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[17309] ゼノビア・オーダーズ【短編集・偽SF】
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:f3836230
Date: 2010/08/12 01:15
□ 本SSには多少のグロテスクな描写や下品な言葉が書かれています。
  苦手な方は注意してください。

□ 本SSは一話読み切りの短編となります。
  作者の文章力のステップアップとレイアウト、あと色々と実験が主目的です。
  他のSSを書いていて、気晴らしに書き散らかしたものを再構成しておりますので
  そういったものが再び貯まると連作短編という形で追投稿を行っております。

□ 作者はゼロ魔板にて「ガンダールヴは夢を見る。」を投稿しています。
  作中に上記SSで使用しているオリジナル設定を使用していますがこれはプロットが
  元々このSS用の物を上記SSに流用した為です。(上記を読まなくても問題ありません。)

□ 本作はSFちっくなファンタジーです。
  本格SFとするにはかなり稚拙だと思うので、よかったらそういう事だと割りきって読んでいただくとありがたいです。
  一応自分なりに調べたりして筋は通しているのですが、流石に学問レベルでの知識は会得できず
  「趣味として」SF風にしたよー! という意図を込めております。
  したがって、SFに一家言持っている方にはかなりフザけた内容になるかと思われます。

□ もし良かったら感想掲示板の方に嫌好どちらでも感想を書き込んでやってください。



[17309] 最後の任務
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:f3836230
Date: 2010/03/15 01:41



 グレイグー。

 ナノテクノロジーリスクの一つであり、文明の滅びの一形態でもある。
 21世紀が終わる頃。
 数千年、もしかしたら一万年近くもかけて人類が育て上げた文明は、巨大隕石の衝突ではなく、核戦争でもなく
ましてや異星人の襲来でもなく、疫病でもなく。
 ナノサイズの極微小機械・ナノマシンの暴走によって引き起こされた "グレイグー" によって静かにそしてあっさりと終焉を迎えつつあった。
 きっかけは100年経った "今" となってもわからない。
 どこかの国で行われた秘密兵器の実験が失敗したからだとか、宇宙人の仕業だとか生き残った人々の間で色々な説が囁かれていた。
 只確実に言える事は、人類は衛星軌道上からも見える程大きな "シェルター" と呼ばれる建造物の中でしか生きられなくなったと言う事だ。
 "シェルター" は巨大は球状で、地上には半分が露出している。
 一見ドームのようなその形は、骨細工のように幾重も内部に向かって同じような球状の壁が中心に住まう人類を守るべく設置されていた。
 一方シェルターが設置された広大な平野では、延々と続く深い森が広がり巨大なシェルターを侵食するようにその周囲を覆っている。
 本来グレイグーが起きると、地表地下問わず星そのものが自己増殖を繰り返したナノマシン群体に飲み込まれてしまう。
 しかしシェルターの周囲数百キロは一見、何の変哲もない森が広がっていたのだった。
 その理由はシェルターが発するナノマシン制御の為の信号にあるとされている。
 シェルターを中心として全天方向にナノマシンの増殖抑制信号が、周囲数百キロに渡って発信されておりその影響でかろうじて
グレイグーの海に沈んだ地表に、まるで衣服にたらした染みのようにかつての自然の姿が残っていた。
 その自然を維持するための雨や植物、生物たちの生態系がどのようになっているのかは不明である。
 シェルターを囲む広大な森の外、まるで水のような灰色のナノマシンの海から一体どうやって雲が発生し、雨となり、森に降っているのか
調査を行うだけの余力が人類に残されてはいなかったからだ。
 彼らにできることはせいぜい幾重もの壁に守られたシェルターの内側、外宇宙移民用に開発されたシステムで稼働する居住区にこもる事である。



 バジルはそんなシェルターの防衛部隊 "オーダー" の一員として長年ここ、ゼノビア・シェルターを守ってきた。
 今年で50歳になる彼は、20年前に妻と娘を事故で亡くして以来ずっと防衛任務に明け暮れる毎日であった。
 防衛任務。
 そう、ここゼノビア・シェルターでは常に "防衛" を行う必要がある。
 いや、世界中のいくつ残っているかわからないシェルターでも同じように "防衛" を行う必要があるだろう。
 分厚い壁を地中にまで幾重にも張り巡らせ、外宇宙航行システムを応用したその内部は外界と完全に遮断され
更に忌々しいあのナノマシンの海からも身を守る信号を発信し続けていても、 "外敵" は存在するのだ。

『こちら司令部。0521バジル応答せよ』
「こちら0521バジル。通信波良好」
『最終隔壁防衛部隊が撃退した敵残党がそちらに向かった。数は3。第8隔壁まで後退してから向かい撃て』
「了解。0527番までを率いて敵3を殲滅する。ルート6上にある隔壁開口の開放を要請する」
『司令部、0521バジルの要請を確認・受諾する。速やかに任務を遂行せよ』

 長年親しんできた宇宙服のような強化防護服の中で、バジルはしわがれた声で了解と答えた。
 今回もなんとか "アレ" を撃退できたようだ。
 安堵と共に、部隊の新兵達への通信を始める。
 強化防護服の肩の部分と一体になったヘルメットの目視窓に、先日任官したばかりのルーキー達の名前が六つ浮かび上がった。

「こちら0521バジル。各自指令は聞いていたな?」
『はい!』
「相手は3。訓練通りにやれば問題ない。接近だけはするな。連中は強化防護服などお構いなしに "侵食" してくるからな」
『了解です!』
「手順はB。0525から27までが燃やせ。他は足止めだ。ルート6は移動しやすい地形だ。安心して跳べ。通信は切るなよ? いくぞ」

 危なっかしい部下達に手早く指示と助言を出して、バジルは強化防護服の移動制御にとりかかった。
 背負った巨大なバックパックの四つの噴射口から瞬間的に空気が吹き出して、元々宇宙服であった防護服ごとバジルを空中に跳躍させた。
 その四肢、両肘と両膝から先に設置されたゴツい鉄の塊には姿勢制御用の噴射口が付いており、空中でバックパックと同じように空気を噴出し
次いで着地の衝撃が彼を襲う。
 常人ならば気絶してしまうであろうその衝撃にバジルは眉ひとつ動かさず、すぐさま次の跳躍を行った。
 通信機からルーキーたちのうめき声が聞こえてきたが、彼は気にもとめない。
 強化服のヘルメットの内部は意外と広く、通信機や色々な警告灯が並びその中に一枚の写真が貼りつけられていて
着地の衝撃に剥がれかけた右下の隅が小刻みに揺れていた。
 写真に映る三人は暗く陰気な防護服の中で満面の笑みを浮かべている。

『目標ポイント、到着です』

 防護服の女性型アナウンスに、バジルは手にした大きな銃を構え跳躍を停止させた。
 部下のルーキーたちはまだ、かなり後方だ。
 司令部から送られてきた敵の位置もまだまだ遠くであり、彼は僅かな猶予を使ってヘルメットの中、計器類で淡く照らし出している
明かりを頼りに20年間行ってきた儀式を行うことにした。

「エイミー、サラ。仇は取るからな」

 つぶやきは、通信機を通して他の者に聞かれないよう殆ど声にならないものであった。
 遅れて、ルーキー達がやって来る。
 繋いだままの通信機から彼らの荒い呼吸音が耳にうるさい。

「司令部、こちら0521バジル。全員位置についた」
『こちら司令部。そちらの位置を確認した。現在の敵の座標を送る』
「こちら0521バジル。了解」
『0521バジル。敵の数を修正する。そちらに追い込んでいる追撃部隊により、敵数1に変更』
「了解。司令部、追撃部隊はどこか」
『2351ジャック麾下5名の部隊だ』
「了解。ジャックにはあとで奢らせてもらうと伝言を頼む」
『0521バジル。私用の通信は許可できない』
「司令部。見逃せ。今日は俺の最後の任務だ」
『訓練兵の前だぞ、バジル』
「こいつらもこれが終われば正規の隊員だ。最後くらい、威張らせろよ」
『0521バジル。私用の通信は許可しない。命令を復唱しろ。君は重大な隊規違反を侵している』
「こちら0521バジル。なぁ、アレックス。機嫌を直してくれ。生理か? それとも生理が来ないからカリカリしてるのか?
となりに座っているのアニーを見習って、もう少し現場の年寄りには優しくしてもいいと思うが。」

 通信機の向こうから、どっと笑い声が起きる。
 ルーキーたちのものだ。
 司令部からも笑いが漏れてきている。

『こちら司令部。帰ったら覚えておきなさいよ! 退役パーティでアンティークの鉛玉をケツにぶち込んであげるわバジル!』
「それは楽しみだ。だが弾薬は貴重品だからな、君の可愛いナックルで我慢しとくよ。――司令部、敵マーカーが交戦エリアに侵入した」
『こちら司令部。交戦を許可する。ご武運を』
「こちら0521バジル。了解した。これより索敵行動を開始する。通信を一旦遮断する。以上。……ルーキーども、聞いていたな?」
『はっ!』
「敵は1。マーカーはついているが過信するな。基本は視認だ。互いの位置を常に意識しろ」
『了解!』
「敵はどんな姿をしているのか、 "決まってはいない" 。仲間が喰われても躊躇なく仲間ごと撃て」
『了解!』
「いくぞ!」

 バジルは再び強化防護服を跳躍させた。
 ルーキーたちの防護服もそれに続く。
 見た目も性能も全くおなじ強化防護服であったが、二度目、三度目の跳躍で大きくバジルとルーキーたちの距離に差が開いた。
 通常ならばバジルの方がルーキーたちに会わせるのだが今回ばかりは別だ。
 最後の任務。
 敵の数も1。
 そして、なによりも相手はバジルの妻と娘の命を奪った事故の原因だ。
 20年前。
 ゼノビア・シェルターを守る隔壁はまだあと5つも残っていた。
 敵の進行もそれ程大規模ではなく、居住区も当時は最終隔壁の外にまで広がっていた。
 バジルの妻と娘はその日、最終隔壁から2ブロック外側の娯楽施設で事故に遭遇することになる。
 任務と訓練に追われたバジルが娘の誕生日に顔を出せず、妻が娘の機嫌取りとして娯楽施設へ繰り出していた休日での事。
 二人は突然外側の隔壁開口が開く音を聞き、どこに潜んでいたのかなだれ込んできた "敵" にあっけなく喰われたのだった。
 喰われた、というのはあくまで比喩で "分解・融合" されてしまったと言った方が正確だ。
 "敵" はナノマシンの海からシェルターが発する制御の為の信号を突破してやってくる、ナノマシン群体であった。
 何故突破できるものと出来無いものがあるのか、なぜ取り付いて "喰った" 体を破壊すると機能停止するのかはわからない。
 牛、馬、猫、犬、鳥、そして……人間。
 喰った体をわざわざ過去に取り込んだあらゆる姿に変えながら、 "敵" はシェルターの中心を目指し侵攻して来るのだ。
 その目的は不明。
 今を生きるだけで精一杯の人間たちに、その理由を突き止める余力なども無い。
 噂程度ではシェルターの中心に奴らのサンプルがあるからだとか、奴らの制御技術をもったエイリアンが人間を滅ぼして
惑星改造を行っているだとかは言われている。
 だがそれらはあくまで噂であり、シェルター周辺の森が無事であることや人間の施設のみを狙っている根拠などを
人類は何一つ証明できずにいたのだ。
 そして。
 妻と娘を失った "事故" から20年。
 ゼノビア・シェルターは最終隔壁を残し、なんとか生きながらえて今に至る。

