ちび神さまっ!    序  高天原《たかまがはら》の片隅で、神に属する母と幼い娘が話していた。母は娘を産み育てたとはいえ若々しく見えた。その娘も若く小学生ぐらい。二人とも白い布を張り合わせたような服を着ている。身体の横で荒く縫い合わされていて隙間が大きい。横から覗くと体が見える。  母は心配そうな目で、まだ何の神でもない娘を見つめていた。無理に笑おうとしているらしいが、顔が歪んで泣きそうになっていた。 「チビや。下界に下りたらその地の大社様に詣でて挨拶するのですよ」 「分かっております、母上」  チビこと、天稚彌女命《あまのちびめのみこと》は小さな胸をツンと反らして自信に満ちた声で答えた。肩までの黒髪がふわふわと揺れる。母親の様子とは裏腹に、何の不安も感じていないらしい。 「くれぐれもその土地を統べる神へ断りをいれる前に、祠のお供えに手を出したり、神社の敷地に入ってはいけませんよ」 「もう、何べんも聞きました。重々承知しております」  自分の身長より長い木の杖でトンっと地面を叩いた。下界へと続く坂道へ、身体を向けて一歩踏み出す。  その背へ母の声が飛ぶ。 「気をつけていきなさい、チビや……」 「そんなに心配なさらず。すぐに自らが守護するべき『物』を見出し、皆から崇められる立派な神様になってみせます。それほど時をかけず帰ってまいります」  足を止めずに顔だけ向けて微笑んだ。そのまま大股で坂道を降りていく。服の裾をひらひらさせて。  母はチビが見えなくなっても、胸を押さえるように手をあて心配な目で見続けていた。  チビは意気揚々と下界へ降り立った。夏の初めを思わせる、強烈な反射とセミの声が地上に満ちている。  太平洋に面した大きめの都市。片側二車線の国道が東西に貫き、人と車が行き来する。道に沿って様々な店が並び、無数のビルが無秩序に立ち並んでいる。  チビは事前に学習した世界とはまるで違う風景に目を丸くしていた。  電光掲示板に平成の年号を見出し、首をかしげる。 (……今は大正の世ではなかったのかのぅ?)  習った話では、木造の家が立ち並び、土の道は車が通るたびにもうもうと煙を立てるはずだった。それなのに街はすべてが硬く黒い岩で舗装されており、天まで届くかというような継ぎ目の無い一枚岩の楼閣が幾つも聳えて陽光を鋭く反射している。  チビは大社に参詣しようとしたけれど、複雑な町並みに迷ってしまった。自身の持つ地図とはあまりにもかけ離れていた。  けれども街があり、人々が住んでいるという点は変わらない。 (先に信奉者を見つけようかのぅ。いやいや、それは大社で許可を貰ってから出ないと駄目であるな。まあ、お手伝いぐらいならよかろ)  人の多い駅前ロータリーに差し掛かった。黒いタクシーが並び、時々大きなバスがやってくる。  ちょうどその時、電車が到着したらしく駅からどっと人が流れてきた。  チビは人の群れを認めると、一段高くなった花壇に上り、やってくる人々を睥睨した。 「わらわは天稚彌女命。そなた達のうちで一人、我が供として大社へ案内せよ。心して世話をするが良いぞ」  しかし誰も足を止めなかった。  神だと信じてもらえなかったのかと、花壇を飛び降り歩く人々に咎めるような大声で話し掛ける。 「これ、どこへ行く気じゃ! わらわは天津神《あまつかみ》の眷属に連なる者であるぞ!」  それでも誰も足を止めない。無視されているのではなかった。そもそも言葉が通じていなかった。チビの姿も見えていないらしい。  チビは怒って地団駄を踏んだ。 「なんじゃ! 神に対する尊敬の念を忘れた者か! もうよいわ!」  チビは別の人に話し掛けた。それも無駄に終わった。  それから数え切れないぐらいの人々へ話し掛けた。けれど、誰一人チビの姿を認める人間がいなかった。時々、大声の気配に首を傾げる人がいたぐらいである。  街が夕暮れに赤く染まる頃、チビは駅前から少し離れた通りを、とぼとぼと歩いていた。へとへとに疲れて足取りは重い。  街は夜を迎えようと、いっそう華やかになって享楽の明かりを灯し始める。  一人の人は家路を急ぎ、仲間連れは楽しげに喋って通り過ぎる。誰もチビには目を止めようとはしない。  ガードレールに沿って大通りを歩いていたチビは、ふと気配を感じて目を上げた。目の前に小さな祠があった。恐らく道祖神を祭る小さな祠らしい。まるで邪魔者扱いにでもするかのように、ひっそりとビルの外壁に埋もれている。供えられた草花はとうの昔に枯れてしまい、夕日を受けて赤茶色に沈んでいた。  それを見ているうちにチビの視界が歪んだ。振り絞るように思いの丈が口を衝いた。 「もう誰も……誰も神を信じておらぬでは無いか……っ」  チビの目から涙が溢れてぽたぽたと地面に染みを作った。  国津神《くにつかみ》を奉った大社がどこにあるか分からない。歩き回れば分祠神社ぐらいならたどり着けるかもしれない。そこなら修験した宮司や巫女がいて、話が通じるかもしれない。  けれど、まずは大社に行かなければ分祠神社に入ることは許されない。禁を破れば流浪神として永遠に地上を彷徨わなければいけなくなる。 「誰か……誰かおらぬのか……っ!」  悲痛な叫びは誰にも届かない。一羽の黒いカラスが、バカにしたようにカァーと答えて夕焼けの空をはすかいに飛んでいった。    1.  夏休みの朝。  僕は狭いリビングにいた。テーブルに座って朝食を食べる。食器を洗うのが面倒なので、牛乳をかけたコーンフレークだけを口へ運ぶ。  家には誰もいない。テーブルの上に『週末までの食費』として五千円が置かれていた。食費だけにしては多かった。おそらくお小遣いも含まれているんだろう。父は仕事の出張でしばらくは帰ってこなかった。  家の外にはセミのうるさい声が溢れている。開け放した窓からカーテンを揺らす風とともに流れ込んでくる。どこもかしこも狭い二階建ての一軒家にセミの声が反響する。それに邪魔されてテレビの音が聞こえ辛い。  けれども興味を惹く番組ではなかった。ニュース番組の中で綺麗なお姉さんが政治や経済を読み上げている。横に出ている全国の天気だけが見たかった。全部晴れマーク。  今日も暑くなりそうだった。かと言って遊びに行く予定があるわけではないので、日がな一日家でごろごろして置けばよかった。  クラスメイト達は今頃どこかへ旅行している。海外はさすがに少ないけれど、海や山や行楽地へ遊びに行ってるはず。  夏休みが終わって交わされる旅行話に一人参加できないのが嫌になる。  本当はうちも夏休みには二泊三日でネズミのいる遊園地に行くはずだった。小学生の時に一度行ったっきりの日本で一番華やかな遊園地。あれから新しいアトラクションも増えたらしいから、とっても楽しみにしていた。  しかし父親に急な仕事が入ってしまい、旅行は取り止めとなった。うちは父子家庭。あんまり強くは言えない。「一人で行って来るか?」なんて言われたけれど、それはそれで面白みがない。特に余計な出費が出来なくなるというのが僕的にはつらい。自分のお金は一円たりとも使いたくなかったから。 「はぁ……」  けれど溜息は出る。夏休みが明けたらクラスメイト達には何も言えず、ただみんなの聞き役に回る。それを考えただけでも気持ちが暗く沈んでしまう。  誰が一番面白い旅行したか? なんていう方向に話がいかないといいけど。そうなると負けたものがジュース奢らされたりするかもしれない。僕はお金が何よりも好きなので無駄な出費は控えたい。  何か安上がりで面白いことや自慢できるようなことはないかなぁ……。  ――と。  僕はテレビへ釘付けになった。見慣れない光景がアナウンサーの後ろに写っている。セミの声が遠退き、良く通る天気予報のお姉さんの声がありありと聞こえた。 『今年は雨が少なく、台風も上陸しませんでした。いまや日本全国で渇水が続いています。こちらをご覧ください』  化粧バッチリのお姉さんが背後にあったパネルを叩く。