『日蓮正宗史の基礎的研究 山口範道御尊師 』

 はじめに

                                                                                                       巷間の説によると、聖滅三〇〇年の天正九年に二箇相承が紛失したという。したがって紛失してから今年(昭和六十三年)で四〇〇年になる。

 大聖人滅後七〇〇年経った今日「二箇相承が何処からか出て来るかもしれない」と思っている人が少なからず居るのである。事実其の所在をさがすために二十年前各地に足を運んだ人が数人あったことを知っている。

 曽って、四・五年かけて古来の二箇相承の伝承系統を調べたことがあるので、そういう人の気持は理解できるように思った。

 この拙論は二箇相承に関連した文献を蒐集見聞したものを「日附の異説を考察する」事にしぼって書きあげたものであるが、今後も二箇相承の伝承や所在其他について研究をされる方があると思うので、この論の文章自体は幼推なものではあるが、一片の文献としては利用出来るものと思って、茲に残すことにしたものである。

 

 

二箇相承日付の異説は古く聖滅二〇〇年頃の文献に見える。即ち「釈尊五十年説法」云云の付嘱書が九月と十月の両説があり、「日蓮一期弘法」云云の付嘱書も九月と十月の両説がある。

 古来このように両書に二通りの伝承経路があるので、本論は仮に両系考察という題名を以て論考するものである。

結論的に云って、伝承の日付に異なりがあるということは、何れかが何時の時代かにおいて間違ったのであるということであって、御正本は二種類あったというものではない。したがって、この日付の異なりは、後世に於ける大聖人の法義の了解食い違いから起こったものか或は書写の誤りから生じたものか、或は故意的に間違えたものかということである。

 古来の文献を検索、両相承書を繰り返し拝読し、変遷する教団の状況、世相、法義等の上から考察、両書を相対的に、又語句の浅深を思索して行くと、その矛盾点が日付にあるように思うのである。

現在写本で門下に大きく浮上している日耀の臨写本が西山本門寺にあるが、その書の日辰の奥書に並んで、西山十八代日順が重ねて奥書して「日辰の花押のある二箇相承は愚悪愚見であるから重宝に加えることはできないが、什物として保存する」という意味のことが書かれているので、この不可解な語を一考して見たい。

 

 日順の奥書

 「此二箇御相承並木門寺額広蔵坊日辰判形為愚愚悪見重宝不加之予京師弘通之節於一条上行院有湛応其浄坊日了無二志被本山納之為全其至信且添愚筆為本門寺什物老也」

  明暦二丙申年卯月十日於京上行院書之 日順(花押)

 

 右の文中「不加之」の文を「シカノミナラズ」、と読めば後半の文の解釈がつかなくなるし、又この文中に「重宝」と「什物」の二つの語句がある。この句は一物に対する優劣の対照的な意味を持っている語句であると思う。この点に留意すれば、本文は「不レ加レ之(之を加えず)」と読むのが穏当のようである。

 事実西山本門寺では日耀写本を御宝蔵の重宝類と共に長持には納めないで庫裏の金庫の中に納めている。この保管の場所や、取り扱いの程度から考えても重宝と什物との差がはっきりとよみとれるように思うのである。故に日順の奥書は「重宝に加えないが、かりそめに什物として置く」という意味を述べているのであると思う。

 

日順は皇室系に生まれ、西山本門寺唯一の中興であり、その博学をもって各地に弘教、時に人皇百八代後水尾帝の皇女常子内親王の帰依あり、西山本門寺の最盛期を成したものである。

 興門派としての西山本門寺は二箇相承を尊重し、二箇相承の曽存を主張し、偽書迄作って日代は聖祖の直系相承にあるものなりと誇って釆たのである。(日辰状 要八-一七一・今川状 要 九-10)

 したがって二箇相承が存在したという証拠があれば自山に大いに有利であるということを知っていると思うのである。まして当時日辰と云えば日我と並んで東西の雄であり、その日辰が二箇相承をみとめたという証拠があるということは、二箇相承の存在したことを自他門に誇示するためには最良の文証となるのである。

 であるから、何も西山の法灯にある日順が日辰の二箇相承を「悪いもの」ときめつけることは更にないことである。何故中興であり、博学の日順が之を悪いといって重宝に加えなかったのであろうか、この辺りにも直系門流ではないが日順は日順なりの法義了解の上から日付の矛盾を考えたのではなかろうかと思うのである。