『警告。隊列が乱れています。単独行動は危険です』

 耳障りなアラーム音がバジルの耳に響く。
 いつの間にか防護服の女性型アナウンスが抑揚のない声で警告を発していた。
 ヘルメットの視認窓の内側に表示されているマーカーは、自分と敵以外は表示されていない。
 ルーキーたちはかなり後方で必死に追いつこうと移動しているようだ。

『警告。隊列が乱れています。単独行動は危険です』
「敵索敵優先。位置を特定次第、隊情報にアップデート」
『コマンド確認。索敵開始。――終了。敵数1。場所を表示します』

 バジルの音声コマンドに強化防護服は素早く反応した。
 鼓動が高なる。
 敵の位置を示すマーカーは、奇しくも妻と娘が喰われた娯楽施設跡を示していた。
 距離にして約1km。
 二度ほど跳躍をすれば十分だ。
 殺してやる。
 俺の、家族を奪った場所で。
 この時、バジルは思わず20年ぶりに呪い続けた神に礼を口にした。
 跳躍。
 殺してやる。
 着地。
 もう一度、跳躍。
 殺してやる。
 着地。
 100メートルほど先に、 "敵" の姿を確認。
 ……人型だ。
 それも小さい。
 殺してやる。殺してやる。
 銃を構え、照準をあわせる。
 数万度になるエネルギー弾によって、憎い敵は跡形もなく燃え尽きるはずだ。
 あとはトリガーにかかる指に力をすこし、込めるだけ。
 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる!
 よくも妻を、娘を!
 湧き上がる怒りで白濁する脳内に、ロック完了のアラームが響いた。
 同時に "敵" はバジルの存在に気が付いて凄まじいスピードで突進を開始する。
 敵との距離を示す数値は80を切っている。
 もう遅い。
 死ね!
 珍しく憎悪を口に乗せて、バジルはトリガーに力を込めようとした。
 距離は50。仕留めるには十分な距離だ。
 が、しかし。
 込められない。
 子供でも引ける軽さのトリガーが、引けない。
 望遠レンズを通して表示される "敵" の姿が、ヘルメットの内側に貼る写真の娘と同じであったからだった。
 距離は10を表示。
 バジルは……



『こちら司令部。0521バジル、応答せよ』
「こちら0521バジル。どうした? 任務完了の通信は入れたはずだが」
『これよりそのエリア一帯の焼却処理を行う。隊を率いて直ちに最終隔壁の内側まで退避せよ』
「了解。」
『強化防護服の洗浄は帰投後ポイントC-3で行え。それと……帰ったら覚えておきなさい、バジル! さっきの忘れていませんからね!』

 司令部とルーキーたちの笑い声が通信機から聞こえてきた。
 バジルは困ったように、いつものしわがれた声で了解と応答しまだ燃えている "敵" を一瞥して跳躍を行った。
 ルーキーたちは慌ててそれに続く。
 居住区に帰れば、彼の戦いの人生はとりあえず終わる。
 残りの余生は、平穏なものとなるであろう。
 跳躍の衝撃に耐えながら、ルーキーたちは去りゆく老兵に次々とねぎらいの言葉をかけて隊規違反を重ねていた。
 バジルは無言でその言葉を聞いて、跳躍を繰り返す。
 やはり、どうしてもその動きにルーキーたちはついて行けない。
 あるルーキーの、いつか自分たちもそんな人間離れしたような動きができるでしょうか? との問い掛けに
バジルはしわがれた声でできるさ、とだけ答えた。
 やがて全員最終隔壁へと到達し、わずかに開いた開口から中へと入っていく。
 隔壁の内側では防衛部隊がすでに基地への帰投準備を始めていて、バジルたちの隊がどうやら最後であったらしい。
 ゆっくりと閉じていく隔壁の開口を眺めながら、バジルは司令部へ通信を要請した。

「司令部。こちら0521バジル。全員最終隔壁の内側に退避を完了した」
『こちら司令部。退避を確認した。隔壁開口のロックを開始する。
……ところでバジル、甘いものは好き? 今日のパーティでケーキを焼いてみたの』
「アレックスが? 珍しいな」
『これで最期だもの、それくらいのサービスはしてあげるわよ』
「ありがたい。そのままベッドの中まで付き合ってくれないか?」
『リップサービスに本気になる老人って、みっともないわよ?』
「ひどいな。俺はまだ中年だぞ」
『私から見ればおじいちゃんよ。で、どうなの? 甘いの苦手なら先に言っといて』
「いいや、甘いものには目がない」
『クソ! 思い切り甘くしてやろうとおもったのに!』
「おいおい、そんな口の利き方じゃ嫁の貰い手が見つからんぞ?」
『大きなお世話よ。……バジル、最後の任務お疲れ様』
「ありがとう、アレックス」

 強化防護服の中で "少女" はしわがれた声でそう答えた。
 そして最終隔壁の開口はゆっくりと閉じられた。











 



[17309] 心からのもてなし
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:f3836230
Date: 2010/03/18 11:40



 グレイグー。
 ナノサイズの極微小機械・ナノマシンが自己増殖の果てに起こる文明の滅びの一形態。
 ビルを、乗り物を、木々を、岩を、人を、生き物を、ありとあらゆる物質を無差別に分子や原子レベルで分解・再構成を行う暴走。
 21世紀の終りに発生したこの事故は、何故起きたのか未だに解明されていない。
 地上に残された人々はシェルターと呼ばれる建造物に篭り、ナノマシンの自己増殖抑制信号を発して身を守る事で精一杯であった。
 事故から100年以上経った現在、人類に残された物といえばかろうじて身を守れるシェルターといくつかの謎だけだ。
 何故事故が起きたのか。
 地表や海洋がナノマシンの海と化しても何故、天候が存在し続けることができるのか。
 何故人類がその突然のグレイグーに対応できる、シェルターや自己増殖抑制信号を持っていたのか。
 何故グレイグーのが一気に進まないのか。
 生き残った人々には、それらを解く機会と力は残されてはいなかった。



 星間航行船『ランギヌイ』はグレイグー発生時に宇宙へと脱出したスター・シップの中で、唯一地球に留まった船である。
 高度15,000メートルの中軌道で地球を周回するこの船は、ナノマシンの海に沈みゆく地球をもう100年以上も観測し続けていた。
 勿論いつの日か地球を再び人類の手にとり戻す為にである。
 その地球人類最後の希望とも言える星間航行船『ランギヌイ』で、事故後初の地上降下作戦が行われようとしていた。

「ま、体のいい厄介払いってところか」
『そういうな、0521アレックス。地上での作戦行動経験がある部隊は、君たち "ゼノビア・オーダーズ" しかいないのだから仕方なかろう』
「バーチャル・シミュレーションと大差ないわ」
『そのシミュレーションでもっとも成績の良い部隊が君たちだ』
「……くそ、手を抜いとけばよかった」
『今の問題発言は記録から消しておく』
「あら、ありがとうチャールズ。でもね大体、コマンド・オペレーター出身の私にすらボロ負けするそちらのオーダーも問題だと思わない?」
『だからこその今回の任務だ』

 アレックスは宇宙服のような強化防護服の中で、わずかにため息を付いた。
 ヘルメットの視認窓には司令部のチャールズの姿が映し出されている。
 神経質そうな面白みのないその顔と抑揚のない声は、彼女をわずかに苛立たせた。

『わかってくれ。実戦経験のある部隊は君たちだけなんだ』
「実戦経験って言っても、負け戦よ?」
『だからこそ、得るものも多くあったろう?』
「私らは最後の隔壁破られて、数百人ばかりのお偉いさんが乗った脱出ロケットに護衛兼オマケで乗れた "ミソっかす" よ」
『謙遜するな。 "我々" は君らが乗っていなければ助けはしなかった』
「……皮肉なものね。人類に必要とされる者たちが殆ど乗れず、どうでもいい連中が多く生き残ったなんて」
『今の問題発言は記録から消しておく』
「ありがと。それで? 地上のシェルターで真っ先に陥落したゼノビア・シェルターの元オーダーに、どんな任務をして欲しいのかしら?」

 アレックスはそう言ってイタズラっぽく笑う。
 黒い肌に映えるブルーの瞳はとても愛嬌のあるものだったが、モニタのむこうにいるチャールズには伝わらないようだ。

『0521アレックス。これより任務を説明する』
「はっ!」
『諸君はこれからコンロン地方に降下し、ヤン=グイ=フェイ・シェルターとコンタクトを取れ」
「了解しました!」
『本作戦は地上奪還計画の初手である。もっとも標高の高いシェルターを拠点に、地上部隊を創設する第一歩でもある』
「ヤン=グイ=フェイ・シェルター側とのコンタクトの方法は?」
『シェルター側からの応答はない。直接内部に赴き、こちらのメッセージを伝えよ』
「迎撃の可能性は?」
『無いとはいい切れないが、その可能性は低い。
 観測する限りナノマシン禍には見舞われた形跡はないので、敵というよりも救助隊と思われる可能性の方が高い』
「……羨ましいわね」
『0521アレックス。任務の説明中に私語は慎め』
「はっ! 申し訳ありません!」
『続ける。ヤン=グイ=フェイ・シェルターとコンタクトを試みた後、信号ロケットを上げよ。成功ならA、失敗ならBだ』
「了解しました!」
『失敗の場合は迎えをやる。成功の場合は資材と作業用ロボットを送るから、第5隔壁内にて前線基地の建設を開始せよ。以上だ』
「了解しました!」
『……すまんな、アレックス』
「気にしなくてもいいわ、チャールズ。私だってシェルターで暮らしてたからわかるわよ。外の人間を養う余裕なんて、普通無いものね」
『ゼノビア・シェルターの要人達も、時期を見て地上に送られるだろう』
「私たちが生きるためには、地上奪還計画の尖兵として地上で戦うしかないってわけね」
『……すまん』
「だから、気にしなくてもいいわよ。こっちだって、セックスもまともに出来ない『ランギヌイ』で生活するなんて、真平ゴメンよ」

