序章  出会いは、最悪だった。  通常、小さかった頃のことなんてよほどのことでもない限り覚えてなんていない。ましてや、嫌なことならなにをかいわんやだ。人間の脳みそは非常にずるくかしこくできている。忘れるという行為は、人間にのみ許された特権なのだから。  だけど、あの日あの時、あの庭で、あのこに言われたあの言葉だけは、今も胸のど真ん中に深く厳しく刻まれている。  ──あんたに、そないなこといわれたない。  どこか違和感のある京都弁。空気が、乾ききっていた。吐く息で、前が見えなかった。月も雲もない、刃物のような夜だった。部屋の明かりは必要最小限で、五歩先はまじりっけのない闇だけがあり、ともすれば縁側を踏み外して庭に転げ落ちそうだったあの屋敷。どうしてあの日あの時、自分はあの屋敷にいたのか、最後まで理解していなかった。ただ、父と母に手を引かれるままに見上げるほどの門をくぐった。見知った顔、知らない顔、たくさんのひとがいた。一様に皆、黒い服を着ていた。暗い顔をしていた。それは父も母も例外ではなく、むしろ殊更に厳しく沈んだ顔をして、出会うひと出会うひとすべてに頭を下げていた。居心地が悪かったのだろうと思う。そんな両親の姿を見たくなくて、逃げるように屋敷中を歩き回っていた。縁側の向こう、闇と光の狭間に浮かぶ緑の庭に、彼女はいた。  ことのほか印象的だったのは、そのおでこだった。今ではもう、めったなことでは見せてくれなくなったきれいなおでこが全開で、だから今日はお空におつきさまがいないのか、と思った。迷い込んでいたのだ、おつきさまは。こんなところに。  見ほれていたのだと思う。ずいぶん長い間、そうしていたと思う。  気づいた彼女が、こちらを見た。髪が肩を、さらりと流れた。鴉の濡れ羽色、とはこういうのを言うのだろう、艶やかな髪とセーラー服の黒。セーラーカラーと肌──とりわけおでこの──白。そのコントラストの鮮烈さは、今でもはっきりと覚えている。  わずかに交差した視線を、だけどなんの感慨もなく彼女は伏せた。闇へと一歩踏み出して、だけどすぐに静止した。視線は足元に固定していた。彼女の行く手を遮るように、なにかが動いていた。苔むした敷石に、小さな蟻の隊列。  そう、やめろとか、そういうようなことを言ったのだ、自分は。  蟻たちを一瞥して、だけど彼女はその歩みを止めることはなかった。漆黒のローファーが、容赦なく小さな蟻の群れを踏み潰していた。  別に蟻がかわいそうだとか、そんな殊勝なことを思ったわけじゃない。ただ彼女が──今となってはこっ恥ずかしいことこの上ないのだけれど──月の化身なんじゃないかとさえ思った彼女が、そんなことをしていることに耐えられなかったから。  ──あんたにだけは、いわれたない。  やっぱりどこか、無理をしたような、なってない京都弁。だけど言葉というものに、殺傷力があるのだとしたら、きっとその時の自分はもはやこの世のものではなかったろうと思う。  ──ひとごろしのくせに。  出会いは、最悪だった。  あの日の彼女の、その言葉の意味を知ったのは、それよりもっと、ずっと後のことだ。    第一章  最近、雑音が激しい。  いや、それは厳密に言うと語弊がある。耳だけでなく、五感のすべてを蹂躙するそれは、不可思議なノイズ。  振り返ったそこにあるのは、暗く沈んだ街。黒と白と灰色さえあれば目に届くあらゆる風景を写実し尽くせるそれはガラクタにまみれた街だ。鼻をつくすえたにおいは機械油が腐ったもので、らちもないと思いながらそむけた視線の先に、空は見えない。抜けるような青と雲の白のかわりに鎮座するのは、すでに打ち捨てられた上部階層から突き出たいくつもの尖塔で。第九階層のどこにいてもすぐ頭上にある無数のそれは、隙あらばすぐにでも刺し貫かんと待ち構えているようにも見える。視界が揺らぐ。ノイズが走る。まさかとうとうあの尖塔が、建造以来の目的を果たさんとしているわけではあるまい。それは違う。違うと思うが、そう思わせるほどにひどいノイズが小太郎の五感を蹂躙していた。尖塔が波打つ。遠近感が暴走する。今にも頭上に落ちてくるように思える。足場がなくなる。不愉快な浮遊感。傾いた視界の端、暗く塗り固められた街には不釣合いな、目の覚めるような白、エプロンドレス、  アリスの影、 「どうした、コタロー」  我に帰る。いや、帰ろうとして、ひどく苦労した。ノイズを抽出、解析して除去、空いたセグメントに──ええい、面倒だ。自作のフィルタをぶちこんで、とにかく必要最低限の信号だけを拾う。過保護なセキュリティがこれでもかとエラーを吐くが無視だ。片っ端からキャンセルして、 「くそ、うっとおしい」 「例のアレか?」 「アレってなんだよ。ってか、なにごともなかったようにチャットすんな。遅刻だろ二十分」  毒づきながら振り返り、ようやく現れた相棒のその姿に、思わず絶句する。予想してなかったといえば嘘になる。まさかメインキャラでくるわけはないと思ったし、セカンドも低スペックというわけでもないし。ただ問題は、その装備だ。念のためステータスウィンドウで確認する。  あぶないみずぎ。 「うは。やる気ねえ」 「当たり前だ。今のレベルでクリアできるわけねんだし。せめて目の保養だ、目の保養」 「自分の身体見て楽しいかよ」 「楽しいですがなにか」  愚問だった。そもそもこいつはこのゲームのキャラデザ目当てで始めたんだっけ。ちょっと前に社会現象にもなったアニメのデザイナーが女性キャラを担当したらしく、野郎でも女性キャラを自キャラにする者が多い。いや、こいつが男かどうだかはリアルで会ったことないんでわかんないんだけど。 「なんならお前にもやろうか。びきにたいぷととっぷれすたいぷとあるけど」 「いらねえ。どうでもいいけどさ、さっきからなんでテキストモード?」  水着のおねえさんは、まったくの無表情でスケッチブックを突きつけてくる。 「壊れちゃったんだよ(´・ω・)」 「縦書きだからなんだかわかんねーな、顔文字」 「いや、横書きで読み込めよ!(^^)/~~~」 「顔文字、間違ってるからな」 「慣れてねえんだからしょうがねえだろ!\(^o^)/」  なんだかきわどい水着着たおねーさんが無表情に問い詰めてくるサマはよく考えなくても非常にシュールだ。ようは音声モジュールと表情モジュールがバグってんのか。 「ったく、貴重なアイテム枠潰してなにやってんだか」 「アイテムあろうがなかろうが一緒だよ。言ってっだろ、クリアなんてできねんだって」  やぶへびだったか。 「ここまで来といて今さらぐだぐだ言うなよ。とっとと行くぞ」 「ほんとに行くのか?」 「行くさ」  目の前にそびえるのは、塔。作者はエンデにかぶれていたらしく、名前はアイボリーなのだという。なのに色は血のような赤だった。鉄と油と機械でできたこの町を、睥睨するように屹立するそれは赤の女王の居城であり、この物語のラストを飾る場所だ。 『グズな国じゃの! ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!』  それがこのゲームのタイトルだ。  無論、こんな常軌を逸したタイトル誰も口にすることはなく、ゲーム雑誌でも概ね『赤の女王』と呼称されるのが常である。  舞台はとある地下世界。赤の女王の強いる圧政を、レジスタンスとなって撥ね退けることを目的とするロールプレイングゲームだ。それだけなら今の時代掃いて捨てる場所に困るくらい存在する。このゲームが他と一線を画すのは、従来の視覚、聴覚だけでなく、五感すべてに仮想現実を投影できるという一点に尽きた。  フルセンスMMO。  公開された当初は正直あまり振るわなかった。シナリオの実装の遅れ、バグフィックスの甘さはもちろん、なにせプレイするためには給料二か月分の全身タイツを着込まなければいけなかったからだ。夏は暑いし冬寒い。それ以前に客観的に見て非常にアレなのがなかなかユーザー数を確保できなかった第一の要因だった。が、それも二年前、バージョン2が公開されてより一変する。全シナリオの実装、フルセンスのレスポンスの改善、なによりフルフェイス型のインターフェイスが登場したことにより、一年前にはついにユーザー数一万を突破し、巨大コミュニティを形成するに至っていた。 「けどさ、いったいなんでまたそんな先を急いでんだよ」  マターリいけばいいじゃん、と相棒は言う。聞こえないふりをして、チャンネルは開かない。  こいつの言うことにも一理ある。フルセンスのインターフェイスを利用した自由度はプレイヤー次第で実質無限大だ。実際赤の女王やモブそっちのけで仮想現実としての日常を楽しむ者が大半であり、レベルが足りなくなるくらい先を急ぐ自分は確かに異端なのだろう、とは思う。  が、きっとこいつは、わかって言ってる。 「そんなに似てんのか、女王って。その──でぼちん≠ノ」  うっかり口をすべらしてしまったのが運の尽きだ。 「彼女ってあれだろ、バージョン2の功労者って言われてる、『赤の女王』の女王=v  若干十六歳でナガモリ・ネットワーク入り。わずか二年であの悪名高き全身タイツをフルフェイスにまとめ上げ、さらに中学生のお小遣い三ヶ月分にまでコストダウンしてのけた神童。ほんとか嘘かは知らないが、オリジナルのプログラム言語さえ開発したとかなんとか。MMOだけでなく、この業界に従事する者で彼女の名を知らないものはいない。 「俺だって、実際見たわけじゃねえよ」  なにせ赤の女王はこのゲームのラスボスだ。おいそれと規制解除されるものではない。 「彼女をモデルにデザインされた、って話を聞いただけだよ」 「ソースは確かなんか?」 「……まあな」  なにせでぼちん本人から聞いたのだから。開発スタッフにしてやられた、と、きれいなおでこにいつもより深い皺を刻んで何度も愚痴っていた。 「ふーん」  スケッチブックにわざわざそう書く水着のおねーさんはもちろん無表情だが、その向こうでヤツがどういう顔をしているのかは手に取るようにわかった。それがまたくやしかった。  でぼちんをモデルにした、赤の女王。  確かに気になる。気にはなるけれど、それだけが理由ではないと、小太郎は思う。 「俺も彼女の写真なら公式で見たけど……まあ、なんつうか、もの好きだよな、お前も」  その『……』になにが含まれているかは想像はつくけれど。  ていうかあれは写真のチョイスも悪いんだよ、と思わず言いかけて、立ち止まる。 「どした?」  手で制して、周囲を見渡す。目の前には見上げても足りない巨大な門がある。深紅の塔にふさわしい血の色の門。可視領域に姿はない。なにも聞こえない。だが、 「においだ」 「へ?」  どこかでかいだにおい。 「なんだっけ、これ」 「いや、俺、鼻も壊れてっから」 「……なんのためのフルセンスなんだよ」  まあいい。 「チャンネル閉じるぞ。どんどこヘイト値上がってるっぽい。主にそのみずぎのせいで」 「ヘイト値て、エンカウントもしてないのになんで、」  皆まで言わせず、むき出しの肩を抱いて、門柱の影に隠れた。においが強くなる。そっと柱から顔を出して、ようやくそれが、なんのにおいかを思い出した。 「かまぼこだ」  見上げたそこにいたのは、サメだった。鉄色の空をゆったりと泳ぐ、三体のサメ。慌てて柱に隠れる。なぜサメ。鏡だか不思議だか知らないが、まがりなりにもアリスを下敷きにしているなら他にいろいろあるだろうと思う。赤の女王の居城が象牙の塔だったり、いまいち統一感がない。でぼちんはほんと、うまくやっていけてるんだろうか──  ついついまたでぼちんのことを考えてしまいそうになって、小太郎は気を取り直す。今はそんなことをしている場合じゃない。  幸い、三体のサメはまだこちらに気づいてはいないらしい。小太郎は、改めて頭上を仰ぐ。  あきらかに遠近感がおかしかった。塔の中腹あたりを悠々と回遊しているはずなのに、どうして視界いっぱいに白いどてっぱらが大映しになっているのか。すばやく視線を左上へ。その動きを感知して、でこの左上あたりにウインドウが展開する。視線ジェスチャー──ナガモリ・ネットワークが開発した画期的なインターフェイスではあるのだが、誤動作も多いため利用する者はそんなに多くない。 「しっかし……」  なんだこのでたらめなかまぼこヤロウは。ウインドウに表示されたステータス画面を見やりながら、小太郎は呆れ果てる。レベルがまず尋常じゃない。敏捷性、攻撃力、防御力に関してはいちいち読み上げるのもばからしい。この「特技:甘噛み」っつーのはいったいどういう冗談だ。ふざけやがって。 「だから言ったろ、ここを突破するにはまずレグメントサーバ行かなきゃいかんのだって」  そんなことはわかってる。憮然としながら、無表情に突きつけてくるスケッチブックを眺める。なにはなくとも、まずはルータのるーちゃんにアクセスする必要があるのだ。ちょっと攻略情報がないと気づきにくいとこではあるけれど、有名な話だ。だけど、 「かったりぃ」 「へ?」 「かったりぃって言ったんだ」  ジェスチャで今度はアイテム枠を召喚。おもむろに取り出すのは、一振りの剣だった。それ自体は、なんの変哲もない細身の刃。 「おい、まさか」  そのまさかだ。答えるが早いか、小太郎は手にした剣を振りかぶると、躊躇など知らないとばかりに自らのどてっぱらへと振り下ろしていた。さくっと小気味よい音を立てて刃は腹を貫通、背中を軽々と突き破って、ようやく止まった。痛みよりもなによりも、爆ぜる熱量に圧倒された。口内に広がる鉄の味を奥歯でかみ殺して、こみ上げる血の塊を必死で呑み下した。いつものことながら、この瞬間だけはどうしても慣れない。まったく、よくできていると思う。  視界の片隅、血で欠けたウインドウに浮かび上がったそのコマンドを、すかさず視線ジェスチャでかっさらった。  小太郎がそれ≠見つけたのは今から一年前。くさいコードだった。明らかになにかあると感じて潜り込んで、予想以上のものにぶち当たった。両親の仕事ではないと思う。でぼちんの仕事でももちろんない。嫌がらせのように入り組んだ構文の階層はまるで子供の落書きのようで、すでにUIまで用意されていながらなぜかそのまま放置されているようだった。解析に一晩、実装に二日かけて、小太郎はそれ≠手に入れた。  目の前のおねーさんは相変わらず無表情だが、きっと向こう側でヤツは呆れ顔でため息をついているのだろう。 「相変わらずお前って奴は、情緒ってもんがわかってないよな」  ともすれば途切れそうになる意識の中、小太郎は答える。 「……そこに近道があれば、誰だってそっち通るだろ」 「お前の場合はコースぶっ飛ばしてゴールの方を無理矢理引き寄せてるだけじゃねえか」  それがなにが悪いのか。毒づこうにも、もう言葉にならなかった。とりあえずもっと離れろ。手で示す。もうすぐ始まっちまう。巻き込まれル前ニ、ハナレロ。 「そんなにまでして会いたいかよ」  スケッチブックの文字が、もうほとんど判別できない。 「ほんと、もの好きだよ、お前は」  好き勝手言ってくれる──細切れの意識の中、小太郎は思う。  けど、こいつは知らない。でぼちんは、ほんとはすごいのだということを。眼鏡を取って前髪を上げると──もう一度言おうここ大事なとこだから──眼鏡を取って前髪上げておでこ全開にすると、腰抜かすほどとびきり美人なのだということを。あと、ものすごくいいにおいがする。絶対に教えてやらないけれど。  でもまあ確かに、もの好きだとは、自分でも思う。  ──ひとごろしのくせに。  あの時なぜ、でぼちんがそんなふうに言ったのか。  それを知ったのは今から六年前。引き取られた先の孤児院で、でぼちんに再会したその時だった。  自分以外のなにかにその原因を求めるとするならば、そもそもの発端は、この世界の在り様にあったのかもしれないと、小太郎は思う。  世界は、健康だった。抜本的な少子化対策の博打的成功、高度な医療技術の確立、自給自足率の記録的な増加。世界は過渡期の絶頂であり、しかし、どこまでも健康であるがゆえに、やがて誰にもどうしようもない不治の病を患うこととなった。  爆発的な人口増加。それにともなう住まうべき場所の欠如。世界は、擦り切れる絹糸のようであり、その先にあるのは、無限の焦燥と先細りへの恐怖のみだった。  だから人々は夢を見た。現実がどうしようもないのであれば、夢をみるしかない。それが人間という種に与えられた唯一無二の武器であり、弱さであるからだ。 発想は極めて単純だった。なければ、探せばいい。足元に居場所がないのであれば、空へと手を伸ばせばいい。それはこの国だけではない、世界中を巻き込んだ、一大宇宙開発時代の幕開けだった。  が、夢は、所詮夢だ。  今まで絶対だと信じてきた物理法則は突き詰めれば突き詰めるほど机上の空論へと変貌していった。絶対的なエネルギー枯渇問題、そして、もはや恐怖と同義の、根本的な疑問。本当に、この先に求めるものがあるのか。それはそもそも、夢でさえなかったのかもしれない。幻想とも違う。現実逃避とも違う。ただの、集団心理が見せる一時の熱病。  夢が終わったその先には、現実がある。  だけど人々がみたのは、これ以上ない、さらなる突拍子もない夢に他ならなかった。  居場所がなければ、探せばいい。それが今までみていた夢であり、破れた幻であった。ならどうすればいいのか。そもそも、世界に囚われるから立ち行かなくなるのではないか。ひとつの大きな声があった。それは大きな声であるがゆえに増えすぎた人々の夢を刺激した。世界に囚われるから悪い。世界などいらない。肉体など捨ててしまえばいい。  精神を、無限の野へ解き放て。  白羽の矢は、一企業に立てられた。ナガモリ・ネットワーク。ルーティング装置に関して世界トップシェアを争う企業のひとつであり、世界を電子的にマッピングするプロジェクトを進めている第一人者でもあった。夢が、即座に夢のままで終わらなかったのは、ひとえにかのプロジェクトのせいであり、幹部を勤めていた小太郎の両親の仕業だったと言われている。  プロジェクトの名は、『赤の女王』  開発責任者は、でぼちんの両親だった。  世界をマッピング、デジタル化し、誰もが血湧き肉踊る仮想現実を造り出す。でぼちんの両親はこのプロジェクトがそういうものだと信じて疑わなかった。が、現実は違った。真実は歪んでいった。ふたりは反対したという。そんなことができるわけがない。自分たちはそんなことのために今までこの計画を進めてきたわけじゃない。  が、小太郎の両親は聞き入れなかった。実験体に選ばれたのは、でぼちんの両親だった。  結果は、言わずもがなだった。  月も出なかったあの、透明な夜。あの時のでぼちんの声、でぼちんの言葉、でぼちんの顔、でぼちんの瞳、でぼちんのすべてを、一生忘れることはないだろうと、小太郎は思う。  彼女の両親亡き後もなお、計画は中断されることなく続行された。ふたりの死に、赤の女王プロジェクトは一切関与していない──それがナガモリ・ネットワークの一貫した主張だったからだ。幼いながらも、小太郎は強く、鮮烈に覚えている。でぼちんの両親亡き後、なにかにとり憑かれたように自らを実験体として試行し続ける両親の姿を。今思えばそれは、緩やかな自殺であり、事実ふたりはまるででぼちんの両親の後を追うようにその三ヵ月後、帰らぬひととなった。小さかった小太郎は、その意味がわからないまま孤児院へと預けられ、そこで、でぼちんと再会することとなったのだ。  ごめんなさい。四つも離れた小さな自分に、開口一番、でぼちんは深々と頭を下げた。拳を振り上げて、どうしても振り上げるしかなくて、振り下ろす先が欲しかった。がけっぷちで涙を堪えながらもまっすぐに見つめてくる彼女の瞳が印象的だった。小太郎にはやっぱり意味がわからなくて、ただただ、目の前の彼女のおでこを見つめながら、また、あの時のおつきさまに会えたと、ばかみたいに喜んでいたように思う。  以来、小太郎はでぼちんと共にあった。いつだってでぼちんに守られていた。親なしと罵られ、いじめられたときも、いつだってたすけてくれた。両親の死の意味を知り、一晩泣き明かしたときも、ずっとそばにいてくれた。でぼちんは小太郎にとって、姉であり、母であり、親友であり、父であり、初恋のひとでもあった。  おれ、おおきくなったら、でぼちんのおよめさんになる。  それが、小太郎の口癖だった。  うちより、大きくなったらね。  小太郎の頭をガシガシ撫でて、およめさんは無理やけどと、決まってでぼちんはツッコんだ。  大きくなるのは簡単だったんだけどな──ことあるごとに、小太郎はそのことを思い出す。  でぼちんの身長を超えるなんて、朝飯前どころの話ではなかった。なんたってでぼちんは、高校生にもなって一三九センチしかなかったから。 「一四○センチ」 「あれ、俺、声に出してた?」  そう、二日前のあの時も、つい不用意に口走っていたような気がする。  小太郎の中学と、でぼちんの高校、その通学路が交わる土手の遊歩道。どこかすねたように、憮然とでぼちんは繰り返した。 「一四○センチ」  でぼちんはよく嘘をつく。だけど、人を騙すのはそんなに巧くない。そのへんがでぼちんだな、と小太郎は思う。どちらにしても、小太郎がでぼちんより大きくなった事実に変わりはないのだけれど。  無論、でぼちんのあの時の言葉がそういう意味ではないことはわかってる。本当の意味ででぼちんを超えるのはきっと、考えるより尋常でなく大変だ。  神童。とはまた違う。天才を形作るものが、九九パーセントの努力と、1パーセントの才能だというならば、少なくともでぼちんの場合、一○○パーセントが努力の賜物だと思うからだ。孤児院で再会した時にはもう、彼女はそれを始めていた。その延長上にある今。彼女の肩書きは邦月高校三年出席番号三番兼、ナガモリ・ネットワーク第三開発部開発主任。それはかつて、でぼちんと小太郎の両親が所属していた開発チームの名前だった。  大股でずんずん歩きながら、でぼちんは言う。 「一三九と一四○じゃ大きく違う」  余裕ででぼちんの歩幅に合わせながら、小太郎。 「あんまかわらんじゃん」 「印象の問題。二割九分九厘打ってたバッターが三割打つのと、三割打ってたバッターが三割一厘打つのと、どっちがより喜ぶと思う?」 「あー、なるほど、それもそうね」 「ばか」 「え、なんでそこでばか?」  でぼちんは答えない。わけがわからないが、まあいいか、小太郎は思う。でぼちんだし。 「もしかしてでぼちん、おなかすいてる?」 「なんで」 「いや、だって、でぼちんのでぼちんとこ、皺寄ってる」 「でぼちんゆうな。でぼちんのでぼちんてわけわかんないし。あとおなかなんてすいてないし皺も寄ってないしそもそも見えるわけないし」  それよりいったいなんの用だ、とばかりに本日初めて前髪と眼鏡の向こうの視線がこちらを射る。 「言っちゃってもいいかどうか迷うんだけども」 「なら言うな」 「わかった」  しばらくでぼちんはやっぱり前方をじっと見据えながらずんずん大股で歩いていたけれど、 「……やっぱり言え。ばか。気持ち悪い。気になる。キモい。あんたキモい」 「え、何? キモいの俺? 俺がキモくなるの? 今の流れで?」 「うるさいばか。いいから言え。キモい」  相変わらずの傍若無人ぷりに、思わず小太郎は苦笑する。まあいいか、でぼちんだし。いつものため息とともに、気を取り直す。なんでもないふうを装いながら、小太郎は問うた。 「今度の日曜、誕生日だろ」  それは、再会して初めて知った事実。でぼちんと初めて出会った日。  そして、彼女の両親が、亡くなった日。 「今年も、あそこか?」  ぴたりと、でぼちんが足を止めた。  わざとでぼちんを追い越して、小太郎もまた、ゆっくりと立ち止まる。踵を返す自分を待っていたかのように、でぼちんは静かに切り捨てるように言った。 「あんたには関係ない」  そうであれば、どれだけ楽か。噛みしめた奥歯の向こうで、小太郎は思う。  それは、毎年の儀式。定められた通過儀礼。でぼちんの向こうには何かに急かされるように天を目指したまま、時を凍りつかせた様々な尖塔の姿がある。大気圏内に、ステーションを建設するための足場となるべく先を競うように造られた巨大なビル群。かつて皆が熱病のようにうなされた開発計画の成れの果て。どうすることもできなくて、ただただがむしゃらに踊るしかなかった人々の残骸。 「来んでええよ」  こういう時だけ京都弁になるのは、勘弁してほしいと思う。  でぼちんもそれに気づいたのか、 「みんな気を遣うし、あんたもいい気分じゃないでしょ。いいよ来なくて。無理しなくていい。こたろーが気にすることはなにもない」  毎年のこと。通過儀礼。再会したあの時から、でぼちんは同じことを繰り返す。繰り返してくれる。あんたのせいじゃない。あんたは関係ない。なにも気にすることはない。でぼちんだから。でぼちんの言うことだから。信じたい。信じたいと思う。だけどでぼちんはよく嘘をつく。ほんとによく嘘をつく。その上、他人を騙すことが、非常にへたくそだから、でぼちんなのだ。  出会ってからはや六年。一度たりとて小太郎は見たことがない。自分に笑いかけてくれる、でぼちんの姿を。 「偉いひとが言ってる」  それは、でぼちんの口癖。 「ひとは、なにかを犠牲にしなければなにも得ることができない」  生きるということは、戦いだから。 「その力がなかったってことなのよ」  ふたりの両親は。 「これは、そういうことなのよ」  自分に言い聞かせるように、でぼちんは毎年その言葉を繰り返す。  そうだろうかと、小太郎は思う。所詮それが、この世界の在り様なのだろうか。  だったら俺は、誰を犠牲にすればいいのだろう。  誰を殺せば、手に入れられるのだろう。  雑音。  剣で貫いた胸から、痛みが爆ぜる。痛みに比例して、目前のウインドウ上、HPの数字が吹っ飛ぶように減ってゆく。五四○○、五三〇〇、加速する。まずい。やりすぎただろうか。なるべく細い刃で、うまく肋骨の間を通したはずなのに。歯を食いしばる。根こそぎ持ってかれそうになる意識を死に物狂いで繋ぎ止める。これじゃあなんのためのチートかわからない。女王に会う前に終わっちまったら本末転倒だ。睨みつけるようにジェスチャ。激減した分のHPをまるごとCFというパラメータへと変換する。  カウンター・フォース──仕様書には抗力≠ニも記されている、おそらくは実装する予定だったであろう隠しパラメータ。PCのHPと引き換えにオーバーレベルの力を引き出す裏技であり、顕現の仕方はそれぞれのキャラクターやパラメータによって異なるのだという。  腕が一回り大きくなり、掌はさらにふた周り巨大に変貌する。両手の爪は待ちきれないように一気に黒く太く伸び、両肩と胸の強化が間に合わない。耐え切れず右足を前に踏み出した。前傾姿勢、肥大化した両腕が振り子のように地面すれすれを揺れる。痛みは時が経つごとに激しさを増し、全身を蹂躙する。奥歯を噛みしめようとして、いつのまにか鋭く伸びた牙が唇を刺し貫いてしまうことに気づく。唇から、胸から、だばだばと滝のように流れる自らの血が見える。そのにおいをかぎつけたのか、あるいはCFのパラメータに反応するのか、無限の円環の中にいる敵の眼が、こちらを捉えるのがわかった。  やはり遠近感がおかしい。ゆったりと、こちらへと舵を切ったと思った時にはもう、大きく開かれたヤツのアギトが目の前にあった。  普通にこわい。これがフルセンスの威力。通常ならばあまりの恐怖に声さえ出ない状況だったのではないかと思う。そう、通常ならば。  無造作に、右の腕(かいな)を振るった。凶悪な黒き爪はサメの横っ面を直撃、いとも簡単に頭部を切断すると、吹き飛ばした頭部が跳ね返ることなく地面に鼻面を突っ込んだ時には、小太郎はすでに地を蹴っていた。頭部を失いながらも直進してきたサメの巨体を足場にさらに跳躍、突っ込んできた二体目のアギトを両腕で受け止めた。と、思いきや、次の瞬間には紙でも裂くように上下にその巨体を引き裂いていた。スパンコールのように迸る鮮血の中、小太郎の意志とは関係なく、口許が笑みで歪む。  抗力が生み出す現象は、PCによって様々だ。が、どんなに多種多様な結果となろうと、ある一点において共通する事象が存在する。  自分以外の他者を、徹底的に排除する、という一点において。  跳躍による運動エネルギーは底をついた。重力に囚われ落下する他ない中、頭上には迫り来る三体目のアギト。が、負ける気はしなかった。胸の一点から痛みと共に湧き上がるものがある。衝動が滾る。破壊に飢える。もてあます。みなギル。  掻き消える。  空中でありながら、あろうことか小太郎は跳躍する。空を蹴る。加速する。  三体目に身体ごとぶち当たり、自分の頭よりも巨大な眼球に容赦なく振り上げた爪を突き入れる。鼻面にかぶりつく。かすれゆく意識で、味覚と嗅覚のモジュールをカットしておけばよかったと若干後悔した。かまぼこは、正直苦手だ。  雑音、  気がついたら、三体のサメはきれいさっぱり消えていた。ついでに相棒の姿もなかった。視線ジェスチャで確認。名前が赤い。強制ログオフ。またやってしまったかもしれない。このPK野郎という罵声が今にも聞こえてきそうだ。ごめん。おざなりに謝っておく。  胸に突き刺さったままの剣に手をかける。正直抜くのはこわいがこのまま置いておくわけにもいかない。大きく息を吸って、止めて、一気に引き抜いた。  滝のように噴出した。一瞬自分の血だとはにわかに信じがたかった。それほど激しい血柱だった。まずい。CFによって失ったHPは再度ログインするまで回復しない。視線ジェスチャで確認。さっきほどの勢いではないが、HPが減り続けている。せめてこいつをせき止めなくてはいけない。アイテム・ウインドウを召喚。フッフールのひげ、グモルグのため息、ありったけの回復アイテムをかっこんで、ようやく痛みは消えた。が、全身が重い。にじみ出る血がいつまでも止まらなかったが、かまわない。ズボンを破って乱暴に胸に巻きつける。とりあえず女王に会えるまでもてばいい。  改めて周囲を見渡した。塔の麓に三つの宝箱。先刻のサメが残したアイテムだった。プレイヤーならば喉から手が出るほど欲しいレアアイテムばかりだったが、興味が湧かなかった。  足を踏み出す度に、胸に鈍痛が走る。そんなとこまでリアルにしなくてもいいのに、脂汗が止まらない。血にまみれ、痛みに耐え、赤の女王そっちのけで日常生活を謳歌する他プレイヤーには目もくれずひたすらにモブたちとバトってきた。だけど、  手にしたのは、経験値や金、無機質な数値データとわずかばかりの賞賛とうっとおしいまでの妬み。  なにやってんだろうな、偽物の痛みに頬を歪めながら、小太郎は思う。  ことさらゲームが好きだったわけじゃない。流行に敏感というわけでもないし、もともとはでぼちんからインターフェイスごとこのゲームをもらったからで、義理半分、暇つぶし半分のようなものだった。確かに赤の女王がでぼちんをモデルにデザインされたという話を聞いてからは俄然燃えてはいたけれど、それだけが理由というわけじゃない。ようはこれは八つ当たりのようなもので、根底にあるのは、たぶん、おそらく、  雑音、  目をしばたいた。頭を強く振って、ノイズを振り払った。  珍しくあっけなく引き下がったノイズに拍子抜けしたのも束の間、  そこに、それ≠ェいることに気づいた。  金色の巻き毛、精白のエプロンドレス、少女のそれに似つかわしくない、薄いアルカイック・スマイル。  明らかに、アリスを模した少女から、チャンネルが開かれた。 「こんにちわ」  いつのまにそこにいたのか。いや、ここではそんなことはなんら不思議なことじゃない。そうじゃない。そういうことでなく、頭の中に引っかかるものがある。それは、  雑音、  そういえば、相棒から聞いたことがある。それ≠ヘノイズと共に現れ、ほんの瞬きする間、視界の隅のその向こうの果てをかすめてゆく。ログにも残らず、誰かのチート行為でもない。運営側も把握していないという公式発表があったということで、ネットでは電子の海が生み出した幻か、ということでちょっとした騒ぎにもなっているという。  ばかくさい。小太郎は思う。