「貴方の全身を、余すところなく舐めさせてください」  そんな変質的な言葉を囁いたのは、一人の男だった。年のころは20前後、いかにも好青年然とした優しげな風貌が目立つ長身の青年。全体的に柔らかい印象が強いのは、ふんわりと波打つ白い短髪のせいだろうか、それとも同じ色の長い睫毛に縁取られた垂れ気味の双眸のせいだろうか。  青年が熱っぽい眼差しで見つめているのは、一人の女だった。20までにはまだ余裕がありそうな、少女と言っても差し支えなさそうな女性。とはいえ、幼げな風貌とは裏腹に表情はなく、プラスチックフレームの眼鏡の奥の瞳は物体を見つめる時と同じ色をしていた。  「……最近は控えていたようなので、許可する」  あまり一般的ではない囁きに、少女は眉一つひそめることなく無感動に返答する。ソファから立ち上がり、ごく機械的な動作でカーディガンを脱いで、ブラウスの第一ボタンに指をかけた。  「その代わり――」  「ああ、分かってるよ」  青年もまた、首に巻いたタオル地のマフラーに手をかける。手つきは慎重ながら、目元は既にうっとりと細められていた。天上の至福を前にしたかのごとく、とろけるような笑みを浮かべて、  「ルコさんのことなら、何だって分かってるから」  抑揚を無理矢理に抑えた声音でそう告げて、するりとマフラーをほどき――      こんなアブノーマルな光景も、ここでは日常茶飯事。  一般常識からやや逸脱した愛情を抱く彼らは、今日も自分達の欲望の赴くままに、ただ愛すべきものを愛している。      薄っぺらい扉を開けた途端、ボディシャンプーの香りを含んだ湯気が脱衣所に流れ込んでいく。  風呂上りの少女は、当然ながら一糸まとわぬ完璧な全裸だった。伸びすぎた黒髪からポタポタと雫がこぼれ、起伏に乏しい白い体の表面を滑って床に溜まっていく。  湯気から逃れるようにバスルームのドアを閉めた彼女は、蓋を閉めた洗濯機の上に丁寧に畳んであったバスタオルを広げ、パイル地の一目一目を確認するようにじっと眺める。  大変一般的なバスタオルだった。長年使い込んでいるせいか多少くたびれてはいるが、細心の注意を払って使用しているため目立つほころびはない。ふんわりとしたクリーム色の起毛は、さぞかしよく水分を吸い取ることだろう。端には、色の褪せた黒犬の刺繍が施してある。  何の変哲もないバスタオルだが――それは、先ほどの青年が首に巻いていたマフラーに酷似していた。  湯冷めを気にすることすらなく、少女は丹念にタオル地を眺める。  プラスマイナス0℃の無表情が一変したのは、次の瞬間だった。  「――ああああああああああああああっ!!」  愉悦の色がはっきりと伺える笑みで、濡れたままの顔をバスタオルに押し付ける。顔を拭くというよりは頬擦りをすると言った方が近い。顔をうずめ両手でかき抱いて、狂ったようにタオルの感触を堪能する。  「ああ、やっぱり最高……! お前は最高だよ、最高のバスタオルだよ、愛してるよ!」  つい数秒前の無表情はどこへ行ったのか、そもそも同一人物とみなして良いものなのか、あられもない満面の笑顔で叫ぶ。その愛情表現がもう少し控えめだったら、もしくはヒトに向けられたものだったら、それなりにありふれた光景になっていただろう。  しかし、相手はバスタオル。少女の至福の表情も、物体相手にしては度が過ぎている。  荒っぽい抱擁が済んだ後は、素材の感触を楽しむ方向に切り替わった。ゆっくりとタオルの表面に頬を滑らせ、  「硬すぎず柔らかすぎずのきめ細やかなコットン生地……毛足の長さも太さも絶妙……吸水性のみにとらわれることのない肌へのいたわり……汚すことを躊躇する純白ではなくあえて黄色味を加えたアイボリーカラー……この世にこれ以上完璧なバスタオルがあるか!? ノー! エクストリーム・ノー! 素晴らしい! エクセレント! マーベラスぅぅぅぅっ!!」  心の底からの叫びと共に、裸の肩にバスタオルを巻きつけて抱き締める。その思いに応じるかのように、タオルはせっせと肌の表面の水分を吸い取っていく。  ――まるで舐めまわすがごとく。  その後も数々の賛辞を並べながら、少女は全身を余すところなくバスタオルでぬぐっていく。  必要以上に時間をかけて、慈しむように。      彼女――辻神瑠子は、ある種の病的な性癖を抱えている。  ルコは人間を、ヒトを、命あるものを愛せない。  それと引き換えに、彼女は物体を、モノを愛した。  決して愛に応えることのない、命なきモノたち。ただの道具でしかない物体に、偏った愛情を注ぐ。  唯物主義の極致とも言えるフェティズムが、彼女にとっての日常的な愛だった。世間一般の基準がどうあろと。  ――そしてその愛は、いつしかありえない奇跡を起こし始めた。      一言で言えば、緩みきった表情だった。  「……至高の肌触りだ……」  「鬱陶しいから触るな」  ソファの後ろに立って頬を撫でてくる青年を振り返ることすらなく、パジャマ姿で言い捨てるルコ。湯上りの上気した顔には、先ほどの陶然とした表情は微塵も残っていなかった。元通りの、冷たさすら感じられない無表情でローテーブルのパソコンを操作しては、手元の分厚い学術書をめくっている。  「シルクすら遠く及ばない、極上の白肌……きめ細やかでしっとりもっちり、適度に肌の弾力を感じさせるような肉感と、何よりこの汚れ一つない白さ! ルコさんの肌なら、指先が擦り切れるまで触っていられる……」  「私に思う存分触れていいのは、お前がバスタオルの時だけだと言っているだろう」  「ああ、ごめん! つい欲望の赴くままに」  「さっきあれだけ触っておいてか」  「うん――いくら体中を舐め回しても、足りないんだ」  そう言って困ったように笑う青年の髪は、心なしか水気を帯びてへたっている。裾に子供っぽい黒犬のワンポイントが刺繍された白シャツも、首の白いマフラーも、色あせたジーンズも、全体的に湿って重くなっていた。  ルコはようやくパソコンの画面から視線を上げ、宙を見やってため息をつく。一体何がどうなって、こんなクリティカルな発言をする男と生活しているんだろうか。答えの分かりきった問いかけを胸の内でかき消して、代わりに眼鏡のフレームを指で押し上げながら横目で背後を見やった。  「……バスタオルのクセに、欲張りなんだよ、タオは」  ――『バスタオル』。  それはあだ名でも役職名でも何でもなく、純然たる事実でしかない。    彼はまさしく、先ほどルコの身体を拭いていたバスタオルなのだから。    もちろん、普通のバスタオルは青年の姿をしていない。主に木綿などで構成され、起毛処理が施された布キレのことを指す。いわゆる大判サイズの西洋手拭いのことである。喋ることも頬を撫で回すことも笑うこともなく、体温もなければ感情も思考能力も欲求もないはずの、ただの物体――  のはず、なのだが。  彼はバスタオルでありながら、同時にヒトの姿をした一人の青年でもあった。  ――日本には、古くから『九十九神』と呼ばれる魑魅魍魎が存在している。長く使い込まれた道具類が魂を得て、化生として生まれ変わった《モノ》が古い妖怪画などに描かれることが多い。大抵は物体そのものに目玉や手足がついただけの簡素な姿をしているが、彼の場合は一味違った。  いや、彼女の場合は、と言うべきか。  ……小奇麗な言い方をしてしまえば、『愛が起こした奇跡』というヤツのせいで。  「バスタオルにだって欲はあるよ!」  「あってたまるか」  「じゃあ、むしろバスタオルだからこそ!」  「じゃあって何だ、じゃあって。プロのバスタオルなら肌の選り好みをするな」  「どうせ拭くなら好みの肌の方がいいじゃないか」  拳を握って力説する好青年は、優しげな風貌に似合わず一歩も引く気配を見せない。姿形は人間であっても、その執着のベクトルは決して真人間らしいものではなかった。  元々のカタチがバスタオルであるがゆえに、欲求もまたバスタオルらしいものへと向けられる。《モノ》であるがゆえの、名残というには強すぎる性癖は、事ほど左様に変態感あふれる言動として発露するのが常だった。  ちなみに。タオというのはルコが幼い頃につけた名だ。短絡的というかセンス皆無というか、申し訳程度の命名というか。  それ以上取り合わず、彼女は肩を落として盛大にため息をついた。  本当に、一体何の因果でこんな非常識な男が――  「ルコさん、疲れた? ほら、勉強ばっかりしてるからだよ。肩でも揉もうか?」  ――いや、非常識な男どもが――  「っだいまー。ルコ、今日こそそのうざってー髪ざっくり切らせ、て…………」  リビングのドアを開いて、何気ない足取りでやってきた人物の足が止まった。少年と青年の端境期特有の、不必要に尖らせたような面立ちの男。やや小柄な体躯にパンクス風の服を着崩して、精一杯険のある表情を繕ってはいるが、左の目元の泣きぼくろがその努力を打ち消してしまっていた。下手をすると怜悧な少女と言っても通ってしまうかもしれない。  金髪の青少年は室内に一歩を踏み出した格好のまま、目の前の光景を見つめている。  ソファに身をくつろげた湯上りのルコと、後ろからその肩に手をかけるタオの姿を。  見ようによっては、充分に誤解できる光景だ。  「――てっ、」  沈黙が維持されたのはたった3秒間。青少年はすぐさま肩を怒らせながら、胸倉を掴み上げんばかりの勢いでタオに詰め寄り、  「てめー、またルコに妙なこと要求してたんじゃねえだろうな!?」  「おかえり、サク。コンビニにしては遅かったね」  「立ち読みしてたからだよ! そうじゃなくて、俺が抜けてる隙に何やってたんだよ!」  「あ、塩切れちゃったから、ついでに買ってきてもらえば良かったねえ」  「モウロクした爺さんかてめーは!」  かみ合わない会話に、やや見上げる格好になっていた青少年が声を荒らげる。タオの方はどこ吹く風で、暖簾に腕押しならぬタオルに腕押しといった風情だ。  「サクもさ、疲れてたら肩揉んであげるよ。ルコさんほどじゃないけど、サクの肌触りも割と――」  「妙な目で見るな笑うな手を伸ばすな! いや、1光年分くらいの歩数譲って俺は良いとしてもだ、ルコにまで妙なマネするんじゃねえ!」  「……うるさい」  当の本人は振り返りもせず、再び机上の作業に没頭している。完全に我関せずモードだった。  気楽に笑うタオの手をやんわりと払いのけ、青少年――サクはその背中に鋭い視線を向ける。  「お前は危機感っつーもんがなさすぎるから、この変態が何してもサラっと受け流しちまうだろうが。今のはアヤシゲなニオイがプンプンして――」  「しておりません。わたくしがずっと見ていましたから。……少なくとも、貴方が妄想しているような下世話なことは」  唐突に、喧々諤々の空気にテノールボイスが染み通った。サクが舌打ちしながら視線をやった先には、部屋の隅のキャビネットで書類を抱える紳士が、気配もなく立っていた。見た目はタオより少し年上程度だが、身にまとう雰囲気はロマンスグレーの老紳士もかくやと言わんばかりの落ち着きぶり。家庭内だというのにかっちりとしたスーツを着こなし、短い黒髪を後ろに撫で付け、左目には銀色の虫眼鏡の形をしたモノクルをかけている。  老成した風貌に皮肉の色を混ぜ込んで、苦い表情のサクに向けて目を細め、  「お嬢様のことはずっと見ておりますので。それに――妙なこととやらを要求しようとしていたのは、むしろ貴方の方ではありませんか?」  「ンだと?」  青少年のターゲットは、タオから紳士に変更されたらしい。いちゃもんをつけるチンピラさながらの勢いで息巻いて、涼しげに書類を揃える紳士を睨みつける。  「一人だけノーマルってツラしやがって、この覗き趣味!」  「『おはようからおやすみまで暮らしを見守っている』と言っていただきたいものですな」  「ええっと、あと、それから、眼球フェチ!」  「そちらこそ、駄犬のような噛み癖はいい加減に治した方が良いですよ。いくら工作ハサミだからとはいえ、《刃》ざわりのみに相手の魅力を求めるのはいささか偏執狂的かと思われます。それから、お嬢様以外の方はサー・ロビンソンとお呼びくださいと再三申し上げているはずですが」  「うるせースカしてんじゃねえ紳士気取りのムッツリ虫眼鏡! ぶった切るぞ!」  「まったく……これでは場末のゴロツキではありませんか。とても取り合っていられない」  鼻で笑っては、優雅な仕草で肩をすくめる紳士。対するサクは口を引き結んで拳を震わせている。まるっきり子供と大人の口喧嘩とはいえ、室内には一触即発の空気が流れた。  そこに割って入ったのは、やはりこの男。  「まあまあ、二人とも落ち着きなよ。ルコがものすっごい鬱陶しそうな顔してるよ?」  その一言は魔法の呪文のように作用した。お互い口をつぐみ、思い切りそっぽを向き合ってその場が収まる。二人とも文句の言い残しをブツクサと口の中で呟きながら、サクは部屋の外へ、紳士は再びキャビネットの前へと戻っていく。  鬱陶しそうな顔をしていると称されたものの、ルコは相変わらず無表情でデスクワークをこなしていた。ただし、よくよく見れば眉間に少しだけ皺が寄っている。余程のことがなければ気がつかない程度に。  「……マグニ、昨日届いたウィンスロットの論文集」  「はい、ただいま」  呼びかけにかしずき、紳士は丁寧な手つきでファイルの並びを探る。  ――そんな何でもない日常風景を眺めながら、タオは先ほど伸ばしそこねた手で頭をかいて柔らかく笑った。      モノしか愛せない、無感情・無感動・無表情の少女。  肌触りを偏愛する、タオルの九十九神たる好青年。  噛み癖も吠え癖も治せない、工作ハサミの九十九神たる青少年。  己の見守りぶりの異常性を認識しない、虫眼鏡の九十九神たる若紳士。  それぞれが一般的ではない性癖を抱えたこの4人は、今日も一つ屋根の下で暮らしている。  誰が何と言おうと、彼ら自身にとってはこれが『普通』なのだから。  といっても――『普通』と言い張るには、彼らのケースは特殊すぎた。    ……世界中が片時も目を離せないくらいに。         + + + + +      ――アメリカ、マサチューセッツ州某所。  「本日分の《AML》発動、全て確認しました」  「HAHAHA、今日も良くやった! クルーのみんなでコーヒーブレイクだ!」  モニターとコンソールが並ぶ大きな部屋で、十数人の男女がドーナツをコーヒーに浸す。    ――ロシア、ウラジオストック某所。  「《AML》保有者の就寝を認めました、同志」  「了解した。引き続き監視体制」  暖炉のある小部屋で、めいっぱい厚着をした若い男が、デスクにつく髭の男に敬礼を送る。    ――イギリス、グリニッヂ某所。  「Sir、最新の《AML》発動記録です」  「ご苦労。ティータイムにしたまえ」  豪奢な装飾が目立つ一室で、貴族風貌の老人が白磁のティーセットに紅茶を注ぐ。    ――中国、湖南省某所。  「《AML》に目立った動きなし。警戒級を維持しますか?」  「是。油断は禁物、衛星の保守も怠らないがよろしい」  人が行き交う書類だらけの資料室で、妙齢の婦人が渡された資料をめくる。    ――インド、カルカッタ某所。  「《AML》発動時の計測値に異常ありません」  「いいでしょう。数値をまとめておきなさい」  高いビルの最上階で、ターバンにスーツ姿の男が手元のパソコンを操作する。      ――世界中の各地で、様々な機関がルコの生活を見守っていた。  本人に気付かれることなく、淡々と、ただし大げさに。  ……世界規模の覗きと言えないこともない。  有名なコメディ映画のように、彼女達の動向は朝から晩までとめどなく衆目にさらされている。ただあの洋画と違って、視聴者の目的はお気楽な娯楽ではない。各自思惑はそれぞれだろうが、心の底か大真面目に彼女達を《監視》しているのである。  畏れ、危ぶみ、それゆえに目を逸らせない。    そして――同じ日本の某所でも、今夜もひっそり監視体制が敷かれていた。         + + + + +      「――と、いうわけだよ、能勢君。以上の映像で、現在の懸案事項の概要は理解できたものと思う」  ブラインドを締め切った個室に、低い男声が響く。小会議場程度の広さの部屋には数台の液晶ディスプレイが並び、その只中に重々しい木製のデスクが据えられていた。声の主はそのデスクに両肘を突き、重ね合わせた手の上に顎を乗せてうっすらと笑う。  四十路近辺の、神経質そうな男だった。細面に銀縁メガネをかけ、白髪混じりの黒髪を一本のほつれもなくオールバックに撫で付けている。ネクタイが5度以上歪んでいたら一気に不機嫌になりそうな、書類の誤字脱字をこの世から駆逐することを至上目的としていそうな、生真面目な官僚をそのまま絵に描いたような、そんな男。  背後に影のようにたたずむ女性秘書に目配せをする。一分の隙もない動きで歩み出た秘書は、分厚いファイルを手にデスクを迂回し、もう一人の人物に向けてそれを差し出した。  デスクに座る男性とは真逆のタイプの青年が、パイプ椅子に座っている。辛うじてスーツは着ているものの、ネクタイは緩みきりシャツの裾は外に出て、オマケに髪は脱色した金色に染まっていた。ぱっと見はホストか、もしくは不良高校生といった風情だ。愛嬌のある面立ちなので余計にそういった印象が強い。  青年は差し出されたファイルに手を伸ばそうとはしなかった。どころか、先ほどからぼうっと眺めているディスプレイの一つから目を離そうともしない。正確には、ディスプレイに映し出されたルコの映像から。  「質疑応答は詳細説明の後で受け付けるとしよう。それ以前に――何か、発言すべきことでもあるのかね?」  明らかに盗撮用望遠レンズ越しと思われる映像には、自宅で就寝前のストレッチに励むルコの姿があった。徹底した無表情に目を釘付けにしている青年は、しばらくの間問いかけに答えることもなく――  「……かわいい」  ややあって、ため息に似た小さな声音で呟いた。それを皮切りに、言葉の山が雪崩を打って室内に押し寄せる。  「可愛い、めちゃくちゃ可愛いじゃないスか! いや、世間一般から見たら言うほど可愛くない、むしろ野暮ったいっつーかイモっぽいっつーか垢抜けないっつーか、目を留めるほどじゃないんだろうなーとは思うんスけど、そこはアレっスよ、素人考えっスね! 逆にこの外見に対するやる気のなさが良いんスよ、乙なんスよ! 誰の色にも染まってない純白の処女雪、イイっスよね、俺色に染めてやりたくなる度満点っつーか、磨いたらこっちの予想以上に輝いちゃって困りそうっつーか、どんだけポテンシャル高けーんだよ俺もう眩しくて君が見えないブラボーハラショーマーヴェラス! 綺麗に磨いた君の笑顔は俺だけに向けてくれ、みたいな! ペタっとした幼児体型がまた庇護欲をそそるっスねー、俺が見たとこ上から――」  「能瀬」  ファイルを差し出したままの格好で、秘書の女性が冷ややかに青年の名前を呼ぶ。パイプ椅子で身振り手振りの熱演を繰り広げていた能瀬は、途端に言葉を切って秘書に笑顔を返した。若干引きつり気味ではあったものの、口を閉じてファイルを受け取る。秘書は再びデスクの男の後ろに戻っていった。  「君自身の個人的な感想は、この場で改めて表明するべき意見ではない。沈黙は金、雄弁は銀。何千何万の駄弁の砂漠に埋もれてしまっては、どのような金言も輝きを失う。君には何度もそう忠告してきたはずだがね?」  「……オッシャルトオリデス、《閣下》」  ぎこちない口振りでそう返しながらも、『人のこと言えるのかよ』とこっそり胸の内で呟く能瀬。黙ったままでいるとまた忠告という名の嫌味が降ってきそうだったので、手元のファイルをペラペラとめくってその場をやり過ごそうとする。  「現象名・《AML》、《Anti-Material Love》。《無生物への愛着行動及び愛着感情による九十九神化現象の励起能力》。発現点《辻神瑠子》……へー、ルコちゃんっていうんだ、あの子」  書かれている内容を口ずさみながら、どこか楽しげにページをめくり、  「19歳、女、日本国籍……マジ? 高校生くらいにしか見えねえのになー……うわ、中学卒業後いきなりアメリカの高等教育機関に編入、飛び級繰り返して18で材料物性学博士号取得? 何コレ普通に天才じゃん、可愛い上に頭良いってちょっとしたチートじゃね?」  「彼女のプロフィールはさほど重要な項目ではない。拾い上げるべき情報を最優先すべし、これもまた幾度となく君に申し上げてきた覚えがあるのだが、記憶にないのかね」  「……失礼シマシタ。ええっと――」  名残惜しげにゆっくりとページをめくり、その先にある情報に目を通す。  「《AML》とは、本来ならば経年変化として自然現象的に発生する無生物の九十九神化現象を、愛着行動及び愛着感情の発露により強制的に励起する能力である……コレ書いたの宝城さんスよね、ワケわかんねーの。要するに――」  もう一度ファイルの文字列を視線でなぞり、2秒間だけ黙考した後、今度は慎重に言葉を選びながら口にする。  「……愛さえあれば、無生物の擬人化がリアルで発生、ってカンジ?」  「60点。理解はある程度的を射てはいるが、その知能程度の低そうな表現はいただけない。宝城君ほど構文主義を徹底しろとは言わないが、少しは形式というものを重んじたまえ」  微動だにせず客観的評価を下す男の後ろで、宝城と呼ばれた秘書が軽くうなずいて見せる。うへえ、と表情を歪めた能瀬は、続けてファイルの文言を目で追う。  「愛着の情動波形を特殊な形で顕現させ……って、この辺は研究部のレポートっぽいから飛ばして……現在確認されている《AML》発現点は当該の対象のみである。《AML》による九十九神化現象により何らかの深刻な事態が懸念されるため、各機関が独自に当該発現点の監視を行っていることが、調査部の報告から判明している……ああ、覗きやってんのはウチだけじゃないっつーコトっスね」  「恒常的な監視は、想定される危機的状況を予測すれば当然のことなのだよ。倫理的な問題はこの際さしはさむべきではない。現在はごく小規模な現象だが、今後無差別に九十九神化現象が発生すればどうなると思うかね」  初めてデスクの男が動きを見せた。顎の下で組んでいた手を解き、手元のパソコンのキーボードを操作する。ピアノ奏者の正確さで指が踊ると、さきほどまでルコの姿を映し出していたディスプレイに丸い地球のグラフィックが浮き上がった。日本のとある一点に赤い光が灯っている。  「君にならって具体的に表現しようか。彼女が触れるもの、愛着を感じる無生物の全てが九十九神となり、ヒトとしての肉体と魂を持ったとすれば――」  赤い光は徐々に大きくなり、加速度的に日本の国土を覆っていく。それは海を越え、世界に広がり、やがては地球儀全体が赤で塗りたくられてしまった。  「人口問題は言うに及ばず、この世とあの世の霊的なバランス崩壊、九十九神による人類への反乱、政治的・軍事的・外交的不和、現存のあらゆるシステムの破綻……発現点たる彼女がその気になれば、無限の民を持つ国家が一つ誕生することにもなりかねない」  「色々心配しちゃうと大変っスねー。女の子一人のこと考えて夜も眠れないってのとはワケが違うっぽいし」  深刻な口調で語る男を前に、能瀬はひたすら気楽そうに頭の後ろで手を組んで、つまらなさそうに真っ赤な地球を眺める。地球の危機よりも、ルコの映像を見つめていた時の方が余程真剣だった。そんな不真面目な態度を気にすることなく、デスクの男は続けて口を開く。  「そういった懸案事項の他にも、軍事利用や研究の対象としても魅力的な素材と言える。それゆえに、各国の様々な機関が彼女の監視を行っているのだよ。必然的に各機関が裏で牽制しあい、直接彼女と接触することは非常に困難だと思われていたのだが――」  意味ありげに言葉が途切れる。充分な演出効果が狙えるだけの間を持たせてから、男は次の句を継いだ。  「このたび私自らが各機関へ足を運び、公式・非公式を問わず様々な交渉活動を行った。その結果、我々《異端現象対策管理局》が先んじて彼女に接触するための隙を作ることに成功した」  「ここんとこあっちこっち飛び回ってたのは、そのためだったんスね」  「存外に骨が折れたよ。その甲斐あって今回のチャンスを得た。航空会社のマイレージも驚くほどに貯まったよ」  計算づくの冗談を付け加えて、片頬をゆがめる男。どうやら笑っているらしかった。世界各国、有象無象の監視機関を相手取り、一歩分のリードを得るのは並大抵の努力でも並大抵の才能でも不可能だろう。目の前の男が途端に化け物じみた存在に思えてきて、能瀬はがっくりと肩を落とす。  「どんだけ暗躍したんスか。国がバックについてる機関もあったんスよね?」  「交渉時には必ず表玄関をノックすべし、という法はない。裏口を開けてくれる話の分かる者は、どこの機関にも必ず何人かは存在するのだよ。――さて、」  再びの目配せで、秘書が別の書類を能瀬に手渡した。今度はファイルほど分厚くはない、数枚のコピー用紙をホッチキスで留めただけの簡素なつくりだった。表紙にはただ、『部外秘・読後破棄』とだけ印字されている。  一枚目をめくると同時に、デスクの男が低音の声音で次の句を紡ぎ始めた。  「こうして獲得した貴重なチャンスを、いかにして活かすべきか。手元の資料にもあるように、今回の交渉作戦は非常にデリケートかつ担当人員を選ぶ案件だ。当初は私自身が接触すべきかと考えていたが、こと今回のようなケースに限定するならば、私の交渉能力は君に劣る。私にそう認めさせた時点で、この案件に関して君以外に適任者はいないだろう」  こうして珍しく褒められる時は用心しなくてはならない。経験則がイヤな予感を告げる。ほんの少しだけ書類から目を上げたところで、丁度メガネの奥の瞳を細めた男と目が合った。ごく自然に取り繕った、ただし明らかに作為的な笑み。苦手な顔を前にして思わずたじろいでいると、その笑顔のまま良く通る声音で最終通告が成される。  「《異端現象対策管理局》・対策執行部交渉課《砂原班》所属・能瀬詠彦」  長ったらしい呼びかけのあと、ほんの少しだけ笑みが深まったように見えた。が、どうせ気のせいだ。  「――出張だよ」  さわりを読んだだけでも脱力してしまうようなとぼけた作戦内容書類を片手に、ため息をついて宙を眺める。何を言っても無駄だということはよく分かっていたので、口を閉ざして両手を挙げ、端的に現在の心境を示して見せた。  ホールドアップ。お手上げ。降参。         + + + + +      壁のカードリーダーに、IDカードを勢い良く滑らせる。ピ、と音がして表示灯が赤から黄色に変わった。すかさず隣のテンキーで16桁の暗証番号を打ち込むと、表示灯が黄色から緑に変わり、ガチンと錠が回る音がした。  面倒なセキュリティだが、研究施設にしてはまだ緩い方なのかもしれない。ほんのわずかな苛立ちをなだめるようにそんなことを考えて、ルコは扉を開けた。窓のない殺風景な事務室が、眩しいくらいの蛍光灯に明々と照らし出されている。  行堂総合科学技術研究所・材料物性部・新素材開発課・坂崎班。ルコの勤め先である。私設の科学研究所であり、《総合》の言葉が示すとおり様々な科学分野を取り扱う巨大シンクタンク。その中でも、外の企業や政府から持ち込まれたプロジェクトに添って未知の素材を開発するのが、彼女が所属する坂崎班の主な仕事だった。  「オカエリヨー、ルコ!」  出迎えたのは、水色のツナギに白衣を羽織ったショートカットの女性だった。同じような格好をしているとはいえ、目に見える印象はルコとはまるで違う。背が高く、学生時代にスポーツをやっていた者特有の無駄のない体つきをしており、そのくせ出るところは出ている。吊り気味の目を細めて笑っているような顔は、整っている分どこか狐面を連想させた。  「出るのも入るのも面倒でしょー。もうこの部屋から一生出るもんかと思うくらいねー」  部屋の再奥部に位置するデスクにのんびりと腰を下ろして、年齢不詳の男性がため息のような声を上げる。緩くうねってうなじで束ねられた髪と同じ色の髭、それをそり落としたら多少は年齢もハッキリするだろうが、その姿を見た者はルコの知る限りでは存在しない。いかにも無精者といった風情だが、不潔感がないのは解脱しきったような穏やかな表情のせいだろうか。  「キハハ、主任今回は何日ヒキコモってンですか?」  「今日で5日目ー。でも厳密にはこのフロアはうろついてるからー、トイレとかシャワーとか実験室とかねー」  「太陽の光なんンて浴びたら、確実にそのまま灰になりますね!」  「だってさー、ほら、この部屋出入りするだけでもあの面倒くささでしょー? 入り口のセキュリティなんてもう、考えただけで面倒くさくてさー。そりゃーヒキコモりたくもなるよー」  「私みたいに電子端末でパス管理でもすりゃーイイじゃないですかヨ」  「先輩、無用心です。セキュリティの意味がありません」  いつも通りの会話を聞き流していたルコが、唐突に口を挟んだ。挟みながらも、ビニール袋をガサガサ鳴らして何事もなかったかのように自分のデスクに腰を下ろす。広くはない室内に6つある内の、一番出入り口に近いデスクだ。それぞれのデスクにはネットワークから遮断されたスタンドアロンのパソコンが置いてあり、持ち主の個性を示すかのように散らかったり片付いていたりする。ルコの場合はパソコン以外のものは何も置いていないため、散らかりようがない。  元々研究員が共同で書類をまとめるためだけに用意された部屋なので、基本的に実験室としての機能はなく、どちらかというと溜まり場としての役割が大きい。  狐面の女はわずかに目を開いて、それからまた目を細め直し、  「ワーオ、ナニナニ、ルコもしかして暗記? 日替わり16桁パスコード数種類、聞いて即座に暗記?」  「数列は無限大に暗記できるのが普通だと思います。小学生だって、頼まれもしないのに円周率を延々そらんじて見せるじゃないですか」  「アー、私ダメだわ。――って、チョトチョト、ルコまた昼ごはんサプリ?」  無造作に逆さまにしたビニール袋から、栄養成分の名前が記された小袋がいくつかと、ゼリータイプの栄養食がデスクの上に雪崩れ出す。ルコの背後からそれを覗き込んだ狐面の女、園部は、呆れ混じりのため息と共に肩を落として、  「花も盛りのお年頃の女子は、手の平サイズの可愛いお弁当箱持参が基本でしょうヨ。何それコダワリ? カッピカピに乾ききった食生活になんかコダワリあンの?」  「単なる栄養摂取の機会にこだわりはありません。特定の栄養素を効率良く取り込めば良いだけのことです。サプリメントが一番確実で手間がかからないから」  淡々と応じては、小さな袋を開けて数粒ずつカプセルを飲み下していく。食事という概念からは程遠い光景であり、どちらかというと機械のメンテナンスに近い。  ゼリー飲料でサプリを喉に流し込んでいると、今度は髭の男から声が飛んできた。  「辻神君は徹底してるよねー。自己愛すらモノとしての自己に向けてるんだから、そりゃー食事もコンセントで充電感覚になっちゃうよねー」  「ルコの無生物フェチズムはもう病気ネー。実験機材覗き込みながらハァハァしてるシーン目撃するの、心臓に悪いから早めに治した方がいいヨー」  「あんなに可愛らしい分子構造に欲情するなというのは無理な注文です」  「アハ、変態発言! 素で欲情とか言っちゃったヨ! あんなイケメン従兄弟たちと一つ屋根の下だっつーのに、素敵ハプニングの予感もナシとか、ありえないネ」  イケメン従兄弟――3人の九十九神のことだ。世間一般では年頃の男女が同居というのは色々と誤解を招きやすい。しかしまさか真っ正直に説明することもできないので、『事情があって一緒に暮らしている遠縁の親戚』ということにしてある。  ルコの両親が既に亡くなっているということで、大抵の人はそれで納得してくれる。まだ中学生だったころ揃って交通事故に遭い、辻神家は彼女独りきりになってしまった。といっても、別段悲しいだとか寂しいだとか、そんな感情は抱かなかった。  『両親がヒトから物体に変わってしまった』――『愛すべき物体に』――『これで、愛することができる』。  葬式のさなか、坊主が座る座布団の質感に目を奪われながら、そんなことを考えていたのを覚えている。数少ない参列者に薄情娘と後ろ指を指されはしたものの、他人の評価など心底どうでも良かった。一度も棺を覗くことなく両親の遺体は焼却されて……焼き上がった骨に物体としての魅力が感じられなかったので、少しがっかりしながら骨壷に納めた。  その後、親戚からの援助の申し出を振り切るようにして家を出て、アメリカのとある教育機関に身を寄せた。