2008年05月

2008年05月30日

【康由美さん=弁護士】(韓国)

 人が家に住むーーそんな最も基本的な権利が踏みにじられたら。しかもただ、外国人という理由だけで。
 「わたしは学生時代にも入居差別を受けました。あれから20年経っても何も変わっていない。これは決してわたしだけの問題じゃないと思って、家主と行政を相手に裁判を起こす決心をしたんです」
 在日韓国人弁護士の康由美さんは3年前、民間賃貸住宅の入居を拒否されたため訴訟に踏み切った。その背景には、民族差別が色濃く残る社会でもがいてきた長い精神的葛藤の過程がある。
 1965年、在日韓国・朝鮮人の集住地である生野区で生まれた。両親は朝鮮戦争の惨禍から逃れるために日本へ密航してきた。出入国管理局に自首したとき、まだ3、4歳だった彼女も刑務所に収容された恐怖の記憶がある。
 民族的出自に悩んでいた康さんは中学2年のときから本名を名のり始めたが、「朝鮮人は嫌だ」という意識から抜け出すことができなかった。しかし神戸大学時代に同胞学生グループを通じて民族運動に接近するようになっていった。
 同大学院に進学するとき、下宿を探して気に入った物件を見つけた。ところが家主は康さんが韓国籍だと分かった途端、態度を豹変させ入居を拒否した。同胞に相談しても「そんなこと当たり前」といわれるだけだった。
 その後、高校の非常勤講師を勤めながら、2002年に晴れて司法試験に合格した。
 04年、大阪法律センター法律事務所に就職が決まった後、韓国の梨花女子大学に3ヵ月間留学。弁護士としてスタートを切る希望を胸に、友人と同居できる物件を探し、ちょうど条件に合う所を見つけた。ところがまたも韓国籍を理由に断られたのである。
 「まるで弁護士になったからといっていい気になるなと、日本社会全体からぴしゃりと横っ面をひっぱたかれたようで、ものすごい絶望感にとらわれました」
 かつて、同様の差別を受けたこと、高校時代の同級生が国籍を苦に自殺したことなどの苦い記憶が脳裏に蘇った。家主と直接面談して話し合うことにした。すると、あろうことか家主は国籍を理由に入居拒否した事実を否定した。
 「わたしは徹底的に愚弄されたのです。もう、提訴するしかないと考えました。でも、もし負けたらどうなるか、提訴することによってさらに差別の仕方が陰湿になるのではないかと、とても悩みました」
  いろんな人々と相談した。その過程で多数の外国人が差別に苦しみ泣き寝入りしている実態が見えてきた。
 以前、「尼崎入居差別裁判」を闘った李俊煕さんには「裁判をしたからといって家主の心が入れ替わるわけではない。けれども差別をすれば何らかの制裁があるのだというメッセージを送ることが大切なのだ」と励まされた。康さんは「裁判を起こすことで少しでも社会が変わってくれるかも知れない」と、05年に家主を相手取って訴訟を起こす決意をしたのである。
 と同時に、大阪市を被告に加えた。人種差別を禁止する条例を制定しなかった行政の責任を追及するためである。
 大阪市は、日本が96年に人種差別撤廃条約に加入し、すでに民事上の損害賠償請求が可能だから、何らかの措置を講じる必要はない、と主張する。これに対し、康さんは「本当に差別をなくそうという気があるのか疑問に思います」と顔を曇らせる。
 裁判は、昨年3月、大阪地裁において家主との間で和解が成立し、家主が謝罪の意を表した。しかし同地裁は10月、大阪市を被告とする裁判では原告の請求を棄却した。
 康さんは家主との和解で「当初の目的の半分は達成した」といいつつ、「差別撤廃条例が制定されるまで闘う」という信念に揺るぎはない。
 大阪市が「国際化」を目指すというのであれば、外国人差別を根絶するために率先して行動を起こすべきだろう。
※連絡先=06・6365・8142 大阪法律センター法律事務所。