隠しキャラのことを運営側が公表しないのは当たり前のことだし、夢とか幻とか、そんな形而上的なものが介入する余地なんてあるわけがない。それがなんであれ、ここで見えるものはすべて〇と一でできているのだから。 「あー、」  これもどうせ女王へと至るためのイベントのひとつだろう。とにかく無理矢理こじ開けられたチャンネルに便乗する。 「君も、赤の女王に?」  少女は、澱みなく答えた。 「あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして=v  なるほど、正しくアリスだ。  妙に感心してしまったその隙に、エプロンドレスが翻った。あっと思った時には、少女の背中は塔の中へと消えていた。  反射的に後を追った。外見に反して、塔の中は雑然としていた。あちらこちらに基礎となる鉄骨がはみ出し、内装? なにそれ食べれるの? とでも言いたげに階上へと続く巨大な螺旋階段の邪魔をしている。ろくな照明もなく、申し訳程度に点された非常灯が余計に周囲の闇を濃く深くしているようだった。  エプロンドレスの裾が、階上へと吸い込まれるのが見えた。ここはやはり追うべきなのだろう、螺旋階段を駆け上り、小太郎が階上へと辿りつくと、ちょうどまたエプロンドレスの裾がさらにその上へと吸い込まれたところだった。小太郎が階段を登ると、はかったように階上へと消えるエプロンドレスの裾だけが見える。その繰り返し。どれだけ駆けても追いつかない。胸の痛みがぶり返す。まるで同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。  理不尽だな、と小太郎は思う。  普通、追いかけるのはアリスの役目だろうが。  雑音、  まるっきりエンカウントしないことに気づいたのは、その部屋の前に来てからだった。  おそらくは塔の最上階。煩雑な基礎も鉄骨も錆びたにおいもしない。塔自体への皮肉か意地か、ここだけは主の名を体現するかのように、壁も天井もカーペットも燃えるような赤で統一されていた。ネットで見た画像通りだった。  てっきりあのアリスとのバトルがあるのかと思ったのに、いつのまにか少女の姿は消えていた。曲がりなりにもラストダンジョンがこんなに難易度低くていいのかと思いながらも、とりあえず考えるのは後回しにする。胸の痛みがどんどんぶり返している。回復アイテムも底をついた。脂汗が止まらない。HPの低下が小康状態になっているのだけが救いだ。とにかく、ここまで来たらひと目女王を見ないことには締まらない。  見上げても足りない巨大な赤い扉に手をかける。  殺気は、ドアを開けると同時に感じた。  とっさにかがみこみ、そいつへ向かって身体ごとつかみかかった。思いがけず華奢な感触にびっくりしながら、そのままなにかやわらかいところへ押し倒すかたちになった。  そこが、豪奢なベッドの上だと知ったのは、馬乗りとなった彼女の華奢な首に反射的に手をかけてしまった後だった。  引き抜いたコンバットナイフを振り上げて、だけど小太郎は、そのまま石になった。  においがした。香水とかシャンプーとかそういうのじゃなく、小さかった頃から、いつだってそばにあったあのにおい。懐かしいにおいに頭がくらくらした。似ているなんてもんじゃなかった。眼鏡なんかしていない。前髪だって目が隠れるくらい伸ばしてもいない。めったに見せてくれないでぼちんの素顔そのものが、そこにはあったのだ。ただひとつ違ったのは、鴉の濡れ羽色だった長い髪が、眼の覚めるような金色になっているそのただ一点のみ。思わず見惚れていた。視線を釘付けたまま、このまま一生動けないのではないかと思った。思ったその途端、目の前のでぼちんの唇が、 「やはり舞い戻ってきたか。痴れ者め」  突然の衝撃。横からの。  壁に叩きつけられた小太郎は、為す術もなく赤いカーペットへとくず折れた。  身体が動かない。胸が痛い。死に物狂いでぐらつく視界に捉えたのは──女? でぼち──女王ではない。身にまとうのは、エプロンドレス? でも、アリスじゃない。  やはり一筋縄じゃいかないのか。 「……まあいいや」  目的は達した。経験値が減るのも癪だ。ここは尻尾巻いて逃げるに限る。さっさと強制終了しようと視線ジェスチャーで終了オプションを呼び出そうとして、 「……?!」  反応がない。ミスったか。それともまた誤作動か、慎重に視線を動かすが──同様だった。  慌てて運営へのチャンネルを開こうとするが、ばかか、だからジェスチャが効かないんだっつの。  袖のジッパーを開き、備えつけのキーボードを引き出す。システムサーバにアクセスし、強制的にアカウントを排除する。ダメなら仕方ない、電源自体を切断すれば、 「……なんなんだよ」  反応がない。  いや、そもそも、キーボード自体に火が入らない。 「なんで、これ──どうなってんだよ」  答えたのは、ベッドの上の彼女だった。 「戻れぬよ、もう。ここまで来てはな」  レザーに艶めく、チューブトップのワンピース。前の大きく開いたシースルーのオーバースカート。そのすべてを名前どおりの色に染めて、彼女が歩み寄る。  小太郎は、問うしかなかった。 「……どういうことだ」  でぼちんと同じ顔で、きっぱりと赤の女王が言い放つ。 「ここが、其方の現実だからだ」    第二章  でぼちんはよく、嘘をつく。  眼鏡ひとつをとってもそうだ。でぼちんは実は、近眼でもなんでもない。両目の視力は三・○超。どこのサバンナ出身だというほどの眼球健康優良児で、かけてる眼鏡は正真正銘伊達眼鏡だ。だのに向こう側がよく見えないくらい分厚いレンズを入れているので、本を読む時とか、授業中なんかは眼鏡を外す。前髪も上げる。そう、誰も見ていないところでは。 「ずっと上げてればいいのに」  でぼちんのでぼちん、すっごくきれいなのに。 「いや」 「どうして」  しばし逡巡するようにでぼちんはうつむいた。きっと眼鏡をかけていなければ上目遣いでこちらを伺うでぼちんという鼻血ものの光景が拝めたかもしれず、ここはやはり押しの一手だと小太郎は思う。 「うっとおしいだろ、普通に」  ふいとそっぽを向きながら、ようやくでぼちんは答えた。 「……私、きっと目つきが悪いのよ」 「は?」 「だって、みんなにらんでくし。前髪上げてると」 「…………」 「ビックリした顔で固まられたこともある」  小太郎は絶句する。 「いや、それは、」  なんと言っていいものか。 「……でぼちん、鏡見たことあるか」 「あるわよ」  なに言ってんだこのすっとこどっこいとでも言いたげに眉をひそめる。 「あとでぼちんゆうな」  すっとこどっこいはいったいどっちだ、と思わないでもない。が、まあいいや、と思う。  でぼちんがかわいいということは、自分だけが知ってればいい。 「いいのよこれで」  でぼちんはどこかふてくされたように言う。 「ものごとはっきり見えすぎると、ろくなことないから」  また嫌なこと言うなと、小太郎は苦笑したことを覚えている。でぼちんの言うことの大半は小太郎にとって嫌なことばかりだった。これも、その末路なのだろうか、と思う。  自分は、見えないものでも見ようとしていたのだろうか。  アリス・リデル。それが、この世界の名だ。機械と錆と鉄に支配された、空を奪われた世界。  地下を掘り進め、幾重にも連なった積層都市のほぼ中ほどに屹立する象牙の塔。その最上階で。その名のごとく深紅に染められた彼女を、小太郎は見上げている。  胸の痛みは消えない。脂汗が止まらない。まるで仮想現実とは思えない。けどそれは、これまでだってそうだった。それが当たり前だった。だけど。  自分は、今までこんな服を着ていたのだろうか、と気づく。こんなかっこで、サメどもと格闘していただろうか。  ──こんな、拘束服のような。 「其方は、アリス≠見たろう」  でぼちんと同じ唇、でぼちんと同じ声が、頭上から降りかかる。 「その時点でもう、手遅れだった」  何を言っているのかわからない。眼の焦点が合わない。目の前の赤の女王を見る。そばに仕えるエプロンドレスの女性──さっき自分を蹴り飛ばしたメイド、か──を見る。再び、女王へと振り仰ぐ。  繰り返す。 「いったい、どういうことだ?」  何度でも言おう、女王は淡々と答える。 「真実と虚構の二元論を語るなら、ここが前者で、今まで其方がいた世界が後者だ。其方はもともとこの世界の住人であり、この世界のこの塔の三階にある検証室で夢をみていたのだ。長い長い、夢をな」  わからなかった。女王の言葉が、一言たりとも頭の中に入ってこなかった。こいつはいったいなにをしゃべってる? でぼちんと同じ顔、同じ口、同じ声でいったいなにをのたまっているんだ?  小太郎の問いに答えたのは、神経質にドアをノックする音だった。  振り返ることなく、女王が答える。 「十秒だ」  それが訪問者に許された謁見の時間だと気づいた時には、すでに女王のそばに控えていたメイドが動いていた。すべるようにドアへと向かい、薄く押し開ける。訪問者の顔は見えない。二度三度メイドは頷いたかと思うと、ドアを閉めるやいなや再びすべるように女王のもとへと舞い戻ると、耳打ちする。 「第三○八先遣隊がロスト。通信不能です」  メイドへと視線を向けながら、女王が答える。 「三○八──第五階層か」 「ジャミングは確認されておりません」 「ここまで来るか?」 「規模が不明です。が、武装レベルはおそらく3。可能性は考慮すべきかと」  わずかに女王は黙考するや、いきなりこちらを見下ろしてきた。 「百聞は一見にしかずだ」  なんだ? 「其方も来い」  通されたのは、錆付いたロッカーに埋もれた部屋だった。メイドから手渡されたのはどこか奇妙な手触りのするツナギの服と、見た目からは想像もつかない軽さのプロテクタだった。 「とっとと着るがいい。レベル5まで耐えられる特殊カーボナイトの特注品だ。其方は──徒手の方が得手であったか?」  どこか楽しそうに女王が自身の身の丈ほどの長モノを小太郎へと放る。慌てて受け取りながら、小太郎は相変わらず問うしかない。 「いったい、なにを」 「それで釣りでもするか?」  手にした刃はずしりと重い。 「むずかしいことではない。いつもここでやっていたことをやれということだ」  でぼちんと同じ唇をわずかに歪めて、 「期待しているぞ、ウィザード=v  ──ウィザード?  そう言って放り込まれたのは、見もふたもない最前線だった。  地下に、こんなものを造ることが可能なのかと思わせる広大な荒野。第六階層。吹き上げる風は、地下からのマントル風。砂煙の向こうから、予兆も布告もなにもなく、ヤツらは突然現れた。いったいどれだけの規模で、どこから現れ、どこへ向かおうとしているのか。布陣は。援軍の有無は。補給ラインは。立派そうな軍服に着られた感のあるオヤジが眼に映るすべてに噛み付く勢いでがなりたてていたけれど、まったく頭に入らなかった。知ったところでどうにもならなかった。そもそもヤツらが何者で、何を目的にしているのか。いったい自分たちはヤツらからなにを守り、何を奪えばいいのか。それすらもわからなかった。女王は姿を消していた。問う間もなかった。容赦なく敵は眼前に迫っていた。とにかく死にたくないから剣を振るった。切っ先が鎧に当たる、ごん、という音に、恐れをなしてひとたまりもなく取り落とした。代わりの武器は──そんなこと微塵も思わなかった。ただただ叫び、転げまわるように逃げ惑った。目の前で友軍の兵士が撃たれる。おもしろいようにばたばた倒れる。銃弾が貫通せずに体内を跳弾し、この世のものではないものに造り変える。背後で敵が喉笛を掻っ切られる。大気に触れた血は、黒く染まるのだということさえ忘れていた。死んだからといって、敵はきれいに消えてはくれない。くずおれ、折り重なって、行く手を阻む。ゴールドも落とさない。アイテムも落とさない。ただただそこにあるのは、血と肉と鉄。  女王の言葉が蘇る。  ──百聞は、一見にしかずだ。  なにがフルセンスだ、小太郎は戦慄する。あんなものをリアルだと感じていた自分に腹さえ立った。目の前のコレに比べればあんなもの子供の落書き以外のなにものでもないように思われた。  目の前で、またひとり撃たれた。こっちは剣しかないってのに、向こうは小銃に散弾になんでもありだ。またひとり。吹っ飛ばされた死体に押し潰された。直後、至近で爆発したのは装甲車か戦車か。いやだ。死にたくない。のしかかる死体の山を押しのけようとして、絶望的なまでにびくともしなかった。胸が痛い。死体。押しのけられない。動かない。死にたくない。 目の前に銃口があった。天地さえわからなかった。ただ銃口があった。それともこれは過去の思い出で、実は自分はとっくの昔にこの目の前の銃口から飛び出した鉛弾によって天に召されてしまっているのだろうか。わからない。なにもわからない。痛い。胸が痛い。痛みというものはそれはつまり脳みそがまだこの身体を生かそうとあがいているからで、その可能性があるからで、ちくしょうだからってどうすればいいってんだ痛いんだ。とにかく痛いんだ胸が痛い痛イんだよ胸ガ!   左のおでこの、ちょっと上。そのウインドウは、思い出したように宙に浮かんでいた。  なぜそんなものがあるのか。今さら。さっきは終了オプションさえ出なかったそれが。よりによってどうしてそれ≠セけ。考えたのは、1ミリ秒だった。ほとんど反射的に視線ジェスチャ。そのコマンドをかっさらおうとして、 「そこまでだ」  ガーターベルトとオーバーニーに包まれた脚が、眼前の銃口を蹴り飛ばしていた。戦場にあまりに不釣合いなエプロンドレスが眼前で翻る。着地した反動を利用して、メイドはさらに旋転、後ろ回し蹴りが男の首筋を確実に刈り飛ばしていた。フリルカチューシャが遠心力で揺れている。男がついさっきの自分のように吹っ飛んでゆく。傍らに舞い降りるのは── 「そこまででよい」  赤のワンピースに、赤のオーバースカート。血煙りに咽る大気の中、こちらはむしろ戦場にあってこそふさわしい。 「其方の力、枯れていないようでなによりだ」  息を呑んでいた。瞬きもせずに小太郎は彼女を見上げていた。でぼちんが来てくれたのかと思った。小さかった頃。いじめられた時、泣かされた時、いつだってでぼちんはたすけてくれたから。胸に熱いものがこみ上げて、だけど違う。小太郎は唇を噛みしめる。  彼女は違う。 「──女王」  周囲の敵が、一斉に反応するのがわかる。なにかを口走っている。初めて気づいた。言葉が通じない。  銃声。動けない。が、目の前にエプロンドレス。ぼちゅん、という渇いた音が響いたかと思うと、衝撃で小太郎は圧し掛かった死体とともに背後へと吹っ飛ばされていた。なにが起こったのか、確かめるべく顔を上げる間もなかった。立て続けに銃声。再びぼちゅん、という音が銃声の数だけしたかと思うと、再び衝撃。ふざけてやがる。ようやく顔を上げた小太郎は思わず唸った。受け止めているのだ、このメイドは。銃弾を。よりによって素手で。  いや、受け止めているというのは語弊がある。放たれた弾丸は、メイドの掌に直撃した瞬間、粉々に破裂して跡形もなく消滅していたからだ。  翻る掌の先は音速を凌駕しており、メイドが弾丸を破砕する度に、小太郎は地面にかぶりつきを余儀なくされていた。  ちらりと視線だけで振り返り、メイドが頭を下げる。 「失礼。複数座標に対応しておりませんので」  言ってるそばからかまいたちが頬を裂く。埒が明かないと判断したのか、ヤツらの行進がぴたりと止まった。こちらへ背を向け、全速力で引き返す。退却か?  女王の声が、それを完全に否定する。 「二時の方角だ」  彼方で爆煙。音は、後からきた。緩やかな放物線を描いて放たれたそれは、一抱えもある巨大な砲弾。一瞬思考が停止する。周囲のすべてがスローモーションになる。考えがまとまらない。待てよ、ちょっと待ってくれ。嘘だろ? それはアリなのか? そんなことが、あっていいものなのか?  だけど、眼前に優雅に翻るのは清廉なまでのエプロンドレス。  小太郎は思う。メイドという字はおそらく、冥奴≠ニ書くに違いない、と。  一五○ミリを超える榴弾。通常であれば半径三十メートルを灰燼と帰す加害効率超弩級の砲弾だ。それをこのメイドは。非常識にもメイドは、それさえも片手で受け止めてみせたのだ。爆炎も爆音も気圧の乱舞もなく、ただ、  ぼちゅん、  かわいた音ひとつと引き換えに。  ゆるやかに揺れるフリルカチューシャの下、わずかに薄透明のウインドウが見えたような気がした。 「かまわぬディー、薙ぎ払え」  懲りずに前進を続ける敵の群れを睥睨しながら、女王がつまらなそうに言い放つ。  答えるメイドは無表情。 「よろしいのですか」 「今やるか、後でやるかの違いだ。が、下≠ヘ守れよ」 「かしこまりました」  恭しく女王へと頭を下げたかと思うと、ディーと呼ばれたメイドは再びエプロンドレスを翻す。その時にはもう両の掌が淡く輝いていた。光が、視界を奪っていた。  それから後のことは、今となってはもう、よく覚えていない。  ただ、気がつくと敵は跡形もなく消滅していた。この世界の第六階層から第四階層にわたって、途方もないほどの大穴が開いていた。  どこまでもでぼちんと同じ顔で、女王が言った。 「大儀であった、ウィザード」  ──ウィザード。  確かにその呼称は、正直わらわも承服しかねておる、と、女王はごちた。  その力は魔法でもなんでもない。そもそも誰もが持っている力だからだ、と。  力とは抗力。  それは生物が持つ進化という力のある一面をとらえたものなのだという。  でぼちんも、以前似たようなことを言っていた。  世界とは、えてして生物にとって負荷以外のなにものでもないことがある。それが、でぼちんの持論だった。進化の力とは、世界からの圧力に反発しようとする力なのだと、いつも難しい本を読みながら言っていたように思う。  だからこの力はこうなのかと、小太郎は思う。それは、自分以外の他者を排除するための力だ。  だから自分はここにいるのか。  そんなにあの世界が、つらかったのだろうか。  ──ひとごろしのくせに。  息が詰まった。胸が今にも押し潰されそうだった。  泣くわけにはいかなかった。泣いてしまったら、認めてしまうことになる。涙を流してしまったら、目の前のすべてを受け入れてしまうことになる。だけど、  止められなかった。とめどなく、溢れるものがあった。だめだった。  でぼちんは、もういない。  最初からいなかったのだ、どこにも。  眼を開けるとそこには、いつもの天井があった。  周囲の壁やカーペットとは異なり、そこだけは淡いベージュの天板だった。それがどこか不釣合いで不恰好で、だからこそどこかやんわりと落ち着く。  いつもの天井、そう感じて、そういえば今日で何日なのか、と考える。いつも眼を醒ましてから行われる儀式のように想いをはせる。夢だったのか、淡い希望を抱く。  が、その淡い希望もすぐに、ではどこからが夢でどこからが現実なのかという困惑に変わり、そして、  傍らに腰掛ける彼女を見つけて、落胆する。  天涯孤独で孤児院出身で、遠い親戚からのおためごかしの仕送りとバイトで細々と暮らしてきた自分にとってそれは意識の片隅にも昇らなかった光景だった。実際ほんの数日前の自分にそんなことを言っても鼻で笑われるか、そうか、そういうシュミに目覚めたか、とどこか達観した視線で見られたかもしれない。だけど、  これが、現実。  天蓋のついたベッドで横たわり、傍らにメイドの控える状況。それが今の自分の真実なのだ。  ずっとそうしていたのか、背筋をぴんと伸ばし、エプロンドレスのスカートの上でぴっちりと指先をそろえ、メイドはこちらに視線を向けた。 「お目覚めですか、ウィザード」  未だ、その呼ばれ方には慣れなかった。自分以外の他者を排除するための存在。自分がそうでないかと言われれば答えは否以外のなにものでもないとは思うのだけれども。 「ウィザードは、勘弁してください」  が、彼女は頑としてその呼び方を変えようとはしなかった。 「ウィザードは、ウィザードですから」  あんたはどうなのかと、問うたことがある。ウィザードと呼ばれるべきは、あんたも同じではないのかと。銃弾や砲弾だけではない、この世界の天蓋もろとも一個大隊もの敵を一掃してのけたあれが魔法以外のなんだと言うのか。  が、自分のそれは違うと、彼女は答えた。 「私の抗力は生まれついてのものではなく、議会が開発した施術による産物です。貴方のそれとは、異なります」 「……議会の、施術?」 「禁忌条項です」  彼女が教えてくれることは多いが、隠されていることももちろん多い。そもそも自分がどうしてこんな目に合っているのか。どうして今まで虚構を現実だと信じ込まされてきたのか、その理由についても、彼女は教えてはくれなかった。 「貴方と女王との間に交わされた約定があるのでしょう。直接女王にお尋ねください」  そう、女王たちの話が本当であるなら、自分には生まれてからこの塔の検証室≠ニ呼ばれるところへ入れられるまでの記憶が別にあったはずだ。それは、今まで虚構で生きていたことにより忘れ去っているのだろうけれど。思い出すのだろうか、自分は。思い出さなければいけないのだろう、本当の過去を。  あれ以来、小太郎は女王に会ってはいない。 「顔色がすぐれませんね。なにか食事をお持ちしてから、と思ったのですが、先に本日の処置を開始した方がよろしいでしょうか」 「……お願いします」  無言で頷いて、メイドが腰を上げる。  あの戦いの後、小太郎の容態はひどいものだった。刀傷や銃創、至近距離でもって巻き起こったかまいたちによる裂傷はもちろんのこと、抗力を起動する際に自ら負った胸の傷がとにかくやっかいだった。  抗力起動に用いられたHPは一度ログアウトするまで回復できない。  その設定が、まさかこの期に及んで有効だとは思わなかった。  傷がまったくふさがらなかった。血が止まることなくいつまでもじくじくと包帯を紅く濡らしていた。ログアウトするまで回復できない。それはつまり、このまま一生この傷は治ることはないということなのだろうかと思われた。が、 「治すことはできませんが、止めることはできます」  それは、なんというか、発想の転換だった。  抗力とは、自分以外の他者を排除するための力だ。どれだけ豊かな多様性を持っているとはいっても、間違っても他者を治癒するために発現することなどありえない。それは生まれついてのウィザードである小太郎も、議会の施術とやらによって人工的に造り上げられた彼女にとっても同じことだ。抗力は、なにかを壊すことしかできない。  だから彼女は、時間の流れを破壊した。  小太郎の周囲の時間を巻き戻すことによって、傷の悪化と出血を遅らせていたのだ。  無論それはあくまでも結果を先延ばしにしているだけで、根本的な解決にはなりえない。放置すればいずれ間違いなく小太郎は出血多量で死に至る。そのためにも小太郎は彼女より定期的に処置を受けなければならなかった。周囲の時間を巻き戻す、言葉にすれば簡単だけど、実際にはとてもじゃないが正気の沙汰ではない、ありえない処置を。 「その、ディー……さん?」 「トゥイードゥルディーです、ウィザード」  そうだった。どうにも舌を噛みそうなので、女王と同じくディー≠ニ呼ばせてもらいたかったのだが、許されなかった。それは、女王だけが呼んでいい名前なのだそうだ。  以前、もしかして双子の姉妹とかいますか、と聞いたところ、なぜご存知なのですか、と素で驚かれた。初めて見た彼女の表情らしい表情だった。この世界には鏡の国のアリスもマザーグースも存在しないのか、あるいはただ単に彼女が知らないだけなのか。  胸にかざされる彼女の掌を見つめながら、小太郎は問う。 「……これって、抗力、なんですよね」 「はい」 「なんだか、俺のそれとは違うように見えるのは、俺がウィザードで、貴女がそうでないからですか」  この世界でも、あの時の設定が生きているというのなら。  抗力を起動するためには、なにかを犠牲にしなければならない。抗力とは、世界からの負荷をはねのけるために顕現するものだからだ。が、見たところトゥイードゥルディーにはそれがない。自らを刀剣で刺し貫くのはもちろん、なにも傷つけず、なにも壊さずにフリルカチューシャのそばには無造作に薄透明のウィンドウが浮かんでいるように見える。  決して表情を変えずに、トゥイードゥルディーは答える。 「禁忌条項です」  胸の周りの空間が、ぐにゃりとうねるのが見えた気がした。この世の理ごと、傷口が捻じ曲げられるような感覚に襲われる。 「痛みますか」  少し迷ったが、弱みを見せたくなかった。無言で首を振る。 「いけませんね」  無造作に、トゥイードゥルディーが傷口を突いた。 「……っ、なにを……っ」 「発汗が尋常ではありません。動悸も常軌を逸しています。時に嘘は必要ですが、すぐ露呈する嘘は害悪以外のなにものでもありません。痛いときは、痛いと言ってください。泣きたい時は、泣いてください。人間、何より素直が一番なのですから」  それは非常灯のような頼りないスタンドの灯りに照らされており、ベッドに横たわる小太郎にはほとんど影になって見えなかったけれど。  トゥイードゥルディーの横顔は表情をどこかに忘れてきてしまったかのようにどこまでも平坦で。漆黒の瞳はどこを視ているのかわからない。言いたいことは言った方がいい。そんなことをそんな顔で言われても、と思わないでもない。 「なんか、説得力ないですね」  それは、胸を突かれた仕返しのつもりだった。 「俺、ディ──トゥイードゥルディーさんが痛がるとこも、泣いたとこも見たことないです」  が、視線さえ動かさずにトゥイードゥルディーは肯定する。 「申し訳ございません。私には、痛覚によりトリガーされるほとんどの反応をブロックされておりますので」  一瞬それが、脳内でうまく意味を為さなかった。ゆっくりと全身を回る毒のような言葉だった。どこまでも無表情な彼女の横顔をしばらく呆然と見つめていることしかできなかった。  身体を起こそうとして、彼女に止められた。  胸の痛みがぶり返し、だけどそんなことは構っていられない。鈍痛を奥歯でかみ殺して、小太郎は問う。 「それはつまり、痛くても泣けない、ということですか」 「そうです」 「どれだけ辛くても、助けを呼ぶこともできない、ということですか」 「そうです」 「どうして、」 「禁忌条項です」  予想通りの答えを聞きながら、問うまでもなかったのだ、と、小太郎は思う。  泣くという行為は、負荷や痛みを和らげるための行為だ。脳内麻薬の効力だとか、体内の毒素が流れ出るからだとか、理屈には諸説あるけれど、共通しているのはその一点だ。  だから彼女は殺されたのだろう、その行為を。  痛みがひどければひどいほど、負荷が高ければ高いほど、抗力はより強く発現するのだから。  痛いときは痛いと言え──なぜ彼女がそう言うのか、わかったような気がした。そうできない辛さを、彼女が一番よくわかっているからだ。 「自ら望んだことです。後悔はしていません」  なんなのか。小太郎は思う。どうしてそうまでして抗力を引き上げる必要があるのか。どこまでも変わらない人形のような無表情を見ていられなくて、視線を伏せた。どうにもやるせなくて、二の句が告げなかった。 「ありがとうございます」  びっくりして、顔を上げた。  メイドの漆黒の瞳が、静かに自分を見つめていた。 「おやさしい方ですね、貴方は。なのに、どうして貴方はこんなところにいるのでしょうね」 「え?」  それはいったいどういうことなのか。  だけどその問いは、トゥイードゥルディーへと届くことなく、荒々しく押し開けられたドアの音にかき消される。  飛び上がるようにしてドアの方を振り向いた。トゥイードゥルディーが、音も立てずに立ち上がり、すべるように奥手へ下がる。ドアを押し開け現れたのは、 「五分だ、ウィザード」  絹糸のような金色の髪、深紅のチューブトップとオーバースカート。つかつかと枕元へと歩み寄り、傲然と言い放つ赤の女王がそこにいた。 「意見、具申があるなら聞こう。申せ」  久しぶりかついきなり入ってきてあいさつもなしにこの物言いはあんまりだと思わないでもなかったが、これが女王といえば女王だ。無論聞きたいことは山ほどあった。それを鑑みてくれた上での言葉だったのだろうけども。  すぐには言葉が出なかった。面食らってしまって頭がついてこないというのが正直なところだった。なにから聞こう、そこまで考えて、すぐに小太郎は考えるまでもないことに気づく。  聞きたいことは、最初からひとつだった。 「俺は、なんで今まで騙されてたんですか」  今もまだ、脳裏には彼女の面影がこびりついている。決して自分には笑ってくれることはなかったけれど、そばにいるだけで暖かい気分になれた彼女の姿が、今や楔となって胸の奥を苛む。こんなことなら、最初から出会わなければよかった。すべてはあの世界に自分がいたからだ。どうして自分はあの世界に放り込まなければならなかったのか。どうして自分が、こんな目に合わなければいけなかったのか。  女王は即答する。 「謀っていたわけではない」  初めから用意していた言葉をなぞるように、女王は言う。 「そもそも今回の件の発案者はウィザード、其方だ」 「……!」 「いや、その物言いは卑怯だな。議会が承認した。皆がそう望んだ。正直、妾もまた確かめたくなかったといえば嘘になる」 「確かめたかった……?」 「そう、確かめたかったのだ。人は、争いなしに生きていくことができるのかどうか」  どきりとした。どきりとしながら、一瞬自分がなぜその言葉にそこまで動揺するのかがわからなかった。 「其方も見たろう、あの戦を」  見た。 「身をもって感じたであろう」  きっともう、一生忘れられない。 「この国は、あんなくだらないことを毎日毎日、何十年も飽きずに続けている。わかるか、何十年もだ。だから造った。争いのない世界を。果たしてひとは、争いのない世界で、争わないままでいられるのか。そんな世界でも、ひとは生きていけるのか」  それを、確かめたかったのだ。繰り返して、女王がこちらを見下ろす。 「結果は、この有様であったがな」  女王の視線には落胆も侮蔑もなかった。初めて出会ったあの時と同じく──やはり舞い戻ってきたか、痴れ者め──そこにあるのは、深い諦観と、自嘲。 「元凶はアリスだ」  女王は断じる。 「この検証に立ち会ったのは其方に限った話ではない。其方を含め約数十名があちら側≠ヨとダイブしたが、そのすべてが同じ結果に終わった。其方と同じ結果にな」  ダイブし、こちらへと舞い戻ってきた者すべてに共通するもの。それが、アリスとの邂逅なのだと女王は言う。 「アレは、被験者と検証地とのリンクを断ち切る一種のウィルスデバイスだ。一度アレに断ち切られたリンクはマルウェアに侵され、二度とつなぎ合わせることができなくなる」 「……いったい誰が、なんのためにこんなことを」 「不明だ。が、おおよその見当はついている」 「だったら、」  言いかけて、すんでのところで呑み込む。アリス。まさに小太郎がこちらへと舞い戻る直前、この塔の前で出会った少女。ふわふわと揺れていた髪の金色。目の覚めるようなエプロンドレスの白。ノイズと共にことあるごとに視界をかすめた。手を伸ばせばすり抜ける幻影のような小さな背中を追いかけるうち、確かに自分はここへと来ていた。  だけど、 「元凶はアリスだ」  女王は、再び断じる。 「アリスと出会ったからこそ、其方は今、ここにいる。それが事実だ。それは間違いない。が、ウィザード、」  今までにないやさしい言葉で、女王が問う。 「それを望んだのは、いったい誰であろうな」 「…………」 「其方がアリスと出会ったのはなぜだ。非現実と認識しながらこの世界に赴いたのはなぜだ」  女王の声音は決して小太郎を責め立てるものでなく。むしろ言葉を重ねるごとにどこまでも穏やかに染み込んでくるように思えた。  なぜ自分はこの世界を目指したのか。ルールを侵してまで、先へ──次の場所を目指そうとしたのはなぜなのか。  女王が続ける。 「アリスは、被験者の心を視る。