3年間学問にのめり込むようにして飛び級を繰り返し、博士号を取得した時点でこの行堂総合科学技術研究所に招聘された。材料物性学の最高学位まで取得してしまったのは、物体フェチが高じに高じてのことと言えるかもしれない。研究ができるのならばアメリカでも日本でも構わない、ということで帰国して――現在に至る。  そういえば、この職場に配属されてまだ一年も経っていない。  奇妙な共同生活が始まったのも、自分の特異体質に気付いたのも、ここ一年内の出来事だった。帰国したルコを待ち受けていたのは、たしか――  ゼリー飲料を飲み干した時点で、追想を強制終了させる。柑橘類の人工的な甘味も、過ぎし日の思い出も、わずかばかりの後を引くだけでルコの中に残りはしない。  「あやかりたいあやかりたい。けど物体フェチで人間嫌いなルコが、親戚とはいえ他人と共同生活送れてるってコトが驚きですヨ、桃の木ですヨ」  ねー、と園部が首を傾げた先で、主任も同じように、ねー、と小首を傾げている。取り合うこともないだろうと思いながらも、口をついて言葉が出てきた。  「ええ、あれらは――」  それから、余程じっくり見なければ分からない程度の、希薄な笑みが口元に浮かぶ。  「――とても、とても良い《モノ》、ですから」  誰かを想って、というよりは、子供が取って置きの玩具を自慢するような、そんな色合いの表情だった。      あれやこれやの他愛もない話を聞き流しながら、就業時間までを勤め上げた。企業からのオファーが立て込んでいる期間は泊り込みなど当たり前だが、現在坂崎班に与えられているプロジェクトに火急のものはない。よって残業もない。  どこかの班が研究に追われているのだろうか、使用中のランプが灯る扉をいくつも通り過ぎながら薄暗い廊下を歩く。リノリウム張りの廊下を一歩歩くごとに、自動点灯の蛍光灯が道行きを照らし出した。色合いや明度もさることながら、こういう健気なところが魅力的だ。なのでいつも、ついつい上を向いたまま歩いてしまう。  そのせいで、目的地である課長室のドアがいきなり開いたことにも気付かず、あまつさえ開いたドアで鼻っ柱を強打してしまった。  「うわっ、ちょ、ゴメンゴメン、マジゴメン!」  悲鳴も上げずうずくまってプルプルしていると、頭上から軽快な男の声が聞こえてきた。抱えていた提出用の書類を撒き散らさなかったのは幸いだった。低い位置から恨みがましく見上げてみれば、愛想の良さそうな面立ちの金髪青年が目をむいてかがみこんでいる。  ――第一印象・チャラい。こんな研究所ではまず見られないタイプだ。短めの金髪にピアス、着崩したスーツもビジネス用というよりは遊び用のデザイン。駅前の繁華街の雑踏に混ぜ込んでしまった方がしっくりなじむだろう。  「……問題ない、です」  問題なくはない鼻をさすりながら立ち上がる。そのまますれ違ってしまおうと一歩を踏み出す前に、見た目同様の浮ついた口調でうそぶく青年。  「いやいやいや、さっき絶対鼻打ったでしょ。思いっきりガツンって手ごたえあったもん。折角の綺麗な鼻筋に、俺は何てコトを! 全世界の皆さん、悪党だとか間抜けだとかそんなカンジで俺を罵ってください! あれ、これだと微妙にマゾヒストっぽくない? そもそも何で俺が見も知らぬ男から罵倒されなきゃなんないの? 女の子からだったら大歓迎だけどね! ってことで、さあ俺を罵ってくれルコちゃん!」  「…………」  口を差し挟む余地がないほどの、完璧なマシンガントークだった。わずかな時間で山ほど喋られたので、ただでさえコミュニケーション能力に問題のあるルコは思考が追いつかない。しかしこのままぼうっとしていると、いつまた相手が口を開くか知れたものではない。そこで何とか搾り出した言葉が、  「……ええっと、名前?」  初対面のはずなのに、彼の口からはたしかに自分の名前が出てきた。名乗った覚えもない。  青年はどこか得意げに胸を張り、  「可愛い女の子のためならいくらだってエスパーにもなりますとも! どうせなら服が透けて見える透視能力が良かったけど、この際文句ナシ。出会った瞬間から君の名前は俺の胸の中で鐘のように響き渡ったね。寺の鐘じゃなくて教会の鐘の方ね念のため。ザッツ・天啓! 恋のインスピレーション!……っていうのは冗談で」  どこから冗談が始まっていたのか不明だが、彼が指さす先に大人しく視線を向ける。白衣の胸元には数枚のカードキーと顔写真、IDナンバー、氏名、所属が表記されたカードホルダーが揺れている。なるほど、咄嗟にこれを見て名前を認識したらしい。見た目の割に如才ない。  ニンマリと子供っぽく笑う青年に軽い会釈を寄越して脇を擦り抜けようとする。が、その目論見は再び阻まれた。バスケットのマンツーマンディフェンスさながらの勢いで扉の前に立ちはだかり、愚にもつかないナンパ文句が再開される。  「っていうかお嬢ちゃんいくつ? ID持ちってことは社会見学の中学生とかじゃないよね。にしてもハタチは越えてないと見たんだけど、どうよ俺の鑑定眼は?」  「19です。どいてください」  「19!? 若く見えるよね、ああコレって未成年に向かって言っても喜ばれないセリフか。にしても19かぁ、19にして研究員とはまた、若き天才ってヤツ? 二重の意味で驚きの年齢だよね。俺が19の時なんて繁華街でキャッチやりながらダラダラしてたっつーのに、すごいよね、研究所勤めってだけでもすごいのに、あの行堂科技研所属でしょ、脳内構造がどうなってんのか見当もつかないんだから困ったもんだよね凡人って。その上可愛らしいときたよ、天は二物与えちゃってるよ、だって賢い上に可愛いし」  「可愛くありません。どいてください」  「いやいや、俺の見立てに間違いはないよ。ストライクゾーン広めっていうか全女性がストライクな俺ですけど、その中でもジャストミートなストライクだし。あ、でももしかして可愛いって言われるの嫌い? だったらごめんね、けど俺にはその言葉を封印することはできない! 可愛いものは可愛いと断固言わせてもらう! それとも、もしかして言われすぎててうんざりとか――」  「どいてください、何なんだ貴方は!」  気がついたら、相手の言葉を遮って声を上げていた。普段から感情を表に出すことがないので、苛立ちに任せて言葉を吐くのは久しぶりのことだった。  そして、言ってしまってから『しまった』と内心舌打ちする。『何なんだ』と問うてしまえば、相手に自己紹介の機会を与えることになってしまう。それも計算づくで喋っていたのか、青年の笑みに満足げな色が混じった。どうやら、予想以上に頭も回るらしい。  「申し遅れました」  してやったり、とばかりにことさら声のトーンを下げ、先ほどとは打って変わって大仰な口振りで言葉をつむぐ。  「ノセ・ヨミヒコと申します。可能の能に瀬戸内海の瀬、歌を詠むの詠に彦根の彦。23歳、天秤座のB型、趣味は世の女性との楽しい会話。特定の交際相手は今の所いないんで、そこはよろしく」  「そうじゃなくて――」  「まあ、出入り業者みたいなもんだよ。行堂科技研に外注出してる組織の一つからお遣いにきたってワケ。胡散臭さは充分承知だけど、決して怪しい者ではありませーん。さっきもここの課長さんにプロジェクト持ち込みに来たんだよね。しかしまさかこんなところで運命の出会いを果たすなんて、夢にも思ってなかったね! 可憐な天才少女なんて、いまや巷じゃ絶滅危惧種じゃん、俺的には逃すわけにはいかないんですよってヤツ?」  いい加減、冗長なおしゃべりに付き合うだけの忍耐力が切れてきた。やや強引なフットワークで青年をかわし、振り返ることもなく課長室のドアを開けて室内に滑り込む。  ……何なんだ、あの男。  目を丸くする課長に声をかけられるまで、ルコはしばらくうんざりと肩を落としていた。      「……あー、しょっぱなからヤバかった」  ドア一枚隔てた廊下では、能瀬も同じように肩を落としていた。ただしこちらはうんざりというよりは安堵交じりで。  想定外の初対面に慌てたせいもあったが、画像で見惚れていた少女を実際に目の前にしてつい舞い上がってしまった。いつもの1.5倍はよく喋っていたように思う。だからこそ、知らないはずの名前を呼んでしまうといううっかりミスをやらかしてしまいそうになった。何とか誤魔化せはしたものの、あの瞬間は背筋がヒヤリとした。  予想以上に小さい、というのが初見の印象。事前に見ていた無表情と寸分たがわぬ仏頂面だったが、ほんの少しだけ感情的な顔をした時点で、『画像の向こうの人物』から『目の前にいる一人の人間』へと認識が変わった。  その認識を踏まえてもう一度彼女の顔を見ようとしても、もう遅かった。ばたんと鼻先でドアが閉まり、彼女は目の前から消えてしまった。  まあいい。まだまだ猶予はある、これからじっくり攻め落としていけばいい。口調と同様の軽い足取りで廊下を歩みながら、へらりと相好を崩す。  「……逃すわけには、いかないんですよ」  色んな意味で、ね。         + + + + +      「ルコちゃーん、おはよう!」  翌日から毎日毎日、  「奇遇奇遇、これって運命?」  実験室で、売店で、廊下で、  「今日も天上知らずの底抜けに可憐だね」  朝、昼、晩と時も場所も選ばず、  「あ、書類重そうじゃん、俺持つよ」  神出鬼没に現れては、  「ねえねえ、ルコちゃんって彼氏いんの?」  あれやこれやとまとわりつき、  「無表情でも充分可愛いけど、笑顔笑顔! ここぞとばかりに写メるから!」  顔をあわせれば口説き文句の嵐で、  「俺に恋しちゃったらいつでも言ってね、24時間365日受け入れ態勢バッチリだから!」  こっちの話など聞く耳持たず――      「……今日も強めで頼む」  自宅にたどり着くなりソファに身を投げ出し、付き従うタオに向けて肩を叩いて示す。心得たもので、すぐさまソファの背に回ったタオは絶妙な力加減でルコの肩を揉み解しにかかった。  「ルコさん、お疲れみたいだね。また例の『厄介なナンパ男』?」  「そう。出入り業者のクセにどこにでも現れて――ん、もう少し上、首の付け根」  「ンだその不愉快な野郎は。不審な動き見せやがったら即座に噛み付けよな。っつーか俺がぶった切る」  対面のソファで胡坐をかくサクが、早速殺気立った声を上げた。元々穏やかとは程遠いタチだが、ことルコに関することになると『触るもの皆傷つける』モードに入る。ハサミにふさわしい気性と言えるのかもしれない。  少し離れたダイニングテーブルでノートパソコンと向き合うマグニは、それとは対照的に声色一つ変えずにコメントを付け加える。  「お嬢様のプライベートには干渉するなかれ。それが我々の紳士協定だったはずです。もっとも、ご本人からの要請があれば喜んで助力申し上げる心算ではありますが」  「知るか! ルコの体のどこかに別の野郎の噛み跡がつくなんざ、黙ってられっか!」  「人の良し悪しを歯ざわりに求めるという特殊性癖の持ち主は、この世界でも貴方くらいのものでしょう。私見を申し上げますと、貴方の噛み跡であってもお嬢様の身体を損なうことには違いないため、一刻も早くその病気を治していただきたいのですが」  「るっせーよこの窃視症! 大体、覗きマニアのてめーがいて何でこんな事態が発生してんだよ!」  「申し上げましたとおり、紳士協定ゆえです。わたくしの見守り行為は、お嬢様の自室と職場、トイレ浴室以外に限定されております。見境もなく噛み付きにかかる狂犬と一緒にしないでいただきたいものですな」  「さも倫理観のあるノーマルですよみたいな口振りで誇ってんじゃねーよ、覗きも変態行為に変わりねえだろ!」  「愛するお嬢様をいついかなるときでも見守りたいというのは、ごく自然な発想ではないでしょうか。少なくとも、隙あらば歯形をつけたがる貴方よりはノーマルであると認識しております」  と、次々に問題発言を繰り出す二人。――何の因果か知らないが、九十九神にはそれぞれもとの物体の特性に添った特殊性癖が備わっていた。まるでモノだった頃の名残を引きずるように、タオには肌触りに執着するクセが、サクには噛み癖が、マグニには窃視症の性癖がそれぞれ染み付いている。その情動は大抵が持ち主に向けられ、業病のごとく片時も離れることがない。  「まあまあ、その辺にしておきなよ二人とも。ルコさん疲れてるんだし」  肩甲骨の辺りを丹念に揉むタオの一言で、両者ともひとまず矛先を収めることになった。ルコの名前が出ると弱い。当の本人は『ういー』などとオッサンくさいうめき声を上げている。  「出入り業者ってことは、お仕事が終わったら研究所には来ないってことでしょ? それまでしばらくの辛抱だよ。俺たちも仕事場にまで乗り込むわけにはいかないから、頑張ってとしか言えないけど」  「アレのしつこさとウザったさを知らないから、そんな悠長なことが言えるんだ。私はもう、一分一秒たりとも頑張りたくはない」  「おや、ルコさんらしくもない弱気発言」  「まるで私のことなら何でもお見通し、みたいな口振りだな」  「そうだよ。ルコさんのことなら、何だって分かってるから」  仕上げに肩をぐきっと鳴らして、タオによるマッサージは完了。じろりと背後を睨み上げると、何を考えているのやら掴みきれない笑顔を向けられた。こいつのこういう達観したようなところは苦手だ。  全てを――特にルコのことを好意的に解釈する姿勢は、客観主義者にしてみれば『お人よし』に過ぎるのだ。触れたものの水分を優しく吸い取るタオルの気性は、ともすれば歯がゆく生ぬるい。  「ともあれ、気分が重くて仕方がない。こういうときは――」  せめてもの逆襲とばかりに、タオの首に巻かれたタオル地のマフラーに手をかける。相手の反応が返ってくるよりも先に、  「――お前を愛でるに限る」  するり、端を引いてマフラーを剥ぎ取った。  その瞬間、タオの姿は手品のように消え去ってしまった。種も仕掛けもなく、妙な発光や効果音もなく、最初から何もなかったかのように青年の姿が消失する。代わりに、ルコの手には黒犬の刺繍が施された象牙色のバスタオルが現れた。  ――九十九神化能力に関してはいくつかのルールがあるらしく、これもそのうちの一つだった。  彼らは九十九神化した後、元の姿を模したアイテム――ルコは《フェティッシュ》と呼んでいる――を必ず身につけることになっている。タオならばタオル地のマフラー、サクならばハサミをモチーフにしたピアス、マグニなら虫眼鏡型のモノクル、といった具合に。  そして、そのアイテムが体から離れると九十九神化は解かれ、元の物体に戻ってしまう。人間嫌いの無生物フェチなルコにしてみれば九十九神なんてありがた迷惑でしかないのだが、物体状態に戻ったら戻ったで我を忘れて愛を注ぎ込んでしまうため、いつの間にかまた人間の姿に変化してしまう。堂々巡りだ。  他にも、名前を呼ぶことが変化の鍵になる、初めて対面してから何年かの月日を経た物体に対してのみ有効、などなど制約があるが、いかんせんこの能力に気付いてからまだ一年も経っていない。他にどんなルールがあるのか研究の余地がある。  ともあれ――  「ああああああフワフワフカフカぁぁぁぁっ!!」  スイッチ・オン。  元の姿に戻ったタオ、つまりバスタオルを抱き締め、顔をうずめ、身体を丸めてソファの上をゴロンゴロン転がりまわる。仏頂面はとろけるような笑みに豹変して、言葉少なめの不機嫌声は歓喜の叫びに取って代わられた。  「どうしようフカフカすぎる! フワフワすぎる! 柔軟材使った? 使ってません! 使ってないのにこのあられもないフンワリ感、パイル地の一つ一つがいたわりを持って水分を吸収する皮膚感覚! あああ、好き好き大好き分子レベルで愛してるうううう!!」  同僚が見たら気でも狂ったのかと思うだろう。まさに狂態。ソファから転がり落ちてもなお床の上をのた打ち回り、立ち上がったかと思うとバスタオルを抱き締めてくるくるターンしながら野放図に愛を叫び散らす。  他の二人は慣れたもので、まるでその狂態が目に入らないかのごとく振舞っている。サクは爪を噛みながらテレビのリモコンをいじり、マグニはパソコンでの作業に戻る。二人とも口を開かないので、室内にはドタバタキャーキャーの大騒ぎだけが響いていた。  ――ぴんぽーん。  そんな混沌とした状況を打破したのは、来客を告げるインターホンの音。  ピタリ、動きを止めたところで、折り良くタオが青年の姿に戻る。やはりタネも仕掛けも発光も効果音もなく、ルコが瞬きする内に腕の中には白髪の青年の姿が現れていた。こころなしか髪も服もくしゃくしゃで、しかし腑抜け切った幸せ顔で笑っている。鼻血でも出そうなのか、鼻筋を片手で抑えて、  「……夢にまで見た、耳の後ろから首筋にかけての肌……どうしよう、まだドキドキす」  「こんな時間に客?」  息を切らしながら頬を染めるタオをぺいっと打ち棄て、先ほどまでとは別人物の仏頂面で玄関の方に視線を向ける。時刻は20時過ぎ、宅配便や回覧板の可能性は高くない。一軒家なので、先ほど転がりまわっていた騒音への苦情の類もありえない。  「お嬢様、わたくしが出ましょうか」  「いい。あまり他人の前に姿を見せるな」  「失礼いたしました」  マグニの一礼に見送られて、玄関へ向かう。築20年のごく一般的な家屋にはそろそろガタがき始めているらしく、歩くたびに廊下が鳴る。近頃は物騒なので扉を開ける前には必ずチェーンが下りているかを確認しなければならない。その上で鍵を開け、ドアノブをひねり――  「ヤッホーこんばんわルコちゃん! しいて言うなら恋の訪問販売セールスです! いとしの君を追いかけるなら地球一周すらも何のその、いやそんなことするまでもなくとある伝手で手に入れた職員名簿で住所確認したんだけど。やっぱさ、好きな子の私生活って気になるじゃん、あわよくば家に上げてもら」  ばたん。言葉の終わりを待っていたらキリがなさそうだったので、途中で容赦なく扉を閉めた。二つの鍵をしっかりと閉めて、それから扉の内側で冷え切った問いかけを発する。  「ストーカー規正法という法律をご存知ですか?」  「あー、ストーカー、ストーカーね! 愛を請う人と書いてストーカーって読み仮名振るんだよね、知ってる知ってる、そして俺は今まさに愛を請う人!」  「自覚があるなら結構です。即刻この敷地内から立ち去らなければ、警察を呼びますよ」  「いいさ、ルコちゃんが望むならそれもやむなしっつーヤツ? 大丈夫、公僕の方々が到着するまでに俺に恋すればいいからっ、ラスト10秒の奇跡・能瀬マジック伝説を信じればいいよ、女の子の信頼には限界突破しても応えるつもりだから! あ、もしマジに怖くなったら遠慮なく警察とか呼んじゃってー。そん時は大人しく連行されっからさ。それまでは粘るつもりです! まず手始めに――」  「……おいルコ」  どこで声を挟もうかと思案していたところで、背後から剣呑な口調で呼びかけられた。振り返ると、口調とお揃いの剣呑極まりない表情のサクが、ルコを素通りして玄関扉を睨みつけている。視線だけは恐ろしく鋭利なものの、全体的な顔の造作と泣きぼくろのおかげで凶相と言うには及ばない。  「コレがアレか?」  「そう、コレがアレ」  コレがアレで通じるあたり、一年未満とはいえ一つ屋根の下は伊達ではない。  ぺたり、サクの素足が石造りの玄関口を踏む。右手の人差し指と中指を揃えて頭上に振りかぶった時点で何をするかは見当がついたが、ルコは止めるでもなくその後姿を見守った。  「ンの――」  一瞬、世界に満ちる原子の全てが鳴動する。サクは一振りの刃のようにかざした指を、叫びと共に玄関ドアに叩きつけた。  「条例違反野郎がぁぁぁぁっ!!」  ドアを斜めに横切る格好で描かれる軌跡。手袋すら装着していない、ただの指になぞられた玄関ドアが――  音もなく、真っ二つになった。  顕現した九十九神の持つ異能。人間の上を行く身体能力に加え、彼らにはそれぞれの原型のコンセプトに見合った能力が一つずつ宿っているらしい。  工作ハサミの九十九神であるサクの場合は『切り裂く』能力だった。揃えた指先で触れたものを意のままに切断する、まさに種も仕掛けもない魔法。どうやら分子間力に作用して物質を切断しているようだが、詳しい原理はいまだルコにも解明できていない。  科学者としては不本意ながら、『とりあえず便利な不思議能力』といういい加減な理解で納得している。  右上と左下の部分に分かれたドアの上部分を蹴り破り、サクが戸外に飛び出していく。運の良いことに、敵は始めからドアからある程度の距離を取っていたようだった。後ずさる隙すら与えず更に踏み込み、今度は顔辺りを狙って指先を真横に薙ぎ払う。  「うわ、わっ!」  能瀬は上体を後ろにそらして紙一重で指先を回避。逃げ遅れた髪の一房が不可視の刃に持っていかれ、無理な体勢が祟ってか、そのまま尻餅をつく格好で地面に倒れこんだ。  引きつり笑顔で見上げた先には、玄関ポーチの明かりを背にして仁王立ちになる青少年の姿があった。彼の位置からは逆光で表情がよく見えないものの、こんなもの見なくても雰囲気で分かる。  「…………えーっと、もしかして、さっきのよけてなかったら前髪パッツンになってた?」  「前髪じゃなくて、耳の半分くらいは持ってくつもりだったんだけどな」  持ち前の饒舌さはすっかり鳴りを潜めていた。へたり込んだまま何とか笑顔だけでも回復しようと努力している内に、ハサミの化身が一歩、間合いを詰める。揃えていた右手の人差し指と中指をくっつけたり離したり、チョキチョキとハサミのジェスチャーを繰り返しながら、  「にしても、なかなかの《刃》ごたえだった。今度髪切らせろよ……丸坊主になるまで刻んでやっから」  「いやいや、俺行きつけの美容室的なものあるし、丸坊主はちょっとストイックすぎて俺には似合わない予感だし、っていうか刻むって髪のことだよね? あくまで頭髪のことを言ってんだよね? 空気読んだ上であえて言わせてもらうと、なんか髪じゃなくて俺の身体を細切れの肉片にしてやろうって殺気をひしひしと感じるんだけど」  「ご明察」  じょきん!と音が聞こえてきそうな勢いで手鋏を閉じ、揃えた指先を振り上げたその時。  「ストーカーへの制裁の前に、まずは考えナシに壊したドアの修理をしろ」  これまで事の成り行きを無表情に見守っていたルコが声をかける。サクの《刃》は能瀬の肩口あたりでピタリと止まった。何も切り裂くことなく。  「ドアの修理なんていつでもできんだろ! この犯罪者にヤキ入れんのは今しかねえ」  「殺傷行為も立派な犯罪だ。更に言うなら告訴もされていないのに犯罪者呼ばわりは名誉毀損罪」  「甘いこと抜かしやがって、だからルコは危機感がねえっつーんだよ!」  「その足りない危機感をお前に補ってもらう筋合いはない」  冷徹に、何の感慨もなく告げられた言葉に、サクは身体をすくめるようにして身を引いた。苦々しさが顔ににじみ出ている。  「……わぁったよ」  「よろしい。私はこの人を追い払っておくから、ドアの応急処置だけしておくように。……マグニ、黙って覗いてるだけなら手伝ってやれ」  廊下の先を振り返ると、いつからそこにいたのか、片眼鏡の若紳士が顔半分をリビングから出してこっちを見ていた。大げさな仕草で受諾の一礼をした後、サクに対する皮肉を口ずさみながら扉の元へ歩み寄る。サクはサクで何かしら喚いていると、リビングからのんびりとタオが出てきた。  不可抗力とはいえ、よく知りもしない相手の前に人外三人が揃ってしまった。しかもそのうち一人は妙な力で扉を切り裂く場面を見られている。マズいな、と能瀬に視線を向けると……  「あー、マジに死ぬかと思った」  たったそれだけ呟いて立ち上がり、スーツの土を払ってため息をつく。  自分ひとりで住んでいることになっている家から男が3人も出てきたことにも、先ほどのサクの異能にも、ルコの態度にも、何一つ疑問の声を上げることなく。半殺しにされかけたせいで青ざめていた顔色も元に戻りつつある。  まるで、最初から何もかも知っていたかのように。  ――名前を言い当てられた時といい、どことなく得体が知れない。ヘラヘラ笑う顔の向こう側には何かある。だとすれば、ルコに近づくのにも事情があるのかもしれない。  「それで……何の用でしたか、能瀬さん」  とりあえず、その辺りから探りを入れてみることにした。能瀬は嬉しそうに身振り手振りを加え、  「そうそう、ここまで来て得るものも失うものもなくプラマイゼロで帰るワケにはいかねーから! 俺って意外と生産的な男だからさー。危うく命失って帰れなくなるとこだったけど、それはそれ、愛に試練はつき物だよねっ。障害があるほど燃えるっつーヤツ? ってかやっぱコレってストーキング行為だよね、自覚はあるんだけどこうでもしないとルコちゃん話聞いてくんないだろうなーって」  「話は聞きますから、単刀直入にお願いします」  気がつけば、またしても『話を聞く』などと相手の望むような言葉を口にしていた。巧妙に誘導されて言質を取られた。いくつもの無駄な言葉の山に、最も重要な言葉を紛れ込ませる。それがこの男の手口だと今更ながら気付くが、もう遅い。  「じゃあ、お言葉に甘えて単刀直入快刀乱麻に申し上げましょうかね、っと」  一歩二歩と距離を縮める。間近で対面したところで、能瀬はいきなりその場に片膝を突いた。西洋の騎士、それも芝居の中に登場するような演出過多な仕草で片手を胸に当て、片手をルコに向けて広げ、満面の笑みで謳い上げる。  「愚か者めとお笑いください。私は恋に踊らされる道化師、一目見た瞬間から貴方に心を奪われました。私の愛に応えてはくださいませんか、辻神瑠子様?」  「要するに?」  「……あーもう、カッコつけた意味ないじゃん……」  苦い顔で笑って、能瀬は大仰な構えを解いた。代わりにごくフランクな身振りと口調で言葉を変える。  「俺はルコちゃんのことが好き、なのでルコちゃんも俺のことを好きになってください、ってこと」  「断る」  返事は一瞬、たったの4音節。相手の表情は変わらない。短い言葉で聞こえなかったのだろうか、今度は多少長めの返答を。  「私は貴方に毛ほどの興味もない。愛されようが憎まれようが、貴方が人間である以上は私の興味の範疇外だ。好きと宣言されても、何かを変えるつもりはない」  「……ああ、こりゃ相当に病根は深そだね」  病根? つい数日前に出会ったばかりなのに、知った風な口振りに聞こえる。特に、ルコの特殊な性癖に関して。まだボロは出していなかったはずだ、一体どこで知ったのか?  フられた直後だというのに肩一つ落とさないこの男。ここへ来て、『何かある』という予感が明確な予測になる。それも、あまり良くない予測だ。  無意識の内に身構えるルコの様子を見て、能瀬も悟ったようだった。悪戯がバレた子供のように肩を落としてため息をつく。  「ある程度の覚悟はしてたけど、まさかここまで頑固だとはねー。そりゃ数日間口説き続けても仕方ないか。ここまで手ごわい相手久々だよマジで。そりゃ《閣下》も俺に丸投げするわ。結構自信あったんだけどなー、3日で口説き落としてやるぜ!って大見得切ってたっつーのに」  「……どういうこと?」  「ああ、別にルコちゃんのこと好きでもないのにたぶらかそうとしたとか、そういうんじゃないよ? 俺仕事とプライベートがっちり癒着させるタイプだから、嫌いだったらもっと別の手から攻めるつもりだったし。地球上の女の子は全員好きなんだけど、やっぱタイプとか好みとかそんなんはあるつもりだし」  「だから、どういうつもりで――」  「まあまあ、戸惑い苛立ちごもっとも。けど簡単に説明するワケにはいかない事情があるからさ、とりあえず家に上げてくんない? お茶とかは結構だから」  そんなつもりはない、二度と姿を見せるな。それだけ告げて追い返そうとしていたところへ、決定的な一言が降ってきた。  「――そこにいる、3人の九十九神さんたちも交えて、さ」  目を見開いて振り返る。ドアの応急処置を終えた3人が、それぞれ心配そうな視線をこちらへ投げかけていた。      「ざっっっけんな、まさにストーカーそのものじゃねえかそんなもん!」  説明を一通り聞いて、とうとう堪忍袋の緒が切れたサクが能瀬の胸倉に掴みかかった。これでも話を最後まで聞けたのは褒めてやるべきだろう。能瀬はリビングのソファから立ち上がりもせず、甘んじてその手を受け入れた。  「たしかに、これは笑って済ませられる話じゃないね」  「四六時中監視とは、穏やかではありませんな」  他の2人も口々に呟く。能瀬はその場の全員に視線を一巡させてから、重く湿った眼差しで肩をすくめた。  「おっしゃるとおり。返す言葉もございません。そりゃそうだよね、世界規模で女の子一人つけ回してんだから、人権問題や倫理観どこ行ったっつー話だよね。けど、そうせざるを得ない状況にあるってことも理解してもらえた?」  家族構成や来歴といったルコ自身のプロフィールに始まり、彼女の特異体質――《AML》と名づけられているらしい――の詳細や、タオたち九十九神の正体、彼女らが置かれている状況や、《AML》によってもたらされるであろう数々の弊害、などなど。  正直、よく調べてあると舌を巻いた。中にはルコ自身も知らない情報も含まれていた。特に世界各国の機関に常時見張られているだなんて夢にも思わなかったので、それなりにショックだ。ただし他人の目など監視カメラのレンズに劣ると断言できる彼女には、それ以上の感慨は沸いてこない。せいぜいが『鬱陶しいな』と思う程度だった。  それよりも問題なのは、今まで特に考えもなく使ってきた《AML》が様々な危険性を孕んでいるということだ。能瀬が読み上げた書類に記されていた可能性――人口問題、霊的バランス崩壊、九十九神による人類への反乱、政治的・軍事的・外交的不和、現存のあらゆるシステムの破綻。さすがに世界規模で研究されているだけあって、どれもこれも『そんなことはありえない』と感情論で切って棄てられない程の説得力があった。  能瀬の一言に毒気を抜かれたサクが、渋々胸倉から手を放す。やりきれない怒りの矛先は次にマグニに向けられた。  「おい覗きマニア、てめーがいてどうしてこのザマなんだよ、その《千里眼》は飾りかコラ!?」  「何をおっしゃいます、無論気付いていましたとも」  「だから――あァ? 何だって?」  突っかかられても顔色一つ変えないマグニは、涼しげに後を続ける。  「お嬢様を監視するものが複数存在するという事実は、私も察知しておりました。尾行者や監視カメラが至るところでこちらを見ておりましたので。日々お嬢様を観察させていただいている以上、気付かない方がどうかしている」  「じゃあ何でそのまま放っといたんだよ、警告するなり何なりすりゃいいじゃねえか!」  怒り心頭のサクに対して、モノクルの若紳士は怪訝そうに片眉を跳ね上げた。  「わたくし以外にもお嬢様見守り隊が存在するのだなと、それで納得しておりました」  「普通いねえよ! 何スルっと納得してやがる、いいかそういうのはノーマルじゃねえ、そろそろおかしいって自覚しろよ!」  「お嬢様がご不快に思われると察することができなかった非は認めましょう。ですが、それとこれとは話が別です」  「非まみれじゃねえか、てめーがこんなんだから――」  「黙って。まだ話は終わってない」  ぴしゃりと言い捨てられるなり舌鋒を収めるあたり、もはや条件反射のようなものなのだろう。やっと二人が静かになったのを見計らって、ルコは改めて能瀬に視線を向けた。  「結局、貴方は何者なんだ?」  「ごめんごめん、そうだよね、まだ正式な自己紹介してなかったっけ。こーいうものです」  そっとテーブルに置かれたのは、何の面白みもない一般的な名刺だった。所属と名前、電話番号とメールアドレスが書いてある。拾い上げてざっと目を通し、  「異端現象対策管理局・対策執行部・交渉課《砂原班》……?」  とりあえず、一番気になったところを読み上げてみた。  「そ、異端現象対策管理局・対策執行部・交渉課《砂原班》ってのが俺の正式な所属。行堂科技研の出入り業者っつーのはホントだけどね。要するに、この時代のこの世界で《ワケワカンナイ》とされてる存在や現象に対応するための公的機関。超常現象とかあるじゃん、アレだよアレ。一般公開はされてないけど、公務員の一種。んで実際にそういう現象に接触する実働部隊の中でも、話し合いで何とかしてやるぜってのが交渉課《砂原班》。砂原ってのがウチの上司ね。《ワケワカンナイ》現象と対話して説き伏せるのが俺の仕事ってワケ」  ペラペラと流暢に説明する話し振りは、いきなりそんな特殊な機関の説明をされて戸惑うルコにも分かりやすかった。おそらく色々なところで説明し慣れているのだろう、突っ込みどころは多々あるものの、理解はできた。  