このページの先頭です
信州生活をもっと楽しく!長野県のイベント情報や話題が満載のサイト! 信州Liveon(ライブオン)とは?ライブオン情報室パートナーblogのご案内


トピックス

HOME > トピックス一覧 > トピックス詳細


メールでページを紹介 印刷 戻る

life 昔の事そのままを伝えたい 元特攻隊員が自伝を出版

(2008年5月6日)
特攻隊員の体験をつづった自伝を自費出版した島田さん

特攻隊員の体験をつづった自伝を自費出版した島田さん

 太平洋戦争で特攻隊員として出撃した島田昌往さん(82)=松本市白板=が、少年飛行兵学校入学から敗戦までを記した自伝「雲の果て遥(はる)か-特攻出撃・そして生還」を自費出版した。80歳を迎えたのを機に手元に残る日誌や家族にあてた手紙を基に2年かけて書き上げた。今あらためて「人間を武器として扱うのが特攻隊だった」と思う。「二度とこんなことがあってはならない」との願いを込めた。

 旧牧郷村(信州新町)出身。飛行機にあこがれ、農学校を中退して17歳で東京陸軍少年飛行兵学校に入学した。熊谷の飛行学校を経て中国などで訓練を続けた。

 特攻隊員に選ばれたのは19歳の時。事前に参加の意思を問われた際には「熱望」と記した。特攻隊員として名前を呼ばれた瞬間は「体に電気が走ったよう」だった。「自分の人生はおしまいだと思った。ただ、飛行機乗りはいずれ死ぬと思っていたし、嫌とも言えない。避けられない志願だった」という。自伝には、「戦果を挙げ、国のために立派に死ねる」と感じた胸の内もつづってある。

 1945(昭和20)年6月3日、第111振武隊の一員として、重さ250キロの爆弾とともに鹿児島県の知覧から沖縄に向け飛び立った。途中で「お父さーん、お母さーん」と思い切り叫んだ。「なぜ呼んだのか、今でも不思議に思う」。戦闘機のエンジン故障で徳之島に不時着。福岡の軍司令部に行くと、上官から「命が惜しくて帰ってきたんだろう。軍人の恥だ」とののしられた。

 再出撃を待つ中で敗戦を迎える。故郷に帰ってからも、敵艦に突っ込んだであろう仲間たちを思うと「生き残ったことが切なかった」。

 その後、軍の戦果の発表などが「でたらめ」だったことや、特攻攻撃の成功率が低かったことを知る。

 「大砲では九州から沖縄には届かない。私たちは爆弾を運ぶ部品として扱われた」と島田さん。「少年の純粋さを利用したマインドコントロールだった」と振り返る。

 毎年、地元の小学生に体験を話しているが、「なぜ飛行機は壊れたのか」「どうやって不時着したか」との質問が多い。戦争の本質や命の大切さへと質問が深まらないもどかしさを感じる。機会があれば高校生にも伝えたいという。過ちを繰り返さないためには「若い人が憲法九条を守るためにどれだけ頑張れるかにかかっている」と思う。

 200部作成し、知人らに配った。松本市や信州新町の図書館にも贈る。

(提供:信濃毎日新聞)

5月6日 のトピックス 最新一覧へ



access