写真が画面いっぱいまで拡大するとVTRに切り替わった。  県内にあるダムを上空から撮った映像だった。ダムは完全に干上がっていて、見渡す限りの黄色い砂が堆積している。その湖底には幾つかの人工物があった。建物の柱、何かの社。あの赤茶色の円筒はポストかもしれない。  形を残した建物はほとんど残っていない。コンクリート製と思える灰色の二階建ての建物だけが、水に沈んでいたとは思えない様子で不気味に聳えていた。  村役場とテロップが出る。ナレーターが色々とレポートを流す。映像が終わると天気予報に切り替わった。  僕は見惚れてしまって動けなかった。  気がつくとコーンフレークがふやけて、ふにゃふにゃになっていた。  台風自体は来ているらしい。このままだと日本列島を直撃しそうだとも。  だとしたら、このダムの底に降りられるのは今の間だけなんじゃ?  海外ならお金を積めばいつでも行けるけど、ダムの底なんて幾らお金を払っても無理に決まってる。  ちょっとした冒険にはうってつけじゃないかと思った。  そう、これは冒険なんだ!  思い立つと、ふやけたコーンフレークを一気に飲み込んだ。食器を流しに置いて二階へ駆け上がる。すぐにパソコンを立ち上げ、ネットで場所と交通機関を調べる。ダムまでは家から電車とバスで二時間。そこから少し歩いた山の中だった。  頭の中で計算をする。週末までの必要経費。それからこの小旅行に掛かる費用を引く。  うん。五千円はそんなに減らない。むしろ余るぐらいだ。冒険できてお金も儲かるなんて良い事尽くめだ。  クローゼットに近寄り服を出す。ジーンズを履き、青いTシャツに着替える。そしてリュックを手に持つ。鏡の前に立ち確認するが、我ながらあまり格好良い姿とは言えなかった。着古しているし、聞いたことのないメーカー製。でも別にそれでよかった。なにせお金が全然かかっていない。服は全部バザーやフリマで手に入れていた。オシャレをするより、渡された服代をケチって貯金に回した方がいいじゃないか。  それで、と。  ダムの底に下りたっていう証拠は、携帯のカメラで撮影すればいいかな。  携帯と財布を持ってドアの前で一度振り返る。ぐるっと部屋を見回す。ベッドと本棚と勉強机があって、かなり狭く感じる部屋。  うん、どうせ日帰りだし、携帯と財布だけでいいか。  僕は部屋を出て階段を下りた。台所で水筒に水を入れ、おにぎりを二つ握った。無駄な出費は抑えたい。それらをリュックに入れて背中に背負う。そしてテーブルの上に放置されていた五千円を財布にしまうと玄関へ向かった。 「じゃあ、行ってきます!」  誰もいない家の中へ大声で呼びかける。僕は靴を突っかけるように履くと、汗ばむ陽気の下に飛び出した。肌を刺す夏の鋭い日差しからは、もっと暑くなる予感がした。  駅へと向かう僕の足取りは軽かった。ただの旅行じゃない、普通ではできない冒険だってことにイヤでも顔が緩んでしまう。  さすがに鼻歌やスキップまではしなかったけれど、弾む気持ちが押さえられない。あれほど煩わしかったセミの声や夏の暑さも、楽しい気分に押しやられたのか喜びを盛り上げる手伝いにしかならない。  けれど目の端では余念なく地面や塀の隅を捕らえて歩く。僕は平均的な中学生だけど、それは平均であって事実は少し違った。プラスとマイナスを持っていた。相殺された人生なので平均的にはなってる。  プラスの能力はお金にツいてること。よく小銭を拾うし、何かと臨時収入を手に入れた。例えば、こん――。  キラッ  突然、目の端に金属光が飛び込んできた。心持ち背筋が伸びて、僕はその場へ向かう。金属は丸い光を反射している。  素早くしゃがんで手の中に収める。何事もなかったかのように歩き出す。大丈夫。誰にも見られていない。  冷静を装いながらも心の中ではガッツポーズをしていた。  うおー!  五十円だ! これはいい一日になりそうだ!  もちろん警察には行かない。いや、行くけど行かない。小学生のころは毎日のように小銭を持って行ったけれど、そのうち言外に小銭は持ってくるなと諌められたので、大きいお金しか持って行かなくなった。  足取り軽く住宅街を抜けていく。しだいに人が増え始め、繁華街へとつながっていく。大通りには車が何台も走っている。  僕はさらに二円ほど拾ってホクホク顔で歩いた。一円を笑うものは一円に泣く。一円だって大切なお金なんだから。百枚集めたら百円のものが買える。百円で一ポイント付く何かのポイントカードを大切にするのと同じじゃないか。  駅に着くと二階の改札口へと続く階段を登り始める。ざわざわと人が行き交う中で切符を買う。  ――と。  視界の端に煙のようなものがよぎった。目を合わさないようにしつつ、地面を見ながら無視して歩く。  やれやれ、と内心溜息を吐いた。せっかくの楽しい気分が水を浴びたように醒めていった。  僕のもう一つの能力。マイナスの力。  それは幽霊が見えてしまうことだった。  霊感が強いとか、そういうレベルではなかった。昼間でも時には半透明な人が、時には影のないどこか崩れた人間が、ありありと見えてしまう。テレビで霊能力者が廃ビルや墓地に出向いて何かを言う番組があるけれど、幽霊なんてそれこそどこにでもいた。  厄介なことに幽霊は自分を認識した人間に対してちょっかいを出してくる。それこそ呪ったり取り憑いたりしてくる。お払いするにもお金が掛かる。とても面倒くさい。  金にツイていたが、幽霊にも憑いていた。こんな人生、良いのか悪いのか判断できない。  僕は無視したまま階段を下りてホームに立った。幽霊がもう一人線路際に立っている気がする。看板や時刻表を眺めて気付かないフリをする。  無視できれば何もしてこない。自分を認識しない相手にちょっかいかけても無駄だと分かっているんだろう。霊感のない人は本当に恵まれてると心の底から羨ましく思う。  電車が来て、幾人かの乗客と一緒に乗り込む。さすがに車内までは幽霊の気配はしない。  ほっと安堵して七人掛けのソファーに腰を降ろした。扉が閉まり、ゆるゆると加速する。外の景色が左から右へ流れていく。  しばらくして姿勢が辛くなってきた。リュックを背負ったままだった。それで膝の上に載せようともぞもぞしていると、イスと背もたれの隙間に偶然指が入った。指先に硬く薄いものが触れる。取り出すと五円玉だった。  ちょっと嬉しくなって穴の開いた金色の硬貨を握り締めた。  一時間以上電車に揺られ、中継地へと降り立った。  駅前には大きなロータリーがあり、各方面へと向かうバスが停まっている。駅前にはビルが立ち並びスーパーやゲームセンターがある。どの建物も新しく感じる。都会のベッドタウンとして急速に発展した場所らしい。  僕はダム付近を通るバスを探して歩く。太陽が天頂にとどまり、歩くだけで汗が滲む。  だんだん気が滅入ってくる。  その時、ギラッと何かが強く光った。建物の角の自動販売機の下。  あれは、まさか……!  眼を凝らした。大きく丸い銀色。  間違いない、五百円玉だ!  嫌がおうにも心が高鳴る。財布を取り出し、ジュースを買う振りをして足早に向かう。もう自動販売機と五百円しか目に入っていなかった。  傍まで来た時、ふいに脇道から子供が飛び出してきた。ぶつかりそうになったので、軽やかな足取りでひらりと避けた。  目の端に映る白い服を着た黒髪の少女。布を前後で合わせ、横を荒く綴じたような服。まるで歴史の教科書で見た、縄文人が着ているような服。中途半端なつくりのため、中身が色々と見えそうだ。それは置いておくとしても、真夏の強烈な日差しが降り注いでいるのに地面に落ちる影が薄い。いや、薄いというより見えなかった。  その瞬間、僕は全てを理解した。  しまった! この子は人間じゃない、幽霊だ!  冷静を装い、自販機の前に立つ。出来るだけ気取られないように。  でも、たたたっと子供の駆け寄る足音がした。  ああ、やっぱり誤魔化せなかった。