口を開き始めた被爆者と原爆症認定における厚労省の詐偽行政
今年、広島の原爆の日に関連して、特に問題提起されたことは二つあった。一つは、これまで口を閉ざしていた者が証言を始めたことである。もう一つは、政府による原爆症患者の認定の問題である。前者の問題は、ＮＨＫの広島放送局が当日午後６時過ぎからの番組で放送していたが、全国的には、テレビ朝日による張本勲の特集報道で大きく紹介され周知されるところとなったものだ。ＮＨＫの特番に登場していた女性は７２歳、張本勲は７０歳。年齢が近く、これまで自ら被爆体験を積極的に語れなかった理由も共通していた。口を開くことができなかった原因は、少年少女期に受けた差別と偏見の記憶と、それによる心の傷の存在である。７歳で被爆した女性は、髪が抜け落ち、１年間の入院治療を余儀なくされ、学校に帰ったとき、同じ学級の者から残酷ないじめの仕打ちを受ける。「この子ちょっと原爆臭うとるよ」「近づいたら移るよ」。女性は結婚のとき、相手に自分の原爆症発病の過去を告げず、家族にそれをずっと隠し黙って生きてきた。１１年前に母親が亡くなり、そこから心境が変わり始め、今回、テレビカメラの前で過去の事実を証言する勇気を得る。この女性にとって、原爆による心の傷は三重のもので、第一に原爆症で苦しんだ直接体験と再発の恐怖、第二に学校でのいじめ体験の思い出、第三に愛する家族を裏切っている自分に対する自責の念。内面に重い重い十字架を背負い続けてきた人生だった。
さらに、生まれた子どもに原爆症の影響が出ないかの不安を抱き続け、遺伝障害の心配に苛まれながら、家族の前で口に出せない心の負担に苦悩し続けてきた。張本勲が自らの体験を語ることを決意したのは、広島の原爆について若い世代があまりに無知な状況を知り、語り部として真実を伝えることの重要さを痛感したからだった。今、広島・長崎の原爆について「風化」が言われている。確かにそれはある。だが、少なくとも私の場合はそうではない。関心は衰えることはなく、むしろ年を追うほどに高まって行った。秋葉忠利が広島市長に就き、平和宣言の言葉が注目されるようになって以降、ずっとその内容全文を追いかけている。そしてついに、平和記念公園の会場に出かけるところまでに至った。学生の頃や若かった頃は、自分が8/6の式典会場に参列するなど思いもよらないことで、死ぬまで縁のないものと思っていたし、テレビ中継やニュース番組だけで接するものだと考えていた。今回、現地での実体験を持ったことで、原爆忌と私との関係はさらに密接なものになり、情報への関心の態度は深まった。それは同時に、自分の無知を強く自覚することであり、広島・長崎の原爆について、本来は常識として持っていなければいけないものを、私は未だ十分に持っていないことを感じる。無知は羞恥すべきことだが、同時に、これから新しく知る感動が待っていることへの愉楽もある。
この７２歳の女性は、カメラの前で実に毅然としていて、自分自身を説明する言語と論理が明晰だった。その勇気と知性に胸を打たれた。こうした内面に苦痛を伴う過去の告白は、なかなか正直に言葉には出せないし、簡単に他人に説明できるものではないのだ。そこに人間の気高さが表出され、人間の尊厳の偉大さを発見させられる。その覚醒を通じて、私は癒やしと励ましを与えられ、生きる希望と勇気を受け取る。原爆の地獄に叩き落とされ、絶句する惨禍と苦難をくぐり抜けた者の心から、人間の尊厳を証しする光が放たれ、救いと希望がもたらされる。精神の弁証法を確信させられ、心が震える感動を覚える。だから、私は原爆の問題への関心から離れられず、その精神的な恩恵に授かろうとするのだ。被爆者の高齢化は進み、語り部がいなくなる危機はあるけれど、これから、こうした７０代前半の人々が口を開き始め、原爆投下の時点よりも、そこから後の悲劇と苦悶について克明に語り、事実を再現するようになるだろう。そして、その心の殻を破った勇気が、さらに他の人を勇気づけ、原爆について語り継ぐ運動の担い手を育てることだろう。原爆体験と被爆者の存在は、われわれ日本人にとって、逆説的な言い方だが、精神的な資産になるもので、その真実に一人でも多くの者が気づく必要がある。特に政治やマスコミの関係者が。
原爆症認定の問題について、県外の者は最新の情報と認識を持っていない。マスコミが詳しく報道していないからだ。ＮＨＫ広島放送局の特集は衝撃の事実を伝えていた。昨年の8/6、来広した麻生太郎は、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」に署名・調印、政府の敗訴が続いていた「原爆症認定集団訴訟」の全面解決の道筋を作った。また政府は「原爆症認定の新基準」を策定、認定の要件を緩和して救済の拡大を図る措置にも出ていた。こうしたグッドニュースはわれわれも知っている。ところが、現実には、厚労省は認定基準を緩和しながら、この１年間、実際の運用で、申請に対して認定を減らし、以前なら間違いなく認定を受けていた者まで却下に及んでいた。基準を緩和すれば、当然ながら申請は増える。そして、現実の運用で認定を減らしていたため、却下された者が溢れ出るという異常な事態が起きていた。このような事実はわれわれは知らない。ある被爆患者の申請書の所見を担当した医師が、「この事例なら確実に認定だったのに、何で却下になったのか」と驚き、政府に対する不信と憤りを証言していた。昨年の８月末に政権交代し、政府は民主党の政府になり、厚労大臣はあの長妻昭なのである。長妻昭の厚労省が、新基準で救済の枠を広げながら、現実の認定では、旧基準で認定されていた者まで認定せず却下していた。