其方が望まなければ、アリスと出会うこともなかった。なにも知ることなく、今もまだ──これからもずっと、其方にとっての現実はあちらの世界だったはずだ。違うか」  なにも違わなかった。女王の言葉にここまで動揺しているのが、なによりの証だった。  ただがむしゃらにゲーム世界にのめりこんでいったのは、決してでぼちんそっくりの女王に会いたかったからでも、暇つぶしや義理を果たすためでもなかった。  欲しかったのは、敵だ。  ──ひとは、なにかを犠牲にしなければなにも得ることができない。  届かないものがあるのに、なにが邪魔をしているのかがわからなかった。どこかの誰かなのか、自分の中のなにかなのか、誰も教えてはくれなかった。だからといって実際に戦場に身を投じたとしても、それがいったいなんになるのか。それだって最初からわかっていたことだった。それでも先を目指すしかなかった。少なくともここには、敵がいなかったから。ここではないどこかへ行くしかないと思った。苦し紛れだった。やけくその八つ当たりのようなものかもしれなかった。それでも──そうするしかなかったんだ。 「他に、どうすることもできなかったんだよ」  が、女王は静かに断じる。 「それだ」 「え」 「其方にとっての世界を、そのように振舞わせているのは、いったいなんであろうな」  不意打ちのようなその問いは、やはりすぐには処理できずに、小太郎の頭のど真ん中でぽっかりと浮かんで漂う。それはとても単純で、だからこそ答えの出せない難題のような気がして、小太郎はやっぱり呆然とでぼちんと同じ女王の顔を見上げることしかできなかった。 「無駄話が過ぎた。くだらん感傷だ。忘れろ」  しばらくして、無責任に質問を投げつけたまま、女王は自らそれを断ち切る。 「今は記憶を失くしているであろうが、すぐにそれも戻るだろう。今のその喪失感にも、いずれ慣れる。ひととは、そういうふうにできている」  嫌なこというなあと思う。でぼちんと同じ顔でそんなことを言われるとは、いったいなんの罰ゲームかと思う。が、同時にでぼちんと同じ顔で言われるからこそ、特に腹は立たなかったのかな、とも思う。免疫ができていたのかもしれない。いつだってでぼちんが言うことは嫌なことばかりだったから。 「いずれ其方には頼みたいことがある。それまでゆっくり休むといい」  言うが早いか踵を返す。むしろ聞きたいことが増えてしまったような気がして、引きとめようとするのだけれど、言葉が見つからない。なにを問えばいいのかさえわからない。とにかく声をかけようとして、だけどやっぱりできなくて、そのまま見送りかけたその時、遠ざかる金色の後ろ髪が、ぴたりと止まった。  女王の歩みを止めたのは、苛立たしげにノックされる、ドアの音だった。  駆け寄ろうとするトゥイードゥルディーを視線で制して、女王は自らドアを引き開けた。 「陛下」  そこに立っていたのは三名の男。この国の大臣かなにかだろうか。きらびやかに装飾しすぎて、ぱっと見、何色をしているのかわからない、統一感のまるでない礼服を身にまとっていた。  男たちの機先を制して、女王が言い放つ。 「マイナス四十六時間だ。貴殿らには、時間をもらってもなお足りぬ」  ぐっと、なにかを堪えるように眉根を寄せながら、中央の男が辛抱強く口を開いた。 「どちらへ参られるおつもりか」 「それを妾に問うか」 「ハンプティ・ダンプティ≠フ凍結は、議会で可決されたはずです」 「暗号壁を突破するとは言っておらん」 「解析を続けていれば同じことです」 「…………」 「先日の第六階層での会戦もそうです。よりにもよって女王自ら出撃するなど。正気の沙汰とは思えません」 「ウィザードの力を測るためだ。赴いたのはディーだ」 「なお悪いです。いたずらに戦火を広げるだけでしょう、あの人形の力は……!」 「……今、なんと申した」  すっと、女王の目が冷たく細められる。 「人形と申したか、今」 「へ、陛下」 「妾の無二の同胞に対し、人形と申したか、貴殿」 「陛下、私は、」 「二度と申してみよ! そのなまっちろい喉笛、即刻かっ切ってくれる!」  落雷のような女王の一喝に、もはや大臣たちはひとたまりもなく言葉を奪われてしまう。 「よいか、そのカーボナイトよりも硬い頭でよく考えよ。節穴よりも眩んだ眼でよく見よ。彼奴らは我々の直上にきている。理解しているか、一日一時間一分一秒、時計が針を刻むごとに我らは奪われているのだ彼奴らに。居場所を。空を。それぞれの世界を。それをされるがままに頭を抱えて震えて耐えろというのか貴殿らは」 「そ、それは何度も議論しましたとおり、」 「議論? なにを議論した。貴殿らの意見はなにも生まぬ。壊さぬ。ただ鸚鵡のように嫌なことを嫌と繰り返すだけであろうが。もはや飽いた。話にならん。どけ」 「陛下……!」 「ディー。この役立たずどもをつまみ出せ」 「かしこまりました」  言うが早いか、トゥイードゥルディーは忠実に任務を遂行する。懲りずに進言する大臣たちを、問答無用で廊下へと排除する。女王の名を呼び、抗議する大臣たちの声が、分厚いドアによって容赦なく断ち切られると、喧騒は現れたその時と同じように唐突に消え失せていた。  話の半分も小太郎には理解できなかったけれど、少なくとも女王は、あの敵との徹底抗戦を唱えている。そしてそれを、大臣たちが必死で阻止しようとしている。  ドアを睨みつける女王はこちらへと背を向けており、いったいどんな表情をしているのか、まるで窺い知ることができない。薄闇に絹のようにぼんやりと輝く髪の金色を眺めながら、小太郎は思う。  なにがそこまで、彼女を戦いへと駆り立てているのだろう。  いったい彼女は、なにと戦っているのだろう。  それを問おうかどうか迷っているうちに、女王に沈黙を破られてしまっていた。 「すまぬウィザード、予定変更だ。立てるか」 「え、あ、や、」  戸惑う小太郎を待てずに、女王は傍らに控えるメイドを呼ばわる。 「ディー」 「本日の処置は完了しています。問題ありません」  確かに──胸に手をあててみた。さっきまでの痛みが嘘のように消えていた。  深く大きく頷くと、女王は再度傲然とこちらを見下ろして、言った。 「十五分だ、ウィザード。其方の時間を、妾にくれ」  鉄の街が、眼下に広がっていた。吹き上げてくるわずかな風に混じるのは、つんと鼻をつく錆のにおい。灰以外の色彩を忘れた街は、放っておけばこのまま地の底深くへと沈みこんでいってしまうのではないかと思わせる。以前もこんなふうに感じていただろうか。小太郎は思う。光景は、あの頃とまったく変わっていないはずなのに。まだこの世界が仮想現実で、ゲームという名の偽りの世界だと思っていたあの頃と。  なんとなく見ていられなくて、小太郎は頭上を見上げていた。  女王につれてこられたのは、塔のてっぺんだった。アリスの世界を踏襲しているくせに、象牙の名を冠した赤の女王の塔。今思えばそれは妥当なネーミングだったのかな、と小太郎は自嘲気味に思う。あの物語の主人公は、この後どうなったんだっけ。  見上げた視界いっぱいに映るのは黒々とした尖塔。今にもこちらへ墜ちてきて、この国のあらゆるものを刺し貫こうと虎視眈々と狙っている。これだけ巨大なものだ。遠近感が狂っていないかと問われれば否定できない。それを考慮に入れても、そいつは目の前にあるように見えた。こちらを常に標的に収めた黒き尖塔。手を伸ばせばたぶん、きっと、届くのではないかというような。 「我々は、ここまでなのだ」  錆色の風に髪を煽られながら、女王がぽつりと呟く。 「ここまでなのだよ、今は」  塔のてっぺんなのだから当たり前だ。とは、言わない。これ以上上の階層へ行けないというわけでもないことも、小太郎にはわかっている。現に自分は数日前、ここよりさらに上の階層へと放り込まれ、散々な目に合っているのだから。 「あっちの空は、美しかったか」  とっさには答えられなかった。 「なんだ、覚えておらんのか。苦労したのだぞ、あれを表現するのに」  どこか自嘲気味に微笑んで、女王が続ける。 「この国の民にとって、空とは、この尖塔のことだ。今にも墜ちてきそうな、古ぼけた黒い天井のことだ」  空の意味が置き換わってしまったのは、今より二十年前だと、女王は言う。 「それでも妾は何度か見たことがある。本当の空を。妾が物心ついた頃にはまだ、この塔は第二階層にあったからな。地上へと抜け出す回廊が、いくつも秘密裏に用意されていた」  美しかったと、蒼い目を細めて、女王は遠くを見やる。 「決して豊かな国ではなかった。特産物もない。他に秀でた技術もない。一歩国の外へ出れば、草木一本生えない無限の荒野だ。だが、そこに父がいて、母がいて、大好きなひとたちの笑顔がある。それだけで皆満足だった」  だが──女王は視線を伏せる。 「ここにはなにもない。冷たく、暗く、見渡しても民の顔も見えない。あるのは鉄と錆と、処刑台のようなこの空だけだ」  どきりとした。この空だけだ。そうこぼす女王は、今にも泣きだしそうな顔をしていたから。  二十年前。奪われた空。ディーにも聞いた。数日前、阿鼻叫喚のあの戦いに放り込まれた時から何度も自問していた。いったいそれは、どうしてそんなことになっているのか。 「なんなんですか、アレは」  言葉も通じない、顔も見えない、ただひたすらに女王たちのいる地下を目指す無頼の敵=B 「貴女たちは、いったいなにと戦ってるんですか」  いつものごとく、女王は即答する。 「人だ」 「人?」 「そうだ。我々と同じ、人だ」 「ヤツらの狙いはなんです? どうしてヤツらは攻めてくるんですか?」 「人だからだ」 「え?」 「我々と同じ、人だからだ」  禅問答をしているようだった。女王の言葉はまったく的を射ていないようで、それでいてそれ以外に表現しようがないとでも言いたげだった。  それは、何の前触れもなくやってきたのだという。  いったい彼らがどこからやってきて、どこへ行くのか、誰も知らないし、知ろうともしなかった。ただ、彼らは、人だった。生物学的にも、倫理的にも、紛れもない女王たちと同じヒトという名の種だった。操る言葉、ただその一点をのぞいては。  言葉が通じないということがこんなにおそろしいことだとは思わなかったと、女王は言う。いったい何のために戦い、何を守り、何を奪おうとしているのか、それすらわからない。不明は困惑を呼び、困惑は敵意を呼び、世界中が悪意に包まれるのにさして時間はかからなかった。  知る必要があった。敵のことを。  彼らがなにを考え、何を求め、どこへ行こうとしているのか、理解する必要があった。壁となったのは言葉だった。だが、それ故に突破口となるのもまた、言葉だと思った。言葉さえわかれば、なんとかなると思った。戦い以外の解決法が、見つかると思っていた。だけど、 「無駄だった」 「……どうしてですか」 「言ったろう、彼奴らもまた、我々と同じ人なのだと」  ──我々にはもう、還る場所がないのだ。  最初に理解した彼らの言葉が、それだった。  泥沼の内戦の末の、結論だったのだという。政府は国を見捨てて行方をくらまし、それさえ知らない反政府側の臆病な指先が、すべてを終わらせるボタンを押してしまった。生き残った人々は故郷をなくし、居場所をなくし、荒野を彷徨い歩いて、ようやくたどり着いたのが、アリス・リデルだったのだ。  無論、最初は共存の道を模索しようとしていた。言葉の違いを超えて、両者ともにできる限りの力を尽くしたのだと思う。が、アリス・リデルは決して裕福な国ではない。十万人弱の民をかろうじて養っていた国に、どうしてその倍の人口を賄う力があるというのか。  貧困は不満を呼び、不満は、衝突を生んだ。一歩外は無限の荒野というこの大陸にあって、新天地を求める選択肢もない今、結末は、たったひとつだった。 「同じ言葉を使えば、わかりあえると思った」  女王は、苦々しげに繰り返す。 「が、結果はこの有様だ。空を奪われ、地へ追いやられ、なんとか確保した鉱脈を糧に、逃げるように生きてきたが、それも限界だ。空は無限だが、地へと下る限り、いずれ行き詰る。だから取り戻す、あの空を」  きっぱりと言い切って、女王は小太郎を見上げた。 「そのためには、其方の力が必要だ」 「……俺の?」 「其方ほどのポテンシャルを持ったウィザードを、妾は知らない。ディーさえ足元に及ばぬ。其方さえいれば、彼奴らをこの国から──いや、この世から一掃できるだろう」  小太郎は思わずのけぞる。 「か、買いかぶりすぎです。なにを根拠に、」 「見た。この目で」  この前の戦いのことを言っているのだろうか、 「けどあの時は俺、途中で、」 「起動フェイズだけで充分だ。むしろあのまま放っておけば、彼奴らはもちろんのこと、自軍もろとも藻屑と消えているところであった。だから止めた」  目を瞬く。息を呑んで、女王を見つめる。にわかには信じられなかった。自分の抗力といえば、せいぜい化け物に変身し、空飛ぶサメを引き裂くくらいが関の山だ。それを、トゥイードゥルディーが足元に及ばない? 一個大隊の敵を一瞬で消滅させたあのメイドが? 「検証地にいた頃と同じと思わないことだ。あちらとこちらとでは違う。あらゆる意味でな」  あくまで女王は持論を覆さない。 「なぜ其方がウィザードと呼ばわれるかわかるか」  またも突然の問い。小太郎は、トゥイードゥルディーに聞いた答えをそのまま返す。 「……生まれながらに、抗力を起動できるからでしょう」 「違うな。魔法を扱うから、其方はウィザードなのだ」 「……?」 「自身の考えの及ばぬもの、この世の理では計り知れないものを、ひとは魔法と呼ぶのだ」  ──つまり、それが自分にはあるというのか。  もの問いたげな小太郎の視線を正確に理解して、女王は大きく頷く。 「妾の剣となれ、ウィザード」  絶望という名の、尖塔の空を背に、女王は言い放つ。この偽りの空を、真の空へと変えるために。  でもそれは──小太郎は思う。  だけどそれは、人を殺すということじゃないのか。この前のような戦いを、どちらかがいなくなるまで続けるということじゃないのか。  その問いを口にできぬまま、女王の言葉に答えることもできぬままに、ただ小太郎は立ち尽くすことしかできなかった。    第三章  目を覚ますと、今日もベージュの天井が見える。  空の青でも、尖塔の黒でもない、象牙の天井。  ここへきてから──いや、戻ってきてから──ずいぶん経つ。冷静に考えるとこの世界はもしかしたら一日は二十四時間じゃないのかもしれないけれど、部屋にも塔にも時計がない。太陽の昇ることのない地下世界にあって、頼りになるのは体内時計のみという状況ではあるけれど、少なくともあれから自分はこのベッドで二十回以上は目を覚ましているはずだ。なのに、どういうわけかいっこうに馴染むことができない。見るもの触れるもの、どことなく違和感を拭えない。どこかで今の自分を俯瞰している自分がいる気がする。今もほら、ベッドの屋根の右端。こっちをにらみつけてる。嘘だけど。  頭が痛い。 「ウィザード」  ちょっとびっくりした。 「い、いつからいたんですか、あ、いや、おはようございます、ディーさん」 「五十六秒前からです、おはようございます、トゥイードゥルディーです、ウィザード」 「……いたんなら声かけてくれればいいのに」 「かけましたよ。十二回と半分。──ウィザード?」 「…………」 「ウィザード」 「……あ、は、はい、なんですか?」  トゥイードゥルディーはちょっと考えるようにしばらくこっちを見つめていたけれど、やがていつもの調子で促した。 「……食事にしましょう」  通されたのは、寝室とそう代わり映えのしない質素な部屋だった。壁も床も調度品もテーブルもすべて赤を基調としたデザインで、天井だけが象牙という点も変わらない。  本日の食事は、黒パンとサラダ。コンソメのスープとスクランブルエッグだった。どうやらようやく流動食からは解放されたらしい。 「ウィザード」 「…………」 「ウィザード」 「……あ、はい」  気がついたらトゥイードゥルディーが自分にスプーンを差し出していた。  なんだろう、スプーンなら、さっきテーブルから── 「あれ?」  手にしていたはずのスプーンがなかった。 「替わりをお持ちしました」  一瞬意味を理解できなかったけれど、ようやく自分がスプーンを取り落としてしまっていたのだと気づく。落としたスプーンはすでに床になく、すでにキッチンに回収されてしまった後ということなのだろう。全然気づかなかった。  取り急ぎ頭を下げて、スプーンを受け取る。 「す、すみません、ディーさん」 「トゥイードゥルディーです、ウィザード」 「ああ、そうだった、トゥイードゥルがぶ」  噛んだ。容赦なくいった。よりによってさきっちょのさきっちょだった。痛い。すごく痛い。  声も出せずに悶絶していると、すっと眼前にグラスが差し出された。涙目で受け取って、そっと口に含んだ。  頭上から、やわらかなメイドの声。 「考え事ですか」  じんわりと舌先から失せてゆく痛みを感じながら、小太郎は半秒悩んだ。 「……はい」 「私で、お役に立てますか」  今度は、二秒迷った。 「……いえ、たぶん、」 「そうですか」  なら話はここまでだとばかりにトゥイードゥルディーはそれっきり話しかけてはこなかった。  仕方がないので、黒パンに手を伸ばす。そのままかぶりつこうとして、思いとどまる。  両手でむしって、かけらを口へ放り込む。固い。おまけにぱさぱさしている。そりゃハイジもフランクフルトくんだりまで誘き出されるってなもんだと思う。  ──考え事ですか。  考えないようにしても、脳裏にこびりついて離れない。昨日のこと。たぶん、昨日のこと。寝る前のこと。この塔の、てっぺんで聞いた話。  ──妾の剣となれ、ウィザード。  どれだけ考えてもわからない。女王の言葉のひとつひとつ。いくら反芻しても答えが出ない。  自分はいったい、どうすればいいのだろう。 「本日は、よいお天気です」  不意打ちだった。トゥイードゥルディーのその言葉は、まったく意識の外側から横殴りでぶっ飛んできた。言葉の意味を理解するのに、たっぷり五秒はかかった。 「は、」  返事をする前に、メイドは話を続ける。 「お庭の、ほうせんかが見ごろです」 「……?」 「ほうせんかの花言葉をご存知ですか」 「……いえ」 「気分転換≠ナす」 「……へえ、そうなんですか」 「嘘です」 「…………」  もしかして、気分を害してしまったのだろうか。思わず泣きそうになったその時、 「ただ、」  ぽつりと、付け加える。 「今日のような日は、そうであったらな、とは思います」  いつだって感情の乏しいメイドが、いったいなにを言いたいのか。ここにきて小太郎にも、ようやくわかったような気がした。痛がる自分の、胸を突いた彼女の言葉を思い出す。どうにも有言不実行だよなあ、とも思う。人のことは言えないけれど。  用意された食事をゆっくり味わって、小太郎は席を立った。 「散歩、してきていいですか」  今日はよい天気──といえばそのとおりなのだろうと思う。この国に、天気の移り変わりというものがあれば、という話ではあるのだけれども。  この国の朝は暗い。いや、朝だけでなく、昼も暗い。地下なのだから当たり前といえば当たり前だ。太陽の替わりに瞬くのは頭上に君臨する尖塔に備えつけられた非常灯のような灯りのみで、こんな日照時間など皆無に近いというか絶無の状況で花など咲くのかと思う。  頭上をゆったりと泳ぐ三体のサメに──やっぱいるのか、こっち≠ノも──びくつきながら塔の裏側へと回りこむ。申し訳程度に整えられた歩道を突っ切ったその奥に、しかしそのほうせんかは、ひっそりと咲いていた。  屈みこんで、のぞき込む。  この国の女王と同じ淡い赤の花弁。そっと翼を広げた鳥のようにも見える。 「……ほんとは花言葉、なんていうんだろ」 「私に触れないで=v 「……っ」 「触れた者の爪を、深紅に染めることから爪紅≠ニも呼ばれています」  一瞬、女王がそこにいるのかと思った。だけど、違う。似ているけれど、別人だ。纏うショートドレスは女王と同じく真っ赤だけれど、黒い髪、黒い瞳。そしてなにより女王は、こんなにも他人に向かって無防備な笑顔を向けたりはしない。 「はじめまして、ですね。ウィザード」  いつのまにか彼女は自分のすぐそばに屈み込んでおり、自らの両膝に頬杖をついてこちらをのぞき込んでいた。  思わず腰を浮かしそうになって、だけどそれも相手に失礼なような気がして、妙な姿勢で小太郎は固まってしまう。 「お、俺のことを……?」  花のように笑って、彼女は答える。 「この国で、今や貴方を知らない者はいません」 「貴女は──」  ん? とばかりに小首をかしげる彼女。 「女王の、お姉さんですか……?」  ちょっとびっくりしたように、目の前の黒い瞳が見開かれる。 「あら、どうしてですか?」 「同じにおいがするから」  言ってから、しまった、と思った。あまりに不躾だったかな、と一瞬死にたくなったが、目の前の彼女はより一層朗らかに笑うと、 「なかなか官能的なことをおっしゃられるのね。わたくし、ちょっとどきどきしちゃいました」 「す、すみません……」 「お気になさらず。つい先ほどまで汗を流しておりましたので少々お恥ずかしいかもですが」  くすくすと彼女は、おとぎ話のお姫様のように笑う。 「半分あたりで、半分はずれです。赤の女王──陛下は、わたくしの姉です」  あね、 「皆には緋姫(ひのひめ)と呼ばれております。以後、お見知りおきを」  すっと立ち上がり、本当のお姫様のように──いや、正真正銘お姫様なのだけれども──お辞儀する所作があまりに優雅だったので、小太郎は思わず見とれてしまう。慌てて立ち上がり、精一杯頭を下げたのだけれど、その仕草がおかしかったのかお気に召したのか、再びくすくすくすと、笑い出されてしまう。  かんべんしてくれと思う。女王に瓜二つということは、でぼちんにそっくりなのだということであり、でぼちんに似ているということは、それは、つまり──  胸が詰まった。とてもじゃないけど、直視できなかった。屈託なく笑う彼女の姿は、今までどうしても届かなくて、この先ももう、決して届くことのないもの、そのものだったから。 「そ、それでその、」  振り払いたくて、無理矢理声をかける。 「そのお姫様が、俺になにか?」  まだおかしさの残る視線で、姫は花壇のほうせんかを示した。 「それに、触れようとされていたので」 「え?」  わけがわからない。小太郎のそんな疑問にも気づいているだろうに、かまわず姫は続ける。 「なにか、お悩みなのではないですか?」  どきりとした。 「顔に描いてらっしゃいます」 「…………」  トゥイードゥルディーといい彼女といい、ここのひとが鋭いのか、自分がわかりやすいのか。昨日の女王と大臣たちのやりとりからして、今彼女にそれを問うてもいいものかどうか、小太郎には判断がつかなかった。それでも、まあいいか、とも思う。ただ単に、ひとりで考え込んでいることに疲れていたのかもしれないし、なんでもいいから、誰かに話したかっただけなのかもしれない。  五秒迷って、姫から視線を外した。 「女王──陛下のことを、どう思われますか」  姫は即答する。 「尊敬しております」  このへんは姉妹だなあ、と思う。 「皆の反対を押し切って、争いを続けようとしている、そんな女王でもですか」  それでも姫は即答する。 「ありがたく思っております。大切なものを取り戻し、守るためですもの」 「でもそれは、きっと敵も同じだ」 「…………」  あの日の塔のてっぺんで、女王から聞いたあの時から、それはこころのど真ん中に居座っていた感情だ。内戦に疲れ、荒野の旅に疲れ、ようやくたどり着いたアリス・リデルの地。それを望む彼らと、かつてあった空を目指す女王たちの間にいったいどれだけの違いがあるというのか。だけど、  そう簡単に割り切れるものだろうか、とも思う。  はたして記憶を失う前の自分なら、そんなことを言えていただろうか。 「おやさしいのですね」 「え」 「見失ってらっしゃるのですね、なんのために戦えばいいのか」  ずくん、とその言葉が胸を刺す。 「では、わたくしを守ってくださいまし」  弾かれるように顔を上げた。 「わたくしを守るために、傷ついてくださいまし。敵を、屠ってくださいまし」  ふわりと、鼻腔をなつかしいにおいがかすめたと思った瞬間、頬に、やわらかな唇が触れた。 「だめですか?」  度肝を抜かれていた。ひとたまりもなく狼狽し、腰が砕けなかったのが不思議なくらいだった。  ずるいと思う。どうしてふたりして──妾の剣となれ、ウィザード──でぼちんと同じ顔でそんなことを言うのか。  でぼちんと、同じ姿で。  次の朝は、女王に襲われた。  目の前いっぱいに、自分へと覆いかぶさる女王の顔があった。肩をすべりおちる金色の髪が頬をくすぐり、懐かしいにおいが鼻腔いっぱいを満たしていた。  なんなのか。昨日といい今日といい。これが人生に二度は訪れるというモテ期というやつなのだろうか。  が、違う。それは違う。女王は確かに自分に覆いかぶさるようにこちらをのぞき込んでいたけれど、あられもない姿でもなければ、よつんばいで圧し掛かっているわけでもない。艶かしい視線を向けるわけでもなく、濡れた唇で愛を囁くわけでもない。 「起きたか」  紅の唇が紡ぐ言葉は鋼鉄のような調べ。身に纏うのはもはやいつものごとくそれこそがアイデンティティとでもいうかのような深紅のチューブトップ。 「女お」  思わず叫びそうになった自分の口を、傍に仕えていたトゥイードゥルディーが手際よくふさいだ。どうでもいいけど、鼻。鼻もふさいでます、メイドさん。苦しい。たぶん普通このままだと死にますにんげんわ。 「二十六時間だ、ウィザード」  構わず女王は、大上段から言葉を振りかざす。 「其方の時間、もらうぞ」  またですか。  今度はてっぺんではなく、塔の下へと連れていかれた。  とにかく音をたてることを禁じられた。しゃべることを止められた。慌てず騒がず、それでいて速やかに階段を降りるように強要された。灯りも持たず、伴はトゥイードゥルディーただひとり。これじゃあまるで一家離散の夜逃げみたいだ。朝だけど。  なんで一国の主がこんな真似をしないといけないのか、そこまで考えて、小太郎は先日の大臣たちとのやり取りを思い出す。内容は半分も理解できなかったけれど、このお忍びがまさかあの時の話と無関係なわけはあるまい。 「無関係ですよ」  闇の奥から声。緊張が走ったのは、どうやら小太郎ひとりだけだったようだ。 「女王は、行きつけの場所へ行こうとしているだけ。そうですわね、姉様?」  階段を降りきった最下階。塔の一番奥の、鈍色の扉の前で、彼女は待っていた。  思わずどきりとした。女王と同じ顔、同じ色のミニドレス。女王とは違う、漆黒の髪と瞳。  緋姫。  昨日の感触を思い出して、小太郎は頬が熱くなるのを感じた。彼女も一緒に行くのか、ちらりと女王の表情を窺い見て、問わずともわかったような気がした。  小太郎は知らない。これほどまでに厳しく、妹を見やる姉の姿を。  無言で女王は、傍らのトゥイードゥルディーへと問う。  正確に意図を理解して、メイドは答える。 「三十六秒です」  女王は、妹へ向き直り、 「一分だ」  花が咲くように微笑んで、姫はかぶりを振る。 「とんでもありません。二十秒で十分です。お帰りのご予定は?」 「明朝。尖塔の灯がともるまでには戻る」 「また大臣方が騒がれますわね」 「其方も彼奴らと同類か」 「まさか。わたくし、無駄なことはしない主義ですの」  瞳をすがめて、女王は考えるように沈黙したけれど、やがて断ち切るように言い放つ。 「……二十秒だ」 「お気をつけて。ウィザード、貴方も」  不意打ちで微笑みかけられて、まともに返すこともできなかった。かまわず姫は女王へと向き直り、 「お早いお帰りをお待ちしておりますわ」 「待たなくていい。時間は宝だ。其方は其方の時間を使え。有意義にな」 「過分なお言葉、感謝いたします」  格子戸をふたつ重ねたような、鈍色のドアが左右に開く。それがエレベータのドアだと気づいたのは、その半瞬後。どうやらここからは、女王とふたりで行くらしい。女王が先行するのかと思いきや、先へと促された。 「後は任せる」  トゥイードゥルディーへと耳打ちする女王の声、 「用心しろ」  その言葉は、背後を断ち切るドアの音にかき消され、小太郎の耳には届かなかった。  開いた時とは比べ物にならないスピードで閉じた扉にびっくりする間もなく、全身を独特な浮遊感が包んだ。周囲は完全な闇。かと思いきや、あっという間に一気に拓けた。エレベータは思いのほか質素な造りなのか、無骨な鉄骨と硝子壁のみで構成され、ゆえに周囲も足元もこわいくらいの眺望を小太郎へと突きつけていた。  それは、はたして人の業によるものなのだろうか。  いくつもの階層をめぐった。そこはうち捨てられた廃墟であったり、草木も生えぬ荒地であったり、何に使うか検討もつかないガラクタの山であったりした。まるで統一感のない様相を呈する地下世界にあって、だけどただひとつ共通していたのは、それぞれの天井より伸びる黒光の尖塔だった。階層を下る度、それが尖塔ではなく、さらに下の階層を構築するために使われた基礎──のようなものであることがわかる。それはまるで今まで小太郎がいたあっち≠フ世界の空を逆さまに見ているようだった。  いったいどれだけ下層までいくのだろう、半ば圧倒されながら窓の外を見やっていたところ、 「姫とは、いつから?」  心臓が飛び跳ねた。女王の声。これからこの姉妹は不意打ち姉妹と呼ぼうと心に誓う。 「あ、や、昨日──昨日、初めて会いました、花壇でっ」  なにを動揺しているのか、自分でもよくわからない。わからないが、とてつもない後ろめたさを感じるのはなぜだろう。  ──わたくしを守ってくださいまし。  あの時感じたぬくもりとやわらかさは、今もはっきりと頬に残っている。 「えとっ、あー、その、ディーさんがっ」  トゥイードゥルディーです、ウィザード。という彼女の声が聞こえた気がして、慌てて言い直す。 「そ、そうっ、トゥイードゥルディーさんがっ、見ごろ、いや、いい天気だって、花がっ、花を見に行ったんですっ、花壇にっ」 「──花」  呟くような女王の言葉は、いつもの力がないように思えた。  なんだろう。小太郎は思う。女王の顔は、こちらからは窺い知ることができない。  話を続けてもいいのだろうか、若干迷いながら、小太郎は口を開く。 「……ほうせんか。花壇の。見せてもらいました」 「そうか」 「……あれは、女王が? それとも、トゥイードゥルディーさんが?」 「妾だ」  女王は即答する。  少量の水、最低限の日照量さえあれば咲くよう品種改良した結果なのだという。 「母が好きな、花だった」  女王の視線は、自然と空に向けられていた。  抜ける青空のもと、野原一面に咲き誇る紅の花。めったに見ることはできなかったけれど、今もあの光景は忘れないと、女王は言う。 「だが、ここではろくに咲かない」  常に前を見つめていた強い瞳が、わずかに翳る。 「咲かないのだ」  強く、拳を握りしめる女王の姿に、先日の刃のように研ぎ澄まされた言葉を思い出す。  ──だから、あの空を取り戻す。  あの日以来、小太郎の胸のど真ん中に突き立てられたまま、どうしたって抜けてはくれない切っ先のような言葉を思い出す。 「そろそろだ」  女王の言葉と同時に、鈍い警報音が響き渡った。瞬間、再び独特の浮遊感が全身を包み込んで、そして。  閉じた時とは正反対に、ドアがゆっくりと開いてゆく。あまりに頼りないエレベータ内の光が、徐々に闇に侵食されてゆく。ドアの向こう、見据える先にうっすらと見えるのは巨大な回廊。まるでこちらへとぽっかりと開かれたそれは、なにかしらのアギトのようにも見えた。  ともすれば上ずってしまいそうな声音を押さえつけながら、小太郎は問う。 「なにがあるんですか、この先に」 「言ったろう」  予想どおりの言葉で、女王は即答する。 「妾の剣となれと」  エレベータを降りたそこは、この世界の最下層だった。