2008年05月23日

【ホダダッドさん=難民】(アフガニスタン)

 「民族紛争のためたくさんの人が死にました。わたしの兄は、二男が殺され、長男と三男は行方不明です。妻と5人の子どもはパキスタンに逃げて10年も会っていません」
 アフガニスタン難民のホダダッドさん(48)が沈痛な表情で訴える。淡々と伝えられるニュースの陰に隠れた生身の人間の悲劇に慄然とする。
 彼は1960年、北部のワルガタで生まれた。イスラム教シーア派であり、パシュトゥーン人とタジク人に次いで多数を占めるハザラ人である。
 79年にソ連が侵攻したときには全民族が一丸となって戦った。が、89年にソ連が撤退した後、凄惨な民族紛争が激化した。
 「隣近所で仲良く暮らしていた知り合い同士が争ったのです。対立した主な原因は、民族の違いより宗派の違いです。イスラム教は殺人も自殺も禁じているのに、どうして血を流し合うのか」
 高校卒業後、2年間の兵役を務めた後、カブールで兄の中古車・部品販売の仕事を手伝った。結婚し、3男2女に恵まれた。ところが93年、パシュトゥーン人らがハザラ人居住区に侵攻した。甥が殺害され、戦闘に参加した彼自身も拘束された。銃床で殴られ、左耳の聴覚を失った。
 マザリ・シャリフに移り、兄と共に中古車・部品販売業を営んだ。部品の買い付けのため97年から3度来日した。
 だが98年8月、今度はタリバンが町に襲いかかりハザラ人を大量虐殺した。彼はその直前に町を脱出。食糧も水もないまま山岳地帯を歩き続けてバーミヤンに着いた後、パキスタンに入った。その後、仕事仲間を訪ねて9月に来日し、11月に難民申請を行ったのだった。
 だが2000年2月、出入国管理局は難民不認定処分を下した。その理由は、難民申請は入国後60日以内にしなければならないという規定があり、彼は2日遅かったというものだった。諸外国に比べあまりにも厳しい処分に、直ちに異議申し立てを行った。
 その後、アフガンでは、01年9月の米同時多発テロ事件が引き金になって米英軍による空爆が開始された。
 「タリバンやアルカイダを攻撃するのはいいとしても、アフガンを空爆して多くの人々を殺すのは悪いことです」
 11月にタリバン政権は崩壊し、12月に暫定行政機構が発足したが、激しい内戦が止むことはなかった。にもかかわらず翌年3月、法務大臣は彼に対しまたも難民不認定処分を出した。しかも「タリバン政権が崩壊したため危険はなくなった」という理由で退去強制令書を発布し、入管に収容してしまった。裁判所への提訴に踏み切り、半年後に仮放免されたものの、いつ強制送還されるか知れない不安にさいなまれた。
 05年、大阪地裁は難民不認定処分の取り消し、つまり彼を難民と認定する一方で、退去強制に対する請求を棄却。06年、大阪高裁も一審を支持した。07年、大阪入管は再調査の結果、三たび難民不認定処分を出した。
 しかし今年3月に法務大臣側の態度が急変し、在留特別許可を認めた。難民申請から実に10年ぶりにようやく定住の道が開かれたのである。
 とはいえ前途はまだまだ多難といわざるを得ない。何より切実な問題は家族の呼び寄せである。妻子は99年にパキスタンに逃れたが、命からがら祖国を離れたため身分証明書がない。来日がいつ実現するのか不安がつのる。
 また彼は現在、塗装工場でアルバイトをしながら東大阪市内の支援団体事務所で居住しているが、以前、仕事上の事故で体を痛めたこともあって、たとえ家族を呼び寄せても生活の見通しが立たない。
 「世界中が平和になって、家族も親戚も、みんなに幸せになって欲しい」という彼の素朴な願いが胸に突き刺さる。祖国からも肉親からも引き裂かれた難民たちのためにどうか支援の手を! と呼びかけずにはいられない。
※連絡先=06・6721・6670 東大阪国際共生ネットワーク。