「次。その意味不明な公的機関の構成員である貴方が、私を口説き落とそうとまとわりついてきた理由は?」  「お、いかにも仕事できそうな切り替えの速さだねっ、そういうところも好きだよ!」  「質問に答えて」  「はいはーい。ラブコールは後からたっぷりね。――《AML》能力の危険性はある程度理解してもらえたものとして、だとしたらそれをどうするかってのが次の課題。大抵の機関は今のところ様子見の姿勢らしいよ、牽制しあってるっつーのもあるし。けど中には危険だからツブそう、いや研究や軍事利用したいから拉致っちゃえっていう機関もあんのね。怖い怖い、どっちが危険だっつの。気をつけてね、目立った動きは取ってないけど、裏で色々と暗躍してるみたいだから」  「そんな情勢の中で、貴方の機関が私に接触したのはなぜだ?」  「それねー。いや、ウチの上司、身内贔屓みたいに聞こえるかもしんないんだけど、かなりデキる人でさ、わざわざ各機関回って話つけてきたらしいんだよ。『この案件はウチが処理する、貴方がたはしばらく見て見ぬフリをしていただければ結構』ってね。もちろん餌も愛想も振りまいてさ。ってことで、この案件の期限が来るまではウチ以外ノータッチ。その期限内に俺が遂行しなきゃいけないのが――」  一旦切って、息継ぎをする。無節操にペラペラ喋っているように聞こえるが、この男は効果的にイニシアチブを取る対話の仕方を心得ている。交渉課の肩書きは伊達ではないらしい。わずかに目を伏せて笑うと、人懐こさは人を食ったような印象に摩り替わる。視線を上げて、密談の声音で口を開いた。  「――辻神瑠子、君に恋に落ちてもらうってコト」  「……は?」  《AML》と何の関係があるのかサッパリ分からない。疑問を投げかけるより先に追加説明がなされた。  「このまま放っておくわけにもいかない、もちろん無理矢理にどうこうするわけにもいかない。だったら発動要因を取り去ろうっていうのが今回の作戦の趣旨ね。ウチが求めることは唯一つ――変態治せ、モノに萌えるな。真っ当な恋の一つでもしたら、その異常な物体フェチも改善されるだろう。《AML》の発動要因である物体への愛がヒトに向けられれば、《AML》能力は消去されたも同然。だったらいっちょ口説き落としてこい、女の子相手の交渉だったらお手の物だろ能瀬詠彦。……以上、作戦概要」  しばらくの間、開いた口が塞がらなかった。何ていい加減でアバウトな。とてもじゃないが、いち国家の公的機関が考え付くような作戦ではない。4人雁首そろえて固まっていると、案の定照れくさそうに頭をかく能瀬。  「ま、作戦内容は『ヒトに興味を向けさせろ』だったんだけど。『俺に』『恋してもらおう』っていうのはオリジナル発想ね。俺と付き合って治ったら一番じゃん。あ、でも口説き文句は全部本気だから! 仕事絡んでなくても多分口説いてたと思うよ。口先ばっかりっていう自覚はあるけど、嘘だけはつかないのが信条だからさ」  「……じょうだんじゃない」  「ん?」  ようやく搾り出した声はかすれていて小さくて、相手には届かない。が、次に発した声音は十二分以上に相手に届くような大声だった。  「「「「冗談じゃない!」」」」  気付けば、4人で和音を奏でていた。  「モノを愛さずヒトを愛せ? しかもお前を? 冗談にしては笑えない。たとえどんな冗談が来ようとも、笑う気にもなれない。モノへの愛を取り上げられるなんて、そんな理不尽な要求に従えるか」  常よりもわずかに早い口調のルコ。  「アホ抜かしてんじゃねーよ! てめーごときに『ルコから愛され権』ゆずり渡してたまるか! 大体動機が不純なんだよ!」  サクは完全に頭に血が上っているらしく、興奮のせいで目尻が赤い。  「ヒトの情を理解しようとはいたしませんが、その程度の事情で愛情の対象を変更できるものではございませんでしょう。稚拙かつ強引な手法であると言わざるをえませんね」  マグニでさえ、しきりにモノクルの位置を直しながら早口で言い募る。  「うん、それもあるけどさ、実際問題ルコさんから愛されなくなったら、俺たちって――」  ただ、タオだけはいつも通りの穏やかな顔をして、いつも通りにさらりと核心を突く発言をする。  「……元のモノに戻っちゃうよね」  そうだった。持ち主の偏執狂的な愛情で成立している《AML》は、その愛情が消えてしまえば発動しなくなってしまう。だとすれば、彼らの人格も消滅の道を辿るしかない。  「ありゃまあ……けど、それもごもっとも、か」  集中砲火にさらされた能瀬が力なく笑う。この反撃すらも最初から予測していたような落ち着きぶりだ。  「その通り、理不尽でアホで不純で稚拙で強引な要求だと思うよ、我ながら。タオルのお兄さんの言うとおり、九十九神のお三方には消えてもらうしかないし。けどそれが――我々の選択です」  笑みを消し、冷え切った眼差しでその場の全員を眺め、彼は語調をがらりと変えた。  「我々は予測しうるカタストロフィをただ座して待っているわけには行きません。それが何パーセントかの確率で起こりうる以上、何らかの対策が必要です。現状で取れる措置として最も穏便な方法は、辻神瑠子の特殊な性癖を、本人の了承を得た上で改善すること。すなわち《AML》の消去が現状を打開するための急務だと考えられます」  それにしたって。こんなのあんまりだ。納得できない。頭の中に浮かんだ文句は、しかしなかなか言葉にはなってくれない。混乱しているせいもあるが、何より能瀬の口振りがそれを許さなかった。不思議なことに、絶え間なくベラベラと喋り続けていたときよりも隙がない。  「我々が二の足を踏んでいる内に、想定されていた災厄のいずれかが発生するかもしれない。そうでなくとも、交渉期限が切れれば各機関からの監視も再開し、貴方がたは背中をつけ回される生活に戻る。我々のように《AML》の消去だけを考える穏健派は少数です。軍事利用や研究目的で拉致敢行を狙う機関も多い。最悪の過激派の中には辻神瑠子そのものの抹殺を企てる所もあります」  今更ながら、すうっと背筋が冷えていった。この一年弱、ずっと誰かに見張られていた。そして中には殺意を宿した視線も含まれていた。怖いというよりは不気味だった。  誰も、何も言えなかった。今そこにある危機を突きつけられては、もはや感情論で反抗する気にもなれない。こういう話の流れを作ったのは能瀬の力量だが、語られた現実はそれ以上にシビアで、有無を言わせぬ破壊力を有していた。  二の句を継ぐ能瀬の表情は、余命宣告を下す医師と良く似ていた。  「……猶予は残されていない。だからこそ我々は選択をしました。辻神瑠子の愛情と、3体の九十九神の犠牲を、決断しました」  「……だからといって、その決断を私たちにも強いるのか」  やっとで口に出せた言葉は、思っていたほど震えてはいなかった。それだけが救いだ。目は合わせられないが、その分しっかり息を吸い込んで、  「こんなこと、はいそうですかと手軽に決められるわけがない」  「その点はお察しします。猶予はありませんが、ご一考いただく程度の時間は残されていますので、良い返事をお待ちしております」  潮時だと判断したのか、ソファから立ち上がり軽い辞儀をする能瀬。顔を上げたときにはもう、出会ったときと同じ軽薄な笑みが戻ってきていた。  「あー、慣れない喋り方すると疲れるわーマジで。とりまこっちの手の内は晒し終えたから、あとはルコちゃんたちの判断待ちね。俺と付き合ってくれるかどうかの方は先延ばしでもいいから、ウチからの要請受け入れる気があるかどうかだけ返事ちょうだい。待ってるからねー」  ヒラヒラと手を振って4人に背を向け、彼は至極浮ついた歩調でリビングを後にした。遠く玄関口から、壊れた扉が開け閉めされる音が聞こえる。  大型の嵐が去った後、辻神家にはなんとも言えない静けさが居座った。誰一人、何と言っていいか分からない。各々苦い思いを噛み締めて、唐突に告げられた事実の数々に思いをめぐらせる。  「――……一体、どうしろと?」  途方に暮れるルコの言葉に、答えるモノはない。  世界は今日も無慈悲に回っている。         + + + + +      眠れぬ夜を過ごした翌日。  心底気が進まなかったが、ルコはいつも通りに職場に向かった。しばらくの間、異端管理局以外からの監視は解かれるという話だったが、道を歩いていてもバスに乗っていても落ち着かない。意識した途端、周囲の空気全てが肌にまとわりつくような不快感が湧き上がる。ルコのように人目に無頓着な性質でもなければ、一歩も外に出られなくなっていただろう。  通常通りに仕事をこなし、気付けば定時になっていた。園部や坂崎は何も知らされていないらしく、常と同じようにたわ言を口にしてはふざけあっていた。適当に付き合って今日の業務内容をまとめ、坂崎に提出して研究所を出る。  来た道と同じような不快感に閉口しながら帰路を辿り、  「……ただいま」  「おっかえりールコちゃん! お仕事お疲れ様、イイよね仕事に生きる女の子って! ただでさえ眩しいのに更に輝き倍率ドーンみたいな? 帰り道ヘンなのに声かけられなかった? ほら見た目可愛らしい女子高生、ヘタすると女子中学生じゃん、道ですれ違ったらとりあえず条件反射でお茶に誘いたくなるのが男ってもんじゃん、それなのにまっすぐ帰ってこれたことに拍手! そしてそんなルコちゃんを真っ先に出迎えられた俺は幸せ、超幸せ!」  まだ壊れたままの自宅玄関のドアを開けるなり、昨日聞いたばかりの声が飛び込んできた。反射的に扉を閉めて目の前の現実を遮断しようとするが、待て、ここは自分の家だ。素早く玄関に入って、後ろ手にドアを閉めながら、  「……考える時間はくれるんじゃなかったのか?」  両手を広げて玄関先で待ち構えていた能瀬の笑顔を振り切るように、やや乱暴な仕草で靴を脱ぎ、廊下を行く。それに追いすがりながら、  「そりゃあ考えてもらうさ、じっくり心行くまでね。けどこっちとしても期限までギリだから、何もしないワケにもいかないんだよねコレが。ってコトで、俺は俺なりに作戦遂行させてもらうから、その間に考えてもらおうと決めました、勝手に」  「こんなうざったい状況下でじっくり心行くまで考えられるか」  「俺の愛の囁きはBGMか何かだと思って!」  「無理」  リビングに入ると、ダイニングテーブルの上にはカップが二客置いてあった。サクとマグニの姿はない。タオ一人だけが丁度椅子から立ち上がるところだった。  「おかえりなさい、ルコさ――」  「待て。お座り。おあずけ」  間合いを詰めてルコを抱き締めにかかろうとしたので、背伸びをしてぐいっと額の辺りを押しやった。残念そうなうめき声を上げて命令の通り両腕を下すタオ。その隙に精一杯不機嫌そうな詰め寄り、  「……なぜ上げた。あまつさえなぜお茶まで出す」  「だってほら、一応はお客さんじゃない。家主のルコさんの指示なしに追い返せないよ」  「お前はそういう正論で、強盗がやってきてももてなすのか?」  「能勢さんは強盗じゃないし、強盗はお客さんじゃない。だから能勢さんはお客さん。ほらね?」  「ほらねじゃない。全面的に納得できない」  「まあまあお二人さん、上がっちゃったもんは仕方ないんだから、落ち着いてお茶でも飲もう」  「お前が言うな」  割って入ってきた能瀬に、仏頂面なりに精一杯の渋面を向ける。それなりに効果はあった模様で、招かれざる客は肩をすくめて引っ込んだ。  「ともかく、私はお前に興味がない。むしろ不愉快だ。用がないのなら帰ってほしい」  「用なら――」  「私の顔を見に来ただとか、私への戯言を並べにきただとか、そういった用は用件とは認めない」  「つれないなー。そういうクールでストイックなところも、」  「帰れ」  有無を言わせず玄関方面を指差して告げる。この男と会話するコツが、遅ればせながらつかめてきた。わざわざ言葉の終わりを待たない。遠慮も容赦もなく途中で遮って口を挟むべし。  「じゃあ、今日のところは帰るけど……お土産だけ置いてくねー」  「お土産?」  思わず聞き返してしまってから、いやな予感がじんわりとこみ上げてきた。能瀬は部屋の隅に置いてあったミカン箱を抱えてくる。中に重いものがみっしりと詰まっているらしく、箱を吊る腕が震えていた。  「はいコレ!」  どすん!とテーブルの上に置かれた箱を開くと、中には隙間なく本が詰まっていた。お揃いの背表紙が何種類か、文庫本よりは大判でそれなりに厚みもある。  手に取ってみる。薄い表紙には妙にきらめかしく描写された男女の絵が書いてあり、本の内容は全て同じ絵柄のモノクロ印刷よって構成されているらしい。馴染みがないのでよく分からないが、世間一般で言うところのマンガというやつだろう。  特筆すべきは、ほぼ全編に渡って立ち込める甘ったるい雰囲気だった。花やハート、よく分からないフワフワしたものが背景に散りばめられ、登場人物は引っ付いたり離れたり、顔を赤くしたり涙ぐんだりと忙しい。全員が心臓疾病でも抱えているのだろうか、心拍音が事細かに書き込まれていた。  そんなマンガがミカン箱一杯。気の遠くなる光景だ。  「……説明を要求する」  「お任せあれー。要はテキストだよ、恋のレッスン開始のためのさ!」  恋のレッスン。これもまたむずがゆくて気が遠くなりそうな言葉だ。  「恋のアレやコレやをビタ一文知らないルコちゃんのために、初心者向けの分かりやすいテキストを厳選してきましたっ。まずはマンガでかるーく概要を掴んどいてもらおうかと思ってさ。いやー、最近の恋愛マンガってすげーんだよ、純愛系イロモノ系ドロドロ系、冒険活劇仕立てにサスペンスホラー仕立て、選り取りみどり。あんまりブっ飛んだ内容だと参考になんないから、オーソドックスなベタ甘マンガを数シリーズ用意してみましたー。俺セレクションだけど、経費で落ちるから気持ちよく大人買いしてきたよ、ほらほら褒めて褒めて!」  「まさかとは思うが、これから先こんな教材が次々ウチに持ち込まれるのか?」  「いやいやいや、ないないない。初回はテキストのみ、次回は座学で俺の講義を聞いてもらって、しばらくしたら実習編。そんなに時間取れないから、結構タイトなカリキュラムになるんだけど。ってことで、コレ全部読んで感想聞かせてっつーことで」  「コレを全部。しかも感想だと?」  「そ。名作揃いだから、読み終えた後にはきっと恋がしたくなるはずっ! ――ってことで、お邪魔しましたー」  「ちょっと待て、不要なので全部引き取って……」  呼び止める間もなく、能瀬はルコの視界から退散してしまった。後に残されたテキストの山を前にするとどっと疲れが出てくる。ため息をついてうなだれた。  「まったく……おい、お前が読んでどうする」  いつの間にやらタオが一冊目を開き、ペラペラとページをめくっていた。  「読んだことないからちょっと気になって。俺には面白いかどうかは分からないけど」  当然ながら、九十九神化してまだ一年足らずの彼にとっては初めて触れるものだろう。テレビドラマなどはたまに見ているようだが、マンガや雑誌の類を一切置いていない辻神家では初のマンガ体験だ。真剣に読んでいるのかいないのか、のほほんとページを繰るタオに向けて文句を垂れるルコ。  「もう一度聞くが、なぜ家に上げた? 口先で丸め込まれたのか?」  「さあねえ。丸め込まれたのかどうなのか、俺には分からないよ。あの人の肌触りも悪くなさそうだったけど、まだ触ってないからたぶらかされたわけでもないし」  「じゃあどうして」  「能瀬さんの言うことには一理も二理もあるからね。俺たちが存在しているせいで世界が危なくなるっていうのは嘘じゃないだろうし、ルコさん自身に危険が降りかかるっていうのも聞き過ごせない。もちろん全部に納得できるわけじゃないけど、話くらいは聞いておくべきかと思ってさ。それに――」  マンガ本を開いたままテーブルの上に伏せて、やはり何を考えているのかよく分からないとぼけた笑顔でルコを見やる。  「能瀬さんは、ちゃんとルコさんのことを考えてくれてるから。監視されてるってこと知らせてくれたし、今はそれを止めてくれてる。このミカン箱だって、すごく重そうだったのに頑張って運んでくれた。『手伝いましょうか?』って言っても『これは俺の作戦行動だから手出し無用』だって」  と、愉快そうに思い出し笑いをして、伏せていたマンガをまた読み始める。  ――その通りだった。他にも強引なやり方はいくらでもあるだろうに、わざわざルコに全ての真実を告げて、こんな回りくどいやり方を選んでくれたのは彼の好意に他ならない。  能瀬は敵ではない。敵ではないが――気に食わない。  「だから、ちょっとくらい能瀬さんたちの思惑に乗ってもいいんじゃないかなって、そう思うんだ」  「……お前の正論は、時々嫌いだ」  不貞腐れたような無表情で、ルコは別シリーズのマンガの第一巻を手に取った。  バックに花が散る中で、一組の男女が手を取り合って見詰め合っている。  この紙質は好きになれそうにないな、というのが最初で最後の印象だった。      その次の日も、招かれざる客はやってきた。  今日はリビングでテレビの前に陣取っている。DVDプレイヤーだろうか、見慣れない機械の配線をいじりながら帰宅したルコを笑顔で迎えてくれた。  「おかえりルコちゃん! 今日もチャーミングな無表情だね、一日一回ルコちゃんの顔見ないと――」  この男との会話の仕方は既に会得している。スタスタと歩み寄り、声を遮る格好で数枚の紙切れを突きつけた。面食らう能瀬に向けて、  「読書感想文」  それだけ告げて、今時小学生くらいしか使用しない原稿用紙を無理矢理に押し付ける。  「って、マジにアレ全部読んだの!? 一日で!?」  「一晩で。速読くらいできる。今日できることは明日に回さない主義だ」  「にしたって、よくぞまあ……じゃあ、早速読ませてもらいましょうかねっと」  フローリングに座り込んだまま原稿用紙をめくっていく能瀬。一枚目で早くも顔が引きつっていた。二枚目、三枚目で徐々に引きつり度が増し、最後の四枚目を読み終えた時点ですっかり言葉を失くし、  「…………ええっと、コレって?」  「読書感想文」  「『紙質は中の下。コストを鑑みて改善すべき』『大豆インク使用には好感が持てる』『!マークの登場回数は通算1079回』――あの、内容、は?」  「内容だろう。製本はどれも同規格だったからな、通読するのは面倒だったが、評価は簡単だった」  「いや、そうじゃなくて」  「紙面の諸事情には興味がない。だが話の流れはきちんと覚えている。男と女が出会って同じ学校で生活し、弁当を投げつけたりタオルを投げつけたりバスケットボールを投げつけたり悪党を投げつけたりしているうちに心拍数が上がる回数が増えていき、それをそれぞれ自己申告した後にものを投げつける回数が増え、男が交通事故に遭い意識不明の重篤状態に陥り、気がついたら女と婚姻関係を結ばされていた。以上」  「……すげえ、すげえよルコちゃん。そこまで歪んだ解釈ができるとは……いや、ある意味正しい?」  滔々と述べるルコを前に、能瀬は頭を抱えてうなった。  「やっぱ安易にテキストだけ与えて分かってもらおうってのは、ちょっと無理があったか……ここまで手ごわいとは」  「何か問題でも?」  「うん、大丈夫。問題だらけっていうか問題の山しか残されてないけど、これを何とかすんのが俺の使命だから! ルコちゃん安心して、今日から俺の講義の始まり始まりだし、これで何もかも一発解決!」  「今日の教材は?」  ダイニングテーブルに3客のティーカップを用意していたタオが、楽しげにDVD機器を覗き込む。これも辻神家にはなかったものなので、おそらく能瀬の持ち込みだろう。経費で落としたに違いない。隣に積んだDVDソフトの山から一本を抜き取り、軽く振りながら応じる能瀬。  「ベッタベタな王道ラブストーリー映画鑑賞会。どれもこれも地上波で3回くらい再放送されてる超メジャーなヤツを取り揃えてみましたー。今回は俺もついてるから、間違った解釈をされる心配もナシ!」  「これを見ればいいのか」  テーブルから自分のカップを取って、テレビ画面がよく見えるソファに座り込むルコ。プレイヤーにディスクを入れていた能瀬がきょとんとした顔で振り返る。  「あれ? 今日は妙に素直くない? 出てけとか帰れとか消えろとか二度と視界に入ってくんなこのストーカー野郎とか言わないし」  「最後のは私じゃない、サクのセリフだ。……ちょっと、気が変わった」  昨日のタオとのやり取りには一切触れず、代わりにカップの中身に口をつける。紅茶のタンニン成分が舌に心地良く染みた。二三度大きく瞬きをしてから、能瀬の表情が一変する。満面の笑みを浮かべて立ち上がり、リモコン片手にルコの隣へドサリと腰を下して、  「うん、いいねいいね、事情は知らないけどすごくいい! 昨日までのルコちゃんと比べてみればコペルニクス的大転換だよ、っつーか拍手に拍手を重ねても足りない歴史的な変化、みたいな。そうそう、こうやって一歩ずつ態度を軟化させていくのが恋愛の王道ね、その調子で俺のことも受け入れてみよっか。さあ心を開いて!」  「調子に乗るな」  平板な声音で言い捨てて、即座に能瀬との距離を取る。ソファの端と端に分かれて座っていると、カップを二つ手にしたタオが何食わぬ顔でその間に座った。そのうち一つを能瀬に手渡し、  「さあ、見よう。たまにテレビで映画やってるけど、全部通して見るの初めてなんだ。能瀬さん解説してくれるんだよね、どういう映画?」  「ああ、ええと、戦争で引き裂かれた男女の悲恋物語で、有名な映画賞を総なめにした傑作、だそう、です」  「なぜ敬語なんだ」  「いや、何となく。男の本能的に『これは大物だ』と思って」  「大物も何も、こいつは単なる私の愛しいバスタオルだ」  「そう、ルコさん専属の愛しいバスタオルだから」  「……さいですか」  どことなく気後れした様子で、能瀬がスタートボタンを押す。  ――一時間後。  「てめ、ルコになんてもん見せてんだよ!」  帰ってくるなりサクが怒鳴り込んできた。丁度一番目の佳境の場面で、画面の中ではうっすらとベッドシーンが展開されている。  「サク、おかえり。ちゃんとティッシュ買ってきた?」  「っじゃねえよタオ! なんでこいつ家に上がりこんでんだ!? っつーか3人揃って何見てんだよ!」  「さっくんおかえりー」  「妙なあだ名つけてんじゃねえよストーカー野郎!」  「私が許可した。何でも『こいのれっすん』の教材だそうだ」  「…………っ!!」  ルコの一言で、追加の罵声は喉の奥に引っ込んだ。眉尻を吊り上げて口をつぐみ、握りこぶしを震わせて能瀬を睨みつけるサク。  結局、ぶら下げていたビニール袋をダイニングテーブルに放り出し、乱暴な足取りでフローリングの上に胡坐をかく。ソファに空きがなかったので、ルコの丁度斜め前辺りに。  「妙なこと吹き込もうとしたら、また強制断髪だから覚えとけよ」  「あ、さっくん仲間はずれがヤだったりして?」  「るせー、ちげえよ!」  ――ところどころに能瀬の解説を挟みつつ、映画は無事スタッフロールに至った。  「さてルコちゃん、感想は? 恋のイロハは飲み込めた?」  「……ときめいた」  「おお、マジに!?」  「ブルーレイというのはここまで画質が良いんだな。手を伸ばせば届きそうだった。届いていたなら、ぜひともあの戦車に触ってみたかった。あの装甲板、きっとたくましい質感だろうな」  「……うん、そんなこったろうと思ったけどさ」      更に次の日もレッスンは続いた。  サクが頑として付き添うというので、ダイニングテーブルの上のカップは四客になった。  「やっぱ実地だよね! 案ずるより生むが易し、百聞は一見にしかず、何事も頭じゃなくて身体で覚えないと!」  「……で?」  頬杖をついて紅茶をすするルコは、もはや能瀬の方を見てすらいない。サクは油断なく能瀬を睨みつけ、タオはマイペースに紅茶に砂糖を入れている。  唐突に立ち上がった能瀬は、薄っぺらい雑誌をテーブルに叩きつけた。音に反応してそちらに視線を向けると、開かれたページの上で原色の文字が踊っていた。『これで完璧!デートの基本』。  「ルコちゃん理詰めだしさ、頭で理解しようとすんのは逆に難しいと見たね俺は。そこで実際にデートへレッツゴーってワケ。けどデートの何たるかなんてまさか知るよしもないだろうと思って、中学生向けの雑誌から特集記事をチョイスしてみました!」  言外に中学生以下だと言われたようなものだが、事実なので特に異論はない。  「これでサラっと予習しておいて、明日実地研修っつーことで。色々デートプラン考えとくから、ルコちゃんはルコちゃんで明日着る服悩んだりワクワクしすぎて夜眠れなかったり翌朝大慌てで支度したり30分も早く待ち合わせ場所に着いちゃったりしてくれればいいよ」  「……てめーと出かけるルコを、朗らかに送り出せると思うか?」  みし、とサクの手の中のカップがきしむ。カップが割れるのが先か、テーブルをひっくり返すのが先か、あるいは問答無用で能瀬を叩き切るのが先か。睨みつけられた方はどこ吹く風で、教鞭を取る教師さながらに身振り手振りを加えて説き伏せる。  「デートっつったって、中学生向けじゃん。お昼食べて適当にどっか行ってしばらく散歩して、晩御飯前にはバイバイってかるーいノリな。別にホテルでディナーしてそのまま個室に雪崩れ込む、みたいな大人デートじゃねーから安心安心。ま、もし何かの奇跡が働いてチャンスがめぐってきたら、キスくらいはしたいけど」  「キ……!」  殴りかかるまであと何秒か、といった時点で退屈そうにしていたルコが口を開く。  「明日は博物館に出かけようとしていたところだ。ついてきたいならついてくればいい」  「ちょっと待てルコ、何懐柔されてんだよ、気ぃ抜いたらこいつ襲い掛かってくんぞ!?」  「ヤだー、ヒトをケダモノみたいに。さっくんのえっちー」  「んのやろ、体の右と左別々にしてやる! 止めんなタオ!」  「大丈夫だって。こんな時にうってつけの《モノ》がいるじゃない。――マグニ、聞いてた?」  「無論です」  キッチンカウンターの向こうから聞こえてきたテノールボイスに、その場にいた全員が視線を向けた。  一体いつからそこにいたのか、薄暗がりのキッチンにはスーツ姿の若紳士が立っていた。直立不動で。まったく気配もなくいつの間にかそこにいて、事の次第を観察していたらしい。辻神家の3人は慣れたものだが、能瀬は完全に凍り付いていた。  「わたくしも、明日のお嬢様の外出には影ながら同行させていただく所存でした。そこの若者が不埒な行為に及ばないよう、しっかりと見守らせていただきましょう」  「うん、よろしく頼むよ」  「言われずとも」  リビングの明かりを反射したモノクルが、心なしか剣呑に輝いた。  「……勘弁してくれよな」  そして翌日。  待ち合わせ時間キッチリに現れたルコは完全に通勤用の普段着で、ついでにきっかり5m後ろにマグニが付き添っていた。  機械的にランチを平らげ、能瀬を置き去りにして博物館を駆け回り、どこにも寄ることなくまっすぐに帰宅。その間も、マグニは5mの距離感を譲らない。  ルコを家に送り届けた能瀬は、玄関先でガックリと膝を突いた。         + + + + +      そんな日々が続いたある日のこと。  仕事帰りのルコはわざと帰宅コースを変えて、遠回りの道を辿っていた。家に帰るとまたあの男がいると思うと、足取りも鈍るというものだ。  消極的に了承はしたものの、やはりわずらわしかった。生まれた時からの人間嫌いと物体好きが、一朝一夕のレッスンで矯正できるはずがない。  一部例外はあるものの、一線を引いて必要以上に踏み込んでこない九十九神たちとは違って、能瀬はズカズカとルコの中に入り込もうとする。注ぎ込まれる感情はどうしても噛み砕くことができず、どんどんお腹の中にたまって気持ちを重くさせる。投げられるばかりで投げ返すことのない、一方的なキャッチボールだ。  何よりも、能瀬の登場によって九十九神たちに微妙な変化が訪れた。今までつかず離れずの関係だったはずが、間に割り込みが入ったせいで逆に奇妙な引力が生じてしまったのだ。ガードのためにルコとの距離を詰め、結果的に『人間』関係が出来上がりつつある。  彼女が愛しているのは、モノとしての彼らだったのに。そこには気遣いだの警戒だの、そういった感情は不要だったはずなのに。『好き』と『嫌い』さえあればよかったのに。  ――人知れず思案しながら、ひと気のない住宅街の路地を歩く。夕暮れ時の街角は微妙に薄暗く、ぽつりぽつりと街灯がともり始めていた。  長い瞬きを繰り返す街灯の足元に、ゴミ捨て場を発見する。収集時間はとうに過ぎているので、置いてあるのは回収から弾かれたか、時間をわきまえない誰かによって投棄されたものだけだ。それでも世の中マナーを無視する人間が多いのか、小さなゴミの山ができている。  何気なくゴミ捨て場の前を通り過ぎようとしていたルコの足が止まる。  「……うわ、」  そこには骨董品の山があった。無造作に棄てられているあたり美術的な価値は低いのだろう、ごく庶民的な古道具の数々が積み上げられている。ちゃぶ台、ダイヤル式チャンネルのブラウン管テレビ、ガス燈、置時計、木彫りの像、湯のみ……  その山の天辺にちょこんと置かれた一品に、飛び掛るように手を伸ばす。目をきらめかせて頬を上気させる表情はモノを愛でる時のそれで、完全にスイッチ・オンの状態だった。  息を乱して両手に捧げ持つ、一本のキセル。相当に古いものらしく、鉄部分にはさびが浮かび、木製のパーツは干からびてしまっている。実際に使用されていたのだろう、受け口にはススがこびりついていたが、西洋風の彫り込みはまだ充分見栄えがして、丁寧に磨けばさぞかし良い味が出ることだろう。  「掘り出し物……! 質感は無骨なのに、なんて繊細な細工……! いい具合に古びてて渋みがあるし、木材も良いの使ってるし、何より和洋折衷のデザインが絶妙すぎる……もしかして、文明開化くらいの頃の品? すごい、しかも実用品、こ、これ棄てた人の気持ちが分からない、まったくもって理解できない!」  暮れかけた道すがら、ゴミ山を前に一人で熱弁を振るう若い女。警察か救急車を呼ばれても不思議ではない。が、当人はもちろんそんなことには頓着せず、たった今見つけた逸品を色々な角度から鑑賞するのに忙しい。  「い、いいよね、私が持って帰ってもいいよね? 棄てられてるんだから、ウチのコにしてもいいよね? さび落としウチにあったっけ? ああでもあんまり強力すぎるのはいい具合の渋みまで落とすから、研究所の薬品もらって自分で調合して、あと木製部分はニスを塗って……」  せわしなく呟きながら、ポケットから出したハンカチで大まかな汚れをぬぐおうとする。埃まみれのキセルを傷つけないよう、そっと黄色いハンカチでくるみ――そこで、吸い口の金属部分に掘り込まれている文字を見つけた。明滅する街灯にかざして、何が書いてあるのかを確かめる。  「――『呑助』」  のみすけ、でいいのだろうか。銘にしては変わっている。そもそも、キセルに銘というのも妙な話だ。  まあいっか、とほくほく顔でキセルをポケットに仕舞おうとした、その瞬間。  「お嬢様」  「――っ!?」  いきなり背後から声をかけられて、思わずハンカチごとキセルを取り落としてしまう。これが知らない声だったら悲鳴の一つでも上げていただろう。が、振り返った先には見知った人影があった。  やっと点灯した街灯の下、影法師のように伸びるダークスーツ姿。生真面目そうな面持ちで、かすかに眉間に皺が寄っている。  「……マグニ。紳士協定はどうした?」  完全にいつもの無表情に戻ったルコがそっけなく問いかけると、彼は軽く腰を折って一礼を寄越した。  「職場を出られた後は範疇外です。我ながら出すぎた真似であることは承知しておりますが、常よりもご帰宅が遅いようでしたので、お迎えに上がりました」  辻神瑠子そのものの暗殺を企てている機関もある――能瀬の言葉が頭にあったのだろう、これまで出迎えなんてしたことがなかったというのに。  ――心配されている。そんな感情の機微を悟った途端、ルコは不機嫌になった。傍目には分からない程度に眉をひそめ、足早にゴミ捨て場を後にする。マグニは足音もなく付き従うばかりだった。  「そんなことは頼んでいない。私のことを逐一観察するのが勝手だが、手出し口出しはするな」  「失礼いたしました。ですが、お嬢様に害がないよう見守るというのは、我があるじの意思でございます」  マグニのあるじというのは、ルコの祖父のことだ。