こんな事実が信じられるだろうか。番組には、厚労省側の説明は何も出なかった。ただ、認定者の数の減少と却下者の数の急増のみが、月毎の推移をあらわす折れ線グラフで表示されていた。番組を見ていたわれわれは、無論、その意味する内情を容易に判断する。予算の論理だ。費用の支出を絞っているのである。吝嗇しているのだ。一体、何のための「新基準」であり、何のための「集団訴訟終結の確認書」だったのか。事実上の政府による「確認書」の白紙撤回だ。当然、怒った被爆者側が再び訴訟を起こし、大きな問題になるだろうが、政府の狙いについて、却下された被爆者が言っていた。「政府はわれわれが死ぬのを待っている」。この８２歳の男性は、被爆が原因で大腸がんを発症し、がんが全身に転移していた。狡猾な厚労省は、制度的には基準を緩和して、被爆者を救済するような素振りを見せ、それをマスコミに流して政治宣伝しながら、現実の運用で認定を減らし、申請却下を増やし、実際には認定基準を厳しく狭めるという悪辣で冷血な欺瞞行政に及んでいたのである。申請の却下は書類一枚が被爆者に届くだけで、何も詳しい説明は書かれていない。この問題は、式典後に菅直人と長妻昭が被爆者７団体と会談した席でも出されているはずだが、報道は、長妻昭が「黒い雨」の降雨指定地域拡大について政府も検証を始めると答えた点だけに焦点が当てられている。
いかにも政府が被爆者救済に前向きな姿勢を表明したようなニュースで報じられている。しかし、どうやらこれは違う。逆なのだ。われわれは政府とマスコミに騙されている。「政府も検証を始める」の意味は、「黒い雨」の降雨対象範囲を拡大するのではなく、おそらく狭める措置に出るというのが真意だ。被爆者の認定を増やしたくないのであり、被爆者救済の予算を増やしたくないのだ。「聖域なき構造改革」の路線が続いているのである。昨年、被爆者救済の政策方針は、政権交代を目ざす民主党が掲げたアジェンダの中でも重要な一つとして位置づけられていた。鳩山マニフェストを見てみよう。この中には全部で５５項目の具体的な政策カタログが並べられているが、その第２４項に「被爆者を援護する」が独立してある。その中身は、「高齢化している被爆者を早急に救済するため、被爆実態を反映した新しい原爆症認定制度を創出する」とある。自民党政権の「新基準」でも認定の枠が狭すぎ、救済対策として不十分というのが、野党だった民主党の政策主張だった。このマニフェストの文言に照らしたとき、長妻昭が実際にやっていることが、どれだけ正反対で不当で不条理なものであることか。こうした冷酷非情な事実について、広島のテレビ放送で見るまで私は全く知らなかった。ＮＥＣのサラリーマン出身の真面目な長妻昭のことだから、それなりに誠意をもって前向きに取り組んでいるものと思い込んでいた。
「政府はわれわれが死ぬのを待っている」。この言葉は、高齢の被爆者だけでなく、あらゆる方面から厚労省に発せられている。薬害肝炎の訴訟もそうだし、水俣病の訴訟もそうだ。それから、昨夜（8/10）のテレビ朝日でやっていた空襲被災者の事例も同じ。こういう話が多すぎる。厚労省は、こうした訴訟を長引かせ、適当に和解のポーズをマスコミの前で取りつつ、実際には弱者である被害者を痛めつける行政をやめず、被害者たちが絶望して諦めるか、死亡して地上から消えるのを待っている。時間稼ぎをしている。その論理は、財政の余裕であり、前例を作って同じ救済措置に繋がるのを防ぐ意図にある。ネットの中に、『はだしのゲン』の作者の中沢啓治が、広島の平和記念式典を批判している情報があった。「きれいごとのメッセージじゃなくて、もっと怒らないといけないんだよ。あの戦争を起こした責任を 絶対に許さんぞって」。今回、私は広島に行き、何となくこの中沢啓治の言葉に頷ける気分を持つ。秋葉忠利の平和宣言は、格調高く素晴らしいが、宣言が意識しているのは日本国民全体であり、世界の機関と市民に向かって発信されている。メッセージは世界（のプレス）に向けられている。穿った見方をすれば、それは広島市民の頭を飛び越えている。今年の平和宣言を見てみよう。ＮＰＴ会議の話やら「ヒロシマ・ナガサキ議定書」やら、広島の平和外交の成果が主であり、日本政府に対する要求は従になっているのが分かる。つまり、被爆者の立場からの代弁としては、この平和宣言の内容はあまりに弱い。厚労省の被爆者認定に関わる詐偽行政に対する糾弾の言葉がない。被爆者からすれば、もっと強い言葉で政府批判を言い、被爆者の救済と利益のために平和宣言の機会を利用してくれと願うだろう。
