プロローグ 「実はだな――」 「おっ」  マレットヘアーと呼ぶのだろうか? 後ろ髪だけがむやみに長い七十年代風の髪型をした少年――大坪(おおつぼ)雄(ゆう)平(へい)が少し驚いたような声を上げたのが分かった。  自分で話せと言っておきながら何を驚いているのだろう? と、今本(いまもと)寛(かん)太(た)は首を傾げる。  よく晴れた昼休みの教室。その一画で学生服を着た男女三人が寛太を囲っていた。教室に彼ら以外の人気は無い。次の授業が理科室なので既に皆、移動してしまった後だった。  開け放たれた窓から涼しい風が吹き込み、寛太の前髪を揺らして廊下へと通り抜けて行く。思わずそんな涼やかな風の残り香を追うと、ついでに黒板の端に書かれた日付が目に入ってきた。  そこには下手くそな板書で十月十三日という文字が書かれている。  早いもので、季節はもう秋。  スポーツをするのにも勉学に励むのにも食事を楽しむにも良い季節だ。  もちろん、恋にも――。  寛太はぼんやりとした頭でそんな事を考える。 「なんでぃ、なにボーっとしてんだ? 早く言えよ寛太。早く行かないとまた神(かん)取(どり)に怒られちまうぜぃ」  奇妙な江戸っ子口調で先を促したのは鈴(すず)原杏子(はらきょうこ)。その男っぽい口調とは裏腹に、彼女の体つきは『女』と言う言葉を体現したような色気を放っている。綿毛のようなショートボブ、見事な曲線を描いた腰、艶めかしくすらりと伸びた足。  ……そして、大きな胸。  理科の教師である神取は小姑のように口やかましく、確かに遅れるのは得策では無かった。  杏子の艶のある唇が先を急かすようにつんと突き出された。そんな様子も愛くるしい。  ……そして、大きな胸。  かくん。  不意に、激しい眩暈が寛太を襲った。真っ白なベールを頭から被せられたかのように、いきなり視界が白く染まる。寝起きに見る夢のような非現実感が津波のように寛太に押し寄せてきた。 「寛太君? なんだか様子がおかしいけど……大丈夫?」  もともと細い糸目をより一層細めて……ほとんど閉眼しているように見える顔で、下から藤本(ふじもと)敏(とし)行(ゆき)が覗きこんでくる。 「……大丈夫だ。……それよりも俺の話を聞いてくれ。とても重要な事なんだ……」  どくん、どくんと急に心臓が自己主張を始めた。その熱い轟きに寛太はこれが夢でないと知る。  頭の中は相変わらず濁流が渦を巻いていたが、気持ちは不思議なほど落ち着いていた。ごく冷静に周囲を見る事が出来ている。二次性徴を迎え、少しだけ主張を始めた藤本の喉仏がごくんと唾を嚥下する仕草さえ見てとれるほど冴えている。  寛太はすぅ――と、胸郭一杯まで息を吸い込んだ。  聞き間違えなど許さない。聞き洩らしも許さない。確実に絶対に一言一句のミスもなく正確に自分の思いを伝えよう。 「実はだな」  そして寛太は真正面から杏子の目を見つめた。杏子はいきなり自分に向き直られて少し驚いたようだった。長い睫毛が細かく震えている。 「な、なんでぃ?」 「実は――お前の乳首が見たいんだ……杏子……」  ――――――。  ――――。  ――。 一 「……はぁ?」「――おまっ」「ええっ?」  その瞬間、時間が凍結したのは言うまでも無い。バキリ、と音を立てて寛太と三人の間に亀裂が走った。三者三様の絶句。ネジの切れた人形のように三人が行動を停止した。  だが、そんな事は全く関係がない。話したいと言ったら話したいのだ。自分の気持ちに正直になって何が悪いのか。 「それだけじゃない……」  寛太の口は自動筆記のように言葉を吐き出していく。なぜそんなことを口走っているのか寛太にも分からない。まるで濃霧の中に彷徨いこんでしまったかのように、自分の考えがまとまらない。  だが、唖然とした三人の顔がある種の快感を呼び起こしたのは確かだった。  今まで隠してきた秘密を白状してしまう。それが、こんなにも今気持ち良い。   「お前の――パンツも見たいんだ……杏子……」  再び放たれた快感の電流はあっという間に頭蓋に至って全身に四散した。  そう……それは男として生まれ落ちた者ならばだれしもが抱く願いだった。だが、それを面と向かって女子に放つ者はいない。それができるのは選ばれし勇者のみ。  そして今、寛太は勇者になったのだった。 「バッカじゃねーのおまえッ!」「な、何言ってるの寛太君ッ!」  だが、そんな勇者寛太を迎えたのは荘厳なファンファーレではなく痛烈な罵倒だった。  ようやく寛太の言葉の意味を理解した男二人が、絶叫を振り下ろして寛太の得意顔を袈裟切りにする。 「何をって……思った事を告げているだけだが?」  だが寛太は動じない。むしろますます笑みを深くして、唯一叫び出さなかった杏子に視線を固定している。  杏子は顔を真っ赤に染めて、ゼリーみたいにぷるぷると震えていた。  いつもの江戸っ子気勢はどこへ行ったのか。無垢な少女のように――実際にそうなのだろうが――口元に手を当てて震えているではないか。  そして寛太は、どのような曲解がそうさせたのか、彼女の震えを告白された歓喜によるものだと受け取った。 「それだけじゃない」  だから寛太は――三度(みたび)その口を開いた。 「お前まだなんか言うつもりかよぉおおッッ!!」  堪らず雄平が叫んだが寛太は止まらない。この異界を深化させる言葉が紡がれようとしている。 「やめて、寛太君ッ! それ以上は駄目だッ! やめて寛太くぅぅううんッ!」  藤本の悲鳴も届かない。寛太は舌をぺろりと出し、唇を湿らせる。  そして、唾液で光る唇を華麗に蠢かした。 「俺はお前の――お、ボロボロボロォォォォオーッ」 「ふざけんなボケェェエエエッッ!!」  だが次の瞬間、寛太の左頬に杏子の鉄拳がめり込んでいた。寛太の魔言は途中で断ち切られ、がしゃんどしゃんと鉄臭い不協和音が教室を揺るがす。 「ふんッ! なんかと思ったらただのセクハラ発言やんかッ! そんな奴だとは思わんかったで、寛太ぁッ! もういいッ! いくでぇ、藤本ッ!」  杏子は、そう吐き捨ててずんずんと去って行く。荒々しいその足取りに色の薄いショートボブがふわふわと揺れた。 「は、はいッ、杏子ちゃんッ」  藤本は心配そうな目で一度寛太の方を振り返ったが、結局杏子の後を追っていく。寛太は、ほぼ無人と化した教室の真ん中で大の字に倒れたまま置き去りにされた。 「なぁ、お前……どうしちゃったんだ?」  一人残った雄平が呆れたように肩を竦めて、倒れたままの寛太に声をかけた。 「……何が?」  実際寛太は訳が分からない。杏子に殴られたおかげで少し目が覚めた気がするが、それでも真っ白な霧の欠片が相変わらず大脳周辺に漂っていた。油断するとまた何か変なことを口走ってしまいそうだった。 「ああ、ひょっとすると風邪のせいかも……」 「恋の病とか言うなよ。寒いからな。ぶふふっ」  言いながら、バシッと雄平が寛太の肩を叩く。寛太は雄平のつまらないギャグに苦笑するでもなく、埃の付いた制服を払いながらゆっくりと立ち上がった。  そして、今度は雄平に向き直った。 「雄平……お前にも実は言いたいことがあるんだ」  寛太の言葉に雄平はどきりと身を固くした。 「お、おお……なんだよ? また変な事言うんじゃねぇだろうな?」  緊張した様子で雄平が答えを返す。先ほどから続く爆弾発言に雄平も気が気でない。そんな危険極まりない発言が自身に向けられるとなれば、乙女ではない雄平でも緊張するというものだった。 「雄平……」 「お、おう……なんだよ……」  雄平は固唾を呑んでどこか弛緩した寛太の顔を見つめた。ゆっくりと寛太の唇が開く。 「お前の乳首は……見たくない……」  そう言って寛太はがっくりと気を失った。杏子の鉄拳が、思考を覆う濃霧と相まって意識をショートさせたようだった。 「よし……それじゃあ保健室に行こうな、寛太」  雄平は初めて見る気絶者に動揺することもなく、むしろ安堵の息をついて寛太を背中に背負うのであった。  立秋が過ぎて二カ月。日の暮れるスピードは加速度的に増していき、まだ四時だというのに空は既に橙色が大半を占めていた。 「なぁ、お前……昼間のあれ何だったんだよ?」  そんなオレンジの光の中を、長い影を背負って泉(いずみ)平(だいら)中学校の校門を出ていく三人の男子学生の姿があった。 「……俺にもよく分からん。本当に何であんなことを口走っちゃったのか……」  そう言って頭を抱えた小柄な影は、今朝がた爆弾発言をしてしまったあの少年だった。  今本寛太。一四歳。中学二年生。  思春期真っ只中にいる彼の悩みは尽きない。針金のように太く真っ直ぐな髪の毛はいくらワックスを付けても受け付けず、やや広いその額に将来の男性型脱毛症を予感し、だが子供のようにぱっちりとした目鼻立ちに男としてのアイデンティティーを確立できず、なにより未だ高度経済成長を認めぬその身長に苦しんでいた。  一体いつになったら百六十の大台を超えられるのか、ひょっとしたら一生越えられないのではないか――そんな内心の焦りを『まだ色々生えていないから大丈夫』と違うコンプレックスで覆い隠しながら日々生きている。  それが、今本寛太という少年だった。  神はそんな彼に対して今日、新たなる試練を課していた。 「マジかよ、乳首って……。明日からどんな顔してアイツに会えばいいんだよ? 今から冗談だったってことにはできねぇかな?」 「無理だろ」  隣を歩いていた大坪雄平が、ぶん、とばかりに牛刀を振り下ろした。その言葉に寛太の心が血しぶきを上げる。そんなこと本当は言われなくても分かっている。保健室から戻ってきてからも、杏子は一度として寛太と目を合わせてくれなかったのだから。 「もう体調の方はいいの? 寛太君」  寛太と雄平の後ろに影のように付いてきた藤本敏行が、声変わり前の高い声でそう尋ねてきた。小柄な寛太よりもなお一回り小さい藤本の存在は、寛太の心の安定剤である。 「ああ。体調の方はもう大丈夫だ。それより――どうした藤本? 今日は杏子と帰らないのか? それは……やっぱり朝の件が関係してるのか?」  杏子と藤本は性格も性別も何もかも違うというのに何故かいつも一緒にいる。とはいっても二人の関係は対等なものではなく、姉と弟、師匠と弟子、社長と平社員、とその立場には明確に差があった。もちろん主にあたるのが杏子で従に当たるのが藤本だ。藤本は金魚のフンのように杏子の後をいつも付き従っており、その異様さは噂となってしばしばクラスメートにこう囁かれていた。  即ち、藤本は杏子に重大な秘密を握られているのだ、と。  はっきりした事は寛太にも分からない。だが、杏子と一緒に居ることを藤本が決して嫌とは思っていないようなので、放置しているのであった。  だから、そんな藤本が杏子と一緒に下校しないのは珍しかった。今日に限って寛太達と帰りたいと言ってきたその原因が、朝の一件にあるのではと思うのも無理はない。 「……う、うん。今日は一人にして欲しいって言われちゃって。なんだか軽い男性不信みたい」  ぐさり、と藤本の答えが寛太の胸に突き刺さった。そう思っていたのと、実際にそうだったのとではショックにも天と地ほどの違いがある。 「まぁ、信頼してた奴からいきなり『乳首が見たい』なんて言われたらなぁ。男性不信にもなるよなぁ、ぶふふ」  雄平が心底愉しそうな声を上げて笑う。 「言うなよォオオオッ!」  がっくりと肩を落とす寛太。 「大丈夫だよ、きっとすぐに仲直りできるって」  藤本がよしよしとばかりに寛太の背中を撫でる。それがまた寛太の哀愁を誘った。背中を猫背に丸め、とぼとぼと歩く寛太は傍目にも痛々しい。 「それよりも……寛太君?」 「なんだよ? これ以上の非難はごめんだぜ」  藤本はぶんぶんと首を振る。 「ううん。そんな……僕が寛太君を責めるなんてそんなことする訳がないじゃない。僕が気になってるのはもっと別の事だよ」 「……別の事?」  怪訝な目を向けると、藤本は何故か頬を赤らめ視線を前に向けた。つられて寛太も顔を上げる。寛太達の前にはランドセルを背負った小学生の一団が、わいわいとはしゃぎながら歩いている。 「……寛太君は……ひょっとして……杏子ちゃんの事が好きなの?」 「はァッ?」  いきなり懐深く切り込んできた質問に、寛太は素っ頓狂な声を上げてしまった。 「なんでそうなるんだよッ!」 「そりゃ……だって……」  杏子ちゃんの乳首が見たいなんて言うから……ごにょごにょと藤本の声が聞き取りづらかったのは単にその単語を口にするのが恥ずかしかったからだろう。 「う、ん……まぁ……どうなんだろうな……まぁどうだっていいだろ、男ならみんな、好きだろ、そういうの……」  今度は寛太が口ごもる番だった。確かに乳首が見たいとは言ったが、それが好きだからという理由からなのか自分でも判然としない。もちろん好きか嫌いかで言えば好きなのだが、それが恋なのか、はたまた荒ぶる本能的なものなのか、寛太自身にも分からない。 「気になるんだ。教えてよ」 「な、なんでそんな事お前に言わなきゃいけないんだよっ!」  以外にしつこく食らいついて来る藤本に寛太は少し苛立った声を上げる。 「へっ。そりゃ藤本は気になるよなー。自分の姉御が寛太に取られちゃうかも知れないんだからなぁ。ぶふふっ。ぶへ、ぶへ、ぶへーっくしょい」  藤本の肩に馴れ馴れしく肘を置いた雄平が笑いながらくしゃみを放った。粘っこい唾液が霧雨のように宙を舞い藤本の顔に付着する。藤本は顔を思いっきりしかめ、すぐさまポケットからハンカチを取り出してごしごしと拭き始めた。 「相変わらず潔癖症だなぁ」 「君が不潔なんだよ」  いきなり揉め始めた二人に寛太は、話が逸れて良かった、と内心で胸をなでおろしていた。好きだのどうのなんて慣れない話題が出たものだから、実は少し赤面してしまっていたのである。  オレンジ色の夕陽が頬の赤みを紛らわせてくれたのも救いだった。  この隙に深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、そっと藤本の顔を窺ってみる。だが、それがまずかった。視線に気づいた藤本が話が逸れたとばかりにまた口を開く。 「もうっ。君が邪魔するから話が逸れちゃったじゃないか。そうそう、まだ答えを聞いてないよ寛太君? どうなの? 好きなの?」  藤本の口から槍のように突き出された言葉はどうやら回避不可能らしい。もっともらしい答えを模索する寛太。 「だから言ったろ? あー、あれだよお前。思春期の男子ならなぁ、杏子みたいな爆乳女が魅力的に映るのは当然だろ? じゃあ逆にお前はどうなんだよ? 嫌いなのか、杏子が」  質問に質問で返す――答えたくない質問を回避する時の常套手段。 「濁さないで寛太君! 好きなのか、好きじゃないのか、イエスかノーで答えてッ!」  藤本のしつこさは尋常ではなかった。その態度に寛太も本格的に苛立ち始める。 「ってか、うぜーんだよッ! 何で俺がお前にそんな事言わなきゃいけねえんだよッ! お前何そんなにムキになってん――」 「――イエス、アイ、ラブッ!」  その時、突然寛太の真横から声が聞こえた。妙に活き活きと発声されたそれを、寛太の声と勘違いした藤本に驚きが走る。 「や、やっぱり――寛太君は杏子ちゃんの事が好きなんだっ」 「違うッ! 今のは俺が言ったんじゃないッ!」  慌てて隣を見る寛太。だが、そこには誰もいない。何かが駆け抜けたかのような風の残滓が漂うばかりで、もう人影は存在しない。 「か、寛太君は――杏子ちゃんが好き……そりゃそうだとは思ってたけど……やっぱり寛太君はノンケなんだ……」 「お、おいおい、何ブツブツ言ってんだよ。だから今言ったのは俺じゃねぇってッ!」  その時、不意に前方を歩いていた小学生の群れから悲鳴が上がった。 「何だよこのおっさんッ!」「止めろよッ! この変態ッ! 優ちゃんを放せッ!」「おまわりさんッ! おまわりさーんッ!」  驚いて顔を上げた二人の目の前で、蜂の巣をひっくり返したような騒ぎが巻き起こっていた。  何事かと目を眇める寛太。すると、そこについ先ほどまで隣に歩いていた男の姿を見つけた。 「……な、何やってるんだ……お前?」  男は夕焼けの逆光の中、全身を黒く染めて佇んでいた。だが、そのシルエットがどうもおかしい。まるで神に祈るかのように、腕を組んで……。 「……何やってんだ、雄平。お前……何やってんだよ……」  小学生の集団は、雄平を中心にしてかごめかごめでもするかのように円を描いていた。  だが、そんな子供たちに浮かぶ顔はとても楽しく遊んでいるといった和やかなものではない。  ぴくぴくと頬を痙攣させ、口をへの字にした子。肩を怒らせ精一杯に威嚇する子。気をつけを強制されたように固まっている子供もいる。  寛太は駆け足で人垣に近づいた。闇に沈んだ雄平の姿が徐々に見えてくる。 「そうだよねぇ。やっぱりまずご両親への挨拶が必要だよねぇ。よしッ、それじゃあ今から行こうか。善は急げ。思い立ったが吉日生活ッ!」 「お前、何やってんだよォッ! 雄平ィッ!」  ――そこで、雄平が求婚していた。    雄平は姫に忠誠を誓った騎士のように片膝を着き、少女の左手に額を押しつけていた。まるで、そうすれば本当に姫の祝福を得られるとでもいうかのように。  だが、現実は違う。  雄平の妄想の中では大輪の微笑みを浮かべているであろうプリンセスは、実際には地獄の亡者に捕捉されたかのような悲壮な顔をしていた。  子供特有のぷっくりとした赤いほっぺがきゅっと窄まって極度の緊張を表している。長い睫毛の先には小さな水滴が浮かび、それが夕陽を受けて黄金色に光っていた。 「雄平君ッ! 何してんのッ!」  寛太の後ろから慌てて藤本も駆け寄ってくる。 「早くその手を放しなさいッ! その子泣いてるじゃないッ!」 「何考えてんだ雄平ッ! 気でも違ったかッ! 早くその手を放せっ!」  だが、雄平は手を放すどころか、逆に少女の体に腕を回した。それがきっかけになって優ちゃんと呼ばれた少女の口からついに悲鳴が迸り出た。 「キャーッ!」  雄平はその悲鳴にうっとりととろけそうな表情を作る。そして優ちゃんをお姫様だっこにして抱えた。 「それじゃ、ちょっとご両親のもとにご挨拶に行って来る!」  じゃあ、とばかりに左手を上げる雄平。狂気の沙汰としか思えない言動と行動に、寛太と藤本は二の句が継げない。凍りついたように立ちすくむのみ。行き過ぎた驚きは、人をただの観客にしてしまうのだと言う事を寛太は初めて知った。 「ちょっ、と……待てッ! 雄平」  制止の声を上げられたのは、すでに雄平が駆け出した後だった。わーん、と泣き声を上げる少女の声がどんどん遠く小さくなっていく。 「な、何が起きてるの? 彼どうしちゃったの? いや、もともとおかしかったけど。まさかこんなに狂ってるなんてッ!」  藤本が寛太の肩を掴んで言った。寛太はぎり、と歯を噛む。未成年者略取、誘拐、ゆとり教育、少年院……いろんな言葉が刹那の間に浮かんでは消えた。これはマズい。このままでは大事になるッ! 「とにかく俺はアイツの後を追う。お前はこの子たちを頼むッ!」 「ちょ、寛太君ッ!」  そして寛太は、藤本の返事も聞かずに走りだした。  夕日が燃えるように輝き、涼しい秋風が挨拶でもするかのように火照った頬を通り過ぎていく。運動するのに清々しい気候。だが、それを堪能している暇はない。  神社へと向かうカーブを曲がったところで、寛太の耳に不穏な音が聞こえてきた。  ぴーぽーぴーぽー。  それは、ある意味雄平の人生を終わらせる音だった。     二 「――全身タイツの男が婦警に痴漢です」  ぴくっ。  痴漢という言葉に寛太の箸を持つ指が止まった。極力自然な振る舞いで、こたつの向こう側においてある最近購入したばかりのデジタルテレビを凝視する。鮮やかな液晶画面の中には最近テレビでよく見かけるようになった童顔のアナウンサー宮地(みやち)ちこが、しゃちほこばった顔でニュース原稿を読み上げていた。 「本日午後四時半頃、登(と)美(み)地区路上でピンクの全身タイツに身を包んだ五十代の男性が、奇声を上げながら違法駐車取り締まり中の婦警に後ろから抱きつきました。その無謀とも言える行為に周囲の人は呆れ顔です。犯人は大平市役所に勤める水道課の職員で……」 「唐揚げもーらいっ」  食い入るようにテレビを見つめていた寛太の隙を突いて、今本(いまもと)ことみが鶏肉の唐揚げをさらっていった。 「あっ、テメッ――返せッ!」  慌てて箸を伸ばすが時既に遅し。ことみは寛太から奪ったそれを一息に口腔へと落下させていた。かりっとジューシー。黄金色をした寛太の大好物はあっという間に咀嚼され妹の胃袋の中に落ちて行く。 「おーいしーいっ、これ。クールだわ。クールな味だわ。今日の晩御飯もおいしいよ、お母さん」  肩口で切り揃えられたおかっぱが、奇妙なしなを作ることみの動きに合わせて揺れる。その姿はとても小学校五年生には見えない。せいぜい二年生くらいだ。 「ふふ、ありがと、ことみ」  寛太の母、今(いま)本初(もとはつ)江(え)は腕を振るった晩御飯を褒められ、ぽっと頬を染めたりしている。その様子は微笑ましいというよりももはや年甲斐が無い。とても四十過ぎたおばさんに許される仕草ではない。 「おい。『ふふ、ありがと、ことみ』じゃねぇだろ。今のは行儀の悪さを叱るところだろ」  明らかにずれた返答をする母に寛太は苦言を呈した。 「母さんに向かって『おい』とは何事だ――」  だが、背筋の凍りつきそうな低い声で、反対に寛太が怒られてしまった。叱責は母の隣の席の父から発せられたものだ。ドスの利いたその声には背筋を伸ばさざるを得ない。  悔しげに噛んだ奥歯の所で、しゃり、とレタスが清涼感あふれる音を立てた。寛太が食べたかったのはレタスでは無い。唐揚げなのだ。全く納得がいかない。  堅気かどうか疑わしく感じてしまうほど鋭い眼光、どっしりした肩幅、巌のように引き締められた顔、ごつごつと節くれだった拳。  ――それが寛太の父、今本剛三だった。ヤクザと言う言葉がこれほど似合う男もいないが、その実態はもちろんヤクザなどではない。東証一部上場企業に勤めるエリート商社マンだったりする。  こんな恐ろしい成りでどう商談をとりつけるのか、以前から気になっていたところではあるが、もちろんそんな事を尋ねたりはしない。触らぬ神に祟り無し。触っていないのに祟られる世の中なのだから、余計な事はしない方が得策だった。  そんなヤクザの親分――もとい商社の鬼が新聞の端から鷹のような目をのぞかせて寛太を睨みつけている。 「あ、ああ。ごめん……親父」 「謝る相手が違う」 「あ、ああそう? えっと誰だったかな……」  本気で誰に謝るべきか悩む寛太に、父は顎を上げた。その先には母、初江がにこにこ顔で頷いている。納得がいかないながらも母へ謝罪の文句を述べる寛太。母は、可哀そうだから私の唐揚げを一つ上げるわ、と寛太の皿に唐揚げを移してくれた。だが、それがまた寛太に惨めさを感じさせた。  ふと、正面を見ればことみがにやにやと癇に障る笑みを浮かべていた。いつだって損をするのは先に生まれた方である。憤懣やるかたなかったが、これ以上ストレスをためても飯がまずくなるだけなので寛太は食事を再開させることにする。 「それにしても最近は変な事件ばかり起こるわねぇ……私も気をつけなきゃ……」  初江が吸い物のお椀を置いて呟いた。寛太は、子供の心配をするよりもまず自分の心配が先に立つ母の母性を疑ったが、もう口には出さない。代わりに皿に残るキャベツをかきこんだ。 「そういえばねぇ、里美(さとみ)ちゃんも今日変な人見たって言ってたよ」  人参もピーマンもおよそ子供が苦手とするあらゆるものを口に放り込み、咀嚼、嚥下したことみが、得意げな顔で怪しい話題を投げかけた。 「あら、そうなの? 変な人って……どんな人を見たの?」 「うん。なんかねぇ、ばぶるが崩壊する前のミュージシャンみたいな髪型をした男の人が、小学三年生の女の子に告白したって――」 「ブーーーーッッ!!」 「ぎゃー、汚いぃいいッ!」  寛太の口からスプリンクラーのように咀嚼されたキャベツが噴き出した。ことみの顔が綺麗な黄緑色に染まる。 (ば、バブル崩壊前のミュージシャン……だ、と?) 「ティッシュ、ティッシュ取ってッ! ティッシューッ!」 「げーほげほげほげほ、げほぉおッ!」  咳き込みながら、寛太の額に汗が噴き出してくる。その理由は決して気管に食物が入ったからだけではない。  慌ててティッシュに手を伸ばす初江。 「どうしたの寛太、変な所にでも入ったの?」 「げーほげほ、げほっ、ああ。すまん、気管にキャベツが――げほげほ」  寛太の頭に浮かんだ似非(えせ)ミュージシャンの姿。 (――雄平ッ!) 「私の綺麗な肌がお兄ちゃんの唾液で爛れたらどうしてくれるのよっ! 罰金ね。罰金五百円なんだからねっ」  俄然騒がしくなる食卓。寛太は受け取ったティッシュで口元を拭いながら、生温い汗が脇の下を伝うのを感じていた。 (……な、なんという情報伝達網ッ! この町にはプライバシーってもんがないのかッ? なぜもうことみの耳にまであの話が届いてるッ!)  人の口に戸は立てられず――その諺の真意を己の身で実感する寛太。  俄然騒がしくなった食卓に、だが父剛三だけは全く動じていない。剛三は難しい顔をしながらリビングのテレビをひたすら注視していた。  テレビには童顔のアナウンサー宮地ちことメインキャスターの斎藤(さいとう)重雄(しげお)が映っていた。 『今日はなんだか変わったニュースが多かったですねぇ、斎藤さん。季節の変わり目だからでしょうか?』  そう言って桜の花びらのように笑ったのはちこたんの愛称で知られる、宮地ちこだ。 『そうですね。ですが私は季節の変わり目というよりも、時代の節目のようなものを感じてしまいます』  額を脂で光らせた斎藤重雄キャスターが知った風な口を聞く。寛太はこのキャスターが嫌いだった。 『と、言いますと?』 『ええ。私達が若い頃には、アニメキャラに傾倒するあまり店頭のポスターを食べ始めてしまったり、女優に会わせろとテレビ局に押し掛けてしまったり、果ては小学生に求婚する男が出たりと――そんな異様な犯罪は考えられませんでした。まさに世も末です。