御本尊謹刻問題 自由座談会 赤沢氏

 

1997/10/16(聖教新聞)
自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る 18 

 

 佐藤 笑止千万の“信徒資格”騒ぎで大わらわの日顕宗ですが、最近、性懲(

しょうこ)りもなく御本尊謹刻(きんこく)問題を持ち出し、愚(ぐ)にもつか

ぬ言い掛かりをつけています。

 原田 そうらしいね。八月二十八日の教師講習会で、教学部副部長の水島公正

と総監の藤本日潤が、派手にやっていたそうじゃないですか。

 八矢 “二十三年ぶりの新発見”などと言って、“学会は昭和四十九年九月に

、本山に謹刻の願い出をする以前から勝手に御本尊を彫っていた”という、とん

でもない大嘘(うそ)を吹聴(ふいちょう)しているらしいわね。

 森田 何が“二十三年ぶりの新発見”か。学会はちゃんと日達上人の了解を受

けたうえで、御本尊を御謹刻申し上げたんです。こんなほこりをかぶった、重箱

の隅をつついたような話を持ち出すこと自体、まったく問題がない何よりの証拠

じゃないか(笑い)。

 佐藤 そう。追い詰められて、まさに“破れかぶれ”です。十月一日付「

大白法」では、今度は当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)ま

で登場させて、“本尊模刻は大謗法(ほうぼう)”などと寝ぼけたことを言って

いる。

 秋谷 まったく問題にならない。だいたい、この件については日達上人がわざ

わざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和五十三年十月三日付)と

厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、

いちいち弓を引けば気がすむのか。

 八矢 藤本にしろ、光久にしろ、あれだけ日達上人に世話になっておきながら、

日顕にお世辞をつかって、日達上人の指南を破るとは何ごとですか。弟子とし

て、いや人間としても最低ですよ。

 佐藤 信徒には「師弟の筋目」などと偉そうに言っておきながら、自分たちは

いとも簡単に師匠の戒(いまし)めを破る。どうせ日顕に脅(おど)されて仕方

なくやったんだろうが、彼らの名は師匠を売った“忘恩の徒”“裏切り者”とし

て永遠に残るだけだ。

 秋谷 しょせん、あの連中は、自分の保身のことだけしか頭にない“小心者”

だ(笑い)。やはり一番の極悪(ごくあく)の中の極悪は日顕だ。

 森田 そうですね。そもそも日達上人の院達を最初に破ったのが日顕だ。今回

の問題が起きた直後に、この謹刻の件を学会攻撃のために使っていいという指示

を出している。

 八矢 “自語相違”もいいところね。かつて「論議する者こそ謗法であります

」(昭和五十五年四月六日、御代替奉告法要)と言っていたのは、だれだったか

しら。

 原田 まったくだ。日顕は、その後も、「総じて“触れるな”といわれたもの

に触れることは、謗法と断じます」(同七月四日、全国教師指導会)、「今もっ

て蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背(そむ)く謗法」(

同十一月、「宗内檀徒の皆さんへ」)とも言っていた。

 秋谷 ところが、それが平成三年になると、例えば十一月の解散勧告書には「

御本尊の模刻という前代未聞(みもん)の大謗法」、破門通告書には「勝手に模

刻するという大罪」などと言っている。かつて自分で“論議するな”“触れるな

”と言っておきながら、それを破門理由にしたということは重大な問題だ。

 森田 何のことはない。登座直後の日顕の指南からすると、日顕こそ大謗法を

犯したことになる(笑い)。

 佐藤 日顕の“自語相違”“二枚舌”はシアトル事件裁判でも立証済みです。

それこそ裁判になったってコロコロ主張を変えてくるんだから、“裁判所公認の

大ウソつき”山崎正友といい勝負だ(笑い)。

 秋谷 そもそも、この問題の“火種(ひだね)”をつくったのが、ほかならぬ

山崎正友だ。前回の宗門問題の時に、何とか学会攻撃の材料にしようと、裏で

若手僧侶を焚(た)きつけ、無理やり「問題」にして日達上人を突き上げさせた

のだ。

 森田 登座した直後の日顕は、そうした山崎の策謀(さくぼう)を知っていて

、「あんたはウソつきだ!」といって山崎を退け、自分の血脈相承を否定した

正信会についても擯斥(ひんせき)処分にしている。

 原田 ところが、今や日顕は、その山崎に「あの時はウソつきと言って悪かっ

た。勘弁(かんべん)してください」と頭を下げ、かつて山崎や正信会がやって

いたことを、そのまま“猿マネ”している(笑い)。

 秋谷 まるで山崎が法主で、日顕が檀徒か家来みたいな関係だね(笑い)。

主客転倒もいいところで、自分のやっていることのおかしさが分からないほど、

錯乱している。「頭(こうべ)阿梨樹(ありじゅ)の枝のごとくに・われたれど

も悪業ふかくして・しらざるなり」(御書九二四ページ)と仰せ通りの、まさに「

頭破七分」の姿だ。

 佐藤 私が理解できないのは、御本尊を大切にするために板御本尊にしたのに、

何で宗門がとやかく言うのか、ということです。これは信心のうえから、どう

考えたって納得できない。

 八矢 そうですよ。ご不敬したとか、紛失したとか、あるいは身延みたいに

キツネや鬼子母神(きしもじん)を祀(まつ)ったというのなら話は別ですが、

学会は御本尊を荘厳申し上げたんです。今ごろ日顕宗から文句を言われる筋合い

なんてどこにもないですよ。

 秋谷 まったくその通りです。日達上人も、「御本尊は受持した人のものです

から、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人

がとやかく言うものではありません。紙幅(しふく)を板御本尊にするというこ

とは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言

われていた。それを今さら「謗法だ!」なんて、とんでもない言い掛かりだ。

 原田 そう。もともと紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔

から行われていることです。昔は“御形木三年”といって、そのあとは信者でも

、板御本尊にするのが当たり前だったんです。

 森田 現に大石寺周辺には、板本尊を持っている檀家はいくらでもいるし、

初代会長の牧口先生の御本尊も板御本尊だった。

 佐藤 だいたい、彼らの言う、「模刻」という言葉自体が新造語でおかしい。

まるで学会が勝手に御本尊をマネして板に刻んだような悪いイメージをつくろう

としている。もともとそれが、あの連中の狙(ねら)いなんだろうが、冗談じゃ

ない。

 原田 そうそう。“聖教新聞社の地下でつくった”とか、ひどいのになると“

実はその時、板本尊を何百体もつくっていた”と本気で信じている者もいる(

笑い)。

 佐藤 改革同盟の大橋正淳住職(和歌山・大照寺)も、「正信会が騒ぎ出すま

で、『模刻』なんて言葉は聞いたこともなかった」と語っています。

 原田 いずれにせよ、学会は日達上人の了解をきちんと得たうえで、

日蓮正宗御用達の仏師に依頼し、御本尊を御謹刻申し上げたんだ。それに対して

、向こうが日達上人の禁止令を破ってまで批判してくるなら、この際、こっちも

事実関係をハッキリしておく必要がある。

 秋谷 あれは了解を得たうえでの「謹刻」であり、断じて彼らのいう「勝手に

模刻」とか、ましてや御本尊に御不敬を働いた日顕宗が言うような「謗法」では

ないことは明確だ。そもそも、御本尊にこと寄せ、そんなバカげた言い掛かりを

つけること自体、信徒などいかようにも騙(だま)せるという日顕宗宗門の

ペテン師ぶりが如実に表れている。

 森田 賛成です。次回は特別に、当時、実際に御本尊の御謹刻に携わった

赤沢朝陽会長の赤沢猛さんにもご足労願い、いかに日顕宗がウソ八百を並べてい

るか、当時の真相を語ってもらいたいと思います。

 

1997/10/17
自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る 19 

    

 秋谷 今回は、元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤沢朝陽会長の赤沢猛さんに来

ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わっ

た当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。

 赤沢 はい。赤沢です。よろしくお願いします。

 原田 赤沢さんは、四年前の座談会(平成五年九月三十日付)以来、二度目の

登場ですね。ぜひ、もう一度、話してください。

 赤沢 わかりました。私どもは、明治四十年に日蓮正宗御用達となって以来、

日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する

仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも

私どもですし、よく存じております。

 佐藤 早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査

したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを

発見したと言っていますが、それは本当ですか。

 赤沢 その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれて

いる部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、

仏師の名前と年月を刻んでおります。

 佐藤 なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から

昭和四十九年一月二日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の

板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表

していますが、これも間違いないわけですね。

 赤沢 はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、

一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。四十九年の

一月に依頼を受け、二月に彫り始めて、四月三十日に学会本部に納めました。

 八矢 何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってる

の?

