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【主張】終戦から65年 「壊れゆく国」正す覚悟を
■慰霊の日に国難の打開を思う
65回目となる終戦の日を迎えた。先の戦争の尊い犠牲者を追悼するとともに日本の国のあり方に改めて思いを致したい。
眼前には夥(おびただ)しいモラル破綻(はたん)と政治の劣化などに象徴される荒涼たる光景が広がる。こんな国のままでよいのか。どこに問題の本質があるのか。「壊れゆく国」を早急に正し、よりよき国として次の世代に引き継ぐ重い責務がある。
現在の日本の平和と繁栄の礎になっているのは、あの戦争で倒れた軍人・軍属と民間人合計約310万人だ。だが、死地に赴いた英霊たちの思いを今の日本人は汲(く)み取っているのだろうか。
◆どういう国を作ったか
7月に刊行された「国民の遺書」(産経新聞出版)は、靖国神社の社頭に掲示された遺稿を紹介している。昭和20年5月、九州南方にて23歳で戦死した長原正明海軍大尉は「どうか国民一致して頑張って頂(いただ)きたいものです。特攻隊員の死を無駄にさせたくないものです」と綴(つづ)った。
「誰を恨むこともない。敗戦という国家の重大事に際しての礎石なのだ」。昭和24年3月、インドネシア・ティモール島で、自己の職責とは無関係に死刑となった笠間高雄陸軍憲兵曹長が妻にあてた32歳の遺書である。国家や国民への思いに頭(こうべ)を垂れたい。
「あの世に行ったとき、特攻隊員の先輩たちにこう聞かれると思っています。『おまえはどういう国をつくったのか』と。私はそのとき、きちんと答えることができるようにしたい」。生前、柔和な表情でこう語ってくれたのは、今年5月、82歳で鬼籍に入った阪急電鉄社長や宝塚歌劇団理事長などを歴任した小林公平さんだ。昭和18年12月に海軍兵学校に入り、終戦を最高学年で迎えた。
特攻隊を志願した先輩たちは小林さんらに日本を託したのだった。こうした踏ん張りが世界第二の経済大国に結実した。
だが、その中ですっぽり抜け落ちたのが、国家のありようだ。米国に寄りかかったことは、日本の復興を促したが、一方で独立自存(じそん)の精神を希薄にしてしまった。
忘れられたことはまだある。敗色濃い戦局をひた隠しにし、破滅的な結末を招来した戦争指導部の責任だ。自国による検証を行わず、責任をうやむやにした。失敗からの教訓を学んでいない。
今、日本の安全保障環境に警報ベルが鳴り響いている。台頭する中国に対し、米国のパワーの陰りが随所にみられるからだ。
しかも米軍普天間飛行場移設問題の迷走が示すように、日米同盟を空洞化させているのは日本自身なのだ。その結果、生じつつある日本周辺での力の空白を埋めるため、力の行使も辞さない勢力が覇を唱えようとしている。
◆立ちゆかぬ「米国任せ」
これまでのような「米国任せ」による思考停止では、もはや日本は立ち行かない。欠落しているのは国を導く透徹した戦略観だ。
これは昭和19年7月にサイパン島を失い、10月のレイテ沖海戦で海軍が事実上消滅して日本の敗北が決定的になったあとも、指導部が終戦工作に動こうとしなかったことと相通ずる。日米戦争を不可避にした南部仏印進駐についても米英などの経済封鎖をほとんど予想しなかったとされる。対米英戦争もドイツがソ連に勝利するなどを前提に組み立てたという。
国家戦略のなさ、外交センスの貧弱さ、情報分析能力の欠如−その危うさは今と似ている。
揺れも大きい。戦前・戦中の軍事力偏重は戦後、完全否定となった。絶対的な無防備平和主義は、自己中心主義を育てたといえなくはない。
やはり自分たちの問題は自らで解決する基本に立ち戻ることが求められている。自力で守れないときは同盟国とのスクラムを強める。弱さは必ずつけ込まれる。
思いだしたいのは、昭和天皇が昭和20年8月14日の御前会議で述べられたことだ。迫水(さこみず)久常・元内閣書記官長の「終戦の真相」(平成15年9月号「正論」)がこう伝えている。「日本の再建は難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持(こころもち)になって努力すれば必ず出来(でき)るであろう。自分も国民と共(とも)に努力する」
いまの国難を打開するには、国民が総力を挙げて、これに立ち向かい、乗り越えようとする覚悟と気概を持つ以外にない。