日本はまさに斜陽の時代を迎えているのではないでしょうか』  そんな斎藤がとんでも無い事を口にした。ことみの目が爛と輝きを増す。 「ねぇお母さんッ! 今のニュース聞いた? あれ、ひょっとして里美ちゃんが言ってた――」 「だーーーッ!」  寛太の口から獣の咆哮が躍り出た。口元を押さえ動揺を押し隠す。なんて事だ。ことみの耳どころの騒ぎでは無い。 (まさかの全・国・区?) 「ちょっと、さっきから何エキサイトしてるのよ。ひょっとしてイノキのモノマネ? うるさくて仕方ないから外でやってくれる」  じとっと厭味をたっぷり乗せた視線でことみが睨んでくる。だが、その程度で済むのなら甘んじて受け入れよう。実の妹に卑下されようが馬鹿にされようが、とにかく里美ちゃんネタに話の矛先が向くのは避けなければならない。 「おお、すまんなことみ。今度雄平達と忘年会をやるんだ。それで少し出しものをな……一、二の三、ダーッ! サンダーバードォオオッ! なんちゃってな?」 「……死ねば?」  ぐっ……ぬ。思わず黙り込む寛太。だが、寛太は生命権を侵害することみの罵詈すら呑みこむ。耐える。耐えてみせる。そして、焦慮と腹立ちで揺れる視野の中で、寛太は警察署で崩れ落ちた雄平の姿を幻視した。 『僕はただ、この子と結婚したかったのですッ! この気持ちに嘘偽りはありませんッ!』  まさか憧れだったパトカーにこんな形で乗ることになるとは思いもしなかった。  くるくる回る赤い回転灯。『ちょっと署まで来てくれるかな?』映画の中でしか聞いた事の無いような台詞。 『あの人たちが……いきなり抱きついてきたの』  幼さゆえの罪か。優ちゃんが放ったこの複数形の疑惑を晴らすために、寛太は一時間を費やした。それは白であるはずの寛太が灰色に染められた瞬間。その後、優ちゃんが言質を翻したために事なきを得たが、そのせいで、寛太も危うく両親を呼ばれるところだった。 (いっそ……何があったのかここで俺の口から話してしまおうか……)  どうせバレるのならば、自分の口から話した方が罪は軽い。と、いうよりもともと寛太に罪は無いはずなのだ。雄平を売るような形になってしまうが、もうこうなっては仕方がない。  寛太は覚悟を決め、箸を置いた。姿勢を伸ばして食卓の向こう側に居る父と母に真っ直ぐな目を向ける。 「母さん、親父……実は、今日帰ってくるのが遅かったのには、訳があるんだ」  剛三が黒目だけを動かして寛太を見る。初江はふにゃふにゃとした柔和な顔を寛太に向けた。 「実は警察で事情聴取を受けていたんだ」 「な――」  二人の声が重なった。ふにゃふにゃだった母の頬は寒天のように凝固し、父は驚きに眉毛を逆立てた。 「お母さん、おかわりー」  だがことみは聞いていない。ご飯を掻きこむのに忙しかったことみはどうやら兄の話は二の次だったようだ。空気の読めない痛い子のように元気に茶碗を差し出した。  だが、もちろんことみのおかわりは黙殺される。台風の目に入った時のような不気味な静けさが今本家の食卓に舞い降りた。 「……お母さん? ことみ、もう一杯ご飯食べたいんだけど……」 「あなたね?」 「は?」「へ?」  寛太とことみの声が重なった。ことみはその言葉が自分に向けられたものだと勘違いしているようだった。寛太は寛太で主語も述語も省略したそれが何を指しているのか分からない。 「――お前が……やったのか?」  ずぉおおおお、という音が聞こえてきそうな迫力で親父がこちらに向き直る。 「……何の事、お母さん?」「いやいや、何もしてねぇし」  バンッ! 食卓を平手で叩きつける激しい音と共に、母の絶叫がこだました。 「――あなたが……あなたが優(ゆう)ちゃんを手(て)籠(ごめ)にした犯人なのねぇえええッッ!」  そして、母の勘違いが炸裂した。 「ご、ごめんなさいお母さんッ! 私が食べましたッ! 私が奥に隠してあった肉まんを食べましたぁああッ!」 「ブフォッ! ちょっと待てッ! 誤解だッ! 俺は優ちゃんとかいう子には何もしていないッ! 優ちゃんに何かしたのは、雄平ッ! 雄平なんだよォオッ!」  ちり、ちりと首筋の毛が逆立つのを感じる。両親のこの短絡的な思考は本当にどうにかしてほしい。これで、『お前は目先の事しか考えていない』なんて説教されても困るというものだ。 「肉まんの……話じゃないの?」  亀のように首を竦めていたことみが、ゆっくりと肩の力を抜く。どうやら怒られているのが自分ではないとようやく察したらしい。 「どういうことか説明しなさい。寛太。事と場合によっては……勘当だ」  球体のように広がった仁王のオーラが少しばかりその直径を狭める。 「ねぇ、かんどうって何? お父さん、何かに感動してるの? まさか私のプロポーションに?マジキモいんだけど、うふ」 ごつん、と頭頂部に拳をもらって泣き出すことみ。むしろ泣きたいのは寛太である。 寛太は勘当されてはたまらないと、身振り手振りを付けて洗いざらいを話し始めた。 そして、ここでもまた理解を得るのに一時間を要した。  だが、今にして思えばこの時はまだこの程度の話だったのだ。  間違われるような事をするお前が悪い、と寛太が叱責される程度、雄平が警察に連行される程度、全国区のニュースで報道される程度の話。  まだ、誰も知る由もなかった。  これが、世界を変える出来事の端緒であったなどとは。    三    中部地方の太平洋側、渥美半島の先端に大平(おおひら)市という人口六万人程度の町がある。  それが、今本寛太の住む町だった。  総面積八十平方キロメートル。海に突き出した角のような形をしたその町は、三方を海に囲まれているせいもあって交通の便が悪かった。そのため町の中心部であっても二LDKの賃貸が四万円台という安さ。観光名所もこれといってある訳ではなく、せいぜい丘陵の菜の花畑か、半島先端にある安産祈願の大師を呼び物にするしかないひなびた町だった。  その程度の名勝地では観光客で賑わうはずも無く、大平市は専らキャベツを中心とした畑作で慎ましく生計を立てていた。  だが、それも五年前までの話。  転機はいきなり訪れた。  畑ばかりが広がっていたこの町に、大手電力会社が目をつけたのである。広大な土地を安く買いたたき、そこに巨大な火力発電所を建設したのだ。  火力発電所を回すには人が要る。人がいるところにはモノが建つ。モノが在るところにはさらにモノが集まる、という流れを受けて――大平市の経済は一気に潤った。  今では人口が十万人を突破し、私立ながら青海理科大学という大学まで建設され、官民連携がどうの、助成金がどうの、とちょっとした学園都市の様相まで呈し始めている。  そんな新興住宅街の、とある坂道。  綺麗に舗装されたその道を、真っ白な朝日を浴びながらてくてくと連れ添って歩いて行く二人の人影があった。  前を行くのは濃い小麦色の髪をおさげにしたセーラー服の少女。ぱっと見ただけで性格の良さが分かるような、眼鏡をかけた純朴そうな女の子だった。 「あははは、それは大変だったねぇ、雄平君も寛ちゃんも」  少女が笑いながら後ろを振り返った。よく透るその笑い声に電線で開かれていた雀達の会議は散会となったようだった。チチチ、という可愛らしい警戒音を発しながら爽やかな朝日の中に散って行く。 「だろぉ? んっとに大変だったんだぜ。まさか共犯扱いされるとはな。助けに行ったのによ」  今本寛太が肩をすくめながら毒づく。 「いやぁ、見たかったなぁ。警察に連行された時の寛ちゃんの顔――。動揺する姿が目に浮かぶよぉ」  そう言って、少女――小林(こばやし)小枝子(さえこ)は太陽にも負けないような微笑みを見せた。  小林小枝子は寛太の幼馴染である。  家が隣同士で同学年ということもあり、気付いたころにはこうして二人で登校するのが日課になっていた。それは中学生という年頃の男女になったからと言って変わるものでもなかった。  変わるものでもなかったのだが――。 『おい、お前小枝子ちゃんと付き合ってるのか?』 『はぁ? 何で俺があんなイモ臭い田舎娘と――』 『バッカ! お前の目は節穴か? 小枝子ちゃんの実りっぷりを見てみろ。ありゃあ金の卵だぜッ!』  最近はそんなやっかみを受けることも多くなってきた。 (……そんなもんかねぇ)  と、何気なく小枝子に目を向ける寛太。小枝子は笑うたびに自分の口から漏れる白い塊を無邪気に追いかけていた。まだ十月だというのに今朝は息が白むほど寒い。季節は着実に秋のころ合いを深めている。  確かに。最近の小枝子は変わったかもしれない。  眼鏡をかけておさげにしているからこそまだ地味に収まっているが、化粧っ気が出てくればどうなるか分からなかった。  鶴のようにしなやかな曲線も昔とは違う。女性の象徴たる二つの膨らみも、大きさとしては小ぶりながら重力へ抗するその力強さは確かに金の卵と言えなくもなかった。 「……で、寛ちゃん。行ったの?」 「へ?」  煩悩の世界に没入していた寛太は、会話についていけず間抜けな声をあげた。 「もうっ。やっぱり人の話聞いてないんだから。ミオンズにはもう行ったのかって聞いてるの。もしまだなら、今週末とか……私と一緒に偵察に行かない?」  なんだか少し照れたように上目づかいで尋ねてくる小枝子。  ミオンズというのはここ大平市に最近できたスーパーモールである。『狐が出そうな所に出店せよ』という社訓に則って、まさに狐の出るこの大平市にオープンした。  そこは衣類、食品、家電、日用品と、生活する上で必要となる商品がすべて揃っていると言っても過言では無かった。しかも安い。もちろんできたばかりのバーゲン期間中だということも関係しているのだろうが。 「ああ、ミオンズならこの間行ってきたぞ。すげぇ人だかりだった。あれで元が取れるのかってくらい安かったぜ、しかも十パーセント還元セールとかでさぁ」 「そう……」  寛太の答えに、小枝子が落胆したような表情を見せた。だが、寛太にはその理由が分からない。まさか先に一人で見に行かれてしまってことにがっかりしているのか、とそう考えたところで、はたと気がついた。 「ああ、そうか。確かにあんだけ繁盛されるとはマズいな。……お前んち大丈夫か?」  小枝子の家は明治時代から続く豆腐店なのだった。その名も小林豆腐店。寛太の家の真隣にあることもあって、昔からみそ汁の具剤としてお世話になっている。  そんな小林豆腐店の経営が最近思わしくないらしい。ミオンズもそうだが、ここ最近急激に増え始めた大手企業の影響が大きかった。そのせいで、この辺りに昔からある個人経営店が寂れ始めていた。この通学路の脇に立ち並ぶ店も五軒に一軒くらいの割合でシャッターが降りっぱなしになっている。 「うん……あんまり良くないみたい。最近お父さんが暗いの。私も何か助けてあげられればいいんだけど……」  寛太はそうか、としか言ってやることが出来ない。 「町が発展するってのは、良い事だけじゃあないってことだな」  二人の間に少しの間沈黙が訪れた。  花屋のおばさんがバケツの水を取り換え、肩を震わせて店の中に戻って行く。その背がやけに小さく見えた。 「うふふ――そう言えばね。私、聞いちゃったんだー」  暗くなった空気を吹き払うように、ことさら明るい声を出して小枝子が言った。 「寛ちゃん……杏子ちゃんに……いやらしい事言ったんだって?」 「げっ」  やはり噂というものは恐ろしい。思わずたじろいだ寛太を見て小枝子の笑みに黒いものが混じる。 「雄平君の悪口ばかり言ってぇ。肝心な自分のことは話さないんだから……。杏子ちゃんの魅力に寛ちゃんも正気を失っちゃったのかなぁ? うふふふ」  そう言って笑う小枝子は、顔は笑っているのになんだか目だけは全く笑っていない気がした。 「あ、あはははは。いやぁ、体調が悪かったせいかあんまり覚えていないんだよなぁ。最近急に寒くなったし、体調管理には気をつけないとな。おおそうだ。お前の方は体調大丈夫か? 気をつけろよ」  寛太は少しばかり強引に話を逸らしてみる。だが、小枝子の黒い笑みはどんどん深化していくばかりで底が知れない。試みは失敗したようだ。 「丈夫なだけが取り柄ですからー。でもでもぉ、私が物知らずなだけかもしれないんですけどぉ、好きな人に思わず告白してしまうようなぁ、そんな風邪聞いたことないんですけどー?」 「いっ、いや。別に好きって言ったわけじゃ……ただその……見たいって言っただけで……」  ごにょごにょと語尾を濁らせる寛太。 「えっ? 何? よく聞こえないよぉ?」  だが、小枝子は追及の手を緩めない。  藤本といい、小枝子といいどうしてそんなに突っかかって来るのか?  ぶろぶろぶろおおおおおん、とよぼよぼの爺さんが乗った原付自転車が寛太達を追い抜いて行った。老人の丸い背中が雑踏に隠れ、さらにそのエンジン音が聞こえなくなるまで見送ったところで、寛太はついに耐えられなくなった。 「すまんッ!」  ずざざぁッ! 秘技――跳躍土下座ッ! 跳躍土下座とは意味も無く一度飛び跳ねてから、土下座をするという寛太の必殺技である。少なくともこれをすれば妹は許してくれる。 「何してるのかなぁ? 寛ちゃんは?」  だが、小枝子は妹とは違った。地面に膝を突いて頭を下げても、小枝子のゾッとするような笑顔は変わらない。恐慌に駆られて寛太は叫ぶ。 「仕方ないでしょうッ! 僕だって男の子なんですよッ? 一四歳の、ある意味最も過激で過敏な時期なんですよッ? たわわに実った桃があれば思わずそれをもぎたくなる、茂みに隠された薔薇があれば思わずそれを覗きこみたくなる……それが男ってもんでしょう?」  喉も裂けよと言わんばかりの大声で自己弁護を開始。 「何を言ってるのかなぁ? 寛ちゃんは?」  だが、自己弁護は火に油を注いだだけだった。小枝子の額に青筋が浮き、だがそれでも崩れない笑顔のためにそれはもう鬼気迫る表情になっている。 「あああ、もうっ。クソッ……何て言えばいいんだ、その、杏子は違うんだ。杏子はそういうんじゃないんだ。お前にも分かるように言うとだな……杏子は言うなればグラビアアイドルみたいなもので……。そうだっ! 雑誌の袋とじ的な存在だ。お前だって雑誌に袋とじのページがあったら開けるだろ?」 「……開けない」  何という拷問。これならば実際に針の筵の上に座らされた方がマシかもしれない。 「……そ、そうか。よしッ! ごめんな。例えが悪かった。そうそう、こう言えば良かったんだ。小枝子……お前は俺の嫁だ」 「えっ?」  その言葉を口にした瞬間、まるで蕾が花開くかのように小枝子の顔が輝いた。ようやく正解を手にしたと、寛太の顔も笑顔になる。 「……私が寛ちゃんの……奥さん?」  ピンク色に染まった頬を両手で挟み、恥ずかしそうに腰を揺らす小枝子。この機を逃すかと勢い込んで寛太も言葉を続ける。 「そうッ! お前が奥さんで杏子は愛人なんだよッ! そういうことなんだよ、分かってくれたか小枝(さえ)――」 「馬鹿ぁああッ!」 「おぼろぉおおおッッ!」  真面目な小枝子の、教科書とノートがいっぱいに詰まった学生鞄の角が寛太の左側頭に激突した。 「不潔ッ! ケダモノッ! 何……何よそれッ! なんで私が浮気される奥さんなのッ!」 「な、何本気で怒ってるんだッ! 違うだろ、今のは物の例えだろッ! それに浮気も何も別に俺達――」 「馬鹿ぁああッ!」 「おぼろぉおおおッッ!」  はぁ、はぁ、と肩で息をする小枝子。一方で寛太はアスファルトの上にのたうっていた。もはや鈍器と呼んで差し支えない鞄で、右と左、均等に一撃ずつ殴打されればガードの固いボクサーでもこうなるだろう。 「女の子の、ち、乳首が見たいなら――まず、私にそう言えばいいでしょッ!」 「なにぃッ!」  そして寛太は、少なくともこの時ばかりは頭部を襲う激痛を忘れた。びっくりした猫みたいな姿勢で思わず小枝子を見上げてしまう。 「そ……それは、ひょっとして……」  寛太の喉仏が生唾を飲み込み、ごくんと蠢いた。 「お前が俺に……乳首を見せてくれると――おおおおおッ!」  寛太が目撃したのは、小枝子の背中、翻るスカート、遅れて回る小麦色のおさげ、だった。  そして。  ――ドゴンッ。  重い衝撃。  右脇腹を襲った峻烈な痛みに寛太は再び膝を折る。胃が口から飛び出てしまうのではないかと思うほどの衝撃に、腹を押さえて呻吟する。 「見せる訳ないでしょうっ! 寛ちゃんのエッチッ!」  鉄塊のような小枝子の鞄に遠心力まで乗せられたのだ。この寒さだと言うのに全身から噴き出した汗が止まらない。 「か、寛ちゃんが変な事言うからいけないんだよっ!」  だが、苦しむ寛太を見てさすがにやりすぎたのかと思ったらしい。小枝子が心配そうな顔になって寛太の横に屈みこんだ。うずくまったままの寛太はその横顔を見上げる。 「私はただ……」  小枝子の細い睫毛がそっと伏せられていた。なんだかとても悲しそうな顔だ。小枝子は何かを口にしかけて、結局それを呑みこんでしまう。寛太の胸に居心地の悪い違和感が残った。 「悪かったな」  だから、そんな謝罪の言葉が自然と口を突いて出た。小枝子は当惑するかのように二三度瞬いて、ゆっくりと笑みの形に表情を変えた。 「いいの。私の方こそごめんね。痛かったでしょう?」  そして寛太を起こそうと色の薄い腕を伸ばしてきた。寛太はゆっくりとその手を取って起き上がる。久しぶりに握った小枝子の手は記憶にあるよりもずっと柔らかかった。 「まぁ、それは否めないな。ははは」  照れ隠しの戯言に小枝子は呆れたような目を向ける。そして、不意に真顔になって、 「でもね。寛ちゃん。もし――」 「うん?」 「もし、そこにいたのが杏子ちゃんじゃなくて私だったら――寛ちゃんは同じ事言った?」  そんなことを言うもんだから、寛太は面食らってしまった。 「……お、おう。……多分な」  動揺を抑え込み辛うじてそう答える寛太。そして答えてしまってから気付いた。今のはまた鞄が飛んでくる類の失言ではなかったかと。  思わず身を竦ませる。だが、いつまでたっても小枝子の鞄は飛んで来ない。  そっと薄目を開けて小枝子の顔を見る。  すると――。  何が嬉しかったのか、小枝子は満面の笑顔を浮かべていた。  女心は分からない、と心の中で呟く寛太。  思わず振り仰いだ空は雲一つない秋晴れの青だった。 四 「くしゅん、おはよう、寛太君。昨日は大変だったね」  教室に着くと駆け寄ってきた藤本が小枝子と同じことを口にした。寛太はああ、とため息をついてそれに迎合する。大変という言葉だけで済むレベルをとっくに凌駕している感があったが、その辺りの愚痴は十分小枝子に聞いてもらったのでとりあえず良しとしておく。あんまり大きな声で話してクラスメートに聞かれたら、さすがに雄平が可哀そうだ。  教室はいつものように穏やかなざわめきに包まれていた。少なくとも寛太が感じる限りでは誰かが誰かの陰口をたたいていたり、粘りつくような陰湿な笑みを浮かべているようなことはない。  若干しわぶきの声が多いような気もするが、それはここ最近の寒さから来る流行り風邪的な問題で、昨日の事件とは関係はなさそうだった。 「雄平君、健気にも登校してきてるよ。さすがに凹んでるけどね。僕だったら学校休んじゃうかもしれない」  そう言って藤本は教壇近くの雄平の席を見た。視線の先では雄平が何も書かれていない黒板を一心不乱にじっと見つめている。  なるほど、その周囲には黒いオーラが堆積していた。周囲の人もそれを察知してか、雄平の周りにだけぽっかりと空間が空いている。あれではまるで既に仲間外れにされているかのようだ。 「ちっ。しょうがねぇ。ここは一丁、俺が励ましてやるか」  寛太は鞄を机の横にかけると、席を立った。藤本も寛太の後をとことこと付いて来る。 「おい、雄平っ、しっかりしろ――って、うぉ」  雄平の正面に回り込んでその顔を覗き込んだ瞬間、寛太は驚きの声をあげてしまった。 「お、お前――泣いてんじゃねぇかッ! なに泣いてんだよ、雄平ッ! しっかりしろぉッ!」  なぜなら、そこで雄平が声もなく泣いていたからだ。  その目じりにぷくーっと水滴が膨らんでは重力に負けてほろほろと落ちていく。しかも無表情というのがまたいけない。心を病んでいる者の泣き方だ。 「……寛太か……。俺は……もう駄目だ。俺は、もう……死んでいる……。……社会的に」  雄平が瞳を緩慢に寛太の方へ動かした。 「死んでねぇよッ、雄平ッ! お前はまだ生きているッ! 諦めるな、大丈夫だッ!」 「そうだよ、雄平君ッ! 性癖なんて人それぞれだよ、気にすることないよッ!」  これはまずいと踏んだのか、藤本も励ましの助け船を出してくれた。だが、雄平の顔は寛太たちの激励に反し、ますます深みに落ちていく。この世のありとあらゆる悲劇を映してきた老人の瞳ように、雄平の目は暗く濁っていた。 「大丈夫な訳ねぇだろう……乳首が見たいっていう告白とは訳が違うんだぜ……」  そして雄平は、くつくつくつ、と渇いた唇を三日月にして自嘲的な笑い声を上げた。 『乳首』という言葉に思わず寛太が固まる。しかし今は固まっているわけにはいかない。寛太の負った傷が転んで擦りむいた程度だとすれば、雄平のそれは鉈で切り付けられたようなものだ。手当をしなければ死んでしまう致命傷。  寛太は深い息を吐いて、交感神経の緊張を解いた。 「……いいや、同じさ雄平。俺たちは俺たちの愛するものにその思いを告げただけ。その事に何を恥じることがある? 俺たちは、俺たちの純愛(ピュアラブ)をもっと誇っていいはずだッ! 違うか、雄平っ?」 「違うに決まってるだろぉがッ! ボケがッ!」  そうだよな、やっぱり……と、寛太は雄平の言葉に大いに頷いた。言いながら自分でも分かっていた。そんな訳がない。雄平のした行為は完全に恥じるべきものである。 「俺は禁断の果実に手を出してしまったんだ……ああッ。ああーっ!」  そう言って頭を抱える雄平に寛太達はかける言葉を失った。雄平の言っている事は全くもって真実であり、真実の言葉が持ちうる重みは、詭弁でどうにかなるものではないからだ。真実には真実で対抗するしかない。 (仕方ない、か……)  寛太は伝家の宝刀を抜く覚悟を決めた。 「雄平……」  とん、と雄平の肩に手を置く寛太。雄平は胡乱気な目で寛太を見る。  真実に抗うには真実の言葉しかない。  ――だから寛太は真実を告げた。 「このロリコン野郎がッ!」 「――――!」  白濁した雄平の目に閃光のごとき星が浮かんだのが分かった。 「ちょ、ちょっと寛太君ッ! なに傷口に塩を塗り込むような事言ってんの!」  慌てて割って入る藤本。だが、寛太はそれを手で押しのける。 「止めるな藤本……誰かがこいつに言ってやらなければいけないんだ……。三次元(リアル)で幼女に手を出すことは犯罪だと言うことをッ!」 「な――か、寛太君ッ!」  寛太は雄平の胸倉を掴み、無理やりに席から立ち上がらせた。 「いいか、雄平。お前のその嗜好はこの現代社会では認められない。二次元に昇華させるか、墓場まで持っていくべき代物だ。今後一切ああいった事はするなッ! まずそれを約束しろ!」  突然降りかかった寛太の怒号に、雄平の頬が朱に染まり始める。死人の肌に血色が戻りつつあった。 「んなこたぁ俺だって分かってんだよッ! 今さらお前に言われるまでもねぇッ! 何様だお前ッ! お前だって犯罪者予備軍じゃねえか、この乳首フェチがッ!」  吐かれた気炎は灼熱の高温だった。罵倒に罵倒。売り言葉に買い言葉。これはまさに諸刃の剣。 「ぐッ! ――いいねぇ効くねぇ、その言葉ッ! おおよ、確かに俺は乳首フェチかもしれないッ! だがな、俺とお前では決定的に違う事がある。それが、お前に分かるか――雄平よォオオオオッ!」    しん。    不意に沈黙の帳が二人の間に落ちた。雄平は宿した怒りを疑問符へと変えて、寛太を見る。寛太は荒くなった呼吸を抑えるために、ゆっくりと息を吸い込んだ。 「……どういう、意味だ?」  問いかける雄平に慈愛に満ちた視線を向けて、寛太は囁くように言った。 「俺はもう――開き直っているんだよ……雄平……」  その言葉を隣で聞いていた藤本が完全に絶句した。  誇らしげににやりと笑う寛太。気でも違ったのか、と藤本の目が訴えかけてくるが軽く受け流す。  悟りを開いた釈迦の如き慈愛の笑みを浮かべながら、寛太は言葉を継いでいく。 「俺やお前のした行為は恥ずべきこと――だが、好きだというその気持ちまで――恥じる必要は無いんだ……」  後光さえ差しかねないその微笑に、雄平はただただ圧倒されている。  一方で藤本は呆れている。 「お前……本気でそう言ってくれてるのか?」 「ああ、愛する事のどこに罪がある? むしろそれは尊い事だ。だが、お前のその性癖は反社会的――昨日のように行動に移した時点で罪になる。だから絶対に行動には移すな。想うは尊い、だが実行は罪。……分かったか、雄平」 「寛太……」  雄平は仏陀の説法に感銘を受ける小坊主のように体を震わせた。 「ありがとう……ありがとうーッ!」  そして、感極まって寛太に抱きついた。  一方で藤本は怖気のあまり震えていた。 「俺だって、あんなことするつもりは無かったんだッ! でも……急に頭に靄がかかったようになって、急にこの想いを伝えたくなって……伝えたら……あんな事に……うぉぉおおおおん」  寛太は幼子をあやすように、よしよしと雄平の背を撫でる。熱い男同士の抱擁。 「な、何……この三文芝居……?」  自分を抱きしめるようにして震えていた藤本がようやく我を取り戻した。斬新過ぎるその展開に全く付いていけない。ため息を吐き出すことすら億劫という感じで、藤本は自分の席へと帰って行く。  きーんこーんかーんこーん。  その時、朝礼の開始を告げるチャイムが教室に響いた。 「よしよし、じきに朝礼が始まるぞ。席に着こうな?」  いい加減に男の背を擦るのにも嫌気がさし始めていた寛太は、これ幸いとばかりに雄平の体を押し離す。 「うぉ、うぉおおん。ありがとう、寛太。持つべきものは友人だな。ありがとうありがとう」  みよーん、と胸の辺りから糸が引いた。見れば、べったりと雄平の鼻水が付着していた。  寛太は引き攣った笑顔を浮かべて雄平を席に着かせると、じゃあなと言い残して自分の席へと戻った。  椅子に腰をかけ、やれやれとばかりにティッシュペーパーで制服についた雄平の鼻水を拭う。