周囲は非常灯さえない真の闇かと思いきや、一歩一歩、歩を進める度に眼が慣れてくる、ということは、どこかにわずかな光源があるのかもしれない。  鼻をつくのは鉄と錆のにおい。それだけはどこにいても変わらないのだな、と思い始めたその時、一際明るい光を前方に見つけた。  すぐそばを、絹糸のような女王の金髪が揺れた。差し出されたのは、彼女の小さな手。 「これを渡しておく」  眼を凝らして見る。小さなふたつの物体。なんだろう、耳栓? 「其方は、銀杏並木を歩いたことは?」  またも唐突な質問だった。 「いや、あんまありませんけど」 「茶碗蒸しは好きか」 「ちゃわんむし?」  金髪碧眼の女王の口から聞くとひどく違和感を覚える。この世界にもあるのか茶碗蒸し。  そもそもいったいなんのための質問なのか、説明することなく女王はただ前方を見据える。 「とりあえず、鼻をおさえておけ」 「花?」  そうこうしているうちに、目の前には巨大な門が聳え立っていた。さっきから輝いていたのは、その上に備えつけられていた卵型の門灯か。門の向こう側は中途半端な灯りのせいか、完全に闇に沈んでしまってなにも窺い知ることができない。 「ここで待て。一歩も動くな。呼吸もするな」 「そんな無茶な」 「ほんの数秒だ。耳栓をしろ」  切って捨てて、女王はひとり門へと歩み寄る。門柱にかかっているのは──あれ、なんていうんだろうな──輪っかをくわえこんだ、ブロンズの獣の顔。  神妙な顔つきで、女王が輪っかに手をかける。ふたつ、ノックする。  途端、まず音楽が聞こえてきた。スウェーデンの偉大な作曲家、スメタナ作による『わが祖国』の第二曲。俗に『モルダウ』と呼ばれる小太郎でも知っている超有名なクラシックだった。なぜモルダウ。いったいどこにスピーカーがあるのか、いや、それ以前に俺、今耳栓してるよな? それさえ疑いたくなるような大音声が耳朶をつんざいていた。耳栓がなかったらいったい鼓膜がどうなっていたか想像したくもなかった。 「じょ、女王、これって、」 「手を放すな!」  と女王が叫んだと知ったのはもっとずっと後のことだ。耳栓が仇となった。その時つんざいていたのは耳だけではなく、嗅覚もまた攻撃対象になっていたことに気づいていなかったのだ。 「な、んだっ」  形容しがたいにおいだった。鼻がひんまがる、とはこのことを言うのだろう。さっきの女王の質問の意味がわかった。銀杏のにおいか、これ──思わず咽て咳き込みそうになったその時、それらは起こった。いっぺんのことが同時に発動した。  まず最初に──それが最初だと気づいたのはもっと後だったけれど──頭上から直径二メートルはあるトゲトゲの鉄球が小太郎めがけて落下してきた。右手からは無数の矢が放たれ、左手からはレーザー光線が闇を切り取り、背後からはなにやら得体の知れない嬌声が聞こえてきて、他にも光やら爆発やら周囲を賑わしていたけれど、小太郎が把握できたのはそこまでだった。古今東西、ありとあらゆるトラップの雨霰、五感すべてを標的とした攻撃の数々だったのだけれど、そのことごとくが鼻先をかすめ、袖口をなめ、小太郎と女王だけを避けて自爆した。  鼻先にある、ぞっとするほどばかでかい鉄球のトゲトゲをしげしげと見やりながら、小太郎は息を呑む。女王が一歩たりともそこを動くなと言った意味がわかったような気がした。  いったいなにが起きたのか。見上げる空には、鴉の大群。狂ったように降り注ぐ呪符の紙ふぶきを頭に引っかぶりながら、小太郎はただ呆然と立ち尽くす。  さっきのモルダウ以上の大音声が闇をつんざいたのは、眼前を横切る黒猫を、女王が平然ととっ捕まえたその瞬間だった。 「合言葉を言え!」  抱きかかえた黒猫の毛並みを楽しみながら、女王が澱みなく答える。 「ハンプティ・ダンプティが塀の上、=v  が、声は否定する。 「それは二日前の合言葉だ!」  ぴたりと、女王の毛並みを楽しむ手が止まる。 「セイウチと大工は歩いて=v 「それは昨日!」 「わが息子よ、ジャバウォックに用心あれ、=v 「それは二十秒前!」 「あ」  小太郎は気づく。女王のおでこに、見事なまでの、ぶっとい血管。  臨界は、すぐにきた。 「いいかげんにせぬか白騎士! 妾はこんな最下層くんだりまで詩をうたいにきたのではない! 十秒だ! 十数えるうちに門を開けぬとウィザードをけしかける!」  え、俺? 「一!」 「いやいや、あの、女王?」 「二!」 「ちょっと、ちょっと落ち着いて、」 「十!」 「って、えええええー!」 「やれウィザード!」  いや、やれってなにをどうやって。 「あいや待たれい!」  どん! と書き文字でも躍りそうな勢いで聞こえたその声は、門のすぐ向こうからだった。 思わず小太郎はあんぐりと口を開ける。でかい。とにかくでかい。身長三メートルはあるんじゃないかと思えるそいつは、顔を含め、全身を真っ白な甲冑に固めた規格外の巨漢だった。  門柱のさらに上の闇に浮かぶ純白の兜が、いったいいつ、どこから現れたのか。闇の向こうから忽然と現れたとしか思えない早業だった。  ──ずっと、そこに潜んでいたのでないとするならば、ではあるけれども。 「急かさずともこの白騎士! 逃げも隠れもせぬ! 騎士たる者、挑まれた決闘には応えねばならぬゆえしかし! だがしかし! しかしだ最後まで聞け! 無益な殺生は愚の骨頂! それはウィザード! 貴殿も想いは同じであろう! いや同じなはずだ同じと言うがいい!」 「いや、それはまあ、」 「同じであるな?!」  なんだこいつ、頭に浮かんだでっかい疑問符を、女王の一喝が吹き飛ばす。 「なんでもよいわ! 妾をいったいいつまで待たせるつもりかとっとと門を開けよこのたわけが!」  小太郎はその時、確かに分厚い甲冑の向こうから、「ひっ」というか細い声を聞いた気がした。 「よ、よよよかろう。今開けよう、すぐ開けよう、開ければよいのであるな?!」  半ば逆ギレしながら、白騎士が一歩踏み出した瞬間だった。  白い巨漢が、ぐらりと傾いだ。  あぶない、と思った時には手遅れだった。 「お、おい!」  地響き立ててひっくり返った白騎士へと、鉄格子ごしに駆け寄る。兜をおもいきりぶつけてしまったのだろう、門の格子が無残なまでにひしゃげてしまっていた。 「むぐぐ……」 「だ、大丈夫か?」 「も、問題ない」  かろうじて返事が返る。 「いや、けど、」  門がひしゃげるくらいぶっつけといて、問題ないわけがないような気がするけれど、 「ぶ、」 「ぶ……?」 「武士は喰わねど、高楊枝!」  ずどん! と書き文字が自己主張しそうな勢いで高らかに宣言する。 「いや、あんた武士じゃないしな」  思わずツッコんでしまったその時。  転んだ勢いだったのだろう、さっきまで闇に浮かんでいた白銀の兜が、ずるりとずれた。  かつんと、思いがけず軽い音をたてて落ちた兜の向こうにあったのは、想像していたようないかついおっさんではなく。  まず目に飛び込んできたのは、うなじだった。  息を呑むほど白いうなじが、なんだかよくわからない機械に埋もれていた。白い甲冑の中はなにかのコクピットのようで、機械に埋もれて、座席がひとつあって、そこに座っているそのひとは──  ひどく苦労してこちらを見上げてきたそのひとと目が合った。びっくりするくらいの、美人さんだった。  見惚れた。でぼちん以外で、こんなに心奪われたのは正直初めてだった。  なにか声をかけないと、そう思う間もなく、  彼女の瞳が、くしゃりと歪んだ。 「……ふぇ」 「……笛?」 「ふぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」  泣いた。わけがわからない。  女王のおでこに浮かんだ血管もさっきの三倍増しだ。いったいどうすればいいんだ。  朗々と響く白騎士の泣き声を止める術もなく、小太郎はひとり、途方に暮れるのだった。 「まったくもって、お見苦しいところをお見せした。面目次第もございません」  眼前で、白騎士が深々と頭を下げる。とはいえそれでも白い兜は小太郎のはるか頭上にあるのだけども。 「いえ、その、別に気にしてないっていうか。びっくりしたってだけで」  両手を振りながら、頭上の白い巨体を見上げる。さっきまでの取り乱しようが嘘のように部屋の中央に鎮座する様はまさに屈強の騎士。いかな外敵からも主君を守る気概に満ちているようにも見える。だけど、  ──この中にいるのは、あの美人さんなんだよなあ。  自分よりも全然華奢で、泣き虫な。小太郎は、改めてまじまじと見上げる。気を抜くとまたアホの子のように口を開けてしまいそうになる。だってこれって、アレだろ。アニメとかである、ぱわーどすーつとか、そういうアレだよな。相棒が見たら狂喜乱舞するだろうか、それとも二足歩行の汎用兵器なんてナンセンスだと一笑に伏すだろうか。 「いや、まったくもって申し訳ない。女王陛下に至っては謝罪のしようもございません」  ひらに。ひらに。といった調子で頭を下げる白騎士に対して、女王はただ憮然とさっきの黒猫を膝に乗せ、やわらかな毛並みを楽しんでいる。  女王とふたり、ようやく通された部屋は、百畳はあるのではないかというばかでかい和室だった。どうにも統一感がない。というか、やっぱりこいつはどこか騎士と武士とを取り違えているような気がしないでもない。  いや、まあ、だったらどう違うのか、と問われれば、ぐうの音も出ないんだけれども。  それとも、これこそがこの世界でいう騎士≠ニいうものなのだろうか。 「だいたい、なんで入り口にあんなにたくさん仕掛けを? ここまで敵が攻めてくるとも思えないんだけども、」 「愚問であるなウィザード!」  ずどばん! っていやそんな無駄に書き文字躍らせなくてもいいんだけども。 「戦の場に、絶対というものはない。この世にはあらゆる危険が潜んでおる。ここまで敵はやってこれない? なぜそう思う? 象牙の塔があるからか? その塔が墜ちぬと誰が言える?」 「いや、誰が、って、そりゃ」 「例えば獅子だ」 「は?」 「獅子は百獣の王であるがしかし、大海に比ぶればミジンコのごときであろう。海へ潜ればその牙からも逃れられるやもしれん。だがしかし、はたしてほんとにそうか?」  いったい、なにが言いたいんだこの白兜は。 「例えばサメだ。海中にあってこそ発揮できるそのアギトは、だがしかし陸(おか)へ上がれば無力か? 陸にさえいればその無頼なる牙から逃れられるだろうか? 本当に?」 「いや、いくらなんでも陸にいればサメには──」  ──なんだろう、引っかかった。陸のサメ? 「本当にそう思うか?」  白騎士が、にやりと笑った気がした。兜で見えないはずなのに。  思い出した。 「いた……陸にサメ」  象牙の塔の、空飛ぶサメ。 「まああれは、私が造ったのであるが」 「って、をい! っていうか、ええっ?!」  ツッコんでいいのか驚いていいのか。小太郎は思わず身を乗り出す。 「造った?! アレを?」 「いかにも!」  どどばん! ってだからそれはもういいから。 「アレはいいデキだろう! かまぼこ味を再現するのに苦労した!」  いや、別に普通サメはかまぼこの味はしないと思うけど、 「っじゃなくて! 造った?! アレを?!」 「いかにも!」  どどばばん!  無限ループだった。  眼前の白い巨漢を見上げながら、小太郎はやっぱりアホの子のように口を開けてしまう。このぱわーどすーつといい、あのサメといい、このひと、もしかしてすごい人なんだろうか。 「空を飛ぶサメ然り、海を渡る獅子然り! この世にはあらゆる危険が存在する! それを証明するためにな! ほんとにアレは苦労した! かまぼこ味に苦労した!」  かまぼこはもういいから。 「け、けど、それはあんたが造ったからで、それってあんたさえ造らなきゃ危険なんてないってことで、」 「なぜかねウィザード? 私に造れるものが、敵に造れぬとどうして言い切れる?」 「う……」  それは、確かに。 「侮るなウィザードこの世界を! この世に絶対などない! そこかしこで! あらゆる危険が今か今かと貴殿らを待ち構えているのだ! それゆえ用心は宝だ! 用心しすぎてしすぎることはない! しすぎることはないのだよ! 大事なことだから二度言いました!」 「やかましいわ!」  高らかに哄笑せんとする白騎士に対し、堪忍袋の緒が切れたとばかりに再び女王が爆発する。 「黙って聞いておれば偉そうに! 其方はただ単に臆病風に吹かれているだけであろうが!」  立ち上がるや否や、おもむろにジャンプ一番、むしり取るようにして白騎士の兜を奪い取っていた。 「ああっ」  たちまち露になる美人さん。その顔が、耳まで真っ赤に染まる。 「こいつがなければ面と向かってもの申すこともできんくせに!」 「かっ、かぶとっ! 女王! ごっ、後生ですからかぶと! 返してくださいー!」 「ふんっ! こんなものはっ! こうじゃっ!」  振りかぶるやいなや、全力でもって窓の外へと投擲する。 「ああーっ!」  ひどすぎる。 「じょっ、女王のっ! ばかあああああああああああああああああああああああああああああ」  ドップラー効果を残して、逃走したのか兜を探しにいったのか、とにかく白騎士は部屋を飛び出して行ってしまった。と思ったらこけた。 「ふえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」  泣いた。  泣きながら今度こそ走り去る。その背中をなんだか憐憫の情と共に見つめながら、 「……なにもあそこまでしなくても」 「ふんっ! 妾はかまぼこは好かんのだ!」  なんの話なのか。泣きじゃくる白騎士をこのまま放っておいていいんだろうか。追いかけようかどうしようか迷っていると、 「其方はどう思っておる」 「え」  相変わらずの唐突な問い。ついていけず、小太郎はただ女王を見やることしかできなかった。  まだ憤懣やる方なしという感じで足元の黒猫を抱えながら、女王は言葉を放り投げる。 「空飛ぶサメの話だ」  白騎士の言葉。いったいどういう意味で女王が問うているのか。真意がわからず、小太郎は女王の言葉を待った。 「癪だが、あやつの言うとおりだ。この世には、あらゆる危険がある。それを恐れるがゆえにひとは古来より道具を扱ってきた。知識を漁ってきた。イメージを膨らませてきた。その権化が、あやつだ」  あらゆる危険を想定し、あらゆる兵器に精通し、この国に貢献してきた。それがあの白騎士なのだと、女王は言う。 「事実、そのおかげで我々は今、ようやく手に入れようとしている」  手に、入れる? 「いったい、なにを……?」 「ハンプティ・ダンプティ=v  女王は、静かに即答する。 「古人が遺した、我々の切り札だ」  ハンプティ・ダンプティが塀の上  ハンプティ・ダンプティがおっこちた  王様の馬みんなと王様の家来みんなでも  ハンプティを元に戻せなかった  それが放たれたが最後、もはや誰にもどうすることもできない──そんな畏怖と絶対的な力の象徴という意味を込めて名づけられたと、女王は言う。  赤の女王の、切り札。  確かめる必要があると、女王は言った。  はたしてそれを扱うに値する力を持っているのかどうか。  ──見せてもらうぞ、ウィザード。  見覚えのある部屋だった。光と影がお互いに乱反射して、色どころか広ささえ判然としない。入ったことも、見たこともないはずなのに、頭のどこかに引っかかる。なんだか漠然と、ああ、これから俺、ここで夢をみるのかな、と思っている自分がいる。  ビンゴだった。  ──其方はなにもしなくてもいい。ただ、眠れ。  嫌な夢をみた。  悲しい夢だった。叫んだり暴れたり、唇を噛みしめたりシーツを握りしめたり、そんな激しい揺さぶりはない。ただそれは、心さえ抵抗をなくすような、どうしようもない、痛み。  夢は夢らしく、目を覚ました途端、泡となって消えてしまったから、くわしいことはなにも覚えていない。けれど、ただ悲しい、それだけは溶け残った砂糖のように胸の奥に沈殿して苛んだ。ちょっと考えればそれがなんなのか推測することはできたけれど。できたとしてそれがいったいなんになるのか。  ──嫌な想いをさせたか。  いいえ。小太郎は首を振る。  ──嘘はよせ。其方の力の臨界点を正確に測る必要があった。許せ。  抗力とは、かけられた負荷に比例して、強く激しく発現する。そういう意味では確かに女王はこれ以上ないほど効率のよい方法を取ったのだろうと、小太郎は思う。胸の傷よりなにより、消えない傷が、小太郎にはある。  ──ちくしょう。  今もまだ、亀裂のように脳裏をかすめるのは、でぼちんの顔。 「ハンプティ・ダンプティ≠ニは、抗力により閉じ込めた反物質の砲弾を、亜光速で撃ち出す星間反粒子砲のことだ」  百畳を超える無駄に広い空間に、白騎士の朗々とした声がこだまする。  あれから数時間。部屋から出る頃にはもう、夜といっていい時間だったが、おもむろに小太郎は女王と共に、先ほどの和室のど真ん中に正座させられていた。まだどこか頭の中が判然としない。ぼうっと目の前の巨漢を見上げながら、ああ、白騎士、かぶと、見つかったんだな、よかったな、と思った。 「もともとは通信機として建造されたのだそうだが、その大出力に目をつけた時の王が、兵器として再構成したのだと言われている」 「……あんたが造ったんじゃないんだ」 「いくら私とて抗力制御の術は知らぬよ。あれはこの地下より発掘したいわば過去の遺物。文献によると、一億八千万キロワットもの大出力に加え、対消滅による破壊効果もあいまって、理論上この世に破壊できないものなどなにもないのだそうな」 「つまり──」  口を開いたのは、女王。 「完成すれば、この忌まわしい偽りの空ごと、彼奴らを一掃できるということだ」  息を呑む。  覚悟はしていたけれど、改めて垣間見る女王の真意に、正直戦慄を隠せなかった。胸の奥で、もうひとりの自分が絶叫している。本当にこれでいいのか。胸が詰まる。息もできない。  振り絞る。 「……それで、俺が必要ってわけですか」  ここにきて、ようやく話が見えてきた。どうして自分が、こんなところまで連れてこられたのか。抗力を糧とする最終兵器。生まれながらにして抗力を扱うウィザードというイキモノ。その両者が交わる先にあるものは、たったひとつだ。  白騎士が言い募る。 「当初、女王から話を聞いた時には正直信じ難かった。生まれながらの抗力使い。その規模。が、合点がいった。すさまじいまでのポテンシャルだ。抗力そのものは今だ未知数のガジェットであり、本質を単純に計れるものではないが、大よそにしてあの象牙の塔が誇る議会の最高傑作、赫奕たる冥奴≠アとトゥイードゥルディーの実に三十九倍。──三十九倍だ。この白騎士謹製の測定器がもう少しでオーバーフローするところであった。が、しかし、」  白騎士が饒舌だったのは、そこまでだった。兜の中の視線がどこを彷徨ったのかは知らない。考えるまでもなくそれはただの一点に違いない、なんの根拠もなくそう感じて、小太郎は女王を見ていた。  引き結ばれた唇はいつものごとく。が、いつだって硬質な意思を称えていた瞳は、膝上の黒猫へと落とされ、どこか翳りを帯びているように見えた。  ざわざわした。落ち着かなかった。急かすように白騎士へと問うた。 「……しかし──なんなんだよ」  それでも白騎士は渋った。が、やがて兜の向こうの声をさらにくぐもらせて、答えた。 「貴殿ほどの抗力使いを、私は知らない。それは真実だ。が、それ以上に、ハンプティ・ダンプティがとんでもなかった、というだけの話だ」 「え」 「出力不足なのだ。貴殿の力をもってしても」  一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。  ハンプティ・ダンプティは反粒子砲と呼ばれる兵器だ。砲弾となるべき反物質の生成はもちろん、それを地上まで撃ち出すための加速に要するエネルギーは並大抵のものではない。かの兵器が考案された頃にはおそらく抗力とは日常の現象だったやもしれず、その動作のほとんどが抗力によって賄うように設計されていたのだという。 「ともすれば、今ある貴殿の抗力によって賄うことも可能なのやもしれん。が、正直どう取り回せばよいのか見当もつかぬ」  抗力しかり、ハンプティ・ダンプティしかり。ろくに解析さえできていないひよっ子の我々が、それらをどうにかしようということ自体おこがましいことだったのかもしれないと、白騎士は言う。 「私も信じたくはなかった。女王の命もあった。何度も検証を重ねたが、結果は変わらなかった。ハンプティ・ダンプティの、ひとり勝ちだ」 「…………」  言葉にならないとは、このことだった。いったい何の冗談かと、正直思う。この国の切り札。ハンプティ・ダンプティ。女王の剣となるはずだった。ウィザードであれば、動かせるはずだった。そのためだけにここまできた。だけど足りない。すべて足りない。自分では、女王たちを守れない。戦えない。  戦ワナクテ、イイ。  ふいに、女王が微笑った。 「ほっとしたか?」  一瞬で、頭に血がのぼった。  今ほど、女王を憎いと思ったことはなかった。  それはつまり、その女王の言葉が、図星であることの証明でもあった。 「冗談だ、許せ」  想いがちゅうぶらりんだった。どこへもっていけばいいのかわからなかった。そんな小太郎の気持ちなど存ぜぬとばかりに、 「白騎士、暗号壁の解析はどこまで進んでいる」 「は、」 「フェイズ664は攻略したのか、と聞いている」 「は、いや、それは、」  白騎士の声音には、暗に、まだやるのか、という色がにじみ出ている。が、女王は怯まず、 「役立たずめ。よい。妾が直々に出る。其方らはここで待機していろ」  放り投げるように命じて、女王は立ち上がる。  まだやめない。肝となるべき動力源の確保も危ういというのに。どうして。小太郎は思う。出会ったあの時からずっと考えている。どうして彼女は、こうまで、ただ頑ななまでに、前しか見ないのだろう。  足早に部屋を出ようとする、誰かさんにそっくりな背中は、どこまでも危なげで、 「女王!」  呼び止めてから後悔した。なにもかける言葉が見つからず、やがて、女王は振り返りもせずに答える。 「すぐに戻る」  ふたり残された道場がごとき部屋は、今まで以上に広く感じられて、とてもじゃないが落ち着かなかった。 「止めぬのか」 「え」  唐突な白騎士の問い。 「そういう顔をしている」  ぎくりとして、うつむいた。言いたい言葉はあったけれど、呑み込んだ。 「……他に、方法はあるのか?」  自分の力が及ばないとわかった今でも。ハンプティ・ダンプティを──この国の切り札を動かせる術があるのか。  白騎士はしばし思案して、やがて、慎重に答えた。 「あるにはある。が、しかし──それがどうであれ、問題はそこにはない」  貴殿にもわかっていることだろう、言外の、白騎士の声が聞こえる。  そう、問題はそこじゃない。問題は、かの女王がまだ、微塵もあきらめていない、その一点に尽きるのだから。  こちらを大上段から見下ろして、白騎士が再び問う。 「止めなくてよいのか」  決して顔を上げることができずに、小太郎は答える。 「……だって、やらなきゃやられる。守るためだろ、あんたたちを。俺だって、思う」  ──わたくしを、守ってくださいまし。  ──咲かないのだ。  「守りたいって、思う」 「ほんとにそうか」 「……?」 「貴殿が守りたいものとは、まこと、我々のみなのか?」  弾かれたように白騎士を見上げた。  兜に邪魔され見えないはずの瞳を、小太郎は確かにそこに見たような気がした。 「貴殿はただ、誰も傷つけたくないだけであろう。女王も、姫も、敵も、そして、自分自身も。かといって見て見ぬふりもできぬ。だから貴殿は自分に言い聞かせている。我々が大切だから。だから、そのためなら誰を殺すことも厭わない。そう、思い込もうとしている。違うか?」  女王は、でぼちんに似ていたから。  ──違う。  姫は、夢みたでぼちん、そのものだったから。  ──関係ない。  都合がよかった。大切なのだと──でぼちんの替わりに手に入れたいのだと、思い込もうとしていた。思い込みたかった。思い込まなくてはいけなかった。でないと、一歩も前に進めない気がした。 「そんなことない……!」  だけど白騎士は、すべてを見透かしたように言う。 「無理はせぬことだ。無理はいずれ綻びとなって、貴殿の心を蝕む」  頭に血が昇った。自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。 「あんたがっ、あんたがいったい俺のなにをっ」 「見縊るな、ウィザード」 「……!」 「この国に生まれた者ならば、誰もが直面する問題だ」  頭に昇った血が、一気に下降する想いだった。 「この国に生まれた者は、明日の糧よりもまず、何のために戦おう、それを考える。幼子は将来の夢よりもまず、誰かを傷つける理由を決めなければならない。答えろウィザード、それがはたして、本当に正しい姿と言えるのか?」  小太郎は答えられなかった。答えられるわけがなかった。口をついて出たのは、呪文のように自分を蝕む、彼女の口癖だった。 「生きるってことは、戦いだ」  自動的な、言葉だった。 「何かを得るためには、なにかを犠牲にしなくてはならない」 「いかにも。世界とは常に我々にとって厳格であり、狭量であり、我らがなにかを手に入れるそれすなわち、誰かがどこかでなにかを失っているということと同義である。だがな、だがしかしだ、ウィザード」  そして白騎士のその言葉が、小太郎の心を停止させる。 「この世に、人を殺してもいい理由など、ひとつもない」  ざっ、と、樹々が鳴る。地下のこの世界では珍しい横殴りの風だった。  カチューシャを飛ばされないように押さえ込んで、そっと、トゥイードゥルディーはほうせんかに手を伸ばす。  今年は例年になくよく咲いた。せっかくだから、いくつか女王の部屋へお持ちしようと思う。手折ろうとして、ちょっと躊躇して、再び吹いた横風に邪魔をされた。この季節に吹くことはめったにないのだけれど、今晩はどこかおかしかった。昔から女王はこの風がお好きでない。特に強く吹く夜は決まって枕をもって自分の部屋へと転がりこんでくる。お帰りは明朝とのことだけど、念のために暖かいココアの準備をしておこうと思う。塔いっぱいに香りが広がるくらい、うんとエッセンスをきかせよう。強がりでこわがりな女王が、気兼ねなく言い訳できるように。  風が鳴る。尖塔の明かりがひとつ、またひとつ消えるごとに吹く風は強さを増してゆく。ほうせんかを手に、キッチンへと向かうトゥイードゥルディーの頭の中は、ココアのことでいっぱいになる。  だけどそのココアが、女王に振舞われることなど二度とないことに、この時のトゥイードゥルディーは知る由もない。  風が鳴る。  尖塔の明かりがひとつ、またひとつ消える度に、象牙の塔を取り囲むその影は、ひとつ、またひとつと増えてゆく。 「予定通りだ。地の利は我らにあり。始めるぞ」  悲劇はもう、すぐそこまできていた。    第四章  それから一時間もしないうちに、女王は部屋へと戻ってきた。  襖を荒々しく開けるやいなや、 「フェイズ665まで複合化完了だ。キーはいつものとおり。最後の壁は白騎士、其方にまかせる」 「は、え、」  白兜は突然のことに声も出ない。 「も、もう突破できたので……?」 「六百以上もかかずらっていれば、いい加減パターンが見える。ウィザード、用件は済んだ。帰投するぞ」  今度は小太郎が慌てる番だった。 「か、帰るのは明日のはずじゃあ、」  時計もなければこの星の自転周期もわからない上、どれだけの間夢をみせられていたのか見当もつかなかったから、正直正確な判断はつかなかったけれど、少なくとも今はまだあれから丸一日経ってはいないはずだ。 「あの時は、ああ言うしかなかった」  あの時、とは、いったいいつのことだったか。 「何度も言わぬ。四十秒で仕度しろ、ウィザード」  有無を言わさなかった。戸惑う小太郎を尻目に、女王はとっとと帰り支度を始める。小太郎は正直まだ白騎士に聞きたいことが山ほどあったが、ひとりここに残れる雰囲気ではなかった。  取るものも取らずに白騎士に別れを告げると、転がるように女王の背中を追いかける。しかし屋敷を出た時にはもう女王の姿がどこにもなかった。  ここへ来るまでは真っ暗だが脇道など一切ない一本道だったはずで、間違っても迷うことなどないのだけれど、女王のあの態度が気になった。なにかに急き立てられるような小さな背中に感染した。喉の奥からせり上がる得体の知れない不安感に駆り立てられながら一本道を突っ切って、そして。  小さな背中が、エレベータの前で立ち往生していた。 「……女王?」  切れる息に苦労しながら、小太郎は声をかけるが、女王は答えない。  肩越しに手元を覗き込む。さっきはいくつか点灯していたパネルのランプが完全に消えているように見えた。まさか、 「正、副、予備、すべて沈黙だ」 「え」  唇を噛みしめて、女王は呟いた。 「やはり、仕掛けてきたか」  まず、三体のサメが音もなく破裂した。  飛び散る血しぶきさえ瞬時に蒸発して消えるほどの容赦のない爆発だった。音速で飛散するかつてはサメだったもののかけらをこともなげに踏み台にして、塔に取りつく影があった。  全身を特殊カーボナイト繊維のスーツで包み、二丁のベレッタと山ほどのマガジンをぶら下げたガンベルトを装着していた。ブーツ、グローブ、両耳から後頭部を覆うフリッツヘルメット。それらすべてを闇の黒に染め、ただひとつ、目につけた暗視スコープだけが不気味に赤く輝いていた。  影には、名前がなかった。認識票も部隊証もなく、それは影がこの世のどこにも属さないことを意味していた。  かたりとも音を立てずに壁を破壊する。ぽっかりと穴を開けた塔の内部へと滑り込む。  最初に犠牲になったのは、若い近衛隊士だった。天井に届くほど飛び散った血飛沫が、自分の首筋から噴出したものだということに、彼はついに最後まで気づかなかった。  影が、腰のベレッタを引き抜く。偽りの空から差し込む淡い光が、銃身を黒く輝かせて、そして。  それが合図となった。  たった今押し開けた塔の壁から、ひとつ、またひとつ影が侵入する。空の闇から、まるで滲み出てくるかのように。  それは、あまりに静かで的確で、不気味な序曲だった。  塔を守る近衛隊が、影たちの動きに気づいたのはそれからさらに百八十秒後のことだった。 「侵入を許しただと?! 外苑の第三隊はなにをしていた!」 「電波妨害がひどく、状況を確認できません!」 「あのごく潰しどもめ……! 侵入経路は。彼奴らは今どこにいる」 「侵入経路はおそらく第三階! 東南東外壁の崩落を確認! 現在第二小隊第三分隊との通信途絶。応答がない状況です!」 「二の三? 配置場所は」 「第二階です!」  それはつまり、侵入者が塔を下へ向かって侵攻しているということだ。 「……彼奴らめ、ハンプティ・ダンプティの存在に気づいたか」  しかも今は、女王がウィザードを伴ってその場所へと赴いているとの報告を受けている。こうしてはいられない。近衛隊長はとりもなおさず号令をかける。 「全隊に伝達! 第一小隊は第三階へ急行! 第二小隊は可及的速やかに地下へ向かえ! 最優先だ!」  が、その命令に割って入る声があった。 「敵の目的は、地下ではありません」  ざわりと、取り巻く近衛隊士がどよめいた。中にはあからさまに彼女を避けるように、通路の壁に背中を押し当てる者もいた。しかしトゥイードゥルディーは、いつもの無表情を崩さず歩み出る。  近衛隊長は、あからさまに眉をひそめると、 「……使用人の分際で、国防に口を出すか」 「地下へ向かった部隊は陽動です。敵の狙いは、女王の自室です」 「女王の?」 「地下には白騎士様がいます。ウィザードも伴っています。女王の自室の警備の強化を進言いたします」 「女王の自室にいったいなにがある。敵が誰か貴様、知っているのか」 「敵の目的は、ハンプティ・ダンプティの起動キーと思われます」 「起動キー、だと。凍結が決まった兵器の、か?」 