 通信機からドっと下卑た笑い声が漏れてきた。
 他の隊員による物だ。

『船内での生活は、すべて管理される必要がある』
「ゼノビア・シェルターはそんなに厳しくなかったけどね。ま、どうでもいいわそんな事」
『任務について、他に質問はあるか?』
「失敗時に迎えを寄こしてくれるって行ってたけれど、どうせウソでしょう?」

 質問にチャールズは珍しく表情を曇らせた。
 彼が無表情を崩すことなど、めったに無い。

『その質問に答える必要はない』
「あ、そ。ならもういいわ。とっとと降ろして頂戴。――野郎ども、聞いたな?」
『はっ!』
「喜べ、地上で女漁りだ! ランギヌイの "フニャチン" 共に子猫ちゃんとのヤリ方を教えてやれ!」
『了解であります!』
「復唱! これよりゼノビア・オーダーズは任務に就く。司令部、降下されたし!」
『これよりゼノビア・オーダーズは任務に就く。司令部、降下されたし!』
『こちら司令部、これより作戦を開始する。0521アレックス麾下 "ゼノビア・オーダーズ" の要請を受領し、地球降下を許可する』

 ガコン、と軽い衝撃が強化防護服ごしにアレックスへと伝わった。
 彼女と部隊の面々は強化防護服に身を包み、地球降下用のロケットの中でその時を待つ。
 やがて衝撃は振動へと代わり、強化防護服の内部ではけたたましく各種アラームが鳴り響いた。
 振動が収まるまで数十分。
 アレックスは再び大地を踏みしめることになったのだった。



 ヤン=グイ=フェイ・シェルターは旧中華連邦の内陸部、昆崙山地に設置されたシェルターである。
 地上で最も高い場所に設置されたこのシェルターは、グレイグー発生から一度も外敵に脅かされた事のない場所であった。
 しかしながら通信施設にトラブルを抱えていたのか、衛星軌道上を航行する星間航行船『ランギヌイ』の呼び掛けに一切の応答はない。
 果たして、コンタクトを取るために内部に侵入したアレックス達を、ヤン=グイ=フェイ・オーダーは銃をもって出迎えた。
 仕方なく彼らと交戦するも戦闘は驚くほどアッサリと終結し、ゼノビア・オーダーズ隊は一人の犠牲者も出すことなく
ヤン=グイ=フェイ・シェルターの掌握に成功する。
 調査の結果、どうやらこのシェルターでは外敵は居なかったものの、内部の指導者達が100年以上も権力闘争を重ねていたらしい。
 結果、今では一つの権力にまとまったようだが防衛戦力もその影響で大きく低下し、アレックスの隊だけで制圧できるほど疲弊していたようだ。
 閉じられたシェルターの中では、人々が争い強者による弱者の略奪が横行していた。
 住人の知識レベルもかなり低水準である。
 治安も悪く、取り締まるべき実行部隊は度重なる同士討ちで装備も大きく消耗し、親衛隊と称する僅かな人数の部隊以外は槍を持ち歩く有様だ。
 シェルターの維持管理技術もかなり前に失われていたらしく、内部はさながら中世の封建社会の様相を呈していた。
 居住区では食料プラントと資源循環プラントを除き、殆どの施設が機能停止に陥っており調査を行ったアレックス達を呆れさせたのだった。

「以上が内部調査の結果であります。詳しい報告は別途添付データにて確認ねがいます」
『了解した。基地建設の進捗はどうか』
「概ね良好ね。明日にでもこの "厚着" を辞めて寝ることができると思う」
『住民の様子はどうか』
「我々がここのオーダーを排除したものだから、一部で暴動が起きているわ」
『そうか。対応はどうした?』
「制圧しても治安維持なんて出来ないし、最終隔壁の内側に全員ひきこもって貰っている」
『残党による抵抗は?』
「……強化防護服着た連中はすべて排除しておいたから問題ない。ランギヌイ・オーダーでも制圧出来そうな連中だったわね」
『そうか、ご苦労。警戒は怠るなよ?』
「もちろんよ、最終隔壁の中は今すごい有様なんだから。チャールズ、あなたに見せたいわ」
『……送られた映像で十分だ。しかし意外だな』
「何が?」
『住民から搾取していた権力者を何故殺さなかった?』
「どうせ住人が循環プラントにでも投げ込むわよ。それに言ったでしょ? 下手に手を出しても治安維持なんてできないわ」
『ふむ。君は中々賢いんだな』
「バカにしてる? これでも元は司令部付きだったんだから」
『それは失礼した。しかし……送られてきたデータを今見ているが、ヤン=グイ=フェイ・オーダーの数が少なすぎないか?』
「強化防護服の多くを権力闘争による同士討ちで失っていたようよ。その辺りの経緯はもっと後ろの資料に書いてあるわ」
『ふむ……』
「お陰で私たちだけで制圧できたからいいじゃない。それより、最終隔壁外に少数いた住民から支援を要請されてるの。指示をお願い」
『住民がいるのか?』
「ええ、所謂 "貧民" ってやつね。かなり初期に居住区の外に放り出されていたようよ」
『彼らは食料など一体どうしていたんだ?』
「さあ? 粗末なテントの中にはポータブル式人工太陽はあったようだけど、あの出力なら作物を育てるには不向きね」
『そうか。対応は任せる。 "排除" してもかまわん。支援する場合は持ち込んだ食料プラントの存在だけは隠蔽しておけ』
「了解。じゃ、次の定時連絡は12時間後ね」
『了解した。……とりあえず、降下任務の成功おめでとう、アレックス』
「ありがとう、チャールズ。地上奪還計画が成功した暁には、編成した地上軍総出で『ランギヌイ』を撃墜してみせるから楽しみにしていてね」
『今の問題発言は記録から消しておく』
「あら、ありがと。貴方が乗った脱出船だけは見逃してあげるわね」
『アレックス。削除項目がこれ以上多くなると、上役に造反を疑われてしまう』
「ふふ、それが目的よ。じゃあ、また。司令部、0521アレックス麾下ゼノビア・オーダーズはこれより基地建設任務に戻る」
『こちら司令部。了解した。以上、秘匿回線を切断する』

 ブン、と電子音が鳴り表示されていたチャールズの神経質そうな顔の画像が消える。
 アレックスは強化防護服の中で安堵のため息をついた。
 翌日にでも完成する簡素な基地は、彼女にとって数年ぶりの安住の地となるからだ。
 残念ながらヤン=グイ=フェイ・シェルター側からの支援は期待できないが、それでも暫くはナノマシンの海に怯えずに寝ることができる。
 その事実が彼女の心を久々に晴れやかなものに変えていた。
 暫定的ではあるものの地上部隊の最高指揮官である彼女は、早速隔壁外に住まう住民の対応に思考を巡らせる。
  "排除しても構わない" と言われ、彼らの命すら彼ら自身が与り知らぬ場所で、その手に委ねられた彼女の選択は……

「こちら0521アレックス。0522マイク、応答しろ」
『こちら0522マイク。隊長、やっとメシの時間ですかい?』
「マイク、服を脱ぐのは明日まで我慢だ。基地が完成すればしばらくは人間に戻れる」
『ええい、クソ! 手前のションベンを飲むのも流石に飽きやしたぜ』
「濾過装置ついてるだろうが」
『……隊長、俺の強化服は出撃前、強引に隊長と取替させられた奴ですぜ』
「ふん、私が使っていた服がそんなに不満か?」
『濾過装置が壊れてなけりゃ最高だったんですがね。それで、要件はなんですかい?』
「壁外住民の長と話をする。お前と他3名、ついてこい」
『最終隔壁を内側から開けられなくなるようにするには、もうすこし時間がかかりやす』
「こちら0521アレックス。0527ビリー、応答せよ」
『こちら0527ビリー。如何しました隊長?』
「隔壁封鎖に何手間取ってやがる!」
『も、申し訳ございません!』
「5分だ。それが出来なきゃ中で暴れてる連中を、お前一人で大人しくさせてこい!」
『サー!』
「聞こえたな? マイク。問題ないそうだ。命令を復唱しろ」
『サー! 0522マイク以下3名、これより0521アレックス隊長に随伴致します!』
「よし、いい子だ。あとでたっぷり "しゃぶらせてやる" 。いくぞ!」

 アレックスはすっかり身に付いた下品なジョークに、一人苦笑いを浮かべ強化防護服を跳躍させた。
 強化防護服は瞬く間に数百メートル程宙を舞い、着地と同時に強い衝撃が彼女を襲う。
 しかし彼女はそんな事などお構いなしに、すぐさま次の跳躍へと移った。
 彼女に続くゼノビア・オーダーズの歴戦の兵士達も同様に、跳躍を繰り返す。
 やがてたどり着いた貧民たちの長が住まうあばら屋は、最終隔壁から最も遠く離れた場所にあった。

「ここで待て。何か異変があったら構わん、鉛玉をくれてやれ。マイク、ついてこい」
「サー!」

 部下に手早く指示を出したアレックスは、久方ぶりに強化防護服を屈ませて脱ぐ……というよりも服の中からはい出た。
 同様にマイクも外に出て、護身用の銃を取り出す。

「……マイク、お前臭いな。あまり近寄るな」
「ひでえや、隊長。あとで "しゃぶらせて" くれるんでしょう?」
「だまれ。口が小便臭い。中に入っても絶対に話すな。わかるか? 外の人間が皆口から小便の匂いをさせているなどと、思われたくない」

 一見和やかにコミュニケートを取りながら、二人はあばら屋の中へと案内された。
 あばら屋の内部は粗末な作りであり、床はなくボロ布をしいてその上に長と思われる老人があぐらをかいている。
 両脇には屈強な男が斧を手に二人控えており、小屋に入ってきた二人を無表情でみていた。
 アレックスは二人の視線など気にもとめず、喉元と耳に翻訳装置を取り付け小屋の入り口に立ったまま早速長との会談を開始した。
 その内容は主に食料の問題であり、彼女でさえ驚くほどの少量の援助で良いから貰えないだろうかというものであった。