洋の東西を問わず骨董品を収集することに精を出していた祖父が、特に気に入っていたのがマグニ――イギリスから仕入れた、とある虫眼鏡だった。幼い頃のルコは祖父の家に行くたびに数々の骨董品を眺め、それが今の彼女の性癖の根源になったと言っても過言ではない。  『大人になったらこれをお前にあげよう』と虫眼鏡を見せてくれた祖父は、それから間もなくして亡くなった。形見分けとして彼女が貰い受けたのが、このマグニだ。  《AML》によって九十九神化した後も、マグニはかたくなに祖父を主と呼んだ。ルコはその孫娘、『お嬢様』という位置づけでかしずかれている。  だからこそ、祖父の遺志を継いでルコを守っているらしいのだが――  それは彼女が嫌うところの、ヒトとしての想いだ。  「それが余計だというんだ。わざわざ《千里眼》まで使って位置特定して迎えに来るな」  「かしこまりました。では以降、そのように」  そう言ったきり、マグニは再び気配を消した。振り返らずに歩いていると、一人っきりで歩いているような気分になる。数歩分の距離を保ったまま、二人は無言で家路を辿った。  ――ハンカチを置き忘れてきたことに気付いたのは、家に帰り着いてからのことだった。      例によって家に上がり込んでいた能瀬のレッスンをかわし、一夜明けて通常通り出勤する道中、ふと昨日の帰宅ルートと同じ道を通ってみた。  ゴミ収集車が来たのか、山と積まれていた骨董品は綺麗サッパリ消え去っていた。  少しだけ、ほんの少しだけ切ない気分になったものの、数歩歩けばそんな感慨も忘れてしまう。  置き去りにしてしまった黄色いハンカチまでなくなっていたのは残念だが、仕方がない。  要らなくなったモノは棄てられる。それだけのことだ。  遠回りをしてしまったので急がなければ、と足を速めて職場に向かった。      新しく始まったプロジェクトの下準備をしているうちに、すっかり遅くなってしまった。  わざわざ遠回りのルートを選ぶでもなく、最短コースで帰っても23時を回るだろう。能瀬がいるかどうかはギリギリのラインだが、来ていたら追い返しても問題ない時間帯。帰ってそのまま風呂に入って寝てしまえばいい。誰とも話すことなく、わずらわしい思いをすることもなく。  今日は遅くなると言ってあるので、当然ながらマグニの出迎えもない。すっかりひと気の失せた夜道を、できる限りの早足で歩く。どこか遠くで犬の遠吠えと救急車のサイレンの音が聞こえるほかに音もなく、深夜に差し掛かった住宅街は静まり返っていた。  能瀬の忠告があるものの、さほど危機感はない。下手をすると、普通の女性が夜道を歩く程度の心構えすら。  自己愛すらモノとしての自己にしか向けていない――上司である坂崎の言は的を射ていた。彼女にしてみれば、事故や犯罪に巻き込まれるのは『痛い思いをするから』『色々と面倒だから』避けたい、その程度のことだ。  が、闇を忌避する本能までは自由にできない。自然、可能な限りの早足になって、アスファルトの街路に靴音を刻んでいく。あの角を曲がれば、自宅までは一直線だ。  「――ちょいと」  角を曲がってすぐのところで、急に声をかけられた。息を呑んで思わず足を止める。  街灯の光の範囲外、通り過ぎようとしていた道の途中に誰かが立っていた。背格好からして男だ。ぽかんと押し黙っている内に、男は街灯の光の下に歩を進める。  からん、と鳴るのは靴音ではなく下駄の足音。結わえた長い赤毛に黒い山高帽を乗せ、同色のインバネスを羽織っている。その下は古色蒼然としたカラシ色の着流しで、まるで古い映画から抜け出してきたかのようないでたちだった。背は高く、目だって体躯が良いわけではないが、和服が似合う程度には均整の取れた体つきをしている。  一言で言えば、異装の美丈夫だった。切れ長の瞳に薄い唇、無精ひげ、綺麗に筋の通った細面。  「ちょいと、お待ちなすって」  寄席でも開いたら声だけで客が集まりそうな低音で、再びルコに声をかける。服装同様、時代錯誤な口振りで、もう一歩、間合いを詰めた。そこで初めて、『変質者』という単語が頭を掠める。  こちらに手を伸ばす男の表情は、どこか切羽詰ったような必死の色を宿していた。次の一歩が踏み出される前に、  ――気がついたら、全速力でその場から駆け出していた。足は速い方ではないが、すぐそこの自宅まで全力疾走すれば追いついてこないだろう。ヒールの高い靴を履く習慣がなくて良かった。走りながら背後に耳を澄ませてみても、下駄の音はついてこない。  それでも気を抜かず、短い距離を疾走して……  玄関に飛び込んだときには、すっかり息が上がっていた。      街灯の下に取り残された男はやり場を失った手をそろそろと引っ込め、  「……やっぱり、覚えがねェか」  こざっぱりとした表情で、ヘっと息をつく。  伸ばした手とは逆の手に、薄汚れた黄色のハンカチを握っていた。強く握り締めていたようで、皺が寄ってよれてしまっている。  ハンカチを懐に仕舞い、下駄を鳴らして夜道へ戻っていく間際、結わえた赤毛が翻った。  細いキセルをかんざしのように挿した長い赤毛の尾を引いて、異装の美丈夫は一旦闇の向こう側へと退場する。         + + + + +      「あ、そだ。明日の晩、迎えに来るから」  いかにも何気ない口調で、フローリングに胡坐をかいた能瀬が告げる。本日の『レッスン』はゲーム機を扱ったもので、甘酸っぱいタイトルの恋愛シミュレーションゲームがテレビ画面で展開されていた。選択肢をミスしたらしく、ピンクの髪の女子は途端に口を尖らせて黙り込んでしまう。  「……何だって?」  ややあって、ソファで膝を抱えてぼうっとゲーム画面を見つめていたルコが怪訝そうな顔をした。ゲーム画面の女子みたいな可愛げは微塵もない。  「実はもう期限残ってなくてさー、ウチの上司も我慢の限界らしくて、こうなったらウチ――異端現象対策管理局に直接ご出頭願おうってことになっちゃったんだよねーコレが。そんで色々説明したり、検査したり、場合によっては期限一杯まで保護って形で滞在してもらうことになるかも。ぶっちゃけここまで手ごわいとは誰も予測してなくてさ、今対策チームとか立てておおわらわになってんの。で、明日の晩お迎えに上がりますから、準備しといてくださいってワケ」  束の間、二の句が継げなかった。混乱していたわけではない。いずれそんな日がやってくるだろうと予想はしていた。それが急に明日と確定されただけの話だ。  「――……ごめん」  沈黙の合間に聞こえた小さな声が誰のものか、最初は分からなかった。目の前でコントローラーを床に置く男が、こんな声でこんな言葉を口にしたのは初めてのことだったから。しかしタオもサクも席を外し、マグニの気配がうかがえない今、どう考えても呟いたのはこの男だ。  「ホント、ごめん。穏便に済ませるって大見得切っといて、結局こんな強硬手段になっちゃってさ。うわー、カッコ悪っ。滅茶苦茶カッコ悪ぃじゃん、俺。上司にいっつも言われんだよね、『理想論を吐くのは、それ相応の力を身につけてからにしたまえ』っつって。あー、今さっくんにぶった切られても、俺何も言えねーな」  目を丸くして見つめていると、能瀬はくしゃりと顔を歪めて苦笑した。  何と言ったらいいのか分からない。そんな風に言葉を探す自分に苛立って、我知らず眉間に皺を増やす。  能瀬はいびつな笑顔のまま立ち上がり、ソファに座るルコに向き合った。  「だから、楽しい恋のレッスンも今日で最終回。もっと最終回っぽく特別なことできればよかったんだけど、時間がないからね。まあ、その、ルコちゃんにとってはウザいだけだったかもしれないけど、とりあえず俺は楽しかったよ。できれば俺への愛に気付いてハッピーエンド!が良かったんだけど、今回は潔く引くことにする」  言葉が見つからない。黙り込んでいる間、彼はかがみこむようにしてルコの瞳を見つめた。顔を逸らすことも見つめ返すこともできず、視線だけを脇に逸らす。  「次に会う俺は、もう今までの俺とは違うから。だから――ひとまずここで、さよならだ。今度会った時は、また改めて口説かせてもらうよ」  何も言えない内に、彼はソファの前から立ち去ってしまった。後姿を見送ることもなく、ばたん、とリビングのドアが閉まる音だけを聞きながら、ルコは結局一言も発しなかった。  つけっぱなしのテレビ画面で、機嫌を損ねたピンクの髪の女の子が怒鳴っている。  『何やってるのよ、バカ!』  うるさい、分かっている。  何をすればいいのか、よく分かっている。  分かっているなら考えろ。考えたなら、動け。  ――今日できることを、明日には回さない。  「……マグニ、聞いていたな」  「はい、お嬢様」  足音も気配もなく、キッチンの暗がりから観察者が現れた。どうせ一部始終を聞いていたのだろう、ならば話は早い。  ルコは固く目をつむり、呪文を唱えるように厳かに言葉を紡ぐ。  「お前達は私のものだ」  「左様でございます」  「お前達への愛も、私のものだ」  「無論です。――さて、いかがいたしましょうか?」  長らく彼女を観察してきたマグニには、問わずとも分かっているだろう。にもかかわらず、彼は問う。従者の美徳を示すがごとく、取り澄ました声と顔で。  目を開いたルコは、きっぱりとした口調で決意を表明する。  「――雲隠れだ」           + + + + +      能瀬が異端管理局に帰還した時点で、対策本部は大混乱の渦中にあった。  「目標、ロスト!」  「定点観測カメラからの情報なし!」  「空撮は!? こうなったら衛星への接続許可を!」  「尾行要員への指示急げ!」  「一体どの地点で見失った!?」  「交通機関を張れ、検問の準備を!」  大きな会議室を丸ごと使った本部には多数の機材が設置されていて、人がすれ違う通路もろくに確保できていない。モニター類がずらりと並び、書類やモバイル機器、ノートパソコンを手にした人員が右往左往している。  「……あはは、やってくれるよ、まったく」  ただ一人のんびりと室内を横切りながら苦笑する。緊急事態に慌てふためく局員たちは、そんな能瀬の姿に目を留めることはない。  「――やるとは思ってたけどさ」  それにしても早い。あの決別宣言からまだ2時間も経っていないというのに、彼女達は早速監視の目を掻い潜って逃走してしまった。ある程度の反発を予想した上で強権発動を告知したわけだが、こうも即座に、完璧に逃げおおせるなど想定外だ。  完全にこちらのミスだが、不思議と愉快な気分だった。常に中立を重んじるべき交渉要員にあるまじきことながら、思っていたより彼女らに肩入れしてしまっているらしい。慌てふためく局員たちを前に、笑いが止まらない。  「ご機嫌麗しいご様子だが、現在は笑っている暇すら惜しいのだよ、能勢君」  対策本部の一番奥のデスクにたどり着くと、聞きなれた嫌味な声音が耳に入った。どんなに騒然としていてもよく通る、オペラ歌手のような声だ。  デスクの主であり能瀬の直接の上司である男は、姿勢良く目の前のパソコン画面を見つめながら、  「出張はまだ終わっていない。対象捕捉は君の仕事だ。定点観測カメラや尾行者はおそらく《千里眼》で避けているのだろう。こちらも久能寺君の《目》を使う」  「こっちのテは全部筒抜けってワケっスね。対策本部の状態も含めて」  「それはどうかね。現在彼らは複数の監視カメラや尾行者に気を取られていて、それどころではないはずだ。向こうの《千里眼》がどういったシステムなのかは不明だが、こちらの《目》に敵うことはないだろう。すぐさま見つけ出して――」  ふつりと言葉を切ったのは、一体どういった意図があってのことだろうか。一瞬だけ目を細め、軽く肩をすくめて見せる男。  「先に逃げを打ったのはあちらだ。これで遠慮なく《お迎え》に上がることができる」  大義名分ができたということか。言い訳にも聞こえる物言いに、能瀬はこっそりと喉を鳴らして笑った。男はそれを咎めるような眼差しで続ける。  「久能寺君の《目》で所在を確認した後、君が現場の指揮に当たりたまえ。《黒子衆》の出動も要請して、徹底的に追い詰める。なるべくならば穏便に、双方何の被害もなく」  「《黒子》出す時点で穏便じゃないっスよ……あー、気が進まねー進まねー。確実に嫌われるっスねコレ」  「嫌われるが、何か問題が?」  「ハイハイ、ありませんよ。りょうかーい、状況が整い次第すぐに出ます」  上司相手にしてはいささか軽すぎる応答をしながら、デスクに背を向ける。  ――さあ、面白くなってきた。果たしてどこまで逃げてくれるのかな?  喧騒渦巻く室内で、能瀬は逃走中の4人に思いを馳せて肩を震わせた。      「……今のところ、目立った動きはないみたいだね」  「チョロいものだな」  レンタカーであるミニバンの後部座席で、ルコが小馬鹿にしたようにフと鼻を鳴らす。その隣にはしきりに窓の外を気にするサク、助手席には楽しげに道の先を見つめているタオ、そしてハンドルを握るのはマグニ。九十九神に戸籍などあるはずもないので、当然ながら無免許運転だ。車を借りる時はルコの免許を使った。  車は現在ひと気のない山道を走っている。対向車一台いない真っ暗な細い道を、ヘッドライト一つで危なげなく進む。教習所にすら通っていないのに、ペーパードライバーのルコよりもソツのない運転だ。  ――あの後、他の二人を加えて簡単な作戦会議が開かれた。『逃げる』というルコの意思は確定していたので、九十九神の3人には否やはなかった。といっても、大した逃亡作戦ではない。多少の目くらましをした上でタイミングを測って家を出て、タクシーで距離を稼ぎ、少し離れた街でレンタカーを借りて更に遠くへ。  普通ならばすぐさま見つかる杜撰な計画だが――  「街中ならばいざ知らず、このような山奥です、わたくしたちを見ている者はおりません」  こまめにハンドルを切りながらマグニが口にする。左目の虫眼鏡型モノクルは真っ黒に染まり、時折その闇色を深くしたり淡くしたり、瞬きのように明滅している。  ――《千里眼》。九十九神にそれぞれ与えられる異能として、マグニにはその能力が備わっていた。とはいえ、何の制約もなく全てを見透かすような遠視能力とは趣が違う。彼の能力が及ぶのは、『他者の視覚』だけだ。生物・非生物を問わず他者の視覚情報を盗み見する、ハッキングのような原理でもって作動しているらしい。  なので厳密には《千里眼》とは呼べない上に、一度でもマグニに視線を向けたことのある相手にしか作用しない。あまり遠くの相手には通用せず、あくまで他人の視界を覗き見するだけの力であるため誰も見ていない場所には視線が届かない。  万能ではないが、持ち主の目と観察対象の間に存在する虫眼鏡の化身としては、まさにふさわしい能力と言える。  「観測衛星などを使用された場合はどうしようもありませんが、こうして木々が茂る山道を行く限りは上空からの目は気にせずとも良いでしょう。地上の視線は全て把握していますので、今のところはご心配なく」  すぐに動いて良かった。明日になったら監視体制が強化されて、家から出るどころではなかっただろう。唯一危なかったのは家からタクシーに乗るまでの間だったが、家中の明かりとテレビをつけっぱなしにして出てきたことで多少目くらましができたらしい。サク、タオの順で別々に家を出て、最後にマグニの目で監視が緩む隙を狙って裏口からルコが出てきた。幸い、タクシーはすぐ捕まった。  「それで、これからどうしよっか?」  助手席でヘッドライトに照らされた杉の木の群を見つめていたタオが、緊張感のカケラもない口調で問う。ルコはしばらく腕を組んでうなり、  「あの男の言っていた『期限』を待つ。状況から見て、一週間未満……おそらくは2,3日中。この先に小さなキャンプ場があるので、そこでしばらく過ごす。あまり長いようなら移動しながら車中で寝泊りする。以上」  「うん、そうするしかないだろうね。簡単なキャンプセットなら向こうで貸してくれるだろうし、俺とサクで手分けして食料は買い込んできたし、着替えも用意してきたし、一週間未満なら充分だと思うよ」  「……そんなんで、解決すると思ってんのかよ」  不意に、サクがぶすっとした声音を差し挟んだ。車中に視線を向けることもなく、窓の外を見つめながら淡々と。  「あいつ言ってただろ、異端なんとか局以外にも俺たちのこと監視してるやつらがいるって。しかも暗殺や誘拐なんてたくらんでやがる連中もいる。ここで期限切れまで粘って逃げても、そっから先はまたビビりながら過ごさなきゃなんねえんだろ」  そのとおりだ。今この場をしのいだところで、全てが解決するわけではない。どころか、能瀬たちが結んでくれた協定は解かれ、再び各組織がけん制しあいながらもルコを狙う状況に逆戻りしてしまう。逃げたところでどうしようもない。  それくらいはルコにも分かっていた。だが、それをサクに指摘されたのが妙に気に障った。原因不明の苛立ちに任せて、ルコはわずかに語調を跳ね上げる。  「じゃあ、どうしろと? あのまま逃げずに迎えを待っていた方が良かったのか?」  「……それは――」  山道の暗闇から視線を逸らさないまま、サクが言いよどむ。その隙を逃すことなく、ルコは平板ながら強い調子で彼を追い詰めた。  「お前が片っ端から監視者をやっつけて回ってくれるのか? ……できるわけがない。お前はただの工作ハサミだ、分をわきまえろ。私の《モノ》が、私に意見するな」  今まで口にしたことのない、感情的で攻撃的な物言いだった。追われる焦燥が原因ではない、図星を突かれたことが原因でもない。ならば何が原因かと言われても、よく分からない。  車内に重い沈黙が満ちる。それぞれ車の外の景色に視線を向けて、誰も目を合わせようとしない。  ルコの一言はサクだけでなく、同じ九十九神であるタオとマグニに対しても牙をむいた。  ただの『モノ』は黙っていろ。余計な真似はするな。  傷つけてしまった、悪かったという思いはない。ただ、うざったいなと思っただけだった。折角愛した《モノ》が、こうして感情を推し量るべき相手――《ヒト》になってしまう。それがただただ腹立たしかった。  ――車のエンジン音だけを聞くやるせない時間を断ち切ったのは、マグニの冷静な声だった。  「追いつかれました。6人です」  思わず舌打ちを漏らすルコ。早い。完璧に欺いたと思ったのに。マグニの《千里眼》に引っかからなかったところを見ると、余程の遠距離からこちらの位置情報をつかんだということだ。衛星を使ったのか、あるいは……  思考はそこで遮断された。細く曲がりくねる一本の山道、その脇の道なき斜面から黒塗りの装甲車が飛び出してくる。マグニは咄嗟にハンドルを切り、ブレーキを踏み、スリップするように急停車した。来た道を戻ろうと方向転換したところで、後ろも同じように別の装甲車で塞がれる。  乱暴な動きでシートに放り出されたルコが見たのは、装甲車から降りてくる数人の人間だった。二人は車と同じ黒尽くめの格好で、テレビで見た特殊部隊のコンバットスーツに似たシルエットの装備。2人は面白みのないスーツ姿の男で、無線機や見たこともない機械を携えている。残る二人は運転席に残っているのだろう。  「車で強行突破、は無理か……!」  苦々しげに歯噛みして、サクがミニバンのドアを蹴り開ける。普通の車で装甲車を押しのけられるはずがない。振り切るにはまず塞がれた道を何とかしなければならない。いずれにせよ、レンタカーは乗り捨てなければならないだろう。  全員で車から降りると、音もなく取り囲まれた。一気に襲い掛かってくるようなことはないが、特に黒尽くめ二人には隙がなく、いつでも動けるように呼吸を整えているように見える。  サクが右手の人差し指と中指を揃え、《切り裂く》体勢で構える。タオはルコをかばうように立ちふさがり、マグニは背後で油断なく状況を観察する。  「《千里眼》持ちは何もあんただけじゃねえのな、サー・ロビンソン」  前をふさいでいた装甲車から、見慣れたスーツの金髪青年がゆっくりと降りてきた。飄々とした笑顔はつい数時間前と同じように見えるが、目は笑っていない。ヘッドライトの逆光を背に、まっすぐこちらに歩み寄ってくる。  「ウチにもいるんだよ、特殊な《目》を持ってるヤツがさ。隠れんぼは分が悪いから、今すぐ諦めた方がいいと思うよ」  黒尽くめの背後で立ち止まり、両手を広げて苦笑い。  「異端現象対策管理局が誇る、隠密作戦遂行部隊《黒子衆》――まあ汚れ仕事専門だから、誇るもクソもねーんだけど。誘拐なんてのはお手の物でさ、こいつらが鬼じゃ、鬼ごっこも成り立たないんだよね。短い逃避行もこれで終わり。ちょっとゴタゴタしちゃったけど……お迎えに参りましたよ」  絶対的優位に立って獲物を追い詰めるもの特有の、余裕と少しの哀れみが混じる所作だった。相手は荒事のプロだ、ずぶの素人である自分達が勝てる見込みはない。何とかしてからめ手から突破する術はないか――どれだけ考えてもそんな裏技など思い浮かばず、思考だけが空転する。  「っざけんじゃねえ!」  激昂した叫びと共に、止める間もなくサクが飛び出していく。黒尽くめの一人に向かって右手を振り上げ、不可視の刃を叩きつけようとするが――  黒尽くめは急激に体勢を低くして、ほとんどしゃがみこむような格好で刃を逃れる。漆黒の装甲に覆われた左手を貫き手の形に構えて、サクの脇腹めがけて指先を突き出した。  「っぐ」  小柄とはいえ大の男のサクが、人形のように軽々と吹き飛ばされた。直前で打点をずらすことに成功したのか意識を飛ばすまでには至らず、舗装された路面を転がってルコたちのもとへと戻ってくる。  「ちょっと、あんまり手荒なことしないでくんねーかな!?」  慌てた様子で制止する能瀬だが、黒尽くめはうなずき返しもしない。前の一人が貫き手の構えで腰を据え、後ろの一人は投擲用の刃物を両手に保持する。その後ろで、能瀬は心底うんざりした顔で額を抱えた。  腹を抱えながら立ち上がったサクが、再び黒尽くめに飛び掛る。袈裟懸けに一撃、返す《刃》で横薙ぎに一撃。それぞれをひらりとかわして、猛烈な勢いで踏み込む黒尽くめ。短く突き出された右の掌底は、過たずサクの右肺を捕らえた。かふ、と息を吐きその場に崩れ落ちるサクの肩に蹴りを入れ、倒れたところへ馬乗りになり、素早く押さえ込む。  思わず駆け寄ろうとしたところで、アスファルトの路面で金属音がはじけた。投擲されたナイフが跳ね回っている。後ろを振り返ると、もう一人の黒尽くめが刃物の切っ先をこちらに向けていた。動いたら当てる、という意思表示らしい。  チェックメイト――組織に対して個人ができるのはここまでだろう。  もういい。そんな降伏宣言を口にしようとした瞬間、手首をつかまれ強く引かれた。が、どすりというイヤな音が聞こえると共に、その力も緩んでしまう。  手を引こうとしていたタオが、その場にがっくりと膝を突いた。後ろの黒尽くめから投げられた刃物が、ふくらはぎに浅く突き立っている。他にも右肩と左の脇腹から出血していた。  動いたらこうなることは分かっていただろうに、それでも彼は動いた。傷つくことをいとわず、ルコを逃がすために。  馬鹿、何やってるんだ、勝手なことをするな。そんな思いで手を伸ばそうとしたが、その指先は思いがけず強い力で振り払われた。  「ルコさんっ、逃げて!」  痛みに眉をひそめながら、ついぞ聞いたことのない怒鳴り声を上げるタオ。気押され気味に一歩引いたルコの目の前でふくらはぎに刺さった刃物を抜き、元の持ち主に向けて投げ返す。フォームも狙いも甘かったが、少なくともけん制にはなった。  黒尽くめが投擲の軌跡から身をそらす一瞬、今まで沈黙を守っていたマグニが動く。ミニバンの運転席へ駆け込みエンジンをかけ、  「お嬢様、お急ぎを!」  それでも、ルコは動けなかった。タオの足に飛び散った血の赤が目に焼きついて離れない。足がすくんで一歩も進めなかった。  「何、してんだ、よっ!」  何とかして黒尽くめの拘束から逃れようと身をよじるサクが、苛立ち混じりの声を上げる。が、ルコの耳には届いていない。  頭の中は血の赤一色で。  ろくに呼吸もできなくて。  眩暈がして。  刃物を携えた黒尽くめが、這いつくばるタオの横を擦り抜けて間合いを詰める。その光景を他人事のように眺めていると、ルコはようやく自分が震えていることに気付いた。  あと5歩、4歩、3歩――  黒尽くめが残りの3歩を詰める間際、唐突に視界が輝く橙に彩られた。ごう、と風が逆巻き、あたりの気温が一瞬で上がる。  気がつけば、ヘッドライトよりも眩しい炎の色が、ルコと黒尽くめの間の路面に横線を引くように燃え盛っていた。  「なっ……」  熱気にむせ返りそうになりながら、光に痛む目を丸くする。九十九神たちはもちろん、能瀬や黒尽くめたちも似たような表情だった。だとすれば、一体誰が――  「ごめんなすって」  からん、下駄の音とともに、どこかで聞いたことのある低い声が耳元にささやきを落とす。  振り返ろうとするより先に首筋に鈍痛が走り……  ルコの意識はそこでふっつりと途切れてしまった。      痛む足を引きずりながら、突然目の前で繰り広げられた光景に這い寄ろうとする。が、炎に遮られてそれ以上は進めない。  「ルコさん!」  呼びかける声に返事はない。ルコはぐったりとして、突然現れた男の腕の中に収まっていた。  炎よりも少し暗い色の長い髪にキセルを模したかんざし、古風な着流しにインバネス。片手で山高帽を抑える男は、整った面立ちで飄々と笑っていた。  直感的に悟る。コレは自分達と同じ《モノ》だ。  男を挟んだ反対側ではサクが何かしらを喚いているが、轟々とうなる空気の音に遮られてよく聞き取れない。  あと少し、あと少しで手が届くのに。  いっそこの身を焼き焦がしてでも、手を伸ばさなければ。  「お取り込み中、失敬いたしやす。ちょいとあんたらの姫さん、お借りしやすぜ」  タオの指先が炎の熱で焦げる前に、男は変わった節回しで言い残し、コン、と下駄の足を鳴らした。  次の瞬間、男はルコを抱えたまま高々と宙を舞い、近くの杉の木の枝を蹴り……そのまま夜闇へと身を投げる。  何が何だか分からない内に見知らぬ誰かにさらわれてしまったルコを、ただ見送ることしかできなかった。  歯噛みする暇もなく、タイヤが路面をこする甲高い音が降りかかる。見れば、マグニが運転する車が拘束されているサクに向けて突っ込んでいた。撥ねられる寸前、サクを取り押さえていた黒尽くめがその場を飛びのき、車はサクの鼻先でピタリと止まった。  轢かれかけたことに文句を言いたげなサクが乗り込むと、車は急転換して、今度はタオに向かって突っ込んでくる。後ろの扉を開いたまま炎を突っ切り、まっすぐに。  「つかまれ、タオ!」  後部座席から身を乗り出したサクが手を伸ばす。足の痛みを無理矢理に無視してその手を掴み、車内に転がり込んで扉を閉めた。  燃え広がる炎を避けるために移動したのだろう、装甲車でふさがれていた道がわずかに開いていた。その隙間にねじ込むようにして突進し、相手の車とガードレールで両脇をこすりながら車は山道を抜ける。  「食らいやがれ!」  後部ハッチを開けて、サクがポリタンクを蹴り落とす。しばらく走ったあと、背後で派手な爆音が聞こえた。ポリタンクに入っていたガソリンに引火したのだろう、バックミラーには明々と炎上する道が映っている。  流石にあれでは追跡不可能だろう。3人の九十九神を乗せた車は、時折細い道からはみ出しそうになりながらも全力疾走で夜の山道を駆け下りていった。      「何だよ、何なんだよアレは!」  サクの喚き声が車内に響いた。が、先ほどのダメージが尾を引いているのか、身体を折って激しく咳き込む。タオが背中をさすってやろうと伸ばした手は、弱々しく振り払われてしまった。  「マグニ、《千里眼》は?」  「お嬢様は気を失っておいででした。ゆえにお嬢様の視覚をお借りして《覗き見る》ことはできません。そして、あの男は私に視線を向けることはなかった。わたくしの《千里眼》は一度もこちらに視線を向けていないものには働きません、よってあの男の視覚情報をハッキングすることも不可能。また、この近辺には通行人も監視カメラも存在しません。それゆえ無機物の目を借りることもできません」  ハンドルを操作しながら淡々と述べるマグニ。ほとんど暴走に近いスピードで山道をくだりつつ、時折後方確認をすることも忘れない。左目のモノクルはせわしなく闇色に染まり、褪せを繰り返している。  「《千里眼》で見ることができるのは半径約5km以内。それ以上の距離を取られるよりも先にこの状況が打開されなければ、完全に見失ってしまいます」  「見失ってしまいます、じゃねえだろ! どうすんだよ、何なんだよアレ!? ルコが、ルコが……!」  それ以上は言葉にならない。サクは無言でヘッドレストに両の拳を叩きつけた。真後ろで鳴る打撃音に、マグニは眉間を震わせため息をつく。  「……不徳のいたすところです。わたくしがあの時、車外に出ていれば」  違う。あの時の彼の判断は正しかった。最善だった。責めるべきでないことは、他の二人にもよく分かっている。もし責められるべきならば、三人が三人ともそれぞれの不手際を責められるべきだ。  やり場のない感情が、重苦しい沈黙と化してその場に淀んだ。  「管理局の連中だけでも手一杯だってのに、一体何者だよアレは……!?」  「何者かどうかは、二人とも直感で分かったはずだ」  膝の上で拳を振るわせるサクに向けて、タオは静かに答えを返す。  「――俺たちと同じ、九十九神だよ」  同じ存在としての《モノ》同士が共鳴するように、理屈や経験とは別の次元で『解った』。本人の口から直接聞くよりも説得力がある。  二人も同様に感じ取ったのか、否定の声は聞こえてこなかった。が、肯定はできても納得はできないらしく、マグニの口から疑問の声が上がる。  「お嬢様の近辺には我々3体のみのはずです。職場で《AML》が発動したとは考えにくい。それとも、自然発生的に九十九神化した《モノ》なのか……」  「じゃあなんで九十九神がルコをさらうんだよ!?」  「分からない。……ルコさん、危険な目に遭わなければいいんだけど」  「そんな呑気なこと言ってる場合じゃねえだろ! 今すぐ何とかしねえと、もしルコが今ヤバい目に遭ってたらどうすんだよ!?」  「その可能性は低いと思う。もし何か害意があったらあの場で何か仕掛けてたはずだし、無傷でさらう以上はそれなりに丁重に扱ってもらえるだろう。少なくとも、あの男が目的を達するまでは」  「……それなりに、丁重だと?」  あくまで淡々としているタオをきつく睨みつけ、追い詰められた獣のようにうなるサク。強く握り締めすぎた拳は真っ白になり、怒りのせいで血の気も引いている。そんな悲壮な形相を前にしても、タオはどこまでもいつも通りだった。切り裂かれた血染めの肩を抑えながら、  「再起不能な傷を与えられることはないと思う。――殺されることも、」  「縁起でもねえこと言うな!」  続けようとしたところで胸倉を掴み上げられた。特に抵抗もせずなすがままされ、間近で怒りに煮えたぎる瞳を見つめる。こんな風に感情のままに輝く目がうらやましくもあり、恨めしくもあった。何かにぶつかれば軟弱に形を変えてしまうような自分とは違って、彼には柔軟さと引き換えに得た芯がある。モノとしての特性上その性質は必然だが、ついないものねだりをしてしまう。  笑みを消した無表情は、もしかしたら主たるルコに少し似ていたかもしれない。そんな風に押し黙っているうちに、胸元を強く揺さぶられた。  「俺たちが、俺たちさえしっかりしてりゃ、あんなことにはならなかったんだ! 殺されることはない? 死ぬより辛い目に遭ってたらどうすんだ! 今、この瞬間に!」  「……そんなこと分かってる!!」  ――我に返ったのは、感情に任せて怒鳴りつけた後のことだった。我知らず胸倉を掴み返していたらしく、サクが間近で大きく目を見開いていた。自分でも驚きながら感情に任せて先を続ける。  「よく分かってるよ、サクだけじゃないんだ、俺だってマグニだって、ルコさんのことが心配なんだ! 俺だって今すぐ追いかけたいよ、でも今の俺たちに何ができる!?――何も、できなかったじゃないか!」  そう、あの時。伸ばした手は届かなかった。彼女のためにと勝手に傷ついて、勝手に動けなくなり、結局何もできなかったじゃないか。  ひどいエゴイズムだ。ついこの間まではこんなことはありえなかった。彼女の言葉に従って、自分の欲求の向く方向だけを見据えて、それ以外のことには無頓着でいられた。こんな風に苦しい思いをしながら誰かを案じるだなんて――そんなことは、《モノ》としてあってはならないはずだったのに。  いきなり頭に血を上らせたせいで眩暈がした。