 よってこの日付の点について文献と教義の面から考察したいと思うのである。

 

    本  論

 

  一、関係文献

 

 真蹟が現存しないので古来二箇相承の真偽の論難がある(重須に曽存したというのは果たして真蹟であったかどうか疑問であるが、この問題は後述する。)


 今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難いが、存在したという証拠は多分にある。
今、二箇相承が存在したという証拠文献を大略次第してあげてみると次の通りである。

(一)聖滅27年(1308
徳治三年九月二十入日日頂の本尊抄得意抄添書?に「興上人一期弘法の付嘱をうけ日蓮日興と次第 」の文あり(宗全一-四四)

(二)聖滅99年(一三八〇)康暦二年六月四日、妙蓮寺日眼の五人所破抄見開に
「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明也」の文(富要四-八)

(三)聖滅187年(一四六八)応仁二年十月十三日、住本寺十代(要山十六代)日廣、重須にて二箇相承全文書写、其の奥書に 云く、
「日廣云、於 富士重須本門寺 以 御正筆 奉書畢、応仁貳年十月十三日(傍系)
要山十八代日在私云、先師日廣上人 詣 富士 之時 如此 直拝 書之 給也云云(雪文三十大遠日是転写本。夏季講習録二- 八富谷日震)

(四)聖滅207年(一四八八)長亨二年六月十日、左京日教「類聚翰集私」に二箇相承全文引用(富要2314)(正系)

(五)聖滅208年(一四八九)延徳元年十一月四日、左京日教「六人立義破立抄私記」に全文引用(富要四-四四)

(六)聖滅233年(一五一四)永正十一年、越後本成寺日現「五人所破抄斥」に全文引用(宗全七-一八一)(反系)

(七)聖滅264年(一五四五)天文十四年四月、日我申状見開に「身延池上の両相承」云云の名目を出す(富要四-81112

(八)聖滅266年(一五四七)天文十六年、要山日在、富士立義記(日叶作)を添削前後補接百五十箇条として二箇相承全文引用
(富要2182

(九)聖滅275年(一五五六)弘治二年、要山日辰重須に於いて日耀をして二箇相承を書写せしむ(西山蔵)

(一〇)聖滅278年(一五五九)永禄二年、重須日出、要山日住に二箇相承を拝見せしむ(要五-五六)

(一一) 聖減292年(一五七三)天正元年、日主上人二箇相承書写(大石寺蔵)

(一ニ) 聖滅298年(一五七九)天正七年、北山本門寺宝物目録に二箇相承を挙ぐ(富要九-ニ○)

(一三) 聖滅300年(一五八一)天正九年三月、武田勝頼の臣重須を襲い二箇相承等を奪う(要九-一七・ニ○)

(一四) 聖滅301年(一五八ニ)天正十年、重須日殿二箇相承返還を訴え憤死す(富士年表・日蓮教団史九ニ)

(一五) 聖滅301年(一五八二)天正十年十月十五日西山日春甲府総檀中へ書をおくり二箇相承返却方を促す。(西山蔵・蓮華三-ニ二)
(一六) 聖滅300余年、房山日我等二箇相承紛失証明を記す(要九-二二)

(一七)聖滅330年(一六一一)慶長十六年、家康駿府城に於て重須より奉持の二箇相承を拝す(駿府政事録・駿国雑誌三十一 -中-七四)

(一八) 聖滅330年(一六一一)本光国師二箇相承を道春(林羅山)より得て日記中に記す(仏教全書、本光国師日記一-一 六五)

(一九)聖減336年(一六一七)元和三年、要山廿四代日陽、重須に至り二箇相承を拝す(要五-六〇)

(ニ○) 聖滅375年(一六五六)明暦二年、西山一八代日順、日耀写しの二箇相承の日辰奥書に重ねて奥書す(西山蔵・富士 門徒の沿華と教義四五)

 以上の二十項目は二箇相承の曽存を裏付けするに充分な正系・傍系・反系の史料である。
尚日興上人は大聖人よりの二箇相承とい う譲り状があったので之に例して日日譲状なるものを作られたのであるということを思い合わせるとき、これらの文献によって二 箇相承の曽存は認めざるを得ないであろうと思う。