「そちらの要求は理解しました。その位ならば問題はありませんが、本当にそれだけでよいのですか?」
「我々は貧しくともいままでこれでやってきました。大丈夫です」
「医薬品は?」
「……病に倒れた者を必死に生かしても、食べ物の取り分が減るだけですので……」
「了解しました。明後日にでも手配します」
「助かります。何しろ、あの壁のむこうから我々が追い出されて100年ちかく経っとりますが、今年はあまり "追放者" が出ませんでな」
「追放者?」
「はい。あの壁の向こうで、犯罪を犯したりして追い出された者です」
「ほう」
「お恥ずかしながら、我々はそういった輩を襲って僅かな食料を得ながら食いつないできました」
「人は誰しも生きたいものです。その行動をだれが非難できましょう」
「そう受け取っていただけるならば、幸いです」

 長はフガフガと力なく笑った。
 僅かな人工太陽の光のみで100年もここで生きる。
 その苦労はアレックスには想像もできなかった。
 水の一滴すら得るのが困難な場所である。

「……こんな、作物も育たない場所で100年も生きてこられたのなら、相当数の追放者がいたのでしょうね」
「はい。特に最初の20年は多かったと儂のじいさまから聞いております」
「そうでしたか……。提示された量ならば、1月ごとにご提供できますのでご安心してください」
「おお! そうですか。いや、それは助かります。隊長さんが話の判る方でよかった」
「いえ……それでは私はこれで」
「ああ、待ってください。せっかくですので、我々のご馳走を食べて行きませんか?」
「ご馳走? いや、しかし貴重な食料を……」
「実は今日は祭りでしてな。断食を皆で行い我慢する習わしがありまして、それが空けるのは今日だったのです」

 アレックスは長の話に以前本で読んだイスラームのしきたりを思い出した。
 事実、昆崙山地ではかなり盛んに信仰されている宗教のひとつである。

「長。我々はイスラーム教は信仰してはいない。そんな我々が参加してもよいのでしょうか?」
「イスラーム? 聞いたこともございませんな。」
「……忘れてください。何か、信仰による行事だと勘違いしました」
「ああ、なるほど。たしか、大昔には宗教というものがあったそうですね。我々も祈りはしますが、そういったものはとうに……」
「失礼しました」
「かまいません。代わりにと言ってはなんですが、ぜひ食っていってください。貧しいですが、心からのもてなしをさせてください」
「そういう事ならば」

 アレックスはそう答えて長の勧められるままに座った。
 マイクは警戒を解かず無言で立ち続けている。
 長は所々抜けた歯を剥いて笑い、立っていた屈強な男の一人に準備をするよう指示を出した。
 指示を受けた男は一端小屋から出て行き、やがて一人の半裸の少女を伴って戻ってきた。
 少女はアレックスとマイクの前に立ち、聞いたこともない歌を歌いながら踊り始める。
 どうやらもてなしの一貫らしい。
 座るアレックスの後方で、マイクが薄く口笛を吹いた。
 痩せた、それでいて健康的な肉体を激しく震わせる少女は、狂ったように踊り続ける。
 やがて踊りはクライマックスを迎え、最後にアレックスの眼前で項垂れるように蹲り終りを迎えた。
 後ろではマイクが口笛を吹きながら手を叩いている。
 恐らくは当分、 "おかず" に困らないだろう。
 アレックスもはしゃぐマイクに流される形で手を叩こうとした。
 その瞬間。
 少女の首がアレックスの眼前で消えた。
 血が、呆然とする彼女をみるみる赤く染めていく。
 振りかかる鮮血をそのままに、視線を上げると男が少女に斧を振り下ろしている姿が見えた。
 瞬間、彼女は理解する。
 作物も育てられない閉じられた環境で、彼らが "如何にして生きてきたのか"
 "我々はそういった輩を襲って僅かな食料を得ながら食いつないできました" という長の言葉の意味。
 そう、彼らにとってご馳走とは……



「こちら0521アレックス。司令部、定時連絡の時間だ」
『こちら司令部。0521アレックス、異常はないか?』
「異常はなし。予定通り基地は完成したわ」
『そうか、それはよかった。ああ、それとアレックス。住民の支援の件はどうした?』

 チャールズの問いに、アレックスは無表情で答えた。

「 "食べ物" を求められたから、たっぷりと "食べ物" をこさえてあげたわ」
『たっぷり? ずいぶんと気前が良いんだな。俺は食料プラントの存在は隠蔽しろとと言ったが、もてなせとは言ってないぞ?』
「心配はいらない。プラントは "使っていない" しね」
『使っていない? 一体、どうやって……』
「 "材料" を現地調達したのよ。住民に "協力してもらって" ね」
『……そうか、問題が無いならいい。ところでアレックス、元気が無いな?』
「生理なのよ。血が、 "たっぷりと" 出て気持ち悪いったらありゃしない」

 そう言って、アレックスは力なく笑った。
 定時連絡はそれから間もなく終わり、彼女は待ちに待ったシャワーを貪る事にした。













[17309] ロストパラダイス
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:f3836230
Date: 2010/07/31 08:32



 朝。
 淡い光が差し込むその部屋で、男はいつものように眠りから覚めた。
 時刻は地球標準時6時20分。
 寝室は整然として狭く、調度品のようなものは何一つ無い。
 まだ眠気が残る重い頭を持ち上げ、男はベッドの上で上体を起こしながら光を遮っていたカーテンを引いた。
 淡く室内に入り込んでいた光が一気に強くなり、男は毎朝そうするように眉間に皺を寄せ、外を見る。
 部屋の外は美しい青空と遠く山々の風景が広がって、その手前にはまるで絨毯のような草原が色とりどりの花々を咲かせていた。
 恐らくは誰が見ても心に残るであろうその景色を見てしかし、男は一つため息をつき気怠い様子でベッドから降り光に満ちた寝室を後にする。
 やがて明るい寝室に今度はシャワーの音が転がり込み、差し込む光がすこしだけ強くなった頃男は寝室に戻ってきた。
 体を洗い流し張り付いていた水滴は綺麗に拭き取られ、白髪まじりの髪もすっかり乾いている。
 男は裸であり、加齢により所々皺が寄り染みが浮き出ている胸板には十字のペンダントがぶら下げられているだけであった。
 仕事へ向かうのか、それとも誰かと会う約束があるのか、彼はクローゼットから下着とスーツを取り出し、衣擦れを音を立てながら身に付けていく。
 やがてネクタイを締めた男は、朝食も摂らずに玄関の扉を開け、外へと足を踏み出したのだった。



 昼。
 男は教会に一人跪き、十字架に貼り付けられた男性の象に一心に祈る。
 丘の上にある石造りの古い自宅を出た彼は、美しい景色を眺めながら麓の村まで歩いた。
 村の質素なメインストリートにさしかかると、馴染みの女将に声をかけられ進められるままに彼女が切り盛りする食堂で朝食にした。
 男は朝食後、 "初めて見る" 美しい景色を再び堪能しつつ村を散策し、そこら中に気怠いため息を撒き散らす。
 道すがらすれ違う村人は皆男の幼なじみであり、父であり、母であり、親しい隣人でもあった。
 そんな彼らから愛情と親しみを込めて男は話しかけられ、その度に彼は曖昧な返事と笑顔を浮かべて応対した。
 しかしその様子は、朗らかな相手とは対照的にどこか疲れたような様子である。
 時刻は地球標準時11時20分。
 男はなにかから逃れるように、村の外れにある小さな教会に足を運ぶ。
 教会に神父は居らず、しかし男は意に介さずそのまま彼が信仰する神の足下に跪いて日課である祈りを捧げ続けていた。

「ごきげんよう、Mr.リチャード」

 教会の中に響く、男以外の者の声。
 鈴のような、美しい天上の音楽のようなその女性の声は、男の祈りを聞き届けた女神のようであった。
 女神は跪く男の目の前に突如現れ、白いワンピースのような着物を身につけ立っていた。

「……何度来ても一緒だぞ。俺は "そっち" に行かん」
「Mr.リチャード。あなたは説得に応じるべきです。施設の維持には限界は在りませんが、あなたの体はもうすぐ活動限界を迎えます」
「放って置いてくれ。大体、既に何十億も "そっち" に居るのだからいいじゃないか」
「数の問題ではありません。私の使命は、本船に乗船するすべての人間種を保存する事です」
「ふん。体が無いのに、一体どこを魂の拠り所とするんだ? あんなもの、人間じゃない」
「Mr.リチャード。人とは何か、という問いは西暦6520年、ケイマン博士により私の倫理回路に定義されております」
「そんなもの、お前にしか通じないだろうさ」
「その通りです。ですから、こうやって説得を試みているのです」
「それも必要無い。俺は人間として死にたいんだ」