「弾劾ならすべて終わった後に議会を通してください」 「それが女王の自室にあるというのか」 「……少なくとも敵は、そう認識しています」 「なぜ貴様にそんなことがわかる」  トゥイードゥルディーは口ごもる。言おうかどうしようか二秒迷って、 「……女王の自室の警備の強化を、進言いたします」  近衛隊長もまた、即答しなかった。まるで表情の読めないメイドを前に、五秒迷って、 「人形の指図は受けん」  息を呑んでふたりのやり取りを見つめていた隊士たちへと再度号令する。 「なにをしている! 第一小隊は第三階! 第二小隊は地下だ! 急がんか!」  こうなることは、最初から予想の範囲内ではあった。女王以外に自分の言い分が通ることなどまず万に一もない。今に始まったことではなかった。  問題は、今、そこにある危機だ。敵の狙いはおそらくハンプティ・ダンプティを起動するために必要な最終安全装置解除用のキー。地下へ赴く際に、女王がいつも言っていた。  ──用心しろ。  昨今ではほぼ口癖のようになっていた。女王がウィザードを手に入れたこのタイミングで仕掛けてくることは、じゅうぶんに考えられたことだった。  次々に階下を目指す軍靴の音を聞きながら、ひとりトゥイードゥルディーは上を目指す。視線ジェスチャーでウインドウを呼び出し、敵の規模を探る。ジャミングをものともせず無遠慮に信号を飛ばした。感があったのは二十一──いや、二十二。下にはこの倍の戦力を割いているようだ。小隊にして一、といったところか。  場所は塔。ここには大臣たちや近衛隊士、給仕の者も含め数百人が詰めている。先日のような、敵を一掃する戦略プロトコルも使えない。賄えるか。  女王の自室の前にたどり着く。おもむろにロンググローブを脱ぎ捨てる。床へ放られたサテンのそれよりも白い白磁の二の腕が露になる。耳をすますと、横殴りの風。女王が帰ってくるまでにやめばいいと思う。それまでに、すべて終わればいいと思う。  視線ジェスチャで再度ウインドウを呼び出す。トゥイードゥルディーの場合、抗力を起動するのになにを引き換えにすることもない。犠牲なら、常に払い続けているからだ。議会により施術されたあの日から、トゥイードゥルディーは常に発狂しないのが不思議なくらいの痛みに苛まれている。  部屋のドアを背に、ドライバーグローブを両手にはめる。本能的に一瞬迷って、視線ジェスチャ。六つある安全装置をすべて外した。トゥイードゥルディーの周りを、空気が避けて通るのがわかる。全身を貫く痛みが極限まで高まる。それを意識の外へ追いやる術は、ずいぶん前に会得した。さらにゲインを上げる。全身に力が漲る。感覚が研ぎ澄まされる。最大戦速で七十五秒──おそらくそれが限界だろう。凌げるだろうか。  ──いいえ、違う。  凌げるか凌げないかではない。凌ぐのだ、どんなことをしても。  気配を感じた。 「……!」  姿を現すよりも早く、影は発砲してきた。左手の角。闇に瞬く三点バーストの炎。なめるなと言いたい。掌で防ぐまでもない。右へ飛んだ。地を蹴り壁を蹴って、ついでとばかりに影の側頭部を蹴り飛ばしていた。着地の勢いを利用して、さらに他の影へと踏み込もうとして、そこには闇しかないことに気づく。てっきりバディを組んでいるかと思っていた。拠点攻略の鉄則──しまったと思った時には、背後で銃声が轟いていた。  赫奕たる冥奴。  その名を、影たちは知っていた。この国に生まれた者で、その名を知らない者はいなかった。物心ついた頃から、お伽話で聞かされる。悪い子は、冥奴さんにさらわれちゃうぞ。女王と謁見して、それが実在の人物であることを思い知る。  議会が施術した人形。その最高傑作。放つ光は万里を超え、彼女さえいればハンプティ・ダンプティなど不要とまで言わしめた無敵の魔女。  しかし、彼女が赫奕たる冥奴と呼ばれ恐れられているのも、すべてをこの世界より強制排除するあの光があったればこそだ。戦場が、この塔である限り、戦略タイプのプロトコルは百害あって一利もない。地の利は、我々にあった。伝説の魔女などおそるるに足りない。  その、はずだった。  囮に食いついた。挟撃していることにも気づかず、メイドは左手から先行した同士をぶちのめし、こちらへ無防備な背中を向けていた。  ──くたばれ、化け物。  彼女≠フ目がなければ、影はそう叫んでしまっていたに違いない。終わってみればあっけないものだった。今までの苦労はなんだったのか、拍子抜けな安堵とじわじわと湧き上がる達成感の中、だけど影は目を見張ることになる。  必殺の三点バースト。だけど轟いた三つの轟音は、直後響いたひとつの音にかき消される。  ぼちゅん、  目を疑った。そんなわけがなかった。憎きあのメイドは確かに完全にこちらに背を向けており、こちらを振り向くことも、ましてや飛来する弾丸へとあの掌を突き出すこともできなかったはずだ。現に。三つの弾丸をかき消した今もなお、メイドは未だこちらへと背を向けている。  ゆらりと、メイドがこちらを振り向く。  赫奕たる冥奴。それは、この国に生まれた者なら、誰もが知っている名だった。  悪い子をおしおきする化け物であり、  いつでもどこでも変わることなく、悪を退治する、魔女なのだ。  失態だった。挟撃されていることに気づかなかった。だからあの時も進言したのだ。女王の部屋は角部屋にするべきだと。拠点防衛の観点から、中央はありえないのだと。  が、弾丸はトゥイードゥルディーに決して届くことなく、いつものごとく消滅していた。事前に手は打っていた。つい最近、大量のベレッタが流通したことを武器商から聞いていたから。あらかじめメイド服に触れていた。ベレッタの弾丸を記憶させていた。それに反応して、自動的に抗力が発動されるように。  が、それにも限りがある。長引かせるわけにはいかない。背後の影が、怯んだのがわかった。ゆらりと振り返り、慌てて前方の影が銃口を向けるよりも早く地を蹴った。影の数は三。他の気配が感じられないのが気になったが、時間もなかった。  影が引き金を引く前に、銃口を握り潰した。暗視ゴーグルの向こうの瞳が恐怖に歪むのがわかって、だけど身体が止まらなかった。銃口を握りつぶしたその手で、暗視ゴーグルごと、  ぼちゅん、  飛び散る血飛沫の向こうから銃声。三点バーストがふたつ。計六つの弾丸は、三つを掌、二つをメイド服で消滅させたが、ひとつは頬をかすめて一筋の紅の線を引いた。  が、トゥイードゥルディーはケほども怯まず赤のカーペットをローファーで噛む。右回し蹴りが後衛のふたりのうちのひとりの首を刈ると同時に、二人目が悲鳴を上げながらも発砲。回し蹴りの勢いを利用してさらに旋転、弾丸を背中で見送りながら、トゥイードゥルディーは後ろ回し蹴りを二人目の側頭部へと叩き込んでいた。 「ふ……っ!」  翻ったメイド服が元の場所に戻るよりも早く、トゥイードゥルディーは再度背後を振り返る。今度は気づいた。その先にいる影の数に、ぞっとする間もなかった。山のような銃声。三点バーストの嵐。その数──数えている間に受け止め消滅させないと。いくつかが二の腕をかすめた。太ももを抉った。焼けつくような痛み。だけどいつだって精神を苛むそれに比べたら、どうということはなかった。掌で捌いていては埒が明かない。一か八か弾丸はメイド服に施した反応式に全部まかせて特攻するべきか、そう思案したその時だった。  三点バーストの嵐がやんで、その間隙を縫って、トゥイードゥルディーはそれを見た。影の奥。ぽっかりと闇より昏く穿たれた銃口は、八四ミリ無反動砲のそれだった。  轟音。  バカな。口径が大きければいいってもんじゃない。笑みさえ浮かべて掌をかざした、だけどその瞬間、迫り来る砲弾の背後からさらに三点バーストを聞いた気がした。それはもとより、トゥイードゥルディーを狙ったものではなく、 「……!」  きん、という間抜けな音を聞いたと思った瞬間、目の前が閃光に包まれていた。  爆発音が聞こえたのと、小太郎が階段を登りきったのはほぼ同時の出来事だった。  正、副、予備、三系統すべての電源を落とされたエレベータを捨て、無限の階段地獄に突入して数十分。息も絶え絶えに非常ドアを開けたその瞬間、屈強の兵士たちに囲まれた。 「陛下!」 「陛下ご無事でしたか!」  近衛隊士たちの切羽詰った声。小太郎以上に体力の限界にきているだろうに、いつものごとく女王は朗々たる声を張り上げる。 「うろたえるな! 状況を説明せよ!」  全員が口々に声を上げて、一瞬塔の第一階は不協和音に包まれるが、すぐに小隊長と思しき痩身の男が歩み出た。報告はまったく要領を得なかったが、内容は問わずともわかったような気がした。突然の敵襲。敵味方識別信号に感なし。完全なるアンノウン。第三階から侵入され、巧みなジャミングにより今も完全には動向を把握できていないということ。 「敵の目的は妾の自室だ! 最上階の布陣はどうなっている!」  隊士の回答に、女王の顔面が蒼白となる。 「この痴れ者どもが!」  爆発するやいなや駆け出そうとする女王を、だけどさらなる喧騒が押しとどめていた。  塔の入り口。近衛隊士の一隊が押し寄せる民衆をせき止めているように見える。 「なにごとだ!」 「報道局の連中です! 今回の件について、」 「調査中だ! 後日正式に会見を開く!」 「しかし法令第二十一条により、」 「議会より特措法が発令されたと伝えろ! 書面など後でどうとでもなる! まだ敵がどこにいるかもわからんのだぞ! ウィザード!」  突然呼ばわれたことに驚く間もなく、女王はそれを投げてよこした。反射的に受け取って、ずしりとした重さに戦慄する。女王の、護身用のリボルバー。 「抗力は使うな! 敵は最上階だ! ゆけ!」  たじろぐ、 「ゆかねば妾が其方を撃つ!」  転がるように走り出す。  全身を、しこたま壁に打ちつけた。熱量だけは、なんとか掌で消滅させた。痛みはいつものことだったが、やっかいなのは衝撃だった。脳みそが盛大に揺らされ、今自分が立っているのか寝ているのかさえ判断がつかなかった。  ありえなかった。いったいそれはどういう了見だ。そんなことが実際に可能なのか。奴らは、放たれた無反動砲の弾丸をこともあろうにベレッタで撃ち抜いたのだ。トゥイードゥルディーが、掌で受け止めるその直前に。  周囲を見回した。視界はほぼゼロだった。だけど爆煙にまみれたその向こうに、幾人かの影が倒れていることがかろうじて視認できた。玉砕覚悟か。何かが狂ってた。苦労して頭を上げて、ようやく自分が床にうつぶせに倒れていることに気づいた。  気配がした。  脊髄反射で身を起こし、今まで自分の頭があったところに切っ先が突き刺さるのを視界の片隅に引っ掛けて、がむしゃらに影へと抱きついた。  ぼちゅん、もうどこを握りつぶしたのかもわからない。  次々迫り来る軍靴の音。ベレッタの銃声は聞こえない。弾が尽きたのかトゥイードゥルディーには効率が悪いと思い切ったのか。横殴りの銃剣を腕ごと受け止めて消滅させる。立ち上がろうとして、右脚の踏ん張りがきかなかった。こなくそ。鞭打って立ち上がる。振り下ろされる刃に、踏み込んで打点をずらす。腕が肩を叩く前に、  ぼちゅん、  幾人かが女王のドアに取りついている。銃剣をドアに突き立て、蹴破ろうとしている。やめろ。脇腹に熱量。身体ごと突っ込んできた影の頭を、  ぼちゅん、  それから、どれだけの頭を潰し、何本の腕を引きちぎってきたのだろう。ただ条件反射だった。目に映るすべてに反応して、ひたすら手を伸ばした。握りつぶした。息が切れた。忘れていた痛みが精神を圧迫する。もう意識しないようにすることもできない。いつまで続くのだろう。それは、施術を受ける前、物心ついた頃からのトゥイードゥルディーの呪文。この痛みは、いったいいつまで続くのだろう。  さっき抉られた脇腹の熱が尋常じゃなかった。周囲がかすんで見えるのは未だ燻る爆煙のせいばかりじゃない。自分がもうどう戦っているのかもわからない。ただ動くものに反応して、条件反射だけで迎え撃っているような感覚、  捌ききれなかった銃剣の突きが、髪を薙いだ。大きく踏み込んで、影のどてっぱらを鷲掴みにして風穴を開ける。シャワーのような返り血を右へかわそうとして、  足元から伝わる震脚の振動。  弾丸よりも疾いその縦拳を受け止めることができたのはほとんど、奇跡という名の偶然だった。だが捕まえてしまえばこちらのものだ。このまま握りつぶし、踏み込んで、  だけど、拳は弾けなかった。  ──え、  再び震脚の衝撃。同時に影は拳を引くように肘を突き出して、  ごん、  久しく感じていなかった衝撃が、胸のど真ん中を撃ち抜いて、ああ、トゥイードゥルディーは頭の片隅で、やはりあなたでしたか、静かな諦観と共に考えている。女王の部屋のドアを突き破り、ベッドの角にまともに背中を打ちつけた。呼吸が止まった。だがトゥイードゥルディーは吹っ飛ばされた勢いを無理に殺さず、そのまま後転してベッドの上へ。間髪入れず放たれた三点バーストを横転してかわして地を蹴った。迎え撃つべく第二波が放たれ、邪魔だ、避けるでもなく掌で受け止めようとして、だけど、  消し去れなかった。  ひとつは掌を穿って止まり、ひとつは貫通して天井へと跳ね上がり、ひとつは右胸を突き破って胸骨にぶちあたって止まった。上体がのけぞる。喉の奥をせり上がってきたものを床にぶちまけて初めて、とっくの昔に限界がきてしまっていたことにトゥイードゥルディーは気づいていた。  定まらない視界の中で、影が地を蹴る。かろうじて左の視界が捉えたのは、旋転する黒い背中。まったくの意識の外から、裏拳が飛んでくることが予想された。つかまえようとして、躊躇した。まさか彼女≠フ腕を握り潰すわけにはいかない。条件反射だった。たった今、タイムリミットを悟ったばかりだというのに。  それが、命取りだった。  左側頭部にハンマーで殴られたような衝撃、吹っ飛ぶ間もなくさらに影が旋転、同時に横殴りの右が脇腹を抉り、その勢いのままに三度旋転、後ろ回し蹴りが、  その螺旋剄には、やはり見覚えがあった。  それから後のことは、正直よく覚えていない。  気がついたら、視界の左半分が完全に真っ暗に塗りつぶされていた。  自分は女王の部屋の壁にもたれて、赤いカーペットの上にへたりこんでおり、周囲には血と硝煙のにおいしかしない。聞こえてくるのは相変わらず横殴りの風であり、女王の姿は見えず、目の前には無造作にベレッタを手にした彼女≠ェ立っている。  もう、指先ひとつ動かせそうになかった。 「……すばらしいこんふーでした。結局私は、体術ではあなたにかないませんでしたね」  暗視スコープの向こうから、彼女≠ェ答える。 「二個分隊をひとりで壊滅させておきながら、言うセリフではないですね」 「それでも負けは負け、です」 「お前のそういうところ、嫌いではなかったですよ、トゥイードゥルディー」 「……もうディー≠ニは、呼んでくださらないのですね」  静かに銃口をこちらに向けながら、彼女≠ヘ答えた。 「昔の話です」  ああ、どうしよう。このままもう、泣いてしまいそうだと、トゥイードゥルディーは思う。なにもかも投げ出して、みっともなく泣きじゃくってしまえば楽になるだろうか。だけどでも、そんなことをしたら抗力が、  そこまで考えて、習慣とはおそろしいと、トゥイードゥルディーは思う。  銃口ではなく、その向こうの暗視ゴーグルの、さらにその向こうにあるであろう彼女≠見上げる。 「もう、やめませんか」  暗視スコープの向こうの瞳が、わずかに揺れた気がした。明らかな動揺、 「実は私、痛いの、嫌なんです。くる日もくる日も殺したり殺されたり──そういうのもう、飽き飽きなんです」 「……お前、ブロッカーを外しましたね」 「はい」  もう、抗力なんてくその役にも立ちはしないから。 「貴女はどうですか。痛いのは好きですか。いつだって痛くて苦しくて。これからもずっとこんなことを続けるつもりですか」 「……この期に及んで、命乞い?」 「はい。私はまだ、死にたくありませんから」  だって、まだみていない。女王が、あのひとが約束してくれたあの空。  トゥイードゥルディーは繰り返す。 「もうやめませんか」  届け、 「起動キーは、ここにはありません。キーは、キーであって実態をもたないんです。唯一、抗力使いだけがかの兵器と接する機会をもてる。なぜだと思います……?」 「キーとは、抗力そのものだからでしょう?」  これには、素で驚いた。 「……ご存知だったのですか」  彼女≠ヘさして感慨もなく、 「おばかさんたちにはいいエサでした。頭の堅い人たちは、なかなか自分では手を汚そうとしない連中ばかりでしたから。かわいいものですね、あんな大砲ひとつで世界を変えられると思っているのですから」  照準した銃口をぴくりとも動かさず、彼女≠ヘ言い切る。 「わたくしの目的は、最初からひとつですよ」  それは、以前からトィードゥルディーの心の奥底に疑心と共に常にあったものだった。彼女≠フ目的。真の目的から鑑みればおのずと出てくる答えではあった。  最初から、狙いは自分だったのか。大臣や近衛たちとの関係を熟知している彼女≠ネら容易かったはずだ。自分を、この状況に誘き出すことも。  言うべきではない。それは決して言うべきではない。頭ではわかっていても、こころが止まってはくれなかった。 「……そんなに、女王が憎いのですか」  それが答えだとばかりに、彼女≠ヘ撃鉄を起こす。  こんな銃より、花を愛でている方がよっぽど似合っているのに。額に冷たい銃口を感じながら、トゥイードゥルディーはそんなことをぼんやりと考えている。  後先など、考えていなかった。この国の最下層から永遠に続くかと思われる階段を全速力で登りきり、さらに塔の最上階まで一気に駆け上がって、体力などとうに尽き果てていた。酸素はどれだけ貪っても足りなかったし、両膝はもう他人のもののように感覚がなかった。だけど女王の部屋の前、砕かれたドアの向こう。血まみれで横たわるメイド服が眼に飛び込んできた途端、全部吹っ飛んでいた。  飛び出していた。 「やめろ!」  生まれて初めて、小太郎は銃口をひとに突きつけていた。  撃てるのか、自分に。そう考えることさえ忘れていた。 「銃を捨てろ! 壁に両手をつけて背中を向けろ! 早く!」  いつかなにかのテレビドラマで聞いた台詞。それが借り物の台詞だと気づいたわけはないだろうが、敵は微動だにせず不気味な暗視スコープだけをこちらに向ける。 「嫌だと言ったら」  くやしいけれど、小太郎は答えられなかった。 「やさしいですわね、貴方は」  そんな小太郎の気持ちを見透かしているように、敵は悠然と自らの暗視スコープとフリッツヘルメットに手をかけると、一気に取り払った。 「しかしはたしてそれは、本当に正しいといえるのでしょうか」  小太郎は絶句する。その言葉のみならず、赤いスコープの下、現れた素顔に、まったく、告げる言葉を失くしてしまう。 「──姫」  でぼちんとまったく同じ顔が、手に銃をかまえ、あまつさえ、かのメイドの額に突きつけている。周囲は血と硝煙のにおいにまみれ、かけらさえ光の差し込まない窓の向こう、絶望という名の偽りの空で、ただ今にも死にそうな尖塔の灯りが輝いている。  これはいったい、どういった悪夢だ。 「……どうして、」  かろうじて、くその役にも立たなくなった脳みそからひり出された言葉がそれだった。 「これはみんな、貴女の仕業ですか」  姫は、まるで今日はいい天気ですね、とでも問われたかのように答える。 「はい、そうですね」  胃の腑が捻じ切れそうになる。 「……どうして、こんなことを」  どこかいたずらげな笑みを浮かべて、姫は、こう答えた。 「あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして=v  強烈な既視感があった。既視感──いや、違う。そこまで考えて、小太郎は否定する。これは幻などではない。あの日あの時、確かに、実際に聞いた言葉だ。忘れもしないこの塔の、入り口で出会ったあの少女。  アリス≠ェ発した、第一声。 「まさか……」 「この訳詩は、お気に召しませんでした?」  有名な『鏡の国のアリス』の一節。それは白の軍勢のポーンとなって、赤の軍勢と戦うアリスの意思表明の言葉だ。  わけがわからなかった。それが本当なら、彼女が──緋姫こそが、自分をあっち側からこっち側へと引き戻した張本人ということになる。いったいなにがどうなっているのか。今回のことといい、 「いったい、なんのために、」  なにがしたいのか。 「考えたことがありますか、ウィザード。なぜ、ひとは争おうとするのか?」  どこかの教育番組のようなことをさも愉しそうに姫は言う。  どきりとした。小太郎は思わず銃口を下げて、でぼちんと同じそのひとの顔を見つめた。ついさっき聞いた白騎士の言葉が未だ脳内に反響していた。ひとが、ひとを殺していい理由など、なにもない。だけど、 「人が人を殺す理由は、たったひとつです」  姫は言う。 「ひとりぼっちにならないためですよ」  塔のどこかで、刃と刃を打ち合う音がしている。そこかしこで、銃声が聞こえている。周りには、動くものはいない。死のにおいしかしない。  姫の言うことが、どうしても胸の奥に落ち着かない。 「獣は、群を守るために弱者を切り捨てます。虫は、種を守るために、同属を間引きます。世界は彼らにとって常に狭量であり、辛辣だからです。ひととてそれは、例外ではありません。古来より、ひともまたひとを殺してきました。排除し、迫害してきました。狭量な世界から隣人を守るために。憎しみは──闘争本能は、こんな世界に生まれ堕ちてしまったわたくしたちへ、神が与えたもうた慈悲なのです」  だからわたくしは貴方たちを引き戻した──言う姫は、こんなに愉しいことはないという顔をしている。 「だってそうでしょう? 許されると思いますか、ウィザード? 誰かを殺すということは、神により定められたルールだというのに、なのに、それを争いのない世界に閉じこもり放棄するなど、神への冒涜以外のなにものでもない。許されるべきではありません。争いのない世界など、あってはならないのです」  ──なにを言ってる? 小太郎は戦慄する。この、目の前の女は、でぼちんと同じ顔で、いったいなにを言ってるんだ?  姫の言葉は、魔力だった。ウィザードなんてものともしない、それは魔性の言葉だった。だって、どんなに自分を偽ったところで、自分は思っている。思ってしまっている。目の前のこのひとを、でぼちんと同じ顔でそんなことを言うこのひとを──  「──うそですよ」  一瞬それが、誰の声なのかわからなかった。 「かみさまなんていません。ここにあるのは、せかいと、わたしたちと──それいがい。それいじょうでも、いかでもありません」  姫の表情が消える。さっきからぴくりとも動かさなかった自らの銃口へと視線を戻す。  トゥイードゥルディー。それはもはや虫の啼く声の方がまだ力強い、切れ切れの言葉だったけれど。銃口の向こうの姫を、まっすぐに見上げる視線が、そこにはあった。 「あなたは、うらやましかったのでしょう……? あらそいのないせかいにいきるひとたちが。じぶんは、だれかをきずつけることでしかいきられないのに」 「……やめろ」 「あなたは、ほんとは、」  トゥイードゥルディーの言葉は、轟いた銃声に跡形もなくかき消される。  なんの予備動作もなかった。なにが起こったのかわからなかった。清廉な彼女のガーターベルトを、ゆっくり、全身に広がる毒のように紅く染めてゆくものを目の当たりにして初めて、小太郎は状況を理解していた。  撃ったのか、こいつは。  トゥイードゥルディーを、撃ったのか。 「急所は撃ちません。撃ってあげません。せっかくブロッカーを外したんです。今まで泣けなかった分、思う存分泣けばいい。どれだけ泣いても、絶対に許しはしませんけどね」 「緋姫ぇ!」  とっさに叫んでいた。再び構えたリボルバーを、でぼちんと同じ顔に突きつけた。  だけど姫はまったく怯むことなく、トゥイードゥルディーへと銃口を照準したまま、ゆっくりと笑む。  誰もが恋に落ちないわけがないそれは、完璧な笑顔だった。 「どうしました? 撃たないのですか?」  銃口が震える。 「貴方が撃たなければ、わたくしがトゥイードゥルディーを撃ちます。その後は女王です。いいのですか? 守るのでしょう? 彼女たちを?」  いけない。 「撃ちなさいよ」  この引き金を引けば、戻れなくなる。 「撃て!」 「──!」  銃声は、背後でした。決してリボルバーのそれとは違う、三つの連続音。  でぼちんと同じきれいなおでこに、三つの穴を穿って、ゆっくりと、姫の身体が倒れ伏す。  ──撃て。そう叫んだ顔、そのままに。  結局小太郎は、一ミリたりとも指を動かすことができなかった。背後には、ベレッタを呆然と構え、肩で息をする女王の姿があった。まるで夢遊病者のようにふらふらと小太郎を押しのけ、姫の亡骸を一顧だにせず、血まみれのメイドへと歩み寄る。  見下ろす。  なにか言おうとして、つっかかって、ようやく出てきた言葉が、 「……っから、用心しろと言った……っ」  血の海の中、溺れるような、トゥイードゥルディーの声が聞こえた。 「……じょ、お」  答える女王の声は、喉の奥に引っかかって、まったく外に出てきてくれない。 「かぜが、きこえます。つよい、よこかぜです」  風の音など聞こえない。もう、とっくの昔にやんでしまった。だけどトゥイードゥルディーは繰り返す。風が聞こえます。今日はいつになく強い横風です。 「……しわけ、ござ、……ぉこあを、じゅんび、できませんでし、」  そしてそれが、トゥイードゥルディーの最期の言葉となった。  指揮系統を失った影たちが、近衛隊の軍門に下るのにはさして時間はかからなかった。最上階で響いた三点バーストよりわずか二八○秒後にはすでに、塔の中に蠢く影の姿はひとつたりとて存在しなかった。  とはいえ近衛隊とて影たちの突然の奇襲、巧みな撹乱にお世辞にも統制が取れていたとは言えず、それでもなおこの奇襲を鎮圧するに至ったのは、指揮系統が瓦解したことを知った瞬間影たちが自害したからだという説が大勢を占めていた。当然のことながら当局はその事実を否定しているけれども。  長い夜だった。象牙の塔を揺るがした過去最悪の事件は、始まった時と同じく、静かに幕を下ろそうとしているかに思えた。が、  ただひとり、赤の女王がそれを許さなかった。  二日間、今までになく厳重にしいていた戒厳令を撤回するやいなや、報道局はもちろん、民間のマスコミに対しても大々的に情報を開示。トゥイードゥルディーのことなど一顧だにせず、今回の事件により命を失った、緋姫の葬儀に取り掛かった。  塔の最上階。大臣や近衛たちが喪に服す中、ただひとり女王はいつものチューブトップのドレスを身に纏っていた。ドレスの色は、そのまま女王の色だ。血よりも紅い、争いを鼓舞する色だ。女王の歩みに迷いというものはない。その名のごとく真紅の姿をテラスへとさらした瞬間、大地より大音声の歓声が唸る。  民衆が、米粒のようにひしめいていた。決して広くない地下世界は地平の果てまで夥しいまでのひとに埋め尽くされているように見えた。声とは、空気の波だ。波とは、物理的な衝撃だ。それだけで怯みそうになる暴力的なまでの群集を前に、女王は朗々たる声を響かせる。 「そなたらの愛した美しき姫はもういない!」  無論、真実など語るわけもない。曰く、 「今なお我らより空を奪い続ける彼奴らの手により、天に召されたからだ! 彼奴らは空を! それに至るあらゆる路を! 我らより根こそぎ奪おうとしている! 否! すでに奪い尽くしているにも関わらず! その手を緩めようとはしない! 今一度問おう! そなたらの胸に! 手をあて天を仰ぎ! この空に問おう! 我らの敵とはなんなのか! 敵とは! どうするべきなのか!」  偽りの空に、偽りの声が響き渡る。  偽りのスクリーンに浮かび上がるのは、かつての姫の、偽りの笑顔。  大臣たちの声が歓声の間隙を縫ってもれ聞こえる。  ──血族の死さえ利用するか。  ──おそろしい。  だけど小太郎は知っている。民衆に答え、掲げられる女王の拳が、小刻みに震えているということに。 「敵とは! 打ち滅ぼされなければならない! 我らが為すべきことはもはや! たったひとつしかないのだ!」  三人そろえば文殊の知恵と、昔の偉いひとは言った。が、同じく偉いひとは、こうも言った。過ぎたるは、及ばざるがごとし。ひとは、その数が多ければ多いほど、隣人に流され、考えることをやめてしまう。  眼下を覆う、夥しいまでの人々を支配するのは、一匹の化け物。  集団心理という名のそれは、誰にも打ち倒すことのできない、化け物だった。  この日より二日の後、議会においてハンプティ・ダンプティの凍結解除案が可決されることとなる。  もう、なにもかもが戻れないところまで来ているのかもしれなかった。 「望みを言え、ウィザード」  やぶからぼうに、女王はそう言った。 「望み?」  塔の裏庭。ベンチに腰掛けて、女王は自分の膝に頬杖をついていた。葬儀の直後。わざわざ呼び出しておきながら、小太郎の方は一顧だにせず、ただじっと前方の花壇を見つめている。 「もはや妾に無理に付き合う必要もない。留まるなら、無論今までどおり厚遇しよう。思うところがあるなら、荒野を渡る装備も提供しよう。望むなら、ここではない世界へ、再度誘うことも可能だ。──同じ世界を、用意することはできないけれど」  できる限りのことをしよう──そう言って、女王は立ち上がる。絹糸のような髪を揺らして、ゆっくりと振り返る。偽りの空から差し込む光にあってなおきらきらと輝く金色、  でぼちんと同じ顔で、女王は繰り返す。 「望みを言え、ウィザード」  小太郎は答えられなかった。姫の葬儀と、女王の演説の準備に忙殺されたこの数日。目の回る忙しさの中で、考えることを忘れていた。──忘れることが、できていた。  が、それは最初からわかっていたことだ。あくまでそれは目を背けていただけで、なくなってしまったわけではない。考えなくてはいけない。答えを出さなくてはいけない。自分はこれからどうするべきなのか。どうすれば、いいのか。 「其方は好きか」  突然、なにを言うのかと思った。そもそも、自分に問いかけているのかどうかも不明だった。女王の視線を追って、初めて何のことを言っているのかを理解した。  裏庭の一角。ひっそりと咲く真紅の花。  なぜそんなことを聞くのか。女王がいったい何を言おうとしているのか、小太郎にはまったく真意がつかめなかった。  よくわからないままに、だけど質問にだけは、正直に答える。 「……花のことはわかりません。だけど、」  ──今日のような日は、そうであったらな、とは思います。 「好きになれるような、気はします」 「……そうか」  どこか疲れたように呟いて、女王は足元の真紅の花へと視線を落とす。 「妾は、だめかもしれん」  やはり一瞬、どういうことなのかわからなかった。頭の中を猛回転させて、 「女王が、植えたんですよね……?」  母親が、好きだったから。 「そうだ」  女王は即答する。 「好きだった」  こころなしか語尾を強めながら、女王はかがみこんだ。足元の、一輪のほうせんかの花に手を伸ばす。 「が、今となってはもう、わからない。──見よ」  広げた翼のように見える花弁に触れた女王の指に、べっとりと付着する、紅。 「触れたものすべてを紅く染める。正直、つらい」  それはそのまま、今の自分に重なってしまう。ぽつりと、女王はもらす。  女王がいったいなにを言おうとしているのか、小太郎にも、なんとなくわかったような気がした。警告しているのだ。このまま傍にいれば、小太郎もまた、この指のようになると。  だけど、 「爪紅って、言うらしいです。別名」  女王が顔を上げる。どこか、怪訝そうな表情、 「うろ覚えですけど。聞いたこと、あります。その爪の色が、季節が終わるまで残っていたら、叶うって言われてるらしいです。願いが」  うまく言えなかった。うまくは言えなかったけれど、伝わっただろうか。わかってもらえただろうか。しばらく女王はなにかを計るようにこちらを見上げていたけれど、やがて、手元の花へと視線を戻した。  