 佐藤 宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、“学会が

板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和四十九年九月二日。ところが、実

はそれよりも五カ月も前の四月には彫刻が終わっていた”というのです。

 赤沢 それはとんでもないスリ替えです。「正本堂賞与御本尊」を板御本尊に

することは、日達上人は昭和四十九年の一月にはすでにご存じでした。これは

日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことで

すから、確かなことです。このことは四年前の座談会でも、明確に申し上げたは

ずです。

 森田 日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる

婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書二一ページ)とある通り、自分たちに

都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(

笑い)。念のため、もう一度、その間の経緯を教えていただけませんか。

 赤沢 はい。わかりました。私が初めてこの話を伺ったのは、

昭和四十八年の暮れのことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か

板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまし

て、私は、「猊下(げいか)に一言いっていただければ、私どもも安心してでき

ますが」と答えました。

 秋谷 そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人に

お話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」

が下付(かふ)された時のことでした。

 赤沢 昭和四十九年一月十六日のことですが、私が池田先生にお会いした折、

先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“

大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく

頼みます」と言われたんです。

 原田 つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、

昭和四十九年一月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、二月に彫り始めて

四月に学会本部に納めた、ということですね。

 赤沢 その通りです。ですから、水島の言う“願い出をする前から、学会は謹

刻していた”というのは、明らかな間違いです。

 秋谷 間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、“

新発見”にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当

かなと思ってしまう。

 原田 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな“トリック”で、人々を騙

(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和四十九年九月二日という

のは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった

板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊

」のことではない。

 森田 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は

日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する

際、改めて、連絡会議にかけたのです。

 秋谷 その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者とし

て出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと

了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりも

この事実について一番よく知っているはずだ。

 佐藤 ちなみに赤沢さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?

 赤沢 四十九年の十一月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めていま

す。

 原田 そう。だから九月に連絡会議で確認して、十一月から謹刻が始まったの

です。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌五十年の一月一日に

入仏式を行った。このことは当時の聖教新聞(一月四日付)でも大々的に報道し

ている。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもな

ってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない

理由など何一つなかったんです。

 佐藤 では謹刻の仕方についてはどうですか? 何か宗門側は、紙幅(しふく

)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。

 赤沢 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の

妙本寺では十体、日向(ひゅうが)の定善寺では七体ほど、それぞれお寺の

御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の

御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤沢に言って、写真を撮

ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。

 八矢 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの? と

んでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。

 秋谷 御本尊を単なる“モノ”としか思っていない証拠だ。それに比べて学会

は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りす

るために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「

紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題に

することではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは

筋違(すじちが)いです。

 森田 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)

。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、“願い出

の五カ月前に勝手に謹刻していた”などと発表するなんて、聖職者の風上(かざ

かみ)にもおけない大ウソつきだ。

 佐藤 水島も総監の藤本も、さぞかし“穴があったら入りたい”心境だろう。

“新事実発見!”などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、「

創価新報」(九月十七日付)で破折(はしゃく)されたとたん、「大白法」(

十月一日付)では見る影もないほど“トーンダウン”している(笑い)。

 原田 赤沢さんが四年前に証言していたことについても、“知っていたけど、

発表は省略しました”などと負け惜しみを言ってる。これで“学会員を再折伏し

よう!”だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで“墓穴(ぼけつ)

”を掘りにくるようなものだ(笑い)。

 秋谷 要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれ

ると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈

(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(し

ょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書九五七ページ)の

御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途

をたどるのも当然と言えば当然だ。

 

1997/10/18
 自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る 20 


 佐藤 ところで、十月一日付の「大白法」には、当時、日達上人の仲居だった

光久諦顕(関東大支院長)がノコノコと登場し、ウソ八百を並べています。

 八矢 私も一読して、思わず噴き出してしまいました(笑い)。よほど四年前

の赤沢さんの証言が効(き)いているのね。何ら明快な反論もできずに、ただ「

疑点に思います」「信用するのもばからしい」といった調子で、個人攻撃に終始

しています。

 森田 そう。所詮(しょせん)、言っていることは、平成四年四月一日付「

大白法」に掲載された菅野慈雲(東京・大宣寺)の受け売りだ。これこそ「信用

するのもばからしい」言い掛かりばかりだが、せっかく当時の経緯をすべて知っ

ている赤沢さんがおられるわけだから、ここでしっかりと破折(はしゃく)して

おいたほうがいい。

 佐藤 光久の難クセの第一は、“昭和五十三年初頭に、日達上人から菅野に対

し、「今、赤沢朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の

御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べてくるよ

うに」と依頼があった。そのこと自体、日達上人が知らなかった何よりの証拠で

ある”というものです。

 赤沢 前にも言いましたが、この話はまったくの作り話です。第一、年始の

あいさつには、私だけではなくたくさんの方が来られています。そんな所で

私一人が、しかも御本尊に関する重要な話などできるはずがありません。もしあ

ったと言うなら、その場にいた大勢の人たちが証言しているはずですよ。

 秋谷 そうですね。この光久の話は明らかに矛盾している。だいたい日達上人

は、昭和四十九年の段階ですでに御本尊の謹刻(きんこく)については了解され

ていたんです。それなのに五十三年になって、そんなことを聞くわけがない。こ

れはもうまったく作られた話です。

 赤沢 そうです。それに私は日達上人から直接、最初から了解されていたこと

を伺(うかが)っています。

 原田 そうでしたね。確か、四十九年の秋ごろ、大奥の対面所で目通(めどお

)りした時のことでしたね。

 赤沢 はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰り

になられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえ

ば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。

 八矢 それで赤沢さんは、どうされたんですか?

 赤沢 もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやって

るのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が

猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。

池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな。

大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出てい

かれたんです。

 秋谷 明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、

日達上人は昭和四十九年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も

無責任な発言をするものだな。

 赤沢 本当にそう思います。こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必

ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であ

ろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。

 佐藤 赤沢さんの証言で、池田先生と日達上人の間で、話があったことは明白

です。そのうえで確認しておきたいのですが、実際に謹刻する際の手続きはどう

なっているのですか? というのも、光久は“なぜ内事部に報告しない”“

口約束だけで仕事をするなんて怠慢(たいまん)だ”と難クセをつけているので

すが(笑い)。

 赤沢 いや、当時は、そんないちいち内事部に書類を提出したり、報告するよ

うなことはありませんでした。通常、信徒の皆さんから依頼を受けた時にも、

末寺の住職に身元の確認をするぐらいのものでしたから。本山から報告を要求さ

れるようになったのは、日顕の代になってから、とくに内事部に御本尊を取り扱

う第三課ができてからのことです。

 森田 だいたい連絡会議等で、そんな話は一度も出なかったですよね。もしそ

んな手続きや方式があるなら、意地悪しないできちんと教えてくれればいいんだ

。それこそ本山側の“怠慢”になる(笑い)。

 八矢 その底意地(そこいじ)の悪い光久は、日達上人が謹刻した御本尊につ

いて、“どこか金庫にでもしまっておけ、人目に触れさせるな!”と立腹(りっ

ぷく)して、学会がどう処置していいか困ったなんて言ってるわね。

 原田 これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題

で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場

から、昭和五十三年九月二日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけ

です。

 秋谷 そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくださ

れば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その

日達上人のおっしゃった通り、翌日の聖教新聞に報道されています。

 森田 ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会に

だまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。

日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。

 佐藤 結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の七体の

板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が

学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。

 原田 あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲

が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。

猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうして

くれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。

 森田 とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺

れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と

判断した。だからこそ、日達上人を守るために、学会本部常住の御本尊以外の

七体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。

 秋谷 その通りです。本来なら、いくら菅野に泣きつかれようが、それに応じ

る必要など一切なかった問題です。それもこれも、すべては日達上人を守り、

僧俗和合をしていこうとの思いから、あえて学会が泥をかぶり、譲歩(じょうほ

)もし、耐え忍んだのです。

 原田 そうです。だから、御本尊を納めた直後、学会としても日達上人に申し

上げた。「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言

っています。これではまったく困ります」とね。それに対して日達上人は、「わ

かった。それでは院達(宗門・宗務院からの通達)を出します」と言われ、それ

で例の「一切論議を禁止する」という昭和五十三年十月三日付の院達が出された

んです。

 佐藤 しかし教学部副部長の水島など、こうした経緯をネジ曲げて、“

昭和五十三年十一月の幹部会で、辻副会長(当時)が、「不用意に御謹刻申し上

げた」と謝罪したから、論議を禁止した”などと言っている。

 八矢 まったくどこまでひねくれているのかしら。「悪世の中の比丘(びく)