両系二箇相承日附の考察

   二、両系古文献の選択について

 正筆の鑑定が出来れば問題はないが、古文書の真偽論は正筆の無い場合に起る問題であるということは当然の事であろう。
 正本のない古文書は、時代写しか又は正本年代に最も近い写本が原本の形状を最も多く留めていると見るのが一往の常識で、そ の価値も最高であることは通論であろうと思う。

 一つの事蹟に対して数通の異説古文献があって、その中より一つの事実を証拠立てようとする場合、その原本の形状を留める文 献が一通しかない場合は立証価値が弱く、証拠文献が二通以上あるものは立証価値が強くなるものであると考える。   
            
 この二箇相承の場合、重須の伝承本と大石寺の伝承本(或正本か)と、他の反系に流れていた伝承本との三系統があったものと 推測されるのである。

 これを証明するに足る理由は、次の文献より窺えるのである。

 すなわち、真蹟か写本かの区別はわからないが、大石寺と重須と小泉に、それぞれ伝承本が一本づつあったということは、会津 実成寺の宝物記録に左の如き日辰の記がある。

  血脈相承三幅、二幅は裏に「弘治二 (一五五六)丙辰年七月七日目優宗純寂円幸次等於駿州富士郡重須木門寺令拝見之畢今欲趣泉州故記之千時永禄三庚申年八月十三日 又永禄二己未年正月十二日奉拝見之日辰」と書し。

 一幅には「永禄二己未年正月十八日於小泉久遠寺書之重須日出上人寺僧本行坊日輝丹後讃岐民部卿京主目玉等熟披見此書写老也。此外大石寺有一紙御付嘱状是廣格異耳 要法寺日辰」と書す。共に華押あり。(新編会津風土記巻之十五ー二 一六)(註) 廣格異耳  三幅共に堅横の寸法が異っていたという意味

 右記によれば、大石寺と重須と小泉に伝承本があったことを日辰は証明していると云えるのである。

 其の他にもう一つの伝承系があったということは、日教と越後本成寺日現は両相承書の配列次第と日附は同じであるが、日教と 日現のものは先掲(十八・十九頁) の如く文字の異同が余りにも多い。

 これだけの僅か八十字位の短文の二紙の中でそれぞれ十二ヶ処も異なっているということは、日教と日現は同一系統の伝承本を 見て書写したのではなく、全く別系統であると考えられるのである。

 小泉のは転写本も無いので茲で取り上げられないが、日廣・日耀(日辰本)は共に同一の重須にあったものを書写したのである から重須系であり、日教は大石寺系であり、日現は反系伝承で別系である。

 したがって両相承書は大石寺系(正)と重須要山系(傍)と反系の三系統となるが、日付の系統から分けると二系統となるので ある。この両系の異日のどちらを取るかということであるが、その前に重須の真蹟曽存というのは最古の写本ではなかっただろう かと思うのである。

 何故ならば、二箇相承が武田方に奪われて紛失し、日我等の紛失証明が残っているいるにもかかわその後三十年して重須の養蓮
坊(日建代)が二箇相承を駿府城に捧持して家康に拝見させたという記録があるからである。

     駿府城奉持の事 駿国雑誌に云く、

     「日蓮校割相承文」富士郡北山村字重須多宝富士山本門寺日蓮宗寺領にあり。
    駿府政治録云、慶長十六年十二月十五日今晩不二本門寺校割二箇相承後藤庄三郎光次備(二)御覧(一)其詞云、是以按 之、日蓮爾前経不(レ)捨事分明也。後「未」=(未に「ノ」を加える)到釆未派暗(二)本源(一)而僅以(二)四十余年未顕真実(此ノ文無量義経ニアリ)之一言(一)爾前之教可(レ)棄(二)損之(一)。是非(二)祖師之本意(一)者也。於(二)御前(一)有(二)沙汰(一)云云。北山本門當住職日口云、慶長十六年十二月仏法相承之儀被(レ)為(二)聞召(一 )十日御尋沙汰有(レ)之、其時之住持日健眼病相(二)愁之(一)則役僧養蓮坊を以同十四日駿府に着同十五日登城後藤庄三郎 取次を以奉備上覧二箇相承文に日(以下二箇相承全文記せり)
         以上(駿国雑誌巻之三十一中七四頁)
 (註)交割(引渡し)校は借字、新旧両官が事務の授受をなすことを云う。