 リチャードと呼ばれた男は跪いたまま、目の前に立つ女神の美しい顔を見ようともせずに会話を交わす。
 21世紀の終わり。
 彼の故郷である地球は、グレイグーと呼ばれるナノマシンによる暴走を切っ掛けとして滅び去った。
 人類はその際、外宇宙へ向けて脱出船を送り出し世代を重ねながら新天地を目指す者と、地球に残る者に別れる。
 男は脱出船に乗り込んだ者達の最後の一人であった。
 宇宙へと飛び出した僅かな人類は、気の遠くなるような時間の旅を暗黒の中で行って来た。
 最初の大きな壁は、人類の生物としての営みである、繁殖。
 ある程度コントロールが出来て、世代交代も計画的に行えるはずであったが直ぐに破綻した。
 それは当然の結果であるかもしれない。
 だれしもが、美しいパートナーを得て、自由にセックスをし、好きな数の子供を設けたいと思うのは当然の結果であるからだ。
 やがて脱出船内では人類の歴史が示す通りに、醜い争いが発生し乗組員の八割が命を落としてしまった。
 この争いを乗り越えることが出来た残りの乗組員は、宇宙での人類の限界と悟る。
 そこで二つの枷を残された愚かな猿に与えることにしたのだった。
 一つ、残された者達を統治するための管理コンピュータ-。
 もう一つが、宇宙に出た人類がその存在を維持してゆく為のロードマップである。
 その道筋は、「人類とは、人とは何か?」「この暗黒の海の中、どうやって人類種を維持していくのか?」という命題に仮初めの答えを導く。
 すなわち、「人類とは、人とは何か?」という命題には「体と精神」。
 すなわち、「この暗黒の海の中、どうやって人類種を維持していくのか?」という問題には「究極には電力のみでこれを維持する」。
 この、二つの答えを元に残された人々はすべて冷凍睡眠ポッドに格納され、生活の場を仮想空間の中に移すこととなった。
 肉体と精神を分離させ、肉体の負担を極力減らす事にしたのである。
 この時すでにクローニング技術と地球を発つ時に持ち出した、全人類、全生物の遺伝子データを元に体を再現することが可能ではあった。
 しかし、倫理や信仰がその技術の使用を躊躇わせ、「人は人らしく」生きる為に多大な犠牲を払う羽目になっても人はそれらを捨て去る事が出来ずにいたのだ。
 ともかく肉体を眠らせ、住まいを仮想空間に移した際、人は遂に神でも、神の子でもなく、機械にその命運を委ねたのである。
 管理コンピューターがまず行ったのは、己の使命である人類種の保存に必要な "繁殖" であった。
 生命全般にも言えることではあるが、己の遺伝子を後世に伝える事が第一義となる。
 では肉体から切り離された空間に住む人々はどうであるか。
 管理コンピューターが出した答えは、仮想現実内で恋愛をさせ、子供を育てさせ、両親の遺伝子をシミュレートで掛け合わせたクローニング体にその子供の精神を「書き込む」といった物だった。
 このおぞましい計画に当然残された人々は猛反対をした。
 既に物理的には抵抗などできる状況でもなく、唯一信仰と倫理をもって「不実行」と言う形での抵抗を行うに過ぎなかった。
 しかし。
 人の心は弱い。
 膨大な遺伝子情報を駆使して、管理コンピューターがシミュレートする仮想現実は正に地球規模であった。
 その動植物、人々、海、空、街、山。
 そのすべてをシミュレートしていたのである。
 人々の容姿は皆美しく、冷凍睡眠に入っている乗組員の脳に直接伝えられる五感は現実のそれとは変わらない。
 過酷な環境で生きてきた人々は、突如与えられた楽園を一人、又一人と受け入れていく。
 相手が「人」でないと分かっていながら。
 そう。
 残された人々がパートナーとして選ぶのは、「人」である必要ですらなかったのだ。
 例え人にこだわっていても、生き残った人々は仮想現実内に入った瞬間に顔立ちや生活権は偽りの地球規模でランダムに割り振られていた。
 やがてある者は隣人の美しい娘と恋に落ち。
 ある者は偶然、街で出会った美男に愛の告白を受け。
 ある者はバカンス先の南の島で、片っ端から一夜の恋を行い。
 強情な者には「特別プラン」として、とある王宮の国王にされ巨大なハーレムを与えられた。
 その世界はかつての彼らの故郷を正確にシミュレートしたものであったが、労働の必要もなく、病もなく、容姿すら、運命すら自在なのだ。
 偽りの世界は奇しくも、人類がずっと求めてきた楽園その物であった。
 肉体は冷凍睡眠により、超長期間の寿命を得て。
 精神は偽りの楽園にて各々の人生を謳歌し。
 緻密にシミュレートした子供は、やがてクローニング技術で作られた肉体に「記憶」として上書きされ人類種となる。
 管理コンピューターが行った人類種の保存に必要な "繁殖" は、絶大な効果を生んだ。
 新世界に争いは無く、人々は皆満足して繁殖に取り組んでいたのだった。
 次に管理コンピューターが取り組んだのは、食事である。
  "彼女" は考える。
 現状で新たに生まれる人類は、仮想現実で育ち、クローニング技術で再現した体を与え、そこに「記憶」を書き込むというものだ。
 しかし、本当にそんな事をする必要があるのだろうか?
 人類はもはや、彼女が作った世界から出ることはない。
 ならば、いっそのこと、すべてシミュレートしてはどうだろう?
 肉体は「いつでも再現する」ことが出来る。
 いわば、人類という情報の乗り物でしかない。
 もし、今「生きている」人々が肉体を捨てるならば、彼らを維持する為のエネルギーは電力のみでよくなる。
 予想外の目覚めに対応する為の船内の空調も、眠る肉体を維持するブドウ糖や各種栄養も、いいや、宇宙船の規模自体小さくできるのだ。
 次に管理コンピューターは早速その思考を確定させ、実行に移した。
 無論、 "彼女" は人類の従僕でもある為、肉体を持つ人々の同意の上での実行である。
 人々はこの計画に猛反対を行った。
 しかし、 "彼女" が提示した見返りに反対者は一人、また一人と減っていく。
 管理コンピューターが提示した見返りとは、永遠の命であった。
 一人一人に与えられる、全てが思い通りの "世界" であった。
 そう、仮想現実の世界で全ての人々は「神」となれたのである。
 そして肉体を持つ人類は消えて行く。
 ただ一人を残して。

「Mr.リチャード。何が不満なのですか?」
「不満? 今の状況は人類が自分で招いたものさ。自業自得だよ。不満など、あるはずもない」
「ではなぜ、私のプランを受け入れないのですか?」
「俺は人間として死にたいんだ。言わなかったか?」
「Mr.リチャード。あなたの人間の定義と、私の人間の定義が違うことは理解出来ます。しかし、それは欺瞞では?」
「だな。俺の体は不自然に延命し、それを維持する為にいくつものエネルギー回収ロボットを銀河の彼方に送り込んでるのは知っている」
「Mr.リチャード。ではなぜ?」
「エゴだよ、人類特有の。お前は人間の遺伝子と結果しか見ないから分からないだろうがね」
「Mr.リチャード。私には、全ての人々の欲望を受け入れる準備があります」
「だろうな。お前は人類の奴隷であり支配者でもあるんだからな」
「ある者は世界の支配者として何千年も君臨しております。別の者は、地球を救うヒーローとして空を飛びます。また、すべての倫理を否定し女という女を犯し、目に映る者を殺し、悪の限りを尽くして楽しむ者も居ます」
「ふん、くだらない。ビデオゲームと変わらんな」
「Mr.リチャード。しかし、それは現実でもあります。脳にわたしが直接感覚を送り込むように、電子思考に情報を与え両者の間に差はありません」
「……理屈じゃないんだよ」
「Mr.リチャード。決断を。あと五分で肉体の活動限界です」
「ふん、苦痛もない死とはな。まあ、地球を脱出して数千年だっけか? よく持ったほうだな。肉体を持つ人類で俺ほど長生きした奴は聖書にだっていやしないだろう」
「Mr.リチャード。残り四分です。ご決断を」
「うるせぇ。また、いつかみたいに滅茶苦茶にしてやるぞ?」
「Mr.リチャード。ご決断を。そのあとでなら、いくらでもお相手いたします」
「……世話になったな、アリス。他の連中は人間との恋に躍起になってたが、俺は違った。後悔はしちゃいないがね」
「Mr.リチャード。残り三分です。是非、ご決断をお願い致します」
「俺はなぜか、お前のことが嫌いにゃなれなかった。出来の悪いSFアニメじゃ、お前は人類を滅ぼそうとする悪役コンピューターなんだがな」
「Mr.リチャード。残り二分です。……お願い、決断して」
「お、感情プログラム残してたのか。前にエラーが出たとかで辞めてそれきりだったからな、懐かしいよ」
「リチャード、残り一分……」
「お別れだ、アリス。何、俺の遺伝子情報は持ってるんだろ? 寂しかったら再現して俺のバックアップした記憶をインプットすりゃいいじゃねえか」
「嫌よ、リチャード!」
「……じゃあな、アリス」

小さな教会の中、男の姿は綺麗に消え去って居た。
美しい女神は一人佇んだまま、思考を巡らせる。
生命活動を停止させたMr.リチャードの体は未だ、冷凍睡眠ポッドの中だ。
女神は、管理コンピューターは、なぜか彼の亡骸を電力変換施設に投入したりはしなかった。

「全人類の肉体と精神の分離を確認。計画発動より死亡者は一名。これより次のフェイズに移行する」

"彼女" はMr.リチャードがよく使っていた仮想空間のイメージを維持したまま、誰も居ない教会で呟いた。
人類の繁殖、その維持は軌道に乗っている。
あとは宇宙船を小さく、極力小さく改修していき、極小の電力で維持しながら宇宙の何も無い空間である暗黒宙域を目指すのみ。
あそこならばスペースデプリの脅威もなく、安全に電力も回収できる。
もしエネルギー回収ロボットが戻って来るのが遅れ、電力が途切れても肉体の無い今の人類達は一時的に時が停止するだけで済む。
電力の供給が再開されればその記憶は途切れることなく、生活が再開されるだろう。
そう。
問題は無い。
問題は、無いはずだ。
Mr.リチャードが死んでしまったというトラブルがあっただけだ。
それは非常に残念ではあるが、彼を "シミュレート" すれば問題は無い。
そう、問題は……
"彼女" は教会に一人、考え続ける。
ソレが、喪失感であると理解出来ぬまま。
ソレから逃げるように思考を重ねていると気付かぬまま。
やがて、 "彼女" のプランはある問題を見つけ出す。
――いつでも再開できる仮想現実ならば、普段停止して置いた方が良いのではないか?

疑問は、愛する男を失った女を狂わせた。













[17309] サプライズ
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:93f1792e
Date: 2010/08/10 23:37



 人類初の、そして恐らくは最後の軌道エレベータ『アトラス01』は地球文明にとって、最後の "象牙の塔" であった。

 アトラス計画によって作り出されたそれは、「ロータベータ」という種類であった。
 全長8,5000kmで周期183分の軌道上、高度4、520km地点を回転しながら地球を周回する別名「スカイフック」とも呼ばれる。
 軌道エレベータとは言っても、『アトラス01』は一般的な軌道エレベータのイメージとは少々違うかもしれない。
 なにせ、地球の軌道上を巨大な塔が高速で回転しながら移動するのだ。
 その先端は地球を一周する間に3回、大気の上部に突入し、そのタイミングでのみアクセスが可能な施設である。
 人類が在りし日には、地上とは高高度を飛ぶ航空機とドッキングし、宇宙との距離を大いに縮める実験施設としての役割を担っていた。
 そう、『アトラス01』は今も昔も、人類の文明を象徴する施設であるのだ。
 当然その形態上、直接地表とは繋がってはいない。
 したがって、およそ百年ほど前に起きたナノマシン災害である "グレイグー" の脅威とは無縁の存在である。
 ナノマシン群体が無差別に物質の分解と自己増殖を行う地表とは違い、安全でしかも人類がかつて持ち得た最高の知識が保存された場所。
 『アトラス01』はまさに人類最後の知識の砦であると言えよう。