もとから出血でぼんやりしていた意識が余計に茫洋とする。もはや相手に視線を向ける気力すらなく、懺悔をするようにこうべを垂れ、掴んだ胸元にすがってうなだれた。  わけがわからない。  「お二人とも、落ち着いてください」  運転席から聞こえるひんやりとした声がありがたかった。ずるり、胸倉を掴んだ手が滑り落ちる。その手で頭を抱えながら、  「……ごめん、言い過ぎた。でも事実だ。ルコさんの居場所も分からない、それどころか管理局の追っ手から逃げるので精一杯。……悔しいけど、今すぐどうにかすることはできない」  数秒間の静寂。その後、乱暴な仕草でシートに背中を預けて、不貞腐れた顔をするサク。  「……分かったよ」  随分と必死で自分を押し殺したのだろう、平気そうな顔を繕ってはいるものの、親指の爪をカリカリと噛み出している。切羽詰ったときにはいつもそうして自分の歯ざわりを確かめ、何とか安心しようとするクセがあるそうだ。  「今は管理局の手から逃れることが先決です。検問を敷かれる前に行けるところまで行き、万が一の場合は車を乗り捨てましょう。お嬢様をお探しするのはそれからです」  マグニの言うとおり、まずはそこからだ。自分達が捕まってしまっては話にならない。顔を上げてうなずき返し、それ以降は口を挟むことなく車窓の外に注意を払うことにした。  重い雰囲気の車内には、カリカリ、サクが爪を噛む音とエンジン音だけが響いている。  やがて、遠くに街の明かりが見えてきた。      「やれやれやーれ、っと。逃げられちった」  装甲車の陰から顔を出しながら、能瀬は飄々とうそぶいた。相手の車から転がり出してきたポリタンクを目にしてその場の全員が車の陰に飛び込んだ後、大爆発。山道の一部が倒壊し、一台の装甲車と路面が景気良く燃え盛っている。  道をふさいだはずが、逆にふさがれたというわけだ。今すぐの追跡は望むべくもない。ここは潔く諦めて本部に連絡をつけ、再び《目》で位置特定をして追手を放つに限る。  携帯電話をポケットから出した時点で、タイミング良く着信があった。上司からだ。  「はいモシモシ。やたらカッコつけて登場して首尾良く追い詰めたと思ったら想定外の事態が発生してまんまと獲物を取り逃がしてしまった間抜けで無能でカッコ悪い能瀬っスよー」  『大変分かりやすい応答、痛み入るよ。おかげで嫌味の一つも言う手間が省けた』  それ自体が嫌味だっつの。そんな反撃を飲み込んで、能瀬は事情を説明した。  対象を再びロスト。辻神瑠子は突如現れた謎の男に連れさらわれ、九十九神3体も車にて逃走。その際道を封じられ、現在身動きが取れない。  『ふむ……たしかに想定外だ。すぐさま久能寺君の《目》の再要請をしよう。今度は随分と渋られるとは思うがね。その後、検問を敷いて両者の動きを止める。檻の中に囲い込むことにしよう』  「捕捉はいいんスか?」  『その想定外の事態から判断して、捕捉は控えたほうが良いだろう。その男、4体目の九十九神という可能性は?』  「んー、その可能性は薄いっぽいっスよ。少なくとも、辻神瑠子たちの仲間である可能性はないと思うっス。4体目の報告なんて今まで毛ほどもなかったですし、何より当のご本人たちが随分慌ててたっスから。まるっきり見知らぬ誰かってカンジでした」  『そうか。だが、仲間でなくとも九十九神である可能性は棄てない方が良い』  「ですよねー。別機関からの追手ってことはないんスか?」  『その可能性はありうる。今のところ交渉決裂宣言は確認していないが、秘密裏にどこかの機関が先走ったということも考えられる』  「あはは、結構人望ないんじゃないスか、《閣下》」  『フン、あの条約は並大抵のことでは破れないよう、二重三重に根回しをしておいたので心配はご無用。機関全体で総力を挙げて、ということではなく、末端の構成員が暴走したという可能性の話をしているのだよ。対象ロストの報は既に関係機関にまわしてある、それを聞いて問い合わせという名の苦情が殺到しているのは事実だ。勢い余って、ということも考えられなくはない』  「そっスか。んじゃあ、さっさと捕捉した方が――」  『逆だな、見送った方が良い。裏切り者のユダをあぶりだすための時間が欲しいのでね。不審な様子の機関を洗い出して、そこと再交渉を試みる。その男が機関のエージェントならば、辻神瑠子に関しては引渡しということで決着がつく。もっともスマートな手法と言えるだろう。そして交渉までは相手を刺激することは避けねばならない』  「じゃあ、アレが機関とか関係なかったらどうすんスか?」  『こればかりは確率の問題ではないのだよ、能瀬君。他機関の関係者である場合にプライオリティを置く方が、得られる成果の期待値は高い。もし関係者でない場合でも――』  「……まさか、『辻神瑠子に害が及ぶだけで、それ以上の損害は考えにくい』とか、そういうこと言うつもりっスか?」  『君のその察しの良さは高く買うよ。惜しらむは、それを簡単に口にしてしまう雄弁さか』  「要するに、ルコちゃんの身の安全なんて関係ないってことっスよね?」  『端的に言えばそうだが、もちろん完全に度外視しているわけではない。……正体不明の人物が手を下した場合、我々は口をぬぐって涼しい顔ができるということは否まないが』  「――わかり、ました。……指示をお願いします」  『ふむ、主観と客観を混同しないだけの分別は醸成されつつあるようだね、大変結構。久能寺君の《目》での位置特定をした後、検問によって両者の動きを制御。いつでも手を伸ばせるよう下準備を整え、次の指示を待て。以上だ』  「了解。引き続き、現場の指示に当たります」  通話終了ボタンを押して、やや乱暴に携帯電話を折りたたむ。路面で燃え盛る炎は既に勢いを減じていて、他の局員がばら撒く消火器の泡に追いやられつつあった。その光で目を焼くようにまっすぐな視線を向け、能瀬は唇を噛み締める。  「……気に喰わねーの」  吐き棄てるような呟きは、その場の誰にも届かずに夜闇に解け消えた。         + + + + +      ――夢の中で、ああこれは夢なんだと認識する。  ルコにとってはよくあることだった。夢を夢だと自覚している自分がいて、夢の中の自分を観察しているという状態。  夢の中のルコは、《あの日》のルコだった。アメリカの教育機関から日本の研究所に招かれ、久しぶりに日本の自宅に帰ってきた日のこと。  なかなかかみ合わない鍵に苦労して扉を開けると、留守にしていた3年間ずっと屋内に閉じ込められていた空気が外にこぼれ出した。他人行儀の乾いた匂いがする。  『おかえり』も、『ただいま』も、ありえない。この家は、辻神家は今やルコたった一人になってしまったのだから。両親が死んですぐにアメリカに飛んだので、誰もいない家には馴染みがなく他人の家にしか見えなかった。  重いスーツケースを玄関に置き去りにして靴を脱ぎ、廊下を行く。久しぶりに主を迎えた床が、何となく苦しそうにきしむ。間取りまでは忘れておらず、目指すリビングにはすぐにたどり着けた。  カーテンを閉め切ったリビングにはものがなかった。国を出る前にあらかた処分してしまったからだ。カーテンの向こうから漏れる光だけを頼りに、電気もつけず薄暗がりを横切り、ソファの上に置いてあるものに手を伸ばす。  アイボリー色のバスタオル。埃をかぶって少し色あせているものの、出て行ったときと変わらずに刺繍の黒犬が笑いかけてくれた。生まれた時から、それこそベビーベッドの中からずっと一緒だった、最愛のバスタオル。触れる指先の感覚はルコの成長と共に微妙に変化してきたものの、肌を優しくいたわるようなさわり心地は変わらない。  バスタオルを広げて、顔をうずめ、抱き締める。息を吸い込むと、埃まじりの懐かしいにおいがした。  誰もいない独りぼっちの家で、モノだけがルコを待っていてくれた。きっと、永遠に帰らずとも待ち続けてくれるのだろう。死なず消えず、ただ朽ちるに任せて、何年も何年も、役目を終えて棄てられるまで。  そう思った途端、胸の中で激情が破裂した。頭の中の爆風に翻弄されながら、これが愛しさという感情であることを直感で理解する。  「――ただいま、タオ」  小さな頃につけた名前を添えて、誰にも言うつもりがなかった言葉を口にした。  愛しい、愛しい。気がふれそうなほど愛しい。姿もにおいも肌触りも、五感から入り込んでくる全てが愛しい。物言わずただ待っていてくれた、それが愛しい。この愛しさを丸ごとぶつけても離れていかない、この愛しさを拒絶して傷つけたりしない、この愛しさを置いてどこかに消えてしまわない、そこが愛しい。愛しい、愛しい愛しい愛しい……  ――無我夢中で抱き締めていたバスタオルに、いつの間にか体温が生じていることに気付く。温度だけではない、バスタオルとは違う生身の感触に、胸の辺りから聞こえる心拍音、気配。そして――  「おかえり、ルコさん」  顔を上げたルコの視線の先には、ほころぶような笑顔で頭を撫でる青年の姿があった。  無上の幸せを噛み締めるような、隅々まで歓喜が満ちた表情で、胸に顔をうずめる格好のルコの髪の肌触りを確かめるように、何度も何度も。  あっけに取られて呼吸すら忘れていたルコの目の前で、バスタオルと同じ手触りのマフラーが揺れていた。      ――夢から覚めた気分は、決して悪くはなかった。眠りの水底から意識が浮上するにつれて、閉じていた目を徐々に開いていく。  どうやらうつぶせに寝転んでいたらしく、最初に目に入ったのは朽ちかけた床に敷いてある古い毛布だった。その上に寝かされているようだ。微妙に体がかゆい。特に拘束もされておらず、単に転がされているだけの状態。  かすかにうめいてその場に身体を起こすと、室内の様子が見て取れた。ルコの家よりも殺風景な一室に窓はなく、床板以外は全てコンクリート製で築ウン十年といったところか。唯一の光源へと視線を向けて――  「おう、目ぇ覚めたかい、姫さん」  大きな懐中電灯の光の傍で、椅子に胡坐をかいた男が笑っていた。  意識が途切れる寸前にも感じた既視感が、確信へと変わる。  以前、夜道でルコを呼び止めようとした男だ。古風な格好と赤毛の長髪は一度見たら忘れられないし、こんな格好の男はそうそう他にはいない。  飄然した男を前に、ルコは眠気と頭痛を振り切るように頭を振り、  「……覚めた」  落ち着き払って、というよりはどうでも良さそうな素振り。対して、男は急に眉尻と一緒に声のトーンを落とす。  「ちょいと手荒なやり方で連れてきちまってな、すまねえ、首は痛まねえかい?」  「別に」  これは……心配、してくれているのだろうか。この男が山道でルコをさらったのはもはや疑いようがないが、どうやらさほど凶悪な男でもないらしい。首に当身をもらった以外はダメージもなく、寝ている間に何かされた様子もない。だからこそ、その目的も正体もいまだに不明なわけだが。  男は沈んだ表情をくしゃりと歪めて、子供のような笑み顔になる。  「そりゃあ重畳。……何でい、第一声がそれっぽっちかい。もっとこう、『キャー何すんのよあんた誰よ私をどうするつもりここはどこみんなはどこよ!?』とか、そういう反応は?」  そう言われても。どれもこれも当然の疑問だが、そこまでの過剰反応をするだけの危機感が今のルコにはない。せいぜいが『面倒なことになった』程度のもので、痛い思いをするのは御免だが、物理的暴力を行使されなければ何のことはない。  男の口からそんな言葉が出てきたので、ついでとばかりに、  「じゃあ聞くことにする。お前の目的は? 正体は? 私はこれからどうなる予定? 現在地は?」  「……あんまり可愛げのあるお嬢たあ言えねえなあ」  表情を変えもせず次々問いかけるルコに、男は困惑混じりの苦笑を浮かべた。こうして笑うと、余計に渋みと味のある面立ちに見える。そんな顔をして、すぐ傍に置いてあったコンビニ袋をガサガサとあさり始め、中から握りこぶし大のおにぎりを3つ取り出した。  「まっ、そいつぁ追々説明するとしてだ。とりあえず、メシでも喰いねえ」  明朗快活な笑顔と一緒に、3つのおにぎりをルコに差し出す。何秒間か迷った挙句、そうっと受け取って鮭味の包装フィルムをはがす。海苔を巻いて一口かじると、おなじみの味がした。半分ほど食べ進めたところで、男がこちらをじっと凝視していることに気付く。手元というより、おにぎりを咀嚼する唇を。  「ああ、いや……」  さっとそらされる視線。男は言い訳のように付け加える。  「そうやって喰うんだな、ってえ思ってよ」  この平成日本にコンビニおにぎりの食べ方を知らない人間がいるとは思わなかった。というか、この格好でコンビニに入っておにぎりを買ってきたのだろうか。  どうにも憎めない悪人らしからぬ風情だが、これでは逆に調子が狂う。いつの間にか唇へと戻ってきた視線を今度は無視して、ルコは残り半分の鮭おにぎりを口いっぱいにほおばった。      「まずはこいつを返さにゃなるめえ」  鮭とシーチキン、鳥そぼろのおにぎりをものの2分で平らげたルコが食後のお茶を飲んでいると、身を乗り出した男が何かを差し出してきた。凶器の類ならばここでデッドエンドは確実だが、それは刃物でも銃器でもない。  受け取ったのは、黄色いハンカチだった。ところどころ薄汚れたパステルイエローのハンカチは、たしかゴミ捨て場で骨董品の山を発見した時に落としたものだ。両手で握り締めてまじまじと観察し、たしかに同一物であることを認める。  拾ってくれたのだろうか? 森の中で熊に出会って貝殻のイヤリングを届けてもらう童謡のように? これが目的でルコをさらった――  わけがない。そんな大掛かりなことをしてどうなる。そもそも、名前も書いていないハンカチの持ち主がルコであることを知っている人間はいなはずだ。あの時ゴミ捨て場には誰もおらず、ルコは一人で骨董品の山に欲情していた。  ――そう、ルコの他には骨董品しかなかった。当然ながら、ハンカチの持ち主を知っているのはその場にいた《モノ》だけだ。  「……まさか」  緩慢に、目を見開いていった。視線の先でへらりと笑う男を改めてよく見詰めると、ずっと頭の底でくすぶっていた違和感が明確な形を得始める。奇抜な風体、人間離れした運動能力、炎の異能、そして髪を結わえた根元に差されたキセル型のかんざし――  「おうよ、九十九神さ。あの白髪のあんちゃんや金髪の坊主や黒髪の兄さんと同じ、お嬢の力で《モノ》から《ヒト》になった、キセルの化生でさぁ」  自分のあずかり知らないところで《AML》が発動していた、ということだ。ハンカチを握り締めたまま、今までにない事態に静かに混乱する。そうやって発生した九十九神が、なぜルコをさらったのかも分からない。  「キセル……もしかして、あのゴミ捨て場の骨董品?」  「そういうこった。ようやっと思い至ってくれやしたか」  だとしたら、夜道で呼び止められた時点で二度目の邂逅だったというわけだ。男はルコを知っていても、ルコはもちろん男のことを知らない。だからこそ男はごく気軽にルコに声をかけ、ルコはその場から逃げ出した。  「けど、私の力は――《AML》は、私と初めて出会ってから何年か経ってるモノにしか作用しないはず」  判明している発動条件は、『愛着感情が閾値を越えること』『対象物に名前をつけそれを呼ぶこと』『初めて接触してから10年ほどの時間が経過していること』だったはずだ。能瀬――異端管理局の調査報告にもそうあった。愛着感情には大いに身に覚えがあるが、それだけでは《AML》は発動しないはずなのに。  男はすぐさま口を開くことなく、ゆったりと含みたっぷりに笑う。  「そいじゃあ、次を思い出してもらいやしょうか。……《我乱堂》。この名に覚えは?」  がらんどう。音を聞いただけで漢字が思い浮かぶということは、どこかで目にした名前のはずだ。それがどこなのかがはっきりしない。どうにかして思い出そうと、脳のひだを掻き分けるように記憶を探る。新しい記憶から古い記憶へとさかのぼり……15年ほどさかのぼった時点で、ようやく目的の記憶にたどり着いた。あ、と声もなく口を開いて、  「……祖父が」  張り付く唇を割って、より深く記憶の奥にもぐりこむ。  「私の祖父が、出入りしていた骨董屋の名前。私も何回か行ったことがある」  たしかまだ小学校にも上がらない頃、連れて行ってもらった。築100年以上の木造平屋建ては威風堂々としていて、所狭しと並んだ木棚に古道具がごちゃごちゃと置かれた光景は、幼い目にも圧巻だった覚えがある。祖父と同年代らしい主人は気難しそうな老人で、それでも祖父が訪れれば楽しげに話をしていた。  男は深々とうなずき返し、  「上出来だ。100年近くあっちこっちの骨董屋たらいまわしにされて、たどり着いたのがその《我乱堂》さぁ。そいだけ言や、ちったぁ心当たりも出てくんだろ」  それだけ言われれば、よほど察しが悪くない限り事の次第は悟れる。  子供の頃に訪れた骨董屋で、既に初対面は済んでいた。そして10年以上の時間が経過して、めぐりめぐって、ルコとキセルの男はあのゴミ捨て場で奇跡的に再会を果たした。そうとは知らずに愛着感情を暴走させ、名前を呼んだ。《呑助》――キセルの吸い口に彫りこまれていた銘が、男の名前なのだろう。  これで3つの発動条件は全て満たされた。《AML》が発動してもおかしくはない。  「……理解はできるが、腑に落ちない」  「だろうなあ、手前だって何がなんだか分かりゃあしねえ」  呑助は、かはは、と笑う。豪放磊落、という四字熟語が良く似合う、爽快な面持ちだった。それから不意に目を細め、ルコから視線を逸らして遠くを見やる。  「一時はおめえさんのじいさんに買われてくことにもなってたんだ。そん時ゃ、お嬢も一緒に来てた。小せえ背丈で思いっきり背伸びして、じいっと手前のこと眺めてたっけな。覚えてないたぁ、つれねえこった」  「私の知ったことじゃない。それより、お前の正体はわかった。次は目的だ」  センチメンタルな追憶に付き合う余裕も義理もない。機械的に先の説明を促すと、呑助はやれやれとばかりに首を振ってほんのりと苦い顔をした。  「そう慌てなさんなって。……《我乱堂》の主人が最近おっ死んじまったってなぁ、聞いてるかい?」  聞いていない、と無言でかぶりを振る。祖父が死んでから、祖父の関係者とは完全に没交渉だった。生前ですら、《我乱堂》という名前を聞いても思い出せていたかどうか疑問だ。  「そうかい。もうトシだってんで前々から危うかったんだが、こないだ心臓の病でポックリとな。で、その主人が残した《我乱堂》と大量の骨董品をどうすっかって、一族郎党で話し合ったらしい。どいつもこいつも、美術品としての価値はほとんどねえ、売りに出せるモンはないってんで――」  ほんのりと苦味走っていた表情が、より苦味を増した。口元だけは緩めたまま、内なる痛みを押し殺すように眉根を寄せてため息混じりの二の句を吐き出す。  「棄てる、ってぇことになっちまった。しかも相当シワい連中でよ、一気に棄てると量が量でゼニがかかるってんで、少しずつ棄ててくことにしやがった。もうどんだけ仲間が棄てられたか……とうとう手前もゴミ捨て場に放り出されて、さてと年貢の納め時かと観念してたとこで――」  一転して顔色から苦い色が消える。ニンマリ、不敵にルコを指差し、  「お嬢、あんたが現れた。こりゃあどういうこったと思案する暇もありゃしねえ、気がついたらこの姿でぼうっとゴミ捨て場に突っ立ってたんでい。たまげたねえ」  愉快愉快と呵呵大笑。何がそんなに愉快なのか、ルコには分かりかねた。とりあえず、いきなり九十九神化した男に連れさらわれた現在のルコにしてみれば、愉快な要素はひとかけらも見当たらない。  束の間豪快な笑い声を上げたあとで、呑助は急に顔つきを改めた。先ほどから次々に違った表情を見せるこの男は、熱しやすく冷めやすいキセルの特性をよく表しているように思える。遊び人風情の洒脱な物言いで煙に巻く、そんなやり口もそれらしい。  「手前はお嬢の力で救われた。だとすりゃあ、同じように手前の仲間も――棄てられた他の骨董品も救えるはずだ」  「……どういうことだ?」  救う、という言葉があまりに馴染みのないものだったので、いぶかしげに問い返す。  すると、呑助は突然に椅子から腰を上げ、背筋を正して床に正座をした。何事かと目をむいている内に両の拳を床に突いて――深々と、額が床に触れるほどに深く、頭を下げる。  「お願いがありんす。あんた様のお力、《モノ》を《ヒト》にする力で、どうにか他のモンも救ってやってはくれねえですかい?」  いきなり頭を下げられたことと、救ってやってくれという懇願。その両方に頭の中身がかき乱される。それでも、これ以上の問いを重ねるのは何となく悔しかったので必死に考えた。  壊れ棄てられることは、モノにとってヒトの死と同義だ。《AML》によってヒトと同じ身体を手に入れたことでそれを回避した呑助は、たしかにある意味でルコに救われたと言えるのかもしれない。そして、今度は骨董屋の仲間にも《AML》を発動させてくれと。  呑助は頭を上げないまま、卑屈にならない程度の嘆願を繰り返す。  「無礼非礼はこの通り、なんべんでも謝りんす。けど、このままじゃあ手前らはただ黙って棄てられてくだけだ。今もおんなじ棚に並んだ仲の連中が、ゴミ山で朽ちて腐って壊れてやがる。手前には、それが我慢ならねえ。……怖ぇんさ」  最後に付け加えられた声は、小さくて聞き取りづらかった。が、たしかに怖いと言った。  自分が壊れる。棄てられる。朽ちて腐って、なくなってしまう。肉体に魂を宿らせた《ヒト》も、物体に魂を宿らせた《モノ》も、怖いのは同じことだ。自分がなくなってしまうことが怖いのは……  ――果たして、当たり前のことだろうか?  自分の中に生じた疑問に、ルコは即座に答えを出した。  違う。《モノ》は想わない、それゆえ恐れることは何もないはずだ。  《モノ》のくせに、怖がるな。それが彼女の結論。  またしても正体不明の苛立ちに襲われて、ルコは下げられたままの頭に、感情色がない冷たい視線を向ける。  「私にはまったく関係ない。正直言って迷惑だ。私が気に入ったモノならともかく、見ず知らずのモノに愛情なんて抱けるか」  愛せよ、と言われて愛せるほどの博愛主義者ではない。能瀬の要請をかたくなに拒んだのと同じことだ。それでは《AML》発動の最重要条件が満たせないし、もし仮にこの条件がなかったとしても、大好きな《モノ》を大嫌いな《ヒト》にするなんて御免こうむる。お気に入りでもなければ尚更のこと。  「好きでもないモノがどうなろうと、どうでもいい。それに――」  続きを口にしかけた瞬間、ルコの中に妙な気後れが生じる。無意識に言葉を切ってしまってから、なぜ躊躇する、と自問する。結局答えは見つからないまま、正体不明の後ろめたさを振り切るようにして声をつないだ。  「要らなくなったモノが棄てられるのは、当たり前のことじゃないか」  そう、良くも悪くもない、自然なことだ。ヒトに所有されるモノならば、その運命を受け入れるべき――  そこで思考が強制遮断された。弾かれたように顔を上げた呑助が、ものすごい勢いでルコのブラウスの襟元に手を伸ばし、押し倒すようにして締め上げたからだ。年月を経た九十九神の膂力に、非力な彼女が抵抗できるはずがない。後頭部を床に打ちつけ、ブラウスの第一ボタンもはじけ飛んでしまった。  突然の凶行に青ざめながら呑助の顔を見上げる。  憤怒の形相だった。言葉もなく目を見開き、切れそうなほど唇を噛んで首を絞める両手に力を込めている。軽やかに笑っていた男と同じ人物とはとても思えない豹変ぶりだ。  あ、しぬ。  酸素不足と脳震盪、激しい混乱で目を白黒させながら、ルコは他人事のように考えた。完全に我を忘れて怒りに身を任せている顔だ、勢いのまま首をへし折られても不思議ではない。  生理的な涙で視界がにじみ、口蓋からこぼれた舌から唾液が垂れる。酸素を酸素を酸素酸素酸素。そんな本能的な思考すら薄らいできた頃、ふと思い出したのはタオとサク、マグニのことだった。ついでに能瀬のことも。ここ数日のドタバタを回想しながら、これが走馬灯か、と変に感心した。  「……手前ら《モノ》に向かって、」  腹の底から搾り出すようにうめき、呑助はぐっと顔を近づけた。鼻先が触れ合うほどの距離の向こう側に、怒りで瞳孔が開いた瞳がある。  「軽々しくそいつを言うんじゃねえ」  怒鳴り声よりも凄みのある声音を、次第に遠くなる意識の中で聞いた。そして、  「……ごめ、な……さ……」  反射的に口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。頭が真っ白になっている状態で、なぜそんなことを口にしたのかは分からない。生存本能のなせるわざなのか、あるいは別の原因があるのか。  その一言は即効性の解毒剤のように呑助に作用した。はっとして顔色を変え、すぐさま両手をルコの首から離す。途端、ルコは何度も大きく咳き込んで床の上を悶え転がった。ようやくありついた酸素を思うさまむさぼり、喉と肺の痛みに身をすくめ、  「すまねえ……! すっかり頭に血が上って、ああ、お嬢、苦しいんかい?」  背中をさする呑助の手を振り払う気力すらなかった。胎児のように身体を丸め、必死に呼吸を整えようとあえぐ。そうしている内に何とか呼吸も正常に戻り、目尻に浮かんだ涙を拭きながら起き上がった。  「すまねえ、本当に。……だがなあ、」  引き続きいたわるような手つきで背中をさする呑助が、しゅんと肩を落とす。  「後生だから、もう二度とあんなこたあ言わないでくだしゃんせ」  先ほど頭を下げた時と同じ、もしくはそれ以上に痛切な哀願だった。  しかし、ルコの中の認識は変わらない。《モノ》は想わない、それが彼女の真実だ。首を絞められたことへの意趣返しというより、自分の主張を否定されたことに対する反感から、なおも言い募ろうとした。が、喉が上手く動かなくて返答ができなかったので、ひとまず目を逸らしてお茶を濁しておくことにする。  ――長い沈黙。背中をさする手はもう離れている。沈んだ表情で黙り込む呑助の隣で、ルコもまた声を出せずに座り込む。たとえ殺されかけても、彼女の中に怖がるという選択肢はない。驚いた、それだけだ。  閉塞した感情は、もしかしたら彼ら九十九神よりもずっと《モノ》らしいのかもしれない。  自家生産の皮肉に自嘲の薄笑みを浮かべようとしたところで、肩にインバネスがかぶせられた。ついでに、頭に山高帽も載せられる。  特に拒絶反応もなく隣を見れば、着流し一枚になった呑助があぐらをかいていた。決して暖かくないこの時期、加えてコンクリートで塗り固められた窓のない小部屋では、さぞかし寒いことだろう。どういうことだろうか、と見上げるルコとは目を合わせないまま、素っ気ない態度で、  「……もう寝なせえ。色々あってお疲れでござんしょ、明日もきっと色々ありんすから、どうか」  そういえば、と腕時計を確認すると、時刻は明け方になっていた。能瀬の最後通牒を受け取って作戦会議、家からの脱出に逃避行、追跡者との対峙、拉致、再会。色々ありすぎてすっかり時間を忘れてしまっていた。早寝早起きが基本のルコにしてみれば、こんな時間まで起きているのは珍しいことだ。  眠気でうとうととしながらも、なかなか眠れそうにない。背中の壁から足元の床から、冷気が這い上がってくる。  「……暖房ないのか、寒い」  身体を震わせてインバネスの前を合わせてもまだ足りない。床の固さは無視できるが、現実問題寒さで眠れないというのはコトだ。  首を横に振った後、呑助は少し空を見やって何事か考え込む。それからおもむろに立ち上がり、  「そいじゃあ、ちょっくら失敬して――」  ルコと壁の隙間に割り込むと、後ろから両腕を伸ばしてルコの小柄な体を抱き締めた。強くも弱くもなく、密着するだけの抱擁から体温が伝わる。鼓動のリズムと、ほんのりと香る煙草のにおいも。  ああ、生きている。こうして寄り添って、今更ながら実感した。  ロクに知らない男からいきなり抱き締められたら、普通年頃の女子は慌てふためいて逃げ出すだろう。しかし危機感も恥じらいもゼロの彼女は、特別な感慨もなくその腕に身をゆだねるばかり。暖房つき座椅子、くらいの認識だ。  「ぬくい」  「そうかい」  短い会話を交わした後、寒さが解消された空間で今度こそウトウトと睡魔にとらわれていく。  寝入りばな、面倒なことになった、と胸中でため息をついた。  面倒、だが――想いなきモノを愛する気持ちは、誰にも渡さない。  この男にも、異端管理局にも、そして……あの3人にも。      目が覚めると、昨日と同じようにコンビニ袋から出てきたおにぎりとお茶を渡された。鮭とシーチキンと鳥そぼろ、まったく同じものを選んで綺麗に平らげる。  「……気が変わった」  お茶を飲み干したルコがぽつりと呟く。それを聞きつけた呑助は、片眉を跳ね上げるばかりで口を挟むことなく、その次の言を待つ。膝を抱えて床に座りながら相変わらずの無表情で、  「愛着感情の発露が《AML》の発動要因だ、やれるかどうかは分からない。けど、やってみる」  「そりゃあ――」  「その代わり、私も要求する」  椅子の上であぐらをかく呑助が軽く目を見開いた。問いかける隙も与えずに要求の内容を述べる。  「まずは、私を異端管理局の追っ手から守れ」  「異端……? そりゃあアレかい、あん時お嬢らを囲んでやがった連中か」  「そう。色々あって逃げていたところだった。捕まれば連行されて、私は《AML》を消去される」  言外に『そうなったらお前も困るだろう』という含みを持たせた。多少の語弊や言いこぼしはあるものの、嘘は言っていない。  呑助は無精ひげの顎をかきながら斜め上に視線をやり、  「……まずは、ってえことは、次があるってこったな」  「ではその2。――『お前の要求を実行する前に、私をあの3人の九十九神に会わせろ』。ことによっては二度と会えなくなるかもしれない。その前に……言っておきたいことがある」  いかにも人間味のある要求だが、眼鏡の向こうの彼女の目は無感情のままだった。今生の別れを惜しみたいという者の顔ではない。  呑助はそれに気付かなかった。額面どおりに要求を受け取ったのか、《モノ》としての人格を認めてくれたと思ったのか、目元が満足げに緩む。ぱしん、と威勢良く膝を叩いて、  「合点! お安い御用だ、二つとも引き受けた」  気を良くして快諾する。  「かっちけねえ……ありがとな、お嬢。これであいつら救ってやれらあ」  「確証はない。無理だった場合は諦めろ」  現実を忘れてもらっては困る。感情の起伏が激しい異装の美丈夫の顔色が、すぐさま愁眉に染まる。  いたたまれない沈黙に、ややあって珍しく再びルコの方から口火を切った。  「そういえば、お前の異能は炎を使うんだな」  昨夜の出来事が思い出される。あの時、追い詰められていた彼女の目に飛び込んできた、鮮烈な橙の炎。タオたちと共にいて異能慣れしてはいるが、流石に目の前で路面が炎上すれば驚く。  「ああ、こうやって――」  顔を上げた呑助が、急にパンパンと柏手を打った。神社でよく見かけるあの動作だ。すると、着流しの両袖から少量の白い粉が床の上に零れ落ちた。よく見れば、それは微細な灰の粉だった。  「出てきた灰を落とせば、」  一呼吸置いた後、ふわりと空気の質が変化する。いや、世界そのものといった方が近い。窓もないはずの室内に微風が吹き、灰が落ちた床から炎が上がった。昨日見たのと同じ橙色をしていたが、規模はマッチを束ねて燃やした程度の小さな炎で、踏みにじる下駄の歯の下ですぐさま消えてしまった。  「ってえこった。灰の量を調節すりゃあ、大きな炎も起こせらあな」  なるほど、と首肯を返しながら、昨夜の場面を思い返す。暗くてよく見えなかったが、あの時燃え上がった路面には灰が降り積もっていたらしい。パイロキネシス――自然発火能力ならば厄介だが、こうして媒介物が必要ならばそれなりの手を打って出し抜ける。  得意げな呑助を見詰める目は、感心というより観察する者の色をしていた。それを悟られまいと、別の質問を追加する。  「異能とは別に、お前達にはそれぞれ特殊な性癖があるんだろう。お前は何に執着しているんだ?」  正直、ルコにとっては異能よりも厄介なオプションだ。呑助は意地悪げに片頬を吊り上げて、  「へえ、お嬢は本当にそいつを知りてえんかい?」  「興味はある」  「後悔しねえか?」  「問題ない。変態には慣れてる」  自分も含めて、とは言わない。妙に出し渋る様子と悪戯な表情に、少し気が引けてきた。やっぱりいい、と言おうとした、その時。  ――唇が重ねられる。