 又紛失後三十五年して要山日陽が重須に至り二箇相承を拝したという記録があり(要五-六〇)
更に又近代では興門口決初(妙観文庫本)に
「明治十年六月十三日来た山本門寺に而御風入之節御相承二箇相承御真筆奉拝也 信領坊日體(妙蓮寺三十九代)」
 と書付ている。
  (註)明治十年のものは現存しているものを指すと思うが、これは花押もついているが明らかに写本である。(写真図書館)
 御真筆が紛失したという文献より三十年も後において、御真筆が存在したという文献が残っているというのは実に符におちないこ とである。

  日我は天文十四年(一五四五)の申状見聞に
「両状の御大事血脈相承は目上への御付嘱也。然るに開山重須に御住の時、日々従(二)大石(一)御出仕と」(要 四ー〇六)
と記されている。
「二箇相承は武田方に奪われて紛失した」と今も伝えられているが、それは真実真蹟であったかどうかは少々疑わしいと考える。

 以上のことから考察すると、御正本は大石寺創立當時には現存し、これが上代から日有上人の頃の書き物の中に引用され、それ がたまたまの日教の書き物の中に、その原文が写されて残ったのであろうということが考えられる。
 
 日教は類衆翰集私の中で「聖人白蓮 御付嘱 御判在(レ)右」(正本雪目一一七・研教三-三三)と迄書いているから、真蹟二箇相承の大聖人の花押が特に右寄りであるのを日教が拝したものか、或は又、客殿の譲座本尊の日興上人の御署名花押が他 の本尊と異って右に在るように、「御判在(レ)右」という相伝的口伝を聞いて入念に書き留めたのではなかろうかとも思うので ある。

 さて重須本のことであるが、日廣や日耀が写したものや、駿府城に奉持したという重須の伝承本は正本ではなくて、花押迄模写 したところの古写本であったのではと思うのである。これは次のことから推定できる。

 即ち越後本成寺の日現は「五人所破抄斥」の中に二箇相承を挙げて次のように書いてある。

  「日現申す、前の御相承(九月十三日)は身延相承、後は(十月十三日)池上相承と云云。御判形現形也。
 されども一向御正筆に非ず偽書謀判也。又日興の手跡にもあらず、蔵人阿日代と云う人の筆に似たりと承り
  及也」(宗全七-一八二)

 これでは日現は何処にあったものを書写したものか、又何処から「日代筆に似たり」と云うことを聞いたのかはわからないが、 他門には早くからこのような云い伝えがあったのだろうということは考えられるのである。
 越後本成寺は門祖に日朗を立てて日現は八代となっている。不思議なことに、西山本門寺十一代目心の頃の過去帳に、本成寺九 代日覚の序文が載っている。
 西山本門寺と越後本成寺との関係は研究の余地はあるが、何れにせよ古くから両寺の交流のあったことは認めてよいと思う。

 とすれば、日現の「重須の二箇相承は日代筆に似ている」という説は、直接西山本門寺から本成寺への流言であると受けとれば、この聞き伝えは真実性が出てくる。

 次に西山本門寺蔵の日耀写本(世に日辰本と云う)は臨写本であると云い伝えられているが、古文の書写の方法には四種類ある
。即ち、双鉤塡墨と影写・臨写・見取書きである。
 このうち臨写法というのは、親本を横に置いて、これを見ながら、親木の書体 、字配り、行数等を出来るだけ忠実に写し取る方法で一般には模写とも云われている。

 故に臨写本というのは行数や字配り、筆法が親本(真書)に良く似ていなければならない。然し乍ら、正本を臨写したという西 山蔵の日耀本は、その筆法を校合してみるに、大聖人の御筆法に似た点がないということである。
 したがって日耀が親本とした重須本は大聖人の真蹟ではなかったということが考えられる。
 西山本門寺と本成寺の関係や日現の記文等を考え合わせてみるに、重須所蔵(曽存)の二箇相承は日代筆写のものであったので はなかろうかと推定されるのである。

 日代は聖滅十三年に出生して、開山上人に常随している。日代筆写の二箇相承であれば先づ門下最古の全文写しの写本であると
見て良いだろう、したがって重須では之を重宝中の重宝として取り扱い、正本であると誇示し伝承するぐらいの価値は充分である
と思うのである。

 さて両系の選択であるが、端的に云えは、一期弘法書が九月となっている重須・要山の一系統に対し、十月十三日となっているのは大石寺(日教)と別系(日現)の二系統があるということは、先述の文献的考察からみれば同一のものが二系統あるものの方が有力となると考えるのであって、身延相承書は九月、一期弘法書は十月となっているのを正統なものとして取り上げて良いと思うのである。