ぽつりと、 「……ディーもいつか、そんなことを言っていた」  それはあまりにか細く、小さな声だったので、危うく聞き漏らしてしまうところだった。 「が、これは違う。どうがんばったってかつての空の下のようには咲かない。光が足りない。水が足りない。なにもかもが足りない。とっとと研究は打ち切ったのに、わかっているくせに、あやつめ、嫌がらせのように品種改良まで始めおって」  あやつは前からそうだ──無表情なメイドを思い出して、女王は立ち上がる。  どこか急かされるように言葉を紡ぐ。 「いつだってそうなのだ。しなくてもよいことまででしゃばりおる。横風が吹く日だって、妾は別に怖うないと言っておるのに。いつまでも部屋の電気をつけおって。わざわざココアまで準備して。妾がココアに目がないことを知っておるから。たわけ者が……っ! こわくなどない。ディーなどいなくてもひとりで眠れるのに。ディーなどいなくても、ディーなど……っ」  小太郎は歩み寄ろうとして、迷って。だけど結局静かに、そばに立つ。女王の顔は決して見ずに、今はもういない彼女に教えてもらった花へと視線を落とす。 「……女王が、それでいいなら、別に、俺にはなにも言えないですけど」 「なにがだ……っ」  ただただ花だけを見下ろしながら、小太郎は答える。 「だって、泣いてる」  ひくっ、と、女王の息を呑む声が聞こえた。 「素直が一番だと、ディーさんも、」  ついそう呼んでしまって、思い直す。結局最期まで、そう呼ばせてはくれなかったな、と思いながら、言い直す。 「──トゥイードゥルディーさんも、言ってました」  一瞬の沈黙が、永遠のようだった。  堰を切る、というのはこういうことを言うのだろう。亡骸を目の当たりにした時も、一大葬儀の時も、眉ひとつ動かさなかった女王が、びっくりするくらい大粒の涙をぼたぼた真紅の花の上に降らしていた。今まで溜め込んでいたものを一気に解き放つように、大声を張り上げて、女王が号泣していた。  予想だにしなかった。よもやここまで取り乱すとは思わなかった。慌てて顔を上げた瞬間、胸元に衝撃。見せてたまるかとばかりに胸元に女王の額が押しつけられていた。頭突きもかくやという勢いだった。 「えと、その、女王……?」  返ってくるのは嗚咽のみ。どうすればいいかわからない。自分は、ここにいてもいいんだろうか。 「俺、その、席、外した方が、」  鼻水と涙でずたぼろになりながら、女王が叫ぶ。 「もう遅いわ、たわけ!」 「すみません」  我ながら朴念仁な対応だと思う。 「いろ。ここに。命令だ」 「いや、でも、」 「……てくれ」 「はい?」  胸元を、痛いくらいに握りしめられる、 「……いてくれ、頼む」 「……はい」  胸元に顔を埋めて泣きじゃくる女王は、いつだって毅然と硬質な視線を向けていた姿とは似ても似つかなくて。どう接していいかわからなくなる。誰かの胸で泣きじゃくったことはあっても、逆の立場になったことはついぞなかったから。  こんな時でぼちんは、いつも泣き止むまでずっと自分の手を握りしめてくれていた。泣きつかれた自分を、膝枕で寝かしつけてくれた。  ──そんなこと、女王にしてしまった日には殴られるだけじゃすまないだろうけれど。  結局膝枕どころか手に触れることもできず、それからどれだけの時間そうしていただろう。  胸元に感じていた熱が、女王の息遣いだけになる。鼻をすする音が徐々にひいていき、小さな両肩から張り詰めていた力が抜けていくように思えた。その肩に、今さらながら触れようとして、だけどやっぱり勇気が出なかった。  あの日から、ずっと言いたくて言えなかった言葉を、告げた。 「……すみませんでした」  未だ涙で傷だらけの声で、女王がもごもご問う。 「なぜ謝る」  すぐには答えられなかった。脳裏によぎっていたのは、硝煙と血と、鉄のにおいの充満したあの日の塔。女王の部屋。  あの時自分は、なにもできなかった。  できることは、目の前にあったのに。あの時あの引き金を引いていたら、今とは違う結末があったかもしれないのに。なのに、結局なにもできなかった。なにもしなかった。  結果が、これだ。 「痴れ者め」  ずばびーと、胸元で音がする。 「其方のせいではない」  ぐじぐじと豪快に胸元で鼻を拭きながら、女王は告白する。 「もとはといえば、妾の蒔いた種なのだ」 「……女王の、蒔いた種?」  自分と姫とは、異父姉妹だったのだと、女王は言う。  表向き立憲君主制を敷くこの国は、元首として代々女性がその地位に就く習わしだった。女王はもともと分家の末席であり、直系はむしろ姫の方だった。人望に厚く、体術に優れ、魔法≠ノ精通した彼女こそ、次代の象牙の塔の君臨者だと誰もが信じて疑わなかった。  が、塔の最上階へと昇り詰めたのは、結局女王の方だった。  姫の家系、その血族を、女王自らが陥れ、失脚させたからだった。  我慢ならなかったのだと、女王は言う。  突如現れた敵に青かった空を奪われてより数十年。先細りの未来がそこにあるにも関わらず、姫の家系──先代の女王はなにもしようとはしなかったから。交渉するでもない、交戦するでもない、新天地を求め旅立つでもない。あらゆるすべてを放棄し、ただただ訪れる運命に身を任せる。それが先代の女王の決定事項だったからだ。  それは緩やかな自殺だと、女王は思った。だから殺した。自らが国の頂点に立ち、自らが正しいと信じることを成すために、邪魔なものはすべて排除した。  自分がいたから、姫はずっとひとりだった。  ──言い訳はしない。  言い切って、女王はその話を締めくくった。それ以上、本当になにも言おうとはしなかった。  ──なんなのだろう、小太郎は思う。  なんなのだろう、この、胸糞悪い連鎖は。  人が人を殺すのは、孤独を駆逐するためなのだと、あの時姫は言った。  それは決してひとに限った話ではなく、生きとし生けるものすべてに課せられた業なのだと。それは確かに、正しいのかもしれない。世界とは結局、そういうふうにできているのかもしれない。だけど、だったらどうして、こんなに、頭にこびりつく。  あの日の血と鉄と硝煙の中、聞いた叫びが離れない。  ──撃て!  自分を正しいと思い込まなければ一歩も進めないと、あがき続ける声じゃなかったのか、あれは。  目の前でうなだれる、小さな小さな女王の肩を見下ろす。だったらこのひとの目指す空は、いったいなんだと言うのだろう。数限りない敵を排除し、血のつながった肉親さえその手にかけて、どうしてそこまでして、なのにこのひとは、こんなにひとりぼっちなんだろう。  いつかの、白騎士の言葉が思い出される。  ──この世に、人を殺してもいい理由などひとつもない。 「望みを言え」  またもやぶからぼうに、女王が言う。 「おそらくはもう、充分な猶予を与えることもできんだろう。早ければ早いほどいい。望みを言え、ウィザード」  頭ひとつ下から睨め上げる瞳は、この話を聞いてもまだお前はここに留まるつもりかと、問い詰めているように思えた。  お前と自分とは、所詮違う世界の人間なのだと、断じられているような気がした。  くやしかった。  だから、 「ひざまくら」 「……なんだと?」 「ひざまくら、してほしいです」  その時の女王の顔ほど見物はなかった。 「そ、其方はっ、妾の話を聞いておったのかっ? 妾は、これからどうするのかをだなっ」 「だめですか」 「……っ」  絶対に殴られると思った。だけど女王はなにか叫ぼうとして、だけど言葉が出なくて、あぐあぐ口ごもると、次の瞬間にはかまいたちでも発生するのではないかという勢いで踵を返すやいなや、どすんと音を立ててベンチに腰を下ろした。ばむばむばむと無言で膝を叩く女王の顔は、耳からおでこから服のそれ以上に真っ赤に染まっていて。  まさかそうくるとは思っていなかった。かかってくるならいつでもこいとでも言いたげな様がおかしくて、とうとう吹き出してしまっていた。 「すみません、冗談です」  今度こそ殴られた。  思いきし腰の入った見事なまでのショートアッパーだった。 「そっ、其方はっ! いったいなにがしたいのだっ! っのっ、たわ……っ、たわけっ!」  真っ赤になって拳を振り上げる小さな女王を見上げながら、なにが違うのかと、小太郎は思う。  友の死を悼み、ずたぼろに涙を流し、些細なことで真っ赤になって狼狽する。一国の主として民を背負い、ただひたすらに敵と相対する瞳しか知らなかったけれど、どこが違うのかと思う。特別でもなんでもない、目の前の少女は、小太郎たちとどこも違わない、どこにだっている── 「もう、やめてください」 「やめぬわっ!」 「違います。戦うのはもう、やめてください」  振り上げた拳が、ぴたりと止まる。まっすぐに女王を見つめて、小太郎は言う。 「それが俺の、願いです」  女王がゆっくりと腕を下ろす。小太郎の視線を正面から受け止めて、 「やめてどうする」  言う女王はもう、いつもの瞳に戻っていた。 「其方も彼奴らと同じか。このまま、緩やかに死ねと申すか」  小太郎は答えられなかった。答える術を、もたなかった。  ゆっくり、静かに。それでいて容赦なく、女王がこちらに背を向ける。 「すまぬが、聞けぬ」  ──ちくしょう。 「聞けぬ願いだ」    第五章  敵の本隊が第六階層を突破したのは、それよりわずか二日後のことだった。 「第六階層だと……?」  唸り声が聞こえる。  塔の最上階。その緊急指揮所。女王の後を追って足を踏み入れた小太郎は物理的な殺傷力さえありそうな緊張感の中に立ちすくむ。部屋の中央、おそらくは師団長なのだろう、一段高い指令席から、男が立ち上がるのが見えた。 「第四師団からはなにも報告を受けていない。誤報ではないのか」  突貫工事によって急造したに違いない、雑多に積みあがったモニタとコンソールの狭間から、もがくようにオペレータ達が答える。 「間違いありません! 敵味方識別信号に感なし!」 「大隊にしておそらく三個! 進入経路は第六階層A‐12です!」  その言葉を証明するように、師団長の目の前。宙空に浮かぶメインスクリーンにはアンノウンを示す黒い巨大な正三角形が三つ。  アリス軍の第四師団を示す赤い三角形の懐も懐、真後ろに忽然と姿を現していた。 「どういうことだ……なぜ今まで感知できなかった……」  師団長はただ呆然とメインスクリーンを凝視することしかできない。  それを咎めるように、傍らの女王が鋭く呟いていた。 「……第一種戦闘配置だ」  弾かれたように、師団長が我に帰る。 「総員、第一種戦闘配置! 機甲中隊及び歩兵大隊を戦端、特科中隊を殿とし、両翼を機械化歩兵大隊で固めよ! 三○三中隊が左翼、三一八が右翼だ! 第四師団への回線状況は?!」 「ジャミングレベル6! 復旧の目処は立ちません!」 「どれだけかかってもかまわん! 支援要請を続行! 会敵までは、」  問うか問わないかの間に、悲鳴のようなオペレータの声が上がる。 「目標第七階層に到達! 会敵まで、あと三(サン)○(マル)!」  そこから後は、まさに阿鼻叫喚を具現化したものと言えた。飛び交うのは怒号にも似た報告の声。目に映るのはメインスクリーンに映し出された血も涙もない無機質な幾何学模様。怒号が舞う度に、記号が消える。怒号、消える。その繰り返し。まだ目の前で死んでくれる方がよかった。聞こえる怒号。消える記号。冗談のように簡単にモニタから消えてゆく光に、なにか、とても大切な感覚が麻痺していくようで、小太郎は一秒たりとも眼前の巨大なスクリーンから目をそらすことができなかった。 「補給部隊の足を止めるな! 三○三中隊はなにをしている! 特科の火線に入りたいのか!」 「第五二機甲中隊の損耗率が十パーセントを超えました! 我、後退許可を乞う!」 「第一小隊は最終防衛ラインまで後退! 第三小隊はこれを援護しろ! 特科中隊の充填率は!」 「四十八パーセントです!」 「六割でいい! 充填完了次第、」 「三一八機械化中隊より入電! C‐45より敵の増援部隊! 大隊にして二!」  師団長の声が裏返る、 「C‐45?!  C‐45と言ったか?!」  またもそれを証明するように、メインモニタに黒い三角形が忽然と出現する。それは魚鱗の陣を敷くアリス軍のほぼ横っ面。まるで瞬間移動でもしたかのような唐突さに、その場の誰もが完全に言葉を失っていた。  第六階層での進入経路といい、今回といい、いったいぜんたいなにがどうなっているのか。 「……資材搬入路だ」  ぽつりと、女王が呟く。 「かつて第七階層から地上とを結ぶ資材搬入用の弾丸列車があった。その数、緊急路を含めて十二。搬入口自体は閉鎖されているが、他はおそらく手付かずのはずだ。市街地図を出せるか。少なくとも十年以上前のものが必要だ」  女王の声を受けて、オペレータが忙しくコンソールを叩く。やがて宙空の緑色の戦略マップに、黄色い歪な地図が重なった。  アリス軍の魚鱗の陣のほぼ九時から三時の方向に時計回りにぐるりと輝点が点ってゆく。そのうちのひとつは、確かにC‐45と記されたヘックスのほぼ中央に位置していた。  師団長が唸る。 「こんなものが……」  が、呆然とスクリーンを見上げていたのも束の間だった。不可解な事象もわかってしまえばどうということはない。一気に息を吹き返した師団長が直ちに全部隊へと号令する。 「全軍、第二次防衛ラインまで後退! 両機甲中隊、歩兵中隊は左翼、特科中隊と機械化中隊は右翼へ展開! 斜行陣でもって敵を迎え撃つ!」  即座にスクリーンの赤い正三角形がA≠ニ記されたラインまで動き出す。部隊へ伝令するオペレータの声も心なしか力強く踊っているようにも思える。  だけど、小太郎は思う。  そんなことがありえるのだろうか。何年も前に打ち捨てられ、軍用の地図にさえ載っていなかった搬入路。事実、戦場となっている第七階層を担任する師団長さえ知らなかった代物を、なぜ、敵である彼奴らが知っていたというのか。  湧き上がる疑問を、だけど解決してくれるはずの女王は、ひとりうつむいていた。 「……だめだ」  何かに思い当たったような、声。 「それは違う。やめよ。……やめよ師団長! これは、」  指令席へと、女王が駆け上がろうとしたその時だった。 「A‐13に高エネルギー反応! 特科中隊の直下です!」 「な、」  声を上げる間もなかった。  それは、第九階層であるこの塔の最上階にいてさえ耳をつんざく轟音だった。  床が確かに揺れた。メインスクリーンがノイズで歪み、よろける女王を支えた小太郎が見上げた時にはもう──  目の錯覚かと思った。  それでなければスクリーンの故障なのだろう、とも。  でなければ、なぜさっきまで四つあった巨大な三角形が、今の一瞬で三分の一の規模に減っているというのだろう。  誰もが自分の目を疑った。目の前の光景を否定したかった。  どうすることもできないそれは、紛れもない現実だった。 「状況を報告せよ!」  最初に我に返ったのは、やはり女王だった。  三拍以上もおいて、ようやくオペレータからの声が返っていた。 「爆心地周辺の電磁嵐がひどく、確認できません」 「す、少なくとも特科中隊の反応、皆無です。レーダーも返りません……!」  ぎり、と、女王の拳が音をたてる。 「……抗化地雷だ」 「こうかじらい……?」 「原理としてはハンプティ・ダンプティとそう変わらん。亜光速で撃ち出すか、遠隔操作で起爆させるかの違いだ。破壊力は桁違いだがな」 「それって……」 「搬入路からの奇襲は囮だ。彼奴らの目的は最初から地雷原へと我が軍を追い込むことだったのだ」 「ちょ、ちょっと待ってください。ハンプティ・ダンプティと変わらないってことは、その、つまり抗力が関係してるんですよね?!」  女王は無言でもって肯定する。 「それって、じゃあ、つまり、敵にも抗力使いがいるってことなんですか?!」  女王は答えなかったが、その表情を見れば明らかだった。 「……抗力は、我が国の極秘事項だ。いかに貧困にあえごうと、それだけはどのラインに乗ることはなかった。これは、妾の先代の先代の頃より定められた絶対の約束だ」 「だったら、」  小太郎の言葉を遮るように女王は言い募る。 「先日の事件。影どもの進入経路が判明した」  それがどこか、とは、小太郎はもう問わなかった。 「同時刻、別働隊が第七階層へと向かっていたことも後の調査で判明している」  それだけでわかれ、というように、女王は唇を引き結ぶ。  考えるまでもなかったのかもしれない。  ──緋姫。 「三十分だ、ウィザード」  いつもの女王の言葉。 「いや、二十分でいい。彼奴らを食い止められるか」  とてもではないけれど、小太郎は即答できなかった。それは女王も承知の上だったのだとは思う。 「よい、失言だった。忘れてくれ」  こちらを省みることなく、今度こそ指令席へと駆け上がる。 「師団長、全軍に伝達。現時刻をもって状況を破棄。第七階層より撤退せよ」 「て、撤退でありますか」 「第九階層にて最終防衛ラインを展開。以降別命があるまで待機。抗化障壁の起動要請は」 「議会への直接文書が必要になります。が、どこまで食い止められますか」 「やらないよりはマシだ。申請文書など事が終わった後でいい。何秒で起動できる」 「なんびょ、……十五分は必要かと」 「五分だ。それ以上は待てん。全軍に伝達だ。後は任せる」  師団長の了解の声も待たず、あらゆるしがらみを断ち切るような勢いで女王は踵を返す。指令席から飛び降りるやいなや、もはや小太郎を省みることなく緊急指揮所を後にする。 「じょ、女王!」  嫌な予感がした。このまま行かせてはいけないような気がした。大股で、それでも決して駆けることなく階段を下りる小さな紅い背中を追いかける。 「どうするつもりですか!」  意外にも、女王は返答する。 「地下へゆく」  予想どおりだった。 「白騎士め、どうあってもまともに取り掛かるつもりはないらしい。時間がない。妾が直々に最終暗号壁を突破する」 「突破してどうするつもりですか! 出力不足なんでしょう、どっちにしても!」 「妾が施術を受ける」 「施術?!」  トゥイードゥルディーのことが思い出される。ただの人間を、抗力使いに仕立て上げる議会の業。 「だけど、白騎士はディーさ、──トゥイードゥルディーさんが議会の最高傑作だって言ってました!」  そのトゥイードゥルディーでさえもウィザードである自分に遠く及ばなかった。それを、 「なにもかもを残そうとするからだ」 「え……?」 「なにもかも取ろうとするから、中途半端になる」  ──なにを言ってる? 「抗力を引き上げるだけならどうとでもできる。どうとでもな。ただ一度──一度だけ放てればいいのだ、あんなものは」  女王がいったいなにを言っているのか。頭ではわかっていた。  だけど心が、全力で女王の言葉を拒否していた。  払う敬意さえ忘れていた。 「それであんたは死ぬのか」  女王は即答する。 「そうと決まったわけではない」 「だけど!」  詰め寄ろうとした小太郎の眼前に、ぎらつく銃剣が交差する。つんのめって立ち止まり、周囲を見回した。それで初めて、いつのまにか自分が地下へと続くエレベータの前に到着していたことに気づいた。  エレベータの前に立つ、女王の周りを、屈強な近衛隊士たちが取り囲んでいた。  銃剣ごしに見える女王の背中はとても小さくて、ほんのわずかな距離がまるで永遠のもののように感じられた。 「女王!」  こちらに背を向けたまま、女王が答える。 「姫が言っていたな。人は、ひとりぼっちにならないために、ひとを殺してきたのだと」  やめろ。 「人とは、誰かを殺すことにより、生きてゆく生き物なのだ」  でぼちんと同じ顔で、そんなこと言うな。 「今度は、妾の番だというだけのことだ」  エレベータの扉が、音を立てて開く。方形の闇の中へ、小さな背中が消えようとしている。近衛隊も眼前のぎらつく刃も関係ない、 「あんたは、ひとりじゃなかったのか!」  掌が裂けるのもかまわず、刃を握りしめ、押しのけようとする。 「殺すだけ殺して、ここまできて! あんたはそれでよかったのか?!」  女王は、即答しなかった。  今の今まで、ただの一度たりとて小太郎の質問には一ミリ秒の間も置かずに返答していた女王が、口ごもって、そして、 「……無論、満足している」  硬質なエレベータの扉が、ふたりの間を断ち切る。 「女王!」  もう届かない。  この塔のてっぺんで、あの言葉を聞いたのはいったいいつのことだったろう。  いろいろなことがあって、あれからいろいろなことがありすぎて、ずいぶん昔のことだったような気がするけれど、今もはっきりと覚えている。まっすぐな瞳、まっすぐな言葉、  ──だから取り戻す、あの空を。  それがあんたの願いじゃなかったのか。小太郎は思う。  底抜けに青くて、遠慮なくほうせんかが咲いてて、いつだって大好きなひとたちが笑ってる。そんな──空が欲しかったんじゃないのか。  なのに──  どうしてあんたは、そんなに下ばかり見てる?  ──どくん。  視界が歪んだ。  なんだ──そう思った瞬間、すべての思考が断ち切られる。一瞬なにもかもが意味のないものに思えそうになって、無理矢理意識を引き戻す。  これは、いつかどこかで感じた感覚。なんだろう、覚えがあるのに、思い出せない。頭を巡らそうとして、またも邪魔をしたのは今まですっかり忘れ去ってしまっていた真っ白な痛みだった。  気がついたら、膝をついていた。  心配そうに駆け寄る近衛隊士の姿を、真正面から見据えているはずなのに、まるで現実感がなかった。歪みを具現化したようなこの感覚。最初に思い出したのは掌だった。サテンの手袋。触れられる胸。今はもういない、彼女の、  だからか。  ようやく小太郎は思い至る。抗力の糧となったこの傷が、トゥイードゥルディーがいなくなったことによって正常な時間の流れを取り戻したのだ。  認識が、より一層現実の時間と偽りの時間とを直結させる結果となった。痛みは脳髄のど真ん中を突き抜ける残酷な刃となって小太郎を襲った。自分はきっと、尋常でないほどの叫びを上げているに違いない。それだけはおぼろげにわかるのに、なにも聞こえない。頭のすぐ上で近衛隊の面々が心配そうになにか言っていることはわかるのに、まったくなにも聞こえない。身体も動かない。  ──ちくしょう。  こんなことをしている暇はないのに。痛みなどに屈しているわけにはいかないのに、 「……っ!」  気がついたら、銃剣がのど元に突きつけられていた。  さっきまで心配そうにこちらを見つめていた近衛隊士たちが厳しい顔でこちらを凝視していた。  そうか、自分は立ち上がることができたのか。歩き出すことができるのか。  じんわりと広がる胸元の紅い痛みをねじ伏せながら、小太郎は言う。 「……どいてください」  近衛隊士が短くなにかを言っていたが、まるで届かない。こちらの言葉も届いているのかどうかも怪しかった。どうでもよかった。 「どけ……!」  無意識に視線をジェスチャしていた。展開されたウィンドウ。その右隅に、確かにCFのゲージがマックスで鎮座していた。悔しいけれど、これっぽっちも迷わなかった。  ──抗力は使うな!  かつての女王の声ももう、小太郎には聞こえなくなっていた。  かっさらうようにコマンドをジェスチャ。瞬間、ずがん、と脳みそを直接ぶっ叩かれたかのような衝撃が小太郎を襲っていた。目の前が真っ赤だった。上下左右もわからなくなり、いったいなにが起こったのか、問いかける間もなく、すべての感覚が消失した。世界が自分を拒絶したのか、自分が世界を拒絶したのか、はっきりといえるのはただひとつ。感じるのは、底抜けの喪失感。  その時自分はなにか、叫び声を上げたのだと思う。  だけどなにも聞こえない、なにも感じない。ただ、目の前を、近衛隊士たちが人形のように吹っ飛んでいた。エレベータの扉がひしゃげ、窓ガラスが粉々に砕け散り、壁のレンガがいいかげんにしろと悲鳴を上げていた。なんだこれ。小太郎は恐怖する。なんなんだこれ。まだメタモルフォーゼも始まっていないのに、このポテンシャル。塔全体が唸りを上げていた。情け容赦のない乱流に、小太郎自身指一本動かすことができなかった。  ──起動フェイズだけで充分だ。  女王の言葉が思い出される。  ──あのまま放っておけば、彼奴らはもちろんのこと、自軍もろとも藻屑と消えているところであった。  その言葉を証明するように、床が力に耐え切れなかった。 「……!」  乱流の変わりに、小太郎を襲ったのは身もふたもない浮遊感。  隆起し乱れ飛ぶ瓦礫と共に、小太郎は深遠の闇へと引きずり込まれていった。 「第一階Aブロックにて高抗力反応!」  小太郎の抗力の起動は、無論、最上階の緊急指揮所にも多大なる影響を与えていた。 「抗力反応だと?! まさか……!」 「反応パターンはγ、抗化兵器ではありません! おそらくは第一検証体──ウィザード≠ゥと思われます!」  このくそ忙しい時に、という言葉を必死の想いで呑み込んで、師団長は声を張り上げる。 「陛下はご無事か!」 「電波状態が劣悪で、反応を確認できません!」 「近衛隊に協力要請! 可及的速やかにウィザードの身柄を確保だ!」 「ふ、不可能です!」 「なにがだ! 検証体どもはもともと彼奴らの管轄だろう!」  しかしオペレータは、自身とても信じられないとでもいうようにそれを報告する。 「全滅したからです!」 「……なんだと?!」 「第一、第二小隊ともに全滅! まったく反応がありません!」  雑音、  闇よりも濃い黒が、そこにはあった。  光が見せる黒ではなく、混じりっけのない、あらゆる光源を失った無明。  なにをやっているんだろう、小太郎は思う。  ついさっき。おそらくは一秒経っていないであろう直近の過去。眼前を蹂躙していった光景を思い出す。  きっとまた、誰か死んだ。ひとりやふたりではないだろう、もしかしたらあの塔自体跡形もなく崩れ落ちてしまったかもしれない。なにをやっているんだろう。小太郎は思う。なにがしたいんだろう、俺は。これじゃあ、女王のことは言えない。誰も、責められない。  胸が痛い。どうにもならない。指先一本動かせない。これだけの力を持っていながら、結局なにも救えない。ただ、血と肉をぶちまけて、ただ、胸が痛い。なんなんだ、これは。いったいなんのためにあるんだ、この力は。  抗力とは、生物が持つ進化という力のある一面をとらえたものなのだと、女王は言った。  生物が──ひとが、生きていく上でなくてはならないものなのだと。  ──ほんとにそうなのだろうか、小太郎は思う。  こんなにも、いつまでたっても、胸が痛いのに?  雑音、 「こんにちわ」  真の無明が、その金色を縁取っていた。  泣きたくなるくらいそれは、鮮やかに網膜に焼きつく。ふわりと舞う巻き毛。清廉を極めたエプロンドレス。 「──なんでだ」  彼女がそこにいた。 「なんでお前が、ここにいる」  姫はもういないのに。 「あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして」  それしか言えないのか。  白の軍の尖兵。丘を目指すためなら、犠牲を厭わない無垢なる少女。  ちくしょう。  お前なんか呼んでない。お前なんかいらない。 「なんでお前がここにいるんだ」  雑音、  翻るエプロンドレスが、あの日の夜へと誘う。  寒い夜だった。ひび割れる寸前まで乾ききった、だからこそ透明な大気。吐く息で前が見えなかった。刃物のようだった、夜。  すべてはあの日、あの月も出ていなかった夜に集約される。  ──ひとごろしのくせに。  それで君の痛みが消えるなら、いくらでも憎まれようと思った。きれいごとでも美談でもない、その方が自分が楽だったから。  死ねというなら、いつだって死んでやろうと思っていた。  だけど。  胸が痛い。どうあっても止まらない血が流れおちてゆく。それは、他者を傷つける代償として課せられる痛み。だけど、  おかしいだろ、小太郎は思う。  傷は、治るもんだろう? なのに、なんなんだよ、いつまでも。  目を閉じれば、でぼちんの顔。  目を開けていても、考えるのはでぼちんのこと。  そのすべてが、自分を責める。  大好きだったきれいなでぼちんに、深い皺が刻まれている。  それで君の痛みが消えるなら、いくらでも憎まれようと思った。  死ねというなら、いつだって死ぬ覚悟はできていた。  だけど──  胸が痛い。抑えてくれるトゥイードゥルディーはもういない。ただただとめどなく流れてゆく血。紅。女王の色。  おかしいだろ。  こういうもんじゃないだろ?  絶対に変だろ、ちくしょう。  雑音、  頬が冷たかった。  一瞬それがなんなのかわからなかった。ずいぶん長い間あらゆる感覚を奪われていたように思えた。それがなにかの感触だと気づくのに途方もなく長い一瞬が必要だった。  鼻をつくのは錆と土のにおい。すえたカビの芳香。どうしたんだっけ、どうあっても動こうとしない脳みそに活を入れる。死に物狂いで思い出す。俺はいったいどうなったんだっけ。  頬の感触が冷たい鉄の床であることに思い当たって、小太郎はようやく把握する。そうか、俺、落ちたんだ。抗力がすごくて。すごすぎて、それで落ちたんだ。こわくなって、途中でやめて、でも止まらなくて、床が割れて、たくさん吹っ飛んだ。エレベータのドア、壁、窓ガラス、近衛隊の、 「……っ、」  胃の中のものが逆流した。ひとたまりもなかった。なりふりかまわずぶちまけてしまいそうになって、胸の痛みを思い出した。叫び声を上げただろうか。うまく声さえ出せずに、のた打ち回って、また落ちた。  次の踊り場まで転がり落ちて、初めて小太郎は自分は階段の途中に叩きつけられていたのだと気づいた。  目が慣れてくる──などといったレベルではない。ここが階段だ、と小太郎が認識した途端、文字通り視界が晴れるような勢いで急速に闇が駆逐されていた。目の前に広がっていたのは、つい先日地獄の踏破を果たした無限の大階段。 「……落ちてきたのか? ここに」  事態を把握したのも束の間、遠いところで足音が聞こえた。少なくともひとつではありえない、むちゃくちゃに反響する音。ここへ来る。近衛隊のひとたちだろうか。なんのために?  考えるまでもなかった。  慌てて小太郎は立ち上がる。半ば条件反射で逃げるように階段を駆け下りていた。  女王の命なのか、仲間の仇討ちか、あるいはその両方か。どちらにしても目的はきっと自分だ。胸が痛い。息が切れる。胸が痛い。吐き気がひどい。胸が痛い。でも走る。機械のように地を蹴り続ける。立ち止まるわけにはいかない。捕まるわけにはいかない。今捕まったら、全部終わってしまう。行かなければ。下へ。ただ下へ。捕まってなんていられない。  ──なぜ?  自分の中のもうひとりの自分が問いただす。  下へ行ってどうする? また、無責任に戦いをやめろと言うだけか。  女王に会ってなにをする? 緩やかな死以外に与えられるものがあるのか?  なにもできない。できることなんてない。  しょせんウィザードは、他者を排除することしかできないんだから。  ──違うな。魔法を扱うから、其方はウィザードなのだ。  けつまずく。  転がり落ちる。  このまま転がった方が楽かもな、と頭のどこかで考えている。  雑音、 「であるから申したであろうウィザード! 用心は! 宝であると!」  ずどばぎゃん! とばかりに小太郎の身体を受け止めたのは、そんなどこかで聞いたばかでかいクソ口上と、丸太のような鉄の腕だった。  もはや見上げるまでもない、 「し、白騎士……?」  情けなくもお姫様だっこされながら見上げたそこにはいつかの白兜があった。 「な、なんでここに、」  当然のその問いに、白騎士はいつものように、 「愚問であるなウィザード!」  ばどずぎゃん! ともう書き文字のパターンも尽きてきた。 「それは、貴殿にももうわかっているのではないか?」 「……はあ?」  あいも変わらずこいつはわけがわからないったらない。  だけど白騎士はそんな小太郎の疑問などどこ吹く風、ひとり意味ありげに口元を歪めながら──もちろん兜に遮られて見えるわけもないんだけども──かまうことなく突っ走る。 