すると、廊下の上窓に担任岩瀬の特徴的な禿頭が横切って行く姿が見えた。  がらり。すぐに乾いた音がして前のドアが開く。 「おはよ〜っす。ぶぇっくしょい、畜生め」  自分の放ったくしゃみを罵倒しながら岩瀬が姿を現した。 「起立」  学級代表の掛け声とともにがたがたと生徒たちが席を立つ。  また、退屈な一日が幕を開けた。  ――はずだった。 「あ〜、今日は朝礼の前に少しお前達に話がある」  岩瀬が少し改まった感じで話し始めたのだ。寛太は、うん? と訝しげに顔を上げる。  こういう声で切り出される岩瀬の話はたいていの場合説教だった。万引きや喫煙、飲酒、いじめ等々、生徒が起こした不祥事について語る時、岩瀬はこのような持って回った口調をする。 (生徒が起こした不祥事? ……まさか、雄平ッ!)  折れた雄平の心に添え木を当てられたことで、寛太はもうすっかり解決した気になっていた。  だが、違うのだッ! 社会的に雄平の一件は全く解決していない。  そう、事件は警察沙汰にまでなったのだ。当然学校にも連絡が行っているはず。  慌てて雄平の方に視線を向けると、案の定雄平は手を神に祈るかのように組み、がたがたと震えていた。 「あ〜、ひょっとしたらこの中にも既に知ってる奴がいるかもしれないが……」  そして岩瀬による死刑宣告が始まった。  いつもは騒がしいクラスの連中がこういう時に限って静かに岩瀬の話を聞いている。ひょっとしたら寛太と藤本の他にも雄平の事件を見聞きして知っている生徒がいるのかもしれなかった。噂は時に光速を越えて広まる。それゆえの静けさ。好奇心が雑談の誘惑に勝っているのだ。 (止めろ、止めてくれ。これ以上雄平を傷つけないでやってくれ)  寛太はそれを目で岩瀬に訴える。だが空気の読めない岩瀬がそんな寛太の視線に気づくはずがない。  岩瀬は質の高い聴衆を演じる生徒達に満足したかのようだった。ゆっくりと一つ頷く。そして、魚の様な唇をひるがえして信じられないことを口にした。 「わたくし岩瀬(いわせ)道(みち)治(はる)は鈴原杏子を愛しています」    ………………。   「うぇ?」  思えばここ最近は信じられないことばかりが続いた。だから、当然こういう展開があってもおかしくは無かった。そう、おかしくは無い――。  が、これは予想の範疇を超えていた。 「う、うぇ?」  告白された当の杏子が混乱した表情で奇妙な声を上げ続けている。だが、それに答える者はない。  張りつめた糸のような静寂が教室に満ちた。  教室にいる生徒全員の口が壊れてしまったかのように半開きになっていた。『開いた口が塞がらない』という慣用句を地でいく恐るべき光景。  冗談であってくれ、と寛太は神にも祈る気持ちで岩瀬の顔を見た。だが、ニキビ跡が残るその顔に更なる穴が開いてしまうほど見つめてみても、そこに浮かんだ表情は真剣そのもの。本気の告白としか思えない。 「俺の愛人になってくれ……杏子」  そして、実際に岩瀬教諭は本気だった。  時の止まった空間で一人動くことのできる超越者のごとく、岩瀬は杏子のもとへ歩み寄る。そして唐突に彼女の手を取った。  それでもまだ杏子はされるがままになっていた。クラス中の視線が二人に突き刺さる。異空間で上演されるオペラにみんな目が離せない。  岩瀬は迎賓館に招待された華族が貴婦人にするかのように、そっと杏子の手を戴く。そして……いきなりその魚の唇を杏子の手の甲に押し付けた。 「ひ、ひぃやあああーッ!」  その瞬間――爆弾が炸裂したかのような絶叫が杏子の喉から噴き出した。  杏子の身体中の毛が感電したように逆立っている。それは決して比喩ではない。究極の嫌悪は本当に毛を逆立てるのだと寛太はこの時初めて知った。  だが、悲鳴を上げられたというのに岩瀬は全く動じていない。それどころか、 「そして、できればそのおみ足を舐めさせてください」  狂ったオペラがなおも続く。もう岩瀬が何を言っているのか寛太には理解できない。おみ足? 舐めさせて? は、は、は。脳が理解を拒絶している。一方で寛太の気持ちは際限なく滅入っていく。  なぜなら岩瀬は寛太の合わせ鏡だからだ。この二日間で二人の変態に迫られた杏子への同情もさることながら、その変態の内の一人が自分であるという事実が、寛太の精神を底なし沼へと引きずり込んでいく。  その時、突然岩瀬が杏子に額づいた。それはまるで杏子に土下座しているよう。本当におみ足を舐めようとしているのだ!  再び、今度は足を目指して接近を開始した魚の唇に、チアノーゼを起こしていた杏子の顔がみるみる血色を取り戻す。それは危機感が引き起こしたヘモグロビンの強制集合。危機回避の本能が血液を頭部に引き寄せている。 「てやんでぃ、馬鹿野郎ォオオッ!」  回避行動は罵声と峻烈なトウキックだった。 「おほぉおおッ!!」  額づいた岩瀬の側頭がサッカーボールのように蹴りぬかれた。岩瀬はしたたかに禿げた額を床に打ち付けたが、痛みにのたうつでもなく、むしろ喜んでいるかのような変な声をあげた。 「お前……あたい達の担任だろォがッ! つっはぁッ! テメェの生徒に何してくれてるんじゃあッ!」  怒れる女王は鞭のごとき言葉で担任を打ちすえる。それは至極当然の怒り。  杏子は三月の早生まれだ。つまり彼女はまだ一三歳。それに対して岩瀬は三五歳。干支が一周半してなお余りある。いくら格差婚が世間で認知されつつあるとはいえ、担任が教え子に、しかもクラス中の生徒の前で愛を告白するだなんて……そんな話が通って良いはずがない。 「愛の前に年齢なんて些細な問題だろう? 俺はこの気持ちを大切にしたい。好きな人に好きと言って何がいけない? その尊さがお前に分からないか?」  岩瀬の不動の精神は見上げたものだった。片膝を着いて立ち上がると、蛇のように杏子へにじり寄る。 「……なんてこった」  血を吐くように呟く寛太。雄平の事件とは比較にならない大事件が、今目の前で起きていた。  だが、いつまでもこうして見ている訳にはいかない。寛太は椅子を引いて立ち上がる。ふざけたオペラを止めるのだ。誰も動けないのならば自分が止めるしかない。 「バッカじゃねぇの、お前ッ! ほんとバッカじゃねぇの? キメェんだよッ! あたいはなぁ……あたいは……ふぇ、ふぇ、ふぇくちん」  顔に青筋を浮かべて啖呵を切った杏子が、その威勢の良い口上の途中に可愛らしいくしゃみを放った。岩瀬はそのくしゃみをアロマスチームでも浴びるかのように感じ入った顔で受ける。  直視に堪えないグロ映像だ。 「チッ。マジでドギメェ! あたいは……。あたいはなぁ……」  そう言って言い淀んだ杏子の声に、何故か艶のようなものを感じる寛太。 「――なに?」  その不自然さに寛太は思わず踏み出した足を止めた。 「あたいはなぁ……もっとガッチリムッチリした男がいいんだ――」 (――ガチムチ系……だと?)  自分が明らかにガチムチ系の男ではないということが引っかかった訳ではない(もちろんそれなりにショック)。もっと嫌な類いの予感が寛太の足を止めたのだ。  こんな衆人環視の中であの杏子が自分の好みの男性像を口にするだろうか? 一度として恋バナに加わってきた事のない、あの、杏子が? (まさかッ!) 「ねぇ〜ん、武藤(むとう)きゅわぁあん? あたいわぁ、あたいわぁ、あなたみたいなデブマッチョリが大好きなのぉん」  やっぱりだッ! 寛太は平手で額を打ち付ける。  理由は分からない。だが、狂気が伝染していた。  杏子は唐突に目をハート型に変えると(もちろん比喩だ)、窓際の一番後ろの席めがけて突進を開始した。その席には武藤がいる。ああ、そうか。武藤は確かにデブマッチョリと言う名のガチムチ系だ。と、いうより奈良の大仏だ。  杏子は仏門に降るつもりなのかッ! 「なにいッ」「まさか、杏子ちゃんが」「どうしちゃったのよ、杏ちゃんッ!」  一時停止ボタンを解除したかのように、静止していた教室が俄かに動き始めた。罵声に怒声に呻き声。蜂の巣を突いたような騒ぎが一斉に巻き起こる。  だが依然として観劇の主役は鈴原杏子、その人である。杏子は愛しい仏像に真横からダイビングアタックを繰り出して、武藤の太い首にまとわりついた。杏子の巨乳がぐいぐいと武藤に押しつけられる。寛太はあまりに羨ましい光景に立ちくらみを覚えて崩れ落ちた。  だが、そんな寛太の耳に、あり得ない言葉が飛び込んできた。 「やめろッ! 僕に巻きつくなッ! 僕はお前みたいな巨乳は好きじゃないッ! もっと貧乳の子が好きなんだッ!」   (……なん……だ、と?)  その言葉に、寛太のふくらはぎが力を取り戻す。大腿筋が怒声を上げて、折れかけた膝を支える。 「武藤ッ! 貴様、俺の巨乳を愚弄する気かッ!」  胃の底、寛太の芯から湧きおこった憤怒にかつてないスピードで両脚が動いた。  許すまじ、武藤ッ! その一念で寛太は光速を越える。 「ダメだッ、寛太君ッ! 行っちゃ駄目だぁああッ!」  だが、初速が乗り始めたところで横やりが入った。どん、という鈍い衝撃に寛太はなぎ倒される。 「お、お前……藤本ッ! 何だ、どうしたッ! 邪魔をするなッ!」 「駄目だよ寛太君、行っちゃだめだよ。行っちゃあ」  横抱きに寛太を押し倒したのは藤本だった。藤本は倒れた寛太に圧し掛かるようにして動きを封じてくる。 「そこをどけッ、藤本! アイツは俺の愛する美乳を馬鹿にしたッ! それは、俺自身が馬鹿にされたのも同じ事。今起たずしてどうするッ! 男が廃るってもんだろォオオッ! その手をを放せぇえええええッ!」  圧し掛かってくる藤本を押しのけようと暴れ、寛太は予想外に藤本の力が強い事に驚いた。自分よりも小さく、細いその体のどこにそんな力があったのか。捻じれども暴れども、まったく拘束が解けない。藤本は熱に浮かされた病人のような、やけに情熱的な目を寛太にぶつけてくる。 「おいッ! 藤本っ――お……お?」  その時、不意にもぞりと何かが下腹を這う感触がした。 「お、おい……何してるんだ……藤本……」  何かの勘違いかと思った。冗談かと思った。驚きに目を見開いて藤本の顔を見る。 「今起たずしてどうするって? いいや、寛太君……それじゃあ遅いんだ。だって……僕はもう――勃っているのだからッ」  寛太の下腹部で蠢いていたもの……それは藤本の右手だった。 「なっ……」  そして寛太は、のぞき見た藤本の双眸にぞっと全身を粟立たせた。  藤本の糸目がさらに細まりほとんど真っ黒な弧を描いている。にへら、と愉悦に歪んだその顔もまるで仮面のよう。だがそこだけ妙に赤く染まった口元は粘液を纏って蠢き、寛太に命の危機すら感じさせた。  だが、それは命の危機などではなく、実に貞操の危機だった。  花魁(おいらん)のような淫靡な指使いが寛太の下半身に伸びる。流れるような器用な手つきであっという間にベルトとズボンのホックが外された。そして、自分以外の誰にも侵入を許した事の無い部位に向かって、藤本の右手がゆっくりと進んでいく。 「お、おまッ! 何してんだッ! ちょ、ちょっとそこは――アッ!」  焦らすような、その妖しい感触に思わず変な悲鳴が寛太の口を突いて出た。屈辱と恥じらいが交差して妙な気分に陥る寛太。何かが芽生えてしまいそうな、薔薇色の危機感が背筋を襲い始めていた。  藤本はそんな寛太の反応に満足したのか、べろりと予想外に肉厚な舌を出して唇を舐めた。そして、あはぁ、と生温かい溜め息を寛太の耳元に吹きかける。 (なんて……ことだ……)  寛太は尿意を我慢しているかのように、足をくねくねとさせながら絶句した。 (藤本も――狂っているッ! しかも、究極にマズイ方向にッ!) 「止めろッ! 何、血迷ってやがるッ! 俺達、男同士だろォがッ!」  寛太の本気の怒声に藤本の指がビクリと停止した。顔に浮かんだにへら笑いも姿を消し、神妙な顔になる。そして、反省するかのような口調で、だがとんでもない事を口にした。 「僕はねぇ、寛太君。君の事が好きだったんだ」 「おおおぉおお?」  首を傾(かし)げたくなる言動。傾げすぎて首がもげそうだ。 「僕はそのことにずっとずっと気付いて欲しかった」 「なにぃッ! おま、それ……本気で――まさか」  そして寛太はハッと体を硬直させた。そう言われてみれば、寛太にも思い当たる節があった。 『……寛太君は……杏子ちゃんの事が好きなの?』  思い出される藤本の言葉。  まるで寛太を射殺そうとでもするかのような鋭い視線。杏子に変な告白をしてしまった放課後に藤本が見せたあの目は、そういうことなのか? 「杏子なんかに寛太君は渡さない。愛は人種も国境も超える。だったら……性別も越えちゃって……いいよね?」 「よくねぇえええッ!」  藤本は寛太に嫉妬していた訳ではなかったのだ。寛太の告白を受けた杏子にこそ嫉妬していたのだッ!  ちちちちち、と藤本の腕の動きに釣られてズボンのファスナーが落ちて行く。それは言語を絶する領域に藤本の右手が侵入した証だった。  だがそれをむざむざ許す寛太では無い。裂帛の気合とともに右膝を打ちあげる。 「あひゃあッ!」  ぐにゃり、と嫌な感触が膝の皿に伝わり、同時に藤本が悲鳴を上げた。Y染色体を持った者にとっての最大の急所を寛太が突き上げたのである。  藤本は股間を押さえてもんどり打っている。股間の暗器を抜刀したツケは大きくついたようだった。 「すまんな藤本ッ!」  だがそれで、ようやく藤本の戒めが解けた。秘密の花園に侵入しようとしていた魔手も今では自らのバラ庭園の補修作業に必死だった。  寛太はのたうつ藤本を押しのけ、這うようにしてそこから逃げ出そうとする。  だが、そのとき。  ――がしッ。  その肩が掴まれた。 「これはかえって好都合……逃がさないよ――寛太君」  振り返るとそこには鬼気迫る藤本の顔があった。金的攻撃が好都合とは、一体どんな都合なのか。  脂汗を流し、苦悶に眉を歪めながらも、藤本の目はますます狂熱に燃え始めている。 「ひぃいいいっ」  乙女の様なか弱い悲鳴が寛太の喉から絞り出された。もう駄目かも知れない。そんな言葉が脳裏をよぎる。寛太はぎゅっと両目を閉じて神に祈った。  ゴンッ!  すると、不意に鈍い音が鼓膜を揺るがした。と、同時に肩を掴んだ藤本の手から力が抜けて行く。 (……なんだ?)  恐る恐る目を開ける寛太。すると目の前で藤本が白目を剥いていた。  寛太は肩に置かれた藤本の手を払いながら顔を上げた。  そして見た。 「お、お、」  未だかつて、これほどまでこの男が頼もしく見えたことは無かった。 「大丈夫か、寛太」  あまりの凛々しさに涙が滲む。後ろ髪をやたらに伸ばした八十年代のマレットヘアーがこんなにも格好良いとは。 「雄平ィィイイッ!」  そこには雄平が何かを投擲した姿のまま佇んでいた。ふと見れば、机の足下にいかにも重たそうなバスケットボールが転がっている。 「たまたま俺がバスケットボールを持っていて良かったな……。ふふ、バスケをする男子ほどモテる者はおらず、そしてそのために入念に準備しておいた俺に感謝するんだな――」 「そのキモさに乾杯だぁ、雄平ッ! これほどお前の執念・オブ・エロスに感謝した事は無い。ありがとうありがとうッ!」  雄平は寛太の罵倒とも感謝とも取れる言葉に、だが夏の空のような爽快な笑顔を見せて寛太を助け起こしてくれた。 「まさか藤本がハードゲイだったとはな……驚いたぜ」  そして昏倒した藤本の枕元に立つと、雄平はかぶりを振ってそう言った。 「藤本よ……安らかに眠れ……」 「お、おいおい、勝手に殺してやるなよ。……生きてるよな? な?」 「さぁな。全力で投げたからな。案外死んでるんじゃね? ぶふふ」  無責任に笑う雄平に一抹の不安を覚える寛太。念のため、倒れた藤本の首筋に指を当てると藤本の頸動脈は力強く脈打っていた。 「大丈夫そうだ」  そして寛太は改めて怒号ひしめく教室内を見渡してみた。  ……まぁ、変だとは思っていた。 「ああん、三(みつ)成(なり)さまぁ。お慕い申しておりますぅ。どうしてあと四百年早く生まれなかったのかしら。そうすれば関ヶ原の合戦で……あなたをお守りして差し上げられたのにッ!」  藤本に襲われている自分を誰も気に留めないなんて。  だが、この惨状なら仕方がない。 「メガネッ! メガネをかけろォオオオッ! この世の全ての女性は須らくメガネをかけるべきであるッ! ふぉぉおおおおおおおッッ!」  誰もがみな自分の恋路に夢中なのだ。人の恋路を邪魔することほど無粋な物は無い。どうして寛太になど関わっていられようか。 「はい、あなたはウケェェエエエッ! はい、あなたはタチィィイイイッ! 早く脱いで、いいから脱ぎなさいッ! 打(ぶ)たれたいのッ?」 「いやぁ、すげぇな寛太。こりゃあ、世紀の大事件だぞ。こんな光景見たことねぇよ。ぶふふっ」  こんな状況でも笑っていられる雄平の神経が信じられなかった。 「縛って……早く縛って……誰か私を縛ってよォオオオッ!」 「そこに猫耳があれば……それだけでご飯十杯はイケるッ!」  それはまさに大惨事だった。    岩瀬の告白すらこの惨事の前には霞んでしまう。唖然として立ちつくす寛太の目の前には、およそ人の想像し得る求愛行動の全てが展開していた。  歴史の教科書にキスをする女、懐から零れんばかりに眼鏡を取り出しそれを強制的に装着させようとする男、男×男という禁じられた掛け算を挑む腐女子に、荒縄を振り回す女王、それに猫耳のついた少女のフィギュアを愛撫するAボーイ。 「……クレイジーだ。クレイジーな状況だぜ」  寛太は頬を引き攣らせながら一人ごちた。この世に生まれ落ちて十四年。これほど奇抜な光景は見たことが無い。  そこにいるほとんどの者が愛を叫んでいた。いつの間に、ここが世界の中心になってしまったのか。 「あ……」  だが、そんな愛の溢れる光景の中にガラスの破片が混じり込んでいた。それは、くさり、と傷つきやすい寛太の心に突き刺さる。 「寛太……」  寛太の見ているものに気がついた雄平が、そっと肩に手を置いてきた。 「元気を出せ、というのも無理があるかもしれない。だが、杏子の巨乳は全男子の憧れだった。それを失って悲しくない男などいない……そうだろ?」  寛太の視線にあったもの。  それは杏子の姿だった。  誰かに殴られたのか仰向けで失神している武藤の上に杏子が馬乗りになっている。そして、その豊満な胸をぎゅうぎゅうと武藤の顔に押し付けていた。 「……泣いても、良いんだぞ?」  雄平の優しい言葉が苦しい。油断したら本当に泣いてしまいそうだった。 「世の中って……どうしてこうもうまくいかないんだろうな?」  熱くなってきた目頭を隠すように、顔を逸らしながら寛太が呟く。 「ああん?」 「自分が好きになった分だけ、相手も自分を好きになってくれるような――そんな世界だったら良かったのに……」  だが、寛太の呟きは雄平によって、ぶふふ、と一笑に付される。 「ぶふっ、テメェはほんとに馬鹿だなッ! そんな世界、地獄絵図以外の何物でもないだろうが」 「なんでだよ?」  思わず口にしてしまった本心を笑われ、寛太は思わず反発する。 「手練手管を用いて落とすからこそ面白ぇんじゃねぇか。そんなイージーモードみたいな世界、俺は願い下げだぜってのッ! おい、こっち来んな」  どこから持ち出したのか、荒縄を片手にふらふらと自分の方に寄ってきた女子を手荒く押しのけて雄平が言った。  どこか格好つけている感のある雄平に、寛太は厭味の一つでも言ってやりたくなる。 「はッ! それじゃあお前は、絶対落ちない相手に徒労を繰り返すことになるな?」  なんせ雄平はロリコン野郎なのだ。手練手管を用いて落とすもクソも無い。落とした所で犯罪者である。  寛太の厭味に雄平が振り向いた。その顔に浮かんでいた表情はいつものにやけ顔ではなく、やけに真剣な色をだった。怖いほどだ。 「お前、俺の事舐めてんのか? だとしたら一つ大きな勘違いしてるぜ――」  いつもと違う威圧感を感じて寛太は黙り込む。雄平はそんな寛太を見て、しまった、という顔をした。そしてすぐにいつもの飄々としたにやけ顔に戻る。 「――さて、それよりもこの状況いったいどうしたもんかな? ここに残っていて正気なのは……どうやら俺とお前だけみたいだが……」  場の雰囲気を取り繕うようなその声に、寛太も乗った。これ以雄平の暗黒面(ダークサイド)を見たくない。  それに、優先すべき事はまずこちらだった。  教室を見渡してみても、着席している生徒は皆無。みんな席を立って思うがまま、愛を謳歌している。ひょっとしたら既にまともであった誰かがこの惨状を伝えに職員室へ走っているのかも知れないが、対藤本戦でいっぱいいっぱいだった寛太にそれを知るすべは無い。  どうしたもんだ、と男二人視線を交わし合ったその時、 「寛ちゃん大変ッ! 早くテレビをつけてッ!」  背中の方から聞きなれた声が寛太の耳に届いた。 「小枝子?」  振り返ると、教室の入り口のところに幼馴染の姿があった。 「お前、無事だったかッ! 良かった」 「丈夫なだけが取り柄だって言ったでしょっ。それより、早くテレビを。今臨時ニュースが流れてるのッ」 「お、おう……」  教室には天井近くに金具で設置された年代物のテレビデオがあった。滅多に点けられる事の無い代物だったが、放課後に教師のいない隙を見計らってのAV鑑賞に耽る猛者には大切な一品だった。  たまたま忘れ物を取りに教室に戻った寛太を教師の巡回と勘違いした猛者が、あわててリモコンを隠していたが――あれはどこだったか?  寛太は何度か肘鉄を食らいながら岩瀬の机を目指す。勝手に引き出しを開けプリントを除けていくと、 「あった!」  そこにリモコンがあった。急いで電源ボタンを押す。パチン、とモニターの点る鈍い音がした。 「大変なことになっていますッ! 駅前が、大変なことになっていますッ!」  画面が映る前に、緊張したアナウンサーの声が流れ始める。 「住民の集団発狂が確認されましたッ!」  そして――。じわじわと、水面に浮かび上がるようにして映り始めたテレビの映像に……寛太は完全に言葉を失った。 五 「今回の事件の元凶である病原体はレトロウイルスの一種であるということが判明した。便宜的にアガペーウイルスと名付けられたこの新種のウイルスは、罹患した人に精神異常を引き起こす……恐ろしいことにの」  白い長テーブルの上には三人の男女が座っていた。垢抜けた童顔の美女、宮地ちこアナウンサーと白髪の老人、そして悪人面した中年の男性だった。  聞きなれないウイルスの名前を口にしたのは白髪の老人だった。その老人の席には『青海理科大学教授 大坪豊』というネームプレートが置かれている。 (青海理科? すぐそこの大学じゃないか)  発祥地近傍という理由から選出されたのか、それとも本当にその筋の権威なのか寛太には分からなかった。 「具体的にはどういう事でしょうか?」  ちこたん、こと宮地ちこが可愛らしく首をかしげて問いかける。その様子は男子であれば誰しもが保護欲を抱かざるを得ない可憐なものだ。  白髪の大学教授も同様であった様子で、相好を崩し、そんな自分に気づいて慌てて表情を引き締め直していた。 「唐揚げいっただきーッ!」  今本ことみが寛太の皿からまたも鶏肉の唐揚げを奪っていく。だが、寛太を含め誰も反応しない。父、剛三も母、初江も食い入るようにしてリビングの液晶テレビを見つめている。ただことみだけが、もっちゃれもっちゃれと美味しそうに今本家の夕食を愉しんでいた。 「このウイルスに感染した人は自分が好意を抱く対象に直接的な愛情表現を示すようになるという事だの。ウイルスは中脳の腹側被蓋野、海馬、前頭葉といった人の感情を司る神経細胞に偏在的に寄生しその特定領域を活性化させる。と、いうのもこのウイルスは脳幹のセロトニンやバソプレシンといったホルモンを自己複製に必要としており、これが副次的に人の恋愛感情を惹起・強化しているからなのだが……」  分かるかね? と問いかけた老教授にちこたんは首をひねる。教授はその仕草にぐふぐふと笑った。  ことみを除く今本家の面々は誰も口を開かない。 「ねぇ、おみそ汁が冷めちゃうよ? みんな食べないの?」  その異様な様子にことみが親切心から言った。 「シッ!」  と、そこへ三者の叱責が重なった。むーっ、とことみがふくれっ面をするが今はそれどころではない。ここは無視の一手。大事な情報を聞き逃す訳にはいかないのだ。 「つまり、簡単に言うと『好きな人に好きと言ってしまうウイルス』ということでよろしいでしょうか?」  悪人面のメインキャスター、斎藤重雄が『してやったり顔』でにやついた。 「あ……ああ。まぁそう言ってもいいが……表現としては少しアレだの……」  対する教授は苦笑いだ。 「すみません教授、あの、実は私、ウイルスが原因という事を知らず、何の防備も無しに大平市に取材へ行ってしまったのですが――大丈夫でしょうか?」 「何ッ!」  心配顔で呟いたちこたんの言葉に寛太が思わず声を漏らす。 (なんてこった……ちこたんが大平市に来てたのか……)  愕然として頭を抱える寛太。  女神のように美しいあのちこたんを見逃した。一生の不覚ッ!  教授は不安そうなちこたんを労わるように微笑んで、優しく言葉を続ける。 「そうだの……まだ症例数が少ないので何とも言えないが――これまで寄せられた報告によると、このアガペーウイルスは三〇分〜二時間、遅くとも十二時間以内というごく短時間の内に発症すると言われておる。海馬のようにごく小さな器官が主な感染先であるから発症までの時間が短いのだろう。排菌期間もごく短時間で、症状が治まってから二時間後の喀痰中にはすでに生きたウイルスは確認できなかった……であるからして、おそらくちこたん……失礼、宮地さんは大丈夫だと思われるの」  そんなに短時間で発症して治るものなのか、と寛太は顔を上げた。テレビには愁眉を開いて微笑んでいるちこたんの姿がある。 「それは信じて良いんですね? 宮地さんが感染源となる可能性は無いんですね?」  空気の読めないメインキャスター斎藤重雄が女神と距離を置いたまま念入りに確認する。その思いやりの無い行動に、ちこたんが再び物憂い表情を見せた。  ぎり、と寛太の奥歯が軋む。どうしてこんな奴がメインキャスターを張っているのか。早速後で苦情のメールを送りつけてやる。 