は邪智(じゃち)にして心諂曲(てんごく)」(御書二二四ページ)の通りだわ。

 森田 だいたい、あの「不用意に御謹刻申し上げた」の表現は、代表幹部会の

前日、突然、宗門側の強い要請があって挿入(そうにゅう)させられたことじゃ

ないですか。陰では全部、あの“極悪ペテン師”山崎正友の策略だったんです。

 秋谷 宗門側の言い分は、“これを入れてくれないと、騒いでいる活動家僧侶

が納得しない”“彼らが納得しない限り、学会がいくら僧俗和合を徹底しても

事態は収拾しない”というものでした。つまり、事態収拾のためにということで

話し合った結果、入れた文言(もんごん)だったのです。そうした経緯を承知(

しょうち)のうえで、日顕たちはその文言だけを取り出し、“あの時謝(あやま

)ったじゃないか”“あれは偽(いつわ)りの反省だったのか”と言ってくる。

無慚無愧(むざんむき)とはこのことで、信義も何も通じないところです、

日顕宗は。

 赤沢 まったく嘆(なげ)かわしい限りです。あの人たちには、この件で

感情的に騒げば騒ぐほど、日達上人に疵(きず)がつくことが、まだわからない

らしい。

 秋谷 大聖人は「ほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣(ゆしん)とて・へ

つらへる者・不知恩の人なり」(同一四一二ページ)と仰せです。

 光久にしても、藤本にしても、あるいは菅野にしても、本来、日達上人の弟子

として、先師に違背(いはい)し宗門を破滅に追いやる日顕に対し、命懸(

いのちが)けで諫暁(かんぎょう=いさめただす意)すべき立場にある。

 原田 それを見て見ぬふりをするどころか、媚(こ)び諂(へつら)ってお

先棒(さきぼう)を担(かつ)いでいるのだから、話にならない。この三人は“

腰抜けトリオ”として、日達上人の遺弟たちからも陰で笑われているらしい(

笑い)。

 森田 笑われて当然ですよ。大客殿をはじめ、大化城、六壷、総坊前の桜と、

大石寺から日達上人の事跡が次から次へと取り払われているというのに、彼らは

ただボーッと指をくわえて眺(なが)めているだけなんだから(笑い)。

 八矢 これはもう日顕宗全般に言えることですが、出家の身でありながら、と

にかく“恩”と言うものを知らなすぎるわね。その最たるものが、大恩ある学会

、なかんずく池田先生に対する仕打ちです。

 秋谷 会長就任以来、それこそ池田先生はどれほど宗門に貢献されたか。

建立寄進した末寺の数だけでも三百六十カ寺にも及ぶ。それほどの大功労者を、

あろうことか「あの野郎」呼ばわりして切ってきた。

 佐藤 大聖人は「畜生すら猶(なお)恩をほうず」(同二〇四ページ)と仰せです

。世間でも、犬すら三日飼えば恩は忘れないという。大恩に仇(あだ)で報いた

日顕は、断じて許すことはできない。

 

1993/09/15
◆「創価の世紀」の開幕(3)  
  

 

 高橋 今回の学会の御本尊授与は、皆大喜びです。広布の新しい時代の開幕を

実感しているからです。

 原田 そうですね。授与のことが発表された第七十回本部幹部会のあった七日

は、池田先生が本年の本部訪問百回目の日でしたし、新聞発表がされた八日も

戸田先生の「原水爆禁止宣言」の記念日であるなど、幾つもの意義を刻む日でし

た。世界広布新時代のまさに夜明けの時を迎えています。

 谷川 それに対し日顕宗は謗法の坂をますます転げ落ちている。「大白法」

号外では、今回の学会の御本尊授与を、以前の御本尊謹刻(きんこく)のことに

結び付けて誹謗(ひぼう)しているようですね。

 秋谷 そうらしい。しかし御本尊謹刻のことは、十数年前、日達上人が“今後

一切言ってはならない”と院達を出され、厳しく戒められたことです。それを持

ち出すことは、先師に対する大変な反逆になる。

 斉藤 その通りです。後で申し上げますが、そもそも御本尊謹刻は、日顕や

藤本も言っていたように、仏法上また日達上人の御指南に照らして、謗法でも何

でもないことなのです。

  当然だよ。日達上人の書写された御本尊を謹刻しても、日達上人の御本尊

に決まってる。日寛上人の御本尊を御形木御本尊にしても、日寛上人の御本尊に

決まってるじゃないか。その御本尊を謗法だとか、功徳がないとかいう日顕たち

こそ大謗法だよ。

 高橋 その謹刻のことを利用して謀略で騒いだのが、山崎正友や正信会ですね。

  そうです。だから日顕たちは、正信会の猿マネをしていることになる(

笑い)。

 谷川 そもそも日達上人が禁止されたことを破ったのは日顕でした。日顕は、

今回の問題が起きた直後の平成三年一月六日の本山での会合で、この謹刻問題を

学会攻撃のために使っていいという指示を出しています。それも、僧侶の話によ

ると、新年の樽酒を開けてホロ酔い気分で号令したというんです。

 辻 とんでもない男だ。日顕は最初から御本尊を謀略の道具にしようとしてい

たということだね。

 原田 ええ。「大白法」では、謹刻は日達上人の許可を得ていなかった等と、

まず経過をごまかしています。そして“学会は日達上人のお心を踏みにじり、再

び大謗法を犯した”などと臆面(おくめん)もなく書いています。

 秋谷 全く笑止千万だ。日達上人の心を踏みにじって、御本尊謹刻のことをま

だ言っているのが日顕たちではないか。

  その通り。これ自体、大謗法だよ。

 秋谷 この件については、学会としては日達上人の指南に基づき発言を控えて

きたが、ここまで先師を冒涜(ぼうとく)し、ウソを重ねるのなら、後々のため

にも、ここで、御本尊謹刻の真相、経緯についても明確にしておきたい。

  賛成です。この問題は、学会が宗門を守ったのであって、学会には一点も

非がなかったことを、是非明らかにしておきたい。あの御本尊の謹刻は、当時、

間違いなく日達上人の了解も得たうえで謹刻したものなのです。

 秋谷 その通り。当時の経過について言いますと、昭和四十九年に、学会は

創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするた

めに板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。

 それに対し、日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の

上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言

うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあった

ことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があった

のです。これが真相です。

 辻 日達上人はこの他にも、「僧俗には、最高の技術をもって大御本尊を守護

申し上げる責任がある」「御本尊を守り、法を守って永代まで伝えなければなら

ない」等と、御本尊をお守りする信心の大切さについて、昔から折に触れ言われ

ている。

 斉藤 もともと、紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から

行われてきたことで、問題にする方がおかしいのです。例えば、堀上人は、

紫宸殿(ししんでん)御本尊を謹刻した板御本尊を拝んでいた。末寺でも、保田

の妙本寺では十体、日向の定善寺では七体、紙幅の御本尊を写真にとり、謹刻し

ている。宗門では紙幅を板御本尊にすることは、本来騒ぐことでも何でもないこ

となのです。

 原田 だから、学会も日達上人の了解を得て、昭和四十九年より、本部常住の

御本尊など全部で八体の御本尊を、順次、板御本尊に謹刻申し上げたのです。そ

もそも、総監の藤本が「あれは、謗法ではない」と法廷で証言したではないです

か。ところが、あの「大白法」によると、藤本は公(おおやけ)の法廷でウソを

ついたことになる(大笑い)。それこそ大問題だ。

 高橋 全くそうですね。

 谷川 このことは、当時の問題をよく調べたといわれる河辺慈篤(かわべじ

とく=北海道大支院長)も、昭和六十三年四月に行われた一般得度九期生に対す

る指導会で「正信会は御本尊模刻について大謗法だといっているが、そんなこと

はない。やはりこのことについても、日達上人からそのような御指南を得ていた

。謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」と説明しているということです。

 高橋 ということは、もともと問題になるようなことではなかったということ

ですね。

 原田 その通りです。ここに昭和五十年一月四日付と、五十年七月十七日付の

聖教新聞の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを

板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならな

かったのです。

 谷川 この問題のおかしいところは、すでに公になってから二、三年経過した

昭和五十二年ころから急に騒がれ始めたことです。後にいわゆる正信会となって

宗門に反逆した若手坊主たちが、山崎正友と結託して意図的な学会攻撃の材料と

して、この謹刻を問題があるように仕立て上げたからです。

 秋谷 とくに、これが宗内でことさら騒がれた昭和五十三年当時は、若手が

宗門執行部を突き上げ宗内は無政府状態で、宗務院と何を話してもすぐ若手に壊

されるという状況でした。日達上人も大変に心を痛められていた時です。

 斉藤 そんな異常な宗内状況の中で、正信会に学会の謹刻御本尊のことを質問

された日達上人は、昭和五十三年六月の教師指導会で「学会の方で板御本尊に直

したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、

こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)