「それともそれを、わかった上で問うているのであれば、無論とつとつと説明させていただくことも吝かではない説明とか好きだから! そもこの世を構成するプロトコルの成り立ちとはって、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああカブトは返してくださいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」  あんまりうるさいので返してやる。 「うぅ……ウィザードひどいです……」 「わけのわからんことばっか言うからだ」  がぽしと白兜をかぶりなおしながら、白騎士は改まって問う。 「……本当に、なにもわかっていないのか?」 「…………」  小太郎は返答に窮す。 「……なにか、わかっているように見えるのか?」  白兜の肩越しに、無限に連なる階下を見る。さっきまで見ていた真の闇が、そこにはまだあるような気がした。 「なんにも見えない。どうすればいいかもわからない。どうにもできない」 「……ふむ」  途端、またも身体が落下した。階段のカドにしこたま腰をぶっつけて、悶絶する。 「ちょ、おま、」  考えるまでもない、白騎士が突然解除したのだ。お姫様だっこを。 「ぶふはははははははは! であるから何度も申しておる! 用心は! 宝でああああああああああああああああああああああああああごめんなさいごめんなさいもうしませんかえしてかえしてカブトはかえしてー!」  ジャンプ一番返してやる。 「な、ぐ、なにがしたいんだ、お前わ……」  着地さえ腰に響いた。  んがぽし、と貪るように白兜をかぶりなおしながら、白騎士は答える。 「で、であるから、用心は宝であると、以前から申しておる」 「だ、か、ら、なんだっつーんだって話だろ!」 「この先には、なにが起こるかわからないということだ」  どきりとした。  そんな小太郎をどこか図るようにちらりと見やると、白騎士はどかりと腰を下ろした。  どこを向いているかわからない白兜の下で、続ける。 「助けてもらった者に、突然その手を離されてしまうやもしれぬ。陸でサメに襲われてしまうやもしれぬ。大海で、獅子に組み敷かれるやもしれぬ。──もしかしたらこの先には、誰もが笑って暮らせる未来があるのやもしれぬ」 「…………」 「私は、こうも申した、ウィザード。この世に、絶対などない。いや、ともすればあるのやもしれぬが、少なくともこの先に広がるのは可能性という名の不確定のみだと、私は思う。さて、ではそんな不確定要素だらけの未来で、行く末を決めるのは、はたしてなんなのであろうな?」  白騎士の言葉は、あの時と同じく朗々と響く。それは決して、大階段が作り出す独特の空間のせいばかりじゃない。  言われなくてもわかってる。小太郎は思う。  いつかも、女王に同じようなことを言われたように思う。  ──其方にとっての世界を、そのように振舞わせているのは、いったいなんであろうな。  たいして興味もないくせに、ゲームとしてのこの世界に入り浸っていたのはなぜなのか。  アリスを引き寄せ、あの世界に別れを告げることになったのはいったいなぜなのか。  そんなことは、小太郎が一番よくわかっている。  だけど、 「だからって、どうすればいいってんだ」  くやしいけれど、口をついて出てくるのは泣き言だけで、 「言うだけなら簡単だ。どんなに可能性があるったって、選択肢が見えなくちゃそれはなにもできないのと同じじゃないか」  だけど、白騎士は静かに断ずる。 「本当に見えぬのか?」  顔を上げる。 「本当に貴殿には見えぬのか、ウィザード?」  白兜の肩越しに、無限に続く階下を見る。 「我々にできることは少ない。だが、だからこそ見つかるはずだ。案ずることはない」  雑音、 「そろそろ時間だ」  雑音、 「こちらのことはまかせろ、  雑音、 「──ティ・ダンプティは、──動させん」  雑音、  闇の向こうには、アリスがいた。  なんとなく、そこにいるだろうなと、小太郎は思っていた。丘の向こうへ行くために、抗い続けるものだろうからだ、アリスは。  闇夜に浮かぶ蛍のように、小さな背中が翻る。  一瞬迷って──できるのだろうか、自分に──歩を止めた。  白騎士の声が聞こえたような気がして、結局、気がついたら歩きだしていた。跳ねるように遠ざかる、小さな背中を追いかけた。大階段の終わり。エプロンドレスを翻して、少女の姿が闇を切り取る扉の向こうへと消える。重い鉄製の扉を、清廉な白い裾を見失わないように押し開ける。火のともっていないエレベータの脇を駆け抜け、産道のような一本道を駆け抜ける。闇よりも濃い黒を駆逐して、金色の巻き毛が揺れている。残像が、燐光のように周囲を照らして、小太郎の鼻先で消える。アリスの背中。手を伸ばしても決して届かない、ぎりぎり見失わない距離感をもって前方をゆく。いつかもこうして闇を駆けた。ともすればすり抜けてしまいそうな小さな背中を追いかけた。この世界へ迷い込んだあの時。もうずいぶん前のような気もするし、ついさっきの出来事のようにも思える。  ──ここが、其方の現実だからだ。  違和感だけは、最初からあった。  女王にその言葉を突きつけられた時。  自分はこの塔の検証室でずっと夢をみていたと言っていたけれど、それは、いったい、どこからがそう≠セったのか。  女王を押し倒した時はもちろん、トゥイードゥルディーに蹴り飛ばされた時はまだアイテム枠に登録していた装備を身につけていた。ログアウトできないと泡を食って、火の入らないキーボードに悪態をついていた。女王に引導を渡されたことで、それらすべてが消えていた。  抗力起動のウィンドウだけが反応するのも釈然としなかったし、あっちの世界でも、こっちの世界でもアリスの姿が見えたことも、心のどこかに引っかかっていた。  でぼちんは、よく嘘をつくから。すぐばれる嘘をつくから。  でもそれは、どう考えても苦しい後付のようなものだったし、根拠などなにもない、ただ単にこびりつく願望からくる悪あがきのようなものだった。  祈りのような、ものだったんだ。  トラップのもう働かない門をくぐり抜け、勘違い甚だしい時代がかった引き戸を押し開ける。眼前に広がるのは、百坪はある新緑の広間。  鼻をつく畳のにおいの中、そこに、彼女はいた。  それは──それは無論、小太郎にとって誰よりも見知った顔で。だけど女王はきれいなおでこを長い前髪で隠したりはしないし、瓶底もかくやという眼鏡をかけてもいない。セーラー服など纏うわけもなければ、絹糸のような長い髪を、黒く染めるわけもない。  まさか、緋姫──? 自動的に湧き上がる疑問を一瞬で打ち捨てる。ぴんと背筋を伸ばし、膝元でぴっちりと指先をそろえて正座する様は、既視感どころの騒ぎではない。どんなに似ていたとしても、それだけは間違えない。  未だ信じられない気持ちのまま、小太郎にとっては宝石のようなその名を口にする。 「……でぼ、ちん?」  いつものように、彼女は答える。 「でぼちんゆうな」  ひとは、驚きが過ぎると、本当になにも考えられなくなるのだなと、頭の違うところでもうひとりの自分がぼんやりと考えている。  頭の中が真っ白、とは、決してなにも考えられなくなってしまう状態をいうのではない。この場合、実際は逆だ。聞きたいことや言いたいことがぐちゃぐちゃに絡まっていったいなにから出力していいかまったくわからない。出口も、経路もわからずただただフリーズしているような。ひっきりなしにあふれ出ようとする脳内の言葉を、手当たりしだい引っ掻き回して、とにかく最初に手に触れたものが、口をついて出てきた。 「──じゃあ、やっぱり、この世界が、ゲームの世界で、ほんとの世界は、」  雑音、  それで初めて、でぼちんの向こうに金髪の少女が立っていることに気づいた。  ──アリス。  ダイブした検証体を、あっちの世界からこっちの世界へと引き込むために造られたという、御伽噺の少女。  だけどそれは、ようするにつまり、そういうことなのだろうか。 「……君が、緋姫だったのか?」  だけどでぼちんは即答する。 「違う。私はただ利用しただけ。これ≠ヘ緋姫の純粋な産物。あんたをここへ誘った白騎士も同様。ここの住人は全部、私たちが造り上げたもの=v  脳のレプリカを三万個以上圧縮した一種の集積回路。そこに電気を流したところ、意識≠ェ生じた。それが彼らだと、でぼちんは言う。 「……そっか、」  震える。 「はは、なんだそっか。そうだよな、なんか、おかしいと思ったんだ。抗力とかアリスとか、どこがどうってわけじゃなかったんだけど、なんとなく、ああ、でもそうか、抗力。抗力だよ。あれも、でぼちんが造ったの?」 「そう」 「そうだと思った。でぼちん、癖があるから。構文作るとき、特に排他制御の──いや、ごめん、違う。そういうことじゃない。そういうこと言いたいんじゃないや。なに言ってんだ俺、なに、」  限界だった。 「……でぼちん、なんだな」  どうしようもなく、涙があふれていた。 「よかった。でぼちん。よかったぁ……」  レプリカから生じたからといって、それがなんだというのか、という想いはある。半導体と神経素子との間に、いったいどれだけの違いがあるのかとも思う。今こうしている間にも女王は自らの命を投げ打って、悪魔の兵器を立ち上げようとしているのかもしれない。今にも何万人もの人々が無に帰そうとしているのかもしれない。  なのに、  それなのに。  全部ひっくるめて、たったひとつの感情が、跡形もなく押し流してしまう。  どうしようもなく、押し流されてしまう。 「泣くな」  ぴしゃりと、でぼちんが言い放つ。 「いつまで経っても変わらないね、こたろーは」 「ごめん」  寂しいといっては、いつだって泣いていた。  親なしだといじめられては、いつだって泣いていた。  そんな時はいつだってでぼちんに守られ、慰められてきた。  でぼちんは小太郎にとって母であり、父であり、親友であり、初恋のひとだった。 「でももう、今までのようにはいかない。私はもう、あんたを守らない。助けない」  音もなく立ち上がったでぼちんのその手には、長大な日本刀が握られている。 「私は、あんたを殺すためにここにいるのだから」  出会いは、最悪だった。  闇さえ色褪せる透明な夜。迷い込んだように立ち尽くしていた月の精霊に、心を奪われた。  直後、砕かれた。  ──ひとごろしのくせに。  それから幾数年。  なにもわからなかった自分が、なにもわからないままに時を重ねて、なにもわかろうとしないままただそばにいた。それはたぶん、彼女も同じだったのではないかとは思う。  それはたぶん、臆病な心が作り出した無意識な壁で。  だからこそ今、彼女はこんな顔をして自分の目の前に立っているのだろうと思う。  見るからに手にあまる長大な日本刀、 「あんたがこの世界に取り残されたのは、事故でもなんでもない」  抜刀しようとして、両手いっぱい広げても抜けなくて、背伸びしたって意味はないのにそれでもなんとか鞘から引き抜いたのも束の間、片手では支えきれなくて、よろけて踏みとどまる。  どかりと音を立てたのは、見た目以上に重かったであろう落ちた鞘。 「私がそう仕向けたの」  突きつけてくる切っ先は、気の毒になるくらい震えていて。 「気づいてたでしょ?」  気づいていた。  いつかはこうなるだろうと思っていた。  でぼちんの両親を殺したのは、確かに小太郎の両親だったけど、そうなることとなった原因のひとつに、少なくとも小太郎は無関係ではなかったからだ。  小太郎がその話を聞いたのは、でぼちんへの気持ちを、もうどうしようもなくなってしまった、ずっと後のこと。  赤の女王′v画。  この世界を、電子的にマッピングすることを隠れ蓑とした、精神と肉体の分離計画。  もともとは、国土交通省からの依頼から始まったのだというそれは、その頃からすでに夢物語の域を出ていなかった。白羽の矢が立てられたのは、その頃次世代型のMMORPGの計画を推し進めていたナガモリ・ネットワーク。  小太郎の両親は、最初から相手にしていなかった。技術的にはもちろんのこと、倫理的な面からいっても、到底承服できかねる内容だったからだ。  ──だからこそ、その時点で、気づくべきだったのかもしれない。相手が倫理などくそくらえの連中なのだということを。  それは、何度目かの会合の席での出来事。なぜかその時は先方のたっての希望で、小太郎も同席していた。  ──元気なお子さんですね。  まったく印象の残らない笑顔で、彼らがそう言っていたことを覚えている。  ──これからも末永く、元気であればよいのですけれど。  その頃の小太郎にとっては大して意味のない言葉だったけれど、瞬間、両親の顔色がさっと変わったことだけは覚えている。  ナガモリ・ネットワークが政府からの依頼で、赤の女王計画に着手したのは、それからわずか三日後のことだ。  それは同時に、でぼちんの両親が還らぬひととなった、数ヶ月前ということでもあった。 「私の両親は、あんたの身代わりに死んだの」  長大な──いや、あくまででぼちんが持っているからそう見える──切っ先が突きつけられる。 「あんたさえいなければ、こんなことにはならなかった」  白く輝く刃は、だけど小太郎の目の前で一向に定まらずにふらふらと揺れている。  ぶれる切っ先には目もくれず、小太郎はでぼちんを見据える。 「でぼちんは、最初から全部知ってたの?」  月も出なかった透明な夜。初めて出会った、あの日から。  沈黙が、その答えだった。 「こんな荒唐無稽なことを考え出したのはいったい誰なのか。いったい誰がそれを推し進めようとしているのか、今まではまったくわからなかった。腐っても一国の防御壁よね。一筋縄じゃいかなかった。ずいぶん苦労したわ。あと一歩のところでいつも煙に巻かれて。でも、それも終わり」  瞬間、でぼちんと小太郎の中間、虚空に複数のウィンドウが出現する。  解像度が荒くてところどころ判読できないが、おそらくそれはいくつかの新聞と、雑誌記事。  狂ったように踊るのは、ゴシックの太文字。いわく、 『カガヤカシイミライノテンボウ』 『ゼツボウノソラニ、サヨナラ』 「一芝居打ったの、赤の女王計画は成功したってね。見て。頼みもしないのにマスコミが大々的に宣伝してくれた。ありがたいことよね。すぐに食いついてくれたわ。簡単なことだった。──今ね、ログインしてるのよ、あいつらも」  誰が、とは問わなかった。 「どうするんだと思う?」  それを自分に聞くのか、 「あんたもいっしょ。私の両親を殺した奴らみんな──みんな、同じ目に合わせてやる」  でぼちんの瞳は、長い前髪と分厚い眼鏡に隠れてまったく窺い知ることはできない。  それでも小太郎はただひたすらまっすぐにその向こうのでぼちんへと問いかける。 「ログインしているのは、俺たちだけじゃないだろ?」  がちゃりと、音をたてて切っ先が震える。 「それとも俺たちだけ、」 「言ったよね、私」  遮るように、でぼちん。 「この世界はそういうふうにできてるの。なにかを犠牲にしなければ、なにも得ることなんてできないのよ」  だったらどうして。小太郎は思う。  魂さえ引き裂くでぼちんの言葉に、小太郎は今度こそ確信する。  いつだって胸に巣食っていた恐怖があった。  ごめんなさい。気にすることはない。  孤児院で再会して以来、ことあるごとにでぼちんは言ってくれていたけれど、本当は、本当のところは心の奥底で、自分のことを憎んでいるのではないかという疑念が、どうしても拭えなかった。今までに一度だってでぼちんは、自分に笑顔を見せてくれたことがなかったから。  でもだけど、小太郎は思う。改めて、思う。  でぼちんは、よく嘘をつく。  でもその嘘は、すぐにばれるのだ。  ひとを騙そうとして、だけど結局騙しきれない、それが、でぼちんなのだ。  小太郎は思う。  ──私は、あんたを殺すためにここにいるのだから。  今にも泣き出しそうなこのでぼちんの瞳が嘘だというのなら、いったいこの世のなにが本当だというのだろう。  もう、迷わない。 「俺、でぼちんのためなら、死んでもいいって思う。普通に思う」  ぶれて音をたてる切っ先に向け、小太郎はかまわず一歩を踏み出す。 「だけど、でぼちんはそれでいいの? ほんとにいいの?」  胸元に触れる切っ先は、もはやガタガタと震える誰かさんの心のようで。  でぼちんが呟く。 「くるな……」 「それで本当に、でぼちんは笑えるの……?」 「くるなっ」 「言いたいこと言ってよ、でぼちん。どうしたいか言ってよ。言ってくれないとわかんないよ」  とうとうでぼちんが爆発する。 「それをあんたが言うん!? いつもいつも遠慮して、言いたいこと言わないのはそっちの方じゃない! あんたがそうだから、あんたがそうだから私だって……っ!」 「じゃあ、いいのか」 「……っ?!」 「俺、言いたいこと言うぞ」  ぴたりと、胸元の切っ先の震えが止まる、 「いいわよっ! 私も言いたいこと言うからっ!」  溢れ出す、 「俺、死にたくない」  踏み出す。 「でぼちんに、誰も殺させたくない」 「私だって、」  ふたりの間の、切っ先が消える、 「私だって、殺したくない!」 「でぼちんと、生きたい」  手を伸ばせば届く距離に、彼女の小さな身体がある。  求めてやまなかった、彼女がいる。  止まらなかった。 「でぼちんに、ちゅーしたい」 「ばっ、」 「でぼちんのでぼちんに、ちゅーしたい」 「なっ、でぼ……って、ちょっ」 「……だめ?」 「そ……っ」  どんなに前髪を伸ばしても、どんなに分厚い眼鏡をかけても隠し切れない。耳まで真っ赤にした彼女が、やけくそのように叫ぶ。 「そっ、それくらいならいいわよっ! ばかっ!」  もっと前から、こうすればよかった。小太郎は思う。  言いたいことを、言えばよかった。真正面から。  世界が反転する。  最悪の出会いだったあの日。透明なあの夜から始まった長い長い夢が今、終わろうとしている。    第六章  アリス・リデルは、ガラクタの街だ。  黒と白と灰色さえあれば、目に届くあらゆる風景を写実し尽くせる鉄と油と、錆にまみれた街だ。見上げたそこに、空は見えない。抜けるような青と雲の白のかわりに鎮座するのは、上部階層より突き出た、打ち捨てられた尖塔。人々は言う。第九階層のどこにいても頭上に仰ぎ見ることができるそれらは、地べたを這いずり回る我々を、隙あらば刺し貫かんと、今か今かと待ち構える天の槍なのだと。  人々は畏怖する。驚き惑い、逃げ狂う。  自分たちを刺し貫かんと、待ち構える天の槍。口ではそういっていても、誰もが心のどこかで否定していた。そんなわけがない。この世に神などいない。世界はそこまでじゃない。自分たちは、なんだかんだいって、だいじょうぶなのだ。誰もがそう信じ、信じようとして、綱渡りのような日々をそれでも細々と生き抜いてきた。が、こと、ここに至って人々は、その迷信が真実であったことを知る。  始まりは、爆音だった。なんの前触れもなく巻き起こった爆発が、天の槍の先端を吹き飛ばしていた。巻き起こる爆煙を突っ切って現れたのは、神の御使いか悪魔の使徒か。人々は嘆き、恐れ、逃げ惑った。神か悪魔か。それがどちらであっても彼らが地上に降り立つ目的はおそらく、たったひとつであろうからだ。 「目標を映像で確認。メインモニタに回します」  同一階層に敵が進撃したことにより、監視カメラが敵の実像を宙空のスクリーンに映し出す。  ついにここまできたか、師団長は指令席で拳を握り締める。偽りの空を埋め尽くす落下傘部隊はまるで偽りの空に咲いた無数の白い花のようで。  覚悟を決める。古より、赤の軍勢の敵は、白の軍勢と相場が決まっているのだ。 「高射大隊前へ。目標、敵空挺部隊」  が、敵は空だけではなかった。 「敵機甲部隊北東の城壁を突破! 最終防衛ラインに迫ります!」 「射程までは」 「あと四(ヨン)○(マル)!」 「かまわん。火力は空挺部隊に集中させろ。降下中が唯一のチャンスだ。なんとしても彼奴らの侵入を許してはならん」  師団長の声を合図に、無数の火線が偽りの空を切り裂いた。  尖塔の爆破は未だ絶えず続いており、降下する敵は後を絶たない。その数、おそらく大隊にして二。なにせ二千を超える部隊の大降下だ。空が三分に敵が七分。どこに撃っても敵に当たった。白は地表に近づくにつれて見る間に赤へと変わり、今の今まで雨とは無縁だった地下世界において、それは初めて降りしきる血の驟雨となった。  が、所詮驟雨は驟雨。長くは続きはしない。 「敵空挺部隊、弾幕を突破! 大隊にして一!」 「敵機甲部隊の射程に入ります!」  オペレータの報告が届くが早いか、メインモニタには弧を描いて迫りくる榴弾の雨を背景に、今にも塔へと取りつかんとする敵の姿が映し出されていた。  師団長は問う。 「議会からの回答は」 「未だありません」  やはりいつだって正しいのは女王か。師団長は決断する。 「動力炉に伝達。抗化障壁展開。定跡は、ファルクビア・カウンター・ギャンビット」 「了解。障壁展開。定跡ロード、ファルクビア・カウンター・ギャンビット。カウントどうぞ」  オペレータと、師団長のコンソールに、ダイヤル式の巨大なスイッチが出現する。 「三、二、──一」  同時に回す。  視界が揺らいだ、と思ったのは、それだけメインスクリーンを凝視していたせいかもしれない。そのメインスクリーンが、ぶっつりとなにも映さなくなってからたっぷり二秒後。戦局はがらりと変貌していた。  弾幕を突破し、今にも塔へと侵入を果たそうとしていた敵空挺部隊が、一人残らず地面に落下し息絶えていた。血の驟雨の意趣返しとばかりに降りそそぐ榴弾の雨が、ひとつとして塔へ着弾することなく宙空で爆発、意味を成していなかった。  抗化障壁。内向きの抗力を塔の周辺三キロに張り巡らせ、あらゆる外的干渉をシャットアウトするそれは、アリス・リデルが誇る不破の絶対防御だった。 「抗力半径は」 「減衰なし」 「第四師団との連絡は」 「良好。合流まで、一四○(ヒトヨンマル)」  握りしめた拳から、わずかに力が抜ける。  指令席の背もたれによりかかり、師団長はかすかに息をつく。 「……凌げるか」  抗化障壁の武装レベルは9。再度抗化兵器でも繰り出してこない限り、事実上この防衛ラインを突破することなど不可能なはずだ。  そう、再び抗化兵器を繰り出してでも、こない限り。 「直上にて、大規模な抗力反応!」 「……!」  跳ね起き見上げる間もなく、視界の片隅に尖塔の先端が爆砕されるのが見えた。  再び爆煙を突っ切り、姿を現したのは白き翼ではなく、 「抗化爆弾です!」  偽りの空より産み落とされた黒き卵が、光の壁に接触する。  視界が白く塗りつぶされる。  それは、塔の最下層にいてもなお感じるほどの衝撃だった。  百畳はある広間。女王はひとり、視線ジェスチャで宙空にモニタを呼び出す。 「──はじまったか」  映し出される惨劇。もはや一刻の猶予もならない。眉ひとつ動かさず、女王は奥へ踏み出そうとして、 「お、お待ちください」  広間の入り口。反射的に振り返って、そして。  女王は目を見張る。 「……なんのつもりだ」  通常ならば、問うまでもないことだった。彼女なら、いつかはこうするだろうと思っていたからだ。だからこそ自分はこんな切羽詰った状態であの忌々しい暗号壁に挑むことになっているのだろうから。そう、通常であるならば、だ。 「……妾はまた、貴殿の兜を剥ぎ取ったか?」  目の前の彼女は、まるで女王をトレースしたような、チューブトップのワンピースと、前の大きく開いたシースルーのオーバースカートを纏っていた。ただひとつ違っていたのは、そのすべてが目の覚めるような白で彩られているということ。  だから、そう言うしかなかった。 「いくら妾でも、鎧までは取らんぞ、白騎士」  鎧も兜も脱ぎ捨て、素顔のままの彼女がそこにいたから。  だけど彼女は、白いその肌を、耳まで真っ赤にしながらも、首を振る。 「し、白騎士では、ありません」 「……っ?」 「五分で、け、結構です、赤の女王。──お話を、聞いていただけませんか」  衝撃は、たっぷり十八秒は続いた。指揮所備え付けの安全装置が働き、主電源が落ちていた。予備電源のかすかな明かりの中、身じろぎした師団長はまだ生きていることに対して半分安堵し、半分、落胆していた。  いつまで続くのだ、この悪夢は。 「じょ、状況を報告しろ」  指令席に座りなおし、宙空を見上げるが、メインスクリーンは無骨な砂嵐だけを皆に伝えている。席から投げ出されていたオペレータたちが座りなおすよりも早く、 「しゅ、出力低下、抗力半径減衰……」 「障壁は未だ健在。が、いつまでもつかわかりません!」  うかつだった。明らかに自分の判断ミスだった。まさか彼奴らが抗化地雷だけでなく、抗化爆弾まで調達しているとは思わなかった。  もう少しなのに。歯噛みしたい想いを必死でこらえながら、師団長は指示を飛ばす。 「定跡変更、パーペチュアル・チェック。生命維持以外の動力はすべて障壁へ回せ」 「パー──しかし、それではこちらの攻撃も敵に届きません」 「かまわん。七(ナナ)○(マル)もてばいい。やれ」  第四師団が合流すれば、彼奴らを背後から挟撃できる。彼我の兵力差はおそらく五分だが、第四師団には特科中隊が健在。互角以上の戦いができるはずだ。合流さえできれば──  が、師団長はまだ気づいていなかった。この世界において、希望とは、砕かれるためにあるのだということを。 「メインモニター、回復します」  映し出されたそれは、絶望という名の光景。 「直上よりさらに大規模な抗力反応!」  オペレータの報告を聞くまでもない。眼前に繰り広げられるのは、爆煙を突っ切り落ち来る、黒き卵。 「第二波きます!」  ここまでか、その場にいる、誰もがそう思った。  さっきの録画映像を見ているようだった。黒き卵は光の壁に接触し、そして、眼前が白く塗りつぶされた。いや、白に染まったのではない。あらゆる色が消し飛んで、ただただ自分とそれ以外との境界しか認識することができなくなったそれは、誰がなんといおうとこの世の終わりの光景だった。少なくとも、指揮所にいた全員にとって。  が、それだけだった。  光が爆散し、色を吹き飛ばし、だけど、次の瞬間には再び世界は色を取り戻していた。  なにが起こった……? それが師団長を含む全員の共通認識であり、しかし最初にそれに気づいたのは指揮所の一番後ろに陣取るひとりのオペレータだった。 「ちょ、直上にやはり、抗力反応……これは、このパターンは──」  その報告はやはり、聞くまでもなかった。  鈍い金色のボタン、窮屈そうな黒い詰襟。偽りの空に立つそれ≠ヘ、見たこともない異国の服を纏っており、同じく異国の服を纏った少女を首筋にぶら下げていたけれど、間違いない。  師団長は知らなかった。絶望もまた、この世界では打ち砕かれるためにあるのだと。 「ウィザード……」  尋常でない量の光と熱と波が体内に注ぎ込まれる。どれだけ歯を食いしばっても足りない。どれだけ拳を握りしめても抑えきれない。でぼちんから聞いて、覚悟はしていたつもりだったのに、話を聞くのと、実際に体験するのとでは大違いだった。抗力を用いた、人為的な爆発。勝手にウィンドウが起動される。気が狂ったようなエラーメッセージの嵐。その合間を縫って、CFゲージが吹っ飛ぶように上昇する。爆発が至近すぎた。貪欲に取り込みすぎた。CFゲージは瞬く間に真っ赤に明滅して抗議の声を上げ、  左腕が爆発したのかと思った。二の腕が二まわりほど膨れ上がったかと思うと、次の瞬間にはなにかのタガが外れたかのようにのたうち伸びていた。思わず目の前にかざしたそれが、自分の掌であることを、一瞬理解できなかった。もともと自分にはこんな巨大な鉤爪はついていなかったし、普通、掌は人間ふたりをすっぽりと包めるくらい大きくはならない。  ──アブゾプション。あらゆる運動エネルギーを取り込み、抗力起動のための礎とする。  起動フェイズの応用だと、でぼちんは言った。抗力とは、なにかを犠牲にして初めて起動する力だ。が、だからといってそれが傷や痛みと直結するのは明らかに思考の停止だと、でぼちんは言う。なにも心や肉体を引き換えにしなければならないルールなどない。抗力とは、あくまでひとが持つ進化という力の現れのひとつなのだから。 「だいじょうぶ?」  でぼちんが、首筋にしがみつく手にきゅっと力を込める。正直力を取り込んだ反動とは違う意味でくらくらしていた。頬にあたるでぼちんの吐息、腰に回した手の感触は凶悪といってもよく、さっきから鼻腔をもてあそぶいいにおいに自分はこのまま殺されてしまうのではないかと思うというかまあいいか別に死んでも。  ──いやいやいや、  逆巻く風に翻るセーラー服を、引っかけないように腕を下ろすと、 「と、とりあえずは」  掌が、自分の足元のさらに下方にあった。胸の奥で逆巻く圧力の塊を依然感じる。だけど、なんとかメタモルフォーゼの暴走をくい止めることはできたようだった。 「ってか、なんでいきなりこんなとこに出てきてんだ? 普通にイソウヘンカンとやらやってくれりゃよかったんじゃないの?」  今の今まで自分たちは例の白騎士の屋敷にあたる場所にいたわけだし。  だけどでぼちんは、ズレた眼鏡を押し上げると、こともなげに言う。 「こっちのがいいと思って。戦況的に」 「戦況的に?」 「抜け≠ホいいでしょ、ここから」 「抜くって」  ぶち抜けってことですか、ここから──あの地下の最下層まで? 「うん」 「マジですか」 「とりあえず今は、目の前のことね」 「へ」  つい、と頭上を見上げ、でぼちんは言う。 「くるわよ」  計ったように、頭上の尖塔が爆発していた。再び現れる黒き卵に、 「考えたわね」 「え」 「近接信管に切り替えたか」 「キンセツシンカンて、な」  これが答えだとばかりにそれは、小太郎にも、足元の障壁にも触れることなく、目の前で爆発していた。 「第三波直撃!」  押し潰されそうな衝撃の中、舌を噛むのも恐れずにオペレータが叫ぶ。  かろうじて瞬いていた予備電源の灯火が激しく明滅し、ただでさえ風前の灯火だったメインスクリーンの緑が断末魔の輝きを一瞬放って、直後沈黙する。  初撃の比ではなかった。が、第二波の時は完全に衝撃も振動も打ち消していた。その時と今と、いったいなにがどう違うのか、ここからは判断がつかない。すべてはくその役にも立たなくなったモニタの向こうの出来事。  この世界は、希望も絶望もすべて呑み込む。師団長はこの年になってそれを改めて思い知った。だからなにも期待しない。なにも落胆しない。努めてただ目の前にある状況のみに注力する。自分に言い聞かせる。 「メインモニタ、回復します!」  永遠にも似た数秒が経ち──数分だったのかもしれないが──頭上の宙空に、再び満身創痍のメインスクリーンが浮かび上がる。  映し出されるのは── 「上空に大規模な抗力反応!」  この世界は、希望も絶望もすべて呑み込む。だからただ、目の前の状況に注力し、自分が今できることに邁進する。そう決めた。そう言い聞かせた、つもりだった。  が、言い聞かせるだけでどうにかなるものであれば、誰も苦労はしない。 「パターンはγ! ウィザードです! 生きてます!」  オペレータの絶叫に、結局心の底から期待していた自分に、今さらながらに気づく。  雲が晴れるように消え行く爆煙の向こう、確かにそれ≠ヘ変わらず空に立っていた。 「ウィザード以外の抗力反応は」 「ありません」 「敵機甲部隊は」 「完全に沈黙しています」  こちらには抗化障壁がある。頼みの綱の抗化爆弾もウィザードに無効化されているとあって、攻めあぐねているということか。師団長の口元に、悪魔のような笑みが浮かぶ。この機を逃すわけにはいかない。積年の恨み、今こそ晴らす時だった。  指令席から立ち上がり、師団長はここぞとばかりに命令を下す。 「定跡変更、クィーンズ・ギャンビット・アクセプテッド! 高射大隊に伝達! 目標、敵機甲部隊! 弾尽き果てるまで、撃って撃って撃ちまくれ!」  