 ・大阪発・大阪地検は、去る四月行われた参議院大阪地方区補欠選挙での創価学会幹部らの公選法違反事件について、二十九日、同学会本部理事長、東京都議小泉隆(四八)・東京都大田区蒲田五ノ一一・ら四十五人を買収で(うち二人は略式起訴)、同渉外部長池田大作(二九)・同区調布小林町三八八・ら三人を戸別訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当たり、大阪、船場、松島、梅田、堺の五支部に『選挙係』を設け、府下六万信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。  投票数日前には"タバコ戦術"として職安十数カ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約四千個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和三十二年七月二十九日夕刊)詳しくは


    7月7日 『総合』7/7号での戸田会長指導
「わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ」

    7月17日 池田 大阪拘置所を出所、大阪大会に出席

    9月8日 若人の祭典(横浜・三ツ沢競技場)
戸田 原水爆禁止宣言


    10月18日 池田 入信の真実語る
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです」(「聖教新聞」昭和三十二年十月十八日)

    10月31日 本部幹部会 戸田 最後の出席

    12月13日 会員世帯数75万世帯に

昭和33年3月1日
(1958)


法華本門大講堂の落成慶讃大法要


      3月16日 広布の記念式典(総本山大石寺)
岸信介の夫人、安部晋太郎ら大石寺を訪問。

      3月22日 戸田 公の会合、最後となる理事会に出席

      3月28日 池田氏指揮による的場暴力事件
池田は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。この事件は、日蓮正宗宗門に対する威嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。詳しくは

      4月2日 戸田会長 急性心衰弱のため逝去 (58歳)日大病院、
語られなかった戸田会長の死相
4千万円の香典を池田氏が押収、四十九日後、戸田家へ一部を返却。


戸田会長逝去直後、池田参謀室長は会長宅へトラック2台で乗りつけ、家族の目の前で遺品を強制的に持ち去る。

      4月8日 常在寺で戸田の告別式(12万人が焼香)

      4月11日 池田三男・尊弘誕生

      4月20日 学会葬(青山葬儀場) ニュース映像】 
会員25万人が参列、岸首相、安井都知事らが出席)


      6月30日

池田氏 「総務」に就任。青年部参謀室長を兼務
会長ポストを巡る池田氏の策謀はじまる

      9月14日 池田 仏様発言
「仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」

昭和34年5月8日
(1959)
池田氏 国立戒壇発言
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます」聖教新聞


    6月 池田氏 「理事」に就任。青年部参謀室長を解く
    7月 ニセ本尊について指導
『大白蓮華』7月号での戸田会長指導
「ただ、御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラ書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」


    12月2日 日蓮正宗第六十六世日達猊下登座


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