しないように」と発言したことがあります。

 谷川 この中の、「それは私が知らなかった」という部分を今回の「大白法」

は、だから法主の許可はなかった、という根拠にしようとしていますが。

 秋谷 そう、これもあの時の正信会の輩(やから)のマネをしているんだ(

笑い)。正信会はこの発言を、学会の謹刻は事前の承認を受けていなかったとい

うことで利用しようとした。そして更にしつこく追及した。すると、別の時には、

“学会から願い出はあったが、後で正式な申請の書類が出てくると思っていた

が来なかったのだ”との説明がなされたりした。

  あの日達上人の話の結論は、「こちらも承認したのだから、そういうこと

をつついて、お互いに喧嘩しないように」というところにあった。つまりあれは

、日達上人が、最終的に宗門も“了解し、承認したのだから騒ぐな”と、正信会

を納得させ、問題を収めようとした発言だったのです。このあたりの日達上人の

正信会僧侶に対する話を正信会が悪用し、問題をくすぶらせたともいえる。

 秋谷 そうです。しかし実際は、この書類の件も、当時そのような書面を出す

指示もなかったし、そのための手続きや方式もなかった。それに、何より、

日達上人が直接、池田先生に明確に了解されたことであり、それで十分であると

私どもは考えたのです。それは当然のことでしょう。

 谷川 現に宗内でも、四国大支院長の安沢らが当時出した小冊子のなかで、

学会の御本尊御謹刻については、日達上人が認可されたものだとハッキリ言って

いますね。

 斉藤 そうです。その小冊子の中では、正信会の中心者が、早瀬日慈や日顕ら

の証言と問題の経緯を踏まえて、次のように言ったことを紹介している。「今こ

ちら側でこの件をついてゆけばそれでは事実はこうと聖教で公表するだろう。か

かる事態になれば、法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に

関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力のある通達をもってこれを

達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置を取

らねばならないと考える」と。

 高橋 先ほど河辺慈篤が、御本尊謹刻は謗法などではないと言っていた話があ

りましたが、日顕はもちろん、あの河辺や安沢たちも皆、事実を知っていたとい

うことですね。

 谷川 先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、

学会の御本尊謹刻が教義上の「謗法」だという感覚など、全くなかったというん

です。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だ

から“寺の方が会館より上”という愚かな上下意識があり、その“差別”が崩さ

れて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖(こわ)かった。これが実は本音

だったというのです。

  なるほど。宗内ではその程度だったのだろうね。それこそ御本尊は寺の

配布物、販売物としか考えていない宗門の体質がよく出ている話だ(笑い)。こ

の邪教そのものの心根(こころね)の下劣さを、大聖人はどれほどお怒りになら

れることか。

 原田 さて、話を戻しますと、謹刻問題がにわかに大きくなる中で、学会とし

ては、あくまで日達上人の指南に基づくべきであると考え、

昭和五十三年九月二日のお目通りで、謹刻した御本尊についての御指南を求めた

のです。

 秋谷 その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば

結構です」との話をされました。私もその場にいて間違いなく聞いています。そ

して学会は、その通り、翌日の聖教新聞に報道しました。すると、活動家僧侶側

は、今度はこれを材料に「また猊下は学会にだまされ、利用された」と、

日達上人に詰め寄り、騒いだのです。

 高橋 日達上人がお目通りで話されたことを、そのように曲げて取るとは、よ

ほど性格が曲がっていたのですね、当時の正信会も。本当に悪辣(あくらつ)で

す。

 谷川 そのお目通りの後の九月末、最終的に学会は、

創価学会常住板御本尊以外の七体の謹刻御本尊については、本山に納めました。

これをとらえて、御本尊を返したのは学会に非があったからだ、などと日顕は言

わせていますが、この真相はどうだったのですか。

 原田 その理由はただ一つです。実は、日達上人の娘婿(むすめむこ)で学会

との折衝(せっしょう)役になった大宣寺の菅野慈雲(すがのじうん)から、「

猊下は活動家僧侶との板挟(いたばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。

猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうして

くれれば、問題はすべて収まるから」という趣旨の話があったのです。

 学会としては、経過からしてこれに応じなければならない理由は何一つありま

せん。しかし、とにかく宗内が反学会の活動家僧侶の決起で揺れに揺れ混乱して

いる。したがって、こうした宗内の異常状態を収拾することが最優先課題でした。

ゆえに日達上人を守るために、学会常住以外の七体の板御本尊を本山に納めた

わけです。

 高橋 今から考えれば、信じられないほどの譲歩(じょうほ)を学会はしたの

ですね。

 秋谷 結局、これも日達上人を守り、僧俗和合をしようとの思いからです。だ

から、板御本尊を本山に納めた直後、日達上人に「こちらは御指南を守って言わ

ないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これでは全く困ります」と

申し上げたところ、日達上人は「分かった。それでは院達を出します」と言われ

、これらの経緯をすべて踏まえ、昭和五十三年十月三日付の院達を出し、「今後

は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」とされたのです。

 辻 もう一つ言わせてもらいたい。あの院達の後の、昭和五十三年十一月七日

に本山で行われた代表幹部会で、私の話の中で、「不用意に御謹刻申し上げた

御本尊」という表現があります。しかしあれも、当初の私の原稿にはなかったの

に、幹部会の直前の前夜になって、宗門側の強い要請があって、“不用意”とい

う言葉を挿入(そうにゅう)させられたんだ。

 谷川 それはどういう理由からだったんですか。

 辻 宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の

活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「十一・七」で

いくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というもの

だった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした

表現になったのです。

 秋谷 当時の異常な宗内状況のため、以上のような複雑な経緯をたどったが、

ここでも分かるように、御本尊の謹刻は、法義上も、また本来、手続き上も何ら

の問題もなかったのです。日達上人自身の指南にもある通り、あくまで御本尊を

大事にしたいとの信心の上からなされたものです。

 斉藤 そうですね。本来、創価学会が大聖人の「信心の血脈」を継承する、真

の「和合僧団」であるということからも、全く問題となることではないですね。

 秋谷 そう。それが“大問題”のようになったのは、宗内が、正信会や

山崎正友に蹂躙(じゅうりん)されるという事態の中で、学会攻撃の作戦として

“為(ため)につくられた”材料だった。これこそ、全く罪ないことで、学会に

黒いワナを仕掛けた、中世暗黒時代のような聖職者による謀略だったのです。

 

1993/09/22

◆「創価の世紀」の開幕(4) 

 高橋 池田先生の北米訪問の旅が連日、報じられています。北米の地から「

創価の世紀」の舞台が大きく広がるこの時、私たちも一人一人が「新しい歴史」

をつくっていきたいですね。

 辻 本当に、そうだ。三十三年前、先生が北米の地に歴史的な第一歩をしるさ

れた日が、思い起こされる。七百年来、だれびとも成し遂げられなかった、

御本仏御遺命(ごゆいめい)の世界広宣流布が、あの時から現実に堰(せき)を

切ったように進んでいった。今また、大邪教・日顕宗と決別できて、本当の仏法

が更に広く深く世界に広まる時が来たと思うと、感無量(かんむりょう)だ。

 谷川 ところで日顕宗では、世界中から最終的な「決別」を宣告されたのが、

よほどこたえたのでしょう。よせばいいのに、総監の藤本が週刊誌の

インタビューに出ていた。案の定、大きく「藤本総監が喝(かつ)!」などと、

どこかの禅僧のような大見出しになっていました(笑い)。

 斉藤 あれは笑いましたね。「喝!」ですよ(大笑い)。禅宗の用語じゃない

ですか。日顕は禅寺に墓、藤本は「喝!」(笑い)。日顕宗は、やはり“天魔宗

”だ。

 谷川 いや、禅宗からも「何だ、あの藤本という坊主は」と笑われているんじ

ゃないですか(笑い)。

 細谷 大体、藤本は、御本尊の利益云々(うんぬん)というが、かつて宗門が

刷(す)り損(そん)じの御本尊を路上に捨てた事件を忘れてしまったのかね。

  そうだ。いまや有名な話だ。

 細谷 ええ。東京・豊島区内の道路端に二、三十体の刷り損じの御本尊が捨て

られていたことがあった。見つけた人がいたんです。びっくりして、学会本部に

届けられた。

 秋谷 その時は、名誉会長から、宗門を守って静かにしておくようにと言われ

て、私が、総監の藤本に連絡して届けたんです。その時、藤本は、バツの悪そう

な顔をして、大変、申しわけないと謝(あやま)っていた。

 斉藤 そう。御本尊を“商売道具”にしたり、粗末に扱ったり、黒い謀略(ぼ

うりゃく)の道具にまで使ったのが宗門ではないですか。実態は、謗法(ほうぼ

う)同然ですよ。

 谷川 その責任者である藤本が今さら、週刊誌相手に御本尊の利益がどうのと

言っても、恥の上塗(うわぬ)りでしかない。

  今回の宗門問題では、藤本ははじめから盗(ぬす)み録(ど)りテープを

改ざんして作り話を持ち出したり、総監のくせに御書も間違ってばかりいたな(

笑い)。

 高橋 ええ。柏原副議長(参議会)たちからも、「総監の珍妙(ちんみょう)

な教学を笑う」「あきれた総監の“僧俗差別”見解」と題して、初歩的な教学の

間違いを手厳しく破折されました。

 細谷 当の本人は、反論らしい反論もできなかった。これが一宗の総監かと呆

(あき)れましたね。

 高橋 みっともないですね。最近の宗門が言っているのも“学会は大御本尊と

決別した”とか、こじつけばかりです。

 秋谷 本当に、冗談(じょうだん)じゃない。そんなこと、我々は一言も言っ

ていない(笑い)。我々が決別したのは、大御本尊ではなく“ニセ法主”日顕だ。

我々は、ますます大聖人直結、大御本尊根本の信心で進んでいる。

 高橋 そうです。大御本尊との間に割り込んでいた余計な“邪魔(じゃま)者

”と決別ができて、すっきりしました。法主を通さないと功徳が出ないとか、

御本尊を下付しないとか、功徳を受けるのも、法主の許可が必要だとか(笑い)。

 細谷 これこそ悪徳法主の地位乱用の極(きわ)みです。日達上人は「ただ

南無妙法蓮華経の信心によって御本尊に帰依(きえ)し奉(たてまつ)って、そ

こに境智冥合(きょうちみょうごう)の姿を生じてこそ、実の仏となるのである

」と、おっしゃっていた。御本尊の功徳は、法主の許可などまったく関係ない。

 斉藤 その通りです。大聖人は「此(こ)の御本尊も只(ただ)信心の二字に

をさまれり」(御書一二四四ページ)と仰せです。また、日寛上人は「若(も)し

一念の信心あらば即(すなわ)ち一念三千の本尊を具(ぐ)す」(文段集四六六

ページ)等と述べられている。信心があれば大御本尊に直結しているのです。

 辻 僕たちも、信心は物理的な距離ではないと、つくづく思うね。そのことを

身をもって牧口先生、戸田先生が示してくださっている。戦時中、臆病(おくび

ょう)な宗門は軍部の弾圧を恐れ、牧口先生、戸田先生を登山停止にした。

両先生は獄中(ごくちゅう)に捕(と)らえられ、身の自由すら奪われ、御本尊

も押収された。しかし、御本尊なき獄中で、牧口先生は御書を身読(しんどく)

