活動内容を絞り込みます
テーマ:ブログいつも感謝しています。吉永賢一です。
なんだこうだで諸事多忙になってしまい、やるべきことを、さらに絞り込むことにしました。
やはり、基本となるのは、
・自分は、何をしたいのか?
・自分は、何を手に入れたいのか?
・見栄でやっているのではないか?
・恐れでやっているのではないか?
このような問になります。
もうすぐ、最新刊の『思考法』が出ますが、この新刊キャンペーンについて、いろいろ考えた結果、
・ほぼ何もしない
という方向性で行こうと思います。
もちろん、「何もしない」とは言っても、ぼくがしないだけです。出版社さんは、いろいろとやってくださいます。
「売れる」ことは、ある意味大切なことです。売れるからこそ、活動するための資金源もできますし、応援してくださる人も出てきます。
ところが、ぼくの現状は、どうでしょうか?
現在、ぼくがとても大切に考えている「公式メルマガ」についても、十分な時間が割けていません。発行が遅れてしまっています。
これまでいただいたメールにも、十分な返信ができていません。
・ぼくは、何を発信したいのか?
ということについても、考えました。
その結果、ぼくが求めていることは、
・練り上げた、高品質な内容を発信する
ことに中心があるのだと思いました。
構想を続け、推敲を続け、良い内容に高められたと感じたときに、ぼくは満足を見出します。自分の中から、価値あるものを取り出したと感じ、そして、生きている価値を感じます。
また、そこに価値を感じてくれる人と出会ったときに、ぼくは理解された、あるいは、受け入れられたと感じ、よろこびを感じます。
ぼくは、斎藤一人さんの本が好きで、テープが好きで、繰返し読み、聴いていました。最近は、頻度が減っています。
頻度が減ったのは、本当に繰り返し読み込み、聴き込んだので、もう、自分の一部になっている感じがするからだと思います。
その中に、こういう内容があったと思います。おそらく、1冊目に書いてあったことです。「お弟子さんと会っているだけでも、時間がなくて、一般の人と会う時間が、ほとんどない」
もし、誰も価値を感じてくれないのであれば、自分の発信している内容はおかしいのかもしれないし、また、価値を伝える努力が、さらに必要となると思います。
しかし、すべてはバランスの問題です。
そもそも、ぼく自身、いわゆるメジャー路線を望んでいるのかというと、実は、そうではないと思うようになりました。
東大理IIIに入学していることからも覗い知れると思いますが、評価されたくて、わかりやすい実績を好むような、そういう性向がぼくにはあると思います。
いわば、コンテンツそのものの価値に十分な自信がない。価値があると信じてはいるけれど、その価値をわかっているのは自分だけで、みんなには評価されないし、バカにされるし、嫌われるだろうという恐れがある。
そして、「自分では価値を信じている」とは言っても、信じきれてもいなくて、不安もある。その不安が、さまざまな「揺れ」を作り、行動を絞りきれない原因を作ります。
だからこそ、恐れに基づいたモチベーションによって、マーケティングなどに関心が高まった感じがします。
実際、
「吉永くんの言っていることは、おかしい」
ということも、あちこちで言われ続けてきた歴史があります。でも、「おかしい」と思い切ることもできなかった。
自分の考えには、妥当性があるのではないかとも考えた。それでも、確信が十分に持てず、不安になったから、読書したり、思考したんだと思います。そして、伝え方も考えた。自身の人生で、実証しようともした。
ぼくが、「おかしい」と言われることの根元には何があるかも、考えました。これも、ほぼ間違いないと思えるところまでわかってきた感じがしていて、それは、
・自分に忠実であろうとすること
です。これが、わがままということで、「おかしい」と言われる。その人が、自身をおさえてきたこと。たぶん、ぼくの存在が、発言が、そこを「間違いだ、おかしい」と否定しているように聞こえる。だから、ぼくを否定するのではないか。
「でも、自分自身に忠実にならずに、しあわせになれるのだろうか?」
ぼくの側には、このような疑問があったわけです。
そして、自身に忠実であろうと、なるべくその方向に歩みを進め、自身への忠実さの度合いは、拡大してきたと思います。
まわりとの摩擦。自分の中での摩擦、不安。
そういうもの、プレッシャーなども乗り越えながら、自身に忠実であろうとする道をゆく。この道には、保障もないし、どうなるかもわからないけれど、「これこそが正解なんだ」という思いを秘めて。
一体、なぜ、売れたいのか? なぜ、アクセスを増やしたいのか?
