2008年06月07日

東大と慶応の確執

私の好きな本の一つは『福翁自伝』である。しかし、最近好きになった本は『日本を教育した人々』という東大出の斎藤孝氏(”日本語で遊ぼう”のおじさん)が書いた本である。彼は日本人に大きな影響を与えた教育者としての啓蒙家として、4名をあげている。すなわち、吉田松陰、福澤諭吉、夏目漱石、司馬遼太郎である。

かれは章建てをする際に多分、この4人で均等わりつけをする積りだったのだろうが、思わず、福澤諭吉に一番多くのページを割いてしまっている。多分、福澤が一番好きなのだろう・・・等と勝手に思う。私も慶応というよりは福澤が好きだ(いや慶応も好きだが福澤が好きだというべきか・・)。

福翁自伝における福澤は、自分が九州の一下級武士であったことが出発点であり、それが彼の一生を貫く重要な背骨の一つとなっている点を書いている。九州は当時もっとも海外に開かれた場所だったのだろう。また、心身ともに強靭で、藩主や上級武士でなかったことも、身軽に江戸までやってこれるチャンスをつかむために有利に働いたのだろう。色々な偶然が日本を代表する啓蒙家を産んだわけだ。

斎藤孝先生はこういった、福澤の反骨精神をよく反映した解説をしているのでいい。この下りが私のお気に入りである:”福沢の特徴は、あまりにもクリアだということだ。いつもカラリと晴れていて、論理に少しの迷いもない。・・・独立するには、まず勇気を持つ事が必要で、学問はそのための道具であって、学問には実学が必要だというように、諭吉の中ではスッキリ整理されていたわけである。知識と心の問題がどういう関係にあって、個人と国家、社会がどういう関係にあるのかということもクリアになっている。”

官学の東大、私学の慶応などというけれど、まあ、学問が実学である限り、世の中の役にたつ人物を沢山排出する事が肝要なのだろう。その意味ではどっちでもいいのだろう。

教育に関するアプローチに関しては、福澤は東大で一度失敗している。福翁自伝に「少年の健康屠殺場」というエピソードがある。実は、福澤には二人の息子がおり、当時の最高とされた帝国大学の予備門(所謂後の一高)に入学させている。所が勉強ばかりさせられるので胃を悪くして3度入退学を繰り返したあげくに、慶応義塾に引き取り、卒業後はアメリカの大学に行かせている。

これに関する記述がかなり傑作である(親の怒りが読み取れる):”私方の子供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのままにしてやっていけば、生徒を殺すに決まっている。殺さなければ気違いになるか、しからざれば心身ともに衰弱して半死半生のかたわ者になってしまうに違いない。ちょうどこの予備門の修行が三四年かかるその間に、大学の方が改まるだろうと思って、ソレをたよりに子供を予備門にいれておくが、早く改正してもらいたい。このままでおくならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名してよろしい。そうそう教授法を改めてもらいたい。”・・・と、モンスターペアレンツよろしく、知り合いの文部長官にねじ込んだらしい。あっぱれとおもえる親心であるが、かなりの頑固おやじでもある。

もしも、福沢の子供達が心身ともに頑丈で東大をでちゃったら・・・明治の日本の産業振興はなかっただろうと思うと「頑固おやじガンバる」の偶然に感謝しなければならない。

だから、それ以来、実りある青春を謳歌させたい親は慶応に子供をいれ、ガンバれる親子は小・中・高のおよそ9年間を勉強に邁進し、若干の心身における健康被害もなにするものぞと受験勉強の殿堂・東大をめざすのである。
 

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