され、大聖人の正義を貫き殉難(じゅんなん)の誉れをとどめられた。戸田先生

は唱題に唱題を重ねて、地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)の使命を厳然と覚知され

た。この大聖人直結、大御本尊根本の信心が学会に脈々と流れてきたからこそ、

今日の世界への広宣流布があった。

 秋谷 大御本尊根本とは、謗法(ほうぼう)の山と化した本山に行くことでは

ない。大謗法の法主に従うことでもない。「(日興上人に)背(そむ)く

在家出家どもの輩(やから)は非法の衆たるべきなり」(御書一六〇〇ページ)と、

大聖人が厳命されているのだから、日顕のような“非法の衆”は、一日も

早く一掃(いっそう)することが、大聖人、日興上人の御心にかない、大御本尊

の御心にかなう信心である。

  まったく、その通りです。そうでなければ謗法与同(よどう)になる。

 斉藤 それにしても、日顕宗の言いがかりは、子供じみています。最近も、

学会授与の御本尊は日寛上人が淨圓寺(じょうえんじ)に認(したた)められた

もので、“一機一縁”の本尊だから、御形木(かたぎ)にして、他の人が拝(お

が)んでも功徳はないなどと、言いはじめたようです。

  日顕は、「一機一縁」の正しい意味すら分かっていないのかね。そもそも

「一機一縁」とは、大聖人が、門下に与えられた御本尊について使われる言葉で

、出世の本懐(ほんがい)である「一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)」の

大御本尊と区別する意味で用いられるものだ。

 斉藤 そうです。「一機一縁」とは、あくまでも仏の化導(けどう)について

用いられる言葉です。釈尊の場合で言えば、出世の本懐である法華経が一切衆生

のための教えであるのに対して、衆生の機根に応じて説かれた爾前経(にぜん

きょう)が、一機一縁の教えになる。

 谷川 大聖人の御化導のうえからいえば、日淳上人は「御在世と御滅後を

通じ根本の御本尊は此の一切衆生総与の戒壇(かいだん)の大御本尊にまします

」と、大御本尊が一切衆生を導く根本であることを述べられ、これに対して、

大聖人御在世の弟子や信徒を導くために授与された御本尊を一機一縁の御本尊と

、明確に示されています。

 高橋 要するに、一機一縁の御本尊とは、本来は大聖人在世の門下に与えられ

た御真筆(ごしんぴつ)の御本尊のことを指す言葉ですね。

 細谷 しかし日顕宗では、これも、よく分かっていないようだ(笑い)。そん

なこともわからず、大御本尊を書写された日寛上人の御本尊が、功徳が出ないと

か、おかしなことを言い出すようじゃおしまいだ。

 高橋 まったくおかしな話です。そもそも、御本尊の功徳が特定の人に限られ

るなどという話は、聞いたことがありません。

  そう。草創期に入信した人たちは、大勢、日寛上人の御形木御本尊を拝ん

で、たくさん功徳をいただいたよ。それに昔は、末寺ごとに日寛上人とか、

日布上人とか、日応上人とか、それぞれ歴代上人の異なる御形木御本尊が下付さ

れていた。日顕宗の言い分だと、これも“一機一縁”のニセ本尊を下付していた

ことになる(笑い)。冗談じゃない。宗門古来の伝統も否定して、支離滅裂(し

りめつれつ)だ。

 高橋 日顕は、自分の書写した御本尊を拝んでもいいが、日寛上人の御本尊は

いけないとでも言うのでしょうか。もう、目茶苦茶(めちゃくちゃ)ですね(

笑い)。

 秋谷 そう。大聖人が「妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし

」(同一四五八ページ)と仰せの通り、一切衆生に平等に功徳を与えるための御本尊

です。「一閻浮提総与」の大御本尊を書写した御本尊は、だれに与えられた

御本尊も、どの法主が書写した御本尊も、その御形木も、信心で功徳に変わりが

ないことは、戸田先生も常々指導されていた。

 細谷 ところが、日顕宗の言い分を、そのまま受け取ると、歴代法主は御本尊

を、授与された本人にだけ功徳が出るよう、書写してきたことになる。これは、

何相承(そうじょう)というのか(爆笑)。

 秋谷 日顕宗が、不遜(ふそん)にも大御本尊の無量の功力を否定して、

日寛上人御書写の御本尊は“一機一縁”で功徳が出ないということ自体、

日寛上人への大冒涜(だいぼうとく)です。

 谷川 日顕の御用新聞「慧妙(えみょう)」では、この邪説に飛び付いて、“

一機一縁を勝手に拝んでも功徳なし”などと書いている。しかし、何のことはな

い。「折伏教典」を丸写しして、学会が小樽問答の時に“一機一縁の御本尊は

大御本尊に直結しなければ功徳がない”と主張したことを、鬼の首でもとったよ

うに持ち出し“一機一縁だから謗法(ほうぼう)の身延(みのぶ)である”と

スリ替えているだけです。

 斉藤 これを書いた人間は、よっぽど教学を知らないか、はじめからスリ替え

を目的にしたか、どちらかです。大御本尊を書写された日寛上人の御本尊と、

身延派がもっている一機一縁の大聖人の御真筆本尊を一緒にしているが、こんな

こと、だれも間違えませんよ。

 辻 そう。さきほどの日淳上人の仰せにも明らかなごとく、小樽問答で身延の

本尊を「一機一縁」と言ったのは、根本の大御本尊を誹謗(ひぼう)し、大聖人

を御本仏と拝(はい)せない身延が、いくら御真筆御本尊を持っていても功徳は

ないと、破折で用いたことだ。これだって宗門が、いつも身延にやられてばかり

で、腰抜けばかりだから、学会が破折してやったんじゃないか(笑い)。

 細谷 戦前、あれだけ身延と二人三脚で謗法を犯してきた宗門が、何の寝言で

すか。だいたい、いまごろ御本尊に功徳があるとかないとか、偉(えら)ぶって

言っているが、宗門は七百年間、もったいなくも大御本尊がいらっしゃっても、

身延にやられっぱなしの歴史しか残さなかったじゃないですか。

 辻 そう。創価学会が出現して、初めて大御本尊の無量の功力(くりき)を

証明して、ここまで正法が広まったんだ。これは厳然(げんぜん)たる事実だよ。

 秋谷 天魔は、どんなに言葉巧(たく)みに人々をごまかそうとも、仏法の

根本義だけは説けません。天台大師も「魔の説くこと能(あた)わざるを一実諦

(じったい)と名(なづ)く」と説いている通りです。たとえ御本尊を書写しよ

うとも、御本尊の功徳がわからない。根本義を説けない。これが今の日顕の姿だ。

まさに天魔の正体見たり、だ。

 谷川 おまけに、日顕宗は、法主書写のいわゆる常住御本尊には、授与された

人の名前などが、「脇書(わきが)き」「添(そ)え書き」の形で、したためら

れているから“一機一縁”だなどと言っているが、これも、まったくのデタラメ

ですね。

  そもそも脇書きや添え書きは、御本尊の力用(りきゆう)には、なんの

関係もない。御書にも、相伝書にも、脇書きが御本尊の相貌(そうみょう)に

関係しているなどと、どこにも説かれていない。あるというなら、文証(もんし

ょう)を出してもらいたい。

 斉藤 そうです。脇書きについて日興上人は、大聖人御真筆の御本尊の脇に

僧俗の名を書き付けたことについて、「凡筆を以(もっ)て直(ただち)に聖筆

(しょうひつ)を黷(けが)す事最も其(そ)の恐れ有りと雖(いえど)も」(

同一六〇六ページ)と、ことわられたうえで、「所賜(しょし)の本主の交名(

きょうみょう)を書き付くるは後代の高名(こうみょう)の為(ため)なり」と

仰せです。また日亨上人は、「本尊の脇書の受者の姓名交名は、後世において

広布の元勲(げんくん)として衆多(しゅうた)に護法の高名を尊称(そんしょ

う)せらるべき用意」と説かれています。

 秋谷 つまり、脇書きに授与者の名前をしたためたのは、本来は、立派に法を

弘(ひろ)め、信心を貫き通した、門下の「信心の証(あかし)」としての意味

があったということでしょう。その人の信心を後世に顕彰(けんしょう)されよ

うとした、御心の顕(あらわ)れということです。

 細谷 あくまでも、門下の「信心」を称賛(しょうさん)し、後世の範(はん

)とするためのものですね。

 斉藤 ですから、「富士宗学要集」に日亨上人が歴史的な事例を挙げられてい

るように、日興上人以後、歴代法主書写の御本尊でも、授与された人の名前が、

後代に、次々、書き加えられている例も多くある。たとえば、日興上人の

元徳二年五月一日の御本尊も、五回にわたって脇書きの僧俗の名前が書き換えら

れています。

 谷川 日顕宗の言うように脇書きで、功徳も“一機一縁”になってしまうんだ

ったら、名前が変わるたびに、功徳の出る人が変わることになる(笑い)。

 秋谷 結局、日顕の言う“一機一縁”論など、まったくのデッチあげ教義でし

かない。これが法主なんだから、程度が悪すぎる。

 辻 今でも忘れないが、広宣流布を阻(はば)む「三類の強敵(ごうてき)」

のなかでも最も強敵の僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)について、

戸田先生は、よく、「会いたい、会いたい」と言っておられた。

 秋谷 そう。戸田先生は、「僣聖増上慢というものは、広宣流布の時が近づい

た時になって初めて出てくるものだ」とも言われていた。また「日蓮正宗のなか

から出てくる」と言われていましたね。

  私たちも、どんな形で僣聖増上慢が現れるのか、御書を拝してもピンとこ

なかったが、今回の問題で、はっきりわかった。まさか、法主として現れるとは

思いもしなかったが(笑い)、まさに経文通りの姿で現れた。

 秋谷 この日顕という僣聖増上慢を打ち破った時、広宣流布が更に大きく開け

ることは、間違いない。全人類のためにも、魔(ま)の山と化した謗法・日顕宗

を、一日も早く追放しなければならない。私たちは、地涌の菩薩の和合僧(わご

うそう)に託された誉れの戦いを、いよいよ「御本尊根本」「大聖人直結」の

信心で、更に力強く堂々と展開していきたい。

 

