参院選から見えた民主主義の成熟(時評2010)=細谷雄一中央公論8月10日(火) 10時32分配信 / 国内 - 政治とはいえ、ここで一つ深呼吸をして、現在の日本政治を長い歴史の文脈のなかに位置づけてみたい。するといくつかの新しい希望が見いだせるはずだ。希望が新しい前進のための不可欠の滋養になるとすれば、それを見過ごしてしまうのでは心許ない。それではその希望の萌芽とは何か。 まず現在の日本において民主党と自民党が切磋琢磨、競い合うことで、明治維新以来はじめて本格的な民主主義が定着しつつあることだ。一九二〇年代の大正デモクラシーの時代にも確かに二大政党が国民の期待を背負って政権交代を行っていた。しかし明治憲法下においては、国民の声が政治に直結する点において制度的な限界があり、それが後の政党政治の崩壊へと帰結する。 他方、戦後初期の時代にも複数の政党間で連立政権の組み替えがあり、政権交代が行われていた。しかしそのような活発な動きも、一九五〇年代の冷戦の深刻化に伴って凍結されていく。保守合同により自民党が一党優位体制をつくり、イデオロギー対立のなかで健全な政権交代が阻害された。 それが現代になって、ようやく二つの大きな政党の間で健全な政権交代が可能となった。政権与党の政策に失望した際に、その政党が権力を失い、異なる政党が新しい試みを行う。これこそが民主主義のダイナミズムである。このような民主主義の発展を、日本国民はもっと誇ってもよいはずだ。非西洋社会でこのような成熟した民主主義を定着させた世界史的な意義は決して小さくない。 さらには、今回の参院選マニフェストを読む限り、民主党の外交政策構想が以前よりも現実的となり、より信頼できるものとなったことは喜ばしい。一九九三年に成立したアメリカのクリントン民主党政権はいくつもの理想を掲げていたが、一年ほどの試行錯誤を経て、より現実的な外交政策へと落ち着いた。外交においては、前政権が行った合意や条約が存在し、また国際環境という制約があり地政学的な要件が存在する以上、根本的な政策転換を行うことは可能でもなく好ましくもない。それを一年間の政権運営のなかで民主党が学んだことは、むしろ誇るべきだろう。 私は、民主党政権を無条件に讃えているのではなく、また民主党と自民党の二大政党に欠陥がないといっているのでもない。しかし参院選を通じて、ほかの小政党と比べたときに、この二つの大きな政党には信頼するに足る責任感があり、地に足が着いた議論を行っていると感じた。戦前の日本では、既成の政党への失望感や汚職などによる既存の政治家への信頼低下が、政党政治の崩壊と軍人の政治的擡頭をもたらした。現代の日本でも、二大政党や政治指導者たちを過度に批判することが、政党政治の衰弱に帰結するかもしれない。 むしろ重要なのは、よりよい政党とそうではない政党、よりよい政策とそうではない政策、そしてより好ましい政治家とそうではない政治家を峻別する能力を、われわれの側で磨くことである。つまりは、有権者、メディア、世論全体がそれらを見抜く力、洞察する力、長期的に展望する力を磨くことこそが、日本における民主主義のさらなる発展に資するはずだ。これまで以上にわれわれは、政治をより深く理解する責任がある。 これから新しい「ねじれ国会」がはじまる。与党にとっては難しい政権運営となり、野党にとっては格好の攻撃のチャンスとなる。参議院と内閣との間の責任関係が不明確で、野党が過半数を握る参議院が過剰な権力を得る現行憲法下の制度的欠陥を見直す意志がなければ、日本政治はさらなる政治不信と閉塞感に帰結する可能性がある。そして、ともに「ねじれ国会」を経験した与野党間で、何らかの「紳士協定」を模索し、ルールを確立していくことが不可欠だ。よりよい民主主義を確立するためには不断の努力が求められる。その努力とは、単に目の前の困難を切り抜けるだけのものではなくて、日本において成熟した民主主義を定着させるという世界史的な使命でもあることを頭の隅に置く必要がある。 (了) ほそやゆういち=国際政治学者
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