「そういう言い方は慎むべきだと思うがの?」  教授もそんな斎藤に不快感を覚えたのか、渋面を作って言った。 「今言ったように絶対とは言い切れないものの、まず宮地さんは大丈夫だろうの。しかし、もう東京でも数百人の発症者が確認されておる。マスクやうがいと言った感染予防行為は実施すべきであろうの。アガペーウイルスは気管の上皮細胞でも確認されとるで、感染(うつ)りたくない者は咳やくしゃみによる飛沫感染に注意が必要である。それに症状が出ていないだけで実際には感染している――いわゆる不顕性感染も確認されとるで、人混みでは恒常的なマスクの着用が無難だろうなぁ」 「ありがとうございます。アガペーウイルスの今後の流行予測などは立っているのでしょうか? その辺りはいかがでしょう、教授」 「ええ。残念ながら数万人単位で生じてしまった新規感染症の拡大を防ぐ事は困難と言わざるを得ないの。国民のほぼ全員が罹る病として、今後数年かけて全国へ広がって行くだろう」  思いがけない教授の発言に、会場を不穏なざわめきが満たした。  国民のほぼ全員が罹るだと? 日本中があんな病にかかったら――大パニックだ。国の機能が失われてしまう。  しかし、そんな観客の反応を待っていたかのように教授はにんまりと笑みを深くして言葉を継いだ。 「ただ、幸いなことにこのウイルスの毒性は非常に低い。通常ウイルスは増殖して細胞から出て行く際に、その宿主細胞を破壊してしまうが、このウイルスは何も危害を加えない。まるで上品なお客様のようにの。それが日本脳炎やインフルエンザ脳症などとは決定的に異なるところだ。脳という致命的な部分が侵されるにもかかわらず、まったく後遺症が無い――まさにアガペーという名にふさわしい、ある種愛すら感じる美しいウイルスだのぅ。ぐふふふ」  そう語る教授の目はどこか恍惚としていて気味が悪かった。  研究者はみんなこんなもんなのだろうか……。そんな事を思いながら唐揚げを食べようと手探りで皿を走査したが、箸は空を切るばかり。どういうことかと視線を食卓に戻すと、既に唐揚げは全てことみに食べられていた。  寛太ははぁ、とため息を吐く。 「いくら後遺症がないとはいえ、社会的な後遺症はすげぇよな……。このウイルスのせいで今日俺がどんな目にあったか……」  ビクンッ! 寛太の何気ない呟きに家族三人が体を硬直させた気がした。 「――ん? なんかあった?」  急にぎこちなくなった雰囲気を敏感に察知した寛太が誰にともなく問いかける。 「ほーほほほ。大したことは何もなかったわよ。あらどうしたの寛太。もう唐揚げ食べちゃったの? お母さんのを上げるからもっと食べなさい? どんどん食べなさい?」 「ん、んん……」  何だか雰囲気にしこりのようなもの感じる寛太だったが、メインのおかずのほとんどをことみに奪われて、全く満たされていない食欲を前にそれを追求する気力は無かった。これ幸いとばかりに唐揚げをもらってかっ食らう。 「ワクチンの開発の方はどうなっているんでしょうか?」 「開発は難しいだろうの」  テレビの中ではちこたんと教授の掛け合いが続いている。 「レトロウイルスは逆転写酵素で自分の遺伝子を複製する。しかしこの逆転写というのがひどく不正確なのだね。そのため多様な変異ウイルスが産生されてしまう……。同じレトロウイルスに属するエイズワクチンの精製が難しい理由の一つも実はここにあるんだよ。ちなみにアガペーウイルスの遺伝子変異率はインフルエンザウイルスの百〜千倍と推測されておる。インフルエンザでさえ型があっていないとワクチンの効果があまり望めないのだから、アガペーワクチンの精製がいかに難しいか、想像できるかの?」 「そうなんですか……。ではお薬はどうでしょう?」 「ええ。まだそちらの方が可能性としては高いのぉ。実際、抗HIV薬などは一定の効果があるという報告も聞かれておる。だがエイズが薬で完全に治らないように、アガペーウイルスの完治も不可能だの。それどころか安易な投薬は耐性ウイルスを蔓延させることにもなりかねず、厳に慎むべきだろうて」  つまり為す術がないということか。暗い未来の予感に会場も重苦しい沈黙に包まれる。だが、それを救ったのは、やはり女神たるちこたんだった。 「しかし、教授が言われたように、このウイルスが原因で亡くなる事はまずありません。視聴者の皆様もどうか落ち付いた行動を心がけてくださいね?」  そう言って笑ったちこたんに日本の治安は守られたと言っても過言ではないはずだ。先ほどまでの鬱屈した雰囲気が嘘のように払拭された。さすがは女神。そして我が嫁(予定)。 「それにしてもウイルスが人の考え方にまで影響を及ぼすなんて――私には少し信じられません。このようなウイルスは稀なものと考えてよろしいのでしょうか?」 「いや。実は、このように宿主の行動を変容させてしまう生物はかなりの数自然界に存在しておるんだよ。例えば……これを見ておくれ。これはカタツムリに寄生するロイコクロリディウムという寄生虫だ。これは――」  なんだか気持ちの悪い話になってきたので、寛太はテレビから視線を逸らして言った。 「チャンネル変えてもいいか? 食事中に聞く話じゃなさそうだし」  寛太がテレビのリモコンに手を伸ばすと、ことみがはっし、と先にリモコンを奪い去る。 「なんで? せっかく面白くなってきたのに。 変えさせないよっ! ほら見てっ。凄いよ。カタツムリの目玉がぎょろんぎょろんしてるっ!」  そんなことみの言葉に釣られて、うっかりテレビを見てしまい寛太はすぐに後悔した。カタツムリに寄生したなんとかという寄生虫が、事もあろうにカタツムリの目玉の中でぐちょぐちょと蠢いていた。こんなグロ映像を見てはしゃげる妹の神経が理解できない。子供とはそういうものなのか? いや、子供という括りでは全国の子供に失礼だ。ことみだからはしゃげるに違いない。 「ところで、今回のこの騒動……バイオテロの可能性もあるとのことですが――それについての意見はいかがでしょう」  少しばかり顔色の悪くなったちこたんが話を転換させる。ふむ、これが普通の反応だ、と寛太は心の中で大いに頷く。女性はかくあるべきなのだ。つまりことみは女ではない。男女(おとこおんな)という第三のジェンダーなのだ。  藤本と気が合いそうだな、と思いながら寛太はパリッとした唐揚げを咀嚼した。 「厚生労働省の見解ではその可能性も否定できないとのことであった。だがこの事件がバイオテロだとすると、犯行グループの意図が今一つ明確ではないの……いかんせん、発症したところで求愛活動の活性化という精神症状しか出ないものだから……ん? どうかしたかの? 斎藤さん?」  と、それまで流暢に舌を動かしていた教授がいきなり言葉を切った。異変を察知したカメラが教授の視線を追う。その先にはメインキャスターである斎藤の姿があった。斎藤は俯いて小刻みにぷるぷると体を震わせている。カメラがアップになり、たるんだ頬の揺れる様までもが見てとれる。 「……斎藤さん? どうかしたかの? 斎藤さん?」  おっとりした教授の声にも少し緊迫したものが混じった。 「……ぬ……ぬぬぬ……」  既視感(デジャヴ)、というのだろうか? その震えを見た途端、寛太は立ちくらみにも似た眩暈を覚える。  斎藤の様子には見覚えがあった。今日散々見たアレの前駆症状にそっくりだ。 「斎藤さん?」  恐る恐る近づくちこたん。だが近づいてはいけないのだ。寛太の脇がじっとりと湿り気を帯び始める。  駄目だ。駄目なんだ、ちこたん。  ちこたーんッ!   そんな、内心の寛太の叫びもむなしく――やはり事件は起こった。   「――ラブホテルへ行こうッ!」  前後の脈絡も何もない――いきなりの生殖活動のご提案。  斎藤は太陽の化身もかくや、といった最高の笑顔を浮かべてそう言った。  だが、その表情は斎藤が浮かべるには如何せん気持ち悪すぎる。とてもアップの耐えられる映像ではない。  しかし、そんな笑顔を向けられたにもかかわらず、ちこたんは子犬のように小首を傾げてきょとんとしていた。  そこに理解の色は浮かんでいない。まだ理解できていない。  だから斎藤も不満だったのだろう。  子供のように頬を膨らませて、 「――オナ……ホテルじゃないよ?」  また、とんでもない言葉を口にした。 「な、何言ってんだ……こいつは……」  つまんでいたプチトマトが寛太の箸から転げ落ちて逃げていく。  コンクリートでも流し込んだかのように、テレビの中が灰色に固まっていた。    ピーーーーーッ!  その直後、スピーカーがいきなり甲高い電子音を発した。  唐突に画面がブラックアウト。   ちゅんちゅんと雀の鳴くようなヒーリングメロディーが電子音にとって代わり、そして再び映し出された画面には久々に見る『しばらくお待ちください』の文字が――。 「ねぇねぇ! なに今のっ! オナホテルってなに? なになに?」  もちろんことみは突然の事件に大はしゃぎだ。食卓に身を乗り出して、なになにを連呼する。 「シッ! そんなことを大声で言うんじゃありませんッ!」  そんなことみに初江の顔色が変わる。 「大声で言っちゃいけないことなの? なんなの、ねぇ、なんなの?」 「し、知りません。そんなことッ!」  騒ぐ女二人を尻目に、寛太は諦めにも似た深い溜め息をつく。 「……こりゃあ日本も終わったな」  そう、ぼそりと呟いて夕御飯を再開させる。 「――なんとも不様だな。気合が足りぬからあのような低俗なウイルスにやられるのだ」  すると、ルネサンス期の彫像のように荘厳な居ずまいでテレビを眺めていた親父が珍しく言葉を発した。その意外さに思わず寛太が口を挟む。 「親父の所では大した騒ぎにならなかったのか? うちの学校ではアリ塚をぶっ壊したみたいな大騒動だったけど」 「――ぬ」  そうなのだ。結局助けを求めに行った職員室でも、描写し難いほどの大混乱だった。机はひっくり返り、採点済みのテスト用紙は乱舞し、卑猥な動画がプロジェクターで黒板に投射され、それを体育教師の国崎(くにさき)が鑑賞していた。  一緒に見ようと騒ぎ立てる国崎を一蹴して、逃げ込んだ校長室に隠れていたのが何故か教頭。禿げ頭を抱えながら為された緊急放送で学校は休校になった。そうして正常な意識を維持できていた者は逃げるように学校から去って行ったのだった。  そしてそれは妹の通う小学校でも似たようなものだったらしい。  同じ市内にある父の商社はそんな惨状を免れる事ができたのだろうか? 「――絹代(きぬよ)さん」  その時。  かちゃり、と箸を茶碗に置く音がして、ことみと争っていた母が何かを呟いた。先ほどまでの金切り声が嘘のように静まり返ったその声に、寛太は違和感を覚える。 「なんか言った、母さん?」  空耳か、と耳を疑い問い返す寛太。母の顔はそう勘違いしてもおかしくないほど何も映していない。完全な無表情だった。  だが、それが聞き違いでない証として、母の唇が全く同じ形で再度動く。 「絹代さん」  するとそれが人さえ殺す呪言であったかのように、親父の顔が目に見えて青白くなった。 「だれ、絹代って?」  寛太の胸に浮かんだ疑問をことみが代弁する。結果としてそれが母という火薬庫に着火する一抹の火花となった。  バン、と、叩き折らんばかりの勢いで、突然母が平手を食卓に打ち付けた。 「いっそ殺してぇえええッ! 私は人生を誤ったッ! 伴侶を誤ったッ! 全て無かった事にして新たな人生を歩ませてぇええッ!」  いきなり半狂乱となって雄たけびを上げる母。驚いた寛太は危うく手にしたグラスを落とすところだった。 「落ちつけ、初江ッ! 子供たちの前だぞッ!」  親父も両手を机に叩きつけ猛然と立ち上がる。だが、心なしかその気迫にいつもの凄味が無い。唇の端が変な形に歪み、むしろ狼狽しているような印象を受ける。 「これが落ちついて話せることッ? 自分の旦那がよその女に『鞭で打ってくれ』と哀願してたのよッ!」  ばっしゃーん。  寛太の指から今度こそグラスが落ちた。零れた牛乳が机を伝い絨毯の上に落下していくのを見守ることしかできない。  それくらいの衝撃。 「なにそのドMっぷり。結婚して一八年……あなたにそんな性癖があるなんて事、露ほども知らなかったわッ!」  寛太は母の咆哮に絶句する。 (――い、今、何と言った?)  右手で口元を強く押さえる。そうしなければ、寛太もまた奇声を発してしまいそうだった。 (鞭で打ってくれ……だ……と?)   それが事実ならば親父の築き上げてきた威厳や信頼が一瞬にして崩壊してしまう。 (そんなわけないよな、親父――)  一縷の望みをかけて、寛太は父の顔を見上げる。だが、そんな願いも虚しく、寛太の望みは直後に打ち砕かれた。  親父のヤクザのようなその強面が銃弾で撃たれたかのように苦痛に歪んでいた。いや、本物の銃弾の方がマシだったに違いない。眉間のしわが瀕死のミミズみたいにぴくぴくと蠢き断末魔を上げている。  真実――なの、か? 「馬鹿な事を言うな、初江ッ!」  論理的に反論する手段を持たない人間は、怒声を上げることしかできない。 「荒唐無稽も甚だしいッ! 私がそんな事をする訳なかろうがッ!」  しかもそれは空虚な怒り、誤魔化すための怒り。  だから迫力がない。怯えた犬が震えながらきゃんきゃんと吠えるのに良く似ていた。 「シッダウンッ!」  仁王立ちになった母がいきなりアメリカンな言葉を発する。  あまりの仕打ちに母までもが常軌を逸したのか?   だが、その言葉に父が反応した! 「イエス、マイゴッデスッ……し、しまッ」  ……た、という言葉は喉の奥に飲み込まれる。  ――――。  なんだこれは。  なんなんだこれは。  見開きすぎた瞼から目玉が零れ落ちてしまいそうだった。    条・件・反・射かよッ!   一体、いつもどんなプレイしてるんだよッ! オヤジィッ!    見るに堪えないという言葉がこの時の親父ほど当てはまる場合もない。眉間にいた瀕死のミミズが分裂しながら父の顔中に拡がっていく。  ――父は今、死に瀕していた。  対する母は修羅の顔。地獄の鬼すら逃げ出しそうな憤怒の形相に、寛太の膀胱括約筋が悲鳴を上げる。油断するとチビッてしまいそうだった。股間に手を当て、気持ちを落ち着かせる。 「どういうことッ! あなたッ!」 「はいッ!」  背中に棒でも突っ込まれたかのように親父が直立不動の姿勢を取った。 「返事ばかりしてないで、何とか言ったらどうッ!」 「はおッ!」    ……はお?  寛太の胸にまた違和感が生じた。  怒られているにしては妙に気持ちよさげなその返答。  そして、寛太の柔軟な頭脳は一瞬にしてその答えに到達する。  ――まさか、親父……。    寛太は父の顔を覗き見る。  そして信じたくなかった光景を目の当たりにした。  親父……あんた……。  しまりなく緩んだ父の顔と見た瞬間、寛太の中で父は死んだ。    なんて事だッ!  この状況すら快感に転嫁していやがるッ!    寛太は呆れかえってのけ反るあまり背骨が折れそうだった。だが、真性のドMならあり得る事だ。親父の双眸はさらなる罵倒を催促しているかのように、期待に輝いていた。 「その姿を目にするさえもはや耐え難い。その名前を口にするさえもはや汚らわしい。今後あなたは犬よ。私達に尽くすだけが目的の畜生になりなさいッ!」 「ひゃぃいッ!」  母の怒号に、親父は蝋燭でも垂らされたかのような悲鳴を上げてびくんと体を震わせた。寛太はもう父の顔を見ないことにする。これ以上自分の父親が壊れて行く姿を見たくなかった。だが、見なくても、そこに浮かんでいる表情がどのようなものか分かってしまうのが悲しかった。 「クレイジーだぜ……」  寛太の中で、畏怖の対象だった威厳溢れる父は、この時……犬に堕ちた。  だが、そのとき、 「なんだ、その程度か」  ことみがタコの形に切り込みの入ったウィンナーを摘まみながら、まさに、犬も食わない夫婦喧嘩を鼻で笑った。 「その程度って……お前……ッ!」  寛太は悪魔を見るかのような目で実妹を見た。『これ』が『その程度』なら、いったいどれがどの程度なんだッ!  だがことみは寛太の視線なぞどこ吹く風。台風のような晩餐においてことみだけが何食わぬ顔で日常を続行している。 「Sっぽい男はたいていドMってのが世の相場でしょ?」  ずずずーっと旨そうな音を立ててみそ汁を吸い込むことみ。寛太は妹の事が完全に分からなくなった。 「むしろお母さんの方が凄いわ。いくらジョン・ドン・ゴンに似てるからって諸里(もろさと)さんにサランヘヨーって……ぷっ」  そして、桃色の唇から鶏肉が挟まった前歯を覗かせて、ことみはとんでもないことを口にした。 「あ、あなた――何でそれを……」  ことみのターン! そんな幻聴が寛太の頭蓋に反響する。  ことみはカードを切るような鋭利さで母の絶句を切り裂いていく。 「諸里(もろさと)鮮魚店(せんぎょてん)でしょ? だってあそこの娘の真由美(まゆみ)と同じクラスだもん。すぐにメールで教えてくれたよ、ほら。これ見て、写メまであるよ」  そう言ってことみが取り出した携帯を、寛太は視線でディスプレイを壊せそうなほど見つめる。  そこには黒いビニルの前掛けを着け、水道のホースを握った男が立っていた。男の背後には確かに諸里鮮魚店という看板が見える。どう見ても諸里鮮魚店の店主である。  そして、そんな店主の顔には困ったような笑みが浮かんでいた。  なぜ困っているのか……それもまた一目瞭然だった。  店の前で一人の中年女性が花束を持って傅(かしず)いていたからだ。  中年女性は悲劇を演じる女優のように身を絞って何かを叫んでいる。  その姿には明らかな自己陶酔があった。  そして、ここが一番重要なのだが――その中年女性には……どうしようもないほど見覚えがあった。  その人物は――。 「はい、お前の携帯没収ゥウウウッ! ボッシュゥウトォオオオッ!」  めきゃり。 「ああああッ!」  不穏な音が響いて、ぱらぱらと金属片が八宝菜の上に舞い落ちる。  八宝菜の金属和えの出来上がりだった。 「あああっ、私の携帯。私の携帯がぁあああっ」 「デレッテレッテー。うふふふふ」  不穏なメロディーと共にスーパー某(なにがし)君が地獄へと沈んで行った。  それは、ボッシュウトとは名ばかりの破壊。  見る間にことみの目が充血していく。盛り上がった雫は今にも表面張力を破って目じりから零れ落ちそうだった。 「だから私はことみにはまだ携帯は早いって言ったのよ……ねぇ、お父さん?」  有無を言わせぬ口調で剛三に同意を求める初江。  戦慄という言葉の意味をこれほど実感したのは生まれて初めてだった。 「ザッツライッ! マイゴッデスッ!」  せっかく犬から『お父さん』に昇格を果たしたにもかかわらず、父は犬の返事を返す。  もう、どうしようもない。この父の血が自分にも流れていると思うと怖気立つ。今度献血で半分くらい抜いてもらおう。 「なによなによっ! ひどいっ。みんな自分が悪いんじゃないっ! 自分が変態なくせして、それで変態って言われて、ことみの携帯を壊すだなんて。……筋が違うでしょっ! 怒るなら自分に怒りなさいよっ! ひどい、ひどいぃい」  ことみの言葉はここにいる誰よりも真っ直ぐな筋が通っていた。  言いながら、妹の瞳からは、ぽた、ぽたと大粒の涙が零れ始める。それはすでに冷めてしまった白飯の上に吸い込まれ、儚く消えた。  兄心としてもこれは確かに少し可哀そうだった。 「母さん……さすがにこれは……ちょっとやりすぎじゃ……」  だが、口にしかけた擁護の台詞はまたも無残に断ち切られた。 「ゴムゴムのち……ん」 「はぁ?」  寛太の耳は母の言葉を捉えきれない。だが、ひどく歪な言葉を発した気がする。この話の流れ上、絶対に出るはずの無い――そして母として口にすべき事ではないような……。  だが、その言葉にことみの嗚咽がピタリと止まった。 「ワンピース」  母の奇怪言動は続く。  ワンピースがどうしたというのか? 冬場に着るには少し寒いだろうに。  ことみの顔からみるみる血の気が引いて行く。その様子は親子そっくりだった。 「ゴムゴムのちん……」 「わーわーわーわーわーぁああああッ!」  そして、いきなりことみが絶叫した。 「なんだ、ことみっ! 突然どうした?」 「うわあぁああっ、いや何でもないの、お兄ちゃん。何でもない何でもない!」 「何でもなくはないだろう。何にもしてないのに携帯ぶっ壊されて……なぁ、母さん。母さんも少しはやり過ぎたと思ってるんだろ?」  母は何も答えない。ただ、ぬまぁ、と糸を引きそうな顔で笑っているだけだ。  そんな母の不気味な微笑に、ことみが命の危機とばかりに声を張り上げる。 「だからいーって言ってるでしょっ! ぅああああっ。ごめんなさい、お母さん。私が悪かったですっ。もう携帯なんて要りません。そうですよね、あんなもの子供に持たせたら危ないですよね?」 「お、おいお前、何言ってんだ?」 「いいのっ! もういいからお兄ちゃんは黙っててッ!」 「だってお前、あんなに欲しがってたじゃないか? 身の安全のためだとか、円滑なコミュニケーションのためだとか、画用紙に絵を描いてプレゼンテーションまでして――」 「黙ってろッっつってんだよッ! クソ兄貴ッ!」  ――な。  恩を仇で返すようなことみの暴言に、寛太は表情を失った。  ゆっくりと瞼を閉じる。そして、絞り出すかのように大きな吐息を吐いた。 「……そうかよ」  せっかく助けてやろうと思えばこれだ。クソ呼ばわりされてまで助けてやる義理など毛頭ない。  寛太は、ったくふざけんな、と言い捨て、冷めてかぴかぴになったご飯に箸を突っ込んだ。 「……もう、この話は終わりにしましょう? 寛太も色々あったでしょう? そう――乳首とか……」 「ぐぼっ」  嚥下しようとしていた米粒が気管になだれ込んだ。  げーほげほげほげほッ! 盛大にむせ込む寛太。だが、家族の誰もがノーリアクション。下手に何かを口にすればいつ餌食になるか分からなかったからだ。  それは初江にとっても同じことだったらしい。景気の良かった初江の口も、それ以降は咀嚼以外の運動を停止した。  かちゃかちゃと茶器の鳴る音だけがやけに大きく響き渡る。  家族全員が沈黙した。 「ぴ、ぴぴッ。ビー……」  そんな食卓に音が戻る。それはリビングのテレビが奏でた電子音だった。 「先ほどはお見苦しい映像が流れてしまい、申し訳ありませんでした」  マイクのテスト中のような電子音に続いて鈴の鳴るようなちこたんの声が流れた。 「それでは、ニュースを続けます――」     六  アガペーウイルスによる騒動が報道されてから、三週間が経過した。  騒ぎは鎮火するどころかますますその激しさを増し、世界はパニック状態に陥っていた。  好きな人に好きと言ってしまうという、ある種自爆テロのような危険性を伴うこのウイルスは、生命には別状ないものの人々の恐怖心を煽るには十分だった。  特にそういった戒律の厳しいイスラム圏では『悪魔のウイルス』という蔑称まで付けられていた。  WHOはすぐさまアガペーウイルスを、感染症としては二番目に重篤な二類感染症に指定。日本に対する渡航禁止処置など厳格な対応が取られた。  しかし、比較的速やかに感染拡大防止処置が取られたにもかかわらず、感染者は世界へと拡大。ものの一週間でアメリカ、中国、イギリス、エジプト等で新規感染者が報告され、その数も増加の一途を辿っているらしい。  最近ではもはや成す術もないといった諦めに近い雰囲気が流れ始めている。  少なくとも、アガペーウイルス発祥の地という不名誉な冠を頂くことになった、ここ大平市ではそうだった。  そんな十一月の下旬。  十二月を間近に控え、学校へ向かう学生の姿も、マフラーに手袋という冬の装いが多くなってきた月曜日。 「ごめーん、寛ちゃん。待った?」  いつもの待ち合わせ場所に現れた小枝子も、冬の出で立ちになっていた。真っ白な毛糸のマフラーに、これまた真っ白な手袋。そしてこれまた白いファーの耳あてを付けているものだから、ぱっと見、うさぎのような印象を受ける。 「あったかそうだな、それ」  寛太は小枝子の耳当てを指差して言った。 「うん、あったかいよ〜。貸してあげよっか?」  小枝子は悪戯っぽい微笑を浮かべて、えへへと笑う。  寛太は自分のしている三年物のマフラーと、薄汚れた茶色の革手袋を見てからゆっくりと首を振った。この成りで白い耳当てを付けたら完全に頭のおかしな人と思われる。  せっかくの善意を断られた小枝子は、あったかいのに、と少しだけ唇を尖らせた。そういうのを好意の押し付けというのだと、寛太は笑って返す。 「そういえば、お前結局アガペーに罹らなかったんだって? ほんと丈夫なのな。羨ましいぜ、あんな恥ずかしい目に遭わずに済んで」 「うん、お豆腐を毎日三丁も食べてるからね」  豆腐と免疫力の相関関係がどれほどのものか知らないが、少なくとも小枝子の場合は、生来の逞しさ由来に違いない。  冬が近づき、どこかムチムチと丸みを帯び始めた気がする小枝子の腰回りを見ながら、寛太はそんな事を考えた。 「っていうか豆腐三丁って……まさかお前一人で毎日三丁も食べてるのか?」 「うん。家族全員毎日豆腐三昧なの〜。一人三丁がノルマなんだぁ。えへへ。羨ましいでしょ?」 「い……や……毎日三丁はきついな……」  寛太は正直なところを口にする。確かに寛太も豆腐は嫌いではないが、何事にも限度というものがある。  と、そこで寛太の頭にふと思い出されることがあった。 「むしろ、在庫余りすぎじゃね? そんなに自分達で豆腐を処理しなきゃならないほど売れてないのか?」  それを尋ねるために、当たり障りのない話題から切り込むことにする。  だが、冗談めかして言ったそれすらあまり触れて欲しくない話題だったらしい。小枝子の表情がにわかに曇り始めた。 「うん、あんまり良くないみたい……でも、それで私が健康に暮らせているんだから良いじゃない? ね? えへへ〜」  誤魔化すような笑い声もぎこちない。  だが、寛太はこの機を逃したらもう尋ねるチャンスはないと判断して、核心の質問を投げかけた。 「哲郎(てつろう)おじさんは大丈夫か?」  この間、学校から家に帰る途中で見てしまったのだった。