これは面倒なことに……。  油断していた。五百円に眼がくらんで完全に油断していた。  たった一つの幽霊から身を守る方法。  それは幽霊と気がついても無視すること。ぶつかりそうになっても避けずに体当たりすること。  ――それなのに。 「はぁ……」  大きな溜息が出た。浮かれ気分で気が回らなかったのは仕方ない。でもなぁ……せっかく冒険できるチャンスだったのに。  走ってきた子供の霊は前に回りこむと、大きな目で僕を見上げた。幼い女の子だった。濡れたような美しい黒髪に、陶磁器のように透き通る白い肌。まつげが長いためか、可愛らしい顔の中にも高貴な雰囲気を醸し出していた。頬にはどれだけ泣いたのか分からないぐらい、涙の跡が色濃く残っている。  少女は僕の目を見て、藁にすがりつくような声を出した。 「そなたは……わらわが。――わらわが見えるのかぇ?」  声が震えていた。良く見れば全身が震えていた。僕へと伸ばす手まで小刻みに震えている。  ちょっとだけ可哀想になった。けれど幽霊に同情は禁物。気を許すと、とことん取り憑かれる。  君なんか認識してないよと教えるために、少女の身体を通り抜けようと自販機を見据えたまま大きく一歩踏み出した。  ――ドムッ!  足に柔らかい物のぶつかる感触がして、少女が吹き飛ばされ自販機に背中からぶつかった。  はっと息を呑んで少女を見た。霊とはぶつかれないから、人間と勘違いしていたのかと思った。でもやっぱり幽霊だった。眼を凝らさなければほとんど見えないぐらいに影は薄い。  ていうか! なんで霊と接触できるの!?  僕が戸惑っていると、少女は前かがみになってぶつけた腰をさする。呪い殺すような目で下から睨んでくる。  あー、やばい。なんだか強そうだ。お払いするのに特別料金が掛かりそう……。  お札に羽が生えてが飛んでいくイメージが頭に浮かんだ。  けれど少女は驚くべき言葉を発した。 「神を足蹴にするとはなんという不届き者か! いつか天罰を与えようぞ!」 「えっ? 神!?」  つい釣られて反応してしまう。口をつぐんで目を逸らしたがもう遅い。  少女の大きく息を飲む音が聞こえた。チラッと見れば、目が落ちそうなほど大きく見開いている。僕に体当たりするかのように飛びつくと、Tシャツの裾を掴んで見上げてきた。 「やはり、わらわの姿も声も聞こえておるのじゃな!」 「……」  最後の抵抗に沈黙を選んだけど、少女は紙を引き裂くように言葉を振り絞った。 「わらわは、天津神《あまつかみ》の眷属、天稚彌女命《あまのちびめのみこと》じゃ! 助けてくれるのであらば、富と名誉を与えようぞっ」 「……」  僕は答えない。『富と名誉』という言葉に心がぐらついたけれど踏ん切りがつかなかった。  ぼんやりと空を見ていた。青空を支えるように高い入道雲が聳えていた。ソフトクリームのような白さが美しかった。  少女がぐずっと鼻をすする。 「頼む……。頼むから何とか言うてくれぬかぁ……」  うっうっ……と服を掴んだまま俯いて嗚咽を漏らし始める。少女を泣かすなんて罪悪感で心が苦しくなる。  はぁっと盛大な溜息が出た。  こんなによく喋る幽霊は初めてだった。こんなに感情の起伏が激しい幽霊も初めてだった。  気がついたら、すすり泣く少女の頭へ手を延ばしていた。霊なのに触ることが出来る。細く心地よい髪の感触が手のひらに伝わる。  本当に神様なのかもしれない。  半信半疑になりながら、僕はそっと語りかけた。 「分かったよ。意地悪してごめん。……えっと、あまのなんとかのみことだっけ?」  少女は、ぱっと顔を上げると泣きながら笑った。朝顔の花が開くような柔らかさで。 「その通りじゃ! わらわは天稚彌女命《あまのちびめのみこと》」 「長い名前だね」 「そうかの? ならば、そなたには特別にチビと呼ぶ権利を与えよう」  大層な褒美を与えるようにチビは鷹揚に頷いた。胸を逸らしながら小さな手で涙を擦る。その仕草が小動物のように可愛らしく、また痛々しかった。 「そりゃどうも。僕は八雲。天恵八雲《てんけいやくも》」  神様に負けず劣らず大仰な僕の名前。  案の定、チビは首をかしげた。 「ほぅ。由緒のありそうな大層な名前じゃのぅ」 「いや。名前だけ。父は会社勤めだし、由緒とか何もないよ」 「そうかの」  僕の身分には興味を失ったようで、小さな手のひらで、さらにぐしぐしと涙を擦った。強く擦ったみたいだけど、涙の跡はなかなか落ちなかった。 「まだ付いてるよ。この辺に」  僕が自分の目の横辺りを指差すと、チビは小さな手を一生懸命動かして顔を擦った。染み一つない柔らかそうな肌がぐにぐにと動く。しまいにはだんだん肌が赤くなってきた。あんまり擦っても肌に悪いかもしれない。  チビは気が済むと心持ち小首をかしげた。 「どうかの? 落ちたかの?」 「うん、もう大丈夫みたいだよ」 「そうかぁ」  ぱあっと雲間から太陽が顔を覗かせるように笑った。素直な表情はまだまだ子供らしくて可愛かった。  そんなふうにほほえましい気持ちでいたら、チビはいきなり服の裾を持ち上げた。ぽこっと膨れたお腹と、小さなおへそが見えた。腰を覆う白い布が目に眩しい。しかもぱんつじゃなかった。細長い布を捻って腰を一周させ、それから広げた部分をまたの下にくぐらせた、ふんどしだった。足の付け根まで露出した白い肌は健康的な艶やかさをかもし出していた。  初めて見る珍しさも相まって思わずしげしげと眺めていると、どこに隠してあったのか服の下から古びた本を取り出した。開いたページを細い可憐な指で示す。 「それでのぅ。国津神を奉る大社に行きたいのじゃが……」  地図っぽい模様が書いてあるけれど、内容が把握できない。  僕はその本を取り上げると表紙を見た。 「えーと。図地本……日正……あっ! 右から読むのか。って。大正日本地図って!」 「変かの?」 「古すぎて役に立たないよ! あー、でも。神社の場所自体はそう変わらないよね」 「その地を守る重要な場所に建っておるからの」  なぜか偉そうに胸を張る。  僕はチビを見下ろしながら頭の中で計算した。  神社に行きたがる幽霊なんて聴いたことがない。しかもよく喋る。人と同じように意思疎通できる幽霊なんて初めてだ。神様と考えても良さそうだ。……と、なると。面倒を見ればさっき言った『富と名誉』が現実のものに成るかもしれない。  そう答えを見出すと、ニヤニヤと顔が歪んだ。 「それで、行ってどうするの?」 「この地で神として活動をしても良いという許可を得るのじゃ」 「ふぅん? 許可を得てどうするの?」 「わらわはまだ自らが守護すべきものを得ていないのでな。それを探すのじゃ。よく言うじゃろう? 火の神とか、勉強の神とか」 「なるほど」  僕の眉間にしわが寄る。どうやら一朝一夕には解決しない問題らしい。そうなると『富と名誉』がもらえる日なんていつになるやら分からない。  だったら今すぐ神社に向かうのは損だ。チビの用事は今日でも明日でも大して変わらなさそうだけど、ダムの底に降りるのは小雨でも降ったらダメになってしまう。何より、せっかくここまで来たのに電車賃が無駄になるじゃないか。  そう結論を出すと、僕は地図を見ながら大げさに顔を歪めた。 「でもさぁ、明日じゃ駄目?」 「何か用事があるのかの?」 「うん、今、ちょっと冒険に行こうと思っててさ。この神社とは行き先が反対方向なんだ」  ふむ、と腕を組み目を閉じて首を捻る。子供が背伸びして大人の真似をするみたいに、その仕草はなじんでなかった。ニヤニヤした笑いが込み上げそうになる。  誤魔化すために口を開いた。 「もし急ぐなら道を教えるから、一人で行ってもいいんじゃないか? 他の人には姿が見えないから、電車やバスにはただで乗れるんだし」  それならここで別れることになり、僕もお金を損しなくてすむから一石二鳥だ。  けれどチビはますます額に深い皺を刻んでうんうん唸った。 