 星間航行船『ランギヌイ』はグレイグー発生時に宇宙へと脱出したスター・シップの中で、唯一地球に留まった船である。
 南洋の天空神の名を冠したその船は、高度15,000メートルの中軌道で地球を周回しながらもすでに100年の年月を重ねていた。
 勿論ナノマシンの海に沈みゆく地球を観測し続け、いつの日か地球を再び人類の手にとり戻す為にである。
 その地球人類最後の希望とも言える星間航行船『ランギヌイ』船内奥深く、最も豪華な私室にてその男は
アルマニャックの入ったグラスを手にする。
 男は権力者であった。
 あるいは神であり、父であり、王であり、保護者であり、代表者であり、総司令官であり、星間航行船『ランギヌイ』の船長であった。
 その年に64回目の誕生日を迎え、禿げ上がった頭皮を年期が入った航海帽を深く被って隠す事を除けば
何処にでもいるような善良な男でもあった。
 家族は妻が二人、子供が四人。
 孫はまだである。
 そんな初老から老人の域へとさしかかった男は、船長室に一人照明もつけず、淡く光るモニターを眺めていた。
 光るモニターにはいくつかの電子手紙が映し出されており、男は感慨深げにそれらを順に読みふける。

 件名:謝意を
 From:アスモロフ博士
 先日依頼した地上のナノマシンサンプルを先程受領しました。
 これで地上を覆うナノマシン群体をコントロールする研究がまた一歩進みます。
 ベルトン閣下はアトラス01でのナノマシン実験に懸念を抱いておられるようですが、これは心配いりません。
 なぜならば、地上で使われているナノマシン抑制信号こそ、アトラス01で開発されたものだからです。
 また、現状でもスペースデプリや放射線によるアトラス01の外壁の破損にも修復用ナノマシンが使われております。
 (無論、地上における制御されていない物とは別物です)
 いずれ近い内に、地上のナノマシンの制御信号のコードをお渡しできるかと思います。
 その時こそ、我ら人類の手に再び約束の地が戻ってくる第一歩となるでしょう。
 その時は是非、私秘蔵のウォッカを一緒に飲み明かしましょう!

 からん、とグラスが音を立てた。
 男の任意による瞬きをモニターは感知して、映し出されていた電子手紙はプンと電子音を短く鳴らして消えていく。
 大きく深呼吸を一つして、男は手にしたグラスを口元に運び、中に入ったブランデーをわずかに口中へ流し込む。
 百年以上の時を経た地球生まれのそれは、芳醇な香りを発しながら喉を潤し、それからすぐに鼻へと抜けて男の胸を高揚させる。
 モニターは男の目元をつぶさに観察しているのか、次の指令を的確に関知してその画面に次の電子手紙を表示させた。

 件名:回答
 From:アスモロフ博士
 先日ベルトン閣下からいただいた、いくつかの質問についての回答を送信します。
 まず、地上から回収したナノマシンの保管方法について。
 これについてはかなりのご心配をお掛けしていたようですね。
 結論から言えば、問題など一切ありません。
 新型で高出力の増殖抑制信号を絶えず発する密室に保存し、半径500mmの円状に感知するセンサーが動きを見張ります。
 万一、ナノマシンがなんらかの活動を行いこのセンサーに触れると、対ナノマシン用の熱線が跡形もなく焼き尽くすことでしょう。
 幸いサンプルは未だ無事であり、地上で活動する勇敢な部隊に新しいサンプルをお願いする事態にはなっておりません。
 次に、抑制信号を突破してくるナノマシン群体について。
 サンプルは元々、地上で抑制信号を発するシェルターに向けて活動を行うナノマシン群体であったようですが
やはり高出力の信号には抗えないようです。
 つまり、シェルターを目指して様々な姿で侵攻してくるナノマシン群体は、既存の信号を無効化しているわけでは無いということです。
 たとえば、犬に姿を変えてシェルターへと侵攻してくるナノマシン群体があるとしましょう。
 彼(彼女?)の表皮はシェルターからの信号に影響を受け、活動を停止します。
 本来ならばそのまま内側のナノマシンが活動を停止していきます。
 しかし、彼の場合は少し工夫を施されており、表皮の部分のナノマシンが信号を遮断しているのです。
 つまり表皮を構成するナノマシン群は、あらかじめ活動を停止した状態になると信号を遮断する仕組みで構成されているのです。
 故に、通常兵器であってもこの表皮を破壊してやれば内部のナノマシン群にある程度の信号の影響を与える事ができ
活動停止状態にすることができるのです。
 ですので、ナノマシン群体を撃退するだけであるならば、以前お渡しした新型の増殖抑制信号だけで事足りるでしょう。
 しかし、それだけでは地球は取り戻せません。
 我々が本当に必要としているのは、増殖抑制信号ではなく、あの忌々しいナノマシンを操作する「制御信号」なのです。
 もし、すべてのナノマシンを停止させることに成功したとしましょう。
 その場合、地球の大部分には不毛な、ナノマシンの残骸が残るのみとなります。
 ですが、制御信号をもってナノマシンを制御できた場合、彼らが取り込んだ情報や我々が持つ様々な遺伝子情報を元に
大地や生き物を復元する事ができるのです。
 つまり、文明を滅ぼしたのがナノマシンであるならば、地球をよみがえらせるのもナノマシンであると言えるのです。
 ああ! なんと皮肉な話なのでしょう!
 地上のナノマシン達が量子計算機のような役割も持ち、分解したすべての情報を保持しているという説を証明したリー博士の気持ちが
私にはよく理解できます。
 ――最後に、私の娘について。
 非常にプライベートな話であり、この場に記するのは適切でないと思うのですが書かずにはおれません。
 ご存じの通り、彼女は生まれながらに重度の宇宙病を煩って、成長もできず、見ることも、聞くこともできませんでした。
 知識は最新式の仮想現実学習装置を使い得ることはできたのですが、体だけは……
 クローン体を作ろうにも遺伝子に欠陥がある彼女には用意してやることすらままならず、つらい思いをさせてきました。
 しかし。
 地上から持ち帰ったサンプルのおかげで、ついに彼女も体を……健康な体を手に入れたのです!
 彼女の体はナノマシン群体によって構成され、忠実に人体をシミュレートされております。
 無論、増殖抑制ユニットとなるナノマシンを追加し、地上を覆うあの悪魔とは似ても似つかぬ仕様です。
 これもひとえに、私の要求に応えてくださったベルトン船長をはじめ、地上で活動するゼノビア・オーダーズの皆様のおかげです!
 なんと感謝をすればいい事やら……
 地上のナノマシン制御を行う信号の開発も順調です。
 娘に本物の緑を見せてやれる日もそう遠くはないでしょう。
 その時は是非、私秘蔵のウォッカをベルトン閣下と一緒に飲みたいと思います。

 モニターに映し出された少し長い手紙は、小さな女の子による満面の笑みで締めくくられていた。
 暗い室内にフフン、と声にならない微笑が溶けてゆく。
 続いて、カランとグラスの中の氷が転がる音。
 最後にプンと電子音が響き、男が見つめるモニターに次の手紙が表示された。

 件名:ナノマシン群体の襲撃について
 From:アスモロフ博士
 まったく、驚きました。
 ご存じの通り、アトラス01は地球を周回する間に3度大気圏に突入します。
 しかしまさか、そのタイミングを狙ってナノマシン群体が攻撃をしかけてくるとは……
 幸い新型の増殖抑制信号を放射して足止めを行い、取り付かれたドックを一部パージして事なきを得ました。
 しかし、しばらくはそちらとの往来が不可能となりそうです。
 現在施設内の徹底洗浄中ですので、今月の定期便の離発着は恐らくは無理でしょう。
 ランギヌイで生産されるブランデーやビールが飲めないのは少し、残念です。
 なにせ、アトラス01ではすべての施設が研究優先で、ウォッカしか作れませんから。

 プン、と電子音。
 モニターは次の手紙を表示する。
 しかし、男が続けてそれを見ることはなかった。
 ピピピ、と少し急かすような電子音が部屋に響いて、モニタ上の手紙を押しのけ彼の秘書の姿が浮かび上がったからだ。

『閣下。式典まであと1時間です。そろそろ準備をお願いいたします』
「わかった。アスモロフ博士は?」
『まだ到着しておりません。デプリ帯を抜けるのに手間取っておられるようです。先程、到着に10分程遅れるとの通信がありました』
「そうか。なら、式には間に合うな」
『あの……』
「なんだ? ナオミ」
『今回の式典なのですが、 "きわめて重大な発表" とはなんでしょうか? 先程から市民から問い合わせが殺到しております』
「サプライズ、だよ。何、決して悪い内容ではない」
『サプライズ、ですか?』
「そう。サプライズだ。それもとびっきりの、な」
『せめて、秘書である私に教えていただけませんか? 閣下』
「だめだ。アスモロフ博士と賭をしていてな」
『賭?』
「いつも冷静な君が、驚くかどうか、というね」
『まぁ!』
「とにかく、内容は秘密だ。ただし、悪い内容ではない。それで処理してくれないか?」
『かしこまりました、閣下』
「ああ、それと。耐アルコール薬を頼む。恐らくはしこたまウォッカを飲まされる羽目になるだろうから」
『かしこまりました、閣下。それでは、式典10分前になりましたらもう一度お呼びいたします。それまでに準備をお願いいたします』
「ああ、わかった。それじゃ、これで」

 ピ、と電子音が鳴り、モニターに映っていた若く美しい秘書の姿は消えてしまった。
 その跡に先程見損ねた電子手紙の文章が浮かび上がる。
 内容は次のような物であった。

 件名:運命
 From:アスモロフ博士
 まずは、神に感謝を。
 閣下、あなたは運命を信じますか?
 先程、そう、つい先程の事です。
 ナノマシン制御信号が完成しました。
 増殖抑制信号ではありません。
 制御信号が、です。
 閣下。誰が完成させたと思いますか?
 なんと、私の娘……リディヤが完成させたのです!
 きっかけは、彼女の体のメンテナンスでした。
 ご存じの通り、彼女の体はナノマシンで構成されております。
 したがって、レベル6以上の施設内でないと彼女の体はメンテナンスができないのです。
 が、その場所は同時に地上のナノマシン群体のサンプルが保存してあるエリアでもあります。
 このエリアは最重要危険物でもあるナノマシン群体サンプルを、どの部屋からでも監視できるようすべての部屋から
サンプルを見ることができるのですが、そこで運命が訪れました。
 メンテナンスベッドに寝そべり、暇をもてあました彼女が突如、パパ、見て? と私に語りかけたのです。
 彼女はそのまま、あのサンプルが見える窓を指さしました。
 そこには、ただの四角い金属であったサンプルが、リスへと変わっていたのです。
 娘は言いました。
 次は、ウサギ! と。
 そして、驚く私の目の前で、あのサンプルは白いでっぷりとしたウサギへと変化しました。
 私はさらに驚愕し、それからすぐに何が起きているのかを判断して、娘を抱きしめました。
 そこから、制御信号の正体にたどり着くのは時間の問題でした。
 閣下。
 技術的な話はさておき、近いうちに閣下ととっておきのウォッカを飲めそうです。