JAバンクのATMから青い顔をして飛び出してきた小枝子の父を。哲郎は自動扉が開くのももどかしいといった感じで、そのままJAの店内に走りこみ、番号待ちの人も無視して係員に喰ってかかっていたのだ。明らかに、ただ事ではない様子だった。 「別に〜。お父さんはいつもの通りだよ〜」  小枝子はそう言ったが、寛太の目は小枝子の右手がそわそわと左の二の腕を擦っているのを見逃してはいなかった。  それは幼馴染の寛太だからこそ分かる、小枝子が嘘をつく時の癖だった。  だが寛太は、ならいいんだ、と答えてそれ以上追及するのをやめた。  小枝子が助けを求めているならいざ知らず、求められてもいないのに人の家のことに首を突っ込む行為は褒められたものではない。しかも相手が嫌がっているのだから、なおさらだった。  寛太は話題を変えることにした。 「でも、もしお前がアガペーに罹ってたら誰にどんな告白してたのか、少し興味があったな。ひょっとして――俺に告白してきたりして、なんてな?」  小枝子も笑う事を期待してだははーと軽快に笑ってみた寛太だったが、予想していた笑い声が返ってこない。思いのほか根の深い悩みなのかと横を見ると、小枝子は頬を白いマフラーに埋めるようにして俯いていた。心無しその頬が赤い。 「なんて……な?」  マフラーが白いせいで、余計に小枝子の頬がピンク色に見える。口に入れたらイチゴ大福のように甘酸っぱい味がするに違いない――そんな妄想を抱かせる頬だった。 「や……やぁだぁっ。寛ちゃんったらぁ!」  突然小枝子が大声を出して両腕を振り回した。うお、と言って寛太は飛び退る。 「も、もちろんだよ。わ、私は寛ちゃんみたいなエッチな男の子はお断りだよ。私は、私は――そう、そうね。もっと頭が良くてスポーツもできる男の子がいいの。たとえばほら、うーんとあの、野球部の木村君みたいな……」  寛太の背中をパンパンと叩きながらそんな事を言い出す小枝子。話題を変えるために口にしたとはいえ、女子の口から自分より違う男がいいと言われるのはあまり良い気分ではない。畜生め、と毒づいて寛太も言い返してやる。 「そりゃそうだよな。俺だってお前みたいに野暮ったい女はお断りだぜ。やっぱり、女は巨乳じゃなきゃな。どうだ? 一回木村に告ってみたらどうだ? 案外お前みたいな奴がタイプかも知れないぞ?」  だが、そう言った途端小枝子がハッとして顔を上げた。先ほどまでの柔らかさは失せ、強張った表情をしている。その顔に、ずきん、と胸が痛んだが、一度吐いた唾は飲み込めない。それにこれは小枝子が振った喧嘩である。 「やっぱり? だよねぇ。私もまだ捨てたものじゃないかしら? 案外ころりとOKがでちゃったりするかも? かも?」  だが、強張った表情とは裏腹に小枝子の口から発せられた言葉は、軽薄な冗談に満ちていた。 「おう、行ってこい。そして砕けてこい。骨くらいは拾ってやる」  ここでうろたえたら負け、と言わんばかりに寛太も軽薄に返す。 「何で失敗前提なの〜?」 「そりゃあそうだろう?」  あはははは。そう言って二人は笑い合ったが、その声は二人ともどこか虚ろだった。  その証拠に、その笑い声は朝もやに吸い込まれるようにして唐突に消えてしまう。  寛太はずしんと胃に落ちる不快感を感じていた。小枝子と二人でいる時には、久しく感じた事の無いこの気分。まるで脂っこいものをたらふく食べて、すぐ寝てしまった後の朝のような何とも嫌な気分だった。 「まぁ、変な男に引っかかるよりはいいか……」  自分を慰めるようなそんな言葉が出てきたのは何故だろう?  電線の上でぴちゅぴちゅと鳴くつがいの雀が、ひどく疎ましく感じられる。 「なんか言った? 寛ちゃん」  そんな独り言を小枝子に聞かれていた。 「いや、お前が変な男と付き合ったりするよりは、木村の方が良いかななぁなんて思ったり」 「なにお父さんみたいなこと言ってんのよ?」  怒ったように唇を尖らして小枝子が噛みついてくる。案外本気で怒っているのかもしれない。 「いや、今の世の中何があるか分からんぜ。ストーカーじみた男とか暴力を振るう男とかさぁ……。ほら、お前ってなんか被虐体質じゃん? 忍び難きを忍び〜耐え難きを耐え〜、みたいな。ただでさえお前はぼーっとしてて危なっかしいんだ。気をつけろよ」  そう、何気なく呟いた寛太の言葉に小枝子は再び顔を緊張させる。  今の言葉のどこに小枝子を緊張させるところがあったのか。訝しげな視線を投げかけると、小枝子はいきなり満面の笑顔を浮かべた。 「うん、気をつける。だから寛ちゃんも――よろしくね?」  そう言って小枝子は真っ白な手袋に包まれた右手を差し出してきた。  自分のどの台詞が小枝子を微笑ませたのか全く分からない。 「おう」  求められたようなので寛太も右手を差し出す。その手を小枝子がぎゅっと握りしめてきた。お互い手袋越しだというのに、なんだか小枝子の温もりが伝わってくるようだった。   「ぶぇーっくしょん」  先ほどまでは気持ち良かった朝日も、空席の目立つ教室ではどこか白々しい。うすら寒さに寛太は思わずくしゃみをしてしまう。  宿題を写させてもらおうと奔走する男子も、おしゃべりの輪の直径を広げる女子もいない。それがまた教室の熱量の乏しさを強調していた。 「なんだい、寛太君。風邪かね? それともまたアガペーかね? 真っ先に罹ったというのにまた罹るとは物好きだねぇ、君も。ぶふふふ」  そんな空虚な教室を横切って、暑苦しい雄平が近づいてきた。 「うるせぇこのロリコン野郎。ただ鼻がむずついただけだ」 「ぶふふ、言ってろ?」  教室は既に学級閉鎖の一歩手前だった。欠席者の男女比を言えば、二対三程度の割合で男より女子の方がたくさん休んでいる。やはり社会的体裁を気にする人間には女子の方が多いのだろう。  そして、欠勤者が多いのは教師の方も同じだった。岩瀬、渡辺、奥谷、鈴木、松谷、それに校長――寛太が知っている限りでもそれだけの教師がここ一週間出勤してきていない。  それもこれも、アガペーウイルスが原因である。  罹患することが怖くて休んでいるのが半数、恥ずかしい行動をとってしまったため顔を合わせられないのが半数。  一日で治ってしまう病であるにも関わらず、こんなにも欠席者が多いのはそういう理由だった。  もちろん、恥ずかしい行動をとったにも関わらず登校してくる生徒の方が多い。その程度で休んでいては厳しい世間の荒波を越えていくことなど出来やしないのである。 「おっ、藤本が来たぜ。おーい藤本ぉ、おっはよぉ」 「おい、止めろって」  人目を避けるようにこそこそと教室に入ってきた藤本を、雄平が呼んだ。  藤本がその声に気付きこちらを見る。だがすぐ目線を逸らしてしまう。寛太も気まずさに顔を背ける。あれから三週間近く、寛太は藤本と口を利いていない。 「いい加減仲直りしようぜぇ。寛太も寂しがってるぞぉ」  雄平がニヤニヤと笑いながら手をこまねいた。 「……お前、完全に楽しんでるだろ?」 「ああ、もちろんだよ、寛太。こんなに楽しい事は初めてだよ。ぶふふ」  だが、いつものように無視するものだとばかり思っていた藤本が、なんとこちらに向きを変えた。まっすぐ前を向いて一直線に歩いてくる。寛太は動揺のあまり椅子からずり落ちそうになった。 (馬鹿、一体何焦ってるんだ、俺ッ! 相手は藤本だぞ、男だぞ。いつも通り接すればいいんだッ! いつも通り……いつも通り……)  だが、そう言い聞かせても頻脈は収まらない。まるで好きな男に告白された乙女のように、とくとくと軽やかなビートを刻むマイハート。手のひらの汗腺もスプリンクラーのように絶賛放水中だった。  そして緊張は藤本が目の前に立った時点で最高潮に達した。 「やーッ! おはよう、藤本。元気だったかーいッ?」  何か話さなければ、という切迫感に声が裏返ってしまった。これではまるで陽気な外人だ。うぷぷ、と雄平の笑う姿が目の端に映る。コイツ――後で必ず殺す。 「寛太君……」  藤本は寛太に挨拶を返すでもなく、神妙な顔つきで真正面から目を射抜いてくる。火傷しそうな視線だ。  だが、その視線に乗せられた思いを寛太は受け止める事が出来ない。だから勝手に目が泳いでしまう。そして泳いだ先では雄平が笑っているもんだから非常に気分が悪い。 「君に対するこの思いを恥じる気持ちは、もう僕には無い。例えそれが君に伝わらなくても、それはそれで構わない」  藤本がいきなり凛とした声で宣言した。言葉の内容もさることながら、堂々としたその口調に思わずそちらを向いてしまう。  藤本と目が合った。  藤本の方も寛太と同じく明らかに緊張していた。力を込めるあまりぴくぴくとこめかみが痙攣しているのが分かる。  部外者が見たら滑稽に映ったかもしれないその表情を、だが、寛太はとても一笑に付すことはできなかった。  置かれた立場としては素敵なレディの寛太。だが、真剣に向き合ってくる相手に対してふざけた態度で臨むのは、寛太の男としての信念に悖(もと)る行為だった。  だから寛太は覚悟を決めて真正面から藤本に向き直る。藤本はそんな寛太の姿勢に嬉しそうに微笑んだ。  すぅ、と藤本が息を吸い込む音が聞こえた。そして、 「寛太君……僕は――君のことが好きだ」  再び放たれた薔薇の告白。 「ぷー、くっくっく、ぐっガフぅ」  それを笑った雄平に、間髪いれず寛太は裏拳を叩きこんだ。雄平は蛙の潰れるような声を漏らして崩れ落ちる。  きっと、今の藤本の台詞はイケメンが素敵なレディを相手取り、きらびやかな夜景をバックに言えばよく映えただろう。  惜しむらくはそれがこの場で放たれた事だ。  ここにいるのは男子ウィズ男子改め皆男子。  しかも背景は寒々しい教室。まったくもって告白に適していない。状況も、台詞も、告白する相手の性別も、全てがちぐはぐだった。  だが、寛太はそんな藤本の告白を素晴らしいと思った。  自分がもし女だったら――という『もしも』が寛太の脳裏をよぎる。  この悲劇の根本的な原因は寛太と藤本が同性という一面に尽きる。とにかく寛太と藤本が異性でありさえすれば、自分と藤本の関係はこれを機に別の進展を見せたかもしれなかった。  だが、所詮イフはイフ。  現実には寛太は男で藤本も男だった。  そして寛太は完膚なきまでのヘテロセクシャルだった。    だが――。   「ありがとう、藤本。……お前のその可愛さに……今、初めて気づいたよ……」  身を振り絞るようにしてそう言い放つ寛太。そしてゆっくりと唇を柔らかくする。その笑みは聖母の様な慈愛に満ちている。 「お、おい寛太――どうしたお前……ま、まさか?」  蹲っていた雄平が異変を察知して声を上げた。告白した当の藤本もそうだ。まさかそんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。目尻が裂けそうなほど目を開き、だが、どう反応して良いか分からず、しきりに瞬きを繰り返している。討ち死に覚悟の告解が予想外の展開を見せたのだからそれも当然だ。  その時、不意に寛太の両腕が動いた。寛太は両腕を藤本の方に広げ、幼子を抱きしめるような仕草を見せる。  当惑する藤本。開いた口が塞がらない雄平。そんな雄平に対して寛太は、 「……何を驚いているんだ、雄平……。食わず嫌いはなんとやら――据え膳食わぬは男の恥だろう?」  その返答に、雄平の顔から生気が失われていく。 「じょ、冗談だよな? 寛太。やめろ、早まるんじゃねぇぞ! もう少し冷静に考えてみろ。いくら女に好かれないからって……おかしいだろ? お前達、男同士だぞ? 俺は……俺は……そんなお前を見たくないッ!」  土気色に変色していく雄平に対して、藤本の顔は桜色に染まって行く。寛太の答えを察知した藤本の瞳が、奇跡の涙に濡れそぼつ。 「いいやッ! もう俺の答えは出ているッ! 考えるまでもない」  寛太に右手が来いとばかりに、くい、と曲げられた。 「寛太君ッ! 君に、き……君に僕の愛が伝わったんだね?」  藤本が寛太の胸目がけて恐る恐る歩を踏み出す。はじめの一歩は躊躇いがちに、だが二歩目は確信に満ちて! 「そうだッ! 藤本ッ! ――俺も……お前を愛しているッ!」 「寛太君ッ! ああっ!」  そして藤本は、迷うことなく寛太の胸に飛び込んだ。 「共に衆道の華を咲かせようぞ、藤本!」 「うんッ、うんッ!」  お天道様も明るいうちから、ひしと抱きしめ合う男二人。 「俺は目覚めた。お前のピュアラブが俺の目を開かせてくれたんだ。開眼供養ここに至れりッ! 愛してる、愛してるぞぉ、藤本ォオオオッ!」  さぁぁぁああ、という音が響いた気がした。  それは波の引いていく音。だが、実際にはそんな音は存在せず、教室にいる生徒が聞いた幻の波の音にすぎない。  だが、そんな音が聞き取れるほどのドン引きだった。  教室にいた生徒たちは歴史的瞬間を目撃していた。それは一人の男が、自分の内に隠されたジェンダーを発見した瞬間。  その奇跡の一時に誰も口を挟む者などいない。誰しもが、ただ引いていた。 「マジかよ……」  もちろん雄平もその流れに逆らうことはできなかった。一歩二歩と禁じられた花園から後ずさる。 「お前も……ゲイだったのか……」  だが、そこで雄平は何かに気がついたようだった。腑に落ちないように首を捻る。 「ん? じゃあ、お前あれはなんだったんだ? 杏子の……」  だが、口にしかけたその言葉は響いてきた爆音に遮られる。だだだだ、と廊下の床を打ち鳴らして何者かが教室へ飛び込んできた。 「おい、寛太ッ! ってぇえええッ――! お、お前らなに男同士で抱き合ってるんだ、気持ち悪ぅ……」  それはたった今雄平の口の端に上った杏子だった。杏子は勢い込んで駆けつけたものの、そこで見つけてしまった凄惨な光景に上半身をのけぞらせる。 「気持ち悪いとは何事かッ! 愛はすべてのボーダーを飛び越える。ラブ・イズ・オール。オール・オブ・マイ・サンシャイン。サンシャイン・シックスティィィッ!」  意味の分からないことを叫ぶ寛太に、杏子が吼えた。 「適当な英単語並べてんじゃねぇぞ、このすっとこ野郎がッ! てめぇがそんなんだからなぁ、小枝子に変な虫が付くんだよォッ!」 「はぁ?」  何の脈絡もなく飛び出した幼馴染の名前に、常軌を逸し気味だった寛太が多少はまともな答えを返す。 「小枝子がどうかしたのか?」 「どうかしたのかじゃねぇよッ! 早くしねぇとマジで持ってかれちまうぜ。早く来いッ! オラ、とっとと来るんだよッ!」  嵐のように現れ、嵐のように去っていく杏子。寛太は朦朧とした意識のまま連れ去られて行くのであった。 七  子供の頃から小枝子は男の子と話をするのが苦手だった。  それはもう苦手というレベルを超えて恐怖していたと言ってもいい。  彼らは恐竜のような雄たけびを上げ、獣のように女子のスカートを捲り、悪戯と称して上履きを隠し、意味もなく髪の毛を引っ張る――。  それはもう恐ろしい存在だった。  彼らは、自分達女とは違う生命体なのではないかと思ったりもした。    だが、ある日。  小枝子はそんな異種族生命体の中に意志疎通が可能な存在がいる事を知る。    それは、隣の家の男の子だった。  男族なだけあって、言葉使いも目つきも雰囲気も荒々しかったが、隣の家という立地条件や家族ぐるみでの交流遍歴、集団登校で一緒に通う唯一の同級生ということもあって、少しだけ心を許していた。  そんな男の子が、 「んっ」  ぐいと何かを突きだしている。涙で曇った視界に紅葉のような輪郭が映り込む。  驚いて思わず顔を上げる小枝子。すると、そこには照れたようにそっぽを向いて、腕を差し伸ばした寛太の姿があった。  それは男の子の手のひらだった    小学校二年生になったばかりの春。  泣きじゃくりながら集団登校の集合場所に向かった朝。 「お父さんと喧嘩しちゃってねぇ」  困ったような声で班長に事情を伝える母。  そんなこと言わなくてもいいのに。そんな恥ずかしい事言わないでいいのに。  悔しさと恥ずかしさで、ますます涙が溢れた。  そんな小枝子に差し出された小さな手。  だが、小枝子は首を振ってそれを拒絶してしまう。  もう私は子供じゃない。おててを繋いでもらわなきゃ、泣き止めないような子供じゃない。 「んっ」  だが、涙を拭うのに忙しかったその右手を――寛太が強引に奪っていった。  驚いた。  恥ずかしかった。  でも、温かかった。  男の子の手は自分の手よりも少し小さかった。  だが、ぎゅっと握りしめてくるその力は強い。  いつも怯えていたその力強さに、なぜだかその時は安心した  気付けば、いつの間にか涙は止まっていた。  だが、涙は止まっても泣きはらした瞼のむくみまでは取れるものではない。  そんな顔を見られたくなかったので、隠しながらそっと隣を歩く寛太を覗き見る。   (あっ……)    そこには少しだけ頬を染め、きっと唇を引き結んだ少年の横顔があった。  そして、その横顔を見た途端、小枝子の心臓が跳ねた。  駆け足をした後みたいに心臓が激しく打ち始め、苦しいほどだった。  だがその疼きの正体が分からない。  小枝子は胸を押さえながら半歩前を行く寛太について行く。いつもの曲がり角を曲がり、三差路を進み、交差点に差し掛かる。  その時。  不意に寛太の歩き方がおかしい事に気が付いた。胸を車道側に広げ、まるで行き交う車を威嚇しているように見える。  ひょっとして。  胸の中でぽわっとタンポポが咲いた。  小枝子は感じた疑問を口にする。 「うん。だって車が来た時小枝子ちゃんが危ないでしょう?」  寛太は俯いたままの小枝子が車にぶつからないように見張っていてくれたのだ。  照れたように鼻の下を擦る少年。  そして、乳歯の抜けた穴だらけの口でにかっと笑ったのだった。  その瞬間に。 「え、えへへ……。ありがとう、寛ちゃん……」  ――小枝子は寛太に恋をしたのだった。    ませていたと思う。でも事実なのだから仕方がない。  桜吹雪の舞う小学二年の春。それが小枝子の初恋だった。  頷きながら告げた感謝の言葉に、幼い少女の目から涙が零れた。 「な、なんでまた泣いてるの?」  寛太は再び泣きだした小枝子に驚いて声をどもらせる。 「ううん、大丈夫。悲しくって泣いてるんじゃないの」  小枝子はそれが悲しみの涙ではない証拠に、うっすらと微笑んで繋いだ寛太の手を握りしめた。 「でも私……抜けてるから……もしまた私がぼーっとしちゃって危ない目に遭いそうだったら――今みたいに、また私を守ってくれる?」  どういう返事が返ってくるか、半ば分かっている質問。そして、 「うんっ! 任せといてっ」  寛太は力強く胸を叩いて、期待した通りの答えを返してくれた。  その笑顔に釣られるようにして小枝子の顔も満面の笑顔になる。お父さんに怒られた悲しみなどもはや露の欠片も残っていない。 「絶対だよ? 絶対、絶対だよ? 私がすとーかーに狙われたり、へんしつしゃに襲われたり、きもおたに絡まれたりした時も助けに来てよ?」 「え、え? なにそれ?」 「いいからっ、約束して」 「え、うん。……分かった。約束するよっ」  そして小枝子は、無邪気な子供だけが見せる事のできる幸福いっぱいの笑顔で、自分の鼻くらいまでの身長のしかない寛太に抱きついたのであった。  それは小枝子の記憶にある最古の約束。  そして何よりも神聖な約束だった。    その約束がある限り、寛太と自分は繋がっている気がした。  自分でも子供じみた考えだとは分かっている。  もちろん寛太はそんなこと忘れているだろう。  だが、小枝子は覚えている。  小枝子の寛太に対する思いは、桜の花が咲くたびに強くなっていった。  自分の方が勝っていた身長も十二歳の頃に抜かれた。可愛らしかった寛太の声色も、いつしか逞しい音階に変わり、肉付きにもはっきりと変化が出てきた。  だが、その心根までもが変わってしまった訳ではない事を小枝子は知っている。  母の日に花屋の前で人目を避けるようにしながらカーネーションを探していた寛太。  入院したクラスメートのために、十五キロも離れた市民病院へ自転車でお見舞いに行った寛太。  最初に泣いた奴、罰ゲームな? 何て言いながら、真っ先に卒業式で目頭を押さえた寛太。  背も高くなくて、頭も良くなくて、見た目もイマイチな寛太。  だが、情に深くて、一緒に居て楽しくて、なにより優しい少年。  そんな少年への恋心は中二に至って隠し通すのが難しいほどの域に達した。  今回の騒動でいっそ告白してしまえたら、なんて思ったりもしていた。  だがどんな神様の悪戯か小枝子はアガペーウイルスに罹らなかった。    ――そして。  神様は本当に悪戯好きだった。    小枝子の恋心は破綻した。  それは呆気ないほど唐突に……何の前触れも無く、しかも最低の形でやってきた。 八 「寛ちゃんっ!」  ガラガラとドアを開けて教室に入ってきた人物が、自分のよく知る幼馴染だと分かったその時は、冗談でも何でもなく本当に泣きそうになった。 「助けて、寛ちゃんッ! 何度断っても全然聞いてくれないのっ」  小枝子と寛太の視線が交差する。見慣れたその顔には憤怒のようなものが浮かんでいた。 「木村ァッ! テメェ――小枝子に何してんだッ!」  それだけで小枝子は落涙しそうになる。自分のことを心配してやってきてくれた。それがこんなにも嬉しい。  おおっとぉ本命の登場かぁ、と小枝子の周囲に群がっていた野次馬達が道を開けた。そのできたばかりの道をずんずんと寛太は突き進んでいく。 「何だと思う? 臆病者の君にはできなかったことさ」  ようやく小枝子の肩を掴んでいた男の手が離れた。男――木村(きむら)義(よし)孝(たか)は役者のように芝居がかった仕草で体を回し、歩み寄ってきた寛太に対峙する。 「なんだとぉッ!」  この学校に、木村の名前を知らない女子はいない。それくらいこの男は女子の間で人気があった。野球部なのに長髪で、ホストの様な甘い顔立ちをしているのに、背番号は一番。その上打順も四番である。おまけのように学業も優秀となると、それはもう笑い話にもならなかった。    そんな木村義孝に……小林小枝子が求愛されていた。  登校するときに寛太と交わした軽口が奇しくも現実となっていた。  熱に浮かされたような瞳で木村は寛太を見下ろしている。そしてそれは決して比喩ではない。実際に彼はある熱病に罹っていた。  恋の病、愛(アガペー)のウイルスに。  だが、アガペーウイルスは恋する自分の気持ちを正直に発露させるだけの効果しかない。つまり木村が小枝子を愛しているという言葉は彼の本心だ。  それが小枝子には信じられない。  そんなそぶりは全然なかった。振り返ってみても小枝子には思い至る点が何一つない。  そして今、小枝子は後悔の海に溺れていた。  なぜなら、そんな木村のことを『好みのタイプ』であると寛太に告げてしまっていたからだ。  実際の所は、木村は小枝子のタイプではない。むしろ木村とは正反対の男の子に惹かれているのだ。  何の因果かそんな正反対の男二人が教壇上で胸を突き合わせている。  そして二人を取り囲むように野次馬が群がっていた。  どこの世界でも恋愛の縺れは人々の興味を引くらしい。自分がその渦中にいると思うと小枝子は顔から火が出そうだった。  その時、突然木村が寛太を歓迎するかのように両手を広げた。 「僕はね、寛太君。小枝子さんを心の底から愛しているんだ。低劣な下心とは一線を画す……侍が主君に捧げるような崇高な感情を彼女に寄せているんだよ。僕は彼女のためならこの命さえ捧げる覚悟だ」  と、恐ろしいことを口にする木村。小枝子は身が縮みそうな勢いだった。 「はぁ? なに意味の分かんねェこと言ってんだよ。どう見たらお前が侍なんだ。ナルシスト入った世間知らずの王子様ってぇんなら分かるがな。ほらほら、早くお城に帰れ、お坊ちゃん」「ふふ。野卑なサルに人語は無用か。ならば僕の愛がいかに深いか、君にも分かるようにお見せしよう」  そう言うと、木村が突然小枝子の方を向いた。  にこ、と白い歯を見せて一度笑う。そして不意に片膝を着いた。  恭しく頭を垂れ……綺麗に櫛の通った頭が自分の足もとに近づいていく。 「や……いや、そんなこと、しないで――木村君」  小枝子は後ずさろうと身を捩ったが、腰が抜けて動けなかった。  おおお、というどよめきと、きゃぁあ、という悲鳴が沸き起こる。 「……変態か、テメェッ!」  接触は柔らかく、一瞬だった。  だが、衝撃は甚大だった。  木村が小枝子の上履きにそっと口づけをしたのである。  ばたん、と音がして最前列にいた女子が倒れた。それもそのはず、木村は校内にファンクラブがあるほどの男なのである。  衝撃から何とか立ち直り、謝るように振り返って見た寛太の表情は苦しげだった。  ルックスも成績も運動神経も何もかも人並み以上。そんな木村を相手に、幼馴染の少年はどう抗えばいいのか。  そもそも自分の為に抗ってくれるのか。  半ば気を失うようにして、苦渋に満ちた寛太の顔を眺めていると、そこに木村の姿が割り込んできた。  木村はにやりと不敵に唇を歪めると、苦しむ寛太を見て哄笑した。 「これを見てもなお挑むかね? 小枝子さんに対する君の愛が、僕の愛に敵うとは到底思えないが」 「そんなんで愛をはかるんじゃねェッ! それよりも……小枝子……お前は、どう……うっ……」  突然寛太の膝ががくんと落ちる。右手で頭を押さえて蹲る。 「だ、大丈夫寛ちゃん? どこか具合でも――」  寛太の様子が何かおかしい。小枝子は寛太の背を擦りながらその顔を覗き込む。 「俺のことはいいからッ……小枝子、お前は……お前の気持ちはどうなんだ……」  突然、背に置いていた腕を振り払われた。こんな乱暴な態度を寛太から受けるのは初めてだった。それに、どう思ってるか、なんて。 「どう思ってるか……って……」  口籠る小枝子。  煮え切らない小枝子の態度に寛太の唇が憎々しく歪む。   「違うの、寛ちゃんッ!」  寛太の顔が不快気に歪んだのを見た瞬間、小枝子は反射的にそう叫んでいた。  だが、何が違うと言うのか。現に小枝子は今朝、木村が良いと言ってしまっている。それを否定して――ではどうすればいいのか? 「……良かったじゃねぇか……」  額に脂汗を浮かべながら寛太が呟いた。