「しかしのぅ……また迷うかもしれんし。……明日は必ず大社へ連れていってくれるのじゃな?」 「えっ、うん。明日なら」 「ならば、今日は八雲の用事を優先しよう。もう何日も徘徊せざるを得なかったのじゃ。あと一日ぐらいどうということもなかろ。心置きなく用事を済ますがよいぞ」  目を細め、胸を反らして高圧的に言う。だけど、どこか怯えたような響きがあった。何があったか知らないけれど、一人になるのを怖がっているのかもしれない。神様と言っても子供だもんな。 「りょーかい」  僕は微笑ましい気持ちで気軽に答えた。  セミの声と夏の熱気が交じり合う中、バス停へと向かう。ひょこひょことチビが横に並んで歩く。一生懸命に僕と並んで歩く姿は、親鳥に付き従うヒヨコを連想させる。  旅は道連れ、世は情け。  なんとなくそんな言葉が心に浮かんではすぐに消えていった。      2.  太陽が真上を通り過ぎ、山の緑が色濃くなる頃。  僕は山間にあるダムへとやってきていた。東京ドーム何個分かは分からないけれど、とても大きなダム。市民を癒した水は綺麗に干上がっていた。  ダムの輪郭に沿う車道から底を見下ろす。黄色い砂地に覆われた湖底が露わになっていた。真上から降り注ぐ日差しによって砂地の上に湯気のような熱気が立ち昇っている。遠くの湖底にくすんだ白色をした建物がぽつんと見える。あれが町役場に違いない。  見ているだけで心が躍る。  僕は今、確実に非日常へと足を踏み入れようとしている……ッ!   幽霊とかそのたぐいは、ある意味僕にとっては日常なので気にしない。  隣にはその幽霊の親玉というべき、神様のチビが立っている。漆黒の髪が光を反射して美しい天使の輪が出来ている。苦虫を噛み潰したような、不満顔をしている。 「こんな辺鄙なところに、なんの用かのぅ?」 「用って言うか……見てみたかっただけ、かな?」  僕が曖昧に答えると、くわっと目を見開いて睨んできた。 「なんじゃと! わらわの火急の用を後回しにしたのに、ただの観光とな!」 「ごめん。でもさ、言ったじゃないか。急ぐなら一人で行けばいいって」 「うっ……!」  チビは一人になるのはイヤなのか、さくらんぼのように可愛らしい唇を噛んで黙ってしまった。  僕は下に降りる道を探した。岸壁を上から覗き込むように歩いていると、生い茂る雑草に隠れて細く急な階段があるのを発見した。 「ここから降りれそうだ」  僕は弾む心を抑えて、壁に手を置き慎重に降りた。生命溢れる草の濃く青い匂いに、むっと息が詰まった。チビは呆れたように半目にしつつ、ぼそっと呟いた。 「降りて何がしたいんじゃろか……」  そんなこと言われても気にしない。僕は無言で降りていく。チビもイヤイヤついてくる。  まあ、確かになぁ、とはちょっと思う。何も無いのはわかっていたし。それでもめったに出来ない体験には心が惹かれる。  ダムの底に降り立つと四方の山々から、町中のセミとは違う種類の声が響いてきた。四方を岸壁に囲まれているため風がなくて暑さが募る。 「八雲や。さっさと観光を済ませて帰ろうぞ」  チビはふて腐れた声を発した。  僕は気が付かない振りをして辺りを写メに収めて歩いた。  しばらく写真を取りながら村役場へ向かって歩いていると、チビが不思議そうに尋ねてきた。 「それは何をしておるのかえ?」 「写真を取ってるんだ」  ほぅ、と感嘆の声を上げた。 「写真機はもっと大きいものかと思っておったが。進歩したもんじゃのぅ」  記念にと思って携帯を向けると、とたんにチビが慌てた。 「ば、バカ! やめい! 魂が取られる!」 「それは迷信だって」  右へ左へちょこまかと動いてシャッターチャンスを作らない。何枚か撮ったけれど携帯のカメラじゃぶれまくりで何がなんだか分からない。  そうこうするうちに、僕の隙を突いてチビは僕の背中に飛び乗った。気配はするけど、重さは感じない。その辺は幽霊っぽい。というか、これじゃ写真には撮れない。  僕の背中が気に入ったのか、手を首に回しつつふんふーんと鼻歌を歌い始める。 「降りてよ」 「いやじゃ。このまま歩くが良かろう」  まあ。重さは感じないので気にすることも無いか。金銭的には何の損もないし。  ダムの探検に戻ろう。  そう思って一歩踏み出した時。遠景に動くものが目に入って、足が止まった。  良く見ようと視線を向けて、そのまま言葉を飲み込んだ。  蜃気楼かと思った。  手足の細い、華奢な少女がこちらに向かって来ていた。腰まである長い髪が、ゆらゆらと揺れている。  人間? 幽霊?  じっと見つめる。均整の取れた美しさが遠目でも分かった。日差しを受けて影がとても濃い。幽霊でも妖怪でもなく、人間だと思われた。  少女は僕たちの傍まで歩いてくると、目を細めて笑顔を見せた。白い歯が光を反射してきらっと光る。なぜか僕の心はどきどきと高鳴った。喉がからからに渇いて上手く言葉を出せない。  そうしていると彼女のほうから声を駆けてきた。清流のような澄んだ可愛らしい声だった。 「こんにちは」 「こ、こんにちわ」  しどろもどろな僕を、彼女は優しい眼差しで包み込む。黒目が大きいなと思った。  彼女はしばらく僕を眺めると、微笑みを絶やさず落ち着いた声を出した。 「良いこと教えてあげましょうか」 「良いこと?」  ふっと黙り込むと、視線を上にずらす。少女の美しい瞳が、背に乗るチビを捉えている。 「子供の幽霊に憑かれてるわ」  少女の声は霊能者が一般人に幽霊の存在を信じさせようとする、厳かだけど説得力のある口調。  僕はすうっと心が静かになる。確かに背中にチビがいる。でもそれが見えるなんて。  僕と同じ幽霊を見る能力。なぜか心臓がどきどきした。風が無くてうだるような暑さなのに、夏の暑さが遠い世界の出来事のように感じた。  何も言い返さずにいると、チビが小さな拳を振り回して抗議した。 「子供の幽霊とは何ごとぞ! わらわは由緒正しき神の眷属。天稚彌女命じゃ! 幽霊などと一緒にするでない!」  彼女は驚いたのか、目を丸くして口を隠すように右手をあてた。 「神様? ――何の神様?」  僕は驚いて息を飲んだ。  この子、声まで聞くことが出来るのか!  僕の様子など頓着せず、チビが抗議の声を上げ続ける。 「そ、それを探しに来たのじゃっ。今に素晴らしい神様になってみせようぞ」 「ふぅん」  少女は半信半疑で、チビを上から下まで何度も眺めた。 「神様ってのは、本当っぽいよ」  僕が口添えすると彼女は小さく頷いた。長い黒髪が波打った。 「そうね。私もこんな幽霊初めて……よろしくね、神様」 「ふんっ」  高飛車にそっぽを向くチビ。その態度に呆れつつ、僕は別の疑問を切り出した。 「でも、どうしてこんな場所に女の子一人で?」 「ニュースで見たからよ。初めてみる景色なのにとっても懐かしい感じがしたから」  この可愛い子と同じニュースに惹かれてここに来たのかと思うと、嬉しくなって顔が緩んだ。 「うん、僕もそのニュース見たよ。本当に衝撃だったよね。それで僕も冒険がてら来てみたんだ」 「へぇ……冒険、か。そう考えるとなんだか素敵ね。じゃあ、一緒に探検しようかしら」 「ホントに? うん、それなら楽しくなりそうだ。ありがと」 「いいえ、お礼を言うのは私のほうよ。それで名前はなんていうの?」 「ああ、うん。僕は八雲《やくも》。天恵八雲」  僕が言い終えたとたん、彼女は水を浴びたようにビクッと身体を震わせ黙り込んでしまった。ただ単に自己紹介しただけなのに、とても驚いたらしい。口を小さく半開きにして、大きな目を見開いている。  長い時間固まっていたあと、気を取り直すように首を回して言葉を紡いだ。 「そうなんだ。良い名前ね。私の名前はサトコよ。聡明の聡に子供の子」 「素敵な名前だと思うよ」  本当のところは普通な名前だなと思ったのだけれど、とりあえずお世辞を言った。言うだけならタダだし。  彼女はいたずらする子供のように微笑みを浮かべた。 