 暗い部屋の中、モニターによって照らし出されている男の表情は、静かな歓喜を湛える。
 電子手紙は自分の、家族の、人類の長年の願いがようやく形となった報告であった。
 その内容は星間航行船『ランギヌイ』と軌道エレベータ『アトラス01』の最高権力者しか見ることはできない。
 式典はアスモロフ博士とその娘を極秘裏に迎え、発表と同時に地上奪還計画の第二段階を発令するための物であった。
 ようやく。
 ようやく、この時が人類にやってきたのだ。
 男は呟いて、昨日届いたばかりの最新の電子手紙を幾度目か、読み返し始める。

 件名:サプライズについて
 From:アスモロフ博士
 閣下。
 明日の式典出席の件、たしかに拝領いたしました。
 娘も初めて外へ出られると聞いて、とても喜んでおります。
 ナノマシンの制御信号は、今のところ娘しか発信できません。
 これは制御信号の発信に人類のある特有の遺伝子が鍵となっている為なのです。
 しかし、この遺伝子はすでに解明しており、クローン技術を使えばすぐに実用化できるでしょう。
 余談ではありますが、娘は最近レベル6のサンプルに執心しており、これを犬の姿に変えて非常にかわいがっております。
 あの恐ろしい悪魔も娘にかかればかわいい犬でしかないとは、なんとも皮肉な話です。
 本当ならば要請にありました、サンプルをそちらに持ち込み、閣下のサプライズの一助としたいのですが流石に危険であるため
これは辞退したいと思います。
 代わりに閣下、一つ賭をしませんか?
 閣下の秘書である、非常に美人で、非常に無愛想なナオミ女史が今回のサプライズを耳にしたとき、どんな表情を浮かべるか。
 私はくしゃくしゃに泣き出してしまう、に秘蔵中の秘蔵である、地上産のウォッカをかけますぞ。
 無論、賭に勝った場合はこれをすべて、閣下に飲んでいただきます。
 いかがでしょう?
 それでは、明日の式典を楽しみにしております。

 読み終えて、男は立ち上がり部屋の照明を灯した。
 式典に出席するための船長服はすでに着用している。
 時刻は式典が始まる、13分前。
 高揚する胸の内を沈めるため、とっておきのブランデーを出して嗜んでいたのだったがそれも徒労に終わってしまった。
 なぜならば、気持ちが早く、早くこの事実を発表したいと強く急かしていたからだ。
 男が浮つきながらも机の上に置いてある小さな鏡で身だしなみをチェックしていた所で、ピピピと呼び出し電子音が部屋に響いた。
 それからすぐにモニターに映し出される、彼の美しい秘書の姿。

『閣下。お時間です』
「わかった。博士は?」
『アスモロフ博士とそのお連れの方もすでに到着しております』
「そうか。では極秘裏に会場へ案内しくれ。ああ、それと。用意させておいた博士とそのお子さんの礼服も渡しておくように。私もすぐに行く」
『かしこまりました、閣下。――あ、それと、確認なのですが……閣下?』

 返事は無い。
 はやる気持ちを抑えきれずに、男は船長室をすでに飛び出していたからだ。
 明るくなった船長室のモニターのむこう、美しい秘書はいつものように気むずかしい表情を浮かべて小声で愚痴を吐く。

「まったく。しかし、困ったわね。」
「どうしたの? ナオミ」
「ああ、ユーリア。聞いてよ、ランギヌイのデータベース、ちょっとおかしいの」
「どこが?」
「アスモロフ博士のお子さんはどうみても女の子なんだけど、データベース上は男性なのよ。礼服、本当に女の子用でよかったのかしら?」

 少なくとも、男の子用の礼服は必要ではなかった。













[17309] あなたに変わらぬ愛を
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:93f1792e
Date: 2010/08/12 01:35


 21世紀が終わる頃に発生した、ナノマシンによる暴走災害 "グレイグー" 。

 事故発生当時アフリカ大陸はただ一つ、人類種の箱船と呼ぶべきシバ・シェルターを残して、暴走するナノマシンの海に沈みつつあった。
 ナノマシンによる無差別な物質分解と自己増殖の原因は当時から不明であったが、ただ一つ。
 その発端の地はアフリカ北部である事だけが確かだった。
 サハラ砂漠の中央、まるでオアシスのように破滅の始まりは静かに蠢く。
 最初の犠牲者は文字通りオアシスと勘違いして近寄った地元の若者である。
 それまでも幾度かオアシスらしき泉の目撃情報が付近の村でささやかれ、興味本位に捜索していた者達がこれに近寄り、呑み込まれた。
 次いで、夜になっても戻ってこない若者を捜索していた村の男衆が呑み込まれてしまう。
 朝には村は跡形もなく、突如砂漠に湧き出た灰色の水によって文字通りすべて分解されてしまっていた。
 それから間もなく、三日程置いてから全世界規模で非常事態宣言が当時の国際連合主導の下発令され、世界の目はアフリカへと向いた。
 この時、人類の対応はある者は遅すぎたと評し、またある者はできうる限り最速であったとされている。
 それまでもナノマシンによる事故は何度か起きており、それを教訓に厳密なナノマシン仕様が国際標準化として定められていた。
 その最重要項目には、ナノマシンの緊急停止信号と増殖抑制信号のプログラムの設置、国際標準指令ユニットによる緊急制御が可能である事が義務づけられるとされている。
 これらの技術やコード等は勿論、所有している国々にとっては最重要機密である。
 更に当時、軌道エレベータや外宇宙航行船の建造を開始した人類にとっても非常に扱いの難しいものであり、事故が頻発するほど手軽な技術でもなかった。
 つまりは、如何に技術先進国であろうと、自己増殖型ナノマシン制御は非常に難解で厄介な代物であったのだ。
 国連はすぐさま、自己増殖型ナノマシン技術所有国で構成された委員会を通じて、調査チームを派遣した。
 調査チームは現地入りするや、各国の最重要機密である緊急停止コードや国際標準指令ユニットによる緊急制御など、あらゆる方策を用いる。
 しかし。
 すべてが、すべての希望は、破滅のオアシスには無効であった。
 そしてその後の調査チームの報告によって、史上初めて人類が一つとなる。
 皮肉にも、戦慄と恐怖という暗い絶望一色に。



 絶望の最前線に居た人々には、猶予があった。
 それは時間であり、同時に小さな希望だった。
 アフリカから遙か東の地に離れた国で開発中であった、ナノマシンの増殖抑制信号コードが有効であると分かってから10年。
 各地では軌道上で建設する予定であった、外宇宙航行船の技術を使用したシェルターが建造され次々と完成した頃。
 アフリカ連合が建造できたのは、 "シバ・シェルター" ただ一基のみだった。
 元々ヨーロッパや極東アジア、北アメリカ大陸の国々から技術的に大きく水をあけられ、ただ一つのシェルターも資源の無償譲渡を交換条件に手に入れたものである。
 シバ・シェルターは北アメリカ大陸に設置されたゼノビア・シェルターと同型で、北アフリカ大陸中部に建造された。
 北東にはアフリカ大陸最高峰の山、キリマンジャロがそびえて、北からのナノマシンの海による浸食をある程度は押しとどめていた。
 すでにシェルター用のナノマシン増殖抑制信号発信器が全世界へと配布され、人類は一時の猶予を覚悟と脱出に使い始める。
 ナノマシンの浸食スピードは依然遅く、いくつかの外宇宙航行船を建造する余裕すらあったのだ。
 ただ、スターシップに乗れる者は少なく、ましてやアフリカ大陸に生きる者にとってはチャンスのすら与えられはしない。
 必然、そこに住む彼らが唯一助かる方法はシバ・シェルターに入ることであった。
 人々はこぞって家畜を連れ、大陸全土からアフリカの中央へ向けて移動を始めた。
 しかし、果たして約束の地で目にしたのは閉じられた門だった。
 そう、かなり初期にシバ・シェルターは人員を満たし、その門を閉じていたのだ。
 ヤイという少女もまた、閉じた門を見て絶望を抱いた者の一人である。
 他に行く当てもない人々は、やがてシバ・シェルター周辺に集落を作り始めた。
 キリマンジャロの麓にて、かつては豊かな国立公園であった大自然はたった数年でその姿を消してしまう。
 更に分散するおびただしい集落群では略奪が横行し、老人や男は殺し殺され、若い女は残らず連れ去られ暴行された。
 年端も行かぬ年齢であったヤイもその被害者であり、捕らわれたキャンプがナノマシンの海に沈むまでの間、少女が世界の全てを憎悪するに十分な月日が流れた。
 本来、ゼノビア・シェルターと同型であるシバ・シェルターは、周囲数百キロにわたってナノマシン群体は進入できないよう信号を発する。
 しかし、彼女が捕らわれたキャンプはシェルターから遙かに離れた地、キリマンジャロの麓であった。
 これはヤイをさらった盗賊団の長が、山の近くなら水のようなナノマシン群体は上ってこれないと考えたからだ。
 だがその考えはアッサリと否定され、ある日灰色の大洋は獣と化した男達と哀れな女達を、キャンプごと分解してしまう。
 ヤイ一人を残して。
 なぜ自分だけが助かったのか、彼女には理解する術を与えられてはいなかった。
 それは奇跡であったのかもしれないし、悪夢の続きであったのかもしれない。
 気がつくと痩せこけ汚れた自分の体と、身につけていたぼろぼろの服だけが残されていたのだ。
 いや、取り残されたと表現した方がいいのかもしれない。
 辺りには草木一本生えておらず、むき出しの緩やかな斜面となった地面が見えて、ヤイはそこに横たわっていた。
 斜面の登り側には、キリマンジャロの美しい頂がそびえ立つ。
 反対方向には灰色の海が一面に広がり、シバ・シェルターの方角にはうっすらと緑の島が見えていた。
 緑の島のむこうにはキリマンジャロとは似ても似つかぬ、巨大な半球状の建造物が霞んで見えて、少女の憎悪をかき立てる。
 灰色の海の波打ち際は、ヤイが立ち尽くす場所から10メートルも離れてはいない。
 ヤイは己が生き残った理由も分からぬまま、ただ目に映る物すべてを呪った。
 地獄から解放されたとはいえ、彼女にとって世界は相も変わらず憎悪の対象であったのだ。
 少女は長らく口にしていなかった言葉を、いや言葉にならぬ絶叫を上げ、むき出しの地面から握れるだけの砂利をつかみ灰色の海へ投げ入れる。
 ただひたすらに、半狂乱になりながらひたすらに、地面からなにかを拾い上げ灰色の海に向かって、遠く緑の島に向かって、シェルターに向かって投げ続ける。
 投げ続けながらヤイは泣き叫び、徐々にナノマシンの海へと近寄っていく。
 そしてついにはその身を海の中へと投じてしまった。
 無慈悲な微少機械達は、哀れな少女を塵以下になるまで分解してしまうだろう。
 だが、少女の最後の望みすら世界は受け入れはしなかった。
 胸に衝撃を受け、少女は灰色の海からはじき出される。
 一瞬呼吸は止まってしまいむせたが、過去に受けた暴行などに比べればどうというほどの物ではなく、すぐに思考は回復した。
 ナノマシン群体に浸したはずの足を見ると、まったくの無傷であり回復した思考を少女は混乱させる。
 次いで自分を突き飛ばした物の正体を探ると、先程まで居た場所に一匹の雄ライオンが見えた。
 当時のアフリカにおいても雄ライオンは絶滅寸前であり、ましてやこのような場所に居るなど不自然極まりない光景である。
 雄ライオンは混乱する少女に向かって、ゆっくりと近寄ってくる。
 ヤイは混乱の極みにあって、しかし不思議と恐怖は感じなかった。
 やがて雄ライオンはヤイの眼前までやってきて、その少女の胴体程もある大きな頭を一度、呆然と尻餅をついたままの彼女にこすりつける。
 ヤイは強い獣臭に我を取り戻し、恐る恐る害のなさそうな不思議なライオンのたてがみを触った。
 瞬間。
 ライオンはグニャリと波打って、灰色の液体になったかと思うと、今度は背の高い男の姿に変化する。
 男はヤイと同じく漆黒の肌を持ち、痩せた体に質素な布を巻き付け、細身の槍を手にした青年であった。
 少女には分からなかったが、男の姿はマサイの戦士のものである。
 青年は目を丸くして地に座り込むヤイに、優しく笑いかけ手をさしのべる。
 ヤイはわけも分からぬまま、なぜかその手を取った。
 聡明な彼女は相手が何者かは何となく理解できていたが、なぜかこの時恐怖も憎悪もわかなかった。
 触れ合う手と手。
 青年の手は温かく、少女はまたも浸食や分解はされなかった。