顎に手を添えられ、呼吸をする程度の自然な動作で。世間一般で言うところのキスというやつだ。ちなみにファーストキスだった。  触れるだけの口付けが終わると、彼は呆然と瞬きを繰り返すルコの唇を丹念に親指で撫でる。感触をたしかめるように、何度も。  「ふむ、ちいっと荒れてやがんなあ。でもまあ、乳くせえお嬢ちゃんらしい柔らかさだ、悪かねえ」  「…………なんで?」  やっと出てきた言葉がそれだった。愉快そうに喉を鳴らす呑助は、ルコの唇を撫でていた指先を舐めて見せ、  「なぜと問われりゃあ、そりゃあ手前はキセルだからで。主人の唇にくわえられてると、もうそれしか見えなくなっちまう。良い具合の唇を見かけると、誰彼構わず口付けたくなるんでさあ」  つまりはキス魔ということらしい、唇フェチの。九十九神化してまだ日が浅いから良いものの、そのうちきっと捕まるに違いない。にしても、いきなりのキスとは驚いた。まだ頭に白い部分が残っているが、そこは危機感恥じらい皆無のルコのこと、それ以上の感慨はない。  「これでも吉原の花魁にくわえられてたこともありんすよ。あの唇の張り、湿っぽさ、とろりとした紅の匂いに少しの生ぐささ、ありゃあ極楽浄土のもんさ。もういっぺん、一度だけでいいからあんな唇に口付けしたいもんさねえ。……おっと、失敬したなお嬢。もしかすっと、アレかい、初もんかい?」  うっとりと語っていた呑助が、悪戯めかした顔でルコの両瞳を覗き込む。  それに対して、すっかり茫然自失状態から立ち戻ったルコは、どこまでも無表情に手の甲で唇をぬぐった。丹念にゴシゴシとこすってから、何事もなかったかのようにお茶の残りを飲み干す。  「……おいおい、あんまりじゃねえかい」  「何が?」  なぜかガックリと肩を落とす男に構わず、彼女は勢い良く立ち上がった。睡眠不足と疲れで少し足元がふらつくが、問題なく歩ける。  「ボサっとするな。行くぞ」  「……へーい」  やれやれ、と頭をかいて、インバネスを羽織り山高帽を頭に載せる。前を行くルコに代わって扉を開け――         + + + + +      「――……いけませんね」  停車したミニバンの運転席で、マグニが気重げなため息を漏らす。今まで漆黒に染まっていたモノクルが元の透明度を取り戻し、レンズ越しにマグニ本来の左目が現れた。  「半径5km以内の《ハッキング・ポイント》にくまなく接続してみましたが、お嬢様の視覚は捕まりません。おそらくは圏外でしょう」  「じゃあ、もう少し移動範囲を広げた方がいいね」  助手席でドライビングマップを広げたタオが、赤いペンで印をつける。  ――あれから最速で街まで降りた3人は、寝る間も惜しんであちこちを駆けずり回った。不思議なことに検問に捕まる気配はなく、車は乗り捨てずに済んでいる。  移動手段を持っていないあの男は、自分の足を使って動き回るしかない。追われているのはタオたちもルコたちも同じなので、あの目立つ風体では公共交通機関を使うこともできないだろう。だとすれば、あの峠をわざわざ越えたとは考えられない。山道を下って街へ出たと見るべきだ。そうやって範囲を予測しておいて、あちこちを走りながらマグニの目で接続できるポイントを探す。運良く接続できればルコの視点から位置情報がつかめるだろうし、少なくとも半径5km圏内にいるということが分かる。  即興で組み立てた作戦にしては上出来の部類に入るだろう。混乱からひとまず立ち戻った3人で、頭を寄せ合って考えた。異端管理局に関しては、この際『見つかりそうになったら逃げる』くらいの心構えで挑んでいたのだが――  「にしても、平和なもんだな」  昨夜の打撲がまだ尾を引いているらしく、サクは後部座席に寝転んでいる。特に片肺を直撃した掌底が効いているらしく、息を吸うたびに胸を押さえる始末で、起き上がるとなるとそれなりの痛みを覚悟しなければならない状態だ。  「平和というか、嵐の前の静けさというか……ここまで音沙汰がないと、逆に不気味だね」  そう、かれこれ12時間ほど逃走しているのに、一向に追手がかかる気配がない。ルコの探索と平行して追跡者のサーチもしているが、マグニの《千里眼》に引っかかることもないとなると、5km圏内にすらいないということになる。  向こうにも《千里眼》持ちが存在する以上、こちらの動きを読むことは難しいことではないだろう。それでなくとも相手は組織だ、物量にものを言わせてローラー作戦を展開することもできる。  それをしないということは――泳がされている、もしくはタオたちの方は放置されている、と見ていい。  「相手方の意図は読み取れませんが、好都合です。追いつ追われつとなれば動きづらいでしょうから」  「うん、向こうの事情が分かればいいんだけど……それを利用して何とかできるかもしれないし」  「……意外と腹黒いよな、お前って」  後部座席から聞こえた声音に、思考を中断して振り返るタオ。頬にはどこか子供っぽい苦笑いが浮かんでいる。  「そうかな? ルコさんに手洗いしてもらってるから、俺は純白のバスタオルのはずなんだけど」  「んなもん関係あるか。俺だってしっかり研いでもらってるけど――」  続きを口にするのをためらった後、結局サクは口を閉ざしてしまった。大体の予想はつく。『全然とんがってねえよ』だの、『性格的にイマイチ鋭くなれてねえだろ』だの、そんなところだろう。弱みを口にしかけてやめる、そんなうかつな仲間が微笑ましくて、タオは久しぶりに素直に相好を崩した。  「それでは別のルートでまた虱潰しに――」  エンジンキーを回そうとしていたマグニが凍りつく。息をするのも忘れた様子で目を見開き、何かをじっと見据えている。いつの間にか、左目のモノクルが再び闇色に染まっていた。  「――捕まえ、ました」  「マジか! どこだ!?」  いきなり起き上がったせいで肺を抱えて悶絶する羽目になったサクに代わり、タオが視線で問いかける。《千里眼》の持ち主はうなずき返しながら米神に指を当て、深い呼吸を繰り返し、  「……不明です。どこかの廃公園が見えます、今そこへ向かって――お待ちください、ただいま《視点》を切り替えます」  モノクルが瞬くように闇色の濃度を変え、マグニはしばらく黙り込む。次に彼が口を開いた時には、既に車のエンジンがかかっていた。急ハンドルを切って路上をUターン、後ろの席で肺を抱えてのたうちまわっていたサクが、悲痛な悲鳴と共に後部ハッチへと転がっていく。  「付近のカラスの視覚をお借りして、上空から郵便局の看板が確認できました。局名は――」  マグニが口にした郵便局の名前を、タオが即座にドライビングマップで確認する。紙面に指を走らせ、半径5kmの円周をなぞり、  「――あった! マグニ、そっちじゃない、反対! Uターン別に要らなかったから!」  「失礼いたしました。つい」  生真面目顔でサラリと返して、また急ハンドルを切るマグニ。後部ハッチから上がるうめき声は、先ほどよりも更に痛切だった。  「……てめ、マグニ……おぼえ、てろよ……」  息も絶え絶えに怨嗟するサクを無視して、ぐっとアクセルを踏み込む。助手席からの指示に耳を傾けながらハンドルを切り、たった一つの目指すべき場所へと最大速力で街を駆け抜けていった。      その公園は遺棄されて久しいらしく、悲惨なほど荒れ果てていた。雑草がまばらに覆い茂り、遊具類は全て錆の色に塗り替えられている。茜色が差し始める中、片方の鎖がちぎれたブランコが風に揺られてキイキイと鳴いていた。  「――お嬢、お着きでさあ」  折れ曲がったジャングルジムに触れて朽ちた鉄の感触を味わっていたルコに、すぐ傍にたたずんでいた呑助が廃公園の入り口へと顎をしゃくって見せる。  ゆっくりと振り返れば、雑草を踏みしめながら3人の九十九神が歩み寄ってくる姿が目に入った。  眉尻を吊り上げてズカズカと乱暴な足取りで進む金髪の青少年、その後を追うようにやや早足でやってくる片眼鏡の若紳士、そして。  「やっと見つけた」  最後尾、のんびりとした歩調で近づいてくる白髪の青年。いつもの力の抜けた笑みはなく、それどころか表情らしい表情は顔のどこにも見当たらない。持ち主たるルコによく似た、温度のない無表情。  ――風がやんだ。2人と3人はしばらくの間、口を開かないまま対峙する。  「とりあえず、てめーの御託はボコってから聞いてやる」  沈黙に耐えかねたサクが一歩前に進み出て、右手の人差し指と中指を揃えて立てる。胸の前にかざすような格好で見えない刃を構え、飛び掛るタイミングを測るように呼吸を整えて――  「その必要はない」  緊迫感に満ちた雰囲気を打破したのは、感情をどこかに置き忘れてきたようなルコの一言だった。サクの構えが緩み、背後の二人も軽く目を見開く。それを見届けてから、彼女は隣に佇む呑助を視線で示し、  「私は、この九十九神についていく。そしてこいつが望むことを成す」  「は!? おい、ルコ何言って――」  悲鳴に似たサクの声音を無視して、はっきりとした語調で二の句をつなぐ。  「私自身がそうしたいと望んだ。しかし、場合によってはもう帰ってこられないかもしれない。その前に――」  感情の色が伺えなかった双眸が、すうっとすがめられる。徐々に、その瞳に冷たく剣呑な、突き放すような色が差していく。誰もそれに気付かないまま、次の句がつむがれた。  「お前達に言いたいことがあって、ここへやってきた」  「……てめー、ルコに何言いやがった?」  不吉な匂いを嗅ぎ取ったのか、サクはその言葉を聞かなかったことにして視線の矛先を呑助に向ける。その先にいる和装の美丈夫はどこ吹く風といった風情で、飄々とした顔つきで鋭い視線を受け流した。  「まさか脅されて――おい!」  刃そのもののような眼差しが、ルコの首筋にうっすらと浮かぶあざを見咎める。昨日の夜、呑助が激昂したときに出来た絞め痕だ。辺りに満ちるサクの殺気が一気に高まった。  「……その首、どうした」  不自然に押さえ込まれた問いかけの声に、ルコは何の頓着もなく端的に返答する。  「絞められた」  「絞められただと!? っざけんな、そうやってルコ脅して、無理矢理――」  「うるさい、すべて私の勝手だ!」  自分でも気がつかない内に、怒鳴り声がサクの追及を遮っていた。こんな大声を上げることなど滅多になかったのに、感情に任せて声を荒らげて。彩のなかった表情に、怒りの朱が差す。  ――ああ、心配されている。  『《モノ》のくせに』『勝手に』心配しているんだ。  そう思うと苛立ちが芽生え、胸中で急激に枝葉を伸ばし、焼け付くような根を張っていく。  イライラする。そう、想われることに、イライラしているのだ。  ルコは体の芯からくすぶるような苛立ちに任せて、  「全て私が決めたことだ。《モノ》は《モノ》らしく、余計な疑問は口にするな。私の言う通りにしないなら――」  ごぎん。廃公園内に重々しい轟音が響いたのは、その時だった。  何事かと音のした方を見ると、老朽化したジャングルジムに拳を叩きつけるタオの姿があった。うつむいているので表情はうかがい知れないが、殴りつけられたジャングルジムの様子ははっきりと見て取れた。  鉄骨がぐんにゃりと折れ曲がり、紙細工のようにひしゃげてしまっている。いくら古びているとはいえ、鉄のパイプを組み合わせて作った遊具だ、普通の人間にはヘコませることすらできないはずなのに。100年以上の年季を誇る呑助ならまだしも、作られてからまだ年月の浅いタオにそんなことができるはずがない。  ――九十九神は、それぞれの原型に見合った異能を備えている。が、発生してから今までの一年弱の間に、タオが異能を発現させたことはない。発現する機会がなかったのか、元々異能を持っていないのか。少なくとも見たことがない。意外に腕力があることは知っていても……これは、異常だ。  この単純暴力は異能と言って良いレベルだが、しかしタオはバスタオルの九十九神であって、本来異能はその原型に即したものでなくてはならないはず。  こんな異能を持つ《モノ》が、バスタオルの九十九神であるはずがない。だとすれば――  バスタオルの九十九神でない《コレ》は、一体何《モノ》なのだろうか?  そう考えた途端、目の前の青年が得体の知れない存在に見えてきて、少しぞっとした。  が、見るのが初めてであることは仕方ないのかもしれない。今の今まで付き合ってきて、彼が本気を出す姿は誰も見たことがなかったのだから。そして、  ――ここまで怒っている姿も。  ジャングルジムからゆっくりと拳を上げ、タオはうつむいたままひどく静かな声調で口を開く。  「……悪いけど、どうでもいいんだ。キセルの人の事情も、異端管理局の事情も――ルコさんの事情も、もうどうでもいいんだ。どうでもいいから――」  ゆっくりと、顔を上げる。眼光の色合いが変わっていた。研ぎ澄ましたように鋭く、煮えたぎるように熱く、貫くようにまっすぐな視線。そのくせ無表情には変わりがないので、静かな怒りの眼差しが余計に目立って見えた。  たった一言、低く轟くような声音で告げる。  「ルコさんを、返せ」  恐怖心の薄いルコでも、本能的な部分でぎくりと身をすくませた。他の3人も、完全に動きを止めて息を呑んでいる。夕暮れ間近の公園じゅうに、殺気とも敵意とも違う、肌を焦がすようなプレッシャーが満ちた。  深海の水圧じみた空気を押しのけたのは、同じくルコの怒気だった。タオの一言で苛立ちの温度は更に上がり、二つの剣呑な圧力がぶつかって拮抗する。  「私が元々お前のモノだったような物言いだが、私はお前のモノになった覚えはない。帰る場所くらい、自分で決める」  「俺たちだって、取り戻したい人は自分達で決めるさ」  こうなっては一対一だ。呑助の手からルコを取り戻しに来た九十九神3人、という構図だったはずが、いつの間にかルコとタオの決闘のような気配になっている。両者一歩も譲らず、意地を張り合う一騎打ち。数歩分の間合いを空けて、無表情に睨み合う二人。  「お前達《モノ》に決定権はない」  「じゃあ……力ずくで、奪い返すよ」  言葉による応酬はそこまでだった。雑草の茂る地面を蹴り、一気にルコへと駆け寄るタオ。ほとんど一足飛びの足運びは、『速い』の一言に尽きる。  タオが伸ばした指先がルコに触れる直前、呑助の手がそれを振り払った。ばちん!と音が鳴るほどの強さで打たれた手。一瞬も怯むことなくもう片方の拳を、今度は呑助に向けて放つ。その一撃も同じように受け止められたものの、下駄の歯がじり、と地面を削って後ろに押しやられる。  「……手前も年季物だと思ってやしたが、こりゃあ」  泰然と浮かべる笑みはそのままに、歯噛みする呑助。  基本的に、九十九神の身体能力や異能のレベルは、年齢――作られてからの年月が長じるにつれて高くなる。100年以上生きてきた呑助に、四半世紀も生きていないタオごときが腕力で敵うはずがないのに。なのに……  組み合いを解いた呑助が、わずかに腰を落として両足に力を込める。軽く引いた左の掌底をタオの胸に打ち込んだ。が、微妙に半身を引いて打点をずらしたおかげで打ち抜かれることはなく、掌底は胸先をえぐるように行過ぎていく。  とはいえ肺に食らったのは事実。本来なら昨夜のサクのように呼吸困難に陥って胸を抱えるはずなのだが、タオは苦しげに顔をしかめて少し咳き込むだけで、しっかりと両足で地面を踏みしめていた。腕力だけではない、肉体強度も桁はずれているということか。  下がった分だけ再び踏み込み、今度は振り上げるような蹴りを放つ。フェイントも何もない、素人丸出しの攻撃だが、威力だけはある。力の流れを逸らすように受け止めた呑助の腕が、みしり、といやな音を立てた。  完全に流し切ると同時に、舌打ちして後ろに下がる呑助。柏手を打てば、世界が歪むような違和感が辺りを包んだ。打った両手の袖口からこぼれた白い灰が、微風にさらわれてタオの方に向かう。吹き付ける白を全身にかぶりそうになる寸前、  「タオ!」  いやな予感を感じ取ったのか、タオを押しのけたサクが右手を袈裟懸けに振り下ろす。不可視の刃で引き裂かれたのは、空気とそこに混じる灰の霞。更に距離を取ろうとタオと一緒にその場に倒れ込んだ直後、今までいた空間が橙色の炎に包まれた。  地面に叩きつけられた衝撃で肺が痛んだのか、苦鳴を押し殺しながら悶絶するサク。  「お二人とも、後ろです!」  マグニの警告の声に、タオは反射的にサクを抱えてその場を飛びのいた。振り下ろされた下駄の歯が地面に打ち付けられる音が、背後から重々しく聞こえる。  振り返った刹那、今度は顎先を掠めるような殴打が繰り出された。ギリギリでかわした拳が空中で失速し、急角度で肘打ちに変化する。避けられない、肘はタオの米神を正確に打ち抜いた。  ぐらりと体がかしぎ膝を突くと同時に、今度は前蹴りが襲い掛かる。昨夜の追走劇で傷を負った肩に下駄がめりこみ、弾き飛ばされ地面をこすりながら転がった。ようやく止まったと思ったら、肩の傷が開いたのか、白いシャツが鮮やかな深紅に染まっていく。擦り切れた米神からも、切れた唇からも、薄く血がにじんできた。  「まだまだ」  連撃は終わらない。脳震盪でぼんやりしている間に、呑助が柏手を打つ。ざぁ、辺りの空気が渦巻いて風になる。煙のような灰色に取り囲まれる中を慌てて抜け出そうとするが、若干遅い。完全に脱出するほんの少し前に灰は炎に変わり、背中の左半分と左腕にまとわり突いた。生まれて初めて経験するであろう火傷の痛みに、焼き払われた雑草の上に倒れ込んで声なき悲鳴を上げるタオ。そのおかげでそれ以上の延焼はなく、さほどひどいダメージにもならなかったのが幸いか。  しかし、すぐには起き上がれない。振り上げられる蹴り足を見上げながら身じろぎするが、左半身が上手く動かないようだ。  ここまでか、と諦めかけたそのとき、二人の間に割って入ってきたのはスーツ姿だった。両腕を交差させて上段からの蹴りを防ぐと、骨がきしむ音がルコにまで聞こえてきた。  「暴力沙汰は好きになれませんな……!」  「だったら大人しくしてなあ」  マグニが防御の構えを解くよりも先に、呑助はその場にしゃがみこむ。低い姿勢から放たれた足払いにあっけなく捕われ、体制を崩すマグニ。倒れ伏したその腹腔に、鉄槌のようなかかとが振り下ろされる。強制的に呼気を搾り出され、それ以上は息ができず起き上がれもしない。  サクも何とか身を起こそうとするが、ついた両手は土をかきむしるばかり。一番重傷のタオはあちこちに焦げ跡をつくり、傷口からの出血で右腕を赤に染め、米神の擦り傷から血を流し、打撲痕は数え切れない。骨も何本かやられているだろう。  ルコは複雑な思いで一連の戦いを見つめていた。  たしかに、タオの膂力や耐久力は並外れている。だが、肉体的な強度のみで決する勝敗はまずありえない。喧嘩慣れしていない彼に対して、呑助は明らかに喧嘩の術を心得ているようだった。戦前戦中戦後を生き永らえて染み付いてきた何かがあるのだろうか、《生まれて》間もないというのに戦い方を知っていた。  もうやめろ。そう怒鳴りたくなった。  これ以上は立ち上がるな、後先考えず突っ込むな、もういい、私のために身体を張るな、傷つくな。  勝手なんだよ、お前達は。どいつもこいつも。  知らず知らず拳を握り締めて唇を噛み締め、ほとんど睨むように場の惨状を凝視する。  ――戦闘不能に陥った3人を前に、呑助は両腕を大きく開いた。大きく振りかぶり、ぱんっ!と派手に柏手を打つ。風になぶられ、逆巻き、視界がかすむほどの大量の灰が3人を取り囲むように吹き乱れる。  炎上。空気も地面も分け隔てなく、橙色の炎が焼き焦がした。ただし中心部には及ばず、周縁部のみを燃やすに留まる。  「――……王手、取ったり」  炎が巻き起こす風にインバネスをはためかせ、肩を軽く上下させる呑助が顎先の汗をぬぐう。始終優勢だったが、それでも負担はあったのだろう。肺一杯に空気を溜めて、長く深く息を吐き出し呼吸を整えた。  チェックメイト宣言は成された。これで、終わりだ。  やっと目を逸らそうとした、そのとき。  炎の向こうから、手が伸ばされていることに気付く。  白いシャツの左腕が焼け付いていく。高熱の壁に遮られながら尚も這いずって、1cmでも1mmでもルコに近づこうと、タオはその身を焦がしていた。  執念深い、というレベルではない。病的であり偏執狂的ですらあるその姿に、流石にルコも呑助も目をむいた。それから、ルコは苦々しげに眉根を寄せ、呑助は目を細め。  「……おめえさん、いってえ何《モノ》なんでい?」  「……何《モノ》でも、構わない」  しゃがれた声が途切れ途切れに聞こえる。倒れながらも一心にこちらを見詰める視線は、痛みにも絶望的状況にも揺るいでいない。  「たとえルコさんが愛するバスタオルじゃなくなっても、九十九神ですらない化け《モノ》になっても――いいんだ。ルコさんを取り戻せるなら、何でもする」  徐々に沈静化してきた炎は、左腕を炭にする前に空気に溶け消える。風に乗って飛んできた白いシャツの切れ端が、ルコの足元にひらりと舞い降りた。縁の焦げ跡を認めて、頭が真っ白になる。  いやな予感がして、急いでタオに視線を戻す。彼は火傷を負った左の拳を、渾身の力で地面に叩きつけた。ダァン!と地面が揺れるほどの力強さで。見開かれた双眸が、悲痛なほど強く輝く。  「何にだって、なってやる……!」  押し殺した咆哮と共に両手足を獣のように地面について、鎮まりつつあった炎の壁を突っ切る。もうとうに限界は超えているはずなのに、その動きはいまだかつてないほどの速さと強さを備えていた。  呑助にできたのは、柏手を打つことだけだった。すぐに目の前に灰の霧が生じ、後ろに傾ぐようにしてその場から飛びのく。  タオに躊躇はない。低い姿勢でそのまま突っ込み、火傷まみれの左腕で灰混じりの空気を振り払う。腕は次の瞬間にパっと燃え上がったが、それだけだった。何の頓着も見せず、橙の炎に包まれる腕を従えて呑助に飛び掛る。  「――こンの、」  罵声と一緒にその場に引きずり倒されながら、呑助は何とか腕を押しのけようともがいた。しかし馬乗りになって肩を押さえ込むタオの手はびくともしない。握り締めた拳を振り上げ、米神に一撃。徒手空拳で生身の頭を打った音とは思えない打撃音が聞こえ、山高帽が飛ぶ。  もう一撃。今度は腹に。更に一撃、顎先に。その次も、その次も――  呑助がぐったりと動かなくなったところで、ようやく立ち上がったタオが振り向いた。  その表情を目にした途端、喉の奥で息が凍りついた。  こわばった表情に、両の瞳だけが爛々と煮えたぎっている。遠すぎる何か、あるいは近すぎる何かを覗き込んでいる、そんな目。視線はルコに向けられているものの、見入っているのはルコではない。  ここにはもう、柔らかく笑うバスタオルの九十九神は存在していなかった。  正体不明の化け《モノ》が一人、いるだけだ。  ――怖い。  そして、それ以上に無性に腹が立った。  一歩、タオが踏み出す。ルコは動かず、じっとその足取りを睨みつけている。もう一歩、次の一歩、その次の――やがて至近距離に近づいて、ゆっくりとボロボロになった腕を伸ばすタオに、彼女は静かな呟きを吐いた。  「……『何でもする』『何にだってなってやる』、だと?」  触れる直前だった指先がピタリと止まる。こわばったままの顔を冷たく見据え、彼女はできる限り息を吸い込んだ。そして、その全ての息を使って力いっぱい怒鳴りつける。  「――そんなこと、誰が望むか!」  拳の一撃よりも強力な怒声に頭を殴られて、初めてタオの両目の光が揺らいだ。表情筋に入りすぎていた力が抜けていき、さあっと我に返っていくのが見て取れる。腕を下し、目を見張って血で汚れた唇を開こうとするが、怒りに身を任せたルコは止まらない。  「私がいつお前に犠牲になれと言った? いつ身を挺してかばってくれと言った? 昨日、刃物を投げられながら私を逃がそうとした時もそうだった。そんなの自分勝手だ、お前の自己犠牲精神はただの自己満足だ、このエゴイスト! そんなバスタオルなんて、お前なんて――」  怒りの高熱に踊らされていた頭が、急激に冷めていく。沸点から氷点下まで。  自分が今から言おうとしていることは、とても冷酷なことだ。それがよく分かる。  けど、今更止められない。  自覚すれば、荒らげていた声音はこれ以上ないほどに平坦になった。  「もう要らない」  冷たい一瞥を寄越す先で、タオの顔から血の気が失せていく。知ったことか、《モノ》の気持ちなんて知ったこっちゃない。  「勝手に焼け焦げて、血にまみれて……もうボロボロだ。持ち主の言葉も聞かず、勝手に身体を張るバスタオルなんて……もう知るか、こんなの要らない。私が愛してるのは《モノ》なんだ」  吐露する心情はずっと心の底にくすぶっていたもので、そのくせ吐き出すたびに胸の内側から針でつつかれるような痛みが生じた。その痛みを無視して、ぐっと拳を握る。  ずっと言いたかったのは――  「もうこれ以上、《ヒト》になるな、想いを寄せるな!」  呆然と蒼ざめるタオに向けて、刃物を振り下ろすような心地で最後通牒を叩きつけた。子供の癇癪とは違う、決定的な冷たさを宿した静かな叫びは、その場にいた全員の耳を突き抜けて心に爪を立てる。  虚脱状態のタオは声もなく目を見開いている。その代わりに一番の過剰反応を見せたのは、這いずりながら徐々にこちらへ近づいていたサクだった。  「ルコ……! お前、今自分が何言ったのか分かってんのか!?」  我を忘れてまなじりを吊り上げ、震える足で立ち上がろうとする。それが叶う前に、ふらつく足取りで起き上がった呑助が、血を軽く吐き棄てながら立ちふさがった。苦い顔で黙り込む呑助に口の中で何事か毒を吐きながら、サクは結局立ち上がることなくその場に膝を突く。  分かっている。何を言ったのか、それがどういう意味を帯びているのか。その答えを代弁するかのように、仰向けに転がったままのマグニが、   「わたくしたち九十九神が最も恐れているもの――それは、『要らない』という言葉でございます。お分かりですか? ご理解いただけますか、お嬢様? ……いいえ、分かるはずがない。《ヒト》に《モノ》の想いなど、分かるはずがない」  ルコに負けず劣らず冷え切った声音ながら、その面持ちはどことなく悲しげで諦めの色が強くにじんでいる。  「……ルコ。お前は言っちゃならない言葉を言った。しかも良く考えてのことじゃねえ、思いつきで軽々しくだ。俺には許せね――」  「いいんだ、サク」  なおも言い募る青少年の言葉を遮ったのは、やっと虚脱状態から抜け出したタオだった。といっても、感情の色は欠落したままで、ただ自動的に乾いた笑みを浮かべている。  「そう、だよね……自分勝手なんだ、俺は。だから、ルコさんに『要らない』って言われても……仕方ないね」  はは、と空虚に笑う表情は、逆にひどく痛々しく見えた。本人だけはそれに気付かず、笑いながらその場に膝をついてうなだれる。  「あはは、どうしよう、持ち主に棄てられて、バスタオルとしての存在意義も棄てて……俺はこれから、一体何になればいいんだろうね?」  問いかけに答えはない。その代わりに、ルコは3人に背を向けた。転がった帽子を拾って頭に載せる呑助が、ふらつきながらその後に従う。  「……言いたかったことはこれだけだ。許せないならそれでもいい。どっちにしろ、私は帰らない」  振り返ることもなく、ルコが冷ややかに告げる。数秒間だけ立ち止まり、何かを押し殺すように目をつむってから、  「私はお前達を棄てる。だから、お前達も私を見限ればいい。――さよなら、だ」  もう後には戻れない。誰も彼女を引き止めない。  ――2人が去った後、焦げ臭い空気がわだかまる廃公園内には3人だけが取り残された。  サクは座り込んだまま地面に爪を立て、土をえぐっている。マグニは仰向けのまま暮れ始めた空を見上げ、冷めた顔で眉間に悲しげなシワを刻んでいる。  そしてタオは、しばらくの間身じろぎもせず、空虚に笑い続けていた。         + + + + +      廃公園を出た後、無言の呑助に抱えられてかなりの距離を稼いだ。マグニの《千里眼》が及ぶ範囲は心得ていたので、その範囲の外を目標にして街を横切って――夜になってからたどり着いたのは、街の隅に佇む一棟の廃ビルだった。放棄されてまだ時間は経っていないらしく、そうひどく損傷しているところはない。もちろん電気も水道も止まっていたので、またしても暖房なしの夜を過ごす羽目になりそうだが。  今のところ、異端管理局からの追手もない。能瀬の言からして、管理局は既にこちらの居所を掴んでいるだろう。なのに捕捉にかからないのは何か策があってのことなのか、それともやむにやまれない事情があるのか。  ――考え込んでみても、なかなか思考に没頭できない。頭の中の別の部分の感情がそれを邪魔する。  夜更け過ぎ。廃ビルの屋上の片隅で膝を抱えながら、ルコは焼け焦げた布の切れ端を握り締めていた。昼間のいざこざで焼きちぎられた、タオのシャツの切れ端だ。真っ白だったはずの布地は茶色のグラデーションに染まっていて、端は真っ黒に炭化している。  掌に乗るような小さな布切れに視線を落とし、観念して3人の九十九神について考えることにした。  なぜだかひどくモヤモヤする。言い知れない何かに胸をふさがれ、マトモな考えが浮かばない。暗い中、布の表面を指で撫でると、焦げ跡の他にも乾いた血の感触が返ってきた。左の袖の布地なのだろう、既に酸化して真っ黒になっているため、あの赤を思い出して眩暈を起こすことはなかった。  包みこんだ両手ごとそれを額に押し当てて瞑目する。バスタオルに顔をうずめた時にいつも感じていた愉悦が、腹の底からわきあがってきた。しかしそれには切なさの成分が混じっていた。  あの時、自分は何と言った?  ――『要らない』と、そう言った。  そう告げた時のタオの表情が、まぶたの裏に焼きついて忘れられない。  どこまでも空っぽで、絶望の匂いがする笑い顔。  やめてくれ、《モノ》のくせに私の心をかき乱すのはやめて、お願いだから――  「眠れねえのかい、お嬢?」  屋上の入り口から聞こえた声に、思考を中断する。カランカランと下駄を鳴らしながら、呑助が歩み寄ってくるのが見えた。昼間タオに殴られた痛みが消えないらしく、片腕で脇腹をかばっている。元の顔が整っているだけに、米神と片頬の打撲痕がやたら目を引く。  うん、と小さくうなずき返すだけのルコの隣に大儀そうに腰を下して、こちらの表情を伺う。大丈夫、無表情は取り繕えているはずだ。ただし、両手で握り締めていた布切れで全てを見透かされた。呑助はうっすらと苦笑を浮かべ、  「大方、あのあんちゃんに言っちまったことで、今更後悔してんだろ」  その通り。だが正直に答えるのは気が引けたので、別の疑問を口にした。  「……タオがなぜあんな顔をしたのか、分からない」  「やっぱ分かってねえんかい。ちっと俺まで腹ワタ煮えてきたんで、また無理矢理口付けしてよござんすか?」  「好きにすればいい」  本気でどうでも良さそうに返すルコに、『これだから』とばかりに大げさにため息をついて見せる。  ……しばらく、沈黙が続いた。明かりのない廃ビルの屋上には風が吹きすさび、片隅でうずくまっていても寒い。頭上には半分以上欠けた月が浮かんでいた。夜更けの街に救急車のサイレンの音だけが響き渡る。  「いいかい、お嬢」  不意に口を開いた呑助を、横目で伺うように見やった。彼もまたこちらに視線を向けることなく、顎を上げてぼんやりと宙を見詰めている。  「おめえさんがどんだけモノを好いてても、手前らはどうしょもなく《ヒト》と《モノ》の合いの子でしかねえ。そうしたんはお嬢、あんたでさあ。《ヒト》でも《モノ》でもねえ、だから手前らは想う。こりゃ詮無いこった。――だから、それを否定しないでおくんなせえ」  淡々と夜に溶け込む声音の後に、またしても静寂が訪れる。今度はそう長くはなく、口を開いたのはルコの方だった。  「……こんなはずじゃなかった」  消え入りそうな呟きは、やがて途切れ途切れの独白に変化していく。  「私は、一方的に愛するだけで良かった。その見返りを期待したり、与えられる愛情がいつか消えてしまうんじゃないかと怯えたり、そうやって苦しい思いをしたり……そんなのは、御免だった」  「そうかい、そいつぁムシの良いハナシだな」  「なのに、あいつらは私のことを想う。《モノ》だからそれは愛情じゃなくて欲情だって、安心してたのに……あれは、紛れもなく《想い》だったんだ。――想われるのは、嫌いだ」  「愛されるんが怖くって、あいつらの《想い》をなかったことにするつもりだったんかい?」  そう問われた途端、はっと目を見張った。  愛されるのが怖かった。