「でもね……苗字は天恵。天恵聡子」 「えっ!!」  今度は僕が驚く番だった。  天恵――僕と同じ苗字。そんなによくある名前とは思えない。遠い親戚とかだろうか。でもこんな可愛い子とは一度も会ったことがなかった。  何も言えず黙り込んでいると、聡子は財布から図書館のカードを取り出し僕に見せた。しっかりとした字で『天恵聡子』と書かれていた。 「ほら。嘘じゃないでしょ」 「本当だ……僕も嘘じゃないよ」  同じようにレンタルビデオの会員証を取り出して聡子に見せた。不思議そうに心持ち首を傾げる。 「驚いたわ。こんなところで同じ苗字の人に出会うなんて」 「僕も……」  干上がったダムの底で同じ苗字の人と出会うなんて、偶然という言葉で片付けるには気持ちの整理がつかなかった。  僕と聡子が見つめあっていると、チビがふふんと偉そうに鼻を鳴らした。 「これぞ神のお導き、じゃな」 「何もしてないくせに」  ツッコミを入れたらキーキーと鳴いて怒った。  そんなチビを無視して、聡子と微笑みを交わす。自然と並んで湖底を歩いていく。お互いの環境を話し合う。落ち着いた態度からして年上かと思っていたが、聡子は一歳年下だった。お金持ちのお嬢様らしい。  学校のことや家庭のことを話し合う間、ずっと夢を見ているような、とりとめのつかない気持ちになった。同じ苗字と言う不思議さから強く彼女を意識したせいかもしれない。端正な横顔。きらきら光る大きな瞳。彼女は僕より少しだけ背が低かった。  しばらくして、ダムで一番目立っていた村役場に足を踏み入れた。コンクリ二階建てといってもそれほど大きくないけれど。昔に立てられた建物のため間取りも狭い。床には満遍なく砂が流れ込んでいた。駐在所も併設されていたらしい。残念ながら金目のものは何も無さそうだった。  ざりざりと砂を踏みしめて中を歩いていく。外とは違って、ひんやりとしていた。僕は写真を撮りつつ歩く。  すると横にいた聡子が声を上げた。 「地図だわ」  額に入れられたこの村の地図が壁に掛けられていた。水がしみこんでところどころ字がぼやけている。百家族ぐらいの村落。  ぼんやり眺めていると良く知る文字が飛び込んできた。心臓が早鐘を打つ。 「あっ、これ」 「天恵家……」  僕たちの苗字が地図の端にひときわ大きく書いてあった。形を保っていた屋敷が天恵家らしい。  聡子がすぐ横で首を傾げる。黒髪が流れる。少女だけが持つ柔らかい匂いが鼻をくすぐる。 「どうして……? 親戚かしら?」 「何でだろう……。この村の話なんて、一度も聞いたことがなかったのに」 「私も。お父様もお母様も何もおっしゃらなかったわ」  でも、心はすでに決まっていた。聡子の大きな目を覗き込んだ。 「行ってみよう、あの屋敷へ」 「ええ、行きましょう」  僕らは村役場の探検を早々に終えて、天恵家のあった場所へと向かった。  その途中、神社の後らしき場所を通り掛かった。  神社の本殿自体はすでになく、石畳の境内とその横の石を組み上げて作った稲荷様の祠が形を保っていた。  僕はあまり考えもせず、その祠に手を合わせて拍手を打った。  するとチビがこつんと頭を叩いてきた。怒ったような口調で僕を咎める。 「これ、八雲。何をしておるか」 「え? 何となく」 「移設されてもぬけの殻になった祠を拝むでない。変な神が居ついたらどうする」 「例えばチビのような神様?」 「なんじゃとっ!」  ぽかぽかと頭を叩かれた。痛いような痛くないような。むずがゆい感覚が頭に残る。 「ごめんってば。悪かったからっ」  謝っても叩くのをやめない。  うふふっ、と聡子が上品に口を覆って笑う。  チビの攻撃に辟易しながら天恵の家を目指した。  天恵の家はかろうじで形を保っていた。わらぶきだったはずの藁はすべて消え、屋根板と壁と柱だけになっていた。  僕らは中へ入った。敗れた屋根を日光が貫いている。土間や床には陽だまりが出来ていた。 「なんだか、由緒ある家構えだね。大きいし」 「そうね」  聡子もぼんやりと眺めている。  チビが不思議そうに口を開いた。 「長い年月を水に浸かりながら、よくも持ちこたえたものじゃのう」 「言われて見ればそうだね」  大きく頷きつつ、靴を履いたまま家へと上がる。床板には水が染み込み、一歩踏むたび、ジワッと水が滲み出した。  土間の次の間は、囲炉裏のある部屋だった。その次の部屋は十畳ぐらいの中規模な部屋。  それから人が二、三十人は入れそうな大広間を通り掛かった。ここが一番薄暗く、しんみりとした湿気が漂っていた。けれど金目のものは見当たらない。カメラに収めつつ通り過ぎる。 「何か出そうな雰囲気――」  その時だった。急にチビや聡子以外の気配を感じて僕は口を閉じた。  大広間を振り返ると、部屋の真ん中、穴だらけの畳の上に赤い着物を着たおかっぱ頭の幼い少女が立っていた。  思わず口を開いていた。 「幽霊……?」  僕の問いにチビが横から口を挟む。重々しい口調で事実を述べる。 「いや、幽霊なんか歯が立たぬほど霊力が高いのう。おそらく座敷ワラシではなかろうか」  座敷ワラシ。旧家の大きな家にいて、家を守り富をもたらすと言われている。実際に目にするのは初めてだった。  座敷ワラシは泣いているのか、しきりに目を擦っている。けれども、顔は弾けるような笑顔を見せていた。  突如、堪えきれない感じで僕らへ向かって駆けてくる。カタカタと、赤い鼻緒の下駄が鳴る。おかっぱの黒髪が元気に跳ねた。 「お帰りなさいませ、ご当主さまっ」  そう言って、僕の胸に飛び込んできた。逃げる暇もなかった。僕のTシャツをぎゅっと掴んで泣き始める。細く白いうなじが可愛らしい。  ご当主? 何のこと? 「え、ちょっと。ごめん、意味が分からないんだけど」  そう言っても座敷ワラシはいやいやをするように首を振って泣き続けた。その声は初めて聞くのに、とても懐かしい響きをしていた。  聡子も優しい微笑みを浮かべて座敷ワラシの頭を撫でる。 「ひょっとしたら私。この子に会ったことがあるかもしれないわ」  その言葉を聞くと、なんだか僕も昔会っているような気がしてきた。  座敷ワラシは泣き続ける。生き別れになった親にめぐり合えたかのように。  このダムが出来てから十年。ずっとここにいたのだろうか。  ひょっとしたら、ダムに沈んでもこの家が形を保っていたのは、この子のおかげかもしれないなと、ふと思った。  しばらくして座敷ワラシが泣き止んだ。けれど大きな目を潤ませたままだ。長い睫毛を伏せて頭を下げる座敷ワラシは日本人形のように美しく可愛いかった。 「泣いてしまって申し訳ございません、ご当主さま」 「よく分からないけど、ずっとここに居たんだね」 「はい、ご当主さま。先代さまの言いつけどおり、必死でこの家を守っておりました」 「先代? 言いつけ? ……ごめん、たぶん僕は君の言うご当主じゃないと思うんだけど」  座敷ワラシはぐしぐしと拳で涙を拭うと、勢い込んで爪先立った。 「そんなはずはありません! 私はずっと天恵家に仕えておりました! 血縁かそうじゃないかは一目で分かりますっ」 「そうなんだ……」  勢いに飲まれて戸惑っていると、座敷ワラシは僕から離れて部屋の隅に行った。何かを取ってくると戻ってきた。 「こちらをご覧ください。そっくりでしょう?」  ワラシが大判の白黒の紙を差し出した。その昔、家の前で取られたと思しき家族の集合写真だった。一番前の真ん中に座る老人。年を取ってはいたが、言われてみれば僕と面影が似ている。 「あっ、これ、私のお父様だわ!」  横から覗き込んでいた聡子が写真の端を指差した。随分と若い二人が並んで立っている。二十歳ぐらいの青年。隣の女性は……。 「えっ? こっちは僕の母さんじゃないか?」  物心付いた時にはすでにいなかった母親。写真でしか見たことのない母親。  ワラシが僕らの指先を見ながら説明してくれた。 