  三、日興上人阿闍梨号授与の時期からの考察

 左京日数の類衆翰集私と六人立義破立抄私記の中に引用する身延相承は共に「白蓮日興」となってをり、一期弘法書は「白蓮阿闍梨日興」となっている。

 これに対して日現・日耀本は両書共に「白蓮阿闍梨日興」となっている。

 大聖人の門下の阿闍梨号には、大聖人から授与されたものと、門下に入った時既に阿闍梨号をもっていたものとの二た通りがある。

弁阿闍梨  (文永十一、異体同心事   新定ニー二二三二)
大進阿闍梨 (文永 八、五人土龍御書  新定一-七二〇)
大和阿闍梨 (文永十一、法華行者値難事 新定ニー一〇五五)
助阿闍梨  (文永十二、新尼御前書   新定ニー二三四)
大貳のあさり(弘安元、兵衛志書     新定ニー一八二八)


は後者に属し、日興上人・日持・日朗は、大聖人から授与されているが、中でも日興上人は最も晩年に授与されている。

 そこで日興上人への阿闍梨号授与の時期を二箇相承以外の文献から判定して、そこから立返って二箇相承の次第を考察してみることにする。
             
 最も早い時期では、弘安三年正月十一日の百六箇抄で、その末文に「白蓮阿闍梨」の名が見えるが、同文の中に
「就(レ)中定(二)六人遺弟衰示如(二)先々沙汰(一)」と書かれている。(聖三七〇)

 而るに六人の弟子を定めたのは弘安五年十月八日(御遷化記録中文、聖五八一)であるから、この百六箇抄は、それより以後ということでなければならないということになる。

 ところが百六箇抄のこの「就中定六人」より下文は後加文であるというから、もともと百六箇抄に付いていなかったものとすれば、此の百六箇抄の系年は再検の余地がある。                                     
  今一つは、百六箇抄の下種本迹勝劣四十三条に「三箇の秘法建立の勝地は富士山」云云(聖三六七)と、最勝の地を富士山と指定してされている。にもかかわらず、弘安五年四月八日の三大秘法抄に「最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(聖三〇二)と仰せられて、未だ富士山とは明示されていない。

 百六箇抄の写本には系年の無いものと、有るものとがあるが、この書を弘安三年一月に系けると「就中定六人遺弟」の時期と、三大秘法抄の「最勝の地を尋ねて」の文に矛盾が出てくる。このような矛盾のある百六箇抄を弘安三年一月に系けるには疑点があると思う。したがって百六箇抄は後加分を切離し無年号として弘安五年十月八日以後に置くべきであろう。

(注 樋田 
●三大秘法抄は在家信徒である大田金吾殿へ宛てられた御書であり、弘安五年御作ではあるが、戒壇建立地を直ちに明示されるのを避けられたと拝するのである。日顕上人の御指南に仰せである。
●「就中定六人遺弟」等は後加文であるから、弘安五年十月八日以後に系けなくとも矛盾は生じない。
●但し、日亨上人は弘安三年正月十一日には疑義があるとされている)

 故に弘安三年一月に日興上人の阿闍梨号を初見とすることはできないので、この時期は問題外となる。

 次に「五大のもとへ御書」である。此の書の中に伯耆阿闍梨の名があるが、此の書は系年不明である。晩年の御筆法であるが、書中の伯耆阿闍梨は白蓮阿日興上人を指しているのかどうか、文の内容から考えて決定し難い、或は同名異人説も考えられる。

 次に弘安五年二月二十五日日朗代筆の伯耆公御房御消息(新定三-二二七六)では「はわき公御房」となっているから、それ迄は房号を用いていたのであろうということが考えられるので阿闍梨号授与の時期は弘安五年二月二十五日以後ということになる。

 したがって此処ではっきりするのは、御遷化記録中の文の弘安五年十月八日に「白蓮阿闍梨日興」(定弟子六人之事中)とあるのが明白な初見ということになる。故に日興上人への阿闍梨号授与の時期は文献上に見るかぎり御入滅五日前の十月八日であると見るのが正しいと思うのである。

 故に異日二箇相承の中で、身延相承は未だ阿号の授与されていない時の弘安五年九月付で阿闍梨の文字のないもの、又一期弘法書は弘安五年十月八日阿号授与以後である十月十三日の阿闍梨の文字が付されているものが正本の形を留めるものであり、正しい両書の順序を示す写本でああるということが考えられるのである。