直球で指摘されて、ようやくその事実を自覚する。  ああ、そうか。《モノ》を愛して《ヒト》を愛さないのは、返ってくる《想い》が怖いから。拒絶でも憎悪でも、同じ愛情でさえも。疑って失って、傷つくのが怖いから。  「私は……」  そうだった。初めて《AML》が発動したのは、空っぽになった家に帰ってきた時のことじゃないか。誰も迎えてくれないことに気付いて初めて、両親の愛情を失ったことに気付いた。もっと前、両親が死んだ時からモノへの愛着がより偏執狂的になったのだって、失われた愛情から目を逸らすためだった。そうでもしないと、精神を守り通せなかった。  それから、愛されることが怖くなった。  決して愛を返すことのないモノだけは、安心して愛することが出来た。だから――  「……とんだ臆病者だな」  思わず自嘲の笑みを浮かべて唇を噛み締める。目を逸らして山ほどの寄り道をして……気付くのが遅いにも程があるだろうに。  呑助はただ黙ってポンポンと頭を撫でた。『よくできました』とでも言うかのように。  今はもう、そんな気遣いに腹を立てることもない。胸の中にずっとわだかまっていたイライラやモヤモヤが、まるで霧が晴れるように消え去っていく。  「それに、お嬢が腹ぁ立てた原因は多分、別口だろうよ」  わしゃわしゃと髪をかき乱してから手を離し、笑み混じりの声音で告げる呑助。迷いは晴れたものの、こんな風にされた時に笑えばいいのか泣けばいいのか、それはまだ分からない。  寄せられる愛情への反発とは別の原因を、頭の中で必死に探る。あんなひどいあてつけを言ったのは、本気で要らないからじゃなくて――  「……私の代わりに、傷つこうとしたから?」  血の赤を目にした衝撃や、傷ついても立ち向かう彼らに『もうやめろ』と心の中で懇願したことが思い出される。単純に、自分のせいで危ない目に遭おうとするのがイヤだった、と考えられる理由はそれしかない。  悪戯っぽく笑うだけで、呑助は解答を提示してくれなかった。立ち上がり、昨夜と同じくインバネスを脱いでルコの頭からばさりとかぶせる。  「さあてねえ。それっぱかりゃあ、手前にも何とも言えねえなあ。……慣れねえ説教しちまった、ああガラじゃねえガラじゃねえ」  冗談めかした声音の後、屋上の扉が閉まる音が聞こえた。  インバネスが作り出す小部屋の中で、ルコは自問自答を繰り返す。  本当に要らないのか?――そんなわけない。今更あいつらのいない毎日なんて考えられない。  あいつらのことが好きなのか?――ああ好きだ。多分。  それは《モノ》として好きなのか、《ヒト》として好きなのか?――どっちでもあって、どっちでもない。ひどくあやふやで奇妙な形をした、名前も分からない感情。  けど、愛しい愛しい愛しい。  もしかしたらこれは主人としての所有欲かもしれない。けど、彼らのことを手放したくない。たとえ失う日が来ても、傷つく日が来ても、このまま何もせず全てを棄てるよりはずっとマシだ。  どんな名前がついたって、特殊性癖と言われたって、この気持ちには変わりがない。  これが私のオリジナルな愛。誰にも譲れない、私だけの《想い》。  ――なんだ、簡単じゃないか。  こんな単純なことによくぞ今まで気付かなかったものだ、とインバネスをかぶったまま独りで笑う。自分の馬鹿さ加減が愉快で声を出して笑うだなんて、思いもしなかった。  ひとしきり笑った後で、さてこれからどうしようかと思いを馳せる。  呑助との約束は果たさなければならない。異端管理局の動向が気がかりなものの、彼が守ると約束してくれたのだからそこは信じておこう。全てを振り切って――  帰ろう。またあの家に、日常に。  たった独りで帰ってきたあの日のように、『ただいま』と『おかえり』を笑顔で交わそう。  そうしたら、酷いことを言ったと謝って、素直にありがとうを告げて……  怖がらずに彼らを愛するのは、それからだ。  《モノ》として、《ヒト》として――  ふと、いやな予感が胸の片隅を占拠した。  もしかしたら、《モノ》への愛情が《ヒト》への愛情に変わった時点で、《AML》は消えてしまうのではないだろうか?  全ての迷いが解けた瞬間、魔法まで解けてしまう。そんな皮肉な結末が訪れるのではないだろうか?  だとすれば……  そこまで考えるには、まだ根拠の薄い仮説だ。ルコは無理矢理に思考を打ち切って、頭にかぶっていたインバネスを肩に羽織り、立ち上がった。  このまま全てが上手くいくと、今は信じていたかったから。         + + + + +      3人の九十九神が戻ったミニバンの車内には、ぎこちない沈黙が満ちていた。日が落ちて随分時間が経ってからも、誰も口を開こうとしない。それぞれが違った方向に視線を向け、痛切な面持ちで何かを考え込んでいる。  特にタオは、重要な何かが欠落してしまったような顔をしていた。投げやりな目で車外の闇を見詰め、身じろぎ一つすることなく息を潜めている。左腕の火傷や肩口の傷をふさぐことも思いつかず、あちこちに傷口を作ったままだった。  『もう要らない』。  そう宣告する声も、表情も、はっきりと覚えている。ただ、そのとき自分がどんな顔で何を言ったのかは上手く思い出せない。  正直、要らないという言葉がこんなに重いものだとは思わなかった。自分は《モノ》だ、使えなくなったら棄てられるのは当然だという覚悟くらい、とうの昔に決めていたはずなのに。  割り切れていなかった。いや、途中から割り切れなくなってしまった。  ルコに棄てられると思ったら、急にどうしようもなく心がバラバラに崩れていくような気分になった。  そもそも、あんな風に全てを棄ててまで――九十九神ですらない化け《モノ》になってまで取り戻したいと思いだしたのは、いつからだろう?  《モノ》のくせに、まるで《ヒト》みたいに執着して、想いを寄せて。  自分はただ、肌触りの良さだけを求めていれば良かったのに。  ――どうして、もっと欲しくなる?  ルコの言う通りかもしれない。《モノ》が《ヒト》の心を欲しがるなんて、おこがましいにも程がある。  とても滑稽で、絶望的にむなしい。  「……なあ」  際限ない物思いに沈んでいた頃、耳に届いてきた久しぶりの音はサクの声だった。窓ガラスに額を押し当てるようにもたれかかり、ため息に似た口調で緩慢に続ける。  「あんなキツいこと言われたし、キツいこと言っちまったけどさ、」  苦しげな息を吐きながら身を起こし、助手席と運転席の二人に真剣な視線を向けて、  「俺はルコのこと、好き。――お前らは?」  この上なく単純ですっきりとした告白が、静かな車内に大きく響いた。  ややあって、振り返ったマグニが決然とした眼差しをサクに向ける。  「無論です。……正直、最初はあるじの孫娘という認識でしかありませんでしたが――」  ふ、と息をこぼす。それから珍しく優しげに笑って、  「見守っている内に、いつの間にかお慕い申し上げるようになっていました。貴方がたの『好き』とは違うかもしれませんが、わたくしにとっては仕えるに足るお方です」  サクと同じく、迷いを吹っ切ったような強い声音だった。  ――ああ、二人は覚悟を決めた。自分はどうだ、まだぐずぐずと中途半端なところで思い悩んでいるだけじゃないか。  そろそろ、気付かないフリをするのはやめにしよう。  他の二人が視線を注ぐ中、タオは痛みをこらえて座席から身を起こす。  「――《ヒト》の幸せはずっと愛すること。《モノ》の幸せはずっと愛されること」  完全に表情が抜け落ちていたうつろな顔に、次第に感情の色がよみがえり始める。  バスタオルにふさわしい、フンワリとした優しげな笑みが。  「俺たちは《ヒト》であって《モノ》でもある。愛しても愛されても幸せなんだから――九十九神ってのは、ものすごい幸せモノだね」  そんな区分、自分達なら軽々と超えられる。《モノ》なのに《ヒト》として、彼女を愛することができる。愛されるだけではなく愛したいと願えば、それは叶う。  分不相応だと言われても、これが自分達のオリジナルな愛だから。《ヒト》を想う《モノ》があってもいいじゃないか。  何にでもなると言ったのは、自分だ。  ――だったら自分は、《彼女を愛するモノ》になろう。  タオの声に、サクとマグニはそれぞれの笑顔でうなずきを返した。  「……だな」  「おっしゃるとおり」  おそらくは、この二人も同じことに思い至ったのだろう。3人の中には、もはや何の迷いもない。  覚悟はようやく決まった。あとはもう、やることは一つだ。  ――もう一度、『おかえり』と『ただいま』を交わすために、彼女を取り戻しに行こう。  自分勝手だエゴイストだと言われても、再び『要らない』と言われても、このままでは終われない。  「そうとなれば善は急げです。お嬢様たちが5kmの圏内を抜けるまで《ハッキング・ポイント》に接続してありましたので、大方の行方は掴んでいます。ここから北北東の方向、そちらの方面にあるのは――」  タオは早速ドライビングマップを取り出して、言われた方角へと指を走らせる。市街地を抜け、廃ビル街を通り、ひと気のない山奥へと続く道が一本だけ通っていた。  「……ゴミ集積場しかない」  「よっしゃ、とっとと出せマグニ!」  「サー・ロビンソンとお呼びくださいと、何度申し上げれば良いのですか?」  サクの掛け声と共に、エンジンをかけてアクセルを踏み込むマグニ。若干踏み込みがきつかったのは、後部座席で転がって悶えるサクへの意趣返しだったのかもしれない。  ――行く先を見つけた《モノ》たちは、バッドエンドに挑むべく走り始めた。         + + + + +      まだ夜も明けきらない早い時間に、ルコと呑助は目的地であるゴミ集積場へとたどり着いた。山の裾野に広がる大きな集積場はこの付近一帯のゴミを一手に引き受け、焼却処理や再利用処理までの間、多くのゴミを収容する役目を負っている。  薄暗い中、視界一杯に広がった景色は壮絶な有様だった。明け方の空に向かっていくつもそびえるゴミ山はちょっとした丘陵のような状態になっており、暗いシルエットに早起きのカラスたちが何十羽と群がっている。すぐに焼却される生ゴミなどは別なのでさほど酷くはないが、すえたような匂いもする。圧縮されたゴミ袋の中にはバラバラに砕けて混ざり合った《何か》が入っていて、ささくれたコンクリート片や木材が墓標のように佇んでいる。  見たことのない光景に、ルコはしばしあっけに取られていた。自分達が棄てたモノの行き着く先が――  「ここでさあ、手前の仲間らが埋まってんのは」  立ちすくむ彼女に先んじる形で、一歩踏み出してゴミ山を進む呑助。下駄の足で器用に山を越えていく。ガアガアと騒ぐカラスがまとめて飛び立ち、その羽音で我に返ったルコも後に続いた。  まだ収集時間には程遠く、作業員もいない時間帯を狙ってやってきたおかげで、ゴミの平原には誰もいない。事務所には『間違って棄ててしまったモノを探したい』という名目で許可を取ってある。ちょっとやそっとの騒ぎなら、遠く離れた事務所には届かないだろう。  すれ違うゴミ山には種々雑多なものが埋もれていた。家具類、電化製品、日用雑貨。山のてっぺんに転がっていたぬいぐるみの首と目が合って、いたたまれない気分になる。  ここは、モノの墓場だ。そう思うと、昨夜消え去ったのとは別の種類のモヤモヤで息が苦しくなった。  「棄てられた頃合と場所を考えりゃあ……この辺りか」  少し歩いた後、呑助が立ち止まった。夜明け前の風に吹かれて目を細める先には、他と同様のゴミ山が天高くそびえている。高さもさることながら、裾野も広い。トラック何杯分か想像もつかない量だ。  「……この中から探し出すのか?」  途方もない作業になるだろう。恐る恐るたずねるルコに、呑助は必要以上に明るく笑って見せる。  「おうよ。何が何でも引っ掻き出してやらあ。お嬢は下がってな」  言うや否や、山の頂上を目指して上っていってしまった。追いつく間もなかったので、言う通り何もせずにその背を見送る。ここで自分が手伝うのは筋違いだ、黙って作業が成功するのを待とう。  山の足元で突っ立ったまま見守っていると、呑助は山の頂から順番に、ゴミを一つ一つ手にとって確認しては裾野に放り出していく。埋まった袋を力ずくで引き出して、重いコンクリート片を持ち上げて……  見る間に手がボロボロになっていった。爪が折れ、擦り切れた指先には血がにじんでいる。その傷に気付いていないのか、額ににじむ汗をそのままこすったせいで血の色が移ってしまった。  「……すぐに出してやっから、ちょいと待ってな」  一心不乱に次々とゴミを放り出しては、仲間の残骸でないことを確認し、放る。その作業を始めてからしばらくして、段々と東の空から日が昇ってきた。薄紅色の朝日に照らされたゴミ山の群は、暗いところで見るよりも更に圧巻だ。  まだタオに殴られたところが痛むのか、時折顔をしかめながら黙々と山を削っていく姿は、はたから見ていてもやりきれなくなる。  「……手前が助けてやる。朽ちて壊れるこたあねえんだ」  既に息が上がっているが、まだ1割も進んでいない。手は益々血と汚れにまみれ、拾い上げるゴミにすら赤色が付着する。そんな姿を見つめているうちに、ルコはいつの間にか小山を上り始めていた。呑助ほど軽快にとは行かないが何とか踏破して、作業を続ける彼の向かい側にしゃがみこみ、手近な瓦礫に手を伸ばす。  「――お嬢」  「二人でやった方が、早く終わるから」  ぽかんとした顔をしている呑助に、言い訳するように告げてコンクリート片を放る。重さで指がひしゃげそうだった。構わず指を汚して、今度は大量の皿の破片が入ったゴミ袋を引っ張り出す。  「……悪ぃな」  「汚れたままの手で髪に触るな」  頭を撫でようと伸ばされる手をうざったそうにかわして、今度はたんすの残骸に取り掛かる。一人ではなかなか引っ張り出せなかったので、二人がかりでようやく山から引き抜いた。  ――どれくらいの間、二人でゴミと格闘していただろうか。2割ほど山が削られたところで、呑助の手が止まった。そうかと思えば必死になって周りのゴミをかき出し、やがて大きな袋を一つ、拾い上げる。  ようやく見つかった彼のかつての仲間達は、ゴミ袋の中でぐしゃぐしゃに押しつぶされて細かい破片になっていた。あれだけの質量の中に埋まっていれば当然だろう、二人とも、途中から薄々予感はしていた。  呑助は震える手で袋を解いて中身をその場にぶちまけた。膝を突き、破片の一つ一つを手に取っては、  「……置時計の旦那、こんなになっちまって。隣に並んでた時ぁ、自慢げにチクタク言ってやがったのになあ」  半分の文字盤と一本の針の塊に語りかけ、  「茶器のお嬢、スミレの絵が自慢だったのに、こうなっちゃあもうスミレなんざどこにあるのか分からねえなあ」  取っ手だけになって元の形も分からない陶器片に語りかけ、  「お高くとまってやがったブローチの姐さん、ああ、せっかくの綺麗な細工がバラバラじゃあねえか。いつか傍に並んでやると思ってたんだが……湯飲みの爺さんも、雨傘の坊も――」  粉々になった緑色の石に、白い断面を見せる焼き物の欠片に、縦に押しつぶされて何度も折れ曲がった傘に語りかけ――その全てを両腕に抱えて、がっくりとうなだれる。  「……すまねえ、間に合わなかった」  最後に涙で湿った声でささやきかけ、肩を震わせて黙り込む。夜明け後の静まり返ったゴミの平原に、ほんのかすかに嗚咽を押し殺す声が響く。  何と言っていいか分からなかった。訪れた結末を前にして手を伸ばして慰めることもできず、ひたすらに胸の痛みをこらえて唇を噛み締める。  以前ならば『モノが壊れて棄てられるのは当たり前』と何の感慨もなく口にしていただろうが、今は違う。タオたちがこんな姿になってゴミ山の中で朽ち果てていくとしたら……そう思うと、足元が急に空洞になったような不安感に襲われた。  怖くて、悲しくて、腹立たしい。数々の負の感情が波を打って押し寄せる。高くうねってより高い波を呼び、どんどん水かさを増して喉をふさいでいく。息ができないほどの激情に翻弄されながら、それでも何とか自覚する。  これは愛情じゃない。欲情ですらない。――ただの同情だ。  なのに、この胸の騒ぎ方は愛するモノを前にした時と少し似ている。大きく膨らみすぎた感情は、怒りであれ悲しみであれ喜びであれ、同じように胸を締め付けるものだと初めて知った。たまらずにひざまずいてゴミ山に両手を触れさせて、目を閉じる。まぶたの奥がつんと痛んで、ああ涙が出てくるなと息を呑んだ瞬間。  「――な、に?」  世界がぐにゃりと歪んだような感覚。いや、歪んだのは世界ではなく自分の感覚だ。現実を飛び越え、法則を無視した力が動き出す。理由も過程も分からないが、それだけは分かる。  何かが起ころうとしている。涙を引っ込めて口を開こうとしたその時、地面が地響きを上げて震え始めた。地震とは違う、土を押しのけて地の底から何かが湧きあがってくるような――  ――突然に。  ゴミ山から何本もの手が生えてきた。空に向かって伸びる手は死体のそれとは違い、明らかに血の色を宿している。地響きは鳴り止まず、揺れ動く山からは次々に新しい新しい手が生えてきて、徐々にゴミを割って地上に這いずり出してくる。見る者が見れば、古いゾンビ映画を思い出すだろう。  「どういうこってえ、こりゃ!?」  「しっ、知らない! 私にも、全然――なに、これ、一体、」  急に繰り広げられた悪い夢のような光景に、さしものルコも混乱に陥った。揺れ動く地面の上で、眩暈のあまりバランスを崩しそうになる。すかさず呑助が手を伸ばし、かばうように両腕で受け止めた。腕は山頂を取り囲むように揺らめき、二の腕が、肩が、胸が、頭が、徐々にあらわになっていく。  たしかに、生きた《ヒト》の姿をしている。土葬を逆再生したような順序で、地面の下にいたモノが地上へと這い出してきた。何がなんだか分からない。錯乱したルコは幼児のようにいやいやと首を横に振り、蒼ざめて着流しの袖に取りすがった。  「落ち着けお嬢! 多分、まだ壊れてねえ連中にお嬢の力が働いちまったんだ」  「でも、愛着感情がなければ発動要因は満たせない、はずなのに……!」  肩を揺さぶられ、ようやくほんの少しの冷静さがよみがえる。愛情でも欲情でもない、同情――これまでモノに対して抱くことのなかった感情。まさか、それが原因で《AML》が暴走した……?  過去に例を見ない事態だったので、それが原因だと断定することは難しい。が、強い負の感情に何か関係があることは確かだろう。  ――老若男女、這い出てくる《モノ》は様々な格好をしていた。瓦礫の中から生まれた九十九神たちは、我が身に起こったことを理解しかねているらしく、一様に不思議そうな顔をしている。いつの間にか、完全に地中から這い出してきた彼らにズラリと周りを囲まれていた。十数人、今もその数が増え続けている。群集と言っても過言ではない、そこには有無を言わせぬ圧迫感がある。  それでも呑助は何とか気を取り直した。ルコを片手でかばって警戒しながらも、友好的な声を群集に投げかける。  「おう、良かったな、助かったんだよおめえさんら!」  「……たすかった?」  その中の一人がが呟くと、連鎖反応的に周囲の《モノ》たちも口火を切り始める。  「助かったって?」  「一体何が起こって」  「どうして動けるようになってるんだ?」  「ここはどこだ」  「私たちは一体何を」  夜明け前まで騒いでいたカラスのように、口々に騒ぎ出す。その間も、地面からは何本かの腕がわいて出てきた。  『災厄』――能瀬が語った数々の世界的な混乱。悪い夢のような光景を目前にして、ようやくその警告がリアルに感じられるようになった。  しかし、ルコの危機感を知らない呑助は、引き続き親しげに《モノ》たちに声をかける。救えなかった仲間のかわりに、とばかりに、  「棄てられかかってたとこ、このお嬢がおめえさんらを《ヒト》にしてくれたんでい。もうゴミ山に埋もれて腐ってく心配はいらねえ!」  笑顔で宣言する。  ルコの中で、急速に不吉な予感が膨張していく。『棄てられる』――タオたちとのことがあるせいだろうか、彼女はその一言に敏感に反応した。その事実を知らされた《モノ》は、一体どんな思いを抱くだろう。  「……棄てられた?」  群集の中の一人が、呆然と呟く。その表情は、あのとき『要らない』と拒絶されたタオと同じだった。  「俺は、棄てられたのか?」  「そうだ、もう型が古いからって、壊れてもないのに……」  「飽きたって、ゴミ箱にブチこまれて」  「何年も埃かぶってて、それで掃除の時に棄てられて」  「棄てられたんだ」  「持ち主に棄てられたんだ」  「今まで精一杯尽くしてきたのに」  「棄てられた」  「棄てやがったな、あいつ」  「畜生、どうして!」  「許せない」  「《ヒト》なんてこんなもんだ」  「俺たちの気持ちも知らないで」  「笑いながら処分しやがった」  ざわめきが大きくなる。不穏な気配が辺りに充満していく。  ――棄てられた《モノ》たちの思い。  それが、明るく前向きなものであるはずがない。  「復讐だ!」  そのうち一人が絶叫すると、周囲の《モノ》たちもそれに唱和するように立て続けに声を上げる。  「私たちを棄てた人間に、復讐しよう!」  「そうだ、このまま大人しくしていられるか!」  「やりかえしてやる!」  「ゴミクズ扱いされるのがどんな気分か、思い知らせてやりましょう!」  「人間も同じように壊れりゃいいんだ!」  「思い知らせてやろう!」  怒りが、悲しみが、憎しみが伝播していく。水に落とした墨汁のように拡散し、しかし薄まることなく。  ――一人の九十九神がその場から走り出した時点で、世界を巻きこむ大混乱があっけなくスタートした。  それに続いてゴミ山を下り、一斉に外に向かって走っていく《モノ》たち。2人、4人、8人と互いが呼び水となって連なり、出口を目指す。  そして残った何人かが、ルコに視線を向けた。誰はばかることない敵意が満ちた眼差しで、人垣の中心部にいる彼女を睨みつけ、ぬっと手を伸ばす。ようやく事態を認識した呑助が、慌ててその手を払いのけた。  「よさねえか!」  「邪魔するな!」  「お前も《モノ》だろう、分からんのか!」  「どうして人間なんかかばうんだ!」  口々に罵声が飛び交い、暴徒と化した《モノ》たちとルコたちの間に一触即発の空気が流れた。つい今しがた発生したばかりの九十九神と、100年以上を永らえてきた呑助。力の差は歴然としているものの、数が数だ、どうしようか考えあぐねているうちに、群衆の中からルコ目掛けて何かが飛んできた。  それを視覚情報として理解するより先に、ガン、と頭に衝撃が走る。視界はそこで一旦途切れ――  数秒後、倒れたルコを抱えながら何事か呼びかける呑助と目が合った。ぼんやりしながら起き上がってみると、切れた額からこぼれ出した血が片目をふさぐ。もう片方の目を見開いて何か返答しようとするが、口が開いたり閉じたりするだけで声になってくれない。  すぐさま呑助が覆いかぶさるようにして身を盾にした。背中や腕に投げつけられた瓦礫が跳ね、そのたびに身を硬くして耐える。ルコはまともな思考もできないまま、ただ黙って腕の隙間から群集を見やった。  誰も彼も、怒りの形相で壊れたモノの破片をぶつけている。  「人間なんかに、棄てられた《モノ》の気持ちが分かってたまるか!」  どこからか聞こえてきた叫び声に、  「――分かるわけがない」  気付いたら、そんな風に反応してた。驚きの表情で凍りつく呑助の腕を押しのけて立ち上がり、モノたちの前に無防備な全身をさらしながら、  「私には、《モノ》の気持ちなんて分からない。あるとも思わなかった。けど――」  ガン、肩に握りこぶし大の石がぶつかる。少しよろめいたものの、怯むことなく前を見て、はっきりとした声を上げた。  「――棄てられる《モノ》がどんな顔をするのかは、痛いほどよく知ってる……!」  今は分かる。こんな風に、やり場のない怒りや悲しみを抱えて、あんな空っぽな顔していたのだと。  だがその言葉は、今の《モノ》たち相手には、火に油を注ぐ結果にしかならなかった。  とうとう吠えながら襲い掛かってきた群集の手を、咄嗟にルコを抱えてその場を跳躍することでかわす呑助。山の高低差を利用して、一気に裾野までの距離を稼ぐ。が、着地した先にも《モノ》はいた。鉄パイプを振りかぶって突進する男の腕を蹴り上げ、続く拳で横殴りに顎を狙い叩きのめす。その衝撃で《フェティッシュ》を落としたのか、男はぱっとその場から消え去った。  発生して間もない《モノ》たちは、まだ異能を発現していない。加えて膂力の面でも通常の人間と同じ程度のままだ。次から次へと二人に襲い掛かっては、呑助の一撃でその場に沈められる。  だが、手数が違いすぎた。ガラスの破片を手にした女と折れた傘を構える中年男を同時に蹴り飛ばしながら、今度は背後からルコに伸びる手を叩き落す。その場に人数が集中しすぎて防ぎきれなくなったら、再び跳躍して別の地点へ。  打ち倒した何人かの九十九神は弾みで原型に戻っているものの、全体の数を減らすには至らない。勢いはなくなったが、まだゴミの中から這い出してくる《モノ》もいる。  更にここはゴミ山だ、引火の可能性を考えると《灰》の異能は使えない。それを抜きにしては徒手空拳で逃げ回ることしかできず、そしてゴミ集積場の外へ向かった《モノ》も多数存在する。このまま外に出て街に散らばり人間に復讐を果たそうとすれば、犠牲者は必至だ。  やがて限界が訪れた。刃のつぶれた包丁を持った少女の手がルコの服の裾を捉え、呑助から引き離す。彼も何とか追いすがろうと手を伸ばすが、昏倒させたと思っていた九十九神の一人が足に絡みつき、ギリギリのところで届かない。  少女の包丁が朝焼け空に高々と振りかぶられた。刃は潰れていても先端は鋭い。なす術もなく切っ先を見上げ、ああ、これは死ぬな、ときつく目をつむり――  ――覚悟していた痛みは、いつまで経っても訪れなかった。いつの間にかへたり込んでいたらしく、目を開けると視界が一段低くなっていた。  見上げる先には、白いシャツの背中。少女をひねり倒した格好から、すらりと背筋を伸ばして振り返る。  急に笑みがこみ上げてきたルコは、その衝動に抗うことなく口元を緩ませた。  「……遅いぞ、エゴイスト」  「うん、ちょっと傷ついて落ち込んでたら、遅くなった」  皮肉に皮肉を返し、タオも表情を緩ませる。差し伸べられた手を躊躇なく掴んで立ち上がり、自然な動作でタオの背後に回って。  そうこうしている内に、なんとか追っ手を振り切った呑助が、眉尻を下げて駆け寄ってきた。  「すまねえ、手前がついてながら――」  全てを言い終える前に、硬く握られたタオの拳がその頬を打ち抜いた。ダウナースイング気味に振るわれた一撃で、呑助はその場に叩き伏せられる。  唐突な展開に、ルコはおろかその場の九十九神の全員凍りついた。衆人環視の真ん中で目を丸くする和装の美丈夫に、拳さすりながらニッコリ笑いかける白髪の好青年。  「ごめんなさい。けど、サクに頼まれてたから。……俺の気も晴れたし」  言いながら、呆然と座り込んでいる呑助に向けて手を差し伸べる。  「目の前でルコさんさらわれたのは、これでチャラだね」  「……本当に、かっちけねえこって」  しばらくの間黙り込んでから、へらっと笑ってその手を取り、立ち上がった。すぐさまルコとタオをまとめて背後にかばうように腰を据えて構え、油断無く群集と睨み合う。  「にしても、こうなったのぁ手前の責任だ。――全部、手前が独りでカタぁつける。お嬢とあんちゃんは逃げなせえ」  急な仲間割れと仲直りに戸惑っていた九十九神たちも、再び殺気立って得物を手に飛び掛ってきた。その攻撃を受け止め、いなし、かわし、着実に急所に一撃を入れていく呑助。とはいえ、やはり全てを引き受けることなど不可能だった。群集の一部がルコたちに殺到し、振り下ろされた凶器をタオが素手で払いのける。  「そんなこと言ってるヒマ――ないだろう!」  鋭い鉄片を手に迫る少年を蹴り返しながら声を上げ、  「このままじゃルコさんが危ない、だから俺が守る。それじゃ不満?」  振り向きざまに投げられた問いに、呑助は思い切り渋い顔をする。苦りきった思案顔も数秒間だけのことだった。ヤケクソのように帽子を脱ぎ、それを目の前の《モノ》目掛けて投げつけ、  「でえええいっ、どうにでもなれ、こんちきしょうめ!」  吠え返す。タオはその返答にただ満足げに笑い、数歩で群集の只中へと突っ込む呑助に代わりルコを背後にかばった。  ――援軍を迎えて、その場の情勢は一気に変わった。  良い方向にも、悪い方向にも。  手数が二倍になったのは心強いが、段々と『敵わない』と判断した《モノ》たちが敗走を始めている。それも、ゴミ集積場のゲートに向かって。真っ先にここから出ようとした人数も含めれば、出口を目指しているのは相当数に上るだろう。その数で人里に降りられたら、大混乱は避けられない。  今もまた数人が、タオと呑助に背を向けて走り出し――  じょきん。空気ごと切断するような鋭い音が鳴ると共に、逃げようとしていた数人の《フェティッシュ》が真っ二つになって元の物体に戻ってしまう。  「あー、やっぱ《刃》ごたえ悪ぃな」  無理矢理に尖らせたような声音と、  「お嬢様、ご無事ですか?」  低く落ち着いた生真面目そうな声音が同時に聞こえた。  泣きぼくろの金髪青少年とスーツ姿のモノクル紳士が、足並みを揃えてこちらに向かってきている。  無事だと返答しようとするより先に、サクが地面を蹴って歩調を変えた。ゴミを蹴散らしながら疾走し、別の方面へと隠れて逃げようとしていた九十九神たちの行く手に立ちふさがる。両手の指を《刃》の形にして《モノ》たちの《フェティッシュ》をなぞるように振るえば、その軌跡のままに全てが両断された。  見れば、マグニのモノクルも既に真っ黒に色を変えている。《千里眼》で敵の位置を捕捉、その情報を受け取ったサクが遊撃。いつもいがみ合っている割には見事な連係プレーだ。羊の群を追う牧羊犬の役割に近い。  指示の声に応じてまた別の方向へと駆け、逃げようとしていた九十九神たちを最大効率で片っ端から斬って棄て、  「やっと捕まえたと思ったら、コレかよ……!」  妙齢の女性のバールを掻い潜って《刃》を振るいながら、サクが歯噛みする。もう地面から湧いて出てくる《モノ》はいなくなったが、このままでは集積場の外に混乱が広がってしまう。それこそ、異端管理局が言っていた『人類への叛乱』が起こりかねない。  数人を斬り捨てて、また次の集団へ。時折吠えて暴れながら、異能の刃は続けざまに群集の数を削っていく。『左斜め前10m先!』『4時方向22m先!』と、サクに向けて指示を飛ばしながら、マグニはルコの傍へと歩み寄り、深々と頭を下げて一礼をする。  「遅くなりまして申し訳ございません。少し前からずっと《見守らせて》いただいておりましたが、どう連れ戻すか思案している間にこのようなことになりまして、慌てて飛び出して参りました」  「いい。来てくれたから許す」  うなずき返して謝罪をいなす。どんなに遅れても、再び目の前に現れてくれたことが嬉しかった。  「どーすんだ、ルコ!?」  右に左に鋭利な指先を振るいつつ、振り返ってニッと悪戯っぽく笑うサク。既に弾み始めている息の隙間に、腹の底から快哉のような声音で叫ぶ。  「何でも言え! 帰ってくるってんなら聞いてやる!」  もう、『《モノ》のくせに』とは言わなかった。もう二度と言うものか。その代わりに、  「……サクのくせに、脅迫か」  苦笑して、そんな意地の悪い言葉を送る。両足を踏ん張って目の前の《フェティッシュ》を切り裂きながら、サクは機嫌良く高らかに笑って、  「るっせー! 帰ってくんのかこねーのか、どっちだルコ!」  問いかけに対する答えは出ている。  ――帰る場所は、もう自分で決めてあった。  「帰るに決まってる!」  間髪いれずに返ってきた答えに、よっしゃああ!と歓喜の咆哮を上げて余計に暴れるサク。  すぐ近くでルコを背後にかばっていたタオは、良かった、と笑みまじりの呟きを口にして、少し離れた場所で《モノ》を蹴り倒していた呑助は、帰えれ帰えれ!と楽しげな声を上げる。  ただマグニだけは、安堵することなく冷静にその場の状況を観察し続けていた。暗闇色のモノクルがゆらゆらと濃度を変える。  「ですがお嬢様、お帰りくださいます前に、この場を何とかしなければなりません。現在、数十体の九十九神が集積場のゲートに向かっております。