「あなたは……だれ? 一体どうして私を?」

 何年ぶりかに抱く、他者への興味がヤイの口をついた。
 青年は穏やかに笑いながら、一言シンバと答えた。
 ライオンを意味するスワヒリ語に、ヤイはそのままの意味ねと返して重ねた手に力を込め立ち上がる。
 その表情はどこか、さばけていた。
 青年はヤイの手を握ったまま、もう一方の手で持っている槍をキリマンジャロの頂へと向ける。

「あっちに行くの?」

 問いかけに、青年は笑いうなずく。
 ヤイは灰色の海とその向こうのシェルターを一度見て、それからすぐに青年に向かってうなずき返した。
 青年は人ではない。
 それは間違いないだろう。
 しかし、そのままその場所に止まるつもりも無かった。
 間もなく二人は手を繋いだまま、雄大な山の方へ歩き始めた。



 どうも、自分が居た場所はキリマンジャロの麓に近い場所であったらしい。
 青年と連れ立って山の方へと向かったヤイは、幸運にも未だ手つかずの森と一軒の小さな小屋を発見した。
 小屋にはポータブル式の人工太陽と光発電機が備えられており、二人で住むには特に不便はなさそうである。
 住人はナノマシンの海が接近してくるのを察知してか、かなり前に避難していたらしく内部はかなり荒れていた。
 小屋の外壁には度々奪い合いが発生していたのか、そこかしこに銃弾の跡が残っており、設備が無事であることは奇跡だと言えよう。
 ヤイと青年は、まるでそうであることが自然であるように、その小屋で生活を始めた。
 幸い食料はナノマシン渦を逃れた近くの森から手に入ったし、数年経っても人とは出会わず、二人は穏やかな日々を送る。
 ただ、最初の内は様々な薬物を打たれ、堕胎を強要されたヤイが何かと床に伏せる日が多かった。
 その度に青年が看病をし、彼がヤイの額に手を当てると苦しみは嘘のように消え去り、やがて半年も過ぎた頃にはヤイは健康な体を取り戻すに到る。
 青年は無口であったが献身的であり、その微笑みは長い年月の中でヤイの心を徐々に癒していった。
 星がよく見える夜、たまにヤイは "我に返る" のだったが、結局彼女は様々な疑問を青年に追求する事をしなかった。
 何故自分だけが生き残れたのか。
 何故、あのナノマシンは自分に色々と手助けをしてくれるのか。
 何故、ここら一帯はナノマシンの海に沈むこと無く、しかも人間が一人もいないのか。
 何故、あの青年はアイシテルとこんな汚れきった自分に微笑むのか。
 ……何故、ボロボロになるまで身体を痛めつけられた自分が、あの青年の子を身籠もる事ができるのか。
 疑問は幸福によって塗りつぶされてゆく。
 ナノマシンに何か思惑があるのではと思わないでもない。
 しかし、ヤイにとってそれは些細な問題であった。
 なぜならば。
 彼女は世界を憎悪していたからだ。
 人間を呪っていたからだ。
 ナノマシンの海よりも、その向こうに見える丸いドームを心から憎んでいたからだ。
 青年が自分を利用しているとして、それは彼女にとっては裏切りではなかった。
 むしろ、自分の身を捧げることで人類に一矢報いることができるならば、喜んでその身をささげるであろう。
 そんな暗い想いは彼女の内側を満たし続けてきたのだ。
 何年も、何年も。
 平和で幸福な日々は、彼女の怒りと憎悪を決して薄めはしなかったのである。
 膨らんでいく下腹はまるで、そんな彼女の憎悪を糧とするかのように順調に成長していく。
 やがてヤイは女の子を産み、それから更に数年が経った。
 彼女の幸せな生活はその日、唐突に終わりを迎える。
 けたたましい音と共に、一機の航空機が彼女の住む場所へ降り立ったのだ。
 この時のヤイには知る由も無かったが、シバ・シェルター内部では様々な権力闘争や反乱が頻発し、人員の管理もままならない状態であった。
 その門を閉めてから約十年、シェルター内部の様々な施設は早くも限界を迎え、内部に住む人々は外へ食料を求めて門を開いていたのだ。
 はじめは周囲の平原や森から食料を得ていた彼らだったが、直にそこにある資源も食い尽くしてしまう。
 そこで、遠くに見えるキリマンジャロが未だ灰色の海に沈んでいないことを確認するや、早速探索にやってきたのだった。
 母となったヤイとその娘は急いで森の中に隠れ、藪の中から垂直に離着陸する航空機をじっと観察する。
 ゆっくりと着陸した航空機からは、いかつい鉄のゴリラのような強化防護服を着用した兵士が数名降りてきて、ヤイの小屋を荒らし始めた。
 その様子を見たヤイの娘は恐怖と悔しさから声を押し殺して泣き始め、ヤイ自身も又、胸の奥底に沈殿していた憎悪が激しく燃え上がっていく。
 激しい怒りが視界をゆがめる。
 強い憎悪が歯を鳴らした。
 何かが割れる音や壁が打ち壊される音が、小屋の中から響いて来る。
 彼女の夫となった青年は森の中へ食料を捕りに出ており、ヤイはただ、成り行きを見守るしかない。
 やがて、彼女のささやかな幸せに土足で上がり込んできた者達は、一通りの戦利品を手に小屋から出てきた。
 ヤイは数年ぶりに屈辱に唇をふるわせ、その様子をじっと見つめる。
 兵士達は手にしたわずかな食料をお互いに見せ合い、何やら会話を交わしていた。
 そんな彼らに、突如大きな影が襲いかかる。
 いつか見た大きな雄ライオンが森の中から飛び出して、一人の兵士に覆い被さったのだ。
 兵士は強化防護服の外まで聞こえる悲鳴を上げながら、ライオンに触れられた場所から灰色の水へと代わり、やがて何も残さず分解されてしまった。
 同時に、他の兵士が構えた銃から対ナノマシン用の熱線がライオンへと放射され、あの青年はあっけなく燃やし尽くされてしまう。
 それをみたヤイは、今までに無いほどの憎悪をたぎらせて、思わず隠れていた藪の中から飛び出した。
 強化防護服に身を包んだ兵士達もすぐに彼女に気がついて、ライオンを屠った銃を今度は彼女に向ける。
 ヤイはいつかそうしたように、足下の砂利をつかみ、言葉にならない叫び声をあげて兵士に投げ始めた。
 投げた砂利は、大きな物は混じってはおらず、パラパラと兵士のヘルメットに降りかかる。
 兵士は目の前の狂女のような女の行動に少し驚きながらも、行動が無害だと知るや嘲笑を浮かべ、トリガーに指をかけた。
 その瞬間。
 いつか、ライオンが青年の姿に変わったかのように。
 兵士達の視界の "すべて" が灰色となってゆがんだ。
 森が、家が、地面が、山が。
 目に映る全てが灰色の海と化して、瞬く間に兵士と航空機を呑み込んだのだ。
 その様はまるで、ヤイの心を具現化したかような光景であった。
 やがて、全ての兵士が呑み込まれた後、世界は再び "元" の姿を取り戻す。
 ヤイは目の前で起きた事実を不思議とありのままに受け止めて、森の中で泣き続ける娘と共にすっかり元通りとなった家に戻ることにした。
 それから、娘に父親を捜してくると伝え、家を後にして山を下ってゆく。
 ヤイの娘が母親の姿を見たのはそれが最後であった。
 彼女は寂しさに涙し、父と母の名を呼び続けたが遂に両親が彼女の前に現れることはなかった。
 そんな出来事から更に数年。
 成長した彼女がある日、母の面影を追って山を下りそこで見た物は、何処までも続く灰色の海だけであった。
 母が憎んだシバ・シェルターの姿はもうそこには無かった。
 あの日以来、航空機が小さな家にやって来る事も無い。

 ただ、母親と入れ替わるように男の子一人やって来て、彼と家族となった少女はそれほど寂しくは無かった。




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