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大和朝廷は扶余系百済人が建国、日本は扶余の国1. 名無しさん :2010/08/15(Sun) 03:44:10 【韓国】韓人と日本人は「同じ民族」大和朝廷は扶余系である百済人が建てた、要するに日本は扶余の国
[700字読み取り]新たに綴る韓日古代史 キム・ウンヒ著作/東亜日報編集 '10年7月15日 韓国 imaeil.com 毎日新聞 毎日新聞社 イ・ジョンギュ記者 http://www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=28592&yy=2010 ※日本語機械訳意訳
画像(著作物表紙) http://www.imaeil.com/news_img/2010/cul/20100714_144838000.jpg
著者は韓国と日本は一つの歴史を共有する「同族」であり、 そのルーツは不透明であると結論を出している。 古代国家扶余は、最終的には494年頃、高句麗によって崩壊する。 だが、満州において扶余が消えるやいなや、 韓半島に扶余が登場する。すなわち南扶余(百済)だ。
事実、扶余と高句麗の建国神話はほとんど同じだ。 扶余の始祖が同名のように高句麗も同名を始祖に迎えた。 興味深い事実は、韓半島に建てられた百済も同名の始祖であり、 百済王の姓が扶余氏であるというものだ。 「百済は扶余の別種」という記録も様々な史書に登場する。 結論的に扶余と高句麗、百済は同じルーツから出てきた国だ。 著者は、今まで韓国史学界が百済にのみ注目し、 扶余を正視することができなかったと指摘することの理由だ。
百済(南扶余)は扶余の再興を夢見たが、 高句麗によって続けられた南下によって、彼らが再び選択した土地が列島(日本)だ。 5世紀末、百済の蓋鹵王が高句麗の長寿王によって処刑されると、 時を置かず蓋鹵の息子である昆支王子が日本列島に渡り※、列島扶余を建てた。 直後、日本の古代の始まりの大和王朝を開いたのだ。 結局のところ列島日本は扶余の国だ。
著者は、徹底した文献的な事実と考証を土台に本を書いたとのこと。 628ページ、2万2千ウォン。
以上
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| 2. 名無しさん :2010/08/15(Sun) 03:44:23 | ※(日本書紀では昆支王子は倭に人質として送られた蓋鹵王の弟とされている 日本書紀のこの記述は逸失書百済三書の中の百済新撰の記述を写したもの 百済三書は日本書紀に記されてる百済の史書、 百済滅亡前後、百済から日本に逃げてきた王族、 臣下、遺民たちが日本に持ち込んだ、あるいは編纂したとも これらについて百済を滅ぼした新羅の子孫の現在の朝鮮半島では否定的)
扶余-Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99 |
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