 四、結論

 古来身延相承書は、その日附について九月十二日と、十月十三日の二説があるが、九月八日身延御出立であるから本文は山中で、日附は出立後書き入れられたものであろうということが考えられるのである。

 九月十二日と十月十三日の両説については、最古の文献である日眼の五人所破抄見聞の十二日を用いるのが隠当ではなかろうか 。

 このように考えて身延相承は弘安五年九月十二日とすれば「甲州波木井山中圖之」の文字は、末だ波木井山中を出ない時期に本書を認められたことを意味する文であり、この九字は当然身延相承に書き添えられるのが妥當であると思うのである。

 一期弘法書は既に論を重ねて来た如くであって、十月十三日御入滅の日であることは動かせないと思う。

   五、後記

 親本を誤りなく書写することは実に難しい。日耀(日辰本)に「身延山」を「身遠山」と書いているのは恐らく書写の際の誤りであろう。それは日耀以前の写本全部が「身延山」となっているからである。
 このことについて日辰は「身延山抄見聞」の中に「身延山一書(ニ)身遠山(ニ)作玉(ヘリ)定(テ)有(二)意趣(一)か」と書いている。一書とは或書と取るべきか、若し伝承本三本(大石寺・重須・小泉)の中の一書と解釈すれば、重須本か小泉本の何れかである。

 伝承本三本共に「遠」であれば一書と書くかどうか、恐らくは書かないものと思う。そうすれば伝承本三本の中の一本が「遠」で二本が「延」であれば「遠」は誤りであると見てよいだろう。

 この日辰の記を見れば、重須本が「遠」であったのであろうということも一往は考えられるが、これは日耀が写し誤ったのではなかろうか、何故ならば、日廣(十六代)と日辰(十九代)の写本は約九十年の隔りはあるが、同じ重須本を見て書写しているのである。にもかかわらず日廣本は「延」となっているからである。

 又、日廣本は要山所蔵で其の全形は見られないが、多宝蔵の大遠日是の転写本は、「延」となっているし、富谷日震が日耀本の「遠」の字を取り上げて論考しているが、日廣本には何も触れていない。

 したがって、比の点から考察しても重須本は「延」であったのだろうということは推定できる。身延山が身遠山となっていても「遠」の身延山と身遠山の「延」と「遠」とは、その字義は研究を試みても全く会通がつかない。

 日辰も一往は考えたのであろうが「身延山一書身遠山作玉定有(二)深意(一)か」と書いているだけであって、これでは遠の字に対する深意ある明解とは云えない。

 富谷日震も此の問題を取り上げてはいるが確たる結論も出ていない。して見れば御正本は「延」であり「遠」は間違いということになる。

 尚現行の御書全集等には身延相承書(大石寺系のみ収録)が十月となり、一期弘法書が九月となっているのは、各山互に壁を高くして、同門内の者にも相承書の如き重宝を拝観させることをしなかった封建的な時代に、唯だ日辰のみが、正本として伝承する重須本を書写せしめて世に開版したので、一躍日耀書写の二箇相承(世に日辰本という)が余りにも有名になり、各門流挙って日耀本を取り上げたためであろう。

  富谷日震も「此の一期弘法抄が坊問に喧伝公開されたのは我中興日辰上人に濫傷するか」と迄述べている(講習録二―九)
 いづれにせよ日附の異りに古来異義のなかったことは不思義であるが これは大石寺が宗祖大聖人の正義を厳護し来って他山に迎合せず、近来迄御書・相伝書・古文書等の重宝は堅く秘蔵して公開せず、又他山に於ては二箇相承の如きものは、つとめて敬遠していたからであろう。
唯だ多くの写本の中で、当山十四世日主上人の写本のみが日附は日耀本と同じではあるが、身延相承を先に、一期弘法書を後に次第してお書きになっておられるのは、其処に意を留められ疑問をお持ちになっておられたのではなかろうかと拝察するのである。
 いずれにしても、二箇相承は古来、日附について異同があること、又真蹟が紛失したと云われてから三十年後に真蹟を拝したという記録があること、又二系統の二書の文字に余りにも多くの異同があること等を考えれば、この問題は今後の研究に俟つところが多分にあると思うのである。
                               (昭和五十三年六月二十三日稿)