抗化爆弾が抉り出した身を切るような沈黙を、無数の砲撃音が瞬く間に埋め尽くす。  足元から放たれた火線が放物線を描き、塔を取り巻く鉄の装甲をやすやすと貫いてゆく。  しばし考えあぐねるように躊躇していた敵軍も、やがて反撃を開始。障壁に阻まれようがどうしようが、すべて尽き果てるまでの徹底抗戦の様相を呈していた。  ──どいつもこいつも、  小太郎が唇を噛みしめるのは、体内を蹂躙するさらなる力のせいばかりではない。  でぼちんの腰に回した手に、力を込める、 「……でぼちん、耳ふさいで」  返事も聞かずに、すう、と大きく息を吸い込んだ。 「女王ォ────────────────────────────────────!」  それは、一瞬火線さえ途切れるほどの大音声。 「俺! これから偉そうなこと言います! 先にあやまっときます! すんませ──ぃたたたたたた痛い! でぼちん痛い!」 「……なんで女王にはそんな腰低いのよ」  耳を押さえながら、でぼちんが容赦なく尻をひねり上げていた。 「イタイいたいケツ痛いつねるな痛い落ちる落ちるでぼちん落ちるやばいって!」  相変わらずでぼちんはとんでもない。小太郎は思う。  だけど、これでいいと思う。これが、いいと思う。  言いたいことがあれば、面と向かって言ってくれればいい。いくらでもつねってくれればいい。言葉だけでは、伝わらないことがあるのだから。  涙が浮かんだ瞳で、視線ジェスチャ。呼び出したウインドウ、起動フェイズでホールド。ぶっ壊れてもかまわない。躊躇せずに、コマンドをかっさらった。 「そんなとこに閉じこもってるから! ドンパチするしかなくなるんだ!」  一本だったCFゲージが、瞬く間に増殖、ウインドウを埋め尽くす。  まず、高射大隊との通信が成り立たなくなった。スクリーンを切り裂いていた火線が半分になり、窓に映る小雨の様相を呈し、ついには完全に消えていた。  それは、敵もまた砲撃を中断したことを意味していた。 「敵機甲部隊、完全に沈黙!」 「車両を捨て、後退していきます!」  いったいなにが起こった。高射大隊からの返答はない。だがおそらくは敵と同じ状況に陥っている可能性は極めて大といえた。 「機関室より入電! 抗力炉出力低下! このままでは!」  報告を聞くまでもない。抗化障壁もまたすでにその体を為していなかった。 「……なにが起こっている」  口に出してみても詮無きことだった。答えはきっと、師団長の中にすでにあった。彼だけではない。この場にいる誰もがそれに行き当たって、だけどどうしても納得できずに口に出せずにいた。  手元のコンソール。塔の抗力炉に反比例するように、天を衝く一本のグラフがある。  答えは、宙空に浮かぶメインスクリーンにあった。どうして彼が、そんなことをするのか。それがその場にいる全員の総意であり、でもだけど、だからこそなのか、と師団長は思う。  今、空に立つウィザードは、明らかに自分たちの知るウィザードではなかったからだ。 「……ドラゴン・ヴァリエーション」  どこからともなく漏れた呟きどおり、宙空のスクリーンには、一体の竜が映し出されていた。炎を連想する赤色の瞳が、まっすぐにこちらを射ている。ゆらりと伸ばした長大な首は、頭上の尖塔に今にも届きそうで、ずらりと並んだ凶悪な牙は見る者に死と恐怖しか想起させえない。ただでさえ大きかった掌は巨大なアギトのさらに数倍のスケールを誇っており、背に広げた深紅の翼とあいまって、偽りの空全体を覆いつくさんとしているかのようだった。  巨大。とにかくその一語に尽きた。胴体と尾がひとつながりとなった下半身は象牙の塔を二周りしてもまだ足りない。これがあの、異国の衣装を纏った少年と同一の存在だとは、変貌の過程を目の当たりにした今となっても到底信じがたい現実だった。  ──これが、ウィザードの本当の姿か。  絶対的な異形を前にして、完全に思考停止した師団長を、かろうじて呼び戻したのはやはり、オペレータよりの絶叫だった。 「ウィザード内部にて大規模な抗力反応! すさまじい勢いで増大していきます!」  今度はなんだ、問い返す間もなく、 「八○○○、九○○○──一二○○○、さらに上昇、止まりません!」  メインスクリーンの中で、深紅の翼がこれ以上ないほど押し広げられる。周囲がかすかに揺らめいて見えるのは、決して気のせいではない。それは、肉眼でも確認できるほどの力場の奔流だった。それが土台であり、これから起こる衝撃を打ち消すための反作用の発生だということに気づいたのは、なぜだろう。  巨大なアギトが開かれる。ぞろりとそろった凶悪な牙の狭間に、ちろちろときらめく光が見えた。  炎の瞳は、まっすぐに塔の根元──女王のいる地下を射抜いていた。  ──まさか。  考えるまでもなかった。 「状況を破棄! 総員退避! 急げ!」  爆発とは──力とは、こういうものだといわんばかりのそれは、光だった。かつてこの世界が世界というカタチをとる前にあった原初のエネルギー。力の中の力。異なる信号に変換され、スクリーンに映し出されているだけのものにも関わらず、目にしただけで無条件で屈してしまうような、圧倒的なまでの赤光。  それが、塔の根元を抉った。  ひとたまりもないはずだった。地は裂け蒸発し、この星の裏側まで突き貫かんだけの力を当たり前のように持っていたはずだった。なのに。  予備電源さえ死んでいなかった。宙空には未だかすかに明滅しながらもメインスクリーンが健在であり、自分もオペレータたちも座席から投げ出されていることもない。まるでない。  自分は、夢をみていたのだろうか。師団長は思う。だとしたら、どこから? どこから自分はこんな身もふたもない、毒にも薬にもならない夢をみていたのだろうか。  宙空に浮かんだスクリーン。今にも消えそうに明滅する緑のモニタに映し出されている彼の姿を目の当たりにして、だけど師団長は思い知らされる。  夢じゃ、ない。  メタモルフォーゼを解除する。だけど未だくすぶる力の奔流に邪魔されて、完全に元に戻ることができなかった。左腕がやっぱり通常の五倍の大きさだった。爪が消えず、気がついたらしっぽが生えていた。学生服のケツ、向こう≠ノ帰ったらふさがるかな、ちらりと考えながら、小太郎は足元を見下ろす。  未だ紅い視界に移るのは、巨大なクレーター。たった今、自分が穿った女王への路。  でぼちんの言うとおりぶち抜いたはいいが、照準がズレた。根元を三分の二ほどを抉られた塔はだけど、そんな危ういバランスと物理法則をまるっきり無視して、変わらず偽りの空へ向けて屹立している。  首許のでぼちんへと、おそるおそる問う。 「……これ、いつまでもつ?」  さらりと、でぼちんは答える。 「いつまでもたせたい?」  それはつまり──まあ、そういうことなのか。でぼちんの力を信じようと思う。ただ、 「これ、まさか向こう側までぶち抜いてないよね……?」 「だいじょうぶ。ハンプティ・ダンプティの暗号壁は尋常じゃない。健在よ。赤の女王も、彼女も、ね」 「……彼女?」 「百聞は一見にしかずね」  どこかで聞いたような言葉と共に、でぼちんは視線をジェスチャする。直後、宙空に現れたのはエメラルドグリーンのウィンドウ。そうだよな、小太郎は思う。できるよな、こんなことくらい。 「てゆか、それならそれで最初からやってよ」  大声出して損した。だけどでぼちんは、しれっと答える。 「だって、そうしたいのかと思って」  ……でぼちんにはかなわないと、やっぱり思う。改めて小太郎は、宙空のモニタへと向き直る。緑がかった画面に映し出されているのは、もはやいいかげん見慣れた百畳は越える広大な広間。そして──  正直、まだ頭の中を整理できていなかった。こんなに早く対面することになるとは思っていなかったから。だけど、ここまできた。でぼちんの反対を押し切ってまでここまできたのだ。今さらもう、後には退けなかった。 「──五分です、女王」  真正面に映る、そのひとをまっすぐに見つめる。 「今すぐそっちに行きます。五分だけ、俺にください」 『やってどうする』  刃物のような言葉で、女王が切り返す。 『その力で、この戦を終わらせるとでもいうつもりか』 「……!」 『無駄なことだ。其方も見てきたろう、この戦いを。この短い期間で。縮図だ、この戦いは。拳には剣を。剣には鉛弾を。鉛弾には砲弾を。砲弾にはバリアを、バリアには爆弾を。たとえ今、其方の力でこの世を席捲できたとして、いずれその力の及ばぬ力が開発される。無慈悲に投入される。ひととは、そういう生き物だからだ。その繰り返しだ。なにも変わらない。なにも、変わらないのだ』 『いいえ、変えますよ、彼は』  突然の、声。  不覚にもそれが誰なのか、すぐには判断できなかった。いつもの白い兜と甲冑を脱ぎ捨て、彼女は女王とそっくりな、それでいてすべてを白に染めたワンピースを身に纏っていたから。  ──健在よ。女王も、彼女≠焉Aね。  ここにきて、ようやく小太郎はさっきのでぼちんの言葉の意味を理解する。 「……白騎士?」  腰まで届く黒髪をかすかに揺らして、白騎士は首を振る。 『白騎士ではありません』  頼りなげに震える唇を、きゅっと引き結んで、彼女は深々と頭を垂れた。 『申し遅れました。私は、白の女王。此の国より空を奪った、彼の国の、長です』  思えば、出会った時からこのひとは、わけのわからないことばかり口走っていた。  言っている言葉はわかるのに、なにを言っているのかわからない。──そう、彼女を評する言葉自体もう意味がよくわからなくなってしまうような、そんな存在。 『なんのつもりだ』  女王が、小太郎の言葉を代弁する。 『プロモーションは、ポーンにのみ許された特権だ。知らぬのか』 『もとより、信じていただけるとは思っておりません。名乗ったのは、意思表示です。これから私が申し上げることは嘘偽りのない本心、だという』 『…………』 『今の今まで謀っていたことに関しては謝罪いたします。こうするしか貴女と直接お話する方法がなかったのです。どうか、お聞き届けください、赤の女王』  赤の女王は、即答しなかった。無理もない。今の今までナイトだと思っていたものが、突然クィーンとなって眼前に現れたのだ。警戒するなというほうがおかしい。  が、その沈黙も長くは続かなかった。考えるまでもなく、選択肢など他にないのだから。  赤の女王はゆっくりとかつては白騎士だった彼女に向き直り、毅然と言い放つ。 『──五分だ、白の女王』  恭しく頭を下げる白の女王の肩が小刻みに震えていることが、モニタ越しにでも確認できた。 『白の女王の名において、改めて赤の女王に申し入れます。ハンプティ・ダンプティを、破棄していただきたい』  それは、予想できる願いだった。今度こそ赤の女王は即答する。 『それは、降伏勧告か』 『いいえ、和平交渉です。この戦いはもとよりキングなき争い。そこに勝者などいません』 『今さらだ。ハンプティ・ダンプティの破棄は、我々にとっての敗北であり、死と同義だ。貴殿は我々に死ねと申すか』 『方法はあります』 『方法? なんの方法だ』 『我々が共に生きる方法です』  そして白の女王は、震える唇を引き結び、ついにその言葉を口にする。 『この世界はフェイクです』  小太郎は、目を見張らずにはいられなかった。やはり気づいていたのか、と思う。でぼちんも言っていた。考えてみれば当たり前のことだった。でなければあの時、でぼちんのいた狭間≠ヨと小太郎を誘うことなどできるわけがないのだから。 『どういうことだ』  赤の女王のもっともな疑問に、白の女王はわずかにこちらへ視線を向けながら、 『言葉どおりの意味です。貴女たちは検証地と呼んでいましたね。ウィザードがやってきた世界、それこそが本当の世界であり、この世界も身体も、人為的に造り出されたものだと申し上げております。──そこな、彼女の手によって』  ゆらりと、赤の女王の視線が戻ってくる。小太郎をわずかに舐め、でぼちんへと視線を移しながら、 『──正気か、貴殿』 『……正直、わかりません。そもそも自分は、自分の声しか聞けません。他人の見ている世界を見ることもできません。正気とはなんでしょう。普段からみている私の世界は、はたして赤の女王、貴女と同じなのでしょうか』 『…………』  改めて赤の女王はでぼちんから小太郎へと視線を移す。毅然としながらも、動揺を隠せない蒼い瞳に小太郎は思わず視線をそらしてしまいそうになって、すんでのところで思いとどまる。唇を引き締め、じっと赤の女王の視線を受け止める。 『それでは、我々は──なんだ』  小太郎の瞳を捉えたまま、誰にともなく問う赤の女王。 『ただのプロトコル──だとでもいうのか』 『いいえ』  白の女王が即答する。 『確かにこの世界も身体も、人為的に造られたものですが、私たち自身≠ヘ違います』  小太郎は、反射的にでぼちんの顔を見ていた。  だけどでぼちんは答えず、ただ黙って白の女王の話を聞いているようだった。 『違和感は、常にありました。故郷を追われ、流浪の民と成り果てた記憶はありましたが、その原因がはっきりしませんでした。歴史書は焼いて捨てるくらいあったのに、誰も正確にその内容について語れる者もいない。それはいったい何を意味するのか。誰もが気づいていて、口に出せませんでした。どれだけデータを突きつけようと、所詮は机上の空論だと、はねつけられてきました。だけどそれも、終わりです」  白の女王は、今度こそはっきりと小太郎の方を睨み上げながら、言い放つ。 『彼らを見て、確信しました。私たちは、ここではないどこかからやってきたのだと』  そうですね、神様? とでも言いたげに、白の女王の瞳はまっすぐに小太郎たちを射抜いていた。小太郎は思い出す。狭間≠ナ再会したあの時、でぼちんは確かに言っていた。  回路に電気を流したら、意識≠ェ生じた。それが、彼女たちなのだと。 「でぼちん……?」  モニタに視線を釘付けたまま、でぼちんは答える。 「私たちが用意したのは、世界と器だけ。彼女たちがどこからやってきたのかは、知らない」  どこからきたのかは知らない。それはいい。だけど、それはつまり、そういうことなのだろうか? 小太郎は思う。彼女たちもまた、ここではないどこかからやってきたということなのだろうか。自分たちと、同じように。 『還る場所はあるんです』  白の女王は訴える。 『今はどこにあるかわからない。どうすれば戻れるかも知らない。だけど、望みはあります。きっと見つけます。お願いします、赤の女王。ハンプティ・ダンプティは破棄し、我々に協力してください。我々が共に生きる可能性はあるんです』  いつのまにか、あれだけ激しかった白の女王の震えが止まっていた。高潮する頬は決していつもの対人恐怖症からくるものではないはずで。  その胸にあるのは、切なる祈り。  赤の女王は、しばらくなにかを探るように小太郎の瞳を見つめていた。今までの彼女のものとは思えないくらいそれは揺らいだ視線だったけれど、小太郎はそらさなかった。逃げることなく、受け止めていた。  やがて、 『──違和感は、妾にもあった』  ゆっくりと振り返って、白の女王へと言う。 『ウィザードが目覚めて、その過去を妾自身まったく思い出せなくて、それは、確信に変わりつつあった。──そうであればどれだけよいかと、思っていた』 『だったら……!』  ここからではまったく見えなかったけれど、きっと、たぶん、その時の赤の女王は、笑んでいたのだと思う。 『目に映るものが、世界のすべてだと思っていた。──が、違うのだな』 『……女王』 『よくぞ申してくれた。貴殿の勇気に、感謝する』  ひくっ、と、ここまで音が聞こえるようだった。堪えようとして、どうしても堪えきれなくて、白の女王は視線を伏せていた。 『も……っ、もったいない……っ、身に、余るお言葉です。私には、そんな資格などないのです。もっと早く、打ち明けるべきだったのに。こわかったんです。私は貴国とも、同胞とも、ずっと、今までずっと、違う世界を見ていたから。信じてもらえないのがこわかった。すみません、赤の女王。──すみません、ウィザード、私は、貴方に偉そうなことは言えない。私は、』 『痴れ者が』 『え』 『謝ることはない。これは、当然の報いなのだから』  そしてそれは、唐突に起こった。  ぐにゃりと、画面が歪んだ。最初はモニタの調子が悪くなったのかと思ったが、違った。歪んだのは信号ではなく、赤の女王の周囲の空間に他ならなかったのだ。  既視感があった。あの感じには、見覚えがあった。まさか──気がついた時には、嫌な音をたてて、映像が断ち切れていた。  断末魔のように、音声だけが白の女王の絶叫を伝えてきていた。  地下のこの世界に、決して吹くことのない乱流が荒れ狂っていた。ハンプティ・ダンプティの暗号壁で守られているはずの屋敷がひとたまりもなく悲鳴を上げていた。整然と敷き詰められていた百を越える畳が一枚、また一枚と剥ぎ取られてはむちゃくちゃに吹っ飛んでゆく。  その中央に在るのは、赤の女王。  なにが起こったのかわからなかった。目の前を荒れ狂う光景にまったく頭がついていかなかった。  どうして。白の女王は誰にともなく問う。届いたのではなかったのか。ようやく見つけた光。届きたくて、決して届かないだろうとあきらめて、あきらめきれなくてなけなしの勇気を振り絞って。  なのに。なんなのだろう、これは。  いったい、なにが起こっているのだというのだろう。 「まさか──」  ひとつの、だけどおそらくは間違いない、決して許しがたい結論にたどり着く。 「まさか、もう、施術を、」  それが答えだとばかりに、すさまじいまでの光の爆発が白の女王を吹っ飛ばしていた。 「あぐっ」  背中をしこたま壁に打ちつけた。呼吸が止まった。周囲が歪んでみえるのは決して涙のせいばかりではない。 「ディーは、こんなものにずっと、耐えてきたのだな」  かすかに聞こえるのは、確かに赤の女王の声。 「すごいな、ディーは──本当に、すごい……」  いけない。抗力が暴走している。すべてのタガが外れて、制御できなくなっている。なにがキッカケだ? 施術は成功したのか? 失敗したのか? それさえもわからない。だけどまだ赤の女王はそこにいる。まだ間に合う。白の女王は起き上がる。脳が揺れて、視界が歪んで、もはや天地さえわからない有様だったけれど、関係ない。這ってでも進む。赤の女王を死なせるわけにはいかない。この身に替えても、止めなければならない。 「女王……!」  だけど赤の女王は、光の中心。わずかにその手を揺り動かす。 「もうよい」  こわいくらいに穏やかな声が、たとえようもなく悲しかった。 「ハンプティ・ダンプティは、貴殿が責任をもって破棄してくれ」 「女王……」 「すまない。後は、頼んだ」 「やだ……いやです……」  伸ばした手が、光に弾かれる。 「いやです、女王……なんで、どうして……」  これから──これからだったのに。これからすべてが始まろうとしていたのに、 「ぃやぁ……」  届かない。 「ウィザード……」  たすけて。 「ウィザード!」  音の壁ごと、屋敷の外壁をぶち抜いて、ふたりの女王の間に転がり込む。  左腕の鉤爪を闇雲に畳へと突き立てるが、絶望的なまでに勢いを殺せなくて、結局反対側の壁に激突してようやく止まった。  途端、五感を貫くのは魂さえ削り取られそうな光の乱流。ウィザード、かすかに聞こえる声。視界の左隅に、涙でずたぼろの白の女王の顔が引っかかっていた。起き上がろうとして、身体がうまく動かせなかった。上空から最下層まで、魂まで砕けよとばかりに飛ばしてきた。とっくに限界のその向こうまで超えていた。呼吸さえうまくできない。腕に、足に、腹に、力を入れるたびにがくがくと全身が震えた。しっかりしろ。自分で自分を叱咤する。その力はなんのためにある。そのために来たんだろうが。この時のために、でぼちんの反対を押し切ってまで、この時のためだけにきたんだろうが。唇を噛みちぎる。這いつくばってでも進む。ここまでだ。ここまでにするんだ。死に物狂いで光の中心に手を伸ばす。もう誰も死なせない。もう誰も、死なせたくないんだよ。  視線をジェスチャ。ウィンドウいっぱいにCFゲージを呼び出す。あっという間にひとつ残らず限界を超えるが、取り込んだ力でCFゲージ自体を増殖させる。唸りを上げて展開されるゲージの列が、魔方陣のように女王の光を取り囲んでいた。  後先もなにも考えなかった。ただ力を解放した。のた打ち回る魔方陣の中、ただがむしゃらに手を伸ばした。伸ばして、伸ばして、つかんで、引き寄せて、そして──  いいにおいがした。  なつかしくて、どきどきする、小太郎の原初の記憶に根づくそれは、彼女のにおいに似ていた。だけど違う。まったく違う。  気がついたら、赤の女王に覆いかぶさっていた。直接合わさった胸を通して、彼女の心音が聞こえてくる。かすかにだけど、確かに聞こえてくる。  あれだけ荒れ狂っていた光と乱流が、嘘のように跡形もなかった。  視界の片隅で、連なるゲージの魔方陣が消えてゆくのが見える。そのすべてが残量ゼロだった。荒れ狂う女王の力を取り込みきった後も、小太郎の抗力は自らが枯れ果てるまでCFゲージを増殖し続けた。小太郎にはもう、自らの力を止める余力さえ残されていなかったからだ。  もうからっぽだった。指一本動かせそうになかった。全身で感じる女王の心音とぬくもりが心地よくて、このまままどろんでしまいそうだった。 「……なぜたすけた」  意識の外から飛び込んできた言葉に、だけど不思議と小太郎は落ち着いていた。  ひどく億劫に感じる唇を、懸命に動かして答える。 「質問を、質問で返して申し訳ないですけど──俺の力のこと、知ってましたよね?」 「…………」 「なぜ、死のうとしたんですか」  女王は答えなかった。小太郎も、言及しようとはしなかった。 「……俺、ずっと考えてました。白騎──白の女王に、言われたんです。ひとが、ひとを殺していい理由なんてないって。なんでだろう、って、なんで、そうなるんだろうって、俺、ずっと考えてたんです」 「簡単よ。ひとは、群れる生き物だから」  それに答えたのは、でぼちんだった。ようやく追いついたのか、激しく肩で息をしてこちらを見下ろしていた。 「でないと、社会が成り立たないでしょ」  また、身もふたもないことを言う。 「……ごめんなさい、でぼちんさん。お願いだから空気読んで」 「……ふん」  ぐいっと襟首を引っ張られる。そのままどかりと仰向けに転がってしまって。ああ、もしかしてやきもち焼いてくれたんかな、小太郎は思う。ちょっと幸せだった。  気を取り直す。 「でぼちん──ああ、そこにいる神様≠フことなんですけど──彼女と話してて、なんとなく、わかったんです」  神さまなんかじゃないわよ、ぼそりとでぼちんは呟くが、スルーする。 「死んでいいのはきっと、しっかり生きたひとだけなんですよ。でないと、死ぬひとも、残されたひとも、なんていうんだろう、こう、もやもやっとしたような……? うまくいえませんけど、たぶん、報いって、きっとそんなんじゃ、償えないんじゃないかって思うんですよ。だって、殺すだけ殺しといて、あとは頼むって、そりゃだめですよ。緋姫はなんで死んだんですか。トゥイードゥルディーさんは、なんで死ななきゃいけなかったんですか? そのへん、きちっとしないと、だめですよ。それまでは死なせません。女王、貴女は、死んじゃいけないんです」  自分でも、まったく要領を得ない言葉だと思った。もう少し頭を整理したかったけど、とにかく眠くて、それどころじゃないのがくやしかった。うまく伝わっただろうか、心配になって、女王をなんとか伺おうとしたその時、 「……それでいいのか、妾は」  小太郎は即答する。 「言ったでしょう。そうでなきゃ、いけないんです」 「…………」 「って、すみません……だからなんで俺はこう偉そうに講釈たれてん、っひゃいいひゃいでぼひんいひゃい」 「だからなんであんたはそう女王には腰が低いのよ」 「あああ、あの、神様? ほっぺが。ウィザードのほっぺが大変なことに!」 「神さまゆうな」  相変わらずでぼちんは容赦がなかったけれど、なんかもういろいろとだめだった。  眠い。もう眠い。でぼちんの愚痴も、おそるおそるのぞきこんでくる白の女王の真っ赤な顔も、全部が全部遠ざかって、夢か現かの区別もつかなかった。  だけどその時、寝ぼけ眼にかすめるように映ったそれは、決して幻なんかじゃないと、小太郎は思う。  自嘲でも苦笑でもない、赤の女王の、本当の笑顔。    終章  その日は、びっくりするくらいの快晴だった。こっちの世界に戻ってきた時もついついあほの子のように口を開けっ放しにして見上げてしまっていたなと、苦笑混じりに思い出す。今さらながらに小太郎は思う。空って、こんなに青かったんだっけ。 『……たろー!? ちょっとこたろー聞いてんの?!』  ちょっと耳にきん、ときた。思わず携帯から距離を置いて、おそるおそる答える。 「聞いてます。聞いてますよ」 『本気で言ってんの、あんた。頭大丈夫なの、比喩的な意味でなく』  相変わらずでぼちんの言動には容赦がない。 「だいじょぶだよ。検査でも問題なかったし。前から言ってただろ、もう一回、あっちに行きたいって」  今から一週間前。赤の女王の笑顔を手土産に、小太郎とでぼちんはようやく現実世界に帰還した。なんだかそうすることが当然のような気がして、その時は疑問を挟む余地さえなかったけれど、ずっとずっと、気にはなっていた。いつだってあの世界の行く末が脳裏に引っかかっていた。  別れ際、白の女王は自分たちに協力してくれと懇願した。  赤の女王は、お前の好きにしろと言っていた。  だから、好きにしようと思うのだ。 「あの時のアカウント、まだ残ってるよね」 『そりゃ残ってるけど。……』  不穏な沈黙。う。やっぱり機嫌悪いなと思う。今回の件の後始末だとかで、でぼちんは今学校にもこない。こっちの世界に戻ってきてから、こうして電話でしか話したことがないけれど、いつだってこんな調子だった。疲れているのか自分になにか落ち度があるのか、今朝呼び出した時の反応を思い出しつつ、小太郎は待ち合わせ場所である土手向こうの方向へと視線を馳せた。 「……でぼちんは、気になんない?」 『ならない』  即答。 『まさかあんた、白の女王の言ってたこと、本気にしてるわけじゃないでしょうね』 「ど、どういうこと?」  ちょっとびっくりした。 「でぼちん、言ってたよね。自分が用意したのは器だけだって。彼女たちがどこから来たのかは知らないって」 『確かに言った。けど、わからない≠チて言っただけで、彼女らがここではないどこかから来た誰かとは言ってない』 「で、でも、」  とっさに反論しようとして、だけどその主張になんの根拠もないことに気づく。  でぼちんは続ける。 『そもそも彼女たちがどこかから生まれた意識≠セという確証もない。脳の仕組みなんて、まだ三十パーセントも解析できてないもの。レプリカと言ったって、はたしてそこに流された電流が、本当に意識≠ニ呼べるものを生み出したり、喚び出したりしたかなんてわかんないでしょ。私たちが、いいえ、彼女たち自身さえそう思い込んでいるだけ、という可能性は絶対に否定できない。そうじゃない?』 「…………」  でぼちんの言うことは、いちいちもっともだと思う。専門的なことはよくわからないけれど、なによりでぼちんは嘘をつくのが下手だから。携帯電話を通した声からだって、それがほんとか嘘かくらいは見当がつく。  だけど、 「……だけど女王は、確かにいたんだ」  なにが本当で、なにが嘘なのか。どうすればそれを証明できるのかなんて、小太郎にはわからない。他の誰にも、わかるものではないのかもしれない。それでも小太郎は思う。根拠もなく思う。 「目の前にいたんだ。泣いて、怒って、苦しんで、そして、笑ってたんだ」  そう、思ってしまったんだから、しょうがないじゃないか。 『ばか』 「へ?」 『最初からそう素直に言えばいいでしょ』  どこか呆れたような、しょうがないなあ、という、でぼちんの声。  もしかして自分は、試されていたのだろうか、小太郎は思う。でぼちんは嘘が下手。それも実は思い込みなんじゃないかと思う今日この頃だった。 『所詮、私たちが本当だと信じている世界だって、実は脳が今まで蓄積してきたデータを使って補完しているものなわけだし』  うわあ。またこのひとは嫌なこというなあ。 『なにその嫌なこと言うなあみたいな顔』  いや携帯だし。見えないし。 『世界は、そのひとの脳の中にしか存在しないし、ひとの数だけ世界が存在する。そういうものでしょ』  だから、争いが起こる。ひとはひとの顔色を伺い、不安になって、やがては拒絶するようになる。 『でも、だからこそ、すごいことなんじゃないかな、と思う。そんな中で、少しでも同じ世界を見ることができる、ってことが』  小太郎は問う。 「できるのかな、そんなことが」 『……でしょ』 「え、なに」 『なんでもないばか! 泣き虫!』 「今それ関係ないよね?!」  ──見てるでしょ、私たちは。  そう聞こえたことは、内緒にしておこう。 『で?』 「で?」 『だから、いつ行くの? まさか今日これからっていうんじゃないでしょうね』 「いや、今日これからだけど」 『…………』 「でさ、ゲームでいつもつるんでた奴がいるんだけどさ、そいつも誘おうと思うんだ」 「……簡単に言うけど、大丈夫なの? 危険がないとも限らないのよ?』 「だいじょうだって。なんとかなるって」 『……前向きっていうか、能天気っていうか』 「ん?」 『なんてひとなの?』 「え?」 『そのひと。名前』 「ああ、えっと、わかんね。そういえば忘れた。てか聞いてない。ハンドルもとっかえひっかえだしあいつ。でもだいじょぶだよ。目印にあぶないみずぎ着てこいって言ってあるから」 『……女?』 「わかんね。ゲーム以外で会ったことないから。……もしかして、やきもち?」  ブツッ! 「うわっ、嘘、切るかフツー!? でぼちん!? でぼちんでぼちんでぼちん?!」 「四回もゆうな」 「って、フェイクかよ! いったいどうやってんだよ?!」  携帯に向かって叫びながら、小太郎は、はた、とそのまま硬直する。いつもでぼちんと遭遇する、ふたりの通学路が交わる土手。すでに今回の待ち合わせの場所に到着していることに、ようやく気づいていたから。  目の前で、でぼちんがぱたん、と携帯を閉じる。 「だから電話は嫌い。だまそうと思ったら、いくらでもだませるから」  だけどその言葉はもう、小太郎の耳には入っていなかった。  久しぶりの対面だった。あっちの世界から戻ってきてからこっち、一度も顔を合わせていなかったから。だから。  びっくりしていた。声も出なかった。だってでぼちんが、あの、でぼちんが。  眼鏡を、外していた。  前髪を、上げていた。  真昼間だというのに、お月さまが、今度はこんなところまで迷い込んできたのかと思った。 「でぼ、ちん……?」 「でぼちんゆうな」  声はさっきと同じく相変わらずのぶっきらぼうだったけれど、違う。耳まで真っ赤な顔を見ればわかる。 「だって、……だって、」  感無量とは、まさにこのことだった。 「だって──でぼちんだもん」 「あ、あんた、実はおでこが好きなだけなんじゃないの」 「……そんなことないです」 「こっち見て言いなさい」 「でぼちんのでぼちんだから好きなんです」 「お約束よね」 「そこはデレてよ」 「知らない」 「やきもち?」 「腐ってんの?」 「やきもちならいいや」 「というか腐れ」  出会いは、最悪だった。  月も出なかった透明な夜。ふたり見上げる空は、なにもかもが軋んでズレていた。  小太郎は思う。底抜けに明るい頭上の青を見上げて思う。  世界は辛辣で、それに対して自分たちは笑ってしまうくらいちっぽけで。だからこそ齟齬が生じる。見えるべきものが見えなくて、見えなくていいものばかりを見てしまう。  言葉だけじゃ足りない。声だけじゃ届かない。できる限り、めいっぱいの方法で伝えよう、自分が見ている、この世界を。だから教えて、君が見る、君の世界を。  これからもずっと、いつだって同じ世界を、見続けていきたいから。