その言葉に小枝子の体が石になる。 「……寛ちゃん?」 「お前の願ってた通りになったじゃねぇか、木村の事が好きなんだろ?」  思わぬ番狂わせに野次馬達から悲鳴が巻き起こった。おいおい、いいのかぁッ! 幼馴染が持って行かれちまうぜぇッ! 駄目よ、木村君っ、早まっちゃ駄目ッ! 興じる男子。乞い縋る女子。  そんな野次馬を寛太は、うるせぇッ! と一喝して黙らせた。 「違うッ! 寛ちゃんだって分かってるでしょ? 朝言ってたのはほんの冗談。木村君が私なんか好きになる訳ないじゃない。ウイルスのせいで混乱してるだけ――」 「僕は混乱なんかしていないよ、小枝子さん。ウイルスに罹って口が軽くなっているという実感はあるが、正気を失っている訳じゃない」  木村が割って入ってきた。確かに、アガペーウイルスによる精神障害にも程度があるという話は聞いていた。 「――だとさ」  冷笑する寛太。その凍てついた表情に、小枝子の背筋も凍りついていく。 「そんな……そんな……、でも――私は、本当は」  水を打ったように静まり返る教室。 (……こんな形で……)  小枝子にも理想があった。しかるべき時に、しかるべき形で、ちゃんと自分の思いを伝えたかった。  だが、今を逃せばその機会は永遠に訪れない予感がした。  それに、自分の言葉が冷え切った寛太の言葉を溶かすかもしれなかった。  だから、小枝子は、 「私は――」  万感の思いを込めて。 「私は……寛ちゃんの事が」  子供の頃から秘めていた想いを……。 「私は、寛ちゃんのことが好きなの……」  彼に告げた。  息を呑むような刹那の時が過ぎる。そして……。 「そうか、だが俺はお前が嫌いだ」  返された答えはあまりにも鋭利だった。  その口ぶりには一瞬の迷いも無い。断言。まさに断言という言葉がふさわしい。  小枝子の体から一瞬にして水分が失われた。からからに乾いたミイラになってその場にへたり込む。  寛太は脱力した小枝子に、なおもせせら笑いを浴びせかける。 「……いや、これはせっかくの良い機会だ。俺の本心を教えてやる」  そして、嗜虐の喜びに満ちた目を小枝子に向けた。 「実はなぁ――俺はずっと前からお前がウザかったんだ」  乾いた瞳にひびが入った。捉えた鼓膜に穴が開いた。認識した脳に風が吹く。バラバラになって小枝子の意識が飛んで行く。 「本当に気付かなかったのか? ほんと、空気読めねぇなぁ、お前。家が隣だからっていつまでもベタベタするんじゃねぇよ。馴れ馴れしいんだよ。お前さえいなければ、もっと色んな女の子と遊べたのによぉ」  壊れた耳と、塵になった頭では寛太の言葉が理解できない。何を言っているのか分からない。  それでも、辛うじて動かすことのできた二つの瞳で、小枝子は縋るように寛太を見た。そしてすぐさま見なければ良かったと身を裂く後悔に襲われた。  寛太の目はまるで蛇のようだった。熱の無い、気持ちの無い、爬虫類の瞳。 「ははは。なんだ、僕はてっきり君が小枝子さんの事を好いているとばかり思っていたよ。じゃあ、遠慮なくアタックしてもいいよね? 彼女を振り向かせる自信が、僕にはある」 「おう、好きにしろ木村。それに俺にはもう恋人がいる。邪魔して悪かったな」  そして、さらなる衝撃が小枝子を襲った。 (恋人――が――)  一体いつの間に。そんな話は聞いていない。知らない。分からない。  そんなことに気付けないほど自分と寛太の距離は隔たっていたのか――。  話は終わったとばかりに、くるりと踵を返す寛太。思わず右手を上げてその背を止めようとして――固まった。  何を言うべきか分からない。引き留めても伝えるべき言葉が無い。自分の思いは既に告白した。そしてそれは断ち切られた。  でも……でもっ! 「……約束……」  辛うじて紡がれた言葉は――小枝子と寛太を繋ぐ最古の契りだった。  寛太が面倒くさげに顔だけこちらを向け、振り返る。 「はぁ? 何言ってんだお前?」  だが、寛太の返事はひたすらに虚ろ。  それは無反応よりもなお冷たく小枝子の心を責め苛んだ。 「私……ぼーっとしてた。寛ちゃんが……ずっと隣にいてくれると思って……そう勝手に勘違いして……た……。だから……へんしつしゃに……絡まれちゃった……」 「意味わかんね」  伸ばした右手が力を失って床に落ちる。  所詮小枝子の幻想だった。小学二年生の時に交わした約束を、どれだけの人間が覚えていられるだろうか?   だとしても……だとしても……。 「もう二度と俺につきまとうんじゃねぇぞ。このストーカー女。これに懲りて今後はもう少ししゃんとしろよ。ぷっ、お前じゃ一生無理だろうけどな」  くつくつと喉の奥で笑いながら寛太が去って行く。そのあまりの言い草、態度の豹変っぷりに周囲も声が出せない。仮にこれが嫉妬めいた気持ちから来るものでも、この言い方は無い。寛太は人として大事な物を完全に失っていた。 「何言ってんでぃ、寛太ぁッ!」  そんな雰囲気の中、真っ先に我を取り戻したのは杏子だった。怒りの声を上げながら寛太に詰め寄る。 「お前――なんでそんな事言うんだよぉッ! そんな奴じゃなかっただろうッ! どうしちまったんで……」 「うるせぇッ!」  みなまで言わせず、寛太はそんな杏子を押しのける。その力には全く容赦がない。杏子はバランスを崩して尻もちをついてしまう。  信じられない光景だった。  あり得ない行動だった。  寛太が女の子にこんな力任せの行動に出た事は、小枝子の知る限り今まで一度としてない。  だからこれは夢なのではないか。  そう小枝子は思うことにした。 「――、――――」  何事か呟いて木村が去って行く。  何を言っているのか分からなかったが、小枝子は、うん、と笑って頷いた。  夢なのだから別にいい。全て夢だと信じて座り込む。    チャイムが鳴った。  囲んでいた生徒達が哀れみに満ちた視線を向けて去って行っても、小枝子はその場を動けなかった。  杏子が、小枝子の脇を抱えて立たせてくれても、席に連れて行って座らせてくれても、まだ現実感がなかった。  教師が来て授業が始まっても、まだ夢は醒めてくれなかった。  いつまでたっても悪夢は醒めてくれなかった。 九    放課後。  部活に、家に、そのまま塾に、三々五々散って行くクラスメート達。机に突っ伏しながら、寛太はざわめきが遠のいていくのをぼんやりと聞いていた。誰も自分に声をかけてくる者はいない。いつもならば誰かが一緒に帰ろうと誘ってくれるはずなのだが、今日は誰も寄って来なかった。  だが、そんな事は寛太にとって些細な事だった。 「おい、ちょっと付き合えよ」  その時、険のある声がすぐ傍で聞こえた。だが、寛太は返事もしない。なにもかもがひどく億劫だった。異様に頭が重く、顔を上げるのさえ困難だった。 「おいッ! 付き合えって言ってんだろッ!」  首の後ろを掴まれ強引に顔を上げさせられる。仕方なしに目を開けると、大坪雄平の大きな顔があった。 「なんだよ……ほっといてくれよ……」 「ああッ! もうッ!」  雄平がいきなり手を放したため、寛太は机に強かに顔をぶつけた。つん、と鼻の奥に抜ける痛みで少しは目が覚める。鼻翼をさすりながら身を起こすと、隣で雄平が子供みたいに地団太を踏んでいた。 「ほっとけるわけ無ぇだろうがッ!」  雄平の絶叫が人気の少なくなった教室に響いた。 「ああ、俺だって本当はお前みたいなクズ野郎放っておきたいよ。小枝子ちゃんをあそこまでメタクソに傷つけたお前なんざとは金輪際縁を切りたいよ。でもな、お前は俺の……友人なんだよ」  雄平がいつものニヤけた顔を完全に顔から消して呟いた。  妙な事を言うもんだな、と寛太はそんな雄平の姿をぼんやりと見つめている。 「チッ! だからよ。……少しだけ顔貸せよ。お前と話がしたいって言ってる奴がいるんだ」  ぐん、と胸元が引っ張られ、無理やりに立ち上がらされる。 「ほら、さっさとしろよ。これが終わったらもう構わないでいてやるからよ」  曖昧模糊とした世界の中を寛太は引きずられて行く。転げるように階段を降りて、いつの間にか靴を履かされ、ビョウと吹いた寒風に外へ出た事を知る。 「ほらよ」  気が付くと寛太は校舎裏に投げ出されていた。そこは三階建ての校舎の影に沈み一日中薄暗い場所だった。公道から校内が丸見えにならないように植えられた桑の木が、そこをより一層陰鬱にしている。だが、先ほどまで背筋を凍えさせていた北風も校舎に遮られてここまでは届かない。 「ありがとう、雄平君」  そんな薄ら暗い影の中に、より一層黒い影が佇んでいた。 「おうよ、後は煮るなり焼くなり好きにしろ。……じゃあな」  人影に手を振って雄平が去って行くのを、寛太は這いつくばった地面の上から見上げていた。  影がゆっくりと近づいてくる。 「いつまでそんな所に転がっているんだい、寛太君。君がそんなんじゃ僕の立つ瀬がないじゃないか」 「…………? お、お前」  地平に沈みかけた太陽の残光が影に当たった。引きしまった浅黒い風体。気品のある仕草。お高くとまったその言い回し。 「なんだよ……俺を笑いに来たのかよ?」  それは木村だった。  寛太はゆっくりと立ち上がり苦笑した。朦朧として夢のようにも思われる先の場面が脳裏をよぎる。 「お前……こんなところにいて良いのかよ? 早く小枝子の所に行けよ。アイツを……泣かすんじゃねぇよ」  小枝子に好かれ、また小枝子を好いている男。  寛太はぺっ、と唾を校舎の影に吐き捨て、制服のポケットに両手を突っ込んだ。 「酷いな――」  その態度が癇に障ったのか、ぐい、と胸を掴まれ、体を引き寄せられる。と、思った次の瞬間には岩のような拳が寛太の頬にめり込んでいた。  目の奥で火花が飛ぶ。  ポケットに両手を突っ込んでいたために、もろに地面にぶつかった。砂利が口の中に侵入し不快な感触がする。同時に口の中いっぱいに鉄の味が広がった。 「痛ってぇなぁ、クソがッ! いきなり何しやがるッ!」 「――本当に馬鹿なのか、君は」 「なに?」  起き上がった所へ、もう一発拳が飛んできた。寛太はむき出しの地面の上を無様にごろごろと転がる。 「傷心している女の子の心の隙を狙うほど、僕は姑息では無い。それに――見れば分かる。彼女は決して僕にはなびかない」  切れた唇の端から伝う血を拭って、寛太は木村を睨み上げた。いつも勝ち誇ったような顔をしている木村の顔には、珍しく悲哀のようなものが張り付いていた。 「彼女を泣かせているのは君だろう――? 彼女は君の事を好きだと言ったんだ」  木村の秀麗な瞳が険を帯びて鋭く細められる。そして伏した寛太のもとに歩み寄り、その体を再び持ち上げた。  木村の顔が目と鼻の先にある。確かにそれは女子にモテそうな顔だった。だが、そんな木村の切れ長な目が、赤く充血していた。 「そんな彼女に……どうして――あんなひどい事を言ったんだッ!」  ガツンッ! 今度の一撃は強烈だった。内臓が持ちあげられるような一瞬の浮遊感に続いて、激しい衝撃が背中を襲う。寛太は、校舎の壁に体を打ちつけられていた。 「……それが……分からない。俺にも分からないんだ……」 「何をふざけた事を。心神喪失でも主張するかい? アガペーウイルスによって、正常にものを考えられなくなっていたと――ふんッ!」  壁に背を預けた寛太に、容赦の無い殴打が続いた。拳は肋骨で守られていない胃を突き抜ける。せり上がってきた胃酸が口中に広がり、鉄の味に酸味が混じった。  だが、その激しい殴打が、煙る思考に閃光を投げかける。 「……もっと……殴ってくれ」  何かが思い出せそうだった。 「おや、君はMだったのかい? ふっ。件(くだん)のウイルスで羞恥心というものを失ってしまったようだね。あれは――本当に罪なウイルスだよッ!」  鳩尾に入った衝撃が脊髄を伝って、寛太の脳内で粉塵爆発を起こした。朝もやが太陽を浴びて霧散するようにして意識が明瞭になっていく。 「――そうか」 「なに?」  赤く染まった唾を桑の林に吐き出す寛太。 「……ウイルスなんだ」  強烈な倦怠感、奇天烈な行動、朦朧とする意識。  これほどの類似点があったのに。  真っ先に自分が思いつかなければならなかったのに。 「これもウイルスなんだよッ! ボケぇッ!」  これまでのお返しとばかりに、寛太は雄たけびを上げながら木村の怜悧な横顔を殴りつけた。木村は伸身逆さ宙返りのように豪快に吹っ飛び、そしてその一撃で昏倒した。  エリートは殴られ方も様になっていた。 「なんだよ、たいしたことねぇな……ん?」  桑の木に突っ込んで動かない木村。それをどうしたものかと眺めていると、不意に、ブブブ、という振動をポケットに感じた。土埃で汚れたズボンのポケットをまさぐり携帯を取り出す寛太。  ディスプレイには『藤本』の名前が表示されていた。 「おう、どうした、藤本?」 「寛太君ッ、今どこにいるのッ?」  受話器からは妙に切迫した声が聞こえてきた。 「まだ学校だが、どうした? 何かあったのか?」 「……何かあったなんてもんじゃないよッ!」  スピーカーの音が割れるほどの大音声。 「小枝子ちゃんが――」  小枝子?  その名前に、今は嫌な予感しか浮かばない。寛太の心に理由の分からない焦慮の火が灯る。 「何だッ! 何があったッ! 早く言えッ!」  ごくん、と唾を飲み込む音が聞こえた。 「小枝子ちゃんが――殺されちゃうッ!」  聞こえた藤本の声は、冗談にしては真に迫りすぎていた。 十  予兆は――確かにあった。 「…………ごほっごほっ」  まだ体調が悪い。痰が絡む。だが、胸が重苦しいのは決してそれだけが原因ではない。  地元にできたスーパーモール。遠のく客足。 『一人三丁がノルマなんだぁ。えへへ。羨ましいでしょ?』  余った在庫。伸び悩む売上。  そして、見かけた小枝子の父親。  触れてはいけない話題だと思ったから、それ以上尋ねるのは止めた。  だが、あの時もう少し追及していればこんなことにはならなかったのかもしれない。 「くそッ、どうなってるんだ――こりゃ」  小林豆腐店の前は人でごった返していた。  これほどの人だかりは縁日でもお目にかかれるものではない。回転する血のように真っ赤なランプ。紺の制服に白いヘルメットを被った男達。それを二重三重に囲むようにして集まった野次馬。物々しいその雰囲気が日の暮れかけた大平市に不穏な影を落としていた。 「あっ、お兄ちゃんッ! お兄ちゃんが来たーッ!」  そんな人混みから少し離れた一画に、寛太は見慣れた人影を見つけた。 「ことみ、藤本ッ!」 「ああ、寛太君。やっと来てくれた。大変なんだ。小枝子ちゃんのお父さんが――」  それは、どこかで聞いた事のあるような話。  聞いた事はあるが、身の回りで起こる事は想像できない、そんな類いの話。 「一家心中なんて」  そう呟いたきり寛太は絶句してしまう。 「お母さんと弟さんの健史(たけし)君は逃げ出して無事だったらしい。だけど小枝子ちゃんが……」 「畜生ッ!」  寛太は藤本の話を最後まで聞くことなく駆け出した。洪水のような人混みを掻き分けながら道脇の苔むした板塀を目指す。そこには二台の救急車が停まっていた。 『丈夫なだけが取り柄ですからー』  膨らんだパンみたいなほこほことした笑顔で笑った小枝子。 『もし、そこにいたのが杏子ちゃんじゃなくて私だったら――寛ちゃんは同じ事言った?』  頬を薄桃色に染めてはにかんだ小枝子。 『違うの、寛ちゃんッ!』  親に捨てられた子供のような顔で、寛太の名前を呼んだ小枝子。 (あれが最後だったって? 冗談じゃねぇぞ?)  救急車の背面は開け放たれていた。青い手術着を着た救急隊が脇に立って小林豆腐店を見上げている。 「おばさんッ!」  そんな青い人影に混じって、小柄な女性と小学生くらいの男の子が身を寄せ合っている姿が見えた。毛布に包まっているのに、体が震えているのがここからでも分かる。 「ちょっと……君ッ!」  女性の元へ駆け寄ろうとしたところをヘルメットの救急隊に阻まれた。 「……寛太君?」  そこへ当の女性から蜘蛛の糸のようなか細い声が発せられた。 「寛太君ッ! 寛太君なのね?」 「……寛太兄ちゃんッ!」  それは、小枝子の母、美智子(みちこ)と健史だった。 「そこの少年は私たち家族の友人です。すみませんが通してやってください」  寛太は救急隊の手が退けられる前に跳ねのけ、美智子の元に駆け寄った。そして急き込むようにして尋ねる。 「おばさん――一体何があった? 小枝子は? 哲郎おじさんは? 一体何がどうなってるんだ?」  寛太が問いかけると、突然、美智子が両手で顔を覆った。 「おばさんッ! 頼むッ! しっかりしてくれッ!」  寛太はそんな美智子の肩を掴んで激しく揺さぶる。すると美智子が顔を覆ったまま呻くように呟いた。 「小枝子は……小枝子は……まだ、中に――。お父さんと……」  その瞬間、寛太の視界が真っ白に染まった。  心を砕くような衝撃が、世界を黒く塗り潰すのではなく、反対に白く染め上げていく。  そんな白い闇の湖底から、一枚の木の葉が浮かび上がってきた。 『……約束……』  それは小枝子が放った言(こと)の葉(は)。問いかけることすら恐れているかのような、おびえた瞳で。 『はぁ? 何言ってんだお前?』  だが、答えを間違えた事だけは確かだった。  それは、小枝子とした約束など忘れてしまったと言っているに等しい。丸みを帯びた優しい小枝子の顔がこれ以上ないくらいに、くしゃくしゃに歪んでいた。  なぜ、そんな言葉が今、脳裏をよぎるのか? 「あ、ああ、そうか……」  轟音と共に黒い雷(いかずち)が白い闇を切り裂いていく。 「……思い出した」  なぜ、あんな事を言ってしまったのか。ぎりっ。悔しさに奥歯が鳴った。握りしめた掌に爪が食い込み鋭い痛みが脳に伝わる。 「小枝子はまだ家の中にいるんだよな……おばさん」  寛太は俯いたままの美智子に抑揚の無い声で尋ねた。だが、その声の裏側に秘められた断固たる決意を美智子が敏感に感じ取る。ハッとしたように顔を上げた。 「……だ、駄目よ、寛太君。何をする気?」  一気に十歳も老けこんでしまったかのようなその顔に、だが寛太はゆっくりと微笑みかける。 「大丈夫、ちょっと約束を果たしに行くだけだから。……安心してここで見てて、おばさん」  鮮血もかくやという赤黒い太陽が没した。  空は不穏な暗褐色に染まり、ぬぅとした朧月が存在感を増しつつあった。  昔ながらの狭苦しい県道を挟んで、みっしりと立ち並ぶ商店街は野次馬を取り込み、ますますその猥雑さを増してきている。  これだけの人出で普段から賑わっていればこんな惨事は起こらなかっただろう。そんな皮肉に寛太は鬱然となった。 「じゃ、行ってくる」  振り返ると、ことみと雄平と藤本がそれぞれ頷いた。 「間違えるなよ。危険を感じたらすぐ逃げるんだぞ。溺れそうになった者を救おうとして自分まで溺れるなんてのは良くある話だからな。親父さんも、お前まで手にかけようとはしないだろう。所詮他人だからな」  雄平が真剣な面持ちで呟く。四人がいるのは寛太の自室。これは家が隣同士だからこそできる作戦だった。 「ああ。分かってる」  危なくなったら逃げる、それが寛太を行かせるための条件だった。口裏を合わせてもらった手前そう答えたものの、実際には寛太に逃げ出すつもりなど毛頭なかった。  母には部屋から様子を見守るとだけ告げてある。 「止めたりなんか――しないから」  ことみが桜色に染まった目で言った。 「どうせ私が何か言ったって聞かないでしょ? でも、もしこれでお兄ちゃんに何かあったら、私が絶対怒られちゃうんから、ぜったいぜったい、無事で戻ってきてよねっ! 私にいらないトラウマなんか背負いこませないでよねっ!」 「ああ、分かった、ことみ」  ことみらしい言葉に寛太は思わず笑みを零す。実際は無事に戻ってきたところで両親の叱責は免れないだろう。だからこれは寛太の身を案じた、ことみなりの激励なのだ。 「寛太君……」  藤本が寛太を抱きしめようと駆け出すそぶりを見せたので、寛太は右手を突き出し、それを止めた。 「ああ、お前の心配も良く分かってる。ありがとう、藤本」  藤本は少しだけ残念そうな顔をしたが、静かに身を引く。 「よし……それじゃあ、また後で会おう」  フッ、と強く息を吐いて、寛太は自室の窓を開けた。からからと抵抗も無く窓が開く。  すぐ目の前には小林豆腐店の白壁ある。白壁には採光のためのサッシが取りつけられていた。その窓が開きさえすれば渡れない事もない距離。 「くッ――」  問題はその窓が開くかどうかだった。もちろんぶち破って入ることもできるだろうが、そんなことをしたらすぐにバレてしまう。寛太の身に危険が及ぶのもさることながら、自暴自棄になった哲郎が何をするか分からない。  できれば静かに侵入したい。 「開いててくれよ……」  少し前までド田舎だったこの町の防犯意識は低い。未だに玄関の鍵をかけずに旅行へ出かけてしまう者がいるほどだ。  寛太はそれに賭けた。この窓が施錠されていたらそこで終わりである。  震える手で窓ガラスの端に手をかける。ふと何か動いた気配がして下を見ると、家と家とのわずかな隙間にいた黒猫が不思議な顔をしてこちらを見上げていた。 (ち……縁起わりぃぜ……)  くっと力を込める。だが、縁起に反して窓ガラスはするすると開いていく。  内心でガッツポーズを取る寛太。  露わになった窓の向こう側は、二階の入り口、階段を上り切ったすぐの場所だった。  廊下の右手にはトイレが一つ、左手には手前からテレビゲームなどをして遊ぶ子供部屋、健史の寝室、小枝子の寝室、そして両親の寝室である和室があるはずだった。  そんな一番奥の和室から光が漏れている。 (あそこか)  寛太は身を乗り出す前に、左手に持ったビニル袋の中身を確認した。袋の中にはどろりとした茶褐色の液体が入っている。穴があいて零れているような様子も無い。  実はこの袋の中身こそ、寛太が手にした唯一の武器だった。  これがあったからこそ皆を説得することができたのである。さすがのことみ達も勝算なくして寛太を危険な場所へ行かせるはずがなかった。  無理心中という行為の根底にあるのは残される者に対する憐憫の情だ。  理屈の上では、寛太の手にした武器で何とかなるはずだった。  一通り武器の確認を終えた寛太は――そして、一息に窓の外に躍り出た。  刹那の浮遊感。襟から背中に侵入した外気が火照った体を冷やして流れ抜ける。眼下の黒猫が尻尾を丸めて逃げて行った。  寛太はがっしりと小林豆腐店の窓の枠を掴む。  そして辛うじて体を窓枠の上に乗せることに成功した。 (よしッ!)  その場所でしばし体勢を整える寛太。ふぅ、とまずは一つ安堵の息を吐き、そしてまた息を吸い込んで止める。ゆっくりと右足を廊下に下ろす。  きぃ――。  そっと下ろしたはずなのに、妙に大きな音で廊下が軋んだ。  だが、大きな音、というのはきっと錯覚なのだ。寛太が勝手にそう感じているだけのこと。実際には野次馬の喧騒もあるし、この程度の音はかき消されたはずだ。  念のため息を殺して人の気配を窺う。全神経を集中させて人の息遣いがありやしないかと探すが、聞こえるのは早鐘のような自分の心臓の音だけだった。  周囲に人の気配は無い。誰かが近づいてくるような気配も無い。寛太は止めていた息を吐き出す。  そしてゆっくりと歩を進め始めた。一歩二歩と歩くたびに、きぃきぃと寿命を削る音が響く。  予想していたよりも家の中は静かだった。時折、投降を呼びかける警察の声と野次馬のどよめきが響いて来るが、厚い白壁を隔てていることもあってか、その音量は頼りない。 (小枝子ッ……)  その静けさが脳裏に嫌な映像を惹起した。  家の中がこれほど静かな訳――それは、既にそこにいる全員が死んでいるからではないのか。  寛太は奥の和室が既に血に沈んでいる様を幻視してしまったのだ。  だが、それは杞憂に終わる。 「……小枝子ぉ……小枝子ぉ……」  廊下の奥から呻くような声が聞こえてきたのである。 「……小枝子ぉ……お前だけでもお父さんと死んでくれ……どうして嫌なんだ? なあ?」  それは間違いなく小枝子の父、哲郎の声だった。 「もう止めてよぉッ! お父さんッ! お願いだからッ! お願いだからァアアッ!」  そんな亡者の声を裂いて小枝子の悲鳴が届いた。 (無事だッ!)  その事実が寛太に倒れ込みそうなほどの安堵を与える。だが、小枝子の切迫した声は決して安心して良いものではない。気を引き締め直してまた足を上げる。そしてうぐいす張りように軋む廊下に肝を冷やしながら、確実に歩を進めていく。  ――その時。    ざすッ! ざすッ!  廊下の奥からとても嫌な音が聞こえてきた。  ズタ袋を裂くような、  ざすッ! ざすッ!  サンドバックを蹴るような、  ざすッ! ざすッ!  中身の詰まった袋に、刃物を突き立てるような――。    ざすッ! ざすッ! ざすざすざすッ!   「やめろぉおおおッ!」  気がついた時には駆けだしていた。  小枝子の悲鳴はもう聞こえない。耳に届くのは何かを裂くような、不快な音だけ。  一息に部屋の真ん前に躍り出る。  開け放たれた襖の奥に人影があった。その数は一つ――哲郎だ。小枝子の姿は無い。  哲郎は手にした何かを持ちあげた姿勢で固まっている。その姿はまるで農作業に従事しているかのようだった。まるで小さなスコップを手に根菜を掘り出そうとしているみたいに見える。  だが、手にしたスコップは鋭利過ぎ、突き刺す畑は四角い何かで、掘り出そうとしているモノが何なのかなんて――。  寛太は頭に浮かんだ嫌な想像を慌てて打ち消す。 「おや……」  そして、寛太に気付いた哲郎が、気だるげに血走った目を向けた。  いきなりの侵入者であるにもかかわらず、哲郎の様子にはまるで動じたところが無い。  地獄の底から響いてくるかのような胸を圧する声を吐き出し、ゆっくりと立ち上がる。その姿は映画で見た生ける屍のようだ。牛の首すらさばけそうな巨大な出刃包丁が、薄暗い室内の蛍光灯にほの白く光っている。  だがこの時、寛太の視線は哲郎をとらえてはいなかった。寛太が見ていた物、それは哲郎がほじくり返していた大きな四角い箱だった。  何だか妙にギザギザとした木目の目立つそれは――横倒しになった箪笥だった。  