 



2008年05月02日

【猪嶋イーゴルさん=(株)ジェー・ビー・コミュニケーション マーケティング・マネージャー】(ブラジル)

 人間生活において情報は生命線だ。言葉が分からない国に行けばたちまち孤島に漂着したような孤独と不安にとらわれる。そんなとき母国語の情報誌があったらどんなに救われることやら。
 実は近年、ニューカマーの急増にともなって母国語によるメディアが急成長している。その一つ、ポルトガル語による新聞、雑誌を発行する(株)ジェー・ビー・コミュニケーションはブラジルに本社、東京に支社がある。マーケティング・マネージャーの猪嶋イーゴルさん(27)は祖父母の代にブラジル移民した日系3世として1980年にサンパウロで生まれた。
 「中学まで午前中にブラジル人学校、午後に日本語学校に通いましたが、9歳のときから両親が5回も日本に行かせてくれて、3カ月ずつ学校に通ったので日本語がうまくなったんです」
 大学卒業後、日系人が経営する同社に入社し、2005年に日本支社に転勤してきた。日本に関する出版業で成功した同社は、93年から在日ブラジル人のための週刊新聞「TUDOBEM」(「お元気ですか」の意)の発行を開始した。ブラジルの情報誌や日本の共同通信と提携し、世界のニュースから在日ブラジル人社会の情報まで取り上げる36面の本格的な新聞であり、部数は4万部に上る。
 「ブラジル人のショップを中心に全国1000店舗で委託販売していて、静岡県などブラジル人が集まっている地域では普通にコンビニにも置かれていますよ。もちろん郵送もしています」
 また月刊誌や求人広告用フリーペーパー、さらに集英社や講談社と提携して日本の漫画や書籍をポルトガル語で翻訳出版する事業も行っている。
 今回の東京での取材で驚かされたのは、同社だけでなく、実に多様な母国語メディアが活躍している事実だ。
 猪嶋さんと会ったのはJR高田馬場駅前にある在日外国人情報センター(ICFJ)の事務所だった。そこは計14言語の情報事業を行う44メディアの連合組織である。
 代表の小池昌さんの話によれば、90年ごろから母国語メディアが増え始め、94年に7紙の在日外国人情報誌編集長会議が開かれた。その翌年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は重要な転機となった。翌18日、ただちに各メディア代表が集まった。そして情報不足に悩んでいる外国人を支援するため共同取材を行うことを決め、在日外国人情報誌連合会(EMPC)を発足させた。彼らの発信した母国語情報が被災外国人をどれほど支えたか知れない。
  その後、活動は一時中断したが、特に防災関係の情報を各国語で伝達する問題が外国人にとっても地方自治体にとっても緊急課題となっていた。そこで東京都と共同運営する「在住外国人向けメディア連絡会」の事務局としてICFJが再スタートすることになり、06年にNPO法人の認定を受けたのである。以後、ICFJは東京都や出入国管理局などの行政情報を各国語メディアに提供しつつ、外国人の住宅・労働・医療・教育・言語などの諸問題に取り組む活動も推進している。
 いまや新聞、雑誌のみならず、テレビ、ラジオ、インターネットなど様々な媒体を利用した母国語メディアが多数存在する。しかも10万部を誇る中国語「東方時報」を筆頭に、採算ベースに乗せて全国展開しているのだから、時代は変わったものだ。
 猪嶋さんは「母国語情報誌は祖国のニュースや生活に直結した記事がたくさん載っているのですごく喜ばれています」と語る半面、「日本人はブラジルのことをよく知らないので、これからは日本人向けの情報にも力を入れていきたい」と夢を広げる。
 外国人と日本人の情報交換がスムーズになれば、多文化共生社会の創造に向かう時代の流れが一層加速化されることだろう。
※連絡先=03・5685・6891 (株)ジェー・ビー・コミュニケーション。