人里に下りてしまえば、確実に一般の人間に害をなすことでしょう」  「分かってるけど、どうしたらいいか……」  「それは、」  狼狽の抜け切らないルコの言葉を珍しく遮って、彼は不意にゴミの山道のその先に目を向けた。よく耳を澄ましてみると、どこからか低いエンジン音が聞こえてくる。  「これからやってくる方にお聞きすればよろしいかと」  そのエンジン音が急速に近づき――ゴミ山の向こうから瓦礫を蹴散らして突っ込んできたのは、見覚えのある黒い装甲車だった。撥ね飛ばされるのを恐れた九十九神たちが、蜘蛛の子を散らすように装甲車から距離を取る。  昨夜ルコたちを連行しに来た、異端管理局の車両で間違いない。  こんな時に……! 苦々しい顔をしていると、勢い良く運転席のドアが開いた。降車してきたのは能瀬一人だけで、険しい表情でツカツカとこちらに歩み寄りながら髪をかきむしり、  「あー、もう、今更再登場なんてカッコ悪! それはどうでもいいから、とにかく乗って! いいから乗れ! すぐ出すから、まずは乗れ! あ、コレ一回言ってみたいセリフだったんだよねえ、よくあんじゃん洋画とかで――」  「急ぐのはお前の方だ!」  相変わらず、第一声からベラベラと喋る能瀬を置いて、既にルコたちは装甲車に乗り込みかかっていた。一人だけ取り残された状態の能瀬も、慌てて運転席に戻る。  が、数歩先で群集に取り囲まれながらの格闘を続けている呑助だけは、装甲車に一瞥をくれただけで戻ってこようとしない。  「何してる呑助、お前も早く――」  「手前はここに残って元から食い止めてやらあ! お嬢らは先に行きなせえ!」  自分の責任は自分で取ろうとしているのか、それとも粋に格好をつけたいだけなのか、一声返した後に再び群集と対峙する。口を開き、閉じ、言いかけた何かを言わないまま、ルコはドアを閉めた。  「出せ!」  待ちかねていたように装甲車のタイヤがうなりを上げて回転する。ハンドルを握る能瀬は、前だけはちゃんと見ているものの口を閉じる気配がない。  「ちょっとちょっと、いくつもの苦難を乗り越えた末に再会したってのに、その態度? あんだけカッコつけて決別した上にアッサリ逃げられて、その上で助太刀として再登場ってどんな少年漫画展開だよホント、努力・友情・勝利とか性に合わねーしマジで! でもやっぱいいよね、ピンチの時に颯爽と――」  「いいから、スピードを上げろ!」  一度は蹴散らしたが、足場が悪く加速がきかない装甲車には、早くも何人かの九十九神たちが取りすがり始めている。急いでハンドル切って振り切り、  「ああああ、もう、軽口叩くヒマもねーのかよ!」  苛立ち交じりに吠える運転手。追手を全て振り落とし、途中何人かの《モノ》たちを追い越しながら、一路ゲートを目指してひた走る。  「一日放置しておいて、今更連行しに来たのか?」  捕捉しようと思えばいくらでも捕捉できただろうに。現に、こんな異常事態が発生した途端、能瀬が接触してきた。《AML》発動源を捕まえて、どうにかしてこの現象を止めようというハラなのか。しかしこのままでは確実に、管理局が手を打つ前に街にも混乱が及ぶ。  暴れるハンドルにしがみつき、いつになく荒い語調の能瀬が早口で応じた。  「そうじゃない、俺の独断! 30分前に本部から緊急事態の知らせ聞いて、すぐさま拘束せよって言われたけどさ! あっはは、初の命令無視! ヤバいじゃん、俺、減俸とかそんなレベルじゃないよねコレ! ぜってー《閣下》に怒られる!」  「じゃあどうして!?」  「分っっっかんねえええよ俺にも!」  こんな風に切羽詰った姿は初めて見る。力任せにハンドルを切り、瓦礫に乗り上げ車内が大きく揺れた。長距離マラソンのように前を走る九十九神たちの背中をぐんぐん追い抜き、強引にゴミ山を踏み越えて、  「分っかんねーけどさ、このまま放っとくのは、何ていうか、気に食わないとか、腑に落ちないとか、そんなカンジで……あー、もう! とにかく、俺がルコちゃんたち助けたかった、その気持ちと食い違ってたから命令無視して飛んできた、そんだけだよ! 分かんねーけど!」  この饒舌な男でも、こうして何を言ったらいいのか分からなくなるようなことがあるらしい。それが少し微笑ましくて、ルコはこっそりと笑みを浮かべた。  遠くにかすむゴミ集積場のゲートが見えてきた。もう何人追い越したか分からないが、何とか先頭の一人の先に出る。なおもスピードを上げ、装甲車はようやく集積場の出入り口にたどり着いた。  全員が車から降りて、こちらに向かってくる群集を待ち構える。接触まであと3分はあるだろう、息を切らせながら走る先頭集団が、明けきった空の下、朝もやの向こうに見える。  「どうすんだよ、流石にあいつら全員はここで食い止められねえぞ?」  そう言いながらも、サクは既に両手の指をハサミの形に構えている。対照的にのんびりと前方を眺めるタオは少しの間をおいて黙考し、  「……こうなったら、一人一人《フェティッシュ》を奪い取って元に戻していくしかないんじゃない?」  「非効率的ですな。数が数です、一人も取りこぼさずというのは難しいでしょう」  すかさず反論を差し挟むマグニに、苛立ち混じりに噛み付くサク。  「じゃあどうしろってんだよ!」  そう、今すぐ何とかしなければ、『災厄』が世界に散らばる前に。どうすれば良いのかは分からないが――  誰がそれを知っているかは、分かっている。  だが、その答えを知るには覚悟が必要だった。  目を閉じると、ここ数日間の色々な出来事がまぶたの裏に浮かぶ。以前の彼女なら、迷うことなく問いを口にできただろう。  だが、彼女は変わってしまった。  知ってしまった。知らなければ良かったとは思わないが、今の彼女には不安も恐れもなく決断を下すことはできない。  迷って、悩んで、そしてあるものを選び、あるものを棄て、その先にある結末を受け止めなければならない。  ……ゆっくりと目を開き、ルコは能瀬に向き直る。予測される現実に、真正面から対峙する。  「――どうすればいい、異端現象対策管理局?」  決然と投げかけられた問いかけに面食らった後、能瀬は珍しく言いよどんだ。唇を噛んできつく瞑目して、それからようやく答えを口にする。  「……アレだけの数を一括で元に戻す方法が、あるにはある」  彼もまた、覚悟を決めたようだった。次の句からは、落ち着いていながらも淀みなく言葉が連なっていく。  「最初に言ったよね、『変態治せ、モノに萌えるな』って。《AML》の発動要因である『物体への度を越えた愛着感情』が消えれば、《AML》は解除される。完全な確証はないけど、ウチの研究部はそう見てるよ」  予測どおりの現実が提示された。  『もしかしたら、《モノ》への愛情が《ヒト》への愛情に変わった時点で、《AML》は消えてしまうのではないだろうか?』  『全ての迷いが解けた瞬間、魔法まで解けてしまう。そんな皮肉な結末が訪れるのではないだろうか?』  その懸念が、不安が、ジレンマが、明確な輪郭を得て復活する。  《モノ》への思いを棄て、《ヒト》としての想いを向ける。そうなったら《AML》は解除され、折角逃げることなく向き合った《モノ》たちと二度と会えなくなる。  「……でも、そうなったらこの3人や呑助も――」  「それでもいい」  ルコの不安を払いのけたのは、タオの穏やかな声だった。見れば、ニッコリとこちらに向かって笑いかけている。どこまでも柔らかく、ほんの少しだけ悲しそうな笑み。  「『要らない』なんて冷たい顔で言うルコさんよりも、そうやって俺たちのことで思い悩んでくれてるルコさんの方がずっといい」  ちょっと待て、そんなのまるで……お別れの言葉じゃないか。  そんなことを言わないで、と無意識の内に伸ばしかけた手を、横合いからマグニが優しく抑える。  「心配はご無用です、お嬢様。《ヒト》であろうと《モノ》であろうと、わたくしは変わらずお嬢様を見守らせていただきます」  「ってことだ。……《モノ》になってもずっと傍にいてやっから、大丈夫だ」  必要以上に明るくニッカリと笑うサクが、ぽん、とルコの後ろ頭をはたいた。  彼らは既に決断を下している。これから起こる何もかもを受け入れるつもりで、それでもこうしていつも通りに笑っている。  もう、自分だけが立ち止まっているわけには行かない。  タオも、サクも、マグニも、更には能瀬も、何も言わずにルコの覚悟を待っている。  ――こんなにも別れが惜しくなるほど好きになるとは、思ってもみなかった。それがほんの少し悔しくて、それ以上に誇らしい。  ああ、やっぱり私は、こいつらのことが好きなんだ。たとえどんな素材構成であっても、《モノ》でも《ヒト》でも変わらずに、とても、  とても愛しい。  息が詰まるくらい、愛しい。  「私、は――」  干からびた喉を震わせ、決意の言葉を載せた唇が開く。  魔法を解く最後の呪文は、せめて精一杯笑って唱えよう。  「お前達《モノ》が、」  すきだすきだすきだすきだすきだすきだすきだすきだすきだすきだ。  「――大っ嫌いだ」            その一言を口にした瞬間、全てがふっと消え失せた。  随分近くまで走ってきていた《モノ》たちも、バスタオルの九十九神も、工作ハサミの九十九神も、虫眼鏡の九十九神も、おそらくはキセルの九十九神も……何もかも。  朝の光の中、最初から何もなかったように静まり返るゴミ集積場に立っているのは、ルコと能瀬の二人っきりだ。  足元には、ススや泥汚れでボロボロなったバスタオルと、少し刃こぼれした黄色の工作バサミ、古びているもののレンズには傷一つない虫眼鏡が落ちている。  本当に消えてしまった。さっきまで笑顔を交し合っていたのに、愛した《モノ》たちは跡形もない。  もう二度と会えないんだ。  ――そう思うと、もうダメだった。何秒間かは歯を食いしばり拳を握って耐えられたが、こらえきれなくなってその場にへたり込む。  次々溢れかえる涙に濡れていく顔を、拾い上げたバスタオルにうずめた。涙腺の奥から際限なく溢れかえる涙が、少しでも伝わればいい。柔らかなパイル地はそれに応えて、流れるそばから涙の粒を吸い取っていく。『泣かないで』と慰めるかのように。  嗚咽をこらえているせいで、上手く息ができない。  けれど、言おうと決めていたことを、今ここで言わなくては。  「……ひどいこと言って、ごめん」  震える声で謝罪の言葉を。工作ハサミを拾い上げ、虫眼鏡拾い上げ、バスタオルと一緒にきつく抱き締める。  「今までありがとう」  そして、ずっと言いたかった、言えなかった感謝の言葉を。どうしても笑顔がつくろえなかったので、抱き締める腕に力を込めて、情けない泣き顔を隠した。  あと一言。もう元には戻らない《モノ》のために、言ってやるべき言葉がある。  涙で曇った声で、何とかそれをつむいだ。  「――お疲れ様」  ……言葉になったのはそこまでだった。あとはもう、こらえきれなくなった嗚咽のせいで、何も言えなくなってしまう。  ずっと失うことを怖がっていたくせに、号泣するたびにするするとそんな不安が解かれていった。これから先、なくすことを恐れて目を逸らすことはもうないだろう。  それを教えてくれた《モノ》たちは、もういない。  手負いの獣がうなるような泣き声が、あたり一面に控えめに響く。  もうしばらくは、こうして涙が枯れるまで泣いていよう。  ――朝を迎えた世界に見守られながら。         + + + + +     《AML》消失の朝から3日後。  本日ようやく職場復帰を果たしたルコは、疲れきった足取りで自宅に戻った。  異端管理局から何らかの事情説明がなされていたのか、2日間の無断欠勤は完全に不問に処されていた。更にその後の2日間は管理局での検査や講習に費やされ、職場に戻ってきたら戻ってきたで園部や坂崎やその他同僚に質問攻めにされた。  ――3日間、ルコは完全に抜け殻状態で、大人しくされるがままだった。あれだけ拒否していた管理局の要請にも文句一つなく従い、よく分からない機械に繋がれてあちこち調べられ、能瀬の《レッスン》の数十倍退屈な心理学などの講義を受け、《AML》に関するレポートを何十枚と読まされ……  いつもの無表情は『無表情』という表情だったが、現在のそれは感情の色が脱色されたような、空虚で意味のない表情だ。聞いているのかいないのか、話しかけられればイエスかノーでしか答えず、必要最低限の長さで淡々と語るだけ。半ば自閉状態だった。  ようやく帰ってきた家には、当然ながら灯りがともっていない。真っ暗な夜闇に沈んだ辻神家は、今までのどんな時よりも大きく空っぽな箱のように見える。  扉を開けて中に入り、しばらく玄関先に佇んでいると、アメリカから帰ってきたときと同じ他人行儀な乾いた空気の匂いがする。出迎える声も足音もなく、否が応にも独りぼっちであることを思い知らされた。  こんなの、帰ってきた意味がないじゃないか。  『ただいま』を言うことなく靴を脱いで家に上がり、電気をつけないまま暗いリビングへ入る。バッグを放り出しただけで着替えもせず、ルコは一人では大きすぎるソファの端に膝を抱えてうずくまった。  別に寂しくない。ヒトなんていない方が清々する。誰とも関わらずに過ごせるなんて素晴らしいことじゃないか。  ……と、自分に言い聞かせても、気だるい憂鬱はどうしても消え去らない。  あれから《AML》は完全に使えなくなってしまった。異端管理局の様々な検査でも、発動の兆候は認められなかった。  タオたちはもちろん他のモノに対しても、今までのような愛着感情を持って接することができないからだ。あの3人と1人のことが常に頭の中にあって、他のモノに夢中になるなんて無理だった。  もうモノもヒトも愛せない。  テーブルの上には、4つの物体がそろえて置いてあった。バスタオル、工作ハサミ、虫眼鏡、キセル。どれもしっかりと洗って磨いたので汚れはない。  バスタオルを手に取って、両腕でそうっと抱き締めてみた。たしかに愛はある。が、もう戻らないという空虚な感情がそれを邪魔して、愛情は隅に追いやられてしまい、《AML》は発動しない。  ――ぴんぽーん、玄関先のインターホンが鳴った。何となく既視感を覚えつつバスタオルを丁寧に畳んでテーブルの上に戻し、いつかの夜と同じように玄関へ向かう。チェーンは外したままで扉を開くと、  「ヤッホーこんばんわルコちゃん! 残務処理に追われること3日間、ずっと貴方のことだけ考えてました! いや、ルコちゃんのことだけっていうのは流石に嘘になるけど、ノリとしてはそんなカンジで! 合いたかったから会いにきましたっ、それ以上の理由は不要だよね? ってことで――」  「上がれ」  相変わらず能天気な笑顔で述べられる口上を遮り、あっけなく扉を開ききる。今までの玄関先での攻防戦が嘘のような陥落に、能瀬は拍子抜けしたような顔をして辻神家に踏み入った。  先に立ってリビングへと導き、そこでようやく電気をつける。明るくなると余計にうそ寒い空虚が肌で感じられた。ルコの対面のソファに腰を下した能瀬はそんな空気を気にするでもなく、早速大げさな身振り手振りと陽気な長広舌とを振るい出す。  「その後どう? ウチの研究部に随分色々振り回されてたみたいだけど、ヘンなことされなかった?」  「あぁ、されてない」  「あのマッドサイエンティスト集団、アクセルオンリーでブレーキレスだからさ、暴走するとえらいことになるんだよね。正直危険度で言ったら他の機関にもひけをとらないっつーか。ま、そこは俺の意地で比較的穏便なチームに担当してもらうように根回ししたんだけど。っていうか、ちょっとやせた? ちゃんと食べてる? ちゃんと眠れてる?」  「うん」  「いやいやいや、またサプリだけで乗り切ろうとか、そんな滅茶苦茶なことやってんでしょ。ダメだよ、こういうときは美味しいもん山ほどヤケ喰いして、何も考えずにドップリ眠らなきゃ。栄養失調睡眠不足の脳みそじゃ、悪いことばっかり考えちゃうのは当たり前じゃん。あ、もし良かったら明日あたり俺と一緒に晩御飯でもどう? 中華ヤケ喰い、居酒屋でヤケ酒……は未成年だから無理として、それからカラオケ辺りでパァっとさ!」  「わかった」  「もちろん俺のオゴリだから、ご遠慮なく。こればっかりは経費じゃ落ちそうにないけどねー。ああ、どうしてもって言うんなら、お代はチューくらいでいいからさ、もちろんより高レベルな報酬も大歓迎ね、期待はあんまりしてないけどさ。ともかく、ルコちゃんのやりたいこと全部片っ端からやってこう! どこ連れてって欲しい? やりたいこと何かある?」  「ない」  「そっかそっか。じゃあ仕方ないか、だったら……――」  饒舌もそれまでだった。それ以上言葉が続かなくなって、二人揃ってしばらく沈黙する。ルコは微動だにせず、言葉を失くした人形のように口を開かない。静寂に耐えかねた能瀬は頭ガシガシとかき乱して、  「……あーあ、弱ってる時が落とし時だってことで、ちょっと本気出して狙ってみたんだけどな」  バツの悪そうな顔で白状する。彼らしい抜け目ない打算だが、今は怒る気にもなれない。深々とため息をついた能瀬は、打って変わって真剣な眼差しで身を乗り出した。  「こんなことになってるんだろうなーって心配して、それで押しかけてきたんだけど……こりゃ予想以上に参ってるみたいだね。よし、俺は優しいから聞いてあげる。――何をそんなに落ち込んでるの?」  優しいと自分で言う人物は信用できないが、相手が嘘をつかない彼ならば信じてみるのもいいかもしれない。表情の抜け落ちた顔のまま数秒間だけ黙考し、答える。  「……好きなモノがなくなってしまった」  これから先、今までのように何かを愛せるかどうかも分からない。こうしてうつろに空転しながら毎日を過ごしていくと思うと、目の前が真っ暗になる。  能瀬は心底呆れたような苦い顔で首を横に振り、ほんの少しだけ口元を緩めた。  「ルコちゃんの好きなモノなら――目の前にあんじゃん。馬鹿だなあ、見えてないの?」  目の前。テーブルに載ったモノたち。視線を落とせば、そこには変わらず大切なモノが横たわっていた。それらをじっと見詰めながら、厳かに告げられる言葉に耳を澄ます。  「《モノ》でも《ヒト》でも構わないんだろ? あいつらは宣言どおり今もここにいるじゃんか。ここにいて、そんな顔してるルコちゃんのこと見てるんだよ」   そうか、まだここにいるんだ。いなくなってなんかいない。こんな腑抜けた表情をしていたら、みんなは何と言うだろうか。慰めてくれるのか、怒られるのか、一緒に落ち込んでくれるのか。  「向こうからの声は届かなくても、こっちからの声はまだ届くよ。その声が無視されて拒絶されるのが怖いって? 返事されなくても、それは拒絶じゃない。本当に好きなら、何度でも何度でも呼びかけなきゃ」  まだ、この声は届く。目には見えなくても、投げかけた想いはたしかに受け止められている。今までのルコと同じだ、愛されていることは分かっていても返事はできない。だったら、今度は自分が投げかけなければ、何度でも。  気がつけば、両手でバスタオルを拾い上げていた。失われていた感情の色が、綿雲に夕暮れの色が染み込むようによみがえっていく。両手をテーブルに突いて立ち上がった能瀬は、ルコの両目を覗き込み強い口調で静かに告げた。  「好きって言葉は、胸に溜め込んどくもんじゃないだろ。……大丈夫、ちゃんと届くから」  届く。そして、いつか返ってくる。  矢も盾もたまらず、彼女は両腕でバスタオルを抱き締めた。きつく、きつく、腕がきしむほどに。  「――……ただいま、タオ」  始まりの日と同じように、呪文を唱える。  「ただいま、やっと帰ってきた」  顔をうずめて何度も繰り返し、  「ただいま、ちゃんと分かった」  届いていないかもしれないという恐れを振り払って、  「ただいま、何とか言え」  ご都合主義の奇跡よ起これ。  愛は奇跡を起こすんだから。  「ただい――」  「おかえり」  ……耳慣れた柔らかな声が聞こえた。  空耳ではないのか、眠りが呼んだ夢じゃないのか。  確認しようと恐る恐る顔を上げると、すぐ近くで至福の笑みを浮かべるタオと視線が合う。いつの間にか白いシャツの腕に抱きすくめられながら、彼女は息を呑んで目を見開いた。  あの日と同じ、奇跡が起こった。寄り添う身体にはたしかな体温と鼓動が宿っている。抱き締める腕の温度も、規則正しいリズムを刻む心音も、柔らかな眼差しも洗剤の匂いも、何もかも同じ。  差し出された愛を受け取る《モノ》が、ここにいる。  「…………へ?」  たしかにご都合主義の奇跡を願った。が、ありえない展開に口をパクパクさせる彼女に、腕を解いた彼はもう一度、一言一句丁寧に同じ言葉を繰り返す。  「おかえり、ルコさん」  想いが届いた。帰ってきたんだ。夢じゃない。  それを噛み締めるよりも先に、ルコはギギギーっと首がきしみそうな動きで能瀬を睨みやった。どういうことだと言いたげな眼差しに悪びれもせず、彼はしれっとした顔をしている。  「ほら、二度と使えなくなるとは言ってないじゃん。嘘はついてないよね。再発動するのかどうかは確証なかったけど、《モノ》への愛着感情ならどんな形であってもいいんじゃないかな、多分。それで充分《AML》は発動する、と」  物体への愛情をオフにしても、人間的な愛着が芽生えても、そこに強い愛があればオールオッケー。ゴミ集積場での発動停止とその後の《AML》消失は、諦めが心を塞いで覆い隠してしまったがゆえのことらしい。迷いを晴らしてしまえば、こうしてまた能力は復活する。と、いうことらしいが――  「……なぜ、こんな大事なことを黙っていた?」  いけしゃあしゃあと解説する辺り、異端管理局は既にその情報を掴んでいたに違いない。にもかかわらず、それを告げずに弱ったところを慰めて口説きにかかったのだ、この男は。  能瀬はふてぶてしく澄ました顔で、  「言っただろ、俺は本気だってさ。遊びで口説いたわけじゃないし、仕事で口説いたんでもない。だから……」  咎め立てる視線をものともしていなかった彼が、不意に決まり悪げに顔そむける。しばらく頭かきながら言いにくそうにしていたものの、観念してボソボソと後を続けた。  「……あいつらにリード許しておけるほど、余裕のある男じゃないし、俺。こんなチャンス、逃したくなかったんだけど……あんまりにも痛々しかったから」  「……やっぱり、私はお前が嫌いだ」  眉間にしわを寄せてそんな風に吐き棄てる。しかしそれ以上は何も言わずに、呆れ混じりの苦笑をうっすらと頬に浮かるばかりだった。  嫌いだけど、憎めない。そんな男であることは、最初から分かっていた。  そんなルコの言動に、能瀬は肩すくめて大げさに傷ついた顔をして見せた。      「ただいま戻りました、お嬢様」  「ったく、ルコは俺らがいねーと何もできねーんだな!」  最後に別れた時と同じように軽く頭はたくサクに、早速部屋の隅で気配を消して見守りモードのマグニ。そして、  「……お嬢、それに兄さんがた」  帽子脱いで床に正座する呑助が、神妙な面持ちでルコたちを見上げる。  「このたびは、手前のせいでとんだことに」  悲痛な面持ちで口にした言葉は、すぐさまその場にいた面々に受け取り拒否された。  「それはあの一発でチャラになったじゃない。今更だよ」  「そうそう、どっちかっつーと何もかもこのストーキング野郎のせいだし」  「うわ、さっくんひどっ!」  「肯定はいたしませんが、否定もできませんな」  「おめえさんらが許してくれても、手前が納得できねえんでさあ」  いくらいいと言われても、呑助は神妙な表情を崩さなかった。ルコに頼み込んだときと同じく、両の拳を床に突いて頭を下げる。  「手前まで《ヒト》に戻してくれた心意気ぁ、ありがてえ。しかし、やったことのケジメはつけにゃあなるめえよ。――手前は二度と、お嬢にゃ近づかねえ」  「そんなケジメは要らない」  家族が一人増えてもいいくらいに思っていたルコは、どことなく必死の声音で引き止める。だが立ち上がった彼はゆったりと首を横に振って、  「コレが手前なりのケジメでさあ。おめえさんらの行く末、とっくり拝見してえところだが、手前はここで退場させてもらいやすぜ。しかし、まあ――」  小粋な仕草で帽子をかぶり直して、ニヤリと豪胆に笑う。  「手前の力が必要になった時ぁ、いつでも呼んでくんな。この恩義に報いるために、いつなんどきでも駆けつけまさあ。……もっとも、風来坊よろしくやってるとこ捕まえられりゃの話だが」  律儀なのか横着なのかよく分からない宣言だ。どちらにせよ、義理と人情を重んじる彼らしい。更に妙に頑固なところがあるので、これ以上はどれだけ引き止めても無駄だろう。いつかまた会えると信じて見送るしかない。  去り際、ルコに歩み寄った呑助がそっと唇に手を伸ばす。唐突に口付けたとき同様、親指で唇の輪郭をなぞり、  「お嬢の唇の感触、忘れませんぜ」  思いっきり悪戯っぽく言い残してから手を離し、リビングを去っていった。  後に残された特大級の火種を抱えて、被害者以外の一同は呆然として沈黙する。ややあって、能瀬とサクから怒涛の詰問が寄せられた。  「おいこらルコ、何なんだ唇って!? あの野郎、唇っつったよな!? まさか何かされたんじゃ――」  「キスをされた」  「「キス!?」」  天気の話のごとくサラリと答えた彼女に、二人並んで目をむく。  「お、おまっ、ルコ、そんっ……だああああ!! だからお前は危機感がなさ過ぎるっつうんだよ!」  「嘘だろ嘘だろ!? 俺が先に狙ってたのに! そのために100のプランをネリネリと練りまくってたのに! っていうか絶対初だよね、ファーストキスだよね、ああ、人生で一度だけのファーストキス横合いから掻っ攫われた俺の馬鹿、俺のうかつ! ルコちゃん分かってる!? ファーストだよファースト!」  なぜそこまで大慌てするのか分からない、とばかりに不思議そうな顔をする。  ――いくら自分の中のタブーを克服しても、すぐさま誰彼に恋をすることはありえない。生まれ持っての朴念仁とヒト嫌いのモノフェチは、一朝一夕では改善不可能だ。今の彼女にとっての『好き』は、具体性のない感覚的なものであるに過ぎない。恋を知る前の幼児が誰彼構わず好きと笑いかけるのに似ているかもしれない。  たはー、とあきれ返り、がっくりと肩を落とす二人。他の二人は苦笑いを浮かべてそれを見守っている。  「お前達にあれこれ言われる筋合いはない」  眉間にシワを刻みながらも、ルコは口元だけでニヤッと笑って見せた。  「私は、これでいいんだ」  そう、変態と言われようが非常識と言われようが、そんなことはどうでもいい。  私はヒトとモノが同じくらい大好きです。欲張りです。これが私の、誰にも真似できないオリジナルな愛なんだから、仕方がない。――そうやって世界中に宣言したくなった。  「よかねえよ! あの野郎、今度会ったらタダじゃおかねえ……ルコの唇の噛み心地なんて、想像しただけで、ああああ……!」  「噛み癖はまだ治っていないようですね。深刻な駄犬っぷりが治らなければ、そのうち保健所送りになりますよ」  「誰が駄犬だ出歯亀メガネ! んなこと言って、どうせバッチリ見守るつもりなんだろうが!」  「無論です」  「よし、今の内にレンズ傷らだけにしてやる」  「まあまあ、二人とも。ルコさんが異国の言語聞くみたいな顔してるから、その辺にしておいたら? 俺ちょっと買い物してくるけど、何か欲しいものある?」  「今そんな雰囲気じゃねえだろ。空気読めねーのか腹黒タオル。……缶のコーンスープ」  「そんな雰囲気ではないからこそ、転換は重要です。……ミルクティーを。たまには茶葉ではなく、ペットボトルも良い」  「了解。それじゃ、ちょっと行ってくるね」  「私も行く。外の空気を吸いたい」  懐かしい3人のやり取りを見守っていたルコが、リビングを出て行こうとするタオの後に続く。  残った2人の九十九神はまた言い合いを開始して――能瀬だけが、一人ぽつんと取り残されてしまった。  「……まったく、損だよねー、俺の愛って」  心底からあふれ出す苦味をいびつな笑みで誤魔化しながら、ぜぃと重いためいきをつく。  独りぼっちの少女を囲っていた箱は、再び喧騒で満ちあふれた。  それをしっかりと確認してから、挨拶もなくこっそりとその場を後にする。  今日のところはこれで勘弁しておいてやる。そんな棄て台詞を何とか飲み下しながら。      コンビニからの帰り道、ビニール袋を提げた二人は星空の下を歩いていた。微妙な距離を取りながら、二人並んで無言のまま家路を辿る。ところどころ街灯で照らし出された住宅街の路地は、二人分の足音が響くくらいに静まり返っていた。  さっきまでは平気だったが、二人きりになると急にぎこちなくなってしまう。言い知れない感情に邪魔されて上手く言葉が出てこない。モヤモヤしてしかたない。  しかし、これからのルコは今までのルコとは一味違った。視線は逸らしたままながら、とにかく何か言おうと深く考えずに口を開く。  「……並んで、」  「うん?」  「こうやって、並んで歩くのは初めてだな」  「あはは、だってルコさん、いつもずんずん前に行っちゃうんだもん。俺達はいつも、背中を追いかけるだけだった」  傍若無人、という表現がそのまま当てはまる。傍らになんぴともいないがごとく、たった一人で歩いていると勘違いして、彼らを置き去りにしてきたのだ。そう思うと、急速に申し訳なさがこみ上げてきた。  「……ごめん」  「それはもう聞いたよ」  わずかに眉尻を下げて呟くルコとの距離を、ほんの少し縮めるタオ。  「……ありがとう」  「それも聞いた」  気楽げに笑って、また少し。ビニール袋を持った手の甲同士が触れ合うくらいの近くに。  「……大好きだ」  続いてこぼれ出した一言に、彼は目を見開いて立ち止まった。何事かと隣で足を止めたルコのすぐ傍で、彼が持っていたビニール袋がガサリと路上に落ちる。  次の瞬間には、その場で抱き締められていた。バスタオルで包み込まれるような、柔らかく優しい仕草で。心臓の音や洗剤の匂いが近い。  「……それは初めて聞いた」  耳元で囁かれる声には、隠しようの無い喜びが溢れかえっていた。身を寄せ合う小動物のように密着しながら、なぜこんなことを口にしたのか、自分でも混乱する。大好きだなんて、原型状態のときならともかく、九十九神化したタオに向けて言ったのはこれが初めてだ。  大変に気恥ずかしい思いをすると分かったのも。  それに、こんな風に肌触りを確かめる名目以外で抱き締められたのも。  小さな背中と後頭部に腕を回して、一つ一つ大切な宝物を見せるような声音で囁きかけるタオ。  「俺も――俺たちも、大好きだよ」  「……それは言われなくても分かる」  「けど、言いたいんだ。何万回でも」  腕を解いて顔上げて、すぐ近くで見詰め合いながらフンワリ笑い、  「大好きだよ、ルコさん」  ――悔しいくらいに、良い言葉だった。恥ずかしさのあまりわざと仏頂面をつくろっていたルコが、同じように表情をほころばせてしまうくらいに。  しばらく無言で笑顔を交し合っていると、辺りには何かしらフワフワした空気が漂い始めた。それが何なのか今のルコには分からないが、とりあえず今やるべきことは分かっている。  「目を閉じろ。……どれだけ『大好き』なのか、確かめたい」  決意を秘めた声音に応じて、タオは素直に目を閉じた。少し身をかがめて、両手をルコの肩に乗せ。  彼女もまた、じっとその顔を見上げて肩に手をかけ――    真顔のまま、タオル地のマフラーを剥ぎ取った。  完璧に不意打ちを食らったタオは一瞬で元のバスタオルに戻り、ルコはふんわりと両手に落ちるそれに嬉々として思いっきり顔をうずめる。  「うっはぁぁぁぁぁ!! やっぱり好き、大好き、この上なく大好き、果ても底もなく大好き! ちょっと汚れててもそれがまた味があって好き! それでも変わらないこのフワフワ柔軟感って一体何、超自然現象? 魔法? 魔法なのか! 魔法だな絶対に! もしくは奇跡! 絶妙な起毛が肌を撫でる感触、はぁぁぁぁん、最高、文句なし! 愛はここにあり!」  夜道で一人スイッチ・オン状態になったルコは、気が済むまでひとしきりバスタオルを愛で倒した。      異端管理局の交渉期限は数日後に終わるだろう。その日を境に管理局の独壇場は終わり、世界中の各機関が牽制しあう拮抗状態が復活する。どこからともなく監視され、いつ誰が手を出してくるか分からない日々がまたやってくる。  だから、まだ監視の目がない今夜だけは、誰はばかることなく好き勝手に愛を叫ぼう。  世界の目を盗んで、こっそりと大好きなものを愛でることにしよう。  バスタオルから九十九神に戻ったタオが、柔い苦笑を浮かべて誰にともなく呟く。  「――……まだまだ、これからだ」