人が入れそうな観音開きの桐箪笥。だが、箪笥にしては妙に木目の荒い部分があり、それが高級感溢れる黒褐色の質感を台無しにしている。 (いや……違う……)  そして、寛太ははたと気づいた。  あれは木目でなく、ささくれだ。  刃物を何度も突き刺し、捻り、抜いてはまた刺し、それを繰り返したためにできた――。 「う、うわぁああああああッ!」  そう、理解した瞬間に寛太の喉は悲鳴を吐き出していた。そして、ほとんど反射ともとれる動作で、手にした袋を哲郎に向けて投げつける。  ばちゃ、と音がして茶褐色の液体が詰まった袋が哲郎の足下に飛び散った。 「君は、寛太君じゃないか……こんなときに水風船かい? おじさんは忙しいんだ。後にしてくれないかな……」  哲郎のよれて黄ばんだシャツには、まだ赤い斑点は付いていない。  寛太は歯の隙間から鋭い息を吐き出して、とりあえずその事にほっとする。  だが、肝心の小枝子がいない。 (まさか……)  傷だらけの箪笥。それに対して執拗に刺突を繰り返していた哲郎。  寛太は目を大きく開けて狭くなっていた視野を広げた。  箪笥には鋲で打ったような丸い鍵穴があった。ささくれはその周りに集中して出来ている。 (小枝子は――あの、中に)  その時、不意に哲郎が体の向きを変えた。丈の長い柿色のズボンを引きずるようにして、完全に寛太へと向き直る。その拍子に、初めて哲郎と目が合った。 (――ッ、――は)  その瞬間――全身が総毛立った。真冬の雪山にでも放り込まれたような寒気に、寛太の息が俄然荒くなる。  その衝撃をどう例えたら良いのか。  畏怖、動転、戦慄、恐慌。大脳辺縁系が訴える死の直感。  逃げろ、と訴えかける本能。抗いがたい命令に、無意識のうちに左足が浮く。 「寛ちゃんッ! そこにいるの?」  だがその時、傷だらけの箪笥の中から小枝子のくぐもった声が聞こえてきた。 「どうして来たのッ! 私のことなんてもう放っておいてッ! こっちに来ちゃ駄目ぇッ! 逃げてぇえええッ!」  後退しようと、逃げ出そうと、後ずさりするために持ち上げられたその足は、だが小枝子の悲鳴を前に一歩前へと踏み出された。 (小枝子は、あの中に隠れているんだッ!)  賢い選択だった。少なくとも二センチ程度の厚さはありそうなあのタンスは、ちょっとやそっとでは打ち破れそうにない。しかも鍵付きである。当然内側からも施錠できるだろう。哲郎が鍵の在処を知っていれば危ないが、聞けば、哲郎は家のことは全て妻に任せていた昔ながらの亭主気質の男だという。そんな物の保管場所など見当もつかないだろう。小枝子もそれを見込んでの事に違いない。  寛太は奥歯をぎり、と噛みしめて本能に抗う。ここで一歩でも引いたらもう向き合えない予感がした。靴下越しに感じる畳が死の予感にざらつく。 「おじさん――いったいアンタどうしちまったんだ」  声が震えなかっただけで良しとしよう。寛太は真っ向から狂人の目線を受け止めて呟いた。 「どうした……だと?」  哲郎は、寛太の前方二メートルのほどで足を止め、ふしゅぅ、と生臭い息を吐く。 「私はね、寛太君……責任を取っているんだよ」  そう言いながら哲郎は大仰に空を仰いだ。その目は低い天井を通り越し、真っ暗な夜空を眺めているようだった。 「責任だって? ハッ、家族を殺すなんて責任の取り方……考えるまでも無く間違ってるぜッ! 死にてぇなら自分一人で死ねって言うんだッ!」  怒りが恐怖に勝った。思わず声を荒げる寛太。 「子供のお前に何が分かるッッ!」  だが、それを上回る怒号にビリビリと和室が震撼した。寛太の腰が迫力に砕けそうになる。膝が笑って力が入らない。  しかし寛太は、意志と言う名の楔を大腿に打ち込み辛うじて克己した。これ以上無様な姿を晒す訳にはいかない。 「お前のような餓鬼に、親の庇護のもとでぬくぬくと飯食ってクソひり出して寝てるだけのクソ餓鬼にッ! 俺の苦悩の何が分かるっつぅんだよォオオオオッ!」  角が生えていないのが不思議なくらいの怒りの形相。 『危険を感じたらすぐ逃げるんだぞ』 『ぜったいぜったい、無事で戻ってきてよねっ!』  耳に聞こえた懐かしい声。胸に浮かぶは不敵に笑う雄平と、下唇を噛みしめて自分を見送ったことみの姿。 「すまん……ことみ」  我知らず謝罪の言葉が寛太の口から突いて出る。 「余計なトラウマをお前に背負わせるかもしれない」  寛太の独白に、哲郎が不快気に目を眇めた。 「何を一人でブツブツ言ってるんだい、寛太君……」  先程までの激昂が嘘みたいに平坦な声で哲郎が呟いた。そして、散歩でもするかのようにすっと足を踏み出してくる。  「あんまりおじさんの邪魔をすると――」  そんな哲郎の顔が、いきなり視界から消えた。 「――死ぬよ?」  びゅおう。  風切り音に水気が混ざらなかったのは奇跡と言って良かった。  持って行かれたのは黒い繊維。それと、少しばかりの生皮だった。  真横に切り払われた銀光に寛太の制服がいきなり風通しの良いものに変わる。第二ボタンが引きちぎれ中の白いカッターシャツが露わになった。 (――――ッ)  ぶわっと音がしそうな勢いで冷や汗が全身から噴き出してくる。  死ぬかと思った、死んだと思った。  そしてその思いは決して間違いではない。あと数ミリ秒でも反応が遅れていたら、実際にそうなっていたことだろう。  だが、そんな命の危機が逆に寛太に覚悟を決めさせる。  噴出したアドレナリンが寛太の導火線に火を付けた。  ごう、と燃え盛る焔を瞳に宿して、寛太はたぎる炎を吐き出す。 「さっき言ってたおじさんの苦悩とやら――あれ、なぁ? 俺には全然分からねぇよ。ああ、分からねぇッ! っていうか分かりたくもねぇッ!」  言葉ではそう気炎を吐きながらも、冷静に間合いを取る寛太。燃やすのは心と体だけでいい。  頭は冷凍庫に置き忘れたかのように冷やして、状況分析に回す。  先ほど投げつけた液体……あれが効いてくるまでにはまだ少し時間がかかる。それまではなんとしても時間を稼ぐ必要があった。  ――何か武器になりそうなものは無いか。 「一番優先すべきは家族だろうッ! どんな悩みがあったか知らねぇが、その家族の命を奪おうなんて……絶対に間違ってる。絶対に、お前が間違ってるんだッ!」  手持ちの武器は言葉だけ。だが、それが通じない。 「だからテメェは餓鬼なんだよォッ!」  喰らった瞬間に絶命可能な一撃が眼前数センチのところを横切って行った。その風圧に寛太の熱くなった頬が一瞬冷え、だがすぐに沸点を取り戻す。 「生きてる方が辛い、残される方が辛い、そういう事もあるってことが分からねぇのかッ!」  ぶん。返す刃で切り上げられた包丁をのけぞるようにしてかわす。だが、とてもじゃないがこんな曲芸じみた回避は五分と続かない。 「だったら、話してみろよォッ! 何がアンタをそんな風にしちまったんだッ! 小枝子の頼りがいのある父親はどこに行っちまったんだッ! 勝手に一人で決めてなぁ、それに巻き込まれる者の気持ちを考えてみたことあるのかッ!」  大声で質した問いかけに、哲郎が包丁を振り上げたままの姿で動きを止めた。  今の言葉は哲郎の壊れた心に届いたらしい。  寛太は小動物のように跳ねまわる心臓を押さえつけ、強制的に気持ちを落ち着かせる。  そして、労わるように、ゆっくりと先を促した。 「話して……くれよ……」  その言葉に、哲郎がゆっくりと両手を下ろした。口元に自嘲的な三日月が浮かぶ。  そして曇りガラスのように濁った瞳を畳に向けて放心したように呟いた。 「豆腐を――インターネットで販売しようと思ってな――」  それもやはり、どこかで耳にしたような話。 「大手企業に太刀打ちするにはそれしかないと思ったんだよ。味でなら間違いなく勝てる。食べてさえもらえたら、固定客の付く自信があった。だから、俺は業者に頼んだんだ」  そう呟いた顔は、今にも泣きだしそうな子供のようにも見えた。 「振り込みにはネット口座というものが必要らしくてな。慣れないパソコンと必死に格闘して口座を開いたんだ。……もちろん、口座はあるだけでは意味が無い。俺は資本金としてそこに金を振り込んだ。俺が身を削るような思いで貯めてきた大事な金を、な」  後はもう、どうなったか分かるだろう?   そう言って、哲郎はくぐもった笑い声を漏らす。それは笑いという形を取った涙のようだ。 「いくら引き出したのは俺じゃないと言い張ろうが、『本人確認は取りました』の一点張りさ! 泣こうがわめこうがどうにもならない。ゼロだ、ゼロッ! 俺の積み上げてきたものが一瞬でゼロッ! こんな話があるかッ! ええッ!」  かさかさに乾いてひび割れて行くような、物悲しい叫び。寛太の皮膚が哲郎の悲しみに呼応して小さくわななく。  それはどうしようもなく――詐欺だった。  哲郎が誰かに相談していれば、もう少し知識があれば、そして追い詰められて視野が狭くなっていなければ、ひょっとしたら捕らわれることのなかった罠。  運転免許証のコピーと、口座番号、そしてログインパスワードまで教えてしまったら、それはもう過失の域を超える。 「……どうして……相談してくれなかったの?」  その時、かちゃり、と音がした。 「……小枝子ッ! 駄目だッ! 出てきちゃ駄目だッ!」  横倒しになった桐箪笥の戸が開き、中から小枝子が姿を現した。それは死者が棺桶から起き上がって来たかのような、超現実的な構図で寛太を圧倒する。 「ううん……もう、いいの……寛ちゃん」  実際、小枝子の顔色は死人のように真っ青だった。頬を涙でぐちゃぐちゃに濡らし、薄暗い和室の蛍光灯の中、幽霊のようにその姿が浮かび上がる。 「……小枝子ぉ」  だが哲郎は神に縋るような声を上げて膝を折った。左手を小枝子の方に伸ばし慟哭する。 「お父さんにそんな甲斐性があったら……こんなことにはなっていないさ。お前たち家族くらい一人で背負えると思ったんだ。いや、背負わなければならないと思った。その程度のことができなくてどうして父親を名乗れるか――。歴史あるこの小林豆腐店を守り、母さんを守り、お前たちを守り――それ位の事ができなくて、どうして父を名乗れるか……」 「お、お父さん……ッ。う……」  小枝子が口元を押さえて呻く。緩やかな頬を伝って大粒の涙がまた一つ零れた。 「だからっておじさんッ! 何も死ぬことはないじゃないかッ! 何もかも失ったっていったって、ゼロに戻っただけだろッ! 一番大切なものは、家族は――まだここにあるじゃないかッ! なに弱気になってんだよッ!」  寛太の言葉に、消えていた哲郎の覇気が再び灯った。 「背負うものの無い寛太君にこの重圧は分からないさ。大切なものだからこそ、残していくわけにはいないんだ。だが、それももう適わんか。……すまんな美智子。こんな残酷な世界にお前たちを置いていく俺を許しておくれ」  ほろほろと、哲郎の目尻から一雫だけの淡雪が零れていく。 「こんなに弱い男の元へお前は嫁に来てくれた。小枝子が生まれ、健史が生まれ……俺は本当に嬉しかった。嬉しかったんだ。お前たちを守りたかった……ありがとう」  それが、妻に対する述懐だったのだろうか。そしてそれを最後に、哲郎の雰囲気が変わった。 (――――!)  体つきが一回りも大きくなったかのようだった。  背筋に力が漲っているのが分かる。伸ばした体が雄々しく脈打つ。先ほどまでの狂ったような怒りではなく、最期を覚悟した武士(もののふ)のようなそれ。 「お喋りは……終わりだ。それじゃあ、もう逝くことにしよう。覚悟は決まったか?」 「なんでそうなるんだよッ!」  寛太の言葉はもう届かない。 「私が味わったような重圧を君も味わう事は無い。大丈夫、痛くないようにしてあげるから。あちらの世界は君が思うよりもずっと優しいよ。それに対して――ここに生きることの方がよほど辛い。少し考えてみれば君にも分かる」  陽炎のような気迫を纏った哲郎の目に、もはや迷いは微塵も感じられない。 「か、寛ちゃんっ」  涙ぐんでいる小枝子を引き寄せ、寛太は小枝子と哲郎の間に立った。哲郎はそんな寛太の姿に苦笑めいた表情を見せる。 「勇ましいな、寛太君。だが、なぜそれほどに今の自分に執着する? しがらみから解放されたいとどうして思わない? 人生には心がへし折れて粉々になりそうな苦労が次々に降ってくるんだぞ。……例えばそう、勉強だってそうだ。小枝子に聞く限り君の成績はあんまり良くないみたいだね?」  全身の力を使わなければもう息ができない。先ほどまでの完全に狂っていた哲郎ならばまだ勝機はあった。だが、今の哲郎は正気に見える。正気に狂っている。 「大人になってみれば分かる、あんなものは困難と呼ぶのもおこがましい、屁のようなものだ。だが、そんなものにすら既に敗北している君に、果たして小枝子を守れるのかね?」  寛太は答えない。右腕で小枝子をかばいながら、必死に突破口を探す。 「ああ、口だけなら何とでも言えるよ、寛太君。勉強するんだね。その志は立派だ。だがその競争は過酷を極める。みんな勝ち組に回るために必死なんだ。そりゃあ勉強するよねぇ? 勉強して、勉強して、勉強して、勉強して、それでも勉強して、それで失敗したら――もうそれは悲劇を通り越して喜劇だろう? 君は喜劇役者になりたかったのかい? はは、違うだろ?」  だけど――現実は喜劇なんだ。  そして、哲郎の顔から表情が消えた。 「――お、お父さん……」  誘蛾灯に惹かれる蛾のように、哲郎がゆっくりと近づいてくる。  逃げ場はもはや無い。銀の凶器に付着した錆が視認できるほど近くに哲郎がいる。寛太一人だけなら逃げだせるかもしれないが、その選択肢を取るつもりはない。  守れないのならばいっそ共に死んでやる、そんな哲郎の気持ちが少しだけ分かった瞬間だった。 「格好いいじゃないか、寛太君。一緒に……天国へ、行こう――な?」  そう呟いた哲郎の声はどこまでも優しかった。  狂気でも憤怒でも後悔でもなく、ただ仏のような深い慈愛が込められていた。  ……哲郎がゆっくりと包丁を振り上げる。  そんな慈愛が殺意に帰結するなんて。  それが寛太には悲しかった。  寛太は死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じる。    ――終わりは、哲郎の言う通り、とてもとても優しかった。    びゅおう。  風を切る音が妙に心地よくて。    ドン。  ……衝撃に痛みは伴わなかった。    肩口から全身に波及した強烈な一撃に――寛太はゆっくりと仰向けに倒れる。  耳元に当たる哲郎の一呼吸一呼吸さえ感じられるほど、寛太の意識は鋭敏になっていた。  ブチブチと何かがちぎれるような音は、神経が断裂していく音だろうか。それとも筋線維の裂けていく音だろうか。   なんにせよ、音だけで痛みがないのは幸いだった。  その時、不意に巨大な蜘蛛のようなものが胸の辺りに侵入してきた。  実際には蜘蛛などいるはずもないからそれはきっと錯覚。  だが強烈な不快感を伴った。  それはするすると皮膚の上を這い、寛太の心臓を噛む。  同時に、強烈な寒気が鳩尾の下に巻き起こった。  それは、錯覚のくせにどんどんと存在感を増して、足の方へと這っていく。  ごつごつと骨ばった感触もあって、ひょっとしたらそれは死神の指なのかも知れなかった。  ぞわりぞわりと蠢きながら寛太の大切な所を目がけて這い進む……。    ……大切な所――目がけ――て? 「うん?」  はぁぁあああっ。はぁぁあああっ。  蒸気機関のような猛々しい音にハッとする寛太。 (――死んで……ない?)  体は死んだように動かない。だが、感覚が無いわけではない。むしろ感じる。感じすぎてしまう。 「はうッ!」  そして、その鋭敏な感触にたまらず目を開けた。 「……って、ってぇえええええええええええええッ!」  目の前にあったのは、恍惚とした中年の顔だった。 「ああ、なんて愛しい奴なんだ。むっふっふっふ。さぁ、おじさんが可愛がってやるからなッ! 力を抜いて身を委ねるんだ。さすれば開かれるだろう。天国への扉(ヘブンズドアー)がッ!」 「お、お、おじさんッ! ……アッ――!」  再び、あられもない声が寛太の口から飛び出した。 (な、なんてことだ……)  なんという既視感(デジャヴ)。これとほぼ同じ体験をつい先日したような気がする。  このままではマズい。何故自分が生きているのか、と考えるよりも先にまず体が動く。  身を覆う圧力から逃れようと必死で身を捻る。  だが、どん、と圧し掛かられた体は今回もびくともしない。  そうこうしているうちに、巨大な蜘蛛――こと哲郎の右手が寛太の左乳首をこりこりと弄び始め、死神の指――こと哲郎の左手が、寛太の花園へ向けて進軍を再開した。 (なんという力加減、そしてなんという摩擦係数だ……。これでは――ウッ!)  もさり、もさりとかき分けるように、しかし、それはくすぐる様でもあり……。  そのテクニックは藤本の時とは訳が違った。完全に哲郎の方がレベルが上だった。  亀の甲より年の功とでもいうのか。  いや、これはむしろ年の巧! 「ちょ、ちょ、ちょっと待った! ちょっと待ったーッ!」  その時、警察の放ったライトだろうか? カッ! とばかりに眩い光が奥の窓から差し込み、影になっていた哲郎の体に色を付けた。  ――肌――色?  不可解な色だった。  哲郎の服はそんな柄だったろうか? いいや、よれよれの薄汚れたシャツだったはずだ。この、やたらと質感の高いしっとりとした衣類はなんだろう……。  と、その時、ようやく酸素が行き渡り始めた寛太の脳が絶望的な答えを導き出した。 「は、はは……ははははは」 「そんなに気持ちいいかね、寛太君」 「は、裸ッ!」    それは衣服ではなく、人肌。  哲郎の上半身は――いつの間にか裸になっていた。    盛り上がった肩の筋肉、むきむきとした腹筋、蛇のようにとぐろを巻いた胸板にピンと立った乳首を見つけてしまった時の気分は最高に最低だった。  こはぁああ、と吐かれた吐息も煙がでそうなほど熱を帯びている。  (――こ、これはまさか) 「お、お父さんッ! お父さんッ! 何してるのッ?」  その時、小枝子のうろたえた声が寛太の耳に届いた。寛太は心の底から助けを求めて声を張り上げる。 「さ、小枝子ッ! 頼む、早く助けてくれッ! 頼む。早くしないと俺の大事な、大事なものが。ああーッ!」 「ああ、駄目よ駄目よ、お父さんッ! なにやってるのッ! 寛ちゃんは、寛ちゃんは――えーいッ!」  ドゴン。  鈍い音がして、蜘蛛と死神の動きが止まる。 「寛ちゃんは……渡さないんだから……」  哲郎の顔が白目を剥いて落ちてくる。寛太は首をひねって慌ててそれを避けた。ずん、と畳の上に落下する哲郎。  寛太は気を失った哲郎の体を思い切り横へ押しのけ、這うようにして逃れる。  貞操の危機を乗り越え、ほっとしながら立ち上がると、肩で息をしている小枝子の姿が目に飛び込んできた。 「小枝子――おま、ちょっと……それで殴ったのか……」  小枝子の手にはどこから持ってきたものか重量感のある赤い煉瓦があった。  困ったように視線をさまよわせる小枝子。その目線が最終的に窓ガラスの方を向いた。  その目の行き先を追って見ると、南側の窓が開いていた。今流行りのベランダガーデニングなのか、窓の向こうはレンガで区切られたちょっとした花壇が出来ており、そこでピンク色をしたアザレアの花が夜風に揺れていた。  ただ、そのブロックの一角が欠けている。 「死んで……ないだろうな?」  またも襲い来る既視感(デジャヴ)。 「えっ? えっ? やだちょっと、ほんとに? ……私、いっぱいいっぱいだったから」  呼吸しているのか、と思い哲郎の背中に目をやると、その背は規則的に膨らんだり縮んだりしていた。とりあえず生きてはいるようだった。 「助かった、のか……」  ほぅ、とようやく心の底から安堵の息をつく寛太。手の甲で汗ばんだ額を拭う。 「ん? なにぽーっとしてんだよ」  その時、ふと小枝子が頬を染めて寛太の胸のあたりを見ている事に気がついた。  視線につられて自分の胸を振り返る。そこは、先程哲郎に切られたせいで薄い寛太の胸板が顕わになっていた。 「う、ううん。何でもないっ。それよりも、さっきのは……なに? お父さん、おホモさんだったの?」  慌てて首を振った小枝子の口からは当然ともいえる質問が放たれる。 「ああ――そう言えば説明がまだだったな。ショックを受けなくてもいい。あれは別に親父さんがゲイだって訳じゃないんだ。あれは――アガペーウイルスの変異種のせいだ」  寛太の答えに小枝子が茫然とした顔をする。だがその反応ももっともだ。寛太でさえ少し前までは小枝子と同じ思いを抱いていたのだから。  霧がかかったような意識、霞む視界、異常なほどの倦怠感。  木村に迫られている小枝子の元へ駆けつけた時、寛太の全身を襲っていた症状はアガペーウイルスに罹患していた時のものとほとんど同じだった。  しかしそれはあくまで身体的症状のこと。限りなく類似した症候群の中に、だが一つだけ決定的に違っていた事があった。  それは――。 「好意と悪意が――逆転するんだ」 「……そんなことって……」 『好きな人に好きだと言ってしまう病』があるのならば、『好きな人に嫌いと言ってしまう病』があってもおかしくない。  ――好きな子には返って意地悪したくなる小学生のように。 「……つまりこれは、アガペーウイルスの変異種――『小五ウイルス』なんだッ!」 「そ、そんな安易なウイルスがいてもいいのッ!」  良いわけがない。そう思ったからこそ、寛太も弱いおつむを総動員して調べてみたのである。  アガペーウイルスはエイズウイルスと同類のレトロウイルスだ。そして、レトロウイルスは遺伝情報がDNAではなくRNAという物質に格納されている。安定なDNAからRNAを作って細胞分裂を進めていく人間のような高等生物とは逆に、不安定なRNAからDNAを作って増殖していく。それがこのレトロウイルスというウイルスの本態なのである。  そんな極めて原始的な増殖法を我々とは反対という意味で逆転写と呼ぶ。そして、どこかの教授が言っていたようにこの逆転写は正確性がとても低い。  それはつまり十分に世代を経れば大変異が生じるということになる。 「そんな……ことって……」 「それだけじゃないんだ」  さらに言えばアガペーウイルスが侵すのは好悪を決める脳の海馬という部位だ。大変異で無くとも、ちょっとした変異で惹起される感情が変わる可能性は高い。  抗原性も変わるから、一度アガペーウイルスに罹患した寛太が再び罹ったのも頷ける。同じ年に型の違うインフルエンザをもらうようなものだ。 「俺は、哲郎おじさんにそれを伝染(うつ)したんだ……」  寛太が哲郎に投げつけた液体……あれは水で薄めた寛太の喀痰だった。好悪の感情が逆になれば、家族を手にかけようとするその気持ちも逆転すると考えたのだ。  発症までの時間が極端に短いというアガペーウイルスの特性も寛太に味方していた。 「だから、多分哲郎おじさんは――自分の邪魔しようとする俺に、かえって愛情を抱いてしまったんだ。途中からおじさんは俺しか目に入っていないみたいだったろ……」  ――覚悟は決まったか? 痛くないようにしてあげるから。あちらの世界は君が思うよりもずっと優しい。一緒に天国へ逝こう……。  哲郎の放った言葉を思い出してぞっとする寛太。それらの言葉が一体どういう意味で使われたのか……考えるだに恐ろしい。  ぶんぶんと首を振り、思考を停止する。 「ええ……そう言われてみれば……え、じゃあ……それって――」  その時、突然小枝子が何かに気がついたようだった。 「木村君に告白された時、寛ちゃんの様子がおかしかったのも……」  寛太は少しうつむいて、恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻く。 「ああ……悪かったな、小枝子。あれは――俺の本心じゃねぇ。本当の気持ちの……逆だ」 「――――!」  小枝子が口元を隠して押し黙る。一方で寛太も恥ずかしくて小枝子の顔を直視できない。  意味もなく天井の木目を見上げて、足踏みなんかしてしまう。    どんッ。   「お、おいおいおいッ!」  突然小枝子が寛太の胸の中に飛び込んできた。天井なんかを見上げていたために寛太は思わずバランスを崩す。  しかし、何とか転倒は免れ、もたれかかってくる小枝子を支えることができた。  寛太の胸におさまった小枝子は何も言わない。  そっと胸の中で肩を震わせている。  その背に腕を回そうかどうしようか考えて、寛太は、それよりも先に言うべきことがあることを思い出した。 「俺は……ちゃんとお前を守れたかな?」  その呟きに小枝子がハッと顔をあげた。  涙で潤んだ小枝子の瞳には、間の抜けた自分の顔が映っていた。  強張っていた小枝子の顔が寛太の言葉にゆっくりと緩んでいく。  満面の笑顔が花開く。 「うんっ、うんっ。寛ちゃんは私を――守ってくれた。ちゃんと……約束を……守ってくれたよっ」  その笑顔に、寛太は十年近く前の――あの時のことを思い出していた。  父親に叱られ泣いていた小枝子。  守ると誓った寛太。  奇しくも似たような状況にある今、それが寛太の記憶を完全に呼び覚ましていた。  長い年月がたち、女の子は随分成長した。  しかし――今、胸の中にいる少女の笑顔は、確かにあの時の女の子と同じものだった。 「私ね……私ね……」  ひしと、寛太の制服を握りしめて小枝子が寛太の胸に額を当てる。耳まで真っ赤に染まっているのがよく分かった。 「おう」  だが、今の自分も顔も到底見られたものではないだろう。きっと小枝子の事が笑えないくらいに赤面しているはずだった。耳の奥ではじんじんと音がするほど血管が脈打ち、心臓は破れそうなくらいに高鳴っている。 「私ね、改めてもう一度……答えが……聞きたいな?」  そう言った小枝子の唇の端が震えていた。  ここで「答えって?」と惚けられるほど寛太は間抜けではない。  木村と対峙した時、寛太は最低な形で小枝子の気持ちを踏みにじってしまった。  あの時、もしもウイルスに罹っていなければ答えたであろう、寛太の素直な気持ちを小枝子は聞きたがっているのだ。 