「そちらが長女の一枝さま、こちらが長男の洋二郎さまです」  僕の母さんは一枝。洋二郎は聡子の父らしい。 「じゃあ、僕たち従兄妹だったんだ」 「道理で同じ名前だったのね」  謎が解けて、ただ感心してうんうんと何度も頷いた。しかし疑問も沸き起こった。 「でもさ、ちょっとおかしくない? 僕の父さんは婿に?」 「そうです。長女の一枝さまはとても強いお方でしたので、嫁入りは認められなかったのです」  そう言い終えると座敷ワラシは辛そうに顔を伏せた。伏せた睫毛がとても長く、玲瓏な美しさが漂う。 「何か事情がありそうじゃのう」  ワラシは顔を上げると、僕の背中に乗って神妙に呟くチビに目を止めた。今頃気がついたかのように、ジーッと見つめる。 「そういえば、どちら様でしょう? 高貴な方だとはお見受けしますが……」  ふふん、とチビは鼻息を荒くする。 「わらわは天津……」 「こいつはチビ。神様だって」  チビは名乗りを邪魔されて、僕の頭をバシバシ叩いてムキーッと怒った。だって長いんだもん。  ワラシは気にも留めず丁寧なお辞儀をした。 「まあ! そうでございましたか! 何のおもてなしも出来ず申し訳ございません」 「分かればよい。気持ちだけで充分であるぞ」  気をよくして僕の上で仰け反る気配がする。まあ、お好きなように。  聡子が膝に手を置き身体を追って、目線を下げつつワラシに尋ねる。 「そういえば、名前はなんていうのかしら?」 「座敷ワラシです」 「え? 本名は?」 「もう――忘れてしまいました」  目を伏せて微笑んだ。とても寂しげな笑みだった。見ていると心のどこかがちくちく痛む。  僕は話を逸らそうと自己紹介する。 「そっか。それで、僕の名前は……」 「八雲さまでございますね」 「知ってるの!?」 「そりゃあ、もう。生まれた時から。玉のように可愛い赤ちゃんでした。そちらが聡子さまでしょう?」  昔を思い出してか、くすくすと笑うワラシ。なんだか恥ずかしかった。 「ということは、私と八雲君はこの家に住んでいたのね」 「ええ、一緒におままごとして遊んだこともございます」  その時のことを思い出そうとしたけれど、記憶になかった。僕は聡子を見た。聡子も首を振った。 「そんなことがあったような気もするけど、はっきりとは覚えてないわ」 「僕も覚えてない。でもさ、ここで暮らしていたのならなんで教えてくれなかったんだろう?」  ワラシは僕から離れてゆっくりと歩き始める。赤い着物の袖がゆらゆら揺れる。 「十年前、この村はダムの底に沈みました。その時に悲劇が起こったのです」 「悲劇?」 「ええ。宝具に隠された本当の力を知った者が、奪おうと襲い掛かってきたのです」 「宝具って何かしら?」  聡子の問いには答えず、ワラシは廊下へ出た。 「ついて来て下さい。お渡ししなければならないものがあります」 「なんだろ?」  黙ったまま、ふうっと屋敷の奥へと消えていく。  僕らは水を吸ってべこべこになっている床板を踏み抜かないように気をつけながら、座敷ワラシを追いかける。  案内されたのは六畳ほどの奥座敷だった。屋根も雨戸も残っていて、とても薄暗い。床の間の前にワラシがぼうっと影に溶け込むかのように立っている。  床の間には何も飾られていないし、何かがある様子には見えない。良く見ると床の間の床板は割られていた。 「床下に何かあるとか?」  ワラシは首を振った。髪がさらさらと動く。 「壁の中にあります」 「壁?」  ワラシが指差す床の間の土壁。見た感じ表面がざらざらしている薄緑色の壁。眉を寄せてじっと見つめる。聡子も身を乗り出して眺める。  声を上げたのは僕の頭の上に乗るチビだった。 「ほう! 何かが埋まっておるのう……これは棒かのぅ?」 「さすがです、チビ神さま。天恵家に伝わる宝具があります」 「何も……見えないけど」  幾ら眺めても何も見えない。首ばかり捻った。  すると、聡子が僕の横で、あっと可愛い声を上げた。 「これ……かしら?」  恐る恐る手を延ばす。細い指先は白魚のように美しい。壁に触れたとたん、まるで水面のような波紋が広がった。  見てるこっちがびっくりする。 「だ、大丈夫?」 「ええ、なんとか――とっても熱いわ」  ずぶずぶと手首まで壁の中に沈む。それから何かを掴んだらしく、手が引っ込められる。  手の中には全体が青い光を放つ棒が握られていた。木と竹を組み合わせた棒。これは……。 「ひょっとして釣竿?」  僕の問いにワラシは神妙に頷いた。 「そうでございます。由緒正しき一本釣り用の釣竿」 「でも糸が付いてないわよ」 「はい。糸は能力で作ります。使い方は知っているはずですよ」  聡子は首を傾げつつも釣竿を強く振り下ろす。すると釣竿の先端から煙のように細い糸が伸びた。部屋の端まで銀糸がすべり、朽ちた木の枠――おそらくふすまの枠組み――に絡みついた。 「それっ」  聡子は楽しげな声を弾ませて、魚を釣り上げるように釣竿を引く。  バキッ!  と木枠を崩して銀光を放つ糸が戻ってくる。釣り上げた木片が手の中に納まった。ワラシの顔が嬉しさでほころぶ。 「上手いです、さすが聡子さま」 「面白いわね、これ」  楽しそうに振舞う二人を、僕はもやもやとした気分で眺めていた。だって、釣竿になんか金銭的価値が見出せない。普通の魚釣りに使うわけにはいかなさそうだし。今みたいに何かを手元に手繰り寄せる時に使うのか?  ふつうに自分の手で持ってくればいいじゃないかと思ってしまう。  そんな事を考えていたら、チビが頭上から言葉をぶつけてきた。 「早う八雲も取らんか。まだまだあるぞい」  その声に促されて床の間の前に立つ。目を凝らしてみたけれど、見えないものは見えない。でも自分だけ手に入れられないのは、例え変なアイテムでも損した気分になる。ただで貰えるものは何でも貰いたい。  僕は、んっと気合を入れて闇雲に手を突っ込んだ。熱い泥の中に手を入れたような感触。んまぁ、熱い事は熱いけれど、最初に熱いと教えられていたら耐えられる程度の熱さ。それよりもぐにぐにとした泥のような手触りが気持ち悪い。別府温泉にある坊主地獄に手を突っ込んだらこんな感じなのかなと思った。  カチッと硬いものに指先が触れた。小さな太鼓のような本体に取っ手が付いている。  取り出してみると黄色い燐光に包まれた小さな木槌、いや絵本などで見た小槌に見える。  ワラシが重々しく口を開く。 「それは打ち出の小槌でございます」 「えっ、マジで!? 振れば金銀財宝が出てくる!?」  僕は急いで振ってみたが、何も出てこなかった。 「自分の望むものを得られますが、生き物や金銀財宝、複雑な機械は出せません」  なんだそれ。役に立たないじゃないか。釣竿のほうがマシに思える。  不満に思いながらも効果を試したくはあったので軽く振り降ろした。 「小石よ、出ろ!」  ころころ、と小槌の先から白い小石が飛び出して、部屋の隅まで転がり止った。  …………。  呆れて何も言えない。するとチビが声に疑いの響きを滲ませた。 「すごい魔法の品々じゃが、霊力を使ったようには思えんのう」 「左様でございます、チビ神さま。自らの力を使う代わりに、お金を消費します」 「なんだって!?」  僕は急いで財布を確認したが、減ってはいなかった。 「まだ大丈夫でございます。箱のお金から先に消費しますので。その次が使用者のお金。最後は家族のお金を使います」 「箱は……これかしら?」  聡子が小首をかしげて手を壁に入れる。黒髪がさらりと音を立てる。  取り出されたのは大きな木箱だった。鉄枠で頑丈に補強され、開けられそうにない。箱の横の塗りつぶされた文字から千両箱と読める。 「天恵家はいわゆる拝み屋のような家業を営んでいました。依頼を受けると、この箱にお金を入れてもらい、それで悪や死霊の類を祓っておりました」  言われて見れば箱の上に横長のスリットが入っている。 「そうなんだ。