 

 

1993/09/30
◆「創価の世紀」の開幕(5) 

 谷川 ハーバード大学での講演をはじめ、先生の北米訪問のニュースが楽しみ

な毎日です。いよいよ民衆仏法の太陽が、全世界を照らしていることを感じるの

は私一人ではないと思います。

 高橋 全くそうです。法華経なかんずく日蓮大聖人の仏法のもつ普遍性が輝く

、画期的な「時」が訪れたと実感します。

  日淳上人は、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の団体である学会

の出現によって、仏教史に劇的な変化が起こったことを見抜かれ、将来の歴史家

は「立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通(るつう)広布の時代

と定義するであろう」(日淳上人全集一六二〇ページ)という有名な言葉を残されて

いる。これからの広宣流布は、あくまで民衆が主役の時代だということです。

先生の戦いは、まさにそれを証明している。

 細谷 ここで日顕のことをいうのは、まるで別世界の化石を相手にするような

ものですが(笑い)、彼は、日淳上人のいわれた「流通広布の時代」の深い意義

が、結局わからなかったんでしょう。だから、現実に世界に広宣流布をしている

先生に嫉妬(しっと)し、狂ってしまった。

 高橋 その結果は、民主主義を否定し、文化を否定し、僧俗和合を破壊し、た

だ“衣の幻想”に執着し宗門を滅亡させています。全く、哀れと言うしかありま

せん。

 谷川 ロサンゼルスの男子部が、日顕宗のことを映画の「

ジュラシック・パーク」をもじって「ジェラス・パーク(嫉妬の園)」と言って

ましたが、実にぴったりの表現です(笑い)。

 細谷 ところで、その“嫉妬の園”の動きだけど、日顕は、学会の御本尊授与

のことを今度は「院達」で、法主の「御允可(ごいんか)」がないから駄目(だ

め)だといっている。

 高橋 “御允可”ですか! 今時、古臭いですね。つまり“許可”でしょ(

笑い)。少しでも有り難がるように、ということでしょうが、そんなのが通用す

るのは、日顕に盲従(もうじゅう)している法華講あたりだけですよ(笑い)。

 斉藤 日顕の国語力は正本堂説法の“たるべき”の珍解釈で底が割れています

からね(笑い)。昔から日顕は見えだけで実際は中身がない。やさしいことを、

いかにも難解そうに言って偉そうに見せかけるんです。しかも、肝心の言ってい

る内容が間違いだらけだから、どうしようもないですよ。

 辻 結局、日顕宗は、学会の御本尊授与について、法主の許可がないというこ

としか言えない。ところがその法主は、禅寺に墓を建てるわ、陰で悪事を繰り返

すわ、遺誡置文(ゆいかいおきもん)もことごとく破ってしまった。これでは

邪宗の法主だ。こんな法主が「許可、許可」と居丈高(いたけだか)に言っても

、それこそ笑い話にしか過ぎないよ(大笑い)。

 細谷 そうです。“ニセ本尊”だとか、功徳がないとか悪口を言っていますが

、日寛上人の御本尊というのは、大御本尊をお写ししたものだ。その御本尊に

功徳がないというのであれば、それは大御本尊否定になりますよ。

 秋谷 その通りです。それこそ大謗法(ほうぼう)です。そのように大御本尊

を否定し、日寛上人を否定していること自体、“ニセ法主”の証拠だ。謗法の

法主のエセ開眼なんて、まっぴらだ(笑い)。

  そう。大事なのは信心なんだ。この日寛上人の御本尊を拝んで、功徳をい

っぱいいただいて進んでいきましょう。

 高橋 ところで、「院達」では、また御本尊謹刻(きんこく)のことを持ち出

しているようですね。

 細谷 “日達上人に無断で模刻するという非法行為を犯した”“日達上人の厳

しい御叱責(ごしっせき)を蒙(こうむ)って、総本山にその模刻本尊を納めた

”などと、もっともらしい作り話を並べています。

  事実は、日達上人は明確に了解されていたし、御謹刻した御本尊を本山に

納めたのも、宗門側のたっての要請を受け、日達上人を守るために学会が敢(あ

)えて譲(ゆず)ったことだ。この前の座談会(本紙九月十五日付)で述べた

通りです。

 細谷 そもそも日顕は、御本尊謹刻を正信会が騒いでいることに対して、「

日達上人違背の大罪人である。“触れるな”といわれたものに触れることは謗法

と断じます」と自分で言っていたではないか。

 高橋 全く正信会より何十倍、何百倍も悪いですね。

 秋谷 そう。日顕は、当時の教学部長、総監代務者としてこの件の事情は十分

わかっているのです。だから、明らかに嘘(うそ)をついている。そこで、それ

を明らかにするために、当時、御本尊の御謹刻に、日蓮正宗御用達の仏師(ぶっ

し)としてかかわった赤沢朝陽社長の赤沢さんに座談会に入ってもらい、当事者

として真実を証言してもらいましょう。

 赤沢 はい。赤沢猛です。よろしくお願いします。私どもは、明治四十年に

日蓮正宗御用達となって以来、日顕が理不尽にも学会を破門する事態に至るまで

の間、宗門の御本尊の御謹刻に関する業務は、一手に引き受けてまいりました。

実際に、学会本部の御本尊などを御謹刻したのも私どもですし、その真相もよく

知っています。

 高橋 ぜひ、真実を語ってください。

 赤沢 私は立場上、宗門のこと、法主のこと、個々の坊さんのことなど、いろ

いろなことを知っています。しかし、今までは、私は言わないできました。特に

、御本尊に関することは、口外しないできました。

 しかし、御本尊謹刻は、宗門では昔から普通にやっていることです。それを

謗法呼ばわりするとは、日顕は全く事実をねじ曲げています。日達上人を無視す

るやり方にも、とても我慢できません。何よりも、大聖人様に弓を引く日顕は、

絶対に許せません。ですから私は、真実を残すために証言させていただきます。

 谷川 よろしくお願いします。御本尊謹刻の経緯の件ですが、当時の日達上人

は、どのようにおっしゃっていましたか。

 赤沢 ええ。学会の御本尊謹刻のことは、日達上人は、最初からもうご存じで

した。これは日達上人からも、また池田先生からも、私は直接お話を伺(うかが

)っているんです。先生からお話を聞いたのは、昭和四十九年の一月でした。

 細谷 それは、御本尊の謹刻を開始する前ですね。

 赤沢 そうです。前年の四十八年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を

何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話があ

りまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできます

が」と答えました。

 それで年が明けた一月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊

のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだか

らいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたん

です。

 高橋 明快ですね。池田先生と日達上人の間で、よく話し合われていたのです

ね。

 秋谷 そうです。昭和四十九年の初頭に、日達上人と池田先生との間で、

御本尊謹刻の件で話があったのは、事実なんです。日顕宗は猊下に無許可でやっ

たなどと嘘(うそ)を言っているが、学会には、猊下に黙ってやらなければなら

ない理由など何一つないわけです。それに、“大事にするためなんだからいいん

だよ”との日達上人の指南は、まさしく信心が大切であることを示されたもので

す。ですから、学会の御謹刻というのは、本来、全く間違いはなかったのです。

 赤沢 もう一つ、日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認

しています。それは、同じく四十九年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の

対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はい

ったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そう

いえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。

 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われま

した。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言わ

れておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと

五、六体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたん

です。

 斉藤 日達上人が、学会本部をはじめ、他の御本尊の謹刻のことも、明確に

承知されていたことは明らかですね。

 赤沢 そうです。本部師弟会館の御本尊の御謹刻の依頼を受けて、取り掛かっ

たころですから、私もよく覚えています。

 高橋 日達上人もご存じで、了解されていたことを“謗法”呼ばわりする日顕

こそ、先師否定の大謗法じゃないですか。

 秋谷 御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始まりましたが、本部師弟会館の

学会常住の御本尊のとき、再度、連絡会議にもかけている。四十九年の九月二日

です。そのときは、総監代務者の日顕自身が宗門側の責任者として出ていて、

日達上人に取り次いだのです。そのときも、はっきりと了解をいただいている。

それを、ごまかしているんです、日顕は。

 辻 五十年一月一日に池田先生中心に学会本部で入仏式を行い、当時の