「そうだな、言い直そう」  寛太は言って、一つ咳払いをする。  そして、がしっと小枝子の両肩を掴み、真正面からその顔を見据えた。  小枝子はびくっと一瞬体を緊張させたが、最後には赤らめた目を寛太に向ける。  薄暗い部屋で少年と少女が見つめあう。  家を囲んだ警官の向けるライトが、窓越しに二人の横顔照らした。  少年が……ゆっくりと、息を吸う。  そして、言った。 「小枝子……。俺は、お前のことが――す」  キーーーンッ! 「突入ッ! 突入ッ!」「クリアッ!」「二階だ、急げッ!」  耳に届いた破砕音、足裏に響いた振動――俄然騒がしくなった室内に二人は当惑した視線を交わしあう。 「ななな、何だよッ!」  その時、半開きになった南側の窓から拡声器の声が飛び込んできた。 「速やかに投降しろッ! 馬鹿な事は止めて出てきなさいッ!」 (――このタイミングで、か……)  間の悪さに苦笑を禁じ得ない寛太。  おそらく、ベランダのレンガを持ち去る小枝子の姿が警官に見られていたのだろう。  追い詰められた小枝子が、父、哲郎に最後の抵抗をしようとして――ぐさり。  それが警察の想像したシナリオ……一刻の猶予も残されていないと判断したに違いない。  どうする? と、思わず目で尋ねると、小枝子はくすっと微笑んだ。 「……寛太」  そして静かに自分の名前を呼んだ。 (寛太? ……呼び捨て?)  今まで、呼び捨てで小枝子に名前を呼ばれたことなど無かった。  驚いてその顔を見ると、なんと小枝子が瞼を閉じている。  どすどすと階段を駆け上って来る警官隊の気配。  時間はもうほとんどない。  目を閉じて顔を上にした小枝子。  これはなにか。これはなにか。  答えを口にするのではなく行為で示せと、そういうことなのか。  そして寛太は、コンマ数秒でその覚悟を決める。 (分かった、小枝子。お前のファーストキス……俺が、ここで貰うッ!)  がっしりと小枝子の二の腕を掴む寛太。  ぐっと目を閉じ唇を突き出す。  そして……一息に顔を近づけ――。 「あっしゃあ、お前みたいなゲス野郎が一番嫌いなんじゃ、触るな、カスがッッ!」   急所の一つである人中(じんちゅう)を突かれ、衝撃が寛太の脳天を突き抜けた。  ざくん、と草取り鎌で刈り取られるようにして、意識が持っていかれる。  ふっ飛ばされ回転する視界の中で、寛太はこぶしを突き上げた小枝子の姿を見た。 (……しまった)  薄れゆく意識の中で寛太の網膜が捉えた小枝子は、哲郎もかくやという恐るべき般若の形相に捻じれていた。 (……小枝子にも伝染(うつ)した……)  臨終間際のテレビが、ついにブツンと消えるようにして――寛太の目に映る世界が真っ暗に染まっていった。     エピローグ  好きな人に好きだと告げる。  それがどれだけ難しい事か――。  あなたが好きです。あなたを大切に思っています。あなたを愛しています。  そう素直に伝えることさえできたのならば、人と人はもっと仲良くなれるかもしれないのに。 「……あ、――お兄ちゃんが」  ずきん。  最初に戻ってきたのは痛覚だった。 「うッ」  鋭い痛みが高波のように頭頂部から全身へ押し寄せてくる。だが、その痛みが意識を覚醒させた。 「お兄ちゃんが目、覚ましたよ〜ッ! お兄ちゃーんッ! お兄ちゃーんッ!」  寛太はゆっくりと目を開ける。徐々に輪郭の滲んだ小柄な人影が見えてくる。瞬きを二度三度繰り返すと、それが妹の顔だと分かった。 「こ……ここは」  痛む頭を押さえながら体を起こす。見知らぬ部屋。乳白色の天井。部屋に対して大きめの窓ガラスからは、ほの白い陽光が燦々と降り注いでいた。 (……天国?)  そんな清浄な光景を目の当たりにし、寛太は一瞬そんな勘違いしてしまった。映画のワンセットの様な非日常空間で、ことみが声を張り上げる。 「お兄ちゃんッ! ことみも一応心配してあげたんだからねっ」  そう言って、満面の笑顔を浮かべていた妹の顔が中心に向かって潰れた。  それは、ここ最近見ることのなかった妹の泣きべそ顔だった。  ことみは、泣き顔を見られまいとするかのように、寛太にかけられた布団へ体中でダイブする。寛太は狼狽しながらも、妹の華奢な体をしっかりと受け止めた。妹の体は記憶にあるよりも重く、大きくなっていた。 「心配掛けたみたいで悪かったな、ことみ」 「お、お、お兄しゃん……」  一瞬顔を上げた妹の睫毛には、やはり透明な雫が宿っていた。ことみはしゃっくりをするかのように体を痙攣させ、今度こそシーツの上に突っ伏してしまう。  寛太はそんな妹の背を撫でながら、ゆっくりと室内を見渡した。どうやらここは病院の一室らしい。点滴を引っかけるフックや、『酸素』、『笑気』と書かれたガス栓の様なもの、そして病院独特の消毒めいた香りが寛太にそう思わせた。  そして、 「親父」  寛太の目が真正面のソファに腰をかけていた人物をとらえた。それは父、剛三だった。父は珍しく笑みらしきものを浮かべこちらを眺めている。 「全く……お前は……」  そう言ってベッドサイドに歩いてきた父が、ごつん、と拳骨を寛太の頭上に振り下ろした。  だが、それはとても軽い拳骨。本気の父の拳だったらとてもこうはいかない。それが父の内心を表しているようだった。そんな父の拳骨でまだ少し寝ぼけていた寛太は完全に目を覚ます。  そして、状況を思い出した。 「親父! 小枝子は無事なのかッ! 俺は……哲郎おじさんは、どうなったんだッ!」 「寛太ッ!」  だが、寛太の問い掛けは不意に響いた横からの声に遮られた。何故か痛む首を巡らして声のした方を見ると、 「良かったッ! 心配したのよッ! 丸一日眠りっぱなしだなんて――なんてお寝坊さんなの、この子はッ!」  部屋の入り口に母が立っていた。母は右手で口を覆い隠して、しばらく感極まったように震えていた。  ……が、突然。 「ちょ、ちょっと待って、母さん。待った待った、ゲッ、ガフッ!」  寛太に駆け寄り、ことみの全く同じに布団の上にダイブした。子供のそれとは違う成人女性の体重が腹部に激突して寛太は嗚咽する。  この母にしてことみあり。なるほど、血の繋がりとはこういうことなのか、腹を襲う鈍い痛みに喘ぎながら寛太は得心がいった。  母とことみは二人仲良く、すりすり、すりすり、と布団カバーに顔をすりつける。  その様子を呆れ顔で眺めていると、不意に頬の辺りに視線を感じた。  ゆっくりとそちらを見れば、病室の入り口のところにニヤけ面のマレットヘアーがいた。 「おうッ、起きたか寛太ッ! ぶふふっ。お手柄だったな」 「雄平……」  お邪魔します、と一声入れて雄平が病室に入ってくる。 「小枝子ちゃんに殴られて昏倒したんだってな。ま、いい気味さ。これで帳尻があったんじゃないか? お前、割とひどいこと小枝子ちゃんに言ってたからな……ね、小枝子ちゃん?」  と、雄平が入口の陰に隠れて死角になっている辺りに向けて同意を求めた。 「小枝子が――いるのか?」  雄平が寛太からも見えるようにすっと体をどかす。 「寛……ちゃん……」  するとそこから、おずおずとした仕草で小麦畑と麦わら帽子の似合いそうな少女が現れた。 「小枝子、無事だったか!」  その姿に思わず声が弾んでしまう。  だが、小枝子の反応は乏しい。寛太とは対照的に薄暗い表情のままだった。  ずり落ちてくる眼鏡を何度も上げ下げしながら怯えたような視線を室内に向けている。 「……小枝子?」  そんな小枝子の仕草に不安を覚えた寛太は、掠れたような声をかける。  だが小枝子は急に何かを決意したような顔になり、背筋を伸ばした。  そして、きりっとした目を寛太にではなく、父、剛三と母、初江に向ける。 「この度は、小林家の不祥事に大切なご子息を巻き込んでしまいまして、本当に申し訳ありませんでした」  そして小枝子は、突然頭が床に着きそうになるくらい深々と頭を下げた。 「お、おいおい、突然どうしたんだよ?」  突然小枝子の口から放たれた他人行儀な言葉に、寛太は驚きを隠せない。 「それどころか、このような事件を引き起こしてしまった父、哲郎を擁護するようなお言葉まで頂き、感謝の言葉もありません……。私にできることであれば、どのような責任でも取らせていただく覚悟です」  スカートの端を握りしめ、必死に言葉を紡ぐ小枝子。  そんな小枝子に、だが父はどこまでも威圧的だった。 「哲郎さんの血液からはアガペーウイルスの抗体が検出された。だからあれは擁護ではなく事実だ。違うかね、小枝子さん?」  先程までの柔和な顔が嘘のようだ。完全にいつもの鬼軍曹と化している。 「はい……」  この父を前に未だ目を逸らさずにいる小枝子を、寛太は褒めてやりたかった。  その時、ふっと腹部にかかっていた重みが消えたと思ったら、母が立ち上がっていた。 「とにかく、いつまでもそんな所で立っていないで入りなさい。別に取って食いやしないから」  寛太に話しかけた時とは打って変わった冷たい声色で母が言った。  小枝子と雄平が父に促されるがまま部屋の中央にあるソファに座らされる。父はそんな二人を見下ろすように正面に座り、母とことみは寛太のベッドサイドにあったパイプ椅子に腰を下ろした。  そして、父が重々しく口を開いた。 「おそらく、哲郎さんは心神喪失が適応され、刑事責任が問われることはないだろう。ただ、重いうつ病を発症しているので、しばらく精神科病棟で入院加療が必要になるらしい。当分の間はお父さんのいない生活になると思うが、それは彼が行った事の大きさを考えれば仕方がない」 「はい……」  初めて知る事実に寛太は大きな息を吐く。だが、その程度で済んでよかったのかもしれない。下手をすれば全員が死んでいたのだ。 「……先程君は責任を取ると言ったね? そういう言葉は軽々しく口にして良いものではない。むしろ私には、そう言うことで責任を回避しようとしたように聞こえてしまった。では尋ねるが、実際の所、君はどう責任を取るつもりだったのかね?」  鉛のように重く響いた父の言葉に、小枝子は「それは……」と呟き絶句してしまう。 「その通りよ、小枝子ちゃん。あまつさえあなたは助けに行った息子に暴力を振るった。寛太はあなたを助けに行ったのよ? それを殴りつけるとはいったいどういうつもり?」  死体に鞭打つように、初江が小枝子を打ちすえる。寛太はたまらず口を挟んだ。 「違う、あれは俺が――」 「いいの、寛ちゃんッ!」  だが、寛太の口から放たれた擁護の言葉は、守るべき小枝子自身によって遮られた。 「でも、小枝子……」 「いいの……寛ちゃん……」  そう言って小枝子は剛三と初江に向き直った。 「申し訳ありません……確かに軽率な発言でした。私にできる責任の取り方……ですね? もし、慰謝料、として金銭的に請求していただけるのであれば――今すぐとは参りませんが、いずれ私が必ずお支払いいたします。それ以外にも、今の私にでも……できることが、あれば……なんでも……」  そこまで口にした所で――小枝子は言葉を失って俯いてしまった。  酷だった。  中学二年生に過ぎない少女に、そこまで求めるのは酷という他なかった。  泣き虫の小枝子がここまで言われても涙を見せていない。泣いたら許してもらえるとか、そういう甘い考えで臨んでいると思われたくない一心なのだろう。  だが、そんな小枝子の姿を見た途端、ぶちん、と寛太の頭の中で何かが切れた。 「お前らッ! ふざけんのもいい加減にしろよッ! あれは全部俺が勝手にやったことだッ! それでどうして小枝子が責められなくちゃいけないんだッ! 責めを負うべき者がいるんだとしたら、それは俺だッ!」  シーツを捲って立ち上がり、炎のような怒声を響かせる。  だが、父も母も寛太の事など一顧だにしない。 「聞いてんのかッ! 親父ッ、母さんッ!」 「……ふぅん? なんでも、ね?」  だが、徹底的に寛太を無視して初江が嫌らしい笑みを小枝子に向けた。 「だったら、責任を取って、うちの息子と結婚してもらおうかしら?」 「うん?」「へっ?」  寛太と小枝子の目が点になる。  間髪いれず、ぶふふっ、と笑ったのは雄平。  それきり沈黙の帳が降りる。  一秒、二秒、三秒……我を取り戻したのは小枝子が先だった。 「え、え、えぇ? けけけけけ、結婚? 結婚ですか? 私が……寛ちゃんと? ええっ、そんな……ちょっと早、っていや、別に――嫌ってわけじゃ……」  茹であがったタコのように真っ赤になった小枝子が頬を押さえてしなを作る。 「ちょ、ちょっと待てよ母さんッ!」  あり得ない展開に悲鳴を上げる寛太。だが、寛太の頬ももちろん赤い。 「な、なんでそこで結婚が出てくるんだよッ! おかしいだろッ!」 「いいえ。全然おかしくないわ。だって昔から人をキズモノにしたことに対する責任は入籍って決まってるでしょう? それに、責任を取るって言ったのは小枝子ちゃんの方じゃない。小枝子ちゃんのパンチでこんなに不細工になってしまった寛太を、一体誰が婿に貰ってくれるというの? もう、小枝子ちゃんしかいないじゃない。うふふ」  そこまで言われてようやく寛太は自分達がからかわれていることに気がついた。 「分かりました、おばさん。いえ、今日からは初江お母さんと呼ばせて下さい。不肖、小林小枝子、まだ法的に籍を入れることは適いませんが、気持ちの上では今日から今本小枝子となり、精一杯寛ちゃんに……」 「待ーて待て待て、小枝子ッ! お前、からかわれているのが分からないのか! 見ろ、この母の顔を。めっさニヤけてるじゃないかッ! ことみに至っては――てめぇ、笑い過ぎだぞッ!」  ことみは抱腹絶倒という言葉通りの体で椅子の上を転がっていた。 「ぶひゃーひゃひゃひゃ。おっかしい。お兄ちゃんの顔、おっかしい。『ちょ、ちょっと待てよ母さん』だって。ぷぷぷぷぷ」 「ぶふふ。良かったじゃねぇか、寛太。初恋はなかなか実らないんだぜ。ぶふふふふ」  ぽかんとした顔の小枝子の横では、雄平が必死に笑いを堪えていた。  そもそもこいつは何をしに来たのだろうか。お見舞いなどといった殊勝な心掛けが雄平にあるとは思えない。寛太の状況を面白がりに来たに決まっている。 「若いっていいなぁ……」  親父は窓の外を眺めながら無精髭を撫で、 「え、え? 何、どういうこと? 私何か変なこと言った?」   小枝子に至っては未だ状況が飲みこめていなかった。 「……ぷっ、あはは。ぶははははッ! ごめんねぇ、小枝子ちゃん。冗談よ、冗談。小枝子ちゃんがあんまり真面目くさった事を言うからちょっとからかっただけよ。でもまさか本当に結婚OKしてくれるとはね? やったじゃない、寛太。ぷ、はははははは」  と、初江もばんばんと腹を叩いて笑い始めた。 「言ってろ」  寛太は不服気な声を上げたが、内心はまんざらでもない。間接的にとは言え、求婚に対してOKと返事がもらえたのだ。これで嬉しくない男がこの世のどこにいようか。  先程から首に力を入れて精一杯血液の逆流を留めようと努力していたが、どうにも顔が火照って仕方が無いのはそういう訳だった。  初江はひとしきり笑い転げた後、目じりに涙を光らせながら、真面目な声を出す。 「ねぇ、小枝子ちゃん。そんなに思い詰めなくてもいいのよ。あなた達の家族とは、私とこの人が子供だった頃からお隣同士。何かあったらお互い助け合ってきた仲なのよ。いまさら水臭いこと言いっこなしよ。私は小枝子ちゃんや健史君のことを自分の子供のように思っているの。……ねぇ、あなた?」 「うむ……。うちの寛太やことみも小林さん家(ち)には本当の子供のように可愛がってもらった。今回の事件では、むしろ私の方が少なからぬ責任を感じている。哲郎さんがそんなに追い詰められていたとは――まったく気付かなかった。もっと早くに気付いていたら、違う解決法もあっただろうに……」  そう言って、剛三が沈痛な顔で俯いた。 「小枝子ちゃんだって……もし、寛太が同じ目に遭ったら助けに来たでしょう?」  ようやく事態が飲みこめてきた小枝子が、顎をかくかくさせて頷いた。その様子に初江が目を細めて微笑む。 「ね、そういうことよ。だから、むしろ困ったことがあったらどんどん頼って欲しいの。何もかも一人で抱え込むことが、必ずしも責任感のある行動とは言えないのよ。ましてやあなたはまだ子供なんだから――もっと周囲の大人に頼って頂戴。私達も出来るだけの手助けはするつもりよ」 「お母さ……いえ、おばさん……」  小枝子は、はい、はいと頷きながら涙ぐんでいた。その様子になんだか寛太も感動してしまう。  なんだ、母さん。母さんもたまには良い事言えるじゃないか。  鼻孔に突き抜けるものを感じながら、寛太は日だまりの中の光景を眺めていた。  ――その時。 「うぶるぁぁあぁああああッ!」  突然、そんな怪音が廊下の壁から轟いてきた。 「ちょ、ちょっと……ここは病院ですよっ。お静かに、お静かにして……キャァアアアアッ!」  騒然とした気配が伝わってきて、どすどすどす、という荒い靴音が響いたと思ったら、それが寛太の病室の前で止まった。 「寛太はここかぁああああッッ!」  そしてナマハゲもかくやと言う気炎を吐きながら、キツネ目の小男が闖入してきた。 「うぶるぁぁああああッ!」  それは藤本敏行だった。  藤本は線の細い肩を怒らせ、睨みつけるあまり黒目が見えないほど細められた目で寛太を射殺そうとして来る。その様子はどう見ても尋常ではない。 「藤本じゃないか。どうし……」 「うぶるぁぁああああッ! 寛太ぁああッ! 憎し憎し憎しッ! ここで会ったが百年目――貴様の命……頂戴するッ!」  話をする暇も無かった。 藤本は部屋に入るや否やベッドの上の寛太に躍りかかる。 一瞬の出来事に誰も反応できない。 「どぶるぁぁああああッ!」  そして、寛太の上に馬乗りになった藤本は、 「ちょ、やめ――いてっ。お前、いきなり何すんだッ!」 「僕は……貴様が――嫌いだぁぁあ、ぽぉおおおおッ!」  鼻息を荒げながら、ポカポカと寛太の頭を殴り始めるのだった。  子供の喧嘩のように腕を振り回すだけの殴打を、しばし呆然と見守る一同。  しかし、不意に何かを得心した初江が、からからと病室の窓を開けた。  剛三もまた何かに気がついたようで、ソファの端に置いてあった鞄を開け、中から青いサージカルマスクを取り出し身につけた。  雄平は藤本から逃げるように距離を置き、ことみは病室に設置されている消毒液を周囲に振り撒き始める。  ただ、小枝子だけが、えっえっ、と混乱したように視線をきょろきょろとさせていた。 「はいはい。愛されてるわね、寛太。モテ期到来ってやつかしら。早い時期に絶頂を迎えると後がしんどいわよ」 「いて、いて、痛てててッ! おいッ! そんな悠長なこと言ってねぇでこいつを止めろッ!」 「いやーよ。伝染(うつ)ったら大変でしょ?」 「えっ、えっ、どういう事ですか?」 「強力な恋のライバル出現よ、小枝子お姉ちゃんっ。うふふふ、早く何とかしないとお兄ちゃんが持って行かれちゃうかもっ」 「おい、良いから早く止めろッ!」 「……まだまだ青いな――寛太」  騒ぎを聞きつけた病院のスタッフも駆け込んで来たものだから、寛太の病室は大騒ぎ。  だから、そっと抜け出した人影に、誰も気付く事はできなかった。  人影は背中を丸めて早足で立ち去りながら、懐から液体の入ったビニル袋を取りだす。  そして、それを人目のつかない廊下の端に投げつけた。  袋はびちゃり、中身をぶちまけと汚らしい染みを作った。 「ぶふふっ。いやぁ、やっぱりおもしれぇなあ今本家」  階段を急ぎ足に駆け降りながら、人影――大坪雄平は、思い出し笑いでもするかのように一人ほくそ笑む。  すれ違った看護師がその独り言に訝しげな視線を向けてくるが、無視して通り過ぎる。 「じきにこの病院も大パニックにだな……ぶふふ」  一階のエントランスロビーへと向かい歩を進める雄平。  ロビーに着くとそこでは会計待ちの患者がひしめいていた。  薬局の窓口を通り過ぎ、入り口前に設置してある安っぽいビニルのソファにどっかりと腰をかける。  すると――。 「満足かの、雄平?」  どこからか声が聞こえてきた。  良く見ればソファの端に霞のように印象の薄い老人が座っていた。  声はそんな老人の薄い唇から放たれていた。 「ああ、さすがだな、めっちゃ面白かったぜ」  雄平はさして驚いた風もなく、老人に背を向けたまま答える。  そこに座る老人は完全に病院の風景と一体化していた。  滲んだような灰色のコートとズボン。これと言って特徴の無いしわの深い顔。その姿は後で思い出そうとしても困難を極めるだろう。  老人と雄平は、互いにそっぽを向きながら独り言のように言葉を交わし合う。 「だけど、バレたら大変だぜ? いくら平和ボケした日本だからって、テロは重罪だろ? 捕まったら極刑も免れないんじゃないか?」  その光景に目を留める者は誰もいない。  極刑という言葉を使いながらも、まるで危機感を感じさせない声色で雄平が言った。  その問いかけに、「ハッ」と、老人が咳き込むような笑い声を上げる。 「老い先短い老人がどうして死を恐れようか? 可愛い孫のためだ。これくらいの事、何でもないわ」  ぐふぐふぐふ、と泥を煮るような音が老人の喉から漏れた。 「それにな。今の時代には飽き飽きしとったのだよ。これほどつまらない時代はここ七十年初めてだ。希望や楽しみはどこをひっくり返しても見つからず、あるのは底なしの倦怠と徒労……。お前に頼まれなくともいずれ私がやったことだろう。もっとも、もし私が一人で事に及ぶのであれば、もっと凄惨なものにしただろうがの」  暗く重く、だが自信に満ち溢れた声。 「ほんと、おっそろしいジジイだな。ということは、つまりあれか。人類は俺に感謝しなきゃいけないってことだな。流血の大惨事がこんなにも愉快なイベントに変わったんだもんな」 「違いない」  ぶふふ、ぐふふ、とよく似た笑い声に、頭に包帯を巻いた診察待ちの少女が初めて怪訝な視線を向けてくる。 「これから――もっと面白くなるんだろう?」  雄平が喜色を滲ませた声で尋ねる。 「もちろんだ。ほれ、もうテレビでやっとる」  血管の浮いた染みだらけの指がロビーに置かれた患者用の大型テレビを指差した。  テレビでは顔を紙のように白くさせたちこたんが臨時ニュースを読み上げていた。 『世界中でアガペーウイルスの変異体が報告されています。アメリカCDCの発表によると、抗原蛋白の変異したアガペーウイルスが、少なくとも既に六種類確認されており、これらは変異種ごとに感染した時の症状が異なるとのことです。現れうる精神症状には、易怒、多幸、抑欝、反転など様々なものが報告されており――中には死んだ人が見えるという幻視報告も――』  ぴゅう、と雄平が口笛を吹いて老人の偉業を褒め称える。 「すげぇな。死者が見えるなんてのもあるのかよ。くぅ、楽しみだぜ。いっそ小枝子も健史も哲郎さんに殺されてれば面白かったのに。そうすれば、幽霊になった小枝子と寛太が感動のご対面――なんて展開もあったかもしれないのにな。くぅぅッ! 惜しいなぁ。……それにしても爺さん、これだけのウイルスをどうやって世界中に広めたんだ?」 「グローバル時代万歳といったところだの。空港が近くて良かったよ。ぐふふ」  その時、ついに好奇心を押さえられなくなったのか、包帯を巻いた少女が雄平の前にやってきた。  少女はじぃ、と覗きこむような視線を雄平に向ける。  雄平は無表情にその視線を受け止めていたが、不意に――。  にやぁ、と歯をむき出しにして笑った。  いつもの雄平の笑み。  だが、違う。もっと根本的な所で人を恐怖させるものが、そこにはあった。  それに気がついたのだろうか。少女はきゃぁ、と悲鳴を上げて母親の元へ駆けて行った。  雄平はそれを満足げに見守ってから口にする。 「さて、俺はもう行くぜ、ジジイ。今回のウイルスにはあんまり罹りたくないんでな」 「おや。ゲームは対等であってこそ面白いんじゃなかったのか。我々だけがゲーム盤の外にいるなんて、そんなつまらぬことは無いだろう? ぐっふっふ。どうだ、ここは一つ一緒に集団感染といこうじゃないかね」 「嫌だね。もっと狂気に満ちたウイルスが出てくるまで、余計な免疫はつけたくねェんだ」  そして雄平はゆっくりと立ち上がると右腕を上げた。 「じゃあ、な。大坪豊、青海理科大学教授。自分で作ったウイルスに罹ってうっかり自白なんかするなよ?」 「それもまた一興だろう? ぐふぐふぐふ」  雄平はそう言って自動ドアの向こうの真っ白な光の中へ消えて行った。  残された老人はいつまでも……病院中がパニック状態の騒乱をきたし機能不全に陥るまで、一人喉の奥で笑い続けていた。  こうして、世界はまた一つ新しい節目を迎えた。    後の歴史書はこの時代を次のように記している。  二〇世紀末から二一世紀初頭にかけて、個人の自由と人格的尊厳に立脚した個人主義の時代が台頭した。それは個人のプライバシーが度を越して尊重され、個人間の交流が著しく阻害された鬱病と自殺の蔓延(はびこ)る暗黒時代であった。  しかし、突如として現れた一つのウイルスが世界を変える。  そのウイルスは重くなりすぎた理性の頸木から人類を解放し、人類が生来持ちうる健全な情炎を開花させる一助となった。  ウイルスと幾千にも及ぶその亜種は二十一世紀という世紀を股にかけ世界中を席巻した。その結果、人種、国、肌の色――ありとあらゆる差別が、思考の解放による混乱の中で意味を失くすことになった。  全ては結果論。  だが、結果こそが重要であるということもまた事実。好悪を問わない心中の吐露が人類の前進に重要な役割を果たした事は否定できない。人と人とが相対することによって生じる軋轢のほとんどがこれにより霧散したからだ。  真のグローバリズムが産声を上げた瞬間だった。  これより先、世界は個体解放主義が隆盛を極めることになる。    奇しくも人類は、自らを一つ上の段階へ押し上げることになったそのウイルスを、当初から『神の愛』という意味の名で呼称していた。  蔑称、俗称に過ぎなかったそれが、名に恥じぬ働きによって正式名称として国連に認可されたのは、まさに神の奇跡と言えよう。  神の御名を冠したウイルスは、人類にとって福音に他ならなかった。    そのウイルスの名は――『アガペーウイルス』といった。