既に一定の読者さんがいるのだから、あとはとにかく、品質を高めることに集中するのが良いのではないか。
人には、さまざまな意見があり、ぼくが発信していること、ぼくが考えていることに同意してくれたり、共感してくれたり、それを役立ててくれる人は、あくまでも、ごく一部。
それでも、一部だとしても、役立ててくださる方がいて、感謝してくださる方がいるのだから、さらに、そういう方の参考になるように、生きてゆくのが良いのではないか。
もっと言えば、これまでのぼく自身の発信内容から言って、そういう方々は、ぼく自身が、ぼくの深いところから掘り出してきたもの、それを、なんとかして言語化して、みんなにわかるように届ける。役立つように届ける。
そういう媒介としての機能を求めているような感じがします。あとは、ぼくが実際に、「生きている」ということです。想像上の存在ではなくて、生きてる。それが大切な感じがします。
みんな、それぞれの生き方があって、じゃあ、ぼくの生き方は何か。
ぼくの芯となる生き方は何か。
この種の思考をするときに、ぼくは、過去の自分の発言に意識を向けます。過去、自分は何と言っていたか。特に、子供の頃、何と言っていたか。
ぼくは、子供の頃のぼくを尊敬していて、あの頃のぼくが言っていたこと、あの頃のぼくが考えていたことに、なるべく忠実であって、そして、その方針を実現していってあげたいということを考えています。
ぼくは、いろいろとコミュニケーションしたいんだけれども、だからといって、そこにエネルギーを取られすぎて、練り上げた高品質のコンテンツを届けることができないのなら、かえってマイナスになってしまう。
他者の意見を入れる大切さがよく言われますが、ぼくの場合、「勉強」は向いていても、他者の意見を取り入れるよりも、我が道をゆくタイプなんだと思います。
「我が道」とは言っても、自分自身の中では、さまざまな観点から検討を加える。
この観点の広さを試みようとしていて、ヘタに他者にアクセスすると、むしろ視点が狭いように感じてしまうことも多いです。
一体、ぼくは、何をするのか。何をしたいのか。
これまでの教育関連の経験で得てきたことを、ひと通り世の中に出す。この方針は、間違っていないと思うし、その方向性で、いろいろ進めています。
で、この方針に、ひたすら忠実なのがいいんじゃないか。
ぼくはもともと、「つきあいが悪い」人で、ずっとひとりでいたり、極限られた人と会うようなタイプでした。
それはなぜかというと、思考に干渉されることが、不快だったんだと思います。限られた人生の時間を、自分の考えたいことを考えるために使いたい。
そういう欲求が、強いタイプなんだと思います。
そして、まだ、自分自身に、ゆとりがあまり無いんだと思います。ゆとりがないから、自分で考えたいことを考えるために時間を使いたくて、誰かのために考えてあげる時間があまりない。
ぼくの心は、まだまだぼく自身に対して、「見栄の皮」をまとっていると思う。
ぼく自身、ぼく自身に対して、真っ裸になれていなくて、それは、不安があるからに違いないと思います。
自分自身の欲求を、きちんと明らかにしたところで、それは「叶うはずのない欲求」だという、絶望を恐れていると思います。
でも、ぼくが本を出して、本当に良かったのは、行間ですらないこと。
それを、感じ取ってくれる人がいるということです。別に、頻繁にやり取りをしなくても、おそらく、心のどこかで、ぼくがこれまで辿ってきたこと、そこの価値を感じてくれる人がいるということです。
行間ですらなく、文体ですらない。でも、微妙な単語の選択とか、そういうところから、細かいところを感じ取ってくれる人がいる。
これは、すごく報われた感じがしました。
自分では価値があると信じてきて歩んできた道を、評価してくれる人がいるのは、うれしい。
本については、ものすごく大量に読んできて、最近は、読む冊数は減っていますが、それでも、読む方なんだと思います。
今後、何を読むのかはわからないけれど、ぼくは、流行を追うよりは、おそらく普遍性の方が向いている。
そして同時に、多くの方に届くための同時代性も持ちたい。
今日は、「文章」を書きたくて、書いてみました。
ぼくはやっぱり、文章が好きだし、本が好きだから。
ここまで読んでくださって、感謝します。
あなたに、すべての良きことが、なだれのごとく起きますように。
1 ■吉永先生の深夜の文章
ご無沙汰しております。
私は吉永先生が赤裸々に語る深夜の文章って
すっごく好きです。
今日もまたリアルタイムで拝見できてよかったです。
これからも応援させていただきますね。