聖教新聞にも大きく掲載されました。一月二日に初登山し、お目通りした折にも

、先生は日達上人に明確に報告されているし、日達上人自身、その報告があった

ことを周囲に言われている。

 秋谷 日顕宗は、学会に対する平成三年の解散勧告書では、御本尊謹刻のこと

を「前代未聞の大謗法」などと言っていたが、謗法でも何でもないことは明らか

です。これを解散勧告の理由にしたということは重大な問題だ。これ自体が

先師日達上人に対する大反逆だからです。

 斉藤 ところで、日達上人の了解もちゃんとあるのに、なぜ、学会は七体の

板御本尊を本山に納めたのか、当事者の赤沢さんは疑問に思われたでしょうね。

 赤沢 そうなんです。先日のこの座談会を拝見しまして、宗門からの要請とい

う事情があったことを、私も初めて知りました。当時は、どうしてこのことが

問題にされるのか、なぜ、最終的に奉安殿に納めなければならないのか、さっぱ

りわかりませんでした。いずれにしても、学会を攻撃するための難癖(なんくせ

)だろうとは思っていましたが、「一切論議を禁止する」と院達を出したはずの

宗門自身が、今回これを持ち出したことに本当に驚き呆(あき)れています。

 細谷 この謹刻のことについて、当時の宗門の見方はどうだったのですか。

 赤沢 いや。それもですね、あれは昭和五十八年暮れでしたが、ある寺の

入仏式が終わって、私の車に札幌・日正寺の秋山海学さんら老僧が二人乗って来

たんです。その時、二人が「赤沢さん、御本尊模刻のことはどういうことなの。

あんたのとこでやったの」と聞くものですから、「ええやりました。猊下も知っ

てるよ、といわれてましたよ」と答えると、「それじゃあ、問題ないんだなー」

と納得していました。

  そうですよ。全く問題はなかったと知りながら、日顕の策謀(さくぼう)

に加わっている坊主はとんでもないね。

 谷川 ところで、大宣寺の菅野慈雲などは、御本尊謹刻のことで五十三年一月

の初めに、日達上人から「今、赤沢朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会か

らの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行

って調べてくるように」と言われて調査したなどと言っていますが。これについ

ては、どうだったのですか。

 赤沢 いや。それも全く違いますね。年始のごあいさつは、そのころ毎年して

おりましたから、五十三年も年始にうかがったことは間違いありません。しかし

、そんな話は出ませんでした。

 高橋 日達上人は御謹刻のことを当初からご存じだったわけですから、そのと

きにそのような話が出るはずがありませんよね。

 赤沢 菅野住職が、この問題が騒ぎになってから一度見えたことはありますが

、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんで

した。

 辻 菅野は前回の宗門問題のとき、山崎正友の進言で作られた宗門海外部の

部長に、やはり山崎の後押しでついた男です。やったことといえば、宗門のいう

ことを聞かなければ「日蓮正宗の信徒団体とは認めがたくなる」などと脅しの「

海外部通達」を出し、韓国などの海外信徒組織の檀徒化に狂奔(きょうほん)し

ただけだ。

 細谷 その通達にしても、山崎が書いたシロモノです。結局、海外部長を辞(

や)めさせられ、山崎正友の操(あやつ)り人形として策謀に加担しただけの

愚かな人間が、今更そんなことを言っても、だれにも信用されませんよ。

 高橋 ところで赤沢さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。

 赤沢 学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼

された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行わ

れ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで“物扱い”なんです。

 谷川 具体的には、どういうことですか。

 赤沢 例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、

御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのため

の板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことにつ

いて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないか

ら他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。

これは平成二年の七月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言い

ながらも、結局、何も変わりませんでした。

 高橋 いや。日顕は、第一回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、

ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。

 谷川 昭和五十年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、

業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、“持っていかれた”と狂言を繕

(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞

いています。

 秋谷 そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場

だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は

重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。

 赤沢 あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実は

たくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。

 細谷 ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れ

ない。

 高橋 赤沢さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。

 秋谷 日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を“商売道具”としか見ない

謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもと

になっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっ

かり語り残しておきましょう。

1993/10/14
◆「創価の世紀」の開幕(6)
 

 

 高橋 いよいよ御本尊授与が十月二日から始まりました。待ちに待っていた

同志の皆さんの喜びの声が、全国に、あふれています。

 秋谷 海外も、池田先生が今回、訪問された北米をはじめ、ヨーロッパでも、

アジアでも、世界中で待望の御本尊授与を心から喜んでいる。世界広布の記念す

べき十月二日に開始されたことも、新時代の開幕を象徴する歴史的な「10・2」

になった。

 谷川 この隆々とした世界広布の上げ潮の時に対し、日顕宗では、相変わらず

言い掛かりをつけているが、全く支離滅裂。最近も、御本尊を信心で拝すること

の大切さを論じられた、九月七日の本部幹部会での池田先生のスピーチをまたま

た、ねじ曲げた。

 細谷 そう。さも先生が御本尊を物として軽視しているように書いているが、

これが全くのデタラメです。日顕得意の典型的な改ざん、捏造(ねつぞう)です。

  何をいってるんだ。御本尊を商売道具のように扱っているのは日顕宗じゃ

ないか。全く、けしからん話だ。

 谷川 あの時、先生は「信心のなかにしか御本尊はない」と述べられているん

です。御本尊は信心のある人には御本尊だが、信心のない人には、それこそ物で

す。だから、信心で拝することが最も大切だと、強調された話じゃないですか。

 斉藤 日寛上人も「若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず」(

文段集四六五ページ)と、仰せです。信心がなければ、御本尊も紙墨(しぼく)です。

日亨上人も「人法体一の御本尊も、御信心によりて発生するのである」と、

明確に指南されている。

 秋谷 それを正反対に受け止めるんだから、いかに日顕宗というのは「心諂曲

(こころてんごく)」か。全く百八十度ねじれている。

 辻 そう。本当に日顕の頭は幼稚だ。“物”という言葉を使ったから、すぐ“

粗末(そまつ)”と思うなんて話にならないよ。そんなことを言ったら、御物(

ぎょぶつ)も物だし、宝物(ほうもつ)も物だ。命にかえても、大切にする物は

、世間にはいくらでもあるよ。

 秋谷 宗門でも、御本尊を、一幅、二幅と言っているではないか。「幅」とは

、いわゆる軸物、掛け物を数える言葉だ。御本尊も、一応の物として数えている。

だから、ただ物という言葉だけをねじ曲げて、軽視したなどとは、全く

バカげたスリカエだ。信心がないから、そんな基本的なこともわからない。呆(

あき)れ果てるほど愚(おろ)かな男だ、日顕は。

 細谷 それにしても、日顕は、何度、デタラメをやったら気がすむのだ。「お

尋ね」文書で改ざん、芸者写真裁判の訴状でも改ざん。彼らが先生のスピーチを

引用する時は、全部、改ざんじゃないか。本当に卑怯(ひきょう)極(きわ)