でも、釣竿と小槌で戦えるとは思えないな」 「いえ、この宝具は正式な呪文を唱え――」  ワラシの声を遮って野太い男の声がした。 「その宝具、渡してもらおうか」  いつのまにか部屋の入り口に黒のスーツに身を包んだ中年の男が立っていた。やせていて顔色が悪い。目だけがいやにぎらぎらと光っている。 「誰だ!」  僕の問いに、フンッと鼻を鳴らして応える。 「誰でも良いだろう。お前達には関係ない。……さあ、早くその宝具を渡すんだ」 「ダメです! 宝具を渡してはなりません!」 「そうですわ。身勝手な発言は控えていただけますか」  ワラシと聡子が身構える。本能が男を悪い奴だと告げていた。  けれど。僕は全然違う事を考えていた。  誰だか知らないけど、わざわざ出向いて回収に来るぐらいなんだから、きっと宝具は高価なものに違いない。 「それで、幾らで引き取ってくれる?」  みんながはっと息を飲む。ワラシが泣き出しそうな悲鳴を上げる。 「なんてこと言うんですか! ご当主さまぁ!」 「そうよ! この宝具は天恵家のものなのよ! 売るなんておかしいわ!」  幾らなじられても僕の考えは変わらない。つまり――これ持ってたら損する。確実に。 「だってさぁ。この宝具使ったらお金が減るんだろ? 大損じゃん。それなら売ったほうが、お金が手に入るしお金は減らなくなるし、一石二鳥だよ?」  ワラシが口を半開きにさせて、ふるふると首を振った。聡子も横であからさまな溜息を付く。チビも僕の上で息を巻く。 「どうしてそこまでお金に意地汚いのじゃ! あやつはよからぬ事をたくらんでいるに違いないわ!」 「きさまらぐだぐだと! この槍が目に入らんのか! 命が欲しければさっさと渡せ!」  いつの間にか男の手には闇のように黒い槍が握られていた。その鋭い先端をぼんやり長めなつつ、僕は計算した。  折角手に入れた宝具。価値がどれぐらいあるか分からないけど、力ずくでも奪いたいぐらい高価なものらしい。最低でも百万円はするに違いない。それに引き換え僕の命。  答えは出た。  男をにらみつけると、僕は拳を振り上げ抗議した。 「甘く見るな! 僕の命なんてお金に比べたらカスみたいなもんだ! お金は命よりも重い! ただでなんか絶対渡すもんか!」  みんなが絶句した気がした。聡子やワラシの視線が痛い。でも、それぐらい平気。だってお金が減るわけじゃないもの。 「……そうか。そんなに死にたいか。ならば覚悟するが良い」  男が貧相な体とは思えない力強さで一歩踏み出した。届かない距離から黒い槍を僕へ向かって突き出す! 「八雲! 避けるのじゃ!」  チビの声と同時に僕は横へ飛んだ。その刹那、僕の居た場所を雷撃が駆け抜け、後ろの壁を吹き飛ばした。 「岩よ、出ろ!」  倒れながらも小槌をふるって、男の前に二メートルはある岩を出現させた。その隙に開いた穴から外へ駆け出す。聡子もワラシを抱えて飛び出した。  ドォォォン!  腹の底に響く重い音を立てて、岩の破片が青空に舞う。  男が岩を雷撃で吹き飛ばしたらしい。  聡子と並んで走るものの、すぐ後ろで雷撃が炸裂し、爆風で吹き飛ばされた。  「岩!」  さっきよりも巨大な岩を出現させ、その陰に僕と聡子は身を寄せた。がりがりと雷撃で削られていく。 「ふはは! 大きな口をきいた割には、手も足も出ないのだな!」  男のあざけりを受けても、事実なので言い返せない。  僕は聡子の美しい目を見た。 「どうしよ……」 「戦いましょう」  息を整えて聡子が言った。釣竿をぎゅっと両手で持つ。凛々しい顔と真剣な言葉に、釣竿は似合っていなかった。あまりにもシュールすぎる。 「お手伝いいたします、聡子さまっ」  ワラシが聡子の背中に飛び乗った。首にしがみつきつつ耳元で何かささやく。  聡子は一つ頷くと、声を張り上げながら岩陰から飛び出した。黒髪が力強く後ろになびく。 「秋風は、ふきなやふりそ、我宿の、あはらかくせる、くものすかきを! ――銀糸守網!《イェンミーショウワン》」  振りかぶった釣竿の先から銀色に光る大量の糸が幕のように流れ落ちる。まるで蜘蛛の巣のような糸の奔流。  空を覆うかのように広がった銀色の糸は、男目掛けて収束していく。 「くそったれ!」  汚い言葉を吐いて黒槍を振るう。激しい雷光を迸らせて銀の網を叩き、押しては返されの競り合いになる。聡子は歯を食い縛り釣竿を握り締める。真剣な眼差しが美しさに凄みを与える。  僕はそれを岩陰から見ていた。加勢したいけれど、なんとも夢のような戦いで参加できそうにない。 「どうしよう。さっきの呪文、和歌っぽかったね」 「知らぬのか? 和歌は呪文じゃぞ?」 「えっ! そうなの!?」 「何のために万葉集や古今和歌集を国家の総力を挙げて編纂したと思うておる。闇を払う魔導書じゃからの」 「知らなかった……。あ、じゃあチビも知ってる?」  ううん、と苦しげな声を出す。 「もちろん知ってはおるが……、今は何も出来んのじゃ」 「ええ、そんなぁ……」  チビの知識を頼れないとなると、自分自身の力でどうにかするしかなかった。けれど呪文なんて知らないし。こんな小槌でぽかぽか殴っても効きそうにないしぃ……。  ――って、そうだ!  こっちには神様がいるじゃないか!  肩に手をついて観戦しているチビを見上げた。 「困った時の神頼み。お賽銭上げて神頼みすれば、なんとか出来ない?」  チビはゆるゆると首を振る。表情までは見えない。 「だからそれはできぬ相談じゃのぅ」 「ぇえ、神様なのにっ」  苦虫を噛み潰したような声で答える。 「国津神に詣でておらんから力を使うのは禁忌になるのじゃ。なので、自分の力で頑張れぃ」 「そんなぁ……」  二人の競り合いは続いている。じわじわと聡子が押されている。  手に持つ小槌をじっと見た。微かに黄色く光っている木槌。使い込まれたのか表面はすべすべしている。  一寸法師を思い出す。確か大きくなって、さらに金銀財宝を手に入れた。  けれど、巨大化したところで雷撃は痛そうだ。金目のものも出ない。 「まてよ……」  望むものが手に入るなら、体が変化するなら……。  僕は小槌を握り締め、思いっきり振り下ろした。 「僕の動きよ、早くなれ!」  地を蹴って岩陰を飛び出した。  とたんに周りの景色が一気に後方へ流れた。  体が、空を飛ぶように進んでいく。  軽い!  十メートル駆け出してしまってから、男へ向かって方向転換した。  これならいけるかもしれない! 全速力だぁ!。 「ぬぬぬぬ!」  チビが唸る。振り落とされまいと必死に僕の首へしがみ付く。  黒と銀の力のせめぎ合いへ駆けつける。 「キャアッ!」  聡子が力負けをして大きく飛ばされた。  男はとどめの追撃をするが、僕が間に割って入る。 「やめろっ!」  素早く殴りかかった。けれど拳は避けられる。  男が槍を僕目掛けて振う。避ける。が、槍自体は遅いけれど、雷撃が早い!  必死に軌道を読んで右へ左へ雷撃をかわす。 「くそっ! ちょこまかと動きおって!」  男が大きく槍を頭上に掲げ、気合とともに振り下ろした。数条の雷が一度に放たれる。 「うあっ!」  そのうちの一本がかわせず体に触れた。激しい痛みが体を駆ける。皮膚の表面が波打っているかのような痺れ。僕は砂の上に仰向けに倒れた。  ドォォン……。  当たらなかった雷撃が後方の何かを派手に吹き飛ばす。目を向けると小さな祠だった。 「手間をかけさせおって。さっさと渡せばよかったものを」  男が砂を踏みしめ近寄ってくる。ザッザッと耳障りな音が聞こえる。  手を付いて起き上がるけれども体の痺れのせいで上手く動けない。  その時だった。  突然、ゴロゴロと岩を転がすような音が空から降ってきた。あれほど晴れていた空が、にわかに暗雲で覆われる。 「……え?」  何か異様な気配がする。  湖底全体が不気味に薄暗くなる。山肌は湧き立つ白い雲に覆われる。  すると、ぼうっと青白い炎が何もない空中に灯った。 「何だ!?」  男が驚きで足を止める。