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> No.58798[元記事へ]
ロム男さんへのお返事です。
長いとのご指摘がありましたので、要点だけお聞きしますね♪
SOUKA NET に掲載されている『余は27年』の出世の本懐とは
弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊であると(本門戒壇の大御本尊とは言っていないが)
それに、池上相承書や身延山付嘱書も教学のページにちゃんと掲載されている
破門されてもう20年近く経っているのにです。
公式HPには掲載されているってことは、創価学会自身がしっかり検証したんではないのか?
創価学会ってそんなに低レベル?
ロム男ちゃんが言う、板本尊も両巻血脈抄も日蓮大聖人の真筆ではない
が、現在のスタンスというが
創価学会公式の見解には一切ない
ロム男ちゃんと創価学会本部
どっちが本当なん?
又、創価学会公式HPに掲載されている「弘安2年10月12日」あらわされた
『一閻浮提総与の大御本尊』とはなんぞや?
又、日興上人から日目上人へ付属された大御本尊とはなんぞや?
参考資料 蛍氏提供 SGI公式HP↓↓↓
(拙訳)
日蓮が出世の本懐として1279年10月12日に日本身延で彫刻した信仰の対象。
「大御本尊」とは文字通り偉大な信仰の対象という意味である。同月1日に書かれた『聖人御難事』で、日蓮は「去ぬる建長五年〈太歳癸丑〉四月二十八日に・・・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年〈太歳己卯〉なり。・・・・・・ 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつしろしめせり。」(英語御書p.996)と述べている。。
大御本尊は日興、日目へと附嘱され、大石寺に格護されている。日興から日目に宛てた『日興跡条々事』には「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。」とある。日蓮は熱原法難の時期に大御本尊を彫刻した。熱原法難とは、農民信徒20人が逮捕され、日蓮仏法への信仰をやめるよう弾圧された事件である。彼らは棄教を拒み、そのため三人が首を斬られた。日蓮はそうした一般信徒の純真で勇敢な信心に呼応して大御本尊を彫刻した、と伝えられている。御本尊、三大秘法の項も参照のこと。
(拙訳中、inscribeは「図顕」とか「建立」と訳すべきかも知れないが、inscribeは「彫刻する、刻み付ける」というニュアンスであり、外国でどのように教えられているかをありのままに示すため、「彫刻」を訳語として採用した)
SGI関連資料(Dai-Gohonzon) 投稿者:蛍 投稿日:2010年 7月 4日(日)11時00分38秒 p2235-ipad202okayamaima.okayama.ocn.ne.jp 返信・引用
弘安二年の大御本尊を肯定的に説明しているSGIサイト一覧(URLは記述ページ)。
参考資料 創価ネット二箇相承で検索→http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/member-support/studying/data_library_01_11.html
弘安4年(1281年)11月、身延に大坊が完成し、久遠寺と名づけられました。
弘安5年(1282年)9月、日蓮大聖人は御一代に説き弘められた法門のすべてを日興上人に付嘱し、広宣流布の使命と責任を託されました。身延において行われたこの付嘱を身延相承といいます(その相承書を身延相承書あるいは日蓮一期弘法付嘱書といいます)。
9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くため、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について明確に定められたのです。
9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されました。
弘安5年(1282年)10月13日、大聖人は御入滅に先立って再び日興上人へ付嘱され、日興上人を身延山久遠寺の別当(住職)と定められました。これが池上相承です(その相承書を池上相承書あるいは身延山付嘱書といいます)。
先の身延相承とこの池上相承を総称して「二箇相承」といいます。
同日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。
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