まりない連中だ。

 高橋 すべてが曲がって聞こえるのは、心がゆがんでいる証拠ですよ。

  金儲(かねもう)けだから、御本尊に対する「信心」の何たるかも、わか

らない。権威にしがみついて、無教学、無信心をさらけだしているだけだ。

 秋谷 御本尊は「信心」の二字のなかにしかない。学会は草創以来、この信心

で御本尊を拝してきた。だから、世界中の会員が功徳の体験を積み、広宣流布が

進み、これだけ発展してきたんです。御本尊に功徳があるといっても、信心のな

い人が、御本尊を持っているだけでは功徳は出ない。御本尊を拝する人に信心が

あるから功徳が出るんです。その道理がわからない。

 細谷 その通りです。そのうえ日顕は“法主は大御本尊と不二の尊体”と、

大御本尊を自分を絶対化する“道具”に悪用し、貶(おとし)めているではない

か。これこそ大謗法(だいほうぼう)の極みだ。

 秋谷 その日顕や藤本らは今、学会授与の御本尊は功徳がないと言っているら

しいが、じゃあ、現実に拝んだ人に功徳が出たら、どうする。現証が大事だ。

日顕宗は解散するのか。そのことを、まず内外に、はっきりさせてから、ものを

言ってもらおうではないですか。

 辻 御本尊に対する確信なんて、まるでないのが宗門だ。牧口先生の罰論(

ばちろん)を否定していたんだから、御本尊の功徳も罰もわからなかった。

 細谷 その信心がない証拠に、日顕宗が、いかに御本尊を粗末に扱ってきたか。

今回も、赤沢猛さん(元・日蓮正宗御用達仏師である「赤沢朝陽」社長)に、

また証言していただこう。

 赤沢 私どもでは、明治時代から代々の法主の依頼で御本尊を謹刻(きんこく

)してきましたが、実は日顕の代になって、こんなに御本尊をいい加減に扱って

よいのかと思うことが、随分あったんです。

 高橋 具体的には、どんなことが、あったのですか。

 赤沢 日顕の御本尊に対する、信心の全くない姿です。日淳上人、

日達上人時代には、考えられない、いい加減というか、ずさんなことが多かった。

 まず、日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多

い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの

厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、

本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると

、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。

細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。

 高橋 えっ。日顕は、書写の段階で一割も間違いがあるんですか。

 辻 そんな間違いだらけの本尊を書くようじゃ、御本尊を書写する資格なんか

ないじゃないか。相承(そうじょう)の有無を疑われても、しかたがない。

 赤沢 そうです。日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「

十羅刹女(じゅうらせつにょ) 阿闍世王(あじゃせおう) 大龍王」の三つを

一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。

 斉藤 信じられないような話ですね。いったい、何を考えて書いているんだろ

う。それにしても、書いた後、自分で点検しないんですかね。何かといえば、

法主の専権事項だと、いばりくさっておきながら、とんでもない話だ。

 谷川 昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによ

ると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並

べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩していると

か、オートメーションの“作業”のように書いているとか。信心を微塵(みじん

)も感じられない姿であったということです。

 秋谷 その姿勢の中に、御本尊書写の資格を既に失っている日顕の正体が、よ

く現れている。表面は、仮面をかぶって聖僧ぶっていても、本性は天魔ですよ。

 高橋 法主は、命を縮めるような思いで、御本尊を書写していると思っていま

したが、日顕は、色紙や何かの書き物をする程度の感覚しかないんですね。そん

な軽々しい、乱れた姿で御本尊を書写するなど、大聖人がお許しになるはずが、

断じてありません。

 秋谷 そう。大聖人は「日蓮守護たる処(ところ)の御本尊を・したため参ら

せ候事も師子王に・をとるべからず、経に云(いわ)く『師子奮迅之力(しし

ふんじんしりき)』とは是(これ)なり」(御書一一二四ページ)と仰せです。

大慈悲、大勇猛心で御本尊に魂をとどめられた、この大聖人の仰せに照らしても

、日顕がいかに御本尊書写を軽々に考えているかがわかる。大聖人の末流を名乗

ることなど、全く、おこがましい。自ら恥じて退座すべきです。

 斉藤 ところで、御本尊の文字が抜けていることを、日顕には話したのですか。

 赤沢 もちろんです。一字、一点でも抜けていれば、大変なことです。その

都度、本山まで出掛けていって、日顕に、その部分を直してもらったんです。と

ころが日顕は、自分の間違いを棚(たな)に上げて、点検係の僧に“赤沢に渡す

前に、もっとしっかり点検しろ”と怒鳴りつけていたらしいんです。ですから、

訂正の願いが度重なると、点検係も、日顕に取り次ぐのをいやがっていましたね。

 辻 僕も、あちこちの寺の行事で、日顕とは、随分、付き合ったが、あの

わがままぶりは、みっともなくて他には見せられなかった。なにしろ、ちょっと

でも気に食わないことがあると、突然、怒鳴りつけるもんだから、坊さんたちは

怯(おび)えて近付きたがらない。それで、しょっちゅう、僕が相手をしていた

んだ。あんな権威主義の、いやな人間はいない。

 細谷 宮川さんも、文字や点が抜けていることが、随分、あったと証言してい

る。ある時など、点が抜けているのを、日顕に報告したら、「何だ! そこに置

いとけ」と、怒鳴られたというのですから。大事な御本尊のことで自分が間違い

を犯して、申し訳ないことをしたという気持ちなど、さらさらない。これが法主

かと、呆(あき)れ果てていました。

 秋谷 信者や所化(しょけ)など虫けら同然と思っている、どうしようもない

エセ法主ですよ。やることが、ひどすぎる。

 赤沢 しかも、日顕には、そうした訂正の願い出をするにも、いちいち御供養

がいるのです。

 高橋 えっ。それはひどい。自分が間違って、人にまで迷惑をかけているのに

、そのうえ、ぬけぬけとお金を取るとは。なんというあくどさですか。

 赤沢 日達上人は、そういう時には、「それは、こちらの間違いなのだから、

御供養はいいんだよ」と言ってくださいましたが、日顕は、そうではないんです。

 細谷 守銭奴(しゅせんど)どころではない。要するに、日顕にとっては

御本尊書写も金儲け以外の何ものでもないんだ。御本尊書写について、日興上人

は「忝(かたじけな)くも書写し奉(たてまつ)り」(同一六〇六ページ)と仰せで

すが、もったいなくも御本尊を書写させていただくという報恩の思いなど、

カケラもないのが日顕だ。

 赤沢 もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の

御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほう

に曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの

昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。

  根性が、そのまま現れるんだね。

 赤沢 ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖(くせ)だ。

そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これ

には本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは

、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しな

がら、謹刻したんです。

 秋谷 いくら書写しても、題目の字が曲がってしまうとは、仏法は厳しいね。

「体曲れば影ななめなり」(同九九二ページ)とは、まさに日顕の信心なき姿のこと

だったんですね。自分で直さないで、彫師に直させるとは、それでは書写とはい

えないじゃないか。

 谷川 その、書写の題目が曲がっているのを直した御本尊は、何体ぐらい、あ

ったのですか。

 赤沢 七、八十体ほどでは、ないでしょうか。

  とんでもないね。それじゃあ、そういう彫師が修正した日顕の御本尊が

安置されている寺もあるということだ。これこそ事実上の“模造”だ。しかも、

それを日顕が命令している。

 赤沢 そうなんです。日達上人の時には、なかったことです。それが日顕は、

御本尊の御文字の位置を私たち業者に修正させるのです。こんなことがあってい

いのかと思っていましたが、だれにも言えませんでした。

 細谷 それに日顕は、一方的に叱(しか)りつけることが、随分、あったそう

ですね。

 赤沢 それも、なぜ怒っているのかわからないことが多いんです。平成二年の

十月、板橋の妙国寺の新築に当たって、御本尊のお化粧(けしょう)直しをした

ときも、そうでした。

 谷川 日顕の娘婿(むこ)の早瀬義純の寺ですね。

 赤沢 その妙国寺の、客殿の板御本尊の漆(うるし)と金箔(きんぱく)を塗

り直したんですが、落慶式が終わった後で、日顕が、私に突然、すごい勢いで怒

り出したんです。「何だ、あの御本尊は。塗り直しをやってないじゃないか」と。

「そんなことはありません」と言っても聞きません。念のために確認に行った

者が「塗ってあります」と言っても、「そんなことがあるか!」と怒鳴りちらす

ばかりで、取り付く島もないんです。

 その後、仕方なく、本山に改めて謝りに行くと、また「あの御本尊は何だ。や

ってもいないものを、やってあるなどと、いいかげんなことを言うな。いったい

、どうなんだ。返事をしろ!」と。とにかく、手がつけられませんでした。

 辻 自分で勝手に思い込んで、感情むき出しに人を怒鳴りつけるとは、

暴君そのものだ。肝心の信心がない。全くの幼児性だし、駄々っ子みたいな“見

せかけ法主”の正体がよくわかる話だ。

 秋谷 幼稚といえば、数年前、日顕に目通りした時、得意満面で、しゃべって

いたことがある。なんと日顕は、テレビで相撲を見ていて、自分が好きな力士が

土俵に上がると、“題目を送ると勝つんです”と言うんです。

 辻 ということは、日顕にとってテレビが御本尊で、それに祈っていたという

ことになる。それじゃ、日顕が祈ったら、その力士は、全勝優勝できるのか。負

けたら、どうするんだ。あまりにも子供じみている。幼児以下だね。

 赤沢 このほかにも、疑問に思ったことは、いっぱいあります。六十三年三月

の広島・福山の正教寺の新築の際も、そうでした。お厨子(ずし)より御本尊の

ほうが大きくて納まらなかったんです。そしたら日顕は、住職に「赤沢に言って

、御本尊を写真に撮って小さくしなさい」と言ったそうで、実際、写真で縮小し

て謹刻したんです。

 秋谷 厨子に合わないから、いとも簡単に御本尊のほうの寸法を変えろと言う

、この感覚−−。日顕が、いかに御本尊を軽く考えているかがわかる。ともかく

日顕の物の見方は、すべて狂っているから、完全に顛倒(てんどう)している。

 高橋 これこそ御本尊まで自分の感情のままに“物”扱いしている証拠ですね。

御本尊は、信心が根本じゃないですか。日顕には、その信心が全くないと言う

しかありません。

  そう。学会は、どこまでも信心で御本尊を拝してきた。だから仏力・法力

が厳然と顕(あらわ)れる。戸田先生は、日興上人がご生前、最後にしたためら

れた「お筆止めの御本尊」を拝して、“私は、この御本尊を拝するたび、泣けて

仕方がない。お年をとられて、もったいないけれども、御本尊様のお文字が細く

、枯れてしまっているのです。そこまで生命を打ち込んで御本尊をしたためられ

た、御開山上人の御心に涙するのです”と言われていた。日顕のやっていること

は、すべて、大聖人への冒涜(ぼうとく)であり、日興上人への師敵対以外の何

ものでもない。

 秋谷 大聖人は「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の

外(ほか)・未来までもながるべし」(同三二九ページ)と仰せです。日顕は、その

御本尊の下付を止め、御本尊で脅(おど)し、御本尊を商売道具扱いしている。

権威をカサに、御本尊を弄(もてあそ)んでいるんです。この破仏法の大悪人を

放置していたら、それこそ御本仏のお叱りをこうむってしまう。私どもも、この

座談会で、更に、この仏敵を、徹底して呵責(かしゃく)していこう。