どうやら男は関係ないらしい。  それにしても。何もないところに火が燃えるなんて、ちょっと信じられない。幻覚でも見ているのか。 「むっ?」  チビの警戒した声が響く。曇天を照らす青い炎は一つ、二つと増えていく。まるで熱さを感じない、冷たい炎。  僕らを取り囲むように炎が増えていく。  ――そして。 「後ろよ!」  聡子の鋭い声が飛ぶ。  はっと見上げれば、青白い炎を纏った巨大な白狐が宙を舞っていた。体長二メートルはあるように思える。僕らを吊り上がった目でにらみつけ、鋭い牙の並ぶ大口を開けて威嚇する。口内が血のように赤い。 「ええ! いったいなんだよ!」  僕の問いに化け狐は怒りを滲ませた息を吐く。 「我をよくも水底へ閉じ込めてくれたなぁ! 許さんぞ人間ども!」 「き、狐!? 妖怪!?」  今まで何度も幽霊を見てきた。動物の幽霊も見たことはあった。けど、お化けを見るのは初めてだった。あまりの迫力に押されて一歩下がる。  謎の男の次に謎の狐なんて。訳が分からない。 「くそっ! 邪魔はさせん!」  男が狐を無視して、僕へ槍を突き刺そうとした。  やばい! 逃げられない!  ――と、僕の胴に銀色の糸が巻きついた。 「それっ」  聡子の軽やかな掛け声で、僕は弧を描いて空を滑る。釣竿の力で聡子の傍に引き寄せられ尻餅をついた。  男の雷撃は地に着弾して砂を舞い上がらせる。 「いてっ」 「我慢しなさい」  男は悔しそうに僕らと狐を交互に見ていた。けれど不利だと悟ったらしい。じりじりと後ずさりしていく。  狐は男や僕らを睨みつつ、先程よりさらに大きな声で叫んだ。 「我は稲荷大明神なり! 貴様らの魂を喰らってやる!」  カッと口を開き、青い炎を幾つも走らせた。聡子が釣竿をふるう。 「銀糸守網!《イェンミーショウワン》」  銀の糸が幕となって僕らを守る。男はやりで炎を打ち払う。 「でやぁ!」  男が思いっきり槍を横に振ると、激しい雷撃が周囲の地面をえぐった。砂が煙のようにもうもうと立ち込める。  煙が消えると、男の姿はもう見えなくなっていた。 「逃げ足早い……」  聡子がぎゅっと釣竿を握り締める。顔には呆れたような微笑みが浮かんでいる。 「一難去って、また一難ね」  すると、チビが僕の上から飛び降りた。僕らをかばうように先陣に立つ。 「おい、危ないぞ!」  僕の声など聞く耳も持たず、訝しげに眉をひそめて狐を見ている。 「これ、狐や」 「耳が聞こえぬのか! 我は稲荷大明神ぞ!」  狐の激しい口調をものともせず、チビは小さな拳を振り上げて反論した。 「何を言う! ただの狐ではないか! 使いが神を騙るとは笑止千万! この不埒者め!」  狐は目をますます吊り上げて睨む。 「知ったことか! 十年もの長きにわたって我を閉じ込めよって! まずは貴様らの魂を喰らい、飢えを癒す! 覚悟しろ!」  睨み合うチビと白狐。一触即発の事態。僕はようやく痺れが取れて、自分の力で立ち上がった。聡子と並んで立ち、それぞれの宝具を構えて次の攻撃に用心した。  聡子の背に乗るワラシだけがのんびりと首を傾げる。 「おかしいですねぇ……。稲荷の分祠神社のご神体は、沈む前に別の神社に移して合祀したはずですが」  その声をうけて、チビがニヤッと口の端を歪めた。 「そなた、もしや。からっぽの社があるからと飛び込んだら、ダムの底に沈んでしまった、というのではあるまいな?」  ぐぅっと変な声で狐が鳴いた。血走った目を剥いて身体をぶるぶると振るわせる。図星を突かれたらしい。 「ええい! 小ざかしい小童め! 覚悟しろ!」  チビが腹の底から憤りを発する。 「小童とは何事か! わらわは天稚彌女命《あまのちびめのみこと》。そなたなどとは格が違う! 心致せい!」  そう言い終わると、僕の方へ駆け寄ってきた。 「八雲や。あとは任せる」 「えっ! 任せるって言われても!」  煽るだけ煽って、後の処理は僕らに押し付けるなんて、神様のすることかぁ?  細めで睨むと気まずいのか、ちろっと舌を出して肩をすくめた。そんな可愛い仕草をされても。  どうすればいいんだろう。相手は空に浮かんでいるし。  僕が戸惑っているとワラシが言葉を挟んだ。 「大丈夫ですよ、八雲さまに聡子さま。宝具があるではございませんか。神の名を騙る獣などやっつけてしまいましょう」 「そうじゃの。あやつ、今は幻術で大きく見せてはおるが、本性は一尺にも満たんからの。なんとかなるじゃろ」 「一尺……35センチ以下ってことね」 「小さいな。それなら何とかなりそう」  でも、相手は飛んでる。僕らは飛べない。  ……そうか! いける! 「聡子! あいつを引き摺り下ろして!」 「わかったわ!」  細く華奢な腕が素早く上下に振り下ろされる。釣竿の先から、鋭い速度で銀糸が伸びる。 「なにっ!」  白狐が身をよじって交わそうとする。しかし、糸は本体の胴へくるくると絡みついた。僕から見ると、巨大な狐の中へ糸が入り込んだようにしか見えない。 「それっ!」  聡子が魚を釣り上げるようにぐいっと釣竿を引っ張った。バランスを崩し、前のめりになって手繰り寄せられる白狐。  僕は小槌を握り締める。狐が聡子の手元に来た時、糸が絡めとっている場所辺りを振りぬいた。  ゴンッ!  小気味良い感触が手のひらに伝わる。 「ギャー!」  一鳴きして化けの皮がはがれた。狐火も巨大な姿も霧のように掻き消える。やっぱり白狐は子狐になった。  しかも、そこまで強く殴りつけたわけではないのに、ホームランを打ったように子狐は吹き飛んでいった。 「キィーッ! ――許さないっ! お母さんに言いつけてやるんだからぁ!」  子犬のようにきゃんきゃん吼えながら、子狐は遠くへ消え去って行った。 「呆気ないのぅ……」  しみじみとチビが呟いた。僕も頷き返す。 「何がなんだか良く分からないけど。無事にやり過ごせてよかった」 「そうね。宝具が役に立ったわ」  ワラシが聡子の傍に来て見上げた。 「聡子さま。釣竿の操作、呪文の詠唱。何もかも完璧でした」 「そう、ありがと」  ふふっと微笑んで聡子はワラシの頭を撫でた。ワラシは気持ち良さそうに目を細める。  ぽつっと頬に何か当たった。重い湿気を含んだ暖かい風が吹きぬける。  雨だった。  山の天気は変わり易いというからそのせいかもしれない。とにかくダムの底で雨に降られるのは非常にマズい気がした。 「早く帰ろう」 「うむ。山のほうはもっと激しく降ってそうじゃ。ここも危険であろう」  その声を皮切りに、僕らはダムの外へと向かった。  ダムの周囲を巡る道路に上がった。  聡子は雨に濡れて顔に張り付く黒髪を、白く細い指で払った。 「じゃあ、八雲くん。また会いましょうね」 「えっ、うん。――いや、ちょっと」  このまま別れるのが嫌だと感じていた。自分の心がわからない。  一銭の得にもならないのになぁと頭では理解しつつ、聡子と住所と連絡先の交換をした。 「私はこっちだから。またね」  聡子は反対車線のバス停へ向かった。 「うん、ばいばい」  僕は手を振って応えた。ちょうどバスが来て乗り込む。発車してからも聡子からは目が話せなかった。  すると、笑いを含んだチビの声が耳を打った。 「青春、じゃのう」 「どういう意味?」 「そのままじゃ」  かっかっか、と大口を開けてチビが笑った。何も言い返せない。口答えしようものなら今以上の発言が振ってきそうな雰囲気だったから。  しばらく黙って流れゆく外の景色を眺めていた。薄暗い空の下、真夏の緑も黒く沈んで見えた。  するとチビが僕の頭へ乗り、髪の毛をぎゅっとつかんだ。 「八雲や。このまま大社に詣でるぞぇ。早ぅ力が使えるようにならんとのぅ」  確かに。またあの男や狐が襲ってきたら面倒だ。チビにも協力してもらったほうがいい。チビが幾ら力を使っても僕のお金は減らないし。 「わかった。帰りに寄ろう」  僕のためだと分かっているのに、いつになく真剣な声で返答していた。