「戦後65年特別企画」。きょう(10日)はマンガ「はだしのゲン」の世界だ。赤江珠緒キャスターが言う。
「みなさん覚えてますか。『はだしのゲン』はわたしたちの戦争観、とりわけ原爆についての見方にあたえた影響は計り知れません」
「はだしのゲン」は学校の図書室にも置かれた唯一のマンガだった。戦争を知らない世代には、あまりにも悲惨な物語だったが、作者の中沢啓治さん(71)の実体験から出たものだ。その広島で赤江が中沢さんに聞いた。
「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」
中沢さんは平和記念式典に出たことはない。
「きれいごとのメッセージじゃなくて、もっと怒らないといけないんだよ。あの戦争を起こした責任を絶対に許さんぞって」
6歳、小学1年だった。神崎小は爆心地から1キロの距離だ。そのとき、学校の前で同級生の母親と話していた。閃光とともにその母親は熱線で焼かれ、電車道まで吹き飛ばされた。
「真っ黒なんですよ。衣服はボロボロ」
中沢さんは校門のカベで守られたのだった。
家に向かって駆け出した中沢さんが見たものは、焼けただれた皮膚が垂れ下がり、ガラス片が顔にささったまま歩き回る人たちだった。避難所には母親だけがいた。父と姉、弟はつぶれた家に挟まれ、そのまま火が回った。
これらはそのまま「はだしのゲン」に描かれている。登場人物の名前もそのままだ。しかし終戦の瞬間はない。
「ラジオもないし……。日本は負けたよという話が伝わって来た。8月15日の記憶はない」
生きるのに必死だった。
のちになって、手塚治虫のマンガ「新宝島」を持ってる人がいた。これをキッカケにマンガを読むようになった。やがて自分でも描くようになって、1961年22歳で上京、2年後にプロデビューする。しかし、「原爆」は描かないと決めていた。
「新聞記事も『原爆』という文字を見ると読まなかった。すさまじい姿と死体が目に浮かび、死臭までが押し寄せてくるので」
1967年に母親が60歳で死んだ。だが、「火葬したら、骨がないんだ。放射能で骨までスカスカ。原爆の野郎は大事なおふくろの骨まで取っていたかと、腹が立ってね。マンガでやってやるって……」
まず、「黒い雨にうたれて」。原爆で家族を失った男がアメリカ人に復讐する物語だった。その後も原爆を描いた。そして1973年に少年ジャンプで「はだしのゲン」連載。しかし1年で打ち切り。政治的な圧力があったらしい。
その1年後、偶然単行本化ができた。これが学校図書館に置かれるようになったのは、広島県被爆教職員の会の奔走だった。いまはアメリカでも読まれている。中沢さんは昨年、白内障で筆を置いたが、学校などで話を続けている。
赤江「ゲンは中沢さんそのものなんですね。戦後、妹が栄養失調で亡くなって、いまでも幼児を見ると、その記憶が蘇って涙が止まらないと」
作家の若一光司「この本がなかったら、若い人たちは原爆を知らないかもしれない」
小木逸平アナ「わたしも学校で読んだ」
弁護士の大沢孝征もどうやらその世代らしい。
赤江「これでもマイルドに描いているんだそうです。国防や外交の主張の前に、これを読んでもらいたい」
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