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昭和3年6月頃
(1928)
牧口常三郎(57歳。後の創価学会初代会長)、その秋、戸田城聖(本名は甚一、2代会長)法華講信徒三谷素啓により折伏され日蓮正宗に入信。
牧口氏入信の動機「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(柳田国男 『牧口君入信の動機』)
「戸田城聖も、牧口の入信後、すすめられるままに、三谷に会い、その話を聞いて入信した。彼28歳の時である」(創価学会四十年史)
 


 牧口常三郎


昭和5年6月25日
(1930)
戸田 城文堂を設立 『推理式指導算術』を発刊  
   11月18日 創価教育学会設立(本の発行から後年、この日にこじつけられた)
「創価教育学体系」第1巻を発刊

池田家 大田区東糀谷に移転

昭和6年3月
(1931)
『価値論』を発表

昭和7年ごろ

三谷講頭と絶交
折伏・教化親であり直達講・講頭の三谷と流義上、相容れなくなり激論を交わした末絶交

他の講員とも相容れなくなり、中野・歓喜寮(後の昭倫寺)に所属替え。

当時の歓喜寮御住職、堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人に指南を仰ぐが、在家団体・創価学会の設立を願い出、許されず、12年に教育研究の名目で設立。


昭和9年4月
(1934)
池田 羽田第二尋常小学校に入学

昭和10年
(1935)
創価教育学会に研究部を設置
    2月11日 戸田 松尾幾子と再婚。白金台に新居を構える。

昭和11年11月2日
(1936)
戸田 長男・喬久誕生

昭和12年夏
(1937)
創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)
※事実上の学会の結成 (会員数約100人)

日淳上人から「在家団体・創価学会」の許しを貰えず、「創価教育学会」として発会式を行う。

このころから、上人に対する誹謗・罵倒・吊し上げまで行う

すでに信仰上、上人とも絶縁状態。会員も歓喜寮とも絶縁状態となる。
「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」(竹尾氏が日亨上人から伺った話)

日淳上人は、牧口らの信仰上の再起を願い、元の常在寺を所属寺院として戻れるよう手配

菊水亭にて

昭和13年
(1938)
池田家 大田区西糀谷に移転

昭和14年
(1939)
池田少年 朝夕の新聞配達を始める
    12月 創価教育学会第一回総会 参加者約60名

昭和15年1月1日
(1940)
戸田 『小学生日本』を創刊(後に小国民日本に改題)
    3月 池田 羽田第二尋常小学校卒業
    4月 池田 羽田高等小学校(翌年、萩中国国民学校に)に入学
    8月 戸田 日本商手株式会社を設立
創価教育学会の本部を同社事務所に移す

    10月22日 創価教育学会第二回総会(九段・軍人会館)
牧口 創価教育学会会長に就任、理事長に戸田

昭和16年7月
(1941)
池田長兄・喜一除隊
    7月20日 創価教育学会、機関紙『価値創造』創刊
    11月2日 創価教育学会第三回総会
    12月2日 創価教育学会第三回総会(会員数約2000人)

昭和17年3月
(1942)
池田 萩中国民学校卒業
    4月 池田 新潟鉄工所に就職 
    5月10日 『価値創造』第九号発行。内閣情報局が廃刊命令。 
    11月16日 堀米尊師 学会幹部10数人に忠告
「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかつた。但し将来は弊害がありそうである。」
    12月 池田長兄・喜一 再び出征 

牧口会長自ら、宗門と絶縁と近い状態となる。 会員にも寺に行くことを止めさせる。
「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴って退去」『畑毛日記』


直達講の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。 「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」

学会機関誌「大善生活実証録」において
我々が靖国神社へ参詣するのは『よくぞ国家のために働いてくださった。有難うございます』といふお札、感謝の心を現す」と牧口会長が語る。 つまり牧口等が靖国神社参拝を行っていたことを意味する。


昭和18年5月2日
(1943)
創価教育学会第六回総会(会員数約3000人)
    6月 学会をマークしていた特高警察は、東京・中野の学会員が近所の子供が死んだことを「罰だ」と決め付け折伏したことで、逮捕される事件が起きる。

宗門はこの事態を憂慮され、牧口・戸田を呼び「伊勢の神札を焼却する等の国禁に触れぬよう」忠告する。これによって、戸田氏から通牒が会員に配られる。
        
    6月25日 創価教育学会各理事 仝 各支部長殿
理事長 戸 田 城 外  通 諜


時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固に■■米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。

一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。  
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。  
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神官の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
六月廿五日

実物の学会「通牒」

「通諜」の所在と伝わった経緯

    7月6日
牧口会長・戸田理事長ら21人の幹部 治安維持法違反・不敬罪等の罪状により拘引。当時、天照大神を祀る伊勢神宮の神札が強制的に配られたが、学会はそれを拒否、焼却した。
日本が戦争に勝つためには、天皇陛下が法華経を信仰するしかない。さもなければ日本は戦争に負ける」主張していた事から見て、現在学会が「戦争に反対し、平和主義を貫いたから」とはウソ。 当時の学会機関紙「価値創造」にはヒトラーを称賛するような記事が掲載される。


    11月 時習学館 事実上閉鎖

昭和19年3月
(1944
)
戸田 学会が言う獄中悟達
    9月6日 牧口会長は謗法の罪
<戸田理事長獄中の手紙>
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)

    11月18日
牧口会長獄中で逝去
<牧口への尋問調書の一部>
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
詳しくは→


池田四兄・清信 出征


空襲で創価教育学会本部、日本商手が焼失

池田大作氏 「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託をしました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です(会長講演集 2−143頁)」


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